1年半継続された演習「カタストロフィの思想」を終えて

 今回は、3学期(1年半)もの長期にわたり演習「カタストロフィの思想」を継続した。3.11の出来事を人文学の見地から多角的に考え直すことが目的である。哲学、文学、社会学、文化人類学、表象文化論、精神分析といった学問分野を参照し、さらに詳細に言うと、科学者倫理、リスク論、神話論、映画論、写真論、建築論などを扱ったことになる。

 学生発表だけでは単調になるので、途中にゲスト講師を招いたりイベントを盛り込んだりして学期中の授業運営に抑揚をつけた。ゲスト講師の高榮蘭氏(日本大学)、中尾麻伊香氏(日本学術振興会/慶応義塾大学)、安永麻里絵氏(東京大学)には改めて感謝申し上げる次第である。映画「無情素描」の上映をおこない、海外からの招聘者の国際セミナーを3回実施した。ジゼル・ベルクマン氏(パリ・国際哲学コレージュ)、ゾラン・ディミッチ氏(セルビア・ニシュ大学)、アラン=マルク・リウー氏(フランス・高等師範学校リヨン校)は3.11の現実を深く理解し、きわめて誠実な講演をしていただいた。

 受講生は、2012年前期が25名ほど、2012年後期が20名ほど、2013年前期は16名ほど。1年目は人数も多く、さまざまな学部から学生が参加したことは異例だった。参加学生の関心は高く、発表もレジュメ資料作成と口頭発表ともにすべてきわめて良質なものでありがたかった。この試みを残すべく、今回はすべてのレジュメをHPで公開し、毎回のコメントからいくつかを抜粋して掲載している。

 今後もこうした演習プロジェクトを実施していくつもりである。つまり、イベントの開催、国際的な研究交流への参加、教育成果のHP公開といったダイナミズムをもった演習を継続させたいと考えている。(西山雄二)

志村響(心理学・2年)
(ナンシー『フクシマの後で』、アンダーソン「核兵器とアポカリプス不感症の根源」発表担当)

2012年春より始まり、三期に渡って行われた演習「カタストロフィの思想」が幕を閉じた。私は2012年後期からの参加だったので、二回分を見届けることとなった。元を辿れば西山先生のフランス出張への同行が先に決まり、お誘いを受けて参加の運びとなったのだが、当時まだ学部1年生だった私にとって本講義はかなり新鮮なものだった。演習形式の講義というのがそもそも初めてだったこともあるが、これほどまで“共有”することに徹底した講義は、2年生になった今でも他に知らない。授業毎に各々の学生がコメントを書き、それがまとめてフィードバックされる。抽象的なテーマが多いからか、宙に浮かぶイメージにそれぞれの視点が切り込まれていくような感覚はいつにあっても瑞々しいものであった。一方的な講義では決して描けない、多元的な造形を目にするようだった。抽象的なテーマ、というのは、もちろん決まった回答の存在しないものである。誰かがこれはこうだと決めつけることのできない世界で、しかしそれぞれに意見や信念をもって言葉を紡ぐ。扱われるトピック自体は細分化されたものだったが、本講義を通してのテーマはもちろん3.11の震災であった。未曾有のカタストロフィを目の前に、誰も何も言わなくなってしまったら日本社会は押しつぶされてしまっていただろう。その中でなんとか答えを得ようとする様は、本講義のプロセスにも見出すことができる。対話の重要性を改めて噛み締めた、貴重な講義であった。

倉富聡(社会学・4年)
(ゴジラの表象・社会学、小熊英二『社会を変えるには』、アンダーソン「核兵器とアポカリプス不感症の根源」発表担当)

 三半期に及ぶゼミのプロジェクトが終わり、このゼミに参加した動機、衝動を改めて思い返した。やはりそれはあの二年前の3月11日の自らの体験があった。私は狭義の被災者ではない。津波の被害にもあっていないし、幸いにも親類縁者にあの日の犠牲者はいない。ましてや二年経った今でも被災地を訪れたこともない。それでも私は「あの日」を自らによって自らのうちに経験した。あの日の恐れとおののきは生涯に渡って忘れないだろうし、私の学問への考え方を劇的に変えた。今改めて思い返せば、私はあの時あれだけの「カタストロフィ=大転覆」が起こっても変わらず続く社会的時間、「日常」、そして私自身も簡単に変えることも、変わることも出来ないことに恐怖したのだった。

 前々回の講義で私はギュンター・アンダーソンの「核兵器とアポカリプス不感症」を紹介したとき、歴史の終わり、つまりアポカリプスを忘れてしまった思想の恐ろしさについて学んだ。その後しばらく考えていくうちに、絶えず変化しいつまでたっても終わりのないことこそが「社会」であり、それこそが最後には私たちに希望を残してくれるのではないのだろうかと考えるようになった。

 社会学者ニクラス・ルーマンは社会システムを自己生産し絶えず変化し続けるものだと考えた。そこでは「複雑性の縮減」という行為が重要になってくる。我々にとって世界は常に無数の体験や行為の可能性に溢れており、我々はシステムによって構成された「意味」によってそれを秩序化し一つの可能性を選択する。つまり過去も未来も未規定で無数の可能性に溢れており、ある一つのことが選択されたことに、ある一つの社会システムに必然性は存在しない。

 ここで今回のゼミで紹介された希望の概念が思い出された。それは「未だない」というあり方で「存在」するものとしての「希望」である。絶えず変化し、未規定で偶発的なものとして社会を捉えれば、この意味においての「希望」が人間社会と切っても切れないものであることが想起される。社会が普遍化不可能で絶えず生成変化する「未だない存在」であるからこそ我々は「希望」を持てるのだとしたら、私はベンヤミンの歴史の天使の寓話の、あの天使のような「まなざし」で学問的態度を構築していこうと思う。それは過去に打ち捨てられた「希望」や歴史の残骸に目を向ける、時間的空間的に広がりを持つ「他者への志向性」だと私は思う。これを失ってしまってはどんな学問的探求も研究も、きっと意味を持たないつまらないものになってしまうだろう。

川野真樹子(表象文化論・修士1年)
(ゴジラの表象・社会学、ベンヤミン「歴史の概念」発表担当)

 1年半に及ぶカタストロフィをテーマに据えたゼミが終了したことが正直なところまだ実感できていない。1年半の授業を振り返って率直に感じたこと、考えたことを書いてみたい。

 2012年の4月にこのゼミが始まった。直前の春休みに渡英したのだが、そこで知り合ったベルギー人がFUKUSHIMAについて、細かく尋ねてきたこと、イギリス人や地震を経験したことのない地域の人々にとって3.11は過去のこと、余震なんて全く知らないという様子を見せたこと(これに対してはトルコや韓国の友人が強く反論していたことも)が忘れられない。実は自分が客観的に3.11を見ることができていないのではないかということに気付いた中で授業が始まったように記憶している。

 授業ではカタストロフィというテーマに沿った様々な文献や資料が提示された。地震や津波、原発だけでなく広い範囲のカタストロフィが扱われたこと、様々な角度(哲学者、科学者、小説、映画など)からカタストロフィを眺めることで自分自身の視野が広がった。同年代で同じような分野の学生だけではなく、文系理系を問わず様々な年齢、職歴を経てきた学生がいたことも貴重であった。同時に海外の研究者や他大学の研究者による発表と質疑応答という経験も刺激になった。これらの経験を通して、ゼミが始まった当初に感じていた、3.11を客観的に考えるということの難しさが薄れていき、多面的に物事を捉えることが以前よりも上手くなったように思う。

 3.11とFUKUSHIMAという身近な観点から出発し、過去のカタストロフィ、フィクションにおけるカタストロフィを経て、偉大な哲学者の思想に触れるという体験は面白いものだった。この授業の文脈の中で読むハイデガーやベンヤミン、フロイトらは今まで私が読んできた彼らよりももうすこし付き合いやすい人々であった。身近な体験を彼らの思想に重ねることが容易だったからであろう。

 1年半でカタストロフィをテーマに据えたこのゼミは終了するが、この体験から時事問題を哲学的に思考すること、物事を多面的に見ることを続けていきたいと思う。

吉田直子(聖心女子大学大学院)

 このプロジェクトが始まって1年半。何度かスキップさせていただいたものの、自分がこれまでに書いた26回分のコメント、そしてフランスでのシンポの記録など、読み返すと本当にいろいろなことが思い起こされた。西山先生からも参加者のみなさんからもたくさん学ばせていただいたことに深く感謝したい。

 昨年の4月18日の授業で、私は西山先生の「カタストロフィとは、フィクションで有限性があり、自分を部外者に位置づけることを潜在的に抱え込む概念である」という言葉にひどく反応していた。被災経験という意味では部外者である私が、今誰の何のためにカタストロフィを議論するのか。このできごとをアカデミズムの観察対象として消費してしまうのではなく、被災者を代弁するのでもなく、被災者が引き受けざるを得なかった多くの犠牲をキラキラしたことばでつつんで昇華させてしまうのでもないしかたで、私はどのようにこの問題に向き合うことができるのかということを、自分のフィールドである沖縄の問題と重ね合わせて考え続けた1年半だったように思う。もちろんこの間ずっと、自分の専門領域でも被災地と関わる別のプロジェクトに携わってはいた。でも私にとってはこちらの授業に出ることのほうがずっと重要なことにように思えた。それは、おそらくご自身の被災経験に裏打ちされた、震災を生き延びた人々の尊厳を何よりも敬意を払おうとする西山先生の倫理的姿勢にシンパシーを感じていたからだろう。省察に省察を重ねた上で慎重に差し出された「約束」ということばに、「今誰の何のためにカタストロフィを議論するのか」という疑問に対するひとつの回答のかたちを見たように思った。

 しかしこの2年間、我々の考察はここまで進んだというのに、原子力ムラを巡る権力構造にはほとんど変化が見られないことに嘆息する。この考察を具体的な実践へとどのように翻訳することができるのか。次なる問いは、この果たせないかもしれない「約束」を、決して虚無に陥ることなく、愚直に守り続けるための知恵と行動のあり方とはいかなるものか、というものである。今後も当事者や現場の存在を常に意識しながら考察を深めていきたいと思う。

大江倫子(仏文修士2年)
(カント「万物の終わり」、フロイト「喪とメランコリー」、ハイデガー『技術への問い』発表担当)

昨年から継続してカタストロフィの諸思想を研究することで、私たちは何を学んだことになるのか。カタストロフィの表象、解釈、傷跡、科学技術、救済についての諸テクストを、多様な専門領域を学ぶ学生たちとともに読解することで、外国から訪れた講師たちとともに討議することで、私たちは何を学んだことになるのか。私たちの住むこの地域社会に生起したばかりのあの途方もないカタストロフィへのさまざまな意味付与とその空虚な事物存在性とを前にして、あるときは自らの専門知識の効果に湧き立ち、あるときはその虚しい空転に焦り哀しみながらも、それについて思考し記述し続けることで、私たちは何を学んだことになるのか。もし私たちがあの途方もない事実から出発して、私たち自身の 独異な有限性に到達することができていれば、そのとき私たちは、まったく他なるものと遭遇していたことになる。私たちはそれぞれの信頼と希望と約束に、接近しえたことになる。

八木悠允(仏文修士2年)(「リベスキンドの建築」発表担当)

 一年半にわたるゼミを終えて、まず思い描かれるのが数多くの出会いである。それは広範な参考文献との出会いであり、またゼミ各回での発表を通じての出会いでもあった。

 カタストロフィの語源は転覆なのだと、キーワードのように何度もわたしたちは確認してきた。転覆された無秩序のなかで、わたしたちは何ができるのか。あるいは何ができないのか。どうできるのか、どのように足を進めるのか。何度となく問いの形を更新しながら進められた対話は、問題設定があまりに大きいがゆえに簡単には結論などでず、常に新しい立場、新しい知見を発見していく連続でもあった。

 原発は悪である、あるいは原発は必要悪である、またあるいは原発は正義である。このような断定が可能であれば、それは非常に快いものかも知れない。けれども、そうした断定を疑うこと、断定から隠れてしまうことをまなざすことは、人文学の使命のひとつでもあるだろう。そのまなざしを獲得するためには、ゆっくりと考え、時間をかけて学ぶしかない。少なくとも、一義的な立場から効率や利益を追求して結論を急ぐことは、人文学にとっては必要がないことなのかも知れない。

 吟味には時間が必要である。熟考、という言葉はまさに時間を費やして考え尽くすことであり、計算とは違ったあり方の思考だろう。このゼミのゆったりとした歩みは、しかしそうした思考の構造的な原因だけによるものではなかったと思う。毎回ゼミ生が発表するだけでなく、大学外の学生や教師を招いて討論をしてきたゼミゆえに、その進行には必ず少しの再確認作業や挨拶が必要であった。わたしたちは何を学んできたか、何を考えてきたかを最小限度でも挨拶し、初めて会う対話者とテーマの確認を行ってきた。対話の拍子を合わせるために、何拍か歩みを緩めなければならなかった。

 こうした作業は、確かにいくばくかの遅延を含んでいただろう。地理的にも、そして震災からの時間としても、わたしたちは常に時差を感じながら対話してきた。実際、わたしたちの多くは被災者ですらなかった。ゼミのあいだに開かれた講演会では、遠く離れたフランスから哲学者が訪れ、福島の事件について討論してくださった。こうした遅延した試みは無意味なものだったろうか。そんなことはない。むしろ、こうした対話がいま・現在の対話として可能であったことが驚くべき事である。

 しかし歴史的に見れば、それは驚くべき事でも何でもない。人文学は、常に遅延し続けてきたからである。数百年前のテクストを読み直し、今日に別様に生きさせることなどざらである。わたしたちはヨーロッパにおけるカタストロフィの表象を、日本映画の表象と同列に学んできた。このような時差を超えた出会いが、必要な誠実さの挨拶と共になされること。ゼミを通して、わたしはこの出会いのあり方に深く感動させられた。

 出会いとは、単なるすれ違いとはまったく異なる関係のあり方である。すれ違いには挨拶が必要なく、歩みを止める必要もない。だが出会いには、必ず相互確認が必要である。歩みを緩め、対話のために話の拍子を合わせなくてはならない。人文学という空間には、この出会いが必ず許され、また必要とされてもいる。なぜなら、人文学は常にことばと共にあり、ことばはえてして対話的だからである。

 わたしたちを遅延させたのは、過去のテクストや作品であり、震災というカタストロフィであった。あらゆる出会いが基本的にそうであるように、これらとの出会いはそのつど唐突で、脈絡もなく、それ以前には想像しかできなかったものである。出会いの第一瞬間は常に約束のない状態からの突発的な非常事態であって、その構造はゼミの最終回で触れられた希望と厄災に共通の構造と似ているといえるかも知れない。そこで足を止めるのが人文学であるのならば、人文学を学ぶわたしたちのなすべき事とは、出会う相手を足止めできるような挨拶を発することではないかと、わたしはいま考えている。そのつど歩みを緩め、遅延の種をまき、結論を急がずに、熟考の機会を間接的にであれ未来へと残すこと。

 あらゆる挨拶が要求するとおり、最後にわたしはこのゼミを通じて出会った方々に感謝の意を述べて感想を締めくくりたい。どうもありがとうございました。