核廃棄物と共に生きる私たちの未来
(2013年5月3日)

池内了『科学の限界』ちくま新書/山本義隆『福島の原発事故をめぐって』みすず書房
参加者全員がどちらかの著作を読んできて感想を披露し、全員で討論。

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原発事故、地震予知の失敗は科学の限界を露呈した。科学に何が可能で、何をすべきなのか。池内了は科学の限界を、人間が生み出すものとしての限界、社会が生み出すものとしての限界、科学に内在する限界、社会とのせめぎ合いにおける限界の四つに分けて考察する。科学者の倫理が問い直され、「人間を大切にする科学」への回帰が提唱される。他方、山本義隆は原発依存社会が権力的に形成される過程をたどりつつ、「原発ファシズム」の全貌を追う。


西山雄二
『科学の限界』では、科学・技術の諸限界が人間の知的能力、社会的諸制度との関係、科学そのものが孕む不可知論的限界、社会的問題の解決能力といった観点から明快に概観される。一回限りの特殊例と反復可能な事例を同時に思考する方法。科学的根拠が不明な事象に対して、性急に否定の行動へと進むのではなく、慎重さを維持し続ける倫理の必要性。近代科学が肥大化した末に「神話」と化した現状を前にした、博物学的経験にもとづく物語の復権。自然科学の限界の輪郭を描き出す本書は哲学的な問いに満ちており、その帰結は等身大の人間へとたどり着くが故にきわめて人文学的であり、どことなく癒された気がした。『福島の原発事故をめぐって』は震災後に雑誌連載された文章だが、筆者の主張や文責は簡潔。冷静に理論的に毒を吐く書き方は迫力がある。

加藤夏海(都市政策2年)
本を読んで感想を述べるという授業形式でしたが、感想以外にも受講者の皆さんの経歴などが興味深く、実際西山先生はそちらの方を期待して聞いているようにも思えました(笑)。授業内容ではどなたかがわれわれ(科学者以外)自身も科学リテラシーを持つべきなのではないだろうかという指摘をしていらしたのがたいへん印象的でした。志村さんや先生がおっしゃっていた通り、科学には池内さんのいう等身大の科学と数量化、専門化された科学というものが存在すると思います。等身大の科学というものは池内さんが森の学校を例に出したようにわれわれの身に引きつけて考えられるように実験をするなどの工夫が可能ですが、専門化したものをそうすることはほぼ不可能でしょう。そこで「科学リテラシー」という概念はとても有効かと思います。それは90年代から氾濫する情報を能率的に、また批判的に管理するといった意味で用いられてきた情報リテラシーという言葉が一般化したように、現代の科学の実相を理解し、その方向性を能動的に決定していくことは決して非現実的ではないはずです。それは池内さんを含め村上陽一郎さんなど日本には科学をわれわれが理解できるよう橋渡ししてくれる科学者、科学哲学者が存在するからという根拠のもとであります。

野木春奈(仏文2年)
今回の講義を通して自分の中にある「理系コンプレックス」のようなものが軽減されたように思う。(実情はどうなのか計りかねるが)就職難の時代でも比較的就職先に恵まれていることから、理系学部志望の生徒が多いのが最近の大学入試の傾向だとよく耳にする。そんな中で文系の学部を志望・進学したことで(主に学費を払ってくれている親に対して)罪悪感のようなものを感じることが多々あった。自分は理系の科目が苦手なのも相まってできた理系コンプレックス、科学や科学者は雲の上の存在といった先入観を解いていくことができたのは、「科学の限界」を読んだことに加えて、理系から文系に転向した3人の方の話を聴けたことによるところが大きいだろう。科学の限界を自分の肌で感じた方たちの言葉は重みがあり、強く印象に残った。今、人文学だからこそできること、解決できるかもしれない問題があることに気づくことができたのは本当に幸運なことだと思う。

浅利みなと(哲学2年)
自分の未熟を痛感できる回だった。同じ本を読んだのにもかかわらず、すごく考察的で鋭い視点からのコメントがたくさんあり、自分が恥ずかしかった。さて、『科学の限界』についてであるが、やはり、科学は技術的というよりも、政治的、社会的な限界と向き合っているものだと講義を通して実感した。例えば、iPS細胞で山中教授がノーベル賞を受賞したときのことだ。私もはっきりと覚えていないが、NHKの報道はとにかく再生医療のポジティブな面だけを報道していた。しかし、『科学の限界』にも記されていたが、悪用(?)されればそのうち人間のクローン製造工場だって誕生するかもしれない。メディアの報道からだけだとあたかも再生医療は欠点のない完璧なものと誤解できてしまう。そして市民の科学に対する過信が生まれる。(原発の安全神話のように)だが、いざ問題点が分かると市民による科学への信頼は足元から崩れ去る。(先の原発事故のように)こうしたプロセスが一種の科学の限界を作り出している。まず、メディアがポジティブな面とネガティブな面の両方を報道しないといけないのは言うまでもない。(そこにも政治的な圧力があるのかもしれないが)しかし、もっと大切なの は、やはり、メディアリテラシーだ。たかが、メディア、マスコミに扇動されるような市民ではいけないということだ。自分で様々な情報を発見し、取捨選択できなければならない。無論、メディアリテラシーを身に着けるには相当な教育改革が必要である。等身大の科学を目指すなら、科学者の態度だけでなく、市民の側もこうした改革を行わないといけないのではないか。iPS細胞の正しい使用法を考えることだけでも科学に十分に接近していると思う。情報の正当性を判断するときには、必ず考える行為が伴う。科学を考えることで、より科学が身近なものに感じられるはずだ。市民の側も受動的、家畜的な態度のままではいけない。

柴泰輔
科学の限界を読むことで、大学に入学した時点では生命科学として科学の道を進もうとしていた私は、その後なぜ文転をしたのかを改めて考えてみた。科学との距離は、生命科学にいた頃に比べると、大きくなっていることは常日頃から感じている。今回本を読んだことで、その大きくなってしまった差をもう一度小さくしていかなければと思うわけだが、そもそも生命科学を離れた理由を考えると、それは厳しいのではないかと感じている。私が文転をした理由の一つに、科学に興味がなくなったということがある。大袈裟にいえば、科学による発見に面白さを感じなくなったということである。そういった理由があった中で科学ともう一度向き合い、科学の発展や発見に力をいれることは、私の中ではあまり意欲的になれない気がした。またこの授業は、様々な分野の人が集まっているため、一つのテーマにしても多方面からの見解を聞くことができた。他の講義やゼミにはない、貴重な経験のできる授業だと感じた。

堀裕征
自分は『科学の限界』だけを読んで授業に臨んだ。科学者は科学の良いところしか見せず、悪いところを隠す。そう池内氏が書いていたことに関して自分は、科学者の引け目だけではなく、超常的速度で科学が進歩するに伴って、さらなる進歩への飢えや渇望が生じてしまい、麻痺してしまっていると考えた。さらに言えば、そこから生まれた慢心は自らの存在を神と同等もしくはそれに近しい存在であると彼らを錯覚させ、それも原因ではないかと考えた。だが、西山先生がその時に仰った『科学者の経済的状況、いわば研究者としての退くに退けない立場、またそれらにより降りかかるプレッシャーが原因』ということを聞いて、自分でひどく納得した。もちろん先生の仰った内容に納得もしたが、このように多様な意見が出てしまう、出て当然のテーマであったことに気付かされた。自分は本を読んでひどく悩んだのだが、それは結局多角的な視点で描かれている上に様々な話題が上がっているため仕方のないことであったのだ。国語の入試問題のように筆者の考えを汲み取ることが自分の意見を出すと錯覚していた。多種多様な意見が出て至極当然の氏の論の中で、いかに自分の考えをストレートに吐けるのか、いかにぶつけられるのか、それらを授業を通して周りの色々な人の意見を聞き、また、色々な意見が当然の如く存在することを知り、ようやく理解した。周りの人が各々の意見を自分の言葉に包めている一方で拙い言葉でつないでいた自分が悔しくなり、発表のときこそ頑張ろう、そんなことを思った授業回だった。

川野真樹子(表象修士1年)
今回、ゼミの参加者のコメントの中で印象に残ったものがふたつある。ひとつは大江さんの「本来、科学者というものは取り換えの可能な存在であり、自由ではない。一方で人文学は独学可能であり、そちらの側(外側)から科学者を見る必要がある。」というコメントである。もうひとつは吉田さんの「科学者の理論を使う側に問題があるのではないか。1%の確立とは、100回に1回ではなく、1000回何もなかった後に10回続けて起こる可能性があることを考えなければならない」というコメントである。どちらのコメントも、なんとなくのイメージとして私の中にあったものだが、今回社会人としての経験を踏まえた上でお二方がコメントされたことで、ようやく本当に理解できたような気がする。人文学が社会の役に立つのかという疑問はいろいろなところで見かけてきたのだが、大江さんのコメントから、役に立つのだと胸を張って言えるように感じた。確かに人文学の研究は基本的には個人で行うという自由(と責任)があると思う。だからこそ、人文学の中にとどまらず、人文学の外も見ていく必要があるのかもしれない。また、科学者の理論を効果的に利用するため(科学に限らず、よりよい社会生活を営むため)には、想像力が鍵を握るように思う。1%の確立のパターンがひとつでないことを思いつくために、あるいは大地震が未知の原因で起こるかもしれないことを思いつくために、想像力を鍛える場がこれからの生活には必要になるのではないだろうか。(これは浅利さんの発言に対して先生がコメントされた「啓蒙」の一種でもあると思う。)

飯澤愁(仏文修士1年)
安易な科学の紹介が、科学を志望する母数をいたずらに増やしてしまうという、志村さんの感想が印象に残った。自分自身、今から15年ほど前の自分を取り巻く環境の科学発展に対する信頼は厚く、そして極めて妄信的でさえあったと述懐している。それは技 術発展に人々が伸びしろを感じ、それが人類の進歩に貢献するという確信の下、疑いのない眼差しで科学を志向していたからであろう。しかしながら、もちろん原発における倫理的側面もそうだが、3Dテレビの例においても明らかなように、昨今、人間の身体能力が科学技術を享受 し得る限界が見えつつあり、科学技術が頭打ちであるという認識が強まっているように感じる。その一方で、パソコンのように、極めて専門的な技 術が詰め込まれたツールは簡単安全のオブラートによってパッケージされ、汎く普及している。科学技術の発展に対する素朴な憧れが発展の推進力になっていたことは否めない。しかし、現在の科学への一般的な認識の状況は、科学技術の発展 には冷めていながら、自らを取り巻く環境の科学的専門性に対しては無知であるという逆説性を帯びているように思える。依然として科学に関する専門的知識が日常レベルで不可欠なものであり、その一方で科学を志望することに対する「コストパフォーマンスの悪さ」は、 単に科学発展を阻害するという問題に留まらず、科学的な思考力の低下という面でも懸念されるべき事項かもしれない。

内田日代子
発表を聞いてそれぞれがそれぞれの思いを抱きながら読み進んだのだと言う事がよく伝わった。「科学技術は社会に役立てるべきものでありながら、今後の世の中にその需要/可能性があるのか?」(という趣旨だったと私は理解しました)という疑問は自分自身も常に漠然と感じていた事であり、そういった水面下のもやもや感を他人の言葉で定義づけられるような小気味よさがあった。が反面、自分の中の所在ない思いを自身で伝達することが出来ないもどかしさを感じた。これらの書物が単に3.11後の教訓として書かれたことでないことを認識するのとしないのとでは、事に対しての姿勢も違ってくると思うし、私が読んだ山本氏の著作に対してタイトルと内容のギャップを指摘する人が居たが、それもその所以のように思った。氏はこの論説を事故後の“絆”を呼びかける為に書いたのではなく、事故をきっかけにこの事案に日の目を見させることが出来ただけなのだと思った。読みながら、これを思い、改めて先の講義の“絆”について考えた。

吉田直子(聖心女子大学大学院)
 おそらく私の違和感は、いったいどれだけの科学者が「科学は万能だ」と信じていたのだろうかというところに端を発している。さらに言えば、いわゆる文系の人間が「科学の限界」というフレーズを「それみたことか!」とアイロニカルに話すのを聞くと本当に居心地が悪くなる。科学者が何に魅力を感じて研究を重ねてきたのかという物語を耳にするたび、また昨今のゼロリスクをめぐる科学者とそうでない人々との意識のずれを目にするたび、科学はあらゆる現象や問題を100%説明し尽くすことができ、また完全に解決することができるということを盲信していたのは、むしろ科学者をまなざす側ではなかったのかと思うからだ。例えば地震予知の話にしても、科学的な見地から不可能だとされた地震予知の可能性を否定しなかったのは、そうしなければ非科学者が納得しなかったからではないのか。つまりこれまで「科学は万能ではない」という科学者のつぶやきを封じこめてきたのは、曖昧さを許容しない、0か1かでしかモノを考えられない、ある意味で極めて科学万能主義的な思考を持った非科学者のほうではなかったのか、ということである。科学の営みの成果それ自体(=科学者の手に依るもの)というより、その解釈や利用の仕方(=社会全体の手に依るもの)を問いたいのはそのためである(もちろん自身の研究成果を示すことによって強大な権力を手に入れた一部の「御用学者」もまた科学の万能さを信じていただろう。信じなければ自己否定につながるのだから)。科学の営為は科学者のみで創られていくものではないということを、科学者もそうでない者も今一度立ち止まって考えなければ、我々は責任のすべてを科学者に押し付け、自分たちで思考することを放棄したまま、また別の万能な何かにすべてを委ねるというサイクルを繰り返すだけなのではないだろうか。

大江倫子
『科学の限界』では、自ら科学者である著者が、専門外の読者に向けて、科学の内在的制度的諸限界を網羅的に体系づけ、わかりやすく整理して提供している。しかしこの体系にいかなる意味を与え、読者に何を訴えるかにあたり、著者はいかにも素朴で幼稚な「悪者科学者」の表象を振りかざすことしかできない。彼らは「あたかも神の代理人であるかのごとく振る舞い」「万能の力を過信していたのだが、その自信が簡単に打ち砕かれた」(p.8)のであり、「経済的利得や安全・安心を過大に強調」することを「科学者の義務と錯覚し」「上から目線で市民を導いてやっているという傲慢さ」(p.186)に溺れていたとされる。原子力ムラと科学者技術者を不当に同一視し、こうした科学者技術者に社会的責任を自覚させる役割を担うアニメヒーロー的表象を自らに割り当てることこそ、この著者の行為遂行する言説に現れたその欲望である。さて私たちはみな、各々の仕方でこのように対象を表象するのだが、そこに表象としての真理が現れており、それにより逆に私たちも拘束されることになるのである。