核廃棄物と共に生きる私たちの未来
(2012年10月24日)

原発を即時ないしは漸進的に停止したとしても、核廃棄物の管理と処分には数万年を要する。本演習でも、核廃棄物と共に生きざるをえない私たちの現状を心に刻んでおく必要がある。受講者全員に参考文献のどれか一冊を読んできてもらい討議する。

〈使用文献〉
西尾獏『新版 原発を考える50話』岩波ジュニア新書。斉藤環『被災した時間』中公新書。
金子勝『原発は不良債権である』岩波ブックレット。山口昌子『原発大国フランスからの警告』ワニブックス。

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コメント

西山雄二
「イデオロギー」という表現が無批判に使用されることには敏感でありたい。「イデオロギー」は「観念体系」「思想傾向」の含意をもつが、「思想」よりも価値の低いものとされがちだ。「イデオロギー」は一定の集団や階層にしか通用しない偏った「空論」とみなされる。ただし、どの思想が「イデオロギー」なのかは識別し難く、往々にして、相手の話を「イデオロギー」として勝敗をつけてしまう場合がある。「それはイデオロギーにすぎない」という行司根性を抑えつつ、あらゆる思想と公平な立場で対話したい。

内田森太郎
今回の講義では原発についてそれぞれ違った側面から書かれた本について、いろいろな視点から感想を聞けて興味深かった。特に、自分の読んだ『原発を考える50話』についてのそれぞれの人の読み方の違いには興味を引かれた。まず驚いたのはこの本が人を反原発にみだりに扇動するおそれを孕んでいる、という指摘である。きっと私は何度この本を読んでもそのような感想は抱かなかっただろうからその指摘は新鮮だった。ただこの本のどの部分が人をみだりに扇動してしまうのかよくわからないので、その理由の説明が聞ければよかった。ともかく読み方の違いを実感できるいい機会だった。そして大江さんの感想に出てきた、フランスにおける原子力開発の強引とも言える推進の歴史に意外感も覚えたが、さもありなんとも思った。初めから原子力についての正しい知識と現時点での科学力がどの程度安全に原発を運用しうるかについての情報がオープンにされていたならば、民意は原発を認めなかっただろうと実感を伴って想像されるからだ。

藤井淳史
今回の全体討論では、参加者それぞれが一家言を持って臨むことができ、内容は非常に充実したものであった。自分は斉藤環氏の「被災した時間」を読ませていただいたが、内容はエッセー的なものであり、それだけに震災期間を通し筆者の錯綜した感情の軌跡を見ることができた。その中でも、被災者の心のケアの問題に特に言及しており、被災者のPTSDの羅感数(あまり多くはないと言及されていたが)や、自殺者数、犯罪発生件数等の見落とされがちなデータを調べていくことも大切だと感じさせられた。また、発表時には、「新版 原発を考える 50話」を読まれてきた方が多く、その内容をかいつまんで知ることができた。そのなかでも、いかに地方に原発を建設させるかという問題に関して、お上がどれだけ苦心して手を回したのかなどの話を聞き、不謹慎ながら笑いそうになってしまった。また、今回の事故で人間の技術力はとうに人間の想像力を超えているのだという認識を持つようになったのだが、それならば、人間の技術力の進歩に対して人間の想像力の限界というものは存在するのだろうか。先日もips細胞が話題となっていたが、科学の分野においては人間の進歩思想はまだまだ健在であるように思う。そのうえで、この進歩を止めるのではなく、その進歩をさらに強固にすすめていけるような想像力の進歩というものは存在するのか、疑問に思った。

川野真樹子
今回、自分が読んでいなかった2冊(西尾獏『新版 原発を考える50話』、斉藤環『被災した時間』)についてもみなさんの意見を聞いて興味を持った。特に『原発を考える50話』について多くの人が「3.11前に言われていたことがFUKUSHIMAによって当たってしまった」ということを話していたのが気になっている。自分が読んだ2冊(金子勝『原発は不良債権である』、山口昌子『原発大国フランスからの警告』)から、日本の原発はお金で動いているということが非常に明確に分かった。事故が起きたあとでも、利益を優先し、安全をないがしろにしていることには疑問を感じる。巨額のお金が原発によってまわっていることを知った後では、原発がなくなれば経済がまわらなくなるという一部の政治家や経団連の言うことも理解できないでもない。しかし、経済と安全を天秤にかけて良いものだろうか。安全・安心があっての経済ではないだろうか。田中さんの感想に「原発推進に教育が利用されてきた」というものがあった。少なくとも自分の育ってきた環境ではそれを感じたことはなかったが、だからと言って教育が反原発(とは言わないまでも、原発のプラス面とマイナス面をきっちりと教えてくれる)指導をしていたという記憶もない。その結果、今まで原発について深く考えることもないまま成長して来た。(唯一チェルノブイリ事故後の子供たちの病気について書かれた小学生向けの本は読んだ記憶があるが、日本でも同様のことが起こるとは夢にも思っていなかった。)結局、周囲に流されずに知識を蓄え自分の頭で考えなければ何が最善の方法なのか納得することができないのだと思う。だからこそ、3.11以降の電力会社の動きは隠されるべきではないのではないだろうか。私は脱原発、反原発、あるいは別の方法をとるにしてもそれを考えるには東電の出す情報が少なすぎると思う。東電は全ての情報を開示することでしか信頼の回復をすることができないのではないか。

市岡あやな
雑誌『DAYS JAPAN』が2011年の3月からずっと原発問題を取り上げ続けている。沖縄県・久米島に被災地の子どもたちのために「球美の里」という保養施設をつくるなどもしている。以下の文章は、そのDAYS JAPAN発行人である広河隆一氏の書いた11月号編集後記の一部分である。 「…チェルノブイリでは、甲状腺検査の結果は親に伝えられた。しかし多くの親は検査結果を子どもに告げることができなかった。「がん」という言葉は大人でさえ耐えられないのに、子どもには重すぎる。しかし子どもが自分の診断書を見つけて知ってしまうこともあった。そして中には事実を知った後の子どもが、泣き明かす母親を慰めるケースもあった。…」 そして、これはもはやチェルノブイリに限った話ではなくなってしまった。この事実の前で、何のやむを得ない理由があるというのだろう。ましてや何の責任もない子どもたちに天罰など下るわけがない。震災のあと、5月、友人に赤ちゃんが生まれた。汚染されたミルクが出回っているという情報が流れた。「原発はいやだ」と、心底思った。思ったなら、守りたいなら、まずは知ることである。事実や仕組みを知る上で、『原発を考える50話』は、とても良い本だと思う。

倉富聡
我々は福島第一原発の事故を、東日本大震災をいかに受け止め、いかに超克し、いかに伝えていくべきなのだろうか。カタストロフィの追体験は決してできない。ゆえに後世の人々がこの出来事をどう受け止めるか、どう記憶するかは我々がどう伝えるかにかかっている。その点で原発や震災について書かれた本は、一つのメディアとして非常に重要だ。特に震災前に書かれた『原発について考える50話』は我々が原発についてどう理解していたか、いかに無知だったか、そしていかに無視していたかを教えてくれる。都市社会での生活者である我々が、現代文明人の我々が引き受けなければならなかったことを何年も前から発信し続けている人々がいたことに気づかされた。また、この本は情報を伝えることのむずかしさも教えてくれる。いかに忠実な描写をしていても、いかに正確な情報に基づいていても、何かしらの立場に立つと必ずフィルターを通すことになる。必ず人の言葉には偏りが出て、バイアスがかかるのだ。それが意思表示ということでもあるのだが、同時に「イデオロギー」にもなりうるということでもあるのだ。

鈴木奈都子
斎藤環『被災した時間』は私にとって著者の立場や姿勢に頷ける部分が多いものだったのだが、中でもいちばん共感できたのが『被災県出身者鼎談 私たちにとって「東北」とは何か』という章だった。原発に「推進」か「反対」かという極端な二項対立ではくくれない当事者の感情、被災地・被災者の美化や反原発としての象徴化などは実際に当事者として私が感じてきたことであり、つまるところこれらは「東北の内側が置き去りにされている」という表現に尽きると思う。そしてその最も悲しいパターンが、被災者に対する批判であると感じる。はかり知れない苦悩の中で決断した福島県民に対する“あなたたちは「罪のないかわいそうな被害者」なのに、危険を知りながら福島に留まり続けるのは愚かだ。原発を黙認し、推進することと変わらない。”という批判。これほどまでに当事者の内実がないがしろにされた、虚しい善意のあり方はない。“被災地の「こころ」にかかわるものには、善意を発揮した「責任」が生ずる。覚悟と根気なしに「こころ」にかかわるべきではない。”という言葉には本当に頷かされるばかりである。被災者に向き合う覚悟とは、被災者を象徴化し、このような人々を増やさないための脱原発ではありえない。被災し続けながら生きなければならないという覚悟を持った脱原発こそが、被災者に向かう誠実な姿勢なのではないか。

志村響
「被災した時間」の中で指摘されていたのは、原発は根本的に人間には制御不能であるということだった。原発は巨大なブリコラージュ(寄せ集め)であり、各分野の専門はいるものの原発全体を総括して監督できる者がいないため、“想定外”を防ぐことは出来ない。ゆえに原発は“原罪”を持つ、というのは的を射た表現である。また、その罪はジャンピエール・デュピュイによって“システム的な悪”と換言される。悪意は人間にも、もちろん自然にも求めることは出来ず、人災でも天災でもない第三の悪を彼はシステム的な悪と呼び、その最悪の形が原発事故であると筆者は提言し ている。授業の際、「ではなぜ原発がここまで普及してしまったか」という問いが繰り返し出たが、人間の欲望に歯止めが効かない以上、都合のいい技術に飛びついてそれが蔓延するのにはたいして時間も要さないであろう。ただ、目先の利益にとらわれる余り世代間倫理の認識については完全に欠如していたと言ってよく、それが今になってオンカロ倉庫の引き継ぎ言語に頭を抱えるといった滑稽な事態に結びついている。原発が原罪を孕んでいる限り、“次”を防ぐには脱原発しかない。筆者のこの主張は首尾一貫しているし、次世代にこれ以上負債を残さないためにも、原発存続問題の解決は急務と言える。

田中麻美
同じ本を読んでも、感想は人の数だけあるのだなぁと感じた。私が今回読んだ本は『原発を考える50話』のみであったが、当然のことながら複数読んだ方が、こうした発表会の時はより吟味された意見が言えるのだなと痛感した。オンカロの話は印象的だった。それは人類がやっと見つけた原子力エネルギーの終わらせ方で、一種の救いのようにも思えた。しかし日本ではオンカロのような処理は、不可能だということもわが国の核のゴミの問題がいかに難題であるか、突きつけられるようだ。核のゴミが有害性を失くすためには途方もない歳月が必要で、そこまでは人類が存続しているのか、地球があるのかすらわからない。何故そんな人の力など到底及ばないような物質のエネルギーを利用しようと思ったのか、初めての原発を推進した人に聞いてみたい。真夏の電力ピーク時に電気が足りないから原発は必要らしいが、単純に火力発電所を増設したらよかったのではないかと思う。そこはやはり、原爆を落とされた国だからこそ、核エネルギーを制して利用してやるという日本ならではの考えがあったのだろうか。しかし今は過去を振り返ることよりも、現状にある問題をどうするのか。日本学術会議の回答文は、原発のエネルギーの恩恵に知らず知らず預かってしまった我々にも、この問題を考える必要があることを示唆していて、全くそのとおりだと思った。当面解決策も見えない問題であるが、考えることをやめてしまっては絶対にいけないことだ。

小島裕太
「日本は被爆国であるのに何故原発を沢山建設するのか」という問いに対して、「日本は、原爆を落とされたから原発を建設するのだ」という答えがあるという。この話から想起したことを記す。かつて日本を脅かした原子力を、日本では自在に扱うことができる。よって、日本は原爆によるトラウマを克服したと言える。かつて日本を脅かした兵器さえも日本は手なずけられる。そんな心理があるからこそ原発を推進している人々がいるのではないか。電力会社が強調していた原発の絶対安心神話は、そんな過信によって裏付けられていたのだと感じた。また、開発者の「夢を追う」という言葉。この言葉から想起したのは、学問における実学と虚学に関してである。一般的に化学は実学の域に属する。しかしながら「夢を追う=原子力を御することを目指す」ということは、昨年の地震によって不可能である事が自明である。原子力を自在に扱うという夢は実学、さらには虚学さえも超えた夢のまた夢であるということなのではないか。最後に、原発のCMに関して感じたこと。地方では原発を推進するためかテレビCMが流れていた。田中さんのコメントにあったように「廃棄物は埋めてしまうので安心である」という謳い文句は必ずCMにあった。今考えてみると、「埋めなければいけないほどに危険な物質を使う」という風にしか捉えられない。原発という施設は日常的に矛盾した状態にあったのだと気づいた。

福地ひかり
自分の読んでいない本のコメントを聞いて意味のある90分になるのかと授業の始めにふと思ったが、そのような考えは全く無駄で、むしろ自分が読んでいない本のコメントから得られるものがほとんどだった。その中で「被災した時間」の被災者をいつでも念頭に置いている姿勢についての話が一番印象的であった。震災から1年半以上が経過して、震災復興に対するスローガンや言葉が徐々に街から消え、ニュースでもだんだんと震災に関する報道は少なくなっている。政治面では、新党結成にも絡む原発の賛否や、復興予算に関する議論など相変わらず自分たちのことしか考えていないのではないかとついつい疑ってしまう。そのような世の中でも被災した人々は懸命に前に進んでいるのではないか。私たちがふつうの生活をすることが一番の復興の手助けではあるが、ときどき被災した人たちのことをふと思い出す瞬間があった方がいいと思った。政治家たちには、いつでも被災者のことを考えおいてほしいが、そのような雰囲気が全く感じられないのは本当に残念である。原発についても考えさせられる講義だったが、「震災」という大きな視点から見たときに重要なものも考えさせられた。

井上優
『原発大国フランスからの警告』を読んで、原発に対するフランスの取り組みや認識に関して日本と対照的な点が多々あることを知って驚いた。フランスでは日本のような原発神話は存在せず、「事故ゼロはありえない」という高い危機管理意識の元で原発が使用されているし、原発を管理したり研究する委員会や機関が多々あり、日本での原発に対する認識がいかに甘かったかということを改めて知ることが出来た。日本でもフランスのやり方や考え方を見習っていれば、事故の様子も少しは変わっていたかもしれないと思った。しかし、3.11と福島の事故を受けてフランスでも脱原発への動きがただちに強まっているわけではなく、原発に関する世論調査で「原発賛成/反対のどちらともいえない 躊躇派」の割合が一番多く、4割もいるという事実は少し意外だったが、日本でも同様の調査をすれば、おそらく同様な結果となるのではないかと思った。こうした「どちらともいえない」という人々は単に原発に無関心なわけではなく、実際は原発が危険であることもわかっているが、声を大にして自分の立場を主張するほどの明確な根拠や情熱がなかったり、仮に反対と意思表示したところで、本当に原発がなくなるわけではないという絶望や諦めを抱いているのではないかと思うし、実際に今の日本でそうした空気を感じる。専門家や政治家や電力会社の職員など、立場の明確な者ほど「賛成/反対」という意見をはっきり述べやすいように思う。多くのどっちつかずな意見の人々が、どうすれば賛成/反対の 結論に至ることができるのか、どんな理由で、どんな信念を持ってその結論に至るのか、ということが重要となる気がする。

山下竜生
今回私が読んだ『原発を考える50話』はさまざまな視点から原発に対する厳しい意見が出てきていたので、もはや原発に未来はないものと思わせるような内容であった。現場でしかわからない状況がひしひしと伝わってきて不気味であり、淡々としている。しかし、これが書かれたのが3・11よりも遥かに以前であるということからしても、なぜ原発がなくならないかということが読み終えた後、理解できたように思える。授業冒頭の日本学術会議での結論もそうであるが、どうしようもなくなっている事態は過去も今も変わっていない。3・11を通してやっと世間に気づきを与えた今、原発をやめない理由が今どこにあるのかを見つめる必要がある。また3・11を今どうとらえるか。被災者への目線が実際どのように働いているか。私個人、一人の人間が無関心であることが、彼らにどのような影響があるのかを考えさせられる。たっぷりの愛情、気持ちを持って接することは時に受容する者に違った形で届いてしまう。被災者は一人ではない。私は一人で、数えきれない被災者に、3・11に何を思えばいいのであろうか。

大江倫子
『原発を考える50話』は技術・制度・慣行などの事実の記述から出発して、原発行政の諸矛盾を顕わにしている。廃棄物の問題はもちろん、すでに進んでいる地球規模での脱原発動向、保守作業の技術的限界、被爆への日常的無頓着さに至るまでの衝撃的事実は、それを生じさせた起源の決定について考えさせられる。『原発大国フランスからの警告』では、本来議論好きの国民がこれを「議論の余地のない「聖域」として」受容したことが示されている。しかし事態はもはや脱原発の実現性という次元にすらないのかもしれない。『原発は不良債権である』は保障を前提する財務上の必然性からほとんど選択の余地のない実態を開示している。私たちはあらゆる事実をそれが事実であるかぎりで、真理とし て受容するのではなく、ある法則、事実から取り出された構造や運動の反復可能な一般法則に従った事実のみを受容するのではあるが、その法則を改訂するような真理はつねに生じうるのであり、生じなくてはならない。事実のうちに。