死者と喪――マリ=フレデリック・バッケ、ミシェル・アヌス『喪の悲しみ』(白水社、クセジュ文庫)
(2012年12月12日)

突然の別離を経験して悲嘆に暮れる人々。直後の反応に続いて抑鬱段階が始まり、喪の作業の中心を占める。やがてその死を受け入れ、落ち込むことなく故人のことを思い出せるようになるときまで、周囲はその時間を尊重し、寄り添うしかない。喪の悲しみとは何か。通常の喪と特別な喪の悲しみの違いとは何か。喪の悲しみはいかに悪化するのか。喪の悲しみをいかに克服するのか。
発表者:福地ひかり(都市政策2年)、村上翔太郎(仏文2年)




『喪の悲しみ』 (P.15~P.63) 発表=福地ひかり

はじめに
喪の悲しみとは?
・ 人生における重い試練で、精神だけでなく身体的にも重いダメージを与える。
「喪の悲しみは、愛する人を失った反応であるが、場所や、理想、自由など愛する者が抽象化されたものを失ったときに生じる通常の反応である」byフロイト『喪とメランコリー』
・ 喪には沈黙が必要。喪はある種の反復である。
・ 個人的経験だけでなく、集団内で共有される一つの現実である。
→現在:個人的・家族的なものに変化(⇔死の職業化・施設化)、死の社会的隠蔽、死の拒絶(死を通俗化する動きと死を支配する動きの混在)

第一章 現代の西洋における死と喪の悲しみの表現
喪の悲しみは現代的な問題だが、西洋社会では最も拒絶され、最も隠蔽されているテーマ。表出を禁じる。医療が扱うもの。

現代において…
・ 葬儀や悲嘆が「個人化」…死の悲しみを恥じらい、内輪ものとし、飾り気をなくそうとする傾向は他人との差異を明確化し、個人を打ち立てようという考えと表裏一体。
・ 葬儀の軽視の傾向…原因:都市の過密化、医療の大衆化により病気・老い・死が日常生活から遠ざけられた、道徳的・社会的・精神的な行事に割く時間の減少、女性の就労の一般化。
・ ひっそりおこなう葬儀…現代社会を構成する快楽主義的な秩序を壊さないため。
・ 緩和治療…死を尊重しようとする態度があらわれ、死を迎える時に生じる精神的負担を医療が引き受ける。→疼痛や死への不安を和らげた。

時間の有限性や死の意識は生の欲動のあらわれであり、人間の賢さのひとつ。
「人生の終わりを最も良い環境下で受け入れようという態度は生命のはかなさを超越しなければたどりつけない。古来より存在してきた儀式を通してのみこの不確実性を受け入れることができる。」



第二章 喪の悲しみとは何か
定義…「愛する人の死によって引き起こされた情緒的な苦しみ」(状態像として)
「ある人の喪失に由来する、辛く悲しい期間」(一定期間をあらわす)
喪という言葉には、社会的意味も含まれる。喪に服することは社会の秩序を維持すること。中世:感情を表出することを制限。涙をこぼすような卑しい反応を避けることが動物と人間の違いで、近代的な態度であると考えられた。
20世紀:感情の高ぶりの心理的な有用性が再評価される。
「喪の悲しみでは、世界が貧しく空虚なものとなる。メランコリーでは、貧しく空虚になるのは自分自身である」byフロイト
悲嘆が引き起されないことのほうが病的である。葬儀は感情表出を許容するための場であり、生者と死者を厳密に分かち、罪悪感を弱め、喪の期間を短縮する。→儀式の重要性



第三章「通常の」喪の悲しみの経過
喪の急性期には、以下の3つのレベルの事態が起こっている。
・情動的な無感動・感覚の衰弱・身体器官の麻痺

ショックから立ち直るためには大変な労力が必要である。
探索行動:現実性を取り戻すための対価。
退行:訃報を信じることを拒否したり、真実からできる限り逃げようとする。
情動:悲しみの置き換えである怒りや恨み、憤怒。

不意に流れる涙はエネルギーのロスが少なく、悪くない身体的表出である。
涙がこぼれることは、感情が素直にあらわれており、行動化を断念したという良い兆候。
緊張から運動的・身体的に開放されることでもある。

抑うつ状態:身体、行動、知的な側面から特徴づけられる、いわゆるうつ状態。「身動きがとれない」状態。
力動的うつ状態:喪の作業という精神運動の一部を構成。喪失を統合し、故人の性質を内部に取り込むことへと導く、正しいプロセス。

喪の終わりを定義することは難しいが、本人には多少なりとも把握される。
喪の再出現を完全に阻止することは困難であり、「記念日反応」を起こすことがある。
「悲観を経験した人は、以前と同じではない。また、過去の時間を取り戻すことができるわけでもない。社会が、悲観に暮れる人の苦しい時間を尊重し、回復に必要な時間を認めることだけが、よい条件で喪の作業を行なうための手助けになる。」



第四章 喪の作業の心理学的分析

親しい人を失った影響:訃報を受けたショック状態→悲痛段階→抑うつ段階→最終的には故人を内面化。

喪の作業におけるメンタライゼーション論
表象化:現実を認めること。初期のショック状態を乗り越えるために必要。
象徴化:個人の死を受け入れ、葬儀を行なうことで始まる。意識化(メンタライゼーション):感情に飲み込まれることなく、個人との出来事を思い出すことができる。

心理的苦痛
・対象との不本意な離別、欠如の感覚
・欠如による孤独と、それから生じる悲しみ

故人の理想化→故人に対する攻撃的な感情の復活→罪悪感
失われた対象が内面化すると、故人から離別することへと繋がる。
故人への同一化は、故人の資質や特性を無意識的に取り込む。内面化は同一化にまで至る。

罪悪感について
意識的:生き残った人は、自己の同一性を喪失し、死者の中にみずからの居場所を見出すほどの混乱に陥ることがある。
無意識的:故人に抱いていた欲動のアンビヴァレンツが問題になる。

「普通の喪の悲しみは、日常的な抑うつ程度にとどまり、自己評価の低下までには至らない。反対に、喪の悲しみが悪化すると、もともとの人格の防衛メカニズムとの関係によって病的となる。」




「喪の悲しみ」5章~8章
発表=村上翔太郎

※頻出用語の定義
アンヴィヴァレンス:同一の対象に対して相反する感情を同時に抱くこと(広辞苑)
本書の場合は、生き残った者が死者に対して愛情と憎しみを同時に抱いていることを指す。
トラウマ:故人にとって心理的に大きな打撃を与え、その影響が長く残るような体験(語源由来辞典)

5章 喪の悲しみが悪化するとき(64p~75p)

前章まででも言及のあった、喪の悲しみの悪化について、分析した章。
時間的要素/生き残った者の年齢性別/喪失が突然であったなど様々な要因によって悪化。
喪失を契機に、病的な人格が顕在化することもある。
①「喪の先送り」、②「喪の悲しみの抑制」、③「喪の悲しみの慢性化」、④「喪によって大うつ病が引き起こされている」の四つがある。
①喪の先送り:故人が生きているかのように生活する(本文では「儀式」を行う)ことで、故人の死を否定している状態。
 儀式によってかえって心が蝕まれてしまう。しかし儀式を通して喪に服することが可能になる場合もある。
②喪の悲しみの抑制:喪の悲しみの表出を自制している状態。悲しみが表出されない点で①と共通する一方、先送りに比べて防衛効果が弱いため悲しみが身体症状に反映される。
※特に子供に見られる。
③喪の悲しみの慢性化:喪の悲しみの長期化。悲しみの程度が激しいという意味ではない。
Ex.未亡人。一生続くこともあるが、社会的に特別な地位を得ていれば、それほど抑うつ的にならずに済む。
※最も多いのは、二次的な利得を得るために慢性的に喪の悲しみを現すケース。
④喪によって大うつ病が引き起こされている
 悲しみがあまりに強く、最初から大うつ病に陥っている場合。抗うつ薬の投与では、喪失を意識化する(前半の発表参照)ことができないため解決できない。

悪化する原因
全部で9つ。①喪失以前の関係、②死が突然であったり非典型的であること、③死の告知、④悲嘆の年齢差、⑤立て続けに起きた死別の経験、⑥健康状態が悪い、⑦失業、⑧共同体による儀式の副作用、⑨感情的な表出を許さず罪悪感に沈めてしまう環境。(これらは複合的であり複数の原因が該当することもあると考えられる。)以下一部について説明。
①喪の悲しみの性質を決めるもの:遺族と故人の関係性(依存関係、葛藤の存在すなわちアンヴィヴァレンツな関係は悲しみを複雑にする)
現代において、人生で最も困難なのは配偶者の死を受け止めること(∵老い、退職、子供の独立など他の困難と同時期に発生)。
配偶者を失ったショックは長い時間をかけて孤独に変わる→少し快適に。
③死の告知は若い人ほどトラブル(罪悪感、不安、身体症状)になりやすい。
④高齢者ほど死を否認する傾向。



6章 喪の悲しみの病理(76p~89p)

病理=病気の原因・過程に対する理論的な根拠(goo辞書)
喪の悲しみの病理=それまで平穏に過ごしてきた人が、喪をきっかけに病気に陥ること。
    (病気:精神科疾患、身体疾患、有害行動など)
∵喪失によって自己愛(本文ではナルシシズム)が枯れて自立と相互性が築けなくなる。
∴喪の悲しみに影響を与えている要素は、「喪の病気」を引き起こす人格レベルの病理の表れ。(人格=個人の統一的・持続的な特性の総体。ここでは人柄という意味ではない。)

以下、精神病的な喪の悲しみと、トラウマ的な喪の悲しみについて(トラウマ的の意味については後述)。
・精神病的な喪の悲しみ
①ヒステリー的、②強迫的、③躁的、④メランコリー的。
※③躁的とは、死を否認することであり、やがて悲痛やメランコリーに転化(長続きしない)。

・トラウマ的な喪の悲しみ=急性期において悲しみが停止してしまうこと(前半参照)。
ボーダーライン(心理的な未熟さを持つ人格)が関係。ナルシシズムの不全感を埋め合わせるために情動的備給に過敏。主に身体症状として現れる。アンヴィヴァレンツに両親に依存していた人に起こりやすい。
特徴:不安感、自己価値の脆弱性、怒り、罪悪感など。
男性ほど悲しみを引きずりやすく、治療の段階で幼少期を想起する傾向にある。
健康の悪化にも影響。
※トラウマ後的な喪の悲しみ:自分が体験した死の脅威に際して他人が死んだ場合に起こる悲しみ。通常の喪の作業中にはノスタルジーが現れるのに対して、死の不安が再活性化することを回避するために記憶が追いやられる。
癌と喪の悲しみ、心臓疾患と喪の悲しみ、依存行動(男性はアルコール、女性は向精神薬)と喪の悲しみ。
トラウマ的喪の悲しみは、遺族の人格的リスクを評価することで予防でき、長期的に患者の側に寄り添う医療者による評価が必要。※子供のトラウマ化を防ぐことも望まれる。



7章 特別な喪の悲しみ(90p~104p)

喪の作業を阻害する因子について取り上げた章。因子とは、自分の死の先取り/職業上頻繁に死に直面すること/行方不明関係者であること/精神発達遅滞者や精神障害者であること。

1トラウマ症候群と喪の悲しみ
喪の悲しみのトラウマ化/喪失のトラウマ的側面。この二つははっきり区別しなければならない。
前者:人格が関与⇔後者:喪失による身体、精神、社会的な暴力性の問題
また後者には自然災害や人的災害が含まれる。
今日ではトラウマ神経症の代わりに、PTSD(心的外傷後ストレス障害)が用いられる
←ストレスという概念が不適切に用いられる場合も多い。
PTSDは、トラウマ後に反応がないのが特徴。また、フランス人はストレスを不完全な概念だと考える一方、アングロサクソンはストレスという概念を多用する。

2トラウマ的状況において、子供が近親者を失なう(原文ママ)こと
子供の喪←年齢、トラウマの性質、生き残った親との関係が影響。これらがショックの長期化を予測する判断基準。
悪化要因が様々に存在。

3トラウマ的条件において喪失を体験した大人
近親者を亡くすと喪の悲しみが悪化する。しかし急性期には悲しみが妨げられる可能性がある。
援助を求められない状態が続くと、遺族は喪の作業を再開できない。
※大災害、大量殺人、テロ、ジェノサイドなど(カタストロフィ)の場合、トラウマによって心理的に引き起こされる事態に、
①自我の喪失
②死に伴う予測不可能な感情。生き残った者の罪悪感。孤独が罪悪感を強める。
が加わる。

4不幸な仲間の喪に服すこと
仲間の喪に服することで、孤独感や悲しみ、死を正当化する説明の不在が生存者の罪悪感を高めるex広島、長崎。
支援は集団的に組織化されていなければならず、国家は国民を理解し、支援しなければならない。政治的な観点からみると、再び大災害に見舞われないための新しい方法を提示するコミュニティのもとで、集団的死の意味を見出さなければならない。

5喪の悲しみと慢性病
家族の団結に始まる、友人間の団結。施設で生かされているだけでいいのか?
死や苦痛、物質的困窮に関する考えを持つことが必要。
①エイズ、告知された喪
病気の初期にみずからの喪に服することになるが、最終的に死を受け入れる。矛盾に満ちた状況、人生からのリビドーの脱備給。患者は世界と距離を置いてしまう。患者の希望は、今を生きること。
②その他の慢性病
先取りされた喪の悲しみは何としても回避されなければならないが、病気の発覚による正常な抑うつは、そのままもたらされなければならない。

6医療者や救助隊員の喪の悲しみ
バーン・アウト・シンドローム(適応障害。死を認めないというかたちであらわれる機能不全。患者との関係にエネルギーを注げなかったり個人的達成感が低下すること)を防ぐために、医療機関における患者への環境を整えなければならない。



8章 喪の悲しみに陥っている人に寄り添うこと(105p~111p)

宗教心の低下(20世紀以降の西洋社会)→遺族がますます孤独に追いやられてしまう。
アングロサクソン諸国:ボランティア型の慈善事業の推奨
フランス:立ち遅れ、ただし心理的支援から社会的支援ちう流れはある。
アングロサクソン社会は、支援の効果を評価する段階に入っている(遺族を独りにしないことが肝要)。

①特化されたグループ
配偶者を亡くした人のためのものや、子供に特化したもの、医療者に特化したもの(自分のグループへのケアを望んでいる)など多様。突然の死に直面する職業人でも専門家を雇う流れ。専門職も非専門職も対策を進めている。
②遺族への個別の寄り添い
遺族を支援する協会は、求められれば個人的な面談にも応じている。
③方法
最も頻繁に用いられるのは精神分析から直接影響を受けた方法。
④喪の悲しみの困難さを、もっと社会に知らしめること
社会的な認知を高めるという考え方~人間的、社会的、経済的に最も興味深い解決法。
←注意の喚起が必要。
医療者には、喪の悲しみの心理学を最初に理解し、実践する役割がある。



コメント

西山雄二
「喪の作業」とは人生における反復的現象であり、愛する対象が亡くなってしまう現実を生きる限り終わりがない。その原初的光景は母親との離別に敏感な嬰児においてすでに観察される。嬰児は栄養供給源たる母親が失われることで、安全な生存圏が剥奪されると感じて泣き叫ぶのだ。対象の喪失は世界そのものの喪失に等しいことがよくわかる事例だ。「喪失された世界」という現実を吟味し、適度な時間と距離感でもって、心身が解きほぐされていく過程こそが「喪の作業」である。人間には不可欠な「喪の作業」だが、個人よりも集団的なレベルでは困難さが増すだろう。それゆえ、カタストロフィの問いは、個々人の「喪の作業」と集団的な「喪の作業」との不一致に関わるだろう。

福地ひかり
死の職業化、施設化が進んでいることは、都市の発達や個人主義の考えが広がっている結果なので、否定はしない。都市にコミュニティを生み出して社会で死者を弔うということの方が現実的ではないため、葬儀屋が葬儀をすることは妥当な線であり、病院が最期を迎える場になるということも、医療の発達により当然のことだと思う。しかし、人の死に対する悲しみが消えてしまうのだけは絶対に起きてはいけないことだ。葬儀場の中が異常にきれいで新しいことや、電車の中の見かける、死ぬ前に自分で墓を決めておこうという墓場の広告に違和感を覚えることがある。公園のように整備されている墓場、時には室内に墓が保管されているものもあるようだ。残された人たちが死に直面しても清らかな心でいられるようにしているのかもしれないが、逆に人々は真正面から死に向き合えなくなる。死を美しく見せようとするために、葬儀が結婚式の披露宴のように感動的に演出するのが一般的になってしまい、人が亡くなっても自然に涙が出てくることがなくなることを恐れることはおおげさかもしれないが、死を商品化しようとする現代の中で文化や人の感情を大事にするにはどうすればよいのだろうか。

倉富聡
西山先生がおっしゃっていたように、「喪」という概念はある種二項対立的に、二つのことに集約されるだろう。講義では生と死、プラスとマイナスで議論されていたが、私は日常/非日常の二つの概念で考えていた。「喪」の作業とは、親しい人の死によっておおきく変化した世界そのものに対処するやりかたではないだろうか。つまり、非日常に対する振る舞いである。それは、誰かの死によって変化してしまった「日常」を取り戻そうとするシステムでしゃないだろうか。しかし、亡くなった人、失ったものは決して戻らないため、世界は決して同じものになることはない。ゆえに喪の作業によってはかられることが世界の復活、または再構成であったとしても、話は一筋縄ではいかない。例えば東日本大震災を例にとったとして、我々は世の中が行った「喪の作業」の効果によってあまりにも早く「日常」が戻ってきたこと、またはその取り戻された「日常そのもの」に違和感を覚えたりした。決して戻ることのない「日常」が、表情一つ変えずに戻ってきたことに恐ろしさを感じる。しかし、その不気味さこそが「日常そのもの」だったような気もする。我々は今、日常を生きているのか、非日常を生きているのか。そのことを改めて考えなければ、「喪」の時間を相対化することなどできないのではないだろうか。

井上優
今回の発表は、身近な人を亡くしたときに人はどのような行動をとりどのようにそれを受け入れていくのか、そして喪の悲しみが引き起こすトラウマなど精神の病について、喪に服した経験のある者として納得できる点も多く、わかりやすい内容だったように思う。特に喪の悲しみの経過として、人は訃報を信じることを拒否したり真実から逃げる傾向にあるという行動は、ごく一般的なものだと思ったが、ここでふと、津波の被害者のことを考えた。震災による津波の被害者の中に、死者ではなく「行方不明者」として扱われた人も多かったはずだ。きちんと遺体が見つかることがないと、訃報を信じるとかいう以前に、自分の前から姿を消した人のことを「死者」と見なすべきなのか、見なしてもよい のかという葛藤が生じるだろう。おそらく時間の経過とともに遺族は死を受け入れるようになるのだろうが、その人が亡くなったという明確な事実がない限り、「あの人は死んだんだ」と自分で思い込まなければならない心の負担というものは相当なものだろう。もしくはそう思い込む方が楽になれる場合もあるのだろうか。こうした場合に人はどのようにして喪に服すのだろうか。

柳沼伸幸
 今回のテクストは、喪の悲しみについてふだん何気なく行っている事柄に対する、腑に落ちる説明であるという感想を持った。喪には沈黙が必要であり、喪はある種の反復であるという記述を見て、瞬時に仏壇の前に座る、あるいは追悼のメモリアルを訪問するイメージが湧いた。喪は繰り返される。後者であればそれは不特定多数の人々に依りさえする。この文脈からすると、本文にはいくつかの疑問が残るのも事実だ。儀式によって生者と死者を厳密に分かち、罪悪感を弱め、喪の期間を短縮すると書かれていたが、果たして「喪の期間」は短いほど良いのだろうか。そもそも喪はある種の反復であるとされていたはずであるし、その反復によってこそ罪悪感や悲しみは癒されるのではないか。そうであれば儀式は常に行われているはずだ。毎朝、毎夜と仏壇の前で。あるいは人々が訪れるメモリアルで。「儀式」は「葬儀」に限定したことではない。むろん仏壇やメモリアルが葬儀の延長であったにせよ。

鈴木奈都子
原初的な喪としての母との離別の悲しみの話が印象的だった。そこで私にとってとくに興味深かったのが、離別・執着と喪の関係についてである。執着とは高等生物が生き延びるための中心的手段であるが、母という子供にとって絶対的な安全圏との離別という悲しみを乗り越えることなしに、人が生きていくことはできない。ここで私たちが意識させられるのは、「生き延びる」ことと「生きる」ことの違いと、生き延びる為の執着・生きる為の離別(そして喪の悲しみ)という図式であるように思う。しかしこの図式にねじれが生じてしまったのが福島第一原発事故により避難を余儀なくされた人々なのではないだろうか。彼らにとって、生き延びるために必要なのは失われた故郷との離別と喪の作業によって故郷を内面化する事であり、心が生きる場所である故郷への執着とは死をすら意味する。(避難しないという選択をした者への批判さえ存在するさなかの、「僕たちは息をしてさえすればそれでいいのか?」という南相馬市に暮らす私の恩師の言葉はあまりに痛切にその苦痛を訴えていた。)このようにねじれた状況においての個々人の喪の作業が幾多の障害を孕んでいるのは言うまでもない。本来喪の作業は「生きる」ための行為だ。「生き延びる」ことの反対側にある「生きる」に寄り添うということは死に寄り添うということである。そしてその役割を担う最たるものこそが文学、哲学をはじめとする人文学であり、生き延びる為に生きているわけではない私たちが考えるべき課題であると考える。