すべてを破壊し、すべてを再生させる水――洪水伝説と永遠回帰の神話

(2012年6月27日)

世界各地の神話や伝承において、破局はしばしば大洪水として表象されてきた。「自然の悪」がいかに表象され解釈されてきたのかを考察。
テクスト:ジェイムズ・ジョージ・フレイザー『洪水伝説』星野徹訳、国文社、1973年。篠田知和基・丸山顕徳編『世界の洪水神話―海に浮かぶ文明』勉誠出版 、2005年。M・エリアーデ『永遠回帰の神話』未来社、1963年。

発表者:柳沼伸幸(法学2年)、藤井淳史(社会学2年)




洪水伝説

1. 大洪水に関するヘブライの物語――「ノアの箱舟」

・祭司説話とエホバ説話との比較
祭司資料→旧約六書を構成すべく結合された四つの主要な資料の中で最新のもの
エホバ資料→祭司資料に対し最古のもの
相違点:神の名称の違い、清い動物と清くない動物の区別、洪水の期間、洪水の原因、祭壇と犠牲

・ヘブライ・バビロニアにおける説話の相似
「神々の力が、大洪水を起こすことを決定する。どちらにおいても、その秘密はあらかじめひとりの人間にひとりの神によって啓示され、神はその人間に大きな船を建造し、その船に乗って自分の生命とあらゆる種類の動物の種を救うようにと指示する。~どちらにおいても、主人公は助かったことを感謝してその山の上で犠牲をささげる。どちらにおいても、神々は香ばしい香りを嗅ぎ、怒りがなだめられる。」(『洪水伝説』41-42頁)
→両伝説は別個独立したものではなく、一方から派生したか、あるいは共通の原型から派生したかのどちらかである(祭司説話・エホバ説話のバビロニア説話への接近)

2. 大洪水に関する古代ギリシャの物語――「デウカリオンの洪水物語」

ギリシャの様々な土地がデウカリオンや大洪水と特別な関係があったという名誉を要求
アテネとヒエラポリス 小アジアのキボトス

・ギリシャの物語とバビロニア版との相似
デウカリオンは嵐が止んだか否かを判断するために箱舟から鳩を放した
ギリシャの伝承…三つの大変動(内一つがデウカリオンのもの)
オーギュゲスの時代→ノアの洪水(あらゆる洪水の中で最古のもの)以前に大洪水発生
これに対してキリスト教徒が反応 アフリカノス、イシドーレ

ダルダノスの時代
大洪水によってペネオスを追われる。ペオネスはコパ湖と類似した自然条件が存在し、これによって水の氾濫が起こった。
サモトラケ島の伝承:それに対する地質学からの反応
水の浸食作用という真の原因ではなく、火山のようなエネルギーの突然の爆発に帰した
デウカリオンの洪水に関するテッサリア地方の物語とダルダノスの洪水に関するサモトラケ島の物語は、自然地理の事実から引き出された推論に過ぎない →歴史的伝承というよりはむしろ観察にもとづく神話



3. 各伝説から導き出されるもの

ただ一度の種蒔きによって~まさしくこのぜいたくな生活のために神の怒りを掻き立て、大洪水を起こして罪人どもを減らしてやろう神に決意させたあの罪、特に放恣や強欲というあの罪の手中へと人々は迷いこみ、誘いこまれたのである。(45)

ルキアノスの叙述:「現在の人類は最初の人類ではない。完全に滅び去った別の人類がいた。私たちは二度目に現れた人類で、デウカリオンの後の時代に殖えたものである。洪水以前の人々については、彼らは極度に邪悪で手に負えなかったと言われる。~このためにあの大変動が彼らに襲いかかった。」(53-54頁)

滅ぼされる人類はその悪行により神の怒りを買う。人=悪の図式
限られた(選ばれた)人間のみが生き残る→洪水は天罰であり天災

「ゼウスは彼にヘルメスを遣わし、望みのものを彼に選ばせたが、彼は人間が生じることを望んだ。そしてゼウスの命令で彼は石を拾い、頭越しに投げた。するとデウカリオンの投げた石は男となり、ピュラーの投げた石は女になった。」(50頁)
人類は一度滅んでいるという前提→再誕、再生?




ミルチャ・エリアーデ『永遠回帰の神話』、「第3章 不幸と歴史」

苦悩の正常性
古代人はどうやって大災害等の「苦悩」に耐えてきたのか?
古代人:近代的な時間の観念(均質で空虚な時間)×
:儀式や儀礼によって宇宙的リズムと調和○
→死と復活の神話的ドラマ
「正しきもの」は最終的には救われる→洪水のあとには新しい創造が続く=循環する

「苦悩」には必ず理由があるという考え
Ex)隣人の悪意、タブーの侵犯等
→呪術宗教的措置をとり、解決を図る。
それでもおさまらないとき…天の至上神の怒りのせいとして解説される
→理由があるからこそ耐え忍ぶことができる≠不合理なもの
=苦悩と歴史的事件に「正常の意味」が与えられる

また、古代人にとっての「苦悩」は一つの意義を持っていた。
Ex)キリスト教倫理…「苦悩」を積極的に支持

神の示現としてみられる歴史
上記のことに対するユダヤ教、キリスト教に見られる、循環の否定、終末論について
ヘブライ人…破局のたびに、ヤーヴェの怒りを感知≒伝統的思想
しかし、すべての破局がパーソナルな(固有の)神の意志表現とされる 
→時間のなかに神の示現(啓示)を見つける⇔伝統的思想においては神の示現は神話のなかで起こる
Ex)モーゼの十戒・・・ある決定的瞬間に起こっている
→歴史的事件が宗教的意義(神の示現=啓示)を獲得・流れる時間を発見(こうしたことはだんだん民衆の間に浸透していった。)
=メシア主義:循環の可能性を否定
→メシア的観念は宗教的エリートの独特の創作→伝統的思想からの差別化(選民思想)
しかし、民間層(農耕社会)には浸透せず→メシア的思想は宗教的緊張が強すぎるため、至上神の怒りへの恐怖のみが残る



信仰の誕生
Ex)アブラハムの供犠
→伝統的観念と宗教的体験を通して獲得された新しい信仰
伝統的思想:供犠は単なる慣習
アブラハム:イサクを供犠にする=信仰の行為
→ヤーヴェとのパーソナルな関係→一見不合理だが、行為そのものが正当性を有する→信仰の誕生

歴史的事件と時間の不可逆性は歴史的時間の限界づけによって償われる
伝統的思想:循環により歴史を拒否(現在しかない)
メシア思想:未来において歴史は終焉する

宇宙の周期と歴史
さまざまな宗教の歴史に対する拒否態度

1)永遠回帰の神話型
Ex)インドの伝承
・宇宙の時間の周期性(創造―破壊―新生成)の無限ループ
・「暗黒時代」に生きているという考え
→上記二つの事柄への恐怖から、時間からの逃避を志す
Ex)解脱
⇔伝統伝承文化的観念

2)終末論的思想
ヘレニズム的文明…永遠回帰の神話に頼る
→ここから離脱した少人数により哲学的神話が展開
Ex)ストア派によるエピクロース

こうした終末論は伝統的宇宙循環説にとってかわったのか?
ユダヤ教…終末までの具体的な期間を示さなかったため、完全には駆逐できず⇔インド

キリスト教…悔い改めることで、現在が終末に。→“信仰”という全く異なる宗教体験
=世界の周期的再生→個々人の再生へと置き換える



運命と歴史:宇宙に対する人間のどうしようもない矮小さ
→避けられない歴史的運命≠宿命論
終末論的教義
個人の運命だけでなく全体の歴史的運命に関する疑問にも対応
個人:歴史から逃避可能/全体:最後の破滅から逃避不可能
→再生を求める古代神話への復帰を切望
Ex)アウグストゥスによるローマ黄金時代、聖アウグスティヌスによる永遠の都(ローマ)
→自らを別の永遠のなかにおくことで、古い永遠回帰のテーマを超越

疑問:逃避のための終末論が拒否され、再生を求める古代神話へ復帰しようとするのはなぜか?


コメント

西山雄二
永遠回帰する円環的時間にもとづいて、直線的に無際限に発展し続けることができるならば夢のようだ。核燃料サイクルは、こうした人間のエネルギーへの無際限の欲望を象徴する試みだ。使用済みの核燃料からプルトニウム(猛毒の危険物)やウラン235を抽出し、再び核分裂を起こして、際限なくエネルギーを取り出すという究極の理想。永遠回帰の神話において、人間は自然の循環リズムを規範として、神話祖型を創作し、これに適応する形で社会秩序を営む。だが、核燃料サイクルの新たな技術神話において、人間は自然の循環リズムそのものを再編し、自らの無際限な欲望に適応させようとする。しかし、日本の核燃料サイクルは技術的に破綻し、高速増殖炉もんじゅは開設以来20年間電気を発電することなく故障し続け、毎日5000万円の維持費を浪費している。自然の永遠回帰に倣うのではなく、永遠回帰を技術的に手に入れようとする人間の我欲が垣間見える。

下東香月
 『洪水伝説』では、『ノアの箱船』に関する祭司資料とエホバ資料の類似点と相違点が列挙されていたが、筆者が述べたいことが理解しづらかった。その中でも興味を引いた点は、祭司資料においてモーゼの啓示の前と後では、神と人民の関係が変化していることなど、あらゆる点で変化があることだった。大洪水に関しては人民の罪に対する神の怒りであると同時に神聖な事象とみなされていて、大洪水が生じた場は聖地のような扱いをされている。そして大洪水の後の人類は、第2の人類であり、全く違う世界とみなされていたようだ。モーゼの啓示も大洪水も歴史的事象として大きな意味を持ち、神と人との関係、人類までも変えている。
 『永遠回帰の神話』で、これらの事象に対する理解が深められた気がした。本作品では、「苦悩」を耐え忍ぶために永遠回帰ではなく、終末論が採用されていったということが述べられている。終末論では、神によって終末がもたらされるという解釈がなされる。だからこそ、大洪水は必然として受け入れられ、また神がもたらしたものとして神聖化される。
 なぜ終末論が永遠回帰よりも人々に受け入れられたかが問題となった。私は終末論における終末が完全な終末ではないように感じた。終末論では、終末は大洪水のように世界を更新する出来事であり、永遠回帰のようにまた繰り返されるものと考えられていたのではないだろうか。ただ永遠回帰と違うのは、歴史的事件ごとに終末という区切りを与えることで幻影的な世界を生きるのでなく現実を生きているという自覚を与えているということにあると私は感じた。人々は歴史を現実として受け入れるために終末論を採用したと私は思う。

鈴木奈都子
人々がカタストロフィをどのように解釈し、どのような歴史的時間の設定の中にどのように位置づけてきたのか。『永遠回帰の神話』においてはこの問に対して、歴史的時間設定のモデルとして、古代人による伝統的思想においては宇宙的リズムと調和した循環(円)のモデルが、終末論的思想においてはその循環から離脱した線形のモデルが与えられている。しかし私はこのモデルの設定は、キリスト教における終末論が古代人の時間の観念に対するアンチテーゼであることを前提とした、恣意的なものなのではないかと感じた。そこに生じる矛盾としては、「未来において歴史は終焉する」という命題の否定として「循環により歴史を拒否(現在しかない)」という表現が用いられているが、古代人の時間の観念においても(創造―破壊―新生成)のループというリズムがある以上、つねに現在一点しかないという解釈はできないのではないか、という点が挙げられる。もしキリスト教がこの循環の中ではいつまでも救済されることのない弱者を救済するため、終末論によって循環に楔を打ったと仮定するならば、それによって生じるのは過去・未来の否定ではなくループするリズムの回避であろう。それによって弱者は繰り返す苦悩から解放され、信仰によって現在において救済されうる。しかし恣意的であるとは言った二つの時間モデルの設定であるが、解釈の仕方の一つとしてはわかりやすく、そのモデルに原発に頼る/頼らない社会の図式を当てはめる見方もなるほどわかりやすいと感じた。しかしあくまで客観的な解釈の一つではあると思う。

聡倉富
人類が襲い掛かる大災害をどう解釈しようとしたのか、それにどういう意味や物語を付けようとしたのか、その原型が洪水伝説には現れている。そこで私が注目するキーワードは、罪、破壊、救済、再生である。罪は、人類の罪。レジュメでは人間=悪という図式が示されていた。これは原罪的なイメージであろうか。罪は神の怒りを買い、天罰を呼び起こす。これによって破壊=洪水が起こるが、必ずここで救済される者がいる。キリスト教においてはノアであり、今現在の人間はみなノアの子孫であるとされる。そして生き残った者たちによって新たに世界は再生される。しかし、ここで一つ疑問が残る。なぜ万物の創造主である神は、全能なる神はそのような罪深き人間をつくり、また再生の作業を自らやらなかったのであろうか。キリスト教における時間感覚は歴史の終焉を信じるメシア思想的終末論であるが、ここで神は円循環的な繰り返す時間間隔を想起していたのではないか。そしてイサク奉献における議論と同じものが考えられる。つまり、人間の罪深さも、繰り返されるであろうことも、神は理解していたうえでやっていたのではないかということである。また罪が繰り返されるからこそ、終末が、最後の審判がくるのであり、救世主も意味をなしうるのである。つまり円循環的宇宙時間の捉え方(主に仏教など)と、終末論的歴史の終焉という時間間隔は、ちょうど超巨大な円の弧が直線に見えるようにどちらも不可分である気がする。

大江倫子
前回に続いて社会人類学の視点から、古代の大洪水伝説について報告があった。洪水伝説の含意はまず「天罰」という応報思想、次に「再生」である。前者は特定の倫理観や社会構造を前提にしてはじめて意味をもつ経験的事実的観念であるのに対し、後者はあらゆる主体において超越論的に把握される観念である。また宗教的含意は、円環的回帰思想とユダヤ・キリスト教的終末論に大別されるが、いずれも根源的古代思想から派生したものであり、「再生」がそのもっとも根源的根拠であって、特定の宗教の影響下にない人をも包括する存在論と連接する。これこそがカタストロフィの基本思想であることをまず認知する必要がある。さて宗教や古代思想について学ぶことから、私たちはどんな力を習得するのだろうか。たとえば、政治と宗教を混同したり、事実と超越論的なものを同一化したりして大衆を幻惑する勢力の戦略を見破ること、また私たち各々の生はすべてある犠牲の上に成り立っていることを認知すること、こうしたことを私たちは去年のゼミで学んだはずである。