高木仁三郎「聖書は核を予見したか」(『原発とキリスト教』新教出版社)
(2013年1月23日)
発表:久津間靖英(仏文修士2年)



・三つの論点
1)聖書の中に後の核開発につながるような本質があったかどうか
→聖書において人間と自然との関係、人間の知識、人間そのものがどのように描かれているのか
2)聖書はそれを予見していたかどうか
3)今日的状況に対して、人類と生きとし生けるものの生存のために聖書がいかなる有効性を持っているのか

・支配者としての人間
天地創造の際の神の言葉(「創世記」第一章)
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」(第二十六節)
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ、海の魚、空の鳥、他の上を這う生き物をすべて支配せよ」(第二十八節)
→人間による自然の支配の許可
 人間の自然に対する傲慢な態度(人間による自然の破壊行為)の正当化へ



・管理者としての人間
ゲルトハルト・リートケ『生態学的破局とキリスト教』
エコロジーの立場から聖書の読解を試み、洪水伝説(「創世記」第六章から第九章)に注目

洪水後の祝福の言葉(「創世記」第九章)
「あなたたちの手に委ねられる」(第二節)「あなたたちに与える」(第三節)
→「支配」という言葉が使われていない
 「地の支配者」から「被造世界全体の管理者」へ

・人間の持つ膨張的な性格
洪水の原因(「創世記」第六章)
「主は地上に人の悪が増し、常に悪いことばかり心に思い計っているのを御覧になって地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(第五節、第六節)
→人間の知性と欲望の体系の異常な発達、自然の中での人間の突出の感知

洪水後の契約→×選ばれた者の特権としての契約
○人間の悪、傲慢、堕落(人間の膨張的性格)に対して厳しい制約を課し、人間の生存を保証する契約
管理の「権利」を持っているのではなく、管理の「責任」を負わされた人間



・リートケが問題にしきれていないこと
1)人間の暴走を食い止める手段として洪水が選ばれたということ
洪水=異常気象
→人間の暴走が全地球的な環境破壊を招くことを予見
2)洪水を生き延びる手段が、箱船という技術的手段であったということ
→西洋における技術の解決能力への信頼(技術的可解決主義)の前進へ
 神の怒りをも恐れぬ技術の恐ろしさの予見

・天上の世界と地上の世界
聖書:第一章の天地創造以降、「天」の話しはなく「地」に関心が集中
→地上世界中心的

天の理と地の理の区別
天:核反応による消滅生成を繰り返す
地:核の安定、質量不変

地の守り人としての人間が超えてはならない三つの領域
1)地球場 ex. スペースコロニー建設
2)生態系 ex. 生命操作
3)原子の安定性 ex. 原子力



・「ヨナ書」とイヌイットの伝承
大魚に飲み込まれたヨナとクジラに飲み込まれたカラス
→生態学的破局を前にした人類の姿

ヨナ:神に祈りを捧げ、神の力のよって生還
カラス:好奇心からクジラを殺し脱出、人間となりクジラの殺害を自慢、「たいした人物」として認められる
←どちらのほうが人間の本質、人間の今日的状況をより的確に表していると言えるか?

・エコロジーの視点から見た「ヨブ記」
神の弁論(「ヨブ記」第三十八章)
「地の基いをわたしがすえたとき君は何処にいたか」(第四節)
→創造世界の中心から追い出されたヨブ
 人間の侵し得ない領分の存在の描写、天の理と地の理の区別

ヨブの苦しみ=己の領分に留まり、自らの膨張的性格と戦わねばならない人間が宿命的に陥る苦しみ
ex. ナチスに対抗するための核開発の正当性の問い

※リートケ『生態学的破局とキリスト教』第五章「旧約の創造に関するテキストの生態学的解釈」

・生態学的立場
「生態学的釈義とは何を意味するのか。——この見出し語は、以下の今到達した見解に対して責任を負うべきものである。われわれは自然との間に人間が疑いもなくもっている隔たりを厳粛に受けとめなければならないだけでなく、それと同様——これまで極度に隔たりの壁が強調されてきたことにかんがみ——それ以上に、人間が自然の中へと埋めこまれていることを前提としなければならない、というのが、その見解である。その関心がこのような仕方で従来の釈義と異なり、自然を人間のokios〔家〕とし、人間を他の生物のokiosに属するものとみなす釈義、それを私は生態学的釈義と命名する」(リートケ『生態学的破局とキリスト教』、144頁)

運動、思想としてのecologyの起源→19世紀中頃
1)ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケル(1834-1919)による造語Ökologie
oikos(住居)+logos(言葉、論理)
ヘッケルによる定義:有機体とその環境の間の諸関係の科学
→人間の相対化、一元論
2)エネルギー経済学
熱力学第二法則の発見→限りある資源
資源の公平な分配、土地生産の最大化
→管理や規律の重視、全体主義的傾向 ex. ナチスとエコロジー
(参考文献:アンナ・ブラムウェル『エコロジー——起源とその展開』金子務監訳、河出書房新社、1992年)

・天地創造
生活空間と生物の相互運用に基づいた被造物の配列
天−星、海−海の生き物、大空—鳥、地(植物を含む)—獣と人間
一つの生活空間内に存在する獣と人間→抗争の可能性

抗争の勃発を回避するための二つの調整
1)食料の割当
獣:緑の草/人間:種を持つすべての草、実を結ぶすべての木(穀物と果物)
→人間には屠殺が許されていない
2)祝福の言葉「産めよ、増えよ、〇〇に満ちよ」
この言葉で祝福されているのは海の生き物、鳥、人間だけ→地の獣の数は一定不変

「これら二つの調整の後、なお抗争の材料として存続するかもしれないものが、dominium人間の「支配」において調整される」(同上、172頁)→公正な裁きを下す王としての支配

・洪水伝説
堕罪を経た人間(「創世記」第六章)
「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた」(第十一節)
→可能性のうちに留まらず、勃発へと至った抗争。抗争の勃発(人間の暴虐)を前提といた祝福への更新

新たな祝福の言葉(「創世記」第九章)
「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食料とするがよい」(第三節)→屠殺の許可
「あなたたちの前に恐れおののき」(第二節)→王としての支配から戦いの勝利者としての支配へ

相互的保護装置
「また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する」(第五節)
「ただし、肉は命である血をふくんだまま食べてはならない」(第四節)
→人間と動物の抗争によるどちらかの滅亡を阻止するための保護。抗争の中での連帯


久津間靖英
 著者の「ヨブ記」のエコロジー的読解は大変興味深かった。彼はこの解釈を通じて、今日の生態学的破局に対する人間の責任と、そのことに関する人々の意識の低さを批判している。ヨブの苦しみの普遍性を主張する解釈は山のようにあるが、エコロジーの思想を用いた著者の解釈は独創的であり、十分な説得力を持っている。彼のこの主張は人々に対する警告であるとともに、エコロジーの考え方を前提とした上での、自然の中における人間の主体性の位置づけの試みでもあるのだろう。ゼミの中でも述べたように、エコロジズムは人間と自然の関係について矛盾を抱えている。著者は他の著作において、エコロジズムに適った人間の主体的な営みとして、自然を素材と見なさないような労働と、社会のシステムを自然のシステムと溶け込んだものに変革するための社会運動を挙げている。今回の「ヨブ記」の解釈も含めたこれらの記述がエコロジズムの矛盾を完全に解決できているとはもちろん思えない。そもそもエコロジズムの抱えるこの矛盾を単に解決すべき問題点として見なすことは間違いであるだろう。何か一つの思想や概念について考察を深めていくとそれが抱える矛盾にぶつかることを、私たちは今期のゼミの始めに社会運動について考えた際既に経験している。そうした矛盾はその思想の本質そのものなのかもしれない。エコロジーが資本主義の一部と化しつつある今日において、エコロジーの抱えるこの矛盾こそがエコロジーを改めて生き生きとしたものにしうる可能性なのだろう。
 昨年度の前期にこのゼミに参加して以来、いままでに何度か発表を担当させていただいたが、その中でも今回の発表は学生生活最後の発表ということもありとても楽しかった。準備のために様々な本を読んでいく中で、今までこのゼミで学んできた様々なことが今回の発表に関連づけられることに次々と気づいていった、あの時の興奮は忘れがたい。貴重な機会を下さった西山先生、また稚拙な発表にも関わらず最後まで聞いてくださり、鋭いご指摘をいただいたゼミの皆様に改めて感謝の思いをおくらせていただく。

鈴木奈都子
最終回は、前後期を通してゼミで学んだ事・感じた事が要所要所で思い出される内容だった。ヨブ記を読んだ際にはそこに貫かれるリアリズムに圧倒されたが、今回のゼミ、特にリートケ『生態学的破局とキリスト教』に解説される、理想を語りつつもそれとは相反する人間の本質を認め、そのバランスの中で自然・動物と連帯をはかりながら人間は生きるべきだとする旧約聖書の態度にもまた、事実から目を背けず受け入れた上で我々はどう生きるべきかという誠実に世界と向き合うための知恵が記されていると感じた。誠実さ、というのはこのゼミを通して私が最も考えたことでもある。「ペストと戦う唯一の方法は誠実さ」であるという。誠実さとは一体何なのだろう。その答えが見つかったわけではないのだが、「生きることに不安」であるというのは一つのカギなのかもしれないと思う。カタストロフィを体験した人の心を他者が完全に理解する事は不可能だ。しかし、我々はみなカタストロフィとともに生き続けなければならないという現実をしっかりと見た時の不安さには誰も嘘はない。私たちは自分の生を孤独に見つめたときの切なさや不安においては嘘偽りなく繋がることができるのではないだろうか。私はこのゼミによって、自分が生きていくということを見つめなおすという作業が自分なりにできたように感じる。そして以前より少しでもカタストロフィに対して誠実であるということに近づけていたらと思う。

井上優
 最後の講義は、聖書という普遍的なテキストからいま一度人間と自然のあるべき関係を問い直すことのできる内容であった。創世記では、神は人間が優位に立ち自然を支配することを許可していたのに、ノアの洪水後、傲慢な人間に制約を与えるために自然を管理する責任を負わせたということが興味深かった。自然を支配する権利を得た人間の悪を戒めたこうした神の契約の更新は、現在の人間の姿を予見していたもののように思えて仕方がない。しかしこうして初めの契約を覆した神は、ある意味で人間を見放しているようだ。これ以上奢り高ぶって自然を好き勝手に扱う人間に、もう神は何も言ってくれないだろう。神が地上に残した相互的保護装置を現在の人間と自然の関係にも取り戻すことが必 要であるが、ここまで人間の知恵や技術が発達してしまった現代において、それはどんなものであり得るのか、どのように機能するのか考えるのはやはり難解な課題であると思う。
 年間を通して、このゼミは異なる学年の様々な学部の人が集まりいろいろな人の意見を聞くことのできる貴重な場であった。普段は少人数な仏文の専門の授業ばかり受けていたので、このゼミではいい意味で緊張感を感じることができたし、カタストロフィという一つのテーマについても表象や社会学、人文学や哲学などさまざまな分野で考察することができ、人文学を学ぶ面白さというのを改めて感じることができた。

倉富聡
 今回のゼミで私は、レヴィナス、デリダ、そして東日本大震災を経てこのゼミで検討してきたことに一つの帰着点を得ることができた。それは神と人の関係、つまり人は人を超越して、世界をどう捉えうるかということである。イサク奉献・創世記・ヨブ記などを通して人と神の関係を考えてきたが、今回のゼミの文脈で整理すると、神の領域と人の領域はどう定義できるかということを考えた。高木任三郎は、天と地を原子の安定性で分けてみせたが、原子力関連の科学者としてでもこれはあまりにも安直だと思う。しかし、彼が示した論点は非常に重要だ。では我々は天を、超越者をどう定義し得るか。その論理的整合性を求めることは不可能だ。単純なことではあるが、人智を超えたものを人智で理解しようとするのは不可能である。天地創造の場面では人間の生活空間を基準に被造物が配列されていた。聖書では神によって人間の生活空間=人間の領域の定義がなされていたのだ。聖書に見られる神の論理はすべて人間の文脈に沿った解釈である。では、神の領域とは、人間が膨張しやがて超えていこうとする「社会」と「世界」の境目とはどこなのであろうか。それはわからない。デリダが示したように、神は与えるのみ。神は応えない。決して到達し得ない絶対的他者なのだから。
 人はおそらく「社会」を超越しえない。人が理解し得る「世界」の姿は、「世界」の極限値以上にはなりえないのではないだろうか。人間社会の文脈を脱し得ないとしたら、人間はカタストロフィのような「世界の現前」に直面したとき、とことん人間中心に振る舞うことしかできないのではないか。こう考えたとき、私は漫画版『風の谷のナウシカ』を思い出した。ネタバレになってしまうので漫画の詳細には触れないが、最後の巻で世界の秘密を知ったナウシカの行動こそがまさにこの結論を示していると思う。それはナウシカのエゴなのか、絶望の中で希望を見出さなくてはならない時の人の本能なのか、様々な議論はあるが答えは出ていない。ここから先のことについては来期のテーマ、救済・希望において改めて考えていきたいと思う。

柳沼伸幸
 今回に限らず、後期のゼミでは「人間と神」について考えるところが多かった。現代に生きる私の実感としては、神の不在は前提のように考えていたため、神をめぐる様々な考察は非常に新鮮だった。その中で、神の不在によって神の領域を侵す必要が出てきたという側面があるのではないかという結論が生まれた。もはや私たちの前には神は存在しない。しかし信仰がいつの時代にもあるように人間は拠りどころを求めずにはいられない。これは現実の感覚としても理解できる。私たちは自らの信じる様々なものに絶対性を求め、それに接近しようと試みるが故に生きていくことができているといっても過言ではない。仮に絶対的なものが目の前から姿を消してしまったら、他の絶対的なものを求めずにはいられない。科学技術の発展信仰にはこのような要因もあったのではないだろうか。そしてそうであるならば、人間の文明としての進歩や発展は神が死んだからあるとも言える。だからこそ私たちが日々よりよく生きようとすることは、失われた絶対性に迫ろうとする、神の領域を侵す暴挙なのかもしれない。そして、その暴挙の中にこそ救いが隠されているのではないだろうか。
 法学系の授業はその科目の性質からソクラテスメソッドを採用することが難しくなっています。その中でこういった対話式の授業は心惹かれるものがありました。教員のレスポンスがあるだけでも学生としては充実感があります。内容については、私たち社会科学分野の学生はまず構造を学んでその中で思考していくのですが、人文学ではその構造の裏にある思想や哲学を思考するので、普段、構造としか考えていなかった物事を掘り下げる楽しさを感じられました。その中で自分の考え方を上手く転換することができなかったこともありました。もちろんこの思考枠組みの転換自体も面白かったです。授業形式に話を戻しまして、少し意見を述べさせていただきますと、一回の授業に一冊は負担が大きい時期もありました。テクストの重さにもよりますが、一冊を二回、三回で少し調整していただけるとより良い授業になるのではないかと思います。

市岡あやな
今回、『聖書は核を予見したか』を読み、「聖書」の面白さ、内容の豊かさ、重要さ、そして解釈の自由についてもあらためて認識させられた。はじめは、なかなか思い切った解釈だと思った。だが、読んでみて、ひとりの科学者の思い切った勝手な聖書解釈だと片付けることはできなかった。人間の負わされた地の守り人としての責任についての話はなかなか印象的であった。ヒトラーの原爆に脅威を感じた科学者の核開発、この毒を以て毒を制するような行為も大きな「責任」の問題を孕む。この核開発は、守る者としての行為であっただろう。だが、そのためにずっと未来にまで続く大きな傷を残した。こういった苦悩は絶えず連続する。最後の段落は、胸を打つものであった。今、聖書の新たな側面に光を当て、弱味を弱味として認識した上で時代の中に甦らせていくこと、核をはじめとする様々な問題に対していかなる姿勢で受け止めるかということ。これが書かれた時点で彼は「ぐずぐずしている時間などない」と主張している。日々の生き方を自分自身に問うことを諦めてはいけないと感じた。

伊藤玄
「抗争の中での連帯」というワードが印象に残った。その中で、「誰が誰を抗争のパートナーとするのか」という、「主語」の問題について疑問に感じた。講義中に「抗争の対象というのは、「モノ」も含めた全てである」という指摘を受けたが、現状においては、抗争のパートナーを決定する境界線というのは存在し、その線は常に変動しているように感じる。フクシマの例に当てはめると、彼らはかつて、境界線の内側(抗争のパートナー)であったが、3.11以降の彼等は、私たちから見ると、境界線の外側の存在になってしまった。しかし、フランスのテレビ番組で、サッカー日本代表選手の画像を見た、出演者の原発事故の被害者を揶揄する発言があったように、海外からみれば、日本人全員が「境界線の外側の人間」に見えてしまうこともある。私たちは、境界線をつくることも、内側や外側に移動させられる可能性もある、ということを認識し、他者との関わりのなかで、連帯するパートナーとの適切な関係性を探していくべきではないだろうか。

小島裕太
久津間先輩のプレゼンテーションは非常にわかりやすく密の濃いものであり、自身を省みるための参考にさせていただきたいと感じた。以下の二つについて。一つ目にイヌイットの伝承、カラスについての話。鯨の胃の中にいることは、常に死に瀕している状態である。このことは、文章を読んだときに私も感じたことであった。高木さんによれば、人々は苦難を背負わされ続けるべきである、とある。現状を顧みたときに、常に死に瀕している状態が理想の状態であるのかという疑問が浮かんだ。現在日本を覆っている、放射線による被害と恐怖は鯨の胃の中である。であるならば、我々は新たな技術によって放射能の恐怖に打ち勝ったとき。その時にさらに困難として降りかかる事象の原因は、またしても科学によるものになるのではないか。二つ目に、"eco-"について。有限のものを分配することによって成り立つ、という意味について考えたとき。「無から有は生まれない」という言い回しを思い出した。今ある全ての物事から何かを生み出すことが出来る、または今ある以上の物事を求めてはいけない、という意味合いである。今現在、科学では全く逆の事が起こっている。「空気から素粒子を」生み出していることはその代表例だろう。もちろんこのことは「無」という言葉の定義から考えなければならない(空気や酸素を有ととらえるか、というところ)。このような事を考えたときに、私たちが使う有限という言葉の意味合いはどこまでに及ぶのか、という疑問を思い浮かべた。以上二つの事柄が、今回特に気になった箇所である。

内田森太郎
 一年にわたって毎回内容の濃いゼミで、価値観や意識が何度も更新された思いがあります。どうもありがとうございました。
 聖書においては天と地は明確に環境が違っていて、それぞれの環境に暮らすものが越境する事はそうはないだろう。せいぜい、天の住人が地に堕ちるという一方向の移動しか起こらない。それは人が持つ天界、ひいては神性に対しての畏れが根底にある関係だと考えられる。その世界観に立って言えば、人が天の領域を侵してはならないという事は自明の掟となるだろう。だがこの掟は畏れを抱かない人間にとっては自分とは関係のない思想となるだろう。技術について天の領域と地の領域を想定する事は、人間が神にも及ぶほどの知恵をつけたという意味も持つ。高木には人は神の業を模倣してはならないから天の領域の技術を持ってはならない、という自説を絶対的なルールとして据えている。しかしこれには先の畏れの有無や、またどんな技術が天のものかという考えによって受け取り方の幅があるだろう。だから何かを強いて禁止させるルールの説得力は結局のところ受け手の属性に依存してしまう。核開発に対して信仰として忌避の感情を抱くことはおかしな事ではないが、同じ信仰を読者に期待して自分の考えを述べるというのはあまり褒められた態度ではないと思う。

吉田直子
 細部にまで行き届いた久津間さんの発表は、特に神学的視点からテクストを相対化するという意味で非常に参考になった。震災後特によく思うのだが、どんな科学的発見も要するに自然にある何かと何かを混ぜ合わせたり組み合わせたりすることで生まれる。そうやって発見されたものそれ自体は何の罪もない。世紀の発見といわれるものの多くは、狙って発見されるというよりも、偶然が重なった意図せざるものとして見出されることも多い。パンドラの箱は開くべくして開いたのである。原子力もまたしかり。原子力それ自体が悪なのではなく、原子力を発見したことそれ自体が悪いわけでもない。その発見を悪事に利用しようとする人間の側の問題なのだろう。このような人間のさがを棚に上げ、汚名をすべて原子力に押し付け、自分たちは何も悪くないという向きが多いような気がしてならない。おそらく何かが発見された段階で、それは原子力であろうが遺伝子操作であろうがIPS細胞であろうが、人間は皆、そのことに対して終わらない責任を負わねばならないのだと思う。

大江倫子
反原発運動に深くかかわる高木仁三郎の新たな聖書読解の試みは、エコロジー神学による聖書解釈のうちにその技術批判の根拠を探求するものである。しかしその依拠すべき理論を消化しきれていないため、あくまで「通常の意味」すなわち常識的共生に依拠しつつ地上の平和を訴えるしかなく、無力な批判に留まらざるをえない。他方で発表者が補足しているG.リートケの本来のエコロジー神学では、1960年代以降ハイデガーの技術論に触発され、デカルト以来の西洋主観主義の伝統がもたらす存在忘却、その破壊的効果を認知した上で、ハイデガー存在論に本来含意されている、事物をも含めたあらゆる存在者の存在論的側面への気遣いを基盤に、人間の自己膨張的本質を責任をもって引き受けることを選択する新たな神学である。それは「抗争の中での連帯」と表現されている。しばしば悲観主義とも言われるハイデガーの抗争の肯定は、あくまで表象における抗争であることに注目したい。またハイデガーの晩年の談話にも。「一番最初になすべきは、すでに述べたような問いを避けないことである。必要なのは、それらを熟考することである。おそらく、閉鎖性を破ることはまったく重要ではない。つねに 必要なのは、そのような思索は行動に先立つ前奏のようなものにすぎないのではなく、それ自体決定的な行動なのであるという洞察である。そもそもそういう行動によって人間の世界との関係が変化し始めるのである」