ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」(ちくま学芸文庫)
(2013年7月3日) 担当者:浅利みなと、川野真樹子

「「新しい天使」と題されたクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれていて、この天使はじっと見詰めている何かから、いままさに遠ざかろうとしているかに見える。その眼は大きく見開かれ、口はあき、そして翼は拡げられている。歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない。彼は顔を過去の方に向けている。私たちの眼には出来事の連鎖が立ち現われてくるところに、彼はただひとつ、破局(カタストローフ)だけを見るのだ。」「歴史の概念について」は第二次大戦が始まってベンヤミンがパリに亡命中、「パサージュ論」の概要を求められて書かれた二〇の断章である。史的唯物論とキリスト教終末論が参照されつつ、破局を引き起こしながら進展する歴史からの救済論が示唆される。




「チェスの名手である自動人形」=歴史的唯物論
「せむしの小人」=神学
「<歴史的唯物論>と呼ばれるこの人形はいつでも勝つことになっている。この人形は誰とでも楽々と渡りあえるのだ。ただし、今日では周知のように小さく醜くなっていて、しかもそうでなくても人の目に姿を曝してはならない神学をこの人形がうまく働かせるならば、である」→歴史的唯物論と神学の不可分性

Ⅱ.Ⅲ 
私たちが心に抱く幸福のイメージは、自分が生きている時代に制約されている。また、幸福のイメージは救済(解放)のイメージ、過去のイメージと強く結びついている。なぜなら、自分が生きている時代は過去の積み重ねの上にあり、まだ救済(解放)を待っている過去が数多く残されているからだ。私たちの世代と、過去の諸世代とには秘密の約束があり、私たちはメシア的能力を付与されている。過去は私たちのこの力に期待している。そして、人類は救済(解放)されたとき、過去のあらゆる瞬間を引用できるようになる。その日が最後の審判の日である。

→現在の幸福は過去の救済(解放)と不可分。
→私たちはあらゆる過去から救済(解放)を求められている。
→それが達成されたときに、最後の審判の日が訪れる。=全てが平等にとなる。

Ⅳ.Ⅴ
マルクスに学んだ歴史家の念頭にある階級闘争のなかには、必ず洗練された精神的なもの(確信、有機、フモール、策士の智恵、不屈)が存している。過去は、花が頭を太陽に向けるように、最も目立たない形で現在に頭を向けている。歴史的唯物論者はこのことを知っておかなければならない。

「一度逃したらもう二度と取り戻すことのできない過去のイメージとは、自分こそそれを捉えるべき者であることを認識しなかったあらゆる現在とともに、そのつど消え去ろうとしているイメージなのだ。」→あらゆる人々が過去から指名されている。→この事実への自覚と覚悟を促す。


伝統の存続と伝統の受け手が支配階級の道具となってしまうという危機の瞬間に現れてくる過去のイメージを確保することが重要だ。メシアはいつの時代にも伝統を奪取することを試みなければならない。敵が勝利を収めれば死者までもが危機にさらされるということを認識している歴史記述者にこそ、過去のなかにある希望の火花を掻き立てる能力がある。

「しかも、敵は勝つことを止めてはいない。」
→伝統(過去、歴史)が歪曲されて、支配階級の道具となってしまう危機。
→メシアとしての歴史記述者は、支配階級から伝統を奪取し、過去を解放しなければならない。


勝利者に感情移入して歴史をながめることは、いつの時代の支配者にも都合がよいものであり、非常に危険だ。勝利者は地に倒れている人々を踏みつけて行進していく。また、戦利品は文化財として伝承され、文化の記録となる。しかし、文化財は同時代の無数の人々の苦役も背負っているという点で野蛮の記録でもある。

「彼は歴史を逆撫ですることを、自分の使命と見なす。」
→勝利者や戦利品としての文化財は無数の抑圧や苦役のもとに存在するという野蛮性が内在している。
→歴史的唯物論者はこのことを公然のものとする。(逆撫でする)=過去を救済(解放)する


抑圧された者たちの伝統は常に非常事態にさらされてきた。これに適った歴史の概念を手に入れなければならない。それを手にしたとき、真の非常事態を出現させることが私たちの念頭に浮かぶ。進歩の歴史の規範には何らこうした哲学的な驚きはふくまれていない。
→進歩主義批判→歴史の概念(=非常事態の連鎖)の獲得は過去の救済(解放)へつながる。→「真の非常事態」=革命?




パウル・クレー「新しい天使」
「彼は顔を過去の方に向けている。」「彼はただひとつの破局だけを見るのだ。」
「ところが、楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へ引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。」

→痛烈な進歩主義批判
→天使の仕事=「死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせ」ること。
→引用されている『天使の挨拶』との関係?


「ファシズムに敵対する者たちが期待を寄せた政治家」=通俗マルクス主義者
①「かたくなな進歩信仰」
②「〈大衆基盤〉なるものへの彼らの信頼」
③「コントロール不可能な機構のなかへ隷属的に組みこまれた彼らのありよう」
→これらに「嫌悪の気持ちを抱かせる」ための考察

○人間の意志について
「人間は、各人が意識的に意欲された自分自身の目的を追うことによって、結果はどうなろうともその歴史をつくる。」→ベンヤミンが重視していた点

「肝要なのは、どんなに卓越した人間であろうとも個々の人間のもつ動機よりも、むしろ大衆を、諸民族全体を、そして各民族においてはさらにその諸階級全体を動かしている動機である。」
→マルクス、エンゲルスが重視していた点
→ベンヤミンの念頭には、こうした動機だけを追って、そのなかにある人間の意志を無視する当時の通俗マルクス主義者たちへの批判があると思われる。


・ドイツの労働者階級を堕落させた考え:流れにのっている=技術の発展
→労働とは「すべとの富と文化の源泉」
→この労働概念は、ただ自然支配の進歩だけを認めて、社会の退歩を認めようとしない  
⇒ファシズムの技術万能主義的特徴 →この労働は自然の搾取に帰する:自然は「ただでそこにある」


・歴史的認識の主体=戦う被抑圧者階級自身
=打ち倒された幾世代の名において解放の仕事を完遂する階級
・憎しみと犠牲への意志は、隷属させられた祖先のイメージから活力を得る

ⅩⅢ
・社会民主主義の理論と実践は、ドグマ的な要求を隠しもつ進歩概念によって規定された
 →進歩とは
1)人類そのものの進歩
2)完結することのない進歩
3)本質的に停止することのない進歩 
・歴史のなかで人類が進歩するという観念は、歴史が均質で空虚な時間をたどって連続的に進行するという観念と、切り離せない
 →この歴史進行の観念に対する批判こそが、進歩そのものの観念に対する批判の基盤を形成しなければならない

ⅩⅣ
・歴史は構成の対象であり、この構成の場をなすのは、現在時によって満たされた時間
 →モードとは過ぎ去ったものへの虎の跳躍:支配階級の権力下
・過去への跳躍=弁証法的なもの=マルクスにとって、革命はそのような跳躍

ⅩⅤ
・歴史の連続を打ち砕いてこじあけようとする意識は、行動の瞬間にある革命的な階級に特有のもの
→暦:祝祭の日=想起の日:ある歴史意識の記念碑

ⅩⅥ
・移行点ではない現在の概念=時間の衡が釣り合って停止に達した現在の概念を、歴史的唯物論者は放棄できない。
 →この現在の概念こそ、ほかならぬ彼自身が歴史を書きつつある、まさにその現在を定義するもの
・歴史的唯物論者は自分の精力の使いどころを心得ており、歴史の連続の打破をやってのける

ⅩⅦ
・歴史主義は一般史において頂点に達する
 →一般史は均質で空虚な時間を埋めて満たすために、大量の事実を集める
 ⇔唯物論の歴史記述の根底には構成的な原理がある
  →思考:思考の運動と停止
・歴史的対象がモナドとなって歴史的唯物論者に向かいあうときにのみ、彼は歴史的対象に近づく
→抑圧された過去を解放しようとする戦いにおける革命的なチャンスのしるしを認識
⇒ひとつの仕事(作品)のなかにひとつの生のなした全仕事(全作品)が、この全仕事(全作品)のなかにその時代が、その時代のなかに歴史経過の全体が、保存されており、かつ止揚されている

ⅩⅧ
・メシア的な時間のモデルとして、全人類の歴史を途方もなく短縮して包括する現在字は、人類の歴史が宇宙全体のなかで見えているその姿と、ぴったり重なる。

補遺
A
・歴史主義は歴史のさまざまな要素の因果関係を確立することで満足する
 →死後の生において、もろもろの出来事によって、歴史的事実となる
・歴史家:現在の概念を、メシア的な時間のかけらが混じりこんでいる〈現在時〉として根拠づける

B
・未来のどの瞬間も、メシアがそれを潜り抜けてやってくる可能性のある、小さな門だった


西山雄二
観念論と唯物論を根拠づけている未来志向の進歩史観とは一線を画しつつ、過去の廃墟へ刹那的な眼差しを向ける「歴史の天使」。天使の振り返りによって、歴史の反転(カタストロフィ)によって敗れ去り、否定されたものとの関係が切り結ばれ、ある種の救済をもたらされる。過去の廃墟はつねに現在を生きる私たちへとメッセージ(「秘密の約束」)を送っているが、それは必ずしも否定的なものではなく、私たちの歴史を別様に突き動かす要因だ。ベンヤミンは現在と廃墟を結ぶこの細い通路を「小さな門」「反転扉」と呼んでいる。重層的な寓意に満ちたベンヤミンの「歴史の概念について」から、必ずしも具体的な解決策が引き出されるわけではない。だからこそ、読者はこの「小さな門」がいかに開くのか、と歴史に注意深くなるのだ。たとえば、福島の若い既婚女性たちが妊娠・出産の不安に打ちひしがれ、同じ経験をした広島のおばあさんたちと出会い、「産みなさい」との助言を受ける。「秘密の約束」が取り交わされた彼女らが流す涙に一瞬、救済が到来し、広島と福島のカタストロフィが反転し、束の間、「すべてが救済される」。カタストロフィ(反転されたもの)が「反転扉」をくぐり抜けて、私たちの方へと再び「反転する」という歴史の未聞の生成を、「事故の教訓を生かして未来へ」という愚鈍な進歩史観に抗して、信じなければならない。

倉富聡
ベンヤミンの思想、というか評論は実証的成果や新たな理論というわけではない。しかし彼のテクストは私に新しい「まなざし」を与えてくれた。それはやはり「新しい天使」の寓話のような「まなざし」だ。天使は過去に顔を向けている。翼を嵐にからめ捕られようとも過去にまなざしを向けている。ベンヤミンのまなざしこそこの天使のまなざしであるし、我々も同様に天使のまなざしを持つべきではないだろうか。それは絶対主義的なものでも相対主義的なものでもない。何かの基準をつくり、それと照らし合わせて良し悪しを決める類のものでもない。天使のまなざしは捨てられたものを拾い上げ、紡ぎなおすようなものだ。我々のアカデミックな世界での思索は、すべて過去に起こったことを考える行為だ(自らの仕事を歴史学だと言っていたのはマルクスだったような…気がする)。破局を過ぎた我々は希望や救い、転換など、兎角未来に志向しがちであるが「天使のまなざし」を失ってしまっては、それこそアカデミックなアポカリプスに陥ってしまいそうだ。

浅利みなと(哲学2年)
こうした発表は初めてだったが、かなり緊張した。塾のアルバイトで集団授業をやっているので、話慣れているつもりだったが、どうも大学の講義となるとやはり雰囲気が全然違った。また、偶然にも自分がベンヤミン『歴史の概念について』の発表をできたことを大変幸福に思う。難解なテキストで、一つ一つの言葉の意味を解釈するのにも苦労を要したが、ある程度のつながりが見えてくるのは快感であった。とはいえ、まだまだ至らぬ点が多くあったので次回のこうした機会に生かしたい。自分の考えではあるが、ベンヤミンの述べていることは今の日本によく当てはまると感じた。東日本大震災からまだ二年しか経っていないにも関わらず、日本社会はそんなこと忘れたかのように動き続けている 。このままでは東日本大震災もフクシマも、ただの事実としてしか認識されなくなってしまうのではないか。ベンヤミンのいう過去の救済とは、例えばヒロシマにおける『はだしのゲン』のようなものをいうのではないかと思う。私自身も歴史の廃墟のなかに眠る死者をよみがえらせる「天使」の存在を待っているだけではいけない。日本の破局に立ち向かう方法を模索していきたい。

柴﨑勇人(歴史考古学2年)
今回はベンヤミンの『歴史の概念について』ということで歴史学は自分の専門でもあるので頑張って読んでみました。しかしながら難しかったです。発表のお二方のおかげ少しでありますが理解できました。ありがとうございました。私が印象に残った部分としては「支配者とは、それ以前に勝利を収めたすべての者たちの相続人にほかならない。」というところです。歴史学方法論という授業で扱った阿部謹也さんの『歴史叙述について』を思い出しました。彼はドイツ史が専門だったのでドイツの例を挙げて、ベンヤミンのいうような勝利者・権力者らによる「イニシアティブに基づく歴史叙述」があった一方で、産業化と都市化に伴う伝統的な生活形態の崩壊に対して「歴史的文化遺産や、伝統的生活形態を守ろうとして」行われる「素人の抵抗の試み」も存在し、それがまた大きな役割をになったと言っております。歴史というものはどうしても主観的ななってしまうもので「真実」というものにはたどり着けないと思います。その点でも当時力があった者に、都合がよくなってしまうことは確かであります。それを理解して歴史というものをかたるのが歴史学者の役割であります。また暦の話もとても興味深かったです。確かに先生がおっしゃっていましたようにフランス革命でも暦を変えております。それをベンヤミンは「歴史の連続を打ち砕いてこじ開けようとする意識」と述べており自分はそれを読んでとてもスッキリしました。発想が面白いなと思いました。夏休みに時間をかけてベンヤミンの著作でも読んでみようかなと思いました。

川野真樹子(表象M1)
今回のテクストはベンヤミンの思考メモといった印象で、哲学者の思考回路を覗き見ているような楽しさと、結局何が言いたいのだろうかという困惑とが混在したまま発表へということになってしまった。もっとも印象に残っている彼の考えは「虎の跳躍」である。単純に過去を振り返ってそこから何かを学ぶのではなく、過去が現在に常に干渉しており、何かのはずみでその呼びかけと現在時がぶつかる瞬間に過去が救われるというベンヤミンの考えは、何か人間が単に生きるということを超越しているようにも感じられた。1年半、このテーマでゼミに参加してきて、これがある意味でもっとも究極的な喪の作業なのかもしれないと思った。現在に絶望せず、未来任せや未来のためにという理由ではなく、過去を顧みるわけでもなく、それでも過去(あるいは過去になりつつある現在)が救われる瞬間がどこかに存在していると考え行動することは無理をするわけではなく、前に進んでいく(復興と言ってしまって良いものかは悩むが)ことにつながるのかもしれないと少し救われた気分である。

飯澤愁
全体主義が渦巻く当時の世相の中、いち早く進歩原理のドグマを見抜き、捨象された事象の救済を、流麗な詩句で示唆したベンヤミンの知勇兼備の才覚には非常に驚かされた。だが同時に、本稿が、ファシズムによる身体的危険からの逃走という極限状況において絞り出すようにして執筆された苦悩の書であることを鑑み、恐怖が目に見える形で、死の実感を伴う肉薄したものとして現前しない限り、その危機性に考えを巡らすことは極めて困難であるのかもしれないという可能性も同時に実感した。徐々に煮え立つ茹で釜のごとく、危機が巧妙な形で隠蔽されているような現代において、我々は身体性を研ぎ澄まし、能う限りの知を駆使し、背中に張り付いている死を想わなければならないように想われる。

八木悠允
歴史的唯物論という難しいタームから始まり、歴史を時間性のなかへと再び導くベンヤミンのテクストは短いながらも力強く、難しいながらも美しい、素晴らしいテクストだと感じた。特に第十七断章で、ベンヤミンが一般史と唯物論的歴史を対立させ、歴史的唯物論者が「歴史的に把握されたもの」である果実を摘み取る様を描き出すポエジーに深く感動した。先のギュンターと比べ明らかな相違点は、ベンヤミンがテクストのここそこに希望のようなポジティブさを残している点だろう。かすかではあれ、わたしたちにはメシア的な力があり、歴史的唯物論が神学に操られているとはいえ、そうではない歴史的唯物論の可能性をベンヤミンは信じている。彼は最後に人類の歴史を生物の歴史と比較してその短さに言及するが、その語り方にも皮肉な調子はいささかもない。実はこうした態度こそが神学的なのではないか、という疑問も浮かぶが、それを払拭するだけの力を秘めたテクストだった。

大江倫子(仏文修士2年)
唯物論と観念論を克服するというよりは、それらをともに保持しつつ、ベンヤミンは実証主義や進歩主義に抗して、ある奇妙な時間意識を提示するように見える。それは科学的客観的な均質で空虚な時間に抗して、ある意味付与に基づくのだが、独異な実存論的時間意識ではなく、革命家らの間でのみ共有された、「救済された」「解放された」時間なのである。このようにある真理としての現在時が共有されうることを疑わないことにおいて、ベンヤミンは明確に近代の側に立つのだが、それはまったく他なるものと遭遇する未来を拒否し、新たな抑圧につながるリスクを冒す。それゆえベンヤミンは、それを慎ましく「神学」と呼ぶことで満足するのだ。彼もまた哲学の臨界に遭遇したことになる。私たち がまったく独異な主観性から出発し、それがいかにして共有されうるかを問い始めるとき、彼の言う「メシア的な全的解放」はすでに実現されたことになる。ベンヤミンは表象の可能性の問いを探求したことになる。