アラン=マルク・リウー(Alain-Marc Rieu)講演会



2013年6月19日、アラン=マルク・リウー Alain-Marc Rieu(リヨン=ジャン・ムーラン大学哲学科教授、東アジア研究所上級研究員)によるセミナー「フクシマ以後の思考――――集団的的再帰性と政治的革新」が首都大学東京で開催された。コメント役として、同大学の山下祐介、左古輝人、綾部真雄も登壇した。(司会=西山雄二。約30名の参加。主催=学長裁量傾斜研究費・研究環「カタストロフィと人文学」)



 日本滞在の経験もあるリウー氏は、日本における知、権力、社会の関係性に関する論考を発表しており、今回も日本の現実に即した学問的思索を説得的な仕方で展開した。

 フクシマは私たちみなが共有するべき世界的問題である。フクシマは現代社会の趨勢、すなわち、何がその社会の進展を形成し導くのかという問いに関わるからだ。破壊的な出来事は世界史の流れを変え、新たな哲学の可能性をつくりだす。破壊的な出来事は洗練された安定した知ではなく、やはり破壊的な知へと翻訳されなければならない。2011年3月以来、個人やグループによって証言が集められ、被災者に声を与え、原因や責任を追求し、この災害に対する影響や反応を議論するための資料集成(コーパス)が構築されてきた。オンライン上にストックされてもいる、これら参照可能な証言と経験を解釈し続ける必要がある。



 フクシマによって露になったのは、複雑に絡み合った、日本の社会と経済を統制支配する権力ネットワークだ。原子力エネルギーとその関連産業は日本の「主権」的役割を果たしていると言える。その利害集団は独自の国際関係を発展させ、政治への影響を通して独自の外交政策さえ持っているのだ。その権力ネットワークの強固さゆえに、原子力エネルギーは「主権的技術〔sovereign technology〕」と名付けられるべきだろう。

 リウー氏は巨視的な見方で、フクシマの出来事を解釈するために三つの主要な言説枠組を分析する。脱構築されるのは、1980年代と1990年代初頭に形成されてきた言説枠組、すなわち、リスク論、信用論、そして、「知識基盤社会」という考えである。フクシマに関する資料集成は、これらの枠組を脱構築し、議論・研究・改革のための新たな場を開くのである。リウー氏は3.11の災厄やその諸問題を形而上学的に解釈することを回避し、3.11を科学への信頼を回復し、新たな知の編成を確立し、民主主義的な公共性を切り開く契機とするべきだと主張する。





コメント役として、綾部真雄(社会人類学)氏は、まず、震災後に知識人によって流通した「私たちは統制しえないはずの自然を統制しようとして失敗した」という言説の流布を参照する。ディズニー映画『魔法使いの弟子』において、ミッキーマウスが魔法のかけ方は知っているものの、その使い方や止め方を知らないがゆえに魔法が暴走したかのような語り口だ。リウーの議論はそうした診断とは異なり、災害を形而上学的なレベルで解釈するのではなく、科学への信頼を捨てずに権力ネットワークに対抗する知を形成しようという肯定的な提案である。では、「いかに」という問いが残される。綾部氏は人類学的な視座から、まず、「穢れ」の問題を引き合いに出す。福島の穢れは偏見的な差別を産み出しているが、見えない放射能への穢れの感覚は科学的な根拠によるものではなく、直観的な判断によるものである場合が多い。次に、現場の声を他の人々にいかに聞いてもらうべきか。現場調査をこなう人類学研究者にとって、現地の人々との関係の構築は重要だ。現地特有の複雑な現実が伝達され理解されるためには、一般化や単純化が欠かせないが、そのジレンマをいかに克服するべきだろうか。

左古輝人(社会学)氏はcorporationの社会的な概念史をたどった。今日、corporationは私企業とされているが、かつてそれは国家の出先機関で、職人団体や教会組織として自治の特権を与えられていた。17世紀の東インド会社はその典型で、王の認可によって経済、政治、行政、軍事的な機能を備えていた。19世紀に法人格を付与されて、corporationは現在の経済的な含意に近づいていく。リウー氏は、原子力企業を「主権的企業」と呼称したが、これはまさにかつての多角的なcorporationの姿ではないか。



山下祐介(社会学)氏は福島原発の避難の問題に取り組んできた経験から、躊躇した口調で、慎重に言葉を返した。深刻なことに、避難民が住む地域では民主主義が瓦解している。放射能汚染といまだ危険な原子炉の現実は日本社会の強いストレスとなっている。本来助け合うべき被災者同士、住民と自治体職員が往々にして互いにいがみ合うなかで、民主主義的な手続きが蔑ろにされがちだ。たとえば賠償の問題が典型的で、避難民の声が一つにならないなかで、東京電力と経産省が決定を牛耳てしまう。また帰還も喫緊の問題で、2011年9月以来、警戒区域が解除され、これから5年かけて帰還する計画が打ち出された。帰還をめぐる諸問題は東京電力と経産省の力学ではなく、むしろさまざまな要因が結びついている。帰還したいという住民の願望があり、これを実現しようとする政府には賠償を軽減させられるという思惑がある。リウー氏は科学の重要性を主張してるが、避難者の目線に立つならば、私たちはどうにもならない罠に陥っているのではないか。政治家、官僚、住民の誰もが要因でありながらも、その誰もが決定的な解はもたず、だからといって、みんなで民主的な解を模索する様子もないのだから。

学生のみなさんからも英語・フランス語でコメントが寄せられ、時間を大幅に超過する充実した会となった。





野木春奈(仏文2年)
今回のようなセミナーは、初めて参加したのですが、とても良い経験ができたと思います。英語で学術的な内容を聴く、ということ自体が初めてだったので、それだけでもとても新鮮でした。みなさんが英語やフランス語で質問する姿を見て、もっとこういった場で使えるレベルの英語にしていかなければ、と痛感させられました。心のどこかで、実践英語ができているからいいだろう、と怠けていた自分を戒めるいい機会になったと思います。さて、講演の内容に関しては「権力ネットワーク」という言葉が事前に読んだ際に気になりました。「既得権益」という言葉が近い意味合いをもっているように感じたので、「権力ネットワーク」との違いは何だろうと考えながら原稿を読み進めていました。「既得権益」という言葉で表現され、非難される特定の団体がもっている権利・権力の比ではない、国家を実質的に支配する力である「権力ネットワーク」。それを構成するものの一部としていくつもの「既得権益」と呼ばれるものが存在するのでは、と自分なりに解釈しました。震災によって「権力ネットワーク」が暴かれた今、さまざまな「既得権益」がどのような道をたどっていくのか、そんな見方で今後の復興の過程を見てもよいのではないかと思いました。

浅利みなと(哲学2年)
こうした講演会に参加するのは初めてで、刺激的だった。今回の講演会で特に面白かったのは、リュー先生の講演に対して、首都大の先生方がz自身の専門分野から強烈なコメントや指摘をなさっていたことだった。それによって自分もいろいろと考えるものがあったし、講演の内容にも厚みが増したと思う。そして、特に共感できたことは、フクシマが日本の中で“けがれ”として扱われている、という綾部先生(違っていたら申し訳ありません)の指摘だった。ちょうど高3に上がるとき、いわき市から東京に避難してきた人が自分のクラスに転入してきたが、卒業まで原発の話はすることはなかった。“けがれ”というよりも“タブー”といったほうが近いかもしれないが、いずれにせよ、福島出身の人とそういう話をするのは大きな壁を感じてしまう。しかし、おしゃっていたようにそうした生の声に耳を傾けないでいては、フクシマの歴史的な意味付け、破壊的知の創造、ないし、自分が翌週に発表することとなるベンヤミンが論じている過去の解放、救済へは至れない。そうしたことを山下先生のような専門家だけがやるのでも充分な効果があるのかは疑問である。一市民として、フクシマから目をそらしてはいけないと感じる。

堀裕征
リュー氏の講演会を聞いて、自分が向いていた方向を変えられた気がした。フクシマは日本で起きたことだが同時にそれは世界に震撼をもたらし、それは世界史におけるターニングポイントになったという認識、それだけしか自分には無かった。しかし、講演ではそこを更に踏み込み破壊的な出来事に留まらない認識を植え付けられた。たしかに原発は我々の生活をエネルギー需要といった点で結果的に豊かかつ便利なものにし、大きな貢献をしていたと思う。しかし、一方でそれはリスクを無視した意見であった。また、講演の中でも引用されていたベックの言葉を借りれば”再帰性”が求められる。また、その点でリュー氏はプロメテウス的移行期と称したのだと思った。先述のことと言い含めれば、まさにパラダイムシフト。また、フクシマをカタストロフィではなく引き金であり、それを引いたのは権力ネットワークと述べられていた。そして、これらを理解するには概念の複合体が必要とあった。そして、そうであるならば日本のシステム及び政治の脆弱さや主権の責任についてもう少し踏み込んだ意見を聞けばよかったと思う。だが、今回この講演の場に居られたことで講演内容以外のことも結果としては自分の糧になったと思うし、何よりもフクシマそれ自身に関して今一度考え直すきっかけになったとも思う。

加藤夏海
はじめ、リューさんのことをフランス人の哲学者だとお聞きしていたことから、どれほど難儀な講演になるのだろうと思っていました。確かに、口頭でお話しいただいたことは少ししか理解できませんでしたが、送っていただいたレジュメを読むとよくある形而上学的な文章ではなく、明確で、体系的で、丁寧に書かれた内容で、学部2年の自分にも理解できる内容でした(少しわからなかったところもありますが…)。特にリューさんが指摘する主権的技術、主権的産業のお話は納得するところが多くありました。確かにこの権力ネットワークは技術そのものだけではなく、その取り巻く環境、制度、政治状況によるところがあり、一種の外交的役割も担っています。現在自分はリューさんが指摘したマクロな部分での権力のほかに、もう少しグリッドを絞ったところ、つまりは市民が権力ネットワークの煽りを受けることについて専門で勉強しています。このミクロな次元では理論を越えた感情的な問題(たとえば山下先生もおっしゃったような避難民の間の差異の問題など)が発生し、政策に内在する問題だからこそ解決が困難になっています。この問題について、リューさんにすこしお尋ねしてみたらよかったと少し後悔しました。

川野真樹子(表象M1)
アラン=マルク・リュー先生のフクシマに関する提案は非常にポジティブなものだと感じた。現在の日本社会(特に安倍政権になって以降)ではフクシマの経験を活かすという考えがまったく表に出てこないように思う。確かに東浩紀らを中心に、チェルノブイリを見習ってフクシマにダークツーリズムを、という計画はなされているものの、政府や官僚がフクシマの経験をどう未来に活かすかというビジョンを持っているかどうかについてほとんど耳にしたことがない。この状況下で、リュー先生の提案を聞けたことで、肩の力が抜けた気がする。なんとなくフクシマの未来を明るく想像することが憚られていたのだが(まだ収束するめどもたっていないのに、軽々しく、フクシマは大丈夫、フクシマのおかげで原子力と権力の癒着が明らかになった、などと部外者が言ってよいものとは思えなかったが)、リュー先生が非常に客観的な立場からそのことを肯定してくださったので、こう考えてもよいのだと思えたのだ。また、綾部先生、佐古先生、山下先生のそれぞれのご専門からフクシマに対する見解を聞けたのも、自分のフクシマや政府の対応に対する理解を考え直す機会となった。これから選挙の時期が来るが、今回学んだことも含めて各政党の公約を比べて臨みたいと思う。

吉田直子(聖心女子大学大学院)
今回のリウー氏の講演は、非常に明快で分かりやすく、また実践的な哲学を論じておられるという印象を強く持った。さてリウー氏はpower networkへの注視を強調していたが、この点に関して、いつものおきまりの私見なのだが、それらのpower networkを暗黙的に支持してきたのは我々だという自覚が必要なのではないかと今回も改めて思った。思い出すのは1980年代初頭に広瀬隆が新宿で行った東京に原発を誘致しようという署名活動のドキュメンタリーである。人々は、原発は必要かとの問いには「必要だ」と答え、また「安全だ」とも答えるが、「じゃあ安全だと思っているのなら原発を東京に置きましょうよ」と広瀬がたたみかけると「それは…」と語尾を濁す。この映像を私は震災後に初めて見たが、本当に情けなくなった。「原発安全神話」を流布する国にだまされたという論調があるが、一般市民がどこまでそれを信じていたのか、この一件を振り返っても疑問が残る。皆、危険を知りつつ(もちろんそれは漠然としたものであっただろうが)、国や東電の行動を黙認し、そのことがpower networkをより強固なものにしてしまったのではないのか。民主主義的な対話の手前でそのような過去への自省がなければ、また同じ事態が繰り返されるだけではないかと私は思う。