信頼、希望、約束 Trust, Hope, Promise
西山雄二(首都大学東京・准教授)



     地上的な希望はとことんまで打ちのめされなければならない。
     そのときだけひとは真の希望で自分自身を救うことができる。——カフカ『城』

     人類が、最後に罹るのは、希望という病気である。——サン=テグジュペリ/寺山修司

     人間の生活にとって最大の敵がここに二人いる。恐怖と希望。
     わたしは鎖につないで、世の中から遠ざけておく。——ゲーテ『ファウスト』

     約束をなしうる動物を育てあげること——これこそが自然が人間に関してみずからに
     課した逆説的な課題そのものではないだろうか。これこそが人間についての本来的な
     問題ではないだろうか。——ニーチェ『道徳の系譜学』


 カタストロフィの経験は社会や個人の物語を中断させるため、私たちは新たな世界を獲得するべく、信頼、希望、約束の意味を根底的に問い直すという試練にさらされる。


信頼

 6月19日に開催したアラン=マルク・リゥー氏の講演会「フクシマ以後の思考」では、信用がひとつの主題として取り上げられた。フランシス・フクヤマの『信用 Trust』〔日本語訳題名『「信」無くば立たず――「歴史の終わり」後、何が繁栄の鍵を握るのか』〕を参照しつつ、彼は、リスク社会は未来、制度、知に対する信用、技術者や企業家に対する信用、そして何よりも、あらゆる理性的な期待に対する信用に依拠している、とする。また巨視的に見れば、社会的なエリートや能力に対する伝統的な敬意は、新自由主義の趨勢を受けて、1980年代以来、ビジネスや研究、政治における信用の重要性にとってかわった。こうした状況のなかで、福島事故以来、日本社会で露呈したのがこうした信頼・信用の危うげな現実だった。リゥーの診断によれば、新自由主義は「社会の核心に虚無と空白を導入し、社会をさらに柔軟に〔flexible〕した。しかし、社会システムを構成する多様な機能は、もはや首尾一貫した全体へと収まることはない。経済的な利害関心・模範・価値が優先され続け、人々は日常生活において個人的・私的な問題に直面し、社会の力学の外に捨て置かれているという感情をますます抱くようになった。逆説ではあるが、新自由主義は不信と不安に基づいた集団的・個人的経験を導入してきたのだ」。

 影浦峡は『信頼の条件――原発事故をめぐることば』において、原発事故後に専門家の社会的信頼がいかに変質していったのかを説得的に分析している。カリフォルニア大学Ben Monreal教授のメッセージを紹介する呼びかけの引用はもっとも印象的である。

 素粒子原子核分野の研究者/院生の皆さん
 今回の震災に起因した福島原発の事故について、国民の不安が高まっています。チェルノブイリのようになってしまうと思っている人も多いです。放射能を学び、利用し、国民の税金で物理を研究させてもらっている我々が、もっている知識を周りの人々に伝えるべき時です。
 アメリカのBen Monreal教授が非常に良い解説をつくってくれました。〔…〕皆さんこれを参考にして自分の周りで国民の不安を少しでも取り除くための「街角紙芝居」に出ていただけませんでしょうか。よろしくお願いします。(2011年3月19日)

 科学者・専門家は、原発事故の不安を払拭しようと、さまざまな啓蒙的メッセージを発した。しかし、そもそも彼らの現状認識が不適切である場合が少なくはなかった(「チェルノブイリのようにはなりません」)。また、彼らが保持する知識を疑うことなく、自らの知識こそが国民の不安を取り除くのだというやや先走った使命感を抱く者もいた。科学者としての責任の反省や後ろめたさを示し、具体的な状況把握や調査に専念する方が一般市民には有益だっただろう。

 そして、科学者たちは事故への当たり前の反応を示す市民に対して、特別に説明や措置を要する何か例外的な存在であるかのような立場に追いやった。そうなると、「本当は不安に思う必要はなく、対策をとることもないけれども、不安がる一部の住民がいるから恩寵として特別にやってやろう」という高慢な意識に陥っていまう。まさに国や関係者こそが信頼を喪失しているのに、彼らは市民の自分たちへの信頼(さらには信奉faith)が欠如しているという論理への転換させてしまう。結果的に、「あなたたちは知識がないから不安なのです。でも、安心してください」という愚鈍な呼びかけが加速したのである。



希望

 ここ数年、「希望」は日本社会にとって重要な主題だった。村上龍『希望の国のエクソダス』(2000年)、山田昌弘『希望格差社会』(2004年)が刊行され、私たちの社会における希望の欠如、希望の不平等が指摘された。東京大学社会科学研究所では希望学プロジェクトが立ち上がり(2005年-)、希望のない社会で社会科学はいかに可能か、という根底的な問いが探究されてきた。園子温は映画「希望の国」(2012年)を製作し、徹底的に絶望を描くことによって、原発後、希望はかすかな残滓のようなものとしてしか残らないという現実を突きつけた。まさに「希望は最後に死ぬHoffnung stribt zuletzt.」(ドイツの格言)のだ。

 エルンスト・ブロッホ『希望の原理』(1938-47年)の有名な定義によれば、希望とは「未だない存在(Noch-Nicht-Sein)」である。「まだ成らざる可能性に対する期待、希望、志向――それは人間の意識の基本的特徴であるばかりでなく、具体的に整理しつつ把握すれば、客観的現実総体の内部でのひとつの基本既定なのである」。逆説的にも、「未だない存在」が「未だない」というありかたで「存在」し、現在の「客観的現実総体の内部」にあるのだ。

 希望の実現は必ずしも真実のことではなく、「みたてられている」「みなされている」にすぎない。希望は「かのように」の物語として、かろうじて私たちを未来へとつなぎ止める。希望はフィクション的な要素を含む。この場合、フィクションとは事実ではないが、架空や嘘ではないものだ。希望は人々にとって望ましく合理的なものとして仮定され、実現されるべき現実的根拠をもつのである(広渡清吾「希望と変革」、『希望学1』東京大学出版局)。この意味において、実はリスクと希望は表裏一体の特性をもつ。リスクとは、「破滅や災難が実際に起こること」ではなく、「そういう事態が起こるかもしれないという予期」である。望ましくない何かが未来に起こることを表象し予期する、現在の人間の意識である。希望が実現する「かのように」、あるいは、破局が到来する「かのように」、という信と知のフィクション的な構造が両者に認められるのである。



約束

 3.11の自然災害と原発事故を前にして、私たちはいかなる約束の力を学びとることができるのだろうか(Cf. Marc Crépon & Marc de Launay (éds.), La Philosophie au risque de la promesse, Bayard, 2004)。

 約束とは外的に表現される社会的行為であり、行為を必ずしも必要としない内面的な宗教的な約束や祈りとは異なる。約束は他者を前提とする相互行為で、約束が自分に差し向けられ、自分に作用を及ぼすことを当の他者が理解する必要がある。
 約束は命令や要求とは異なる。命令や要求は、それが差し向けられた他者の行動によって完成するのであり、自分の意向が他の誰かに一方向的に委ねられるだけだ。それに対して、約束は、約束する当人がこれを意志するだけでなく、公的な仕方で表明され、相手に伝達され、相手に認識され理解されなければならない。その上で約束する当人の意志と行動によって約束は完成するのである。

 仮に純粋な約束があるとすれば、それは契約とは異なるだろう。契約は違反者への罰則を前提とし、利害を計算に入れる。だが、約束については、守らなかった者に対する唯一の制裁は信頼の喪失である。義務を感じ、要求を正当と感じる約束の経験は、利害では説明できない。もっとも純粋な約束とは、契約や誓約に先立つ、相互的な利益を見込まない高貴なタイプの交換ではないか。
 予言が確実に生じる未来を先取りする行為だとすれば、約束は原理的に破られる可能性を残す。約束が結ばれると、むしろ時間の地平が開かれ、約束を遂行するまでの私たちの自由が試練にかけられる。約束が果たされないかもしれないという危険を冒すことなしに、約束は約束でありえない。絶対に守らねばならない約束など契約に等しく、未来の出来事の先取りされた理解と記述にすぎないのだから(自分の生死を計算に入れる生命保険契約…)。

 カタストロフィの経験は私たちに破局の時間性を再考するようにうながす。ベンヤミンは進歩史観に抗して、カタストロフィの残滓と現在時が「小さな門」を通じて交接することで、メシア的な救済を説く。アンダースは、圧倒的な技術を産み出すがその真の効果を想像しえない人間と技術の「プロメテウス的落差」によって、人間なき終焉の世界(絶対的に希望なき世界)を想定して終末論的な声調で語る。デュピュイは、カタストロフィの予言とは裏切られるべき逆説的な約束であり、予言が間違いとなるために行動しなければならないとする。カタストロフィの過去の救済、カタストロフィによる人間世界の終焉、カタストロフィの予言とその破棄——破局の時間性をめぐって、私たちにはいかなる約束の力が残されているのだろうか、約束が約束であるためには、約束が守られえないことが可能でなければならないという途方もない過剰さを孕んだ約束の力を。