ギュンター・アンダース「核兵器とアポカリプス不感症の根源」
(『時代おくれの人間 上』法政大学出版局、245-323頁)
(2013年6月28日) 発表者:志村響(心理学2年)、倉富聡(社会学4年)

「われわれの不安はどこにあるだろうか。不安はどこにも見つからない。中程度の不安さえ見つからない。流感にかかりそうなときほどの不安さえ見つからない。不安は全然見つからないのだ。こんなことが、どうして起こりうるのだろうか」――核時代の人間のあり方を深く問い続けた哲学者ギュンター・アンダース。核兵器による全滅の危機感を問うべく、人間はいかに生きるかではなく、人間は存続しうるのかどうかという限界から言葉が紡ぎ出される。

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1. 軽視されるものには誇張された言葉が要る

「強調するのは、対象自体の特有の見えにくさのためだ」(P248,L6)
「相手を間違えただけで駄目になるテーマがある。核兵器は大学の建物の上にかかっているのでなく、われわれすべての頭上にあるのだから、/大学という特殊な建物の中でしか分からないようなものではない言葉を見つけ出さなければならない」(P249,L2-P250,L3)
「この巨大な「どうか」を聞き逃してはならない」(P251,L2)

核兵器に対するわれわれの在り方は未知の領域にあり、正しい思考の筋道のようなものは用意されていない。しかし、われわれが核について語る困難はそれだけが理由ではない。核兵器はそれ特有の見えにくさ、つまり組織的に焦点をぼかされた性質をもつがために、そもそも対象化することが困難なのである。だから誇張し、輪郭を象る。そうしなければ、受け手(もちろん大学にいるとは限らない)の耳には届かない。喚起されうる問題はいまや、過去の哲学者が論じた「いかに存在するか」ではなく、「存在するかどうか」なのだ。

Ⅰ. 最初の恐るべき確認

2. 現代の無限者はわれわれである ― ファウストは死んだ

「互いに終わらせるだけの力を持っているからには、われわれはアポカリプスの主人なのだ。無限なる者とは、われわれのことだ」(P251,L6)
「われわれは最初の巨人族であるから、われわれは最初のこびとでもあるのだ」(P254,L8)

無限なるものに憧れた過去の様々な営みは、気付けば手中にあった無限なるものによって前史でしかなくなった。もはや「人間」から区別され、「巨人族」となったわれわれは今、決して手の届かない「古き良き」時代、人間であった時代を懐古し愁うことしかできない。ただしこの憧れは、それが叶わぬ感情にすぎない以上、全能者を強める点で危険である。われわれは、集団として死んではじめて存在を認められる最初のこびととなってしまった。

3.「あらゆる人間は死すべきものである」という命題に代わって、今日では、「人類は全体として殺されうるものである」という命題が登場した

「古い命題は、その真理を「あらゆる人間は殺されうるものである」という新しい命題に引き渡してしまっていたのである。それ以来、真理はこの新しい命題に住みついた。/何かが変わったとすれば、もっと悪いほうへ変わったのだ。なぜならば、今日殺されうるのは人類全体であって、「あらゆる人間」にとどまらないからである」(P255,L11-L15)

「あらゆる人間は死すべきものである」という自然死への敬意をまだ失わずにいる命題は、戦争やテロ、絶滅収容所の脅威の前に過去のものとなった。あらゆる人間は殺されうる、この補語の転換が、一つ目のパラダイムシフトである。二つ目は、言うまでもなく核兵器によりもたらされたものだが、今度は主語がすり替わる。殺されうるのは人類全体なのだ。

4.「すべては過ぎゆく」というソロモンの命題に代わって、「何もなかった」という命題が現れるだろう

「ソロモンの説教にある「すべては過ぎゆく」という、一切を飲み込む絶望的な第二未来形の代わりに、もっと絶望的な「何もなかった」が、誰にも記録されぬだけに強力に支配し始めることであろう」(P257,L11)

人がそこで死に、その死を記憶する人がいる空間がある限り、個人の死はまったくの終局とは言えない。また同様に、言語や思想、芸術など語り継がれ普遍的な価値をもつものは、ただかつて「あった」だけのものとは言えず本質的に終わりを迎えることはない。しかし今日、人類の全体的破滅、つまり記憶する者の根絶が考えられる以上、その崩壊はこれらに終焉をもたらし、かつて「あった」だけの忘却されたものさえもう一度無に引き込む。過去は過ぎ去ったことを知覚できる者の不在のためもはや過去でさえなくなり、ただ一つ、「何もなかった」という命題だけが効力をもつことになる。

5. 妨害を妨害するもの

「結局どの段階も誰かが何かを「した」ということにならないのだ」(P258,L1)
「生産に加わっている者の多さと装置の複雑さこそ、妨害を妨害するものだ」(P259,L17)

細分化された組織においては、道徳的、良心的な行為とはつまり円滑で正確な行為であり、その実現のために各々がその役割を全うした結果がどうであれ、彼らに非を問えはしない。過度な組織化、複雑化により、道徳、不道徳の次元さえ消失してしまったのである。



Ⅱ. 核兵器の特性

6. 核兵器は手段ではない ― 絶対的なものが実現された/比較級は要らない

「核兵器を考える際に使われるカテゴリーには、何よりも「手段―目的」という対概念がある。間違った概念を使うというのは、この対概念、特に「手段」という概念のことである。核兵器は「手段」ではないからだ」(P261,L3)

何かを思考するにはカテゴリーが要るが、まったく特異な存在である核兵器に関しては、適切なカテゴリーというものは存在しない。そこで、核兵器とは何か、ではなくむしろ、核兵器とは何でないかを考える。核兵器は「手段」ではない。手段とは、手段である限り目的においてその役目を終えることが必要条件である。しかし核兵器はその規模や効果が絶対的に大きすぎるため、どのように設定された目的をも凌駕し、手段―目的という構図はもはや意味を成さない。この効果は文字通り絶対的に大きいため、あらゆる目的を呑み込むと同時に、これ以上とか以下という比較基準さえ無効なものとなる。

7. 続き ― 手段が目的を正当化する

「結局、目的の目的は手段製造に存在理由(raison d’ être)を与えることにある。/言い換えれば、手段が目的を正当化するのだ」(P265,L7-L9)

今日、純粋な意味での目的というのは存在しえなくなった。目的は、手段のための手段となることで際限なく生成される手段の連鎖のなかに息を潜めるしかない。加えて、もしもこういった枠組みにおいて目的が否定されれば、それはとりもなおさずその枠組み自体の否定となり、現代に根付く手段製造の原理に歯止めがかかることになる。目的はすなわち、手段に支えられ、その手段の有用性によって初めて正当化されるものなのだ。それでは、核兵器はどうか。これが手段であるとして、核兵器を手段として扱う者にとってもっとも不都合なのは、(あるとすれば)その目的が否定されることである。そしてその事態を避けるため、彼らは核兵器というものを、できるだけ目的のぼかされた手段、それもできるだけ矮小化された手段として提示するだろう。しかしこの方策は、核兵器そのものの存在論的例外性、無政府主義的性格によって瓦解する。核兵器は、そのような次元で扱われるにはあまりに巨大であり、「手段の世界」からは逸脱してしまった存在なのである。では、その先にある世界とはどういったものか。これに答えがあるとすれば、それは「虚無」である。

「空虚なものであるにもかかわらず存在しているのが、核兵器なのだ。そういうものが跳梁していることに、われわれは少しも安心しておれないのだ」(P267,L12)

8. 殺す側だけでなく、死にゆく側にも責任がある

「アポカリプス的な道具を望み、計画し、製造したのは、あらゆる人間のうちの大半である「われわれ」だと主張するのは無論ばかげている。ばかげているばかりか危険だ。なぜならば、こういう言い方は、不幸にもこの道具の実際の「主体」となり、それを製造したり使用したりする者にきわめて好都合のものになりうるからである」(P268,L10)

現実に核兵器を生み出し、それを行使する者がいる。そういう存在に目をつぶり、核兵器をあたかも人類の過ちのように扱うことは、本来あるはずの責任問題を透明化してしまう。大多数の死にゆく者こそ、そういうことに目を見開かなければならない。

9. 個々の実験は成功するが、実験そのものは失敗する

「核兵器が全能であることがその欠陥なのである」(P271,L1)「核「実験」は今日ではもはや実験ではないのだ」(P272,L13)

核兵器はその存在を以て恐喝である。ひけらかされていなくても、向けられた拳銃と同等に恐喝なのである。そしてさらに悪いことに、銃口は特定の方向を指すのでもなければ、銃弾はどこかで減速するのでもない。核兵器をどこかへ落とすことはできない。なぜならそれを実行した途端、標的とそうでないものの区別は失われるからである。よって「実験」が閉鎖的空間で行われるリハーサル的なものである以上、「核実験」などは存在しえない。「核実験」と呼ばれるものは全て歴史的出来事としての「一回限り」の「本番」なのだ。

「歴史的世界がその侵入の瞬間に壊れてしまうほどである。実験は「歴史的」になっただけではない。実験は「歴史を溢れ出た」のだ」(P275,L2)

10.「歴史を溢れ出た」という言い方の説明

歴史における尺度ではもはや計りえない、歴史という容れ物ごと揺るがすような出来事。「歴史を溢れ出た」破局の後には、かつては歴史的であった廃墟が残るのみである。

「だが、われわれはそれに対してどう反応しているだろうか。新聞記事に対する反応と変わりはない。つまりまったく反応しないのだ。反応しないのはなぜだろうか。勇気があるからだろうか。ストア主義のためだろうか。「勇気だって? それは想像力の欠如だよ!」というモールシアの格言がある。想像力の欠如のためなのだ。われわれが「アポカリプス不感症」だからである」



p.277-323
なぜわれわれは「アポカリプス不感症」(≒想像力が欠如している状態)なのか。
→不安が見つからない―現代は不安になれない時代→恐怖が欠けている―自由になるために怖がることが必要

原因
1.人間の特質―「プロメテウス的落差」
理性と同様に感情にも限度がある―人間は感情において自分自身よりも小さい。→「製作」(増やせる)と「感情」(増やせない)の間の落差

現代は「争いは全く問題にならず、むしろすべてが平和で非常に整然としているように見え、集団的な微笑みが状況を覆い隠している」状況。
→我々は分裂病的存在の後継。

今日の重要な道徳的課題=道徳的想像力を形成すること。
→想像力と感情を有する製作者となること→特別な練習が必要

2. 歴史的根源
現代の革命(=市民革命、マルクス主義的革命、先の大戦前後にあった千年王国的終末論)は終末論的大望を志向しなかった。
彼らはむしろ歴史を「止揚」し、歴史後(=終末後)の状態を志向した。

アポカリプスへの恐怖を取り除いた「進歩信仰」
「進歩信仰」=ホイッグ史観、マルクス主義的唯物史観、社会進化説→彼らにとって「歴史」はアプリオリに終わりのないもの。
→「悪が存在しているとしても、それはまだよくなっていないものを意味するだけである。」 ex.弁証法
→現代の我々の態度にも強く根付いている。→悪しきものも、終末もなくなり、我々は「悪しき終末」への覚悟を失った。

死の隠蔽(否定ではない)
進歩=「永遠性の理念」の支配する世界における不死性→「永遠性」ではなく生命の無終局性
現代においては「墓地に埋葬されるのは死者ではなく、死なのだ。」
進歩主義→未来の到来と進歩は自明。
しかし、「未来であるものはすべて、それだけで「未来」と見なされるわけではない。」→未来は「来ない」=作るしかない。
→我々が今行っていることは、未来の出来事に今「関わっている」=未来は「現在している」→未来の出来事と現在の同期が必要。



なぜ我々はアポカリプスに向けて活動していないのか
→われわれは存在していないものに関わっている(道徳的希求)
「ひとつの対象を捉えるかどうかは…道徳的状況によって決まり、…関係がないものは、我々には理解されない」(≒コミュニタリアン的発想?)
→われわれが抵抗しなければ盲目のまま。
私たちは核兵器について「知っている」にもかかわらず、「理解して」いない。

行為と未来と道徳
「中間性」:今日の労働、製作は企業によって統制された「能動とも受動ともつかない(=中間的)」共同作業となっている。
良心に基づく「行為」は停止され、「共同作業」の実直さがそれに代わる→『ペスト』主人公のセリフ「誠実さ」への疑問

共同作業としての労働は「道徳的」とされるが、労働者は労働の目標・目的を「私的所有」しないので労働の成果は道徳と無関係。「善悪の彼岸」にある。
→良心が停止し、「道徳的狂気」の様相を呈する順応主義的現代人が生み出される。Ex.アイヒマン実験、ニュルンベルク裁判

「中間的な在り方のあらゆる要素が結託して核兵器との関係の理解を妨げるのだ。「終末「という言葉の意味を理解することもなく、「中間人」はあわただしくかつ投げやりに、自分の終末へ向かって働いているのである。」

ニヒリズムと現代の定言命令
道徳的事実の所在→「所有」としての=「行為」としての核兵器
「行為の善悪は行為者によって決まるのではなく、逆に行為者の善悪は行為によって決まる。」

行為者の道徳的判定は行為=所有している事実=所有物に基づく
「核兵器の主人は活動しているニヒリスト」→彼らは小さすぎて核兵器やその仕業ほどには悪くなれない。

「所有物の良心検討」が必要→「その行為の格率が君自身の行為の格率となりうるような事物のみを所有せよ。」→放棄された後は?

そもそもニヒリズムとは?
→破局的な出来事の結果:「一切は一種類であり、自然という一種類しかない」
→核兵器。「放射性のほほえみ」による一元化。

われわれはみなニヒリストである
「絶滅のニヒリズム」と「実存主義」。国家社会主義に由来。鶏と卵のようなイデオロギー

あとがき
「手は常に汚れているのだ。汚物によって。それだけが大事なことなのだ。手はいつまでも汚れているだろう。われわれが奮起して決心しない限り。」


西山雄二
核時代における人類そのものの存続可能性を問うアンダースの論考は徹底的に暗い。人間が終焉した世界を想定し、人間なき終局の世界からこの世界を思考するという彼の「否定的人間学」は、20世紀のもっともラディカルな思想である。圧倒的な技術を産み出すものの、その真の効果や影響を想像することができないという人間と技術の「プロメテウス的落差」は、人間をこの世界で置いてきぼりにする。だが、アンダースが対峙しているのは「ヒロシマの時代」であり、実際、彼は原爆を投下した飛行機パイロットと対話し、「プロメテウス的落差」を自分なりに解きほぐそうとしている。だが、リウー氏が講演で明言したように、私たちは「フクシマの時代」に入ったのだとすれば? 核の大量殺戮兵器ではなく、原子力の平和利用が綻びつつある時代に生きているとすれば、両者の「落差」から未来へと門を「斜めに開ける」ことはできるだろうか。

倉富聡
稚拙だが、紙面の都合上発表できなかった表象分析をここでしようと思う。本文に出てきたプロメテウスPrometheusはギリシア神話の古き神(タイタン族)の一柱で、唯一神ヤハウェとちがい、言わば人間と同じ「人格神」である。その名前の語源的意味はpro:先に、metheus:知る者、考える、であり、その名が示す意味は「先に知る者」である。プロメテウスは人間に先行する存在であり、人が知らないもの、つまり「プロメテウスの火」を人に与えた超越者であった。しかし今や我々人間は知恵(=理性)を手に入れ、「火」を知ってしまった。論文の本文では「「プロメテウスの子孫」である我々」、「我々の内なるプロメテウス」と書かれていたが(P.283)、もはや我々自身がプロメテウスになってしまっているのではないだろうか。そしてアポカリプスを忘れプロメテウスのように「生命の無終局性」を手に入れた我々は、プロメテウスのように、彼が岩山で受けた毎夜繰り返される終局のない責苦、つまり再帰的な、無終局な苦しみの中にいるのだと理解できるのではないだろうか。ここまでが論文を読む中で考えた、ギュンター・アンダーソン風の暗い分析であるが、ゼミの中で重要な観点を手に入れた。それは西山先生が指摘されていたアポカリプスとカタストロフィの違いだ。我々が経験したあの原発事故はカタストロフィ(=破局)であり、アポカリプス(=終局)ではないのだ。我々は未だアポカリプスを「知らない」。今我々は「理性」と「近代」を改めて転覆させる必要に迫られている気がしてならない。

柴泰輔
核兵器の恐ろしさを、実際にその目で見て、肌で感じた広島、長崎の人たちが亡くなっていくことで、その恐ろしさを語ることのできる人がいなくなってしまうのではないかと、私は不安である。今、私たちのような戦争を知らない世代は話でしか核兵器について聞いたことがない。たしかにそれでも核兵器の恐ろしさは十分に理解できるだろう。しかし、さらに後世へと伝えるとき、あの時代に生きた人はいなくなり、私たちがその役目を果たすことになる。そうしたときに、私たちは核兵器とはなんなのか、私たちが教えてもらったのと同じように伝えることができるのだろうか。私にはそれができないと思う。被爆者の肌で直接感じた恐ろしさを、想像でしか理解できない私たちが説得力をもって伝えることはできないだろう。私たちでさえ、もはや核兵器はいけないものとは思っているものの、もし日本が核兵器を保有するとしたときに、具体的になにか行動ができるかと言われれば出来ないとおもう。それは震災により原発が問題となりながらも、国民全体で原発廃止にむけて動けないことと似ていると思う。こうして核兵器についての認識があやふやになるのではないだろうか。

川野真樹子(表象M1)
今回のテクストを読んでいて一番感じたのが、ギュンター・アンダースの考え方は現代にも通じる考えだということである。読んでいる中で年代の話がちらっと出ていたが、それがなければ、そこまで古いテクストだとは思わなかっただろう。先生のお話で、このテクストは冷戦のまっただなか、核戦争が身近な恐怖としてあった頃に書かれたものだから、原発とは少し違う部分もあるけれども、というようなものがあった。このテクストの原語で核兵器がなんと表現されていたのか調べられなかったが、たとえば英語では核兵器も原発もどちらもnuclearと呼ばれる(日本語のような区別がない)ことを踏まえてみれば、本文の核兵器を原発に置き換えてしまっても良いのではないのかと、授業の前までは考えていた。しかし、「核兵器のアポカリプス」と「原発のカタストロフィ」では世界の終末か、継続かという大きな違いがあることを知り、そのような簡単な問題ではないことが分かった。確かに、ヒロシマ・ナガサキとチェルノブイリ・フクシマの違いは大きいように思う。前者は(体内被曝などの問題が依然として残っていることは確かだが、)残ったものをどうしたらいいのかという問題はないように思える。つまり、原爆が落ちて都市を破壊した時点で核の後処理の問題は完結しているように見えるのだ。(極論なのは承知だが…)一方で後者は、核の後処理の問題の継続した時間の中で人が生きることを強いられている。この完結してしまっている時間と、継続する時間について、自分の担当であるベンヤミンを踏まえて何か考えられたらと思う。

八木悠允
あまりに巨大な力を与えられ、人間という種が変化するというのは想像しやすい例えだ。プロメテウスの例示に示されるとおり、火を得た猿人類が文化を生み出し人類へと進化したことと同様に、ギュンターは「核兵器」というあまりに巨大な力を与えられた人類の変化を描き出している。その陰鬱な論調は真剣であるがゆえに重く響くが、彼が着目しているのは「核兵器」であり、「原子力発電」ではないという点はギュンターへの肯定否定を問わず注意せねばならないと感じた。ギュンターが否定するのは、火炎放射器であって、火力発電ではない。彼は前者のような「手段ではない」道具の存在を懸念しているのであり、「火」や「核」といったすでに実在する現象を相手にしているわけではないのだ。そうした区分けから、分類の必要性から、わたしたちは考え始めないとならない。ところで、個人的に「不感症」という言葉の持つ意味になじめず戸惑った。原語を見てみると、「アポカリプス不感症」はApokalypse-Blindheitとなっている。Blindheitは辞書によれば「盲目であること、無知蒙昧であること」という意味のようだ。プロメテウスの火を与えられたにもかかわらず、わたしたちは盲目になっているということだろうか。

大江倫子(仏文修士2年)
冷戦時代のこの著作は「不安になれない」「恐怖の不感症」の時代を記述する。ところでハイデガーによれば、不安はその対象が不確定であることにおいて、恐怖とは根本的に異なる。よってふだんは世間的な気楽さに埋没して暮らしている人々も、時折理由なく不安に襲われることがあるとされる。何もかも順調に進んでいるときにさえも、いやまさしくそのような時に限って、人は不安を感じることがあるのではないだろうか。それは順調な境遇にある人々が突然不運に見舞われることを、私たちがフィクションや事実で体験している記憶によるのだろうか。もちろん逆に、自分なり他人なりが突然の災厄に襲われた場合にも、私たちは不安に駆られる。そのとき人は、命運の偶然な無差別性よりはむしろ 、因果応報の結果として受け止めることで安らぐのだろうか。さて現代のアポカリプスの要因は、核兵器ばかりでなく、毒ガスや生物兵器、自爆テロから遺伝子操作まで多様化するのだが、人間の根源的不安の契機は、実は一つの同じものではないのか。