ジャン=リュック・ナンシー「破局の等価性」(『フクシマの後で』)
(2013年1月16日)

発表:志村響(人文・社会系1年)、藤井淳史(社会学2年)
コメント:近藤伸郎(東京大学4年)



(ジャン=リュック・ナンシー〔2006年来日講演にて〕)

発表:志村響(人文・社会系1年)

前文

◇破局はどれも、等価ではない。
「ここで破局の“等価性”ということが言わんとしているのは、今やどのような災厄も、拡散し増殖すると、その顛末が、核の危険が範例的にさらけ出しているものの刻印を帯びているということである。」(P22)
・天災とその技術的、経済的、政治的な影響との交錯した連関
  →リスボン地震(1755)と東日本大震災(2011)との差異
  →ルソーの提案と現代社会における構想の限界との齟齬
                ↕
  ①技術的、社会的、経済的な相互依存の複雑性のさらなる増大
  ②既存の複雑性による諸々の反論や障害、それにより導かれる必要性

◇全般的な相互連関=貨幣
「一般的等価性という体制が、いまや潜在的に、貨幣や金融の領域をはるかに超えて、しかしこの領域のおかげで、またその領域をめざして、人間たちの存在領域、さらには存在するものすべての領域の全体を吸収している」(P25)
  →あらゆる価値体系を支え包括するものとしての貨幣(=一般的等価物:マルクス)
「破局はどれも同じ重大性をもつのではないが、しかしそのすべてが、一般的等価性を構成する諸々の相互依存の全体(=貨幣)と関わりをもつ」(P26)
  →忘れずに加味しなければならない関わり=戦争(ただし、多義的な)
「結局、この等価性が破局的なのだ。」(P26)

◇等価性の行き着く先としての破局
「文明とそのグローバル化とが相互に依存しあった総体そのものが、人類が何世紀も前から行ってきたいっそう深い方向づけに依存している」(P27)
「問題は、対置することや提示することではない」(P27)
 ・人類が根差してきた方向づけ、その修正というよりは解釈が求められている。
  →この世界のあり方を思考し捉えなおす必要性



第1章

◇フクシマ―アウシュビッツ―ヒロシマ
「諸々の生だけではい。さまざまな形態、関係性、世代間関係、表象を有した“生”そのものが、つまり、思考し、創造し、楽しみ、耐え忍ぶといった能力を有した人間的生そのものが、不幸そのものよりもひどい状況へと突き落とされる。」(P33)
・「フクシマの後で哲学すること」⇔「アウシュビッツの後で詩を作ること」
  (ただし、両者にはかなりの差異がある)
  →「哲学」と「詩」ではなく、「フクシマ」と「アウシュビッツ」との差異
  →重要なのは、この差異を正確に見積もること
「まず思い起こしておくべきは、アウシュビッツはこれまで何度もヒロシマに結び付けられてきたということだ。」(P30)
 ・第二次世界大戦の終局が創始したもの
  ①技術的合理性に基づいた手段により諸々の人間集団を絶滅させようとする企て
  ②現存する集団だけでなくその子孫までもを削ごうとする企て
  →アウシュビッツとヒロシマにもまた膨大な差異があるがこれらの点で共通
  →それまでとは完全に目的を異にする(絶滅という尺度に合わせた)破壊行為
→既存の尺度からの逸脱、本性(nature)の変異

第2章

◇意味(sens)の崩壊
「合目的性がどこに存するかというと、それは、公然と、この合目的性そのものの増殖に求められることになり、さらには、世界の存在やそこに生きるあらゆるものたちの存在とは無関係にそれ自体だけで通用するような形象ないし権力の指数的な増加に求められることになるのである。」(P34)
 ・境界を越えた「アウシュビッツ」と「ヒロシマ」
  →人間があえて意味を付与することのできる世界の境界
  →二つの企ての有する意味内容(signification)のこの世界からの独立
「これら二つの名のほうは、それがもつ脱—名称化のために、意味作用を通り越すというよりは、あらゆる意味作用の下に落ち込む、と言うこともできるかもしれない。これら二つの名が意味するものとは、意味(sens)の全滅なのだ。」(P36)

◇フクシマ―ヒロシマ
「二つの名の韻が示唆するもの/ある近しさの種/それは、原子力エネルギーである。」(P36-7)



第3章

◇矛盾
 ・軍事用の原子力≠民生的な原子力
 ・敵国による攻撃≠国家的な電力生産  →ヒロシマ≠フクシマ
「まさにここでこそ、こうした残念な韻による耳障りな詩が哲学へと開かれるのであり、われわれは哲学が“フクシマの後で”何を語りうるかと問わねばならない」(P37)

◇フクシマの“後で”
「われわれが問題にしている“後で”は、逆に、後続というよりは断絶に、予期というよりは宙吊りに、さらには昏迷に関わるものである。」(P38)
 ・“後で”≠後にやってくるもの→後などあるのか、われわれはどこかへ行くのか

「未来などあるのか、つまり、未来などないということも(あるいはあったとしてもそれが破局的なものであることも)可能なのか」(P38) ・西谷修『「未来」はどこにあるのか』2011年4月

「地震の四九日後。これは仏教の慣わしでは魂が彼岸へと最終的にたどり着くと言われる日だ」関口涼子『それは偶然ではない』2011年4月 (P39)
 ・この日記に含まれる二重のアクセント
  →「言われる」に見てとれる、信仰へのある種の距離
  →「最終的に」のもつ絶望的な響き
          ↕
・地震 =「いかなる“彼岸”も慰めになることのないとりかえしのつかないもの」(P39)
  →彼岸:あらゆる期待を許さない、蟻地獄にも似たひとつのゴールの象徴

第4章

◇二人の証人が託してくれたもの
「問題は文明なのか、それともとりかえしのつかないものなのか、とりかえしのつかないものの文明なのか、それともとりかえしのつかないものとしての文明なのか。」(P39)
 ・フロイト『文化のなかの居心地の悪さ(Das Unbehagen in der Kultur)』
 ・問題なのは文化、文明の果たして全体なのか?
  →軍事的な技術と民生的な技術の区別を問わねばならない
◇敵なき戦争
  →われわれ自身に対する戦争≒理性(技術の源泉)への抵抗
「解決という領域を超えて考えなければならないことが残っている。というのも、/…/そのような(すべての、あらゆる)解決は、われわれが生を送り、文明が繰り広げられる場である技術的布置ないし技術的機制全体の軌道のなかに捉われたままだからである。」(P42)
  →代替技術や制御技術は結局、「進歩の」、「自然の支配の」文明の地平にとどまる
「もしこの文明が…世界に対する戦争の文明であるとすれば/この支配が…あらゆる種類の進歩をわれわれの条件の悪化に置きかえてしまうまでになるのだとすれば/かつて人間の力であったものが…あらゆる存在者に対して自律的な力を決然と行使するようになるとすれば/われわれは…緊急の責務に直面することになる」(P42-3)

◇黙示録
「われわれの時代とは、“歴史の終わり”を自分たちがもたらすこともできるということ、そしてそれが同時に人間の終わりとなるということを知っている時代なのだ」(P44)
 ・“悲観主義”と形容された“明晰”な懸念
フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』。ギュンター・アンダース『ヒロシマはいたるところに』。ハイデガーの技術についての思考
          ↕
「技術とは、人間が道具を用いることを完全化するなかで達成されてきた一連の進歩なのではなく、生の様態であり、思考の様態であり、世界内に存在すること、世界を変容させることの様態なのだ」
「技術とは人間そのものと異なるものではない/また、人間とは…自然を変化させる任務を自然によって与えられた産物だ」 (『フクシマの後で』P3~18「序にかえて」より抜粋)

「啓示が顕わにするものが、何も顕わにするものがないという事態であるとすれば、この啓示はふたたび閉ざされることになろう」(P44)




発表:藤井淳史(社会学2年)

第5章:フクシマがヒロシマにつけくわえるもの

→軍事的利用だけでなく、原子力の利用全般をも超えた広範な布置に書き込まれる出口(救済)のない脅威
「恐怖による均衡」
→この均衡自体が脅威の主体への欲望を生み出す
恐怖が示すもの…あらゆる関係性の不在
恐怖(原子力兵器)の均衡の下では、強者、弱者の区別なくそれぞれが絶対的な力を有する。
また、力が大きすぎるため、行使者ですらその力の計算ができない。
緊張関係を日常化することにより、関係自体を消滅させる等価性

第6章:等価性について

原子力兵器…ある一定の限度を超えたがゆえの同等な力
→人間には制御できない大きすぎる力は従来から存在 ex)石油問題や、公害問題等

ここから、制御技術のあらゆる分野にわたる複合化、複雑化が現れる。→技術の自己生成的展開
これを統べるもの=等価性…諸々の力が抑止しあい、補い合い、置換し合っている
ex)自然の力(風力、筋力)→電力、原子力
人間は、力同士の緊密な共生が保たれる力の全体的布置のなかに組み込まれる

個別的なもの同士の関係は消え去り、合致と非合致の「行ったり、来たり」の運動のみがのこる



第7章:通約不可能なもの
≠計算の秩序内での計算不可能性ex)フクシマの、世界全体のエネルギー経済への影響など
通約不可能なものは、他なるもの(動植物、他者、神的なもの)へと開かれている。
But...古来のこうした秩序づけられた世界は崩壊し、世界は変容する

現在の変化…形態の変化ではなく、全般的な変化
→変容原理や法則があるのではなく、逆にあらゆるかたちの変化、転換により様相や因果関係が多様化、複雑化する。
コミュニケーションなどにより、緊密に結びついた相互依存というかたちをとる複数的世界
→その主要素として非常に大きな数という計算不可能性なもの
ex)人口、消費エネルギー量、生産物の量等
→つねに増大する全般的な相互連結の過程の効果であると同時にその動因+自然災害の被害を倍増させる

第8章:フクシマという例から現在の技術化された世界の相互依存的な全体を考える

相互依存の最たる例
1 RFID(電波による個体識別)・・・あらゆるものの追跡、コントロールが可能に
2 原子時間 惑星規模の同期化

全般的な相互連関、等価性、計算不可能性のすべてを純粋状態であわせ持つ技術
→貨幣技術・・・資本主義文明の源(マルクスは「一般的等価物」と言い表す)
→あらゆる生産物や生産力は等価であり、交換可能で転換可能な価値へと一切の価値が吸収されるという原則

計算不可能なもの→一般的等価物として計算される+一般的等価物であるがゆえに、計算そのものになる
世界金融の相互接合の担い手たち・・・純粋な等価性のほかには価値をもっていない



第9章
マルクス 貨幣の等価性は、実際に生きられた生産の現実によって克服されるもの
→自身への超克といたる資本主義の歴史的な振る舞い
現在 「真なる人類」についてのあらゆる展望の霧散という超克
→あらゆる隷属から解放され、脱疎外化された人間の表象可能性が一般的等価性があらゆる合目的性や可能性の等価性ないし相互接合となる歩みのなかで消滅

膨大な「数」の相互依存
→さまざまな区分の消滅 ex)「自然」と「技術」の区分、目的と手段との区分

「質」=「価値」、「意味」が多量のものの相互作用のなかに四散する←「技術」による近代発展の暗黒面
ex)フクシマ・・・破局が世界ネットワーク全体に影響し、交錯する←自然的な破局×文明的な破局○

「区別」や「関係」が有効性をもたない全般性への思考の必要性
→「文明の危機」や「文明の転換」を超えでたもの←目的を描くことができないため

最善のものを志向することによる世界や人間を改善しようとする思考
→人間の神格化→全般化された環境主義にとって変わられる・・・技術的無意識というものに取り込まれ、発展していく

「無意識」・・・あらゆる存在者の絡み合った織物
→近代において「内在」というモチーフを促進したおびただしい文脈化が、神の後に「主体」 「意味」 「アイデンティティ」などに対する疑念を生む。

But...こうした内在や錯綜を過去に有していた超越性が減退したからと考えなくてもよい
→改善、転換という観点からは別の仕方で思考すること
→「技術」についての理解の刷新が必要

技術・・・諸々の操作的な手段の総体×
     われわれの存在様態○・・・あらゆるものがあらゆるものの目的かつ手段になるという条件へわれわれをさらす
→一般的等価性の両義的な意味
→集積・・・集めあわせることなき堆積

合目的性(未来一般を志向し、投企すること)から抜け出さなくては、目的と手段の終わりなき等価性からは抜け出すことができない。現在を思考すること

目的・・・つねに遠ざかる
現在・・・世界や自己との近接の場
→自らの目的を自ら有する≒技術。しかし、(最終的)という表象はつかない
→合目的性と有限性の接合、無限なるものの開放性
→存在すること、無限に「意味」をなす能力を認識

意味についての思考
→到達すべき目標とはならず、つねにその近くにあることが可能なものとしての「意味」

フクシマ・・・あらゆる現在を禁ずる・・・未来への志向の崩壊
→常に更新され続ける現在という条件の下で他の未来へ働きかける必要性



第10章:現在について

ここでいう現在・・・特異的なものへの敬意へと開かれる現在⇔一般的等価性や、それによる過去や未来の時間の見積もり
特異的なものへの敬意・・・非西洋文化が持っていたもの
非西洋文化・・・圧政、暴虐、奴隷制などが横行←近代文化が廃止しようとしていたもの
but...近代文化は自分自身を暴虐や不安として耐え忍ばなければならなくなった。
フクシマの後では自沈するこの文化の内外を問わず、別の道を開くことが必要
民主主義による諸個人の(破局を導く)等価性⇔平等性・・・人間存在が尊厳の点で厳密に平等
尊厳・・・絶対的な価値を有する価値→通約不可能なもの、値のつけられないもの
特異的なものの平等性から民主主義を出発させなければならない。


西山雄二
難解な哲学的テクストだったが、若手二人は思っていた以上の充実した報告をしてくれた。日本の学生(そして困ったことにとくに教員もまたプライドのせいで自分の殻からに閉じ篭る)は専門外になると萎縮してしまいがちだが、果敢にテクストに挑む姿は称賛に値する。哲学に限らず、難解なテクストは実は案外素朴なことを主張している場合がある。その点で、「みんなちがってみんないい」というのは適切な足場だろう。私も「ひとりひとりのかけがえのなさ」という表現を考えていた。その後、関心があれば、哲学的な知識によって精緻に読解してもいいし、しなくてもいい。テクストの読み方はある意味で、「みんなちがってみんないい」のであり、それがなければ、人文学のある種の脈動が途絶えてしまうだろう。

藤井淳史
今回の「フクシマの後で」では、フクシマというテーマに対して、哲学者がいかにアプローチしていけるのか、また、どのように貢献できるのかについての理解を得ることができた。ところどころ難しい部分があり、とくに本章の「9」は特に解釈が難しい部分が多く、先生の手を借りねば、十分な理解に届くことができなかった。しかし、それをもってしても、なぜ、近代文明の破綻としてのカタストロフィを記述する際に、コミュニズムおよび、一般的等価性(の曲解)が必要なのか、甚だ疑問だった。これに関しては、討論における近藤さんの意見に賛成だ。しかし、その後の、具体的な案をだすべきとの意見には反対で、そうしたことは哲学の分野では不可能だろうし、そもそも、ナンシーはそうした、解決策を求める姿勢にこそ資本主義の一般的等価性を見ているのではないだろうか。さらに、大江さんの発言に関しては、確かに、現代哲学の大家に対して、なめくさった態度をとってしまっていたと深く反省している。哲学を深く勉強した人にとっては、ひとつひとつの記述に、先達の思想のあとを見ることができ、非常に面白いのだろうなと思った。そうした域に達していない自分では、あのようなコメントしか残すことができず、非常にふがいなかった。

近藤伸郎
 志村くん,藤井くん,報告お疲れさまでした。お二人の発表どちらも,ナンシーの難解な文体にも関わらず,テキストに沿って丁寧に筋を追っていました。私個人的には,ナンシーのフクシマ論をあまり高く評価できませんでした。一般的等価性という概念から文明社会を読み解いていくという内容ですが,「システムには勝てない」という極めて当たり前のことを言っているだけのように私には読めましたし,いまさら感があります。また,具体的な提言は一切行われておらず,「考えていかねばならない」という紋切り型の結論になっています。藤井くんのおっしゃったように,「皆違って皆良い」以上のことは言っていないように,私にも感じました。ただ,大江さんがおっしゃっていた,ハイデガーとフッサールの話は大変面白かったです。もしその通りにナンシーの思想の射程があるのだとしたら,そちらの方向性で敷衍した方が,現代的アクチュアリティーはあるのでは。また,ナンシーが自著『無為の共同体』で提示した「共にあること」「声,音」とのつながりが最後で出てきますが,それとの関連の方こそ,もっと掘り下げてほしかったです。今回,西山先生がこの本を課題に選んだのは,3月のパリにナンシーがいらっしゃるから,とのこと。「予習」をするというのは大事なことで,その上でパリのシンポジウムに臨み,1,2年生はどんな感想を持つのか,今から楽しみにしています。

志村響
等価性は、破局的なのだろうか。私たちは生まれたときから等価性の布置に投げ込まれ、それを当たり前の価値観として体得する。ナンシーは、しかしこの等価性による負の伝播にしか言及していないのではないだろうか。一言でまとめて「被害」と言いうるようなものは確かに等価性の後押しにより広範囲に拡散するが、たとえばそこで「義援金」がその効力を発揮するのは、他でもない等価性の一助と言える。人は既に等価性の海を安息の地とし、その不利も利も潜在的に知っているのであろう。同時に、等価性 のもたらす危機に対する尊厳あるいは通訳不可能なものの崇敬という処置とて、消去法的に残る妥当な手段であり、その環境に置かれれば“最終的に”、誰にとっても自明となる答えである。等価性の波に呑まれないために示された処方箋が、19年弱等価性の渦中を生きて順当に辿り着いたものとさほど変わらなかったことには正直拍子抜けした。敬意が支払われる場としての現在の特異性、重要性については理に叶っているだろう。しかしここで理に叶うといった場合、結局は等価性によって支配された技術的布置の中に逆戻りしてしまう。「技術とは人の思考の様態」であり、すなわちいくらその軌道を配慮しようと、むしろ配慮すればなおさら、“思考”は技術そのものとなる。“現在”を生きるわれわれは、 もはや見積もることなしには生活しえない。「特異な現在的存在の接近に留意する」可能性はそれこそ、現代に蔓延した、概して言えば“未来志向”による反論を果たして覆せるのだろうか。

市岡あやな
今回読んだ『破局の等価性』は、難解だった。授業の中で議論された、どのような解釈をするべきかという問題を考えることも、なかなか難しい。これが書かれた背景にどんな思想があるかを知っていることは、確かにとても重要であると思う。自分がいかに知らなさすぎるか、また、多くを知らなければならないかも考えさせられた。「フクシマ」について、この名は被害を受けた地域全体を指し示すのには十分ではない。この警告には納得させられた。「ヒロシマ」と「フクシマ」が共に原子力エネルギーを示唆しているということ、だが、これらを混同してはならないということ。この辺りの話が印象的だった。3.11後、「ヒロシマ」が引き合いに出されることは多い。そこから、共通点や差異を見いだしつつ未来を見据えるにはどのような思考が必要なのか、考えさせられた。

福地ひかり
今回の講義は、議論を聞けば聞くほど難しい内容だと感じてしまい、9章などの後半部分については触れないでおきたい。さて、私が印象に残ったことは、議論が盛んにされていたポイントとは少しずれてしまうが、「軍事用の」原子力と「民生的な」原子力というキーワードである。同じ原子力でもポジティブに使われていれば人間にとって便利な資源だと考え、軍事的な使われ方と民生的な使われ方は同じではないと人類は思い込んでいた。しかし、東日本大震災の原発事故で、利用方法は異なるが原子力により人間やその他の生物に大きな危害が与えられてしまった。つまり、「民生的な」という考えは幻想にすぎなかったということではないか。また、言及しないと前述したのだが、ジャン=リュック・ナンシーに答えを求めるのは急ぎすぎているのではないかとコメントを書きながら感じている。放射能の除染や日本の電力供給の代替物についての議論は早急にやらねばいけないことではあるが、今後の原子力のあり方について現時点で結論を出すのは難解ではないかと個人的には思う。一冊の書物を出版するのだから、そのくらい論じてほしいと思うのも分かるのだが、もう少し待ってみてもいいのではないかと思う。

小島裕太
技術が、技術自体の発展を目的とするものであるか。あるいは、目的の為に技術を利用するのか。という意識の違いは大きいものだと思う。利用される技術である原子力の技術自体が悪であり、それは存在してはならない技術なのか。その判断は、用いる人々によって変化しうるのか。日本における原子力に関しては、悪と判断されつつある。それは日本の環境面だけでなく、事故を起こした事そのことによるものである。また、雑感。先日のゾラン氏の講演や、今回の課題「破局の等価性」の感想でも、言及の物足りなさについて述べている人がいた。この物足りなさは、我々自身の震災への当事者という感覚からくるものであると考える。フロイトが「人はなぜ戦争をするのか」で、「危機に陥った人はヒントを見つけると性急に答えを求める」という趣旨の主張をしている。当事者は現状からの脱却のため、答えの導きが性急にすぎる。我々がしなければならないのは、各々が足りない箇所を埋めること。そのために、与えられる情報を全てと思わず答えを「探し続ける」事だ。

吉田直子
 今回は上級生ではない、しかも哲学プロパーでもない二人の発表者が、果敢にも自分の言葉に置き換えながらこのテクストの読解を試みていたことに感動した。だからそのまとめの正当性を外から裁可するよりも、発表者のそのまとめの言葉を議論の糸口に、参加者全員でああでもないこうでもないと語り合うことが、ゼミという場ならではの、発表者のチャレンジへの敬意を含む応答の仕方ではないかと思う。そこで同じく哲学プロパーではない私も「みんなちがってみんないい」という話を出発点にして感じたことを書くことにする。私は直感的に、ナンシーは世界が複雑に相互依存しあっていること(したがって東北のカタストロフィーは東北という一地点の問題に留まらない)、その複雑性が計算不可能な状況を生み出しているにもかかわらず、それをすべて量的なものに置き換えてしまう態度(したがってあらゆるできごとは平板化する)を問題にしているのだと思った。であるならば、「みんなちがってみんないい」だと、非常に乱暴に言えば、量的な価値基準で見ればそれぞれ違っているけれども、どれもみな同じだけの重みを持っていると読み替えられるという意味で、質の量的変換は免れているものの、ナンシーがこだわる相互依存という現実が反映されていないように思う。つまりいわゆる相対主義的な考え方だと、個の尊重にはつながるかもしれないが、世界はばらばらになってしまう。それをつなぎとめるための原理をいろんな思想家がいろんな表現で模索している。例えばナンシーであれば、今回のテクストの範囲内では「平等性」ということになるだろう。我々は個々に尊重されるべき存在でありながら相互依存的存在でもあるということを表現するとしたら、「みんなちがってみんないい」はどのように言い換えることができるだろうか、と考えるのも興味深い。

大江倫子
「破局の等価性」とは、現代の合目的性のネットワークにおけるある本質構造をナンシーが名指す名である。ハイデガーのいう計算不可能なものをレヴィナス的通約不可能性に接近させつつ、このテロスからの脱出の手立てとして彼が提示するのは、超越論的主観性を含意する「現在時へと到来する特異なものの崇敬」である。これは、発表者により「みんなちがって、みんないい」にまで還元されるのだが、それはまず学生目線では、当たり前すぎてつまらない標語にすぎないのだろう。しかしこれがいかに困難なことであるかを、そして哲学者がいかなる決定を勧告するにせよ、最終的な責任は組織に属する人々が担うことを考えてみる必要がある。そして優等生という選択は、それだけで「オンリーワン よりナンバーワン」という画一性を選択したことになるばかりではない。彼らはそれにより組織に属しその30代までをさらに徹底的に組織の理念に同一化することを選択するのだが、その同一化のテロスは、グローバル企業や政府・革新自治体では〈フレンチセオリー〉、それ以外では〈保守反動〉という二つの画一性に分断され、「2位じゃだめなんでしょうか」との告発を尻目に、つねに融和しがたい各々のナンバーワンを目指して邁進することになる。この運動が技術の条件であり、人間の本質であるとされる。これこそが「ハイデガーの悲観主義」と呼ばれるものである。