小熊英二『社会を変えるには』(第3章「戦後日本の社会運動」、第7章「社会を変えるには」)
(2012年10月10、17日)

東日本大震災以後、原発再稼働反対のデモをはじめとして、さまざまなデモや社会運動が起こっている。それほど話は単純ではありませんが、かつての党派や組合主導の運動ではなく、個々の市民の自発的な参加が最近の運動の特徴です。そうした積極的な動きがある一方、やはり「デモなんて無意味」、「政治家を味方につけなきゃしょうがない」、「自分が参加するのはちょっと……」といった声も少なくはない。では、そもそも「社会を変える」とはどういうことか。日本の社会運動の意味と歴史、その方法論に関する討論。

発表者: 倉富聡(社会学3年)、伊藤玄(社会学3年)、大宮理紗子(心理学4年)


小熊英二『社会を変えるには』(講談社現代新書)



第三章 戦後日本の社会運動(86-137頁) 発表:伊藤玄

●日本の社会運動の特徴
戦後日本社会の社会運動には3つの特徴があったと考えられる。

1.強烈な絶対平和志向
・多くの国は思想的平和主義(「侵略戦争」「戦略的平和主義」は否定、「革命戦争」「独立戦争」は肯定)に属すが、日本は第二次世界大戦の経験から「すべての戦争」を否定する絶対平和主義が勢力を持つ

2.マルクス主義の影響
・少数精鋭の前衛党を組織し革命で政権をとるというレーニン主義の影響

3.倫理主義
・自分は知識人だ、学生だ、特権階級だ、だから特権や私生活を捨てて労働者に奉仕しなければならないという考え方。60年代後半までの日本の学生運動は、発展途上国の、限られたエリート層の運動という性格を持っていた。

⇒1と2の二つの特徴が入り混じることで戦後日本の特徴的な政治配置が生まれる

・保守政党は当時、戦後改革を改め、戦前回帰を目指した。当時の日本はマルクス主義が一般に支持されていたわけではないが「戦争はごめんだ」「言論制限や男女平等廃止などはまっぴらだ」と考えていた人は多く、これらの人々が投票や、入党し指導を受けて運動を行うことで社会党や共産党が「平和主義と護憲の党」として一定の議席を確保し続けた。

・戦後日本の「平和主義」や「マルクス主義」や「民主主義」は緊密に結びついていたため、社会運動で「平和」や「民主主義」を守ろうと訴えかけることは、戦争体験や階級意識に訴えかけることができるので、運動を広める効果は絶大であった。

→また、この特徴は強みと同時に弱点も抱えている

1.個別の社会問題への取り組みの軽視
・マルクス主義の枠組みでは最終的に資本主義体制を変えないと社会問題は解決できないとされる。さまざまな社会運動は社会党や共産党の指導下で、資本主義の変革運動に発展しないと意味をなさない。

2.戦後に成立した「民主主義」のワンセットへ頼り過ぎたこと
・戦争体験世代が社会から引退し、平和志向と民主主義などが、なぜ結びついているのか理解できないという世代が多くなってくると、支持が広がらなくなった。

●60年代安保闘争と共同体
60年代から現代までの、日本の社会運動の注目点は、社会構造の変遷との関係性である。これは
3つの要素から考えることができる。

1.「どういう人が参加していたか」(運動の基盤)
 ・現在の運動との最大の違いは、ある種の共同体単位での参加の多さ
  例)学生→学生寮、自治会 労働者→労働組合 「市民」→地域の安保勉強会
  ※2012年の官邸前の脱原発デモは、ほぼ全員が自由参加の人々

2.「どのような運動のやり方をしていたか」(運動の組織形態)
 ・当時の共産党は社会の中核部分ではなく「社会の周辺部の自由度の高い人たち」
 →当時は共同体から政治に至るルートが今以上に支配的でたいていの人は地縁、血縁などで、どこかの政党を支持していた。例:労組→社会党 商工会・町内会→自民党

このような下地から安保闘争の時期には、地域共闘や安保勉強会が多く行われた。特に地方で
は、これらのつながりで、デモに出てくる例もたくさんあった。

3.「どういうテーマが人々を動かしたか」(テーマ設定の変化)
 ・当時の人々を動かした大きなテーマは「戦争の記憶」に関わる平和問題 
  →安保改定が通ったら、また戦時中のようになるのではないかという恐怖

・「民主主義を守れ」というテーマ
→「民主主義」とは戦前に戻るか否かの問題であり、安定してきた生活を戦争で壊されたくないという感情



●所得倍増計画で鎮静化
 このような状況を背景にデモが国会に押し寄せピーク時にはデモに560万人が参加したが、一ヶ月後に安保の自然承認が成立し、岸首相が辞任するとデモの波は収まる。このように一カ月しか続かなかった理由は大きく3つあった。

1.運動の盛り上がりは、安保そのものへの反対というより、岸の政治体制への反発が強かったので、岸が退陣したことで波が引いた
2.毎日のように続く大規模なデモの祝祭的な盛り上がりは長続きするものではない
 例:「五月革命」約2カ月、「東欧革命」約半年、「アラブの春」約20日~約半年
3池田首相が改憲の意志がないことと、「所得倍増計画」を打ち出したことで
「政治から経済」へと人々の関心が移り、抗議活動を踏まえた政策転換があったことで人々
 に自民党への安心感が広がった。

●共同体の緩み
  ・高度成長の影響で、共同体が緩む。 
→地方で農業の機械化が進み、余剰労働力は都市に出稼ぎへ
→労働組合の役割も政治的な主張から賃上げが目的に

●学生の変化
 ・進学率の上昇と「団塊の世代」の入学に伴う学生数の増加
   →「マンモス大学」と呼ばれた状況があらわれ、学生が少数だった時代とは大きく変わり
     自治会が政治問題でクラス討議などを持ちかけても、人が集まらなくなる。

●大学の大衆化への不満
このような理由から、学生運動はもう終わったとも言われたが、突如、68年から盛り上がり
はじめる。その最大の原因の一つは、大学の大衆化であった。

・学生数の急増に伴う、設備不足、講義への不満、授業料の値上げ、学生数の増加によるエリートになる見込みの低下という状況のなかで「空虚感」を感じる学生の増加
 →「空虚な学生生活」を打ち破る、何か「革命的」なことをやってみたいという感情
  ※フランスのパリ5月革命に参加した学生にも共通、成熟した工業化社会が背景にある

・日本の特徴
1.大学進学率の急上昇が起きてから日が浅かったので、学生の意識には旧来の使命感やエリート意識も残っているという過度期で、学生こそ革命の先頭に立つのだという意識がまだあった。
2.大衆化した大学を受け入れられず、意識が古いままで、イメージとのギャップと失望感が
生まれ、不満が運動というかたちであらわれる。



●公害と住民運動
 60年代の日本はまだ貧しさが残っている時代であった。高度成長で急激に豊かになる一方で、社会にはそれに対するとまどいと「うしろめたさ」があった。この感覚に火をつけたのが、公害とベトナム戦争であった。
・公害は高度成長の陰で犠牲になっているひとがいるはずだ、という感覚に火をつけた
 →こんな世の中は間違っているという意識が広がり、公害反対運動への支援が学生からも起こる

また60年代後半は、都市環境整備や巨大開発反対などをテーマに各地で住民運動が起きた時代でもあった。
・人口の急激な増加に環境整備が追い付かず、交通渋滞やごみ処理の問題が発生
→この問題に起因した住民運動がおこり、大都市では「革新自治体」とよばれた、社会党・共産党系の首長が当選する
・地方では、公共事業による巨大開発や工場誘致が行われ、それに抵抗する農漁民や住民の運動がおきた
この時期は高度成長のひずみがいろいろな形で表れ、それに対する運動が各地でおきていた。



●ベトナム戦争
 まだ、戦後20年ほどで、その記憶が強く残っており、とにかく戦争はいけないという空気と、アジアの小国であるベトナムが懸命に闘っているのに、日本は安保でアメリカに協力し、戦争で儲けて経済成長しているという状況のもとで、反戦運動がもりあがる。

・当時の学生運動は米軍空母の寄港に反対したり、成田空港の建設に反対したりした
 →成田空港建設は、重機で農村を踏みつぶすなど、ベトナムと同じく農民が圧倒的な物量と闘っているというように映る
 ・1970年は安保改定の年であり、ベトナム戦争反対で盛りあがる世論を見ながら運動を盛り上げようとした

●「戦後民主主義の欺瞞」
日本の全共闘運動では「欺瞞」という言葉がよく使われた。全共闘を担った「団塊の世代」は、戦争を体験した世代から平和と民主主義の大切さを教えられてきた世代であったが、他人を蹴落とす「受験戦争」や大学の就職予備校化、ベトナム戦争での特需など、戦後民主主義が「うそ」ではないかと感じるようになった。



●「全学連」と「全共闘」
 自治会は力を失ってしまった。そこで連携を取るために、作られたのが「全共闘」であった。
「全学連」は戦後まもなくつくられた自治会の連合体、つまり共同体の集まりであったのに対し、
「全共闘」は個人の自由参加の組織であり、日大と東大で学内問題から自然発生したものであった。
このような「全共闘」の運動を促進したのが、ガリ版印刷機や電話の普及であった。


第三章 戦後日本の社会運動(137-186頁) (発表=倉富聡)

「自由な運動」の狭さ 「六八年」の運動に参加した人々
全共闘…学生のみ/ベ平連…学生や「文化人」
→自由度の高い人々



ベ平連のデモでは学生が主流。年長世代は主婦や公務員が週末に来ることが多い。その学生たちの運動も18から22歳の自由期間に限定される。
社会の中核である30-40歳は労組の日当目当て程度に参加しているのがほとんど。
しかし、全共闘運動に参加した学生も全体の4%程度に過ぎなかった。
→「六八年」にイメージされるベトナム反戦デモや集会などにはそれほど多くの人が集まった訳ではなかった。

全共闘運動の特徴
先進国との共通点
学生数の急増、原因が工業化社会のライフスタイルへの拒否感などであること、自由参加のネットワーク型運動が芽生えたこと。
発展途上国的特徴。急激に訪れた豊かさへの違和感や後ろめたさ、前衛党型セクトの存在など。

ユニフォーム的なそろいのヘルメットや軍隊用語、男女差別に代表される保守的感性、禁欲的な倫理主義からくる「まつり」感の無さ、全体的に慎ましくまじめ。
→急激な高度経済成長による先進国化による「保守性」によって特徴づけられた。




セクトと全共闘
保守性がもたらす問題点→社会に適合しなくなった関係や意識が無理矢理持ち込まれることによる軋轢。
政治意識やマルクス主義とは無関係に自然発生した全共闘を手段ととらえた前衛党的セクトは闘争委員会や代表会議に組織員を送り込み、主導権を握ろうとした。
→対立していたセクト同士の間で内ゲバに。

セクトが浸透すると、思想と無関係だった学内闘争よりも「革命」路線へと傾倒していった。
ゲバ棒や篭城作戦はセクトから始まり、若者たちのアピール手段となった。
→古い要素と新しい要素が混在しているこの時期の特徴。

倫理主義の弊害
運動の沈滞=セクトが主導権をとったこと、警察の弾圧強化、安保の自動延長及びベトナムからの米軍撤退、経済成長の安定など。

倫理主義
運動の後期になってくると参加率が悪くなり、路線争いや内ゲバが激しくなる。また学生は就職活動を始めると引退するので、それを「就職転向」などと批判し、ますます倫理的になっていく悪循環が生まれた。
70年代になると、ウーマンリブデモや戦争責任問題、在日コリアンや被差別部落、沖縄出身者などのマイノリティ問題が新たなテーマとして浮上し、社会運動の転換期となった。



三菱重工本社ビル爆破事件(74)
犯人グループのパンフレット「日帝本国の労働者、市民は植民地人と日常普段に敵対する帝国主義者、侵略者である。」→「一億層中流意識の定着」
実生活経験の浅い学生が運動の中心だったため、アジア問題などの抽象的なテーマへと飛躍しがちだった。

水俣病患者支援学生「自分の中に問題が無いから。」
全共闘運動の学生たちの意識→「革命ごっこ」ではないか?
→きりのない奉仕精神は「自己批判」を呼び寄せ、ますます倫理主義的になっていった。



連合赤軍事件
72年、群馬県「浅間山荘」に武装集団が立てこもった事件。12人の仲間をリンチで殺害。劣悪な環境下で正常な判断能力を失った末に起きた偶発的な事件。
→異常犯罪の定型。倫理主義の行き着く先。→日本の学生運動が終わった、と考える契機に。

「革命」などを掲げた運動は危険という認識、倫理主義の根強い存続という二つの影響が、実際の運動現場ではなく、その外側の人々の意識に今でも残っている。
政府や自民党の政策転換、好調な経済、運動自体が少数の学生によるものであったことなどの要因から日本の「六八年」は終わった。



70年代から80年代へ
「自由度の高い人たち」がいったん減り、また広く訴えることのできるテーマがあまりなかった時代。
「六八年」は、日本が発展途上国から先進国になる過程の流動期、不安定期に起きた動乱。

73年のオイルショックによって「日本型工業化社会」が完成し、合理化が進んで人々の余暇が減り、また都市への人口流入などもゆるやかになった。
→発展途上国型の混沌が整理され、急激な経済成長に伴う混乱も解消したが、先進国型の市民参加が育つほどには自由度がなく、人々は経済活動と企業中心の生活に拘束されていった。

「昭和の日本」の確立:社会運動が最も停滞
社会を背負うのは学生だという意識がなくなり、若年層の政治的関心の低下がおきた。
日本型工業化社会による共同体の再編。補助金や公共事業による自民党中心の社会システム。

「社会運動」という言葉の定着
知識もお金も時間もある、主婦や高齢者が社会運動の担い手となった。
→環境問題、自然食やエコロジー、フェミニズムなどの運動。
 ピラミッド型ではなく、自由参加ネットワーク型運動。在日コリアンなどのマイノリティも。


(1980年代、在日韓国・朝鮮人による外国人登録証の指紋押捺を拒否する運動)

(1981年8月、新潟県旧巻町での公開ヒアリングでの反対派デモ)

「経済大国ニッポン」への批判
企業社会、環境破壊、受験競争と管理教育を批判し、大企業に頼らない安全な有機農産物を求めた。
大企業のアジア進出も、歴史問題などとつなげて「経済侵略」と批判された。→「経済大国ニッポン」の安定?倫理主義の影響?

原発反対運動の歴史
初期…工業化時代初期の社会運動の担い手。農業・漁業者が反対し、労組、社会党員、弁護士、教員、学生、科学者が支援。
60-70年…水俣病訴訟や成田空港反対運動などと同列に語られた。平和、反核兵器、反資本主義、反自然破壊の問題。現在の原発はほとんどこの時期に建てられたもの。
80年代からは日本型工業化社会の利益誘導システムによって運動はしだいに衰えていった。

八〇年代の「脱原発ニューウェーブ」
86年のチェルノブイリ原発事故以後は、都市部の主婦が担い手となった。
共同体に依拠せず、ピラミッド型組織やルールのない水平的個人のネットワーク。環境保護的自然志向。→「脱原発ニューウェーブ」


(1986年4月26日、チェルノブイリ原発事故)

「三代目」になった戦後日本
日本型工業化社会は安定期に入り、人々は政治に無関心でもやっていけた。
→「何もしないで放っておいてもおさまるだろう」という感覚が政府与党に定着するのもこの頃。

戦後日本の「一代目」というべき60年代以前の政治家官僚たちは保守的であっても、共産主義や社会運動をなめたりせず、政策転換も辞さない意識があった。
80年代以降、経験が絶対的に限られる二世・三世の政治家が増えると、「内輪の政治」が蔓延した。
マスコミの報道もそうした意識に規制するようなものでやっていくことができた。
→しかし、90年代後半頃から日本型工業化社会は機能不全に陥り、従来の社会構造から漏れた「無党派層」が増加した。
自民党政権が09年に崩壊し、民主党にとってかわったあとも、政治の構造はかわっていない。




「フクシマ」以後:福島第一原発事故以後の脱原発デモ
中心となったのは30代を中心とする「自由」労働者たち。
twitterやYoutubeなどのメディア発達の影響。
産業文明や「経済大国ニッポン」に対する批判ではなく、チェルノブイリと同様に政府の情報提供や対応への不審。
日本型工業化社会下の「経済大国ニッポン」批判とは違い、原発はコストが高い、自由化に立ち後れている古い産業、再生エネルギーのほうが経済成長できる、新しい技術を使えば賢く節電できるといった議論。

社会運動があるテーマで広がるときには、そのテーマが社会のなかで構造的にたまっている不満や感情の表現手段になった場合。
→日本型工業化社会の構造を変えなくてはならないという志向の表現。
NPO、NGOの活躍、様々な社会層の混交と共存の進行。

五〇年ぶりの事態
12年夏の金曜夜に首相官邸前などで行われた原発再稼働反対デモには10万~20万もの人々が集まった。そのほとんどは組織動員と関係ない自由参加で、あらゆる社会階層の人々が参加した。60年安保では労働者と学生、「六八年」では殆ど学生だったのと対照的。
→単身世代の増加や雇用の「自由」化、少子化や晩婚化といった社会の構造変化を反映



野田首相はデモを「大きな音だね」と表現。
海外メディアや大使館関係者など、多くの外国人も関心を寄せた。
一方報道内容の大部分を記者クラブに依拠したマスコミはあまり大きく取り上げなかった。

「自由」層の増大
運動への自由参加はますます進み、従来の活動組織に変化が起き、「世代」的区別やかわいそうな誰かのためにといった倫理主義も消滅した。

デモの主催者と政治家が対話し企業と協同するなど、様々な形態の運動が増えるとともに、社会運動に対する敷居が低くなって、東京などではデモや社会運動が普通のこととして定着しているようだ。

これからの運動
2010年代の日本は80年代の西ドイツと社会条件が似通ってきた。
→緑の党のような少数党が躍進するかも?

ベックの『リスク社会』
リスク社会…人々を行動に駆り立てる
「危険」…運命のようなもので、人々は思考停止に陥る。「天災」
「リスク」…人為的なもの。行動によって防げる可能性。「人災」
リスク社会では、人は不安になり、行動せずにはいられない。「安全」と「危険」の明確な線引きができず、専門的意見の有効性が失われるとともに、誰でも発言しやすくなる。
→震災後に自分で情報を集め、行動した人々が多かったのは社会構造の変化によるもの。原発は日本型工業化社会の問題点の象徴。

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第七章「社会を変えるには」(429-503頁) 発表:大宮理紗子

―社会を変えるには、あなたが変わること。あなたが変わるには、あなたが動くこと。使い古された言葉のようですが、いまではそのことの意味が、新しく活かしなおされる時代になってきつつあるのです。―(P.502~P.503)

では、どう変わったら、どう動いたら良いのだろうか

―現代において「社会を変える」とは―
「自分はないがしろにされている」という感覚を変えること
・現代の誰しもが共有している問題意識「自分はないがしろにされている」

※日本社会において「近代人の孤独」「疎外感」を感じることが一般化したのは1960年代の高度経済成長期から。この時期に農村人口の急減、第二次・第三次産業の発達、都市の大学への進学率が急上昇したことにより農村から都市へのだ規模な人口移動が発生して、大量の人がそれまで生きてきた共同体から切り離されたため。
→個人的娯楽にいそしむことでわびしさを紛らわす若者、社会とつながることで生きている実感を持とうとする若者 (『私たちはいまどこにいるのか 小熊英二時評集』より)

・「ないがしろにされている」という意識を表現した言葉「格差」
←再帰性の増大した社会に生まれる。
しかし、再帰性の増大した社会でも状況は異なる。たとえば…
アメリカ 2011年金融エリート街の占拠が支持を集める。「われわれは99%だ」
日本  「枠」から外れて高収入を得ている人よりも何らかの「枠」で保護された正社員や公務員、生活保護受給者などが恨まれやすくなる。→現代の日本では、既存の「枠」に保護されているか否かが重要
アメリカと日本、状況は異なるが、「ないがしろにされている」という感覚が共通しているのではないだろうか。



―現代日本で「社会を変える」とは―
×首相を替えること…「誰かが変えてくれる」という意識
×カテゴリーごとのカバー…「カテゴリー」がある限り「格差」はなくならない
○「自分はないがしろにされている」という感覚を足場に、動きをおこすこと。

・現在の日本社会におけるテーマ「原発」(←※自分をないがしろにしているものの象徴)
※自分をないがしろにしているものの象徴はその時代の社会構造によって変わる。
Ex.1960安保条約 1968ベトナム戦争 2011~原発

→漠然とした目に見えない不安が目に見える具体的な形としてこの世に現れた時、人びとはこれが問題だったんだと「象徴」を見出だし、感動=行動(moved)に立ち上がる。

つまり…
震災によって、原発事故が起こりその際の東電や政府の対応を間の当たりにすることで原発と国、行政という問題を見出した、と言えるのでは?

・2011年からの脱原発デモで、多くの人が望んでいた3つのこと
1、 自分たちの安全を守る気のない政府が、自分たちをないがしろにし、既得権を得ている内輪だけで、すべてを決めるのは許せないということ。
2、 自分で考え、自分が声をあげられる社会を作りたいということ。
3、 無力感と退屈を、ものを買い、電気を使ってまぎらわしていくような、そんな沈滞した生活はもうごめんだということ。

→「原発」を止めるにとどまらない「社会を変えること」を望んでいる。



(2012年6月30日から7月1日まで、雨が降るなか数十時間続けられた、大飯原発の再稼働反対の抗議行動。警備員に花を差し、機動隊に傘をさすデモ参加者。)

・多くの人が参加して、「社会を変える」ということ
単に「原発」を止めるのなら、強い立派な政治家に任せれば良いが、それでは与えられる結果になってしまう。
→デモは誰でも参加できる広場(何か問題が起きた時、市庁舎がある広場に集まって声をあげるのは、古代ギリシャ以来民主主義の本来の姿)
一昔前の日本のデモ:労組や学生自治会といった組織が中心で行われるため、参加者も組織労働者や学生
現在のデモ:主催者は場を作るだけ、老若男女が集まる

―社会運動の諸理論―
・資源動員論
運動とは不満があるから暴動が起きるという非合理的な行動ではなくて、合理的な行動だと唱える。目標とする変革のために、どういう資源(資金や人員、外部とのネットワークなど)を動員し、どういう戦略をとって敵と闘うかを重視する。
弱点:前提が、状況や環境を把握して、資源を効果的に動員すれば、目的達成できるはずだというモデル。運動体や外部支援者、敵などが「合理的」に説明可能な行動をとってくれるときでないとうまくいかない。
→組織や制度がしっかりしており、人間がその制度に沿って形式的に行動する領域には向いている。

・争点関心サイクル論
 ある運動が盛り上がっても、そのテーマが飽きられることもあるということを理論化したもの。問題が一部で警告されても、広く知られない時期→突発的な事故などの事態によって広く認知され、関心も運動も盛り上がる時期→問題の解決のためにはコストがかかりすぎる→運動が盛り下がる
Ex. ×原発をなくすには産業文明をやめよう  ○原発がなくても意外と困らない

・情報の二段の流れとイノベーター
「情報の二段の流れ」:情報はいったん知識や関心の高い有力者に伝わり、その有力者から一般の人に流れる。これを利用してどこに働きかけるかというターゲットをしぼる。
弱点:1940年アメリカ大統領選挙の調査分析から導かれた理論。現在にも言えるか?

「イノベーター理論」
消費者のうち革新者は2.5%、その次に動く初期採用者13.5%、社会全体のトレンドから早めに動く前期追随者が34%、後期追随者が34%、遅滞者16%。初期から前期にまで広がるかが普及するかどうかにかかっている。この初期~前期の層をターゲットにする。
弱点:経験則で根拠不明確。

・フレーミング 
 「問題の認識」のしかた(フレーム=枠組み)を変える考え方。土俵を作っている認識枠組みや議論の土俵を変える。例えば、沖縄の普天間基地移転問題のさい「戦争につながる基地反対」と「ジュゴンの生息が危うくなる」という二つのアピールがなされた。ジュゴンというシンボルをかかげることで、運動の発展につながった。
弱点:どういうフレーミングをしたら有効かについての定説はない。→形勢逆転が必要な時

・構築主義と主体形成
 「問題はもとからあるのではなく、誰かが声をあげることで「問題」として構築されていくという考え方。なかった問題が顕在化し、それによって問題を共有する「われわれ」(主体)が形成されていく。Ex.過労死 →問題提起が必要なとき


(「顔ナシ」も脱原発。フクシマ以後の脱原発運動は誰もが「顔ナシ」になれるネットメディアが活用される。)

・モラルエコノミーとアプロプリエーション
「モラルエコノミー」=人間は困ったから立ち上がるのではなく、自分たちの世界認識や倫理の秩序、モラルエコノミーを侵されたと感じたときに立ち上がるという考え方。
「アプロプリエーション」=あるモラルエコノミーが存在している社会で、運動側のかかげる訴え方やスローガンにその社会では昔からよく知られていたものを使用することで人を動かす方法。Ex.慶應義塾大学で学費値上げ反対運動が起きた際のスローガン「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
弱点:特定の価値体系に訴えかけることで成功する考え方だが、価値体系の変化する場合には?
→制度的な目的達成よりも、イベントやデモなどに広く注目を集め共鳴や参加意欲をかきたてたとき

※どの理論もどう使うかが重要。その際、まず目的設定をし、制度的な変更を実現したいのか、それとも問題を広く認識させたいのか、を明らかにすること。そして働きかける対象を選び、その対象を動かすための方法を選ぶ。

―戦後日本の運動の実例―
・地域社会型の運動
成功例 1996新潟県巻町(現:新潟市)での原発建設を止めた住民投票
      フレーミング 原発の賛否→住民投票をやるか否か
・国際NGO
 啓発活動に取り組む。必ずしも制度的な目的を達成しようというわけではなく、人びとの意識を変え影響力を拡大し、最終的に政治に影響を与えようとする。知識のある側とない側で分化してしまいやすくなる。
・生活クラブ
 現在の生協のこと。1965年、食品の有害添加物が問題にされていた頃、無農薬の有機農産物を提携の農家や畜産家から仕入れ、それを都市の組合員が買うという運動から始まった。
・水俣病訴訟
水俣市は原因企業の窒素の城下町になっていて、小数の漁民が被害者に。
地域在住の詩人が告発本を書き認知度が広まる。患者団が白装束に身を包み、黒地に白い文字で「怨」と書いた旗を掲げ、東京のチッソ本社へ。目的は恨みを晴らすこと。←非合理的な行動が形式合理性を超えて強い訴えとなった。
・べ平連
1965年ベトナムに平和を!市民連合の運動の信条は「組織ではなく運動である」≠個体論的発想 ←現在の脱原発運動と近いのでは??

―こうすると失敗する―
・過去の成功経験を時代や社会条件の違うところに持ち込むこと
・個体論的な発想 Ex.運動を「組織」として考えてしまう、「統一」という発想
  あの人は活動家だ、あの人は○○派だ、という発想

―個体論的でない運動―
・運動≠組織 運動とは、ある目標のために企画をたてそれに集まっている状態
←つながりを作って自分や人を活性化する状態を生み、それによって関係や地域社会を変えていくもの。

―楽しくあること、楽しそうであること―
・具体的に集まれる場があること
・目的と手段を混同しないこと
・特性による役割分担
・楽しくあること=生き生きとしていること
参加者みんなが生き生きとしていて、思わず参加したくなる「まつりごと」が、民主主義の原点。自分個人を超えたものを「代表」していると思えるとき、つながっていると感じられるとき、人は生き生きとする。


(ゴミ拾いをしながら行進するデモ参加者。社会が闇夜へと向かっていると感じるときに、再び人々が集まることができるように。破壊や否定ではなく、未来の場を創造するために。)

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コメント(10月10日分)

西山雄二
日本社会にはデモやストといった社会的抵抗の表現に対する強烈な嫌悪感が充満している。ただし、その嫌悪感は永続的なものではなく、時代を通じて形成されてきたものだ。その経緯を現代史の背景とともに一度は学び、自分なりに昇華する必要があるのだが、学校も含めてその機会はない。社会的抵抗に対して人々が抵抗するような社会は、容易く全体主義的な状態に陥る恐れのある脆弱な社会であるだろう。さて、戦後日本の社会運動を概観するに当たって、小熊氏が提起する「倫理主義」は有益な表現だ。かつてはエリート意識をもった学生らが社会を牽引する責任感をもち、政治運動に果敢に参与した。矢面に立てない誰かの代わりに学生らは行動し、日本社会の未来のために身を賭した。現在の脱原発運動に関しても、「倫理主義」は逆向きに重要な指標となる。小熊氏がこの表現を用いて、運動を批判する者たちを揶揄しているのは興味深い。「デモはお祭り騒ぎにすぎない」「脱原発なら電気を使うな」等々、極度の純潔倫理主義が透けて見える。日本ではこうした純粋主義は根深く、どこか突き抜けない息苦しい雰囲気を感じる。「政治団体や組合の運動に利用されないように」「過度に左翼的にならないように」「イデオロギーに染まらないように」「感情論に走らないように」……慎重に中立を装う態度は重要かもしれないが、政治から距離をとり、政治を他人任せにするシニシズムを蔓延らせている。

鈴木奈都子(数理2年)
私はテキストを事前に読まずに参加したのだが、今回の授業では戦後日本の社会運動の流れを人々の意識の変化と共にとらえ直すことができた。そこで気になったのが「倫理主義」というキーワードだった。空虚な学生生活を打ち破る革命を信じた、限られたエリート層による「私生活を捨てて労働者に奉仕しなければならない」というストイックな倫理至上主義がセクトにおける自己批判や内ゲバへと発展し、戦後民主主義への欺瞞の中で高まったベトナム反戦デモが、経済成長の安定などにより沈滞していった。このような戦後の社会運動に共通していたのは、「自分の中に問題が無い」から可哀想な誰かのために動かなければならないという考え方だった。そんな今までの社会運動と対称的なのがフクシマ以降の脱原発デモであり、参加者は自らが被害者だという意識に基づいて、イデオロギーなどと無関係に自由参加で行われているという革新性を持っていると語られていたが、私はここで何となく虚しさを感じてしまう。それは、人が人を想うことの虚しさである。「私」が誰かのことを想って行動しようとするとき、それは相手を自分とは対岸にいる「可哀想な彼ら」として位置づけるということで、その意志は倫理主義やあるイデオロギーに回収されざるをえないのか。このことが現在の脱原発運動において切に問われるのが、これはあまりに不幸なことであるが、被爆する子供たちの問題においてだろう。「私」にとって彼らは対岸の「彼ら」なのか。そしてその「彼ら」のための運動は、これまでの社会運動のように頓挫するしかないのか。人が人を想うということにおいてもまた、現在の社会運動には新しいものが求められているように思う。

大宮理紗子(心理学4年)
今回印象的だったのは、感想の中で出てきた脱原発デモ参加者の話。まず、デモがテレビやツイッターで話題になっているから参加しているだけで、結局大多数の方に流れているだけなのではないか、ということについては、私は少し違うかなと思う。一つには何万人と報道されはしているが、決して大多数とは言えないから。授業の中で68年にイメージされるベトナム反戦デモや集会でも全体の4%に過ぎなかった、とあったが、現在の脱原発デモの集まりも何万人と報道されはしているが、割合として見れば数パーセントに過ぎず大多数とは言えないのではないだろうか。またツイッターは、自分の知りたい情報だけを選べるツールでもある。どんなに脱原発デモがツイッターで話題になっていたとしても知らない人も多いだろう。もちろん、話題になっているから来てみたという人もたくさんいるだろうが、あまりイメージの良くないデモのために、わざわざ足を使って時間を割いて現地に赴いているのだから、積極的な社会参加への第一歩を踏み出しているととらえることもできるのではないだろうか。次に、組合の旗やのぼりがあってもいいのではないか、という意見について私も強くそのよ うに感じる。その上で組織の旗を持ってこなくても良いのではないか、とも思ってしまう。というのも、脱原発官邸前抗議が報道で取り上げられるようになってから、呼びかけ人(あるいは呼びかけ人に近しいと思われる人)による組織批判・排除、さらに呼びかけ人の厳格で排除的な対応に対する批判が出てきてしまったからだ。脱原発を想って参加している人たちの中で批判し合っていては、運動は盛り上がらないどころかしぼんでいくだけではないだろうか。どちらかが折れることが短期的な解決策であると思うが、どちらかの問題ではなくて1人1人が寛容になれることが長期的に重要であるように思う。

土橋萌(法学2年)
以前友人が「軍隊くらい秩序のあるデモだったらいいと思う」と言っていたが(そんなデモは有り得ないと思うが)、311前はデモなんて見聞きする機会もなかった世代にここまで「デモ=危険」という認識を刷り込んだのは、日本社会の流れであることが分かった。また日本の昔のデモだけでなく、現在のメディアが取り上げる海外のデモの偏重的な報道のせいもあると思う。

大江倫子(仏文修士1年)
第3章「戦後日本の社会運動」では戦後から現代に至る諸様相が社会構造との関係性において提示され、ほぼよく記述されていると思われる。ただ私自身の経験からは、何かが欠落しているようでもある。おそらく私が子供のときに自由研究の対象とした原水爆禁止運動が言及されていないからであろう。既成政党色の強い運動には言及されないのだろうか。そういえば「セクト」と既成政党との関係も一切言及されていない。両者は分離不可能な依存関係にあったはずである。規定された階級構造と経済動向、政党政治の構造から必然的に帰結された当時の社会運動は、バブル経済の進展とともにその構造が崩壊し消滅したのであった。グローバルな経済情報構造と知の共有が可能にしたポスト近代の社会運動は 、アイデンティティ・ポリティクスに基礎づけられ代表から参加への転換を目指すが、日本ではようやく始まったばかりである。分かりやすすぎる「再稼動反対」にとどまることなく、いずれは日経的問題設定のようなより切迫した問いに対応できるようになるだろう。

コメント(10月17日分)

西山雄二
本書の第七章は社会が行き詰ったときに何度でも読み直したい章。冷静、いやむしろ冷淡な筆致で社会に対していかなる態度を取ることができるのかが、ただし、その明確な答えは留保されたまま描き出される。社会運動には動員や動員数の論理が幅を利かせる。いや、社会運動に限らず、サークル活動やマーケティング、学術講演や文化的催事まで、「数」をいかに予測し計算し成果を出すのかは、社会のあらゆる局面で重要となる。社会運動の場合、あまり動員数を気にしすぎると「楽しく」ない。一定の社会的効果(目的)をもたらすために「数」(手段)は必要だが、手段と目的の混同が起こると参加意識にブレーキがかかる。昨年からのデモの隆盛は、日本社会が組織的なデモを脱皮して、運動的なデモを洗練させる好機であり続けている。「楽しさ」と「生き生きした感覚」を現場で維持するのは至難の業。ただ、個人的な経験から言うと、小難しいことは抜きにして、現場ではいつも「楽しさ」と「生き生きした感覚」がみつかる。「数」の大小はともかくとして、社会的な異議申し立てのために「二人以上が集まること」は、つねに、すでに、感銘深いものがある。

聡倉富
私が二回に渡って考え続けたのは、変えるべき「社会」とは何なのかということ、そして我々が考えるような意味での「社会を変える」とは本当に可能なのかということだった。「社会」とは何か。恥ずかしながら社会学に関わっていても明確な答えを得るには至っていない。システム理論の立場から言うなら「人間と人間の間のやりとりの総体」といったところだろうか。そうだとすればその基本単位はもはや人間ではない。ゆえに「社会」は人の手に余り、制御不可能なものとなっている。そして再帰的近代においてはますますその様相を強め、社会は人間疎外的になってきている。「変える」べき絶対的規範を失い足元が不確定な再帰的近代では「社会を変える」ことは可能なのだろうか。ますます難しくなっていることは確かだろう。社会運動自体もいみじくも小熊氏自身が「やらないよりやったほうがまし」と言っているほどだ。人々も社会も常に流動的だからこそ、社会を変える行動を起こすには彼が何度も主張しているように目的と手段を取り違えないことが大切なのだろう。小熊氏の主張からは簡単に社会が変わらないという絶望がひしひしと感じられる。しかし、それでも人が変わろうとする、社会運動ができる社会に「変わる」ことへの希望を彼は持ち続けている。正直絶望のほうが大きかったが、無理やりでも希望を持つしかないと感じさせられた。

山下竜生
”楽しく”という言葉が運動への参加を、さらに運動という言葉自体を身近なものに感じさせる、というのが第一印象であった。しかし、楽しさという言葉がそれ以上の意図を持った言葉であることに気づかされた。参加する者から考えると、運動している目的以外にも必要なものがあるということがわかる。これは私が日本人であり、どこか一歩引いた地点から運動を見ているからなのかもしれない。そのせいか、社会運動を引き起こすということが現実味を帯びない。もしそれで活動が活発化するなら理想的ではあるが、動く人がいたとしたらその人は果たして活動家ではないのか。しかし、自然発生的に人が集まることがあるのだろうか。大きなきっかけがあり、共有が容易なネットワークが存在する今、それは可能かもしれない。しかし日本でそれを持続するためには、まだ足りないものがあるように思える。日本でせめて現状を持続するのに必要何か。その問いが私の中で浮かんだのが、私の中の運動における、一歩かもしれない。

柳沼伸幸
今回も前回に引き続いて小熊さんのテクストを扱った。前回が「これまで」に関する内容であったのに対して、今回は「今」ないし「これから」に関するものである。日本の社会運動の流れは、自分が浅学なこともあって素直に受け止めることができた。しかし今回は、若干ではあるものの著者の述べることに違和感を覚えた。まず序盤の「自分がないがしろにされているという感覚を変える」、現代の誰しもが共有している問題意識「自分はないがしろにされている」という箇所だ。恥ずかしながら、これを読んで初めて、私は現代人として重大な欠陥を持っているという事実を知った。今の今まで「自分がないがしろ」にされていることに気が付きもしなかったのだ。私が社会運動に対して批判的ではないにせよ、どこか遠いもののように感じていたのにはこのような理由があったのだろう。

大江倫子
第7章「社会を変えるには」では社会運動の起点としての「蔑ろ」意識が紹介される。出発点としてはそのとおりかもしれないが、自然的意識にとどまるかぎりは何らかの利益関心に基礎づけられる意識であり、我欲怨恨と一体化するものである。世界との関係をすべて括弧に入れて現象学的還元を通過することで、これは無にも等しい意識に変容するが、これこそが変革の起点となるべき独異な意識なのである。あなたに「蔑ろ」を感じさせているのは何かを問い詰め、そうした人々の言説や構築物をすべて一時的に括弧に入れ、その効果を中断してみよう。そうすることで何が残っているか。もしかすると何も残っていないかもしれない。しかしその残余とは、もしあれば、世界がすべて失われてもあなたに固 有なものとして残るものなのである。それはたとえばハムレットに決定を促す「蝶番の外れた」時代の在り様である。それは亡霊の厳命に応じる、無にも等しい意識なのだが、それこそが彼が正義を行うことを可能にするものである。