映画「無常素描」上映・討論会(三浦哲哉、乾彰夫、山下祐介、西山雄二)



2012年5月30日、首都大学東京(南大沢)にて、映画「無常素描」上映・討論会が開催された。討論会では、映画作品を通じて震災を伝える映画祭「Image.Fukushima」を主宰している三浦哲哉(映画研究者)、乾彰夫(教育学)、山下祐介(社会学)、西山雄二(フランス文学)が登壇した。首都大学東京の教職員、学生、他大学の学生、一般市民の計100名が参加した(主催=人文社会系FD委員会 協賛=学長裁量傾斜研究費・研究環「カタストロフィと人文学」、NPO日本記録映像振興会)。



映画「無常素描」(監督・大宮浩一)は、東日本大震災の状景をいち早くカメラに捉えて話題となっているドキュメンタリー映画。2011年のゴールデンウィークに尼崎の町医者に同行して、岩手から福島までを南下した現地の記録である。報道番組に見られるような編集はストイックなまでに抑制され、本作では音楽やナレーション、地名や人名を指示するキャプションまでも使用されていない。被災地の音や映像を直に体験することはいかにして可能か、という問いに向き合った映画と言っていい。


(山下、三浦、乾氏)

三浦哲哉氏は、「なぜ震災映画を観なければならないのか」という本質的な問いから話を切り出した。TVのみならずネット上でも震災のイメージは膨大に放映されており、ある種の飽和状態のなかでなぜなおも映画を観なければならないのか。単純な「情報」に回収されない「現地の時間のゆらぎ」と向き合うためであるだろう。映画館がどこか幻影的な空間である以上、映画を観賞する経験を通じて、現地の時間のゆらぎを保ち、観者に開いておくことが大切なのだ。

映画「素描無常」はTV関係者に言わせれば、編集以前の「素材」にすぎない。過度に加工されていない映像が物語性を欠いたまま断片的に呈示されるだけだ。この手法について、三浦氏によれば、「映画が破局を撮る」という映画の安定した主体性こそが審問されなければならない。ユダヤ人大虐殺や広島・長崎の表象においてすでに問題となったように、映画の表象機能が揺らぐ地点を示すことこそが、「映画=破局」のイメージの倫理なのではないか。



山下祐介氏は早い時期から現場に足を運んだ経験をもとに観察力溢れる議論を展開した。映画は「無常」と題されているが、この表現は一義的に被災各地に一様に当てはまるわけではない。岩手県沿岸部ではかつてから津波が起こっていたため、自然の無常さに曝される人間の営みがある。ただし、宮城県では、沿岸部に住宅地が造成されていたため、さほど巨大な津波ではなくとも被害は多大だった。これはむしろ都市災害に近い事例であり、「無常」というある種の宿命性で形容できるだろうか。そして、福島の原発事故は無常を通り越して、「異常」な事態を引き起こしている。

本作は加工されていない映像を提出しているとはいえ、やはり編集はなされている。例えば、津波は水が侵食した線まで被災地域をきれいに分断する。まったく津波の被害のない地区が存在するけれども、本作では登場しないことからも被災地のみによって構成された映像作品であるだろう。

その上で、山下氏は「東京でこうした震災映画を観ること」の意義を自問した。東京は大地震が起きると言われてきたが、実際は神戸と東北で大地震が起こった。東京で私たちはまだ「災間」を生きている。震災映画を観ることは過去の災害を体感するだけでなく、起こるであろう災害に対するいかなる効果を発揮するのだろうか。震災が起こることを知っているが信じないという想定外の思考に抗して、映像作品はいかなる未来への配慮をもたらすのだろうか。



乾彰夫氏は、たしかに本作は難解で、二回観なければわからなかった。物語性がないために、観者が主体的に解釈していかなければならないと感想を述べた。体育館に掲示された所有者不明の家族写真、破壊された防波堤の残骸などの映像を見ていると、記憶を体現している事物の存在感に驚かされる。都会とも違う集落の集合的な記憶に導かれるようにして、すでに無くなったもの――固有名をともなう人間のドラマ――が浮かび上がってくる。ただ、本作では玄侑宗久だけの語りが出てくるが、彼の講話的語りはやはり不自然ではないか、と疑義を呈した。

西山は、まず本作における写真の特徴的な使用を指摘。本作では、津波で流され、地面に散乱した家族写真が映し出される。終盤では、おびただしい数の家族写真が体育館に掲示され、持主を待ち受けている様子が五分間の長回しシーンとして挿入される。写真は「かつて在ったもの」を表象するが、本作の写真は所有者に送り届けられようとする途上にある。写真が被写体の不在感と所有者の不在のあいだで宙づりになるなかで、過去と現在の接点さえもが浮遊しているように見える。こうした二重の不在は、人々と街の〈かつての姿〉と〈被災後の姿〉の繋ぎ目とも重なり合い、その独特の浮遊感が本作の「無常」性を際立たせている。



報道番組と本映画が異なるのは、ストイックなまでのイメージ群を支える沈黙(ゼロ記号)が作用している点だ。瓦礫の風景のなかで「チョーキレイだからまた海の近くに住みたい」と言う少女は、最後にも登場し、物言いたげな眼差しで観者を射抜く。ある種不気味な存在である彼女のイメージは、観者が被災地を物語化する欲望を途絶させ、逆に、観者そのものの立場を問う。また、本作は、撮影後に東京に帰る際にゴールデンウィーク末の高速道路の渋滞に巻き込まれた様子、といういささか意地悪なイメージで終わる。渋滞の向こうにはいつもの日常が待っていて、撮影者、そして観者は日常のなかで被災地の無常を観察し、観賞する。私たちは「被災地の無常を観賞する日常になかにいること」の内省を迫られるのである。

会場からは次のような質問が出た。「構築された生のイメージによる作品とは危険な言い方かもしれない。むしろ伝わらないことを表現する点に芸術の可能性があるのではないか」「震災映画の感想はひとりひとり異なり、観者自身がつくりあげる点が興味深い」「無常と日常が対比されていたが、むしろ大震災のような無常な出来事は日常的に起こりうることではないか」「本作では登場人物の言葉が聞き取りにくいため、観者は前のめりになって映画に耳を傾けてしまう。これは肯定的な効果ではないか」

なぜ震災映画を観なければならないのか?――それは、映画館で孤独に鑑賞する経験を起点として、映画が提起する問いを共有し議論する公共空間が誘発されるからだろう。その重要性を確認することのできた会だった。



コメント

八木悠允(仏文修士2年)
 印象に残っている質問に、「この映画は鏡のように私たちの中の震災風景を映している」という発言があった。たしかにその通りかも知れない。だが一方で「被災地を描き切れていない、描けないという事態に、この映画はどうコミットメントするのか」という質問もあった。私はこちらの問題意識の方がより重要だと考える。記録映画と単なる記録とを隔てるのは、作品作者の思想あるいは記録自体の物語性である。そのどちらも、作者というフィルターによって編集されるのだから、記録映画に対峙するということはつまり、観客は記録に対峙するのではなく、作者と対峙することになるはずだ。にもかかわらず、『無常素描』が観客の震災へのコミットメントに帰着してしまうのは、単にこの作品が素描であり、未完成であり、作品が作者に帰属していないからに過ぎないのではないか。それでもフィクションならば、観客の解釈は必ず作者に対しての評価につながるので問題はない。だが今回の場合では、解釈が現実の問題に対して向けられてしまう。エンドロールでの帰路のシーンは揺れとブレが目立つ。冒頭のブレが不安や緊張の比喩ならば、末尾のブレは判断保留と迷いを表すのかもしれない。しかし、映画の全体が震災への判断の保留を表しているとは思えず、帰路のシーンは被災地からだけでなく記録する責任、つまり記録映画を制作するという責任からも逃げているように見えてしまった。

聡倉富(社会学3年)
今回は公開講義の形で映画「無常素描」を鑑賞した。映画と合わせての公開討論も大変参考になるものであった。まず「映画」としての「無常素描」だが、単純な感想としていい意味でも悪い意味でも印象に残らないただただ過ぎ去っていく映画だった。それは「素描」の映像として成功していたからであろう。素描とは、作品以前の作品である。色もなく、描線のみで、そこに作者の意図はない。しかし当然手を使って描くものである以上、額に入れられた作品ではなくても必ず作為や意識は宿っている。この映画は、メッセージや意図を排除して録画しただけの映像を目的としていたようだが、この素描の特性を踏まえられていただろうか。それ以前に、この映画には素描にしては色がついている。タイトルからして「無常」という言葉がついて仏教哲学的思想が根底にあることは明確であるし、途中の僧侶のインタビューや読経などはまさにそうである。ただの映像というには、素描の特性を踏まえられていないし、かといって意図やメッセージが明確にあるとは言えない。以上のことゆえにこのような感想を抱いたのだ。では、この映画の意義はどこにあるのだろうか。私は、この映画の存在・撮られたこと自体に最も意味があると思う。その撮影された内容や、映画としての良さ、メッセージなどよりも、たとえそれがあろうとなかろうとも、あの時期にあの時にあの場所でこの映画が撮られたこと、撮ろうと思った方がいるだけで意義がある。その意義はこれから先人々がこれを見て、議論して、何かを考えなければどんなものかはわからないが、私はこの映画が撮られて良かったと思う。

川野真樹子(表象4年)
『無常素描』を見て初めに感じたことは、この映像は今まで私が見て来た東日本大震災の画とは全く違うということである。今まで見て来た映像は報道の映像であって、どこか一歩引いた場所から事実を観察しているという印象を受けた。また、視聴者提供という形で実際に津波に遭った人が撮影した映像もいくつか見たが、それもやはりどこか距離のある現実感の薄いものに感じていた。この映画は、視線が低い=実際に現地に入り込んでいる画に見えた。だからこそ、事実を淡々と見せられているように思った。映画の中で最も印象に残った言葉は「どうせ(また災害で)壊されるのだから、おびえを残せる(街の)作り方をしないといけない」というものである。この言葉からすぐに前回のリべスキンドの建築が浮かんだ。彼の建築理念と必ずしも一致するわけではないだろうが、この言葉にもやはり「破局の後の歴史理解を反映する建築」というものが込められているように思う。

柳沼伸幸(法学2年)
私が映画を視聴して感じたことは、トークセッションでも挙げられていたことだが、無常と日常の概念である。言うまでもなく、無常は震災によってもたらされた惨状を示している。本映画のシーンのひとつひとつからそれを感じることができた。その悲惨な風景の中で生活を送る人々が存在し、日常たるその生活もまた描かれていた。無常と日常は対立するものではないのだ。無常というような状況に陥ったとしても日常は続いていく。生き残った人々は生きていかなければならない。無常と呼ばれる状況がやってきて即ちすべてが終わりとはならず、無惨な風景を見せつけられる。この点で無常というものは単なる終末より酷なものであると言えるだろう。また質疑の際に、状況そのものを体験しない限りそれを真に理解することはできないのではないかという言葉があった。確かに一理あるが、果たして状況そのものを体験できる人とはどれほどいるだろうか。広く一般にありのままの真実を伝えることは難しい。しかし、それに迫ることなしで理解が生まれるとは思えない。

井上優(仏文3年)
『無常素描』は特に十人十色の感想を持たれる映画だと思った。これを観たテレビ局の方が「素材」と表現したように、ほとんど加工されていないような現地の映像が映し出され、ストーリーというストーリーは感じられないからこそ、観客は積極的に画面と向き合おうとすることができる。現地の方の東北なまりで語られる言葉が文字に起こされていないからこそ、どうにかして自分の耳でその言葉を聞き取ろうとしたり、見えないストーリーの中でなんとか自分なりに何かを感じ取ろうとする。この映画の中で何を見つけようとしたか、見る人によって多様な違いが現れる映画だったと思う。震災直後、テレビでは津波の映像やがれきだらけの被災地の様子など、インパクトのあるショッキングな映像が使いまわされていたが、『無常素描』では、現地の「ありのまま」とは言えなくとも、テレビでは見ることのできない映像を確かに見ることができた。それでもやはり、映画は映画でしかないので表現には限界がある。この映画を観て被災地の様子を理解した気になってもそれは氷山の一角にすぎないかもしれないし、被災者の心に寄り添えた気になってもそれは思い違いかもしれない。私は実際に被災地を訪れたことはないし、東北に親戚もいないので現地の様子を聞いたりすることはできない。なのでこの映画のどこからどこまでが本当にリアルなものなのかを知ることはできない。この映画をみて、今の被災地はどんな状況なのか、そこで暮らす人々は今何を思っているのかがとても気になった。それを確かめるには、はやり現地に赴くしかないのだろうか。東京にいる我々は何をすべきなのだろうと考えた。

小玉司(仏文博士2年)
忘れたいのに忘れさせてくれない。或は、忘れることを許してくれない――主題を扱うというのが、「カタストロフィの思想」ゼミであると感じています。その中でも、直近の東日本大震災の映画など、もう見る前からだいたい内容も想像がつく上に、なぜ何時までもそこに立ち戻ることを強要されなければならないのか、というのが正直な気持ちでした。ところが、この映画の素晴らしいところは、悲惨さをあまりにも悲壮に見せ過ぎないところにあったのではないでしょうか。監督は、視聴者が、何とか耐えうるくらいの、按配で東北のカタストロフィを、編集加工していたように思います。東北の海や草木は、震災を経た後も、なお美しく、そういった、観点からは、ランズマンの『ショアー』に映し取られている、ポーランドの平原――そこではかつて、沢山の人々の死体が無造作に燃やされたことが、暗に語られますが、――その平原の雪景色の無垢な美しさが切り取られた一コマなどが、二重写しとなって、受け取られました。もちろん、津波(=自然災害)とユダヤ人の大虐殺(=人災)は、全く異なることは承知しているのですが、確かに、そこで何かがあったということを、映像として記録しつつも、あまりにも悲惨過ぎる図はあえて見せずに、それを私たちに語りかけるというような手法に、二つの映画の共通性を感じました。そして、『無常素描』の、美しい映像の原点として、その様な手法の選択が、存在したのではないだろうかと推測しました。

村上翔太郎(仏文2年)
映画「無常素描」を観て感じたことは、現在の私にとって、東日本大震災はある程度過去の出来事として扱われているということであった。映画を通して観たけれども、震災発生直後に津波の被害をテレビで観た時に比べると、大きな衝撃は受けなかった。どこか既視感を感じていたように思う。それでも私自身三月十一日は、一度は死ぬかと思うような恐怖を味わい、ただならぬ事態の中生存のためにばたばたとしていたものである。もしかすると、私のように直接被災しなかった人たちの中には、震災は過ぎ去った歴史となっている人もいるいのかもしれない。震災から一週間ほどして、東京で働く友人に会ったのだが、震災の話を切り出したときはもはや何も語りたくないという様子であった。私がこの演習に参加したのは、比較的震災に対する意識が低いと思う自分が改めて震災と向き合ってみて、なぜ自分は無関心になっているのかも含めて自身を見つめ直したかったからである。思い当たったのは、まずは自分、加えて親族や友人が生き延びていればそれ以上社会について思い悩みたくないという自分中心な感覚である。改めて自分に「それでいいのか」と問う。社会への帰属意識が希薄な自分。これからの演習でもそこに向き合っていきたい。

久津間靖英(仏文修士2年)
 とても静かな映画だった。BGMはない。鳥の鳴き声、波や風の音、町内放送のアナウンス、聞こえてくる音はとても日常的だ。私が東北の言葉に慣れていないせいもあるが、インタビューの言葉も何かを訴えるメッセージというよりは、漠然とした話し声のようだった。映像に関しても、崩れた建物、山積みにされた瓦礫、ひっくり返った車、引きちぎられた線路など、津波の爪痕が淡々と画面に映される。会場にこの映画の芸術性について触れられた方がいたが、私もこの映画を見ながらどこか静的な美しさを感じた。
 インタビューのシーンに関して。「テンションをあげないとやっていけない」「当時被災地にいなかった罪悪感」被災地の人たちの声には貴重だ。ただ私はインタビューを見ながら、震災よりは映画そのものについていろいろと考えさせられた。もしテロップや字幕があったら印象はだいぶ違っただろう。私には彼らが何を言っているのかわからない、このときスクリーンと向かい合っている自分がとても意識された。「私は今何を見聞きしているのだろうか、なぜここにいるのだろうか」こうしたどこか居心地の悪い印象をまず感じた。
 質疑応答では、映画の作り手の責任という問題もあげられた。見る人によって解釈が違う映画と言えば聞こえはいいが、それは被災者たちの声を曖昧にしてしまう行為なのかもしれない。「素描」という言葉をタイトルに含むだけに、「これが真実なんだ」という印象を見る人に与える影響も大きいだろう。映像になるべく手を加えないことで、逆に伝えるべきことがうまく伝わらないという事態も生じる。ただ、インタビューのシーンに関して言えば、テロップをつけないという監督の工夫は、見る人の目をインタビューされている人たちそのものに向けさせるという効果を発揮していると思う。もし字幕がついていたら彼らの言葉を見るもの全員が理解することはできるが、彼らの姿を私が今ほど覚えていることはなかったかもしれない。興奮しながら話すおばさん、何も言わず口をぱくぱくさせる漁師、楽しげに海について話す少女、何かを説明しようとしているおじさん、突然泣き出す老人(彼はなぜ大きなお鍋のようなものを運んでいたのだろう)。姿をストレートに伝えることは映像にしかできないと思う。監督は少なくとも映像を使って彼らの姿を伝えようとしていた。だから私にはこの映画が、「後はあなたたちでご自由にどうぞ」という投げやりな物には思えない。

藤井淳史(社会学2年)
震災関連の映画を見たのは今回の無常素描が始めてだったが、改めて震災の惨たらしさを認識させられた。特に、外人二人が瓦礫の間の一本道をトボトボ歩いて行くシーンが印象に残り、あのシーンがCGではなく、現実のモノであることを考えると身震いした。しかし、冒頭からたびたび登場するお坊さんには違和感を覚えた。タイトルに「無常」と銘打っているからだろうが、どちらかと言うと被災者の方々の口からそうした「無常感」を感じることができると良かった。また、佐古先生もおっしゃっていたが、一年たった今、当時と比べてどれほどの変化が生じているのかを描写した映画が作られれば、カタストロフィからの復活を知ることができるのではないか。さらに、現地での実情ーー犯罪などの無秩序下での逸脱行為ーーはどうなっているのか、悲惨さだけでなく、そうした側面からの「生々しさ」も知りたいと思った。今回は「無常素描」のみを見たが、他の映画も見て様々な角度から比較をすることができれば、さらに震災に対する認識を深めることができるだろう。また、この映画を見て、一度現地に行って見る必要があると感じた。

伊藤玄(社会学3年)
今回、「無常素描」を観て、私はこの映画の「無常」という部分に違和感を覚えた。この「無常」という言葉は人間目線から出た言葉であり、自然からすれば地震、津波といったものは「日常」であるのではないだろうか。勝手に沿岸に建物を建てて、自身や津波で壊されて、「無常である」というのは人間側の一方的なエゴではないかとも思ってしまう。また、映画に登場した人たちにとっては「無常」な出来事も、私自身にとっては「無常らしい」出来事にしか映らなかったし、この作品で登場人物の痛みは少なからず感じることができたが、震災そのものからの痛みは、あまり感じることができなかった。映画のクライマックスで、被災地から渋滞の高速道路の映像に切り替わって、とても皮肉的な終わり方がされた。監督自身も私と同じように「無常らしい」こととしてこの震災を捉えたのではないだろうか。また、リアルな3.11を経験していない人間にとって、この映画は材料としての要素が非常に強いように感じる。大学のような場所で多くの人と同じ空間で鑑賞し、観終わったら、皆で議論を交わす。このような行程を経てこの映画は完成する、私はそう考えている。

内田森太郎(哲学4年)
今回の無常素描上映会では映画という媒体の持つ大きな可能性に気付かされた。通常映画という表現に対して監督の意図や、ある種の約束事などを私たちは想定する。それによって映画の中のシーンの重要度を判定し、監督の意図を想定し、解釈となる。映画の解釈といった時、それはどのシーンを重視するかの取捨選択とほとんど同義となる。そこには監督がその映画の中心軸を神の視点から私たちに示唆させるのだという前提がある。しかしこの無常素描において監督の立場とはどうであるか。被災者にカメラを向けその話に耳を傾ける監督の態度、立場は、表現に込められたメッセージを見出そうと注意を向ける私たち鑑賞者と同じものであるのではないだろうか。監督自身が人々の聞き手として作品に内在する鑑賞者であるなら、作品の中に神のような存在はいない。映画に出現するあらゆる情報をコントロールしている人間はおらず、私たちが対面しているのはそこにいる出演者自身である。このような構造があることがこの映画の要であり、私たちは準備された既存の価値観や論点、メッセージを作品からすくい上げるのでなく、作品から意味を作りあげなければならない。おそらく監督自身も、また東北の人々も皆同様にこの作品からそれぞれの意味を作り上げるのだと思う。この作品は何かの出発点であってそこから何かを作る努力を私自身がしなければならないのだと強く感じた。

田中麻美(仏文4年)
ドキュメンタリー「無常素描」まず辛かったのは車窓からの映像だ。淡々と続く瓦礫の描写が辛かったのではない。車の振動による映像のブレに、映像酔いのような感じを覚えた。これは監督の狙ったものなのだろうか。ともかく、気分の悪さを抱えながら映画を観続けた。山積みの瓦礫の中でクローズアップされる瓶詰めの梅やプリクラ帳。どんな人がこれを所有していたのだろうと、想像せずにはいられなかった。先刻淡々と車窓を流れていった絶望的な瓦礫は、その一つ一つはかつて個々の人々の生き暮らした証だったのだと、悲しくなった。ここに出てくる被災者の声は、うまくパッケージされたものではない。無言状態、言い淀む部分、終盤の方に出てきた年配の男性は、方言が強くて私には何を言っているのかよく聞き取れなかった。ただ痛みだけが伝わってくる。こういった言葉にならない沈黙、絶句、のようなものを監督は描写したかったのではないかと思った。テレビも新聞も、被災地の言葉を伝えてくれるが、それは被災者が言語化可能なことだけなのではないだろうか。この沈黙にだって、同じくらい耳を傾ける必要がある。この「無常素描」は本当に学ぶ部分が多かった。終盤の若い女の子がじっとこちらを見つめる象徴的なシーン。言葉ではなく視覚で我々に訴えてくる。ドキュメンタリーであっても作り手の思いは入ってくるものだと思うが、あれはいかにも演出的に狙いすぎて蛇足だと思う。少々の押し付けがましさを感じた。

福田浩之(表象3年)
言ってしまえば、『無常素描』は問題を抱えている映画だと思う。パネラーの先生方からも、「一度見ただけでは分からない」という声が多くあがっていたが、これには全く同感で、見終わってからいまだにその本意をつかめたという感じがしない。それはなぜだろうか。二度観れば何か変わるのだろうか、それはなんともいえないが、一点、車窓を流れ去る被災地の映像に読経を取り合わせた点には、個人的には、はっきりと拒絶反応を覚えた。この編集――被災地を惨劇のステレオタイプに堕としてしまうような編集――は、結局のところ、被災地の原状に津波の濁流と悲鳴をサブリミナル的に挿入するようなマスメディアの煽情的な映像編集とほとんど変わりないのではないだろうか。そして、この映画の編集のありかたは、それが芸術映画であろうとする意図が垣間見えるほどには充分に作為的であるにもかかわらず、同時にマスコミ関係者に「素材」と言わしめるほど加工されていない素振りを見せている。このことは、やはり題材が題材であるだけに、悪質だといわなければいけないのではないか。芸術をやるなら芸術をやるで、もっと割り切ったほうがいいという気がしてならない。歴史資料を遺すつもりならば、もっと撮り方があるだろう。もちろん、部分部分を見ればこの映画には映像として優れた点も多い。避難所の子どもたちがPSPやトレーディングカードゲームに興じている場面などには、短いカットでありながら多くのことを感じさせられた。そして、なによりこの映画のポイントは、空の色なのではないかと思う。あの晴れているにもかかわらず淡くくすんだ灰色に近い色に映った空は、あの時あの場所を包んでいた雰囲気を端的に表わしているのだろうと、想像ながらそう思った。

山下竜生(仏文3年)
今回映画『無常素描』を拝見させていただいての率直な感想は、私が見てきた映画の中で最も映画らしくない映画であった、ということである。映画というのは製作者の努力に関わらずメッセージを理解してもらえなかったり、または異なる解釈をされたりと、作る側と受ける側のすれ違いが必ずあるように思われる。しかし今回の映画にはそれがまったくなかった。抗議でも話されていたが、時間そのものを映像に表現しようとしていたせいなのか、映像から伝わる時間を今の私たちがとらえることは困難に感じた。なぜなら、もちろん時間は過ぎていく、しかしそれ以上に私たちはそれぞれその時間を各々過ごしてしまった経験があり、それは3・11とともに明確に記憶されているからである。私たちのこの映画に対するとらえ方などは製作者側に届くことはなく、またそれも無意味なことのように思われる。人それぞれのこの映画に対する考えや意見などを柔軟に受け入れるための箱自体が存在しない。『無常素描』とは、その言葉が3・11だけではなく、この映画を通して見ている我々観客にも通ずる行為である、ということに、しばらく時間がたって考えてみて、思い当たる。

野田大基(法学3年)
今回のゼミでは「無常素描」を鑑賞した。意識的な編集が行われる報道番組とは違い、当時の被災地のあるがままを描いており、まさに「素描」と言える作品だった。そのため、きれいごとだけではない本音の部分を見ることが出来た。作品の中に登場した、被災地の出身で、震災当時は東京で働いていた医療スタッフの方が、被災地で献身的に働いている理由について述べた言葉が印象に残った。「出身地だからとかいう理由じゃないですよ。震災を自分が体験しなかった罪悪感が全てです。」ヒロイズムでもなく、誠実さでもない、リアルな動機だと感じた。また、他の被災者の方が「亡くなった方の分も生きなければならない。生き延びたというよりも、生かされたという感じ。」と述べていたのも、亡くなった方に対して後ろめたさを感じているからだろう。罪悪感や後ろめたさという動機は決してポジティブなものではない。しかし、だからこそリアルであり、強い原動力となるのだと思う。カタストロフィに直面した時、必要とされているのはヒロイズムでも、誠実さでもなく、もっと人間の深い所にある「罪」の意識なのかもしれない。

下東香月(仏文修士2年)
私は映画を観て、これをどう鑑賞して良いかわからなかった。私自身ドキュメンタリー映画をあまり見ないということもあるかもしれないが、鑑賞していてどことなく違和感があった。今回の討論会に来て頂いた三浦哲哉氏がこの映画を編集する前の“素材”であると語っていたが、そのことを知ってこの映画をもう1度見るとしても“素材”として鑑賞することが出来ないと思う。鑑賞後振り返っても、最後に出てきた少女の眼差しや孫のこと思い泣いていたお爺さん、体育館にたくさん貼られた写真がよく思い出される。この点、映像を取捨選択して編集された映像作品であると感じられた。また我々も映画として被災者が登場する映像を観るので、やはり作品としてしか観ることができない。メッセージ性も個人的には強く感じられた。テレビでの報道の方が良いとか映画が良いとは言えないが、映像を取捨選択しメッセージを発信しているものの、その量が大量で我々がそれを受け身に捉える点で、意外と被災地に対する固定的な捉え方をする危険性はテレビの報道の方が映画よりも低いのではないかと感じた。私にとっては映像作品の限界を感じた上映会だった。

鈴木奈都子(数理2年)
 『無常素描』とは、つまりどのような映画なのだろう。被災地のありのままの状態を嘘偽りなくとらえたという点で、それはドキュメンタリーと呼べるだろう。しかし、この映画はおそらくルポタージュではない。日付や撮影場所といった情報を持たない映像や、注意深く耳を傾けても聞き取ることが困難な東北の生の言葉の数々は、「いつ、どこで、どのようなことが起こったのか」という、ルポタージュが担うべき情報の伝達を放棄しているといえる。被災地のありのままが映り込んでいるにも関わらず、観客にその場所で起きた出来事を伝えようとするのとはまるで対極にあるようなこの映画の態度に、私たちはこの映画との距離をどのようにはかるべきか難渋することになる。そしてその距離はこの映画に映る人々にとっても同じだ。討論会の中での「被災地の人々が求めている映像はけして『無常素描』ではない」という三浦さんの言葉が印象的だったが、なんとかしてそれまでの日常を取り戻したいと願う人々に、この映画は圧倒的なまでの不条理を改めてつきつけるのである。
 『無常素描』という映画はまさに宙吊りな映画なのだと思う。こちらを見つめる少女のイメージというゼロ記号によって、作品はメランコリーと光明の間を揺れ動き、その作品の態度は見る者に語りかけるわけでなく、映る者に寄り添うのでもない。そしてさらには、余計な情報を持たない映像、つまり何らかの方向性を与えられる以前の素材の連続と、しかしそこに冠された「監督・大宮浩一」という名前によって、作品は素材そのものと作者(監督)の視点の間をも行き来するのだ。さまざまな認識の上に宙吊りになり、どの角度からも語りきることができないというのが『無常素描』という映画だとすれば、つまりこの映画は、3.11というカタストロフィを本質的に体現している作品といえるのではないだろうか。『無常素描』という作品を通して3.11について語る討論会を受けて、宙吊りのカタストロフィに手を伸ばし、そのカタストロフィに対して我々が在るべき位置を模索しようとすることは、人文知の持つ大きな意味の一つであると改めて感じた。

菅崎香乃(筑波大学大学院)
ほとんど嗚咽しながら発せられることば。その内容を正確に聴きとることは難しい。あるいは、息継ぎもしないほどに語られる。まるでことばだけがころがって、本人ですらその痕を追っていくような。映画「無情素描」で印象に残るのは、こういった「ことば」であり、その届かなさである。なにを伝えればよいのか、自分でも定められないままに、それでもなお、語りだす苦しさをおそらく越えて、語りだし、あるいは見失いながら語りつづけ、むしろ、いま発しているそのことばによって、自分の現状を定めようとするかのような。これらのことばは、相手がなければ発されることはできなかったであろう。その意味で、宛先はたしかに必要なのである。しかし、ことばはそこに届かない。その手前で流れ、あるいは、いつのまにか過ぎ越している。しかしそれゆえ、そのことばを聴くものは、理解や判断によって区切りをつけることができない。宛先のまま留め置かれる。それは、この映画自体が、届かない宛先としてあることを肯定しているからではなかろうか。その届かなさを繕うことなく。それによって気づかされるのは、話し手の意図や考えを相手に運ぶだけが、ことばの働きであるわけではないという事実だ。宛先に届かないことばも、失敗としてではなく、それだけで十全にある。そして、それが発せられる以上、わたしは宛先になるのだということ。呼びかける声が聴こえたら、それが自分に向けられたものなのか、相手がだれなのか、なにを言おうとしているのかを確かめる以前に振り返ってしまう。そんな位相が「ことば」には畳み込まれていたのだと思い出された。

吉田直子(聖心女子大学大学院)
一番印象的だったのは、映画の後半、壁にたくさんの写真が貼られた体育館のシーンである。被災地の様子はいろいろ映像で見てきたけれど、あるいは写真の話は聞いてはいたけれど、あんな画で見るのは初めてだった。今回の震災で、汚れた写真を修復して持ち主に返すボランティアの試みが被災者にとても喜ばれているという話を聞いたとき、最初少し意外に思った。これまでも多くの自然災害があったが、そういう話を聞いた記憶がなかったからである。なぜ被災者は写真を取り戻すことにこだわったのだろうか。そのことが前からずっと気になっていた。そんな中で見たあの映像だった。例えば西山先生は「二つの不在」という解説をつけられた。なるほど、そういうふうに考えることもできる。一方、私があの映像を見て思ったのは、写真を探しにくる被災者は、ゆかりのある写真を取り戻すことで、これまで自分が生きてきた日々を振り返る時間が欲しかったのではないかということ、そのことを、明日を生きるための支えにしようとしたのではないかということだった。

大江倫子(仏文修士1年)
3・11という未曾有のカタストロフィについて、報道に回収されない現地の映像そのものに向き合うこと、加工以前の素材をそのものとして差し出し討議に付すことを目指した映像作家の意図は、この上なく現象学的であり、正当である。しかし「対象そのもの」は眼前の事実と混同されてはならない。それは眼前の事実から出発して、自らの確信の根拠を徹底的に問い詰めて初めて接近できるものなのである。私たちは眼前の報道映像から出発して、これは加工されていると確信する。それはなぜか、どのようにしてか、と問い詰めてから現地に向き合うこと、そうすることで初めて「現地の映像そのもの」に至ることになる。もしこの作業を欠くならば、現地に赴いても、また加工されないと称する作品に接しても、報道以上の発見に出会うことはないだろう。加工のヴェールを剥ぐにはつねにそれなりの覚悟を要するのだ。さて私自身がこの映像から見出した「報道に回収されないもの」とは、むしろ事後的に加工されたかに見えるあの僧侶の言表、三浦氏自身が「誤りだと指摘された」と告白するものである。災厄そのものを無抵抗に受容しそれへの服属に至ることを「無常」と名指し価値付け肯定し推進しようとするあれら三つの言表は、報道には決して顕在化することのないあるイデオロギーを、それが通用する場がまだあることを顕にしているのだ。私自身にとって「無常」とはカミュの不条理と重なるものであり、そこからある希望につながるものと考えている。これまでのカタストロフィの報道で最もそれに近いものを感じたのは、新聞の連載記事で被災者の子供たちの思いを読んだときであった。以前に熱中していたあれこれの戯れが、もはや無縁のものとして淡々と語られている。反復と変化の予感を湛えつつ。