ウルリッヒ・ベック『世界リスク社会論――テロ、戦争、自然破壊』ちくま学芸文庫
(2013年6月5日) 発表者:柴泰輔、堀裕征

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リスク(Risiko)と危険(Gefahr) (ドイツ語)
・危険(Gefahr)⇒人間の営み、自己の責任とは無関係に外からやってくるもの。Ex)天災
・リスク(Risiko)⇒人間自身の営みによって起こる、責任の伴うもの。Ex)事故
 リスクは社会のあり方、発展に関係している。リスクとは、自由の裏返しであり、人間の自由な意思決定や選択に重きをおく現代社会の成立によって初めて成立した概念。

ベックの世界リスク社会論 
産業社会にあっては制御可能であり、保障可能であったリスクが、制御不可能、保障不可能な危険なものに変質し、
それがもはや国民国家の枠内、一国社会に留まらず、世界規模、世界社会で広がり、
その結果としてリスクを受けるのは世界市民なのであるが、
科学、技術、経済といったリスクを生み出している決定主体はいまだに国民国家の枠にあり、
その結果、下からの世界市民の抵抗運動が喚起されるとするテーゼ



「言葉が失われるとき――テロと戦争について」2001年11月、モスクワにおける国会講演

0.はじめに (p21-24)
【2001年9月11日 同時多発テロ】
「言葉が失われた」…従来のテロや戦争の概念では、その本質的な意味をとらえられず、沈黙を余儀なくされた。
・国家間でない  ・矛先が罪のない人々 
・国内の司法にとっての犯罪ではない ・警察もどうもできない

 世界像の支柱となっている区別がなくなった。
(戦争と平和、軍隊と警察、戦争と犯罪、国内治安と対外安全保障、国内と国外)
『この状況を打開するために、世界リスク社会の概念を説明し、この地平において、一連の概念を批判し、新しく規定することを試みる。』

1.世界リスク社会とは何を意味しているのか (p24-34)

【世界リスク社会】 = 言語と現実の乖離 
Ex)「一万年後に生きている人たちに、同じメッセージを伝えるための概念や記号はどのようなものでなければならないか」

・言語…思考し、行為する際によりどころとしている数量化可能なリスクを扱う言語。Ex)喫煙者のガン発生率
・現実…数量化することのできない不確実性の世界 Ex)チェルノブイリ、異常気象、人体遺伝学を巡る論争、アジアの金融危機
【世界リスク社会の新しさ】… 文明社会の結果として、地球規模の問題や危険をまき散らしていること。

【世界リスク社会における危険】
①生態系の危機 ②世界的な金融危機
③同時多発テロ以降の国境を超えたテロネットワークによるテロの危険性

「世界リスク社会特有の政治的なチャンスと矛盾」
・危険のグローバル性を受け入れる⇒ 新しい世界政治のチャンスを切り開く連帯の約束をもたらす。
・テロ攻撃による、各国の接近⇒「グローバル化とは、暴力的で病的な破壊欲求に対する、世界規模の運命共同体がうまれることなのだ」という理解が深まる。

【世界リスク社会における自己再帰性】 
危険のグローバル化の認知により、国際政治と内政のシステムが形を変え、テロに対する戦いにみられるように逆にグローバルな同盟を生み出す。
Ex)アメリカは世界の残りを敵に回して、ビン・ラディンを捕まえることはできない

【危険のグローバル化の二重性】
1政治的リスク共同体の新しい形式を作り出す。
2危険にさらされる人々に、地域格差を生み出すことになる。
Ex)地球規模の環境問題で、先進国が不当にエネルギーを消費する

交渉によるグローバルな解決が必要なため、「これさえもグローバルな連帯をもたらす」
しかし、世界リスク社会の挑戦に対する答え … 国や地域によって違う。
 ⇒ 万人の万人に対する愛情関係によって解決するわけではない。

「一方では、言葉の沈黙を打ち破り、自分の生活関連におけるグローバル性を、痛みを伴って意識させ、他方では、新たな対立の方向を示し、同盟を生み出すということが、世界リスク社会における自己再帰性なのです。」



2.テロと戦争  (p35-42)

【軍が標的にしているもの】
過去…自分と同レベルのもの(国民国家の軍事組織とその防衛施設)
現在…国家より下だが、全世界を相手どるもの(超国家的な反抗者やネットワーク)
→軍事の領域において距離というものが消滅し、国家による暴力の独占が終わる。

【テロリストのネットワーク】=「暴力のNGO」
脱領土的、脱中央的なテロネットワーク。⇒「戦争」という概念ではとらえきることができない。

【テロリスト】
過去…自分の命が助かるような形での犯行
現在…自爆テロリスト⇒経済的、道義的なことを無視した、極めて残忍な行為者である。

「自爆犯とその犯行は、厳密な意味で単独のもの」 犯人たちは、自分で犯行声明を出し、自己を裁く。
→テロを指令している国家や黒幕に責任を帰することはできなくなる。
→戦争の個人化の一歩手前まできている。(P.38)

未来型技術(ex.遺伝子工学、ナノテクノロジー、ロボット工学など)
 ⇒国際的に有効な手立てがなされない限り、戦争の個人化に加担することになる。

【戦争の個人化の結果】
・「誰もが潜在的なテロリスト」…自分が危険人物ではないことの証明。
・「民主主義の死」…政府 vs 市民
・「良い」テロリストと「悪い」テロリストとの区別がなくなる。
     …尊敬されるナショナリスト/軽蔑されるべき原理主義者

【この挑戦に対する答え】
・テロによる被害をうけた国家による私刑の禁止
・テロに反対する国際的な協定
(1)テロリストの国家を超えた追及に法的基盤を与える
(2)統一的で普遍的な法空間をつくり出す
(3)すべての国家が批准する
→世界中どこでも罰することができるようにする。
『あらゆる国家が団結して制裁を加える可能性を覚悟しなければいけません。』



3.経済のグローバル化と新自由主義

世界リスク社会の地平において「経済のグローバル化」と「新自由主義」の概念はどのように変化しているのか、という問い。

テロ攻撃や炭疽菌の危険が投げかけた問い。
新自由主義の凱旋は終わりを迎えたのであろうか。経済のグローバル化がどのような対立をもたらすのか。

新自由主義の勝利
国家から解き放たれた経済と市場のグローバル化が人類の大きな問題を解決し、エゴイズムの解放によって、不平等に対する戦いが世界規模でなされ、グローバルな公正さに対する配慮がなされるという期待によって可能になっている。

危機の時代における新自由主義
危機の時代におけるそれはいかなる政治的な答えも持ち合わせていない。
崩壊を前に、グローバル化の結果生じた問題を修正する理論は幻想であった。
また、テロの驚異はそれらが抑圧してきた真理を明らかにする。

世界経済は存在し得ない
世界経済と国家は切り離せず、法により統制された暴力を持たない紛争調停組織や形態なくして、世界経済は存在し得ない。

我々に必要なもの。
新自由主義にとって代わるものが必要であり、それは何か。
『自由な世界経済における危機と対立の可能性を適切に制御できる拡張された政治概念』
『この転換を各々の責任として引き受けるようなアクティブな文明化社会や市民社会や社会運動に対する理解』

同時多発テロ以降
国家自体が国家を超えた協力の可能性と力を発見した。
また、新自由主義に対する対抗原理、国家の必要性、つまりは安全の保障である。
確かにこれらは神聖な国家主権を超越したものであるが、近いうち起こりうる世界経済の危機に際しては体験しうる。
経済は、新しい規則と基本条件に適応したものでなくてはならない。

グローバル化
テロリストによるグローバル化への抵抗は、彼らの目指したものとは正反対の事態をもたらす働きをした。このことから、グローバル化への抵抗はグローバル化を速める結果となる。
つまりグローバル化とはそれに賛成か反対かといった二つの対立する道を通して進められていく奇妙な法則の上に成り立っている。

危機世界において
テロに対抗するには反テロ連合に新たな柱を立て、文化の架け橋を作る。グローバル化の被害者だと思っている第三世界や第四世界との対話を進めることが肝要である。

4.国家と主権
世界リスク社会の時代において「国家」と「主権」という概念はどのように変わり、どの程度変化するのか。

テロ攻撃は国家を強化する。
結論から述べればテロ攻撃は国家を強化するが、一方でその歴史的形態つまり国民国家としての価値は低下する。

外交と内政
今日リスクの時代においては、これまで選択の自由のあったグローバルな同盟が対外安全保障のためだけでなく、国内治安のために必要とされている。それゆえに外交と内政の二つがこれまでとは違った形で必要とされている。

超国家化
グローバル化したテロを前に国家の安全のために取られる唯一の道は国家を超えた協力である。
諸国家は自国の利益のために脱国家化しなくてはならないし、超国家化しなくてはならない。
つまり、グローバル化された世界において自己のナショナルな問題を解決するには自己決定権をある程度放棄しなくてはならない。

新時代
自己決定権の縮減の結果として、主権を獲得する。また、超国家的組織において共有化され束にされた主権は個々の国家の主権の潜在能力を高める。
グローバルなテロの驚異だけでなく、世界リスク社会全体が国家を超えた、多国間の協力と主権の新しい時代を生み出す。

民族国家化
中東欧諸国家における国民国家を個別主義的な民族国家に逆戻りさせようとするこの新たに覚醒され、煽り建てられたエスニズムは、一見すると、世界リスク社会の挑戦に直面した協力的な超国民国家の発見と展開に相反するもののようであるが、実際はその逆である。

世界へと開かれた国家と監視国家
世界へと開かれた国家においては国家の主権を新たにし、拡張するために自己決定権が縮小している。監視国家は新たな協調勢力によって安全と軍隊が重視され、自由と民主主義が軽視される要塞国家に拡大してしまう恐れがある。

コスモポリタン的国家体系
国家を超えたテロリズムに戦いを挑むことが問題となっているとき、何のために戦うのか。
この問いに対する答えが他者の異質性を認めるコスモポリタン的国家体系に存在する。
コスモポリタン国家では、一方での国家の自己決定と他方での他者への責任、つまり外側の外国人に対する責任を両立させる必要性を強調している。
コスモポリタン国家は国家がナショナリズムに対して冷静であるという原則があり、また、国境を超えた民族的・国民的・宗教的アイデンティティの共存を立憲的寛容の原則によって保障しなくてはならない。



5.展望―世界リスク社会のチャンスについて

ここまで述べた上で、現在の世界リスク社会において筆者が挙げる結論及び可能性3点

国際的な法基盤
軍事力の権限、犯人の引渡し、裁判所の所轄の問題同様、反テロ体制、税務捜査の問題を規定する国際的な法基盤を対テロ連合のために作ることが可能であり必要である。
この手段のみがめまぐるしく動く歴史的・政治的文脈における長期的な挑戦に現実に取り組むことができる。

対話による政治
連盟・連合の約束を軍事手段のみならず「対話による政治」によって果たすことが必要である。
特にイスラーム世界において、さらにはグローバル化によって尊厳を脅かされていると感じているその他の文化に対して重要な働きをするだろう。
それによってのみ、軍事的行動が挑発する結果になる事態、つまりテロリストと世界中のイスラムの人々とが手を組むといった事態を防ぐことができる。
そしてそれらは文化的かつ外交的に対話をしていこうとするヨーロッパにこそ相応しい。

世界リスク社会の危険はチャンスである
最後に、世界リスク社会の危険はコスモポリタン的な複数の国家の間にそれぞれの地域に適したかたちの協力構造を作り上げるためのチャンスに変えることができるだろう。
また、それは必要な社会変動を進め、グローバルにも地域的にも活動している社会運動の源でもある。


倉富聡
ベックは、近代が進み生産力と社会保障制度が発達した社会においては、富の分配から、「リスク」の分配へと社会的課題が移っていくと考えた。「リスク」とは、ゼミで指摘されていた通り、「人間自身の営みによっておこる、責任の伴うもの」であり、特に近代が生じたことによって生じたものである。ここでベックはポストモダンをオートポイエーティックな「再帰的近代」として設定している。弁証法史観的、もしくは社会進化論的な直線的発展はもはや存在しない。近代社会は自己が生み出した成果によって反省と変質を要請され、絶えざる変容の可能性を保有している。マルクスやヘーゲルのような「大きな物語」はもはや社会の原動力になり得ず、リベラリズムやリバタリアニズム、コミュニタリアニズムが新自由主義の弊害を克服しようとしている。ベックは、新自由主義に代わるものが我々に必要だとしたがそれは「自由な世界経済における危機と対立の可能性を適切に制御できる拡張された政治概念」だと彼は言う。これは彼が示したリスクの分配・分散を目指すのではなく、さらに大きな枠組みで「制御」しようとするものだ。社会学者としてはあまりに素朴すぎる解答である。あまりに納得のいかない結論だった。ゼミではあまり取り上げられていないが、「リスク」への詳細な政治思想的な考察もしなければならない。

柴泰輔
やはり理想と現実は一致しないというのが、率直な感想である。ベックのいうとおり、国際的な法基盤をつくり、対話による政治を完璧に行っていくことができれば、今よりテロの危機というのは減少していくと思う。もしもこれだけグローバルな理解が世界中で浸透するなら、どこへいってもラブアンドピース、テロの危機はなくなるであろう。しかし現実をみれば、現在日本は韓国、中国と歴史や領土の問題でもめている。北朝鮮とアメリカなど、理解とは程遠い国同士の関係が、地球上いたるところに存在している。そう考えると、まだまだこれからも国同士の敵対関係を解決していかなければ、戦争の個人化の阻止なんてできるわけがないと、私は思う。この本は、ベックがどういった人物で、どういった考えを持っているのか前もって知っておかないと、理解に苦しむもののように感じる。実際私がそうだった。ドイツを代表する社会学者だけあって、たしかに彼の理論はとても興味深いものであった。

柴﨑勇人(歴史考古学2年)
私は今回の『世界リスク社会論』を読んで前半は面白いと思ったのですが最後(とりわけ5章)はあまり納得のいくものではなかったです。「対話による政治」によってテロリストとイスラーム勢力のくっつきを妨げることが可能でそれは「ヨーロッパこそふさわしい」としている部分に違和感を感じずにはいられなかった。19世紀~20世紀のヨーロッパ中心主義者の著作を読んでいるような感覚であった。現に自分が知っている例を挙げさせてもらうと、トルコはイスラーム諸国とヨーロッパ諸国をくっつけようと政治的に頑張っていた。そしてトルコはアジアの国である。(今トルコは色々と問題を抱えているが…)このように誰にでも可能性はあると思う。続いて話は変わりますが、1章で出てくる「一万年後の人々にメッセージを伝える」というところですが、我々はいきなり一万年の人のためのメッセ―ジを用意する必要はないのではと思った。なぜなら、その前に200年後の人々が我々のメッセージに気付いて一回その時代の言語に直し、それがまた再び200年後の人々によって訳され…というように駅伝制によって物事は伝えられると思う。実際今ある歴史も然りだと思う。国家間を超えたテロが横暴する時代であるが、その力に対抗できるのもまた国家観を超えた協調・協力だと思うので手を取りテロリストによって罪のない命が失われることない世界を一日でも早く構築できればいいなと思った。

野木春奈(仏文2年)
9.11同時多発テロが起こった当時、幼心にも大変なことが起こってしまった、とショックを受けた記憶があります。そして未だに新聞を読んでいると、9.11と何かしら関わりのあるニュースを見つけることもあるので、この事件の重大さはなんとなく理解しているつもりになっていました。だから「はじめに」の部分で紹介させていた、「従来のテロや戦争の概念では、その本質的な意味をとらえられず…」の部分にはとても興味を惹かれました。自分が想像していた以上に9.11がもたらした歴史的意味は大きいのだ、と思うともう一度今まで見聞きしたニュースや9.11に関連した物語や作品を改めて見返してみたくなりました。同時に、授業前に読んでいなかったけれどこの本を読んでみたい、と思ったのですが…。やはり発表後に意見をおっしゃっていた方々同様、結論の部分には問題があるように感じましたし、がっかりしてしまいました。この本が書かれた時以上にグローバル化が進んでいるであろう現在の状況も踏まえながら、どんな結論だったら自分は納得できたのか考えてみたいです。

大江倫子(仏文修士2年)
9・11テロ発生後二ヶ月の衝撃のうちに講演として述べられたこのテクストは、「国際的法基盤」や「対話による政治」を結論づけるのだが、このあまりに当然であるにもかかわらず実現困難な実態について洞察を深めたことになるのだろうか。たしかに各章末尾には、抑制された語調に留まってはいるものの、その実現困難性が示唆されており、発表者の的確な読解に要約されている。それは第1章では「危険のグローバル化の二重性」すなわち地域格差の問題であり、第2章では「民主主義の死」、第3章では抵抗が従属を促す「グローバル化」の逆説、第4章では「ナショナリズムへの寛容」である。これらに対して考察を深めることなく第5章では「国際的法基盤」「対話による政治」が反復されるが、著者の含意を言語化すれば、それはこの両概念が、前記4つの問題認識を踏まえて、まったく他なるものを許容すべくその意味を変容しなければならないということである。それこそがリスク社会を来るべき民主主義に変容するチャンスになるのである。