2009年2月 韓国(ソウル)

大学の外―人文学にとって現場とは何か

大学の外―人文学にとって現場とは何か(2009.02.15)


早朝、早尾貴紀、森田團、大竹弘二(UTCP)、國分功一郎(高崎経済大学)とともに飛行機に乗り込み、ソウルに向かう。ソウルの気温は思った以上に穏やかで寒さを感じない程度だ。到着後、明日開催されるワークショップの打ち合わせのために「研究空間スユ+ノモ」を訪問した。



研究者の知的共同体「スユ+ノモ」の独創的な挑戦に関しては、すでに昨年夏のブログ報告に掲載した。コ・ビョンゴン、イ・ジンギョンさんら懐かしい顔が出迎えてくれ、施設内のカフェでひとしきり談笑した。

私たちが話し合っていると、日本語を話す人もそうでない人も、知らない間にいろいろな人が寄ってきて傍に腰かけ、次第に話の輪が広がっていった。私たちは彼らに通訳の仕事しか依頼していなかったのだが、すでに発表原稿4本を翻訳してくれていて、とてもありがたく感じた。



2週間前、ブランショ研究者のPark Joon-Sangとパリで出会った。「来月ソウルに来るならば、自分が運営しているAcademy of Philosophy (通称Acaphilo)を訪問してほしい」、ということで「スユ+ノモ」の後で訪れてみた。



Acaphiloは「哲学の大衆化」を目指して2000年にソウル市内に創設された私的な研究教育組織である。講義料は一年120万ウォン(12万円程度)で好きなだけ講義を受けられる。今学期(全8週)は32の入門・専門講座と8つの語学講座が開講されている。ネット上での論文や映像視聴サーヴィスを受けられるネット会員や生涯会員の枠もある。Acaphiloの目的は「開かれた討論の広場」を提供することだ。土曜フォーラムでは映画上映や小説家の講演などの催事も開催されており、将来的には哲学図書館、哲学書店などの創設を構想しているという。



韓国では大学アカデミズムを指して「制度圏」という表現が用いられ、「スユ+ノモ」やAcaphiloはその外に創設された研究教育の現場である。訪問した私たちが即座に思ったことは、何故このようなことが可能なのか、という問いだ。日本でこのような研究者の施設を構想し実現することは困難であるように思えるが、その違いは何だろうか。韓国では日本以上に大学院での高学歴ワーキングプア問題が深刻だからだろうか。80年代の社会運動の余熱のなかで学問的アクティヴィズムの力が残存しているからだろうか。


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明日、ソウルは底冷えがするほどの寒さとなる模様だ。「スユ+ノモ」とUTCPが共催するワークショップのタイトルは「人文学にとって現場とは何か」である。

ワークショップ「人文学にとって現場とは何か?」@研究空間スユ+ノモ

ワークショップ「人文学にとって現場とは何か?」@研究空間スユ+ノモ(2009.02.26)



2009年2月15日、ソウルの研究空間スユ+ノモにてワークショップ「人文学にとって現場とは何か」が開催された。〈スユ+ノモ〉のみなさんの入念な準備と配慮のおかげで、実に楽しく素晴らしい内容の会となった。

午前は板張りの広い空間で伝統的な木の机で、午後はセミナー室で椅子に座って議論をおこなった。午前の部の部屋は大変居心地がよく、空間配置によって話しやすい雰囲気が醸成された。部屋の隅にはお茶とお菓子、ミカンが並べられ、基本的に飲食しながらの議論となる。

午前は、國分功一郎(高崎経済大学)氏が 「歓待は何でないか?―クロソウスキーとドゥルーズから考える」、李洙榮(スユ+ノモ)氏が 「後期フーコーの倫理学を中心にした他者の問題―知と主体のコミューン的形成の問題」と題された発表をおこなった。












午後は「人文学の場所」と題されたセッションがおこなわれた。

西山雄二(UTCP)
「人文学にとって大学とは何か―ジャック・デリダ『条件なき大学』をめぐって」

 西山はまず、日本の国立大学をめぐる改革(一般教育科目と専門教育科目の区分の廃止、独立行政法人化)を自由と責任という観点から紹介し、大学と社会の関係の問いを提示した。1990年代、一橋大学学長だった阿部謹也は俗社会のなかにとどまりながらも大学は聖なる雰囲気を保持するべきだとし、他方、『知の技法』三部作を刊行した小林康夫は知識の枠組みそのものの行為遂行的な変容とともに大学の知を社会に対して開こうとした。だが、とりわけ独法化以後、内実のないエクセレンス(卓越性)概念によって、大学は社会‐経済的な論理に浸透され、そうした大学と社会、内部と外部という視座から問いを立てることができなくなる。





 グローバル化時代において、大学および人文学の役割や責任とは何か。人間が内在的な仕方で人間の営みを無条件的に探究することは、人間が人間を信じる力を絶やさないことであり、そこに人文学の使命はある。新自由主義的趨勢が人々の生存競争を加速させるなかで、大学の責任とは合法的な争いへの信を残しておく端緒となることである。小林康夫が知識から行為へ、認識から実践へと大学の問いを移行させたのだとすれば、西山はさらに、研究教育への信という地平において大学の困難さを思考しようとする。

高秉權(コ・ビョングォン)(スユ+ノモ)「人文学にとって現場とは何か」

 高秉權(コ・ビョングォン)は、彼が実践している「現場人文学」をとりあげつつ、知は生を救うことができるか、また、そうした救済の力を研究教育者がどの程度信じているのか、と問う。刑務所在所者との〈平和人文学〉、野宿者との〈聖フランシス大学〉、脱性売買女性との〈人文学アカデミー〉、障害者との〈黄原人文学講座〉などをおこなっている高にとって、人文学とは社会的弱者がその貧困状態から脱するために必要なもの、つまり、自分が生きていることを実感するように促す知的実践である。





 高は、2006年に『希望の人文学』という題で韓国語訳が出版されたEarl Shorris, Riches for the Poor: The Clemente Course in the Humanities(W W Norton & Co Inc, 2000)を引用して、「政治的な生が貧困から抜け出させてくれる道だとするなら、人文学は省察的思考と政治的生に入門する入り口である」と言う。貧しい人々が私的な孤立から脱し、「公的な領域における行動する生」を生きることができるとき、貧困が克服されうるのであり、人文学はその契機をもたらす。ただし「現場人文学」は決して貧しき者たちを「立派な市民」へと作りかえる矯正やリハビリのプログラムではなく、むしろ彼/彼女らの「人となり」をその社会的な文脈において問題化する。重要なのは、当の人文学者自身が「わたしたちの知は信頼しうるのか?わたしたちは人文学に希望をかけてもいいのか?」と問い続けることであり、彼/彼女らの生の変革がなければ人文学は救済の手段とはならない。





 ニーチェはキリスト者を他と分けるものは、彼/女らの「信仰」でなく「行動」であると語った。救いとは実践による変化、実践上に現われた変化であるのみだ。イエスにとって重要なことは天国を感じるためにどのような生を生きるかであり、どのような信仰をもつのかではない。同様に、知に信頼を抱き人文学に希望をかけるということは、知への盲目的な信仰を意味せず、知を実践することである。高は生の変革と連帯にこそ人文学の真価があるとした。




 その後、討議は結局2時間半以上に及び―高氏は「マラソン的」と形容した―、さまざまな議論がなされた。

 「現場人文学において、責任の問題をどのように考えるべきか。説明責任と応答責任という二重の意味において。」「それぞれの現場において、参加者の学びが成立する適切な人数とはどのくらいだろうか。」「時代を巻き込む問いを生起させるのが現場の役目ではないか。」「日本と比べて、韓国では学問と権力との結びつきが強く、高さんが大学制度ではなく、その外部に人文学の現場を求めるのはそうした社会的背景も影響しているのではないか。」「デリダは『すべてを公的に言う権利』を提起したが、それと同時に、彼は検閲の問題を考察することで『何を言ってはいけないのか』という問いも考慮していた。」



 森田氏が発した問いは高氏の発表だけでなく、「研究空間スユ+ノモ」の活動そのものに対する深い問いかけだった。「知を生の現場と接近させるという試みは理解できるが、しかしさらに、そうした知と生の関係を批判的に思考する知の営みが必要だろう。知と生を同一視するとそれは神話の状態に近くなるのではないか。知と生の関係そのものを革新していく視点をどのように確保すればよいのだろうか。」

 私たちUTCPは「グローバルCOE」という、大学制度の「選択と集中」の結果編成された公的な研究拠点である。他方で、〈スユ+ノモ〉は若手研究者によって大学制度の外に創設された在野の私的な機関である。この二つの現場の出会いがいかなる出来事をもたらすのか、私たちにとって興味深い試みだった。全体として、緊張感に満ちた議論の質は高く、会場からの積極的な質疑も的を射たものが多かった。会場には、韓国国鉄の鉄道員で幾度もの不当解雇に対して裁判闘争をおこない、再雇用を勝ち取ってきたという方も耳を澄ましていたが、彼にとって人文学の現場はどのように映ったのだろうか。

 研究教育は時代を巻き込む問いが生み出されるような現場を必要とする。現場の問いとはそれゆえ、問いを生起させることはいかにして可能か、という「問いの問い」である。出来事に参加する者が洗練された歓待の技法でもってこうした研究教育の力を信じなければならない。今回、私たちはそうした出来事をさらに信じる力を受けとった。

 今回のワークショップを準備・運営された〈スユ+ノモ〉のみなさんには深く感謝する次第である。




ワークショップ「政治的思考の地平」 @延世大学

ワークショップ「政治的思考の地平」 @延世大学(2009.02.26)



2009年2月16日、ソウルの延世大学にてワークショップ「政治的思考の地平」が韓日の若手研究者によって開催された。民主主義やフェミニズムといった理念の未来から、パレスチナや朝鮮半島における分断の現在的問題、そして、歴史の根源の哲学的考察にいたるまで、政治的思考の過去・現在・未来を対象とする共同討議である。


(1957年に延禧大学校とセブランス医科大学が統合して創設された延世大学。ソウル市西大門区の山腹に広大なキャンパスを有する。)



西山の報告「民主主義の名を救う―デリダ、ランシエール、ナンシー」では、民主主義制度の凡庸化に伴って民主主義の理念への憎悪さえも見られるようになった現在の状況を踏まえながら、現代フランスの思想家の民主主義論が検討された。