巡回上映の記録 2009年9月 アメリカ

旅立ちの唄――亡命者の大学 The New School for Social Research (2009/09/04)

旅立ちの唄――亡命者の大学 The New School for Social Research (2009/09/04)



衆議院選挙で民主党の歴史的勝利が達成された翌日、映画「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」の上映と討論会のために、晩夏の台風のなか、アメリカ東海岸に旅立った。

異郷へ旅したものは往々にして、正確には真実とは言いがたいことまで
主張しがちなものです。――『ほらふき男爵の冒険』


映画「哲学への権利」では、デリダが脱構築の論理によって創設した国際哲学コレージュを例として、効率性や収益性が重視される資本主義において、哲学や芸術などの人文学的なものの現場をいかに構想するのか、が問われている。今回の旅ではデリダが定期的に、あるいは短期間教鞭をとっていた四つの大学で映画上映と討論会を準備している。脱構築はたんなる理論ではなく、デリダによる研究教育の実践と切り離せない。彼に縁のあるアメリカの大学で上映と討論をおこなうことで、研究教育と脱構築の関係やその展望を問いたいと考えている。まずは9月3日、ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチで第一回目の催事が開催された。


(創設当初から残っている国際様式の建物)

ニューヨーク市のグレニッジ・ヴィレッジ周辺に位置するThe New School for Social Research は、1918年に教育哲学者ジョン・デューイらの発意によって創設された。第一次世界大戦中、ナショナリズムの高揚によって政府による表現(例えば反戦の表明や外国人への寛容)の検閲や抑圧が強まっていた頃、コロンビア大学のリベラル派教師が中心となって新たな学府――New Schoolという校名は彼らの理想を物語る――を設立する動きが起こったのだ。例えば、必ずしも学士号をもっていない社会人向けの大学院をアメリカではじめて創設したのはNew Schoolだった(校名は日本語で「社会研究新学校」と訳されるよりも「ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ」を仮名表記されることが多い)。

1930年代、ドイツやイタリアなどでファシズムの暗雲が立ち込めると、The New Schoolは亡命を余儀なくされたヨーロッパ知識人(とりわけユダヤ人と社会主義者)を受け入れるために制度的に尽力した。1933年、ロックフェラー財団の支援を受けて、学内にThe University in Exile(亡命者の大学)が大学院部門として設立されたのだ。この大学は戦時中、180名以上ものヨーロッパの卓越した知性を受け入れ、この学府の知的な歓待精神を証明することになるだろう。The New Schoolは1918年と1933年に二度誕生したと言われる所以である。

現象学的社会学の始祖アルフレッド・シュッツ、異形の政治哲学者レオ・シュトラウス、ゲシュタルト心理学の創始者マックス・ヴェルトハイマー、『ファシズムの集団心理学』を著わしてナチスから危険視された精神分析家ヴィルヘルム・ライヒらが海を渡って「亡命者の大学」へと迎え入れられた。死後公刊されたハンナ・アレント(1967-75年在職)晩年の講義録「カントの政治哲学」はThe New Schoolで実施されたものであり、哲学者ハンス・ヨナスが生命や責任の哲学を練り上げたのはThe New Schoolに奉職中(1955-76年)のことだった。

また、The New Schoolはフランスとの学術交流においても重要な役割を果たしてきた。1942年、亡命したフランス語圏の研究者たちのために「高等研究自由学院L'École libre des hautes études」がThe New Schoolの近隣に創設される。ナチス政権によるフランス占領に反対してド・ゴールは亡命先のロンドンから対独抵抗運動「自由フランス」を世界各地に呼びかけたが、自由学院の設立はその一環であった。ジャン・ヴァールらの尽力によってロックフェラー財団の資金援助で開設されたこの亡命者の学院では(初代事務局長はアレクサンドル・コイレ)、クロード・レヴィ=ストロースやローマン・ヤコーブソンが教鞭をとっており、二人の知的交流が構造主義思想の着火点となったことはよく知られている。戦後、自由学院はパリへと徐々に拠点を移し、「社会科学高等研究院l'École des hautes études en sciences sociales」として改編されたが、その後もThe New Schoolとの密接な連携を保っている。

こうした歴史的背景から、The New Schoolの哲学科はアメリカでも珍しくヨーロッパ大陸哲学が講じられている学科である。アメリカのほとんどの哲学科では分析哲学系が多数派を占めているが、The New Schoolではフランス現代思想に至るまでのヨーロッパ哲学が盛んで、とりわけフランクフルト学派の批判理論研究では有名である。現在は、レヴィナス研究で知られるサイモン・クリッチリー、政治哲学研究のナンシー・フレイザー、批評理論研究のリチャード・バーンスタインなどが教鞭をとっている。また、A・シュッツの業績を記念して現象学研究のために「フッサール資料館」/が、H・アレントの業績を保管するために「ハンナ・アレント・センター」が哲学科には設置されている。



新学期第一週目に開催された上映会は木曜夜の定期的な哲学科コロキウムの枠で実施され、約25人程度が集まった。サイモン・クリッチリー氏とゼッド・アダム氏に相手をしていただいた討論会では、アメリカとフランスの高等教育制度の相違を追加説明するなかでいくつもの質問を受けた。

「学生と教師の関係は映画では描かれていないが、デリダは両者のいかなる関係を理想としていたのか」「ディレクターの選抜試験は本当にうまく機能しているのか」など。「このネット社会において、大学とは何か。クリッチリー氏の講義を授業料を払ってNew Schoolで聞くことと、YOUTUBEで彼の講義を無料で自宅で聞くことの違いは?」とやや挑発的な説明をしたせいか、大学の存在意義の議論が盛り上がった。


(サイモン・クリッチリー)

かつて国際哲学コレージュのディレクターを務めたこともあるクリッチリー氏は、その経験から3年ごとに人選がなされるコレージュの一貫性をどう確保するのか、あくまでもフランスに拠点のあるコレージュの国際性をどう考えるのか、などについてコメントした。

(ゼッド・アダム)

アメリカでの初めての催事なので大変緊張していたが、初回を何とか無事に事を終えることができた。後の日程も手抜かりのないように、イベントをひとつずつ終わらせていきたい。

メールのやりとりだけでこのような催事を開催していただいたクリッチリー氏とアダム氏には感謝する次第である。また、準備に協力していただいた同校出身のナヴェ・フルマー氏にも謝意を表わしたい。


(終了後、廊下でワインと軽食で懇親会)

〈参考文献〉
Peter M. Rutkoff, William B. Scott, New School: a history of the New School for Social Research, Free Press, 1986.
Claus-Dieter Krohn, Intellectuals in Exile: Refugee Scholars and the New School for Social Research, Univ. of Massachusetts, 1993.

大学の瞳 Cornell University (2009/09/09)

大学の瞳 Cornell University (2009/09/09)


ニューヨーク市から長距離バスに乗り北に5時間、小さな田舎町イサカへと向かった。コーネル大学での2つの催事のためである。


(サッカー競技場ほどのどうしようもなく広い中庭を休み時間に移動するのは良い運動)

コーネル大学は南北戦争終結後の1865年に、上院議員エズラ・コーネルが自身の広大な農地と私財を寄付し、アンドリュー・D・ホワイトが初代学長を引き受けることで創設された。「誰でも何でも学ぶことのできる学校」を創立理念として掲げたこの大学では、実際、伝統的なリベラル・アーツ教育から、技術者養成、農業、獣医、ホテル経営学に至るまで多種多様な教育プログラムが整備されてきた。1870年に女子学生の入学を始めているコーネル大学はいわゆる「アイビー・リーグ」のなかではもっとも早い男女共学の学校である。町を一望できる小高い丘上にある3k㎡の実に広大なキャンパスで、現在、約2万人の学生が学んでいる(イサカ市の人口は3万人)。コーネル大学は原則的に私立大学だが、理系の実学設置を支援するために連邦政府所有の土地を州政府に供与するモリル・ランドグラント法が一部の学科には適用されているため、半官半民のユニークな大学である。


(Andrew D. White House)

9月8日、映画「哲学への権利」の上映・討論会が、Andrew D. White HouseのGuerlac Roomで実施された。初代学長の名前を冠したこの豪奢な建物のこの部屋では、人文科学系の大規模な催事がつねにおこなわれるそうである。蓋を開けてみると、80名以上が詰めかけ、廊下まで人が溢れて立ち見が出るほどの盛況ぶりだった。とりわけ嬉しかったのは、学部生から重鎮の教師まで異なる学科の人々が集ってくれたことだった。



討論会では、フランス科の注目の若手ロラン・デュブリル氏とブルーノ・ボステル氏に相手をしていただいた。手厳しい気鋭の論客で知られる彼らのコメントは批判的なもので、会場は容赦のない真剣勝負の張り詰めた雰囲気になった。ボステル氏は「映画ではデリダの言う領域交差(intersection)とカルチュラルスタディーズの学際性が明瞭に対比されているが、短絡的ではないか。少なくともアメリカでデリダ思想が受け入れられたのは後者の学際性のおかげである。コレージュで教師が無報酬で教えているのは、他に定職があり収入があるからであって、無償性の原則がもたらす自由といっても、それはこの依存の構造によるものにすぎないのではないか」と問うた。デュブリル氏は、国際哲学コレージュの人員構成や授業の方法を社会学的に分析した後、大学の外に新しい研究教育機関を創設したと言っても、結局、大学の外に大学のミニチュア的権力構造を再生産しただけである、と映画の内容を一蹴した。

また、会場のジョナサン・カラー氏からは、「誰もがコレージュのディレクターに応募できるというが、選抜は適切に機能しているのか?」、ドミニク・ラカプラ氏からは「真の学際性を目指すならば、哲学にこだわっていてはやはりダメで、交差する他の学問分野の内部からも同時に学際的な可能性を見出す必要があるのでは?」といったコメントをいただいた。最後に、ルーベンシュタイン氏が「コレージュの実態に手厳しい批判を加えることは容易いが、しかし、その試みや方向性はフランスの伝統的で保守的な学術制度においてはやはり貴重なものである」と肯定的に流れを締めくくった。



1983年4月、ジャック・デリダはコーネル大学で、講演「根拠律――その被後見者の瞳に映る大学」(日本語訳は『他者の言語』所収)を、やはりこのAndrew D. White Houseでおこなった。国際哲学コレージュの創設を半年後(10月)に控えていることにも言及しながら、デリダはコーネル大学の景観やその周辺の地形と絡めて大学論を講じた。

知識に対して眼を開くことが人間が理性的な動物へと移行する第一歩だとすれば、瞳、視野、眺望、展望といった問いはまさに理性の根本をなす。大学はこうした理性の制度化であるが、では、「大学からの眺望とは何か(What is the view from the University?)」とデリダは問いかけ、コーネル大学の歴史を紐解く。


(創設者エズラ・コーネル)

創設者エズラ・コーネルは理事会役員たちを連れてイサカ市の丘の上に登り、「この眺望とともに新たな大学を創設する」と説明したという。ここには、若者が教養を身につけ、生き生きした瞳で高みから世俗世界を見下ろすというロマン主義的崇高さが感じられる。そこでデリダは同時に、コーネル大学の別の地形的特徴にも触れる。この周辺は渓谷地帯であり、大学は渓谷にかかるいくつかの橋で町と結ばれているのだ。

渓谷の風景がもたらす深淵の問いを喚起しつつ、デリダはライプニッツとハイデガーの根拠律を論じ、理性が理性自身を基礎づけるという循環のなかには実はこうした深淵が介在しているとする。社会を眺望する大学の理性の瞳はこうした無の深淵を宿すのであり、生と死の狭間で、開放と閉鎖のあいだで大学の問いをいかに考察するべきだろうか。世俗社会から隔離された理性の「孤独と自由」の眺望がフンボルト的な近代の大学理念だとすれば、デリダの方は、理性がつねにその無根拠性に曝され、脱構築的な運動をおこなう大学の瞳を強調するのである。


(コーネル大学周辺の渓谷。学生の投身自殺も少なくないという。)

今日、大学の瞳とは何か、大学からの眺望とは何か――コーネル大学での3日間の、しかし、あまりにも濃密な滞在を終えて、終盤の上映会に向けて、再びニューヨーク市へと旅立つ。

再びニューヨークへ New York University (2009/09/12)

再びニューヨークへ New York University (2009/09/12)


イサカを発って5時間後、日暮れの大都市ニューヨークのネオンサインの風景のなかにバスが吸い込まれていった。翌日から再び、映画「哲学への権利」の上映と討論会がニューヨーク大学から始まる。



ニューヨーク大学(通称NYU)は銀行家や商人などの有閑層グループによって1831年に創設された。「出自や身分、社会階級ではなく能力に応じて、若者に高等教育の機会が与えられる大学をマンハッタン島に」というのが彼らの理念だった。当時、アメリカのカレッジが特定のキリスト教派と関係して創設されていたなかで、NYUは無教派の大学として創立された。ちなみに、NYUの哲学科は、英米圏の50の哲学科ランキングでつねに1、2位を争っている。



NYUのキャンパス群はワシントン・スクエアとグレニッチ・ヴィレッジ周辺に点在しているが、この地域は19世紀初頭以来、ニューヨークの文化的中心地であり続けている。E・A・ポー、マーク・トゥェイン、ハーマン・メルヴィル、ウォルター・ホイットマンらが近隣に居を構えて創作活動をおこない、1930年代にはジャクソン・ポロックやデ・クーニングらが抽象表現主義の拠点を付近に据え、1960年代にはアレン・ギンズバーグやボブ・ディランらがこの地域からビート・ジェネレーションやフォーク音楽を世界に発信した。



9月10日、映画「哲学への権利」のNYUでの上映には約20名ほどが参加し、議論をおこなった。ミハイル・ヤンポリスキ氏によれば、「この作品はとりわけアメリカの学問状況を考える上で重要である。アメリカではヨーロッパの大陸哲学がカルチュラル・スタディーズや比較文学などに吸収され、準-学科的な扱いを受けているからだ」。トマス・ルーザー氏からは「哲学が一学問分野というよりも、そもそも領域横断的なものであることがこの作品によって鮮明になる」、リチャード・カリッチマン氏からは「哲学と他の学問分野の関係はやはりandによってしか語ることはできないのか、and以外の方法で語ることはできないのか」、ペドロ・エルバー氏からは「デリダの名前が特権的に引用されていて、他の思想家の名が出てこないことが気になる」とのコメントをいただいた。

郵便配達人かつ旅人――旅の終わりの旅立ちの唄 Yale University (2009/09/11)

郵便配達人かつ旅人――旅の終わりの旅立ちの唄 Yale University (2009/09/11)



(イェール大学の美しいネオゴシック様式の校舎)

9月11日、雨のなか、鉄道アムトラックで1時間半移動し、ニュー・へヴンの町に到着。ホテルに立ち寄ってすぐにイェール大学に向かう。1701年創設のイェール大学はアメリカで3番目に古い大学だ。19世紀初頭に発行されたYale Literary Magazineはアメリカでもっとも古い文学批評誌だが、以後、ニュークリティシズム、比較文学、脱構築批評とイェール大学は文学研究を活気づけてきた。



イェール大学での上映は東大‐イェール・イニシアティヴの主催で実施され、25名ほどが集まった。上映に使用された部屋は、以前チャペルに使用していたというステンドグラス窓の落ち着いた雰囲気の中部屋。Film Studiesが常用する部屋だけあって、大スクリーンでの映写と音響は満足のいくものだった。

討論では、まず高田康成氏が、国際哲学コレージュを創設した直後、1983年の秋にデリダが日本を訪問したときのことを語った。モイラ・フラナガー氏は、国際哲学コレージュが抱える理念が、哲学への欲望と制度の逆説のなかにあることを指摘。最後に、ハウン・ソーシー氏は丁寧なコメントを加え、本作品が強調する手のイメージに触れた。「手の動きは語り手の思考と比べてつねに先立つか遅れており、このずれの感触が上手く描き出されている」。その後、会場との質疑応答が続けられたが、夜の雨音によって際立つチャペル室の静けさのなかで、ひとつひとつの言葉が独特の重みをもって室内に響き渡るのが心地良かった。



今回は初めてのアメリカ旅行だったが、現地のみなさんの適切な協力によって、すべての仕事を問題なく終えることができた。心より感謝する次第である。とりわけ、フランス語風の拙い私の英語に熱心に耳を傾けてくれた聴衆のみなさんに感謝したい気持で一杯である。

旅の終わりに、初心に帰って、少しだけ個人的な話を。

学部生の頃、一年間休学して、しばらく郵便配達のアルバイトをしたことがある。バイクに乗るのが好きなこともあり、郵便配達の仕事はなかなか魅力的で、その後も何度か従事することになる。基本的にひとりでおこなう仕事なのだが、他者の手紙を他者へと伝える仲介者として、ひとりでいるのにひとりでいる気がしない不思議な感覚がするのだ。郵便配達で貯めた資金をもとにして、その後、東アジアに半年間の一人旅に出た。初めての海外旅行であり、また、大病の後遺症を長年患っていた父が亡くなった直後の一人旅となった。旅先でノートに書きつけたたくさんの言葉をもとにして、帰国後、思い立ち、友人たちと8ミリ映画を初めて製作したのだった。

あれから十数年後、今回は旅のはじめに映画があった。旅の主要な目的は、いわばこの第2作目の映画作品を上映することである。しかも、7人のインタヴューからなるドキュメンタリー映画である。講演や発表といった個人的な自己表現というよりも、他者の言葉をさらに他者に届ける責務を果たすために上映の旅に出たわけだ。届けると言っても、宛先が明確に決まっているわけではなく、受け取り方はもちろん、ひとそれぞれ自由である。上映が始まって数十分で退席する人も何人もいれば、「そのスタイルと内容からして、これまで受けたなかで最高の哲学教育の時間」と絶賛する大学院生もいた。



ところで、人文学の研究者は、本質的に、郵便配達人かつ旅人である、というのは言い過ぎだろうか。人文学研究者は、基本的に、他者のテクストを読み、他者の言葉を受け取り、また新たなテクストとして、見知らぬ他者へと送り出すことをその責務とする。また、テクストの魅力は時間と空間の制約から解き放たれて、旅に出る感覚を抱くことができる点にあるだろう。他者の言葉と対話を続け、異邦の風景へと誘われることで、自己表現を成立させるのが人文学研究者の営みではないだろうか。ひとりでいるのにひとりでいる気がしないという距離のある友愛とともに続けられるひとり旅である。もっとも「異郷へ旅したものは往々にして、正確には真実とは言いがたいことまで主張しがちなものである」のだが、しかし、郵便配達人かつ旅人である限りにおいて、人文学研究者は「すべてを公的に言う権利」を有するのである。

アメリカ東海岸での旅が無事に終わるが、映画「哲学への権利」はこれからやっと本格的な旅に出る。日本、フランス、アメリカ西海岸の各地での数多くの上映と討論会が準備されているところである。討論会にはさまざまな方に参加していただき、この資本主義時代における人文学や哲学の制度的可能性を議論したいと考えている。

旅の終わりに奏でられるのは、またしても、旅立ちの唄である。


(ニュー・へヴンを去り、JFK空港へと向かう早朝、イェール大学構内を散歩しているときにゴミ箱から顔を出した〔野良?〕リス。このアメリカ滞在で、対話〔独語?〕を交わした最後の生き物。)