巡回上映の記録 2013年2月 韓国・釜山

2013/2/2、韓国・釜山、モトゥンイ劇場(ヤン・チャンア、イ・スギョン、キ・チェセン)


2013年2月2日、韓国・釜山市内のモトゥンイ劇場にて、映画「哲学への権利」上映・討論会が開催された。東亜大学教授・クァン・キョンア氏の発意で、研究グループaff-comの企画として準備された(約50名の参加)。討論会では、ヤン・チャンア(釜山大学)、イ・スギョン(釜山大学)、キ・チェセン(映画監督)に登壇していただき、釜山での人文学の市民活動の事情を踏まえた上で議論をすることができた。



2年前に訪れたソウルと同じく、釜山でも在野での人文的活動が点在している。モトゥンイ劇場の「モトゥンイ」は角という意味で、実際に角のビルにあるという物理的な名称であり、世界と世界、人と人とが出会う場所という願いが込められている。有志らによって確保されている文化的フリースペースで、主に映画上映が頻繁に実施されている。




ヤン・チャンア氏は釜山大学での非常勤労働組合や研究グループ「批判と想像力」での活動に触れ、イ・スギョン氏は、路上で人文学的実践を継続することの意志を語った。映画監督キ・チェセン氏は、「シネマテーク1/24」での活動と国際哲学コレージュを比較。「シネマテーク1/24」は釜山で運営された、映画の教育と議論のための市民スペース。財政的な困難から2001年に閉鎖されてしまうまで、釜山の映画文化の拠点となっていた。




上映中、私は隣の部屋で登壇者たちと待機していた。上映後に観客から拍手が起こった。aff-comの企画者キム・デソン氏は、「監督があの場所にいるべきだった。拍手が起こるあの瞬間に立ち会うことはとても重要なんだ」と興奮した口調で私を難詰してきた。私としては、この真摯な非難がとてもうれしく感じられた。

今回の企画運営に尽力してくれたaff-comのヤン・スンジュさん、ソン・ジンヒさん、シン・ヒョナさんにあらためて感謝申し上げます。


釜山は山と海に囲まれた大都市。魚市場では新鮮な魚貝がいっぱい。



ちょうどタクシー運転手が待遇改善の法改正をもとめてストと集会を釜山駅前でしていた。ロック歌手が登場して、「釜山!タクシー!」と連帯を呼びかける。どこかフランスのようで懐かしい。ステージの背景画がかっこいい。


コメント原稿




「Nevermore とふたたび」
イ・スギョン(釜山大学哲学科博士課程)

映画を見て、目で文章を読み、手で文章を書くことについて考えます。みずから研究者と思ったことも、研究者と呼ばれたこともないわたしが、ここに討論者として座っているのは、おそらくその仕事をしたいと思い、しようとしているからでしょう。単語を掘り起こすことも労働であると叫び、一日をそれを行うために為すべきことで満たし、生きようとしています。ですから、わたしがいつも陥ってしまう、目で文章を読み、手で文章を書くことへの無力感は、そのような労働の過程での辛苦からではなく、文章というものが役に立つのか、必要であるのかという問いかけから起こります。いったい文章が、あるいはわたしたちが、生きることに影響力があったりするのでしょうか。文章を反証する数々の証拠が遺体となって積まれゆくとき、これ以上どんなことばをつけ足すことができるのでしょうか。nevermore。筆を断ち、路上へと出ます。文章を書くときも、またそれから離れていても、やはり世の中は何ら変わりなく流れてゆきます。通りには依然としてテントがあります。「以後」(同僚たちの死後、総選挙後、大統領選挙後・・・・・・)を生きる人々がそこにあります。全身に辛苦を刻み込みながら、それらとともに生きてゆく人々です。失敗の名を胸に抱き、ふたたび新しく始めよとわたしにいいます。「ふたたび」ということばは、たやすくも筆をとり、そして置くわたしの指にあるものではなかったのです。わたしたちがここに、ともにいること、「ともに生を分かつことを試す」 こと、小さな日常をとり戻してゆくこと、別の生き方、別の出会い方、別の別れ方を、共謀し、敢行することのなかに「ふたたび」がありました。国際哲学コレージュもまた、このような「ふたたび」を制度の周辺で制度をかわしながら実験する場なのでしょう。

哲学への権利
哲学への権利とは何でしょうか。英語の勉強を始めたとき、自由 free、夢 dream、希望 hope、これらの単語と同じくらい、権利がある i have the right to ということばに心躍った覚えがあります。そのことばによってわたしが生かされているときがありました。わたしには愛(する人)はありませんが愛する権利があり、夢はなくても夢を見る権利があり、「窓」がないときは、窓を持つ権利がある。わたしの持つそれらを愛していたそのとき。愛よりも愛する権利を愛し、夢よりも夢を見る権利を夢見ました。ふたつの現実があったわけです。愛と夢と窓の世界と、わたしの持つ権利の世界。権利は輝いており、揺るぎないものでした。与えられた現実を拒否することのできる抵抗のことばですから。ですからいつも、略奪と裏切りと支配の物語の中で、闘争の中で、この熟語が好きでした。ところが、法の中の権利は、いつもくだらないものでした。権利がシステムの中で、システムの寛大で素っ気ない風景に掲げられていました。生きることと権利とは何ら関わりないとでもいうように、権利は掲げられていても、生はなぜ良い方へと向かわないのか。例えば、都市に住む人々は窓をひとつ取りつけるために権利闘争をしなければなりません。これは100年前、ニューヨークであった話なのですが、今、そしてここで、繰り返され続けていることです。移民たちが寄り集まって暮らしていた街の家々は窓もなく、列車のようにずらっと連なっていました。疫病と腐敗と不幸が閉じられた部屋の中で猛威をふるっていました。しかし、闘争と度重なる法の制定の末に勝ちとった窓を人々は開けることができませんでした。かれらのほとんどは賃貸契約者で、家主は費用の問題で工事を先送りしたり、工事をして窓ができると家賃を引き上げるので、追い出されることになるのです 。権利の前でさえも、わたしたちは支払い能力を求められる消費者になったのです。

権利と生きることを結びつけること、権利を生きることにつなげることが、わたしには何よりも重要となりました。それは制度とともに、いつもそこに完全には還元されずに残されてしまった人々とともに、生きることのカタチを実験することです。制度は動線を作り出し、わたしたちはそれらに従って体を使い、分かち合うようになります。制度の動線の上で自分の生を細かく営んでゆくなかで、わたしたちの動線は、制度の網と、別の新たな網目とを絡め合わせてゆくことができるでしょう。ともに生きるというカタチを作ってゆくのに、哲学への権利はどのような意味があるのでしょうか。

建築
哲学コレージュは大学の中の教壇哲学が考慮することもなく、行うこともできないような介入の発言が沸き起こる場です。哲学コレージュが哲学の発信地でなければならないということばが記憶に残っています。誰のものでもない、だから皆のものとなる場所。無償であるため敷居は低くなり、低くなった敷居を通って人々が集まってきます。「敵たちと、敵たちの敵たちと 」。国際哲学コレージュが自律機関であるとするなら、それはどこかに依存しているからです。映画のなかにこんなことばが出てきます。哲学コレージュは自律機関というより、他の機関に支えられて存立する組織です。このことばをもう一度問うてみたいと思います。わたしたちは、誰と、何と、そしてどのように依存すればよいのでしょうか。そんな問いかけが、わたしたちの作りゆく自由と独立の根拠となるのですから。

映画で見たフランスと韓国の諸条件の違いは、実は比較し難いほどで、韓国においては国際哲学コレージュのように、国家と市民社会とが一緒になって制度の実験をするというのは考えにくいことです。しかし、だからこそ、この地で作られる場所は、大学より路上に似ているのではないかという気がします。いつの頃だったか、勝手に聞き間違えて、とても好きになった歌の歌詞があります。「わたしにはお金がない。わたしに居場所はあるのだろうか・・・・・・。道に出なさい、ファニー。道だけがタダだよ 」。「道」の哲学者ジェイン・ジェイコブズが述べるように、路上での生活は公共生活という別のカタチの生活と直接結びついているため、その生活のあり方は無限大です。路上で生活するということ、そこで行われる建築は、巨大な夢の企画の空間というより、自分の体が直接介入し、手が行き届いてこそできる作業でしかあり得ません。ですから、そのような建築は巨大化することはなく、体に似て小さくなります。いつも再開発や都心整備事業に押し流されてしまう対象となるもの。都市の片隅で、地下で行われる集まり、あちこちに建てられるテント、龍山(ヨンサン) 、済州・江亭(チェジュ・カンジョン)マウル 、密陽(ミリャン) 、ストライキ労働者、そしてこれらが別の新たな発信地といえるでしょう。地上と高空 に建てられる発信地。「わたしたち」は、つねにこれらの発信地の最後の住人なのかもしれません。そのような意味において、「わたしたち」は繰り返し押し出され、移動して、場所は消えてしまうでしょうが、自分の体に様々なカタチの出会いのあり方を記入したまま移動して、今この場でのように、出会うことになるでしょう。わたしは、ですから、路上生活者になろうと思います 。

紹介
金井山(クムジョンサン)ミリネッコルを夕方になると通ります。「無限の練習」ということばが好きです。そのことばにかかる費用は、生活でもって埋め合わせしようと思います。仲間たちとともに。




「哲学への権利」討論文
ヤン・チャンア(釜山大学哲学科非正規教授)

初めまして、西山雄二さん。ヤン・チャンアと申します。初対面(?)なので自己紹介するべきなのですが、実は自己紹介が発表よりも苦手です。2008年頃、初めて研究グループ「批判と造像力(ピパングァサンサンニョク)」(以下「批想(ピサン)」)に参加することになった時以上の緊張と不安を感じています。今とは違い、昔は勉強部屋に一人「閉じ込もって」いる孤立状態だったため、見知らぬ人に会うこと自体がとてつもなく不安でした。「ひょんなことから」参加してみようという気になり、それでも多少親しくしている友人について行き、「見知らぬ」人々の集う勉強会に出るようになりました。多少の不安はあったのですが、本をめぐって語り合うことが意外に面白く感じました。それで、一度、二度、三度、四度と集まりに出かけることも多くなり、今ではどこかで自己紹介する際、「批想」や「空間草緑(コンガンチョロク)」 という名前を出すことが多くなったほど、この集まりに慣れてしまいました。誰かに話かけられなければ自ら話すこともなく(時には話しかけられても話さず)、特に話をする必要もないと感じていた時の生活から抜け出すまで、随分と時間はかかりましたが、私にとって「批想」は「脱出口」の役割をしてくれたと言っても過言ではなさそうです。ある人は額を突き合わせて本を読んだり人に会うのが楽しくて、またある人は制度の外で勉強する基盤を固めるため、またある人は一人で勉強するのに嫌気がさして、あるいは私のように友人について行って。こんなふうに私たちはお互い別の理由で週に一度「空間草緑」に集まって、本を読み、食事をし(各自、米とおかずを持ち寄って、「空間草緑」でご飯を炊いて食べます)、語り合ってきました。

集まって一緒に勉強したり、何かを企画して行ったりするのは、時には面倒で疲れることもありましたが、ほとんどの場合は、驚きや楽しいという言葉では足りないほど「良い」印象を受けました。それらの印象は私にとって(これは他のメンバーたちも同じだと思いますが)本の読み方、文章の書き方、話し方に変化を与える決定的なきっかけとなりました。特に「読書グループ[散策]」が私には最も大きな喜びであり、そこで多くを学びました。多い時で10~15人、通常は4~5人程度の異なる人々(歳も、職業も、参加する理由もそれぞれ異なる)と本を読み、語り合うことは、「経験に合わせた本の読み方、話し方」について考えるきっかけとなりました。そして本の内容にとらわれることなく、それを元にしたり、ヒントにしたり、口実にしたりして自分のことを語り、それを聞きます。これらのことがすべて、初めは真新しく、そして次は難しく感じていたのですが、今は少し余裕もでき、力も付いてきたのか楽しいことがほとんどです。それでも出会いというのは依然として生易しいものではなく、その難しさというのは、まず皆がそれぞれ別の背景を持っており、別の経験をしてきたため、それぞれが「別の言語」を使うというところから起こります。その別の言語に魅力を感じることもありますが、誤解が抵抗を生むことが多いというのもまたしかり。少し時間が経つと、その難しさが今度は、残った人々が「同じ言語」を使うという所から、再び生じてきます。結局は考え方が「一致する」人が残るということでしょう。「同じ言語」「別の言語」とざらついた言葉で表現せざるをえないのがもどかしいですが、ともかくこの二つの間で均衡を保つこと、つまりある程度共通の関心を持ちつつ、自分だけの言語で自分だけの話をするということが可能で、それが受け入れられる(というより、自然に届く)雰囲気を作り出すことは、何とも難しいことだと言いたいのです。

「言葉」について話したので、ついでにもう少し話を続けます。「どう語るのか、どんな言葉をどう使う/書くのか」。これはこのような集まりに参加する中で生まれてきた重要な問題であり課題です。語り方(話し方)についての悩みは、多様な人々との出会い方に相応するもので、つまり(蛇足ですが)「どう聞くのか」あるいは「どう語らせるのか」という問いかけと同じことだと考えられます。私は哲学科に10年以上属してきたのですが、専攻の近い人々と語り合う時(人によって違ったりもしますが)は、やはり小気味よさと気楽さを感じます。しかし読書会や講演などをしていく中で、その使い慣れた様々な術語が人々に脅威を与えたり、(語る自分にとっても聞く人にとっても)自ら考えるより概念にずるずると引きずられてしまう元となることが多いと感じるとともに、語り方について、もっと悩むべきだと考えるようになりました。単に「大衆的な」言葉や「簡単な」言葉ということではなく、それぞれの生の経験と考えを表現するのに適した言葉を、正確でなくとも不器用でもその気持ちと感情をうまく伝えられる言葉を、知らず知らずのうちに起こる「知による格付け」が感じられない言葉を見つけ出さなければならないと思い続けてきました。国際哲学コレージュの「概念」も「制度」も、こういった「語り方」や「出会いのあり方」についての悩みと向き合っているのではないかと思います。

「批想」のメンバーたちは、それぞれ「批想」以外の集まりにも参加していますが、私の場合は大淵洞(テヨンドン)にある「思索喫茶散歩劇場(センガク茶房散策劇場/センガッタバン・サンチェックッチャン)」にも所属感を持っており、よく立ち寄っています 。ここの別名は「プータローたちの実験室」です。初めは好奇心から、誘われればたまに立ち寄る程度だったのですが、最近では「思索喫茶遊び組合」という名で組合員たちと共に「どうやって一緒に生活しながらいろんな実験ができるだろうか」と悩んだりしています。この文章を書いている今日(1月27日、日曜日)も「思索喫茶」で「遊び組合」を作るための初会合を開いたのですが、名前、運営方法、組合費、計画や構想などについて事前に話し合いました。まだ始まって間もないのですが、研究グループ「批想」とはまた別の変化と学びを得られるだろうと、不安よりも期待にあふれています。ここの魅力は、想像したり思いついたことを即実践できるところにあるのですが、その上で重要な実践の指針(?)は「ゆっくり、または自分の体のリズムに合わせて動くこと」、同時に「他人の体のリズムに配慮して一緒に動くこと」だと思います。以上の二つの集まりでの経験を通して、体を使うこと――「遊び」――を通して共に言葉を交わす時の方が、円滑とまでは言わないまでも、よりうまく言葉を交わすことができるというさし当たりの結論に至りました。

そしてもう一つ、韓国非正規教授労働組合・釜山大分会があります。2012年下半期は個人的に分会活動なくしては語ることのできないほど、分会生活にどっぷり浸かっていました。9月に好奇心から参加した交渉立会いに始まり、2012年10月15日から2013年1月8日までのテント座り込み闘争や、思いのほか短期間で終わったストライキまで。この過程で初めて「非正規教授」の名で自己紹介することになり、学校の中の別の新たな島である分会について、より正確に言うとそれぞれ孤立した島のように生きている非正規教授たちとの出会いや集まりについて、具体的に考えるようになりました。私が大学で講義を任されるようになって、二年ほどになります。授業の準備に多くの時間をかけており、主に教養科目を担当するので学生たちとの出会いも関係が長く続かないため、どうしたら彼らとの関係を長く保てるだろうかと悩んだりもし、この仕事で得る収入で生計を立てているわけでもあり、非正規の教授としての生活が私の生の多くの部分を占めているにも関わらず、実はこの生の条件に対し、ほとんど悩んできませんでした。釜山にある大学のうち唯一労組がある大学であるため、他大学に比べるとそういった条件に対し異議申し立てできる可能性が十分あるにも関わらずです。分会にほとんど関心をもたない典型のような私だったのですが、86日間のテント生活を終えてからは、これらのことについて考えるようになったのです。

今私は分会で「どうしたら皆が出会えるのか」について悩みながら、研究グループ「批想」での経験や「思索喫茶散歩劇場」での経験を改めて積極的に考えるようになりました。一つ目のアイデアとして「思索喫茶」でのように「非定期に」、そして「小規模で」小さな遊びを行い、組合員たちと一緒に遊ぶ中で出会える時間を作るというものです。そしてそれを口コミやEメールで広めていくこと。何をして遊ぶかについては2月5日、6日にあるワークショップで、他の組合員たちと話し合い、これといった反応がないようであれば、私一人でも始めてみようかと思っています。

「哲学への権利」を見ていて一番強く感じたことは、インタビューをした7名の考えが、どの質問に対しても不思議とずれているということです。そのズレが良かったと思うのですが、私の参加する様々な集まりと合わせて考えると、そのズレをどう受け入れるかが鍵になるという思いがしました。何よりも西山さんと同じようなやり方で、集まりの仲間たちに1対1のインタビューをし、私たちの考えがどこでずれているのか、改めて確認したいと思いました。不器用にも場を設けて話をしようと試みたことはあるのですが、そのぎこちなさと言ったら、何と表現していいかわかりません。少々手荒な言い方をすると、「人文コミュニティ」を作りたいという夢を共有しながらも、方法面についての話になるとズレが生じてしまうので、まだ何も始められていないというのが、今私が属している集まりの現状です。そのそれぞれのズレが集まりに亀裂を生じさせるのではなく、集まりが続いていくための力になることを願い、そしてその願いだけは共有されることを願いながら、一人ひとりに会い、話を聞かなければならない時だと思います。「哲学への権利」から話を始めようとしたのですが、「関係への欲望」から始めて、そこで話が終わってしまいました。

ヤン・チャンア
研究グループ「批想」で研究者の服を着て仮面をかぶり、「思索喫茶散歩劇場」で遊び組合員の服を着て仮面をかぶり、釜山大学で非正規教授の服を着て仮面をかぶり、言いたいことを言っているヤン・チャンアです。自らの発する言葉に耐えきれず、苦しむことの多い人です。最近では自ら、言葉の束縛、誤解、執着からも新たな言葉が湧いてくるというところに、何気ない喜びを感じるということを発見し、驚愕しています。「言葉を交わす喜び」と「言葉を交わす中で生まれてくる誤解、執着、束縛」は、明らかに区別されるものであると考えていたのですが、その関わりについてもう少し考える必要があるようです。aff-comとはまだ出会ったばかりです。この出会いがどのような形で、どこにどのようにつながって行くのか、まだわかりませんが、先に挙げた場所や集まりともつなげていくことができればと思っています。



「哲学への権利」をめぐる極めて個人的な断想
キ・チェセン scratch

正直、この退屈でつまらないドキュメンタリーを、私をして三度も観させたのは、討論会参加に加え発言までしなければならないという理由が大きい。そうでなければ10分ほどで消してしまっていただろう。しかし結論として退屈でつまらないとしても、映画は「もう一度観」なければ、その内容を完全に自分のものとすることができないという、変わらない「真理」を再確認し、観ることにした。

最初に観た時はあれこれといろんな考えが一気に溢れ出てきて、90分の映画を5回ほど停止したように思う。
①この映画を作った監督は私を拷問している。――この分野に興味のない人にも、どうにかして関心を向けてもらえるように作る必要があるのではないか。②この映画はただの録音集だ。――全て書きとって、いっそ本にまとめて出した方が、その目的を果たせると思う。③もともと、あの「手のイメージ」が撮影の前に企画されたものだとは思えない。――そうでなければ、イメージを拡大・歪曲することはできない。

さらに多くの思いが錯綜したが、覚えていないものも多い。二回目に観た時は、機会があれば再編集してやりたいという気持ちになった。映画の内容を完全に受け入れることはできなかったが、何となく内容を理解してからは、もっと効果的な編集方法を示してやりたくなったからだ。三回目に観た時は、やっとこの映画を通して自分の話すべき言葉を整理し、文章を書かなくてはと、心を決めた。(この映画を、何人の人物で、いくつの空間で、いくつのショットと字幕で成り立っているのか細分化してみた。しかしこの映画はそういったアプローチの仕方で「分析」されるより、映画と外部との関係―さまざまな視線が「混淆」されてこそ可能なことであるため、あきらめた。)

哲学者でもなく研究者でもない「市民に戻った初の事務局長」であったのが、ドキュメンタリー監督に補職を変更し、今はほとんどニートのような私の位置から、この映画に盛り込まれている壮大な言説を解釈し、共有しようというのは容易なことではない。ただ、この映画が求めている発言、「国際哲学コレージュの軌跡」が投げかける今の時代の課題について考えてみようと思う。「多様な学問間の対話を実践し、哲学との新たな関係を創り出そうとする」この学校の運営方法に倣い、別の新たな「国際哲学コレージュ」が作られる可能性はあるのか。そして韓国社会で可能な実践は何なのか。

まず個人的な活動に当てはめて考えるなら、一時は「文化不毛の地」と言われていた都市、釜山で映画鑑賞運動の実践のために作られた「シネマテーク1/24」の活動について言える。「シネマテーク1/24」の活動を評価するためには許された紙面に限りがあるため、その中でも映画講座「開かれた映画学校」を紹介しようと思う。「開かれた映画学校」は、「シネマテーク1/24」の主要活動――上映と教育――の柱だった。「開かれた映画学校」は外部の講師陣(当時の大学の映画科の教授や大学院生)たちが企画し、一般市民と映画マニアたちを対象に行った映画講座だ。当時釜山には映画科が慶星大学と釜山芸術大学にしかなく、映画の理論的な側面に対する渇きを癒してくれる唯一の窓口が「シネマテーク1/24」により開設された「開かれた映画学校」だった。市民と専門家が学校ではない、第三の場所でで映画に出会えるようになったのだ。これを制度と非制度に分けて当てはめることもできるかもしれないが、ここで注目したいのは、その運営方法だ。報酬を受けない運営陣、講師料を受けとる場合もあったが、ほとんどの場合は無償で講義を行った講師陣、そして受講料を支払う市民たち。つまり、受講料は全額、団体の運営費に当てられたと言える。

「哲学への権利」で注目したのも、やはりコレージュの運営方法だ。フランスのように国家からの財源支援を受けて運営できるのなら、それは望ましいが、韓国の政府は違う。支援はしても干渉はすべきでないのだが、韓国の政治状況では不可能であり、そのような姿勢を持つ役人もいない。

「シネマテーク1/24」は2001年、財政的な問題で廃業となった。自発的・自主的に集まって映画の空間を作ってきたが再起は不可能で、無報酬で働く運営陣も持ち堪えることができなかった。当時の韓国社会で自分たちの活動をあきらめず、続けていく方法が見つからなかった。否、見つけようとしたのだが、資本主義がそれを許さなかったのかもしれない。とりわけ、活動のあまり目立たない文化生産者たちに対して、韓国社会では「好きでやってる奴ら」などと評価されがちだ。

何年か前から、オルタナティブとしての「社会的企業」が浮上してきた。主に賃金(最低限の生活費程度ではあるが)面の解決を目的に文化団体が社会的企業としての転向を目指したのだ。文化生産者たちの立場では賃金面の解決が見られるだけに、この上なく嬉しい転換だ。文化を「公共財」として社会に還元し、市民と出会える場を設けることにもなったのだ。しかし、これもまた、あまりに政府支援に依存しすぎたためか、自生能力をつけることができず、衰退傾向にある。

制度を活用し、政府によって補いきれなかった公共財は、正当に自分たちの税金から支援を受けるのが当然なはずだが、それにも明らかに限界がある。それでは、生存と成長を続けていくための組織の運営方法とは何なのか!コミュニティが作られ、そのコミュニティの中で保ち続けることのできる動力とは何だと言うのだ!

「哲学への権利」をきっかけに、国際哲学コレージュを経て、オルタナティブなコミュニティでまとめるには、少し飛躍がすぎるのかもしれない。だが、今回の上映会が、先に挙げたオルタナティブを模索する場となることを心より願う。どこかで見かけた文章。「コミュニティを共に作り、互いに支え合い、日常を分かち合い、素朴な日常――文化――活動のための」陣地構築に向けて、今日も「熾烈に」生きる文化生産者たちよ、健闘あれ!

キ・チェセン scratch
 1995年、シネマテーク1/24見習い。 1999年、シネマテーク1/24代表。2001年、ドキュメンタリー集団ハニ映像企画教育チーム。2002年、釜山独立映画協会事務局長。2006年、音楽ドキュメンタリー「In the cold cold night」連作開始。2007年、長編音楽ドキュメンタリー「Heaven-Track」撮影開始。2009年、釜山独立映画協会事務局長辞職。光州 CultureClub NEVERMIND で企画・撮影。2013年、休職。映画少年「オ・ジョンテ」に始まり、時たま文章を書く「空中戦」として、映画を撮る「キ・チェセン」として、アニメーションを作る「うさぎ」として、釜山を離れた広州で「ホ・ミョンワン(呼名王)」として、録音をしながら「コ・ヨハン」として、浮気を楽しんだ18年の履歴書。いくら考えても「映画を愛する三つの方法(見て書いて作って)を実践する」に代わる文章は見つからない。