2008年8月 韓国(ソウル)

第22回世界哲学会議「いま、哲学を再考する」@韓国、ソウル

第22回世界哲学会議「いま、哲学を再考する」@韓国、ソウル(2008.08.04)


2008年7月30日-8月5日、第22回世界哲学会議「いま、哲学を再考する」(The XXII World Congress of Philosophy: Rethinking Philosophy Today)が韓国・ソウル国立大学で開催された。7月30-31日に参加したかぎりでの報告を記しておきたい。


(広大なソウル国立大学の入口ゲートに掲げられた世界哲学会議の垂幕)

世界哲学会議の概要

世界哲学会議は1900年の第1回パリ大会以来、5年毎に開催されている「哲学のオリンピック」である。これまではヨーロッパ地域で開催されてきたが、第22回となる今回はアジア地域での初めての開催となる。今回は102ヶ国から約2600名の発表者が参加しており、韓国(約600名)、中国、ロシア、アメリカからの参加者がもっとも多い。この巨大な会議は50名のスタッフと250名の学生ボランティア・スタッフによって運営される。韓国の文科省が会議を全面的に支援しているだけでなく、サムソンや現代、アシアナ航空、LGなどの大企業も資金を提供している。



世界哲学会議はいくつかのセッションで構成される。「プラネタリー・セッション」や「シンポジウム」の枠では地球規模の主題をめぐって各地域の哲学者が討議する。ジュディス・バトラーやジャン=リュック・マリオンなどのビッグネームが参加するのはこの枠である。また、ホスト国である韓国の哲学に関する「特別セッション」や「招待セッション」も準備されている。公募制の「54の主題別セクション」や「ラウンドテーブル」は分科会の役割をなす。そして、「学会ミーティング」や「学生セッション」も設定され、会議全体が実に多層的に構成されることになる。

初日、開会セレモニーは韓国伝統音楽の優美な演奏で幕を開けた。韓国首相Seung-soo Hanも登壇して祝辞を述べ、困難なこの時代と世界にとって哲学の重要性が増していることを強調した。



ラウンド・テーブル「9・11以後の世界において平和憲法は可能か?(Is a Peace Constitution Possible in the Post-9.11 World ?)」

私が参加した限りでは、各セクションには内容によって20-50名の聴衆が集い、充実した議論が展開された。私が聴講したラウンド・テーブル「9・11以後の世界において平和憲法は可能か?」に関して少し報告しておきたい。

Edward Demenchonok(USA)によって準備されたこのセッションでは、9・11以後のテロに対する無際限なグローバルな戦争における日本の平和憲法の可能性について討議された。このセッションの問題設定は、なぜ世界の平和を維持するためにかくも圧倒的な軍事力が使用されるのか、そして、こうした危機の時代において日本の憲法第九条さえ改正されようとしている、というものである。議論は、日本の平和憲法をモデルとしていかに国際法レベルでカント的な永遠平和を実現するのか、という方向で進められた。しかし、私見では、日本の平和憲法を直接的に普遍化するのではなく、第九条という特殊性が現在の世界情勢に果たす意義を考察する、つまり、その普遍と特殊の間隙を問うこともできたと思う。実際、スペインの哲学者からは「ローカルなレベルで平和に向けた実践をおこなえばよい」という積極的な提案がなされ、「9・11」以後という歴史的な切断線(「テロとの戦い」の一義的な起源)を変更することが重要であるとされた。例えば、マドリードでは列車爆破テロが起こり、イスラム・テロと喧伝されたものの、その直後の総選挙ではイラク戦争を支持する政府に対する市民の否が多数を占め、政権交代がなされた。つまり、マドリードの集団的記憶は「9・11」ではなく、このイラク戦争への異議申し立てを起源とするのだ。アメリカの視座によるグローバルな普遍的時間性を途絶させ、各地域で歴史的切断線を特殊的に変更することが求められているのである。



情熱的な一連の議論を受けて、私は最後に発言した。「みなさんが日本の平和憲法に関してこれほど肯定的な討議を展開されることに私は深い感慨を禁じえません。とはいえ、日本の状況はきわめて悲観的です。保守政治家、大企業、マスメディアが圧倒的な力で第九条を改正しようとしているからです。東アジアは北朝鮮の動向や台中の緊張関係など、実はきわめて危うい地域であり、この地域での紛争勃発の抑止に日本の第九条は大きな役割を果たしてきたと思います。だから、これからも日本の平和憲法を死守する必要があります」。結局、このセッションは、ある老教授が微笑みながら私に発した、ほとんど合言葉のような呼びかけで幕を閉じた――”We will help you. ”

「哲学キャンプ」の試み

今回初めての試みとして、世界哲学会議と平行して、若者向けの「哲学キャンプ」が開催される。このキャンプは90名の小学生高学年、50名の中学生、40名の高校生が参加して、約20名の教授(そのほとんどが会議に参加する外国人哲学者)とともに4日間ソウル近郊で実施される。このキャンプでは、「若者がいかにして哲学を学ぶことができるのか」という実践的な問いをめぐって試行錯誤が繰り広げられるという。ここでも大学生のボランティア・スタッフが多数活躍しており、世代を横断する哲学教育の活気を実感することができた。


(「哲学キャンプ」開会式。親同伴で子供たちが集う。)

主題別セッション「哲学を教授すること(Teaching Philosophy)」

私は主題別セッション「哲学を教授すること」でデリダの教育法(脱構築と教育の関係)をめぐって発表をおこなった。会場からは、「デリダの教育法における他者の到来とは何を意味するのか」「デリダの脱構築的な教育法によって、従来の哲学史を忠実に教授することはできるのか」「デリダは子供に対する哲学をどのように考えていたのか」といった質問が相次いだ。



他の登壇者の発表では、哲学は真偽の厳密な判断を下すのではなく、「何か間違っている、でもそれが何だかわからない」という地点をその教育的端緒とするべきでは、という興味深い見解が示された。また、哲学的教育は、論理(分析的思考)→実存(自己内省)→(西洋的)理性→(東洋的)知恵という段階を経てなされるべきではないか、という主張もなされた。いずれにせよ、このセッションでは哲学教育の方向性と手段をめぐって多種多様なレベルで議論が展開され、実に有益な時間だった。



哲学をめぐる出会いの歓喜

これだけの規模の国際会議だから、出会いと再会がどうしようもなく繰り返される。地下鉄の駅からソウル国立大学までは無料シャトルバスが運行されているのだが、なかなか来ない。これも仕組まれた巧みな演出なのだろうか、結局みな痺れを切らしてタクシーに相乗りすることになり、車内で各国の哲学研究者のあいだで話が弾む。「デリダについて発表します」と告げると、この固有名に対して各人からさまざまな反応が返ってくる。「日本でもデリダは人気なんですか」「ああ、あなたはポスト構造主義者なのですね」「それでは、あなたは人間理性の普遍性など信じていないんでしょうね」……等々。また、先日UTCPと台湾大学の合同シンポジウムで東京で知り合った黄冠閔氏(中央研究院)や、過去にUTCPで招聘した許示右盛氏(Kung Hee Univ.)とも談笑する機会を得た。

そして、最も嬉しかったのは、帰り道、地下鉄の駅入り口での学生ボランティア・スタッフたちとの出会いだった。すぐさま意気投合し、信原幸弘氏をはじめとするUTCP関係者(ジョン・オデイ、ミシェル・ダリシエ)とともに一緒に韓国風食堂で交流会となった。韓国焼酎を飲みながら焼肉を食して共に語り合い、英語・仏語・韓国語・日本語が飛び交い、哲学的議論に始まって日本のアニメの話題まで、笑いと爆笑の絶えない時間が過ぎていった。

哲学をめぐる出会いはさまざまな時と場所で、さまざまな世代のあいだで花開くのであり、その歓喜はナショナリティを越えて実に際限がない。

「研究空間スユ+ノモ」の挑戦

「研究空間スユ+ノモ」の挑戦(2008/08/1-2)



博士号を取得したものの就職先がない「高学歴ワーキングプア」たちが創設した、大衆に開かれた研究教育のための自律的な生活共同体「研究空間スユ+ノモ(Research Machine “Suyu+Trans”)」――2008年8月1-2日、韓国・ソウルにて「研究空間スユ+ノモ」を訪問し、コ・ビョングォン講師らにインタヴュー取材をおこなった。


(左からイ・ジンキュンさん、通訳のオ・ハナさん、コ・ビョングォンさん)

「研究空間スユ+ノモ」という場

1997年、ソウル郊外のスユリに国文学研究者・高美淑(コ・ミスク)が勉強部屋を開設した。就職先のない「高学歴ワーキングプア」たちが共同で研究空間を立ち上げたのである。後に、社会科学研究所を中心とする若手研究者たちが合流して、現在の「研究空間スユ+ノモ」が創設された。ちなみに「ノモ」は韓国語で「trans(越える)」という意味である。

「研究空間スユ+ノモ」はソウル中心にある南山近くのビル4階を一フロア借り切って運営されている。ここは理論探究がなされる研究所であり、数々の教育活動が実施される施設であるだけでなく、研究員の共同生活が重視されるコミューンである。三つの大きな講義室(兼ヨガ室および卓球室)、三つのセミナー室、カフェ、厨房+食堂、勉強部屋、美術室、育児室、映像編集室、仮眠室などを備えた「スユ+ノモ」が目指すのは学問と生活の適切な調和である。


(厨房+食堂での食事風景)

例えば、食堂では当番制で食事が準備・調理され、昼夜の二食が1食約180円で提供され、毎回約30名が食事を共にする。食べ残しは厳禁で、食後はパンの切れ端で食器に残るソースまできれいに磨いて残さずに食べ切ることになっている。食堂とカフェでは会計箱に自分でお金を入れ、自分で食材を盛り、飲み物を注ぎ、自分の試用した食器類を自分で洗う。共に生活することと共に研究教育することの接続が「スユ+ノモ」ではもっとも重視されるのであり、この空間は研究と生活に関して参加者が共に悩むための場なのだ。


(私が訪問した日に開催されていた特別英語プログラム。テクスト「コミューン主義宣言」をめぐって英語で討論)

「スユ+ノモ」の研究教育プログラム

現在、「スユ+ノモ」の運営会員は約60名で、常時200-300名ほどが研究教育プログラムに参加している。プログラムは主に、約30種類の通常セミナーと一般公開事業「空間PLUS」からなる。まず、セミナーは少人数の研究会で(最低2名から開催)、朝昼夜の三種類の時間帯で毎週一コマ3時間実施されている。毎月1,500円という手頃な授業料で約30種類のセミナーすべてに参加することができ、参加者数は各学期のべ100名ほどになる。


(セミナー室)

また、「空間PLUS」は各種の公開事業で、例えば、その主要プログラム「講学院」は東洋思想に関する「古典講義」、西洋思想に関する「理論講義」、今日的なテーマを扱う「主題別講義」からなる。週1回の開催で準備時間2時間、本講義3時間の長丁場である。主に平日開催にもかかわらず各講義20-30名の参加者があり、受講料は一講義一学期につき約3万円である。2008年秋学期はそれぞれ、「出来事の思考――ドゥルーズ『意味の論理学』とインドの中論思想」「スピノザ読解」「魯迅の剣と微笑」という講義が用意されている。


(講義室兼ヨガ室)

そして、通年講義「大衆知性」も2年前から開講されている。この講義は年間40週、週3コマからなり、一年間で精神分析、自然科学、文学、道徳などさまざまな講義を受けることができる(受講料は年間15万円)。このプログラムは大学の教養課程と類似しているようにみえるが、しかし、習得すべき一般教養という知の全体性をあらかじめ設定してはいない。各講師が自分のもっとも関心があることを講義し、受講生の生き方を変革する刺激のある講義を提供することが唯一の理念と責務とされる。

経済的な問題

しかし、ビルの一フロア(約400㎡)を毎月120万円で借り切って、これほどの規模の研究教育活動をどうやって維持することができるのだろうか。彼らは政府や企業からの資金提供を一切受けていないのだが、これまで家賃を滞納したことはないという。基本的には、各運営会員が自分の収入に応じて自由に運営基金を支払うことになっている。その最低額はひとり毎月4千円に設定されているのだが、逆に、最高額が2万円を超えてはならないという規則はとても興味深い。過度の資金提供をする特定の人物にある種の貴族的特権が付与され、研究空間の民主的共同性が乱される恐れがあるからだ。


(勉強部屋。机の決まった割り当てはなく、好きな場所で勉強する。)

他にも、セミナーと講義の受講料、ヨガ教室や美術教室の参加料、不登校児向けの教室、出版物などによって収入源は確保されている。興味深いことに、コ・ビョングォン氏は「資金の確保は実はもっとも些細な問題であり、むしろ獲得した資金をどうやって使用するのかがより重要だ」と明言する。実際、廊下の掲示板には毎月の詳細な収支報告が掲示されており、資金の流れがきちんと公開されることで、参加者がお金の有効な使い方を強く意識するようになる。



贈与と接続

生活共同体「スユ+ノモ」の基本理念は「お互いへの贈りものとなること」である。彼らは共同体(コミューン)を贈与の概念から理解し実践しようとする。実際、「スユ+ノモ」にある椅子や机、子供の玩具などは寄付であったり、廃棄予定の物資を引き取ったものだったりする。お互いへの贈与こそが諸個人の関係を接続し、共同体と共同体を接続するのだ。いやむしろ、私たちはつねにすでにどうしようもなく他者と接続してしまう存在なのであり、研究教育に基づく生活共同体はこの存在様態を基点としてこそ成立するのである。例えば、「スユ+ノモ」は農村コミューンと連携して、市場では割に合わない価格で取引される農作物の寄付を受け、そのお返しに農村の人々を講義に無料で招待したりしている。


(カフェ。椅子などは市内の喫茶店が店じまいしたときに引き取ったものなので、上等の座り心地と雰囲気)

「研究空間スユ+ノモ」の英訳はResearch Machineとなっているが、これはドゥルーズ+ガタリの「機械」という表現を意識した訳語である。ある空間はつねに他の空間と接続されるはずであり、また、ある物理的な空間それ自体はその都度の活動に応じて変容するはずだ。研究教育がその空間の接続と変容に曝され、知がその都度さまざまな宛先へと差し向けられる――そうした試練を経ることで、生と結びついた根本的な知が見出されるのである。



しかし、聞けば聞くほど、「スユ+ノモ」は実にユートピア的な研究生活空間である。私はしつこく「そうは言っても、何か問題があるのではないですか」と何度も問い質したのだが、彼らはみな一様に涼しい顔で「まったくありませんよ」と自然体で笑いながら言葉を返してくるのだった……。

以上が、「研究空間スユ+ノモ」という「高学歴ワーキングプア」の創造的な挑戦に関するごくささやかな報告である。その他にも、研究教育と場所の関係、研究教育のクオリティ維持の方法など、数多くの興味深い本質的な論点について話をうかがうことができた。


(「スユ+ノモ」入口に掲げられた宣言文。英語および日本語の文句は以下のとおり)

Become gifts to one another !
Research Machine ”Suyu+Trans” is
a research commune where everyone shares their daily lives,
seeking to harmonize a good knowledge with a good daily life.

おたがいへの贈りものとなること!
研究空間スユ+ノモは
よい知とよい生を一致させる
研究者たちの自由な生活共同体です。

(今回の取材に際して、限りない歓待精神でもって、時間の許す限り誠実に対応してくださったコ・ビョングォンさん、オ・ハナさん、イ・ジンキュンさんら「スユ+ノモ」の方々に心より感謝申し上げます。)