2008年11月 フランス(パリ)

キャンパス計画―フランスの大学改革

キャンパス計画―フランスの大学改革(2008.11.23)


9月の国際哲学コレージュ取材に引き続き、国際フォーラム「哲学への権利」を開催するために再びパリに滞在している。パリは例年以上に寒い日が続いており、今日は早くも粉雪が舞った。



現在、フランスでは急速に大学改革が進められている。2007年春、大統領に就任したサルコジはまず高等教育改革に着手し、早くも8月には「大学の責任法」を成立させる。フランスの大学は大部分が国立大学だが、この法律は日本の国立大学の独立行政法人化にも似た仕方で、各大学の企画運営に自律性をもたせると同時に自己責任を負わせる。この改革は大学における産学連携を可能にする一方で、大学の自立や自治を脅かし、学問の独立性に根本的な変化を強いるものであり、学生や教員の激しい反発を招いた。だが結果的に翌1月から早くも20の大学が自律化を遂行し、すべての大学は今後3年以内に改革にしたがうことになっている。

世界ランキングにおいて遅れをとるフランスの大学の水準を引き上げようと、ここ数年来、研究教育活動の効率化を図るために、「研究と高等教育の拠点」(Pres: Pôles de recherche et d’enseignement supérieur)や「先端研究の主題別ネットワーク」(RTRA: Réseaux thématiques de recherche avancée)といった施策が実施されてきた。大学の自律化を経た今年、高等教育研究省は「キャンパス計画(Plan Campus)」を打ち上げ、全国に10の「卓越したキャンパス(un campus d’excellence)」を新たに創設するとした。国営の電力・ガス会社EDFの一部を民営化して得られた資金をもとに、「キャンパス計画」には39億ユーロ(約5000億円)が投入されることになる。従来の大学施設の選択と集中を促進する抜本的で大規模な大学改革である。

この大胆な計画には批判の声もあがる。この新自由主義的な施策は大学間の階層化を促進し、とくに大都市と地方の研究教育格差を助長するものだからだ。また、政府主導の大学改革は往々にして大学の体制順応主義的な体質を助長し、その批判的精神を減退させることで、学問の重要な生命力であるその独立性を委縮させるからだ。しかし、大学ランキングにフランスの大学の存在感がないという焦燥感を打ち消し、研究教育の国際競争力を高めるという論理を説得することは難しかった。


(ソルボンヌ大学前広場)


大学人と財界人8名からなる審査委員会では、各応募キャンパスについて、研究教育の目的と展望、キャンパスの新設と移転の必要性、キャンパス・ライフの充実などが検討される。春の第一次募集では46の応募のうち、ボルドー、トゥールーズ、リヨン、モンペリエ、ストラスブール、グルノーブルが選出された。夏の第二次募集では20の応募のうちからパリ北部の「コンドルセ計画」(人文科学系)、パリ近郊ヴェルサイユの「サクレー計画」(理科学系)、マルセイユが選出され、さらに、パリ市内で最後の一拠点が決定され、「21世紀のカルチエ・ラタン」が創出される見込みだ。予想通り、大都市の伝統的な大学だけが拠点資格を獲得したわけである。

例えば、「コンドルセ計画」はヨーロッパにおける人文社会科学系の研究教育拠点形成を目指すものだ。パリ第1、8、13大学が連合し、社会科学高等研究院(EHESS)や高等研究院(EPHE)、人間科学館(MSH)と連携しつつ、2012年にパリ北部郊外のオベルヴィリエに新キャンパスが開設される。4億3,000万ユーロ(約560億円)を投じて新設される広大なキャンパスでは、約2,000人の教員と研究者、約15,000人の学生(6,500名が大学院生)が、整備された最新の施設や巨大な図書館で研究教育に従事することになっている。


(フェルナン・ブローデルらが1963年に創設した人間科学館(MSH)もまた、新キャンパスに移転される。上はその完成予想図。パリ市内から研究教育機関の伝統的な建物がまたひとつ消え、その郊外化が始まる。)



(グローバル資本主義の知的拠点として創設されるコンドルセ・キャンパスだが、その広場〔上図〕の名称は「人民戦線」、大学前に新設される地下鉄の駅名は「プルードン」)

日本でも2001年度から文部科学省のCOEプログラム(Center of Excellence卓越した拠点)が開始され、国際競争力に耐えうる研究教育の選択と集中が図られてきた。私たちのUTCPもまた、このプログラムの枠で大学内に設立された期限付きの組織である。

「卓越性(excellence)」の論理によって、高等研究教育は劇的な変容を迫られている。こうした潮流のなかで、資本の論理とはむしろ疎遠な人文学、とりわけ哲学にはいかなる意義が残されているのだろうか。今後、人文学、とりわけ哲学はいかなる制度として実現されるべきなのだろうか。人文学の責任を、哲学への権利をいかなる研究教育制度において構想するべきだろうか。

11月24-25日、UTCPはパリの高等師範学院と国際哲学コレージュにおいて、国際フォーラム「哲学への権利―グローバル化時代における研究教育制度の脱構築」を開催する。大学、人文学、哲学の未来を展望するために、フランス、イタリア、アルゼンチン、日本の研究者による討議がおこなわれる。


(前日、ソルボンヌ広場のカフェで打ち合わせ)

思考の方向を定めるとはどういうことか―フランスの高校における哲学教育

思考の方向を定めるとはどういうことか―フランスの高校における哲学教育(2008.11.27)




フランスの高校においては哲学が必修科目であり、最終学年になると文系理系を問わず、高校生は週に4-8時間の哲学の授業を受ける。世界的に見て例外的な、フランスの高校における哲学教育はどのように実施されているのだろうか。




11月27日、ジゼール・ベルクマン氏の尽力によって、UTCP共同研究員の藤田尚志氏らとともに、パリ郊外のジュール・フェリー高校で哲学の授業を見学させていただいた。学生数約100名のジュール・フェリー高校はエリート養成的でも、問題児が多いわけでもない平均的な高校である。

フランスの高校で学科コースは文科系(L)、経済系(ES)、理科系(S)に分けられる。いずれも学科コースでも最終学年で哲学が課せられており、大学入学資格試験(BAC: Baccalauréat)にも哲学の科目が含まれている。BACはいわば日本のセンター試験のような大学進学者の共通試験である。ただ、日本の場合は、獲得点数に応じて大学進学が左右されるが、BACに合格するとほとんどすべての国立大学に入学することができる。BACでの哲学の筆記試験は4時間。三つの課題が出され、その設問のなかから小論文かテクスト注釈を選択する。試験課題は年度初めに公表されるので1年間の受験勉強期間があるわけだが、しかし、18歳の若者が4時間の哲学の論述試験に合格するためにはかなりの訓練が必要だろう。


(きわめてシンプルな職員室。先生ごとの個別の机はない。先生は毎日出勤する必要はなく、授業のある日だけ学校に赴き、終わると日中でもすぐに帰宅する。)

最初に見学したのはドゥ・プルヌフ先生の授業2コマ(1コマは55分)。最初のクラスの主題は「欲望と自由」。欲望は受動的で情動的なものであるため、人間の自由に対する脅威であるようにみえる。欲望とはいまだ実現されていないもののに対する願望であり、その実現をめぐって諸個人の能力が試される。「欲望と自由」については、自分の能力に照らし合わせて、いかにして自己を統制するべきかが問題となる。授業では、デカルトの自由意志、プラトンにおける不死の問い、ストア派の自己統制などが参照された。

次のクラスの主題は「真理」。アリストテレスの論理学関係の著作群『オルガノン』におもに言及しながら、真理認識に至るために、判断の基準や規則を見い出し、習得することが必須であることを説明。同一律、無矛盾律、排中律を紹介し、推論や三段論法の論理を普遍-特殊、質-量のカテゴリーを踏まえながら具体的に教えた。


(学生に人気のドゥ・プルヌフ先生。「幸福の探求は哲学の一部なのよ」と印象的な言葉を学生に投げかけていた。)

ドゥ・プルヌフ先生は学生との親密な雰囲気を十分に活かしながら授業を進める。そうした自由な雰囲気はときに学生たちの雑談をも許容するのだが、しかし、学生との対話を重視することで教室全体で活発な議論がおこなわれていた。



お昼を学食で食べた後は、カジエ先生の授業。エピクロスの手紙とフロイトの「文明への不安」の抜粋を使用して「幸福」について、サルトルの抜粋を使用して「自由」について授業された。学生は抜粋プリントを読んできており、先生に発言を促されると自分の見解を述べる。「テクストを読む際には、テーゼ、争点、問題を浮かび上がらせることが重要です」「みなさんの段階では、分析したり批判したりするのではなくて、テクストが言わんとしていることの概観を明示することが大切です」と哲学の初学者に読解の基礎を示していた。


(授業は厳しいパンション先生)

最後は、パンション先生による2年生向けの哲学入門。だが、入門とは思えない高度な内容。すでにいくつかの質問をめぐって小エッセイの宿題が提出されており、今回はその講評と添削がなされた。設問は「動物はいかなる意識をもっているのか」「欲求と欲望の違いとは何か」「『実存は本質に先立つ』というサルトルの命題をどう考えるか」など。「みなさんの小エッセイの出来は残念ながらいま一つでしたよ」と軽く言い放って授業開始(17歳の初学者がこれらの難問に答えるわけだから当然だと思うが)。学生が曖昧に使用した概念(自律、他律、偶然、反省など)に的確な規定を加えながら、哲学的理解を促していく。

日本と比べて、フランスの高校では授業中、学生の質問が活発だ。学生は沈黙しない。学生はどんどん手を挙げて絶えず質問をする。その内実は事実確認のレベルから、論理的な質問、的確な反論のレベルまでさまざまだ。排中律の説明の際には「それはパラドックスとはどう違うのか」、矛盾の説明の際には「対立との違いは?」との質問がすかさず出てくる。授業中、先生が説明しているあいだに、学生数名同士で話し始めることもあるが、それはけっしてたんなるおしゃべりではなく、思わず隣の学生と議論が始まっているという場合もあった。教師と学生とのあいだで絶えず対話や議論がなされることで、教室全体で理解を深めていくという連帯感が生まれるのだ。



引用テクストが配布されることはあるが、教科書はない。「ここは重要だから」という先生の合図とともに重要な命題文が読み上げられると、学生はみなノートを取って正確に転写する。おもに学生と先生の対話と問答を通じて、問いの射程が十分に深められ、概念の規定が明確になり、命題の真偽が明晰に判断される。授業では、人物名や著作、概念やキーワードなど重要事項を暗記することではなく、何かを思考するための手段や基準、つまりは道具(オルガノン)を習得することが目指される。

思考の方向を定めるとはどういうことだろうか―今回の取材でもっとも印象に残ったのは、「思考するための基本的で的確な方法を学ぶ」という、哲学に課せられたもっとも単純な務めである。自由に思考することが重要なわけではない。自由に思考するためにいかなる制約や規則が必要なのかを自覚することが重要なのである。


(休み時間に学生たちとの対話。「必修科目だから哲学の授業を受けているけど、哲学をやって何の意味があるのか、とは思わない?」と質問すると、「とんでもない! 思考の訓練のためにとても重要な授業なの」との返事。)

*今回の取材に際して尽力していただいたジゼール・ベルクマン氏、ジュール・フェリー高校のみなさんには深く感謝いたします。

国際フォーラム「哲学と教育―哲学への権利」

国際フォーラム「哲学と教育―哲学への権利」(2008.11.24-25)







2008年11月.24日、UTCP国際フォーラム「哲学と教育―哲学への権利」の第一日目は、《制度、教育、評価》と題して、藤田尚志(日本学術振興会)、橋本一径(東京大学)、津崎良典(ストラスブール大学)の三氏がパリ高等師範学校で発表を行なった(司会:西山雄二)。



第一日目は、藤田氏が〈制度〉の観点から20世紀を軸に総論的な話を行ない、それを受けて橋本氏が19世紀から現代を照射する〈教育〉の問題を、津崎氏が21世紀にいっそう重要な位置を占めつつある〈評価〉の問題を扱い、それぞれの発表に対してミシェル・ドゥギー氏(パリ第8大学名誉教授)がコメントをするという形で進められた。

25日、第2日目「高等教育をめぐる各国の事情と人文学の未来」はパリの国際哲学コレージュで開催され、イタリア、日本、フランス、アルゼンチンの研究者が発表と討議をおこなった(司会:小林康夫)。



国際フォーラム「哲学と教育」全3回を終えて

UTCPはすでに2006年11月8日および2008年1月8日に国際フォーラム「哲学と教育」をパリで開催した。前2回は主に哲学と教育法の関係を主題とし、デリダ、ブランショ、ドゥルーズ、フーコー、ベンヤミン、ラカンといった思想家が俎上に載せられた。3回目となる今回のフォーラムの趣旨は、グローバル資本主義の趨勢のなかに研究教育活動が位置づけられる今日において、哲学の新たな制度を模索する試みとなった。


(第1回 2006年11月8日。フランシスコ・ナイシュタット、國分功一郎氏とともに)

UTCPと国際哲学コレージュの共催で開催してきたフォーラム「哲学と教育」は、今回の第3回目でもってさしあたりの完結編に達した。全3回の主催者として、参加してくれたすべての人々に感謝する次第である。学術的催事を国際的な規模で継続させることの意義はけっして少なくはなく、この共同研究は実際、アルゼンチンでの大学論シンポジウムなど別の形ですでに展開されている。このフォーラムによって培われた人間関係は今後も継続されることだろう。


(第2回 2008年1月8日。ラダ・イヴコヴィック、郷原佳以氏とともに)


グローバル資本主義の趨勢のなかでいかに大学が困難な状況に置かれようとも、同じ苦悩と歓喜と信念を共有できる友が、いま、この瞬間も、世界のどこかにいる。ひたすらテクストを読み、テクストを書くという孤独のなかにあっても、どこかにいる友との喜悦と信義を絶やさぬようにしよう。距離を介したこうした友愛のうちに研究活動の生命がもっとも瑞々しい仕方で宿るのだから。学問をめぐるこうした感覚的確信を糧にして、引き続き、知の現場を公共的な仕方で生起させ、大学、教育、哲学をめぐる共同研究を進展させていきたいと考えている。

現場――それが、結局、われわれの企図にとってのキー・ワードである。とかく生き生きとした現場から乖離して自閉的になる傾向のある学問的な知に対して、思い切った現場性を回復すること。それぞれの学問とそれと関係のある現場とのアクチャルな結びつきを提示するだけではなく、同時に学問あるいは大学という場そのものが持つ現場性(教育と研究)をはっきりと認識すること。言うまでもなく、現場とは、完全にはコントロールできない場、つねに予測できない出来事が起こり、見知らぬ他者が現われるような場、それゆえに危険であると同時に魅力的な場のことである。――小林康夫『大学は緑の眼をもつ』