巡回上映の記録 2010年3月 東京大学UTCP


旅思(4)――映画『哲学への権利』巡回上映の旅の記録(UTCP編)

2010/03/24 未来形の追慕の方へ

2010/03/24 未来形の追慕の方へ




3月は、嬉しいことに、映画出演者3名(ミシェル・ドゥギー、ボヤン・マンチェフ、ジゼル・ベルクマン)の懐かしい顔ぶれと共に討論会を実施することになっている。小林康夫氏、丸川誠司氏を交えて3名と夕食を共にした今夜は実にスリリングだった。主に小林氏とドゥギー氏のあいだで「現在、詩はいかにして可能か」をめぐって議論が戦わされたからだ。「詩は言語を必要とするが、にもかかわらず、言語から解き放たれることは可能だろうか」「詩はエコロジーの問いのなかにその将来を見い出すのではないか」「交渉されるべき環境世界ではなく、さらに深遠な、世界への開かれこそが詩の課題だ」などなど。

ちなみに、この晩餐はたまたま、私の地元・愛媛県の郷土料理屋(@新橋)でおこなわれた。ドゥギー氏がたまたまこの店を気に入っているのだという。懐かしい仲間とともにしばし思郷の念にかられた夜である



いよいよ、27日(土)には東京大学UTCPにて、映画「哲学への権利」が上映され、出演者ボヤン・マンチェフ氏、ジゼル・ベルクマン氏と共に総括的な討論がおこなわれる。上映運動のひとつのクライマックスをなすイベントになるだろう。

ところで、未来形で追慕の念を語ることは可能だろうか。27日のイベントを最後の仕事として、私はUTCPを去ることになる。やがて私はこの特異な研究教育の場に敬慕の念を募らせていくことになるだろう。27日の上映・討論会ができるだけ充実した会となるように心と力を尽くしたい。

2010/03/27 東京大学駒場(ボヤン・マンチェフ、ジゼル・ベルクマン、小林康夫)



2010/03/27 東京大学駒場(ボヤン・マンチェフ、ジゼル・ベルクマン、小林康夫)


2010年3月27日、東京大学駒場18号館ホールにて、映画「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」の上映がおこなわれ、討論会がボヤン・マンチェフ(新ブルガリア大学、国際哲学コレージュ副議長)、ジゼル・ベルクマン(国際哲学コレージュ・プログラム・ディレクター)、小林康夫(UTCP)、西山雄二(UTCP)によって実施された。桜が咲き始めたものの花冷えする気候のなか、210名ほどが集まる盛会となった。





まず、西山雄二から、拙映画「哲学への権利」を、東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター(UTCP)」にて上映することの喜びが告白された。「大学、人文学、哲学の現在形と未来形をいかなる制度として実現すればよいのか」――これはUTCPが取り組み続けている重要な問いである。「人文学の研究教育の領域横断的な可能性を国際的な次元でいかに発展させていくべきか」、その先駆的な事例が国際哲学コレージュであり、UTCPはコレージュをモデルとして創設されたのである。





次に、ボヤン・マンチェフは、国際哲学コレージュの4つの使命を提言した。1)規範化される現在の哲学の傾向に抗して、活気ある新たな哲学的実践を創出する場であること。2)現在の状況(とりわけ政治的状況)に対して批判的な場であること。3)優れて国際的な場であること。それはたんに外国人教師を増やすだけでなく、別の言語、別の哲学の舞台へと開かれるのか、つまり、私たちの世界の真の他性化を思考することである。4)哲学教育について議論され、新しいタイプの哲学教育の探究と実験がおこなわれる場であること。



ジゼル・ベルクマンによれば、「哲学への権利」はパフォーマティヴな題である。今回は日本人研究者が「はるかなる視線」(レヴィ=ストロース)をコレージュに投げかけることで、哲学に対する「別の」関係が示されている。彼女は、場所や空間、現場の問いに着目する。というのも、コレージュはパリのデカルト通りに事務局が設置されているものの、キャンパスをもたず、いたるところで研究教育活動が展開されるからである。コレージュの理念とその歴史性という二重性を、コレージュのユートピア性に即していかに考えるべきか。批判的な抵抗の場であり続けるべきか、時流に適合した場となるべきか。いずれにせよ、哲学に即した思考の実験こそがコレージュの責務であり続けるだろう。



小林康夫は、まず、UTCP創設時にジャック・デリダを招聘しようとしていたことを告白し、コレージュとの歴史的な関係を強調した。そして、「(西洋)哲学は無実ではない」と自説を展開した。現在の資本主義社会や民主主義政治などと深い共犯関係にあり、もっと言えば、哲学こそが現下のあらゆる事象や体制を生み出したのである。それゆえ、世界そのものに対して哲学には責任がある。思考が哲学を越えて、哲学の罪を突き抜けるためにはどうすればよいのか――歴代の哲学者たちはこの限りなく不可能な問いに取り組んできたはずだ。たしかに、哲学は孤独な作業たりうるが、しかし、こうした哲学の責任を目指す国際的な連帯のための場も必要である。たんなる国際的な交流ではなく、別の思考との出会いを通じて(西洋)哲学の営みを突破すること――UTCPもコレージュもこうした使命を負っているのである。

3月27日の東京大学での上映では数多くのアンケート回答をいただきました。心より感謝申し上げます。「勇気づけられた」という表現が散見されたことは、こちらとしては嬉しい限りです。そのうちのいくつかを紹介させてください。



「こうした映画の上映会にこれだけの人が集まるほど、哲学や大学が関心を集めるなら、日本もまだ捨てたものではないのだろうか。」

「音楽や映像を通して『問い』が提示される迫力は、様々な背景をもった人々によって形成されているこの『場』と合わさって、想像を絶するものがあった。」

「静かな、しかし刺激的な不思議な余韻が残った。映画で語られた、ある意味、断片的な国際哲学コレージュの理念や姿が、上映後の出演者の話によって奥行きを与えられ、立体的なものとなった。哲学や思考が現在の世界を形作っているだけでなく、私たちがこれから向かおうとする未来への礎や指針に欠かせないものだと再認識した。」

「『哲学への権利』を分からせる、というより、うまく気づかせてくれる、そんな映画だった。」

「今日はじめて『哲学への権利』という言葉の意味がわかりました。6回目にしてやっとです(笑)。この表現を上手いこと考えたなあ、と本当に思いました。どう分かったかは言語化できませんが、身体に染み込んできた気がしました。」

「哲学という学問をもっと大きな枠組みのなかで理解する視点をもつことができた。」

「日本人がなぜフランスでインタヴューをするのか、日本の哲学状況での位置づけ方はまだ軽薄であるようにみえた。」

「大学に入って、はじめて哲学というものに接して戸惑ったときのことを思い出した。」



「自らへの批判的な問いも含めて、UTCPという場についても、外部の方が取材し、映像化されれば、と願う。」

「UTCPは税金を上手く使っていると思う。」

「私は会社員ですが、哲学とビジネスが切り離されたものではなく、どのように関係しているのか、その関係を築いていくべきか、考えるとともに、それを実生活に反映していきたいと思います。さまざまな立場の人が気軽に哲学に携われる、触れられる場が増えることを願っています。」

「社会学を専攻しているのですが、ディシプリンそのものを探すことに不安な気持ちをずっと抱いていました。しかし、今日の映画を通じて、より開いたものへと向かう哲学を知ることでその気持ちが解消され、自分のやっていることを前向きにとらえ直すことができた。」

「この映画はコレージュの制度について説明する辞書的ドキュメント。したがって、ダイナミズムがまったくなく、単調だった。」

「現在の大学のつまらなさについて言い出したらきりがないが、大学の中から、外から考えることを貫徹するために動いている人たちがいることは、本当に心強く感じた。」

「人々の暮らしに哲学が日常的に息づくことの大切さを改めて学ばせていただきました。とくに日本が現在、大きな分岐点にさしかかっているなかで『思考する』私たちこそ重要なことだと思いました。」



「哲学の可能性を開くチャンスは、私たちのさまざまな現場にもあるのはないか、そのような発想から何かを考えられるのではないか、と勇気づけられた。」

「働きながら、これからも死ぬまで学び続けていきたいとの思いを強くしました。」

「この映画も討論会も哲学の保身に染まり過ぎていたように感じた。」

「各人の話の先に目には見えない、理想的な国際哲学コレージュが感じられた。それは、人間にはけっしてつかみ得ない真理を追究する哲学の姿と重なり、同時に哲学そのものが肯定されたように感じられ、勇気をもらった。」

「やはりデリダという固有名の大きさにはあらためて感嘆せざるをえない。」

「駒場図書館で働いています。いま、図書館では仕事を業務委託の形で、業者の入札に任せようという話が出ています。哲学の抵抗の仕方に興味をもってきたのだと、映画を観ているうちに気がつきました。今ある制度を積極的に活用しようとしている小林先生の言葉と、コレージュで抵抗されている先生方、映画を製作された西山先生の姿勢がとても印象に残りました。図書館の小さな仕事ですが、私なりにできることをやっていこうと思いました。」

「素晴らしい映像と討論会だった。哲学の責任、その距離を測る思索を受け止める、享受する、歓待する権利は私たちにすでに訪れているのだ。」

旅の力――東京大学UTCPでの活動を終えて

旅の力――東京大学UTCPでの活動を終えて(2010.03.31)




私はUTCPには第一期の21世紀COE最終年度から参加していたが、第二期への準備段階ではその事務作業に本格的に携わることになった。結果的に、UTCPは文科省のグローバルCOEプログラムとして継続採択され、第二期が2007年9月に始動する。そのとき、小林康夫・リーダーから一般研究員とは異なる特任講師職への就任を依頼され、第二期UTCPの運営や事務の仕事を担当することになった。東京大学出身でもなく、さほどブリリアントな研究者ではない私がこのような職に命じられることは「恩寵」にほかならないと思った。この職がなければ、実際、その次年度からフリーターに近い生活状態になっていただろう。だから、この召命に背くことがないように、初日に頂いた任命通知書を鞄の奥底に入れて、毎日持ち歩くことにした。



「人文学、とりわけ哲学の現在形と未来形をいかなる制度として実現すればよいのか」――これがUTCPが取り組み続けている重要な問いにほかならない。人文学の研究教育の領域横断的な可能性を国際的な次元でいかに発展させていくべきか。東京大学の既存の組織ではなしえなかったこうした理念を、UTCPは具体的に着実に実現してきた。UTCPは何よりも教員と若手研究者のチームワークが抜群で、年間120本程度の国内外の大小のイベントが実に適切に運営されてきた。その発展する姿を日々目の当たりにすることで、学問に従事するためのより強い信念を抱くことができるようになった。



UTCPにおいて、国際的な学術交流の仕事に携わることができたことは、一生涯の貴重な財産になるだろう。パリ・国際哲学コレージュとの「哲学と教育」(全3回)、韓国・延世大学との「政治的思考の地平」「人文学と公共性」「批評と政治」、韓国・研究空間スユ+ノモでの「人文学にとって現場とは何か?」、アルゼンチンでの「バリローチェ国際哲学会議」「大学の哲学 合理性の争い」、アメリカとフランス各地での映画「哲学への権利」上映・討論会など、実に数多くの機会に恵まれた。UTCPでは、著名な先生による一度限りの御説御拝聴ではなく、対等で継続的な国際交流の確立を目指している。実際、私は数々の国際的イベントを通じて、十年後も共同で思索を深められるであろう友たちに出会うことができた。

自然科学とは異なり、人文科学研究においては共同作業は必ずしも必要とはされない。人文学は人間の精神活動を個々の人間が問い直す反省的な営みであり、ひたすらテクストを読み、テクストを書くという孤独が人文学の基本をなす。むしろさまざまな類の孤独を保持することによって、人文学の研究成果は蓄積されてきたとさえ言える。だが、ひたすらテクストを読み、テクストを書くという孤独のなかにあっても、世界の何処かにいる友との喜悦と信義を絶やさぬようにしたい。距離を介したこうした友愛のうちに研究活動の生命がもっとも瑞々しい仕方で宿るのだから。



UTCPでは若手研究者に自由な研究の機会を与えているが、私が主宰した短期教育プログラム「哲学と大学」では充実した成果をあげることができた。この共同研究の目的は、各哲学者の大学論を批判的に考察することで、哲学と大学の制度や理念との関係を問い直すことである。若手中心で構成されるこの共同研究は5回の研究会とシンポジウムおよびワークショップを実施し、その成果を論集『UTCP叢書3 哲学と大学』(未来社、2009年)として刊行した。このときの中心的メンバーによる課題によって、本年平成22年度の科学研究費補助金が採択され、共同研究が継続される運びとなった。〔基盤研究(B)(H22~24年度)「啓蒙期以後のドイツ・フランスから現代アメリカに至る、哲学・教育・大学の総合的研究」(研究代表者:西山雄二、研究分担者:大河内泰樹、齋藤渉、藤田尚志、宮崎裕助)〕次期は、研究対象を独仏啓蒙期および現代アメリカの動向に拡充させることで、近代の端緒とポスト・モダンという相反するようにみえる二つの時代において、哲学、教育、大学をめぐる問いを総合的に考察することになる。



UTCPとの連携によるむしろ個人的な活動になるが、2009年度は哲学の映像作品化に専念し始めた年だった。1983年にジャック・デリダらがパリに創設した半官半民の研究教育機関「国際哲学コレージュ」をめぐる初のドキュメンタリー映画「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」を製作し、巡回上映をアメリカ、日本、フランスと継続してきた。マスコミなどでも報道されて反響を呼び、現在までに26回の上映がおこなわれ、のべ約1700人が会場に足を運んだことになる。3月末にはUTCP主催で出演者2名を招聘して、節目となる総括的討論会を開くことができた。映画は作者であるはずの私の統制を大きく踏み越え、それ自体で現場をつくりだす底知れぬ力がある。数多くの人々の力を惹きつけ、多様な情動を生み出しながら、映画はこれからも旅を続けていく。



UTCPでは、各人が自分の専門分野、自分の使用言語を越えて、さまざまな学問、さまざまな文化、さまざまな人々に耳を傾けることを強いられる。学生から教員まで、あらゆる人々が自己の彼方へと誘われるのだが、しかし、これこそが学問の本源的な力ではないだろうか。それは、他者の声を聞きとる耳を涵養すると同時に、自らの耳を他者の耳へと変容させることだろう。

「哲学は何の役に立つのか、何の意味があるのか」という問いに対して、誰もが納得する形で答えることは困難だ。そうではなく、哲学に関しては、「どんな情動を得ることができるのか」と問うべきだろう。哲学は意味や有用性を導き出すというよりも、むしろ、批判的な思考でもって、生きることの立体感を提供する。哲学がもたらす情動は、知らないことを知りたいという知性の旅をうながし、生きることの方向性を示唆するものである。

UTCPでの数多くのイベント(出来事)では、他者の耳でもって、数々の情動を得ることになる。それは、つねに変わり続ける風景のなかで、新たな友(あるいは/かつ敵)と遭遇し、旅をし続けるかのような経験だった。旅と思索と経験をいかなる仕方の研究教育として遂行すればよいのか。UTCPでの活動を終え、こうした旅の力への信が私のなかに残されたのだった。

末筆になりますが、UTCPの活動を担ってきた、小林康夫・拠点リーダー、中島隆博・事務局長、立石はなさん、中澤栄輔さん、そして若手研究員のみなさんに心より感謝申し上げます。UTCPという日本におけるもっとも活気ある先鋭的な人文学の研究拠点を離れることは、実はとても心残りなことでもありますが、新天地での研究教育活動に心と力を尽くします。

2010年3月31日 西山雄二