巡回上映の記録 2010年1月

2010/01/07 広島大学


2010/01/07 広島大学


2010年1月7日(木)、広島大学高等教育研究開発センターにて、大場淳氏(広島大学)とともに上映会がおこなわれた(参加者20名程度)。



高等教育研究開発センターは、日本で初めて1972年に設置された、大学・ 高等教育に関する研究のための専門機関である。高等教育に関する優れた研究を積み上げてきたこのセンターを訪問することはかねてからの願いだったが、今回は映画上映という形でその活動に参与させていただいた。

会場からは、「国際哲学コレージュが大学の内外で、人文学的教養の促進のためにいかなる効果を発揮しているのか」、「教育成果をいかにして明示すればよいのか」といったやや専門的な質問が出た。「哲学の存在意義を考えることは、人文学を保守するための要になる」という言葉を受けて会は締めくくられた。

2010/01/16 朝日カルチャーセンター新宿校(高橋哲哉)

2010/01/16 朝日カルチャーセンター新宿校(高橋哲哉)


1月16日(土)、朝日カルチャーセンター新宿校にて、高橋哲哉氏(東京大学)とともに上映会がおこなわれた(参加者60名程度)。



高橋氏は1990年代初頭に実際に国際哲学コレージュに通って、いくつかのゼミを聴講されていた。また、高橋氏自身もコレージュで何度か登壇して、日本の歴史論争に関する講義をおこなった経験がある。「デリダが創設した場所というと華々しく聞こえるが、しかし、国際哲学コレージュは仕事帰りに誰もが足を運んで、静かに、だが、熱心に哲学が議論されているような場所だった」と思い出が語られた。

高橋氏は戦後50年の節目である1995年に、映画『ショアー』の日本紹介に関わり、戦争の記憶や証言の問題をめぐってアクチャルな哲学的発言をおこなった。私自身、当時『ショアー』の全国上映を通じて、映画と哲学との有機的な連動を目の当たりにしており、今回の自分の映画『哲学への権利』上映と討論会の運動の先行例とみなしているところがある。



靖国問題や愛国心教育に関して哲学的な批判をしてこられた高橋氏とは、哲学と実践の関係をめぐって討論を進めることができた。一方で、大学では伝統的な哲学の鍛錬があり、他方で、それぞれの現場に即した哲学の実践がある。閉じた哲学/開かれた哲学、純粋な理論/不純な実践といった二分法で性急に判断を下すのではなく、むしろ隔たった両極のあいだで哲学を試練にかけることが重要ではないだろうか。そうした哲学の冒険を先鋭的な仕方でおこなってきた孤高の高橋氏とこの映画を介して対話できたことはきわめて大きな収穫だった。

2010/01/19 早稲田大学(岡山茂、藤本一勇)

2010/01/19 早稲田大学(岡山茂、藤本一勇)


1月19日(火)、早稲田大学にて、岡山茂(早稲田大学)と藤本一勇(同前)とともに上映会がおこなわれた。会場が通常の教室だったため、30人ほどは立ち見になってしまった。立ったまま辛抱強く最後の討論まで残ってくださった方々に心よりお礼申し上げたい。90名ほどが来場して予想以上の盛会となった。



岡山茂氏は、フランスの大学制度の変遷をたどりながら、1968年5月の余波を受けて実験的大学として創設されたパリ第8大学の意義と挫折を強調した。国際哲学コレージュのような哲学の実験が実現されたのは、60年代以降の社会運動と大学の連携によるところも少なくはない。


(岡山茂氏と藤本一勇氏)

藤本一勇氏は、パリにおける大学の哲学部の権力布置を分析した。パリ第1および4大学は哲学科の権威をなしているのに対して、パリ第7、8、10大学は周縁的な立場にある。国際哲学コレージュの教員には後者の教員が多くを占めているのは、こうした哲学科の関係性を反映してのことである。

会場の塚原史氏(早稲田大学)からは、「カルチュラル・スタディーズに対して、コレージュが抵抗の場として機能すると言う場合、抵抗とは一体何か」という的確な質問を受けた。



会場ではアンケートを配布させていただいたが、回収率は良く、有益な意見ばかりで驚かされた。また、その後、Twitterでのつぶやきも散見され、「デリダシンポ凄く良かった。希望の話だった。行って良かったー!」というつぶやきは嬉しかった。私自身、会場の熱気から大いに希望をいただいたからだ。

1月19日の早稲田大学での上映では多くのアンケート回答をいただきました。そのうちのいくつかを紹介させてください。

「早稲田大学ではエクステンションなどがあって、カルチャーセンターのように誰でも学べる場所は大事だが、それらと『大学』の違いは今後どのようになるのかが気になった。」

「私も西山さん同様に、高尚な理念はさておき、大学は『楽しいから』あった方が良いと思っています。」

「実際の教育機関が哲学的な言葉で語られることに、序盤は空疎な印象を受けたが、国際哲学コレージュがその意味や機能、価値などによって、固定された何かとしてはとらえられないものであることが次第に腑に落ち、そのあり方が哲学そのものであるように感じ、興奮を覚えた。」

「国際哲学コレージュの講義風景を写してほしかった。」

「まさかと思うほど動きのない映画で、その意味で、たいへん面白かった。」

「いま、人文学の価値が問われるなかで、われわれが試みていることが間違いではないという勇気をもらいました。私自身は、カルチュラル・スタディーズのなかで、哲学的問いかけに挑戦していきたい。」

「映画を観て思い出したのが、昨年亡くなったマサオ・ミヨシでした。彼は最終的には大学から離れていたようですが、彼が『抵抗の場』として考えていたのは、大学人でも専門家でもなく、ひとりの人間としてより良く物事を考えることではなかったか、と。」

「経済効率に還元されない知のあり方、貨幣に還元されない『生きるため』の思考、それはつまり『考える権利』(哲学する権利)である。生きることは自分で考えていくことだから、この権利を守ることは人間であるための権利を守ることと同義である。」

2010/01/23 東京外国語大学(岩崎稔、田崎英明、桑田光平)

2010/01/23 東京外国語大学(岩崎稔、田崎英明、桑田光平)


1月23日(土)、東京外国語大学にて、岩崎稔(東京外国語大学)、桑田光平(同前)、田崎英明(立教大学)とともに上映がおこなわれた。教員と学生以外にも幅広い層の観衆が50名ほど集った。



岩崎氏は、国際哲学コレージュを描いた本作は広い意味で「哲学すること」の可能性を提示しつつ、現代において私たちが自分の思考や言葉を表現しようとするときに直面する問いが描かれていると評した。


(左から、桑田氏、田崎氏、岩崎氏)

桑田氏は留学中、国際哲学コレージュに足を運んだ経験から、フランスの大学の特色を考慮しながら、コレージュの実態について語った。コレージュではたしかに、学生よりも一般市民の参加が多く、また、既存の大学制度では実施できない内容のゼミが開催されている。しかし、その形式は講義形式で大学のそれと区別することは難しい。また、コレージュはやはりデリダ的な雰囲気が濃厚であり、伝統的で保守的な他の制度(例えば、コレージュ・ド・フランス)との緊張関係のなかでその生命を保っているのではないか、と述べた。



田崎氏は、近年の大学において、「学生が…できるようになる」という能力と計算の文言で研究教育活動が評価されることへの違和感を表明した。実は、哲学は、これまでわかっていたことがわからなくなること、これまでできていたことができなくなることという事態を誘発するのではないだろうか。哲学がソクラテス以来、カントにおいても社会的分業の論理とは相容れないのは、こうした哲学の本来的な危険性と関係するのである。

会場から本橋哲也氏(東京経済大学)は、現在、カルチュラル・スタディーズなどを通じて人文学が創造的に変容しているようみえるが、しかし、そうした趨勢は知の専門化や知の相対化を免れているだろうかと問うた。また、研究教育が情報の伝達と化していく傾向において、知の身体化が忘れられいると指摘した。

2010/01/24 素人の乱「地下大学」(平井玄、白石嘉治)

2010/01/24 素人の乱「地下大学」(平井玄、白石嘉治)


1月25日(月)、高円寺・素人の乱「地下大学」にて、平井玄氏(音楽評論家)、白石嘉治氏(上智大学)とともに上映会がおこなわれた。小規模な会場のためすぐに45名で満席および立ち見となり、遅れてきた10名以上の観衆には入場していただくことができなかった。わざわざ足を運んでいただいたみなさんにお詫び申し上げる次第である。次回の3月の東京上映3回は十分な広さの会場なので、どうぞそちらにお越しいただくようお願い申し上げます。



今回の映画上映は日本だけでなく、アメリカやフランスなどでもおこなわれるグローバルな運動である。しかし、ある友人からはこんな印象的な言葉をいただいた、「素人の乱・地下大学で上映するなんてグローバルな上映運動だ」、と。今回はこの意外な言葉の意味を確認させられる有意義な会となった。


(平井玄氏〔中央〕、白石嘉治氏〔右〕)

平井氏は、「啓蒙におけるマイノリティ(未成年=少数派)の問い」、「アソシエーションの社会的意義」、「不在の映画」という三つの観点からコメントを披露した。平井氏はまず、カント、デリダ、ドゥルーズ+ガタリを引きつつ、未成年=少数派が理性的な責任主体でありつつ、気楽な存在にとどまるような啓蒙の可能性はないだろうかと示唆した。また、大革命以来のフランスにおけるアソシエーションの意義を強調し、国際哲学コレージュの集団的実践を歴史的な文脈のなかに位置づけた。そして、本作は不在のデリダをめぐる映画だが、亡き哲学者に対する辛い悲壮感とも過度の英雄視とも異なる距離感で本作がつくられていることを評価した。その上で平井氏は、日本における68-69年の政治闘争を振り返る上でこれら三つの観点が重要であるとした。



白石氏は68年から70年代にいたるフランスの文脈を想起しつつ、金融資本主義の破綻から教育の資本主義化が進展している現在、私たちが何をなすべきかを本作から汲み取ることができるとした。また、大学はそもそも教師と学生の組合であり、12世紀に大学が誕生した時期に国家や資本主義の萌芽が現われていることをいかに考えればよいのかと問うた。

1月25日の高円寺・素人の乱「地下大学」での上映でいただいたアンケートのうち、いくつかを紹介させていただきます。

「哲学が大学が独占するものではないことは当然だが、哲学することがより困難になっているという西山さんの危機感が本作をつくらせたのだとすると『映像表現と哲学』の可能性について、自分もその危機感を共有しながら、次の番組を構想したいと思った。」(NHK関係者)

「少しばかり忍耐を要する映画でした。わかるようでわからないような難しそうな話ばかり。でも、この映画を観て何の役に立つのか、とはあまり考えなかった。」

「学問分野を問わず、各分野が危機や問題を抱える状況に共通性を感じた。私が付き合いの長いサイエンス分野も、他分野との関係、自らの存立の理由、その正統性が問われている。その意味でも、いろいろな分野の人に観てほしい。」

「各地での上映そのものが、もうひとつの国際哲学コレージュの運動として機能しつつあることに感動しました。」

「今日、失業保険の認定のため、ハローワークに行ってきた非正規雇用のOLです。映画にも討論にも感動しました。私は生きるために哲学を必要としています。専門家には、私のように言葉をどう使ってよいのか知らない人にも哲学を届けてほしい。今日はちゃんと届いた感じで、とても良かったです。」