巡回上映の記録 2010年3月

2010/03/07 東京大学本郷(熊野純彦、鈴木泉)



2010/03/07 東京大学本郷キャンパス(熊野純彦、鈴木泉)


3月7日(日)、東京大学本郷キャンパスにて、熊野純彦(東京大学)氏、鈴木泉(同前)氏とともに上映がおこなわれた。雨天だったが、幅広い層の観衆が160名ほど集った。現在、これまでの巡回上映の旅の記録を徐々に映像作品としてまとめつつある。上映運動をやっている当人としては、たいへん感慨深い記録映像である。この日は、開演前に、12月の南山大学から2月の関西ツアーまでの部分(9分程度)を上映した。



熊野氏は、本作を観て、「哲学について希望が語られる」「哲学が何らかの希望を語る」場面をものすごく久しぶりに目の当たりにしたと告白した。本作の副題は複数形で「痕跡(traces)」と題されているが、デリダに関する各インタヴューイーの差異がそうした複数性を感じさせると指摘した。


(熊野純彦、鈴木泉)

また、「教育」という言葉は嫌いだが、出会いの場をつくり出すことが、強いて言えば、「教育」ではないか。「制度」や「ネットワーク」という言葉には抵抗感があるが、この映画上映運動のように「アソシエーション」として何ができるのか。そして、哲学の存在意義に関しては、現実的には、哲学は大学のなかで生き延びなければならないものの、しかし、本来的には、哲学は大学のなかには収まることはないだろう、とした。

鈴木氏は、現在の30代の若手研究者の特色として、国際的な活動に身を投じ、海外でも対等な立場で議論を試みていると指摘した。鈴木氏の世代とは異なり、何らかの問題に正面から取り組むある種の真面目さがあるとも語った。今後、「偉大な哲学者」が登場する気配がしない以上、若手のアソシエーション的な活動が哲学の展望を開くのではないだろうか。


(「では、2つ質問するよ」と鈴木氏)

鈴木氏は本作の試みについて賛嘆の念を示したうえで、敢えて挑発的な仕方で、本作の「退屈さ」を指摘した。まず、批判的な視点を欠いているために、プロモーション・ヴィデオ的な作風になっていること。さらに、「退屈さ」であると同時に面白い点だが、本作では「デリダの偉大さ」がよく分かること。本作を観ているうちに、皮肉な意味で、デリダの生の声を聞きたくなり、彼のテクストを実際に読みたくなる。インタヴューイーがある種「平板化された」デリダの理念をくり返す度に、これこそがデリダが嫌悪した態度ではないか、と思ってしまうからである。

鈴木氏は有益な質問を投げかけた――「国際哲学コレージュの創設の経緯を描いた方がよかったのではないか。コレージュ創設にはデリダだけではなく、フランソワ・シャトレら他3名が加わっている以上、デリダだけに焦点を絞るのではなく、起源の複数性を示す必要があったのではないか」。



フランスと日本の哲学の社会的地位の違い、子供にとっての哲学への権利、一般人をも交えた哲学の討議の場をいかにしてつくるのかといった問い、哲学におけるテクストの意義など、質疑応答も充実した内容だった。

2010/03/10 京都大学(森田伸子、大河内泰樹、山名淳、小野文生)



2010/03/10 京都大学(森田伸子、大河内泰樹、山名淳、小野文生)


2010年3月13日、京都大学にて、森田伸子(日本女子大学)、大河内泰樹(京都産業大学)、山名淳(京都大学)とともに上映・討論会がおこなわれた。司会を務めた小野文生氏(京都大学)の発意と企画によるもので、グローバルCOE「心が活きる教育のための国際的拠点」の主催で開催された。合格発表直後の土曜日、新生活ガイダンスで多くの新入生でキャンパスはごった返していたが、新入生数名から一般市民まで、さまざまな人々が130名程度集まった。


(企画者の小野文生氏〔左〕)

小野氏が案出した今回の討論題目「教育哲学と哲学教育のあいだ」は絶妙な題である。そもそも、「教育」が「(能力や才能を)外に引き出すこと」を語源とし、「哲学」がギリシア語で「知への愛」を含意することから分かるように、両者はともに、学校や大学での狭義の専門的な学術活動には限定されず、むしろ人間が生きていくことの本質的な活動に近い。さらに教育と哲学の関係について言えば、「教育哲学(教育を哲学すること)」は教育の原理的考察を指し、「哲学教育(哲学を教育すること)」には哲学の伝達や継承といった実践的な含意がある。交叉した哲学と教育、教育哲学と哲学教育のあいだを架橋するものは何か。国際哲学コレージュを描いた本作に引きつけて回答するならば、この両者の関係に具体的な形や仕組みを付与するものは「運動」や「制度」であるだろう。


(森田伸子氏、大河内泰樹氏、山名淳氏)

森田氏は、本作で強調されるインタヴィーイーの手の映像に着目。哲学とは「これだ」と手で掴んだり、手で提示したりできない提示困難な営みである。手に乗せて提示しがたい哲学を必死で語ろうとする様子が手の映像によって描かれているとした。

また、森田氏は、「日本社会において子供には哲学が必要であり、そうした哲学への権利は彼らの死活問題である」と明言した。登校拒否の事例が挙げられ、学校そのものに対して疑問をもった子供が、社会、人間、さらには世界そのものへの疑問を抱くようになる告白録が引用された。既存の意味の体系から逸脱してしまったとき、子供は生きるために哲学を必要とするのではないか。森田氏は、ユネスコの哲学教育への取り組みや分析哲学グループによる子供のための哲学実践の事例にも触れた。

大河内氏は、デリダのように哲学の社会的制度を実際に創設するかどうかは別として、まず、そうした制度が実現可能であることに気がつかされる点で本作は有効であると話を始めた。また、皮肉な指摘として、本作が過度のクリシェ(定型)で構成されているとした。デリダの言葉の定型、パリの風景の定型などは、見方によってはパロディに映りかねない表現である。また、本作で監督・西山がフランス語でナレーションを入れている点は、コレージュの国際性とどう関係するのか、と繊細な問題提起がなされた。



山名氏は綿密なレジュメ「『教育哲学』から『哲学教育』を眺めてみる」を準備されて、豊かな議論を展開した。哲学が哲学自身を実験的に問いに付すことができるのに対して、教育学と不可分の教育哲学にはその限界がある。それは、教育哲学が、教育学というディシプリンの一部分として、学校制度や教員養成制度と不即不離の関係にあるからである。つまり、教育哲学は規定の「現場」をもち、「現場」をもつ以上、そのディシプリンの有用性を目に見える形で「測定」されるのである。制度から遊離するのではなく、どこまでも制度に即して制度のなかで哲学の実験を展開するという共通点において、国際哲学コレージュの制度的実験は教育哲学にとって重要な事例であるだろう。



小野氏は、本作では哲学への愛が語られるが、それはおそらく誰かへの愛であると指摘。それはインタヴィーイーの師への愛であり、教える者と学んだ者の記憶や時間が本作では表現されているとし、教育研究者の視点から鋭い洞察を加えた。

今回、本作をめぐって、教育哲学、教育学関係の研究者との対話がはじめて実施され、有益な議論をうかがうことができた。本作をめぐる議論の厚みが倍増した、たいへん充実した日だった。



2010/03/19 九州日仏学院(ミシェル・ドゥギー、藤田尚志)



2010/03/19 九州日仏学院(ミシェル・ドゥギー、藤田尚志)


2010年3月19日、福岡の九州日仏学院にて、本作の出演者ミシェル・ドゥギー(詩人)、藤田尚志(九州産業大学)とともに上映・討論会がおこなわれた(60名ほどの参加)。



ドゥギー氏は国際哲学コレージュに関する概括的な話をした。コレージュはフランスのアカデミズムにおいてどこに位置づけられるのか。最終学年で哲学が必修の高校、哲学科を有する大学、文化系のグランゼコールなど、コレージュはつねにそれらの研究教育制度とは「別の場所で」構想され実践されてきた。



大学制度のなかで関係省庁に依存する制度ではなく、その周縁で準制度(quasi-institution)としてコレージュは機能してきた。このことはコレージュの力であると同時に、その脆弱さをなす。デリダは「国際哲学コレージュには友しかいない」と皮肉を述べていたが、それは暗に「コレージュは敵だらけ」を意味するのである。



会場からは「なぜ哲学の義務ではなく、哲学への権利なのか」という質問が出た。ドゥギー氏は、「では、いったい何歳から哲学への権利が発生するのか」と切り返す。人権は年齢制限をともなわないが、哲学を学ぶ権利は青年以上にしか許されないのか、それとももっと若い学生にも、あらゆる社会階層にも許されるのか。いずれにせよ、哲学の義務を語る前に哲学へとアクセスする権利が重要となるだろう。

2010/03/20 渋谷・UPLINK FACTORY(芹沢一也)



2010/03/20 渋谷・UPLINK FACTORY(芹沢一也)


2010年3月20日、朝一番の飛行機にて東京に戻り、渋谷へ。27日の上映会のために来日した本作の出演者ボヤン・マンチェフ氏をホテルで出迎えて昼食をとる。その後、渋谷・UPLINK FACTORYにて、芹沢一也(シノドス主宰)氏とともに上映・討論会がおこなわれた(40名ほどの参加)。本作の完成記念上映会は昨年9月、UPLINK FACTORYでおこなわれた。日本各地での巡回上映を一通り終えて、かつての故郷に帰還した気持ちになった。



芹沢氏は、本作で表現される「哲学に対する確信」への違和感から話を始めた。というのも、コレージュの面々が披露する哲学の存在根拠に共鳴するかしないかによって、本作の見方が大きく左右されるからだ。芹沢氏が強調したのは、「哲学の名において何を保守しようとしているのか」、という本質的な問いであった。



また、芹沢氏自身が主宰するシノドスの事例が参照され、学ぶための場づくりの実践にも話が及んだ。大学のようなある種権威的な空間設定ではなく、話し手と聞き手の水平的な環境を用意することで異なった知的な好奇心や興奮が喚起されることがあるという。また、経済のセミナーに経営のプロが参加して質問を投げかけ、話し手の経済学専攻の大学教授が緊張感を強いられる場面もあるという。芹沢氏は大学の外で知の交流空間を創造し続けており、その経験に即した有益なコメントを聞くことができた。