撮影日誌

国際哲学コレージュ取材記(2008年9月)

1. 制度と運動

2008年9月初旬、夏のヴァカンスが終わり、新学期の慌ただしい賑わいを見せ始めているパリに短期滞在した。ジャック・デリダらが創設した研究教育機関「国際哲学コレージュ」の取材のためである。

新学期前最後の週末、人々が日光浴で賑わうリュクサンブール公園

国際哲学コレージュ(Collège international de Philosophie : CIPh)は、フランス政府の依頼を受けて、デリダがフランソワ・シャトレらとともに、1983年秋にパリのデカルト通りに創設した研究教育機関である。産業・研究、文部、文化の三大臣の後押しを受け、経済的な支援を受けてはいるものの、基本的にはアソシエーション法に依拠して創立された半官半民の組織である。コレージュは、哲学のみならず、科学や芸術、文学、精神分析、政治などの諸領域の非階層的で非中心的な学術交流によって新しいタイプの哲学を可能にするという、当時としては画期的な組織だった。

コレージュでの学術的催事はすべて無料で誰にでも開かれている。年間約40-50が開催されるセミネールは、大学にポストを得るために研鑽中の若手研究者からアガンベンやネグリなどの著名人までが担当している。その他にも、 シンポジウム、講演会、書評会などのプログラムがある。また興味深いことに、コレージュは原則的に固有の建物を所有せず、したがってキャンパスもない。コレージュの研究教育プログラムが実施される場所にコレージュが場をもつとされる。実際、コレージュは海外の研究者と連携して、パリのデカルト通りのみならず、世界中のいたる所でプログラムをおこなっている。

ミシェル・ドゥギー氏(パリ第8大学名誉教授。1989-92年コレージュ議長)
今回のヴィデオ・インタヴュー取材の目的はまず、フランスの大学制度の余白で機能するそうしたコレージュの独特の活動や歴史を歴代議長や関係者の証言から明らかにすることだ。コレージュの定義、コレージュと従来の大学との違い、コレージュの領域横断的な理念の有効性、コレージュの研究教育活動と経済的価値観(収益性、効率性、卓越性)との望ましい関係、コレージュと場所の問い、コレージュの課題と将来性、コレージュと創設者デリダの関係などをめぐって質問を投げかけた。

もっとも、取材を通じて、たんにコレージュの活動や歴史を理解し紹介するだけでは不十分である。コレージュの成果と失敗を通じて、これからの哲学、さらには人文学はどのような研究教育制度において可能なのか、という今日的な問いをめぐって彼らと共に議論を交わすことが本来的な目的である。興味深い古き良き思い出話を引き出すだけではなく、哲学や人文学の今後の展望について彼らの証言から何らかの感触を掴みたいと考えた。



コレージュの歴代議長への取材という大胆な企画など実現できるのだろうか――私は限られた人脈を通じて取材対象者にコンタクトをとった。だが、そうした不安とは裏腹に順調に取材許可がおり、「ヴィデオ・インタヴューなら静かな場所がいい」と自宅を使わせていただくこともできた。さらには、「それは重要な仕事だからXも紹介するから会いなさい」と言われて輪が広がり、準備が整っていった。

ブリュノ・クレマン氏(パリ第8大学。2004-07年コレージュ議長)

国際哲学コレージュが実践しようとしているのは、特殊な制度と流動的なアソシエーション(運動体)のあいだで、いかなる哲学が可能かという問いである。古代ギリシアにおけその生誕以来、哲学は「知を愛する」活動である以上、固有の制度を必ずしも必要とはしない。固有な場所と何処にもない非-場所(ユートピア)のあいだで、哲学のいかなる研究教育を実践していくのか。取材を通じて、哲学と研究教育、哲学と制度をめぐる本質的な問いのなかに巻き込まれていった。

フランシスコ・ナイシュタット氏(ブエノス=アイレス大学)
哲学の務めのひとつは、問いに性急に答えるのではなく、問いを問いとして洗練させていくことである。歴代議長のミシェル・ドゥギー氏とブリュノ・クレマン氏、海外プログラム・ディレクターのフランシスコ・ナイシュタット氏への取材が無事に終了した後、今一度、策を練り直して後半の取材に望み、自分なりの問いを描き出そう。

2.学問の無償性

取材後半、カトリーヌ・マラブー、ジゼール・ベルクマン、フランソワ・ヌーデルマン、ボヤン・マンチェフのインタヴューをおこない、国際哲学コレージュに関する取材が無事に終わった。

カトリーヌ・マラブー(パリ第10大学。1989-94年、プログラム・ディレクター)
今回の取材では事前から100ユーロ(約16,000円)の報酬を条件に交渉を進めてきた。今回の仕事は個人科研費によるものだが、既定の取材報酬料としては標準的な額である。だが取材が終わり、報酬を手渡す時になると、みな一様に心底驚いた様子で「もちろん無償でいいのに……なんて寛大なことを……」と言葉を返してきた。「これは公的な資金による報酬なので、私が個人的に出資しているわけではないから大丈夫です」と言うと、やっと納得して報酬を受けとってくれるのだった。そもそも、フランスではシンポジウムでの研究発表や雑誌への寄稿など、学術的活動が無償でおこなわれることは多い。それゆえ、今回の取材が無償であることはフランスの常識からすれば当然のことなのだろう。だが、私見では、彼らの驚きはコレージュにおける無償性の原則とも深く関わるように思えた。

国際哲学コレージュでの研究教育活動は、どんなに著名な研究者(昨今の例を挙げると、シクスー、バデュウ、スティグレール、アガンベン、ネグリなど)であってもすべて無報酬である。常駐する事務局スタッフには給与が支払われるものの、研究者は役職に就いていても報酬はない。国際シンポジウムの場合でも、旅費と滞在費は出るが講演料は支払われない。とくにアングロサクソン系の研究者がこの規定に驚きの色を隠さないという。

ジゼール・ベルクマン(現在のコレージュのプログラム・ディレクター)
逆に、聴衆の方からすれば、コレージュの研究教育プログラムは原則的に無料であらゆる人に公開されている。そして、ゼミを受講する人々に客観的な見返りはない。コレージュは大学ではないので、授業をいくら受けたところで単位が出るわけでも、学位が取得できるわけでもないからだ。なぜこれほどの研究教育が無償性の原則に基づいて実現されるのだろうか。

今回の取材で私がこだわった主題のひとつがこの無償性だった。コレージュが反時代的な仕方で実践している学問の無償性は、いわば学問を通じたキャリア主義と相反するものである。研究教育活動を通じて、教師は報酬を受け取り、学生は社会的な評価(単位や学位)を獲得する。しかし、コレージュではこうした経済的な交換関係とは異なる論理で研究教育が実施されるのだ。実際、コレージュに影響を受けて、この20年間で、大学で市民公開講座が開設され、市中の喫茶店での自由討論会「哲学カフェ」の試みが広がっていき、あらゆる社会階層の人々が無償で哲学の研究教育に接する機会が増えたという。

研究教育活動が特定の個人の成果やキャリアに還元されえないとき、学問は無償性の原則に基づいて、もっとも強い意味で共同的なものとなるのだろうか。

フランソワ・ヌーデルマン(パリ第8大学。2001-04年コレージュ議長)

今回の取材では国際哲学コレージュ関係者7名にインタヴューをするというこの上なく貴重な機会を得た。新自由主義的な経済的価値観が浸透する中、フランスでも人文学や哲学に対する風当たりはきわめて強くなっている。取材した誰もが人文学研究に対する切迫感を抱きながら、国際哲学コレージュという枠組みにおいて人文学の展望を今後どのように考えればよいのか、真摯な言葉を情熱的な口調で返してくれた。彼らの重々しい言葉に耳を傾けながら、私はつねに、それらの言葉を引き継ぐべき自分の姿を想像するように強いられた。今後はインタヴュー記録を映像作品として完成させ、何らかの形で公開したいと考えている。インタヴューに快く応じてくれた関係者の方々、現地でアシスタントをしてくれた友人たちには深く感謝する次第である。

ボヤン・マンチェフ(現在のコレージュ副議長)
最後のマンチェフ氏の取材はリュクサンブール公園で実施されたが、一週間前、日光浴でごった返していたあの和やかな風景はもうなかった。新学期が始まって一週間、もう秋の涼風が吹くパリの街は日常生活がすでに始まっている雰囲気だ。私も東京での日常に戻らなければならない。取材記録を携えて帰路に就くため、シャルル・ド・ゴール空港に向かった。