巡回上映の記録 2011年8月

2011/12/23 吉祥寺・「百年」


2011/12/23 吉祥寺・「百年」


2011年12月23日、吉祥寺の古書店「百年」にて、批評家・音楽家の大谷能生とのトークイベント「哲学への権利 音楽への権利」がおこなわれた(45名ほどの参加)。



映画「哲学への権利」の巡回上映は音楽家の巡回コンサートとどこか似たところがあると思っていた。今回は音楽家の大谷氏との対話ということで、哲学と音楽に共通するいくつかの主題を語り合った。無償/有償の問い、即興とは何か、大学はいかなる意義をもつのか、などである。



映画「哲学への権利」の活動は通常の研究と比べると、いわばインディーズ的な活動。哲学も音楽もプロからアマチュアまで幅広い人々が参与できる活動である。哲学ならば、大学の哲学科において最先端のプロフェッショナルな研究がおこなわれる一方で、哲学カフェや入門書などによって哲学は一般の人々にとって身近な存在にもなっている。インディーズ的なものとは、両者の連続性のなかにある特異な中間地点を刻み込む営みではないだろうか。プロとアマが直線的なものさしで連続しているならば、そのあいだに断絶を挟み、異なる価値観を目に見えるようにすることがインディーズ的なものの役目ではないか。





2012/1/13 神田外語大学(ギブソン松井佳子、豊田聡、サウクェン・ファン)


2012/1/13 神田外語大学(ギブソン松井佳子、豊田聡、サウクェン・ファン)



2012年1月13日、神田外語大学にて、映画上映・討論会が同大学のギブソン松井佳子、豊田聡、サウクェン・ファン氏とともに実施された。異文化コミュニケーション研究所の主催で、試験週間前だったが100名ほどの参加があった。


(会場は2008年に新設された独創的な7号館クリスタルホール。見晴らしの良い3階のカフェまで緩やかに傾斜が伸び、4階は解放的なガーデンスペース。)

私は神戸市外国語大学の出身で、東京外国語大学でも非常勤をやっていたこともあり、外国語大学という場所には愛着がある。語学に専心する学生が多数を占めるためか、外国語大学にはどこか独り立ちした雰囲気の学生が多いように思える。語学を学ぶとつねに無能力に曝され続ける。知らない単語、聞き取れない言葉、表現できない文章など困難の連続である。こうした無能力の根本的な経験とその克服こそが語学教育の特質であり、これは人生を生きていく上で重要な要素である。



映画では、哲学を起点とする学際性が「哲学と…」と表現される。この学問的交差のことは、外国語大学の場合、「言語と…」と言い換えることができるだろう。言語学習を基軸として政治や経済、文化などが関連付けられることで、学習者の世界観が多様になっていくのだ。また、映画では哲学の未完の創造性を指して「哲学と哲学」と表現される。例えば、「子どもの哲学」は既存の哲学を自己言及的に問い直す契機だろう。言語学習の場合でも、例えば翻訳や通訳の訓練によって、それまでの英語経験に新たな経験がもたらされる。このことを「言語と言語」と表現できるとすれば、異なる仕方で言語に触れることで、その言語を新たに経験しなおすことができるのだ。

豊田氏は、国際哲学コレージュとは野心的で余分な活動だが、そこに人文学の未来はあるだろうかと問うた。パンと水を得ている哲学者たちの言葉は、収入がないような者たちに哲学は届くのだろうか、とした。サウクェン・ファン氏は、英語圏の博士号の名称はPh.D(Philosophiae Doctor)と呼ばれるが、その場合、学問の「哲学的なもの」の含意が意識されるのではなく、その手前にあるものしか表現され流通していないのではないかとした。



松井氏は三つの質問を投げかけた。哲学には哲学カフェのような人生の悩みまで語り合える場づくりがあるが、国際哲学コレージュはそうしたアマチュア的場とはどう関係するのか。必ずしも回答を求めることなく、問いを問い続けることが哲学であるとすれば、実際に、現実主義的な回答を得たい場合に、哲学はいかに折り合いをつければいいのか。大学は学びの場であるが、それは大学を離れた後でも、いつかふとした時に思い出すべき記憶の場所ではないか。

学生からの質疑は活発で秀逸だった。映画でインタヴューィーらは西山の質問に答えているが、西山の存在感は希薄だ。それは問いに徹するという西山の哲学の姿勢を反映しているのではないか。哲学は音楽やスポーツと同じく、プロからアマチュアまでの幅があるが、両者の線引きはいかになされるのだろうか。文章ならば理解できなくとも後から読み直すことができるが、映画はその固有の時間とともに流れ去っていく。その相違は哲学を表現し伝達する場合にいかなる利点と欠点となるのだろうか。



神田外語大学の英米語学科には少数精鋭の「通訳・翻訳課程」がある。現役通訳者・曽根和子氏をはじめ、字幕翻訳の第一人者・戸田奈津子氏らが熱心に指導にあたっている。「通訳・翻訳課程」と聞くと高度な専門職養成であるように感じられるが、実は、目指しているのは逆に「教養教育の復権」であるという。私も通訳の勉強をし(挫折した)、翻訳の仕事に従事してきたのでわかるが、通訳や翻訳には相当幅広い知識と教養が必要となる。豊富な言語能力だけではいけない。二つの言語間での柔軟な運用実践のために豊富な教養が必要となる。その意味で、「通訳翻訳課程」では、従来の英語経験に対して通訳翻訳の英語実践という関係を加えることで、他のさまざまな教養的知識を交差させていく課程だと言えるだろう。国際哲学コレージュ風に言えば、「英語と英語」と同時に「英語とX」の内的かつ外的な領域交差である。そのことを喝破した「通訳・翻訳課程」の一年生が、懇親会で「国際哲学コレージュの理念は私たち通訳・翻訳課程の理念なんです」と明言したのには驚愕した。

終了後は参加者と何人かの学生らとともに懇親会へ。外国語大学の懐かしい雰囲気に触れながら楽しく歓談することができた。2012年の初回を飾るとても幸先の良い上映会となった。