2013年度

2013年度

(前期)カタストロフィの思想(水曜5限・フランス語圏文化論A)

本演習の成果の詳細は「カタストロフィ」欄で公開されています。


2011年、日本社会は震災・津波・原発という、人類史上初の三重のカタストロフィ(破局)を経験しました。甚大な数の行方不明者、被災者の困難な生活再建、無情にも故郷を追われた原発避難民、目に見えない放射能の不安……この自然災害かつ人為的災厄は、現在もなお進行中と言えるでしょう。カタストロフィ(catastrophe)はギリシア語源では「転覆」を含意しますが、日本社会は「3・11」によってまさに転覆し、大きな転換期を迎えています。本演習では、日本が直面しているカタストロフィを直接扱った文献ではなく、過去の人文・社会科学の文献や作品を敢えて参照します。これまで人間はいかにカタストロフィを表象し、解釈してきたのでしょうか。科学技術はカタストロフィにいかに対抗しうるのでしょうか。カタストロフィに見舞われた無垢な被災者たちの苦痛をどう受けとめればいいのでしょうか。人文・社会科学の文献を網羅してカタストロフィと人間の関係を根本的に問うことで、私たち自身の救済や希望の方途を探ります。

2012年度の演習以来、以下の5つの論点に即して、さまざまな文献・作品を発表形式で順次議論してきました。最終となる今学期は主に4)と5)の論点を扱います。

1)カタストロフィの表象
自然災害、疫病、放射能汚染、大虐殺といった破局的出来事はいかに表象されてきたのか。作家たちは破局の表象にいかなる思想を込めたのか。
アルベール・カミュ『ペスト』(小説) ハインリッヒ・V・クライスト『チリの地震』(小説) 
本多猪四郎『ゴジラ』(映画) クロード・ランズマン『ショアー』(映画)
ダニエル・リベスキンド「ベルリン・ユダヤ博物館」「フリーダム・タワー」(建築)
レオナルド・ダ・ヴィンチ「大洪水」(素描)

2)カタストロフィの解釈
自然災害はたんなる天災だろうか、それともつねにある意味で人災だろうか。その物理的な原因や因果関係が解明される一方で、自然災害が人間への宿命や天罰として解釈されるのはなぜだろうか。
ヴォルテール『リスボンの災厄に関する詩編』 ルソー「ヴォルテール氏への手紙」
カント『判断力批判』 ジャン=ピエール・デュピュイ『ツナミの形而上学』 清水幾太郎『流言蜚語』
スザンナ・M・ホフマン、A・オリヴァー=スミス編著『災害の人類学――カタストロフィと文化』

3)カタストロフィの傷跡
無垢な人間たちがなぜ、突然の破局的出来事によって無慈悲な苦痛を与えられるのだろうか。死者に対する喪の作業、生存者の喪失感や罪意識といった他者の苦しみを第三者はいかに受けとめればいいのか。
『旧約聖書 ヨブ記』 フロイト『喪とメランコリー』 スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』
ジャック・デリダ『雄羊』 ビヴァリー・ラファエル『災害の襲うとき――カタストロフィの精神医学』
アーサー・クラインマン『他者の苦しみへの責任』 小田実『被災の思想 難死の思想』

4)カタストロフィと科学技術
人間が自然の諸現象を予知し管理するために科学技術は不可欠だが、その本質とは何か。科学技術は想定外の偶然的な事故をも計算に入れることはできるのか。
ハイデガー『技術への問い』 竹内啓『偶然とは何か』
村上陽一郎『人間にとって科学とは何か』

5)カタストロフィからの救済
破局的な出来事をくり返さないために、私たちはいかなる責任を負い、いかなる社会的諸制度によって、いかにリスクを避け、いかに破局を記憶し、いかなる救済と約束を紡ぎだすことができるのか。
ウルリッヒ・ベック『世界リスク社会論』 ハンス・ヨナス『責任という原理』 
ポール・ヴィリリオ『アクシデント――事故と文明』
ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』 ヴァルター・ベンヤミン『歴史哲学テーゼ』

(前期)「人間・文化・社会」(月曜4限)




総合テーマ「悪」
「善」はむしろ単純に表現されうるけれども、なぜ「悪」はかくも多種多様な経験によって表現されるのだろうか。暴力、殺害、盗み、強奪、虚偽といった人間が犯す罪や過誤。火災、浸水、地震、嵐といった自然現象。悪運や悪縁といった、私たちの世界構造の一部をなす形而上学的な悪。悪はいかに発生し、経過し、終結するのか。必要悪、つまり、正当化されるべき悪、赦されるべき悪、忘却されるべき悪とは何か。悪の意志、行為、現象、構造など、いかなる視点で悪は表現されうるのか。悪をいかに予防し、回避し、根絶するべきか。悪とは人間理性の欠如なのか、過剰なのか。往々にして悪とは善の反対物であり、善が善であるために悪が必要とされる。悪への問いはその対立項である善への問いをも含む。善と悪の中間地帯に黙って留まっていさえすれば、私たちは穏当な仕方で潔癖無実なのだろうか。なぜ私たちはしばしば、善ではなく悪の方に魅了されるのだろうか。悪と善の鏡像的関係を問うことは、私たちの世界や社会の限界に触れ、これを思考することである。「悪」のさまざまな問題系をめぐって、人文社会系の各分野の教員が順番に、オムニバス形式で講義をおこなう。

第1回 ガイダンス(西山雄二・フランス語圏文化論)
第2回「クスリの話――麻薬から「悪」について考える」(綾部真雄・社会人類学)
第3回「社会福祉学は「悪」とどう向き合っているか」(岡部卓・社会福祉学)
第4回「悪をめぐる対話」(宮台真司・社会学)
第5回「悪質な記憶――子どもがキレルとき」(浜谷直人・教育学)
第6回「日本中世の「悪」――「悪」をつけて呼ばれた人々」(鎌倉佐保・歴史・考古学)
第7回 中間のまとめ
第8回「「偽善」と「露悪」の百年戦争」(大杉重男・日本文化論)
第9回「「悪」の図像学――見えないものの描き方」(佐々木睦・中国文化論)
第10回「「悪い」のは誰か?『ニーベルンゲンの歌』の悪を巡る論争」」(山本潤・ドイツ語圏文化論)
第11回「シェイクスピア作品における悪の観念」(越朋彦・英語圏文化論)
第12回「善悪の縁」(石川求・哲学)
第13回「心理療法と悪の問題について」(永井撤・心理学)
第14回「罪と悪―近世キリスト教の場合」(石川知広・フランス語圏文化論)
第15回 まとめ

(前期)「岩波ジュニア新書を読む」(月曜5限・基礎ゼミナール)




若者の健全な市民的教養の育成のために創刊された岩波ジュニア新書は、その確かな内容に定評があります。その対象ジャンルは文系理系を問わず、学問的なものからジャーナリスティックなものまで多岐に及び、第一線の学者や作家が筆をとっています。本ゼミナールでは、各人が自分の関心に即して、岩波ジュニア新書を一冊とり上げて、発表します。さまざまな主題に触れることで知見を広げ、議論を通じて主体的に思考する能力を養うことで、大学生活への第一歩を固めます。
岩波ジュニア新書を参加者各人の関心に応じて一冊選択(担当教員は人文系専門なので、できれば人文・社会科学系のテクストを希望します)。廉価なので自分の担当テクストは購入することを推奨。

(後期)ミシェル・フーコー『監獄の誕生』を読む(水5限・フランス語圏文化論B)


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ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(1975年)は、古典主義時代から19世紀に至る犯罪者処罰の変遷を系譜学的に分析した権力論の名著である。ヨーロッパにおいて、身体刑は精神に対する刑罰へと変容し、新しい権力作用が出現する。知と権力の関係、規律訓練による権力の生産など、フーコーは独自の視点から監獄のみならず、学校、工場、病院などの秩序の構造を暴き出すことで、近代的な権力システムの内実を解明する。
使用文献:フーコー『監獄の誕生 監視と処罰』田村俶訳、新潮社、1977年。
購入するなり、複写するなり、各人で用意しておいてください。

(後期)ジャック・デリダ『獣と主権者』を読む(水4限・大学院演習)


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本演習では、2008年11月に刊行が開始されたデリダのセミネール・シリーズ(約14000頁、全43巻)の第2巻目『獣と主権者』をフランス語原書と英訳を用いて精読する。本書では、主権の概念とその諸形象の政治的かつ存在-神学的な歴史が、人間の固有性に対する動物の規定性という概括的な問いと交差されつつ探究される。動物の問いは、まず、動物的な生はいかにしてさまざまな領域(狩猟、家畜化、飼育、動物園、動物実験など)で扱われるのか、という生き物に関する政治的思考、生物学的なものや動物学的なものをめぐる政治性の問いとして分析される。またさらに、「人間が政治的動物である」という伝統的な定式にしたがうならば、獣を政治的主権性へと従属させる政治的な過程はいかにして組織されるのだろうか。また、獣と主権者は法や権利の空間に対して外在的かつ例外的な場を占めるがゆえに、法の起源と根源となりえるのだが、だとすると、両者の類比関係はいかなる過剰さを指し示しているのだろうか。本演習では、獣と主権者の古典的な対立を脱構築的に読み替えることで、政治的な主権の伝統的な規定を問い直すデリダ晩年のセミネール(第1章)を読み進める。
〈使用テクスト〉
Jacques Derrida, Séminaire La bête et le souverain Volume II (2001-2002), Galilée, 2009.