トップページ > メモランダム2024

■ 2009年版/ ■ 2010年版/ ■ 2011年版/ ■ 2012年版
■ 2013年版/ ■ 2014年版/ ■ 2015年版/ ■ 2016年版
■ 2017年版/ ■ 2018年版/ ■ 2019年版/ ■ 2020年版
■ 2021年版/ ■ 2022年版/ ■ 2023年版

 このページは北山が日々の暮らしのなかで抱いたちょっとした感想をあれこれと独白するコーナーです。このコーナーは十六年めとなりました。日頃、お付き合いいただく皆さまにいつも大いに感謝しながら、これを綴っております。

 なお、ここに記すことは全て個人的な見解であることを申し添えます。あいつ、またあんなこと言ってやら〜っていう感じで呆れながらもご笑覧いただければ幸いに存じます。

 お正月が明けた今日から2024年版を掲載します。更新は例によって不定期ですが、よろしくご了承をお願いします(2024年1月4日)。



せせらぎが出現する (2024年4月26日)

 ゴールデン・ウィーク直前ですが、初夏の陽気になって暑いですね。いま、三年生が対象の「鉄筋コンクリート構造」の授業を終えて戻ってきたのですが、学生諸君に何を聞いても呼びかけても反応がないのはどうしたもんでしょうか…。分かる?とか大丈夫ですか?とか聞いても答えがないのはしょうがないです。でも、講義の半ばになって休憩のつもりで、有名建築を15件ほど示して皆さんが聞きたいものを写真付きで紹介しますから、どれか一つを選んで言ってください、と問いかけても教室中が黙っているのには心底困りました。

 ほら、寄席なんかで落語家が会場からお題を頂戴してなぞかけなんかを答えるのがあるじゃないですか。それと同じようなノリで、こちらとしては学生諸君へのサービスのつもりで問いかけたのに、教室中がシーンと静まりかえっています。せっかくそんな小ネタまで準備してこちとらは授業に臨んでいるのに、なんだかな〜っていう失望感で胸いっぱいになりましたな、さすがに。なんだかアホらしくなってきたので、誰も聞きたくないみたいなのでやめます、と言ったらひとりの学生さんが「表参道ヒルズ」って小声で答えたのでした。

 こんな感じで授業を終えてブルーな気分のまま教室を出ると、なんだか水の流れのような爽やかな音が微かに聞こえて参ります。なんだろうと思って二階から下をみると、なんとそこにせせらぎの清流が出現しているではないですか。そこで教室棟から下に降りて撮影したのが次の写真です。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU11号館前の池からのせせらぎ20240426:IMG_3351.JPG
説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU11号館前の池からのせせらぎ20240426:IMG_3356.JPG

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU初冬のキャンパス20201211:IMG_1112.JPG
 写真 せせらぎが流れている場所の昔の様子 2020年12月撮影

 この流れをたどってゆくとそこには11号館前の池がありました。なるほど…そういうことか。でも、自慢じゃないけどわたくしはこの大学に三十年以上も在籍しているのですが、ここにせせらぎが流れていたことは一度もありませんでした。三年ほど前にこの辺りを散策したときの写真を上に載せます。ゴツゴツとした岩が不規則に置かれているとは思いましたが、ここが池からの小流れを通すせせらぎとして計画されていたとは夢にも思いませんでした。それが今になって通水し始めたのはこりゃまたどういう塩梅なのか、いやあ不思議だな。

 せせらぎは気持ちがいいもので癒されます。でも如何せん、この場所にゆくには虫が飛び交う草木を抜けないと行けないし、なによりも学生さん達がフツーに歩く通路からはよく見えません。流れの水はポンプで循環しているようですから電気代もかかるでしょう。このせせらぎに容易にアクセスできるように周辺を整備して、さらにベンチ等を置いてくれると憩いの場になるのに勿体ないなあって思いますよ、ホント。

 都立の大学だから仕方は無いのかも知れません。ただ、私立大学並みにしろとは言いませんから、キャンパス内をもう少し魅力的かつ気持ちよい場所として整備してくれたらいいのになあって思う次第です。

豆腐におもう (2024年4月23日)

 図書館で『豆腐の文化史』という岩波新書を借りて読んでみました。日本酒とか味噌などの発酵食品については奥が深くて知的欲求を駆り立てられるので、豆腐も究めると楽しいのではないかと思ったからです(でも残念ながらこの本は「ハズレ」でしたけど…)。ちなみに豆腐には「腐る」という漢字が当てられていますが、作る過程で発酵を利用するわけではありません。

 ところで皆さんは豆腐って日頃食されますか。こう書いておいて気が引けるのですが、わが家ではほとんど食べません。味噌汁の具にちょこっと、あとは麻婆豆腐で絹ごしを、すき焼きをするときに焼き豆腐を一丁くらいかなあ…。いっときは作りたての寄せ豆腐が美味しいと思って食べたこともありましたが、豆腐ってスーパーで売っているくらいでして、特段に贅沢な一品というものではありません。たぶん、お高くてこだわった豆腐はきっと美味しいのだろうと想像するのですが、残念ながらそういう名品に行き当たったことはないように思います。

 昔は近所にお豆腐屋さんがどこにでもあったと思います。小学校の同級生だった浅野くんのお宅がそうでした。遊びに行ったときに見た記憶があるのですが中庭に井戸があって、それを使って豆腐を作っていたのだと思います。ただそこのお豆腐を食べたことはありませんでした。外で遊んでいると夕方の裏寂しくなった頃に自転車に乗ってチャルメラみたいなラッパを吹いて豆腐を売りに来るおじさんもいましたよね。その当時の豆腐作りは朝早く起きないといけないし、うまく凝固しない失敗もあるし、その日に売り切らないといけないしで、大変な重労働だったみたいです。

 ところが今では機械化が進み、個別にパック詰めした状態で大量生産できるようになって値段もお安くなりました。でもそういうお豆腐が美味しいかと言われると…、どうなんでしょうかね。豆腐ってもともと淡白なので調理法によって如何様にも美味しくできるってことかもしれませんが(江戸時代には『豆腐百珍』などという豆腐料理のレシピ本がいくつも出版されたそうです)、豆本来の香りと職人技の食感とを楽しむという食本来の味わい方は追求されなかったのでしょうか。まあ、豆腐を食べないわたくしですからどうでもいいんですけど…。

 あとは高野[こうや]豆腐のように凍らせたり、乾燥させたりして長期間保存できるようにした堅い豆腐が日本各地で作られたそうです。そうそう、わが家では子供がまだ小さい頃にアンパンマンの顔を描いた高野豆腐を食べていたことがあります。水に入れて電子レンジでチンして戻すのですが、それとて美味しいという感じではありませんでしたな。でも、広い日本のどこかには人知れず美味しいお豆腐が埋もれているかも知れません。この読書によってそういう関心は呼び起こされました。

八重の花ふぶき (2024年4月19日)

 夜中の雨も上がり、晴天の爽やかな朝を迎えました。清々しくて気持ちがいいですね。陽射しはすっかり初夏の様相でしてこれから暑くなりそうです(って、まだ四月中旬ですけど…)。

 朝早くに本学の教務委員会があるのでいつもよりはだいぶ早くに家を出て野川沿いを歩くと、強い風に乗って薄いピンク色の花びらが吹き寄せてきました。ソメイヨシノはすっかり早緑色に覆われましたが、今は八重桜がちょうど見頃になっていました。街路樹のハナミズキも白や薄紅の花が盛りを迎えています。しばらくは目も鮮やかな景色を楽しめそうです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:野川の八重桜_TMU八重桜_11号館前の池からの水路20240419:IMG_3082.JPG

研究室活動がスタート (2024年4月18日)

 トップページに記載したようにM2・藤村咲良さんが執筆した日本コンクリート工学年次論文が無事に採択されました。手前味噌ですがよくできた論文だと思います。今年一月に投稿した原版ではわたくしとして気になるところがあって、査読者にそこを指摘されるとちょっと困るなあと思っていたのですが、三月になって査読結果が戻ってくると、その部分をいの一番に指摘されていました。査読者の皆さんがしっかり読んでくださったということなので、それはありがたい限りです。

 ということでその指摘に回答して論文を修正することが採択の条件になりましたので、藤村さんと晋沂雄先生とであれこれ相談して修正論文を提出した、という次第です。それは論文の本質に関わる重要な論点でしたので完全に解答することはできず、今後も検討を続けることになります。

 昨日、2024年度最初となる研究室会議を開きました。宇都宮大学時代にならってKick-off Meetingと呼んでいます。当時の田中淳夫教授は名うてのスポーツマンでしたからこういう呼称がお好みだったのだと推測します。それに較べて迂生はスポーツとはほど遠い人間ですからなんだかなあ〜とは思うのですが、四十年近い慣習をそうそう変える気にもならないので、ま、いいか。

 Kick-off Meetingでは今年度の研究課題を開示して、皆さんに選んでもらうといういつもの形式です。ただ今年は大学院生全員が建築学会大会に梗概を提出したので、彼女/彼らに各自の梗概を説明してもらいました。それにつけてもいつも思うのですが、学生諸君は自分の研究を他人に説明するのが下手くそですねえ。それじゃ誰にも通じないし、その研究の魅力も全く伝わらないよって言っているのですが…。そういうたびに厳しかった小谷俊介先生の発表練習を懐かしく思い出します。

 還暦を過ぎてジジイになってくると、なんにつけ怒る元気も無くなってきてそういう発表を聞いても、仕方ないなあ、でも、よくやったね、などという物分かりの良い反応で終始することが多くなりました。そんなことでは若いひとの為にならないよっていう小谷先生から大昔にいただいたご助言(苦言かな?)を折に触れ思い出します。全くその通りであるとは思うのですが、生理的に体が反応しないのだから、まあ仕方ないか…。って、こんなふうに自分に甘いのはいけないですね。新たに科研費もゲットできたことなので、ここらで一丁気を引き締めるか、なんてね(多分、無理…)。

授業が始まる (2024年4月10日)

 きのうの春の大嵐が過ぎ去って今朝はいいお天気になりました。満開だった桜が土砂降りの雨に流されて散ってしまったのではないかと心配でしたが、大学わきの桜は幸い大丈夫でした。今週いっぱいくらいはお花見できそうです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU南大沢_満開で大雨の翌日の桜20240410:IMG_3072.JPG

 本学では去る日曜日に東京フォーラムで入学式があって、今週から前期の授業が始まりました。新一年生は入学式の翌日にいきなりわたくし担当の「建築構造力学1」という専門科目があったので、面食らったかも知れません。久しぶりの授業だったので、終わったらすごく疲弊したのもいつもの通りでした。

 わが社OBの片江拡さんと井上諒さんとが連れ立って来校しました。会社のリクルータです。このお二人は学年では八年の隔たりがあるので、一緒にいることにちょっとした眩暈を感じました。とはいえこの二人の研究テーマは鉄筋コンクリート柱梁接合部の降伏破壊だったり軸崩壊だったりの同類であり、同じように立体柱梁部分架構の実験を担当してくれましたので、わたくしにとってはひと続きに連なっているんですけどね。

 お二人とも社会人として活躍しているようでよかったですし、来学してそういう近況を知らせてくれて嬉しく思います。現場では危険なこともあるでしょうから、安全および健康に留意しながらスキルを磨いてください。

日本人の好きなもの ―戦艦大和の沈没から79年― (2024年4月7日)

 この日曜日は薄曇りながら暖かくなってお花見日和になりました、よかったです。わが家のそばの桜も見頃になってきれいです。ときどき書いていますが、桜の木々の下にみんなで集って飲み食いしたり放歌高吟したりする習性は日本人だけのものです。しかもワッと咲いてパッと散る桜にもののあはれを感じて、さらにそこに国体護持とか忠君愛国とかの思想性が賦与されたのは明治時代以降であってそんなに大昔からの習慣でもありません。

 下の写真は昨年に「スライドの時代」というタイトルで数回に渡って紹介したジェラルド・ワーナーのスライド集にあったもので、「多摩川での花見」と題されていました。1950年4月(敗戦から約四年半後)に撮影された一連の写真ですが、大勢の人出それ自体を被写体としているのが明らかです。とくに男性たちが酒瓶を中央に並べて車座になった写真には「Sake」と書かれていましたので、アメリカ人のワーナーがこういうお花見を珍しいものとして見ていたことを教えてくれます。





 それから七十年以上を閲した現代でも、皆さま総じて桜がお好きなのは変わらないようでして、三月になると桜の開花はいつなのかという予想がテレビ等でしばしば報道され、さらには「開花宣言」などという形式ばったものがたいへんに注目されます。別に身近の桜が咲いてりゃいいじゃんって迂生などは思うのですが、世間さまでは靖国神社の標本木なんてどうだっていいじゃないかとはならないのが不思議ですよね〜。

 日本人の好きなものとして大昔には「巨人、大鵬、卵焼き」というのが流行ったそうです。わたくしの蔵書に『現代〈死語〉ノート』という小林信彦著作の岩波新書(1997年1月)があるのですが、それによると1961(昭和36)年のことでした。現代ではプロ野球人気の凋落とともに巨人一強の時代は遠い昔のノスタルジーとなり、大鵬の孫の王鵬は(今のところは)そんなに強くもなく注目されていません(まあ、祖父は大鵬とは言いながら父が貴闘力だからしょうがないか)。卵焼きに至ってはお弁当の定番として存在はするものの(わが家でもお上さまがときどき作ってくれます)、注目される品でもないわな。なお小林信彦の同書によれば1961年の流行語の王様は「レジャー」だそうです、へえ〜そうだったんだあ。でも「レジャー」って今でも使いますよね?死語じゃないと思うけど…。

 わたくしは山田洋次監督の寅さん映画が大好きで(わが家では何が面白いのか分からないって言われていますけど…)、先日もBSでやっていた吉永小百合がヒロインのやつを久しぶりに見たのですが、もう何度も見ているはずなのに必ず大笑いできるし、ホロっとするんですよね。そこには古きよき昭和の日本の原風景が映っていて、おいちゃん・おばちゃんをはじめとして人情に厚い日本人が描かれています。寅さんは日本人にとってのソウル・シネマにさえなったと思うのですが、いかがでしょうか。

 こんなことを考えているうちに話しは広がり、日本人の好きなものとして戦艦大和もあげられるように思います。松本零士の漫画に『宇宙戦艦ヤマト』があって(波動砲充填120%!っていうのがとてつもなく懐かしい…)、現在までその続編が作り続けられているように、日本人にとっては馴染み深い名前であろうと考えます。昔、愚息が小さい頃にそのリメイク版?のアニメを一緒に見ていたら、出てくる宇宙駆逐艦の名前が「雪風」でして、それって1945年4月の沖縄水上特攻に加わったがほとんど無傷で生き残った駆逐艦「雪風」と同じだなって思った記憶があります。なお武運抜群だった駆逐艦「雪風」の生涯は豊田 穣著作の『雪風ハ沈マズ』(光人社NF文庫)に詳しいです。

 戦艦大和は戦前・戦中は軍の極秘事項だったので一般民衆にはそういう名前の軍艦があることさえ知らされていませんでした。ですから戦艦大和が人口に膾炙するようになったのは戦後のことです。今から半世紀以上も前の大むかし、わたくしが小学校低学年だった頃、従兄弟のシンちゃんが長さ1メートルくらいもある戦艦大和のプラモデルを作って「どうだ、すごいだろう」って見せてくれたことがあります。それが欲しくて同じプラモデルを祖父に買ってもらい(買ってもらうまでにはひと悶着あったことをよく憶えているのですが、ここでは触れない)、自分では組み立てられなかったので父親に作ってもらったことがありました。

 こんな具合に戦後も昭和の時代には、戦艦大和は誰でも知っているような名前でした。それは日本の技術の粋を集めて建造した巨大戦艦(排水量は約七万トン!)だったにもかかわらず、当時最大だった直径46cmの主砲を打つこともほとんどないままに水上特攻隊として沖縄に向かうところを撃沈されたという悲劇性が日本人の琴線に触れるせいだろうと思います。繰り返しますがそういう事実は海軍でも一部の人たちしか知らず、市井の人々にとっては無縁の出来事だったのです。

 その戦艦大和に電探(レーダーのこと)担当の海軍少尉として乗り組み、沈没した大和からかろうじて脱出して生還したひとに吉田満氏がいます。ちなみに同じ水上特攻に参加した護衛部隊の旗艦だった軽巡洋艦・矢矧[やはぎ]に乗り組みこの戦闘を生き抜いて生還した士官に池田武邦さん(海軍兵学校を卒業した職業軍人でした)がいました。彼が戦後に東大建築学科を卒業して日本設計という大会社を作ったことは以前にこのページで紹介しました。

 戦艦大和を世間に知らしめたのはこの吉田満さんだと思います。彼は東京帝国大学法学部在籍中に学徒動員されて海軍に配属された若き学徒兵でした。戦後、実家が疎開していた東京都青梅[おうめ]に暮らしたときに吉川英治に出会い、請われて戦艦大和の体験を語ったことからそれを記録として残すことを勧められます。その後、小林秀雄の熱いオファーによって『戦艦大和ノ最後』という小説として世に出たそうです。吉田さんはその後、文筆家としてではなく日本銀行の社員となって経済人として日本を再建し、高度成長期を生き抜きました。

 『戦艦大和ノ最後』は漢字とカタカナ混じりの文語体で書かれていてちょっと読みにくい感じがしますが、読み始めるとそれが極めて簡潔かつ明晰に書かれていることに気がつきます。戦艦大和がこの無謀な水上特攻によって東シナ海で撃沈されたのが79年前のちょうど今日(四月七日)でした。

 太平洋戦争は日本海軍の真珠湾奇襲によって始まりましたが、それはこれからの戦争は軍艦同士の戦いではなく航空機が主役になった戦闘であることを世界に知らしめました。そのことを実証した当の日本が、実は大艦巨砲主義を捨て去ることができずに最後まで戦艦大和による活躍を妄想したことに悲劇と滑稽とが同居するのです。戦闘機による護衛もなく空からの攻撃に対しては丸腰といってよい状況で大和部隊は出撃しました。そんな無為無策で成算のない戦いに参加させられた祖先たちを思うと本当に気の毒になります。

 2018年の春に広島県呉に旅行しました。ここは今でも海上自衛隊の基地がありますが、当時も日本海軍の一大軍港でした。そこに大和が建造された海軍工廠もありましたが、今は大和ミュージアムが建っています。その展示の主役が戦艦大和の十分の一スケールの模型です。行って実際にいろいろな角度からしげしげと観察しましたが、ホントよくできています。


写真 戦艦大和の1/10スケール模型 呉の大和ミュージアムにて 2018年撮影

 大和ミュージアムにはこの巨大な模型以外にも零戦(琵琶湖から引き上げられた62型、珍しい…)や特殊潜航艇の実物が展示されています。人間魚雷・回天で特攻出撃して戦死された塚本太郎氏(海軍少尉[戦死後大尉]、享年21歳)の肉声を遺言として録音したテープが流れていて、わたくしはしばらくそこを動けなかったことを憶えています。この方は慶応義塾大学から学徒出陣させられて戦陣に散りました。「僕はもっと、もっと、いつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ…、みんなさようなら。元気で征きます」と家族に残していました。とても悲しいです…。

 とても貴重な記録で大切なものと思うのですが、子供には分からないでしょうし、大人でもここで足を止めたひとはほとんどいませんでした。そのことにも悲しい気持ちにさせられました。戦争の悲惨さに気がつかない人たちが戦争をするんじゃないですかね…っていう気分をかき立てられます。

 呉に行くには広島から船で一時間くらいです。ちょっと遠いですし、結局のところこの日は呉での観光で終わりましたので一日仕事です。それでもこの大和ミュージアムは一見の価値があると思いますので、ぜひ、お出かけください。だってあなた、大和がお好きでしょう? 大和が好きじゃなくても、呉には美味しい日本酒もありますよ〜なんてね(「雨後の月」がおいしいよ)。


写真 大和ミュージアムの零戦と特殊潜航艇 2018年撮影

花冷え (2024年4月5日)

 今日は真冬に戻って寒い雨降りです。真冬のコートを着て、マフラーを付けて登校しました。冬物の服たちをクリーニングに出さなくてよかったあ〜。

 わが家のそばを流れる野川沿いのソメイヨシノは、木によって異なりますがだいたい七分から八分咲きといった感じで、もうすぐ満開を迎えそうです。それに対して大学のある八王子市南大沢の桜は三分から五分咲きくらいで、やっぱり南大沢は寒いです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:野川_南大沢の桜_TMUキャンパス20240405:IMG_3054.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:野川_南大沢の桜_TMUキャンパス20240405:IMG_3057.JPG

 きのうは9階の建築ロビーで学部新入生の歓迎会がありました。わが家の愚息と同じ学年かと思うと、赤の他人とはいえ皆さんがかわいく思えてくるので不思議だな。そして今日は大学院進学者の履修ガイダンスを担当しました。これだけ微に入り細に入り、手取り足取り説明しても、毎年、履修登録漏れの学生さんが出現するのはどういうわけか。

 今年度の建築学域長である鳥海基樹先生(パリの都市計画学者)がことしは履修登録漏れの学生さんを救うことはしない!って宣言しましたので、学生諸氏はどうか気を付けておくんなさい。とは言え、履修登録を忘れるのはたいていの場合、こういうガイダンスに出席していない輩のことが多いので、どうしようもないのですが…。

 それが終わって、これから成績不振者との面談に出掛けます。七、八分も歩いてわざわざ6号館まで行かないといけないのですが、さらに言えば設定された時間帯はそのブースに座って当該学生が来るのを待っていないといけないのが、どうにも気に食わんなあ。そもそもその学生さんは来るのだろうか…、なんだか虚しい思いでいっぱいなんだけどな。

…………

 当該の学生さんは幸いなことに面談しにやって来てくれました。まあ、事情は分かったのですが、基本的に能力はある方のように見受けましたので、とにかく頑張って履修しましょう、月に一度、履修状況を報告するように、ということで約一時間の面談を終えました。でも、相手がどういうひとか分からないので、とても気を使って疲れました。

ことしはまだ咲きはじめ (2024年4月4日)

 新年度が始まりました。ことしの三月が寒かったせいか、南大沢の桜はやっと咲き始めたばかりです。昨年の今頃はすでに花びらが舞い散って青葉が出始めていましたから、それに較べるととても遅いのですが、よく考えれば今年が昔の平年並みのような気もします。

 昨日は日本建築学会大会の梗概提出の締め切りでした。ことしは我が社の大学院生は全員、梗概を執筆して提出できました。別に大したことではないのですが、沈滞していた我が社にとっては久しぶりの快挙だと思います。でも、皆さんもう少し早めに取りかかればバタバタとせずに済むのに、というのは毎度のことか…。

 特に新M1・小川さんの初稿を見たときにはこりゃダメだ、無理だよって思いました。そういうふうに彼に暗に話しもしましたが、彼が(どういうわけか)すごくやる気を出したみたいで「頑張ります!」って言うものだから、若者がそこまでするっていうのなら、じゃあ仕方ないからこちらも本気出すか、ってなりました。そんなわけで、ウンウン唸りながら(って、なんで迂生がそこまでするのかとはチラッと思いましたが…)久しぶりに深夜や早朝に原稿を添削してやり取りして、なんとか形になって投稿できた次第です。でも、提出できたのだからその努力は多として認めましょう。

 この提出がお昼前に終わったので、そこから先は気が楽になって、新しく採択された科研費・基盤研究Cの予算申請などの書類作成に勤しみました。三年ごとのルーチン・ワークなのですが、ほとんど忘れているので三年前のファイルを横に開きながら作業しました。途中で共同研究者の晋 沂雄さん(明治大学准教授)とメールで相談しながら研究計画を練りました。でも、こういった決まり切った作業もこれが最後かと思うと少しばかり感慨を抱きますなあ…。

 わたくしの先輩の何人かは、定年で大学を退職されたあとにも科研費をゲットして研究を続けています。そのお姿をワールド・ワイド・ウェブ越しに拝見するとすごいな、偉いなと思うのですが、どういうわけか自分はそうしようって思わないんですよね。考えることは人それぞれなのでいいんですけど、わたくしって志が低いのでしょうか、なんてね(そんなこと思ったことないわ、あははっ)。

 きょうは午後から新入生の履修ガイダンスと歓迎会とがあります。彼女/彼らが卒業する頃には迂生はもうこの大学にいないことを考えると、うーん、どうなんでしょうね。来週早々にスタートする『建築構造力学1』の進め方も今年から変えました。もう演習の添削はやめて、解答例を配布することにしたのです。いちいち添削して返却する手間のわりに効果が見られなかったことがその直接の理由ですが、上述したようなことが頭の片隅にあったことは否めないような気がします。まあ、人間だから仕方ないか…。

年度末の小景 (2024年3月29日)

 きょうは三月末の金曜日なので年度末になります。来週月曜日(四月一日)からは新しい年度になって新入生を迎えます。大学人にとっては周知の一年がまた始まるのだなあと思うだけですが、当の新入生たちは人生の門出のハレの日を迎えて嬉しがるのでしょうから、その状況認識のギャップにはちょっと驚いたりします。

 きょうの午前中はものすごい雨降りで風も轟々と吹いて恐ろしいくらいでした。これじゃ身の危険を感じて出歩けないので、自宅の机に向かって来週にある新入生の履修ガイダンスのためのパワーポイント・コンテンツを一所懸命に作っていました。

 その作業に没頭しているときにたまたま晋沂雄さんから携帯に電話がかかって来て、建築学会の委員会が始まっていることを教えてくれました。プレストレスト・コンクリート部材の耐震性能を評価・検討するための小委員会でして、東工大教授の河野進さんが主査の会議です。全く忘れていたのですが(ごめんなさい)、オンライン会議なのでZoomを立ち上げるだけで会議室に入れるのだからホント便利ですね〜。

 それがちょうどお昼に終わって、お上さまが作ってくれたソース焼きそばを食べている頃からだんだんと雨が小降りになってきて、そのうち陽も差して来ました。きょうの午後はわが社の学生さんと建築学会大会梗概について議論することになっていたので(今ごろになって大丈夫かと思うんだけどな…)、いそいそと大学へ出かけた次第です。雨が上がって投稿、じゃなかった登校できてよかったです。

 研究室に積んであった図書館所蔵の本が三冊ほどあったので、今、図書館に行って返却して来ました。卒業式と入学式との狭間のこの時期ですから、図書館にはほとんどひとがいませんでした。そこで久しぶりにいろいろな棚を経巡って、立ち読みしながらよさそうな本を選んだら五冊になりました。建築関連が三冊、歴史物が二冊です。一ヶ月では到底読み終わらないのですが、適宜延長しながら拾い読みするのだろうと思います。

 昨日、大学院進学を希望する他大学の学生さんがわが社を訪問しました。意欲にあふれて優秀そうな方でした。もうそんな時期なのかと思います。学内から大学院進学を希望している学生はいないようなので、外部から来てくれるかたは大いに歓迎です(いつも書いている通りです)。でも、こういう風に言ってよいのもあとわずかかと思うと一抹の寂しさを感じます。今は早いところ定年を迎えて自由の身になりたいなんて思っていますが、いざそうなったときにどのように感じるのかは想像の彼方にあって曖昧模糊として霞んでいるような気がします。

 野川沿いや南大沢の桜はまだ固そうな蕾のままです。でもこの週末は暖かなよい天気になるという予報ですから、桜も少しずつ咲いてくるでしょう。ということで皆さん、よい年度末をお過ごしください。

つづくハレの日 (2024年3月22日/25日掲載)

 今週は寒の戻りで冷たい日々が続き、昨年の今頃は桜が咲いていたのに、ことしはまだ固い蕾のままです。それでも晴天で風が強かったので花粉はすごくて、この数日、鼻が詰まって寝ていられずに夜明け前には目が覚めてつらい一日を過ごしています。

 さて今週は卒業式が続いて、めでたさも二乗でやって来ました。まず春分の日に愚息の卒業式があって、学校まで出かけました。この日は大荒れの天気でして、それまで晴れていたのに急に暗雲が垂れ込めたかと思うまもなく冷たい雨が降ったりしました。

 思い起こすと三年前はまだCOVID-19の蔓延の最中だったので、入学式には保護者は参加できず、オンライン中継されたのでそれを書斎のパソコンで見ていました。三年も経つとさすがに世情も変わって、卒業式は保護者も出席できてよかったと思います。

 さてその卒業式ですが、私立校のせいなのかどうか分かりませんが、壇上に日の丸の旗がないことに気がつきました。以前に書きましたが公立の学校では必ず日の丸があって、挨拶するひとは必ずそれに向かって一礼したりしていたのが気になっていましたので、今回はそんな虚礼がなくて清々しく思いました。さすがは在野の精神溢れる校風だな。



 卒業証書の授与は、上の写真のように各クラスが起立して代表生徒に証書を渡すという形式で行われました。とはいえ12クラスもあるので、この儀式が終わるのにはかなり時間がかかりました。男子校なので卒業生は全員男子ですが(って当たり前)、こんなに多くの若衆が密集しているのってわたくしは見たことがなくて結構な壮観でした。

 そのあと院長先生(わたくしの高校の先輩であることが判明!)の祝辞および大学理事の教授先生のはなむけの言葉がありました。大学教授のかたの挨拶はとても立派な内容で感銘を受けました。同じ教授でもわたくしにはあんな風に訓話を垂れることは到底無理だと思いましたな、あははっ。

 最後に校歌斉唱があったのですが、なんと歌詞カードが配られて父兄も起立して歌えって言われたのにはちょっと驚きました。つながっている大学の校歌がそのまま使われています。東京六大学野球なんかで東大の対戦相手側から流れてくるのでその歌自体はよく知っていたのですが、まさか自分がその校歌を歌う日が来るとは思わなかったな。でも、それはそれで結構嬉しかったですよ、まあ単なる親バカだけど。このあと十日もすれば上がった大学の入学式があって、大学生活がスタートします。それを思うとかなり慌ただしい感じがしますなあ。

 -----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----

 ついでに自身が高校を卒業するときのことを思い出そうとしましたが、どんな行事だったか、どこで卒業証書を手渡されたか、全く憶えていません。もちろん嬉しかっただろうとは想像しますが、その頃は国立大学の合格発表は3月下旬くらいでしたから、その前に卒業式があったので嬉しさも中くらいだったのかも知れません。

 卒業式の後に大学合格がありました。その後、一・二年生のときの担任だった内藤尤二先生のご自宅に岡谷くんと一緒に遊びに行ったのですが、うちの母親が高知から送られて来た土佐文旦(ばかデカイ日本最大の柑橘類)を手土産に持たせてくれたこと、内藤先生の御宅では先生と当時大学生だったお嬢さんと麻雀をやったこと、などは鮮明に憶えています。

 このとき一緒に出かけた岡谷くんですが、それ以来、一度も会っていません。彼も東大に進みましたが本郷はおろか駒場キャンパスでも会った記憶はなく、今どうしているのかなあ…。彼とは高校三年の受験クラスで一年間一緒でした。このときの担任は数学の本橋先生でしたが、受験のためのクラスということもあってクラスメートと交流した記憶があまりありません。そんななかで岡谷くんとはどういうわけか親しくなったみたいです。ちなみに後年、このクラスのクラス会は一度も開かれていません。

 「うなぎいぬ」っていうあだ名の先生(ごめんなさい、本名を思い出せません…)の英語の授業で毎回冒頭に小テストがあったのですが、ある日、何を思ったのか岡谷が「みんな知ってるかあ〜?、これってIt is a pity that…って言うんだぜ」って大きな声で答えを叫んじゃったので、「うなぎいぬ」が怒っちゃって彼に向かって「教室から出てゆけ〜!!」って怒鳴ったら、岡谷も岡谷で謝りもせずに出て行ったという事件がありました。どういうわけかよく憶えているので不思議です。

 この当時の都立高校には学校群という悪名高い入試制度が敷かれていて日比谷高校の凋落が顕著でしたが、まだ名物教師と称されるような先生がたが棲息していたように思います。多くの先生は親しみを込めてあだ名で呼ばれていて、「カバさん」「かにたま」「ペヤング」「イトカン」「イトチリ」「うなぎいぬ」「ヨーゾー」「ジェン」なんかをすぐに思い出します。古きよき時代でしたなあ…。

 -----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----

 ありゃ、脱線したので話しをもとに戻して、この翌日、今度はわが大学の卒業式がありました。東京都立大学ではキャンパスがいくつもに分かれているため、全学部の卒業生全員が一堂に会する卒業式は有楽町の東京フォーラムで午前中に開きます。それが終わると皆、南大沢とか日野とか荒川とかの自学部のキャンパスに戻って、午後にはそこでまた学部の全体会が開かれます。それが終わった午後三時からやっと建築学科の卒業式・修了式となって、迂生のようなヒラの教授はこれに出席します。

 こちらは学部卒業生および大学院修了者がひとりずつ名前を呼ばれて、壇上で学科長(今年度は建築家の小泉雅生教授)が証書を授与するというやり方です。大学院修了者の場合には学位論文の題名が記載されていますが、小泉学科長がそれをいちいち読み上げたので結構な時間がかかりました。馴染みのない専門用語がたくさんあって大変だったと思います、お疲れさま〜。

 そのあと学科長から祝辞があって全体で記念写真を撮影して終わりです。撮影は山村一繁助教が担ってくれましたが、それじゃあ山村さんが写らないので、壇上に座った迂生が舞台向かいの操作室にいる彼を撮ってあげたのが一番下の写真です。壇上に勢ぞろいした学生諸君に向かって、顔が見えないとかあれこれ指図してくれているところです。山村さんは学生の頃からカメラ小僧でしたが、その趣味は今も続いていると見えてなかなかのカメラマン振りでした、ご苦労さまです。





 今年の学部卒業生は2020年4月の入学です。その直前にCOVID-19のせいで志村けんさんが亡くなる等、その猛威が席巻し始めました。そうして入学式などは中止になり、大学の講義もいつ始められるのか分からず、とにかく不安な時期でした。本学では五月からZoomを使ったオンラインの授業が始まりましたが、新入生たちは大学には通えず、同級生と対面することもできずにつらくて不安な大学生活のスタートだったと思います。彼女/彼らの一部が対面できたのは、わたくしの「建築構造力学1」の期末試験を大学の教室で実施したときだろうと思います。

 そのような不安定な状況は段階的に解消されて行きましたが、苦難の時期を乗り超えてこの佳き日を迎えることができ、わたくしも感慨深いものがあります。とにかくよかったです。卒業・修了、おめでとうございます。

 このように今年はハレの日が二日続きました。そのこと自体が慶賀すべき事柄でしょうが、わが家の子供の卒業にはやっぱり格別の感慨を抱きます。そんなわけで東京都立大学の卒業式でちらほらお見かけした父兄の皆さまには心のなかでおめでとうございますって言っておきました。



宇宙で建築 (2024年3月16日/18日掲載)

 ここのところよいお天気で気温も上がり気味でいいのですが、花粉がすごくてつらいです。

 さて、宇宙で建築などと言うと突拍子もないと思いますよね。わたくしにとって宇宙と言ったらそれはやっぱりアーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』とかレイ・ブラッドベリの『火星年代記』のようなSFの世界です。とはいえ、今から三十年ほど前に某ゼネコンは月でコンクリートを作るっていう「ルナ・コンクリート」を研究していましたし、21世紀初頭には地上から衛星までをエレベータで結ぶという「宇宙エレベータ」の提案もありました。そして時は流れて21世紀も最初の四分の一がほぼ経過した現在、そんなに荒唐無稽とも夢物語とも思われていないようです。

 昨晩、日本建築学会関東支部の主催するシンポジウムが田町の建築会館でありました。主催者を代表する迂生も例によって挨拶かたがた参加しました。そのシンポジウムのお題が『宇宙居住への挑戦』だったのです。そのポスターを下に貼っておきます。





 このシンポジウムでは建築分野でない方々をお招きするのが恒例だそうで、今回はJAXAの惑星物理学者、民間の宇宙ビジネス・ウーマン、そして建築側代表として大学の先生のお三方が講演および討論をしてくださいました。わが建築学会にも宇宙建築に関する特別研究委員会が組織されていたことを今回初めて知りました。

 なにしろこちらは門外漢ですから聞くこと見ることが全て物珍しくて、へえ〜っていう驚きとか発見とかのオン・パレードです。特にJAXAの物理学者の方がいろいろと興味深いことどもを話してくれました。主に月(Moon)のお話しでしたが、月についての最新の知見などを伺うのは知的好奇心を掻き立てられてとても面白かったです。

 でも最も印象に残ったのは、宇宙居住を実現するためには「工学者と理学者とが常に対話することが重要」という彼の発言でした。わたくしのように工学に携わるものからすると、理学の研究者はそれこそ出来もしないようなことを平気で言うわけです。工学と理学とでは文化が異なるというのが多分、両者共通の認識だと思います。しかしそんなことを言っていたら、どんなブレーク・スルーも実現できません。ですから異なる文化をすり合わせて、ひとつの目的を達成するために互いに議論を重ねて協同することが大切なんだ、という工学者にとっては当たり前のことをJAXAの物理学者の方が言ったのです。それを聞いて、このひとはそういう調整に苦労して来たのだろうなと思いましたね。なんと言っても最後にモノを作って実体化しないと目的を達成できません。理論だけじゃそれは不可能で、先端技術を使ってこそ可能になるのですから。

 結局のところ月に人類が居住することは可能みたいですが、それがいつ実現するのかは見通せないようでした。今の感じではまあ、そうでしょうな…。

 ところでこのシンポジウムは午後七時から約二時間に渡って開かれました。金曜日の午後七時といったらサラリーマンのゴールデン・タイム?ですよね。田町の小路にも飲み屋に向かうらしい人たちが群れ歩いていました、これから一杯飲るんだろうなあって感じです。

 そんな時間帯での開催にもかかわらず、建築会館に来場してくださった方が80名以上、オンラインでの参加者は100名以上という盛況だったことに迂生は驚きました。ちなみにこのシンポジウムは有料でして、(建築学会員ではない)一般の方の参加費は2000円(オンラインだと1500円)です。この時間にお金を払って参加しようってひとがそんなに大勢いたことに少なからず驚いた次第です。宇宙に建物を作って暮らすっていうことがそれくらい魅力的ということでしょうか…。いずれにせよ宇宙への関心の高さをうかがい知れる出来事でした。

あれから十三年 (2024年3月11日/14日掲載)

 東北地方太平洋沖地震の発生から13年が経ちました。そのとき迂生は東大本郷キャンパスに出向く途中で、地震発生後に小谷・塩原研究室のある工学部11号館7階で青山フォーラムに参加しました(このときの経緯は「はじめての帰宅難民」という小文に書きました)。

 この13年が長いのか短いのか、人それぞれだろうとは思います。ただ、この間に冥土へと旅立った人たちがいたことを思うとき、それはやっぱり長かったのかなとも思います。下の写真はフォーラムが始まる前の輪講室の様子ですが、右手前に中田慎介先生がいてその横に久保哲夫先生が座っています。お二人ともすでに故人となったことを思うとき、やっぱり人生の儚さを感じずにはいられません。しかしそれは生命の持つ宿命であって、いずれは誰もがその列に加わるのです。「人生は死への前奏曲(プレリュード)」とはよく言ったものだなあ…。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:東大_帰宅難民2011:CIMG1035.JPG

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:東大_帰宅難民2011:CIMG1025.JPG
  2011年3月11日 地震直後の東大工学部1号館

三四郎池の畔で (2024年3月9日/13日掲載)

 よく晴れたせいで花粉もバンバン飛びまくるこの日、東大の塩原等兄貴の退職記念パーティがあって山上会館に出かけました。ここに来るのはいつ以来かなあ…、多分、小谷俊介先生の退職記念シンポジウムが開かれたとき以来かと思います。

 もうすぐ東北地方太平洋沖地震の3月11日がやって来ますが、2011年のこの日、わたくしは本郷の東大に向かっていました。都営地下鉄新宿線の小川町駅で降りて、丸ノ内線の淡路町駅へ向かうためにエスカレータに乗って上がっているときにちょうど地震が発生したのです。そこから歩いて本郷の11号館7階に行き、小谷・塩原研究室で青山フォーラムをやったことは13年前に書きました。あのときとほぼ同じ時期に再び本郷を訪れることになり、感慨を新たにいたします。

 さて、山上会館は三四郎池の畔に建っていて(正確に言えば三四郎池を見下ろせる高台のわきです)、わたくしが学生の頃には古ぼけた木造建物だったと記憶しますが、1986年に建て替わりました。前川國男の最晩年の設計で、上品な石質タイル貼りや芸の細かい造作が前川らしさを醸し出しています。先日のこのページで前川國男の東京都美術館を紹介しましたので、山上会館をあらためて観察するのも目的のひとつです。



 三四郎池に行くのも本当に久しぶりです。昨日に雨や雪が降ったせいでしょうか、池はうすい緑色に濁っていました。水が溜まって池になっているくらいですからここだけ谷のように窪んでいるのですが、それでも結構山深い感じがして都会のなかの別世界といった趣きでした。この日はお天気がよかったせいでしょうか、池の畔で写生をしている人たちがいたりして明るい雰囲気でしたが、わたくしの学生時代の記憶ではなんだかうす暗いところという印象です。



 山上会館の三四郎池側では、キャンチ・レバーの先端にサイクロドのような曲線がつらなっていますが(上の写真)、これは室内にもそのまま現れていて(すなわち、天井を張らずに)、そこに上品な照明がぶら下がっています。下の写真でその様子がよく分かります。ちなみにこれは、名古屋工業大学の楠原文雄先生が乾杯の挨拶をするぞ〜っていうときに撮ったもので、卓の前に司会の大西直毅さん、その奥に塩原兄貴ご夫妻が見えています。



 この日のパーティは塩原研究室の卒業生が主体で、わたくしのような青山・小谷研究室の後輩とか先輩は少数派でした。いつも書いていますが、塩原兄貴はわたくしよりも三つ上の学年で、迂生が卒論生として青山・小谷研究室に入室したときにD1でした。今思えばこれがわたくしの研究人生の始まりだったわけですが、その基礎を丁寧に教えてくださったのが塩原兄貴でした。その意味では塩原さんもまたわたくしの恩人のひとりです。特にキーボードのブラインド・タッチができるようになったのは塩原さんのお陰です。

 研究室に入って、塩原さんがこちらを向いてニコニコしながらキーボードも見ずに機関銃のようにバコバコと英文を打ち込むのを見たときにはすごく驚きました。こんなことができるのかあっていう感じですよ。その凄技を身に付けたくて塩原さんに手ほどきをお願いしました。でも彼から教わったのは手を置く基本位置(ホーム・ポジション)とどの指でどのキーを叩くかというルールだけでした。あとはひたすら英文を打ち込む練習をしなさいということでして、まあそうだよな…。

 そういう偉大な先輩が周囲の予想とおりに母校の研究室に戻ってそこを継ぎ、めでたく定年をお迎えになりました。塩原兄貴の独創性あふれる研究については書くまでもないでしょうから触れません。今から二十年以上も前に塩原さんが鉄筋コンクリート柱梁接合部の降伏破壊理論を提唱したとき(その頃迂生はそんなことないだろって考えていたのですが)、小谷先生が「塩原先生のすごさがよく分かった」って仰ったことをよく憶えています。実際にそのとおりだったことは皆さんご存知の通りです。

 こうして楽しかったパーティが終わり(ただ、久しぶりの立食だったので足腰が痛くなって疲れました)、塩原兄貴からお土産にもらった紙袋に入っていた『建築構造解析』(塩原等著、数理工学社、2024年2月、税抜き2,950円)っていう出来立てホヤホヤの教科書を電車内で拝読しながら帰途についたのでした。うーん、でもお土産に教科書っていうのもなんだかちょっと…。まあ、いいか。

 でも、せっかく教科書を書くのだったら、ご自分が教室で講義しているあいだに出版して学生諸氏にそれを使ってもらえばよかったのにってフツーは思いますよね。いただいた教科書を見るとしっかりとした造りで294ページもあるのに2,950円っていうのもお安いように思います。でもそういう下世話な?事情を超越したところがやっぱり塩原兄貴のすごいところなんだろうなあ、分からんけど。

 最後に、塩原兄貴の後継者である田尻清太郎准教授が撮ってくれた集合写真を載せておきます。右側がかなり暗くて見えにくいのはちょっと残念でした。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:東大山上会館_塩原退職パーティ20240309_東大田尻研による撮影:146_original.JPEG

久保哲夫先生の訃報に接して —懐かしき蟹かな— (2024年3月7日)

 わたくしの研究室がある9号館では今朝、防火シャッターの点検があって全てのシャッターが降りています。一年に一回なのでシャッター表面の塗料の匂いが廊下一帯に漂います。毎年春の恒例行事なので、もう一年過ぎたのかという感慨を抱きますな。

 そういう初春の一日、久保哲夫先生の訃報に接しました。とても悲しく思います。久保先生はわたくしにとっては恩人のおひとりで、原子力建築の世界に導いてくださったのが久保先生でした。梅村・青山・小谷研究室の同門ということで非常にお引き立ていただきました。思い出を掘り起こすと1998年に横浜プリンスホテルで日本地震工学シンポジウムがあったときに(その当時、このシンポジウムは四年に一度の開催でした)、その実行委員を久保先生から承ったのが最初だろうと思います。

 その後、21世紀の初頭に日本地震工学会が設立された際、その論文集委員会の主査に就任された久保先生からまた委員として呼ばれました。そこで二年間くらいでしょうか、久保先生の指示に従って査読要領とか論文フォーマットとか細々とした規則類を整備した記憶があります。

 それと同じ頃、今度は日本電気協会・耐震設計分科会の下部組織である建物・構築物検討会の主査だった久保先生から、その副査として検討会に参画してほしいという要請をいただきました。いま思えば、われわれの師匠である青山博之先生から主査を引き継いだ久保先生が次の世代につなぐべく若手の副査を探していたのだろうと想像します。

 余談ですが、この頃からそういう依頼は全てメールで為されましたが、久保先生は電話でお話しされたかったらしく、いつ電話してもいないってメールに書いてありました。わたくしの研究室に電話がないことはこのページで書いていますが、まあ評判はよくなかったわけですね。

 それまで、原子力施設の建物の耐震設計については武藤清先生および梅村魁先生がその制定から携わっておいででしたので、原子力建築の世界においては東京大学・鉄筋コンクリート構造研究室がそのメイン・ストリームとして認識されていたであろうことは想像に難くありません。そのような潮流のなかでお声かけいただいたことにとても感謝していますし、その責任の重さをひしひしと感じます。もちろん、それまで原子力建築にはほとんどかかわっていませんでしたので、それこそ「村のオキテ」じゃないですけどそういう特殊な文化に馴染みはなく(今も馴染んでいるわけではないけど…)、久保先生をはじめとして検討会の皆さまに教えていただきながらのスタートでした。

 その後、久保先生が上述の耐震設計分科会の会長に就任するタイミングで迂生が建物・構築物検討会の主査を引き継ぎ、新しい副査に同門の楠原文雄先生を指名したことは以前にこのページに書きました。このように久保先生のお導きによって原子力建築の世界に足を踏み入れ現在に至っています。皆さまご承知のように久保先生は博識でこの世界のことにもお詳しく、わたくしなどはその足元にも及びません。ですから、いつも久保先生が後ろで見守ってくださり、おかしなことにならないように監視していただいたので、わたくしとしてはかなり気が楽でした。でも、もうそれも叶わなくなってしまいました…。

 今から十数年前の晩秋に、久保哲夫先生とご一緒して敦賀にある原発の見学に行きました。そのときに日本海の蟹に舌鼓を打ちましたが、久保先生の楽しげで穏やかなお顔が蘇って参ります。久保先生、今までありがとうございます、そして数々のご厚情に対して深く御礼を申し上げます。どうか永遠の休暇を安らかにお休みください。ご冥福をお祈りします…合掌。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:敦賀原発視察2010:CIMG0779.JPG
 写真 在りし日の久保哲夫先生 2010年撮影

内藤記念館へゆく (2024年3月6日)

 昨晩から冷たい雨が降り続いています。わたくしの住む多摩東部では雨のままでしたが、今朝、南大沢にある大学に登校すると地面には雪が残っていました。やっぱり八王子は寒いんだということを再認識いたしました。

 さて、2023年度の卒論でわが社の許斐茉莉さんが村野藤吾[むらの・とうご]設計の世界平和記念聖堂の構造設計について調査・検討してくれました。広島にあって1954年に竣工し、戦後の鉄筋コンクリート建物としてはたぶん初めてだろうと思いますが2006年に重要文化財に指定された教会建物です。なお、この建物の構造設計は内藤多仲[ないとう・たちゅう]博士によるものです。内藤先生は早稲田大学教授だったので、早稲田大学建築学科を卒業した村野藤吾とは懇意だったようです。


写真1 世界平和記念聖堂(設計:村野藤吾、構造設計:内藤多仲) 2012年撮影

 この建物については以前にもこのページで紹介しました。2019年に清水建設によって耐震補強が行われましたが、その詳細については文化庁のHPくらいしか情報がなく、もともとどの程度の耐震性能を保有していたのか、具体にどのような耐震補強がなされたのか疑問に思ったのがそもそもの始まりです。

 そこで許斐さんの卒論として、まず基礎資料の渉猟から始まりました。とはいえ、わたくしにも特段のつてはないので、許斐さんが広島のカトリック教会に問い合わせたり、ネット上の様々な情報を当たったりしました。その結果、この聖堂の構造図が早稲田大学に保管されていることに行き当たり、ここからさらに許斐さんが頑張って調べて、ついにその保管場所と管理されているひとに行き着いたのです。

 それは早稲田大学の理工学術院総合研究所にありました。管理されているのは早稲田大学名誉教授の山田 眞先生です。でも、その総合研究所ってどこにあるのだろうか…。それは早稲田大学喜久井町[きくいちょう]キャンパスにあったのですが、それってどこなのよ?

 いつも書いているように新宿区西早稲田はわたくしにとっては父祖の地であり、その近くが育った場所なのでよく知っているつもりです。しかしその喜久井町キャンパスなるものは寡聞にして知りませんでした。そこは地下鉄東西線の早稲田駅を降りるとすぐそばにあって、早稲田通りに面して入り口がありました(写真2)。へえっていう感じです。ちなみに新宿区喜久井町は夏目漱石の生誕の地でこのキャンパスの脇には夏目坂があり、近くには漱石山房記念館もあります。


写真2 早稲田大学喜久井町キャンパスの入り口 2024年撮影

 話しが先走ったのでもとに戻して、わが社の卒論生の許斐さんが八方手を尽くして山田 眞先生に連絡したところ、資料を貸してくださるということになって彼女が受け取りに伺いました。それは昨年六月中旬でしたが、山田先生は四時間近くも丁寧に説明してくださったそうで、さらに紙版の資料とデジタル資料とを貸してくださいました。

 それを聞いたとき、迂生は相当に驚きました。だって早稲田大学の学生ならいざ知らず、初対面のどこの誰だか分からない学生にそんなに親しくあれこれ解説していただき、あまつさえ貴重な資料を借用書もなく貸与してくださったからです。付言するとわたくしは山田先生とは面識はございません。それにもかかわらず、赤の他人の許斐さんが卒論を書けるようにご配慮を賜ったわけです。文字とおりにありがたいことですよね。そこに至る機微についてわたくしには分かりませんが、世界平和記念聖堂の構造設計について知りたいという許斐さんの熱意と至誠とを山田先生が汲み取って下さったとしか思えません。

 こうして山田 眞先生からお借りした資料を用いた分析が始まりました。そうして資料を読み進めるうちにそれらはまことに貴重であり、実に素晴らしいお宝であることに思い至りました。内藤多仲博士の自筆の構造計算書もありましたし、建築家・村野藤吾が内藤先生に宛てた自筆の手紙もありました(でも、その手紙は達筆すぎて読めません)。それらの大切な資料を早稲田大学では大事に保管していたのですね。とても感激しました。

 ということで内藤多仲博士が世界平和記念聖堂をどのように構造設計したのかがほぼ分かりました。内藤先生は1923年竣工の日本興業銀行を設計して以来、構造設計の実務に従事して精通されていたので、この聖堂の構造計算書はかなりあっさりとしたものでした。正直に書くとこれだけ?っていう感じでした。しかしそこには地震動によって建物に作用する水平力をどこにどのくらい分担させるかという卓抜した構造計画があったのです。それは豊富な経験からくる技術者としての直観と知恵ということだろうと思います。

 ちなみに聖堂本体の身廊部分は水平震度0.25(建物自重の0.25倍の大きさの水平力が作用すると想定)で短期許容応力度設計されていました。建築基準法が発布されて水平震度0.2で許容応力度設計することを義務付けたのが1950年です。内藤先生が聖堂の構造設計をしたのは1949年以降ですから、新しい基準法の水平震度が0.2になること(それ以前の市街地建築物法では水平震度0.1だった)はご存知だったろうと思います。その数値よりも25%増しの地震力を想定したのは内藤先生の経験から来る判断だったのでしょうね。

 -----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----

 こうして許斐茉莉さんは無事に卒論を執筆できました。全くもって資料を貸与して下さった早稲田大学名誉教授・山田 眞先生のおかげです。そこで卒論発表も終わって春が間近に迫った頃、お借りした資料の返却方々、御礼と卒論の報告とを差し上げるために冒頭の喜久井町キャンパスを訪いました。内藤多仲博士の遺産が保管されている山田先生の研究室は内藤記念館にありました(したの写真3)。


写真3 早稲田大学喜久井町キャンパスの内藤記念館 2024年撮影

 ここで余話ですが、東大の内田祥哉先生(故人)のお弟子である松村秀一先生(建築構法学、甲斐芳郎さんと同級)が東大建築学科を定年退職後に早稲田大学に移られたのですが、その研究室がなんとこの建物内にあります。松村先生が2024年の木葉会(東大建築学科の同窓会)の名簿に載せた随筆「100年前の同窓会」によると上の写真の内藤記念館は1957年竣工で、意匠設計は早稲田大学教授だった明石信道先生で構造設計は内藤先生ご本人ということです。なおわたくしがここを訪れたときには松村先生はお留守でしたので、お会いできずに残念でした。

 さてこの内藤記念館ですが、鉄筋コンクリート構造の三階建てのように見えますね。正面に幅広の鉄砲階段(踊り場のない、一直線の階段のことです)がついていて、二階からアクセスするのが特徴でしょうか。この階段の左側にはシャッターが降りていましたので、一階は実験室のような用途だったのかと想像します(松村先生の随筆にもそのように書いてありました)。

 既述のように山田先生とは初対面でしたが、とても気さくに和やかにご対応いただきました。ありがたいことでございます。予想した通りにとても誠実で親切なかたであることがすぐに分かりました。この建物の二階に「内藤名誉教授研究室」という名札のお部屋があって、そこに内藤先生の遺したお宝類が山のように保管されていました。それを見た瞬間は息を飲みましたな、こりゃあ、すごいぞって。初対面だというのに迂生があんまり嬉々として目を輝かせているものだから、山田先生もさすがに呆気にとられたかも知れません、どうも失礼いたしました。

 それらの貴重な資料類は山田先生によって丁寧に分類されて机の上とか本棚とか書類入れとかに置かれていました。そして山田先生はそれらの(多分、代表的と思われる)資料を一つずつご説明くださいました。そういうお話しはわたくしにとっては全てがとても興味深く、いやはやこれはすごいところに来たものだと感激もひとしおでございます。山田先生がまたものすごく博識でいらして、次々に出来事とか人名とかがポンポン飛び出して参ります。でもノートをとったりするヒマはないですから、ハアハアなるほどそうですかなどと生返事をしているあいだに次の話題に移ってゆきます。

 そんな感じで約二時間、山田先生のお話しを伺うことができて迂生にとっては至福の時間となりました。でも、同行した許斐さんにとっては多分、チンプンカンプンだったのではないかとちょっと気の毒に思いましたが、まあ、仕方ないか…。最後にこの部屋に掛けてある内藤先生の肖像画の前で山田先生とご一緒に撮ったのが下の写真です。


写真4 内藤名誉教授研究室にて 山田眞先生と 2024年撮影

 山田 眞先生にはお忙しいなか、どこの馬の骨とも知れぬ者どものお相手をしていただき誠にありがたくかたじけのう存じます。お話しされたところでは、内藤多仲博士の遺した資料類をまとめたご本を執筆中とのことで、いずれ拝読できるのを楽しみにしております。でも百年近く前の紙の資料はパリパリになっていたりするのでその扱いは大変でしょうし、膨大な資料を整理して関連づけるのも根気のいる作業だろうと思います。そのご努力には本当に頭が下がりました。

 内藤名誉教授室には、ちょうど百年前(1924年)に内藤先生たちが催した帝国大学建築学科の同窓会の様子を描いた巻物が残されています。前述した松村先生の随筆「100年前の同窓会」にそのことが書かれていて、そういうものの存在を初めて知ったのですが、その現物を拝見してまたもや腰を抜かしました。

 それはクレヨンか色鉛筆か分からないのですがとにかく綺麗に着彩されたユニークな絵でして、それが色鮮やかに目の前にあるのですよ。とても百年前に描かれたものとは思えませんでした。その巻物には水墨画のように墨だけで描いた線描画なんかもあって、とにかく楽しげなんですね。今と違ってネットもなければテレビもない、ラジオすらまだなかった時代に先輩たちがどうやって楽しんでいたのかが垣間見られて、いとおかしゅう存じます。なおこの巻物の一部は山田先生から許可を得て写真に納めましたが、山田先生のご著作が世に出たらいずれ公開しようと思いますので、しばらくお待ちください。

吉報きたる (2024年2月29日/3月2日)

 ことしは四年に一度のうるう年なので2月29日があります。一日余計にいただいたという感覚ですが、だからと言って特段、嬉しいということもないですなあ。だんだんと陽が伸びてきて春の到来が待ち遠しいのは確かですが、それに連れて花粉の攻撃が激しくなるのは御免被りたいと願っています。

 そんな二月晦日に吉報が届きました。昨年の八月末に申請したJSPS科研費の基盤研究Cがめでたく採択されました。いやあ、やっぱり嬉しいです。今までは実験の実施を主体として研究計画調書を書いてきました。でも今回の申請では、我が社に蓄積されてきた実験の結果を今一度見直して精査することから始めて、マクロ・モデルの創出とか有限要素解析やばね系モデルを用いた骨組解析などの解析を前面に出した書きっぷりといたしました。

 いつも書いていますが、わたくしはやっぱり実験研究者として(多分、この学界では)認識されているでしょうから、誰もやったことのない実験をするんだ〜という気迫(?)と新規性とによって今までの科研費は採択していただいてきたように思います。そういうウリを今回の申請では奥側にしまいましたので、大丈夫かなあという不安は多少ありました。

 採択された研究課題名は『曲げ降伏破壊から軸崩壊に至る鉄筋コンクリート柱梁接合部の破壊機構の究明』というもので、このテーマについては手前味噌ながら迂生は先端研究者のひとりだろうと自負します。ですから、審査される方がこの課題の重要性を納得してくださればたぶん採択されるだろうなとは思っていました。とは言え科研費では競争相手も多いですし、個々の審査者の判断に依存しますので、採択していただいたことを嬉しく思いますし、とても感謝しています。

 ということで、2024年度から三年間、さらに研究費をいただけることになりました。このお陰で本学の定年まで自分のやりたい研究を継続できますので、ありがたいことこの上ないです。また、最近の本学では科研費のような外部資金への申請および獲得実績を基本研究費の配分額に反映させるという(本気かって思うのですが…)方針がとられ始めましたので、それに対しても安心できます。

 明治大学の晋沂雄准教授には引き続き研究分担者として一緒に研究を担っていただきますので、どうぞよろしくお願いします。あとはわが社の学生諸君がどのくらい積極的にこのプロジェクトに参加してくれるかにかかって来ます。ぜひとも、創意工夫を持ってこの研究の共同研究者として参画してください。一緒に研究に精を出してくれることを期待します。

オペレーションの無理と無知 (2024年2月27日)

 本学の前期・大学入学試験がきのう終わりました。毎年この時期になると再認識するのですが、あれだけ多数の問題を短時間に解くことのエネルギーたるや極めて特質すべきものがあると思います。受験生の皆さんはこの試験に自分の将来のかなりの部分がかかっていることをよく理解していて、青年だけが持つ瞬間的な爆発力を発揮することによってそれが可能になるのだと、老年に差し掛かったおのれは思います。

 そういう入学試験ですが、わたくしが仰せつかった仕事では滅茶苦茶にストレスがかかりました。特段変わった作業ではなく、入試業務では決まり切った仕事ですが(こう書くと大体お分かりでしょう)、マニュアルを一見したときからそのオペレーションが劣悪で時間内に完了するのは明らかに不可能でした。作業量に比して人員が少なく、それに反してやることは膨大なため、オペレーションには無理がありました。そのことを事前に担当者に話したのですが、とにかくマニュアル通りにやってください、との一点張りで仕方ありません。

 ということで現場に出向きましたが、案の定、時間内に作業を完了できずそこから先はマニュアルから外れますのでその都度の判断になりました。いやあ、こんなことでいいんでしょうか…。入試はたいへんに複雑な業務ですから、その詳細を構築して差配する関連部署の方々のご努力には本当に敬服します。でも、机の上で計画した通りに現場が動けるかどうかについては、ちょっとばかり想像力を働かせていただければ、と思うんですよね。今回の件は、現場で担当者がどのように動き、そのためにはどれくらいスペースと時間とが必要なのかについて、計画立案者は残念ながら無知だったと言わざるを得ません。

 こんな感じで今回は後味の悪い入試業務になりました。受験生諸氏にとっても迷惑だったかも知れません(とはいえ、彼女/彼らから直接に苦情を言われたわけではないので、これは想像です)。当局には今回のオペレーションの不具合についてお話ししましたので、今後、改善されることを切に希望します。

上野にて ―前川國男の東京都美術館―(2024年2月19日)

 Long, long time ago 宇都宮大学に勤めていたころ、東北新幹線の始発駅はまだ上野でした(現在は東京駅です)。その頃はまだ大学院での研究の続きといった感覚で青山博之先生および小谷俊介先生のもとで実験研究を行なっていたため、宇都宮と本郷とを足繁く行き来していました。宇都宮大学の学生たちを連れてきていたため大体は彼らを乗せて車で通いましたが、何かのついでに都心で会議があったりすると東北新幹線を利用しました。

 そういうときに日が暮れてから本郷の青山研究室を出ると、東大構内を東へとずんずん進んで二食と東大病院とのあいだを通り過ぎて坂を下ると、やがて不忍池[しのばずのいけ]に行き当たります。さらにそこを突っ切って弁天堂のわきをすぎるとまた台地上に登り、しばらく行くとJR上野駅にたどり着きます。ここまで歩いて20分くらいだったように記憶しますが、夜は人気がなくて寂しいところということしか憶えておりません。わたくしにとって上野はかようにうら寂しい雰囲気の街だったわけです。

 しかし言うまでもなく上野公園には動物園もあれば美術館もあるしホールとか博物館もあるので、一般には祝祭の地として認識されていることでしょう。でも、わたくしがそういうハレの場所に行ったのは大学生以前の頃まででして、大学教員になってからは全く寄り付かなかった場所でした。

 ということで先日、晴れた日に何十年振りかで上野公園に行ったのですが、完全にお上りさん状態と化してしまいました。そもそもJR上野駅の公園口のまん前に東京文化会館が建っていた(写真1)ことさえ忘却していました。上野駅公園口の正面を通っている道路は迂生の記憶では車がツーツーと通過できる代物でしたが(信号機のある横断歩道があったはず)、いまは駅改札の正面で分断されてその左右にロータリーが設けられていました(写真2)。歩行者は今じゃ駅改札を出ると自動車を気にすることなく上野公園へ向かって旅立てるわけです。すなわち改札を出てあたりをキョロキョロと見渡しながら物珍しげに歩き出すお上りさん(って、わたくしです)には優しい都市構造に生まれ変わっていたのです、よかったあ〜。


 写真1 JR上野駅公園口の正面にある東京文化会館(前川國男設計)


 写真2 JR上野駅とその公園口の北側に設けられたロータリー

 この日、上野を訪れたのはうちのお上さまが東京都美術館で開催されている「印象派 モネからアメリカへ ウスター美術館所蔵」展を見たいと宣ったためにそのお供でくっついて行ったのです。正直に言いますが、わたくしは印象派の絵画に特段の興味はございません。さらに言えば、この展覧会のタイトルをよく見ると気がつきますが、印象派と銘打ってはいるものの展示の主題はアメリカに伝播した印象派風の絵画にあるわけでして、余計に食指は動きません(ファンの皆さん、ごめんなさい)。



 そんなに興味がないのになぜ行ったのかと言えば、それは展示会場そのものに興味があったからでございます。東京都美術館は前川國男の設計で1975年に開館し、2010年から2012年に大規模改修された建物です。改修前のこの美術館には多分、行ったことはあると思いますが(全く記憶はないけど…)、改修後に行くのは初めてです。この建物は地上2階建て(対して地下3階)の鉄筋コンクリート構造で、展示棟の地上部分は耐震壁フレーム構造で地震力に抵抗します。台地上にあることから地盤はそこそこよいらしくて(N値15〜30の砂層)直接基礎で支持されています。ちなみに構造設計は横山不学先生(よこやま・ふがく、昭和3年、東京帝国大学・建築学科卒業、前川國男は同級生でそのほかに市浦健や谷口吉郎がいる)の設立した横山建築構造設計事務所です。

 この美術館の特徴は下の写真3で分かるように、四つの公募展示棟が雁行して建っていて、奥に向かって自然と歩み入ってゆくようなアプローチにあります。いやあ、なんだか知らんけどワクワクするなあっていう感覚ですよ。そこはエスプラナードと呼ばれる広場(写真4)で、さらに進んでゆくと下に降りる階段・エスカレータがあって、地下1階に設けられたサンクン・ガーデン(中庭)に導かれて美術館のエントランスへと誘われます(写真5)。そこに至るまでのシークエンスはさすが前川建築だけあって秀逸ですので是非、ご自分で体験してみてください。


 写真3 東京都美術館の入り口(前川國男設計)


 写真4 東京都美術館の正門から続くエスプラナード(広場)


 写真5 地下1階の中庭と美術館のエントランス(右側)

 ということで美術館に入り、企画展示室に行ってお目当ての絵画を見て参りました。平日の朝だというのに相当に混んでいて、特に入り口では人々が群れていて気持ちよくないので(三密は回避すべし!)、そういうところはサッサと通過してずんずんと進みます。でもそうすると予想よりも早くアッという間に見終わってしまいました(お上さまからは「アンタ、なに見てんのよ」って言われました、はいっ建築を見ていました)。印象派展とはいっても目玉はモネの『睡蓮』だけみたいで、それも思いのほか小さな淡い絵画でした(猫に小判とはこのことか、あははっ)。

 東京都美術館は上述のようにエントランスを含めてかなりのボリュームが地下にあります。今回の「印象派」展をやっている企画展示室や公募展示を行う四つの展示室にアクセスするためにはこの地下1階に広がるロビーやホワイエを介するのですが、そこには吹き抜けのような空間の抜けがありません。古い建物ということもあり階高が低く、脇には中庭があってそこから光が差すとはいってもやはり圧迫感は拭えないように感じました。でも写真6のようにロビーの天井は丸みを帯びたボールト状になっていて、素敵な照明が柔らかな光で照らすことでそういう圧迫感をいくらか緩和してくれます。そういうところはやっぱりよく工夫されていると思いますね。


 写真6 地下1階のエントランス・ロビー


 写真7 東京都美術館の東側の小庭からサンクン・ガーデンおよび公募展示棟を望む(右側は中央棟)

 早々に印象派展を見終わったので、家内との待ち合わせ時間にはまだ一時間半くらいたっぷりとあります、よしよし。そこで1階のアートラウンジでコーヒーを飲んでひと休みしてから、建物の周囲をグルっとひと通り見て回りました。写真7は美術館の東側の小さな庭に立って一段下がった中庭越しに公募展示棟を見やったところで、右側の灰色の水平線の部分は1階がアートラウンジで2階はレストランです。東京都美術館の構成を如実に表すのがこの写真だと思ってひとり気に入っています。ただこの小さな庭は敷地内からは階段でしかアクセスできないので、車椅子の方がここに来るには美術館の外に出てぐるっと回る必要があります。2012年の大規模改修によって主要な場所にはバリア・フリーが施されましたが、まあここは仕方ないか…。

 外壁は前川國男お得意の打ち込みタイルで化粧されています。それに対して地下1階に相当する中庭の外周はコンクリートのはつり仕上げになっていてそこは白っぽく見えます(写真5および8)。そういうコントラストにも前川の心配りが為されていて、芸が細かいですよね。なお写真8の左端に写っている企画展示棟ですが、2012年の大改修時に地上から上の部分はすべて取り壊して新しく建て直されたそうです。

 企画展には地下1階から入りますが、展示に従ってエスカレータによって段々と上に導かれ、最後はまたエスカレータで1階に降りてちょっと目を休めてから(写真9)、さらに地下1階に降りて元に戻るという順路になっています。その帰路の部分には特段の展示もないのでちょっと迂遠な感じがして、そこだけ間延びした空間のように思いましたが、皆さんはいかがでしょうか。


 写真8 左から企画展示棟、中庭および公募展示棟(正面奥が正門)


 写真9 企画展示棟1階 右側のエスプラナードに面してガラス張りになっている

 こんな感じで前川國男による東京都美術館の空間を堪能しました。いつも書いていますがやっぱり巨匠と言われるひとの建築はひと味違うことがよく分かります。建築学科の学生諸君にはよく話すのですが、見てくれのデザインにとらわれずに空間を体験しその構成を理解すること、それがよい建物を設計するためにはいちばん大切なことだと思います。

 改修後の東京都美術館の模型がアートラウンジに展示されていましたので、以下の写真10に載せておきます。実はこの隣りには改修前の模型もあって、それらを比較するのはとても興味深かったです。現地を訪れたらこちらもぜひご覧下さい。


 写真10 東京都美術館(前川國男設計) 大規模改修後の模型

サントリーホールにゆく (2024年2月14日)

 春のような暖かさになりました。それは嬉しいのですが、今日から花粉ちゃんが本気になって飛び回り始めたようでして、急に具合が悪くなりました。いやあ、たまらんですわ、ホント。

 さて、先月、東京都心にあるサントリーホールに行きました。地下鉄の六本木一丁目駅あるいは溜池山王駅から歩いて10分かからないくらいのところにあります。東京生まれの東京育ちなのに、サントリーホールに行くのは(おそらく)初めてです。そういう華やか(そう)なところにはもともと縁がない人種ですから、わたくしは。

 女房がオーケストラでヴァイオリンを弾いていた頃には(オケの拠点の関係で)渋谷のオーチャード・ホールや初台の東京オペラシティが多かったので、わざわざサントリーホールまで行かなかったのかも知れなません。いずれにせよこんな都心には滅多に行かないので、サントリーホールの隣にテレビ朝日があることも今回初めて知りました。

 下の写真はアーク・カラヤン広場越しにサントリーホールの正面玄関を撮ったもので、金色の円が重なったオブジェは「響」と名付けられています。中央右の円形階段状のところにカラヤン広場の赤色のプレートがあって、その右側がテレビ朝日です。大きなアーケードがかかっていて雨降りのときには便利です(この日はしばらくして小雨が降り出したので助かりました)。






 よく憶えていませんがクラシックのコンサートに行くのはいつ以来でしょうか。二十年近く行っていなかったような気がします。とはいえ、それ以前も自分でチケットを買うことはなくて、女房のオケのコンサートでチケットが売れ残ると招待券が出ることがあってそれをもらって出かけたり、亡き母のお供でオペラに行ったりしていたので偉そうなことは言えませんけど…。

 ということで今回、多分生まれて初めて聞きたいクラシック曲を自分自身で選んでコンサートのチケットを買いました(注1)。この日の演目は、ときどきこのページで書いているブルックナーの交響曲第六番です。ことしはブルックナー生誕二百年の節目なので、ブルックナー・ファンの多い日本では(英国やフランスでは逆にそのファンは少ないらしい)そのコンサートが多くなっていると思われます。指揮者は尾高忠明さん、演奏は大阪フィルハーモニー交響楽団でした。

注1;厳密に言えば、例えばホルストの『惑星』(全曲)とかスメタナの『わが祖国』(全六曲を通しての演奏)は聞きたかったので、女房に頼んでチケットを購入したことがあります。

 尾高忠明さんの指揮は多分、幾つか聴いてきたと思うのですが、なんせ上述のように余ったチケットをタダでもらっていたので、どこで何の曲を聴いたのかさっぱり憶えていないんだなあ、これが。手元には彼が指揮した東京フィルハーモニー交響楽団のブルックナー交響曲第七番のCD(1987年録音)があるのですが、そんなに感動した覚えもありません(尾高さん、ごめんなさい)。いずれにせよ彼がまだ若い頃の演奏でしょうから、喜寿に近い年齢に達した今では心境なり曲の解釈なりが変わった可能性は大いにあると想像します。

 サントリーホールは下の写真のようにステージの周囲を客席が取り囲む形式でした。音響的にはどうなんでしょうかね…。そしてわたくしは舞台正面の左側、前から二列目に座りました。でも開演になってもその島の最前列には座っている人はほとんどいませんでしたし、わたくしの両隣も空席でした。ネット予約したときにはもうほとんど埋まっていたのに、なぜなんだろうか…。





 迂生が座ったのは、舞台の縁に配置されたファースト・ヴァイオリンの第三プルトのちょうど前あたりで、指揮者の尾高忠明さんがちょっと左を向くとそのお顔がよく見えました(上の写真の手前の右端に譜面台が立っていますが、ここにコンサート・マスターが座ります)。ただ、管楽器やティンパニは全くといってよいくらいに見えなくて、その点はかなり残念でした。ホルンの金色とかオーボエの一部とかがかろうじて見えました。

 大阪フィルの演奏を聴くのは初めてですが、ヴァイオリン奏者に女性が多くてビックリしました。指揮者の右隣に座ったヴィオラの首席奏者(男性)がよく見えたのですが、すごく体を揺すって演奏する方でその直接音がよく聞こえましたし、とにかく熱演なのには驚きました。

 ブルックナーの第六番はその交響曲のなかでは人気がないことになっていますが、その一方でこの曲を熱烈に愛するファンが多いとも言われています(迂生もそのひとりに数えられるのかも、知らんけど)。なにが真実なのかは分かりませんが、この日の演奏会では八分くらいの入りだったので、それなりに関心を引いたのではないかと思います。もちろん尾高忠明さん個人のファンや大阪フィルのファンもいるのだろうとは思いますが…。

 ということで、この日の演奏の感想はまた別に書こうと思います。

真空時間にやること (2024年2月13日 その2)

 真空時間にどっぷり浸かっているのですが、この貴重な時間を使って溜まっていたレポートの採点を一気に片付けました。三年生後期の「構造設計演習」は二コマ続きの演習科目で、通常は高木次郎教授と折半して担当していて、前半は高木先生が鉄骨構造を後半はわたくしが鉄筋コンクリート構造を対象としています。ところが今年度は彼がサバティカルでお休みだったので、半期通して迂生単独で授業をやりました。さすがに鉄骨構造の設計をやるのは大変なので、全部鉄筋コンクリート構造です。

 このような経緯から、例年の二倍の量を負担しないといけなくなって、今までやっていた新築設計の課題だけでは足りません。そこでウンウンとうなりながら考えた結果、学生諸君が自身で設計したRC建物を耐震診断してもらったり、兵庫県南部地震(1995年)で倒壊した具体の建物を耐震補強するにはどうしたらよいか考えてもらったり、磯崎新のアートプラザのスパン26メートルの大梁(千葉大学・村上雅也先生が構造設計した物件!)の安全性の検討などを課しました。

 ということでそれらのレポートを採点しようとしたのですが、まず最初に自身で模範回答を作らないといけません。それがやってみると思いの外に大変でして、学生諸君のレポートを見ながら、ああそうだね、それも検討しないといけないなあとか気がつきながら、わたくしなりの回答を作るのに結構な時間を費やしました。そうして学生諸君のレポートを採点しながら、これらの課題が結構、頭を使うよい訓練になっていることに思い至りました(われながらいい課題だなあとか自画自賛しているわけです)。

 そうして、これらの課題にさらに肉付けしてレベルアップすれば、大学院科目の演習にピッタリなような気がして参りました。いやあ、いいアイディアだなあと今、悦に入っているところでございます、はい。

真空時間 (2024年2月13日)

 長くてハードな学事ウィークが終わると、わが建築学科にはつかの間の静寂が訪れます。論文執筆と発表に精魂疲れ果てたのかどうかは知りませんが、研究室には学生諸氏の姿もなく閑散とします。そういう真空時間のなかで、もちろんわたくしも一息入れてホッと安堵の気分に浸ります。

 わが社の今年の卒論生たちは久しぶりに豊作だったことを嬉しく思います。エンジンがかかるのが遅すぎというひともいましたが、最後はかなりしゃかりきになって研究が一気に進んだように見えました。でも、ここまでやって来てやっと真理の探究のとば口に立てたのにこれで卒業してしまう、というのもなんだか勿体無いように思いますけどねえ(本人たちはそうは思わないのでしょうが…)。

 発表練習を三回やったのも久しぶりでした。でも、その効果は如実にあったようで四人とも立派な発表ができました。ちゃんとポインターで指して説明できましたし、スライドも分かりやすくて良かったと思います。やっぱりちゃんと練習しないとダメということを再認識しました。

卒業設計を採点する (2024年2月7日)

 今朝のテレビ・ニュースできょうが「北方領土の日」であることを報じていました。北方四島が日本固有の領土であることは歴史的に正しく、1945年8月の終戦以降にソヴィエト連邦が北方四島に侵攻して不法に占領したという事実は覆しようがありません。ひどい話しですが、そういうことは世界中で未だに厳然として存在しており、人類の変わらない愚行にはただ驚くばかりです。

 さて月曜日に降った雪も少しずつ溶けてきましたが、先ほど国際交流会館に行って卒業設計の採点をして来ました。今年は17名の学生諸君が作品を提出しました。いつも書いていますが、図面(A1サイズ)の枚数がどんどん減って来ていて、ことしはなんと2枚!っていうひとが現出いたしました。6枚貼ってあると多いと感じるくらいのレベルに成り下がっていて、こんなことで果たして本当に宜しいのでしょうか。

 建築界では図面に表現したことが全ての情報です。それを読み手に伝えられるように設計者の意図を表現することが求められていて、建築学科ではそのための教育を四年間に渡って施しているつもりです。模型はわりとよく出来ているひとが多くて、それはよいこととは思うのですが、いずれにせよ図面が第一であることを忘れないで欲しいですね。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU卒業設計採点2024_国際交流会館20240207:IMG_2729.JPG

 ことしはやじろべいのようにゆらゆら動く椅子を設計して、実物を木工製作した学生さんが現れました。物理的によく考えられていてそれ自体は興味深かったですし、なによりも実際に座ってゆらゆらを体験できる実物を展示したインパクトは大きかったと思います。でも…、これって建築学科の卒業設計としてはどうなんでしょうか。家具職人を要請する職業学校の卒業制作とか、インテリアデザイン学科の卒業設計ならばいいのでしょうが、建築学科の成果としてはやっぱり物足りなく思いました。

 ということで今年も辛口のコメントになってしまいました。図面に全てを語らせること、そして卒業設計としては図面が9枚程度以上は必要であることを履修者にはそろそろ事前にアナウンスしたほうがよいかと思うのですが、いかがでしょうか。

発表会いろいろがスタート (2024年2月5日)

 今週は月曜日から木曜日まで修士論文、修士設計、卒業設計および卒業論文の発表会が開かれる学事ウィークです。この日を目指して研究活動に勤しんてきた学生諸君にはその集大成としての発表の場ですからベストを尽くしてほしいと思います。

 いま、大学院・構造系の発表が終わって研究室に戻ってきました。二年間の成果をわずか11分で説明しないといけないのですが、フツーに考えればそんなことは無理な話しですよね。そこで何をどのように発表するのか知恵を巡らして欲しいわけです。ところが、大方の発表は自分がやったこと全てを発表しようとするらしく、ものすごい早口でさらにはスライドを指して説明することもせずに突っ走っちゃうんですね〜。それじゃ、分からないし伝わらないってば。

 そうすると質問するって言っても、当たり障りのない簡単なことを聞くだけか、そうじゃないといくらやりとりしても議論が噛み合わないという事態に立ち至って、お互いに不幸を味わうことになります、あぁいやだな、ホント。もっと工夫して発表の題材を吟味し、スライドを作り込んで指しながら説明する、という基本をしっかり守って欲しいよなあ…。

 そんなふうに落胆して正門脇の小講堂から外に出ると(正午過ぎです)、ものすごく寒くてすでに雪が降り始めていました。ありゃ、天気予報よりもかなり早い降り出しだなあとか思いました。7階にある研究室から撮ったのが下の写真です。牡丹雪のように一つひとつの雪片が大きめなせいか全体が真っ白になっていて、普段は見える京王線の高架が全く見えませんでした。ひどくならないうちに早めに帰りたいとは思いますけど、どうだか…。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU雪の南大沢20240205:IMG_2726.JPG

十年以上活動して (2024年1月30日)

 今朝は暖かくなりましたね。いいお日和だったので調布駅まで歩きましたが、梅の花が咲き始めているのに気がつきました。そろそろ花粉も飛び始めるみたいで、そうと聞くだけで鼻がムズムズして参ります…。

 さてこの一月末に、日本建築学会から『原子力施設における建築物の耐震性能評価ガイドブック』がめでたく発刊されて、建築会館ホールで講習会を開きました。原子力施設の建物を主な対象としていることもあって一般の関心はあまり引かないかも知れません。それでも講習会には現地参加者が七十名程度、オンライン参加者が五十名程度いてまずまずの入りだったと思います。わたくしはこの耐震性能評価ガイドブックを作成する小委員会の主査を務めたので、講習会では司会を仰せつかりました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:AIJ原子力_原子力施設における建築物の耐震性能評価ガイドブック_表紙20240125.jpg

 この耐震性能評価ガイドブックの表紙はなんだかすごいピンク色でして、講師の皆さんとなんでこんな色なんだろうねって話していました。日本建築学会の規準や指針と較べると本書は格下の出版物なのでサイズもA4版で大きいです。

 このガイドブックですが、完成するまでに十数年を要しました。そもそもの発端は2007年の中越沖地震で東京電力の柏崎刈羽原子力発電所において設計地震動を超える大きな地震動を受けたものの主要な建物の健全性が確保された、という事実にあったようです。それ自体は慶賀すべき事柄でしょうが、じゃあ原子力発電施設の持っている耐震性能の“真の実力”って一体どれくらいなのよ、という疑問がもたげて参りました。

 そこで(迂生の記憶では)日本電気協会に次期耐震設計規定策定準備作業会というのが設置され、久保哲夫先生(当時東大教授)を主査としてわたくしや前田匡樹さんが委員になって、原発建物の耐震性能評価についての現状や疑問点を洗い出すという作業を行いました。その報告書は2009年に日本電気協会から出されています。

 その後、日本建築学会に原子力建築運営委員会が設置されたこともあって(初代主査は瀧口克己先生)、この作業を実質的に建築学会で引き継いだということになります。2012年頃の小委員会の議事録を見ながら「耐震裕度」という表現を原子力ムラの人びとが使っていたことを思い出しました。でも建築構造分野においてさえ「耐震裕度」という言い方はポピュラーではなく、どう考えてもムラ特有の方言としかわたくしには思えませんでした。

 そこで「耐震裕度」ではなくて「耐震性能評価」という表現を使うようにムラの皆さんに求めましたが、根強い抵抗にあったこともまたよく覚えています。このガイドブックを電気協会から発刊するのであれば迂生もそんなに強くは言わなかったと思うのですが、今回は個々の研究者の集合体である日本建築学会から出すわけですから、そういうムラ独特の用語を使うべきではない、というのが迂生の判断でした。そういうわけで本書のタイトルを「耐震性能評価ガイドブック」にしてもらった次第です。

 本ガイドブックの内容については触れませんが、耐震性能の具体の明示法として確定論的手法のほかに確率論的手法も導入しているのが一般建築とは異なる点です。その点では、今後、一般建築でもその耐震性能を確率論的に評価して社会に分かりやすく説明する際には参考になるかと思います。

 このように建築学会のなかで十年以上も活動してきた成果を世に出すことができてとても嬉しく思います。執筆したのは電力会社や大手ゼネコンのエリートたちですから、出来がよいのは当然かなと思っています。でも、かつての議事録などにすでに鬼籍に入った方のお名前を見い出したとき、ここに至るまでに結構な年月を費やした事実にも気がつきました。わたくしのお役目もそろそろ終盤に近づいたように思います。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:むつ市リサイクル燃料貯蔵施設振動試験2013:CIMG3312.JPG

 すでに亡いS氏とともに訪れた下北半島で恐山を写したのが上の写真です。もう十年以上前の夏でしたが、真夏とは思えないくらい肌寒くて恐山が荒涼とした感じに見えたことをよく憶えています。実は今、ショスタコービッチの交響曲第八番(ゲルギエフ指揮、マリインスキー・オーケストラ)の第一楽章を聴きながらこれを書いているのですが、おどろおどろしい曲の感じがこのときの印象にぴったり一致するのが奇遇です、レクイエムかも…。

御茶ノ水を散策する (2024年1月26日/28日)

 ことしの日本建築学会大会を明治大学駿河台キャンパスで開催することは以前に書きました。わたくしはその大会を運営する委員会の代表を務めていることから、先日、その委員会を現地で開くことにして御茶ノ水に行ってきました。高校生や大学生の頃には御茶ノ水にはよく行きました。当時住んでいた新宿区百人町からは大久保駅で黄色い電車に乗って一本で行けますし、文京区本郷からは言うまでもなくすぐ近くです。駿台予備校があって高校生の頃には模試とか夏期講習で通いましたし、建築学生にとってはレモン画翠とか南洋堂書店が馴染深いですから。

 大学四年生になって鉄筋コンクリート構造の研究室に入ってからは建築模型を作らなくなりました。それでもここに来るとやっぱり懐かしいんですよね、レモン画翠が。まだあるかなって思いながら昔の記憶を辿って歩くと、その場所に今もちゃんとレモン画翠は建っていました、よかったです。このお店で、パースを着彩するための紙とかインレタとか模型の材料などを買ったものでした。


 

 さて、この夏の建築学会大会の懇親会を神田明神ホールで開くことになったので寄ってみました。JR御茶ノ水駅を降りて聖橋を渡るとすぐです。聖橋(右上の写真)は分離派建築会を約百年前に結成した建築家・山田守が設計しました。鉄筋コンクリート製の橋ですが、その当時の表現主義的な丸みを帯びた曲線でデザインされているのが特徴です。左上の写真は聖橋の下を通る国道17号わきの歩道ですが、その部分のデザインも同じモチーフで統一されていることが分かります(ここも聖橋の脚部の一部です)。

 神田明神は本郷台地の端に立地していて、その北側は谷底に落ちてゆきます(中沢新一のアース・ダイバーの世界です)。御茶ノ水駅からのアプローチは下の写真のように、大通りに面して鳥居が建っていてビルの谷間のような細い参道を通って入ってゆきます。平日の午後早い時間でしたが、参拝する人やお土産?を買い求める人たちが群れていて驚きました。神田明神ホールはガラス張りの新しい建物で、約三百人を収容できるようです。懇親部会ではクロークのスペースが狭いことを気にしていますが、それを除けばまずまずの条件みたいです。駅から近い都会のど真ん中ですから、それなりの費用がかかるのは仕方ありませんね。でも、あんまり会費を高くすると誰も来てくれませんので、ギリギリのところの値段を設定しましたが、どうでしょうか…。




 すぐ近くに湯島聖堂があるのでプラっと立ち寄ってみました。ずっと東京に住んでいて御茶ノ水も上述のように馴染みのある場所だったにもかかわらず、湯島聖堂を訪れるのは多分初めてのような気がします。左下の写真は孔子廟(大成殿)で、説明板には1935(昭和10)年に鉄筋コンクリート造で再建されたとありました。右下の入徳門は1704年の建立です。江戸時代の学問の中心に相応しく、その学問場に入るための門に「入徳」という名前を付けたのでしょうか。

 

 そろそろ明治大学に行こうかと思って歩き出すと、緑色の丸っこいドーム状の屋根が見えてきました。それで、ここにニコライ堂があることを思い出しました。看板を見ると正式の名前は東京復活大聖堂というそうで、国の重要文化財に指定されています。うろ覚えですがこのドーム屋根の部分はジョサイア・コンドル先生が設計だか監修だかをしたのだと思います。この建物も有名ですがしげしげと見たのはこれが初めてですし、なかには入ったことがありません(この日ももう時間がなかったので入れなかった)。いつでも行けると思うとなかなか行かないものですな…。




 ということでここから明治大学駿河台キャンパスに向かい、そこのグローバルフロントという建物の17階で大会委員会を開きました。建築学科の小山明男教授が会議室を確保してくれました、ありがとうございます。ちなみに明治大学建築学科は川崎市にある生田キャンパスが本拠地ですから、この建物に来ることはあまりないそうです。そこの17階から見る都会の眺めは素晴らしかったです(上の写真、左奥が新宿副都心だと思う)。さすが私立大学の雄だけあって都心の一等地に立派な校舎を所有しているなあと感心しました。

 会議が終わって、大会当日は個別の発表会場となるリバティタワーに行って、教室とか講堂などを拝見しました。今回は建築学会大会として初めての高層ビルでの開催になりますので、上下方向の移動にどのくらい時間がかかるのか読めません。リバティタワーではエレベータのほかに17階まではエスカレータが設置されているので、試しに17階から1階までエスカレータに乗って立ったままで降りてみると六分くらいで下まで行けました。これくらいならまあいいんじゃないかなと思いましたが、いかがでしょうか。

 そのエスカレータを降りてゆくあいだ、窓ぎわのところどころに小ぢんまりとしたヴォイド(吹き抜け)があることに気がつきました。よく見るとそこは学生諸氏のための休憩とか打ち合わせとかのスペースになっていました。それが下の写真です。気持ち良さそうに学生さんが横になっていましたぞ。明治大学、すごいですね〜。その壁の脇に「▼ 63.5m タージ・マハル(インド)」とか「▼ 62.2m クイーンエリザベス2世号」等の表示板が張られているのがおもろいです。この場所はそれくらい高いんだぞってことを明治大学の学生諸君に知らしめるためでしょうか…。



 ところで建築学会大会の実行委員会ですが、かつて東京都立大学建築学科の教員だった門脇耕三さん(明治大学准教授、建築構法)や権藤智之さん(東京大学准教授、建築生産)にもその幹事や部会長を務めていただいていて、久しぶりにリアルでお会いしました。お二人ともにそれぞれの大学で大いに活躍していることが分かってとても嬉しかったです。大会の実施に向けて実行委員会のお仕事はこれから段々と忙しくなってゆくと思いますが、何卒よしなにお願いします。

あれから二十九年 (2024年1月18日)

 きのうは兵庫県南部地震が1995年に発生した日でした。このお正月に能登半島地震が発生して、今も救助を求めるひとたちがいるという非常事態は続いていますので、阪神大震災のときのことがいっそう鮮烈に蘇って参ります。

 写真は地震発生から十日目に現地に行って撮影したもので、三宮駅北口の日生ビルです。鉄筋コンクリート(RC)建物の中間部の柱がせん断破壊して軸力を支持できなくなり、その層が潰れて上の階がストンと落ちる形で崩壊しています。いわゆる中間層崩壊ですが、当時、最先端の技術を誇った日本でこんな致命的な破壊が生じると思っていたひとは専門家でも多分、ほとんどいなかったのではないかと思います。わたくしもそのひとりでして、これを自身の目で見たときには心底、驚きました。確かこのちょっと前にアメリカでノースリッジ地震があって、近代的なRCの構造物が激しく破壊されたのですが、その映像を見たときにはこんなことは日本では起こらないよなって(まさしく対岸の火事を見るかのように)思ったことをよく憶えています。でもそれは大きな間違いだったのです。



 ただ冷静に考えれば、新耐震基準が施行された1981年以前に設計された建物であれば、耐震性能が劣っていることは明らかだったので、こういう崩壊が発生してもおかしくはなかったのでしょう。この地震では、神戸の中心街でこのような中間層崩壊を生じた建物が多かったこともあって(神戸市役所の中層市庁舎もそのひとつ)、世間の驚愕を呼んだことと思います。

 いつも書いていますが、人間の知恵とか知識とかは偉大な自然に較べればちっぽけで些細なものに過ぎません。そういう事実を忘れずに、自然に対しては常に謙虚でなければならないという教訓を(少なくとも迂生に)与えてくれた災害のひとつがこの地震でした。

安藤ストリートのほっとする建物 (2024年1月14日)

 調布市仙川に安藤忠雄さんの建築が群立しているストリート(下の地図の都道松原通り)があることを、昨年のクリスマス・イブにこのページでお話ししました。それらのアンタダ(安藤忠雄さんのことをわたくしが大学生の頃にはこう呼んでいた)建築はテクスチャーが統一されて端正ではありますが、街に対しては閉鎖的で冷たい感じがすることを書きました。

 ところがこの安藤ストリートに沿って、それらのアンタダ建築とは異質のテイストを醸し出す建物が建っています。そのことを今回は語りたいと思います。それは下の地図に赤色で示した仙川アヴェニュー北プラザおよび南パティオの二棟です。この二棟とアンタダ建築とのお施主さんはどうやら同じ方のようですが、経緯としてはこの二棟が先に1988年に建設されました。調べてみると設計した建築家は中地正隆さんという、師匠・小谷俊介先生と同級のかたでした。


 中地正隆さんが設計した北プラザ(写真1)および南パティオ(写真2)はコンクリート打ち放しでそこだけ見れば安藤さんと同じですが、この二棟は街に対して広く開いていて懐が深いということがアンタダ建築との最大の違いです。整形な鉄筋コンクリート骨組によってカチッと構成されていますが、ところどころがオープン・フレームになっているので視線の抜けが得られて、建物の奥行きの見通しをよくしています。


写真1 仙川アヴェニュー北プラザの西面全景(左端は安藤忠雄のシティハウス仙川)


写真2 仙川アヴェニュー南パティオの北面全景

 なによりも二棟ともに小さいながらも中庭が設けられていて(写真3・4)、そこに面して北プラザでは喫茶店や飲食店などが、南パティオでは居酒屋(調布では有名な焼き鳥のチェーン店)がそれぞれ構えているので、通りに対して積極的にコミットした設計になっています。道ゆく人びとがふら〜っと入りやすい雰囲気を持っているのです。通り(安藤ストリート)の北側から南下すると冷たい感じの建物群が続くのですが、ここまでくると街に対してあたたか味のある構えを持った建物たちに出くわすので、多分誰もがほっとすることと思います。


写真3 北プラザのオープン・フレーム越しに中庭を望む


写真4 南パティオの中庭から北西を望む(右のガラス面は空き店舗)

 お施主さんがなぜ建築家を中地正隆さんから安藤忠雄さんに代えたのかは不明です。前稿で書いたようにアンタダ建築が建っている敷地はいずれも細長くて不整形なので、道路に面したパブリック・スペースを取りにくかったということはあるかも知れません。しかし安藤さんほどの建築家がそれをできないとは思えませんので、街に対して閉ざした設計は彼が意図して行ったことだろうと考えます。

 先に建てた北プラザと南パティオが持つ居心地のよさを捨てて冷たい硬質な建物群をアンタダに依頼したお施主さんの気持ちがどうにも解せません。下の写真を見ると、お店に続く中庭やピロティ部分に椅子やテーブルを置いて人びとのくつろげるスペースが用意されているのが分かります。こういった些細な小道具が街を活き活きとさせるということにお施主さんは気がつかなかったのでしょうか。残念ですが儲かればいいっていうのを多分、優先させた結果に過ぎないんでしょうけどね…。


写真5 北プラザの中庭から小ホール(中央奥のかまぼこ屋根)を望む


写真6 南パティオの西面(右隣は安藤忠雄の仙川アヴェニューアネックスII

久しぶりに投稿する (2024年1月8日)

 この週末の三連休は自分の書斎に座って過ごしました。日本コンクリート工学会(JCI)の年次論文の締め切りが今日の午後三時で、それへの投稿を目指してM1の藤村咲良さんが論文の執筆を進めていました。正直なところ、数日前の状況を考えると投稿は厳しいかと(ひそかながら)思ったりしました。でも、わたくしの指摘する内容を藤村さんがよく理解してくれて、昨日から一気に進みました。もちろん藤村さんが一所懸命に努力した成果だと思います、ご苦労さまです。

 ということで昨日からメールでの原稿のやり取りが俄然、活性化しました。折に触れて共著者の晋沂雄先生(明治大学准教授)にも原稿を見ていただき、有益な指摘をいただきました、ありがとうございます。その甲斐あって、手前味噌ながらまずまずの論文に仕上がったと思っています。もちろん未解明の問題や課題が残っているのは確かですが、そういうものが明らかになったという点でも今回の論文執筆は有益だったと考えます。

 藤村さんがわが社のフラッグシップたる研究課題に取り組み、その成果である論文を首尾よくJCIに投稿してくれて、ホントに嬉しかったです。思い返すと、わが社の学生さんが第一著者となった査読付き論文は2019年の李梦丹さん以来、五年振りなので、嬉しさもひとしおでございます、はい。これでわが社の研究室活動を少し立て直すことができたような気がします。

 -----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----

 この元旦に発生した能登半島地震では今でも救助を待つ人たちがいますし、その被害の全貌は未だに明らかになっていません。空路も海路も使えずに寸断された陸路を頼りにして救援活動が進んでいると聞きます。わたくしの所属する日本建築学会の研究者たちが現地に入って、それぞれの視点から速攻でまとめた調査速報のレポートをどんどんと送ってきてくれます。金沢から現地に入るまでに7時間かかった等の報告を拝見するにつけても大変だなあと本当に頭が下がる思いです。

 そうではあるのですが、道路の使用は人命救助と救援物資の輸送とに優先されるべきでしょう。地元の首長さんたちからは激しい道路渋滞を避けるために一般人の能登半島への訪問は控えてほしいとの要請が出されました。地震被害調査は今後の防災・減災活動に非常に有益なので、その調査に従事する研究者が上述の「一般人」に含まれるのかどうかは一概には判断できませんが、いずれにせよ、そういうなかでの現地調査はかなり微妙な立ち位置にあるようにも思います。その辺のバランスをよく見ながら、自身の安全も確保したうえで調査をしていただければと思います。

 わたくし自身は2011年の東北地方太平洋沖地震以来、耐震補強された建物がどのようなパフォーマンスを発揮したか、あるいは発揮できなかったという点に興味があって、そのような研究を進めて来ました。能登地方にも耐震補強された鉄筋コンクリート建物は学校校舎をはじめとして公的建物には多くあるはずです。機会があれば、この検証にも取り組みたいと考えています。

新しい年の授業が始まる (2024年1月5日)

 本学の所在する八王子市南大沢はよく晴れました。そんなに寒くもありません。青空がとても綺麗だったので、正門脇の光の塔でも撮るかと思ってデジカメを取り出そうとしていたら、駅のほうからドドっと学生諸君がやってきて驚きました。それで今日から新年最初の授業が始まることを認識いたしました(わたくしの授業は来週火曜日からです)。

 きのうは御用始めで朝からさっそく教室会議があったので登校しました。ことしは研究室の学生諸君もかなり登校して来て、お正月あけ早々に三人の学生さんと研究の相談をしました。こんなことはこの数年なかったことなので、忙しいとは思いつつもやる気のある若者に付き合う清々しさを久方ぶりに味わって、ちょっぴり幸福感にひたりました(われながらジジくさいと思いますけど…)。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU光の塔20240105:IMG_2634.JPG

 このお正月は能登半島で大地震があり、羽田空港では飛行機同士が衝突するという大惨事が起こって世情が騒然としたまま終わりました。国内がこんなふうだとガザでの虐殺やウクライナでの侵略についての報道がほとんど見られなくなることに気が付きました。まあ、そうですよね。遠くの他人よりも身近な同胞、ということになるのは人情としてやっぱり仕方ないことでしょう。グローバルの時代にそんなヴァナキュラーなことを言っては怒られるのかもしれませんけど。平凡でも毎日が淡々と過ぎてゆくことの幸せを思わずにはいられません。

お正月 (2024年1月1日/3日)

 穏やかに晴れたよいお正月を迎えました。このような日々がゆったりと気分よく流れてゆくことを祈りたいと思います(が、その夢も元旦の夕方にあっさり破られることになるのは皆さん、既にご承知のとおりでございます)。

 ことしはアントン・ブルックナー(1824-1896)の生誕200年の記念の年になります。そのせいか数年前からこの二百年祭を目指してブルックナーの交響曲を新規に録音したり、既存の録音を再発売したりする動きが目立っています。マレク・ヤノフスキ(ポーランドのひと)が指揮してスイス・ロマンド管弦楽団の演奏したブルックナー交響曲全集が昨年の暮れに再発売されたのでタワーレコードで購入しました。CD10枚で約五千円でした、まあお安いですね。演奏自体は2010年前後に為されたものです。

 この元旦に彼らの演奏する交響曲第六番(2009年録音)を聴いたのですが、全体として木管楽器群がよく鳴っていて、とてもよい「録楽」(演奏&録音のこと)だと思いました。第一楽章(マエストーソ)と第二楽章(アダージョ)はかなりゆったりとした遅いテンポですが、第三楽章(スケルツォ)と第四楽章(フィナーレ)は一転して快速になります。ヤノフスキは理知的な指揮をしていて、曲想に応じてテンポを落とし緩急のメリハリを明瞭に付けています。フィナーレ終結のコーダの入りはすごくゆっくりになりますが、そのあとは快速で飛ばしてそのままテンポをほとんど落とすことなくスパっと切れて終わるのが爽快です。新年早々、よい音楽をきけてとても満足です。



 こんな感じで、書斎コーナーで好きな音楽をイヤホンで聴いたり本を読んだりしてまったり寛いでいたのですが、午後4時12分くらいに体がなんだかゆっくりと揺れているように感じます。しばらくはめまいかと思いましたが、とても不快です。でも、吊るした洗濯物を見るとやっぱり揺れていますし、外の電線もユラユラ揺れていました。

 こりゃ長周期地震動が来たのではないかと思ってネットを見たところ案の定、午後4時10分頃に石川県能登地方で震度7の地震が発生したことを知りました。マグニチュードは7.6で震源はごく浅い(その後、深さ16kmと訂正)ということなので、かなり大きな地震です。その前後に震度5強の地震が震源深さ10kmから20kmのあいだで頻発しています。時間の経過ごとに見ると震源位置は能登半島先端を東から西へと移動し、また東に戻ったりしています。

 京都大学防災研究所の境有紀先生のサイトによれば、建物に大きな被害をもたらす1-2秒応答の計算値がとても大きいとのことです。彼のページに掲載された加速度応答スペクトルのグラフを見ると、K-NET穴水で観測された地震動の1-2秒応答の最大応答加速度は兵庫県南部地震(1995年)のJR鷹取波と同等でした。JR鷹取波はその当時、建物へ大きな被害をもたらした地震動として有名であり、今回の地震でも石川県穴水付近で建物の被害が生じている可能性が高いと思いました。

 その後(いまは1月3日です)、現地の状況が明らかになるにつれて振動だけでなく津波や火災による甚大な被害が生じたことを知るようになります(まだ被害の全容はつかめません)。被害を受けた皆さまには心よりお見舞いを申し上げます。楽しい団欒の時間を断ち切られ、寒空に投げ出された方々のことを思うと本当に気の毒で胸が痛みます。いつも思うのですが建物の耐震構造を研究しているとはいえ、地震は本当にイヤなもので、その被害の状況をうかがうにつけ気分が塞ぎます…。



Copyright (C) 2024 KITAYAMA-LAB. All Rights Reserved.