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このページは北山の日々の雑感などを徒然なるままに綴るコーナーです。日々の生活で感じたこと、大学での研究活動の様子など、思いついたことを記すためのページですが、自分のための備忘録として書いているようなところもありますね。今日からは2013年版を掲載します。例によって不定期更新ですが、そもそもそういう類いのコンテンツなので宜しくご了承下さい(2013年1月4日)。



歳末点描 
ちょっと泣き言 (2013年12月24日/28日)

 天皇誕生日を過ぎると大晦もそろそろ射程圏内に入ってきて、慌ただしさ感がなんだか加速されるような気がするのは私だけでしょうか。宿題は山積しているし、年賀状もまだ書いていないし、どんどん追い込まれる感じがしてお尻がムズムズします。

 その年賀状ですが、皆さんはどうしているか知りませんが、私は未だに手書きで住所と宛名を書いています。パソコンとプリンタがあれば印刷は簡単にできるでしょうが、年賀状の表くらいはそのひとを思い出しながら(相手によっては感謝の念をこめて)丁寧に書くことを心がけています。

 ただ年賀状の形骸化が言われて久しいですし、これだけメールが発達しているのに年頭の挨拶だけは手紙でする、というのもなんだか惰性でずるずるとやっているという気がして、そろそろスパッとやめてみたらどうかとも思う今日この頃です。

 クリスマスには佐野元春の『No Damage deluxe edition』が発売になりました。1983年のアルバムのリマスター版にフィルム・ノー・ダメージなどが付いています。自分へのクリスマス・プレゼントとして自分のお金で買いました(さびし〜)。 2011年の地震以来、建物の被害調査などをずっとやって来ましたので、No damage(損傷無し)って言われると、ああ被害がなくてよかったなあ、なんて思ってしまいます(職業病ですかね?)。

 ちなみに忙しくてまだ聴いても視てもいません。このアルバムは大学生の頃に貸しレコード屋で借りてカセットに入れて聞いていましたが、そのカセットも廃棄したので久しぶりで楽しみです。なおこのセットはSonyから販売されているので、普通の流通経路に載っていて簡単にゲットできてよかったです(いつものように大学生協で買いました、生協のお姉さんが私を見ると開口一番「あっ先生、佐野元春、入ってますよ〜」)。

 この26日には臨時の学域会議がありました。久しぶりに7階の会議室でやりましたが、そのうちまた元の建築学科に戻れば(って、いつのことか分かりませんが)これが常態となるんだろうなと思います。コースとか学科とかの名称ですが、学生募集の単位であるという点では同じなのですが、やっぱり学科というほうが重みがあるような印象を受けますね。

 で、そのあと建築会館に行って原子力建築運営委員会に参加しました。日本建築学会にはいろいろな立場の方がおいでになるので、原子力発電建屋を対象とする運営委員会が存在すること自体に疑問を感じる方もいるようです。ただ学会という場においては、純粋に科学や技術の観点から原子力建築の耐震安全性とか維持保全とかについて議論することは至極健全なことだと思います。あまり感情的にならずに(然は然り乍ら、ひととしての優しさは失わずに)、冷静に議論し研究することが大切なんですけどね,,,。

 さて、今年はこのあたりで店じまいといたします。今年もご愛読いただき(って、誰が読んでいるのか知りませんが)ありがとうございます。よいお年をお迎え下さい。では、また来年!

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 と思ったのですが、仕事納めの日になって学生から材料試験機が壊れました、というメールが飛び込みました(私は学外の原子力関係の委員会に出席中でした)。様子がよく分からなかったのですが、材料研究室の松沢晃一助教から、北山研の学生が試験機を壊したまま放ったらかしにしている、という怒気を含んだメールが届くに至って、どうやら事態は深刻らしいということにやっと気が付きました。

 仕方がありません、年末の休みに突入したこの土曜日に登校して、対応を協議した次第です。で、現場検証してみると、間違った使い方をしていたことが明白でしたから、もう平謝りです。もし私が向こうの立場だったら、やっぱり怒ると思いましたね。機械を使うなら(それも他人のものであるならば、なおのこと)その仕組みとか使い方をよく理解した上で使って欲しいものです。

 しかし、元を正せば学生さんに任せていた私が悪いわけです。これを教訓として、機械の使い方の講習などを一年に一回くらいはやらないといけないということを認識しました。でも人間が怪我したりすることはなかったので、不幸中の幸いでした。

 壊れた機械を修理するには業者を呼ばないといけませんし、費用もかかります。こうして仕事がまた一つ増えて、いつになったら私は年を越せるのでしょうか。などと泣いてもしかたありませんので、ひとつずつ、一歩ずつこなすだけですな、トホホ,,,。


分かれみち(承前)〜宇都宮大学へ〜 (2013年12月26日)

 人生の岐路としての分かれ道について書きましたが、そういった岐路は(誰でもそうでしょうが)幾つかありました。卒論の研究室選びが今に至る岐路の最たるものであったことは既に書きました。ではその次の岐路はなんだったのかと考えると、それは大学院を中退して宇都宮大学に助手として就職するという決断だったかなと思います。

 宇都宮大学構造研究室で助手を探しているというお話しは田中淳夫先生から加藤勉先生(故人)へと伝わって、さらに師匠・青山博之先生のところにもたらされたようです。青山先生から字大に行ってはどうですかと言われたのは、D2になった春でした。すごく迷いました。大学院博士課程を続ければ(順調に行けば)工学博士の学位を取得できますから、そのコースから外れることにためらいがありました。

 そこで小谷俊介先生(当時は助教授)をはじめとして、田才晃さんや壁谷澤寿海さん(いずれも当時は助手)に相談しました。そうして宇都宮大学に行くことを決断しましたが、博士をとるのはしばらくは無理かなと思ったものです。

 翌年春、宇都宮大学に赴任しましたが、あるとき青山博之先生が学会の関東支部の総会かなにかに出席されるために宇都宮に御出でになりました。私は車の運転手を勤めました(当時は白いホンダ・アコードに乗っていました)が、総会が終わって田中先生たちと一杯やろうというときになって、青山先生が「北山くん、車はもういいから置いてきなさい、タクシーで行きましょう」と仰ったのです。運転手をしていると(当然ですが)お酒は飲めませんので、そのことを心配してくださったんですね。

 そのあと、宇都宮駅のそばで青山先生と二人きりでお酒を飲みました。その頃、私は慣れない助手勤めで教育と研究との両立という(大学教員にとっては普遍的な)事柄について悩んでいたので、そのことを青山先生に聞いていただいた記憶があります。こんな些細なできごとですが、やはり師匠のありがたみは忘れ難いということでしょうか。

 そのあいだも清水建設の黒瀬行信さんと一緒に柱梁接合部に関するstate- of-the-artレポートを英文で書くように言われたり、小谷先生の科研費の共同研究者にしていただいたりして、常に東京・本郷には通っていました。

 その後一年ほどして、青山先生からそろそろ博士論文の草稿を見せて下さい、と言われたときは驚きましたが嬉しくもありました。ああ、見捨てられていなかったんだ、よかったというのが正直なところでした。そうして青山先生に草稿チェックのスケジュールを提示していただいたのです。宇都宮大学で教育に従事しながらの論文執筆は大変でしたが、そのルートに乗らないともう博士はとれないと思い定めてがむしゃらに頑張りました。若かった頃こそ、出来たのだと今は思います。

 その昔高校生の頃、サッカー部にいたときに目をかけてくれた先輩の期待を裏切ってしまったことがあり、そのことは今でも残念なこととして思い出します。でも人生の勘所では青山先生の敷いてくださったレールに乗ることができて、本当によかったと今も思います。そのようにご配慮を賜った青山博之先生は私にとってはやはり大恩ある師匠です。


ことしの本 ベスト3 (2013年12月25日)

 巷ではクリスマス・モード一色みたいですが、なんだってそんなにムードを煽るんでしょうね。鳥食べろ、ケーキはどうだ、とたたみかけるように売りつけるのはどうかと思いますが、それに危機感?を募らせて何だか知らないけど買ってしまう消費者のほうもどうかと思います。結局、あうんのやり取りで売り手も買い手もともにハッピーで良かったね、っていう結末でしょうか(私にゃよく分かりませんが)。

 さて(私だけの)年末恒例の『ことしの本』をそろそろ書いてみようか、という時期になりました。ことし一年のこのページにはあまり本の話題が出てこなかったという印象がありますが、電車内を中心に今まで通りに本は読んでいます。ただ今年読んだ本を思い返してみて、いいねという本はそれほどなかったような気もします。いろいろ迷って以下のようなランキングになりました。

 第一位は『日本人になった祖先たち —DNAから解明するその多元的構造—』(篠田謙一著、NHKブックス、2007年2月)です。誰でも現生人類はどうやって誕生したのか、そして日本人となったのかには興味があると思います。いわば究極のルーツ探しです。そのような疑問に対して、最新の科学によって回答したのが本書です。ミトコンドリアDNAの解析から得られた結論にはそれなりの説得力があります。

 そのように知的好奇心を駆り立て、満足させてくれるという文句なしの内容です。それもさることながら、第一線に立つ研究者が自分の研究成果をこれだけ分かり易く、かつ痛快に記述したことに、同じ研究者である私は快哉を叫びたい気持ちです。本当に素晴らしい著作だと思います。私もいつの日にか、このような一般向けの著作をものすることができれば、という気になりました。

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 第二位は『天皇と東大 I〜IV』(立花隆著、文春文庫、2012年12月)です。これは天皇と東大とを題材にしていますが、結局は明治維新から戦後までの日本の激動の歴史を描くことに等価であるということが読んでみるとよく分かります。日本最初の大学である東大は、よくも悪くも天皇あるいは日本とともに歩んできた、ということです。

 また大学の自治とか、学問の自由というもの(現在は空気のように存在していて、その有り難みを忘れ去った大学人が多いようです)が多くの先達がたによる身を切るような努力によって勝ち得たものであるということも思い知らされます。美濃部達吉博士の天皇機関説がとても不幸な経緯をたどって(誤解に誤解が重なって)、結果的には日本の軍国主義国家化を加速させてしまったことは歴史の皮肉としかいいようがありません。「天皇機関説」というネーミングが悪かったという立花氏の主張には大いに共感を覚えました。

 立花隆氏の本を読んだことはほとんどありませんが、博識な知識を明快に組み立てた読み易い著作だと思いました。

 そして第三位は迷いましたが『ミッドウェー海戦 第一部、第二部』(森史朗著、新潮選書、2012年5月)とします。ミッドウェーでの海戦は、1941年末の真珠湾奇襲以来破竹の勢いだった旧日本海軍が航空母艦四隻を失って敗勢への道を歩み始める転換点となった大いくさとして有名です。

 そのような悲劇の結末が実は必然であったことが、この本を読むとよく分かります。それと同時に提督から下士官まで何人かの海軍軍人たちを描くことによって、その海戦を闘った人間にも光をあてています。太平洋戦争は機械を用いたテクノロジーによる戦争でしたが、結局はそれらを操るのは人間自身である、という当たり前の事実に帰着します。

 本書は、よく知っていると思っていたミッドウェー海戦を広い視点からまとめた良書であると思いました。これに触発されて『飛龍天に在り —航空母艦飛龍の生涯−』(碇義朗著、光人社NF文庫、2013年9月)も読みました。

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 番外です。2013年の暮れに特定秘密保護法が成立しましたが、第二次世界大戦時に日本がいかに情報(インテリジェンス)というものを軽視していたか、その結果としてソビエト連邦が火事場泥棒のように日本に攻め込み、広島・長崎に原爆が投下されたといことを再認識させてくれたのが、『消えたヤルタ密約緊急電 –情報士官・小野寺信の孤独な戦い−』(岡部伸著、新潮選書、2012年8月)です。

 正直に書くと本書には一部に読みにくいところがあったり、事実の前後関係が把握しにくかったりと、読み物としては首を傾げるところもありました。ただ内容として上述のように国家における情報の重要性を指摘している点は首肯できます。主人公の小野寺信・陸軍少将の諜報活動については本書をお読み下さい。

 この本に何度か引用されていたのが『大本営参謀の情報戦記 –情報なき国家の悲劇−』(堀栄三著、文春文庫、1996年5月)です。当時の大本営参謀は陸軍大学校を優秀な成績で卒業したエリートだけしかなれませんでしたから、著者も(きっと)ものすごく頭の良かったひとなんだろうなと思います。随所にきらめく知性を感じましたし、文章自体もとても読み易いです。情報将校としての著者の活躍もさることながら旧日本軍の情報に対する無理解振りと、それによって失ったものがいかに大きかったかを知りたい方は是非お読み下さい。


分かれみち 〜卒論の研究室を選ぶはなし〜
 (2013年12月24日)

 わが建築都市コースでは12月中旬以降、学部三年生が来年度の研究室配属に向けてショッピング活動(各研究室を廻って先生方の話しを聞くこと)を行う期間になっています。例年、この機会にいろいろな研究室を巡って先生たちのお話しを聞きながら、自分の将来も見据えながら研究室選びをするのが通例です。私のほうでも、できるだけ多くの学生諸君に来てもらおうと思って四回程度、説明会を開いてきました。

 ところが今年はどうも様子が違うみたいです。先生方のお話しを聞く前から第一志望の研究室を既に決めていて、ほかの研究室へショッピングしようとしない学生諸君が増えているようなのです。

 確かに先生方については講義とか設計製図とか演習とかですでに見知っているし、どの先生がどんなことをやっているかは大体分かっているでしょうから、今更研究室に行って話しを聞く必要なんかないよ、ということかも知れません。

 そこで自分が大学生だった頃はどうだったかということを思い出してみました。研究室選びの話しはすでに書いていますが(例えばここ)、私の場合にはまだ勉強したことがなくて全く知らない分野(すなわち鉄筋コンクリート構造)を研究テーマとして選んだ、というのが特徴でしょうね。

 鉄筋コンクリート構造をやろうと決める前に、鈴木博之先生(西洋建築史)のところを希望しましたが、私がやりたかったテーマとは別のテーマを与えられたことから断念したことも既に書きました(それが今思えば不遜な理由だったことも)。でももしそのとき、鈴木博之先生が与えてくださった(修復建築家ヴィオレ・ル・デュックについての)研究テーマを卒業論文として選択していたら、いまとは全く別の人生を歩んでいただろうことは想像に難くありません。そうであれば、青山博之先生、小谷俊介先生をはじめとして田才さんとも壁さんとも塩原さんとも接点はなかったはずです。

 ですからいま振り返れば、大学3年から4年にかけての研究室選びが人生の岐路だったことになります。私はいつも学生諸君には、大学での研究室選びなどは長い人生を考えればたいした問題ではないから、たとえ希望の研究室に入れなくてもがっかりしたりするな、と言っています。このことは一般論としては正しいでしょうし、第一志望ではなくても入った研究室で活動するうちにそのテーマが楽しくなって打ち込むようになる、ということはよくあります。

 でも少なくとも私自身にとっては(卒論執筆から三十年後の)今になって思えば、このときの選択が現在の出発点だったことになります。何も知らないテーマを選ぶなんてどういう精神構造だったのか、正直なところ我ながら不思議です。あのとき11号館7階(青山・小谷研究室があったところ)の研究室のソファに坐わらされて、ニコニコする塩原さんやヨシ・ハリムさんにお会いしなければ、今のわたしはなかったかも知れません。

 そうだとすると、人生において何かを選択したり決めたりするあらゆるときが人生の分かれ道であるということになるでしょうか。ちなみに私自身が学生だった頃の研究室ショッピングですが、上述した鈴木博之先生のところと青研のほかにどこかを訪問した記憶はありません(ってことは、現在の三年生のbehaviorを不思議がることはなかったのですね)。

 すなわちまとめますと、自分がやりたいことは選ばずに何も知らないことを選択した、というのが私の研究室選びだったということですな。ここだけ読むとお前正気かあ、ってな感じですがいずれにせよ、すごくレアなケースのような気はしてきました。ただ翻って考えると「やりたいこと」って一体何なんでしょうか。人間(じんかん)到る処青山(せいざん)あり、じゃありませんが、自分の置かれた場所で精一杯努力することが大切なんだというのがこの小文の結論のようです。ちょっと言い過ぎのような気もしますが、もともとが個人的な所感を述べる場なのですからご容赦を。


去ってゆく (2013年12月19日)

 暮れも押し迫ってきて、ついに東京都知事が辞めることになりましたね。今までの答弁を聞いている限り、彼の言っていることを納得したひとはいなかったでしょうから、やむを得ないんだろうと思います。

 さて、わが大学は法人化されたとはいえ、東京都が設置する公立大学です。なので、東京都知事の方針によっていかようにも翻弄される可能性があります。振り返ると2005年の大学統合は石原前都知事のトップダウンによって断行され、それによる混乱が未だに続いていることは以前にもこのページで書きました。

 現在の都知事は本学について特段、思うこともなかったらしく、やっと大学として落ち着きつつあるところでした。この機を捉えて大学執行部は、今までの混乱を収拾するべく組織の再改編にもいよいよ着手したようです(私のような末端には分かりませんが)。そのような状況なので、大学の行方に暗雲がたちこめるようなことにならなければよいと願っています。

 なんだか一年前にも同じことを書きましたが、次期の都知事には大学に対して理解のある常識人に就任してほしいと思いますね。


双方向授業って‥ (2013年12月18日 その2)

 今日の午前中は『鉄筋コンクリート構造』の授業でした。今年はコンスタントに20名くらいの学生さんが出席してくれて、それなりにやりがいがありますね。ただ、例によって手応えは全くといってよいほどありません。で、先週、あんまり不安だったので、授業内容に対する要望とか進み方についての意見はありませんか、と聞いてみました。

 こう問いかけても、これまた全く返事がありません。もう、空気みたいなもんですな。皆さん、その場に存在しているのに、自分とは無関係かの如くに前を向いて坐っているだけです。

 しかたないので数人のひとを指名して聞いてみても、このままでいいです、という返事だけでした。うーん本当かなあ、と疑心暗鬼に陥っていると、やっとひとりの学生さんが「演習問題の解説をやって下さい」と言ってくれたのです。嬉しかったですね。あんまり嬉しかったので、では来週は予定を変更して演習問題の解説をするので、皆さん問題を解いて来て下さい、と言っておきました。

 で、今週に至る、ですが、今日教室に行ってみると、なんと先週そういった張本人の学生さんが来ていないじゃないですか。でも出席している人たちに聞いてみたら解説して欲しいというので、気を取り直して(まさにこの言葉の通りですぞ)解説し始めました。

 しかし彼らが予めその問題を解いていることが前提でしたので、以下のように聞いてみました。
 私:「皆さん、問題を解いてきましたか?」 ‥‥学生諸君:無言
 私:「では、どこか分からないところはありましたか」 ‥‥学生諸君:無言
 私:「じゃあ、皆さんは問題をやってこなかったのかな?」 ‥‥学生諸君:無言

 これではどうしようもないじゃないですか。なんだかもう脱力しちゃって、でも解説し始めたので、肝どころの数式と答えを説明して終わりました。学生諸君は私の板書を黙々と写していましたけど、それって何の意味があるのでしょうか。

 アクティブ・ラーニングとか言われますけど(このページでも先日書きましたが)、双方向の授業って斯様に困難をともないます。ものすごく悲しくなったし、やる気もなくなった一コマでした。どうしたものでしょうかね。それとも無言の学生さんに楽しく参加させるような工夫が教師には要求される、ということでしょうか。そうだとすると、小学校の授業と変わりませんねえ。そのようなことで果たしてよいのでしょうか。


ある勇者のその後 (2013年12月18日)

 まずは下の写真の人物をご覧いただこう。太平洋戦争中のラバウル島に駐機する零戦の尾翼にもたれかかったひとである(『闘う海鷲』渡辺洋二編著、文芸春秋、2005年、より)。このひとは旧海軍の整備下士官だった多田野弘さんという方である。この写真は昭和18年頃らしいが、この方のその後については何も書かれていなかった。

 Mr_Tadano_1943
 写真 『闘う海鷲』渡辺洋二編著より

 ところが先日、同じ渡辺洋二氏の『戦雲の果てで』(光人社NF文庫、2012年)を読んでいて、この写真にうつっていた多田野弘氏が太平洋戦争を無事に生き延びて、その後会社の社長にまでなっていたことを知った。

 その会社名は『タダノ』という。そうである、建設業関係者ならば建設用クレーン車などに「TADANO」と書かれているのを見知っていると思うが、その会社の社長を勤めていたというのだ。で、多田野弘氏はなんと今は『タダノ』の最高顧問を勤めておいでで、HPも持っていることが分かった(こちらをどうぞ)。

 このページを見ると、さすがに会社の社長の職責を果たすくらいの方なので、まことに素晴らしいことが書いてある。戦争中に幾度もの死線を超えたことがその根底にあることは容易に想像できよう。事実、多田野氏はラバウル、サイパン、ペリリュー、そしてルソン島マバラカット(神風特別攻撃隊誕生の地)と南太平洋における海軍航空の激戦の地を生き抜いた方だそうだ。

 そのような勇者が人生について語る言葉には達観というか、死地を潜り抜けたひとしか到達し得ないような人生観が語られていて重みがあるし、本当に頭が下がりました。と同時に、戦前の日本の軍隊を支えたのは下士官だったということがよく言われるが、多田野氏の言を聞くとむべなるかなと大いに納得したのであった。


ビックリ仰天! (2013年12月17日)

 いやあ、きのうは本当にビックリしました。いま日本建築学会では、2011年の東北地方太平洋沖地震による被害調査報告書を作成中でして、私は鉄筋コンクリート建物編の幹事を楠浩一さん(横浜国立大学)とともに務めています。

 で、この日曜日が査読後の修正原稿の提出締め切り日でした。各執筆者が修正してくださった原稿をいちいち幹事のところに送っていただくのは双方ともに面倒ですので、学会のサイト上に提出専用のフォルダーを作ってもらって(ここに至る経緯も簡単ではなかったのですが)、そこに各自原稿をアップロードする仕組みです。

 このサイトを時々覗いては、うんうん原稿が集まって来ているな、などと思っていました。ところが提出締め切り日の夜遅くなって、ある執筆者から衝撃のメールが届いたのです。その方はご自分が投稿したファイルが間違っていたので、それを削除しようとしたらしいのです。ところがその方は(多分、サイト上の注意書きをよく読まなかったのだと思いますが)自分のファイルだけでなく、あろうことか提出フォルダー丸ごと削除してしまったのです! あちゃ〜、何てこった、どうすりゃいいんだあ。

 実は寝る前についうっかりメールを開いてしまったばっかりに、この衝撃の事実を知ってしまいました。ああ見なけりゃ良かったと思っても、もうあとの祭りです。あまりの衝撃に心臓がバクバクいって、もう寝るどころではありません。まさかフォルダーが消えるとは思ってもみませんでしたから、バックアップなどは毛頭取っていません。

 結局悶々として寝付けず、ほとんど眠れないままに午前4時にはパソコンの前に坐って考え続けました。でも、どう考えたってどうにもなりゃしません。結局、朝早く投稿、じゃなかった登校して、執筆者の皆さんにエマージェンシー・メールを送信し、修正原稿の再度のアップロードをお願いしたのでした。

 でも私もよく分かっていますが、ファイルのアップロードは一個づつしかできないため、原稿数が多い方は思いのほか時間がかかります。ただでさえ年末で皆さん忙しいのに、多分、お腹立ちだったんだろうなと推量します。私のせいではないんですけど、非常識なことを言う幹事のヤツめ、などと思わないでくださいまし,,,。

 しかしよく考えてみると、そんなに簡単にフォルダーを丸々削除できてしまうなんて(それも誰でも)、そもそも学会サイトのシステムが脆弱ってことですよね。そんなに危うい砂上の楼閣の上に立って、学会としての基幹足るべく出版事業にボランティアとして携わらなければならいないというのも、どうなんでしょうか。甚だしく疑問を感じた事件でした。こい願わくば、二度とフォルダーが消えませんように!


ちょっと一杯考 (2013年12月15日)

 知らないうちに忠臣蔵の日も過ぎてしまいました(よく見たら新聞にはそのネタが載っていましたけど)。さて、先日研究室の忘年会があったことを書きましたが、最初の乾杯のときに私以外は全員,生ビールを頼んでいました。私といえば、ビールが自分の胃腸には合わないということに(この年齢になってやっと)気が付きましたので、最近は日本酒しか飲まないことにしています。日本酒だと自分のペースでチビリチビリ飲めますし。

 ですから、ひとりだけお猪口に熱燗を注いで乾杯しました。ただビールのジョッキ相手だと、おちょこで乾杯っていうのもちょっと盛り上がりませんね。居酒屋では「とりあえずビール」という標語を聞くようになってから久しいですが(これもビール会社の策略に過ぎないでしょうけど)、確かに乾杯のときだけはビールのほうがどっしりしていてカッコいいかも。

 むかしはフォア・ローゼズのようなバーボンなんかのウイスキーやテキーラ・ベースのカクテルなんかも好んで飲みましたが、近ごろは年をとったせいでしょうか、とんと飲みたいとは思わなくなりました。もともとお酒には弱いですから、青研にいたころのような無茶な飲み方がとても懐かしく思い出されます。

 で、最近では美味しい日本酒を少しづつ好きなペースで飲む、というスタイルを確立しつつあります。これも自分が年をとって(少しくらいは)自分勝手に飲んでもまあいいかな、と考えるようになったためと思いますね。うちの親父のような飲んべーは安いフツーの清酒が好きなようですが、私はそういう意味では正真の酒飲みではないわけです。

 そこでなるべく香り高くてスッキリとした味わいの日本酒を探します。ひとさまによる、これはいいよというような評判は大事だとは思いますが信用はしていません。だってこれは極めて個人的な好みの問題ですからね。ただ、フルーティで華やかな香りというと、吟醸とか大吟醸ということにはなります。まあ一般の純米酒に較べれば高価になることはやむを得ませんが、私は少ししか飲まないのでそれくらいの贅沢はいいかなと思っています。

 そうすると大手の大量流通のお酒ではなくて、日本各地にある地酒を味わうことになります。そういったお酒は地元にいかないと飲めないものもたくさんあるでしょうが、さすがにそこまではやれません。なので、都内で購入できる地酒ということになります。

 東北地方太平洋沖地震(2011年)の被害調査の際に栃木県市貝町に行きましたが、ここで『惣誉』(そうほまれ)という地酒に出会いました。正直に書けば、市貝町の中学校の被害調査をした際に町長さんからお土産にいただいたのが発端です。これが結構美味しくて、東京では新宿・伊勢丹で買うことができます。

 ちなみに蔵元の惣誉酒造の河野社長は私と同じ時期に本郷キャンパスで大学生活をおくっていた(社長は文系だった)そうで、親しみがわいたせいもあり、市貝町の復興にも役立つ?ということで、今もこのお酒を飲んでいます(左の四合瓶です)。これは生もと(きもと)仕込の純米大吟醸酒で3000円くらいです。

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 私が住む市内には『籠屋(かごや)』という老舗の地酒屋があって、ネットで調べると結構品揃えが豊富なことで有名みたいです。そこで昨日初めて行ってみました(天気がよかったので散歩がてらに)。栃木県のお酒はほとんどありませんでしたが、聞いたことのないお酒がたくさんありました。そこで下調べしてあった『佐藤卯兵衛』というひやおろしの純米大吟醸酒(これも四合瓶)を買ってきました。秋田県秋田市の新政(あらまさ)酒造というところの産です。2100円でした。

 で、今日のお昼に女房子供が映画を見に行って留守だったので、ひとりでざるそばを作ってついでに一杯飲んでみました。昼から日本酒なんておつだなあ、などとひとり悦に入りながら,,,。ひやおろしなので出荷前の火入れをしていないせいか、すごくフレッシュな感じで、かつ酸味が強くて酸っぱさが勝っていますが、おそばのお供に飲むとこれが結構いけるんですから不思議です。ほんのりプチプチと舌を刺すような発泡感もあります。ただ、鼻に抜けるような香りはあまり感じませんでした。

 ちなみに今まで飲んだなかで美味しかったのは、山形県鶴岡で飲んだ『ひとりよがり』や広島の『幻』ですかね。どれも東京では売っていないと思います。いずれによせ“わたしの一杯”を探すためには、いろんなところでお酒を飲んだり買ったりする必要がありますが、酒瓶を下げて帰るのは大変ですし、私は“いける口”でもないので、偶然の出会いを大切にするほうが良さそうです。


懸 案 (2013年12月13日 その2)

 昨日の会議で、わが建築都市コースの将来にかかわる懸案だったある事項が解決しました。そこに至るまで、私は(日本流の)慣れない地ならしなどやって気を揉んでいましたが、先生方が皆さん物わかりがよくて助かりました。

 ただ、ご苦労をおかけすることになった先生にはとても申し訳なく思います。いつも書いているように持ち回りのコース長なので、私が恐縮する必要はないと思うのですが、実際に会議を差配するのは私なので、ただ頭を下げるしかありませんでした。

 そうかと思えば、ご自分の思いを貫徹した方もおいででした。誰だって面倒な仕事はやりたくないですよ。そのあたりのバランスをどう考えるのか、突き詰めるととんでもないことになりそうなので、誰も触れませんでした。うーん、おとなですね。私がコース長ではなかったら、どうなっていたか正直なところ分かりませんな(なんせ短気ですから、わたくし)。

 しかしよく書いていますが、大学の自治を守るためにはまず自分たちで律すべき事柄は律しないと自主独立のガバナンスはあっという間に崩壊してしまいます。そのことだけは意識にとどめておいて欲しいものですね。


忘年の会 (2013年12月13日)

 今朝は寒かったですね。大成建設のリクルータをされている井上慶一郎さん(西川研OB)が朝早くにおいでになることになっていたので、白い息をはきながら登校しました。井上さん、ご苦労様です(今、学生たちを面接していただいていますけど)。

 ただ、今の学生さんの就職活動のBehaviorを見ているとちょっと疑問ですね。大手ゼネコンだったらどこでもいいというのが本音かも知れませんが、それでも全員が全員とも手当り次第にアタックしているように見えます。もっと仲間内で相談して各自が目指す会社を割り振って、できるだけ競争を減らすようにしたらよいのに、と思ってしまいます。近頃はそんなことを言ってはいけないのでしょうか。そんなことないと思いますけど,,,。

 さて昨晩、北山研の忘年会が調布で開かれました。突然の案内だったにもかかわらず、田島祐之、白山貴志、石木健士朗の各先輩が参加してくださいました。皆さん忙しいところお出でいただき、ありがとうございます。久しぶりに皆さんのご活躍の様子などを聞くことができて楽しかったです。その調子で今後も活躍して欲しいものです。

 で、忘年会のまえに、来年度の基礎ゼミナールに備えて教員同士が懇談する会が本学1号館で開かれたので参加してきました。いま、基礎ゼミナールのシラバスを考えているところですが、既に基礎ゼミをやっている先生方のお話を聞いてみて、これは容易ではないという感をいよいよ強くしましたね。学生同士で議論しなさいと言っても、しーんとしてお通夜みたいだそうです、まあ予想通りでしたが。

 この懇談会のまえにはさらに基礎ゼミ経験者の権藤智之さん(ルーキー准教授)から、その経験についてレクチャーしてもらいました(権藤さん、ありがとうございます)。昨年末、基礎教育部会の委員だった私は、まだ赴任していない権藤さんに基礎ゼミのシラバスを作って提出するように、なんて言っていたんですが、一年経って今度は我が身に降りかかるとは思ってもみませんでした。権藤さんもすご〜く苦労していることがよく分かりました。

 という訳で、なかなか忘年するというふうにはいきませんが、とにかく研究室の忘年会は無事終わりました。なんだかな〜。


ひといき、そして年越しへ
 (2013年12月11日)

 三年生の先端研究ゼミナールですが、今日発表会が無事終了して、実質的なゼミナールが修了しました。我が社に配属になったのは男性学生三名で、今年は進み方が遅くてどうなることかと(少しばかり)心配しましたが、みなそれなりにまとめて発表できたので良かったですね。ちなみに今年の研究課題は以下の通りです。

 吉川学志: タランティーノ作品から考察するグーギー建築
 寺村大真: 木造の構造デザインの可能性
 木立龍太: コンパクトシティ実現のための青森市の取り組み

 ホントのことを言えばもう少しじっくりみんなで議論したかったし、梗概の添削も(教員の仕事ですから)ちゃんとやりたかったのですが、如何せん学生諸君が忙しかったせいかわかりませんが、私に仕事をさせてくれませんでした。

 で、上のタイトルをご覧いただくと分かりますが、タランティーノ(グエンティン・タランティーノ;映画監督の名前)もコンパクトシティも建築構造とは全く関係ありません。私のところでは学生さんに好きなことをやってもらっていますので、これでいいんですけどね。

 こうして師走に入って卒論の発表会・中間発表会が終わり、『建築文化論』の担当が終わり、今また先端研究ゼミナールが修了しました。これでかなりホッとして、ひといき入れることができた、というのが偽らざる心境です、ああ〜疲れたってな感じで。あとは建築都市コースや建築学域の運営に関する(コース長としての大事な)お仕事が待っていますが、これは先生方のご協力なくしてはできないモノもありますので、ある意味、成るようにしかならないと思っています。

 ということで、上手くゆけばなんとか年を越せそうな気がして来ました。しかしここにきてかなり疲弊したので、早いところコース長の重責から解放されたいと思います。あと4ヶ月かあ〜。研究室では試験体の設計が佳境に入ったようなので、担当の大学院生諸君には早いところ発注できるようにお願いします。


不思議なことPart2 (2013年12月9日)

 東京都の現職知事が現金5000万円を受け取っていた件が都議会で追及されていますが、この方は知事の給料一年分を返上すると申し出たそうです。知事の年間給料が2500万円以上ということにまずビックリしましたが、次におやっと思いました。

 だって、この方が5000万円を受け取った理由はそもそも、落選したときの生活費に困ると思ったからというものでした。それなのに年間2500万余円をいらないよっていうのはどういうことなのでしょうか。都知事を一年間勤めたからお金が貯まって困らなくなったということかな。いずれにせよ、おっしゃっていることに首尾一貫性が感じられません。

 しかしなによりも、給料返上の理由が「責任を取るため」というのが不思議です。責任って、なんの責任なんでしょうか。責任を取る、ということはやはり(世間の人びとが勘ぐっているように)なにかやましいことがあったのでしょうか。とにかく知事として職務に専念できるようになっていただきたいものです。


開戦の日2013 (2013年12月8日)

 今日は1941年(昭和16年)に米英などを相手に開戦した日です。毎年、この日には何らかのコメントをしていますが、今年は特定秘密保護法が成立したこともあって例年にも増して危機感を抱きますね。

 ところで国会の様子を見ていると、野党が本当にだらしないことに驚きます。民主党にせよみんなの党にせよ党内でゴタゴタしているときではないと思いますけど。自民党も内実はいろんな主義主張のひとがいるはずですが、いざというときには一致団結して行動できるという伝統は悔しいけれども一枚上手で、野党も見習うべきではないでしょうか。

 政治的に一強の情勢が続けばそれにすり寄るような政党が出てくるのも当然で、それが続けば戦前のような大政翼賛的な雰囲気が醸成される危険性も高まります。中国や韓国の(政治的に)敵対的な態度も政府・自民党にとっては好都合に映っているのではないでしょうか。国民の目を海外に向けて、ナショナリズムを煽るためにはそれらは絶好の機会ですから。

 そもそも一般国民の暮らしはさして良くもなっていないのに(私の給料もこの12月から下がりました)、財界はあげて自民党の政策を支持しているということの奇怪さはどうしたモンでしょうか。市井の人びとは安倍政権が何とかしてくれるんじゃないかという期待感をまだ抱いているようですが、消費税が現実に上がればやがてそれも幻想に過ぎなかったということに気が付くのでしょうか。

 どうにも重苦しくて、行く手に今まで以上の暗雲が立ちはだかる年末となりました。日本の平穏が続くことを祈るばかりです。


月曜日朝一限の教室 (2013年12月3日)

 月曜日の朝一限は『建築文化論』の講義です。寒い冬、週明け、早朝と来れば誰でも登校するのが億劫になるのは自然なことでしょうな(などと物わかりのよいオッサン振ってもしょうがないんですが,,,)。今日は私の担当の第三回目だったのですが、朝8時50分の始業のベルが鳴ったときには30名ほどの出席者でした。で、終業時の10時20分に小レポートを提出したのはジャスト50名でした。ちなみに教室の様子はこんな感じです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:建築文化論2013:CIMG0421.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:建築文化論2013:CIMG0423.JPG

 『建築文化論』は全学を対象とした教養系の講義なので、教室は正門のそばのAV教室棟です。ご覧のようにこんな広い大階段の教室に50名だとすかすかで、ホント寂しげで画面からも“寒さ”が感じられるでしょう?。今年が担当三年目ですが、年ごとに受講者数が減ってくるのはどういうメカニズムなのでしょうか。初年度には100名近い出席者がいたのですから、それと較べると今年は半減です。先輩たちから後輩への伝言でもあるのかな〜。

 ちなみにこの『建築文化論』の担当も今年で最後です。来年からは建築都市コースの導入科目として装いも新たにして、新1年生に聴講させることになりました(今までの『建築文化論』は建築都市コースの学生は履修してはいけないことになっていましたので、方針を180度転換したわけです)。来年からは建築計画・意匠系の先生方が『建築文化論』を担当することになりましたので、私のような(硬派の?)構造系の教員はお呼びでなくなったみたいです。それはそれで仕事が減るので構いませんが、その分、教養のほかの仕事をせいとか言われると嫌だなあ、とは思います。

 いずれにせよ、『建築文化論』の私の担当も残すところあと1回となりました。月曜日の朝一限は私にとってもそれなりのストレスでしたから素直に嬉しいです。


どう捉えるか (2013年12月1日)

 とうとう師走になりましたね。例年通りにせわしない年末になりましたが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか(と手紙調になってみる)。

 さて大相撲九州場所は先週終わりましたが、千秋楽前日だったかな、横綱・白鵬と大関・稀勢の里の一番のことです。投げの打ち合いの末に稀勢の里が勝ったわけですが、その直後に館内に万歳の声が響きました。このことがそのあと少しばかり新聞には載っていて、白鵬の顔がみるみるこわばった、などと書いてありました。

 私はたまたまテレビで見ていたのですが(白鵬の顔色は変わってはいませんでしたが、憮然とした表情をしていたように思います)、なぜ白鵬が負けて万歳が轟いたのか、すぐには分かりませんでしたが、でも横綱が負けたのに「万歳」するというのがどうにも不快で嫌な感じでした。

 でもすぐに、これはもしかしたら日本人(稀勢の里のこと)が外人の横綱に勝ったために起こったのではないかと思い至りました。もしそうだとしたら、こんなに偏狭で間違ったナショナリズムもないなと思います。横綱・白鵬は皆さんご承知のように日本人以上にストイックに相撲道に精進する求道者と言ってもよいと思います。

 さらに言えば、先の出来ごとはスポーツマンシップにも反します。健闘した末に敗れた敗者にも暖かく拍手をおくるというのが、スポーツの神髄でしょう。それを、負けたから万歳とは、もう何をか言わんやです。今までたったひとりで大相撲を背負ってきた白鵬に対して、こんな失礼な仕打ちはないと思いますし、日本人として恥ずかしい限りです。

 大相撲の人気は長期低落傾向のまま推移しているようですが、本場所に集まるファンが自ら日本の国技を辱めるようなことをしていると、一般国民がそのアナクロニズムに愛想をつかしてしまうのではないかと心配です。

 しかしこんな些細なできごとにも、現在の日本の風潮みたいなものが見て取れて興味深いですね。私が感じたように捉えるひともいるでしょうが、そうではないひともいるんだと思います(そういうひとが万歳したんでしょうな)。ただ、根拠のない優越感と言うんでしょうか、間違ったナショナリズムは国を誤る第一歩です。そのことは常に肝に銘じて欲しいと切に願います。


分業体制 (2013年11月29日)

 今朝は寒くなりましたね。セーター、マフラーと手袋で完全対策して出かけました。さて、卒論中間発表の梗概提出が昨日ありました。我が社の五名も無事に提出できました。皆さん、ご苦労様でした。でも、今日のゼミのときにいろいろとアドバイスしたり、小言を並べたりしたので、各自それぞれ今後の参考にして下さい。

 で、この梗概のチェックですが、今年は三段階の完全分業制?でやってみました。はじめに大学院生のチェック、そこを通ったら遠藤俊貴さんや山村一繁さんの助教の先生のチェック、そしてそれらを突破したらはじめて私が見る、というやり方です。これで従来よりはかなりよくなりました(チェックしてくれた先生がたや大学院生諸君のおかげです)。すなわち、あまりに酷い梗概は私のところには来なくなりました。それでも、私のチェックを2回から4回くらいは受けないといけませんでしたけど。

 今までなんでこのような分業制を敷かなかったのか、どうしてでしょうね。でもよく考えるとこれだけ大学院生が増えたのはつい最近のことですし、遠藤さんが着任したのは昨年でしたから、今まではやりたくても出来なかった、というのが実情かも知れません。この方法だと、大学院生が下級生の文章をみて指導することになるので、大学院生の文章力も問われるようになって一石二鳥じゃないかとも思います。う〜ん、ますますいいですなぁ。

 このようにこのチェック方式に味をしめましたので、しばらくはこれでゆこうと思います。ただし私のチェックを受けたいひとは、それなりにスケジュール管理をして梗概を作成して下さい。締め切り直前の駆け込みはお断りしますよ。


不思議なこと (2013年11月28日)

 昨日の新聞に大阪市教育委員会の委員長を勤める方のコメントが載っていた。私は不覚にも知らなかったのだが、その方は私と同じ大学の教授であった(学部はもちろん異なる)。

 ご承知のように大阪市はH下市長の号令のもと、学校教育の改革?が行なわれつつあるが、そのやり方ややろうとしている内容のイメージは私にとっては相当に悪い。そのような手法が本当に児童や生徒のためになるのだろうか、という疑問を拭うことができない。

 そうした施策を推進するためのブレーンの役割を、この教授が果たしているということになる。まあ、大学の先生と言っても様々な考え方のひとがいるから、それも不思議ではないかもしれない。でも首都東京の大学にいて、大阪の教育を総覧するということが果たして可能なのかどうか、私には不思議に思える。まあ、私の言いたいことは伝わったと思うのでこれ以上書くのは控えよう。


秘密って? (2013年11月27日)

 衆議院を通過した特定秘密保護法案ですが、いよいよ大変なことになってきました。このページにことあるごとに書いてきましたが、大正末期から終戦までの日本が歩んできた道を再び行くことの危険性がこれで一段と増したように危惧します。

 国家の安全を維持するためには、国同士の内緒の話し合いは必要だと思います。そうしないと纏まるものもまとまりません。ですから、そのようなグローバルなインテリジェンスの重要性は認識しています。

 しかし今回の法案では、どこまでが国家のインテリジェンスでどこからがそうではない国民が周知すべき事実なのか、がよく分かりません。世間の人びとが言っている通り、これでは国家にとっていくらでも都合良く解釈できます。その結果として、憲兵が歩き回り、市井の人びとは声を潜めて生活せざるを得なくなったというのが敗戦に至る日本の状況でした。

 当時の大本営による意図的な偽情報の発表でも分かる通り、情報を操作されてはどんなに優秀な人間でもものごとを正しく認識して判断することはできません。このような「いつかきた道」を再び歩くことの愚だけは避けねばなりません。

 朝日新聞の一面で菅原文太さんが書いていましたが、この法案の成立を防ぐためには国民ひとりひとりが自分で考えて、声を上げることが必要です(菅原さん、いいこと書いてましたね〜)。そのような健全な社会に日本は十分に成熟したと思います。ここでこそ、われわれ日本人の良識というものを見せようではありませんか。

 それにしても自民党の危険な性向がいよいよ表に現れてきましたね。これを防ぐのが野党の役割ですが、どうでしょうか,,,。


晩秋の公園 (2013年11月26日)

 この週末は穏やかな日和になりました。陽射しのなかにいればほんのりと暖かさを感じることもできました。そこでお弁当を持って近場の公園に出かけました。品川通りを西へ向かい、途中、鹿島の技術研究所の脇を通り過ぎ、車で三十分くらいです。競馬・競艇で潤う(?)F中市の公園だからでしょうか、入園料も駐車場も無料でコストパフォーマンスに優れているので、我が家では御用達の公園です。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:府中交通遊園20131124:CIMG3513.JPG

 この公園では専用コースの電動ゴーカート(有料)に乗れるほか、写真の路上では足踏みゴーカート(こちらは無料)に乗れるので、子供たちには大人気です。公園内は紅葉真っ盛りでした。赤、黄、茶色の葉っぱがハラハラと舞い散り、とても綺麗でした。もうすぐ十二月、寒い冬がすぐそこまで来ていることを実感しました。


立体試験体の搬入2013 (2013年11月25日)

 先日、コンクリートを打設した立体隅柱梁部分架構試験体ですが、今朝、大型実験棟に搬入しました。アシスから田島祐之さんに来ていただき、いろいろと差配していただきました。忙しいところご苦労様です。実験の担当はM1・片江拡くんとB4・佐藤宏一くんです。これから寒い季節となりますが、怪我や事故のないように注意して実験に取り組んで下さい。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:隅柱梁接合部試験体搬入2013_片江:CIMG0420.JPG

 特に今回は梁が直交する二方向に取り付くという、隅柱を対象としています(バランスがとっても悪いので要注意)。今まで我が社ではやったことのない実験ですので、いろいろと気を遣うと思います。同じ形態の試験体は芝浦工業大学・岸田慎司研究室で以前に加力しているので、参考にして下さい。


進 歩 (2013年11月23日)

 今年は勤労感謝の日が土曜日と重なったので、祝日のありがたさも半減ですね。さて、女房の持ち物だったコンポーネント・ステレオが随分前に完全にお釈迦になりました。よくは覚えていませんがカセット・デッキがダメになり、CDが聞けなくなり、最後はレコード用のターン・テーブルの具合が悪くなって完全に機能を喪失しました。

 私はiPodにイヤホンで音楽を聴いているのであまり不便もないのですが、ときには大音量のスピーカーで臨場感溢れる音楽も聴きたいなあと思って、先日、ビックカメラに行ってミニ・コンポを購入したのです。

 特にリサーチもせずにいきなりお店に行ってブラブラと見ていたのですが、ちょうどタイム・サービスという札がかかっていて、幾らか聞いてみると三万円ちょっとだったので、じゃあこれ下さいって感じで買いました(女房がえっ、もう買っちゃうのって驚いてましたけど)。メーカー名とiPodを差せることとアンプの出力が50Wx2(これならかなりデカい音を出せるだろ)ということくらいを確認しただけです。ただ店員さんがこれはエア・プレイができていいですよ、と言っていました。
説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:K0000402813.jpg
 三万円のミニ・コンポが安いのかどうか判断はできませんが、イヤホンだってちょっといいものはそれくらいしますから、やっぱりテクノロジーの進歩のお陰で安くなったと思いますね。

 ただリサーチのしなさすぎで、据え置いたところ置き場所の奥行きが狭くてデッキの本体がはみ出してしまいました、ああ、カッコわる〜。ミニとはいえ、奥行きは結構あることに気が付かなかったのです。仕方がないので、余っていた本棚の板を持ってきて、その上に載せました。

 で、機器をセットしてマニュアルを見ると、ミニ・コンポを無線LANに接続すればパソコン内(MacintoshのiTunesというソフトが必要)の音楽を聴くことができるというではありませんか。調べてみるとこれがアップルの提供するAirPlayという仕組みでした。これが使えればCDデッキなんか本当は必要なかった、ということになります。私は全然知りませんでしたが、本当に技術の進歩はすごいですね〜。

 ということでMacのiTunesを立ち上げてこのAirPlayで音楽を聴いています。時には(イヤホンではなくて)空間を伝わってくる音の波を聞くのも良いもんだ、ということに気が付きました。イヤホンでは気づかなかった音なんかも聞こえます。何も調べずに買ったミニ・コンポですが、まあそこそこの買い物だったと満足したのでした。


このごろ
 (2013年11月22日)

 なんだか年末が近づいてきたせいでしょうか、このところベラボーに忙しいです。大部分は私が建築都市コースのコース長を勤めているせいかと思います。日々のメール数が昨年比で1.5倍以上に増えています。メールに対応しているその瞬間に、それに関するメールがまた届くといった塩梅で、もう疲弊しました(これを書いている今もメールが届きました、何々うんうん,,,)。

 その合間に、いろんなひと(我が社の学生さんのことではありません)が訳の分からないことや、何でそんなことまで私に持ち込むんだというようなことを言いにきたりします。もう勘弁してくれ〜ってな感じです。

 忙しいとそれに比例して不愉快なことも増えますので、精神安定上もよくありません。短気な私にとっては一瞬の沸騰に対する瞬間冷却が必要ですが、我知らずに怒りがほとばしって怒鳴りつけるようなことも数回ありました(その場面に遭遇したひとは運が悪かったとおもって諦めて下さい)。

 あ〜、今週は大変でした。せめて週末くらいはしっかり休んで英気を養いたいと思います。楽しいこと、想像しようっと。


基礎ゼミナールを担当する (2013年11月21日)

 来年度から、新入生全員が前期に受講する『基礎ゼミナール』を担当することになりました、って言うか、自分で決めました。わが建築都市コースからは3名の教員を担当者として出さなければなりません。で、それは建築都市コースのコース会議で決めるのですが、誰も手を挙げてくれませんでした。そりゃ本音を言えば誰もやりたくないでしょうな。

 コース長たる私がその会議を差配しているのですが、私は(皆さんご承知のように)気が短いですし、会議の時間が勿体なかったので(誰かを指名するのも面倒くさかったというのもありますが)、私が自分でやりますと宣言したのでした。まあ、いま考え直すと自分から仕事を増やすことになるので、ちょっと後悔もしていますけど,,,もう、あとの祭りです。

 ただ、以前にもこのページで書いたアクティブ・ラーニングを実践するよい機会になりますから、どんな授業をやろうかといろいろと考える楽しみを味わっています。半期に渡って少人数ゼミを担当するのですが、少人数と言っても最大で25名もの学生さんをみるそうなので、テーマ設定が重要になってきます。

 というのも、新入生諸君は『基礎ゼミナール』のシラバスを見て、それだけを頼りにして希望するゼミを優先順位を付けて申請する方式になっています。あんまり人気があって多数の学生さんに来られるともはや少人数とは言えなくなって、ゼミナールとしての利点が失われると思います。もちろん全然人気がないというのもそれはそれで悲しいですから、そのあたりの塩梅は難しそうです。すなわち新入生が殺到せず、さりとて志望者がひとりもいないというようなことは避けられる、そういう授業内容にする必要があるのです。うーん、難問ですなあ。

 でも、初めての私にはさすがにそこまでは分からないので、とりあえずは私自身の理想とするゼミナールを開講できるよう、これから知恵を絞ろうと思います。手始めにほかの先生方のシラバスを眺めているのですが、土木の梅山先生みたいに専門とは全然違うことをやる(ロックを通して若者文化を語ろうぜ、みたいなヤツです、すごいですね〜)、というのはカッコはいいですけど私には無理なので、やはり建築ネタになるでしょうな。土木でコンクリートをやっている上野敦さん(准教授)も以前にこのゼミをやっていたので、偶然電車で一緒になったときに、根掘り葉掘りノウハウを聞いたりもしました(とても役に立ちました)。

 ちなみに私の『基礎ゼミナール』は水曜日の4限(午後2時40分スタート)になることが、基礎教育部会の角田誠先生からの連絡で分かりました。いちおう三年間のお勤め、という約束です。渾身の(?)シラバスが出来上がったら、研究室のページにアップしま〜す、乞うご期待!?。


推薦入試2013 (2013年11月19日)

 昨日、建築都市コースの一般推薦入試がありました。一都三県の高校から推薦された生徒さんが多数受験してくれましたが、推薦とはいえ倍率が三倍を超えるような“狭き門”には変わりはありません。

 私は今年、大学説明会の個別相談会やオープン・キャンバスなどの高校生を対象とした仕事に関わって来ましたが、この推薦入試ではそのときに見かけた顔を何人か見い出しました。個別相談会でいろいろと相談に乗って、その結果として本学を志願して受験してくれたことは私としてはとても嬉しかったですね、役に立ったんだという感想です。

 そんなことを思うと、高校生を対象とした宣伝活動はやっぱり大切だ、ということが分かります。入学志願者を増やすためには、ひとりひとり顔を見ながら地道に活動するしかない、ということかも知れません。


音楽体験のみなもと (2013年11月18日)

 毎週金曜日は伊藤銀次のネット・ラジオが配信される日である。どんな分野でもそうだが、一流を極めたひとの言うことは非常に論理的だし説得力もある。さらに大袈裟にいえば、自然界の真理や人間社会の理(ことわり)にまで通じる事柄も多い。伊藤銀次の話すこともその口で、なるほどなあと感心させられることが多いのである。

 で、彼はミュージシャンなので話すことも音楽ネタである。彼の音楽体験を聞いていると(六十歳前後のかたに多いのであるが)、1950年代から60年代のアメリカのポップスやイギリスのビートルズとかの影響が源流にあることが分かる。その頃の名曲たちはその後、何度もリメイクされていろんなひとに歌われているので、曲を聴けばああ、あれかと気が付くものも多いだろう。

 かように六十代以上の方には西洋のロックとかリズム&ブルースとかフォークとかによって音楽に目覚めたと語るひとが多い。しかしよく考えるとそれはちょっと不思議である。日本にも各地方土着の音楽(民謡とか子守り歌とか)を含めて日本古来の音楽があるし、1950年代には歌謡曲だって存在してラジオから流れていたはずである(若者の特質として、現状に満足できず、社会に対して常に鬱屈した気分を持っているというのはいつの時代でも同じであろうが、そのような若者のはけ口として西洋のロック等がフィットした、ということであろうか)。

 そのような日本土着の音楽から刺激を受けて楽曲を作ったひとはあまり聞かない。すぐに思い出すのは1970年代のフォーク・グループ「赤い鳥」ぐらいかな。吉田卓郎らの「かぐや姫」にも日本的な曲調の曲があったような気がする。

 しかしそういった「戦争を知らない子供たち」も年をとって、やがて老人となる。それに代わって出てくる若い人たちは、小さい頃からユーミンとか山下達郎とかサザンとかを聴いて育ったので(いや、私の知らない新しいMusicかもしれない)、今までの“老人”たちとはまた異なった音楽体験の源を持っていると推量する。彼らのそれについて、いつか聞いてみたい。

 翻って自分自身の音楽の源流をたどると、それはレコードから流れてきた西洋の映画音楽だったような気がするが、それについてはまた改めて書いてみたい。


ゼミの日と五線譜
 (2013年11月15日)

 昨日はゼミの日でした。北山研究室の個人ゼミが二つと、以前に書いた鈴木翔太郎くんのプロジェクト研究コースのゼミの三つです。その合間に、学部長から依頼のあった仕事をしたり、建築都市コースの一ノ瀬雅之幹事(准教授)とコース運営について相談したり、研究室の4年生と卒論タイトルについて打ち合わせしたり、さらには大型実験棟で実験している岸田慎司先生から大変だあ〜という電話が掛かってきて驚いたり,,,いやあ、多忙な一日でした。

 もちろん研究室内の活動は全て自分の研究に直結していて、ゼミをやっているときは頭がフル回転するし楽しいのですが、それでも自分の仕事は何も捗らないので達成感という点では今一歩ですかね。

 さて以前(2013年9月20日)にもちょっと書いた崎谷健次郎が十二年振りのアルバムを出したので、迷わず買いました(3000円ですが、生協で買うと15%引き)。『五線譜のメッセージ』というタイトルですが、期待に違わず私にはフィットする音感です(って、まだ少ししか聴いていませんけど)。その透明でハイトーンな歌声は昔と変わっていませんでした、嬉しいですね。一曲だけ(「風を抱きしめて」という曲)、彼の初期の曲の別アレンジ・再録音(セルフ・カバーって言うらしいのですが、何か妙な呼び方のような気がします)があるのですが、これもなかなかGoodです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:41dTDo9cxGL.jpg

 音楽に五線譜はつきものですが、この用語をそのままタイトルに使った曲は以外と少ないのではないでしょうか。すぐに思いつくのは竹内まりやが唄った「五線紙」くらいかな。「メロディ」をタイトルとした曲は多いんですけどね、サザン、角松、織田哲郎,,,(あとは自分でお願いします)。


腰の痛い講義 (2013年11月13日)

 午前中の「鉄筋コンクリート構造」の講義が終わりました。例年、学園祭が終わると出席者がガクンと減るのですが、今日は26名も出席者がいてちょっと驚きました。まじめな学生さんたち?とも思えませんけど、どうしたのかな。まあギャラリーが多ければそれなりに嬉しいですけど。

 今までなかったのですが、講義が終わるとここのところ腰が痛いです。私は小谷俊介先生流にものすごく板書するスタイルなので、坐って講義することはできません。iPodの歩数計では講義中に1300歩ほど歩いていました。時流に乗ってパワーポイントで講義するという誘惑はありますが、板書しないと学生さんたちは多分覚えないと思いますね。

 私の祖父はむかし教卓のところに坐って、持参した水筒をちびりちびり飲みながら(もしかしたらお酒が入っていたのかも知れませんが)講義をすると言っていました。ホントに羨ましい限りです。腰が痛いからって、板書しないわけには行きませんので、どうしたもんかなあ。


乃木坂にて (2013年11月11日)

 先週末、久しぶりに日本学術会議のある乃木坂に行ってきました。地下鉄千代田線の乃木坂駅を出るとすぐ脇にあります。とても懐かしく感じました。しかしあたりの風景は私の記憶とは全く変わっていました。頭の上には新しくできたオーバーパスが覆い被さっていました。

 昔は乃木坂に東大生産技術研究所があったので、私が大学院生の頃には毎週講義を受けに通いました。岡田恒男先生、高梨先生、半谷先生など構造系の先生方の講義です。戦前に近衛師団が入っていた建物をそのまま使った東大生研のプラン(平面図)は丸みのある日の字形をしていて、自分がどこにいるのかつかみにくい構造でした。

 しかし21世紀に入って東大生研は駒場に移転し、その建物も取り壊されてそのあとに黒川紀章の新国立美術館が建ちました。私はまだ行ったことはありません。夕方の暗い時間でしたので、あたりの様子はよくは分かりませんでしたが、新美術館のガラスのファサードが輝いていました。

 日本学術会議には、ある分科会に呼ばれていきました。福島第一原発の汚染水問題を検討するのが目的だそうで、私は建築学会から派遣される形で出席しました。ちなみにもうひとりの派遣者は東大生研教授の川口健一さんでした。

 私は汚染水のことなど全く知らないので、この分科会への参加については本当のところは困惑しています。しかし建築学会では原子力建築運営委員会の主査を務めているために無碍に断ることもできず、様子も分からないままに出席したのです。

 その分科会は建築学会・前会長の和田章先生が委員長だったので、その点はよかったです。和田先生とは1994年の三陸はるか沖地震の被害調査の際にご一緒して以来、よく存じ上げていたからです。

 で、その会議ですが、えらい先生方ばかりなので、日本学術会議ってこんな感じなんだあという、おのぼりさん的な感想が第一です。ただ先生方のご専門は文系から理系まで様々ですので、いろんな観点から(まあ、好き勝手なことを)発言されていましたね。あんまり書いてもいけないでしょうから、この辺りでやめておきます。落としどころがどのあたりにあるのか、難しそうな気がしました。


アクティブ・ラーニング考 (2013年11月7日)

 昨日の午後、大学のFDセミナーに参加しました。FDとはFaculty Developmentの略で大学教員の授業に対する意識を高めて、授業の手法の向上を図ることを目指しているのだと思います。FDセミナーは過去にも何度か開かれたと記憶しますが、授業とぶつかったり、学外の委員会等と重なったりして参加できず、今回初めて参加しました。特にここのところアクティブ・ラーニングをどのように実践したら良いのか考えて調べていましたので、いい機会になりました。

 アクティブ・ラーニング(Active Learning)とは学生さんに主体的に勉強してもらうことを指しています。先生が一方的にしゃべるのを学生が拝聴する、という従来の一方向型の講義ではなく、双方向の授業が望ましいと言われています(それが本当に妥当かどうかは熟慮するべきですが、今は触れません)。要は学生さんに自分自身でしっかり考えてもらって、身につけた知識を実際に活用してもらうためにはどのような授業が効果的なのか、ということです。

 そのためには我々教員はどのような仕掛けをすれば上手く行くのか、教育学の世界ではその方法論が結構研究されているみたいで、具体的な手法を記した教本なども出ています。そういった本を今までに数冊読んでみましたが、外国の例が多かったせいもあってどうも今ひとつピンと来ませんでした。

 で、このFDセミナーでは本学の五人の先生方の授業内容を伺うことができて大いに参考になったのですが、皆さん相当に苦労して工夫を積み重ねていることが(予想通りでしたが)分かりました。その実践談にはどれひとつとして同じものはなく、それぞれになるほどと思いました。

 そのなかでも一番印象に残っているのが、授業ノートを提出させてそれで成績を付けているという生命科学の先生のお話しでした。この先生はひとの能力を測るようなテストはやるべきではないという意見をお持ちで(このこと自体に私は驚きましたが)、期末試験などのテストは学生諸君にとっては相当なストレスになっているのでやめるべきだとも言っていました。かなりドラスティックなご意見だと思いますが、でもその信念に基づいて授業を組み立てておいでなので偉いなあと感じました。

 また基調講演をされた山形大学の先生のお話しのなかで、答えが分かっている問いかけはするな、というのがありました。私の講義ではときどき板書した図を指しながら、これって何ですかと学生さんに質問するのですが、そのような教師には分かりきった質問を学生にすると、彼らはしらけ切って先生が答えをいうまで黙って待っている、というのです。まあ、確かにそんなところはありますね。

 それから私が疑問なのは、Advanced courseのいわゆる発展型とか応用型の講義にも学生さんの参加を促すような手取り足取り型の授業が必要なのかということです。私の担当でいえば『鉄筋コンクリート構造』という講義がそれに当たります。建築構造学の基礎を学んだ上で、それらの知識を駆使して鉄筋コンクリート構造を考えることになります。

 このようなAdvanced courseの講義は、学生さんが興味に基づいて自主的に選択するものだと私は思っていますので、極論をいえば(自分で勝手に勉強して)期末試験に合格さえすれば講義に出なくてもよいですし、実際に私はそのように学生諸君に伝えています。もちろん、授業を聞いてくれる学生さんはちゃんといるので、分かり易く、学生諸君の興味を引くような講義を心がけていますよ。

 こんなにも授業のやり方を考えないといけないのは、大学が大衆化したからに他なりません。それを悪いとは言いませんが、一流の研究をして国際競争力を高め、その成果を社会に対して還元しつつ、教育には全身全霊を賭して取り組む、こんなスーパーマンのようなことを求められているように感じます。疲弊しないように、できるだけ効率的に仕事をする、さもなくば大胆に取捨選択する、こんな風にするのでしょうか。

 結局、最後は愚痴になってしまいましたが、(究極的には)自分の好きなことをやっている大学教員はやっぱり恵まれています。教育をやりたくなければどこかの研究所に行けばいいだけの話で、私が大学にいるのも若い学生諸君と一緒にあれこれ考えながら研究したいと思っているからです。彼らと議論することでこちらも学ぶことはありますし、彼らとともに私も(未だに)成長しています(と思いたい)。いつも書いているようにその活動自体がとても楽しいのです。これはやっぱりやめられませんな〜。


学生さんのメール (2013年11月5日)

 今日は大学祭の最終日です。三日目ともなると学生さんも疲れるのか、また今日は平日のため来校者は少ないだろうからか、たたまれたテントがあちこちに見られました。めっきり秋めいて来て、そろそろ暖房を入れようかという季節になりましたね。

 さて、ここのところ何人かの先生方と話題になったのが、学生さんのメールについてです。先生に出すメールに要件だけしか書いてないとか、口の聞き方(メールの書き振り)がなっていないとか、そんな類いのはなしです。

 まあ電子メールは手紙とは違うので時候の挨拶や「前略,,,早々」などは不要かとも思いますが、それも先生によっていろいろな考え方があって温度差を感じますね。しかし私が気になるのは、先生からのメールに対して返事をしない学生諸君が非常に多いということです。

 このあいだは、夏まえに履修の相談を受けた1年生の様子が心配だったので、どうしていますかという気遣いのメールを送ったのですがなしのつぶてでした。また、研究室の学生諸君にいろいろな案内のメールを送っても(さも当然というかのように)なんのレスもないことが多いのです。先端研究ゼミナールの配属になった3年生の三名のうち、返事が来たのはひとりだけでした。もうホント寂しい限りで、情けなく思います。

 若者たちのBehaviorは知りませんが、友人からメールが来たらすぐにレスを返すという話はよく聞きます。ということは先生は友人ではないので放っておいてよい、という理屈なのでしょうか。いずれにせよそんなことでは、社会に出たときには大いに困ると思うのですが,,,。でも、大きなお世話なのかも知れませんね。

 社会でのコミュニケーションとか意思の疎通のための潤滑油とかについて、大学で教えないといけない時代なのかも知れませんが、私はご免蒙ります。大学生は社会人である、いっぱしの大人である、そういう認識でいたいものです(すでに幻想に近いですけど,,,)。


オープンクラス2013 (2013年11月3日)

 大学祭が始まったこの日(左下の写真)、わが建築都市コースが主催する高校生のためのオープン・クラスが開かれました。コース長の私は例によって主催者代表として挨拶して、大学の建築学科で何を学ぶか、というこれまたいつものお題でちょっとだけ話をしました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU20131103オープンクラス:CIMG0407.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU20131103オープンクラス:CIMG0413.JPG

 たくさん来てくれると嬉しいのですが、今日は約30名の高校生(とそのご父兄がパラパラ)が参加して下さいました。私が主担当者をしたとき(2007年)には90名近い人たちが(当日の飛び入りを含めて)来てくれたように記憶します。で、ついでだからこの2007年のときの参加者名簿を取り出してみると、そのなかのかなりの方はわが建築都市コースに入学していたことがわかりました。おまけに我が社の現M1の片江拡くんの名前を見つけてさらにビックリ!(本人に聞いたらほとんど忘れていましたけど)。なのでこのオープン・クラスが結構役に立ったんだと認識しました。

 脱線したので今日のことに戻ると、今回の主担当者は鳥海基樹准教授で、講演者は山田幸正教授(建築史、右上の写真)と芳村学教授(建築構造)のお二人です。高校生にとっては建築学の間口が幅広いことを体験できるはずです。このなかからまたわがコースに進学してくれる人がでることを期待しています。


天皇陛下への手紙 (2013年11月1日)

 参議院議員の山本太郎さんが秋の園遊会で天皇陛下に直接手紙を手渡したことが問題になっています。政治家からは批判の合唱となっていますが、それはそれぞれの政治的思惑から騒いでいるにすぎないでしょうから置いておきます。

 で、私自身としては、天皇陛下に直接訴えかけたかったという彼の心情は理解できるし、そのような使命感はあり得ると思うのですが、結論としてはやはりまずかったと思います。園遊会というのは国民の誰でもが参加できるものではなく、一握りの選ばれたひとだけがその場に集えます。その場ではいわば(少なくとその瞬間だけは)特権階級であるわけです。そのような立場を利用して、天皇陛下に直接自分の意志を伝えようというのは、それがいくら国民のことを慮ったとしてもルール違反であると言わざるを得ないでしょう。そのようなことが許されれば、皆が同じようなことをやって、天皇陛下は困惑することになるでしょう。

 現在の天皇陛下は決して「裸の王様」ではないように思います。国民の状況をちゃんと理解され、それに則って発言し、行動されていることは周知の通りでしょう。ですから、個人としての使命感とか危惧とかは自分の胸にしまっておけばよいと思いますが、どうでしょうか。それを敢えて天皇陛下に伝えようとすれば、そこに何か思惑があるのではないかと疑念を抱かれてもそれは当然と言えば当然でしょうね。


国際化のはなし (2013年10月31日)

 10月最終のこの日、学部長から動員がかかったあるシンポジウムに参加してきました。お茶ノ水にあるホテルの宴会場です。今まで大学の上層部から言われた動員など全て無視してきました。しかし各学域(大学院の専攻のこと)から二、三名を出すようにとのお達しがあって、ほかの先生方を指名するのは(以前の自分のことを考えると)はばかられたので、仕方がないので学域長である私ひとりが参加することにしたのです。わざわざ学域長が出席するのでひとりでもいいだろう、という了簡です。

 で、その内容ですが、東京農工大学(TATと略称するそうです)、茨城大学(こちらはIUだとか)および首都大学東京(TMUです)の三大学による、国際化に向けた恊働教育コンソーシアムとかいうものを立ち上げる協定調印式のあとのkick-offシンポジウムでした。この三大学の先生のほかにASEAN諸国から三大学の方も参加しており、使用言語は英語です。

 動員されて渋々参加したとは言え、せっかく出たからには何かを得て帰らないと損ですから、プレゼンテーションとパネル・ディスカッションを一所懸命に聞きました。それらを聞いていると、どの大学(ASEANも含めて)も国際化ということにものすごく力を注いでいることが分かりました。

 確かに学生諸君が海外に出て見聞を広げ、異国の文化を肌で感じ、異国の人と友人になることは大切なことですし、大いに奨励するべきだと思います。また、日本国内の人口減少によって大学進学者数も必然的に減少することが明らかな現在、日本人のみならず外国からの入学者を増やさなければ大学が潰れるという危機感もあるでしょう。

 しかしそれにしてもちょっと異常な熱の入れ方、のように感じるのは私だけでしょうか。とにかく東南アジアをあげてバスに乗り遅れるな、みたいな感じで国際化に邁進しているような印象を受けましたね。

 ただ救いだと思ったのは、今までのような欧米追随型のActivityではなくて、東アジア地域帯での恊働を見据えた国際化であるという点でしょうか。本学の青村先生もPDで話していましたが、日本人は欧米にありがたがって留学したがるが、これからはそうではなくて同じアジアの中での国際化を目指そう、というのは評価できます。ただ英語のシラバスを作るくらいならまだしも、講義を英語でやれと言われたら、それはちょっとなあとは思います。


プロ研のゼミ (2013年10月29日)

 今、プロジェクト研究コース(No.9)のゼミがありました。プロジェクト研究とは大学院のコースのひとつで、当該コースの大学院生は特定の研究室に所属せずに、複数の教員による集団指導を受けることが特徴です。

 ちなみにわがプロジェクト研究コースのタイトルは『学校建築ストックの利用価値向上に資する対震改修デザイン形成』というものです。「耐震」ではなくて、わざと「対」震という用語を使っていますが、これは角田誠さんのアイディアです。

 で、その構成ですが、大学院生はM2の鈴木翔太郎くんひとりだけなのに対して、教員は須永修通教授(建築環境学)、角田誠教授(建築生産学)、北山(建築構造学)および猪熊純助教(建築設計)の4名もいるのです。なんて贅沢なコースでしょうか!

 このプロ研のゼミですが、斯様に学生さんがひとりっきりなので彼の発表に対して先生たちがよってたかってあれこれ批評するわけです。見方によってはなんて羨ましいゼミなんだろう、とも言えるかも知れません。しかし今日について言うと、それがもう雨あられのように批判やら意見やらつぶやきやらが彼に対して浴びせかけられました。先生がたの仰ることはもっともなのですがさすがに可哀想になって来て、私はあまり発言せず、もっぱらそれを抑えるほうに回ったくらいでした。

 今日のゼミの成果を翔太郎くんがどのくらい活かすことができるか、ちょっと心配なところもありますが、もう時間的な余裕はありませんから(彼は論文と修士設計との両方にトライする、と言っていますから)、頑張りあるのみといったところでしょうね。健闘を祈ります。


決 断 (2013年10月25日)

 アップルが大きな決断を下したようです。10月23日にiPadの新しいヤツが発表になり、そのことが大きく報道されていましたが、そのかげに隠れて(?)Mac OS Xの最新版である10.9 Mavericks も発表になりました。で、お値段は幾らなんだろうと思ってアップルのサイトを見たところ、なんとタダというではないですか!

 Mac OSにせよWindowsにせよ、今まではそれなりの対価を払って購入してきました。それが今回のMavericksから方針が180度転回して無料配布となったのです。いやあ、思い切って勝負に出てきたという感じですね。少し古いMacでも最新のOSをインストールして使うことによってMacの良さを再認識できるし、非力なマシンだともしかしたらMavericksがサクサク動かずに欲求不満になるので新しいマシンを買うひとも出てくるかも知れません。

 なによりもコンピュータのOSをネット空間の空気みたいなものと捉えて、Macを持っている誰でもが自由に使えるようにすることで、電脳世界でのMacのシェアを押し上げようという意図でしょうか。それともOS販売がメインであるマイクロソフトとの差別化を目論んだのでしょうか。いずれにせよアップルがビジネス・モデルの大きな転換を図ったことは間違いありません。

 無料なのでさっそくインストールしようかと思いましたが、出たばっかりだといろいろと不具合があるでしょうし、今まで動いていたソフトウエアが動作しなくなるリスクもあります。そこで、モバイル用に使っている一世代前のMac Book Airにとりあえず入れてみることにしました。ただ実際にやってみると、5GB以上もあるファイルをダウンロードする必要があり、結構な時間がかかりました(とはいえ、夜中にダウンロードを始めて朝起きたら終わっていたので、かかった時間は不明です)。

 で、使ってみて案の定、動作がおかしくなったアプリケーションが散見されましたので、メイン・マシンへの導入はしばらく待とうと思います。現在の私のメイン・マシン(iMac 27 inch)は10.7 Lionで動いていますから、二世代前のOSということになりますが、それでも別に困ってはいません。ただ、メール・ソフトやスケジューラー(iCal)はMac OS に付属するものを使っていますので、それらの最新版を使いたいという欲求は常に持っています。

 ついでですが、アップルはOSだけではなくて、ワープロ・ソフト(Pages)、表計算ソフト(Numbers)それにプレゼンテーション・ソフト(Keynote)もこれから販売するMacには無料でつけるそうです。ソフトウエアで儲けるという路線からサヨナラしたことがこれからも窺い知れます。


建築家の嘆き (2013年10月23日)

 文教施設協会の季刊誌『文教施設』(2013年春号)を見ていたら、建築家の船越徹さんの「アメリカのチーム・ティーチングと日本の学級制」というインタビューが載っていました。私は建築計画学や設計とは無縁ですが、COE研究で上野淳先生と学校改修プロジェクトなどをご一緒したことから、学校建物の機能や設計にも興味を持っています。それを理解していないと耐震補強によって魅力的な学校空間を創出できないと考えるからです。

 その記事のなかで船越さんは、せっかく普通教室のそばにオープン・スペースを設けたのに使われないし、複数の学年にまたがるチーム・ティーチングを取り入れられるような空間を用意したのに実現せず、深い挫折感を感じるばかり、と述べておいででした。

 学校建築に生涯をかけて取り組んだ船越さんの言として、それは非常な重みがあると思います。どんなに建築家が思いを込めて設計しても、使う人がそのような思考に至らないのであれば、そしてそれを不便だと思うのであれば、それは実現しないわけです。特に学校の先生にはいろいろな主張を持った方がおいでだと思いますので、その性癖までを打ち壊すことは容易ではないということでしょうね。

 それでも船越さんの嘆きには同情を禁じ得ませんでした。同時にそのような心情を正直に吐露された建築家を私は偉いと思いました。建築家としての信念に基づいて理想を掲げましたが、それは実現しなかった、残念だったと告白されたのです。

 つねづね思っていますが、新奇で奇抜な建築が世の中ではもてはやされますが、それは一時だけのことで、そういうものほど建築家の思いとは別に消費されてしまうのです(船越さんがそのような建築家だと言っているわけではありません)。そういうものは独りよがりの建築、と言い換えても良いでしょう。世の中の先端を進んで理想を追求することも必要ですが、同時に現在における最適な解を提供することも建築家には求められていると私は考えますが、いかがでしょうか。


大学の学長選びを考える (2013年10月21日)

 先日の朝日新聞に近ごろの大学・学長選びについての記事がありました。本学でも大学統合(2005年)以前には、推薦された数名の候補者のなかから教職員の選挙によって最大得票者がそのまま学長(当時は総長と呼んでいたような気がします)に就任していました。

 ところが首都大学東京が発足したときには、学長は教職員の知らない天から降ってきました。最近ではその状況は若干改善されて、学内の学長選考会議で推薦されたひとのなかから理事長が任命するようになっています。しかし学内の大部分の構成員である一般教職員が投票等によって意思表示する機会は設けられていません。すなわち大学内の世論とはほぼ無関係に学長が選出されていることに変わりはないのです。

 大学での意思決定をスムーズにするためには、学長によるトップ・ダウンを徹底することが必要と言われます。教授会で延々と議論した挙げ句に何も決まらない、ということもあったでしょう。しかしことあるごとに書いているように、知の拠点であるべき大学は営利追求の企業とは自ずと異なります。そのような資本主義社会の規制律に従って行動すべきではないのです。

 世の中の変化が加速される現在、大学といえども改めるべきところは改めなければなりません。そのことを大学の構成員は自覚して、自らの意思で変革を実行すべきです。良識ある人たちの集まりである大学で、そのような自己変革ができないはずはありません。もちろん議論のためにする議論などは排除すべきでしょうが、実行するまえに議論を尽くしたという事実は重要です。

 このような大学自治にとって、学長を自ら選ぶということは象徴的な事象だと思います。権力とは本来無縁であるべき大学の自治を維持するためには、学長を自分たちで選ぶことは必須であると言い換えてもいいでしょう。日本に大学が誕生して以来、大学人の先輩がた(主として東京および京都の両帝国大学の先生がた)は大学の自治を確立することに注力して、ときには多大の犠牲を払ってもそれを守り、維持してくださいました。

 そのような歴史を考えるとき、自分たちの意思によって学長を選ぶことができないということは大学にとって異常であると言わざるを得ません。この異常事態を解消すること、そのためにはどうすべきか考えたいと思います。しかしながら少なくとも工学系の先生たちには、このような危機に対する意識は残念ながら希薄なようです。自分のやりたい研究に没頭できればそれでよいという誘惑は私も覚えますが、大学の自治は空気のようなものですから、それが“汚染”されればやがては大学人の“健康”が蝕まれるのは自然の理です。


忘れる (2013年10月18日)

 久しぶりにまとまった時間が取れそうなので、研究内容について考えています。先日の研究室ゼミでプレストレスト・コンクリート構造の話題が多かったので、それを考えているうちに、あれ?これって以前に研究しなかったっけ?とか、あのときの研究の成果が使えるんじゃなかろうか、とか思いつきました。でもわずか数年前の研究室の成果を忘れているなんて、我ながらちょっと愕然としました、ボケてるんじゃないかと(まあ、大丈夫だと思いますけど,,,)。

 そんな訳で研究室で発表した論文を見ているのですが、2011年に嶋田洋介くんが発表したコンクリート工学年次論文は(そのときにも思いましたが)よく出来た論文だと改めて思いましたね(手前味噌ですが)。なぜこの論文が優秀論文賞をゲットできなかったのか、ホント不思議です。私の回りのPCの人びとにはこの論文は好評でしたから、JCIの審査者たちにはこの論文の価値がきっと分からなかったんだと思いますよ、負け惜しみですが。

 ですから、嶋田くんのこの成果を使って、あるいはさらに発展させて、我が社の研究をさらに進められるのではないかと今、考えているところです。やっぱりたまには深い思考にどっぷりと沈潜してじっくり考えることが必要ですね。改めて実感しています。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:アルバムカバー:PEARL PIERCE.jpg

 なんて言っていますが、お昼休みには生協で買って来たユーミンの「Pearl Pierce」という1982年発売のアルバムを聞いています。すごく懐かしいですが、30年ぶりにアルバム全曲を聴いてみて、このアルバムは名盤だとつくづく思いました。よく出来ています(なんて、大御所に向かって失礼します)。少なくとも彼女自身のこれから十数年後のアルバム達よりは数段うえだと思いましたね。


コース長というおしごと (2013年10月17日)

 今日の木曜日は一日中、会議の日です。午前中はコース会議と学域会議、午後は代議員会と教授会で、これで一日が終わります。なんだかなあ、というのが偽らざる気分です。さらに夕方には新規採用教員の歓迎会がセットされています。

 建築都市コースのコース長を仰せつかってから半年が過ぎました。ゴミ捨ての差配や教室の設備整備などのなんでそんなことを私がやらにゃならんのかという仕事から大学の将来計画や人事などすこぶる重要な業務まで、本当に息つくヒマもないくらいにタスクを言いつけられて来ました。他のコースのコース長とそろそろ疲れてきましたねなどと愚痴を言い合うようなこともあります。

 なんでこんなにたくさん仕事がくるのか、それは電子メールのせいだと思います。大学本部からのお達しやタスクは幾つかの部署を経由して末端の私のようなコース長に降りてきます。そのときにメールって、ただ宛先を入力したら転送するだけですんじゃうんですね〜、もう便利このうえない。お願いしますの一言を添えて送信ボタンを押せば、それでそのひとの仕事は一丁上がりってな感じでしょうね。実際私も送信ボタンを押したときのジェット機の通過音みたいなジュワーって音を聞くと(MacintoshのMailっていうソフトです)、これでOKだなと思うもんです。

 まあ電子メールの功罪にはここでは触れないことにしましょう。これだけ雑多な仕事をこなさないといけないコース長って、やっぱり(予想した通りでしたが)一年が我慢の限度だと思います。この職責に二年続けて耐えた前任者・角田誠さんって、やっぱりえらかったなあとしみじみ思います。

 ゴミ捨ての差配くらいだったら(面倒くさいとは思いますが)猿のように淡々とやるだけです。でも、人間の将来とか人生とかに関わる問題はそうはいきません。いつも書いているように私はひと様を管理するなどということはしたくありませんし、ひと様の人生を左右するなんて大それたことをする資格もありません。しかし学部長や各コースのコース長が集まる代議員会では、コースの代表としてそういう決定にも関わらないといけません。

 このあいだ、私はあて職(持ち回り)のコース長なのでそんな他人様の人生に関わるような決定は出来ません、と何かの議題のときについ本音を言ってしまいました。そんなことをこの場で言った教授は今までひとりもいなかったのでしょうか、分かりませんが、学部長から、そんなことを言われては困る、責任者なんだから、とやんわりとたしなめられました。

 ただ、教員が教員を管理するというのも元を辿れば大学自治の根幹に行き着きます。自分のコースの運営を教員以外の経営者側に握られてしまっては、それはもう大学とは言えません。明治の文明開化以来、大学の自治を築き、営々としてそれを守ってくれた先輩教授かたの大切な遺産とも言えます。なので、お役目のあいだはそれ応分の役割は果たそうと思います。


台風26号 (2013年10月16日)

 昨晩から猛烈な暴風雨でしたが、朝になってだいぶおさまってきました。わが大学では昨日の夕方、午前中を全学一斉休講にすると早々と決まりました。私は午前中に「鉄筋コンクリート構造」の講義があるためどうしようかと思っていましたが、大学側がさっさと決めてくれてよかったと思う反面、シラバスの予定がずれることの懸念も感じています。いったいどこで帳尻を合わせるか、悩まないといけませんから。

 大学はお昼まで休みになりましたが、子供の小学校は登校時刻は遅くなったものの午前10時30分に登校して授業を行うそうですから、大学よりも厳しいということになります。なんだかなあ、とは思いますね。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:野川2.JPG

 すごい雨だったので野川は大丈夫かと思いましたが、今朝の様子はそれほどでもありませんでした。川面の両側の遊歩道は冠水していなかったので、危険度はレベル3といったところかな。それでも流れは土色をしていて急で、中州の草木はすべて水没していました。ちなみに写真中央の奥に聳える白いタワー・ビルは、久米設計の設計した国領駅前の超高層マンションです。


どこも混雑? (2013年10月15日)

 この三連休は好天に恵まれたので、観光地はどこも混雑したのではないでしょうか。我が家では一年振りに高尾山に行ってきました。京王線に乗って約40分で高尾山口の駅に着きます。普段は調布から相模原線に乗り換えて南大沢に通っていますが、その乗車時間に約十分を加えると高尾山まで行けるんだあ、と感慨も新たです。逆に南大沢が結構遠いとも言えるでしょうけど、同じ八王子市内ですから,,,。

 高尾山口の駅に着くと、どわーっとひとが降りてきます。車内は満員というほどではありませんが座席はほぼ埋まっており、立っているひともいるので、一車両あたり70人くらいとみて、一編成が8両ないし10両なので一度に600人くらいのひとが降りるのでしょう。で、皆さん登山の前におトイレに寄ろうと考えるのは同じらしくて、特に女性用のトイレが大渋滞していました。二十分以上は待っていたようです。駅のトイレをもっと増やさないと三ツ星観光地としてはダメではないでしょうか。

 そこから登山口までの道も混雑していましたが、ケーブルカーやリフトに乗るのに三十分から四十分くらいは待ちました。我が家はリフトに乗ったのですが、メジャーなスキー場とは違ってシンプルな二人乗りなので輸送効率はよくないですね。おまけに跳ね上げ式の手すりも付いてないので、子供連れにはちょっと危ない気がしました。

 さてリフトを降りてからは歩くのですが、登山道はもう大渋滞です。山登り?で渋滞して立ち止まるなどという経験は初めてですな。とにかくものすごい人出でした。やっと頂上に着いてもそこは銀座か新宿の歩行者天国のような状態で、黄色い埃が朦々と立ち込め、ここでお弁当を食べるのかあとげんなりしましたし、なにしろお弁当を広げる場所もなかなか見つかりません。それくらい、ひとでみっしり埋まっていました。

 斯様にひとだらけなので、頂上に来たのだから周囲の眺望を楽しもうにもひとの壁で埋め尽くされてそれもままなりません。なにより、頂上でも生ビールをガラスのジョッキで飲めますし、ソフトクリームやかき氷も売っていて、これはもう「登山」ではありませんね。なぜここが三ツ星観光地なのか私には理解できませんでした。

 こんなわけですので長居は無用(っていうのも悲しいですが)、下山することにしました。私は歩いて下りようと思ったのですが、子供はまたリフトに乗りたいというので別行動にしました。で、1号路という舗装された道を下ってゆくと、したからサイレンの音が聞こえてきました。何事かと思っていると赤色灯を回転させた緊急車両が三台も駆け上ってくるではありませんか。さすがに小回りのきく軽自動車でしたが、もう街なかとなんの変わりもありません。まあ逆に言えばそれだけ安全な「登山」ということでしょうか。いずれにせよビックリ仰天しました。

 ひとりの下山は早くて三十分後にはリフトの降り口に着きました。そこで子供たちを待ったのですが、案の定リフトは一時間待ちだったらしくてそこでボーッと待っていました。ケーブルカーの駅前のちょっとした広場で皿回しの大道芸をやっていましたが、それがなんだか場末の観光地みたいでちょっと物悲しかったです。タバコの煙が漂っていたのもイヤでした。本来は自然に親しむための場所なのだから、禁煙にすべきではないでしょうか。

 このように人波をかき分けた「登山」でした。お目当ての自然のほうに目をやる気分ではありませんでしたが、それでもふっとしたときに鳥のさえずりやせせらぎの水音が聞こえてきましたし、木々のあいだからの木洩れ陽も見かけましたから、本来はよいところなんだと思います。そういう心の余裕を持って今度は出かけたいと思います(が、この混雑振りでは不可能ではないでしょうか)。


バックアップを自動化する (2013年10月8日)

 パソコンのHDのバックアップについてです。今までは数ヶ月ごとに思い出したように外付けHDをつないで手動でやっていました。でも3・11の地震でiMacくんがお釈迦になったときに、バックアップしていなかった書類等は闇に消え去って困ったことになりました。

 Mac.OSにはTime Machineというバックアップ専用のソフトウエアがあるのですが使っていませんでした。しかしAirMac Time Capsule という製品が出たので、ついにこれを導入しました。HDに無線LANのためのベース・ステーション機能が合体したようなもので、一度導入すればあとは勝手に毎日?バックアップしてくれるという代物です。写真のように高さ170mmくらいのタワー型をしているところが目新しいですな。
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 アップルの宣伝文句では箱から取り出してケーブルをつなぐだけですぐに使える、とありましたが、(今までもそうでしたが)そうはいきませんでした。学内のLANに接続するのですが、DHCP接続ではどうやっても動きません。仕方がないので大学の情報処理センターからIPアドレスを取得して、ルーターモードというスイッチを切ったところ、やっと使えるようになりました。

 こうしてアップルが自慢するTime Machineの機能をオンにしたのでした。ところが最初はパソコンのHDの中身を全てコピーしないといけないので(そんなのは当たり前ですが)、その作業になんとまるまる五日もかかったのです。もう唖然としましたな。もちろんその間もマシンは使えますが、でも処理速度はかなり低下していました。その“初期丸ごとバックアップ作業”が終わったのはつい先ほどです。これでやっとホッとしました。画面上部のメニュー・バーを見ると、時々Time Machineのアイコンがぐるぐる回っているので、バックアップしてくれてるんだと思います。


読んでいる本・読んだ本 (2013年10月7日)

 ここのところ本の話題がご無沙汰でしたので、まとめておきます。現在読書中あるいは最近読み終わった本は以下のとおりです。

・高橋和巳「我が心は石にあらず」(新潮文庫、昭和46年)
・岡部 伸「消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い」(新潮選書、2012年)
・竹内正浩「地図と愉しむ 東京歴史散歩 地形篇」(中公新書、2013年)
・河野 仁「<玉砕>の軍隊、<生還>の軍隊」(講談社学術文庫、2013年)
・越智春海「ノモンハン事件」(光人社NF文庫、2012年)
・貝塚爽平「東京の自然史」(講談社学術文庫、2011年)
・浅田 博「海防艦三宅戦記 輸送船団を護衛せよ」(光人社NF文庫、2013年)
・森 史朗「ミッドウエー海戦」(新潮選書、2012年) 読了
・神立尚紀「祖父たちの零戦」(講談社文庫、2013年) 読了

 こう列記すると雑多な本を読んでいることがよく分かります。でも、昭和初期から敗戦にいたる戦記ものが多いですな。また、読みかけの本は机の上とか本棚のいろんなところに置いてあるので、読みかけ中であることさえ忘れていた本もありました。

 高橋和巳は少し前に書いたように「憂鬱なる党派」とともに実家で発掘した本で、この「我が心は石にあらず」は1981年4月に読んだことが文庫本の末尾に記されていました。大学の教養学部の学生だったころで、今から32年も前のことです。もちろん内容は全く憶えていません。

 さらに最近の電車内読書で読了したのは以下のような本たちです。

・浅田次郎「一刀斎夢録」(文春文庫、2013年)
・ブライアン・サイクス「イブの七人の娘たち」(ヴィレッジブックス、2006年)
・城山三郎「落日燃ゆ」(新潮文庫、昭和61年)
・浅田次郎「終わらざる夏」(集英社文庫、2013年)
・篠田謙一「日本人になった祖先たち」(NHKブックス、2007年)
・門司親徳「空と海の涯で 第一航空艦隊副官の回想」(光人社NF文庫、2012年)

 浅田次郎の「終わらざる夏」は1945年8月15日以降に千島列島で発生したソ連との戦争を題材にしており、いつもの浅田節のとおりでホント泣かせてくれます。現在も続く北方領土問題の発端として、度々書いているようにソビエト連邦の非道に憤らずにはいられません。

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 もうひとつの「一刀斎夢録」は幕末の新撰組に属した人斬り・斉藤一を主人公として、明治十年の西南の役までを彼に語らせたものですが、同じ著者の「壬生義士伝」ほどには泣けませんでしたね。新撰組って、煎じ詰めれば人殺し集団なんですが、その人気は今でもピカイチです。斉藤一の目を通して描かれる近藤勇とか土方歳三の人間像が私には興味深かったです。また西南の役における大久保利通と西郷隆盛との『大芝居』説も私にとっては新鮮でした(斯界の人たちにとっては常識かもしれませんが,,,)。

 篠田先生のミトコンドリアDNAのお話しは最近読んだなかでは最高に秀逸でした。科学的な知見を駆使した論理展開に知的好奇心をそそられてワクワクしながら読み進められます。文句無しにお勧めできます。それにつられて、ブライアン・サイクスのミトコンドリア・イブも読んだようなものです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:fb41b70bf8b9b1643368e8905985e744fddd7b1c.18.2.9.2.jpeg 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:51PvSTDe5rL._SL500_AA300_.jpg

 現生人類の祖先は辿ってゆけばたった七人の女性に行き着く、というのがブライアン・サイクスの「イブの七人の娘たち」での主張です。さらにたどれば現生人類にとっての唯一の母『ミトコンドリア・イブ』に至るのです。ただ、このミトコンドリア・イブがどこから生まれたかというと、それはもちろん人間の両親がいたはずですから、そこのところは誤解しないようにする必要があります(著書のなかでブライアン・サイクスがちゃんと指摘しています)。チンパンジーやゴリラから人間のイブが誕生したわけではありません。

 城山三郎の「落日燃ゆ」は、敗戦後の東京裁判で文官としてただひとり絞首刑になった元首相・広田弘毅の生涯を描いたものです。いわゆるA級戦争犯罪人のレッテルを貼られたひとですね。しかし城山のこの著作の内容が全て事実だとすれば、広田弘毅は本当に気の毒なひとだったことになります。歴史の光と闇とをあらためて考えさせてくれました。

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 門司親徳さんは東大を卒業したあと短期現役主計科士官として海軍に入り、真珠湾攻撃から日本の敗戦までを戦ったひとです。主計科ですからもちろん銃砲をとって最前線で戦闘行動に加わったわけではありませんが、航空母艦に乗ったり、絶海の孤島の守備隊に配属されたり、そのたびに神様のサイコロ遊びの末にからくも生き残ることができたということがよく分かります。この「空と海の涯で」はもともとは昭和53年に出版されましたが、久しく絶版となっていて読めませんでした。最近になって新版が出されました。昔から読みたいと思っていた回想録です。

 門司氏が有名なのは、副題にあるように副官として大西瀧治郎中将に仕えたためでしょう。大西瀧治郎中将は神風特別攻撃隊の生みの親とされており、その誕生までの経緯を傍らで見聞きしていたことから、特攻について何か調べようとすれば、真っ先に引用されるのが、この著作です。そのような第一次資料として興味深く読みました。


東京五輪2020の開催期間 (2013年10月4日)

 しばらく忘れていた東京五輪2020ですが、その開催期間が7月24日から8月9日ということが分かりました。うーん、8月15日(終戦の日)をうまく避けましたね。以前に書きましたが、この日に東京五輪が開催されていれば、いろいろな契機となって、もしかしたら日本も世界から尊敬されるような国になれるかと期待しましたが、それもはかなく夢と消えました。

 日本人が自己を深く顧みてその決意を世界にアピールする格好のイベントになると思ったのに、ホント残念です。ただ、8月6日の広島、8月9日の長崎のふたつの原爆の日を迎えることは重要です。この両日をどのように過ごし、祈念の日とするか、よくよく考えていただきたいですね。


後期の講義、はじまる (2013年10月2日)

 今日から後期の講義が始まりました。しょっぱなは「RC構造」です。例年そうですが、最初の授業のときは勘が鈍っているため、大きな声で話したりしてとても疲れます。でも、今年の「RC構造」の出席者は35名もいて、用意した予定表が全部なくなってちょっと意外でした。例年、十数人から二十人程度なので、今年はどういうわけでしょうか。そう言えば、火曜日の「構造設計演習」も昨年の倍以上のひとが履修しそうだと高木次郎先生が言っていました。

 午後には「建築都市先端研究ゼミナール」が始まります。私は建築都市コース長なので、やはり冒頭の授業紹介とシラバスの説明をやらないといけません。そのあと引き続いて、私が取り組んでいる先端研究について説明しました。この授業は3年生対象で実質的には必修科目なので受講者はたくさんいます(今日は60名ジャストでした)。はじめに、寝るなよ〜って言っておいた効果があったらしく、今年は寝ている人は見当たりませんでしたな。

 ここまでやって、もう相当に疲れました。教室が意外に暑くて、汗だくでちょっと酸欠状態です。慣れないことをいきなりやった、という感じですね。でも数週間もすれば、リハビリが終わって通常モードに移行できると思いますけど。このあとすぐに研究室会議ですが、(研究室の学生さんには申し訳ありませんが)それとなく休みながらゼミすることにしよっと。

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 研究室会議が終わりました。いつもそうですが、やはりM2となると違いますな。M2の島哲也くんとの議論はとてもハイレベルで知的好奇心をくすぐられて楽しいです。少し気を抜いて休もうなどと思っていましたが、そうはいかず、すっごく頭を使ったのでさらに疲れましたが、まあ心地よい疲れとでも言うんでしょうね。皆さん、楽しませてくれてどうもありがとう。


韓国からきたる
 (2013年10月1日)

 今日から後期の授業が始まりました。それまでは何だったかというと、まあ夏休みです(もちろん、学生さんにとっては、ということですけど)。秋風が立って肌寒くなるまで夏休みかよ、と世間からはいわれるかも知れませんが、学年暦からいえばまあ、そういうことです。

 さて、我が社ではこの日、お二人の新メンバーを迎えました。ちょっと経緯を説明すると、東京都がアジア人材育成基金というものを新設したことに由来します。本学にアジアからの優秀な留学生を博士後期課程に迎え入れて、博士の学位を取得してもらって、それぞれの故国の発展に貢献していただこうというものです。

 ちなみにこのアジア人材育成基金については吉川徹教授・都市環境学部長補佐(専門は都市計画)が担当されており、彼の尽力の賜物として建築学域でも留学生を迎え入れることができるようになりました。

 そのための候補者を昨年秋から探していましたが、1995年に私のところで助手をしていた李祥浩さん(韓国・釜山大学校教授)に連絡したところ、ちょうど良いひとがいるということで、李祥浩先生のお弟子の宋性勲(ソン・スンフン)さんを紹介して下さいました。この方が入学考査に合格して、今年の10月から大学院博士後期課程に入学するために来日したのです。いやあ、めでたいです。

 余談ですが、かつて我が社の助手を勤めた先生方(李祥浩、小山明男・明大、岸田慎司・芝浦工大の各氏)はそれぞれ母校の教授あるいは准教授として活躍されており、私の自慢のひとつになっています。またそれぞれの研究室との交流によって有形無形の恩恵も蒙っており、いつも本当に感謝しています。

 さて話しを元に戻します。このアジア人材育成基金を用いて、大学院博士後期課程の教育に携わってもらう特任助教も採用できることになりました(これも吉川先生のお陰です)。留学生が韓国からの方なので、同じ韓国のひとがいいかなということで、東京大学生産技術研究所の中埜良昭先生(現・所長)の研究室でちょうどこの9月に博士の学位を取得した晋沂雄(ジン・キウン)さんを採用することができました。本当にGood timingでした。

 というわけで、この10月1日から韓国からのお二人の前途有望な若者を新たに研究室に迎え入れることができました。ちなみに我が社には中国からの留学生も二名が在籍しており、急にインターナショナルな研究室になったような感じですね、公用語は日本語ですけど、あははっ。いずれにせよ国際色豊かになって、とても嬉しく思います。

 世界情勢を見ると残念ながら、日本と中国や韓国との政治的関係は冷えきっています。これには領土問題や歴史認識の問題が基底にあって解決は容易ではなさそうです。しかし学問を通しての交流にはそのような障壁は無関係であって、気にするべきではないと思っています。研究室内での交流によってそれぞれの国の文化や立場を理解することができれば、自国の文化についての理解もより一層進むはずです。皆さんの活発な交流を期待しています。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:晋沂雄&宋性勳2013.JPG


ある講習会 (2013年9月30日)

 今日は大学内で、ある講習会があった。講習会というと自分が講師を務めることが多いが、今日は受講生である。相当に気楽かな、と思ったが後述するように甘かった。大学正門そばの大会議室に行くとあまりひとがいない。受講生は全部で19名で、あれっこんなに少ないんだ、とちょっとビックリした。見た感じでは教員よりも事務職の方のほうが多そうだった。

 で、なんの講習かというと、応急手当のための普通救命についてである。具体的には、意識がなく呼吸していないひとに施す心肺蘇生(これには胸骨圧迫と人工呼吸とがある)、AEDによる除細動、そして止血法である。説明を聞きながら実習するという内容でほぼ三時間の講習であった。

 大会議室には上半身だけの人形が横たわっていて、これを人間に見立てていろいろやってみる訳である。この人形(ダミーくんと呼ぶことにしよう)はよくできていて、鼻、口はもちろん人工呼吸で息を吹き込むと胸が上下するようになっている。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU普通救命講習会2013:CIMG3506.JPG

 まずは胸骨圧迫である。心臓の位置を教わって、いざダミーくんに取りかかる。ダミーくんの胸中央に両手を添えて、1分間に100回のペースで押して解除、押して解除、を続けるのだ。これがべらぼうに大変で、渾身の力をかけて100回終わったらもうクタクタである。講師の先生(東京防災救急協会というところから派遣された方が二名)に、これいつまでやるんですかあ、と思わず聞いたら、蘇生するか救急車が来るまでです!、とのこたえ、まあよく考えたら当たり前ですな。途中で気を抜こうものなら、そんなことじゃあ天国に行きかけているひとをよび戻せませんよ、と叱咤されてしまう。

 つぎは人工呼吸です。人工呼吸するためには相手の口と自分のそれとを密着する必要があって、フツーは抵抗感がある、これも当たり前である。そこでちゃんと蘇生用マウス・ピースが用意されていて、ひとり一個づついただいた。これをダミーくんの口に差し込んで、ダミーくんのあごをあげて気道を確保する。そして彼の鼻を塞いで、薄いビニールシート越しに口を密着して、フーフーと二回息をダミーくんの肺に送り込む。続いて先ほどの胸骨圧迫を30回施し、またフーフーを二回やる。この繰り返しである。ここまででもう相当に疲れました。

 つぎはAEDです。これはよくできた機械で、スイッチを入れると手順を全部しゃべって教えてくれる。そしてとりあえず電極パッド二枚を胸の所定の位置に貼り付けると自動的に解析が始まって、電気ショックが必要な場合かどうかをマシンが判定して、不要であれば何もしないし、必要であれば1800ボルトくらいの電気ショックを施すように要求する。なので先生いわく、心肺停止の場合にはとりあえずAEDを使ってみてください、とのこと。注意すべきは、AEDを取り付けて解析中はダミーくんの体に触らないことと、同じく電気ショックを与えるときにも相手に触らないことだそうだ。

 こうしてひと通りのやり方を教わったので、その実践のために胸骨圧迫、人工呼吸、AED、を連続的に練習した。これらを独りでやるのはさすがに大変なので、二人ひと組で練習した。やってみて分かったのだが、ひとがやっているのを見ていると簡単そうだが、いざ自分がそのような場に遭遇したときに、そんなに流れるように救命作業できるか、甚だ疑問であるし自信もない。

 ただそのときに先生が、とにかく何もしないよりはマシです、躊躇せずにやって下さい、そうすれば助かるかも知れません、とおっしゃった。なので教わった手順(例えば30回の胸骨圧迫のあとに二回の人工呼吸を繰り返すこと)をある程度逸脱したって構わないらしい。うーん、少し安心した。

 ところでこの講習会の先生は、テキストを見ること無しに(手元に置いてさえなかったぞ!)、○○ページを見て下さい、ここに××と書いてあります、とそれはもう流れるように説明してくれた。まあ仕事として毎日やっているのかもしれないが、それにしてもすごいと思った。そこにプロとしての気概と矜持とを感じましたな。

 こうして貴重な経験(訓練)をすることができた。AEDの機械も恐れるに足りず、ということがわかった。そしてこの日使った蘇生用マウス・ピースはアルコール消毒して、私のカバンの中に収まった。でもこの経験が活きるようなことがないことを切に祈ります。最後にダミーくん、いろいろ無茶やっちゃって、ごめんなさい。


幸せにする建築 (2013年9月25日)

 先日の新聞に歴史的建物の保存を専門とする大学の先生のお話しが載っていた。その記事の終わりのほうで原発について触れていて、ひとを幸せにしない建築はつくるなと学生には常に言っている、というようなことが書かれていた。これは(放射能事故を起こす)原発の建物をつくるような建築関係者にはなるな、ということなんだろう。

 ふむふむ、そうかあ。でも、人間がつくる建築物のなかで、はじめからひとを不幸にしようと思って建てられるようなものってあるのだろうか。知恵と労力と資源とを費やして作られる建物は、どのようなものであれ究極的には人類の幸福増進に貢献するものであろう。

 そう考えれば原子力発電施設の建屋であろうと、その当初の目的はそのような"人類の幸福"に寄与することにあったのは明らかである。実際、それが産み出す電力の恩恵をこうむった人はたくさんいたに違いない。福島第一原発の事故は不幸な出来事であった。それがどのような原因によって、どのような経緯をたどって発生したのかを解明することは非常に重要である。そのような重大な事故が幾つもの災害の重畳の果てに発生する可能性を予見できなかったことは大いに反省し、この教訓を今後の対策に活かす方策を練るべきである。

 しかしだからと言って、原発はひとを幸せにしない建築である、と言うのは論理の飛躍ではなかろうか。それは、携帯電話は心臓のペース・メーカーにとって有害なのでひとを幸せにしないモノである、と言うようなものだ。あるいは上流に建設した巨大ダムが決壊したら下流域には大洪水が出来して大勢の人が死ぬから貯水や水力発電は止めろ、と言うのだろうか。

 折に触れて書いているが、技術についてもっと冷静に考えて欲しいと思う。人間が創造した技術を活かすも殺すもそれは人間次第である。


彼岸の入り (2013年9月20日)

 お彼岸が近くなって、大学の武蔵野の小径に今年も真赤な(血のような)彼岸花が咲いています。あんなに暑かったのが嘘のように、朝晩はひんやりとしてきましたね。空も秋らしく高くて、空気も澄んでいる気がします。でも昼間はまだ半袖でちょうどよい陽気ですから、気温の差が大きくて体にはそれはそれで負担になります。我が家の子供は風邪をひいて臥せっています。

 今はお昼休みで、崎谷健次郎の「夏の午后」というタイトルのメロウなポップスを聴きながらこれを書いています。この曲を聴いていて、もう夏も終わっちゃったんだなあ、ということに今更ながら気がつきました。

 以前に書いたように、若かった頃に買ったCDがたくさんお蔵入りされていて、勿体ないのでiPodに入れてきき始めました。これもそのなかの一曲です。四半世紀も前には、崎谷健次郎の『Kiss of Life』というCDをカーステ(って、分かりますか〜)にぶち込んで大音量で流しながら、東北自動車道を疾走していたものです。

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 今日はこれから2014年度のJCI年次論文を審査するための査読委員会幹事会のキック・オフに行ってきます。今年の委員長は新潟大学の加藤大介先生ですから、私にとってはやりやすいですね。と言っても、昨年度の委員長(東工大・土木の二羽淳一郎先生)のときも同様にやり易かったですけど。まあ、マイペースな私にとっては誰でも同じっていうことでしょうか、あははっ。


健康の歴史 (2013年9月17日)

 健康によいとか悪いとか、健康のために○○をしましょうとか××はやめましょうとか、聞かない日はないという気がします。もっと言えば、現代人のおおかたの判断基準は健康によいか悪いかという二元論に集約できるのではないでしょうか。

 そもそも健康という概念が生まれたのはいつ頃のことなのでしょうか。英語のhealthは日本語では『健康』ですが、この用語はいつ誰によって唱えられたのでしょうか。私の専門である『建築』という用語も、明治中期の建築学者・伊東忠太によってArchitecture の訳語として創出されました。今ではフツーに使っているこれらの用語も、明治期には聞き慣れない言葉だったのです。ちなみに江戸時代には建築のことは作事とか普請とか呼んでいたようです。

 さて『健康の誕生』ですがネット空間を逍遙しているうちに、和歌山県立医科大学の竹山重光さんという方の書いた『「健康」の概念化』という論文を見つけました。北海道大学に設置されたサーバーから発信されているので信頼できると思います。

 それによるとまず『健康』の語源を調べた先駆者として北澤一利さん(注1、北海道教育大学・教授)をあげていて、その研究成果を引用するかたちで健康という語の創始者は緒方洪庵であると書かれていました。

(注1) 北澤一利氏はその名もズバリ「健康の誕生」という論考を既に著していた。北澤一利「健康の誕生」、野村・北澤他『健康ブームを読み解く』に所収、青弓社、2003年.

 そして明治時代になって『健康』という用語の普及につとめたひととして福沢諭吉と西周(にし あまね)とが紹介されています。ふたりとも幕末から明治にかけての超エリートで有名人ですね。特に西周は「人生三宝説」(明治八年)のなかで「第一に健康、第二に知識、第三に富有」と書いていて、健康には「まめ」というルビがついているそうです。「まめ」は現代では使わないような気もしますが、例えば、筆まめとか、まめなひと、というような使い方は今でもしますね。ここでは、体が丈夫なさま、と説明がありました。

 ということで『健康』の語源はなんとなく分かりました。では健康という概念はそもそも何ぞや、という最初の問いに戻らないといけないのですが、これについてはおいおい調べようと思います。


鴎工会 (2013年9月14日 その2)

 この夕方、ちょっと変わった親睦会が開かれました。表題の「鴎工会(おうこうかい)」というヤツです。これは旧東京都立大学・工学部の名誉教授の方々と現役教員との親睦会みたいなものです。しかし東京都立大学が首都大学東京に改組されたときに、旧工学部は股裂きにされて解体されたので、機械や電気電子の先生方とは学部が別となり(彼らは都市教養学部に所属)、疎遠になっています。

 ところで会名ですが、ゆりかもめは旧都立大学のマークだったので、それと工学部の「工」の字とを組み合わせたものだと思います。こういう経緯なので、東京都立大学の名誉教授はもう永遠に供給されませんから、メンバーは少なくなる一方でじり貧です。

 で、私は現在は建築都市コースのコース長をやっているので、旧建築学科の代表として出席しました。ちなみに旧建築学科からの現役参加者は私ひとりだけでした(寂し〜い)。おまけに建築から出席した名誉教授は島田良一先生おひとりでした。島田先生にお元気ですか、とご挨拶申し上げると、「こんなところ(南大沢のこと)まで来るくらいだから元気にきまってるだろ」と以前と変わらないニヒルな口調で切り返されてしまいました(ああ、うんざり)。

 でも、よそのコースのコース長は誰も出席しておらず、なんだ、私も出なくてよかったんだあ、とか思ったくらいです。OBとしては古川勇二(機械)、鈴木浩平(機械)の両工学部長経験者をはじめとして、十四、五人の先生方がお出でになりました。現役は私を含めて8名でした。前述のようにメンバーは減る一方なので寂しい会合でしたな。それでも、二十年前に学内の委員会でご一緒したような先生方とも久しぶりにお会いできて、それはそれで楽しかったです。皆さんそれぞれに思慮深く老後をお過ごしになっているようで、大変なんだなあと思いました。明日は我が身、ということをひしひしと感じました。



パソコンの交換 (2013年9月14日)

 大型構造物実験棟で使っているジャッキ制御システム用のパソコンの入れ替えが昨日ありました。理研精機のこのシステムを導入して以来使って来たパソコンが十年以上過ぎてついに壊れたのです。過酷な環境下でよく耐えて頑張ってくれたと褒めてあげるべきでしょうね。

 ただこのときのOSはWindows XP だったので、新規導入のパソコン(こちらのOSはWindows 7にしました。Windows 8はまだ新しくて信用していなかったので)用に制御プログラムを直してもらう必要が生起しました。さらに昔のパソコンにはRS-232C用のポートが直づけされていましたが、ご承知のように現在では全てUSBポートになっていますので、シリアル変換器も必要になりました。

 制御プログラムのソースはこちらではさわれませんので、理研機器・長岡テクノの五十嵐秀一さんに対応をお願いして、昨日その作業とともに学生達への操作講習会もあわせて行っていただきました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:大型実験棟制御ソフト講習会2013:CIMG3503.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:大型実験棟制御ソフト講習会2013:CIMG3505.JPG

 ちょうど芝浦工業大学の岸田慎司研究室との協同実験が行われていましたが、基本的には手押しポンプ感覚でサーボ・ジャッキを使っているので、岸田先生は制御ソフトは使わなくてもよい、なんて言っていましたけど,,,。このシリーズのあとは我が社の実験研究が続くので、研究室の学生さんたちは熱心に聞いていましたな。まあ、せっかくの機械ですから、有効に使えるように精進して下さい。


また、東京オリンピック2020に思う (2013年9月11日)

 まだ、東京オリンピック2020のはなしは続きます。私にも直接関係しそうなことを思い出したのです。それは世界地震工学会議のことです。2016年はチリで開催されますが、この年の夏季オリンピックは周知のようにブラジルのリオデジャネイロで開かれます。すなわち、世界地震工学会議は4年に一度、オリンピックが開催される年にその近辺で開催されるのが通例となっています。

 ということは、2020年の世界地震工学会議は日本で開催か?というふうにも考えられる訳ですね。いやあ、ギョッとしましたな。日本で世界地震工学会議(WCEE)を開くとなれば、それは多分東京五輪の前後となります。そうするとWCEEの準備のために忙殺されて、五輪を楽しむなどという余裕はなくなると想像します。せっかく我が家のそばの味の素スタジアムでサッカーが見られるというのに,,,です。

 しかしなによりも、以前にも書きましたがWCEE実施のための裏方の中核としてこき使われる恐れが濃厚です。まあ7年後ですからもしかしたら、こき使われる側からは脱出できるかも知れませんが、それも若手次第です(ここでいう若手とは、私よりも一世代以上若い人たちのことを指します)。いずれにせよ恐ろしいことです、私にとっては。若手の成長を祈るしかありませんな。

 それにしても7年も先のオリンピックなのに、今からこんなに盛り上がっちゃってどうするんでしょうか。熱し易く冷め易いわが国民性ですから、早晩通常モードに戻るでしょうけど,,,。五輪開催に疑問を感じる、なんて言おうものなら、いまの状況では非国民扱いされそうで怖いです。


東京オリンピック2020招致に思う 承前 (2013年9月10日)

 東京でオリンピックを開く価値があると思うことがひとつ思い浮かびました。日本でオリンピックを開催する時期が8月前半だとすると、オリンピックのあいだに広島・長崎の原爆の日や終戦記念日を迎えることになります。原爆はまさに日本が被害者で、核兵器の廃絶を目指して世界中で鎮魂するに相応しいでしょう。しかし、日本にとっての悲しむべき敗戦はアジア諸国にとっては喜ぶべき独立の回復という二重性を帯びています。

 前者について言えば、核兵器の悲惨さをオリンピック・ゲームの最中に世界中に向けて発信できることは、恒久平和の推進という観点からは非常なメリットだと思います。毎年、広島市長や長崎市長が核兵器廃絶を世界に向けて宣言していますが、それらが日本以外の海外にどの程度響いているのか、疑問なところもありますよね。ところが各競技中に(終戦の日の甲子園のように)アスリート達が競技を中断して原爆被災者に対して黙祷を捧げれば、世界中の人たちがそれを見るわけで、これはもう最高のメッセージとなるでしょう。

 その一方で、終戦記念日の二重性にいままで知らん振りを決め込んで来た日本人(といっても、多分、政府高官と言われる人たちが主でしょうけど)が、そのことをあらためて認識するためのよい機会ともなると思います。すなわち国外から寄せられる怨嗟の眼差しをしっかりと受け止めると同時に、それらは国内に向けたメッセージともなるはずです。その戦争で日本人は被害者であると同時に加害者でもあったこと、そのことをしっかりと認め、謝罪すべきは謝罪し、諸外国に反省を促すべきものはそれを正当に主張する、そういう場として戦後75年目の東京オリンピックがあればGoodでしょう、と思うわけです。

 要は1995年の村山談話をもう一度思い出して、日本の為政者たちがそのことを率直に踏まえた上で、日本全体が新たな「戦後」に踏み出すための機会として東京五輪2020を使ったらどうでしょうか。これが実現できれば、真に成熟したコスモポリタンとして日本人が、アジアで、否、世界で認められるようになるはずです。皆さん、いかがでしょうか。


どう迎えるか (2013年9月9日)

 2020年の夏季オリンピックが東京に決まりました。日曜日のテレビはこのニュース一色でしたね。私は前東京都知事による前回の招致活動のときから、このページに書いて来たようにオリンピックの開催には否定的でした。『大きな夢』を目指して国民一丸となって盛り上がる、などというユートピアは遠い過去の遺物であって、民衆が勝ち組と負け組とに二分されてしまった現在においては幻想に過ぎないと思うからです。

 熱心に招致運動に邁進したスポーツ関係者のなかには、純粋にスポーツを愛し、その素晴らしさを日本国民に見て欲しいという純真な動機によって行動した方もいることでしょう。そういうひとの熱意には感心します。でも一国の総理大臣、現職の都知事、そして日本のセレブたる皇室関係者までもが参加した招致活動を見ると、そこにはスポーツとは無縁の政治性を、もっと言うと胡散臭さを感じます。なぜ東京でオリンピックを開きたいのか、それは身もふたもない言い方ですがお金が儲かるから、ということでしょう。文化がどうの、夢がどうの、復興がどうのと言ったところで、結局はそこに帰着します。

 オリンピックを開催するためには膨大なお金が動いて、ある一部の金持ち(日本の経済界の頂点にいるほんの一握りのひとびと)だけが利益を独占するという、今までの自民党政治で追究された構図そのものがここでもまた具現化するのです。

 地下鉄や道路などの東京のインフラを整備すると言いますが、本当にまだ必要なのでしょうか。これから人口が減少し、既存のインフラストラクチャーを補修して使い続けるだけでも大変だというのに、わずか十数分の短縮のために数千億円を費やしてそういったものを構築する価値があるのでしょうか。人口が数千万人になって生産年齢人口が今の半分くらいになれば首都高の渋滞だって自然になくなるはずです(いい加減な想像で言ってますが,,,)。

 こんなふうにネガティブに考えるのは私だけなのか、メディアの論調はもろ手を上げての歓迎ムード一色というのがどうにも気になりました。市井のひとびとは2020年の東京オリンピックをどのような覚悟をもって迎えるべきなのか、じっくりと考えたいと思っています。そうでなければスポーツの祭典たるオリンピックを純粋に楽しむことはできないと思いますから。ひとはひと、私は私、ということです。


お気楽に聴けます (2013年9月6日)

 今の時代はインターネットでラジオも聴けます。で、ここのところは週にいっぺんだけ配信される、伊藤銀次の「POP FILE RETURNS」というソースを聴いています。毎週金曜日に配信されて、一回だいたい35分から45分のいい加減な放送です。

 ホンモノのラジオだと決まった日の決まった時間にラジオの前に坐って聴かないといけません。それは相当に高いハードルです。平日の昼間だと仕事をしているので絶対に聴けませんから。

 それと較べるとネット・ラジオはお気楽です。好きな時に好きな分量だけ聴くことができます。ああ、トイレに行きたいなあ〜と思えば、番組終了まで我慢することなんかなくて、ボタンを押して一時停止にしておけばよいだけです(当たり前ですが暫く気がつきませんでした)。

 で、この伊藤銀次の番組ですが、彼が1980年代に発表した自作のアルバムをネタにして、その当時の音楽シーンや思い出を語ってゆくという、当時のファンだけにしか分からないようなマニアックな内容です。大滝詠一や佐野元春の系列です。

 音楽番組のくせに音楽はほとんどかからないので、はなしの内容についてゆくには、それなりにまじめに聴いていないといけないのが、結構疲れます。ついに20回めに突入しましたが、いつまで続くのでしょうか、まあどうでもいいですけど。

 でも彼のはなしを聞いていると、当時は大学院生だった自分の様子なんかもありありと蘇って来ます。あの頃は工学部11号館の7階と地下2階で研究一途に打ち込んでいましたけど、社会的な責任はなんにもありませんでしたから、呑気でよかったなあなんて思います。その頃、伊藤銀次はいろんな音源をサンプリングしてアルバムに打ち込んでいた、と言ってました。打ち込む内容もひとそれぞれ、っていうことですね、あははっ。


動かない電車 (2013年9月5日)

 昨晩から今朝にかけて、もの凄い雨と雷です。聞いたことのないような、地響きをともなう雷鳴によく寝られなかった方もおいでかも(うちの女房はそう言っていましたが)。これも日本が熱帯化しつつあることのひとつの現れでしょうかね。

 さて、早々に家を出て京王線に乗ったのですが、京王堀之内駅で止まってしまいました。新宿駅での信号機の故障だそうです。その直前に落雷による瞬間停電があって電車がとまりましたので、それが原因かも知れません。暫く待っていましたが動く見込みはないということで、じゃあ仕方が無いからバスに乗って南大沢に行くかと思って、下車しました。いつもは閑散としている?京王堀之内駅にはひとが溢れていて、警察官も出ていました。

 ところが駅前のバス停に行くと、南大沢行きのバスはほとんどありません。タクシーもいません。もう、トホホ状態です。そこで歩いて大学まで行くことに決心しました。いつも車では通っているので道は分かっていますから。

 でも歩き始めて、やっぱり止めておけばよかったかなとちょっと後悔しました。車では5分でも、歩くと相当ありますね。そういう訳で、約30分早足であるいて研究室に到着しました。もう汗だくです。ニュータウン通りから尾根下の大学入り口に至りましたが、そこから尾根の上にある建物まで、遠いことといったらありませんでした。雑木林の栗の木からイガ栗がたくさん落ちていたのが、季節を感じさせてくれましたけど,,,。

 こうして普段は一時間のところ、今朝は倍の二時間かけて通勤しました(あ〜、時間がもったいね〜)。歩数は5564歩でした。通常は4000歩くらいなので、あまりたいしたことはなかったということでしょうか? 実感とはずいぶんと乖離していますけど。

 今日はこれから教室会議なのですが、こんな状態ではどれだけの先生方が登校できるか、甚だもって不安です。


北海道大学にて (2013年9月3日)

 9月1日は1923年に関東大地震が発生した日ですが、建築学会の大会が今年は北海道大学で開かれていて、今日はその最終日です。今年も結局最終日の午後まで参加することになって、もうお疲れ気味です。ただ、今年は関連するパネル・ディスカッションの担当を免除していただいたので、その点は大いに助かりました。もっともプレストレスト・コンクリートのPDをお願いした岸本一蔵先生には、ご迷惑をおかけしたようですが,,,。

 北海道は曇天や雨降りの肌寒い日々が続き、暑熱の東京に較べると15度近くも気温が低い状態です。はじめは涼し〜なんて言っていましたが、こうも気温差があるとそれはそれで体にはきついです(いつものように贅沢ばっかりですみません)。

 しかし北海道大学は(いつも苦労しますが)実に広大だし、明治以来の伝統を感じさせるモノが随所にあって文化的な香りを感じますな。広大な北の大地を切り開いてきた自負と開拓者精神に溢れています。

 左下の写真は北大の有名なポプラ並木です。どういうわけか立ち入り禁止になっていました。近くには新渡戸稲造さんの胸像が建っています。右下は発表会場のそばにあった「札幌農学校第二農場」の敷地内で、全体が重要文化財だそうです。札幌市の中心にもかかわらず土地が有り余っている感じで、ゆったりとしていて羨ましいですね。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:北海道・北大AIJ大会2013:CIMG0374.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:北海道・北大AIJ大会2013:CIMG0384.JPG

 さて、最終日の午後のセッションですが、まあ例年通りなのですが、ほんとうにギャラリーが少なくて気の毒な感じがします。私の発表自体は初日の朝一だったので、これはこれでギャラリーが少なかったのですが、それに輪をかけて少ないです。そのセッションで発表するひと以外は誰も聞いていないという状況で、これでは発表しようというやる気も失せようというものです。我が社の発表の様子(OBの落合等さん、鈴木清久さん、助教の遠藤俊貴さん)を載せておきます。発表会場はフツーの小さな教室なので、前のほうに坐ってこっそり撮影しました。

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説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:北海道・北大AIJ大会2013:CIMG0380.JPG

 ということで、今年の大会は涼しかったですが、雨のなかを一日二万歩くらいも歩いたというのが総括です。来年の大会は9月中旬に神戸大学で開催される予定です。


システムのリプレース (2013年8月28日)

 今週から、本学の情報処理施設におけるシステムがリプレースされて動き始めた。ウェッブ・メールのソフトが更新されて使い易くなったのはよいのだが、変更後の不具合がいろいろと出ているようだ。

 私のホームページを格納しているディレクトリにもなぜかアクセスできなくなった。私はDreamweaver というソフトを使っているのだが、サイト情報をいくら更新してもアクセスできない。もう仕方がないので、今、情報処理施設の担当者にヘルプを頼んだところである(なんて書いても、この文書をサイトにアップできないんですけどね,,,)。あっ、今、担当者からメールが来て、ディレクトリの設定が誤っていたことに気がついた。これでアクセスできました!

 また私のページの閲覧はできるのだが、トップ・ページのカウンタが表示されなくなった。もっともこれは(多分、情報処理施設の方が直して下さったのだろうが)、今日は表示されていたのでひと安心した。

 これから建築学会大会(北海道)に出かけるので、出先からメールを見ることも多いだろう。そのときにウェッブ・メールにうまくアクセスできないと仕事が捗らないし、イライラする原因になる。そのようなことがないことを祈るばかりだ。


秋へ (2013年8月23日)

 まだまだ暑いですが、セミの合唱はひところの耳に響くような盛りは過ぎたように感じます。例年は9月までやかましいのですが、今年の夏は梅雨明けが早かったせいか、セミの合唱も早く始まったので、終わるのも早いのかなと思います。短いお役目を終えて地面に横たわったセミを大学の構内でもここかしこに見かけるようになりました。もののあはれ、を感じますな。

 夕方になると虫の声も聞こえるようになって、暑いなかにも季節は明らかにうつろいつつあるんだなあと実感します。

 うろこ雲
 地まろぶ蝉の
 骸(むくろ)かな


ものすごい雨 (2013年8月22日)

 昨日の午後から夜中にかけて、もの凄い雨と雷が何度かありました。大学の大型実験棟で作業をしていた田島祐之さんがびしょ濡れになりながら研究室にやって来て、「大型実験棟の雨漏りがすごいです、滝のように流れ込んできます」と報告してくれました。

 大型実験棟の外装はサイディングボード一枚だけで、雨仕舞いはプアだということは分かっていましたが、そんなに激しいとは知りませんでした。でも、どうしようもないので電気機器に雨がかからないようにシートをかぶせて下さいとお願いするだけでした。

 今、朝日新聞のネット版を見たのですが、昨晩の雷雨で東京スカイツリーに何度も落雷があったそうです。その動画を見ましたが、雷って立て続けに何度も落ちるものなんですね。こういう映像は初めて見ましたが、すさまじいものでした。自然の力はいつも書いているように想像を絶していますから、それをねじ伏せてやろうなどと考えてはいけません。


傍若なひとたち (2013年8月20日)

 夏休みで人気が少ないからでしょうか、大学の構内でまた何かの撮影をやっています。昨日の夕方に下校するときには情報ギャラリーでやっていて、ガードマンが立ってあっちへ行けと言ってました。まあ、そこを通らなくても近道がありますので、そのときは関わることなく敬遠しました。

 ところが今朝登校すると、今度は1号館の中庭で撮影をやっているではありませんか。そこは私の通学路ドンピシャです。しかし今回は出勤するために急いでいることもあって、「出勤しま〜す」とにこやかに言いながら次々にガードマンを突破して、突き進みました。そして最後に「本番!」という声を聞きながら、仕方がないので建物脇の草地を踏み分けて通り過ぎることができました(少しは気を使ってあげたわけです)。

 なんの撮影をしているのか知りませんが、以前にも書きましたが撮影をやっている人ってなんであんなに「特権意識」に溢れているのでしょうか。撮影ですと言えば、誰でもひれ伏して彼らの言うことを聞くと思っているんですね。その辺りの神経が理解できません。

 以前に大学の正門前でホースで放水して路面をビショビショにしながら撮影をやっていたときには(それも夕方の人通りの多い時間帯でした)、あまりにも傍若無人なので頭に来て怒鳴りつけてやりました。お前ら、どういう了簡で公道を行く人たちの進路を妨害しているんだと。

 またあるときは、大学裏の公道(大型実験棟のちょうど裏手)で道路を封鎖して撮影をやっていました。そのときはたまたま車で通りかかったのですが、ガードマンに車を停められ、あまつさえ撮影が終わるまでここで待っていろ、と言われました。いったいどんな権利があって、そんなことを言うのでしょうか。理解不能です。その日は大学で重要な業務があって急いでいたので、そんなのに付き合ってはいられませんでしたから、撮影なんかにはお構いなしに車を発進させて強行突破しました。さすがに走り出した車には手出しはしませんでしたね、制止したひとが呆然と見送っていたのを憶えています。

 というわけで、撮影にはいい印象を持っていません。願わくば、そういう現場に行き当たらないことを祈るばかりです。なになに、傍若なのはあなたでしょ、ってか? いえいえそんなことはありませんよ。私は全うで善良な市民として言っているに過ぎません。


大学説明会 二回め (2013年8月17日)

 今日はわが大学の二回めの大学説明会です。二回めなのでちょっと横着して、自分の発表直前に登校しました(他のコース長の先生方は皆お揃いでしたので、ちょっとばつが悪かったですけど)。南大沢駅で下車すると、期末試験の頃の朝の登校ラッシュと見まがうほどの混雑で、その列が大学正門までずーっと続いていました。いやあ、かんかん照りのなか、ありがたいことですな。

 で、都市環境学部の全体説明会がある大教室に行ったのですが、教室の入り口からホワイエにまでひとが溢れていてなかに入れません。ちょっとご免なさいよと言いながら、立ち見の人たちの群れをかき分けてやっと教室に入れました、ああよかった。

 建築都市コースの紹介ですが、一回めで使ったパワーポイント・ファイルは前任の角田誠先生から引き継いだものに手を加えたものでしたが、あんまりオモローないので、二回めは自分で作り直したものを使いました。もっとも、二回めのコンテンツが他人さまにとってオモロいかどうか、分かりませんけど。少なくとも自分の趣味で『建築とは何か』を語りましたので、自分自身は満足したわけです。

 建築都市コースの説明(わずか12分の持ち時間です)なんかルーチン・ワークでいいじゃないの、と思うのですが、こんなことにまで時間を費やしているから、いつまでたっても仕事が減らないんでしょうね。自分でやらないと気が済まないという、貧乏暇なしの典型かも知れません。

 これから午後は9階のアトリエで個別相談会です。今回はどんな相談があるのか、楽しみってわけではありませんが、まあ仕事なのでやってきま〜す。


今年のブルーベリー (2013年8月16日)

 やっぱり暑いですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。昨日はとっても不愉快な出来事が大学であって、ある大きな決断をしました。回りの関係者の方々にも迷惑をおかけしてしまうのですが、それもやむを得ないだろうと判断した結果です。この顛末については、頭を冷やしてからいずれきちんと書きたいと思います。

 さて、夏の恒例となった子供たちのブルーベリー狩りですが、今年も近所の富永農園に行って摘んできました。子供が小学校に通うようになって、ここの農園のご主人にも学校の課外活動で出会ったのですが、すごく若々しい方なので30代くらいかな、と思っていました。ところが最近、地元の情報誌に彼のことが出ていて(地元では有名人なんですな、なんでもその家は12代も続いている家系だそうです)、なんと私と同じ年齢であることがわかって、えーっ本当かよ!と女房と二人で大いに驚きました。

 ちょっと脱線しました。で、今年のブルーベリーですが、大粒のわりには甘みが少ないなあと思ってそう言うと、樹種が今までと違っているせいだろうと家内は言っていました。子供は相変わらず摘むだけで、一粒も食べません。私もあんまり美味しくないなあと思ったので、食指が伸びませんでした。

 しょうがないなあということで、家内がジャムにしてくれました。こんなに立派なブルーベリーなのに勿体ないなあ、とかブツブツ言いながら。でもおかげで、ヨーグルトにかけて毎日食べるようになりました。


暑い夏2013 (2013年8月15日 その2)

 お盆です。そして68回目の敗戦の日が巡って来ました。今日と同じように灼熱の太陽が照りつけるその日の正午に、天皇陛下の玉音放送が大日本帝国の無条件降伏を国民に告げたのでした。

 お盆という日本古来の風習とこの敗戦の日とが重なったことに不思議なえにしを感じます。お盆には冥界にある祖先たちがそれぞれの家に帰って来る、とされています。敗戦はこのうえなく悲惨で不幸な出来事でしたが、それでも平和が訪れて戦地の兵隊さんたちは故国の土を踏むことができました(もちろん、終戦後のさまざまな混乱や悲劇があったことは周知の事実です)。

 すなわち、生きているか死んでいるかの(それは天地ほどの)違いはありますが、それでも自分たちにとって大切な人が戻ってくることには違いありません。そういう意味でこの重なりには感慨を覚えますね。

 もちろん当時のひとびとは焦土のなかでの不自由な生活を強いられ、食料も物資も不足した日々の生活をおくることで精一杯だったでしょうから、こんなことを考えていたとは思えません。あくまでも平和な現代だからこそ、こんなことも考えられるのでしょう。せめて今日だけでも平和のありがたさに感謝してはどうでしょうか。

 この戦争で亡くなった全ての人びとに哀悼の意を表します。


大学の自治 (2013年8月15日)

 先日見たネット新聞に、大阪市立大学の学長選挙はやらせない、学長は市長が選ぶ、と大阪市長が言ったという記事が載っていました。ああ、なんてこった、って思いましたね。大阪府立大学と大阪市立大学との統合は時々話題に上っていましたが、大阪府知事から大阪市長に転じたひとは地元の公立大学のことを忘れてはいなかったのです。

 でも、なぜいきなりそんなことを言い出したのだろう、と訝しかったのですが、すぐにある事実に思い当たりました。大阪市長に入れ知恵したひとがいるんですよ、きっと。それは、彼と一緒に維新のなんとかという政党の共同代表を務めている元東京都知事です。

 その元都知事がわが大学を滅茶苦茶にしたことは何度か書いてきましたが、その「業績」の際たるものに学長選挙の廃止がありました。現在でもその"非常事態"は続いています。そう、わが大学の学長は都知事が選ぶのです!、びっくりでしょう?。学長選挙がないどころか、われわれ大学構成員にはなんの相談もありゃしません。

 そのことを元都知事は同僚たる(?)大阪市長に話したのでしょうね、きっと。それまでも教育についてはあれこれと言って来た前歴のある方ですから、いいことを聞いたとばかりに飛びついたのだと思います。

 これもよく書いていますが、大学の自治は一朝一夕に成し遂げられたものではなく、明治維新によって帝国大学が設置されて以来、我々の先輩である大学人の営々たる努力と闘争との結果としてもたらされたものなのです。自分たちの学長を自分たちで選ぶことは、そのような努力によって勝ち取られた大学の自治の根幹をなすものです。

 大学の自治に関するそのような歴史を知っていれば、そして大学に集積された知に対して少しでも敬意を抱いていれば、学長選挙を廃するなどという暴挙がなされるはずはありません。大阪市長には是非ともそのことに気づいて欲しいと切望します。


雷と停電 (2013年8月12日)

 お盆の入りを迎えて、ものすごい暑さが続いていますね。高知では気温が41度に達したそうです。もう、南欧なみの暑さです。高温のおかげで大気が不安定になったのでしょうか、二日続けて午後から夕方にかけてすさまじい雷と豪雨が来襲しました。

 そして落雷によって二日連続で停電が生じました。幸いわずかの時間で復旧して電気が通じたのですが、落雷とはいえ連日の停電は記憶にありません。それくらい自然の力がすごかった、ということでしょう。おかげで京王線は長いあいだ運転取り止めになっていました。

 身の回りは電気製品・機器ばかりですから、停電になると途端に困ることになります。また停電から復旧すると(それ自体はありがたいのですが)多数の電気機器がリセットされたり、停止のまま再始動しなかったりで、とても迷惑しました。

 2011年の原発事故による計画停電のときにも同様の電気のありがたさを感じたのですが、日本では電気もきれいな水もほとんど空気なみの存在になっています。それくらいインフラが整備されて豊かな生活を享受できるような環境に現代の日本はある、ということです。このように豊かで便利な生活環境を次の世代に伝えることは、我々の世代の債務だとは思いませんか。そうしなければ、後世の歴史家からは身勝手なわがまま世代だったと酷評されることは間違いないでしょう。


RC-N規準の改定講習会 (2013年8月8日)

 昨日、大学院の入学試験が終わりました。我が社を志望した学生さんは昨年と同じく6名でした。多勢の方に志願していただいたのは嬉しい限りです。ちなみにこの人数は小林研、小泉研(両方とも建築家の設計系研究室)に続いて堂々の第3位でしたので、私自身がビックリしたほどです。

 さて今日は建築学会でRC-N規準(『原子力施設鉄筋コンクリート構造計算規準・同解説』の略称)の改定講習会があって、私は司会を仰せつかりました。改定を担当した小委員会の主査がたまたま私だったから、というのがその理由だそうです。司会だと前の席に座らされるので、内職はおろか居眠りもできないので結構つらかったです。

 講習会のほうはお陰さまで(原子力ムラに動員がかかったせいでしょうが)120名以上の方に来ていただき、また動画配信を視聴された方もおいでだったようで、盛況でした。学会の事務局からは80名以上の参加者をノルマ?として課されていたようですので、ひと安心しました。

 ところで私は司会だけすればよいのだろうと思ってのんびりしていたのですが、講師の方がたの講演が思いのほか早く進んで、予定よりも20分余り早くプログラムされた演目が終わってしまいました。そこで窮余の一策として、RC規準を改定したときに某雑誌に私が発表した原稿の一部(鉄筋の許容付着応力度と付着割裂の基準となる強度との関係)をパソコンの中から引張り出して、皆さんに紹介しました。自分のパソコンを持って来ていたことが思わぬところで役立ちました。

 それから、今度は予定とおりに会場からの質問やご意見を募りました。ところが、皆さんいかがでしょうか、と言ってもなしのつぶてでシ〜ンとしています。それもそのはず、大半の方はこの会場で初めて改定版を見たわけですから、目を白黒させるばかりで質問するなんて難しいですよね。いずれにせよこの沈黙は、たった独りで演台の上に立って衆目を集めているコチラとしては耐えられませんぞ。

 じゃあしょうがないナということで、本来は考えてもいなかった、まとめとも感想ともつかないClosing Remarksを訥々と述べて終わりとしたのでした。まったく冷や汗ものでした、誰も助けてくれないし,,,。このいっとき(だけ)はもの凄く頭を使いましたので、結構疲れました(ちょっとおおげさか)。

 最後に。八月八日って、末広がりの「八」がふたつ重なっているから縁起がいいなあと思いますが、いかがですか。


原爆の日 (2013年8月6日 その2)

 今日は広島に原爆が投下されてから68年目の日です。その日と同じように、セミの声がかしましい朝です。被爆された方々のその苦難の歩みを思うとき、慰めの言葉も見つかりません。

 世間では原子力発電のための技術が核兵器開発のために使われ得るということで批判があります。確かにプルトニウムを多量に保管することには危うさを感じますね。核燃料サイクル自体には私も疑問を抱いています。

 ただ、原子力発電自体を否定するつもりはありません。どんなものでも人間が生み出した産物で危険に結びつかないものはないと思います。悪意があれば、それをいかようにも使えるからです。大切なことはそのような悪意を抑え込み、平和的に利用されるように皆で見守って行こうという強い意志でしょう。

 さて本学では今日から大学院・博士前期課程の入学試験が始まりました。この暑い時期に大変ですが、皆さんの健闘をお祈りします。


鋼鉄の棺 (2013年8月6日)

 むちゃくちゃ暑くなった休日、ヨコスカサマーフェスタに行ってきました。我が家からだと第三京浜、横浜新道、横横道路と乗り継いで一時間半くらいです。イベント名だけではいったい何だろうと思いますが、要は海上自衛隊基地の一般公開です。ここ横須賀は戦前は軍港だったので、今でも米軍基地のほかに海上自衛隊横須賀地方総監部というのが置かれているそうです。

 誤解しないでいただきたいですが、わたしは決して軍国主義者ではありません(このページをよくご覧になっている方はお分かりだと思いますが)。うちの子供が軍艦を見たい、というので連れて行ったのです。普段は入ることのできない軍事施設にこの日だけは入ることができるというイベントです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:横須賀_護衛艦見学2013:CIMG3444.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:横須賀_護衛艦見学2013:CIMG3443.JPG

 左の写真は基地へのアプローチに立っていた看板ですが(旭日旗をご覧あれ!これは旧日本海軍と同じです)、この隣にある施設が右の写真です。「横須賀原子力艦モニタリングセンター」とあって、そのうえに文部科学省とあったところに貼り紙があっていまは「原子力規制委員会」となっています。米軍の原子力空母や原潜の監視をしているということでしょうが、2011年の地震後にあった組織のゴタゴタがそのままこの看板に表われているようで、ちょっと物悲しかったです。

 でも海上自衛隊の護衛艦を見に向かう一般のひとびとのなかでこの看板に目を奪われていたのは私だけでした。原発に対してあれだけ反対を叫んでいるのに(って、メディアの中だけのはなしかもしれませんが)、米軍の原子力艦艇が日常的に出入りしていること、あまつさえ彼らは核兵器で武装さえしているかもしれないことに、これだけ無頓着ということのチグハグさを感じずにはいられませんでした。一体どうなってるんだろうね、この国は。もっとも私だって、ここ横須賀に来てそのことを思い出しただけで、ひとのことも言えませんけど,,,。
 
説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:横須賀_護衛艦見学2013:CIMG3489.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:横須賀_護衛艦見学2013:CIMG3469.JPG

 さて基地に入ってすぐに目に入ったのが、オフィス棟です。この写真(上左)は砕氷艦『しらせ』のえらく高い艦橋から撮ったものですが、ご同業の方ならすぐに気が付くように外付けの耐震補強が施されています。矢作建設工業の「ピタコラム」ですな。こんなところにも使われているとは、その営業力はたいしたもんだと思います。一階から三階まで相当な数の鉄筋コンクリート・ブレースが増設されているので、もとの耐震性能は相当低かったのでしょう。

 しかしものすごい人出で、どの艦に乗るにも長蛇の列に並ばないといけませんでした(上右の写真)。来ているひとは子供よりもはるかに大人のほうが多くて、いわゆるオタクと呼ばれるようなひと達でしょうか。ただ、安全や暑さに対する配慮はしっかりしていて、団扇(下左の写真、宣伝用のシール付き)や無料の水を配ったり、至るところにミスト付きの扇風機が置かれていたりと、自衛隊の皆さんの準備の良さと気配りとを感じました。自衛隊の活動をPRするためとはいえ、その準備には膨大な手間と費用がかかっていると思います。ご苦労なことです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:横須賀_護衛艦見学2013:CIMG3482.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:横須賀_護衛艦見学2013:CIMG3452.JPG

 さて、公開されていたのは砕氷艦『しらせ』、護衛艦『てるづき』およびイージス艦『きりしま』でした。もちろん公開といっても砕氷艦以外は上甲板に乗せてくれるだけで、艦内には入れませんでした。イージス艦なんかはハイテクの塊で、かつ軍事機密の総本山でしょうから当たり前ですけど。それでも無駄のなさそうなボディや武器類を見ると、機械美といったものを感じました。

 もちろんこれらの武器や装備類が活躍するような事態は避けなければなりません。シー・スパロー・ミサイルとかアスロックとかを発射しなくちゃならなくなったら、はっきり言ってそのときは日本はおしまいでしょうな。まさに最終兵器そのものです。

 そう考えると自衛のためとはいえ、これだけの高価(そう)な備品類を準備して、かつ十分に使いこなすための訓練に励むことに空しさを感じることはないのでしょうか。それとも、これも「保険」のひとつだと思えば安いものなのでしょうか。そのあたりはひとによって温度差があるのでしょうね。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:横須賀_護衛艦見学2013:CIMG3471.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:横須賀_護衛艦見学2013:CIMG3455.JPG

 冷ややかな感じのする軍艦をこうして巡っていて、結局は(自衛のためとはいえ)これらは殺人マシンに他ならないことに気が付きます。昔と違って、幸いにも今のところは実戦を経験していないだけです。でもひとたび有事が勃発して攻撃されれば、これらの軍艦も運が悪ければ「鋼鉄の棺」(注1)と化すかもしれないのです。それを思うと底知れない恐怖をおぼえました。そんな日が来ないことを切に祈ります。

(注1) 『鉄の棺』(齋藤寛著、光人社NF文庫、2004年)から拝借しました。これは太平洋戦争のときの旧日本海軍潜水艦に軍医として乗り込んだ海軍士官の体験記です。

 最後にヴェルニー公園にあったモノを紹介します。下の写真はなんだか分かりますか。正面には「國威顕彰」と書かれていますが、台座の部分には何かを取り外したような跡が残っています。このモニュメントはどうやら旧日本海軍の重巡洋艦『高雄』型の艦橋のように見えます。戦前に大日本帝国の国威を発揚するためにここに設置されたのでしょうが、戦争後はそれをあからさまに示す碑文等は撤去されて艦橋だけが残った、ということでしょうか。いずれにせよ軍都として長い歴史のある横須賀を象徴するような記念物だと思いました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:横須賀_護衛艦見学2013:CIMG3440.JPG


今年もここまで (2013年8月1日)

 今日から八月ですね。八月になると、ああ今年もここまで来たか、という感慨を持つのは私だけでしょうか。ただ学校の学年暦でみると四月スタートですから、やっと前期が終わったという程度で、春から始まった新しい研究もほとんど進んでいませんし、何かを達成したというわけではないんですけどね。

 これから学生諸君は夏休みに入ります。なので大学の先生も夏休みになっていいですね、とよく言われますが、別にそんなことはありません。もちろん講義はやらなくてよいので、それは嬉しいですね。でも、研究活動は継続していますし(これは好きだからまあいいですけど)、大学内の管理運営に関する会議や学外での学会・委員会は普段通りに開かれます。今日は研究室会議が開かれるので早朝に登校しました。

 さて、昨日、一日かけて大学院のレポートを採点しました。また、学部2年生の『建築構造力学1』の試験の採点も既に終わりました。ここのところ数年来、お盆真っ盛りにやっていた採点作業を今年のお盆にはやらなくてよくなりました、ああよかった。忙しいなか、我ながらよくやったと自分で自分を褒めています。

 その『建築構造力学1』の期末テストですが、昨年に較べて平均点が9点もアップしました(ちなみに103点満点です)。例年同じような問題を出題していますし、履修者は60名程度と同じですから、これは明らかに有意な差だと思います。

 毎年講義をやっていて思うのですが、学年ごとの特徴ってなぜか分からないのですが明らかにあるんですね。昨年度はどうにも手応えがなく、芳しい反応も見られなかったのですが、今年はよく理解できている学生が多いということを手応えとして感じることができましたね。なので、例年、同じようなことをグタグタと繰り返して講義するのですが、今年はそのような時間をオミットして全て演習の時間に充てることができました。

 私が担任を務める1年生の『建築学概論・演習』は、採点したレポートを返却して終わりました。13段階に評価して返したのですが、彼らは結構驚いていましたね。絶対評価で採点しましたが、彼らはひと様から評価されることに慣れていないという感じです。そのせいか、私が最高得点をつけたレポートをパワーポイントにして全員に紹介したのですが、そのレポートを書いた当の本人が(どういうわけか)萎縮してしまい、私の質問にも満足に応えられないという様態でした。もっと堂々と自分のやった仕事を自慢してもいいのになあ、と思いましたね。


夏の大空 〜あるいはあの頃、雲の墓標〜(2013年7月31日)

 蝉の声がかしましくなって太陽がカッと照りつけて、やっと日本の夏らしい季節になりました。そう思いながら大学内を歩いていると、遥か上空から爆音が聞こえてきました。

 南大沢キャンパスは東京都の横田基地に離着陸する米軍機の飛行コースのしたにあり、プロペラ機やジェット機が通っていきます。着陸する大型機によっては、わが大学の真上で胴体内に格納している脚を引き出している様子がよく見えます。頭の上に覆い被さるように飛んでゆく米軍機を見ていると、宮崎アニメの巨大軍用機『ギガント』が飛んで来たのではないかと思うくらいです。

 これが私たちにとっての日常であり、普段は気にも留めません。しかしふと思ったのですが、約70年前の東京の空にもB29やP51などの米軍機が我が物顔で飛んでいたのです。そして今もなお東京の空に米軍機があるのは、全ては約70年前の戦争に日本が負けたことに起因する、という当たり前の事実に行き当たりました。

 あと半月もすれば、日本が廃墟と化して敗戦を迎えた日がやってきます。「もはや戦後ではない」という言説は折に触れ人口に膾炙しましたが、このように東京の空を見ただけでもそれが間違っていることは分かります。東京にいてもこうなのですから、沖縄に住む人たちの苦労と悲哀とはいかばかりであるかということが慮られます。

 ほんと、戦争は嫌だなあとは思いませんか(自民党の政治家もここに来て、日々米軍機の飛び交う姿をご覧になってじっくり思惟すればよいのになあ,,,翼下の独白)。

 さきもりの
 しるべたなびく
 蝉しぐれ


静かにシャウトするひと (2013年7月29日 その2)

 昨晩のNHK-BSで浜田省吾(ハマショー)のコンサート・ツアーの様子を放映していました。ハマショーをテレビで見た記憶はなかったので、これは見るベーと思って、眠い目をこすりながらテレビの前に坐りました。

 ハマショーは学生時代から聞いていて(アルバム『イルミネーション』くらいからかな)、その当時は”Don’t trust over 30!”(30才以上の言うことは信用するな)なんてシャウトしていたのですが、今年還暦を迎えたそうです。とっくの昔に30才は超えてついにダブル・スコアに到達したのですね。いやあ、おめでとうございます。還暦でもHigh-school jail なんて歌っているのはすごいですねえ。

 で、そのステージの様子を見ると、声の質なんか昔と全然変わっていなくて、ホント驚きました。佐野元春なんかはそれなりに渋くなってきていますが、ハマショーはそんな感じもなく、これって若い頃の録音を流しているんじゃないかと思ったくらいです。

 彼のシャウトは絶叫タイプではなく、静かななかにも大いなるメッセージをこめて高らかに歌うっていう感じかな。そんなスタイルなので昔と変わらずに今も歌えるのかも知れません。

 2011年の大地震以降のツアー・ロードは一変した、と彼自身が言っていましたが、つらいなかでも明日にはいいことがあるさと思って生きてゆこう、という主張が込められているようで、なかなかよかったです。コンサートにおじいさんから小さな子供まで集まっているのがすごいと思いました。これからも素晴らしい歌声を聞かせて下さい。


松本で天使に会う (2013年7月29日)

 暑さが戻って来た日に長野県・松本に行きました。昔、八方尾根などにスキーに行くときに松本を通りましたが、下車して街中を歩いたのは初めてです。某学会の研修会の講師を勤めるのがデューティですが、さすがに松本まで来てそれだけじゃ寂しすぎるのである建物だけは見に行きました。

 ところでこの研修会ですが、某学会の担当委員会が立派なテキストを作って下さっていて、それを説明するのが課されたお仕事です。しかしそのテキストはどちらかと言うとコンクリート材料寄りで、かつ土木工学寄りです。すなわち私のような建築分野のしかも耐震構造学を専門としている者にとっては(申し訳ないのですが)ファミリアではなくて、かつ面白くないわけですね。

 さらにいえば、研修を受けている方の身になってみると、彼らにとっても面白くもない(失礼!)テキストをどこの誰とも分からん奴(私です!)からテープ・レコーダのように説明されても、もう眠くなってねちゃうだけです。

 ということで両者の利益が一致しました、どちらにとってもこのテキストの説明はオモローナイということが。結局、私は一時間ばかりの持ち時間を全て建物の地震被害に関するスライドに費やしました(テキスト発表用のパワーポイント・ファイルを作っていただいた担当委員の方々には申し訳ないことですが)。当たり前ですが、全て自前のコンテンツです。おまけに会場ごとにそれぞれ異なるご当地ネタを用意しましたので、思いのほか準備に時間がかかりました。

 さてこの研修会の会場ですが、キッセイ文化ホールというところで松本駅からタクシーで20分くらいもかかるところでした。タクシーの運転手さんいわく、松本市民にとってもここは田舎らしくて、すぐそばには浅間温泉という温泉まであるそうです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:松本2013:CIMG3431.JPG

 でも平成4年竣工のホールは写真のようにとても立派でした。研修会はここの300人収容の大ホールで行われましたが、研修会のあと午後5時からはクラシック・バレーが出し物として控えていました。また8月中旬からは小沢征爾率いるサイトウ・キネン・オーケストラが出演するそうです。うーん、由緒正しいホールですな。

 さて、本題です。私がわざわざ見に行った建物ですが、明治初期に建てられた開智学校です。群馬県桐生市で先日見た桐生明治館と同じく擬洋風の二階建て木造建物です。下の写真は正面玄関の上にある唐破風に掲げられた校名額ですが、これを支えているエンジェルに会うために出向いたようなものです。可愛らしいですがどうみても日本人の赤ちゃんで、天使とは見えないところが文明開化の頃を表しているようです。

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 この学校を設計したのは地元の大工の立石清重(たていし・せいじゅう)というかたで、この学校を設計して建てるために江戸改め東京に出て、当時建ち始めた西洋風の建物を見て廻ったそうです。そのときのデッサン帳(手控え?)が残っていて校内に展示されていましたが、まだ西洋流の透視図法(パースペクティブ)は入って来ていなかったようで、なんだか妙な和風のスケッチでした。

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 この学校にはいたるところに彫刻が作られていて、当時の人たちが丁寧にかつ一所懸命に造ったことが偲ばれます。明治維新を迎えて人間みな平等と言われるようになって、地元の子供たちによい教育を受けさせたいという松本の人びとの熱意がひしひしと伝わってきました。素晴らしいです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:松本2013:CIMG3341.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:松本2013:CIMG3354.JPG

 左は唐破風の下の正面玄関部分ですが、左右にたなびく雲の下に龍がいて、さらにその下には湧き出る雲が配されています。右は桟唐戸に置かれた龍の彫刻で、このほかにもいろいろな彫刻が桟唐戸に施されています。龍が多いのは、子供たちが学ぶ学校を世に出るための登竜門と考えたからでしょうか。ちなみにこのたなびく雲のうえにくだんのエンジェルが羽ばたいて(?)います。

 ところで開智学校の入館料は300円でしたが、そのときにいただいた入館記念証の番号が「118800」でした。ゾロゾロゾロといった感じで、かつ語呂合わせで読むと「いいパパ、おお」となり、うーん、こいつぁええ具合や、と思った次第です(どうでもいいか)。

 この開智学校の向かいには現代の開智小学校が建っています。その校舎ですが、下の写真のように開智学校中央の八角塔をモチーフにしたと思われるガラスの塔が造られていました。エンジェルの開智学校はさすがにもう実用には供せないので、それを連想させる新校舎で勉強してもらおうという松本の人たちの親心でしょうかね。微笑ましく思いました。

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 さて開智学校から歩いて7、8分のところに国宝松本城があります。さすがに松本城のなかに入って見学するほどの時間はありませんでした。なかに入ったひとの話しでは、最上層まで登る階段はとても急でかつ蹴上げの高さがバラバラでとても上がりにくかったと言っていました。いつかは登ってみたいですね(って、いつのことでしょうか?)。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:松本2013:CIMG3430.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:松本2013:CIMG3421.JPG

 お城の見た目はとても優美で美しいと思いました。でも、お堀の浚渫工事をやっていて、それがちょっと興醒めでした。タクシーの運ちゃんの話しでは初めての浚渫ということで、ヘドロが溜まっていたのでしょうか。

 こうして二時間ばかりの『自由時間』はあっという間に過ぎました。結構歩きましたが、蒸し暑さのせいもあってゼイゼイ言ってしまいました、ああ疲れた(でも、このあと前述した講演をしたのですけど)。


審判くだる (2013年7月23日)

 参議院議員選挙の結果が出ました。世間の予想とおり、いやそれ以上の自民党の圧勝でした。私が投票したひとは(よくあることですが)アッサリ敗退しました。また比例区のほうも伸び悩んで撃沈状態でした。

 まあ、経済状態をなんとかしてくれという市井の人びとの叫びはよく分かるし、自民党が一握りの金持ちのための政党であることを知った上で、それでも大企業から街場の零細企業に至るまでの大ピラミッドの底辺にまで余慶が行き渡ることを期待したい、という心情もよく理解できます。

 でも、原発の再稼働とか利用とかに反対するひとびとの声ばかり聞こえてくるのに、原発利用を積極的に推進する自民党が圧勝するというメカニズムが分かりませんな。結局、人間とはきわめてエゴイスティックな存在である、ということが再確認できただけ、ということでしょうか。

 ところで東京選挙区で当選した、脱原発を掲げる俳優の方ですが、昨年末の衆議院議員選挙では落選したらしいので、今回なぜ当選したのか不思議です。新聞にはネットを有効に活用できたことが勝因みたいに書いてありましたが、ホントでしょうか。その当選のメカニズムを解明できれば、「あなたも当選できる!」みたいなハウツー本を書けそうです。また百万票以上獲得して一位当選した自民党の方も、なぜそんなにダントツだったのか(私には)理解不能です。って、まあ、自然界には人智を超えた事象がたくさんありますから、気にするなってことでしょうか。


ざっくばらんに (2013年7月20日)

 小学校は昨日が終業式で長い夏休みに突入しました。でも今どきの子供は忙しいみたいで、プールに行ったり、塾に行ったりと予定がどんどん埋まって行くようです。なんだかかわいそうな気がします。今の時代、世間から一流と言われている学校に行ったとしても誰でもがバラ色の人生をおくれるわけではない、ということが残念ながらハッキリしています。それにも関わらず、勉強ができるようになって(もちろん、勉強ができて悪いということはありませんが)、いい学校に進学して、という定型コースにどのような意味があるのか、はなはだ疑問ですね。

 そんなことよりも、どのような環境でも人として生きて行けるような能力を磨くこと、そして自分で考えて行動できる素養を身につけること、独りよがりにならずに他者の言説に耳を傾けてそこから必要なものを吸収できること、などがずっと重要だと思います。このような能力を身につけるために学校教育が幾ばくかの役に立つこと(もちろん、分野によっては大いに役立つでしょう)は確かでしょうが、それだけで事足りるというわけにはいきません。最も重要なのは、いろんなところで多種多様な人たちと出会って、いろいろな体験を経験するということでしょうね。

 すなわち世の中は未知の場所だらけであり、自分という存在はちっぽけなものに過ぎないが、それでもかけがけのない唯一人である、ということを身体的に理解してこそ、他人に優しくできる立派なおとなになれるんだと思うのですが、いかがでしょうか。

 でも、かように考えることができるのも、このように豊かな日本に住んで、好きなものを美味しく食べられる環境にあるからこそです。要は平和で豊潤な生活こそがこのような思念の基礎にある訳です。戦乱のなかや飢餓の地ではこのような寝ぼけたことを言っていては生存自体が脅かされますから。そういう観点からは、1945年の敗戦から日本をここまで繁栄させてくれた我々の父祖に感謝せずばなりますまい。

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 トップページにも書きましたが、先日の日本コンクリート工学会(JCI)年次大会で北山研出身の石木健士朗さんが年次論文奨励賞を受賞しました。2011年の地震で、耐震補強していたにもかかわらず大きな被害を受けた鉄筋コンクリート建物の被害要因を分析してまとめた論文です。

 JCI年次論文の優秀賞や奨励賞は二十年くらいの歴史があると思いますが、我が社からは姜柱さん、森田真司さん、田島祐之さん、小坂英生さん以来の受賞だと記憶します。なので、随分久しぶりということになりますな。私自身はそのような賞とは無縁でしたし、賞をとるために研究しているわけではありませんが、教え子が研究室で取り組んだ研究が外部で認められるのはとても嬉しいです。ですから研究室の皆さんはこれからも私を喜ばせるように、よい研究をして下さい。

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 高橋和巳の『憂鬱なる党派』を読了しました。読みにくいのですが主人公の転落振りがあまりにも悲惨で、いったいどういう結末なんだろうという興味から電車内でも読むはめになりました。戦後から日米安保闘争の頃までの時代が背景としてあるせいか、極めてメッセージ性に富んだ小説で、特攻隊くずれ(昔の鶴田浩二を思い出しますな)とか悲惨な原爆被害の実体とか、共産党の武装闘争とかが重要な下地となっていました。

 その頃の騒然とした社会の熱気みたいなものを知らない我々にとっては、なにをこんなに熱くなっているんだろうか、というふうに感じました。でも、読んでいるうちにそういう時代の空気が何となく了解されると、かなり抵抗なく読めるようになりました。この小説によって逆に、連合軍に占領され、独立を回復し、朝鮮戦争を踏み台にして急速な経済復興に邁進した、その時代の社会の昂りと熱気とが理解できたと言ってもよいでしょう。

 先日、高橋和巳の奥様(小説家・高橋たか子氏)の訃報が流れましたが、そもそも高橋和巳って誰?という感じでしょうな。こうやって人びとの記憶から忘れ去られていくのかと思うと、人生の儚さを感じてしまいます。


大学説明会 承前 (2013年7月16日)

 大学説明会の日の午後に開かれた個別相談会ですが、ルーキー・権藤准教授の模擬授業のあいだは人波が途切れましたが、それ以外はひっきりなしに相談者が訪れるという状況でした。親子連れで相談に来る方々も多くて、結構驚きました。なかにはご父兄だけで相談に見える方もいて、時代は随分と変わったものだなあと思い知った次第です。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:第1回大学説明会2013:CIMG3332.JPG

 そういった方々の多種多様な相談を受けていて思ったのは、大学(のなかの建築都市コース)というところがいかに世の中のひとに知られていないかということでした。大学では一体どういう勉強をしていて、そこを出るとどういう職業に就けて、どういう資格が得られるのか、ということについて皆さんが非常に不安を感じている、ということがよく分かります。

 もうひとつは高校生にとっては一番の関心事なのでしょうが、自分の学力と大学のレベルとの関係についてです。物理とか英語が苦手だけど大丈夫でしょうかとか、横浜国大と首都大とではどちらが私に向いているでしょうか(って言われても私にゃ分からんですが)とか等の質問です。どんなにわがコースの良さをアピールして、是非一緒に勉強しましょうなどと言ってはみても、結局は入試に合格しなければなんにもならないので、その手の相談に対してはかなり空しい気分に陥りますね。

 しかし総じていまのひと達は、大学についての多くの情報を得ることができる点では恵まれています。調べようと思えば大学の教員個人のHPから研究内容を知ることができますし、口コミの情報(それが正しいかどうかは別として)もネット空間に溢れています。すなわち大学のネーム・バリューではなくて、自分がやりたいと思うテーマをピンポイントで狙って大学を選ぶことが可能になっています。

 私が大学を受験した頃には大学説明会などなかったし、ホームページなどもちろんなかったですから、今に較べたら大学に関する情報は格段に少なかったはずです。それでも特に大学選びで困ったというはなしは聞いたおぼえがありません。時代の空気がおおらかだったのか、いい加減だったのか、民度が成熟していなかったのか、多分これら全てだったんでしょうね。

 ただ、高校生にとって高校生活を終えるまでに自分の将来(職業)を決めることが難しいのもまた事実でしょう。なので建築都市コースなんかに進んで大丈夫だろうかというふうに悩んでいる生徒さんに対しては、できるだけ丁寧に相談に乗ってあげたつもりです。場合によっては違う選択もあるはずだよと勧めたりもしました。こうなるともう本学の建築都市コースのアピールも何もありゃしませんが、若者たちのそうした悩みに答えてあげるのは人生の先輩として(あるいはひととして)当然の責務だと思います。


大学説明会 (2013年7月14日 その2)

 今日は1回めの大学説明会です。猛暑にも関わらず大勢のかたがおいで下さっているようで、ありがたい限りです。私は建築都市コース長なので、午前中の全体説明会でコース紹介をやり、午後は4時半まで9階の製図室で個別相談の相談員をやります。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:第1回大学説明会2013:CIMG3326.JPG

 コース紹介は大教室でやったのですが満員の盛況でした。高校生だけでなく、親御さんも大勢おいででした。どちらかというと堅苦しい話でしたので、説明しているときの手応えはありませんでしたね。次回は少しは笑いをとれるようなくだけた説明にしようかな、などと思っています。でも、そんなことすると真面目な先生方から怒られるかも,,,。

 それにしてもコース長って、こき使われる職種ですな。個別相談くらいは違う先生にやってもらっても良さそうですが、例年コース長がやっているらしいので、文句も言えないです。4時間近くも坐ってないといけないのでちょっとつらいですけど、まあ仕事ですから。


北の果てから (2013年7月14日)

 本州最果ての地に行ってきました。青森県むつ市です。津軽海峡沿いに建設されているリサイクル燃料中間貯蔵施設の振動試験を見学に行きました(下の地図のA地点)。いやあ、遠かったですねえ。東北新幹線で七戸十和田駅まで行って、そこからタクシーで1時間半くらいでした。東京の気温は35度くらいありましたが、青森に着くとそこはクールな別世界でした。20度くらいしかなくて肌寒いくらいでしたね。持ってきたジャケットがやっと役に立ちました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:スクリーンショット 2013-07-12 21.19.42.png

 むつ市に着いた晩には、一足先にお着きになっていた西川孝夫御大や某ゼネコンの皆さんと懇親しましたが、昨年六ヶ所村に行ったときの轍は踏まないように、今回はそろそろ帰ると仰る西川先生と一緒にホテルに戻って、ぎりぎりでホテルの温泉にも入れました、ああよかった。

 で、朝目覚めたときにホテルから撮った写真が左下です。一面に霧が出ていました。こちらではこの時期にヤマセと呼ぶ冷風が吹くせいで、結構肌寒くなるということです。むつ市は明治維新の戊辰戦争で敗れた会津藩が一藩あげて流されたところで、悲惨な歴史が刻まれた土地です。そういう史跡も訪れたかったのですが、毎度のことですがそんな余裕はサラサラなくて、今回もホテルからサイトに行って慌ただしく帰京するという行程でした。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:むつ市リサイクル燃料貯蔵施設振動試験2013:CIMG3291.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:むつ市リサイクル燃料貯蔵施設振動試験2013:CIMG3307.JPG

 右上の写真はサイトの建物の屋上から恐山方面を望んだところです。恐山にも一度は行きたいと思いますが、それもおあずけです。まあ、また来ることもあるでしょうから、それまでとっておきますか。

 ところで本題の仕事ですが、ほとんど出来上がった建屋(鉄筋コンクリート製の巨大な倉庫だと思って下さい)の振動試験を拝見したのですが、その緻密な計測とデータ処理はさすがに日本一のスーパー・ゼネコンだけあって立派でした。それも然ることながら、その建屋の大きさにもビックリしました。原子力発電所から発生する使用済み核燃料をキャスクと呼ばれる鋼製容器に収納し、そのキャスク(一個120tonf)をここに格納して中間的に(五十年ということでしたが)貯蔵する、とのことでした。

 すなわちこれは日本の国策として実施されつつある、原子力発電に関わる核燃料サイクル事業の一環をなす施設なわけです。とは言うものの、六ヶ所村の再処理施設も未だに完成していませんし、サイクルの輪が閉じていない現状ではその将来は相当に不透明であることは否めません。そんなわけでここの施設も人知れずヒッソリと竣工を迎えることになるのでしょうか。今回の仕事とは直接には関係しませんが、原子力政策に関していろいろと考えさせられた視察でした。

 帰りは会社の車に乗せていただいて、六ヶ所村の再処理施設の脇を通って三沢空港へ行きました。と簡単に書きましたが、約二時間のドライブです。そうして羽田に帰ってきました。結局、サイトにいるよりも移動している時間のほうが圧倒的に長かった出張でした。再び酷暑の東京に戻って来て、北の果ての地が日本の原子力発電にとって非常に重要であることを再認識したのでした。


レポートの採点 (2013年7月11日)

 1年生の専門科目である『建築学概論』ですが、コース長(って私のことです)出題のレポートの採点がやっと終わりました。こちらが提示した新書10冊のなかから好きなものを読んで、それに関連して自分の見解や意見を述べよ、という課題です。課題図書は建築史、デザイン、都市計画、防災、材料、構造、建築思潮というふうに各分野から万遍なく選びました。もちろん全て読んだことのあるものです。

 この課題をA4レポート用紙3枚にまとめてもらいました。提出したのは60名でした。これらのレポートを読んでそれぞれにコメントを付して評点をつけるという作業は、まあ予想されたことではありましたがとても大変でした。結局、まるまる一日半を費やしたのです。

 大学の教員なのだから学生のレポートを読むのは当たり前で、それで給料を貰ってるんでしょ、と言われると返す言葉がありません。でも、日本語の添削とか論文作成の作法などを私が教えないといけないのかと思うと、うーん、なんだかなあと思ってしまいます。

 おまけに採点作業に没頭しようとすると、この日に限ってどういうわけか設計製図の課題の構造について相談にくる2年生たちが頻繁にやって来ました。それがまた自分で何も勉強せずに聞きにくるものだから、あなたそういう態度は間違っていますよ、まず自分で調べてから質問してね、などと諭してあげないといけません。我ながら優しくなったなあ、などと妙に感心しました。

 さて1年生のレポートですが、ネットにある情報を鵜呑みにしてそのまま他人の言説を受け売りしているものが多いことに危機感を抱きました。ネットの情報が正しいかどうかという吟味を完全に怠っているのです。さらに参考文献としてべらぼうに長いURLを5行にも渡って記載しているひとまでいました。写真なども現地に行って自分で撮影すればよしよしよくやったなと褒めてあげるのですが、ほとんどの学生さんはネットからの写真を貼り付けて済ませていました。そんなことで建築とか都市とかを分かった気になってもらっては困りますな。

 こうして呆れたり、ぼやいたり、嘆いたり、怒ったり(ほんのわずか、感心したり)しながら採点しました。大きく分けるとAからDまでの4段階(細かく分けると13段階になったのですが)で評価したところ、約半数はC評価でした。絶対評価ですが、ちょっと厳しすぎたかなあっていうのが、終わってみての感想です。7月末の最後の授業のときにこのレポートを学生諸君に返却して講評する予定です。どんな反応が見られるか、楽しみです。


熱 気 (2013年7月10日 その2)

 ものすごい暑さですね。わが大学では午前中から、消費電力量が限界に達しそうです、という放送が流れました。この分だとお昼過ぎには強制的な電力カットが実施されて、研究室の冷房も効かなくなるでしょう。部屋の灯りもほとんど消して、扇風機を回していますが、熱風がかき回されるだけでよけいに暑苦しく感じるだけです。

 新聞などの報道を見ると、節電によって夏を乗り切れることが過去の二年間で実証されたので原発は不要である、という論調が支配的です。でも、それこそイリュージョンではないかと私は思いますよ。世間の人たちはそれぞれの勤め先やご家庭で、それこそ身を切るような節電につとめているのではないでしょうか。

 でも、それだけ努力した挙げ句に健康を害したりしたら、その損失は計り知れません。節電するのは結構なことですが、それも程度問題でしょう。安全性が確認された原発は動かして、電力に余裕を持たせることがそんなにいけないことなのか、私は甚だ疑問です。あれだけ地球環境保全を言っていたのに、CO2の排出の規制については全く聞かれなくなりました。

 ホント、おかしいですねん。とにかく快適な環境でお仕事させて欲しいと思います。これじゃあ今の環境は四半世紀前の宇都宮大学構造研の(冷房のない)研究室と同じです。じぇじぇじぇ、でしょう?


投票行動 (2013年7月10日)

 参議院議員選挙ですが、誰に・どの党に投票したものかと悩んでいます。先日記したようなマスコミによる世論調査が出ると、この候補者は当確圏にいるとか、このひとに入れても当選しそうもないなとかが、かなりの確度で分かってきます。貴重な一票ですから、できれば死票は避けたいと思います。

 絶対に入れたくない政党はありますから、まずは消去法で候補者を絞り込みます。そうやって残ったひとのなかで、私の思想にピッタリはまる候補者がいればVery Good なのですが、フツーはそういうひとはいませんね。なので、どうしようかなあとウジウジ悩むことになるのです。

 こんな状況だったのですが、電車内で読んでいる『憂鬱なる党派(下)』(高橋和巳著)のなかに以下のような一節が記されていました。

「民主制下においては絶対正しい集団というものはなく、特定の集団が自己の利益を普遍化しようとする論理に、もし六十パーセント以上賛成ならば、それに力を貸してやるより方法はないものなのである。」

 寝そうになりながら読んでいた小説ですが、そんななかにもハッとするような名言が埋もれていたのです。ある政党を全面的には支持できないとしても、60%賛成できるならばその政党を支持する以外にない、ということです。60というのがなんだか絶妙な塩梅の数字のような気がしましたな。これでまあ九割方は決められそうです、ありがとう高橋先生!。

 それにしてもこの小説が刊行されたのは昭和40年ですから、今から約半世紀も前の思考です。今のひとはそもそも高橋和巳なんか知らないでしょうが、そのように忘れ去られた思潮のなかにも有益な示唆が含まれていたことを知って、先人の知恵のありがたさに改めて感謝するとともに、その思想を滋味深く味わっているところです。


政治のゆくえ 〜2013年、夏〜 (2013年7月9日)

 参議院議員選挙が公示されて選挙戦が始まりました。この週末には序盤戦の状況として世論調査の結果がマスコミを賑わせました。それによると自民党の一人勝ちのようで、東京都議選の好調をそのまま持続しているようです。野党は全くもって覇気がなくて、この流れはどうやっても止められないという諦念が覆っているそうです。なんでこんなことになってしまったのでしょうか。

 世の中の流れという名のイリュージョンに踊らされる国民も国民ですが、そのような流れを作ってしまった大いなる要因として、民主党政権の不甲斐なさがあることは確実です。数年前の政権交替の際の期待が大きかったこともあり、民主党政権がその期待に反して何もできないということが分かったときの落胆もそれだけ大きかったわけです。

 あのとき、自民党を多年支持してきた人たちでさえ自民党に愛想を尽かし、その結果として民主党政権は誕生しました。これによって日本においても二大政党制が確立され、議会制民主主義の新しいステージに昇ることが期待されました。そのためには多少の失政には目をつぶって、新しい政権与党を育てることが必要ということも多くの人たちは了解していた気がします。これでやっと戦後の腐敗政治が清算されて、文字通りの新しい政治が始まると期待されたものです。

 しかしながら、東日本大震災という未曾有の災害が生起したことは民主党にとっては突発的な不幸であったとは思いますが、そのときの無策振りを見せつけられた国民にはその政権をさらに育ててゆこうという余裕はなくなっていたのでしょう。

 こうして一度は退場を余儀なくされた自民党ですが、民主党が自滅することによってまさに転がり込んで来たのが今回の安倍政権でしょうね。その経済政策によって今は上げ潮に乗っているみたいですが、何度か書いたようにそれはイリュージョンに過ぎません。資源は有限なのに、そのことには目をつぶって(消費増税さえクエスチョン・マークが付きましたように)資源を消費し続けようという政策がいつまでも続くわけはないからです。

 そのことに(それは参議院議員選挙後になるでしょうが)国民は早晩気がつきます。そのときにこそ、国民にとっては本当の不幸が訪れることになります。自民党はやっぱり金持ちと大企業のための政党だ、じゃあわれわれ一般市民のために政治をやってくれる政党はどこなのか? 人任せにせず自分で行動すればいいじゃないか、というのは空論に過ぎません。ひとにはそれぞれ分というものがあって、それぞれに抱えているものがあるのですから。

 こうした政治的な混乱と低迷とを経なければ日本は再生できないのでしょうか。選挙戦の様子を見ながらブルーな気分になって、ちょっとした絶望感を感じている今日この頃ですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。


そろそろ (2013年7月8日)

 普段の七夕は梅雨の期間ですが、今年の東京は一昨日、梅雨明けしちゃったそうです。え〜、もうですか、っていうのが実感ですが、そう言えば梅雨入りも早かったので、それにともなってあけるのもシフトしただけということかも知れません。いずれにせよ急に夏本番が到来したわけで、この週末は体が悲鳴をあげていました。

 さてわが大学では、そろそろ大学院博士前期課程(修士課程のこと)入試の出願が始まります。我が社ではこの数年、内部志願者がたくさんいる年と皆無の年とが交互に出現しておりまして、今年は内部志願者がいない年に当たります。が、今年はその法則からはずれたみたいで、今年はまずまずの人数が内部から出願してくれそうです。

 学外からはここのところ幸いにもかなりの方が我が社に興味を持ってくれて、毎年それなりの人数が受験して下さっています。これはありがたいことですが、入試に合格して進学する人数が増えれば、それだけ研究テーマを用意して面倒を見ることも必要になり、責任の重さに身が引き締まる思いがします(まあ、普段はそんなことは考えていませんけど、あははっ)。

 師匠の小谷俊介先生は「もうRC構造なんか、研究することはないよ」などと仰っていたこともあります(最近はどうなのか、よく存じません)。しかしながら、このページにときどき書いていますが、私にとっては研究テーマが湯水の如く(って、ちょっと大袈裟か?)湧き出て来て、我が社の今年の研究テーマについていえば、数が多すぎて担当者がつかなかったテーマが結構ありました。

 もちろんそういった研究テーマ群のなかには重箱の隅をつつくようものがあることも事実ですが、そのように小さな課題を着実にこなしてゆくことによってこそ、RC構造の耐震性能に関する理解も進展するものだと思っています。なので自分でできないことは、例えば芝浦工大の岸田慎司准教授に「これやってみたら?」みたいな感じでオルグ活動(?)することもありますな。

 さてJCI年次大会は今週、名古屋で開かれますが、今年は建築都市コース長をやっていることもあって残念ながら参加できません。我が社からは今年3月に大学院を修了した石木健士朗さんと鈴木清久さん、それに岸田研出身のM1・川嶋裕司くんが発表します。発表と質疑応答とを上手にやれば優秀論文賞も夢ではないでしょうから、皆さん頑張って下さい。ここのところ我が社からは受賞者が出ていませんから、この辺りで我が社のプレゼンス(なんだかいつも大学当局からハッパをかけられているようでイヤですが,,,)を斯界に知らしめて欲しいと思います。吉報を待っていますよ。


むかしの読書 (2013年7月4日)

 実家の本棚にあった本を何冊かもって帰って来た。いずれも高橋和巳の小説である。大学に入った頃だろうか、集中的に彼の小説を読んだ記憶がある。しかしそれから三十年近くが経過して、それらの小説の中身やあらすじは全く覚えていないので、じゃあもう一度読んでみるか、という気になった。

 そこで手始めに『憂鬱なる党派(上)』(新潮文庫、昭和55年5月発行)を読み始めた。ちなみに値段は360円と書いてあった。うーん、安いですな、時代を感じます。ところが昔の文庫本は字が小さいのである。老眼の私にはつらいです。

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 さらに冒頭を読んだだけで、そのトーンの暗さにあぜんとしてしまった。まあタイトルからして憂鬱そうではあるが、こりゃあ予想以上の暗さである。おまけに(高橋和巳の文章の特徴であるが)読みにくくて、なかなか進まない。こんなに鬱々とした感じの小説を二十歳前の学生(って自分のことです)が読んでいたのかと思うと、その当時の精神構造はどうなっていたのだろうかと我ながら驚いた。全学連とか共産党細胞ボックスとか武装闘争とか、今では全く聞かなくなった用語が多用されていることにも、あらためて驚かされる。ここでもまた時代を感じるのである。

 こんな感じなのだが、せっかくなので読み進めてゆこうと思っている。ただ、若い頃のような根気が続くかどうか、ちょっと不安ではある。


赤坂見附にて (2013年7月1日)

 七月になりました。今日も薄曇りとはいえ雨は降っていません。六月の雨量は東京では平年並みということでしたので、梅雨らしくそれなりに雨は降ったらしいですが、そのような感じはしませんね。空梅雨じゃないかと思ったくらいです。

 さて、某学会の講習会の講師を頼まれて、赤坂見附に行ってきました。地下鉄の駅を降りて弁慶堀のあたりで地上に出ると、下の写真のような光景に出くわしました。東京のバブルの象徴のようだった赤坂プリンス・ホテルの解体風景です。ついにここまで来たか、という感慨です。

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 で、首都高の下の外堀に沿って坂を上がってゆくと、そこには旧江戸城の赤坂御門の石垣が残っています。銘文によると、1636年に福岡藩主・黒田忠之によるお手伝い普請によってこの枡形石垣は作られたそうです。江戸城草創の頃の結構な年代物であることが分かります。

Akasaka02

 さて、講習会のほうは「コンクリート技士」の資格更新のための研修みたいなものなのですが、受講するのは生コン業界のひとが多いだろうから、多分知り合いはいないだろうな、でも東京会場だから少しくらいは知ってるひとがいるかもな、と思いました。

 そう思っていたのですが私の担当の講習が終わったときに、私のところにつかつかとやって来たひとがいました。誰かなと思ってよく見ると、なんとそのひとは私が大学院生の頃の共同研究者だった栗栖浩一郎さんだったのです。彼自身、その偶然に驚いていましたが、私もビックリしました。

 彼は今は某スーパー・ゼネコンに勤めていますが、学生の頃(学年は私のほうが一年上)は地下二階の実験室で一緒になってRC十字形柱梁部分架構の実験をやっていたのです。いろいろと話しましたが、仕事はやっぱり大変そうでした。現業のひとらしく、儲かるとか儲からないとかを多々口にしていましたね。でもやはり健康が第一ですから、そんなに一所懸命になって仕事してもいいことないよ、と言っておきました。仕事のし過ぎで健康を害したって、会社は何もしてくれないでしょうから。

 赤坂見附というサラリーマンの聖地のような場所での久しぶりの邂逅でしたが、古い友人と何となく元気のでない会話を交わして分かれました。半世紀も生きていれば、まあそんなものかも知れませんが,,,。


また桐生へ (2013年6月28日)

 桐生市営住宅の耐震改修に関するプロポーザルの審査の仕事で、また桐生へ行きました。委員長は壁谷澤寿海先生で、委員は横浜国大の楠浩一さん、堀江研の太田勤社長、市役所の課長さんとわたくしです。

 桐生市役所が十分に準備した、せっかくのプロポーザルなのですが、既存建物の与条件が厳しかったためか、あるいは審査委員会の顔ぶれを見て恐れを為したのか(?)、エントリーしたのはわずかに二社にとどまりました。そう聞いた段階でちょっとガッカリしました、もっと多くの会社が提案してくれればよいものを。

 そのうえ、そのうちの一社が質疑応答の末にとても予算内では出来ないといって辞退したため、結局一社が残っただけでした。うーん、残念ですな。意気込んで審査しようと思ったのに、結局は残った一社の提案の妥当性を審議するという、判定委員会とどこが違うんだかよく分からないプロポーザル審査となってしまいました。

 写真は桐生市役所です。鉄筋コンクリート4階建てですが柱も細いし、大丈夫なんだろうかと一見しただけで心配になりますな。市営住宅よりも先に耐震補強すべきなんじゃないでしょうか。それとも市民ホールとしてUFOを建てちゃったので、お金がないのでしょうか。

Kiryu City Office

 この日、新桐生の駅に着いて特急『りょうもう』から降りると壁さんと楠さんも乗っていたことが分かり、一緒にお昼ご飯を食べに行きました。新桐生の駅前には何もないので、タクシーに乗って市役所近辺の美味しいお店に連れて行ってくれというと、小さな中華料理屋に連れて行かれました。

 桐生に来て中華はないだろう(楠さんなんか中華街のお膝元から来ているんですし)とは思いましたが、誰も文句を言わなかったのでそのままその店に入りました。でも、結論からいうとハズレでした。私は何を血迷ったのか、「復刻版カレーライス」とかいうのを頼んだのですが、中華鍋で炒めた豚肉と玉葱とをカレー・ルーにぶち込んだしろもので、油っこくて私の口には合いませんでした。タクシーの運転手さんの基準は質よりも量、だったみたいです。

 こうして午後のプロポーザル審査に臨んだのですが、終わりまで胃のものがこなれない感じで、もたれたままでした。やっぱり桐生ではうどんを食べるべきでした、げっぷっ(失礼!)。


東京に吹く風 (2013年6月25日)

 東京都議会選挙の投票結果が明らかになって、東京都民の民意が示されました。まあ予想されていたことでしたが、自民党の大勝に終わりました。このことにはそれほどは驚きませんでしたが、共産党が議席倍増したことには驚きました。

 わたしのところは二人区で、四人の候補者が立候補しました。そのうち自民党と維新はイヤですし、共産党は(ときどき書いているように)今どき『共産』もないだろう、まず党名を変えてよね、という感じで消去され、結局残ったのは民主党の若手候補者でした。こういう消去法の果てにこの候補者に投票しましたが、多くのひともこのような投票行動だったみたいで、この人は第二位で当選しました。でもべつに嬉しくもありません。いったいどうしたものでしょうかね。

 結局、東京都民は一握りの金持ちのための政党を選択しました。その親分が掲げる何とかミクスという、イリュージョンを支持したのです。そのような民意は尊重すべきでしょうが、あるいっときの"気分"だけで政治を決めてよいものなのか(これは毎度のことではありますが)、私には甚だ疑問です。日本の国がへんな方向に進まなければよいのですが,,,。これが杞憂であることを祈ります。


沖縄の日 (2013年6月23日)

 今日は沖縄における旧日本軍の組織的な戦いが終わったとされる日です。沖縄は日本固有の国土において一般市民が地上戦に巻き込まれた唯一の場所です。そのときになにが起こったのか、とくに市民を守るべき軍隊が自国の国民に対して牙をむいたことを忘れてはなりません。

 折に触れて書いているように、その時代の国民全体が熱にうかされたような熱狂的な気分は多分、現代の平和な日本に暮らしているわれわれには想像ができないものだと思います。しかし沖縄での事実は厳然として今も日本人の記憶に焼きついています。そのことの重みをよく理解することは現代の我々にも可能なはずです。

 沖縄での戦いは実際には1945年6月23日で終わったわけではありません。そうではありますが、いちおうの節目のときにあたって、そのような悔恨をわれわれ日本人全体が胸に抱くことこそが大切ではないでしょうか。


ウィンドウズの罠 (2013年6月20日)

 パソコンのウィンドウズの続きです。ウィンドウズにはウイルスがつきものであることは皆さんがご承知のとおりですが、ではウイルスはなぜウィンドウズの専売特許なのでしょうか。マックがウイルスに感染しないのはなぜでしょうか。皆さん、考えたことはありますか。

 これだけ科学技術が発達したにもかかわらず、ウィンドウズのウイルスを退治できないって不思議じゃないですか。まあコンピュータも人間が産み出したものに変わりはありませんから、そこかしこに欠陥があるのは仕方ないでしょう。でもこの場合のウイルスは自然界のものではなくて、これもまた人間の産物に過ぎません。

 コンピュータ・ウイルスの防止策をたてると、それを破るような新しいウイルスがすぐに誕生して、その対策をたてて,,,という具合にイタチごっこになってキリがないとよく言われます。でもそれって本当でしょうか。

 こんな風に考えてゆくと、行き着く先は結局ひとつです。すなわちコンピュータ・ウイルスの防止策を考えるひととウイルスを作るひとがグルになっている、ということです。だって、コンピュータ・ウイルスを防止するソフトウエアの売り上げは多分膨大なものだと思います。ですからウィンドウズの製作側がOSにわざと(小さな)穴を開けておいて、そこをめがけてウイルス・ソフトを作ってもらうように(それとなく)誘導しているのです。

 そうすることによってウイルス対策にかかわる膨大な雇用が創出され、ときどき出現する強力なウイルスに対応するためという口実のもとにOS自体もアップデートすることになります。それでマイクロソフトも儲かります。

 なんてうまいやり方でしょうか。世の中の人びとはみな、ウィンドウズにはウイルスがつきものだと思っています。でも、そういうふうに仕向けたのが実はマイクロソフトだったらどうでしょうか。

 いやあ、ビル・ゲイツってひとはホントに末恐ろしいですな。え、今のはみんなお前の妄想だろうって? そうですかねえ、本気でそう思っていますか。


ゴシック総長の評価 〜『天皇と東大』から〜 (2013年6月18日)

 ここ四ヶ月くらいかけて立花隆著『天皇と東大』(文春文庫、2013年2月)を読んだ。五百ページを超えるような文庫本が全部で四冊であるから、結構な読み出があった。第四巻の巻末にある参考文献リストが膨大なことからも分かるように、これは著者渾身の力作であると思う。

 天皇と東大とがどうして結びつくのかと思うだろうが、明治維新後の日本の近代史を語ろうとするとき、結局はこの両者があらゆる局面で姿を現し、それぞれの役割が歴史の大きな転換点となってきたことを示している。そのあたりのダイナミズムを本書を通読することによってかなり理解できたと思う。

 大学の自治とか学問の自由についても深く考えさせられた。ときどきこのページでも書いているが、これらは一朝一夕にして出来上がったわけでは決してなくて、我々の先輩である多くの学者たちの努力と闘争と犠牲とによって勝ち得たものであることがはっきりと分かる。

 特に昭和初期の日本軍部が台頭して軍国一色に塗り固められた時代に、日本型ファッショにただひとり敢然として立ち向かい敗れた、経済学部教授・河合栄治郎のことを知って私は驚いたし、その偉さと卓見とには大いに敬意をいだいた。

 ただし著者の立花隆も書いているように、歴史とは結局は書き手の主観から逃れることはできないので、立花が書いたこと(立花史観)をすべて鵜呑みにすることはできないだろうとも思った。

 立花隆によるこの長いクロニクルには、テーマの性質上おおぜいの東大総長たちが登場する。そのなかには非常に評価されているひと(例えば、会津藩出身の物理学者・山川健次郎、このひとは会津藩家老だった山川大蔵の弟)もいるが、反対に凡人だったと酷評されたひともいる。

 さてそこで、わたしの興味はわが建築学科出身の総長・内田祥三(うちだ・よしかず)先生である。内田祥三先生は現在の本郷キャンパスに多くの建物を残したことで有名であるが、私にとっては内田祥哉先生(うちだ・よしちか、東大名誉教授、建築構法)のお父さんというほうがピッタリくる。内田祥哉先生には直接習ったし、祥哉先生が執筆した教科書は今でも手元にある。

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写真 東京大学総合図書館(内田祥三 設計)

 このように建築学科出身の人びとにとっては周知の偉人である内田祥三先生だが、立花のこの著書には二、三回しか名前が出てこなくて、しかも「,,,この程度の人物であった」というようなネガティブな評価しか書かれていなかったことには正直なところガッカリした。

 とくに敗戦の日(昭和20年8月15日)の正午、安田講堂の壇上にラジオを置いて内田祥三総長以下、教員、事務員、学生たちが玉音放送を聴いたあと、内田総長が演説したらしいが、それがひどかったと述べられていた(文芸春秋のデジタル・アーカイブには、立派な内容ではなかった、建築の専門家で喋るほうは得意じゃなかった、とか書かれている)。

 でも敗戦直後に米軍が日本に進駐してきて、GHQによって東大・本郷キャンパスが接収されそうになったときにそれを回避すべく交渉してそれを成功させたのは内田総長だったことを思うと、もう少し評価されてもよいのではと思った。

 もっともこのときにも、立花による評価が高い南原繁法学部長(のちの総長)とか高木八尺(たかぎ・やさか)法学部教授が前面に立って大活躍したらしい(内田総長自身が著した「東京大学が接収を免れた経緯について」学士会報No.660、661に載っている)ので、そのせいもあって内田総長のことは消し飛んでしまったのかも知れない。

 日本の近代において、東大での出来事は歴史の進展に大いに関わっていたのだが、戦前の経済学部における覇権争いのような内部抗争も本書には詳細に描かれている。この根底にはマルクス主義と反マルクス主義との思想的な違いがあるため、単なる内輪もめと片付けるわけにはいかない。しかし、離合集散が繰り返されたその抗争を見ると、東大教授といえども人間的な好き嫌いによって行動したことがよくわかって興味深い。

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 最後にウェッブを逍遥していて見つけた興味深い写真を上に載せておく(Inax Report No.172より)。最前列中央が内田祥三先生だが、その右隣は佐野利器先生(家屋耐震構造論で世界最初の耐震設計法を提案)、左端はまだお若そうにみえる武藤清先生(D法で有名)である。これは1928年卒業の人たちが恩師を招いた同窓会のときの写真らしい。それ以外の方は残念ながら存じ上げないが、もしかしたらあなたの分野の有名人が写っているかもしれない。とても貴重である。


となりの芝生 (2013年6月17日)

 パソコンを使えるようになりたいので買ってくれと家内が言い出した。私自身はアップルのMacintosh愛好者なのだがMacOSを使っているひとは残念ながら少なく、MicrosoftのWindowsにしたいと言う。といっても、パソコンのパの字も知らない家内がそれらのOSを区別できるわけもなく、パソコン教室のひとからそう言われただけである。世の中の大方のひとはWindowsを使っているようなので(実際、北山研究室でも私以外は全てWindowsである)、それもまた仕方がなかろうと思った。

 そこで近所の安売り量販店に行って、15インチくらいのノートPC(東芝製)を買った。値切って67,000円になったが、Windowsはパソコン界のマジョリティだけあってさすがに安いですな。マイノリティのMacintoshでは10万円をきるパソコンはほとんどないから。

 で、家に帰って電源を入れて立ち上げると、使い方がもうさっぱり分からない。ちなみにOSは最新のWindows 8である。Microsoftのサインインという概念からしてよく分からなかったが、これはアップルのiCloudみたいなものかしら?

 それにしてもWindowsってどうしてこうもデザインがあかぬけないのだろうか。スタートアップの画面なんか、あまりのセンスのなさに唖然としましたな。こんな四角いタイルみたいなものを並べて、おまけにその表示がまるでセンスなしなのである。

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 もしかしたらこれは画面をタッチする方式に対応するためなのかもしれないが、我が家のパソコンはさすがに安いだけあってタッチ式には対応していない。当然、この四角いタイルにマウスを使ってアクセスすることになる。それにしても美しくないなあ、と見るたびに思うのだが、皆さんはいかがですか。

 それにも増して私が不満なのは、ファイル操作である。個々のファイルがどこのフォルダーに入っているかが直感的に理解できない。Macだったら目で見ただけでそれなりに分かるので、そのあたりも洗練されてないなと思ってしまう。

 ところでWindowsのパソコンを買うときにはウイルス・ソフトの対策とかを考えないといけないので量販店のお兄さんからしつこく勧められた、これこれのコースに入るとお得ですよって。それはもう、あんまりうるさいので、そんなものは不要だからパソコン本体だけ売ってくれ、と言うと怪訝そうな顔をしていましたな。ホント面倒くさいです、Windowsって。こうしてますますWindowsが嫌いになったのであった。


飯盒でご飯を炊く (2013年6月14日)

 ある週末、子供の学校で飯盒炊飯の会があって、私たち親子も参加した。希望者だけの有志の会だが、六十人近い児童とその親および数人の先生が集まった。ただ私のような父親の参加はそれほど多くはなく、オヤジたちは力仕事をしないといけないので、子供やご婦人方よりも一時間も早く登校するように言われた。

 で、出かけると、もうその道のプロのようなお父さんが数人いて、たぶん家業で使っているのだろう、自分の軽トラックを校庭に持ち込んで、それにコンクリートブロックとか金網とかを積み込んで運んだ。さらに薪とか机とかも用意した。私は最近は力仕事は全て学生諸君に任せているので、久しぶりに重いものを持って結構しんどかった(ヤワなんです)。次からは研究室の学生さんを助っ人に呼ぼうかな、などと思ったくらいである。

 全部で13班に分かれて、グループごとにそのコンクリートブロックを積んでかまどを二つ作り、一方には飯盒三個を吊るし、もう一方にはカレー鍋を鉄網のうえにのせた。カレー鍋や米研ぎはお母さんと子供たちの担当である。ご飯を薪で炊くなんて、滅多に経験できませんな。始めチョロチョロ、なかパッパ、赤子泣いても蓋とるな、の世界である。上手く炊けるかどうか、全く自信はなくて不安の固まりであったが、火加減を調節したり飯盒を叩いたりして、そろそろよかろうと判断して飯盒を火から降ろした。

 そして、班員の注視するなか飯盒の蓋をあけたところ、じゃーん!なんと綺麗にご飯が炊けているではありませんか。我ながらやった〜と思いました。そのあと、皆さんでカレーライスを食べたわけだが、程よいお焦げができている飯盒もあったりして大満足であった。

 飯盒炊飯の思い出はひとつだけあって、それは早稲田の祖父の家の庭でのことであった。私がまだ小学生くらいの頃のことである。従兄弟たちと一緒に取り組んだのだが、あまり上手く炊けなかった記憶がある。そのことを思えば、今回は上出来であった。昔のひとはこんな大変な作業を毎日していたわけで、ホント文明の利器の発展には感謝せずばなるまい、という思いを新たにした。

  ただ力仕事は大変だし、この暑い時期には火の番も大変だということを身にしみて実感したので、来年はどうしようかなあなどと思案する私であった。


桐生というところ (2013年6月11日)

 先週、群馬県桐生(きりゅう)市に仕事があって行ってきました。結論から言うと一日仕事でしたが、それなりに収穫があって面白かったです。まず、桐生というところには東京からどうやって行くのでしょうか。以前に群馬県太田市に行ったときには久喜までJRで行って、そこから東武鉄道に乗って太田駅で下車しました。桐生市にある新桐生という駅はこの太田駅から約15分くらい行ったところにあります。

 しかし桐生の人たちによれば、浅草から東武鉄道の特急『りょうもう』に乗れば100分で桐生に着くのでこれがよい、ということでした。そこでまず、浅草駅に行ったのですが、我が家からは一時間半ちかくかかりました。地下鉄の浅草駅から一度地上に出たところが下の写真です(私は知りませんでしたが、東武鉄道の浅草駅には直結していません)。東京スカイツリーとアサヒ・ビールの泡々ビルとフィリップ・スタルクの「金のウンチ・ビル」とのスリー・ショットに思わずおおーってのけ反ったのは私だけだったみたいですけど,,,。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:桐生2013:CIMG3200.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:桐生2013:CIMG3202.JPG

 で、教えられたとおりに特急『りょうもう』(うえの写真)に乗って、目的地に向かいました。でもせっかく桐生まで行くので、ちょっとだけ街の散策をしようと思って、目的の新桐生駅の一駅先で下車しました。そこから十分くらい歩いてお目当ての「桐生明治館」に着きました。

 ところで桐生って聞いて、何を思い出しますか。私は織物が真っ先に思い浮かびましたが、名物と言われるようなものはこのあと紹介するうどんくらいしかないみたいです。ソースカツ丼を売りにしようとしているみたいでしたが、私くらいの年代になると油っこいものは敬遠しますから魅力は感じませんね。

 はなしを元に戻すと、「桐生明治館」は明治11年に建設された木造二階建ての建物で、昭和の初め頃に前橋からこの地に移築されて、昭和51年に国の重要文化財に指定されました。

 完全な左右対称で、中央の玄関のところには破風状の庇が出ていて、その下にはバルコニー状の突出部があり、それを何とも不思議な柱頭飾りをもつ柱で支えるという、典型的な擬洋風建築です。大工の棟梁が西洋の様式建築を見よう見まねで作ったということがよく分かりますね。ちなみに前面を巡っているベランダのように見える部分は機能としては廊下です。こりゃあ『建築文化論』の講義で使うパワーポイントのネタになるなと、ひとりほくそ笑みました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:桐生2013:CIMG3204.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:桐生2013:CIMG3213.JPG

 さて、お昼には桐生名物のうどん「ひもかわ」を食しました、是非食べろというお勧めでしたから。桐生のひとからおいしいお店を聞いておきましたので、そこに行きました(下の写真の「ふる川」というお店です)。で、出てきたのが、うどんというよりは春巻きの皮あるいはラザニアみたいな「いったんもめん」のような麺だったのです。これが二つか三つに折り畳まれていて、一枚の長さが結構ありました。いやあ、目が点になりましたな。これ、どうやって食べるんだろう、というのが第一の感想でした。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:桐生2013:CIMG3243.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:桐生2013:CIMG3203.JPG

 お出汁は普通の鰹だしだったので、そこにこのシート(って、風情のない言い方がピッタリです)を無理矢理突っ込んで、もしゃもしゃと噛み切って食べました。決してツルツル、ではありません。まったくうどんっぽくないですな。箸でとってみると分かるのですが、このシートが結構薄くて、お箸でつかむときにそーっとやらないとすぐにビリって破けてしまいます。そんな繊細なものをどうやって茹でて、一枚一枚綺麗に畳むのか不思議でしたが、相当な年季が必要な職人技だと思いました。

 結論からいえば、私はフツーの長いうどんが好きです。ツルツル、シコシコというのど越しと食感とがやっぱりうどんには必要だと思うからです。こう書いているうちにうどんと同じ材料・手法で作られているとはいえ、細長い麺と面状のそれとでは食する方法が全く異なる、ということに気がつきました。なので、これをうどんと思わなければそれはそれとして美味しい、ということになるかも知れませんけど、まあそこまでの市民権は得ていないということでしょうか。

 ちなにみこの「ひもかわ」はフツーのうどんの百円増しのお値段でした。なぜ「ひもかわ」と呼ぶんですかとお店のひとに聞いたところ、「だってヒモみたいでしょう?」って言われて、はあ?と不得要領のまま引き下がりました。

 このあと壁谷澤寿海先生たちと合流して桐生市役所での会議に臨みました(既存建物の耐震補強関係の仕事です)。まあ、それはそれでいろいろあったんですが、会議室の窓から見えた建物に私は目を奪われました(下の写真)。なんだ、このUFOはっ!ていう感じじゃありませんか。

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 この建物は桐生市市民文化会館(1997年竣工)で、設計は坂倉準三事務所、構造設計は松井源吾先生だそうです。やっぱり巨匠と言われる方は違いますな。よくもまあこんなものを設計して作ったな、と内心呆れましたが、このUFOをどうやって支えているのか、ホント不思議です。これを見れば、まさになんでもありで掟無用と思えてきます。

 そういう感想を私が述べると、同席していた堀江研究所の太田勤社長が「そうなんだよね、構造設計者ってなんでもやっちゃうんだよね。出来ないって言うとバカだと思われるから、それがイヤでこんなもん建てちゃうんだよね」とおっしゃいました。その言葉には、無茶なことをいうデザイナーの意のままに仕事をせざるを得ない構造設計者の悲哀が込められているようで、そういうものなんですか、と答えるのがせい一杯でした。デザイナーのいうことに対して、構造設計者がそれは出来ませんと言うと、無能だと思われてそのあと仕事が来なくなるわけです。

 耐震偽装事件以来、構造設計者の地位の向上が言われますが、建設業の業態としては依然としてそれは困難であると言わざるを得ません。そんなことを垣間みた瞬間でした。

 ということで桐生の印象は「いったんもめん」と宙に浮くUFOっていうことに決まりました。ちょっと違うだろ〜ってとりあえず突っ込んでおいて下さいませ、あははっ。


光 明 (2013年6月6日 その2)

 今日は会議が多くて、それで一日が暮れました。もっとも夕方のほうは、芝浦工業大学・岸田慎司先生たちとの研究打ち合わせだったのでそれなりに楽しかったです。でも、分からないということが分かった、というなんだかフラストレーションの溜まる相談でしたけど。

 さて、東京六大学新人戦で東大は残念ながら1勝で終わって、結局4位でした。新人戦は一、二年生だけで戦うようですが、三位決定戦(対立教大学戦)は1−2で惜敗しました。でも、明治大学と立教大学には負けましたがいずれもいい勝負だったし、早稲田大学には快勝(?)したみたいなので、今後に期待できるチームになりそう、な予感がしました。若いひとたちの奮起に期待したいです。


イリュージョン (2013年6月6日)

 自民党政権の経済政策ですが、国民ひとり当たりの年間所得(*1)の150万円増を今後10年で実現する、とぶち上げました。もうビックリです。今までの、首相の名前を冠した何とかミクスだって、なんら実体をともなわない、気分のようなものでした。そのような気分に国中が酔いしれて踊っている、というふうに部外者には見えるのですが、どうでしょうか。

 そもそも経済活動って、個々の人間にはそれぞれの意思があるにも関わらず、その人間が寄り集まって集団で暮らすようになると途端に別の意思(みたいなもの)を持ち始めて、それが人間の制御(あるいは思惑)を超えて勝手にうごめくようになったもの、というふうに私は認識しています(経済理論なんか勉強したこともありませんので、その筋のかたが見ればいい加減で甘々でしょうが、ご容赦を)。

 ですから、そもそもの始めから経済活動には実体なんかはないとも言えます。そういう観点からは、なんの実体がなくても社会全体の気分をうまく操作して人間をその気にさせるという政策はあってもいいのでしょう。

 しかし今の状況の危うさは多くの方が指摘しているし、それを分かっているひとも多いと思います。さらにいえば、これから人口が減少して労働人口も減りますが、養うべき高齢者は増えるわけで、そのような未来において国民ひとり当たりの所得を150万円も増大させる、というのは不可能だと(素人だって)思います。

 それとも、国民全体の数%程度にすぎない高所得者の所得だけが飛躍的に増加することによって、平均すると150万円増になる、なんてことじゃないでしょうね。でも自民党ってそもそも、一握りの富裕層の富をさらに増大させようっていうのが基本方針の政党ですから、案外これが正しい理解かもしれませんよ。富めるものは益々富んで、貧しきものはますます貧する、って高名な経済理論じゃなかったでしたっけ?

 いずれにせよ、そのような実体のない経済活動に対して幻想を抱くのは禁物です。一国のトップがそのように号令をかけたからといって、今さら浮かれるひともいないとは思いますけど,,,(いや、これは間違いですね、そうでなければ株価が上がったり、円安が進んだりしませんから)。

(*1)精確には国民総所得です。新聞によればこれは家庭の年収ではない、ということらしいですが、こんな紛らわしいことを言うこと自体がいかがわしいですな。


カード・キーの寿命 (2013年6月4日)

 ここ数日、急に調子が悪くなった大学用カード・キーですが、ついにICチップのところが引きちぎれておシャカになりました。思い返せば、当時大学院生だった嶋田くんと白井くんとが私の大切なカード・キーをへし折ってから(こちら)、まだ三年半しか経っていません。

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 もともと薄いプラスチック製ですから、ちょっとした面外曲げには弱いでしょうし、毎日頻繁に使うものですから、その面外曲げの正負交番繰り返し載荷が疲労状態を引き起こしている、とも考えられます(専門用語の連発ですみません)。そのために疲労破壊を生じたのかもしれませんが、いずれにせよ憤懣ものです。

 まあ、形あるものはいつかは壊れるっていうことでしょうか。仕方がありませんな。直ぐに新しいカード・キーの発行を申請しましたが、このカードは身分証明書も兼ねているので、すぐには発行できないようです。しばらく不自由な大学生活をおくらねばなりません。そうとうに憂鬱です。

追伸(2013年6月5日) 2階の事務方にお願いしたら、即日で仮カード・キーを発行して下さいました。とても助かりました。
追伸2(2013年6月11日) 本カード・キーのほうも6月7日に出来上がりました。今回は迅速にご対応いただき、感謝申し上げます。


パソコンのある風景 (2013年6月3日)

 先日、建築学会の会議室で私が主査を務める梁柱部材性能評価WGが開かれました。建築学会の会議では、事務局に紙版の資料をコピーして配布してもらっていましたが、つい最近そのサービスが廃止されました。コピー代などの経費削減と、コピーする手間等の人的資源の省力化がその理由なんだと思います。

 その代わりに建築学会のHPにそれぞれの委員会とかWGとかの専用のホルダーが用意されて、資料があるひとはそこにデジタル・コンテンツをアップロードすることになりました。で、会議当日にはその資料を紙に印刷して自分で持参するか、会議の席にパソコンを持ってきて、そこからネットに接続して適宜資料を閲覧するという具合です。

 私は予め紙に印刷して資料を持って行ったのですが、いざ会議を始めようとして思いもしなかったさまざまな問題に直面しました。大方の委員は紙に印刷して持ってくるなどという面倒なことはしないので、会議室に入ると自分のパソコンを取り出して、ネット上の資料にアクセスすることになります(下の写真です、まずこんなことするんだあ、といった感じで皆さん苦笑していますね)。そのためにまず時間が取られました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ梁柱部材WGの風景.JPG

 次に資料には通常、番号を振るのですが、それがスムーズに行きません。結局、私が勝手に決めた資料番号を、ネット上にあるデジタル・ファイルのファイル名の先頭に追加する、という面倒な作業を石川裕次幹事にやってもらって、そのファイルを各委員がダウンロードする、ということになりました。もう、時間がもったいないといったらありません。私のように気が短い人間には耐えられませんな(正直なところイライラしました、精神衛生上よくありません)。

 こうしてやっと本題の議論が始まったのですが、説明している途中に某資料が足りないということに気がついた石川幹事が、すみません、これから新しい資料をアップしますから、と言って、その新しい資料に各委員がアクセスして,,,という一連の作業が進むあいだ、議論はストップしました。こんなことが数回、起こりました。石川さんは、これは便利ですね、いくらでも資料が追加できて、なんて呑気なことを言っていましたが、もう面倒くさいうえに議論が中断されてブツ切りになってしまって、私としては勘弁してくれ、と叫びたくなりました(実際、もう勘弁してくれ〜と言った記憶があります)。

 そしてクライマックスがやって参りました。せっかくアップロードした資料の幾つかについて、石川幹事がこれは公開するには差しつかえがあるのでやっぱり削除して下さい、とのたまったのです。えっ、せっかく資料番号を振ってみんなでダウンロードしたのに、ですかあ?

 まあ、本人がそう言うなら仕方ありませんから、その資料を皆さん、ゴミ箱(って、各自のパソコンのなかの、ですけど)に捨てて下さい、と私は宣言しました。しかし資料番号は既に振ってありましたから、それらは欠番として議事録には痕跡をとどめることになりました。こんな会議って、皆さん、想像できますか。もうビックリです。初めての経験だったので戸惑いの連続だったわけですが、どうやったら効率的に会議を運営できるのか、ちょっと自信がありません。

 しかし各自がパソコン持参で会議に臨むということが前提になるならば、例えば電源タップを委員数分用意するとか、それなりの配慮が必要になると思います。今回は3時間の会議でしたが、ネットに接続してダウンロードしたり、画面上で資料を閲覧したりしているうちにパソコンの電池はどんどん減ってゆき、私のMacBook Air はほとんどバッテリー切れ寸前でしたぞ。

 こんなふうに資料の閲覧に時間とか知恵をとられてしまっては、肝心の生産的な知的議論が邪魔されてしまいます。これでは本末転倒ではないでしょうか。ストレスを感じることなく学会活動に従事できるようにして欲しいと強く望みます。


本郷界隈 (2013年6月1日)

 先日、久しぶりに本郷の東大に行きました。塩原兄貴がゲットした科学研究費補助金による研究の共同研究者にしていただいたので、その打ち合わせでした。ちょうど梅雨の晴れ間で外出するには好都合でした。

 赤門の脇に新しくできた伊藤ホール(?)のところ(昔は学士会館分館が建っていたところ)からキャンパスに入って、本郷通りに沿った道を歩いてゆくと、学部3年生の頃の演習の時間に実測してアクソメ図を作ったパーゴラがまだ建っていました。この写真では頂部に植物がモジャモジャ生えていて何だかよく分からないかもしれませんが、多分、内田祥三先生流のゴシック・スタイルなんだと思います。

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 それから例によってコンドル先生です。コンドル先生について書いた雑文をつい最近、アップしましたのでそちらも良かったらご覧下さい。ちなみにこの小文もこのコーナーに以前に書いたコンテンツがもとになっています。

 今回は、建築学科が入っている工学部一号館をバックにして撮ってみました。この建物は低層のRC構造ですが、表面には当時流行したスクラッチ・タイルが貼られていますので、かなり重厚な感じがします。

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 ところで私が青春時代を過ごした工学部11号館と正門とのあいだに、すごく立派な椅子に座ったご老人の全身像がありますが、この方が誰なのか、実は今まで知りませんでした。ちょうど良い機会なのでじっくり観察すると、この方は土木工学科の大御所だった古市公威(ふるいち・こうい)先生であるということが分かりました。

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 さて本郷に行くと、私はなるべくあるお店に立ち寄ることにしています。それは正門前にある喫茶店『ルオー』です。ここのカレーを学生の頃から食べて来たことはだいぶ前にこちらに書きました。

 で、正門前の横断歩道を渡って『ルオー』のそばまで来ると、その辺りのお店は全て空き家になっていて、とても寂しいことになっていました。そのことを旧知のマスターに聞いてみると、その辺りをひとまとめにして立て替える計画が進んでいるらしくて、じゃあこのお店はどうなるんですかと聞いたところ、その新しいビルに入るかもうやめるかどうしようか、ということでした。私としては、いつまでもここのカレーを食べたいので、お元気なうちは是非続けて下さいと言っておきましたが、寂しい話でした。


RC規準の改定、ふたたび (2013年5月30日)

 関東地方は昨日、梅雨入りしたそうです。早いですね、まだ5月だっていうのに,,,。でも確かに今朝も雨降りですから、そういう時候になったということでしょう。

 さて、自分で書いたこのコーナーをパラパラと見直していたら、2009年3月5日にRC規準の改定作業中の感想が書かれていた(こちらです)。その末尾に「次の改定が10年後だったら、また担当にされるかも知れない。ちょっと怖い気がします、自分で自分をばっさりするのは」とあった。今から4年前にはこんなことをやっていたんだと懐かしむとともに、当時の苦労を思い出した。

 で、そのRC規準は結局2010年に改定されたのだが、今までの経緯から普通に考えると次の改定は2010年の10年後、すなわち2020年くらいかなあと思っていた。ところが2010年改定のときの主査だった市之瀬敏勝先生は、2010年版の改定ではまだ不十分だったところや思いのほかまずかったと反省している部分がとても気になっていたようで、RC規準普及WGのメンバーを中心として2015年度を目指した小改定を閣議決定(?)したのであった。内部情報をこんなところにカイテー(書いて/改定)もいいんだろうか、とチラッと思ったが、まあいいか。

 まさに『想定外』である(正しい使い方だと思います)。えっ、もう改定するんですかあ、というのが私の偽らざる第一声である。あんなに苦労したんだし、社会の皆さんにもう少し使っていただいてからでも、遅くないのではないでしょうか、などと面倒臭がりの私は思うわけである。

 しかしそれにも増して、市之瀬先生が改定のターゲットとする「うまくない部分」のひとつとして、私(と清水建設の黒瀬行信さん)が担当した16条『付着および継ぎ手』をあげられたことが私の意気を大いに消沈させた。ああ、あんなに苦労したのになあと、また同じことを書いてしまった(あんたは健忘症か、って)。

 というわけで、まさかこんなに早く「自分で自分をばっさりする」ことになろうとは、さすがに思わなかった。しかし苦労した16条を自分の手で作り直す気はどうしても起こらなかった。そこで市之瀬先生にその旨をお話しして、改定担当者を外してもらうことにした。幸いにも一世代若い気鋭の研究者の方々にお願いすることができたので、ひとまずホッとしたのであった。


春のシーズン終わる (2013年5月27日 その2)

 今日は薄日が射したりしますが、基本的にはどんよりとした曇り空です。湿度が高くて、ちょっとイヤですね。西のほうは梅雨入りしたそうで、関東地方ももう直ぐ、でしょうか。例年よりも早そうですが、早めに入梅すればそれが明ける時期も早くなるならば、それはそれで歓迎です。

 さて、東京六大学野球の春のシーズンはまだ早慶戦が残っていますが、東大の全日程は終了いたしました。結果は残念ながら10戦全敗でした。投手戦になってかなり惜しい試合もあったりしましたが、大敗した試合も多くてガッカリしました。6大学の選手を見ると、東大以外は皆蒼々たる高校の出身者で甲子園の常連校も多く見られます。

 それに較べると、東大の選手の出身校はひ弱そうな(って、勝手な想像ですけど)進学校ばっかりで、公務員試験には合格できても野球で活躍するのはちょっと難しいのかなあ、などと自虐的に思ってしまいますな。規定打席に達した選手も四、五人しかいなくて、その打率も2割に満たないようなので、勝てなくてもまあ仕方ないか。

 でも、一所懸命にやっていることは確かでしょうから、精進あるのみ、秋のシーズンでは一勝を挙げて欲しいと思います。選手の皆さんの活躍を期待しています。


今どきの運動会 (2013年5月27日)

 この週末は宅の息子の運動会でした。今年はちょっと出遅れて八時半に学校に行くと、もうレジャー・シートが一面に敷かれていて、ほとんどスペースが残っていません、あちゃ〜ってな感じです。わずかに通路のように細長く残っていた「地」(図と地を想像して下さいませ)を目ざとく見つけた家内が、そこにシート2枚を置いてなんとか場所をゲットしました。

 この学校では運動会の主役である児童たちのお昼のお弁当は、家族と一緒にそのシート上で食べることになっています。このことがまず我が家では驚きでしたな。私が小学生の頃には、お弁当は教室内で子供だけで食べていた記憶しかありません。でも、仕事の都合とかで運動会を見に来ることができない親御さんだっていると思います。そういうご家庭のお子さんはどうするのでしょうか。ひとり寂しくお昼を教室かどこかで食べるのでしょうか。こんなことを考えると夜も眠れなくなるので止めましたが。

 そのうちに全校児童の入場が音楽にのって始まりましたが、その曲がなんとボーイズタウンギャングの『君の瞳に恋してる』("Can't take my eyes off of you")でした。とても行進できるような曲じゃないし(これは基本的にディスコ・ナンバーでしょうね/死語でしょうか?)、そもそも今の若いひとがこの曲を知っているはずないでしょう。なんせ私が大学生の頃にもの凄くヒットした曲ですから今から三十年くらい前でしょうか、大学の製図室に毎晩流れていたことを思い出します。

 それから子供たちの遊戯(ダンス?)が、今どきのトッポい(って、これも死語でしょうね)流行歌に乗ってなされることにも驚きました。うちの子供は「ももくろ何とかX?Z?」っていうグループの歌に合わせて踊っていました。

 私が子供の頃には「花笠音頭」とかを踊っていましたぞ。このときの花笠は各自がボール紙で作ったのですが、そのテッペンにティッシュか何かでボンボンを付けました。ところが、いざ本番っていうときにその花笠が手元からポロッと落ちてしまい、運悪く水たまりにそのボンボンがポチャって浸かってしまって、もう完全にブルーな気分で花笠音頭を踊ったことをありありと思い出しました。そのときにガッカリして気落ちした感覚が海馬の底から蘇ってきたのです。すごいなあ、人間の記憶って(いつも同じことばかり言っていてすいません)。

 PTAの人たちがいろいろと運動会運営に参加していることにも驚きました。うちの家内も自転車の駐輪整理の担当でしたし、写真を撮っている方とかもいました。よく話題になりますがPTAっていうのは任意参加の団体ですよね。まあ実質的には有無を言わせずに入らされていると思いますけど。おまけに何らかの役職とかに(泣く泣く)就いたりしたらもう悲劇的です。もちろん私のように心の狭いひとばかりではなく、奉仕の精神に溢れている方もおいでだろうとは思いますが,,,。

 六年生の組体操などは素晴らしかったです。小学校も高学年になると結構すごいことができるんですね。でもやはり怪我は心配でしょうから、人間ピラミッドみたいに高いところに登るときには、周りじゅう先生方がワラワラと集まってきてサポートしていました。このように配慮していただけることはとてもありがたくて安心できますが、私が子供の頃にはそんなことはありませんでしたから、やはり時代を感じました。


司会の依頼 (2013年5月20日 その2)

 8月末に北海道大学で開催される建築学会大会の司会の依頼がメールでただ今、ありました。受け取った方も多いかと思います。ところがその依頼メールがドドッーと4通も来たのですぞ。あれ、同じメールが四つ来たのかとフツーは思いますな。

 ところが中を見てみると、四つとも違うセッションでした。それもバラバラのテーマでなんの脈絡もありません。がーん、わたくしに四つも司会せい、って言うんでしょうか。私は別に大成した「先生」でもなんでもなくて、ちっぽけな研究者に過ぎませんが、それでももう中堅くらいの位置づけかなあと自分では思っています。

 建築学会大会の司会は若い方にやってもらって、学会での活躍の足掛かりにしてもらえるとよいとわたしは考えておりますので、なんで私が四つも司会せにゃあかんのか、と驚いた訳です。

 もちろんひとつのセッションくらい司会するのは義務だろうと思いましたので、ひとつだけ引き受けて、あとの三つはリジェクトいたしました。でも、どうして四つも依頼が来たのか、ホント不思議です。今までも重複して司会の依頼はありましたが、せいぜい二セッションでした。

 で、思い出したのですが、今年からRC構造運営委員会の主査に就任された塩原兄貴から、「北さん、今年の大会では一つの教室にずーっといて、ご意見番みたいに質問してくれないか」みたいなことをチラッと頼まれていました(本当にやらにゃいかんのかはまだ分からない)。もしかして、このことかなあと思いましたが、依頼されたセッションは三日間にバラけていてテーマの一貫性もなかったので、これは違うかなと判断しました。

 そういうわけで、私が断った三つのセッションの司会が他のどなたかに行くかと思いますが、どうぞよしなにお願いします(すいません、と言っておきます)。


花を植える (2013年5月20日)

 我が家には庭と呼べるような庭はないのですが、それでもちょっとだけ土が露出しているところがあります。そこは結構日当りが良くて風通しもよいので、ドラ猫ちゃんにとってはどうやら格好の「用足し場」となっていました。冬のあいだは無視していたのですが、春から夏へと向かうこの季節、その臭いがたまらなくなってきました。

 そこには春先にラベンダーを数株植えたのですが、それだけでは足りなかったようです。そこでもっとたくさん植物を植えて、残ったところには石を敷いてドラ猫除けにしようと思い立ったのです。ついでに西側のわずかな土地(幅30cmくらいかな)にも花なんかを植えることにしました。そこには先日、ゴールド・コーンという針葉樹みたいな木を一本だけ植えてあります。

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 で、家のそばにあるユニディ(ホームセンターのこと)に行ってラベンダーとかガーベラとかカラー・リーフなどを買ってきました。それから敷石ですが、こちらは白い砕石を合計110kgfも買いました。これくらいありゃあ足りるだろうと。一袋10kgfですが、家内も子供も重たくて持てないというものだから、しょうがなくて私が運びました(私だって重たいですけど〜)。

 雲行きが怪しくなってポツポツと雨が降ってきたので、慌てて花を植えて、残ったところには石を撒きましたが、それでも石が足りなくて(それもぜ〜んぜん足りませんでした!)、こりゃダメだねと言ったところで今日は終わりにしたのでした。疲れたし、まあいいか、ガーデニングなんかしたことのない我が家にしては上出来だぜ、みたいな感じです。

 でもこのところ、枯れかかっているトキワマンサクに毎朝お水をあげて、ハナミズキの芽の様子を観察し、レモンの花の具合を確かめたりしているのですが、植物の育って行く様子を見るのも楽しいものだということに気がつきました。なので、猫除けとして役にも立つし、こいつは一石二鳥かな、なんて思い始めた今日この頃です。

 ホームセンターはとても混んでいて、世の中の皆さんは結構庭仕事がお好きなようです。そう思ってご近所のお庭などをちらっと拝見すると、ちょっとした土地にも花や木々を植えたりして小綺麗にしているお宅が多いことに気がつきます。私自身も花を愛でる余裕がやっとできたのかな、などとも思いますけど,,,。


本歌取り (2013年5月16日)

 先日、新入生と若い建築家たちとともに南大沢キャンパスのなかを巡ったことを書きました(ここです)。本学の図書館は建築家・高橋てい一[てい:青偏に光]さんの設計になるものです(写真1)。その図書館の前で建築家のひとりが「この建物は、グンナール・アスプルンドというスウェーデンの建築家が設計したストックホルム市立図書館(写真2)のモチーフを借りてきている」という説明をしました。こうやって並べて見ると確かに似ていますね。

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         写真1 本学の図書館(高橋てい一設計)

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写真2 ストックホルム市立図書館[1928](グンナール・アスプルンド設計)

 私はそんなことはトンとご存じなかったので(アスプルンドの作品として火葬場が有名であることは昔から知っていましたが)、へえ日本の名建築家(高橋てい一さんのこと)もやるなあ、と感心したのですが、学生のひとりが私に「それって盗作じゃないんですか、それともアスプルンドさんの許可を得たのですか」と質問したのです。

 それを聞いた私は結構驚きましたが、既存のもののよいところを取り入れて新しいものを創造するのは日本古来からの立派な文化であることを「本歌取り」を例として説明してあげました。でも多分、本歌取りなんて知らなかったんでしょうね、キョトンとしていましたけど。例として適切じゃなかった、ということでしょうか。

 私がそのときすぐに思い出したのは、以下の和歌でした。

草枕むすびさだめむかた知らず ならはぬ野辺の夢のかよひ路

 これは飛鳥井雅経という平安時代末期から鎌倉時代初期の歌人のうたです。これのもととなった本歌は古今和歌集にある「宵々に枕さだめむ方もなしいかに寝し夜か夢に見えけむ」(よみ人知らず)だそうです。

 ちなみに飛鳥井雅経のこの和歌は高校生の頃の私の記憶に強く焼き付いていました。それは東京帝国大学建築学科出身の詩人・立原道造の作品のなかに重要なモチーフとして取り上げられていたからです(調べてみると『鮎の歌』という物語でした)。

 そんなことはすっかり忘れていたのですが、学生さんの質問から「本歌取り」を思い浮かべ、そこからこの和歌へとつながりました。人間の脳内の連想って、ホント無限なような気がしました。

 さてストックホルムの図書館ですが、これはすでに古典といってもよい部類に属しますし、そもそも設計したアスプルンドは1940年に亡くなっていますから、その建築を「本歌取り」してもなんら問題はないだろうと私は思います。


赤レンガ (2013年5月13日)

 とてもよく晴れた5月の週末、子供がまたもや帆船を見たいというので、横浜の日本丸メモリアルパークへ行った。またですかあ〜ってな感じで、調べてみると去年の同じ日にもここに来ていたことが判明して、もうビックリ! 今年のこの日は日差しの強い夏日で、半袖のひとも多かった(うちの子供ももちろんそう)。日本丸にはもう何度も行っているので私は入らずに外で待っていた。

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 せっかく横浜に来たのだし、Good Day なのだから散歩をしようということになり、汽車道をブラブラ歩いた。そこから見えたのが下の写真の建物である。これを知っているひとは建築関係者のなかでもたぶん「通」だと思う。明治時代の建築家・遠藤於菟(えんどう・おと)が設計した旧横浜生糸検査所の倉庫で、表面にはレンガを貼っているが構造は鉄筋コンクリートである。リーマンショックによるプチ・バブルがはじけたために、保存して活用することが決まっていたこの倉庫の周辺はとりあえず駐車場になっている。なんとも宙ぶらりんの状況で、相当に寒々しい風景である。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:横浜2013May:CIMG5614.JPG

 さて、汽車道をさらに進んでゆくと目の前に赤れんが倉庫が見えてきた。こちらは妻木頼黄(つまき・よりなか)の設計で明治時代に建てられた倉庫である。私の記憶では20世紀末くらいまで放置されていたが、文化財としての価値が認識されたのであろう、イベント・スペースとかショップとかが入る複合施設に改修・再生された。

 この日はアフリカン・フェスタというイベントが開かれていて、もの凄い人手であった。暑い日だったのでアイスクリームが飛ぶように売れていた。『馬車道アイス』というお店があって、我が家もみんなで食べました、ぺろっ。

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 さて設計者の妻木頼黄だが、このひとは世が世であれば「殿様」と言われたであろう家柄である。妻木氏は土岐源氏の支流で、妻木頼黄の家は江戸幕府の旗本だったのである。明治維新によって主家を失って「失業」した彼は、アメリカで建築教育を受けて帰国し、大蔵省に所属して建築家として活躍した。そういう出自だったので、東大の前身の工部大学校出身のエリート・辰野金吾とは仲が悪かったらしい。妻木頼黄の代表作である「横浜正金銀行」は今も横浜の地に建っている(下の写真は2007年撮影)。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:横浜近代建築2007:旧横浜正金銀行本店/妻木頼黄:CIMG0942.JPG

 赤れんが倉庫をブラブラしていると「赤い靴」という文字が目に入った。そうだった、横浜は「赤い靴」の発祥地?である。さらに連想は続いて、佐野元春の最初のアルバム『Back to the street』のジャケット写真はその「赤い靴」を店名にしたお店の前で撮影されていたことを思い出した。調べてみると1980年のことである。今から33年も前かあ、感慨もひとしおです。あんまり懐かしかったので、今、このアルバムを聴きながらこれを書いている。5曲目の『グッドタイムス & バッドタイムス』なんかVery Good ですな。

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 幕末から明治にかけて開国日本の表舞台として注目されるようになった横浜(それ以前は田舎の貧しい漁村に過ぎなかった)。その特異な経歴から近代化遺産と呼ばれる構築物がいまも多数残っている。『建築文化論』とか『建築学概論』とかの授業のときにも、横浜に行って建物を見て来いと学生諸君に言っているが、いつ行っても新しい発見があって楽しいところである。


またもや (2013年5月10日)

 我が家のターボ付き1.2リッター車は今年で最初の車検を迎えるが、またもやリコールになった。昨日の新聞に載っていたので、車会社のHPにあるリコール情報を見たら該当していた。車台番号を入力すると分かるような仕組みである。とほほ状態である。

 またですかあ、というのが正直な感想ですね。よく売れている車なのに、なんでだろう? 今回は7速自動変速装置を制御するコンピュータの不具合だそうで、それがイカれると走れなくなってしまう。今までに300件以上のトラブルが報告されたらしい。リコール対象車両の数は九万台以上なので、不具合の確率は 300/90000=1/300 である。すなわち300台に一台はこのトラブルに見舞われた、ということで、これって結構な頻度じゃないですか。

 ドライブの途中で車が走らなくなったりしたら、相当なダメージである。走らないクルマなんて、ただの邪魔臭いハコにすぎませんぜ。でも多分今までの例からすると、このようなトラブルが報告されてから相当な期間が経過したのではないか。そしてやっと重い腰をあげて、リコールに踏み切ったというのが真相だと思いますな。

 以前にも書いたが、現代の車は電子機器だらけでそのどれか一カ所でも不具合があると、もうダメになってしまう。経済至上主義なので、同じ部品を共有している車種も多数になるから、リコールになったときの対応にも時間がかかる。実際に、我が家にはまだ何の連絡もない。そのうちに車検切れのほうが先にやってくるんじゃないか。

 ディーラーから連絡がいつ来るのかも分からないので、しばらくはビクビクしながら車に乗らなくてはならない。困ったものである。燃費の良さとか乗り心地とか、クルマ自体はよくできていると思うし、トータルとしては気に入っているのだが、こうリコールが頻発するようでは信頼性に欠けますな。

PS; 週末にディーラーから連絡があって、案の定、車検と一緒にしてくれということだった。部品が間に合わない、とも。じゃあ、そのあいだに壊れたらどうするんだ、と聞くと、そのときは私が飛んで行きます、との返事。もう、お手上げですな。(2013年5月13日)


想定外という思考停止 (2013年5月9日)

 3・11以来、想定外という言葉を使うことに対する拒絶反応や反感が顕著となったことは皆さんご承知の通りです。津波の高さ然り、地震動の規模然り、です。なにか事故が生じたときに、「想定外」を言い訳にしてはいけないでしょう。でも、建物や土木構造物を作るときには、予め「想定」することは必須です。構造物に作用するであろう外力や気象などの環境状況を想定してこそ、設計という作業は成り立ちます。

 そうでないとすれば、すなわち例えば無限に強い地震動に対して壊れない建物を作れ、などと言われれば、われわれは何物をも作ることはできません。そうではなく、ある判断の基準に従って外力なり環境なりを想定することが、工学的な設計行為の基本であると私は考えます。そのために、今までの経験と最新の知見とを駆使するわけです。

 そういう叡智の果てに生み出された「想定」です。しかし残念ながらそれを上回るような事象が発生したとき、その事実を検証してその原因を追究することは、重要でやるべきことですが、それを「想定」できなかったことを無条件に叱責することはいかがなものでしょうか。

 われわれ工学に携わる者は全知全能の神ではありませんから、人智の及ばない事柄もあるでしょう。ちょっと開き直った言い方ですが、自然を相手にそれを全て理解したり、自然を抑えつけたりできると考えること自体が不遜です。そのような事象を「想定外」という一言で断罪しても、表面的には溜飲を下げるひとびとがいるかも知れませんが、そこから先は思考停止するだけで、なんら建設的な事柄を生起し得ないでしょう。

 ですから自然現象を相手にするときには、現在の「想定」はその時点での最善のものではあるが絶対的なものではない、ということを社会に理解してもらうことが必要です。そのような工学的な発想を大切にするべきだと私は思います。


潮干狩りに行く (2013年5月8日)

 このゴールデン・ウイークの一日、潮干狩りに行きました。潮干狩りといえば千葉県木更津が有名で、私も子供の頃に行った記憶がありますが、今回は(我が家からいえば)もっと近場です。横浜市八景島に「海の公園」というのがあって、そこで天然のアサリが採れるのです、それも無料で!。私はこのことを全く知らなかったのですが、結構有名な事実らしくて、子供の数名の友達も行ったことがあるそうです。

 現地に行ってそこにある銘板を見て分かったのですが、そこは人工の砂浜で、周到な調査の結果、その場所に約三十年ほどまえに造成されたそうです。ということで、アサリをしこたま採ってくるべえとなったのでした。

 ところがそういう好条件にはつきものの問題があって、ゴールデン・ウイーク中はもの凄く混雑して駐車場がすぐに満杯になってしまうということでした。知人の話しでは朝7時半に行っても停められなかったそうです。

 そこで我が家としてはあり得ないのですが、朝4時45分に起きて朝ご飯も食べずに5時15分に出発しました。第三京浜、横浜新道、横横道路と走って並木ICでおりて、「海の公園」に着いたのがきっかり一時間後の6時15分でした。道路が空いていると一時間で着くのかあ、と感慨もひとしおです。並木ICを降りると車が増え出して、皆同じ方向に走っていましたので、「皆さん、潮干狩りですかあ」なんて子供と一緒にちょっと余裕をかましましたが、女房が「もう満車なんじゃないの?」とか言うものだから、内心不安で仕方ありませんでした。

 しかしさすがに駐車スペースはまだありました。それでも半分くらいは埋まっていて、多分7時過ぎくらいには満車になったと思いますね。1600台くらいのキャパシティがあるのに、なんとも恐ろしー話しですな。着いてみて車中にいる先住民の様子を見てみると、早めにきて車の中で寝たり、ご飯を食べたりして待っているのが通のようでした。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:潮干狩り2013:CIMG3151.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:潮干狩り2013:CIMG3154.JPG

 でも潮干狩りに適した干潮の時刻は午後1時過ぎでしたので、それまではすることもありません。それでも子供は着くなり砂浜で砂遊びに熱中して大喜びでした。我が家は潮干狩り初心者だったので、潮が引く前から砂を掻いたりして、無駄な力を使いましたが、このあと記すようにそんなことをする必要はなかったのです。ちなみに左の写真は午前7時前の砂浜、右は午前11時の様子です。砂浜に建っている掘建て小屋は監視所兼迷子案内所で、砂浜ではひっきりなしに迷子の案内を放送していました。

 やがてだんだんと潮が引いてきたのですが、どういう訳かワカメみたいな海藻が大量に海岸に打ち寄せられてきて、それが足にまとわりつくのが気持ち悪いといって、子供はサッサと浜に上がってしまいました。これからがいいときだって言うのに,,,。私はゴム長靴を履いていたので、足が濡れることもなく快適でした。

 そうしてお昼前には随分と潮が引いて、そこに広大な干潟が姿を現しました。そうして初めて気がついたのですが、もうジャラジャラと貝がいるのです。もちろん小さいアサリが多いですが、お店で売っているようなサイズの貝もチラホラ採れました。

 写真のようにべらぼーな人たちが潮干狩りをしていて、それが多分春先からづっと続いているはずなのに、なんでこんなにたくさん貝がいるのでしょうか。早朝にオジさんが浜辺で養殖物の貝を撒いているのではありませんぜ、ご同輩。これがぜ〜んぶ、天然に発生したなんて(非科学的なことを言ってはいけませんが)、潮干狩り初心者の私には想像できませんでしたな。

 こうして一家が食べるには十分すぎる量のアサリちゃんがバケツにしこたま採れました。もうみんな大喜びです。でも、潮干狩りって中腰でするので腰は痛くなるし、普段使わない足や腕の筋肉は痛くなるし、で翌日はつらかったです。周りを見てみると、お風呂で使うようなイスを持ってきているひとがいて、楽そうでいいなあと思いました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:潮干狩り2013:CIMG3159.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:潮干狩り2013:CIMG3157.JPG

 ちなみに「海の公園」での潮干狩りにはルールがあって、プロが使うような道具は使わないこと、2cm以下の貝は採らないこと、持ち帰りはひとり2kgf以下、というものです。先述のようにあまりにたくさんいたので小さな貝は採りませんでしたが、それでも家に帰ってアサリの酒蒸しにして食べてみると、かなり小さい貝も混じっていて、哀れを誘いました(というのはウソで、こりゃあシジミサイズだなあ、とか言いながら美味しくいただきました)。

 ということで楽しい一日でしたが、帰って来て、この日が月曜日で生ゴミを出す日だったことをすっかり忘れていた家内がそのことに気がつきました。そうして暫くは不機嫌だったことがちょっとした誤算でした。おしまい!


搦め手から (2013年5月3日)

 今日は憲法記念日です。自民党政権に戻ってから、憲法改正が再び声高に主張されるようになってきました。その究極のターゲットは9条の改正ですが、そこまでなかなかたどり着けないことから方針を転換したようで、まずは96条を改正すべしと言い出しました。憲法の地位を下げてフツーの法律と同じように改正できるようにしよう、ということのようです。

 この日の朝日新聞に東大の先生が「搦め手から攻め始めた」と書いていましたが、まさにそんな感じです。今の憲法は敗戦にともなってアメリカから押し付けられたもので日本人の総意によるものではない、というのが改憲論者の基本的な考えでしょう。ところがそんなことを言っているひとが一方では米国の核の傘のもとに安住して、核兵器廃絶のための国連決議にすら賛成しない(すなわち、米国の言いなりになっている)、というのはどう見ても自己矛盾してませんかねえ。

 結局、今の政治家の一部は外向きの顔と内向きの顔とを巧妙に使い分けている訳です。そういう人たちの大部分はかなりの年輩の方々なので、たとえ戦争になっても自分が徴兵されることはないと思っているのでしょうね。無辜の若者を戦場に送ればよいと考えていた、この様態は昭和初期の軍部のエリート集団のそれとピッタリ重なります。

 日本人は歴史から学ぶことが苦手な民族ですが、その頃から較べれば少しは民意も上がった(?)でしょうから、再び戦争の惨禍へと歩を進めることだけは防がなければなりません。名も無き市井のわれわれがしっかりと監視して政治の暴走を止めること、それが今求められていると思います。


かぜ薫る2013 (2013年5月1日)

 今朝はちょっと肌寒い感じですが、風薫る五月になりました。街かどの木々の緑も鮮やかに萌えて、初夏のような雰囲気になってきましたね。昨年のこの時期の我が家では、薄紅色のハナミズキが咲いていました。

 しかし昨年の「大規模耐震補強」にともなって、その木を移植したために根付きが悪いのでしょうか、今年はまだ花どころか若芽も出ていません。もともと樹勢はそんなに良くなかった木でしたので、移植のストレスが相当にきいたのでしょうか。玄関前のシンボル・ツリーに選定したのに、ちょっと寂しい感じになっています。

 枯れたのかと思いましたが、先日、ホントーに枯れてしまったトキワマンサクの様子を見に来た植木屋さんに見てもらったら、生きていますよ、ということでしたので、これから芽がでることを期待しています。水不足と言われてしまったので(って、街路のハナミズキは普通は水やりをしないと思うけど,,,)、これからは時々水やりをしようと思います。

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共感する気分 (2013年4月30日)

 いまの若い人たちは尾崎豊の曲を聴いても、その歌詞には共感できないという。朝日新聞にそういう記事が載っていた。尾崎豊は今からもう四半世紀近く前に、大人たちに抑圧された若者の鬱屈した気分を爆発的な熱情をもって唄ったひとで、私も大学生の頃に彼のアルバムは全てカセットに録音して聴いていた(しかし、カセット・デッキの破損とともにカセットは聞けなくなったので、昨年、全てを廃棄した)。私の師匠の田才晃先生も酔っぱらうと尾崎の『I love you』なんかをよく唄っていたな。

 でも今の若者たちは、尾崎の歌のように大人に反抗するなんて面倒くさいと思っているそうだ。なんだか若いくせに覇気のない、従順に飼い馴らされた小市民といった感じで、本当かなとも思う。でもそういった若者の気質というものも、時代の気分を色濃く反映したものになっているはずである。

 私よりも上の世代は右肩上がりの時代に、頑張れば報われてバラ色の生活が広がるみたいなユートピアを描くことができて、実際にそれを(ささやかではあっても)実現できた人も多かっただろう。しかし現在のように右肩下がりにシュリンクしてゆく時代では、大学を出ても正社員にはなれず、そのくせ養わなければならない老人たちは増えてゆくので、若者たちが逼塞感とか不公平感とかを抱くのも当然である。

 そんな気分なので、今の世の中を作った大人たちに反抗したって何も出来ないし、いいこともないだろう、と諦めきっているのではなかろうか。時代の流れに棹さして抗ってみても、自身の健康はおろか精神さえ病みかねない、ということを動物的本能で察知しているのかも知れない。

 先日、ユニクロの社長が「能力のないヤツは年収百万円でも仕方がない」と言っていた。そんなことを聞くともう、オエッって感じで会社なんかにゃ行きたくないと思ったとしても、それはそれで全うな反応ともいえる。イエにいればとりあえずは自分の両親が養ってくれるので、相当長いあいだ仕事をしなくても生きてゆけるだろう。これだけ電脳社会の発達した現代においては、退屈しのぎには事欠かないだろうからな。

 でも、このように社会に対してアグレッシブになれず、去勢されてしまった(ように見える)若者たちって、果たして幸せなんだろうか(大人たちが思うほど今の若者たちは不幸じゃない、という論考が若い社会学者によってなされていたようだが)。彼らが社会の中枢を占めるようになったときに果たしてどのような社会を築くことになるのか、その方向性が見えないことに私はそら寒さを覚えるのだった。


キャンパス探訪 〜新入生と一緒に〜 (2013年4月26日)

 1年生の入門科目『建築学概論・演習』の三回めの授業がありました。この日は南大沢キャンパス内を巡って建築的視点を学びながら実地に勉強する、という趣向です。昨年までは深尾精一先生(建築構法)がご担当されていましたが定年退職されたので、今年は建築都市コース長の私が担当することに(誰もやりたがらないので)なりました。

 でもさすがに建築構造を専門とする私ではおかど違いなので、若手助教の建築家三人(木下央、猪熊純および光嶋裕介のお三方)に一緒にやってもらうことにしました。お天気もまあまあで暖かくなってきたので、キャンパスをぶらぶら歩くにはよい陽気でした。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:建築学概論_キャンパス探訪2013:DSC_3363.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:建築学概論_キャンパス探訪2013:DSC_3366.JPG

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 彼らの楽しい話し(講義?)を聞きながら、正門からスタートして光の塔、オブジェのある芝生広場、図書館、国際交流会館そして体育館と巡りました。私にとっては普段はあまり接しない、若手建築家の建築の見方とか目の付けどころとかが分かって面白かったです。でも建築をこれから学ぼうという、言ってみれば素人の学生諸君にとってはその話しの意味とか含蓄とかはたぶん分からなかったでしょうね。なんだかボーッと漫然と歩いているような学生諸君も見受けました。

 でも、それでもよいと私は思いました。自分の身近なところにすばらしい建築があることに気がついただけでもいいじゃないですか。なによりも三人の建築家が楽しげに熱く建築を語ったということは彼らの脳裏につよく焼き付いて、ああ建築って素晴らしいな、楽しいなって思ってくれたら、我々教員にとってはそれで十分でしょう。細かいことはこれから勉強すればいいのですから。

 すばらしい体験を用意してくれて、楽しくてためになるお話を聞かせてくれたお三方に感謝します。

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 上の写真はキャンパスの最も東よりにある並木道(富士見通りの一番した)です。私のいる9号館よりもさらに南大沢駅からは遠いため、ほとんど行くことはありません。最後の写真は体育館のアプローチです。コンクリート打ち放しで換気塔がボンボンと飛び出ているため、ここだけなんだかちょっと近未来的な雰囲気ですね。


完全試合 (2013年4月24日 その2)

 先週末の東京六大学野球での東大ー早大2回戦において、東大が完全試合を達成されて0対3で敗れました。普段ならば東大の負け方として3点差はよくやった、というふうに思うのですが(って、なんだか悲しいですけど,,,)、今回は負け方があまりにもまずかったですな。

 東京六大学野球の長い歴史においても、完全試合は今回を含めて三回しかないそうです。弱い弱いと言われ続けている東大相手でも、完全試合は難しいということでしょう。であるからこそ、27人でかっちり押さえられるとは、やはり不甲斐ないと言わざるを得ません。ヒット一本さえ(それだって、十分に不甲斐ないことに変わりありませんが)打っていれば、東大にとっては不名誉な記録を回避できたわけなので、何とかならなかったのでしょうか。イチローみたいにバント・ヒットだっていいんだし。

 この春、東大地震研究所の壁谷澤寿海先生のところを訪ねたときに、隣にある東大球場を覗いてみました。たまたま野球部が練習をしていたからです。RC造の観客席を建設中でしたが、人工芝だし野球場としては十分に立派だと思います。臨時コーチに就任した元巨人の桑田さんはいなかったみたいですが、一塁と三塁とに走者を置いて、内野手によるピックアップ・ブレーの練習をやっていました。

 そんなこともあって今期は一勝といわず、勝ち点1を挙げて欲しいと思っていましたが、前途は多難といったところですね。まあ、頑張って下さい。


期待はずれ (2013年4月24日)

 リチャード・ドーキンスの『盲目の時計職人』(The Blind Watchmaker、2004年3月、早川書房)を読んでいます(もう、ほぼ読み終わりました)。このひとは『利己的な遺伝子』という本を書いたことでとても有名です(って、私は読んでいませんが)。この『盲目の時計職人』は以前に紹介した『不可能、不確定、不完全』(ジェイムズ・D・スタイン著、ハヤカワ文庫)のなかで良書として紹介されていましたので、手に取ってみたのでした。

 しかし残念ながら私にとっては期待はずれでした。進化論についての現状とか斯界内での動向などについては、とんとご存じない私ですが、もしかしたら著者はそういう一般人は読者として想定していないのかも知れません。そのへんはよく分かりませんが、でもこの本は一般読者向けに書かれているように見えますので、どうにも腑に落ちません。

 ひと言でいうとリチャード・ドーキンスは進化論に関して、どうやら熱烈なダーウィン主義者みたいなのですが、彼の所属する学会内部ではそうではない学者も多いみたいで、そういう人たちをこれでもかと攻撃しつつ、自説の正当さを説明しようとしているのです。その説明がまた実に細かくて、そのうえ(私にはさっぱり分からない)比喩が多用されていて、論旨を追いかけることさえ難しく感じました。

 9章「区切り説に見切りをつける」まで読み終わりましたが、もうそれまでに何度、この本に見切りをつけて抛擲しようと思ったことか。でも、もう少し読めば、一般人の目からウロコが落ちるような記述に出会えるんじゃないかという一抹の期待があって、ここまで来ました。

 いずれにせよ、最近ではダントツの"期待はずれ"でした。自分で読んで判断する、ということが重要だということです。実は同じような期待はずれ感は『生命とは何だろうか』(岩崎秀雄著、2013年2月、講談社現代新書)でも味わっています。これもある書評を見て手に取ったのですが、著者の独りよがりなところ(ご本人は気がついていないのでしょうが)がたまりません。こちらもいつ見切りをつけようかと思っているところです。

 さてリチャード・ドーキンスのこの本ですが、進化論って、未だに論争の絶えない学問領域だったということだけは分かりました。私たちはダーウィンの自然淘汰説をさも当然のように受け止めていることが多いと思いますが、リチャード・ドーキンスがこれだけムキになって擁護しているところを見ると、真実は依然として探求途上ということなんでしょうね。ちなみにタイトルの盲目の時計職人とは、どうやら自然淘汰のことらしいですが、これについてはまだよく分かりません。最後まで読むと分かるのでしょうか、まあ期待していませんけど。



新歓バーベキュー2013 (2013年4月18日)

 昨晩、長寿命建築プロジェクトの一環であるPCaPC柱梁部分架構実験の打ち上げを兼ねて、新4年生・新M1歓迎のバーベキュー・パーティを実験棟ヤードで開きました。芝浦工業大学・岸田研究室の4年生四名も一緒です。

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 実験ではアシス株式会社に全面的にご協力いただきましたので、実験担当者の田島祐之さんのほかに村上社長、中村事務長もわざわざおいでになりました。また、実験に精力的にご協力いただき、学生の指導もお願いしている金本清臣さん(清水建設・技術研究所)も仕事が終わってから駆けつけて下さいました。

 そのほか、今年3月に卒業した野中君、森口さん(岸田研出身)も途中から加わって総勢二十名を超え、今までにないくらい大勢で楽しむことができました。私自身、相当に驚きましたな、なんでこんなに沢山いるんだ?、と。

 でも、構造実験するときには人手はパワーですから、とてもありがたいことです。皆さんのこれからの活躍を楽しみにしています。


分 散 (2013年4月17日 その2)

 境有紀さん(筑波大学教授)と話した仕事の分散についてですが、とにかく自分ひとりでなんでもやってしまう、というのはグッとこらえて我慢する、というのが肝要ですね(境さんの言うとおりです)。確かにあれこれの仕事を他のひとにお願いするには、気も使うしそれなりの配慮も必要ですからそれを面倒だと思うと、もうダメです。

 私は1988年に大学助手となって以来、構造力学の授業あるいは演習で使う問題は全て自分で作って準備してきました。都立大学で小山明男さんや岸田慎司さんが助手として研究室にいるあいだも、自分でやってきました。

 しかし1988年から四半世紀を過ぎた今年、初めて演習問題の作成を他のひと(助教の遠藤俊貴さん)に任せました。これは私にとっては大きな決断でしたが、2013年度は大学の管理的な仕事もやらないといけないので、仕事量を減らさないと身が持たないと危惧したためです。

 案の定、(つまらないと言ってはなんですが)事務的な仕事があれこれ舞い込むので、ほかのひとにお願いできる仕事はお任せする、という方針はよかったと思っています。まあ遠藤さんは余計な仕事がひとつ増えたことになりますが、ご協力をお願いするしかありません。

 で、その「構造力学1」の授業で昨日から演習が始まりました。たまたまカメラを持っていたので(授業の前にPCaPC部分骨組実験を見てきたため)、授業風景を写してみました。こんな感じです。まだ4月ですから、皆神妙な面持ちで演習をやっていました。

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 わたしは学部の授業は全て板書ですので、結構疲れます。小谷先生流にもの凄いスピードで板書するので、学生さんも大変だろうとは思います。60分は手を動かしてノートをとり、そのあと30分は演習するというスタイルは、我ながら気に入っています。こうすると寝ている学生さんはほとんどいなくなりますし。


ダイヤ改正 (2013年4月17日)

 昨年夏に京王線の調布駅付近が地下化してから最初のダイヤ改正が2013年2月中旬に行われました。それから一ヶ月以上利用してみて、その影響がだんたんと分かってきました。

 調布から橋本を結ぶ相模原線に新宿直通の特急が復活したのが一番大きな変更点です。この効果は大学から新宿駅に向かうときに発揮され、南大沢駅から坐って新宿まで37分で行けるようになりました。これは嬉しいですね。ただ、橋本発で笹塚駅から地下鉄都営新宿線に直接乗り入れる急行がなくなったみたいなので、この点は不便になりました。

 でも予想された事態でしたが、新宿発の特急が倍増されたことから、各駅停車の電車の通過待ち時間が非常に増えました。特につつじヶ丘駅では急行1本、特急2本が通過したあとにやっと発車、ということも多く、つつじヶ丘駅に10分近く停車しています。ちょっとひどいんじゃないでしょうか。これじゃあ、つつじヶ丘駅で降りて歩いて帰ったほうが早いくらいです。

 大学から帰宅するときも、調布駅で3本以上通過電車を待つ必要があります。総体として、鈍行しか停まらない(小さな)駅の利用者にとっては不便になったと言わざるを得ません。特につつじヶ丘駅と調布駅とのあいだにある、江戸時代でいえば甲州街道沿いのいわゆる布田五宿に対応する、柴崎駅、国領駅および布田駅の利用者が一番損をしていると思います。快速でも区間快速でも調布駅から先は各駅停車になりますからね。

 ということで京王線を利用すると常に被害者意識で不機嫌になっている私でございます。ほかの利用者の方々はどのように思っているのでしょうか。


やっと新年度の気分 (2013年4月15日 その2)

 新年度の授業が始まって一週間が過ぎました。先週は建築学会大会の梗概締め切りがあり、2012年度の研究・教育活動を取りまとめたアニュアル・レポートも仕上げたので、やっと2012年度が終わって新年度がスタートした気分になりました。例年とおり、アニュアル・レポートの英文作りは大変でした。

 今年の一年生の担任は私なので、『建築学概論・演習』の第1回目の授業を担当しました。(私にとってはいつものように)大学の建築学科で何を学ぶか、という大テーマを2時間かけて簡単に説明しましたが、それが終わるや否や、前に坐っていた男子学生が大きく腕を伸ばしながら「あ〜、眠たかった〜」と大声でのたまいました。

 いやあ、これにはビックリを通り越して唖然としましたな。だって、その眠さの元凶?であるわたくしが目の前にいるのに、よくそんなことをあっけらかんと言えるもんだと思ったからです。もう、怒る気も起きませんでした。なんせ(彼らにとっては)私が悪いんですから,,,。でも、デリカシーってもんがないんでしょうか。相当に心配ですな。

 研究室では第1回目の研究室会議を開いて、今年度の研究計画を説明しました。数えてみたら研究課題は13もありました。これら全てを実施するには、北山研究室が二つくらい必要になります。まあ、無理ですけど。今年度は例年にも増して実験研究が多くなりそうで、それらには必ず学生さんを担当としてつける必要があるため、実質的な選択肢は狭いのかも知れません。安全には十分に注意して、これからも実験をやって行きたいと思います。


恩師の会 (2013年4月15日)

 この週末に、私の恩師である小谷俊介先生ご夫妻を囲む会がありました。出席者は34名で、みな勝手知ったる先輩・後輩ですから、気兼ねなく楽しめました。会場は東大駒場キャンパス内にあるルベソンベールです。このレストランは実はうちの大学構内にもあるのですが、南大沢店よりもこちらの駒場店のほうが美味しい気がするのは、田舎モノのひがみでしょうか、それとも単なる気のせいでしょうか。

 私は幹事役でしたので、小谷先生からいつものようにけんもほろろにボロクソに言われるのはやだなあ、と思っていましたが、今回はまあそれほどでもなかったので(?)ひと安心でした。小谷先生も人並みにお年を召されて丸くなったということでしょうかね、あははっ。

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 それでも、おでんネタ(って、こちらは話しのネタのことですけど)から小谷先生の逆襲をくらって、私が大学院生だったころのエピソードを持ち出され、まな板に載せられてバッサリ料理されてしまったことは、ちょっと不覚でした。もっとも私が持ち出したおでんネタでしたから、そのことから大昔のひとコマを思い出された小谷先生の貫禄勝ちでしょうか。

 ただ多くの方はご存知ないのですが、小谷先生はそのエピソードをおもしろおかしく語って下さいましたが、実情はそんな明るいものではなく、もっとウエットなものだったのです。でも、その出来事を小谷先生も覚えていてくださったのかと思うと嬉しくもありました(ちょっと複雑な心境ですが)。

 そのような深刻なエピソードをうまく脚色してお話しして下さった小谷先生には感謝しています。うちの家内なんかは「北山君がむくれちゃって、ソファに寝っころがっていた」という小谷先生のお話に大笑いしていた、ということでしたから。なんせ連れてきていたうちの子供が会場でちょうど同じような状況になっていて、この父親にしてこの子あり、という有様だったらしいのです(私は司会をしていたので、気が付きませんでしたが)。

 小谷先生からは、原子力免震建築についての委員会はどうなったの?というお話もいただきました。こちらは何度かここでも書いていますが、西川孝夫・大先生のご命令で引き受けた委員会のことで、私が委員長をやっていることを小谷先生は心配されていた訳です。なんせ原子力発電に関してはこのご時世のうえに、私が免震構造のことなんか何も知らないことを小谷先生はよくご承知なんですね。

 そのようなお話しをしているなかで、原子力発電を取り巻く現状について私が考えているようなこと(このページでも書いてきました)を小谷先生もお考えであることが分かって、意を強くした次第です。

 会場では多くの方々とお話しできましたが、久しぶりに生身の境有紀さんとも話せてよかったです。なんせ、かれのホームページは全部読んでいますからね。それでも彼の大学の実情については初めて分かったようなところもあって、やっぱり会って直接話すことも重要だなあとしみじみ思いました。
 そんななかで、今いるところで快適に仕事できるように努力したほうがよい、という話をしました。それに対して境さんはあまり納得はされていないようでしたので、その場で話せなかったことをここで補足します。

 そこでも言いましたが、今その場にいるひとをうまく使ったほうがよい、ということの続きです。このことは実は境さんの同級生で、今は私の大学で教授をしている小泉雅生さんから聞かされた言葉です。要は仕事を自分一人で抱え込むことをせずに、なるべく分散させるように努力しよう、ということです。小泉さんからそう言われてから、私もそう意識するようになりました。

 そうすると仕事を頼まれた人からは多少は嫌がられるかもしれませんが、それくらいのことはしないと自分の身を守ることはできないでしょう。それに言い訳としてはこちらのほうが重要ですが、こちらから研究活動の一端を担って欲しいという依頼を受けたひとだって、そこから思いがけない知的発展を遂げるかも知れませんし、そのひとの勉強になることだってあるでしょう。なので、身近にいて使えそうなひとは使ったらよいと思うんですね。

 さて、小谷先生のこの会ですが、出席者名簿を楠原文雄さんが作ってくれました。楠原さんにはルベソンベールとの折衝を含めて全て一緒にやっていただきましたので、大いに感謝しています。で、その名簿を見ていた香田伸次さんが「この名簿は“て”で終わっているゾ」と言ったのです。なるほど、よく見ると五十音順の出席者の最後は勅使川原正臣先生でした。うーん、偏っていますな、フツーは渡辺とかが最後にくるでしょうから。

 こうして楽しいひとときはあっという間に終わりました。私は司会をしていました(そもそも幹事を仰せつかったのも塩原兄貴からの指令でした)が、何も考えてこなかったのでさすがにちょっとヒヤヒヤしました(小谷先生、すいませんです)。でもまあ、皆さん楽しそうにしていましたから、よかったと思います。と、自己満足に浸ったところで今日はお仕舞いにします。立食パーティって、足が疲れるなあ〜(と、ジジぐさいことを言ってみたりする)。

追伸; うちの子供の相手をして下さった壁谷澤寿海先生に御礼申し上げます。お孫さんとさして年齢が変わらないそうなので、子供の扱いには慣れておいでのようでした。子供があまりにも縦横無尽に会場内を走り回るので、もう恥ずかしいったらありません。皆さま、お騒がしてすいませんでした。


耳ネタ 承前 (2013年4月12日)

 高校のときの同級生だった山谷くんがHPで紹介していた、Boz Scaggs の1977年のアルバム『Down two then left』を聞いています。彼はこのアルバムを高校生の頃に聞いていたそうですが、私はその頃には洋楽には全く興味がなかったので聞いたことはありませんでした。でも、聞いてみるとなかなかいい感じです。さすがにバンドをやっている人は違いますな。

 社会人になってから、Bobby Caldwell(当時はAORという和製英語のジャンルでくくられていたと記憶します) などを聞くようになったので、その流れでBoz Scaggsも聞くようになり、捜してみたところ手元には1988年のアルバム『Other Roads』と1994年の『some change』の2枚がありました。この復刻版CD(『Down two then left』のこと)は私にとってはそれ以来ですから、約二十年振りということでしょうか。

 『Other Roads』のほうには「Heart of Mine」や「The Night of Van Gogh」といったBobby Caldwellの名曲が収められていますので時々聞いていましたが、『some change』は全く記憶にありません。あんまりインパクトのある曲は無かったのでしょうね。

 こんな感じで古い曲を改めて聴いてみると、新鮮な発見があったり、意外と良かったりするのはどうしてでしょうか。やはり年齢のせいもあるかもしれません、若い頃には分からなかったものが見えてくる(聞こえてくる?)とでも言うのでしょうか。

 てなわけで、手元にはもう二十年近くも聞いていないCDがたくさんあるので、もったいないのでたまにはラックから取り出して聴いてみようかな、という気になりました。でも忙しいので、そうもいかないのですが,,,。Bobby Caldwell の昔のCDはたくさんあるので、まずはこの辺りからはじめましょうか。Joe Jacksonの『Night Music』なんてのもありました、う〜ん、渋いなあ。


デジタル・コンテンツとしての論文 (2013年4月10日)

 今日は建築学会の大会梗概の締め切り日である。我が社の現役学生さんはお昼のタイム・リミット目指してまだやっている。原稿を見るたびに、あれっ、これって何だろうと疑問に思うことが出てきて(学生さんはそんなことはちっとも考えていないようなのが心配だが)、もう少し計画的に進めてくれればいいのになあ、と端から見ていると思ってしまう。

 さて、3月末に落合等くんが書いた建築学会大会梗概の草稿を見ていて、参考文献リストがとても小さいフォントだったので、これじゃ見えないなあと思った。だがよく考えてみると、今の時代の論文は紙ベースで読まれることは少なくて、多くの場合にはデジタル・コンテンツとしてパソコン等の画面上で閲覧される。すなわち、字が小さくても拡大すればそれで事足りるのである。

 そんなことを考えると、論文のフォント・サイズをある大きさ以上でなければならぬと制限することには、もはや意味がないのではなかろうか。そうすると、すごく小さい字や図表を論文内にこっそり貼り込んで、画面上で超拡大したひとだけが偶然に発見できる、などといういたずら?を仕込んで、ひとり悦に入るなんてことにもなるかもしれない。レアなアイテム探しみたいな感覚かな。フラクタル図形のように拡大しても拡大しても次々とコンテンツが見えてくる、というのもいいかも。

 ちなみに図や写真なんかも昔は白黒に制限されたが、今ではフル・カラーで表示しても誰からも文句を言われない。そのうち論文内に動画を埋め込むなんてことも許されるようになるかも知れない。ただ電子投稿の際には現状ではファイルの容量が1MBとかに制限されるので、登載できるコンテンツ量には自ずと制限がある。しかしこれも情報技術の発展とともに急速に解消されるようになると思うけどね。


近ごろの耳ネタ (2013年4月9日)

 佐野元春が三月中旬に世に出した新アルバム『Zooey』(ゾーイと読むらしい)、なかなかスゴいです。エレキ・ギターのエフェクタがギンギンで、なんだか懐かしい感じがします。

 バンドのメンバーがとても楽しそうにやっているところがいいですね。クラシックのオーケストラもそうですが、バンドを組んで皆でひとつの音楽を作ってゆくことって、とても素晴らしいことだと再認識しました。

 アルバム一曲目の『世界は慈悲を待っている』(このタイトルも何だかすごいですが)、とっても心地よいのですが、メロディ・ラインが複雑で何度聞いてもどうしても口ずさむことができません(単に私が音痴なだけ?)。グレイス!というところだけ、合いの手を入れることができるくらいで。佐野くん初期の曲に多かったポップというのとは違う、感性に直截入り込んでくるようなGood Vibration です。でもこの曲は紛れもないロックンロールだと私は思いますね。何度も聞いているうちに、スタイルカウンシルの『Shout to the top』という曲(懐かしい!)にちょっと似ていることに気がつきました。う〜ん、我ながら鋭いなあ。

 これから授業が始まるし、大会論文の締め切りもあって大変そうな予感がしますが(実際、今は大変なことになりました)、このアルバムからパワーを貰ったので、またしばらくは頑張れそうです。iPodに格納してヘビーに聞いていますから。

 iPodで思い出しましたが、五年くらいかな〜、愛用してきたソニーのイヤホンの片方が断線したらしくて聞こえなくなりました。一万円くらいの中級機種でしたが、iPod付属のイヤホンからそちらに乗り換えたときに、iPodから流れ出る音がこんなに複雑でクリアに聞こえるのかと(耳ネタですけど)目からウロコが落ちる、とはこのことかと感じたことをよく覚えています。

 そこで、今度はもっといいイヤホンを買おうと思って、いろいろ調べて舶来モノにしようかとも思案しましたが、ビックカメラであれこれ試聴して、コードの取り回しなどの使い勝手も吟味して、結局またソニーの製品(MDR-XB90EX)に落ち着きました。壊れたヤツが一万円だったのに対して、今度は七千円くらいでしたが、まあ同じような聞き心地ですね。素人なので、細かい音の違いなんか分かる訳もありませんし、、、。まあまあかなと思っています。

 コードの断線に懲りたのでコードが太いものにしましたが、このコードはからまりにくいという謳い文句の通りのような気がします。私はポケットにiPodとイヤホンとをいっしょくたに突っ込んでいるので、これは結構使えます。ポケットから全体をグチャっと取り出したときに、比較的簡単にイヤホンを分離できて耳にはめることができるからです(つまらん話しですいません)。


一週間 (2013年4月8日)

 なんだか“月曜日に市場に出かけ〜”みたいなタイトルですが、そうではありません。新年度の第一週がやっと終わりました。建築都市コースのコース長を拝命して(などというほど、カッコのよいものではないけどね)、馴れない会議とか新入生用の諸行事とか、とにかく忙しくて気疲れしましたな。

 最後の金曜日にはボーッとした感じで、前コース長の角田誠先生が朝9時過ぎに「大変な事態が出来したぞ〜」と言いながら私の部屋に突入して来たときには、もうダメかなんて思ったくらいです(まあ、それほど大したことにならずに済んだと私は思っていますが)。で、そのあと某センターに出かけて、京大の田中仁さんとご一緒して部会に参加してホッとしたくらいでした。

 なんでしょうか、いったいこれは。慣れないことをやるのが大変だっていうことでしょうか。でもまあ、淡々とこなすことができてよかったなあ、というのが最初の感想です。とりあえず最初の難関は乗り切ったかなという感じです。幹事の一ノ瀬雅之准教授はもっと大変だったんじゃないかな。でも案外、平気のへいさ、かも知れないけど,,,。

 現役諸君の大会論文の草稿はほとんど見ていません。来週には締め切りが来るので、一体いつ見るのかななどと他人ごとのように思っていますが、さてどうなることか、お楽しみです。


新入生ガイダンス2013 (2013年4月4日)

 昨日、朝から夕方まで新入生ガイダンスがありました。建築都市コースには3年生への編入学1名を含めて計63名のニュー・フェイスを迎えました。午後からのコースガイダンスが終わって、9号館9階で写真を撮ったあと、普段は設計の講評等を行う9階ロビーで歓迎会を開きました。

 それまで数年のあいだ行っていた軽食を交えた立食形式のパーティ(みたいな)形式をやめ、趣向を変えて、車座になって着席して全員の自己紹介をしてもらいました。ユースホテステルの夜のミーティングのような感じですね(大昔のはなしです)。その前に私や一ノ瀬幹事、若手の助教の方々(光嶋、猪熊、李、遠藤の各氏)が自己紹介をしましたが、彼らの知られざる(って、私が知らないだけでしょうけど)体験とか経歴とか考え方とかが明らかになって、そちらのほうもとても面白かったです。

 新入生諸君はさすがに初々しくて、皆それぞれ意欲的に大学生活をおくろうと考えていることが分かりました。始めは大丈夫かなあ、こいつらちゃんと付き合ってくれるかなあ、シラけるとイヤだなあと心配でしたが、いざやってみると彼らが私の意図を汲み取ってくれたようで、とてもいい雰囲気の歓迎会を催すことができました。やってよかったと思いました。とても嬉しかったです。

 彼らの今までのクラブ活動の様子を聞くと、サッカーをやっていた学生さんがべらぼうに多くて、野球はたったひとりでした。時代の流れを感じましたね。福島県から進学したひとも何人かいました。彼らの体験談はいずれ聞いてみたいと思います。


普 及 (2013年4月1日)

 新年度がスタートしましたね。昨日とうって変わって穏やかな晴天でよかったです。わが建築都市コースでは新任一名、昇任二名のスタッフを迎えて、新しい年度をスタートさせます。

 さて、先週末に初めて新東名高速を走りました。御殿場ジャンクションから新東名に入って、最初のサービスエリアに立ち寄りました。駿河湾なんとかという名称です。観光案内書には、新しくできたこの高速道路のSAは眺めが素晴らしく施設もGoodとあったので、特に用もなかったのに入りました。

 しかし高速自体は全く混んでいなかったのに、このSAに入った途端、大変な混雑で車がなかなか進みません。皆さん、考えることは同じだったようです。やっとパーキング・エリアのトバ口にくると、いい塩梅にひとつ空いていました。ところがそこには電気自動車専用という表示があって、脇には充電用の施設(ガソリンスタンドにあるヤツみたいなもの)が立っていました。

 でも、ひどく混んでいるし、電気自動車なんてフツーには走っていないだろうから、まあいいや、と軽く考えてそのスペースに車を停めたのでした。私にとって電気自動車とは、商用車なんかに特別に使われるデモンストレーション用の車、というくらいの認識です。値段も高いので個人で買う人なんかいないだろうと思っていました。

 ところがブラブラして車に戻って来ると、なんと私の車の後ろに電気自動車がピッタリ停車して、充電ステーションのホースをボンネットに接続して充電しているではありませんか! これにはたまげました。おいおい、個人が電気自動車に乗って観光しているなんて、聞いてないぞ、という感覚です。

 私の車の前方には車止めが、後方には件の電気自動車があって、まさに雪隠詰めとはこのことです。わずかのスペースを使って何度も切り返しましたが、状況はどんどん悪くなるばかりです。ついに身動きできなくなりました。ちょうど駐車場への入り口付近だったので、後ろのほうにまで車列が並んで、なんとなく険悪な雰囲気も感じました、やだなあ。

 そうしているうちに、SAの職員さんがやってきましたので状況を説明して、電気自動車の所有者を呼んでもらったのでした。そのひとはフツーの男性で、子連れでした。まあ、こちらが悪いので文句もいえませんでしたが、そのひとも何も言わずに車をどけてくれましたので、やっとのことで脱出できたのでした。

 でも、電気自動車ってどのくらい走れるのか知りませんが、高速を走って旅行できるくらいの性能はあるってことでしょうか。いずれにせよ、私が思っている以上に電気自動車が普及していることを身を持って体験した休日でした。


南大沢たより (2013年3月28日)

 昨日は寒かったですが、今朝はお日様が出ていることもあって暖かいですね。

 南大沢の桜もほぼ満開になりました。昨年は四月の入学式の頃が満開でしたから、一週間から十日程度早いということでしょうか。ここ南大沢の桜はこの週末までは保ちそうです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:南大沢の桜2013:CIMG3128.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:南大沢の桜2013:CIMG3131.JPG

 昨晩は南大沢で研究室の追いコンを開きました。ちょうど大型実験棟で長寿命建築プロジェクトのPCaPC柱梁部分架構実験をやっていましたので、担当の金本清臣さん(清水建設技研)と田島祐之さんにも参加していただきました。

 今年度はM2が3名、卒論生が2名、巣立ちます。ときどきこのページに書いてきましたが、2012年度のM2は3名とも優秀だったので、私もかなり楽ができましたし、彼らと議論していてとても楽しかったです。まあ、鈴木清久君はときどきトンチンカンなことを言ってましたけど、あははっ。昨日、落合等君と個人ゼミをやりましたが、これが最後かと思うとちょっと寂しく感じましたね。皆さんの今後の活躍を期待しています。新天地でも頑張って下さい。


In a Park (2013年3月27日)

 卒業式が終わって、キャンパスは閑散としています。真空状態とでも言うのでしょうか、このような静かなキャンパスは真夏のお盆の頃とこの時期だけですね。でも、それも来週には新入生がキャンパスに溢れて再び喧噪状態へと舞い戻ります。

 昨年は咲かなかった校内のハクモクレンが今年はちょっとだけ開花しました。私が登校に使っているけもの道(とはいえ、アスファルトで舗装されていますが)の脇に立っています。以前は綺麗に咲いていたのですが、3・11の翌年はどういうわけか全く花がつかずに若葉がでてしまいました。今年はどうだろうかと心配だったのですが、三月に急に暖かくなった頃に白い花が咲きました。いやあ、ホッとしました。

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 三月中旬の休日に、久しぶりに子供と一緒に公園に行きました。自転車に乗って野川を遡ろうと思ったのですが、途中で脇にそれて調布市佐須町の公園に行きました。付近には畑や田圃があり、以前に紹介したカニ山も近くにある、のどかなところです。ここは子供がまだオムツをはいていた頃、よく連れて来て遊ばせたところでしたので、とても懐かしかったです。子供は全く憶えていませんでしたが。

 その当時はちょっと危ないなと思った遊具もすっかりリプレースされて、写真のように小さな子供でも安心して遊ばせることができるようになっていました。奥にはコブシの白い花が満開でした。

 先週末には京王電鉄と多摩地区の東京都立公園とが主催するウオーキング会に家族で参加して、南大沢駅から小山内裏(おやまだいり)公園まで歩きました(といっても、僅かな距離です)。毎日、南大沢駅で下車して大学に通っているのですが、小山内裏公園とは方向が逆なので今まで行ったことがありませんでした。

 私の大学も多摩丘陵の尾根沿いに建っていて、雑木林が残っていたりするのですが、小山内裏公園はさらに田舎臭くてまさに里山という表現がぴったりでした。駅から二十分くらい歩いただけでこんな自然が残っているとは、もうびっくりです。道すがら、係のかたが立っていて簡単なクイズを出してくれました。それに答えると褒めてくれるので、子供はとても喜んでいました。

 小山内裏公園に着くと、今度は公園のかたが公園内を案内して、残っている自然についていろいろと教えて下さいました。花や木の名前とか、カタクリの生態とか、さえずっている鳥の名前とかです。そういうお話を伺いながら散策する公園は、普段と違ってとても楽しかったですね。

 戦車道路や鮎道についてもその名前の由来を知ることができました。相模原には現在、米軍のキャンプがありますが、太平洋戦争中には旧陸軍の施設があってそこで修理した戦車をここの道路で走らせてテストした、ということでした。

 でもこの公園の周囲にもマンションが立ち並んでいて、屏風のような建物のお陰で富士山が見えなくなったとのことでした。人びとの憩いの場となっている公園ですが、里山の自然を維持したり保護することは大変そうだなと思いました。


教える内容 (2013年3月22日)

 昨晩、建築都市コースの送別会が多摩センターでありました。この三月末をもって退職される教授の先生が三名もいるため、わがコースは来年度は少し寂しくなります。あまり調子が良くなかったのでお酒は控えましたが、隣に坐った木下さんから「先生らしくないですね」と言われました。

 聞いてみると、私が助教授になりたての頃、三年生を連れて建築探訪する関西旅行に同行したのですが、彼はそのとき一緒に廻った学生のひとりだったそうです。そのとき、彼の記憶によれば私は毎晩浴びるようにお酒を飲んでいたそうで、そういえば若い頃にはそんな無茶もしていたなあ、と懐かしく思い出しました。

 さて三月も下旬になって、そろそろ四月からの講義のことを考えなければならない時期となりました。よく大学の先生は十年一日のごとく同じ講義を繰り返している、と言われますが、わたしもその例に漏れないかも知れません。でも例えば構造力学の初歩の講義で曲げモーメントとかせん断力を教え、次にその求め方を教えるというのは変えようがないと思いますね。

 では、不静定構造の変形を求めるための不静定一般解法とか仮想仕事の原理とかたわみ角法とかはどうでしょうか(うちの大学では三年前期に教えている内容です)。今はコンピュータが発達したので、実務では手計算でたわみやたわみ角を求めることはないと思います。それゆえ、たわみ角法は不要であるという意見もあるでしょう。

 でもどうでしょうか。構造技術者が部材や建物の変形とか力の流れを理解するためには、一度は手計算でそれらを求めて、こういう原理なのでこういう風に変形するのだということを、肌で経験することが重要なのではないでしょうか。

 工学はやはり経験がものをいう領域です。直感でも感覚でもよいのですが、経験に裏打ちされたものを軽視することは得策ではありません。と言うわけで、構造力学においては基本的には従来の内容を教え続けることになります。もちろん、それを学ぶ意義とか将来どのように役立つかとかはしっかり伝えたいとは思います。しかしそういう将来の展望みたいなものは、当の学生諸君にとっては(当たり前ですが未経験ゆえに)理解できないし、興味も湧かないということもまた事実なのです。

 結局、教える内容のバランスをとり、学生さんの反応も見ながら教室内で臨機応変に対処するということが必要なのでしょう。これはなかなか難しいですが、そろそろそういったことにも心を砕いたほうがよいかも知れません。私も年をとったんだなと思いました。


月の浦の侍 (2013年3月19日)

 牡鹿半島にある女川原発の視察に行ってきたことを書いたが、その帰り道に侍浜というところを通った。おやっと思ったのだが、さらに進んである案内板を見るにいたって合点がいった。ここから望まれる海が「月の浦」だったのだ(下の地図のA地点。ちなみに右側の紫印が女川原発)。

Tsukinoura

 いまからちょうど400年前の1613年、貧しい漁村に過ぎなかったこの浜に、仙台の伊達家中の侍たちが大勢やって来て一艘の大型帆船「サン・ファン・バウティスタ号」の船出を見送った。伊達政宗の命を受けてノビスパニヤ(今のメキシコ)に旅立った慶長遣欧使節である。そのなかに伊達家中の召出衆に過ぎなかった支倉六右衛門常長もいた。

 実はそんなことは全く忘れていたのだが、先日実家の荷物を整理しているときに、学生の頃に読んだ『侍』(遠藤周作著)という本がひょっこり出てきたのである。内容もすっかり忘れていたのでせっかくだから読むべえ、と思って読み始めたところだった。それがキリシタンと支倉常長のはなしだった‥‥。

 伊達政宗は海外との交易を夢見て、月の浦を長崎と並ぶ貿易港とすることを考えた。しかし三代将軍家光による鎖国とキリシタン禁令によってその夢はあえなく潰えた。そんな歴史も忘却の彼方に流れ去り、ひなびた漁村に戻った月の浦を今は支倉常長の像が静かに見下ろしている(その像を見に行くことができなかったのは残念である)。

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 その支倉常長の存在が日本の世に知られるようになったのは明治になってからである。明治六年に岩倉具視らがヨーロッパに視察に赴いたとき、ヴェネチア古文書館で「とん・ふぇりぺ・ふらんしすこ 支倉六右衛門」という署名入りの書状を見たことに始まっているという(『ヨーロッパに消えたサムライたち』太田尚樹著、ちくま文庫、2007年)。長い困難な旅(ミッションと言ってもよい)を終えて故郷に帰った支倉六右衛門はいったいどんな気持ちだったのか、その徒労感は察して余りある。


輝く海2013 (2013年3月16日)

 花粉が朦々と舞い散るなか、宮城県牡鹿半島にある東北電力・女川原子力発電所に行ってきました。2011年の東北地方太平洋沖地震による被害状況と、その後の福島第一原発事故を受けた津波対策等とを視察することが目的です。

 防波堤のかさ上げ、水素爆発を防止するためのベント装置の新設、建屋の層間変形を直接測定するための機器の設置、電源車や送水車の準備など様々な対策が施されていて、再稼働を可能とするための準備が進んでいました。

 そんななかで私の目を引いたのは耐震補強された事務棟です。鉄筋コンクリート造4階建てのその建物は3・11の地震の前に外付け鉄骨ブレースで耐震補強されており、地震による被害はなかったとのことでした。ひび割れくらいは生じたかもしれませんがあえて聞きませんでした。その建物の鉄骨ブレースは外付けということもあって相当に無骨でしたが1階から4階まで補強が入っており、建物の水平耐力は相当に増大したと思います。でも、一緒に視察に行った人たちは誰もその建物のことを気にもとめていないようだったので、やっぱりひとによって目の付けどころが違うなあとちょっとおかしかったですね。

 それからこれはあまり知られていないと思いますが、地震のあと原発施設内の体育館に地元住民が三百人以上も非難していたとのことでした。平時であれば、原発施設内に立ち入るには厳重なセキュリティー・チェックと身元確認とを受けなければなりません。しかしこの非常のときに、助けを求めにきた地元の方々に体育館を開放した原発所長さんの決断は賞賛に値すると思いました。通常のマニュアルにないことを迫られたときこそ、そのひとの真価が問われるのです。地元の人たちと共存共栄したいという、所長さんの強い意志を感じました。

 サイトに行く途中の女川町で、杭ごと引き抜かれて転倒した4階建ての鉄筋コンクリート造建物を見ました。目の当たりにして改めて驚きましたが、20メートル近い津波によって辺り一面、根こそぎ流されてなにも残っていないその場所の異様なありさまに衝撃を受けました。テレビやネットの報道や映像でそのような事実は承知しているのですが、その場所に立って自分の目で見、五感で感じるものとは較べるべくもありません。その恐ろしさ、人間の無力さを実感したのです。

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 建屋の脇に設置された足場を昇ってゆくと、きらきらと輝く穏やかな海に何艘もの漁船が女川港に向かってゆくのが見えました。この海の涯から巨大な津波が襲ってきたとはとても思えませんでしたが、紛れもなく大勢の命を飲み込んだ鎮魂の海なのです。胸の中で静かに手を合わせました。


朝シフト (2013年3月13日)

 我が家は、まだ子供がいなくて共働きだったころは完全な夜型の生活だった。休日には朝の10時過ぎくらいまで寝ていることもザラだった。その頃は朝早くからアクティブに活動しているひとが信じられなかった。

 ところが子供が学校に行くようになるとイヤでも早起きしないといけない。うちの子供は特に出来が悪いらしくて早朝から学校に呼ばれて先生に勉強を見ていただいたりするので(ホント、ありがたいことですが)、さらに早起きになる。そうなれば親も起きないといけないので(当たり前ですが)、朝型の生活が身に付くようになった。

 それまでは、近隣の人たちはなんでそんなに早起きできるんだろうと思っていたが、それは生活スタイルから来る必然だったのだということにやっと気がついた。こうした子供を核とした生活はこれからかなりのあいだ続くのだが、子供が独り立ちしたあとはどうなるのだろうか。また若い頃のようなダラダラとした夜型の生活に戻るのだろうか、ちょっと想像できない。


初音2013 (2013年3月12日)

 暖かなよい日ですね。今日は後期日程入学試験です。受験生たちに混じって登校しました。ひと気のない図書館の裏の雑木林を歩いていると、ウグイスの綺麗な、でもちょっと遠慮がちなさえずりが聞こえてきました。来週はもうお彼岸ですから、歌の稽古を始めたようです。春到来を実感した瞬間でした。


技術者の良心 〜東日本大震災の二年忌に〜(2013年3月11日)

 東日本大震災の発生から2年が経ちました。そのことを頭の片隅では常に意識していたのですが、今日は終日、外での委員会だったこともあって、落ち着いて振り返る余裕がありませんでした。

 今日の委員会はいずれも原子力発電施設の耐震設計とか維持・保全に関するものでした。日本建築学会では『鉄筋コンクリート構造計算規準・同解説』の原子力発電所建屋版であるRC-N規準(NはNuclear の頭文字です)の改定作業を行っており、構造本委員会での査読も終わっていよいよ出版作業に取りかかれるところまで来ました。

 西川孝夫先生が会長を務める日本免震構造協会では、原子力発電施設に免震構造を適用する際の問題点や課題を洗い出す作業を行っており、原子力関係の免震構造建物の施工・維持管理ガイドラインや耐震設計ガイドライン等の大枠が出来上がりました。

 世間では脱原発が叫ばれています(とは言え、安倍政権になってから随分と空気が変わってきました)が、なんでそんなに原子力関係の仕事をしているんだと訝る方もおいでかも知れません。知り合いのなかには、もう原子力にはかかわらないほうがよいよ、と忠告?をして下さった方もいます(大きなお世話ですけど,,,)。もちろん福島第一原発の事故によって被害を受けられた方々の悲惨な生活を新聞等で目にすれば、そのような事故を起こした原発を憎みこそすれ、推進しようとは考えもしないでしょう。それは一市民としては私も全く同感なのです。

 ただ、世間の手のひらの返し方があまりにも鮮烈だったという、そちらの事実の方に私はかすかな反発を感じました。3・11までは原子力発電による電力を享受して暮らしていたにもかかわらず、その事故を境として原発をこの世からなくせと付和雷同する、その近視眼的な思考に驚いたのです。感情的になってしまうのは理解できますが、例えばハイブリッド自動車が事故を起こしたからと言って、ハイブリッド自動車を止めてしまえ、とはならいないでしょう。

 とはいえ、あのような大事故を起こす可能性がある原子力発電所をそのままにしておいてよいとは考えません。原発を含めてあらゆる構造物は、人間が人間社会を豊かにするために構築するものです。そのとき、なるべく地球環境に負荷をかけず、安全な構造物を設計して建設することがわれわれ技術者の責務なのです。

 われわれの生活を豊かにする手助けをしてくれた原子力発電をいきなりゼロにすることは多分できないでしょう。やがては廃炉に至るとしても、それまでは原子力発電施設は現在のサイトに建ち続けるのです。そうであるならば、既存の原発建屋の耐震安全性を精度よく評価する手法を開発して、場合によっては耐震補強を施すなどして建屋の安全性を高めることが絶対に必要になります。そのための研究や作業は不可欠なのです。

 個々の人びとはそれぞれが抱えているものが異なりますので、心情的に原発反対とか原発賛成とか、いろいろな意見があると思います。それは人として当然の事柄です。しかし公共の安寧や社会の安全に貢献するために、われわれ技術者は現在得られている最高の知識と技術とをもって目の前の問題に立ち向かうべきだと私は思います。それが技術者の良心というものではないでしょうか。ダメだから捨ててしまえ、なくしてしまえ、というのでは、技術者として余りにも悲しいと思いませんか。

 被害を受けた方々の悲しみが少しでも癒され(とは言え、現実には難しいでしょうが)、それらの人々に一日も早く安らぎが訪れることを願って止みません。そのような人間の感情と技術者の良心とを二つながらに相携えながら、日々の仕事に取り組んで行くこと、それが私の進む道なのだと決意を新たにいたしました。


混ざっている (2013年3月10日)

 68回目の東京大空襲の日(1945年3月10日)です。無辜の民草のうえに焼夷弾を無差別に撒き散らした米軍の非道を思い出しましょう。もちろん、我が国が東南アジアの人々に与えた苦痛も忘れてはなりませんが。ところで東京大空襲を指揮したC.ルメイという将軍が戦後、日本国から叙勲されたことはご承知でしょうか。それ自体驚くべき事実ですが、そのような決定をした当時の日本の指導者層の精神構造にはさらに驚かざるを得ませんね。

 さて、急に暖かくなったせいでしょうか、花粉が猛襲しています。もう辛いことと言ったら、このうえありませんぜよ(目〜痒々の、鼻ズルズルっす)。おまけに週末から、中国からの歓迎されざるものがそれに混ざったようで、至るところに砂が積もり出しました。空が曇ったように薄く黄色味を帯びて不気味でした。

 黄砂だけならば春の風物詩といって風流がっていられます。しかしそこにPM2.5とかいう不健康物質が混ざっていると言われると、その実態をよく知らない分、余計に不安に駆られてイヤな気分です。でも花粉などのせいで頭がボーッとしているせいか、何につけて鈍感になっている今日この頃です。


よるの会議は‥ (2013年3月7日)

 だんだんと年を経るにつれて、夜の会議は辛くなってきた。子供が小さいうちは家庭の都合上、夕方以降の会議はお断りしてきた。しかしこの頃は、肉体的・精神的な理由からやっぱりや〜めた、というふうになってきたのである。

 朝から夕方まで一所懸命に仕事すると日が暮れる頃には相当に疲れてきて、以前にも書いたように集中力が続かなくなって、労働効率がきわめて低下する。お尻がムズムズして椅子に座っていられないようになるのである。

 このような体たらくではあるが、夜の会議ってどうも締まりがないような気もする。会議自体が好きなひとほど(そんな人、いるのだろうかと訝しいかも知れないが現実に生息している)、夜の会議を楽しんでいるように思うのである。あとはもう帰って寝るだけ、とでも思っているのだろうか、会議が不必要に長くなって、どうでもよいようなことを議論したりしているのだ(と私には思える)。あ〜っ、早く帰って休みたいよ〜というのが私の胸のうちである。

 というわけで、ダラダラと仕事したって効率は悪いし、精神的にもいいことはない。朝から夕方まで濃密に仕事して、あとはスカッとリラックスするというライフ・スタイルを確立しようと思う、今日この頃なのだ。こんな我が儘?を言えるのも、私が大学教員だからかも知れないが。


知らぬがなんとか (2013年3月6日)

 桃の節句の日に、久し振りに横須賀に行ってきた。例によって軍艦三笠がお目当てである。たださすがにそれだけじゃ寂しいので、今回は小さな船に乗って猿島という無人島にも足をのばした。

 この島は戦前(って言っても今のひとにはわからないかな? 1945年に敗戦で終わった太平洋戦争のことです)には砲台とか軍港とがあった海軍の施設であった。今でもそのときの煉瓦造の施設が残っており、砲台の円座跡もあった。切り通しの両側が煉瓦造になっていて、夏だとひんやりとして涼しそうに思えたが、如何せんまだ春先なので寒々しさが勝っていた。木々が鬱蒼と茂っており、こんな自然が東京湾に浮かんでいたこと自体に驚いたのである。

 頭の上にはトンビが何羽も輪を描いてヒューヒュルヒュルとさえずりながら飛んでいた。私なんかは、ああのどかでいいなあと思うのだが、うちの息子はその鳴き声がうるさいと言っていた。そう感じるのかと、ちょっと驚いた。

 さて、猿島から戻ってきてちょっと遅めの昼食をとった。横須賀にきたのだからということで海軍カレーをいただいた。まあ、フツーのカレーだった。海軍カレーには牛乳を、というのが定番とのことであったが、寒い日だったのでホットコーヒーをいただいた。

 そのあと三笠に行って艦内や甲板上をひと回り見学していると、案内ボランティアというおじさんがニコニコしながら声をかけてきた、どうですか、と。どうですかと言われてもねえ、いやあ三笠って赫々たる戦歴を誇った軍艦だったんですね、とでも答えればよかったんだろうか。

 しかしそんなことはこれっぽちも思い浮かばずに、これって軍艦なんだから、やっぱり殺人マシンに過ぎないんですね、と答えてしまった(以前に来たときに抱いた感想がすぐに蘇ったのである)。こんな返事をするヤツは多分いなかったのだろうな、そのひとは一瞬鼻白んだような顔をしたが、すぐに気を取り直したらしくて別の話しをし始めた。

 そのひとがいろいろと蘊蓄を傾けてくれたなかに、先ほど食べた海軍カレーの話しもあった。彼曰く、ホントの海軍カレーは小麦粉にカレー粉を混ぜたもので、おまけにそれを麦飯にかけて食べたのだから美味しいわけゃないだろう、と。じゃあ、さっき我が家が食べた美味しいカレーは何だったんだ、と今度はこちらがムスッとする番だった。ああ、聞かなきゃよかった、知らぬが仏ってこともあるでしょう?

 話しはさらに続く。海軍カレーには牛乳がつきもの、というのもウソだという。長い間航海する軍艦の中で新鮮な牛乳が飲めるわけあるか、ということらしい。飲んだとしたら濃縮牛乳、すなわちコンデンス・ミルクだろうとも。これには確かにそうかもしれないな、と合点がいった。白米ばかり食べていると脚気になるので、麦飯はその予防だったということを思い出したからである。

 これくらい聞いたところでもういいやと思ったのだが、そのひとの話しはまだまだ続いた。近くにあるヴェルニー公園の由来とかそこにあるバラ園の手入れが大変だとか、いろいろ聞かされて辟易としたところにやっと女房と子供がやってきたので、助かった、天の助け!とばかりに退散した。これじゃご老人の話しを延々と聞いた私のほうがボランティアなんじゃないの、と疑いたくなった。なんせこちとら、相づちをうったり、へえ〜そうなんですか、とかにこやかに言いながら蘊蓄話に付き合っていたのだから。

 案内ボランティアのおじさんがしゃべり続ける合間に、艦内のここそこに何人が戦闘中に亡くなったという銘板が貼ってあることを私が指摘すると、おじさんはまたもや、えっというような顔をして、でも死んだのは九人だけですよ、と答えた。これにはこちらがビックリした、九人“だけ”ってことはないだろうと。このかたは、どうしてもこの軍艦を戦争とは無縁の甘美な?記念物のように思わせたかったような気がしてならない。戦争の悲惨さとかその当時の国民の悲哀とか、訴えるべき主題はいくらでもあるのではなかろうか。

 私だって戦後生まれで平和な時代を生きてきた。それでも第二次世界大戦や太平洋戦争で世界中の人たちが辛酸を嘗めたことは知っている。でも、今の若い人たちはそんな過去の戦争のことなど多分ほとんど知らないと思う。そういう人びとにこそ軍艦三笠を見せて、それがかつて背負っていた国家とか国民とかに思いを馳せてもらうべきである。それを手助けするような案内ボランティアであるとよいと思う。


展望は? (2013年3月1日)

 三月になって、いよいよ春がやってきましたね。今朝は暖かでしたが、お昼からはなんだかいやな風が吹いてきました。花粉もかなり来ているみたいですが、まだ目が痒いくらいでおさまっています。

 さて、この四月から建築都市コースのコース長を仰せつかったことは以前に書きました。この仕事は教授職の持ち回りですからいつかはやらないといけないのですが、ついに回ってきたというのが正直な感想です。前任の角田誠先生はなんとこのお勤めを二年もやり、コースや大学のためにご尽力されたことは誰ひとりとして知らないひとはいないでしょう。

 そのように立派な前任者がいるわけですが、私はいつも書いているように権力とか他人の管理とかには全く興味のない人間です。いや、興味がないどころではなくて、そういったものに関わることさえご免蒙りたいと思っているのです。なので(コースの皆さまには申し訳ないのですが)テキトーにやろうと決めています。誤解しないで欲しいのですが、与えられた職責はもちろん果たします。ただ、研究をするときのように全身全霊を賭して積極的に取り組むことはしない、という意味です。

 当て職とはいえ、ヘッド・クォーターに取り込まれると、だんだんとその気になって自分でも思いもしないような志向を持つかも知れません。別に偉くもなんともないのに、ひと様に指図する立場になっただけで人間が変わったりするひともいるでしょう。そんなことにだけはならないように、自分を戒めたいと思います。

 しかしうちのコース(学科に相当します)には教員が三十数名、学生さんが二百六十名くらいいて、大学院も含めると三百七十名くらいの人員がいるので、それだけの所帯を私ひとりで切り盛りできるわけもありません。ですから、教員の皆さんにはそれなりにお仕事を分担していただかないと立ち行かなくなってしまいます。という訳で教員の方々にも応分のご協力はお願いします。ただ、これはコース長の言うことだからなどとは思わずに、構成員たるものの勤めであるくらいに思っていただけると幸いです。

 かくなる仕儀ですから、俺についてこいとか全く思いませんが、それでも学生さんのことは心にかけて、安全に楽しく快適に大学生活を過ごせるようには心を砕こうと思います。このことは別にコース長だから云々ではなくて、普段から心掛けていることに過ぎませんけどね。


裏高尾にて (2013年2月28日)

 日本コンクリート工学会(JCI)の仕事で裏高尾へ行ってきました。裏なんて言うとなんだかいかがわしい感じがしますが、普通の人が高尾山にアクセスするほうを表と見立てただけなんだと思います。高尾駅から旧甲州街道に入り、小仏関所跡を通ってしばらく行ったところにある圏央道に新設されたRC橋を見に行きました。

 都内とはいえ都心よりは相当に寒いせいか、梅はまだ咲いていなかったのは残念でした。裏高尾橋には実は2008年の年末に工事中だった現場に見学に行きましたので、今回は出来上がった姿を見に行ったことになります。2008年末には鹿島技研の丸田さんや永井さんらと現場に行ったのですが(こちらをどうぞ)、そのあとお二人とも鹿島を退職してしまい、わずかな年月とは言うものの月日の流れを感じましたね。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro:写真:JCI作品賞_現地審査2013:裏高尾橋:CIMG3025.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro:写真:JCI作品賞_現地審査2013:裏高尾橋:CIMG3037.JPG

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:鹿島土木裏高尾現場見学2008:CIMG0078.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:鹿島土木裏高尾現場見学2008:CIMG0089.JPG
      2008年末 建設現場

 普段は高速道路の上を車で通っているのであまり見ないようなものをしげしげと見てきました。巨大構造物なので建物とはやはり違います。建設に当たっては景観に配慮したということですが、人間の欲望を満たすためにこんな巨大なものを里山に作ったこと自体が景観の破壊なので、なんだかなあとは思います(仕方はありませんが)。

 その圏央道ですが、中央道より南はまだ少ししか開通していないので、この裏高尾橋を通過する車もそんなにはないようでした。これが東名道までつながれば南北のネットワークがかなり出来上がりますので、それなりの利用価値が出てくると思います。


思わく (2013年2月27日 その2)

 新政権になってやっと動き出したTPPですが、安倍首相とオバマ大統領とのトップ会談によって「始めから例外なしというわけではない」ということに合意したそうです。もともと米国の国益に沿ったルールでしたが、ここに来て米国がついに本音を見せ始めたという感じです。

 いくら近隣のアジア情勢が不安定になりつつあるから同盟強化を図りたいとはいっても、米国の思わくに付き従うことはないんじゃないかと思います。ところで安倍首相の祖父は総理大臣で父親も外相などを務めた政治家だった、ということを知ったオバマ大統領はどう思ったのでしょうか。三代目は身上をつぶす、とは世情でよく言われることですが、まさか米国人は知らないでしょうね。日本の政治プリンスが信頼に足る人物かどうか、見極めようとしているのでしょうか。


学校公開 (2013年2月27日)

 学校公開といっても私の大学のことではない。子供の通う小学校でこの週末に学校公開があって、授業の様子を見てきた。一時間目は国語であったが、こんな朝早くから子供の教室の前で待っていたのは私だけだった。定刻とともに先生がどうぞ、というので教室に入っていった。もっともこの学校はできたばっかりのオープン・タイプの教室なので、廊下と教室との仕切りはほとんどない。隣のクラスで歌なんかを唄っているとさすがにうるさい。ときどき書いているが、オープン・タイプの教室ってホントーに教育上よいんだろうか、と思うときもある。

 で、だんだんと父兄の皆さんがやって来た。でも皆さん遠慮しているのか、教室の奥深くまで入っては来ない。私はといえば、教室にズカズカと入ってゆくことには職業柄慣れているので、ひとりで一番奥の隅で立っていた。お若い先生にしてみれば、怖そうなおやじが教室の後ろにデンと構えているので、多分やりにくかっただろうとご同情申し上げる。

 二時間目は道徳であった。短い物語を先生が紙芝居のようにして、主人公の心境の変化を子供たちに考えさせる、という授業であったが、いろいろと小道具を準備して工夫を凝らした授業だなあと感心した。ことあるごとに書いているが、小学校の先生は大変である。もっとも大学でもパワーポイント等を用いたビジュアルな講義を心掛けるし演習を積極的に取り入れるなど、工夫することに変わりはないが。

 こうしてじっくり授業を拝見した。うちの子供は予想通り落ち着きがなかった。学校ではもう少しシャンとしているのではないかと期待していたのだが、やっぱりそんなことはなかった。親が教員のくせして、自分の子供も教育できないのかと情けなくなった。なので子供の担任の先生には私の職業がバレないようにしないとね(でも子供って正直だから、既にもう先生に話しちまったかもしれないな、ああ恐ろし〜)。


合同ゼミナール2013 (2013年2月22日 その2)

 昨日、芝浦工業大学・岸田慎司研究室との年に一度の合同ゼミナールを開きました。今年は本学で開催し、岸田研究室からは学生さん11名、我が社からは学生さん8名が参加し、助教の遠藤俊貴さんとOBの田島祐之さんもお出でになりました。

 今年度も岸田研究室との共同研究があったりしましたから、両研究室合同チームで研究発表した課題もありました。全部で9テーマについて4時間半びっちり発表と討論とを行いました。岸田研究室では杭とかパイル・キャップとか我が社とは縁のない研究も行っていますので初めて聞くような話もあって、学生さんのみならず私も刺激を受けました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:岸田研合同ゼミTMU2013.JPG

 両研究室とも大学院に進学するひとが多かったみたいなので、今後の研究の進展が楽しみですね。ただその後の懇親会でも、学生さん同士が熱心に親睦を図っているというふうには見えませんでした。建築の世界は広いようで狭いですから、なるべく多くのひとと知り合いになっておいたほうが将来のことを考えると得だと思います。積極的に視野を広げるようにして下さい。


試験体搬入 (2013年2月22日)

 もう年度末ですが、試験体を大型実験棟に搬入しました。今日は2体(写真では3体ですが、1体は別の実験のものです)で、後日さらに3体を搬入する予定です。これは、プレキャストの鉄筋コンクリート柱・梁部材のシース管のなかにアンボンドのPC鋼材を通し配筋して、それを緊張することによって柱と梁とを圧着接合するという工法で組み立てられた部分骨組試験体です。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:PCaPCアンボンド長寿命_田島_栗本2013:試験対搬入:DSC_3129.JPG

 この研究は国土交通省の補助金を受けて長寿命建築システム普及推進協議会が行う「長寿命建築システム普及推進事業」の一環です。この3月から実験を開始しますが、主担当者は北山研究室OBの田島祐之さん(アシス主任研究員)と4月から大学院に進学する栗本健多くんとにお願いしました。まだまだ寒いですが、安全と健康に注意して実験して下さい。新しい卒論生諸君にも積極的に参加して欲しいと思います。


自転車 (2013年2月19日)

 子供が自転車を買い替えて欲しいと言い続けていたので、そろそろしゃーないかと重い腰を上げたのが先週だった。幼稚園くらいから乗っていた自転車は見た目も相当に窮屈そうだった。また昨年末は諸事あって多忙だったため、クリスマス・プレゼントも買わずじまいだった。もちろんサンタさんはちゃんと来てくれて、子供が欲しがっていた宇宙戦艦ヤマト(の21世紀バージョン)のプラモデルを置いていった。

 そのプラモデルを正月くらいに一緒に作ったのだが、オマケとしてガミラス艦隊の三段空母とかいう小さいプラモデルも付いていた。それが小さいくせに結構複雑で、またもや作るのが大変で、頭に血が上りそうだった。

 おっと、脱線した。と言うわけで、子供と一緒に自転車を買いに出かけたのである。もちろん二人とも自転車に乗って、新車を買ったら古いヤツは無料で引き取ってもらうつもりだった。まずは家のそばのホーム・センターに行った。私の自転車はそこで購入したので、子供用の自転車くらい品揃えしているだろうと思ったのだが、気に入るような自転車はなかった。

 そこで仕方ないので、以前に目星を付けていた仙川のショッピング・センターまでえっちらおっちら自転車を漕いで向かった。しかし我が家から仙川に行くには国分寺崖線を登らないと行けない。それが結構な急坂なので、子供すら自転車から降りて押し歩きしたほどである。

 で、やっとの思いでお店に着いた。そこに子供が欲しいという自転車はあったのだが、気に入った色の自転車の在庫はないという。ええっ、お取り寄せですか? でも、もう一度あの坂を登る気は私も子供もサラサラなかったので、残念でしたということで退散した。

 ああ疲れた、といって一旦我が家に戻ってから、再度今度は家のそばのイトーヨーカ堂に行ってみた。でもそこにもなくて、結局、セオ・サイクルという小さな自転車屋にたどり着いた。ここでは以前、子供を後ろに乗せられる椅子付き専用自転車を購入していた。

 そこでやっと子供が気に入った自転車はあるにはあったのだが、結構値がはるのにはちょっと驚いた。子供用のくせに7段変速である。これじゃあ、我が家のガソリン車と同じじゃないか。おまけにスピード・メータとソーラーパネル付きのリア・ライトまでついている。私の乗っている自転車なんかよりずっと高級である。

 こっちにあるもっと安いのにしろよ、と言っても、イヤだようという。まあ二年越しのクリスマス・プレゼントという負い目もあったので、私のほうがあっさり引き下がってそれを買ってやったのである。でも、いろんなところを駆け回ったのに、結局は家のそばで購入するとは、灯台下暗しとはこのことか。かなり大きいサイズの自転車を買ったので、次に買い替えるのは3、4年後くらいかな、などと思ったりするのであった。


なんのために? (2013年2月15日)

 先日、資料を拝見するために霞ヶ関の文科省に行ってきました。壁谷澤寿海先生らとの待ち合わせの時間までにまだ間があったので、とても寒い日だったこともあり建物のなかに入りました。すると三階に「情報ひろば」というところがあったので、ちょっくら覗いてみました。

 するといろんな展示が(私にとっては)雑多な感じで為されていました。で、そこに至るまでにまず1階で警備員さんに誰何され、3階の入り口のところで「見学の方ですか」と聞かれました。さらになかに入って展示を見ていると(見学者は私しかいないのに)、警備員さんがカツカツと巡回して行きました。私って、そんなに怪しく見えたんでしょうか。

 でもこんな一等地に何を目的として、一見してはそのコンセプトも分からないような展示を行っているのでしょうか。ここは日本の学校教育の総本山なのになあ、という感想を禁じ得ませんでした。ただ、日本最初のRC校舎が大正9年に建てられた雲中小学校(神戸市)だったということは知りませんでしたので、唯一の収穫でしょうか。

 また戦後のRC校舎のモデル・スクールが昭和25年に建設された西戸山小学校(新宿区)だったことも知りませんでした。子供の頃、この学校の近くに暮らしていたので懐かしかっただけですけど。


何度目かの雪のあさ、そして花粉 (2013年2月13日)

 今朝の雪はたいしたことはないと思ったのですが、大学がある南大沢に来てみると一面の雪景色でした。南大沢は多摩丘陵のなかの小さい盆地のような地形ですから、夏は暑く冬は寒いことを実感します。大栗川が近くを流れ、水の手が身近にあることから、大きな沢という地名が物語っているように、この辺りには昔から集落があって人びとが暮らしていたのだろうと想像します。

 わが大学は小高い丘の尾根筋に立地していますので、谷筋に沿って走る京王線の車窓から見るとかなり高いところに工学部棟(現9号館)がそびえているのが望見されます。このような地形ですから、昔の武士の時代には近在の土豪たちによって周囲を見張るのに有効な土塁等が築かれていただろうと思います。戦国時代には北条氏が治めていたので、北条一族の砦くらいはあったかも知れません。

 さて2月も半ばにさしかかって多少暖かくなって来たせいでしょうか、昨日から目がかゆくなっています。たぶん花粉が飛び始めたのだろうと思います。ついに今年も花粉の季節が始まったかと思うと、例年と同じく春を待ち遠しく思う気持ちと花粉を厭う気持ちとが混在して複雑な心境になります。しばらくはつらい時間を過ごすことになるかと思うと憂鬱です。


修論発表会終わる2013 (2013年2月7日)

 修士論文の発表会が終わりました。我が社の三人は練習のときよりも格段によくなっていて、上手に発表できたと思います。ご苦労様でした。学生さんたちの発表を聞いていると、原稿を棒読みしているひとのプレゼンはやっぱり分かりにくいですね。傾向としてエンジニアリング系の学生さんはスライドを指しながら原稿無しで説明していて、それに対してデザイン系のひとに棒読みタイプが多いような気がしました。

 これで月曜日からの発表・採点等の行事は全て終わりました。ああ疲れた、というのが毎年の感想です。ただ発表する人は毎年違うわけで、その時々に抱く感想もまた千差万別です。我が社のことしの総評をひとことで記せば、卒論生はもう少し勉強しなくちゃね、というもので、修論生はよくやったなブラボー、ってな感じでしょうか。でも、これに安住することなく、卒業・修了まで論文をブラッシュ・アップして欲しいと切に願います。

 学部三年生の『RC構造』の期末テストを今日、採点しました。毎年同じような問題を出していますが、今年の平均点は二年前より10点も上がっていたのはどうしてかな?不思議です。ただ、今年は100点満点というひとが久しぶりに出現しました。どんな試験にせよ満点をとるのは大変ですから、立派なものだと褒めてあげたいです。


幅の広さ (2013年2月6日 その2)

 修士論文の発表会が開かれています。我が社の三名は明日発表ですが、今日の午前中、橘高研(建築材料)、角田研(建築生産)、山田研(建築史)および高木研(構造設計)の発表を聞いてきました。いやあ、面白かったですね。

 私が普段目にしないような、あるいは考えてもいないような事柄が研究されています。それだから興味が湧かないかというとそんなことは全くなくて、建築学という幅の広い学問領域ですから何かしらの接点があるし、例えそうでなくても知的興味をかき立てられるような研究が多くて充実していました。

 やっぱり建築学って楽しいなあ、とあらためて実感しました。それから修士くらいになると発表も上手になって、他人に分からせようと努力していることも大きいですね。


三たび、ゆき (2013年2月6日)

 朝起きたときの雨は、すぐに雪に変わりました。今年は雪が多いような気がします。電車はすでに遅れていました。南大沢では雪が積もり始めています。学内の写真をしたに掲げておきます。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:雪の南大沢2013:CIMG3008.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:雪の南大沢2013:CIMG3011.JPG

 今週は卒業設計、卒業論文および修士論文の発表会があり、期末テストやレポートの採点もあるという、学事てんこ盛りウィークです。そのためこの一週間は学外でのお仕事は全く入れられません。

 昨日は卒業論文の発表会です。我が社の卒論生は練習のかいあってか、それなりに分かり易いスライドを作って発表できましたが、質疑応答は物足りませんでしたな。いろいろと対策を練るようにアドバイスはしましたが、あまり活かされたようには見えませんでした。とは言え、自分が卒論の発表をしたときには、神田順先生の質問にあった用語が理解できずに小谷俊介先生に助けていただいた記憶がありますから、あんまり彼らのことも言えません。修練あるのみ、でしょう。


卒業設計の採点2013 (2013年2月5日)

 昨日は卒業設計の採点がありました。昨年はサバティカルでパスしましたので2年ぶりですが、予想通りたいへんに疲れました。三時間、立ちっぱなしの休憩なしで図面を見て、作者の話しを聞いて回りました。今年は三十数人が卒計にチャレンジしましたが、結論からいうと(申し訳ないのですが)レベルは今一歩という感想を持ちました。

 まず図面の枚数が少ないですね。さらには図面の表現がちゃんと為されていないものが多くて、本人の説明を聞かないと何がなんだか分からないという作品が多かったのは残念でした。作者から作品のコンセプトとか思い入れを聞くとなるほどと思うところも多々あるのですが、如何せんそういうものが図面から読み取れないのです。これは建築のプレゼンテーションとしては致命的な欠陥だと思います。

 建物の成り立ちや構成をちゃんと理解しているかどうかは断面図を見ると分かります。その断面図をしっかりと書けないひとが多いのにもガッカリしました。二年生後期のビルディング・タイプの修練のときには丁寧に教えているつもりですが、そういう訓練の成果を忘れてしまったのでしょうか。

 結局、これはいいな、卒業設計のレベルに達しているなと私が思ったのはわずかに1作品しかありませんでした。これは過去数年に較べても少ないです。根底には建築に対する興味とか愛情とかの根本的な欠如が、彼らのなかに存在しているような気がしてなりません。大学全入時代を迎えて、残念ながらレベルが下がっているような気もします。そういった学生諸君に対する教育の方法・方針を再検討すべき時期に来たのかも知れません。我々教員が抱く悩みの根は深いと言わざるを得ないでしょう。


流 行 (2013年2月3日)

 二月になって最初の週末でしたが、とても暖かかったので助かりましたね。さて巷間ではインフルエンザが大流行しているようですが、子供のクラスでも一週間ほとんど学級閉鎖されました。うちの子供は大丈夫だと思っていたのですが、学校で貰って来ていたようで学級閉鎖後に発病しました。予防接種を受けていてもなるときにはなる、あるいは発病しても軽い症状で済む、ということでしょうか。

 学級閉鎖になると(当たり前ですが)学校に行けなくなってお昼の給食にもありつけなくなるので、両親が仕事をしている家庭は結構な打撃となります。先日、芳村研出身の大和征良くんがひょっこりやって来て雑談したのですが、彼のうちでも同じような状況になって困ったと言っていました。同胞相哀れむってな様相です。私のような大学教員は自営業みたいなものなので、いざとなったら全ての用事をキャンセルして休んでしまうということも比較的自由にできます(もちろん、年休届けは出しますし、各方面との折衝は必須です)が、サラリーマンはなかなかつらいことと拝察します。

 そんなわけで我が家ではいつも誰かしら風邪を引いているという状況が冬のあいだ中続きそうです。家族のなかでインフルエンザのキャッチ・ボールをしているような様態です。さらにはインフルエンザにも幾つかの型があるらしく、症状もそれぞれ異なっていますので、一度罹ったからといって油断はできません。皆さんもどうぞお気をつけ下さいませ。


頭の回転と集中力 (2013年1月30日)

 先日の研究室会議ではM2の三人がそれぞれの修士論文の概要を説明してくれたこともあって、中身の濃い議論ができました。それはよかったのですが、皆それぞれテーマが異なるので、説明者が変わるごとに頭を切り替えるのが結構大変でした。

 この会議が三時間続いたあと、今度は数人の学生さん相手に個別のゼミを二時間やりましたが、最後のほうになると明らかに頭が回らなくなって来たことを自覚しました。集中できないというのでしょうか、とにかく相手が言っていることが理解できなくなりました。

 これってやっぱり年なんでしょうね。自慢じゃありませんが集中力を長時間持続させることができるのが、若い頃の私のウリでした。というか、私自身はそのことを全く自覚していませんでしたが、大学院生の頃、師匠の田才晃先生からこのことを指摘されて、そうなんだ、これって特技なんだ、ということを認識した次第です。

 その特性がだんだんと衰えているように感じます。集中できなくなったら私の取り柄(ちょっと大げさか?)は半減するようなものですから、これはちょっと困りますな。でもお尻がムズムズしてきて、落ち着いて話を聞けなくなるんです。

 なのでこれからは、短期集中型で臨もうと思います。集中力が切れるのは多分体力(耐力?、それとも脳内の力?)が落ちつつあるからだと考えます。なので、そのような極限ポイントに達する前に仕事を終えればよい訳です(理論的には)。ということですので、相談にくる学生諸君は要点よく簡潔に説明して下さい、頼みますよ。


国家における教育について (2013年1月29日)

 学校の先生の早期退職問題が勃発しています。わずか数ヶ月の違いで退職金が数百万円も減額される場合もあるようです。当事者となった先生がたには同情を禁じ得ません。ホントひどい話だと思います。学校の先生だって仙人じゃなくて生身の人間ですから、霞を食べて生きてゆけるわけがありません。その数百万円があればお子さんにさらによい教育を受けさせることができるかも知れません、あるいは年老いた両親の介護に役立てられるかも知れません。

 途中退職を決断した先生それぞれに個別具体のそういった事情があるはずです。そういったことを斟酌もせずに途中で児童・生徒を放り出すとはけしからん、などとよく言えたもんだとあきれますね。自治体の言い分として、大事な税金を節約するために必要だ、ということがあるそうです。しかし教育に費やすお金は別ではないでしょうか。

 日本の国を将来にわたって豊かで住み良いところにするためには、国民の教育がまず第一に重要です。実際、明治の初めには維新の立役者たちがこのことをよく理解していて、貧しい国家予算の中から教育には潤沢にお金を回したことが知られています。

 すなわち国家の基となる教育について、あまりにも無頓着な為されように対して強い憤りを感じるわけです。私は小学校の先生が一番大変だし、一番えらいと常々思っています。大学の教師なんて好きなことをやって、人格が出来上がった学生を相手にしているだけですから、ある意味小学校の先生には遠くおよびません。

 小学校の先生は本人の持つ全人的な魅力によって児童たちを導いてくれます(もちろん中には変な先生もいるでしょうが、そういうのはほんの僅かに過ぎません)。児童にとってその影響は絶大なものです。そういう大切な役目を持った先生方への報酬をケチるとは、なんという狭小なやり方でしょうか。

 教育とは手間ひまのかかる、忍耐を要求される重労働です。そのための大切なお勤めを果たしている先生がたは聖職者であると言ってもよいと私は思います。そういう人たちの長年の努力に対して、斯様な仕打ちによって報いるとは世も末です。先生がたの嘆きや悲しみ、怒りを是非とも皆で共有しないといけません。

 そうして先生たちの気持ちを理解して共有することが結局は、子供達に対してよい教育をもたらしてくれるものと私は思っています。


歓迎されざるもの (2013年1月26日)

 突然ですが皆さんNHKの受信料、どう思いますか。私は心情としては払いたくありません。以前に放漫経営が指摘されたこともあり、事実上の国営放送という立場に安住し、受信料を納めるのは当たり前というような態度には反感さえ覚えます。

 なので大昔は払っていませんでした。ところが払わない家庭にはしょっちゅうNHKの集金員がやって来て、玄関先で大きな声で恫喝するように支払いを要求されることが続きました。私がいるときには逆に怒鳴りつけて追い返しましたが、家内ひとりのときには恐怖さえ感じたようです。もう押し売りと同じですね。言葉遣いは丁寧な集金員もいますが、受信料の支払いは法律で決まっているのでお上を盾に迫って来ました。

 そんなことをしばらく続けましたが、もう辟易としたしNHKのそういった人たちとやり取りするのはご免蒙りたかったので、受信料を引き落としで支払うことにしたのでした。払ってるんだから、文句ないだろうっていう感覚です。これが十年以上前のはなしです。

 ところが集金員が最近またやって来たのです。もう何を言っているのか、私たちにはさっぱり分かりません。うちはちゃんと払ってますからお引き取り下さい、というのに、これは規則ですからこの書類を書いて下さい、の一点張りです。どうやら住所等の個人情報を書けということらしかったですが、そんなことそちらはちゃんと知っているじゃないですか。なぜ、わざわざそういうことを要求するのか、その神経が理解できませんでした。

 NHKが勝手に作った規則に、どうして我が家が従わないといけないのでしょうか。もうここまで来ると、こいつらバカかとしか言いようがありません。困惑した家内から仕事中に電話が掛かってきて、もう怒り爆発です。電話に出てもらった集金員に縷々文句を言って怒鳴りつけました、アンタらとは付き合いたくないから早く帰ってくれと。

 ということで、なんの因果か分かりませんが、面倒なことを言わないで欲しいと強く思います。NHKには時としてよい番組もありますし、うちの子供はEテレをいつもみていますから受信料を払うのも仕方ないかなとは思います。でも、有無を言わせず国民からお金を搾取する、その態度は感心しません。こんなことをしていると、従順な国民といえどもそのうち反乱を起こすんじゃないでしょうか。あんた達は歓迎されていないんだ、ということをしっかりと認識して運営して下さい。


卒論生の内定
 (2013年1月24日)

 トップページに記したように、来年度の卒論生4名が内定しました。昨年末、頭に血が上っているときに思わず「北山研の定員は5名でお願いします」と言ってしまったため、まだ1名の枠が残っていますが、とにかく4名も志望してくれたことを嬉しく思います。

 ただ、残念ながら第一志望の研究室に入れなかった学生さんが十名程度いたため、彼らのどなたか1名には我が社に入ってもらうことになります。気分を切り替えて、新たな気持ちで研究室選びにチャレンジして欲しいと思います。

 ひと昔前には人気のない研究室として一、二を争っていた北山研と永田研(永田明寛先生、失礼はお許しを)ですが、今年は両方とも4名の志望者がいて、ホッとひと安心といったところです。我が社では今年3月には新たな実験をスタートすることになっています。フレッシュ・マンたちにはこの研究に積極的に参加して欲しいですね。諸君の研究室での活躍を期待しています。


春の香り (2013年1月22日)

 一週間前に降った雪がそこかしこで固まって、寒々しさを演出しています。今日のお昼が卒論および修論梗概のしめ切りで、我が社の学生さん達も苦労しながら提出したことと思います。先週ずっと休んでしまったため、この週末はメール添付で次から次に彼らから送られてくる草稿をチェックすることで過ぎて行きました。

 今日の夕方、「構造設計演習」の授業を終えて教室棟から外に出ると、あたりはもう薄暗くなっていましたが、西の空はほんのりと紅く染まっていました。そのときのあたりの空気の香りに、ほんのかすかですが春を感じたのです。それは土の匂いや水の香りなのかもしれません。何か分かりませんが、日本人なら多分知っている「気配」なんだと思います。

 梅の花もまだ咲いてはいませんが、少しずつ日は長くなっており、春は確実に近づいて来ているんだと実感したのでした。来年度の卒論生もそろそろ決まる頃を迎えました。どうなるかはまだ分かりませんが、春はやっぱり楽しみです。


残念なこま切れ (2013年1月21日)

 風邪をひく前のはなしです。今年最初の大学院の授業があったのですが、授業前に二人の学生さんがやってきて「今日は就活(就職活動の略です)があるから先生の授業は欠席します」と言ってきました。ひとの一生にかかわる問題ですから「それじゃしょうがないよね。行ってらっしゃい」と伝えました、表面的にはにこやかな表情を浮かべて。

 こういうふうに伝えてくれる学生さんはまあいい方の部類で、大抵は何も連絡なく授業をスポイルします。で、この日の授業でも半数は欠席でした。こんな状況が昨年12月から続いていて、だんだん授業をやる気が失せてきました。授業のほうは講義は終わって英文輪講に移っていました。英文解釈の要諦はもう伝えたことですし、毎回出席するのは同じメンバーになりつつあったこともあり、思い切って来週以降は休講とすることを宣言しました。

 でも釈然としないものがあります。本来であれば耐震構造に関する知識を獲得するためにやっているのに、毎回1、2ページしか読み進まず、当初の目的には遠く及びません。こんな状況で(授業に出て来ないひとの)成績を付けてもよいものでしょうか。

 この時期は就活によって勉強・研究にはほとんど身が入らないひとも多々いるようです。毎年同じようなていたらくではありますが、なんとかならないものでしょうか。修士一年生から二年生に掛けてのこの時期は、研究活動が最も進展する脂の乗った時期だと私は思います。そういう、研究の面白さが分かり始めてやる気がみなぎって来る(はずの)貴重な時間を細切れにされてしまうことは、大いに残念に思います。


寝込む (2013年1月18日)

 昨日は阪神・淡路大震災(1995年兵庫県南部地震)の日でした。でも、私は不覚にもそのことを今朝まで忘れていました(すいません)。というのも、日曜日の午後から寝床についていたからです。いやあ、ひつこい風邪ですね、もしかしたらインフルエンザなのかも知れませんが、私は病院には行かないので分かりません。

 一週間ほとんど寝ているほどの風邪はホント久し振りでした。でも、熱が39度を超えて、それが二日も続くとさすがにこたえました。眠れませんし、ちょっとウトウトしても変な夢を見るし(自分の布団がどういうわけプログラム・コードなんですよ、それにくるまって寝ている夢でした、もう気分最悪です)、朦朧としてトイレに行くにもそろそろと歩いていました。なので、体温が37度台になったときには随分楽に感じました。

 こうして臥せっているあいだ、いろんなことを思い出しましたね。私が中学三年だった頃、某大学の付属高校を受験したときもそういえば風邪を引いていました。父親がタクシーで連れて行ってくれて、試験が終わって校門を出るとそこには祖母が待っていてくれました。祖母の家はその高校のすぐそばにあったからです。その祖母も八年前にこの世を去りました。

 そういうわけで、ネットにはほとんど接続しませんでした(そんな気はさらさら起きませんでしたから)。朝起きて、ウエブ・メールでその日の仕事のキャンセルの連絡を送ったり、休講の案内を頼んだりしただけでした。

 毎度のことですが病気になると普段の健康な生活のありがた味とか、家族の優しさなんかに気がつきます。回りの人たちにも大いにお世話になっているということにも思いあたります。健康なときにはそういうことに気が回らないということは、自分は尊大な人間ではないのかと自己嫌悪に陥ります。なのでしばらくは他人に優しげな私になっているかも知れませんよ(ちょっと気持ちが悪い気もしますねえ、あはは)。


年明け恒例 (2013年1月10日)

 年明け恒例となった、日本コンクリート工学会(JCI)年次論文の執筆がやっと終わりました。もちろん私自身が書くわけではなくて、研究室の有能な学生さんが筆頭著者となって取り組むものです。彼らにとっても一年間あるいは二年間の研究成果を取りまとめるためにはちょうどよい機会となりますので、この査読付き論文をものすることができれば、まさに一石二鳥というわけです。

 もちろん書いている学生さん本人は大変だったでしょうが、それをチェックする私だって正月早々のハードワークなのでそれなりに頭も使いますし、気も揉みます。去年は4編の論文を見ないといけなかったので(嬉しい悲鳴です)疲弊しましたが、今年は結局2編の投稿にとどまりましたので昨年よりは楽でしたね。

 で、今年はM2の石木健士朗くんと鈴木清久くんとが投稿しました。この二人のスタイルは相当に異なっていて、石木君はコツコツと地道に、でも確実に積み上げて成果を上げるタイプです。それに対して清久くんはちょっと波があって全然進まないときもあるのですが、最後にはキッチリ帳尻を合わせて来るタイプですね。

 ひとそれぞれの個性ですからそのことに対してはとやかくは言いませんが、チェックするこちらとしては地道タイプのほうがやり易いのは確かです。こうして石木君の論文はしっかりとした正統的な論文に仕上がり、締め切り日前日に投稿できました。安心して見ていられますな。

 これに対して清久の草稿はもう泥縄(失礼!)ですから、締め切り日当日の午前中(今日です)の教室会議のときに内職して見ていたのですが、デタラメなミステイクを見つけて、あまりのことに二階の会議室を飛び出して七階の清久のところに駆け込んだくらいです、お前なんだこれ〜、心臓に悪いからもうやめてくれってば。こうして仕上がった論文はなかなか面白い(と私は思う)のですが、賛否両論を惹起しそうな内容となりました。

 それでも清久くんの偉いところは修士課程の二年のあいだに二編のJCI論文を執筆したことです。これは二十年に渡る北山研究室の歴史なかでも、森田真司、横尾一知、中沼弘貴および嶋田洋介の四氏だけしか為し得なかった偉業といってもよいでしょう(ちょっと褒め過ぎかも知れませんが)。

 もうひとりのM2の落合等くんも有孔梁の有限要素解析で頑張っているのですが、ギリギリのところで間に合わなくて残念でした。やっていることは面白いのだから、修士論文にはキッチリと間に合わせておつりを出して欲しいところですね。今後に期待しています。


腹のなか (2013年1月4日)

 ひとが何を考えているのかなんて、分かるわけありません。表面的には相手の話しに合わせて相づちを打ったり、なごやかに微笑んだりしていますが、それは大人だからに過ぎません。実際のところは頭のなかでは相手に向かってベロを出し、腹の中でドロドロしたことを考えているかも知れません。

 昨年11月末から年末にかけてきわめて不愉快なことが連続してありました。それは結局は上述したことに起因するのです。私は単純な人間ですから、根回しとか腹芸とかとは全く縁遠い対極に位置しています。そんな私にとっては、周到なシナリオのもとで仕組まれたかもしれない茶番劇を見抜くことなどできるわけがありません。でも、それを見抜けなかったことを口惜しく思いました。

 半世紀も生きて来て今までそのような体験をしなかったこと自体が奇跡かも知れません。そんな体験をしなくてよい立場にいたことが私には幸いだったのでしょう。でもこれからはそうはゆかないということがよく分かりました。今年4月からは(持ち回りの)建築都市コース長が私に回ってきます。その昔、村上雅也先生(千葉大学名誉教授)から伺った「ポストがひとを作る」という言に従って、私も違った面においても成長できればと思います。

 そうしてこの経験を糧として、この悔しかった思いをはらすために遠大な計画を仕込んでみようと決意しました。うーん、考えただけでスカッとしますな。腹のなかを見透かされない人間になること、お前もワルよのうってな感じかな(越後屋か?)、そうなればしめたものですが、さてどうでしょうか(人間の本性って、そんじょそこらでは変えられないことは皆さんご承知の通りですから)。まあ、無理でしょうけど、、、。


深大寺へのみち (2013年1月3日)

 正月も三日めになって食っちゃ寝の生活のせいでからだがなまってきたので、今年も散歩に出かけました。昨年、京王線が地下化されたのでその辺りを見に行きました。すると我が家のすぐ近くで新しい道(下水道施設を含む)を造っていることに気がつきました。品川通りと甲州街道(国道20号)とを南北につなぐ470mの道路で、一部は野川沿いになっています。

Kokuryo_01 Kokuryo_02

 建設中の新道の右側には廃墟となった都営団地が建っていて、壁式鉄筋コンクリート造4階建てのアパート群が写っています。WRC建物は良質な既存ストックと考えられていますが、面倒くさい改修を計画するよりも建て替えた方が楽なんでしょうね。

 さて、京王線が地下に潜るところが左下の写真、そして地下化にともなって廃された国領の地上駅の様子が右下の写真です。国領駅の東側から調布駅の西側に至る細長い線路跡地をどのように利用するかについては、まだちゃんと決まっていないようです。新しい街づくりと関連づけて、有益に利用して欲しいと思いますね。こんなときこそ、わが建築都市コース計画系の先生方の出番なんじゃないでしょうか。

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 さてここからまた野川に戻って、上流に向かって進みます。甲州街道を越えてしばらく行ってから、右側の細い道に入って行きます。すると祇園寺というお寺に出会いました(左下)。その脇には三体のお地蔵さんが祀られていましたが、そこに刻まれた年代を見ると寛政十三年(1801年)、元禄十五年(1702年)そして延宝(1673〜1681年)という文字が見えました。ということは、江戸時代中期から後期の人々がこれらのお地蔵さんをおまつりしたことになります。三百年も前のことかと思うと、感慨もひとしおでした。

Gionji-01 Gionji-02

 このお寺の境内に「板垣退助お手植えの松」というのがあって「自由の松」と書いてありました(右上)。明治41年のことだそうです。明治期の自由民権運動の名残がこんなところにもあったのですね。

 ここからさらに北に進むと、調布市のカニ山キャンプ場というのがあります(下の写真)。中央自動車道のすぐ脇です。かなり小高いところで、胸突き八丁のような坂を登ります。子供がまだ幼かった頃、自転車に乗せてここまで遊びに来たこともありました。このそばの神代水生植物園のなかに深大寺城跡があることからもわかるように、このあたりは見晴らしがよいことから、往古は重要な軍事拠点だったと思われます。なぜカニ山というのか分かりませんが、ふもとに流れている沢すじに沢蟹でもいたのかも知れません。

KaniYama_01 KaniYama_02

ChuouHWay Aoi-Jinja

 ここまで来ると深大寺はすぐそこです。中央高速の跨線橋を渡りますが、下を見ると東京方面への車が渋滞していました。ご苦労なことです。下り方面は(笹子トンネルの事故があって対面交通になっている関係か)ガラガラでしたが。さらに北西に向かうと青渭(あおい)神社があります(右上)。このあたりから、深大寺に向かう車やひとが多くなりました。しばらく進んでやっと深大寺の北門に到達します。

Jindai_Ji 

 普通の参詣人は南側の山門からアプローチするのだと思いますが、北門側も相当の人出でした。お正月に深大寺に来たのは初めてです。せっかく来たので深大寺蕎麦でも食べようかと思いましたが、どの茶屋もそとに並んで待っています。おまけに寒空のもとで食しているひともいたので、これはたまらんと諦めました。別にここじゃなくても深大寺蕎麦は食べられるからな、とか思いながら。こうして二時間半の散歩は終わったのでした。


二日め (2012年1月2日)

 新年二日めが暮れてゆきます。食料の買い出しにオーケー・ストアに行ったのですが、(今どき珍しく?)正月休みでやっていませんでした。仕方がないのでイトーヨーカ堂へ行きました。でも明らかにオーケーよりも価格は高いので、イチゴなんかも少量パックで我慢しました(それでもイチゴ6粒で499円もしました、ビンボー臭いですね)。

 恒例の箱根駅伝は最後の山登りで大逆転が待っていました。昨年までの「山の神」がいなくなった東洋大学があっさり抜かれて、日体大が往路優勝を遂げました。見ていてすごかったですね。箱根路の風が強くて、選手の皆さんは大変そうでした。で、外に出てみたらこちらも強風でいろんなものが煽られていました。

 それにしても駅伝って、精神的にタフなひとじゃないとできないと思いました。陸上競技はそもそもが個人競技ですが、一本のたすきを複数人でつないでそのトータルのタイムを競う、という競技になった途端に団体戦となります。ですから、自分の不調は即、チームの結果となって跳ね返ってきます。なので自分がブレーキとなったときに、自分自身の気持ちをどう整理するか、というのがとても難しいだろうと想像します。実際、そうなってしまった選手が泣き崩れたりするシーンは時々目にします。でも、好不調は誰にでもあることですから、不調だったからといっていちいちくよくよしていたら身が持たないでしょう。

 たすきをつなぐ駅伝って、日本人のメンタリティにきわめて良くマッチしたスポーツという気がします。ひとりはみんなのために、というスローガンを地でゆく競技だからです。それゆえ、個人主義が浸透した西洋の国々では駅伝は人気がないのでしょう。


一年の計 2013 (2013年1月1日)

 年が明けると晴天の青空でした。明けましておめでとうございます。穏やかなお正月を迎えることができて、とても嬉しいです。昨年の末に三年越しの計画がやっと成就して新しい生活の足固めができました。まだ完成したわけではありませんが、少しずつ軌道にのせてゆければいいかなと思っています。そういうわけで、今年のお正月はまた格別な思いがあります。

 「一年の計は元旦にあり」とは使い古された格言ですが、今年一年をどのように過ごそうか、あれこれ考えるのに正月休みはちょうどよいかも知れません。差し当たって正月くらいは子供を叱ったり、怒鳴ったりするのはやめて、ぐっと堪えて心静かに暮らそうかと思います。

 しかし子供って、こんなに言うことを聞かないものだったでしょうか。これから成長して行くとどうなるのでしょうか。ちょっと末恐ろしいものがありますな。個性があっていいですねと言われるかも知れませんが、私に言わせれば自分勝手な頑固者に過ぎません。あっと、ここまで書いてこりゃ自分自身のことじゃわい、ということに気がつきました。ということで、これは遺伝だったんだ、と思って諦めます(これを書いているあいだじゅう、家内と子供が怒鳴りあっています、これが我が家の正月です、とほほっ)。

 正月らしくお雑煮をいただきました。もちろんお餅をいれますが、お餅をフライパンで焼く?(あるいは元に戻す?)のは私の係です。フタをして蒸すのですが、火加減と加える水の量、そして加熱時間を上手に見計らう必要があります。うまくいったときにはフライパンにベタつくこともなく、サラッとどんぶりに移すことができるので、やったーってな感じです。小さな話しですがささやかな満足を味わいました。でも、焼き餅のような焦げ目はつきませんので、お焦げの香ばしさが好きな方には向きません。

 


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