トップページ > メモランダム2017

■ 2009年版はこちら
■ 2010年版はこちら
 2011年版はこちら
■ 2012年版はこちら
■ 2013年版はこちら
■ 2014年版はこちら
■ 2015年版はこちら
■ 2016年版はこちら


 このページは北山の日々の雑感などを徒然なるままに綴るコーナーです。早いものでこのコーナーは九年めに入りました。どなたがお読みになっているのかはとんと存じませんが、お付き合いいただけるのは嬉しい限りでございます。

 なお、ここに記すことは全て個人的な見解であることを申し添えます。すなわち初老の域に達しつつあるわがまま者の主張ですので、その旨をどうかご理解のうえ、笑い飛ばしていただけると幸いです。

 今日からは2017年版を掲載します。例によって不定期更新ですが、そもそもそういう類いのコンテンツなのでご容赦下さい(2017年1月4日)。




■ 2018年版はこちら

歳末余話 (2017年12月28日 その2)

 年の瀬も押し詰まって御用納めの日と相成りました。皆さま、いかがお過ごしでしょうか。我が社では昨日、ことし最後の研究室会議を開き、そのあとわたくしはプロジェクト研究室のゼミナールにも出席して、濃密な研究の時間を過ごしました。先日もちょっと書きましたが、研究室で実施した実験の生データを眺めて、新たな計算を試みたり、そのグラフを作ったりと、久しぶりに自身で手を動かす(?)作業を楽しんでおります。

 実験のデジタル・データを扱うのにエクセルは便利です。数値の羅列が目で追えますから、分かり易いのは確かですね。でも、そのデータを用いていろいろな計算をしたり、グラフを作ったりするのは、ひとつづつ手作業でやらないといけません。セルを選択して、それをここからそこまでドラッグして…っていう一連の流れのことです。これらの作業って、驚くほど時間がかかるのですが、皆さんどうしているのでしょうか。もしかしたらビジュアル・ベーシックでプログラム化するとか、マクロを組んで作業をルーティン化するとかしているのかな?

 わたくしが実際に手を動かしていた頃にはまだエクセルはありませんでした。データは全て(目に見えない形で)ファイル内に格納されており、ある計算を行なうには自分でプログラムを書いて、それらのファイルをオープンして中の数値を読み取り、計算結果を別のファイルに書き込む、というふうにしていました。その結果をグラフ化するには、また別のプログラムを動かして、プロッターとかプリンターに図を出力させたわけです。でも思い出してみると、それらの作業も相当に面倒かつ時間がかかりました。まあ、何事も楽してできないよ、ってことでしょうか。

 さて、海上自衛隊の護衛艦「いずも」を航空母艦に改造したい、というニュースが流れました。現在だって直線の飛行甲板のようなものを装備しています(ヘリコプター登載護衛艦と呼んでいるようですが,,,)。誰が見たって、これを通常の攻撃型空母に改造するのは簡単ですよね。ちなみに「いずも」の基準排水量は約二万トンです。これは旧日本海軍の正規空母「飛龍」のそれと同等ですから、立派な航空母艦ですぞ。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:Japanese_aircraft_carrier_Hiryu_1939_cropped.jpg
 写真 左:護衛艦「いずも」     右:旧海軍の空母「飛龍」(いずれもWikipediaより)

 こういうふうに将来の改装を見越して軍艦を作るというやり口は、戦前の旧日本海軍にその範があると思います。軍縮条約のしばりがあって航空母艦を造れない時期がありましたが、そのときに「赤城」や「加賀」という軍艦を戦艦名義で起工しておき、やがて条約が切れてからすぐに航空母艦に改造したのでした。そのことがすぐに思い出せるくらい、今回の「いずも」の件は露骨に“いつか来た道”をたどっています。巡航ミサイルの導入を画策していることとあわせ、いやな感じが漂います。

 歴史を知っていれば、この道は亡国へと続いていることがすぐに理解できるはずです。それにもかかわらず、このような暴挙を平然と押し進めようとするA倍政権は、市井の人びとの良識を侮っていると言わざるを得ません。このままでは再び奈落を見ることになる、ということを声高に叫ぶしかないでしょうな。

 と書いてきて、“この道はいつかきた道”という詩歌を思い出しました。先日、北原白秋の評伝を読み終わったばかりだからでしょうな、きっと。

 この道はいつかきた道
 ああ そうだよ
 あかしやの花が咲いてる

 これは童謡で、子供の頃の美しい光景を思い出し、ほのぼのとした気持ちにさせてくれる秀歌です。しかし北原白秋がこの詩を書いたのは、戦前の日本が軍国主義にのめり込み始めた時期と重なります。すなわち、今と似たような時代情勢でした。そのことが二重写しとなった今を思いながら、暗澹たる気分に沈潜しつつこの年末年始を過ごすことといたしましょうか。

 北原白秋は福岡県柳河の生まれですが、昨年、わたくしは初めて柳河を訪れました。晩夏のおそい午後でしたから、観光客はほとんどおらず閑散としていたことを憶えています。柳河は水郷と呼ばれ、運河が掘り巡らされています(右下の写真)。北原白秋といえばやっぱりザボンでしょう、と思っていたら、彼の生家(いまは記念館になって公開されています)の中庭に植えられていました。それが左下の写真です。北原白秋にとっては幼いときの幸せな記憶とともにあった光景をこの目で見ることができて、安らかな心持ちがいたしました(っていうのは後から思ったことでして、そのときはベラボーな暑さの方が鮮明でした、あははっ)。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ大会2016福岡大学七隈キャンパス:P1010635.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ大会2016福岡大学七隈キャンパス:P1010645.JPG
      写真 北原白秋記念館のザボンと柳河風景(2016年撮影)

 殺伐とした話題から口直しの余話を語ったところで、今年は終わりにいたしとう存じます。今年も一年、お読みいただいた知人の皆さまには御礼を申し上げます。どんなに忙しても、気分がクサクサしても、ここに何かを書くことが精神安定上、とても重要なような気がしています。ということで、引き続き来年もなにかを書き続けるんでしょうな、きっと。

 では皆さま、良き新年をお迎えになられますようにお祈り申し上げます。お酒の飲み過ぎにはご注意を、なんちゃって。


ことしの本ベスト3 (2017年12月28日)

 ことしは大学の図書館から本を借りることを習慣化し、書籍の購入を極力減らすように務めました。そうすると当然ながら、読んだ本が手元に残りません。そこで、今年から読んだ本の情報をエクセルの表に残すことにしました。

 その結果、この一年間に読んだ本は55冊でした。一週間に一冊のペースで読了したことになりますな。われながら結構いいペースだと思いますが、どうでしょうか。内訳は、借りた本が30冊、昔の読書(以前の蔵書を再読すること)が13冊、新規購入が11冊、その他が1冊でした。総括はこれくらいにしてベスト3を記載します。

 第一位はダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を(Flowers for Algernon)』(小尾 芙佐訳、早川書房、1991年12月改訂31版)を断トツで選びました。もともとは1966年に書かれた小説ですから、今から半世紀も前の作品ということになります。家内の本棚にありました。読んだ方も多いかと思いますが、わたくしは遅まきながら初めて読んで、ものすごい衝撃を受けたのです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:アルジャーノンに花束を表紙.jpg

 そもそもこれはSFなのでしょうか。ずいぶん昔の小説ですが、ひとの生の残酷な真実をあぶり出しています。わたくしにとっては戦慄の書でした。アルジャーノンは脳外科手術によって知能が異常に発達したネズミです。そのネズミと迷路ゲームをしてもかなわなかったのがチャーリイ・ゴードン、この小説の主人公です。

 この本では「白痴」と訳されていますが、IQ68だったチャーリイがアルジャーノンと同じ手術を受けて知能を回復し、それどころか手術をした科学者達を凌駕するような天才になって行きます。だが、彼には残酷な運命が待ち受けていました。アルジャーノンの知能が徐々に退行してゆくことに彼は気がついたのです。チャーリイは彼の知力を使ってその原因を調べ、ついにそれを「アルジャーノン・ゴードン効果」という名前で解明しました。誰もなし得なかった科学的な真実を突き止めたのです。

 しかしそれは、同じ手術を受けた彼もまた、早晩、同じ運命を辿ることを意味していました。自身の恐るべき未来を理解したチャーリイは苦悩します。そうしてもとの白痴に戻る直前に彼は、かつて入所させられそうになった精神薄弱者施設に自らおもむくことを決意するところで、この小説は終わります。アルジャーノンのお墓に花束を供えてくださいという手紙を残して,,,。

 小説のタイトルにネズミの名前を使うことで中身のシリアスさや残酷さを隠し、視点をずらす効果を得ていると思います。SFならば、どのような脳手術をしたのか興味が湧くところですが文中には何の説明もなく、「アルジャーノン・ゴードン効果」とは何かという説明もありません。しかし、人間の精神はひとの脳によって産み出され、人間の脳の複雑さや神秘さという観点からこの小説が書かれたと思えば、それはやっぱり科学に依拠している、ということになるのでしょうね。

 第二位は悩みましたが、『ホモ・フロレシエンシス(上・下) 12000年前に消えた人類』(マイク・モーウッド、ペニー・ヴァン・オオステルチィ著、馬場悠男監訳、仲村明子訳、NHKブックス、2008年5月)にします。インドネシアのフローレス島にほんの一万二千年前まで、現生人類(ホモ・サピエンス)とは異なる人類が生存していた、という驚くべき事実に惹かれてこの本を手に取りました。このホモ・フロレシエンシスは発掘された人骨から、身長は1メートル程度と小型で、脳の容積は400cc程度しかなかったことが分かっています(現生人類のそれは1500ccくらいです)。それでも彼らは立派なヒトだったようです。

 本書の出版が10年前なので情報としてはかなり古くなっていますが、フローレス島での発掘から人骨の発見に至る経緯や、その後の発掘者間の対立などの人間模様が興味深かったです。この本ではホモ・フロレシエンシスは一万二千年前に絶滅したとなっていますが、最新の知見では一万八千年前と考えられているようです。



 ホモ・フロレシエンシスの骨が発見された後、地元インドネシアの考古学会の重鎮と、発掘を取り仕切ったオーストラリアの研究者(この本の著者のモーウッド)との確執がとてもリアルで、いかにもありそうなことだと思いました。それは学術上の対立だけではなく、かなり感情的な理由で生じたように見えます。ただ、ことの経緯や見解については当事者の一方(すなわちモーウッド)の主張だけが記述されているので、本当の理由とか真意とかについては不明です。実際、この本の監訳者(馬場氏)は双方を知り得る立場にあったそうで、それぞれの言うことがそれなりに分かるとのことでした。

 しかし、人類の進化を巡る研究者間の対立は、ダーウィンの進化論を信奉する者とそれに異を唱える者との対立と同様に、激しく深刻なように思われます。人類の進化についてはまだまだ研究途上で、ゲノム解析によって新たな知見が次々と現れていることもあって、日々、新しい説が生み出されているようです。ことしは人類の進化に関する書籍をかなり読みましたが、今後も新しい発見を追って行きたいと思います。

 第三位は時代小説にしました。青山文平さんの『つまをめとらば』(文芸春秋、2015年7月)です。初めて読んだ作家ですが(この方の履歴を見るとすでに七十に近いお年の方で、2011年くらいから作品を発表しているようです)、なかなか良い時代小説家が現れたなという感想を持ちました。本書は短編集ですが、「乳付」ではほんわか温かな気持ちにさせてくれて、じーんと来ました。安心して物語に身を任せることができて、余韻に浸れる、っていう感じでしょうか。

 ほかの小説も読んでみたいと思い、早速に二冊ほど読みました。『白樫の樹の下で』と『かけおちる』(いずれも文春文庫)です。とくに前者は、藤沢周平のように無駄を削ぎ落とした、抑制の利いた筆致で描かれた佳作でした。文章を簡潔かつ余韻が失われないギリギリまで短くしようとする強い意志を感じとることができます。それが好感を呼び起こすということに気がつきました。



 番外としてジャンナ・レヴィン著『重力波は歌う アインシュタイン最後の宿題に挑んだ科学者たち』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫、2017年9月)を挙げておきます。2017年にノーベル物理学賞を受賞した研究の物語ですが、この本が書かれた2016年にはまだ受賞は決まっていませんでした。著者のジャンナ・レヴィン氏も物理学者だそうです。

 著者自身のインタビューやカリフォルニア工科大学(カルテック)にあるインタビュー・アーカイブの内容を駆使して、重力波の検出に成功するまでが語られています。ノーベル賞は存命の三名以内にしか与えられません(ここでは、ライナー・ワイス、キップ・ソーン、バリー・バリッシュの三人)が、本書を読むと、このプロジェクトに参画した人数は千人にのぼるといいます。さらに主要なメンバーと見なされる研究者は他にも数名いて、陽の当たらなかった研究者や途中でプロジェクトから去らねばならなかったひと達の悲哀と苦衷とが述べられます。

 これを読むと、個々人の才能は言うに及ばず、その時々の幸不幸が非常に重要なターニング・ポイントになったことが分かります。また、共同研究者との相性や研究集団内の人間関係もとても重要でした。重力波の検出という偉業を達成するまでに、さまざまな人間ドラマが演じられたということです。すなわち偉大な研究といえどもやっぱり人間味溢れる日常の果てに成し遂げられるのだ、という当たり前の事実を再認識させられますな。

 なお、著者の文章にあまり格調がないのか、あるいは日本語訳が悪いのか、分からないのですが、興味深い内容が書かれているわりには、世紀の大発見(アインシュタインが百年前に残した宿題に対する解答)に到達したぞ!という熱気のようなものが行間から全く感じられないのは、どうしてなんでしょうか。そこが残念というか、不満です。




もしも地球が… (2017年12月26日)

 地球は丸くて(おおむね)球体です、当たり前です。でも、もしも地球が立方体だったら…などと考えたことはありますか。フツーはそんなこと考えませんし、そんなこと考えて何の意味があるのか、ということになります。ところが「もしも地球が立方体だったら」を真面目に考え尽くしたひと達がいるそうです。それを知って、迂生はまず驚きましたな、ええっ、そんなヒマなヒトがいるのかっていう感覚です。

 本学の地理環境科学域の教授である松山洋先生が教授会のときに隣りにやって来て、日本科学協会で「もしも地球が立方体だったら」という動画を作っているので見て欲しいと言われました。なんでも、この立方体地球に建物を建てたり、都市計画することは可能か、という問いに対する解答が欲しい、ということでした。

 なんだかよく分かりませんが、とりあえずその動画を見てお返事する、ということにしました。で、夜中に見たわけですよ、その動画を(だって、そんなもの[?]研究室で見るわけにもいかないでしょう、あははっ)。興味のある方はこちらをどうぞ、でも三十分くらいかかりますので、そのつもりで。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:スクリーンショット 2017-12-25 22.07.05.png

 「もしも地球が立方体だったら」という突拍子のない問いを真剣に考えたのは松山洋さんを含む数名の学者の方で、それらの先生方の専門は広い意味での気象学(松山先生の言)ということでした。内容は非常に真面目かつ科学的で、とても興味深かったです。ドラマ仕立てになっていて、一般のひと達向けに工夫されて作られています。立方体地球を考えることによって、われらの球体の地球が生物にとっていかに恵まれていて、かけがえのない(ある意味、偶然の産物ですが,,,)天体であるかを知って欲しい、というのがこの動画を配信する意図だそうです。

 さて、都市計画はさておき、建物の構造設計はこちらの専門ですから、まあ、考えてみますか。まず重力の方向ですが、立方体地球では下図(右)のように地表面に対して必ずしも直交せず、隅角部では45度になります。ですから、立方体地球の端っこ付近にひとが立つと、地面の傾斜が45度近い急斜面に立っているかのように感じるでしょう。すなわち、急斜面に建物が建っているというイメージです。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:スクリーンショット 2017-12-25 17.23.55.png
   図 重力の方向(この図は、日本科学協会のサイトの解説から)

 ここに建物を建てることは可能です。またこのサイトの解説によれば、立方体地球の重力分布は球体地球とほぼ同じ、ということでした。そこで、重力のみに抵抗するための建物(地震の無い国です)の構造設計は現状と同じ、ということになります。いっぽう、日本のような地震国の場合には、建物の部材寸法は地震によって生じる水平力の大きさによって決まります。しかしこの動画では立方体地球の地震については言及されていませんでした。

 この立方体地球での地震の発生とか、地震動の性質や大きさはどのように考えればよいのでしょうか(松山さんに聞いたら、そこまで考えていませんでしたって笑っていました、あははっ)。もっとも、重力に直交する方向の力を「水平力」と定義すると(でも、それは立方体地球の表面とは平行ではありませんが,,,)、球体地球と同じに耐震設計すればよいだけなのかも知れません。

 でも、これらの元となるニュートン力学は特段問題にはならず、むしろ、立方体地球の表面における気温や気圧が問題なのかも知れません。気温が高ければそもそも人類は生存できませんが、そのシェルターとして建物を建てるとすれば、高温まで耐えられる材料が必要になりますからね。また気圧が何十気圧にもなれば、海の中と同じですから、そのような外圧に耐えられる耐圧構造が必要になるでしょう。

 なるほど、これはよい頭の体操になりそうですね。あまり考えると知恵熱?が出てきそうなので、このくらいで止めておきます。ご興味のおありの方はさらに考えて、なにか面白いアイディアがあれば本学の松山洋教授に教えてあげて下さい。じゃ、よろしく。


冬至におもう (2017年12月22日)

 きょうは冬至です。お日様は照っていましたが、とても寒い冬らしい冬になりましたね。

 昨日、来年度の卒論生四名が決まりました。ここ数年の人気の無さは(残念ながら)今年も継続したらしく、多くは第二次募集での配属になりました。三年生の皆さんには気分を切り替えて、我が社で頑張って欲しいと思います。それなりに期待しています。

 さて、ここのところ、石塚裕彬さん(2015年度大学院修了)が実施したRC隅柱梁接合部実験の生データを見ながら、新しい検討を始めています。誰もやってくれないなら、自分でやるしかないでしょう。で、ちょっと不明なことがあったので、石塚くんにメールして質問したところ、すぐに明快にして十分な回答が返ってきました。忙しいなか、どうもありがとう。

 いやあ、さすがですね。石塚くんは大学院当時から緻密に研究を進めて立派な成果をあげましたが、その研究の中身を設計事務所勤めとなった今でもしっかりと覚えていてくれたことが、とても嬉しかったです。

 で、石塚くんからのメールに、今年は忘年会の案内が来なくて残念だった、とありました。そうなんですよね、今年は忘年会はやりません。というか、迂生は研究室会議のときに忘年会はやらないのですかって学生諸君に呼びかけたのですが、結局、誰からも何の反応もありませんでした。

 現役諸君がやりたくないのだから、それはそれで仕方がないと思います。だんだんと研究室がバラバラになって瓦解して行くような気がしてなりませんが、まあ、それも世のならいだと思って受容するだけでしょうな。こういう経緯ですので、このページをご覧になっているOBの皆様にはどうかご容赦を乞い願う次第でございます。そのうち北山研OB会でも企画して呼んで下さい(って、石塚くんには言っておきました、あははっ)。


国立競技場のいま (2017年12月21日)

 トップページに書きましたが、渋谷区神宮前の青山高校まで行って来ましたので、途中で通る新国立競技場の現状を載せておきます。ちょうど一年前に行ったときには、左下の写真のようにまだ空き地状態で、千駄ヶ谷駅前の東京体育館の銀屋根が見えていました。でも、今日行ってみると工事が急ピッチで進んでいるようで、スタジアムの客席部分の骨組がしっかりと分かるまでになっていました。大成建設が頑張っています。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:都立青山高校模擬講義20161221:P1020162.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:都立青山高校模擬講義20171221_国立競技場建設現場:IMG_0027.JPG
   写真 左:ちょうど一年前の様子         右:きょうの建設現場

 
説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:都立青山高校模擬講義20171221_国立競技場建設現場:IMG_0041.JPG

 でも、そばに寄ってみるとよく分かりますが、結構大きいですね。当初のザハ・ハディドさんの案よりは全高は抑えられましたが、それでも間近でみると威圧感をそれなりに感じます。今後、仕上げが施されるとそれがどれくらい緩和されるのか、隈研吾さんのお手並み拝見、といったところでしょうか。


大学で構造設計 (2017年12月20日)

 先日、旧大分県立図書館(現アートプラザ)の構造設計の話しを書きました。磯崎新さん設計のこの建物の構造設計をしたのが、建築構造学者の村上雅也先生でした。構造設計者のクレジット欄には東大地震研究所・大沢研究室と書かれていましたが、この頃は大学の研究室に実務の構造設計を依頼する、ということがよくあったと仄聞しております。建築家・丹下健三と組んだ坪井善勝先生(東大生産技術研究所の教授でした)が構造設計を担当して、数々の名建築を産み出したことはつとに有名です。早稲田大学の松井源吾先生のお名前もよく見かけました。

 実務の構造設計を大学の研究室で請け負うというのは、わたくしが大学院生の頃まではあったように記憶します。それはNTTの事務所建物でしたが、青山・小谷研究室で当時助手だった細川洋治先生の監督の下で大学院生たちが構造設計していました。わたくしはまだ下っ端だったので、外構のRC塀かなにかの配筋を決めて製図したくらいでしたけど、あははっ。その後、その建物の建設現場(確か埼玉県だった)の見学にも行ったと思います。

 しかしそのような習慣はいつの間にか廃れて、いまはほとんど聞きません。もちろん構造設計自体を研究対象としている教員のなかには、自身で構造設計をやっている方もいるでしょう。でも、少なくともわたくしの所属する鉄筋コンクリート構造ソサエティでは、研究室で実務の構造設計を請け負っているひとはいないと思いますね。今は大学内の業務を始めとして書類作りがべらぼうに多いですし、(昔と較べて)授業もちゃんとやるように求められていますから、責任ある実務をやるような時間はサラサラない、というのが正直なところです。

 ただでさえ少ない時間ですから、研究の時間を割いてまで実務設計をやろうという気は起こりませんね〜。でも本当は、そのような経験は貴重でしょうし、そこから得られるものも多々あるとは思います。そう考えると結局はやる気ってことでしょうか。本気で実務設計をやる気があるならできるだろ、っていうことでしょうから。


建築家と構造設計者 (2017年12月18日)

 12月に入ったある日、堀江建築工学研究所の太田勤所長のもとにヒアリングに伺いました。ハードワークでお忙しいにもかかわらず、太田所長には二時間に渡ったヒアリングに丁寧にお答えいただき、貴重なお話しをお聞きすることができました。そのことにまずは御礼申し上げます。またその後すぐに、当時を知ることができる貴重な資料をお送りいただきました。とても感謝しております。

 ことの経緯は次のようなものです。大学院プロジェクト研究コースのM2市川望さんが、磯崎新設計のアートプラザ(旧大分県立図書館、1966年竣工/改修は1997年)を修論の研究テーマにしていて、この建物の図書館から美術展示施設への用途変更と耐震改修との関係を調べています。

 大分県立図書館の構造設計は東大地震研・大沢研究室となっていますが、実際には当時大学院生だった村上雅也先生(千葉大学名誉教授)が担当したそうです。また、耐震改修設計は村上先生と細川洋治先生(元東大梅村・青山研究室助手)とが担い、実際の詳細設計等を太田所長が担当されました。この経緯を調べている市川さんが分からないことがたくさんある、というので、それなら担当者の太田所長に直接聞いたらよいだろう、ということで出かけました。

 わたくし自身は2004年に大分のアートプラザを訪問しています。そのときにエントランスのそばにむき出しの鉄骨ブレースが設置されているのを見て(それは地味な灰色に塗装されていましたが,,,)、磯崎新さんはどうしてこのような耐震補強を認めたのか、疑問を持ちました。耐震構造を研究するわたくしが見てもそれは無骨に佇んでいたからです。そんなわけで迂生もこのアートプラザの改修設計には興味があったので、市川さんと同道して太田社長のもとに参ったという次第です。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:大分・福岡リニューアル建築2004:IMG_0083.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:大分・福岡リニューアル建築2004:IMG_0084.JPG
    写真 アートプラザ(旧大分県立図書館、磯崎新設計、2004年撮影)

 さてヒアリングの内容やそこから得られた知見については、市川さんが修士論文にまとめてくれるでしょうから、それを待つこととします。ここでは太田社長から伺った興味深いお話しを物語しましょう。それは建築家・磯崎新さんがなぜ構造設計を村上先生に依頼したのか、ということです。

 その当時、磯崎さんは東大大学院を出た駆け出しの建築家でした。村上先生もそのちょっとあとに大学院に在籍したので、多分お二人の接点はそこにあるのだろうと思います(これは想像です)。太田社長の言によれば、磯崎さんと村上先生とはとてもウマが合ったということです。それと同時に磯崎さんは村上先生のことを信頼もしていたそうです。結局、個人的に知っていて信頼できるひと、ということで村上先生が構造設計を依頼された、ということみたいでした。太田社長によれば、建物の建築には多額の費用と何よりも重い責任がともなうので、知らないひとには依頼できるものではないということで、確かにその通りだと思います。

 改修設計の際には、かつて磯崎アトリエの番頭で協力者だった山本靖彦さん(建築家)および村上雅也先生がうんと言えば、磯崎さんはNoとは言わなかったそうです。わたくしが疑問に思った鉄骨ブレースもこのお二人が吟味した結果として提案したものでしょうから、そのまま実現した、ということみたいでした。

 磯崎さんのような有名建築家ですから、この名建築を再生させるにあたっては強いこだわりがあったと思います(それが市川望さんの研究対象になってもいます)。この建物の構造は非常にユニークでして、この建物を見た太田所長は本当に耐震補強できるのだろうか、と当初は首をひねったくらいです。それでも、村上先生たちの大胆なアイディアとそれを許容した磯崎さんの決断があって、この建物は生き返りました。それは結局、村上先生がそう言うのだったらそれで行こう、という建築家・磯崎新の信頼の証しとして復活を遂げることになったのです。

 難しい建築理論をさまざまに展開してきた磯崎さんですから、アートプラザの改修に当たっても小難しい論理を構築しているかと思ました。しかしながら耐震補強についてはそんなことはなくて(もちろん既存の意匠に対するこだわりはお有りだったと思いますが)、極めて人間的な理由(もちろんそれは構造力学にかなった合理的なものでしたが)からそれは採用されたのです。それを知ったとき、迂生は正直言って拍子抜けしました。ええっ、そんなことで決まったんですか、って。

 でもよく考えれば当たり前のことですよね。どんな建築でも、それを設計して建てるのは人間にほかなりません。極めて人間的な営みなわけです。その真理は有名建築家であっても変わることはなかった、というそれだけです。

 ちなみにアートプラザの構造は、上の写真のように巨大なボックス梁が縦横に組み合わされ、建物中央付近に巨大な耐震壁が四枚建っている、という独特かつ特殊なものです。こんな構造を実現させた村上雅也先生は、研究者としてだけでなく構造設計者としても一流だったということにあらためて思い至りました。すごい、の一言です。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:大分・福岡リニューアル建築2004:IMG_0085.JPG
  左が旧大分県立図書館(現アートプラザ)、右が大分県医師会館(現存せず)

 磯崎アトリエが作成してアートプラザに展示されていた(2004年当時)、旧大分県立図書館と大分県医師会館の模型およびドローイングを上に載せておきます。大分県医師会館のほうは1960年に竣工しており磯崎新さんのデビュー作と言われます。ご覧のように横長のシリンダーが柱によって宙に浮いており、極めてインパクトのある形態です。こちらの構造設計も東大地震研・大沢研究室となっていました。

 磯崎さんによるこの二棟の建物が隣接して建っていたときはさぞ壮観だったろうと想像します。でも残念ながら大分県医師会館のほうは取り壊されてしまいました。日本の近代建築の発展を考える際に、宙に浮くコンクリート打ち放しのシリンダーはそれなりの意義を持ち、その後の建築へ与えた影響は大きかったと想像できます。これが民間の建物であったとはいえ、そのような現代遺産を取り壊してしまったことに、日本文化の未成熟さを強く感じます。逆に言えば、アートプラザだけでも再生して生き残れたのは僥倖だったと申せましょう。


多面体 (2017年12月15日)

 12月ももう半分過ぎました。ことしの寒さは例年よりも前倒しで到来したようですね。普通なら年が明けた1月末から2月くらいに見られる霜柱が、きのうキャンパスの地表をキラキラさせて隆起しているのを発見しました。牧野標本館新館の普請はかなり進んで、エントランスの部分の仮構いが半分取り外され、コンクリート打ち放しの壁や柱が見えるようになりました。

 さて、きのうの学域教授会議で来年度の学科長(来年度から建築学科に名称が変更になります)を決めたのですが、そこで気分の悪〜いやり取りがありました。ここ数年、この時期になると繰り返されてきたのですが、翌年度の責任教授の選出に当たって揉め続けてきました。

 どんなものも見る角度が異なれば、見えるものは変わってきます。あるいは海に浮かぶ氷山のように見えない部分も多々あります。すなわち、諸事は多面体のようなものなのでしょうね。ですから他人さまが見ているモノと迂生が見ているモノとが違っていても、そういうこともあるんだねと諾うしかありません。

 それでも、自分の都合ばかりを言い立てて、そっちのことは知らないよ、みたいな態度は如何なものでしょうか。そのひとは常に議論をすり替えて、一見正論のような意見を吐きながら、その実、巧妙に自分の主張するフィールドに相手を引き込もうとします。こっちは根が単純なものだから、それにカーッとなって頭に血が昇ってしまい、もういけません。つい声を荒げてしまいました。完全に相手ペースです。本当に気分が悪かったです。

 これでこっちが完全に悪者かつ野蛮人とされてしまったように思います。そのこと自体がサイコーに癪にさわってなりません。まあご承知のようにわたくしは、もともとそんなに上品な人種じゃございませんが(あははっ)、大学人としてはまっとうな常識人であると自負しています。でも先さまにその「大学の常識」が通用しないのであれば、これはもうどうしようもないんじゃないでしょうか。お手上げっていうことですな。

 ただ、この不愉快な会議のあとに数人の先輩教授から「北山さんの言う通りだと思うよ」とお声を掛けていただき、少しばかり気分が和らいだのでした。


そろそろ討ち入り (2017年12月13日)

 そろそろ近づいてきましたね、日本人の琴線に触れるあの出来事ですよ。そうです、「忠臣蔵」として今日まで語り継がれる、赤穂浪士の吉良邸討ち入りです。でも、当時の江戸のひとびとを震撼させたこの事件については、当時から分からないことが多々ありました。そもそもの始まり(浅野内匠頭はなぜ吉良上野介に斬りつけたのか)さえ、その理由には諸説あって未だに分かっていません。

 討ち入りに参加したのは四十七人と言われますが(四十七士と呼ばれていますね)、その後、幕府に出頭して、武士としての栄誉を賜って切腹したのは四十六人でした。では、残る一人はどうなったのでしょうか。唯一生き残ったのは寺坂吉右衛門という足軽だったそうです。そこまでは分かっています。では、なぜ彼ひとりだけが生き延びたのか、その理由は誰も知りません。

 謎があればそれは物語のネタとなります。その寺坂吉右衛門は国家老・大石内蔵助の命によって、討ち入りの生き証人として幕府の誹謗や事実歪曲に抗い、同時に浪人となった旧赤穂藩士達の生活が成り立つように心を配る、という重いお役目を背負った、という時代小説が『四十七人目の浪士』(池宮彰一郎著、新潮文庫)です。もう二十年も前に読んだ小説ですが、久しぶりに読み直してみました。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:四十七人目の浪士_池宮彰一郎.jpg

 この小説ではとにかく大石内蔵助の“いいひと”振りが満開でして、それが鼻に付くのが欠点と言えば欠点です。それでも大石の遠謀深慮によって寺坂吉右衛門が諸事立ち回るというストーリーはユニークで面白く、ついには五代将軍綱吉の側用人だった柳沢吉保をへこませるに至ります。ラストの「最後の忠臣蔵」は衝撃的な結末とも相まって泣かせます。乾いた筆致で淡々と綴られた小説ですが、わたくしはよくできたエンターテイメントだと思いますね。

 でも、この作者(池宮彰一郎氏)はその後の小説において司馬遼太郎を盗用したことが明らかになって筆を折るに至りました。なんでそんなことをしたのか、司馬遼太郎をパクらなくても自身で十分に素晴らしい小説を書いていたのですが,,,。わたくしは池宮の小説は大体読んでいて、どれもなかなかによいと思っていましたから、この出来事はとても残念でした。

 この小説では、討ち入り前夜に遁走して討ち入りには加わらなかった瀬尾孫左衛門(このひとは大石家の用人だったらしいです)にも、大石が別の密命を与えたことになっています。こちらの理由については本作をお読み下さい。


ノーベル賞受賞者来たる (2017年12月12日)

 きのうの夕方、2015年ノーベル物理学賞受賞者の梶田隆章先生が本学に来校され、大講堂で講演会が開かれました。高名な研究者がわざわざ八王子くんだりまで来てくれるのですから、お話しを聞いてきました。講演に先立ち、本学の上野淳学長が挨拶していましたが、やっぱりそれくらいの来賓ということでしょうな。講演会は一般に公開され、二階席まで含めてほぼ満員でしたから500名くらいが参加したのだろうと推量します。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:img.jpg

 そのご講演ですが、ニュートリノと重力波で探る宇宙の謎、といった内容で、約一時間お話しになりました。かなりゆっくりとしゃべり、難しい内容をなるべく分かり易く説明しようという気持ちが溢れた講演でした。ヘルメットをかぶり、長靴を履いて作業する写真を示しながら、カミオカンデやKAGRAといった大規模実験の話しをされるときにはとても楽しそうでしたから、この方は基本的に実験屋なんだろうなと思いました。

 なぜだろうという疑問を解決するために研究しているときが一番楽しかった、と仰るのを聞いて嬉しく思いましたね。真理を探究したい、謎を解明したいという情熱が研究の原動力であるのは、ノーベル賞を受賞するようなひとでも変わりはない、ということです。お話しやその後の質疑応答を伺っていて、その誠実なお人柄が伝わって来ました。

 実際の研究には巨額の費用がかかり、二百人くらい(あるいはそれ以上?)の多数の研究者・技術者を動かして研究全体をマネジメントしないといけませんから、そのご苦労は並大抵ではないでしょう。ご講演の冒頭に、週末に風邪を引いてしまって…と言っておいででしたが、体調が悪くても一般向けの講演活動もしないといけません。そんなことどもを思うとき、ノーベル賞を取るひとってやっぱりスーパーなひとなんだなと改めて認識いたしました。

 梶田先生は若いひと達へのエールも送っていましたが、迂生の前に坐っていた学生さん達ときたら、寝ているひとがいたり、あまつさえスマートフォンを取り出してゲームをしているひとさえいました。こいつら何やってんだかな〜っていう失望感と、体調の良くないなかお話しいただいている梶田先生に申し訳ないという気持ちが湧き上がりましたな。そういう学生さんは真理の探究などに興味は無く、分からなかったことを理解したときのワクワク感などと言っても別になにも感じないんでしょうな、残念ですけど,,,。


開戦の日にあたって2017 (2017年12月8日)

 きょうは旧日本海軍がハワイ真珠湾を先制攻撃して太平洋戦争が始まった日です。昨日も沖縄・普天間基地のそばで駐沖縄米軍のヘリコプターが備品を落として、保育園の屋根を直撃するという事件がありました。幸い怪我人等はなかったようですが、沖縄のひとびとの怒りは納まることはありません。ときどき書いていますが、わが大学の南大沢キャンパスは米軍横田基地の着陸コースの真下にあり、巨大な米軍機が爆音とともに高度を下げるのがよく眺められます。

 このように沖縄をはじめとして日本各地に米軍が駐留しているのは、わたくしのような戦後生まれの世代は当たり前のことのように思っています。でも、そのような因果の根本がこの日にあったことは忘れずに覚えておきたいですね。若いひと達はそういうことに無頓着なように見えます。でも、日本社会の現在のあり様を規定したのはまさにその結果なのですから、折に触れて思い返すべき事柄であると迂生は考えています。

 わたくしが住む町のそばにも戦前には調布飛行場があって、そこから旧陸軍の戦闘機が米軍爆撃機B29の迎撃に飛び立ったそうです。そのような戦闘が七十年以上前には頭上の大空で繰り広げられていたとは、とても信じられません。このように長きに渡って続いている平和がアメリカの核の傘によるものである、という「常識」は現在でも当てはまるのか、そろそろ本気で疑ってもよい時勢だと思いますが、どうでしょうか。この国の「かたち」を論じようとすれば、それはアメリカを抜きにしては考えることができないのです。


大学入試改革 試行調査の問題を見て思う (2017年12月7日)

 今日はよく晴れたいい天気になりました。でも、寒さはすでに全開といった感じでして、とても寒いです。そんな中、卒論の中間発表会が開かれています。今年は壁谷澤寿一さんが教室幹事なので発表会の司会役をつとめていますが、彼は律儀なので質問が出ない学生さんには自ら質問してあげています。偉いなあ、と思いますね。

 さて、2020年度から実施される大学入学共通テストに向けた、試行調査の問題が公表されました。皆さん、見ましたか? かく言うわたくしも全てを見たわけではなくて、新聞に載ったいくつかの問題(数学、国語、日本史Bなど)を見ただけです。従来の入試問題とは異なり、考える力を問うという触れ込みです。

 その問題ですが、確かに今までに見ないような新しいタイプの問題で、出題した方々の苦労がしのばれる労作だなというのが第一印象です。しかし結論から言えば、わたくしが見た範囲では、そこで問われているのは「考える力」のある一面だけであって、今までの(知識偏重と言われて非難されてきた)入試問題とは切り口が異なるだけ、というふうに思いました。手厳しく言えば、人間の能力を多面的に評価するという標語はやはり幻想に過ぎず、その多面体を見る角度がちょっと変わっただけ、ということでしょう。

 数学では問題文がやたらと長くて、それが身近な話題を扱っているという点で真新しいのですが、よく考えてそれがフツーの二次関数を扱っているということに気付けば、特段むずかしくもありません。すなわちここで問われているのは、日本語で書かれた文章(かなり長い問題文)を正確に読み取り、それを数学で得た知識に基づいて数式に落とし込む、という能力です。それが、生きてゆくために大切な能力、と言われればそうかもしれませんが、数学的な能力とはまた別なような気がいたします。

 国語では会話形式の討論の内容が問題となっています。ただそれに付随する多数の資料が提示されていることが今までにないタイプでして、一見して面倒だな、という印象です。でも、これがどうして国語の問題なのか、迂生には分かりませんでしたな。これはどう考えても、多量の資料を短時間で精確に読み込んで問いに答える、という情報処理能力が問われているように見えますが,,,。

 日本史Bでは正解が複数あるという問題が出ていました。歴史なんか、視点によって如何様にも解釈できる、すなわち(単純な年号を問うようなモノを除いて)正解のない最たるものですよね。否、年号でさえ、例えば鎌倉幕府の成立は迂生が子どもの頃には1192年と教えられましたが、最新の歴史学ではそうではないという諸説があるそうです。しかも正解が複数ある問題を作る苦労は(想像すればすぐに分かりますが)並大抵のものではなく、そのご苦労はよく分かるのですが、その問題は残念ながら良問とは言い難いと思いました。

 記述式問題の採点についてはまだ手つかずのようです。その採点は二人一組で行い、その手法が新聞に載っていましたが、二人の採点結果が同じになることを前提にしているそうです。それを見て迂生は我が目を疑いましたな(その理由は、大学入試で小論文の採点をしたことがある方にはすぐに分かるのですが、これは採点に関わる守秘事項なのでこれ以上は書けません)。

 なぜそんなこと(=二人の採点結果が同じになること)が可能なのか、国語の問題文を見て分かりました。解答するに当たって問題には相当な制約条件が課されていて、解答が曖昧にならないように誘導されていたのです。でもこれじゃあ、何のために記述式の解答を求めているのか、分からないじゃないですか。あ、もしかしてこれも、複雑な条件を読み解いて、出題者の意図に沿うように(すなわち忖度して)解答する能力を見る、ということでしょうか。

 かなり辛口のコメントが続きました。新しい試みを否定するつもりは毛頭ありません。大学入試をより良いものにしたいという意思も尊重します。大学入試が変わらないと高校以下の教育も変わらないという主張には、全面的に賛成とは言えませんが、ある程度そういう面もあることは認めます。

 でも、これだけ大々的に変革して、受験生たちを大混乱に落とし入れたあげく、その結果として評価されるものが今まで見ていた能力の別の一面から見えるものに過ぎないとすれば、コストパフォーマンスが悪過ぎはしませんか。何のために入試制度を変えるのか、そこには「改革」という錦の御旗には逆らえないという思考停止が国家レベルで蔓延している気がしてなりません。


畳でセミナー ニュージーランド・日本ワークショップその2(2017年12月5日)

 11月下旬にニュージーランド・日本のワークショップが日光で開催されたことは前に書きました。昨年度はニュージーランドで開かれ、その際には鉄筋コンクリート(RC)耐震壁が主要な討議テーマでした。それに対して今回は、NZサイドからはRC耐震壁に関する研究発表もありましたが、もっと範囲が広がってRC建物の耐震性能や対津波性能の評価全般の研究が扱われました。そのため、迂生にとっては昨年度のような肩身の狭さを感じなくて済んだのはありがたかったですね。

 わたくしは2011年3月11日の地震で被害を受けた学校建物を対象として、地盤—基礎—建物連成系の地震応答解析を行ない、上部構造の耐震補強が杭基礎の耐震性能に与える影響を検討した研究を発表しました(下のスライドはそのタイトルです)。

 

 この研究は我が社の大学院生だった新井昂さんが修士研究として行なったもので、そのエッセンスを抽出して発表用のパワーポイントを作成しました。そのコンテンツの一部は新井くんが作った図等を再利用しましたが、彼の修論にも載っていなかったグラフなどは別途、新井くんに連絡して送ってもらいました。新井昂さんのご協力に感謝します。ちなみに新井くん、次のゼミはいつやるの?

 さて、このワークショップですが、日光の和風旅館で朝から晩まで丸二日間、缶詰になって行なわれました。その会場は普段は宴会などが行なわれる大広間でして、当然のことながら畳敷きです。ニュージーランダーにとってはオリエンタルな雰囲気なのでしょうが、最近の日本の家屋には畳がないお宅も多々ありますので、日本人にとっても畳は必ずしもファミリアなものではなくなりましたよね。

 でも畳に坐るという動作は、ニュージーランダー、日本人双方にとってつらいものでした。あぐらにせよ正座(これは日本人だけ)にせよ、とにかくすぐに足が痛くなって居心地が悪くなり、他人さまの発表を聞くことに集中できなくなります。体育館座りをしたり、お行儀悪く足を前に投げ出したりとそりゃもう苦心惨憺です。下の写真の右側に壺などを載せるちょっとした台(ケン[Elwood]先生がもたれかかっている)が写っていますが、迂生はそこにずっと坐っていました。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2017_日光:P1020398.JPG

 さすがに我慢ができなくなったのか、壁谷澤御大がどこからか座椅子にちょっとした足がついた椅子をいくつか捜し出してきて畳の上に置き、ステファノ(Pampanin)さんやケンさんはそれに腰掛けてちょっとばかりホッとしたみたいです。

 個々の発表者のスタイルもさまざまでして、迂生は畳のうえに立って発表しました(これがやはり一番多かったようです)が、あぐらをかいたままのひとや、中腰みたいな不安定な姿勢で発表したひともいました(左下はポスドクのルーカス)。右下の写真はClosing Sessionのときのもので、座布団のうえにあぐらをかいている壁谷澤御大と、小さな椅子に坐っているケンさんです。でも、足が長いのでやっぱり窮屈そうですね〜。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2017_日光:P1020403.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2017_日光:P1020433.JPG

 食事は三食ともこの旅館でいただきました。もちろん日本食です。でも、見たところニュージーランダーの皆さんはすべからくすすんでトライして、大体完食していたことには結構驚きました。宴会のときに隣りに坐っていたステファノさんは納豆にトライして、日本人がやるように醤油と辛子を混ぜて食しました。すると辛子(マスタード)は入れないほうが美味しい、なんて言っているじゃありませんか。迂生は納豆は(特にあの匂いが)苦手なので手を付けずにいると、お前はなんで食べないのか、と言われる始末です。

 お刺身も特に問題なさそうでした。日本食がワールド・ワイドになったせいかも知れませんな。ただ、お昼にイクラ丼が出たときには皆さんかなりつらそうだった、と長江拓也さん(名古屋大学准教授)があとで言っていました。そりゃそうだよな、あのネチャッとしたブチブチ感は馴れないと気味悪いかも?

 靴を脱ぐというのも日本独特の文化でしょうが、それに対しても特段の戸惑いはないようでした。スリッパのままで大広間に上がってきて、慌ててスリッパを戻しに行ったひとを一度見かけたくらいでした。日本人は履物を脱ぐことによって家の内部と外部とを明確に区別してきたのですが、江戸期以前の日本の木造家屋には基本的に壁がなかったため、内と外との境界は曖昧でした。生活が自然と一体化していたとも言えます。そこで履物を脱ぐことによって、ここから先は安全な住みかだぞと自身の脳に認識させる“儀式”だったのではないかと、わたくしは考えています。もちろん、畳や板敷きの上に直接寝るというスタイルに直接起因しているとは思いますけど,,,。

 こんな感じで純和風のスタイルにどっぷりと浸かりながら、最先端の研究を発表して議論するというちょっとアンビバレントな体験でした。この貴重なワークショップに参加させてくださった壁谷澤寿海先生にはあらためて御礼申し上げます。さらに、ニュージーランドの皆さんに昨年のお返しができたことが、迂生にとってはなにより嬉しいことでした、よかったです。

 輪王寺三仏堂の解体修理の現場見学のときに、ポスドクのリュウさんが撮ってくれた集合写真を載せておきます。リュウさんは中国の方で(漢字は分からないのですが、多分「劉」では?)、来年には中国・同済大学に行ってオークランド大学との共同実験をするということです。実験の成功と今後のご活躍をお祈りします。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:Japan-NZ workshop photos from Yiqiu Lu:people:DSC_0562.jpg
    写真 輪王寺三仏堂の解体修理の建屋内にて全員集合


不思議なメール (2017年12月1日)

 師走になりました。結構寒いですが、皆さまのところはどうでしょうか。

 さて先月、見知らぬ方から以下のようなかなり不思議なメールが届きました。具体名は伏せています。

------------- 以下、△△太郎さんからのメールの内容 -------------
初めまして、〇〇高等学校□年1組の△△太郎と申します。
12月X日に行われる修学旅行の自主研修において、班別研修があるのですが建築構造について学ぶという目的で北山先生の研究室を訪問させて頂きたく連絡しました。
人数は4人で時間は13時30分から14時30分までを希望として考えています。
-------------メール終わり -------------

 文面は丁寧な感じを装っていますが、書いてあることはかなり一方的です。というか、自分の都合のみが書かれていて、こちらに対する配慮のかけらも見えませんね。さらに言えば、こちらに何を要求しているのかも不明です。メールの終わり方も唐突に思います。そこで、高校生と思われるメールの主に以下のような返事を送りました。

------------- 以下、わたくしの返信メールの内容 -------------
 ご連絡のメールを拝見しました。
 ご依頼の件ですが、ご訪問の趣旨がよく分かりません。
 わたくしの講義をお聴きになりたいのか、大学の見学をなさりたいのか、などです。
 もし大学の講義を聴講する場合には、それなりの手続きが必要になります。
 また、大学を見学されたい場合には、オープンキャンパス等をご利用いただくことが原則になります。
 さらに言えば、この訪問が御校の公式行事であるならば、御校の校長先生等からの依頼状が必要になります。
 いずれにせよ、こちらにも都合がありますので、ご提示のピンポイントの日時では対応のしようがありません。
 申し訳ありませんが、ご希望には添えませんので、悪しからずご了承下さい。

 首都大学東京にご関心を持っていただいたことには感謝申し上げます。
 是非、8月のオープンキャンパス、あるいは11月始めの学園祭にお出で下さい。
 そちらからは遠いことは承知しておりますが、以前に○□高校の生徒さん達がオープンキャンパスに来てくれたことがあります。
 以上、お返事まで。
-------------返信メール終わり -------------

 わたくしの返信に書いてありますが、この高校の先生は自校の生徒がこのようなとんでもない要請を見ず知らずの大学教員にしていることを知っているのでしょうか。高校生ですから社会常識を知らないということも考えられますが、それに対しては高校の先生が指導すべきではないでしょうか。生徒さんが勝手にやっているのかもしれませんが、そうだとすると高校のガバナンスの問題が厳しく問われますな、やっぱり。

 ちなみに、わたくしのこのメールに対する高校生くんからの返答は「丁寧なお返事ありがとうございます。」というたったの一文でした。面識もない大学教員が上記のようにツラツラ文章を考えて送っているのに、分かったとも高校の先生と相談するとも書いてありません。バランスを著しく欠いたこのリプライに、またぞろ驚いて椅子からずり落ちたのでした。

 今どきの高校生って、かように配慮に欠けているのでしょうか。また、メールの書き方も全く知らないようです。そういう常識をしっかり教えないと、そのうち意思疎通のできない人ばっかりになってしまうという危機感を一層強くした出来事でした。


あとあじの悪さ (2017年11月30日)

 11月も晦日となりました。今日はどんよりと寒い日で、年末に向けてどっぷりと沈み込むような憂鬱な気分を味わっています。

 さて、大相撲の九州場所中に発覚した横綱・日馬富士の暴行事件ですが、結局、彼の引退という事態に発展しました。前頭・貴ノ岩に暴力を振るったのは事実らしいので、そうであれば引退もやむを得ないことと思います。なんといっても大相撲の屋台骨である横綱ですから、その品格や日常の態度は大きく問われて然るべきでしょう。そうではあるのですが、どうにも後味の悪さを感じてしまうんですよね。

 その理由を突き詰めると、日馬富士がそのような暴力に及んだ背景の不明瞭さにあるように思います。日馬富士の会見を見ていても分かりますが、彼は日本語の敬語を十分に使いこなせるくらいですから、極めて頭の良い人物でしょう。自分で積極的に勉学に励んできたとも聞いています。そのような教養人がなぜ暴力に至ったのか、伊勢ヶ浜親方ならずとも不思議に思います。お酒の席の問題ではないと日馬富士自身が言っていますし,,,。

 この事件の背後には、大相撲に関わる協会の大人たちの思惑がうごめいているような気がしてなりません。いろいろな不満や反発、あるいはボタンの掛け違いがあって、それが今回の事件を契機に一気に噴出したようにも感じられます。それが何かは部外者はあずかり知らぬ事柄でしょうし、通常は興味もありません。

 日本流の根回しや事なかれ主義がいけないと言われますが、場合によってはそれが有効に機能することもあるでしょう。それは日本人が長い間をかけて培ってきた、生きるための知恵と言っても良いと思います。もちろん暴力はいけませんし、それは否定されるべきものです。ただ、TPOをわきまえて根回しできるときにはそれを積極的に利用したら良いと迂生は考えますが、いかがでしょうか。

 横綱・日馬富士の責任の取り方としては、引退しかありませんでした。しかし、事ここに至ったからには、そのような事態を招いた原因は白日のもとに明らかにされるべきと考えます。今後、同じような事件を起こさないためにはそれが必要だからです。


ある建築家の思ひ出 (2017年11月27日)

 二年生の設計製図の担当ですが、今日の美術館の講評をもってジャスト二ヶ月間のお勤めが終わります。毎年のことですが、この二ヶ月が長〜く感じられます。でもこれまでこのページに書いてきたように、各地にある美術館の探訪は好きですから、まあいいんですけどね。

 さて、美術館の課題になると思い出す建築家がいます。その方に出会ったのはわたくしが大学生のときで、建築学科への進学を決め、駒場から本郷へと進む年の春休みのことでした。そのひとは当時五十歳くらいの気鋭の建築家で工学院大学教授だった、武藤章先生です(奇しくもA級戦犯と同姓同名)。武藤章先生はアルヴァ・アアルトの設計事務所で仕事をしたことがあるので、アアルト研究でも著作があって有名になりつつあったと記憶します。

 当時、わたくしの父は鹿児島市内で勤めており、春休みに遊びに行っていました。そこに、父と同級だった武藤章先生が仕事でお出でになり、それではということで、わたくしが運転する車で指宿[いぶすき]の海岸べりのホテル(そこが武藤先生の仕事先だったようです)まで出かけたのでした。

 そしてそのホテルのなかには、まだ開館前の岩崎美術館が建っていたのです。岩崎美術館は槇文彦先生の設計で、写真のようにRC打ち放しの正統的なモダン建築です。槇先生特有の十字形のデザインが随所に見えます(その後、本郷で学ぶようになってから、皆がそれを「槇十字」と呼んでいることを知りました)。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:岩崎美術館_槇事務所のHPよりスクリーンショット 2017-11-12 14.18.36.png
 写真 岩崎美術館 全景(槇文彦設計、槇事務所のHPより)

 で、武藤章先生のパトロンがそのホテルのオーナーだったことから、開館前でまだ美術品が収納されていない岩崎美術館を見学する機会を得たのでした。展示物が何もない無垢の美術館を見たのは、あとにも先にもこれだけです。内部の床や壁の仕上げが大理石様だったこともあり、なんだか神殿のような神々しさを憶えています。

 それにも増して脳裏に焼き付いているのは、武藤章先生がホールの片隅に両足を揃えてすっくとお立ちになり、そのギョロッとした双眸で空間の一点をじ〜っと見つめておいでになる姿でした。当時はまだ自分がどういう分野に進んで何になるのか、漠としたイメージすら抱いていませんでしたが、一流の建築家が優れた建物の内部空間を見る、その真剣な眼差しに、ふと畏怖の念を抱いた一瞬だったと思います。建築家って、こんなふうにして建物を見るのかぁっていう感じですね。

 このように貴重な経験でしたが、それは三年生前期の美術館設計の課題に活かされることはありませんでした。それが上手にできるくらいなら、今ごろ建築家になっています。迂生に建築デザインの才能がなかったということに尽きるでしょうね、やっぱり。

 さて、その武藤章先生ですが、その後ほどなく若くしてお亡くなりになりました。働き盛りでこの世を去らねばならなかったのは、さぞご無念だったことでしょう。存命であればさらに優れた建築作品を世に出せただろうにと悔やまれます。それにも増して、武藤章先生のお名前は今ではほとんど目にすることがなくなったのは残念です。木葉会名簿の昭和29年の逝去会員欄にわずかにそのお名前を見て、ときどきこの時のことを思い出しては先生を偲んでいます。


日光けっこう ニュージーランド・日本ワークショップその1(2017年11月24日)

 一週間ぶりに大学に登校すると、正門から続く銀杏並木は黄色い葉々があらかた落ちて、寂しげに佇んでいました。南大沢も寒かったんだなと思いました。

 さて、今週始めからニュージーランダーと日本とのワークショップ(WS)があって、日光に行ってきました。昨年、ニュージーランドのオークランドであったWSの第二回目です。今年はNZからオークランド大学のKen Elwood教授をはじめとする8名がやって来ました。その構成は教授3名、構造設計者1名、ポスドク3名、博士課程大学院生1名です。

 日本側のホストは東大地震研の壁谷澤寿海教授で、今回のWSの差配一切を取り仕切って下さいました。会場や宿泊施設との折衝、交通手段や昼食の手配、現場見学のセッティング等々、細々としたこと全てを決めて手配するのは大変だったと推察します。いつものことながら、本当に頭が下がります。

 このワークショップのことはそのうち書こうと思いますが、今回は久しぶりに行った日光の話題です。大昔、宇都宮大学に勤めていたときには、日光の中禅寺湖や奥日光によくドライブに行ったものです。その当時はまだ小田代が原から中禅寺湖畔のキャンプ場まで自家用車で行くことができましたが、今では自然保護のために一般車の乗り入れは禁止されています。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2017_日光:P1020470.JPG
    写真 日光・輪王寺のお庭(紅葉はあらかた終わっていた)

 しかし宇都宮大学から離れたあとは日光に行ったことはありませんでしたから、今回の日光行きは四半世紀ぶりでした。また、十一月の下旬に日光に行ったのは初めてです。この季節の日光は寒くて運が悪ければ雪が降ることは知っていましたが、今回はその通りになりました。とても寒く、かつ、道ばたなどあちこちに雪が残っていました。それを見るだけで寒々とした気分がいや増すものです。

 さて今回は、東照宮の隣りにある輪王寺・三仏堂の平成大修理を見学することができました(これも壁谷澤大先生のお陰です)。このあたりは世界文化遺産に登録されたせいか、平日の朝だと言うのに既に大勢の観光客が訪れていることには驚きましたな。観光バスが次々に入ってきます。もちろん、外国のひとも多くいました。三仏堂は写真のように鉄骨造の仮設建屋ですっぽりと覆われていて外からは見えません。でも中に入って金色の三体の大仏さまを拝し、お堂の修理の様子を見学できる通路が設けられていました。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2017_日光:P1020438.JPG

 ワークショップの一行は特別に修理している間近まで入れてもらい、そこで文化財修理の担当者(原田さん)から、縷々説明を受けました。歴史的価値のある木造建物の保存と再生のために、お堂の耐震性能を把握して必要に応じて耐震補強を施しているとのことです。木造建物の場合には虫害が主要な劣化要因らしく、虫が柱や梁の内部を喰い荒らすと最悪の場合には建物が突然崩壊しかねません。しかし文化財の場合には現在使われている部材は極力残して使ってゆくのが原則です。

 そこで、解体した部材を二つに割り裂いて、虫が喰い荒らした中心部をはつり取って再度合体させ、中心の空洞部に新しい木材を挿入して耐震補強の機能としているそうです。その状況は柱や梁の部材ごとにひとつとして同じものはなく、ひとつづつ現場合わせで修理・補強して行く訳ですから、気の遠くなるような時間が必要です。担当の原田さんのお話しでは修理期間は13年ということです、いや〜大変ですね。

 また害虫を駆除するために、すっぽりとお堂を囲んだ仮設の鉄骨建屋をチャンバーとして、その空間全体に薬剤を充満させて害虫を殺したそうです。こう書くと簡単そうですが、駆除剤は当然ながら人間にも有害です。作業するひと達の安全を確保し、周辺の自然環境を汚染しないように配慮しながらの作業ですから、並々ならぬ苦労があったとのことでした。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2017_日光:P1020454.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2017_日光:P1020468.JPG

 ところでこのような説明は全て日本語です。わたくしはその昔、建築史を勉強しようと思ったくらいですから寺社仏閣には興味があって、もう感心することしきりでした。でも、せっかくのご高説もニュージーランドの参加者には分かりません。そこで、楠 浩一さん(東大地震研准教授、左上の写真の左端)がいちいち英語に通訳してくれました。いやあ、すごいなあという賛嘆の言葉を惜しみませんね、わたくしは。木構造の専門用語の英訳など、少なくとも迂生は全く知りませんから。

 お堂をすっぽりと取り囲んでいるのを仮設の鉄骨造(右上の写真)と書きました。でも、ご覧いただくと分かるように、仮設とは思えないくらい立派な建物でして、わが大学の大型構造物実験棟よりははるかに立派な建物とお見受けいたしました。いや〜、あるところにはあるものなんですなあ(って、お金の話しで恐縮です)。

 せっかく日光まで来たので、ちょっと足を延ばして中禅寺湖の手前にある華厳の滝を見てきました。例の主瀑は滔々と流れ落ちていましたが、その脇の小流なんかはすでに凍り始めていて、一部には氷柱(つらら)となってぶら下がっていました。滝って、夏の暑い盛りに行くと涼しげで心地よいですが、冬の寒いときに見ると益々寒々としてもういいや、っていう気分になることを今回初めて知りました(あははっ)。

 観瀑台でわたくしが撮ったベスト・ショットを下に載せておきます。ハードだったワークショップが終わったせいか、皆さん本当に楽しそうに見えるので気に入っています。NZ側の参加者は全て写っていますが、どういうわけか日本側は壁谷澤父子のみです。写っていない楠さん、長江さん、悪しからず。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2017_日光:P1020491.JPG

 こんなに寒い日光なのに、修学旅行の小学生達が群れをなしていました。子ども達がNZからの参加者を見て、外人だ〜ってわけでもう大喜びです。とくにStefano(Pampanin、カンタベリー大学教授)は背がひときわ高くて目立つせいか、子ども達に取り囲まれてヒーローになってしまいました。それを見た我々一同大笑い、ということで、おしまい!


泥の舟 (2017年11月15日)

 きのう、K池都知事がK望の党の代表を辞任するというニュースが流れました。多分そんなことになろうかとは思っていましたが、予想より早かったな。まあ、横綱日馬富士の暴行事件のお陰でそれほどの扱いを受けずに済んだのは、K池さんにとってはラッキーだったのかも。

 でも、K池さんって本当に頭の良いひとだと思いますね(真意は忖度して下さい、あははっ)。都民なんとかの会の勢いも完全に消失して、彼女の立ち上げた政党に対する情勢は非常に厳しくなっています。それは、先行き真っ暗で将来に対する希望の灯りが全く見えない、いわば暗夜の泥舟です。その泥舟から先陣を切って脱出したのですから、機を見るに敏というか、節操がないというか、とにかくなり振り構わない感が充満していますよね。ことここに至って、都知事なんだから都政に専念します、っていう大義名分を掲げているところも小面憎いですな。そのことに対しては異論があろうはずはありませんから、我が身を守るには十分な“理論武装”でしょう、てね。

 さてこれで、K望の党の空中分解が加速するのではないかと想像します。もともと、あの人たちには任せられないから自分でリセットします、って言ってK池さんが作ったいわば私党です。その私党から頭株がいなくなっちゃったら、シャレにもならないしゃれこうべ、とはこのことか。

 しかしこの一連の茶番劇で一番悲哀を味わっているのは、元民進党代表のM原さんなのではないでしょうか。見事にハシゴをはずされた訳ですから、抜け殻のK望の党に加入してどうするって言うのでしょうか。こんな感じで、しばらくは野党のゴタゴタは続きそうです。でも、全く非生産的なそれは見ていて面白くも楽しくもありませんね〜。

追伸; 横綱日馬富士の暴行事件ですが、事件自体は10月末にあったらしいのに、それがなぜ九州場所の最中に暴露されたのか、不思議でなりません。ドロドロとした何らかの意思を感じずにはいられません。毎度のことですが、真実は闇の中にあって決して明らかにはならないと思いますけど。


耳ネタ 2017 November (2017年11月13日)

 久しぶりの耳ネタです。崎谷健次郎(さきや・けんじろう)の新アルバム『SIGNS』が出たのでゲットしました。前作『五線譜のメッセージ』から四年振りとなるので期待していました。でもサウンドとしては電子音がかなり全面に出た作りとなっていて、わたくしの耳にはあまり心地よくは感じられないのが残念です。今作もセルフ・カヴァーが一曲あって、それは「もう一度夜を止めて」(例えばこちら)という曲ですが、これはなかなか良かったです。曲自体がよいということでしょうね、きっと。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:z102a.jpg

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:スクリーンショット 2017-11-11 17.54.17.png

 いつも書いていますが便利な世の中になって、ネット上には素晴らしい音源が散らばっています。そういう素敵な曲たちに偶然出会うっていうのも楽しみです。先日、酒飲みのひとのページを見ていて、高野寛の「夢の中で会えるでしょう」という曲に行き当たりました(こちらです)。もう二十年近く前にNHKで放映されたもののようですが、ゲストの坂本龍一がピアノを弾いています。

 わたくしは特に坂本龍一のファンでもなんでもありません。でも、このビデオで彼の弾くピアノは高野寛のギターとよくマッチしていて、両者が混ざり合ってGood Vibration を産み出します。音質が悪いのが難ですが、それでもこの二人の才能は伝わって来ますな。高野寛のヴォーカルもなかなかよいです。彼の唄はオリジナル・ラブの田島貴男とデュエットした「Winter’s Tale」しか手元になかったのですが、高音が伸びやかで艶があって、その新たな発見に得した気分に浸りつつ、この「夢の中で会えるでしょう」を聴いています。

 もうひとつはホール&オーツ(Daryl Hall & John Oates)です。男性のデュオで二人とも歌は上手ですが、多くのヒット曲はDaryl Hallが主ボーカルを取っているように思います(理由は知りません)。わたくしが大学生だった頃の1980年代に流行りましたので、お若い諸氏には馴染みがないかも知れません。当時は貸しレコード屋からアルバムを借り、カセット・テープに録音して聴いていました。でもテープ類は全て廃棄したので、今は手元に音源はありません。

 ホール&オーツは大ヒットが多いので代表曲は何って聞かれても困りますが、「Kiss on my list」、「Wait for me」、「She’s gone」などでしょうか。わたくしが最近聴いているのは「Say it isn’t so」(例えばこちら)です。今聴いてもカッコよいサウンドだと思いますが、いかがでしょうか。

 Daryl Hallは自分の家にスタジオがあるらしくて、そこで繰り広げられる楽しげなセッションがYou Tube にしこたま公開されています。Daryl’s House で検索して下さい。いろいろなゲストを呼んでいますが、お年を召したニック・ロウ(Nick Lowe)と往年の名曲「Cruel to be kind」を歌っているのを載せておきます(ここです)。クルートゥビカン!って一緒に歌いましょう。


研究のよろこび (2017年11月9日)

 大学本部で全学の委員会があって出席しました。本部棟は正門の正面にありますので、自身の研究室からはテクテクと歩いて7、8分は掛かります。わたくしは都市環境学部の代表として出ています。でも、委員長は同じ学科の吉川徹副学長(都市計画学者)なので、本当のことを言えば迂生が出張らなくても何ら差し支えありません。まあ、宇治学部長への報告文書を作成するだけのお役目、というところかな,,,。ホント、何やってるんだろうなあとボヤきたくもなります。

 さてその委員会で、大学内に設置する研究センターについての審議がありました。大規模な研究やプロジェクトを遂行するために、複数研究者による研究センターを設置するためのルールを改変しようということでした。その内容を聞いていて、う〜ん、こんなにいろいろと大変なハードルをクリアした末にやっと研究できるようになっても、研究していて楽しいのだろうか、というふうな(余計なお世話でしょうけど)疑念が沸々と湧き上がって参りました。

 大勢で、時には異分野の方々とも協働しながら、共同研究に取り組むのも確かに有益で成果が上がることもあります。でも、(いつも書いていますが)最先端をゆく研究の本質は個人が発想して、個人で実行することです。つまりそこでは、個人としての興味や探究心にかなったもののみが研究テーマとして浮上するのです。自分がやりたいこと、やっていて楽しいものを研究するわけです。そういう至福のときを過ごすとき、その成果が社会にどのように還元されるかなんてことは研究者(少なくともわたくし)は考えないものです。

 それなのに、上記の研究センターを作るためには、ものすごい高額な外部研究費の獲得を課されたり、べらぼうな業績を要求されたりすることに決しました。でも、それじゃあ、なんのために研究するのか分からなくなりますよ。書類作りから始まって、必要な業績を揃えるために汲々として、その結果としてやっと自分のやりたいことができる、でもそのときには個人の使えるエネルギーの大方を使い果たしている、などということにならなければ良いのですが,,,。

 あるいは研究分野によってはわたくしのように考える研究者は少数派で、高額の研究費と多数の研究者とを擁して大々的にプロジェクトを遂行することに研究の醍醐味を感じる、という研究者もいるのかも知れません。実際、ノーベル物理学賞につながった宇宙からの重力波の検出などは数千億円規模の一大プロジェクトですからね。もちろん、ものすごく精力的で、プロジェクトに関連する細々とした事柄を差配しながらガンガン研究することになんのストレスも抱かないスーパーな研究者だっているのでしょう。

 でも、少なくともわたくしはそんなことをしたいとは思いませんし、その能力もありません。自身の目が行き届き、自分の手が及ぶ範囲でチマチマと自身の興味に従って研究してゆくこと、これがわたくしのやり方で今後もそうしてゆくことでしょう。


資生堂アートハウスにて 〜静岡理工科大学へ行く3〜(2017年11月8日)

 静岡理工科大学の訪問記のさらに続きです。静岡県・掛川に行くのは浜岡原発を訪ねて以来です。東海道新幹線が通っているのはありがたいのですが、掛川駅には「こだま」しか止まりません。すなわち新幹線の各駅停車に乗らないといけません。そこで今回は小田急線で小田原まで行って、そこから乗ることにしてみました。ちなみに小田原駅で下車するのは初めてです。

 そこで朝早く、新宿方向とは逆の下り電車に乗ったのですが、小田原行きの急行はものすごい混雑でして、特に相模大野までは新宿行きの京王線と変わらないくらいで、もうビックリです。やっぱりおとなしくロマンスカーで小田原まで行きゃよかったと思っても、もうあとの祭りです。結局、東海大学前(以前に建築学会大会をやったところ)を過ぎたあたりでやっと車内が空いてきました。

 さて小田原駅に着いたら、折り悪しく名古屋行きのこだまは出て行ったばかりで、次の新幹線まで三十分待つことになりました。仕方ないので小田原駅から出てみると、目の前に北条早雲の銅像が立っていました。でも、その周りにはバスやタクシー等の車がひしめき合っていて、歩いている人が自由にそばに行けるような代物ではありません。そんなところにぽつねんと立たされている北条早雲が、なんだか哀れで可哀想な気がしました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:掛川城_静岡理工科大学_資生堂アートハウス2017:DSC01883.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:掛川城_静岡理工科大学_資生堂アートハウス2017:DSC01882.JPG
   写真 小田急の小田原駅改札口         小田原駅前の北条早雲像

 新幹線のこだまに乗ると、(これは以前も書きましたが)各駅で五分くらい停車してはのぞみの通過待ちをします。ですから、小田原から掛川までの約一時間のうち電車が走っているのは四十分程度ということになります。のぞみが通過する度にドンという衝撃音とともにこだまの車体がフワッと傾くので(風圧のせいでしょうか)、あまり気分のよいものではありません。

 掛川駅で新幹線を降りると、改札を出たところにスマホの充電コーナーがありました。へえ、便利なものがあるな、と思ってよく見ると、それは中部電力が提供する「浜岡原発は今」というPRコーナーでした。そのなかの画面では、落語の噺家さんみたいなひとが防潮堤の高さは22メートルで…とか言っています。浜岡原発を再稼働するには地元の皆さんの理解が欠かせませんから、そのために日々努力している、ということでしょうね。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:掛川城_静岡理工科大学_資生堂アートハウス2017:DSC01926.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:掛川城_静岡理工科大学_資生堂アートハウス2017:DSC01896.JPG
   写真 浜岡原発のPRコーナー        掛川城本丸と天守閣(復元)

 この日はちょっと早く着いたので、せっかくですから掛川駅から歩いて十分くらいのところにある掛川城に行きました。駅から真っすぐに伸びる道路はゆるやかに登っていて、お城の縄張りは小高い丘のうえにされていました。天守閣は復元されたものですが、木造で作られた本格派だそうです(わたくしは天守には登りませんでした)。

 この掛川城ですが、戦国時代末期の山内一豊が関ヶ原の役のときに徳川家康へのおべっかのためにこの城を差し出した、ということで有名です。関ヶ原で東軍が大勝したあと、この功を嘉賞された山内一豊は土佐一国の国守となった訳ですから、頭の良いひとだったのでしょうね。

 でも本当のことを言うと、掛川城よりは高天神(たかてんじん)城のほうをずっと見たいと思っていました。戦国史上、武田方と徳川方の激戦が繰り広げられたのが高天神城です。ただ、掛川駅からはかなり遠く、実質的には車がないと不便で時間もかかりますので、今回は諦めました。これは今後の課題(?)としておきましょう。

 さて、静岡理工科大学での見学を終えたあと、丸田誠さんに資生堂アートハウスに連れて行っていただきました。実験でお忙しいなか、どうもありがとうございます。今回の掛川行きでは、長年の宿願だった資生堂アートハウス訪問をぜひとも実現したいと思っていましたので、丸田さんには我がままを言ってご迷惑をおかけしました。車で送っていただきとても助かりました。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:掛川城_静岡理工科大学_資生堂アートハウス2017:DSC01986.JPG
 写真 資生堂アートハウス北面(1978年竣工、谷口吉生・高宮真介 設計)

 
図面 一階平面図(資生堂アートハウスからいただいたもの/着彩は北山による 緑色はグラウンド・レベル、うす茶色は1階レベルで緑色より+1000mmほど上がる)

 資生堂アートハウスは谷口吉生さんと高宮真介さんが設計した、小規模ながら瀟洒な美術館です。新幹線の線路沿いに建っていますので、車窓から眺めたことのある方も多いと思います。その平面は円と正方形とをS字状のカーブでつないだ形をしていて、単純ながらさすがに秀逸なデザインになっています。基本構造は鉄骨造ですが、一部に鉄筋コンクリート造の壁が使われているみたいです。

 展示の順路は美術館の常道とおりに一筆書きになっていますが、スロープや階段による高低差を使うことで狭い面積を巧みに演出しています。上がったり下がったりを繰り返すと疲れるし、飽きが来るものですが(美術館のエスキスの際にも、あまりにも人間を引き回すプランは良くないよと学生達には言っています)、ここでは1メートル程度のレベル差なので気になりません。

 敷地は広大ですから、展示スペースを冗長につなげることだって出来たはずです。しかし資生堂アートハウスは極限まで空間をそぎ落としてボリュームを引き締め、無駄を排除したように感じます。そこに建築家のストイックな姿勢を見て取ることもできるでしょう。

 円形の部分はガラス面の展示室になっていますので日光が結構眩しいですが、この日は彫刻が並べられていて、鑑賞するのに特に問題はないと思いました。何よりガラス窓からは青々とした芝生を眺めることができて、目を休めるにはもってこいです。図面を見ると単純なプランなのですが、実際にその空間を体験するととてもよく設計されていることが分かりました。やっぱり一流の建築家はすごいと思いますね。

 予想したとおりに素晴らしい美術館でした。訪問することができてよかったです。ちなみに資生堂アートハウスの入館は無料です。館内の写真撮影は禁止でした(まあ、多くの美術館ではそうですね)。なお、その延べ床面積は1417平米ですので、今、二年生の設計の授業で課している美術館(要求面積は2000平米程度)よりはちょっと小さいことになります。とはいえ、美術館としての設計には参考となるところが非常に多いので、これからエスキスのときに資生堂アートハウスでの体験を学生諸君に伝えようと思っています。


誕生!建築学科 〜静岡理工科大学へ行く2〜(2017年11月7日)

 静岡理工科大学の訪問記の続きです。そもそも野口博先生が(それまで無縁と思われる)この大学の学長に乞われたのも、多分、建築学科を新設することが想定されていたためと思います。学科を新設するには文科省の大学設置審議会で審査の末に了承される必要がありますので、想像するだに大変な作業だったこととお察しいたします。

 その苦労の介あって、今年の四月に無事、第一期の建築学科学生(定員は50名)を迎えることができて、野口学長も丸田教授もとりあえずホッとしたことでしょう。聞くと静岡県には建築学科や土木工学科のある大学はそれまでなかったということで、地元のニーズは結構あるということでした。実際、一期生の大部分は静岡県出身だそうで、いまは地元密着型の学科であることが分かります。

 建築学科の新設にあたって、学生や教員を収容するための建物を新築しました。鉄骨造4階建てで、建築家の古谷誠章さん(早稲田大学教授/現在は日本建築学会の会長)の設計です。さすが著名な建築家の作品だけあって、学内の(言っちゃ悪いですが、面白みのない)鉄筋コンクリート校舎群とは一見して異なり、それだけ異彩を放っています。違い過ぎてあまりにもバランスが悪いのではなかろうかと心配になるくらいです。学内の教員間における不公平感みたいなものが噴出しないかも(ひと事ながら)心配ですね。

 ご覧のように樹木のような白い鉄骨が大屋根を支えています。この建物のいわばシンボル・ツリーですが、エントランスの吹き抜けにも一回り小さくした“鉄骨の木”がはえています。そのエントランス・ホールには一年生が描いたサボワ邸の着彩パースが展示されていました。白い鉄骨の木の脇にはキャンチレバーのテラスが張り出していて、天気の良い日にはそこがなかなか気持ちよいスペースになっています。野口学長はここでビア・パーティをしたいと仰っていました。野口先生のビール好きは相変わらずだなあ〜。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:掛川城_静岡理工科大学_資生堂アートハウス2017:DSC01956.JPG

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:掛川城_静岡理工科大学_資生堂アートハウス2017:DSC01933imp.JPG

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:掛川城_静岡理工科大学_資生堂アートハウス2017:DSC01944.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:掛川城_静岡理工科大学_資生堂アートハウス2017:DSC01951.JPG
説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:掛川城_静岡理工科大学_資生堂アートハウス2017:DSC01940.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:掛川城_静岡理工科大学_資生堂アートハウス2017:DSC01934.JPG

 図1 静岡理工科大学 建築学科棟 1階平面図(野口学長からいただいた、楽しいパンフレット/各階の平面図を切り離して立体モデルを組み立てられるクラフトになっている)

 
       図2 静岡理工科大学 建築学科棟 断面図

 この建物の基本コンセプトとして、校舎の建物自体が建築学の生きた教材、というのがあるそうです。製図室には寸法感覚を磨くために、柱面などに寸法表示がされています。また建物内では階段の手摺りに厚さ16mmの黒皮仕上げ鉄板を使ったり、鉄骨のブレースがむき出しになっていたりしました。丸田さん曰く、このブレースを見ればL型アングル二丁合わせとかガセット・プレートとかボルトなどが一目瞭然に分かるでしょ、ということで、確かにその通りですね。

 また、校舎の至るところに名建築家(コルビュジエ、ウッツォン、吉田鉄郎等)の至言が書き込まれていて、例えばアルヴァ・アアルトの「建築家の仕事はわれわれの生活パターンを優しいものにすることだ。」という言葉が、階段室の壁に刷り込まれていました。学生達にとっては随所に建築的な仕掛けが施され、知らないうちに知識を修得できる、楽しい“教材”になることだろうと思います。

 さて一年生の課題ですが名建築のコピーをやっているらしく、これ自体はどこの大学でも同じですね。学生が作った骨組模型を見たら、木造大屋根の前川國男邸でした。これは本学でも学生諸君に作らせています。図面のコピーのほうは、ご当地らしく資生堂アートハウスの図面が貼り出されていました。

 丸田さんの教授室にもお邪魔しました(ひと様の部屋ですので写真は控えます)。広さはわたくしの研究室の1.5倍くらいありそうな立派なお部屋で、居心地がよさそうでした。ただ丸田さんのお話しでは、居室内に水栓がないのは不便で使いにくい、ということでした。建築家は不要と判断したのでしょうが、そのあたりがデザイン重視の建築家と一般ユーザとの視点の違いでしょうかね、知りませんけど,,,。

 こんな感じで新築なった建築学科棟ですが、今は広々とがらんとしていますが、フル学年が揃った暁には250名程度の学生・教員がここに集まることになります。そうなるとちょっと手狭ではないか、あるいはエレベータが一基しかないのも不便ではないか、などと老婆心ながら感じましたね。

----------------・----------------・----------------・----------------・----------------・----------------

 大学の建物は小高い山の比較的緩やかな斜面に沿って配置されており、野口学長のお話しでは正門のようなものは特にない、ということでした。大学の南側には緑豊かな丘陵が広がり、その先は平坦なまま遠州灘へと続いているそうです。昔から遠江(とうとうみ)は温暖で物なり豊かな土地として知られていましたが、現在でもそれは変わっていないようで、住み易そうなよいところでした。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:掛川城_静岡理工科大学_資生堂アートハウス2017:DSC01968.JPG
写真 キャンパス中央のメイン・ストリートにて(野口学長、長沼さん、丸田さん) 左奥に新築された建築学科棟が見える

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:掛川城_静岡理工科大学_資生堂アートハウス2017:DSC01967.JPG
  写真 キャンパス南端から南側を望む 確かに正門はない

 そうでした、本来の目的である実験見学のことを忘れていました。ただ、実験自体は最新かつ未発表のご研究ですから、写真や内容の紹介は控えます。構造物実験棟も新築されましたが、外装はガルバリウム鋼板(注)のフツーの建物です(左下写真の中央の建物)。さすがに新築ですから、先日の台風二連発でも雨漏りすることはなかったそうで、羨ましいなあと思った次第です。って、雨漏りしないのがフツーですけどね、あははっ。

 実験棟の内部には、構造実験に習熟された丸田誠さんのこだわりと工夫とが詰まっていて、実験研究者であるわたくしには非常に参考になりました。実験自体じゃなくてそういった細々としたディテールばかりを質問する迂生に対して、やっぱりそういうところに目が行くんだね、と丸田さんに言われたくらいです。右下の写真は、加力を制御する永井覚さんの脇に野口学長と丸田教授とが坐って見ているシーンです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:掛川城_静岡理工科大学_資生堂アートハウス2017:DSC01947.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:掛川城_静岡理工科大学_資生堂アートハウス2017:DSC01961.JPG

 丸田さんの建築学科の教員は今のところ四名が着任しているだけで(フル・スタッフは九名の予定)、当たり前ですが実験を手伝ってくれる教職員はいません。建築学科長も務める丸田さんが多忙であるのは当然で、実験棟に入り浸りになって実験できるはずもありません。その点で、旧知で勝手知ったる間柄の永井覚さんに実験を差配してもらえるのは、心強いことだろうと拝察いたいます。いつも書いていますが、大型の実験をするのはホント大変ですから。これを好機として、丸田さんにも是非ともガンガン実験して欲しいと思います。また一緒に研究できると嬉しいですね。

注:ガルバリウム鋼板とは端的に言えばトタン板のことです。でも建築家って、絶対にトタンとは言いませんよ。以前に我が家の改修の件でリファイニング建築家の青木茂先生がお出でになったとき、ここはガルバリウム鋼板にしましょう、と仰いました。それに対してうちの女房がそれって何ですか、と無邪気に聞きました。そこで迂生がトタンのことだよというと、青木先生曰く「まあ、そうとも呼びますな、がははっ。」以上、ガルバリウム小話でした。


ある先輩がたとの邂逅 〜静岡理工科大学へ行く1〜(2017年11月6日)

 秋晴れとなった十一月初め、静岡理工科大学へ出かけました。今年四月に新しく建築学科が開設されました。そこの丸田誠教授が実施する実験のお披露目と、遅ればせながら野口博学長への表敬訪問のためです。この日は、日本大学建築学科(駿河台)の長沼一洋教授とご一緒しました。

 ということで相当久しぶりに野口博先生に連なる面々が揃いました。お忙しい皆さんですから、これはかなりレアなケースでしょうな。長沼さんおよび丸田さんは千葉大学・野口研究室のご出身(すなわち野口先生のお弟子)です。迂生は千葉大学・野口研究室の助手を(短いあいだですが)務めました。わたくしも大学院生当時は野口先生からFEM解析の初歩について手ほどきいただきましたから、まあ弟子のようなものです。

    説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:掛川城_静岡理工科大学_資生堂アートハウス2017:DSC01974.JPG
  写真1 静岡理工科大学・学長室にて(左から野口先生、北山、丸田先生、長沼先生)

 以前に書きましたが、千葉大学で助手をしているときに鹿島建設技術研究所との共同研究があって(もちろん野口先生の主導です)、そのときに丸田誠さんと知り合いました。その後、わたくしが東京都立大学に移ってからは、プレストレスト・コンクリート(PC)構造を対象とした共同研究に誘ってくださったのも丸田さんでした。これを契機として我が社でPC構造を本格的に実験研究するようになり、今では主要な研究課題に育ちました。そうそう、長寿命建築プロジェクトでアンボンドPCaPCの研究に誘って下さったのも丸田さんでした。

 いっぽう、長沼一洋さんに直接お会いしたのはいつだったか、定かではありません。でも、大学院生の頃に長沼さん執筆の修士論文(およびその付録)を拝読して具体のFEM解析の手法について勉強しましたので、昔からよく知っ(た気がし)ていました。長沼さんは大林組技術研究所在職中にFEM解析ソフトウエア「FINAL」を開発しており、FEM解析の第一人者として著名です。我が社でもそのソフトをレンタルして解析研究を行っており、折に触れて長沼さんに質問しては有益な助言を頂いて来ました。

 すなわち長沼・丸田の両教授はわたくしにとっては研究上の恩人に当たります。そしてそのコアには常に野口博先生がおいでになりました。このようにお三方には三十年以上に渡って親しくお付き合いいただいております。ひととの出会いは偶然の積み重ねの末に為されます。もし神がいるのであれば、その匙加減ひとつでどうなったか分からないでしょう。例えば、わたくしが大学院生当時、もしもFEM解析をやる気にならなければ、長沼さんと知り合うことはなかったでしょう。

 そういったことをひとつひとつ思うとき、これらはものすごい幸運だったと思うのですが、今となってはそれは必然だったとも感じるのです(ちょっと傲慢ですが,,,)。そんなわけで(直接口に出すことはありませんが)、先輩がたにはとても感謝しております。

 さて、野口博学長とお話ししていると昔と全くお変わりがなく、そのことがとても嬉しかったですね。野口先生のカラオケ好き、お酒好き、そして新し物好きは相変わらずご健在でして、それらにはさらに磨きさえかかっているようで辟易としたくらいです(って、野口先生ご免なさい、あははっ)。車のブランドに対する思い入れも深く、その昔、ケンとメリーの何とかといって一世を風靡した車を、代々乗り継いでおいでです。

 野口先生の新しいパソコンに対するご興味は千葉大学当時も並々ならぬものがありました。で、今回、学長室に伺ってみると五台のモニターが執務机をぐるっと取り囲んでいて、おまけにキーボートもそれぞれに繋がっていて仰天しました。なんじゃこりゃあ、何かのコンソール卓みたいじゃないですか。

 さらに丸田さんが「野口先生の両腕を見て下さい」と言うので、野口先生に見せていただきました。それが下の写真です。なんだか知りませんが、デジタルの腕時計みたいなモノが合計三つも括り付けられていますね〜。もう、あんまり驚いたので、それ何に使うんですか、とか伺う気が失せちゃいました、がははっ。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:掛川城_静岡理工科大学_資生堂アートハウス2017:DSC01970.JPG
   写真2 野口博先生ご近影(両腕に注目!)

 こんな感じで時間はあっという間に過ぎてゆきました。学長職はもともと多忙で分刻みのスケジュールです。そんななか、教え子や後輩と会う時間をセットしてくださった野口先生に改めて御礼申し上げます。この後、打ち合わせに他出して、そのあと懇親会があるとか仰っていました。御自ら車を運転して出かけるそうですが、スピードの出し過ぎには注意して下さいね。

 なお、静岡理工科大学へ行くには、JR愛野駅から無料のスクール・バスに乗るのが普通らしいですが、この日は丸田さんと実験指導者の永井覚さんとが車でJR掛川駅まで迎えに来て下さいました。また、実験見学のあと、丸田さんに資生堂アートハウスまで車で送っていただきました。こちらもお忙しいなかご配慮をいただき、ありがとうございます。

 だいぶ長くなりました。この日の静岡理工科大学見学の様子などは、稿を改めて書こうと思います。特に新設・建築学科のために新築された校舎棟は一見の価値があることが分かりました。ってことで、次をお待ち下さい(誰も見ないかな)。


グローバルとローカルのはざまで (2017年11月1日)

 スペイン・カタルーニャ州の分離独立が話題にのぼっています。カタルーニャ地方の民族的な問題、およびその地域が産み出す富のスペイン内部での再配分に対する不公平感が独立志向の背景にあると言われます。実際、カタルーニャ州には大都市・バルセロナがあって栄えており、その富が国家中央に不当に吸い上げられているという不満があるようです。

 現代はグローバルな時代と言われます。しかしよく考えれば分かるように、その恩恵を直接的に受けられるのは、富裕層と言われるひと達や一部の経済エリートだけに限定されます。世界を股にかけて飛び回ることができるのは、懐と心とに余裕のあるお金持ちだけです。裕福といわれる日本人だって、海外に出かけるのはそんなに多くないと思いますよ。

 地球上を見れば、それぞれの生まれた土地で懸命に生き、ひっそりと暮らす大多数の人びとにとっては世界情勢などはるか遠い異郷の出来事であって、なんの腹の足しにもなりません。そういう人びとにとっては自分の身の回りが世界の全てでしょう。まさに、起きて半畳、寝て一畳という世界観です。

 そのような状況のなかで、一部の恵まれたひと達が主導するグローバル社会という虚構に対する、市井の人々による異議申し立てが顕在化しつつあります。それがアメリカ・ファーストや中国一強主義のように自分たちさえよければそれでいい、という主張になったり、あるいは世界各地で起こっている独立騒動に結びついているのではないでしょうか。

 結局、行き過ぎたグローバリズムからヴァナキュラーなローカル主義へと激しく揺れ、しかしそれも極端だと気がつけばまた揺り戻されることになります。こういう振動を繰り返しながら、世界はいったいどこに向かおうとしているのか、誰も知らないのでしょうね、やっぱり。


十月末に思う (2017年10月30日)

 二週連続で台風が通り過ぎた週末となりました。早いもので十月も末です。大学正門から続くイチョウの木々は銀杏が落ち、少しずつ黄色く色づき始めました。正門の両脇の門柱には大学祭実行委員の皆さんが、学園祭のための飾り付けをしています。台風一過で清々しい朝となりましたがまだ風が強く、色づいた葉たちがかろやかに舞っています。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU台風一過_秋のキャンパス20171030:P1020341.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU台風一過_秋のキャンパス20171030:P1020346.JPG

 さてこのあいだ、JSPS科研費の申請書類を提出いたしました。ことしから申請書類の内容が大幅に変更されたので、それに戸惑い、慣れるのにしばらくかかりました。ちょっとした変更でも、それまで慣れ親しんだ思考回路から逸脱するので、相当なストレスを受けました。堅くなりつつある脳髄に新たな思考回路を構築するのが億劫だった、というのもありますね。

 でもやり始めてみると、新しい研究についてあれこれ考えるのはわたくしの性にあっているというか、やっぱり研究者としての血が騒ぐというか、とにかく楽しい作業でした。学内で開かれた科研費申請講習会もとても役立ちました。先達の先生方からノウハウを伺うと、なるほどそうか!という新たな発見が必ずあります。

 また、申請書が一応完成したら、同僚の角田誠教授に見てもらい、その後にまた推敲を重ねました。彼は建築構造学の専門家ではありませんが、申請書の内容は専門からちょっとはずれた方が見ても分かるようなものであるべきなので、彼からいただいた指摘はとても有益でした。もちろんそのお返しに、角田さんの申請書類にも赤字を入れてお返ししました(少しはお役に立ったかと思います)。

 先ほど科研費の申請書作りが楽しかったと書きました。でも、それは結果論でありまして、実際に書類を作っているときには、ウンウンと呻吟しながら書いた文章をいじくり回し、書いては消してを繰り返す、つらい作業でした。藤沢周平じゃないですが、いかに簡潔かつ明瞭に書くかということに腐心しました。

 申請書類を書いていると、ときどきふら〜っと角田さんがやって来ました、どう、進んでる?って。進捗状況を言い合ったり、ちょっとした工夫やら愚痴やらを披露し合ったりして、お互いに励まし合いながら進められたのもよかったです。本質的にはひとりでやる孤独な作業ですが、同じように苦しんでいる同志がいる、というだけで、心強く感じるものなんですね〜。そう言う意味で、角田誠教授にはとても感謝しております、はい。

----------------------・----------------------・----------------------・----------------------

 さて、来年度の卒論生を決めるための研究室ショッピングが進んでいます。我が社には今までに六名の三年生がやって来ました。昨年度に較べると半減ですが、ショッピングに来た人数は研究室志望者数とは無関係ということが今までの経験から分かっていますので、まあいいかっていう気分ですね。

 我が社の紹介の文書では「協調できないひと、議論できないひと、約束を守れないひとは受け入れません。」という一文を今年初めて記載しました。こんな小姑みたいなことを言うと学生諸君に嫌われると思ってこれまでは書きませんでした。でも、あまりにも自分勝手な学生さんの面倒を見ることがどうにも億劫になったというのが正直なところで、そのことを彼らにも伝えることにしたわけです。これが吉と出るか凶と出るか、もうすぐ分かります。

 いっときは物分かりのよい大人の振りをしようとしました(Pretender、です)。でも、それはやっぱり俺らの性分じゃないやっていう、わたくし自身の本質にたち戻っただけ、ということもできます。教師と学生という立場は立場として、人としてお互いに信頼し合い、気持ちよく付き合えるひと。そういう学生さんに来て欲しいと切に願っております。

 ここのところ建設業は羽振りがよいせいか、学部卒業とともに就職する学生諸君が増えているようです。今のところは稀に見る売り手市場なので、それも結構なことだと思います。でも、そうすると大学院進学者が減って、先端研究の担い手がいなくなって困ります。その分を学外からの大学院進学者に補ってもらっている、というのが我が社の現状ですね。

 幸いなことに最近は、国内の他学および中国からの学生さんが我が社を志望して来てくれます。他学から来るひとは、将来の就職を見越したキャリア・アップという側面もあるのでしょうが、だいたい優秀な方が多いように感じます。

 隣国である中国とは仲良くすべきである、というのがわたくしの基本方針です。いつも書いていますが、我々の父祖が戦争中にかの地で何をやったか、ということを思い出すと胸が痛みます。ですから、本気で研究がしたいと思っていて、なおかつその能力がある優秀なひとであれば、喜んで迎え入れて一緒に研究したいと考えています。

 ただ難点を言うと、中国の土木(建築)系大学では卒業論文を書きませんので、中国からの留学生は総じて論文をまとめるという作業に習熟していないように見受けます。二年のあいだに論文執筆を、それも慣れない外国語(日本語)ですることは、やっぱり大変なことと思います。

 そういう彼/彼女らに論文の書き方を一から教えるのがわたくしの務めなのでしょうが、そのための時間は現実にはなかなかとれません。12月に次年度の卒論生が決まりますので、その後に開く「特別研究ゼミナール」に留学生にも参加してもらうのがいいかも知れません。今後、考えてみることにいたしましょう。

----------------------・----------------------・----------------------・----------------------

 二年生の設計製図の課題ですが、きょうから美術館になりました。美術館は機能が明快で、初学者でも比較的取り組み易かろうということでしょう。わたくしが学生のときも、最初の課題が「三四郎池の畔に建つ美術館」でしたから。いつも書きますが、建築は経験が重要です。わたくしも齢を重ね、幾多の美術館を訪ねてきました。それが学生諸君のエスキスのときにものを言うのだと思います。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:北山家の写真:北山家旅行・戸倉上山田温泉2016:DSC_0065.JPG
   写真 東山魁夷館(谷口吉生設計) 2016年春撮影

 上の写真は谷口吉生さん設計の東山魁夷館です。長野・善光寺のすぐそばに建っています。旅行のついでにたまたま立ち寄っただけでしたが、中に入って絵画をひと通り鑑賞したあと、なかなかに上品でよくできた美術館だなと思いました。帰ってから、これが谷口吉生さんの設計であることを知り、さもありなんと感慨を新たにしたものです。学生諸君には素晴らしい美術館をたくさん見て、体験して欲しいと思います。


きょうは何の日? (2017年10月26日)

 仕事に疲れてふっとカレンダーを見ました。卓上に置いてある、三菱重工がくれたカレンダーです。すると今日のところに小さな字で「原子力の日」と書いてありました。皆さん、ご存知でしたか。って、わたくしさえ知らないのですから、知るわけないか。

 そこで文明の利器を使って(電脳空間を逍遥して)調べると、1956年のこの日に日本が国際原子力機関(IAEA)に加盟し、1963年のこの日には茨城県東海村の日本原子力研究所で日本最初の原子力発電が行われた、とありました。なるほど、日本の原子力発電事業はことしで54年め、ということですな。

 科学技術の進歩・革新によって自然利用発電(太陽光、風、地熱など)が安価かつ安定して供給できるようになれば、原子力発電はやがては消えてゆく運命だと思います。でも、それはまだしばらく先でしょう。それまでは、現在ある原子力発電所を活用するのが(もちろん十分な安全性を確保した上で)妥当であると思量します。

 また、稼働していないとはいえ原子力発電所は厳然として存在しますから、必要な耐震性能を保持することは重要な責務です。合わせて既存原発のありのままの耐震性能を精度よく評価することも重要です。そのような課題に取り組むことが、われわれ国民の健康と幸福とを維持するのに大いに役立つと自負しています。ただ、新規に原発を建設することはかなり困難だろうな、とは思いますね、やっぱり。

追伸; 2012年のメモランダムに同じ話題を書いてました。全然おぼえていませんでした。いやあ、かなり耄碌したのかなあ…‥。


ついに終わる (2017年10月25日)

 果てしがないと思えるようなものでも、いつかは終わるものです。わが社にとっては今年唯一の実験である、ネツレン・岸田研究室共同研究が昨日ついに終わりました。七月末から本学・大型構造物実験棟で作業が始まってから、ほぼ三ヶ月です。当初は猛烈な暑さでしたが、最後には足元が冷え冷えとして凍えるような寒さも味わいました。途中からは雨漏りも激しくなって、人間だけでなく電子機器にとっても過酷な環境だったようです。実際、大切なパソコンの一台はお釈迦になりました(岸田研の榎本くんがどうしよう、って怯えてました)。

 最終日となった昨日は、助っ人がひとりもいない寂しい加力となりました。まあ、授業がありますし、皆さん忙しいから仕方ないでしょうけど,,,。でも、わたくしはプロジェクト研究室のゼミをサボって、実験のほうに参加したのですよ(山田先生、角田先生、M2の皆さん、ごめんなさい)。最終的な破壊形態を自分の目で見ることは、それだけ重要なことだと考えているからです。他人さまの実験の見学に行くくらいなら、まず自分のところの実験を丁寧に見るべきでしょうね。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC柱梁部分架構実験_岸田研_ネツレン_三井住友建設2017:7体目_在来RC_平面ト形_変動軸力:DSC_4613.JPG

 いつも書いていますが、実験はやればやるだけの発見があります。今回も、わたくしにとっては意外だった壊れ方を目の当たりにしたり、想定外の出来事があったりと、やっぱりスリリングな実験となりました。この貴重な実験成果をまとめて世に出すのは、わが社のB4長谷川くんと岸田研のB4田中くん・榎本くんの三名です。実験は終わりましたが、実験データの整理や解析に引き続き精力的に取り組んでほしいと思います。いずれにせよ長いあいだの実験作業、ご苦労さまでした。


もうひとつの世代交代 (2017年10月24日)

 先日、我が家の隣地に住む老夫婦が土地を売却して引っ越して行き、木造二階建ての家が解体されました。むかしの戸建て住宅は道路に面して塀やフェンスを築き、庭には木々をたくさん植えて外からなかを見えにくくする、という建て方が一般的だったように思います。ですから、始めに木々が伐られ、塀が撤去されると、そのお宅が結構大きかったことに初めて気がつきました。

 我が家自体も高齢のご夫婦から譲り受けてこの地に越してきたわけですが、では、ご高齢の方々はどこに行くのかと言えば、皆さん、マンションに移って行ったのです。その理由をこまごまと伺った訳ではないのですが、大きな家を維持するのが大変とは聞いたことがなく、お隣さんは階段の昇り降りがつらいので、と仰っていました。

 こんなふうに我が家の周りではすこしづつ、住人の世代交代が進んで行きます。更地には新たな住宅が建ち、だいたいは子どもがまだ小さい若い方がやって来ます。最近の住宅は道路に面してコンクリート敷きの駐車スペースを大きくとり、土の庭はほとんどなく、樹木もまばらですね。家のあつらえにも時代ごとに、はやり廃りがあるように思います。

 月日は確実に流れて行きます。我が家もあと何年経つと、先輩方と同じようにこの家を引き払って出て行くのでしょうか。それは新陳代謝が進むだけの自然の理に過ぎないのですが、それを思うとき、ひどく寂しい気持ちになるのはどうしようもありません。


次なる一手 (2017年10月23日)

 衆議院議員選挙の投票日には台風が直撃しました。ものすごい雨のなか投票所に歩いて行きましたが、それなりにひとは集まっていました。ただ、この天気なので車で投票に来る人が多くて、投票所の周辺はとても混雑していました。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:DSC01880.JPG
写真 投票所でもらったポケット・ティッシュ

 投票所では小選挙区、比例区そして最高裁裁判官国民審査の三枚を投票します。しかし比例区と国民審査との投票用紙は一緒に渡され、おまけに同じような投票箱がふたつ並んで置かれていて、どちらにどちらを投票したらよいのか迂生はすぐには分かりませんでした(わたくしだけでしょうか?)。投票箱の前で固まっていたら、係のひとが飛んで来て教えてくれましたが,,,。投票箱を間違えて投票用紙を入れたひとがたくさんいたのではないかと危惧します。投票箱は施錠されていますから、間違った用紙を入れて気がついても、もうどうにもならないでしょうね、きっと。

 さて、その総選挙の結果ですが、大方の事前予想の通りになりました。分かっていたとはいえ、やっぱり落胆しますねえ。まだ確定していない選挙区がありますが、とにかくJ民党は改選前と同等以上の当選者を出しましたので、A倍総裁の高笑いが聞こえてきそうです。A倍首相は相当に悲壮な覚悟で衆議院を解散したと思いますから、あれっどうしちゃったの?というのが本音ではないかと忖度します。でも、あれだけやりたい放題、し放題だったのにこの結果では、国民の信任を得たからこれでもいいんだと、与党が勘違い?しても仕方ないですね。

 E野代表のR憲民主党が躍進したのがわずかな救いですが、それも野党内のゴタゴタが原因で、与党に脅威や危機感を与えるほどではなかったのは残念でした。結果としてどの野党も保守層の票を切り取ることはできず、反J民票を取り合っただけ、ということみたいです。その割りを食って議席がほぼ半減してしまったのがK産党、という構図でしょうか。

 緑の女王が率いるK望の党は小選挙区ではまったく振るいませんでした(これも予想通りでしたが)。当選者の氏名を精査したわけではありませんが、民進党出身者以外で当選したひとはほとんどいなかったのではないかと思います。側近と言われる方も落選しました。奢れるものも久しからずとか、三日天下というのがまさにぴったり来ますな〜。

 これで憲法9条の改正へ向けた動きにさらにはずみがつきそうです。この選挙結果が戦後日本の平和維持にとって大きな転換点にならないとよいのですが。今後の国会活動ですが、K望の党には期待できませんから、R憲民主党や無所属当選者を中心に与党J民党の独善的政治に対抗できるような、次なる一手を早急に打って欲しいと願っています。

 東京を直撃した台風ですが、本学ではその影響を受けてこの月曜日の午前中の授業は休講になりました。京王線はやっと動き始めたようですので、午後からの設計製図の講評はきっと実施できることでしょう。


 もう終盤戦 (2017年10月20日)

 衆議院議員選挙があさってに迫りました。各種の世論調査ではJ民党の好調振りが伝えられています。解散前に話題となった政府与党の各種の不審な問題や強引な議会運営など、そんなことがあったことはすっかり忘れ去られたかのようです。悔しいですが、J民党の層の厚さや底堅さを見せつけられる思いです。

 それに較べて野党は何をやっているのか、という体たらくです(まあ、今までと同じと思えば腹も立ちませんけど。あきらめの境地です)。でも、公示のちょっと前からすっかり流れが変わってしまったことの第一の戦犯は(みなさんお気づきの通り)やっぱりあの、K望の党を立ち上げた緑の女王だと思いますね。それと自身の党を切り売りしちゃったM原代表も同前です。緑の女王が、排除するとか受け入れないとか、高飛車に出て世間の総スカンを喰らったことが世論の潮流を決定的に変えてしまいました。

 わたくしは緑の女王が独裁者として率いる新党には全く興味ありませんし、その言っていることにも共感しませんから、その化けの皮が剥がれてよかったと思っています。ただ野党が乱立した結果、そのことが一強J民党を蘇らせてしまったことが残念に過ぎません。いっときは緑の女王が野党糾合の旗頭になるのかと(わたくしはイヤでしたけれど)思いました。でも彼女は本性むき出しで個人の信条を優先しただけで、そういった大局観を持ち合わせない人物であることが露呈しただけでした。

 唯一よかったのは、E野さんが立ってリベラル新党を立ち上げたことでしょうか。以前にも書きましたが、寄せ集めのM進党から右翼がごっそりいなくなって、すっきりスリムになれてよかったね、と思うわけです。ということで今回の衆議院議員選挙ではJ民党に鉄槌を下すという望みはほぼ断たれました。A倍政権はまだしばらく続きそうです、うんざりですけど,,,。あとはリベラル派がどれだけ健闘するか、くらいでしょうか。そうは言っても、少しは楽しめる選挙であって欲しいものです。


寒い秋 (2017年10月17日)

 昨日はべらぼーに寒くて、おまけに雨まで降りましたから、とても気分の滅入る秋の一日となりました。この時期に気温が13度しかなかったのは、東京では46年振りということでした。ということは、前回この寒さを体感したのはわたくしが小学生だったとき、ということになりますな。遠い昔のことですから憶えていませんが、多分、そんなことはものともせずに半ズボンとかで学校に行ったんだろうなあ。

 実際、我が家の子どももペラペラの半ズボンに半袖のTシャツ、その上に薄手のジャンパーを羽織るだけという出で立ちで、全然寒くないやあ〜とか言いながら登校して行きました。やっぱり子どもは風の子、ですね。

 でも、数日前までは冷房を入れていたのに、この気温の急落ぶりには体が驚いちゃいますよね。それなのに学校から家に戻ってみると、すでに暖房が入っていました。去年は十月末に暖房を入れて、ちょっと早過ぎだよとか思ったのですが、ことしはさらに二週間以上も早く火入れとなりました。

 大型構造物実験棟では最後となった試験体に加力していますが、足元が寒くてストーブが欲しいって学生さんが言っていました。でも、それよりも驚いたのが雨漏りです。以前からシャッター上からの雨漏りがひどかったのですが、昨日はさらにそれが悪化しました。制御用コンピュータを雨水から保護するために、写真のようにブルーシートを頭上にかぶせて野戦司令部さながらの様相を呈していたのです。雨露から身を守るというのが建築の基本的かつ最低限の機能ですが、それすら果たせない実験棟って、いったい何なのか?悲しくなります,,,。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC柱梁部分架構実験_岸田研_ネツレン_三井住友建設2017:7体目_在来RC_平面ト形_変動軸力:DSC_4419.JPG
写真 野戦司令部?となった制御卓周辺(大型構造物実験棟にて)

 さて最後の一体には、柱に変動軸力を与えることになりました。梁のせん断力に比例して柱軸力を増減させるのですが、本来であればそれはジャッキ・コントロール・システムを使ってプログラム制御で自動化できます。でもそのためにはポンプや制御盤の組み替えとか、複雑な配線の変更とかをしなければならず、(そのやり方がよく分からないということもあって)それなら水平力と柱軸力とを人力(すなわち手動)で制御しよう、ということになりました。どうせ一体だけだしね、みたいな感じです。

 で、それを長谷川くん(北山研B4)と榎本くん(岸田研B4)との二人掛かりでやっている姿を見て、う〜ん、これは予想通りに大変だなあと実感しました。載荷のスピードも大幅にダウンします。そこで横から見ていた迂生が、軸力載荷のルールをもっとドラスティックに簡単にしたらどうか、と提案してみました。本質は変わらないし、岸田先生にはわたくしが電話して了承を得るから、と言いながら。

 でも、榎本くんは(岸田先生の反応が恐ろしいのか)いいです、このままで頑張ります!って言うんですよ。長谷川くんも特段、それを否定しませんでしたから、そうか分かった、じゃあこのままやりましょうということで、現在に至る、です。時間がかかっても、二人でモニターを睨みながら注意深く加力すれば、いつかは終わります。やるって言う二人に任せるしかありませんよね。だから、まっいいか。


人間の本質とは (2017年10月16日)

 久しぶりに大学生協に行ったらSFの名作として名高い文庫本が並んでいます。以前から読んでみたいと思っていたのですが、わざわざ注文するほどでもなく忘れていました。でも、目の前にたまたまあって思い出したので買って来ました。

 それが、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(Do Androids Dream of Electric Sheep ?)』(原作は1968年、ハヤカワ文庫SF)です。わたくしは見たことがないのですが、映画「ブレードランナー」の原作ということです。

 

 さて、読み始めると名作の呼び声に間違いはなく、面白くて一気に読み終わりました。どうやら核戦争後に荒廃した地球という設定。人類の植民地となっていた火星でひとを殺害して脱走し、地球にやって来た人間型アンドロイドの一群。それらを殺して「処理」する賞金稼ぎ(バウンティ・ハンター)が主人公です。この小説のアンドロイドにはアイザック・アシモフのロボット三原則は通用せず、容赦なく人間を殺す、という設定です。主人公の前任者だったハンターは、追いつめたアンドロイドにレーザー銃で打ち抜かれました。

 最新のアンドロイドは本物のひとと区別するのが難しく、アンドロイドのなかには自分を人間と信じているものさえいます。読み進むと誰がホンモノの人間で、だれがアンドロイドなのか、混沌としてきて分からなくなります。でもそれが著者のねらいのようでもあります。

 それに加えて、電脳世界に広がった新興宗教が重要な役割を演じ、ラストでは主人公がそれに助けられます。これは現代の視点から言えば、インターネット上に広がる仮想現実をインフラとして個人崇拝の宗教に利用する、というふうに捉えられるでしょうか。

 アンドロイドは感情移入できないというのが人間との唯一の違い、という想定で、それを手がかりとして主人公はアンドロイドを見分けて「処理」するのです。でも普通の人間だって、感情移入が不得手なひとはいますよね。結局、人間とは何だろうかという根源的な問いがこのSFの通奏低音になっているのは間違いありません。そのことに気がつき、人間とアンドロイドとはどこが違うのだろうか、という問いに悩み出した主人公に手を差し延べたのが、電脳世界における新興宗教の神だったのです,,,。

 でもラストには、ちょっと違和感を抱きました。主人公の懊悩はよく分かるのですが、行動の蓋然性がよく理解できませんでした。でもそれを差し引いても、スリル満点で読み応えのある小説です。半世紀も前に書かれたSFとは思えませんでした。

 ちなみにタイトルの電気羊ですが、放射能に汚染されたこの時代では生き物はなんにせよ貴重で、生きた羊を飼えるのは上流階級の人間だけでした。そこでそれを買えない階層のひとびとは電気仕掛けの羊で我慢する、というのがこの小説の背景です。そしてアンドロイドはペットの動物に感情移入できないので、ペットを飼うことはないとされました。


ものづくりの危機と政見放送 (2017年10月13日)

 急に肌寒くなって、からだがついていかない感じですね。さて、神戸製鋼がアルミニウムや銅製品の検査データを改ざん・捏造していた問題ですが、ついに鉄鋼製品にまで拡大したみたいです。鉄鋼製品の具体の不正についてはまだ報道されていないようですが、鋼材はこの会社の本丸事業ですからとにかく大変なことになりました。

 先日は日産自動車で完成検査の不正が発覚したばかりです。日本における製造業を牽引してきたトップ企業がこのような不正をしていたことに、(そういうことはあるかもね、と薄々感じてはいたものの)問題の根深さを垣間見る思いです。利益の追求を第一とするあまり、汲々として余裕のない経営を強いられていることに同情はいたします。しかし何のために製品を提供しているのか、その根本のところをもう一度認識していただきたい。

 そもそも、要求された性能を発揮できない製品を使うとどういう結果を招来するのか、想像できないのでしょうか。安全を確保して安心を提供するという、肝心かなめの大切なことを理解していないひとに、ものづくりをする資格はありませんよね。

 さて、今朝出勤する直前にJ民党の政見放送がテレビに流れ始めたのですが、いきなり群馬1区のひとが画面に現れました。それは高校のときに同じクラスだった尾身朝子さんでした(お元気そうでなによりです)。前回の衆議院議員選挙のときに比例区(北関東)から出て当選した一期議員です(いわゆる安倍チルドレンですね)。

 今回は比例区から群馬1区に鞍替えしたことになりますが、そんなことがよくできたなあと思いました。群馬1区って確か中曽根さんのお膝元だったと思いますが、とにかく保守王国ですよね。(言っちゃ悪いけど東京出身なのに)そんなところから出馬できるとはよほどの実力があるか、あるいは根回しの果てか,,,なんてね。彼女のお父上もJ民党の国会議員で大臣も勤めたほどのひとですから、親の光も当然あるのでしょうね、知りませんけど。

 ところで二世議員ってよく聞きますけど、国会議員とはそんなに魅力的な商売なのでしょうか。国を動かすという点では国家公務員の方がやりがいがあるようにも思います。まあどうでもいいのですが、国会議員をやるからにはこの国を良い方向にドライブするように尽力して欲しいと思います。


科学の限界 (2017年10月12日)

 “昔の読書”で読んでいたマイクル・クライトンの『トラヴェルズ ー旅、心の軌跡』を読み終わりました。下巻にはクライトン自身が体験した、いわゆる心霊現象や超常現象について書かれています。それらの現象は変わったことでも何でもなくて、それは全く正常である、と断言しています。元々かれは医者を志してハーバードのメディカル・スクールに行っていたくらいの秀才ですから、科学的合理性にどっぷり浸かっていたはずです。

 

 でも、クライトンはスプーン曲げもやってみたら簡単に出来たし、サボテンとも会話しました。霊媒の不思議な能力を目の当たりにしたし、人間のからだのチャクラ(いわゆるツボ)からのエネルギーの放出や全身が発するオーラも見たそうです。

 言うまでもなく、現代は科学の時代です。しかし、クライトンはジェイコブ・ブロノフスキーの言葉を借りて「科学は自然を再現するものではなく、その再創造なのだ」と言っています。科学は現実の恣意的で限られたモデルを提供するに過ぎない、とも。科学だけでは充分ではなく、その理由としてわれわれが本当に知りたいことを科学は教えてくれない、と述べています。マックス・プランクはこう言ったそうです。「わたしはどこから来たのか?どこへ行くのか? これは、われわれ万人にとって同じ、計り知れない大きな疑問だ。科学はその答えを持ち合わせていない」

 結局、自然界には科学で説明できないことは山ほどあって、われわれは謙虚にそれらの現象を受け入れるべきだ、というのがクライトンの主張なのですね。わたくしもそのことには完全に同意します。それでも、霊媒とか人間のオーラとかは見たことがないのでフツーは信用できないのだろうな、やっぱり。

 現代の科学者達だって、科学に限界があることは改めて言われなくても分かっているでしょう。でも時として、そのような当たり前のことを忘れるほど傲慢になっていることもあると思います(皆さん、心当たりはありませんか?)。その点で、クライトンが言ったことを自戒の念を持って時には思い出すのも必要ではないかと愚考いたします。そんな理由もあってこの一文を認めました。


世代の交代 (2017年10月9日)

 [これは先日の三連休のときに書いています]いいお天気になりました。心地よい秋の三連休ですから、行楽地は混雑しているのでしょうね、きっと。

 さて、世代の交代はよく言われます。それは、どんな組織でも硬直化を防いで活力を保ち、それまでの経験や知識を滞りなく次の世代に伝授してゆくために必要なことです。では、この世代の交代の起点および終点となる年齢層はそれぞれ何歳くらいなのでしょうか。例えばわたくしは五十代の半ばに差しかかりましたが、世代交代のためのバトンを渡す側なのか、それとも受け取る側なのか、どちらなのでしょうか。

 このような具体の年齢を考えたことはありませんでした。多分、組織によってそれぞれの年齢は異なるものと思います。ただ日本建築学会での活動について言えば、長年それに携わってきて、そろそろ枢要のお仕事を若手に代わってもらってもよいのでは、と思うようになって来ました。わたくし達のソサイエティでは、建築学会の鉄筋コンクリート(RC)構造運営委員会が枢機の場のひとつになります。迂生は四十代の始めくらいからこの委員会に加えていただき、WG等の主査に任命してもらったりして、常々ありがたいことと思っています。

 でも、このRC構造運営委員会のメンバーを見ると、三十名を超える委員の中で三十代は多分いなくて、四十代もパラパラとしかいないように思います(ちゃんと調べてはいませんので厳密ではない)。そこで、わたくしは自分が主査を務めるWGのお仕事の関係もあって、若手をこの運営委員会に入れて欲しい旨、主査の河野進さん(東工大教授)に非公式にお願いしてありました。

 で、先日、このRC構造運営委員会が開催されたときに、委員構成について河野進主査が話題にあげてくれて、議論になりました。わたくしがお願いしたことを憶えていてくれたのだと思います。そこでいい機会なので、委員の人数が多いと言うのなら迂生を委員からはずしていただいてよいので若手を登用して欲しい旨、発言しました。

 ただ、芳しい反応は余りありませんでしたね。RC構造運営委員会の委員構成については内規(みたいなもの?)があって、それに則って所属等のバランスを見ながら主査が決めていますので、そう簡単なことではない、ということみたいでした。委員の中で勝手に持ち回りのようにして後任委員を決めるのも良くありません。

 でも、自分の退場と引き換えに若手の登用を、と発言してから、ちょっとまずかったかなということに気がつきました。委員にはわたくしよりも年齢が上の方が結構いたので、そういう先輩方にとっては耳障りな発言だったかも知れない、ということです。このことは反省しないといけないでしょうね。考え方はひとそれぞれです。俺はまだ現役バリバリで若手に譲ってなんかいられない、という方もいるでしょうから。

 多分、若手の登用という一般論には異論はないと考えます。ただ、それが委員個々に関わる問題として認識された途端、そうは言ってもねえ、という反発が生じることにもなりかねません。いやあ、大勢の会議の場での発言には注意が必要である、ということを実感いたしました(無礼で傍若無人なヤツと思われたかも知れません。でもその通りですけど、あははっ)。ちょっと不用意だったかなと反省しております。ただ、世代交代は大切で、それのない組織に発展がないのも真実です。ですから、言い方を変えながらも若手への委員交代は求めて行くつもりでございます。


ついに取る! (2017年10月8日)

 東京六大学野球の秋期シーズンで、東大野球部がついに勝ち点を取りました。対法政大学一回戦では宮台くんが完投して9-2で勝利しました。法大はベンチ入りメンバー25名のうち21名を繰り出すという文字通り総力戦でしたが完敗して、多分ショックは大きかったと思います。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:スクリーンショット 2017-10-08 12.38.59.png

 そして翌日の二回戦では、濱崎くん、宮本くん(ともに二年生)とつないで6回からは宮台くんが連投して8-7で連勝しました。ホームランが二本飛び出したので9安打で8得点と、効率よく勝てたようです。ピッチャーの宮本くんがソロホームランを打ったのですが、結果としてこの一本がなければどうなったか分かりませんから、貴重でした。宮本くんは勝ち投手にもなりましたので大活躍でした。

 ただ、最後の9回はネットテレビで中継を見たのですが、危なっかしくて薄氷を踏む勝利でしたね。宮台くんはコントロールが定まらず、9回にソロホームランを浴びたあと、ランナーふたりを塁上に残したままもうダメかと思いました。でも、法政大学のバッターはどういうわけか打ち急いでくれて外野フライになったので、助かったという感じでした。もっとじっくりボールを見て行けば、どうなったか分からないと思いましたね。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:スクリーンショット 2017-10-08 14.18.29.png

 でも、勝てばいいんです、勝てば。東大が勝ち点を挙げるのは2002年秋以来、15年ぶりということです。15年前ということは、選手たちはまだ小学校とか幼稚園に行っていた頃ですね。わたくし自身は何をしていたかなあ〜。ということでこのページの研究室ヒストリーを見ると、加藤弘行さんの連層鉄骨ブレース補強RC骨組の実験と、森田真司さんのRC十字形骨組実験をやっていました。

 宮台くんはこれで男をあげましたな。プロ野球のドラフト会議はもうじきですから、それに向けてよいアピールになったと思います。ゲームを作るのは投手ですが、野球は独りではできません(当たり前です)。攻守に渡って活躍した東大ナインには心から祝福をおくりたいと思いますね。東大はこの日も無失策でした。プロ野球なら当たり前でしょうけど、こと東大に関しては内野ゴロでも外野フライでも安心して守備を見ていられる、というのは立派なことですゾ。


怪奇な世界か (2017年10月5日)

 衆議院議員選挙の公示をまえに、思わぬ新党ラッシュとなりましたが、結局は雲散霧消した民進党だけが割りを食っただけ、ということのように思います。しかし考えれば考えるほど、M原代表の責任は大きいですねえ。二百人を超えるひと達の身柄を預かっておきながら(一任して欲しい、と言ったそうじゃないですか)それはないだろうって、民進党の議員ならずとも言いたくなります。

 報道ではM原さんは「女王」K池さんにだまされたのだ、という説がもっぱらですが、上記のように多数の身柄に責任を持っている公党の代表者がそんなおバカなことになるものでしょうか。ないですよね。フツーはあり得ませんから、となれば、なにか裏があったというふうに勘ぐれます。ただ、どこかで手はずが狂ったり、突発的な事柄が起こったりしたかも知れません。カオスのローレンツ・アトラクター(北京で蝶が羽ばたくとカリフォルニアで台風になる、というバタフライ効果)じゃありませんが、些細な行き違いが大きな相違となって表出したってこともあり得ます。

 しかしいずれにしても、ひっそりと慎ましく生活している人びとから見たら、政治の世界ってなんと複雑怪奇なのだろうかと思うわけです。そうして、今の永田町狂想曲を聞いていると、どう贔屓目に見ても国会あって国民なし、という状況に成り果てていますよね。国民を放ったらかしておいて何やってんの?っていう感じです。ところでM原代表は今、どうしているのでしょうか。全く報道されませんが、ここまでの成り行きに対する感想なり悔恨?なりを表明して欲しいものです。


ドタバタと (2017年10月2日)

 本学では、今日から後期の授業が始まりました。朝、南大沢駅が久しぶりに学生諸君で溢れていて、ああ授業が始まったんだなと実感したところです。設計製図の担当がすぐに始まり、これから構造ガイダンスをやりに行きます。壁谷澤寿一さんも同じ担当なので、やがては彼に代わって貰おうと思っていましたが、ご本人もそのことは認識していたみたいです、あははっ。

 さて衆議院が解散されて、政局はものすごいスピードで変わっているようです。政界再編は折に触れ囁かれていましたが、今まで特段にそれが進むことはありませんでした。ところがA倍首相の突然の解散によってお尻に火がついたようで、いや応なくいろいろなことが一気に進み始めたみたいです。ニンジンをぶら下げられないと重い腰をあげない、というのはどの世界でも共通の事象みたいでして、選挙に当選するか否かという一大事に遭遇した政治家もそれは変わらないということでしょうね。

 さて、渦中のK池都知事ですが、やっぱりちょっと進め方が強引というか、まずかったと思いますねえ。民進党の立候補希望者を選別して「排除する」というのは、結局は敵を増やしただけで、新党にとっては何も良いことはなかったように思います。でも一般大衆にとっては、新党の化けの皮が剥がれたとでも言うのでしょうか、それが自民党の補完勢力に過ぎないことが白日のもとになったことはよかったですね。

 それとは逆に民進党では、E野さんを中心にして新党(って、民進党のままで良いように思いますが,,,)を立ち上げることになったそうで、リベラルをきっぱりと標榜する点において好感を抱きます。これで今までの民進党の寄り合い所帯を綺麗さっぱりと解消できて、かえってよかったのではないかくらいに迂生は思いますけど、穿ち過ぎでしょうか。でも、一党をあげてK池新党に合流すると言ったM原代表はどうなるのでしょうか。人ごととはいえ、あまりの急転直下ぶりにご本人も驚いている、なんてことはないかな、やっぱり。そこは、すいも甘いも嗅ぎ分けた練達の政治家でしょうから、次の手を打っているんでしょうねえ、知りませんけど。


通じない (2017年9月28日)

 9月28日は衆議院が解散された激動の一日でした。民進党のM原代表は同党の公認は全て破棄して、選挙に出るひとはK池新党の公認を得るように、と決めたそうです。ええっ!なんだこれ。これって、今まで自分たちの築いてきたモノ一切をK池新党に渡してしまうことですから、売党行為と言われても仕方ないのでしょうが、ご本人はその覚悟を持って臨んだということでしょうね。でも一般人からみれば全くもって不思議な力学でして、ひっそりと暮らすわたくしたちの通念からは余りにもかけ離れています。

 いっぽうK池さんのほうはやりたい放題といった感じで、民進党から押し寄せる?公認希望者をひとりずつ吟味して選別する、と言っています。ものすごく高飛車で、感じ悪いですね〜。M原さんはそういうひと達を一括して面倒みる(先方と交渉する)、と言っているそうですが、事実上解党に等しいことを宣言した代表(って、なんの代表なんだか,,,)にそんな力があるとは思えませんし、誰もついてこないんじゃないですかね。

 とにかく、永田町でしか通じない力学で一般社会を振り回すのはやめて欲しいですな、ホント。永田町でのこの有様に、地方では困惑しているとも聞いています。中央と地方との温度差がそれだけ大きくなっているということでしょうから、本気で連邦制を考えてもいいのかも知れません(飛躍し過ぎ?)。


ある疑念 (2017年9月27日)

 政局の急転直下ぶりには驚くばかりですが、民進党のM原代表はK池都知事の立ち上げた新党に合流することを考えているとのことです。K池さんのほうでは民進党には興味がなく、M原さんが一方的に合流したいと思っているように見受けます。ホント、何やってるんだろうと呆れますねえ。なんの理念も理想も語っていないK池さんの新党に、一過性の熱のようなもの以外に何があるって言うのでしょうか。

 しかし、多様な主義主張を今まで唱導していたひとたちから、なり振り構わずに仲間に入れて下さいと言い寄られるK池さんにしてみれば、気持ちよくって我が世の春といった心持ちなのでしょうね。それでも一体どうしてそんなことになったのか、不思議です。K池さんが国会議員や都知事としてやった仕事にどのような卓越性や秀逸点があったのか、トント存じ上げません。集まってくる人びとが彼女のことを魅力ある指導者とか言っているようですが、どこにどんな魅力があるのか、皆さん分かりますか?

 こうして選挙戦が始まるまでに、K池さんの旗のもとには雪だるま式に多くの人びとが集合しそうです。そうなれば元々が国政に未練たっぷり(のはず)のK池さんですから色気たっぷりに、国会での首班指名に自分の名前をあげたいばかりに衆議院議員選挙に打って出る、なんてことが起きるのじゃないかと思っているのは、わたくしだけではありますまい。そのことを彼女は肯定しませんが、否定もしていません。これまでのBehavior を見ていると、相当程度にありそうなことだと思いますけど,,,。

 でも、こうして民進党も無くなっちゃう(M原さんの不甲斐なさにも失望ですが)とすると、今度の衆議院議員選挙ではどこの政党に投票すりゃいいのか、霧の中といった感じです。烏合の衆と言っては言い過ぎかどうか、とにかくそういう集団にしか(今のところは)見えない新党に市井の人びとの多くは投票するのでしょうか。まあ、ひと様のすることはどうでもいいんですけど、民意の結果として日本国が沈没する、っていうのもなんだかな〜とは思いますね。


この国のゆくえ (2017年9月26日)

 A倍首相が衆議院の解散を表明しました。その理由や意義をNHKテレビのニュース9で語るのを見ましたが、どのように聞いてもこじつけのようにしか聞こえませんでしたね、わたくしには。キャスターが発する都合の悪い質問には直接答えずに、ずれた返答をするというのも、A倍首相のいつもの手ですな。

 最大野党の民進党がこのような体たらくで沈没しているので、多少議席を失っても政権は維持できるだろうという考えが見え見えです。そんなことは誰でも知っているのに、泥縄の大義名分を滔々と述べあげるA倍首相の白々しさには(って、表向きにはそう言うしかないのですけど)鼻白むばかりです。

 しかしそれにも増して鼻についたのが、K池都知事おん自らが新党の代表に着くというニュースでした。都民なんとかの会が都議会選挙で台風の目となったことは事実でしょうが、二匹目の泥鰌じゃさすがにバツが悪いと思ったのか、自身が代表になることは今日まで伏せて、党名を替えて出てきたところが小憎らしいですな、まったく。さらには、このような一過性のブーム政党に乗り換えようという議員達がかなりの数いるらしいことを知って、ますます驚きます。じゃあ、今までの主義主張はどうなったのよ、と言いたくもなりますよね。K池さんが何を理想として掲げようとしているのか、さっぱり分かりません。

 こういう選挙目当てのような離合集散はわが国の政治の常ではありましたが、ここまで露骨にやられると大丈夫なんだろうかこの国は、という心配の念が沸々と湧き上がってまいります。自分自身がこの国を操ることはできませんので、一国の代表たる政治家諸氏には自身の信念に基づき、民草のために行動して欲しいと強く思います。新党も結構ですが、離合集散の時には市井の人びとのことは完全に忘れ去られているようで、底の浅さが透けて見えますからご注意あれ。


次のシリーズ (2017年9月25日 その2)

 芝浦工大・岸田研究室との共同研究(実験)ですが、十字形柱梁部分骨組のシリーズが終わって、次のト形柱梁部分骨組実験に入りました。岸田研究室の担当者はB4・榎本尚弥さんに代わりましたが、我が社の担当は長谷川航大くんのままで代わりません、あははっ。大変でしょうが実験は楽しいと思いますので、是非とも頑張ってください。

 ト形試験体の一体めは先週、岸田慎司先生が監督してくださって加力が進みましたが、今日はわたくしが現場で見ていて、無事、大変形まで加力して実験が終了しました。ただ、わたくしが想定していた破壊とはかなり異なっていたので、首をかしげることばかりでしたけど,,,。

 芝浦工大では後期の授業が始まったこともあって、今日の助っ人は全員我が社でした。これは珍しいですな。岸田研の榎本さんは寂しがっていましたけどね。あと二体となりましたが、気を抜かずに慎重に実験を続けて欲しいと思います。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC柱梁部分架構実験_岸田研_ネツレン_三井住友建設2017:5体目_在来RC_平面ト形:DSC_4232.JPG


シャングリラ (2017年9月25日)

 お彼岸も過ぎ、かなり秋らしい日々となって参りました。秋の香りというのでしょうか、街じゅうに花々のかぐわしい香りが漂っていて、なんだか清々しい気分にしてくれます。皆さんの周りではいかがでしょうか。

 さて、“二度目の読書”として『トラヴェルズ —旅、心の軌跡—』(マイクル・クライトン著、早川文庫、2000年)を読んでいて、上巻は既に読了して今は下巻に入っています。この“二度目の読書”は通常は高校生とか大学生の頃に読んだ蔵書を数十年ぶりに再読して懐かしむ、というのがその趣旨なのですが、この『トラヴェルズ』を読んだのはわずかに十数年前です。

 わたくしのこのページをご覧になっている方はお察しでしょうが、マイクル・クライトンの『トラヴェルズ』はわたくしに多大な影響を与えた書の一冊でして、どうしてもまた読みたくなりました。その理由を端的に記すと、科学の信奉者の最たるものとフツーは考えられている医学者(著者のことです)が、人智を超えるような自然現象を虚心坦懐に受け入れて、自然に対する畏怖を率直に表明している点にあります。自然界には人間の理解を超えるような事象は山のようにあるのだ、ということを改めて認識させてくれるわけです。

 この本のタイトルは『トラヴェルズ』というくらいですから、著者が実際に行った地球上のさまざまな場所のことも多々書かれていて、そのなかにフンザという土地があります。みなさんはご存知ですか。フンザは1970年頃までは独自の藩王が支配する王国で、観光客が容易に行けるようなところではなかったそうです。しかしその後、フンザの南にある大国・パキスタンによって併合されて一般人も行けるようになり、クライトンも苦労してそこに行ったというわけです。

 このフンザはシャングリラ(桃源郷)のモデルで、そこではひとびとは杏(あんず)を食べて140歳まで生き、病を免れている、そういう国として認識されていたようです。そこに住むひとびとはアレクサンダー大王のオリエント遠征時の兵士の末裔とも言われています(本当かどうかは知りません)。しかしなんせそこは桃源郷ですから、行くのは実際にはとても大変です。現在でもイスラマバードまで行って、そこからはバスなどの車でカラコラム・ハイウエイを何日もかけて延々と走ってやっとフンザに到着する、というところらしいです。

 どんなところだろうと思ってネットを検索すると、たくさんの写真や旅行譚が載っています。それらの写真を見ると確かに美しい山河のように見えました。標高二千メートルを超える山奥の果てに広がっている桃源郷,,,行ってみたいなあ、とは思います。でも、多分無理でしょうね、やっぱり。

 カラコラム・ハイウエイとは言っても実際には舗装もないデコボコ道で、崖崩れも多発して予定通りに車が進むことは稀のようです。そんな道を性能の悪いバスに揺られてゆくなど、想像するだにつらそうで我慢できそうもありません。それに現在のパキスタン北部はISのような宗教紛争が多発している地域なので、観光客がフラッと立ち寄るには非常に危険だと思われます。

 結局、いいところだなあ、行ってみたいなあ、という羨望の眼差しだけが注がれるところ、それがシャングリラであって、市井のひとびとは死ぬまで行けないところなんだと思いますね、残念ですけど。


解散総選挙か? (2017年9月20日 その3)

 今週くらいから政局がにわかに騒がしくなってきて、近いうちに衆議院の解散と総選挙が行われることになるようです。しかしながら、自民党やA倍総裁にはホントに呆れ果てます。もうなりふり構わずに政権を維持しようと考えたのでしょうな。野党を見ると民進党がこんな状況で未だに底を打ったとはいえず(泥沼?)、野党共闘もうまく行きそうもなく、などなど、自民党にとっては今なら多少議席を減らしても傷は浅くて政権は維持できると踏んだのだと思います。

 解散のための“大義”など、後からなんとでもなるということでしょうね、きっと。選挙が終われば、国民はすぐ忘れますし,,,。でも、国内で別に争点にもなっていないようなことを持ち出して国を挙げて議論(?)している場合でしょうか。そんな不要不急な事柄に貴重なときと資源とを費やしていることの愚かさを感じないのでしょうか。なんだかな〜っていう絶望感を抱きます。

 新党を作るとか言っている人たちもいますが、その第一の主張が一院制への移行、というのですから、現在の視点からはなんともピント外れと言わざるを得ません。結局は自民党の補完勢力がまた一つできるのか、というくらいのことですかね。


メキシコの地震 (2017年9月20日 その2)

 メキシコでまた強い地震があったようです。マグニチュードは7.1ですが、今回は震源がメキシコ・シティに近いために大きな被害が出ていると報道されてます。メキシコ・シティは厚い堆積層の上に築かれた大都市ですので、その表層地盤による地震動の増幅が大きいことが知られています。今回もこのことが被害を拡大させたことは確かでしょう。

 ニュースでは中高層の建物が多く倒壊している、と言っていますが、それが事実だとすると由々しき事態です。恐ろしいことになっていなければ良いのですが,,,。メキシコの市井の人々のご無事をお祈りいたします。また被害に遭われた方には心よりお見舞いを申し上げたいです。そうそう、UNAMにはオスカル・ロペスさんがいましたね、ご無事をお祈りします。

 ところでメキシコでは1985年にも大地震がありました。それが今回の地震とまさに同じ日であったということに、偶然とはいえそんなことがあるんだなあ、という不思議な縁(えにし)を感じます。1985年の時にはわたくしはまだ大学院生でしたので、現地に被害調査に行くことはありませんでした。ただ、勝俣英雄さん(現・大林組技研所長)ほかの研究室の先輩方の多くは現地に赴いて、調査や復興に尽力されたことをよく憶えています。


遠い勝ち点 (2017年9月16日/20日)

 東京六大学野球の秋のリーグ戦が始まっていますが、東大—慶大一回戦で東大が5—2のスコアで見事に先勝しました。四年生の最終シーズンに先発したエース宮台くんが完投して今シーズン初勝利を挙げました。打線も奮闘して5点を奪取したのは立派です。この試合では一、二年生が五名も出場して活躍したことが、なによりも注目されます。若い力が育ってきて、来年以降の活躍が期待できますからね。

 でも、やっぱり野球は投手次第ということがよく分かります。今まで大いに期待されてきた宮台くんが、その力を評判通りに発揮してゲームを作り、勝利に貢献したことは明らかでしょう。

 連勝して勝ち点をあげるのはまた別の難しさがあるでしょうが、それを目指して東大ナインには頑張って欲しいと思います。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:スクリーンショット 2017-09-16 14.23.21.png

追伸; 二回戦は1−4で残念ながら負けました。

追伸2; 三回戦はエース宮台くんが登板しましたが8失点と打たれてしまい、打線はホームラン二本を含めて奮闘したものの10—13で敗れました。スコアとしては善戦でしょうが、エースが打ち込まれたので完敗だと思います。やっぱり勝ち点(先に二勝したほうに勝ち点1が付きます)は遠いですね,,,。


九月も半ば (2017年9月15日)

 苦行の学会大会が終わって既に九月も半ばに差し掛かりました。今は台風が近づいているようで夏の暑さが戻っていますが、涼しかったり暑かったりで体には結構、応えますな。わたくしは八月後半からずっと調子が悪くて、それは今も続いています。そんな具合なので、このページを更新する意欲が減退している感じです。

 岸田研究室との共同実験はやっとペースが上がってきたようで、今は4体目を載荷中です。これが終わると次は平面ト形接合部3体が待っています。でも来週になると芝浦工大では後期の授業が始まるそうなので、毎日実験するという訳にも行かなくなるかも知れません。ただ、あわてて実験してもろくなことはありませんので、自分たちのできる範囲で実験して下さい。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC柱梁部分架構実験_岸田研_ネツレン_三井住友建設2017:4体目_在来RC_平面十字形[損傷修復済み]:DSC_3999.JPG

 試験体の層間変位を測っているレーザー変位計の調子が悪いみたいで(信用できない値を出力することがあったので)、ジャッキのストロークを直接測定するための変位計を併置しています。ただその変位計のストロークは100 mmしかないので、載荷が進んで大変形になると変位計を何度も盛り替えないといけません。

 それは面倒だし、盛り替え作業には時間もかかりますから、精度は落ちますが300 mmまで測れる変位計を新規に購入しました。で、その実物が今日届いたのですが、見るとかなり大きく(長さは700 mmくらい)、かつ重いので、こんなデカいモノをジャッキのシリンダー脇に設置できるかどうか、ちょっと心配になりました。学生諸君はやってみますと言っていますが、大丈夫かな?

 体調が悪いこともあって、科研費申請の書類にはまだ全くの手つかずです。もちろん、徐々に構想は練っていますが、そのモヤモヤとした星雲状のものに形を与え、説得的な文章を作るにはそれなりの努力が必要で、まだしばらく時間がかかりそうです。同僚の角田誠教授が文書作成に取りかかったら、迂生もやる気がでるんじゃないかと(密かに)期待しております。ということで角田さん、先導をお願いしますよ、なんちゃって、がははっ。

-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----

 今朝、またNorth Korea が弾道ミサイルを発射しましたね。この地球上に存在するのは自分たちだけみたいな、傍若無人な態度にはホント困ったものですが、いつまで続くのでしょうか。経済制裁によってあまりにも追い詰めると、その反作用としてかえって行動がエスカレートするのではないかと危惧しますが、どうなんでしょうか。

 でも、こう度々ミサイルを頭越しに打たれると、そろそろ日本も何か行動した方が良いような気もします。イージス艦からの迎撃ミサイルや地上配備のPack 3の発射とか、この際、訓練してみたらどうでしょうか。本当に当たるものなのか、市井の人々は内心、不安なんじゃないかと思いますけど,,,。

 そんなことしたら、火に油を注ぐようなもので、やっぱりダメか。ただ、こういった最新鋭の迎撃武器の効用には限度があって、相手が多数のミサイルを多くの場所から一斉に発射した場合には、網羅的な対応をできないことは軍事筋にとっては周知の事実らしいです。そもそも迎撃ミサイル等の保有数や一度に発射できる数には自ずから限度があります。ですから、迎撃ミサイルが弾切れしたら、以降は相手の為すがままにボコボコにやられるのを黙って受容するしかないわけです。結局、軍事行動には軍事行動で対抗する、というのは破滅に至るシナリオしかない、ということですな。


早大正門へ行く (2017年9月11日)

 この週末、用があって早大正門前の大隈講堂へ行ってきました。小さい頃、早稲田の祖父母の家に行くときには必ず「早大正門前」行きのバスに乗りました。そのため、早大正門前のロータリーはとても馴染みのあるところでした。昭和40年代の学生運動華やかなりし頃には、そこにゲバ棒とかヘルメットとかが散乱している光景を目にした記憶もあります。

 しかし前回ここに来たのはいったいいつの頃だったでしょうか。某高校の入学試験を早大内の教室で受けて以来だとすれば、四十年振りということになりますけど,,,。今回はバスではなく、地下鉄東西線の早稲田駅で降りて、歩いて行きました。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:早稲田_大隈講堂_戸山(翔吾早稲田中学校説明会)2017:DSC01800.JPG
 写真1 早大正門前のロータリー 右側の塔のある建物が大隈講堂

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:早稲田_大隈講堂_戸山(翔吾早稲田中学校説明会)2017:DSC01810.JPG
 写真2 大隈講堂の東立面(一部) スクラッチ・タイル貼り

 そこに大隈講堂が建っていることはもちろん知っていましたが、特に興味もなく入ったことはありませんでした。大隈講堂は最近リニューアルされて、使い勝手もよくなったそうです。大講堂の座席には収納式の小さな机が付いていたほかに、ネット接続のためのLANのソケットや、同時通訳に使うイヤホン・ジャックとチャンネル表示器も設置されていました。びっくりしたのは、ひとつひとつの座席の背板に名前を記載した小さなプレートが貼り付けられていたことです。多分、一定額以上の寄付金を納入したひとの氏名なんでしょうね、東大でも安田講堂でそういったことをやっているみたいなので,,,。

 トイレに入るとそこに小さな立て札があって、壁と床のタイルが当時のままで建築材料として貴重なので保存した、ということが書かれていました。そこでそのタイルをしげしげと見たのですが、どこが貴重なのか迂生にはトント分かりませんでしたね(猫に小判っていうことか?)。

 大隈講堂ですが設計は佐藤功一、構造設計は内藤多仲で、1927(昭和2)年10月に竣工しました。構造は鉄骨鉄筋コンクリート構造です。早稲田大学の創立125周年に当たる2007年に改修工事が為されたそうです。天井は耐震補強工事をしたようですが、躯体については何の記述もありませんでした(文献1)ので、現行の耐震基準類を満足していたということでしょうね、きっと。

文献1 尾崎健夫:早稲田大学大隈記念講堂について、BELCA News(ロングライフビル推進協会)、Vol.29、No.160、pp.31-35、2017年7月.

 関東大地震が1923年に発生して、その翌1924年に市街地建築物法が改正されて水平震度0.1の耐震規準(建物自重の10%の水平力が地震時に建物に作用するとして構造設計すること)が初めて設定されました。ですから、大隈講堂は水平震度0.1で耐震設計されたと思われますが、現行法規で規定する水平震度は0.2ですから、ギリギリの設計だと性能不足になります。そうではないとすれば、当時としては余裕を持った設計が行われたということでしょうが、詳しいことは分かりません。

 さて、せっかく早大正門に来たので、大学の学生会館が建っている一画にある奇妙な建物も見てきました。それはドラード早稲田という名前の集合住宅なのですが、多分、わたくしが大学生くらいの頃から建っていて、そこを車で通って見知っていました。設計は梵寿綱(ぼん・じゅこう)という建築家です。見ての通り、建物全体に装飾がゴテゴテと施されていて、それがいっそう奇妙さを際立たせていますな。ザッと見たところ、一階はバーとかヘア・サロンでした。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:早稲田_大隈講堂_戸山(翔吾早稲田中学校説明会)2017:DSC01815.JPG
写真3 ドラード早稲田(集合住宅) 背後のベージュの建物は早大施設

 この建物って、建築史上の分類で言えばやっぱりポスト・モダン建築なんでしょうかね? あるいは単なるキッチュ建物かな。でも、写真のように結構丁寧に保守管理されているようで、今に至るまでよく生き残ったなあという感慨も持ちました。交差点の角地に建っていますので相当目立っていますが、早稲田大学を基幹とするこの界隈に調和している、という感じは残念ながらしませんね。

 そうそう、甘泉園の隣りにある水稲荷の例大祭がちょうど行なわれていて、お囃子や子ども神輿を見かけました。この日はちょっとばかり暑かったですが、もう秋なんだなあと実感しました。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:早稲田_大隈講堂_戸山(翔吾早稲田中学校説明会)2017:DSC01855.JPG
       写真4 水稲荷境内の子ども神輿


ある食中毒事件の余波 (2017年9月8日)

 ことしの夏もO157などの食中毒のニュースが流れました。この夏は雨が多くていつまでもジトジトと湿っぽいため、食中毒も発生しやすい状況だとは推量します。

 さて、我が家の子供は来週から日光に修学旅行にゆく予定でした。ところが宿泊予定のホテルが八月末に食中毒を出して、今に至るまで営業停止になってしまいました。やむを得ず修学旅行は延期になりましたが、楽しみにしていた子供達はかわいそうですね。先生がたも万全を期して準備していたので、直前に延期されても困ることでしょう。

 で、その件のホテルを調べてみると、十年ほど前にも食中毒事件を起こしていたことがわかりました。ということは、その時の教訓が活かされることなく、再び同じ轍を踏んだことになります。人間ですからミスはありますが、お客の健康や場合によっては命に関わるようなことですから、ミスしましたごめんなさい、では済まない話しです。

 他人さまに飲食を提供するホテルがそのような基本を徹底できないとは、信じられません。そのホテルは全館消毒されたはずなので、今は安全になりましたと言われても、本当かどうか甚だ疑問に思います。子供の健康を願う親としては、そんなホテルに泊まらせたくはありませんよ、ホント。


すぐにまた… (2017年9月6日)

 民進党の新代表に選出された前原さんの党執行部人事ですが、さっそくケチが付きましたね。当選二回の山尾さんを幹事長に抜擢しようとしたのに、党内の反発が強くて断念した、ということです。ああやっぱり、というのと、まだそんなことやっているのか、というのが感想です。

 でも、つくづく不思議に思うのですが、前原さんだっておハカじゃないのですから、十分に熟慮を重ねた末の決断だったはずです。回りには相談できるひとだってたくさんいるはずです。そのような思考を慎重に重ねることによって表出された決定だったとすれば、かくもたやすく山尾人事を撤回したのはなぜでしょうか。

 一番ありそうなのは、党内事情を読み誤ったということです。若くて、頭が切れるので(さらに女性なので)背水の陣の看板にはうってつけだろう、これなら党内も納得するだろうと新代表は考えたのかも知れません。なんせ非常時なんですからね、民進党にとっては。そういうときに常識に囚われてはいけない、というのも分かります。

 しかし難儀な党をまとめるためには最終的には人脈や経験がモノを言うだろうことは想像に難くありません。若さや頭のよさだけでは対処できない、ということでしょうな、やっぱり。そうして結局は因習にがんじがらめに搦めとられて立ち往生に至った…。いやあ気の毒ですね〜。

 もうひとつの理由はかなり低次元ですが、梯子をはずされたのでは?ということです。でも、もしそうだとしたら、そんな悪意に満ちた党には未来はないと言わざるを得ません。

 いずれにせよ、まだ正式に船出もしていないのに「新代表の求心力の低下」などと言われるのは、この党の(分かっちゃいますが)末期症状を如実に表しているようで、ホント暗澹たる気分になって来ます。それでも、わたくし自身は野党第一党の民進党に少しばかりは期待していたんですよ。それなのに、これでとどめを刺されたなんてことにならなければいいのですが,,,。


広島にて 〜夏の苦行2017〜 (2017年9月4日)

 日本建築学会の大会が終わりました。今年は太陽は照りつけたものの湿度が低くてカラッとしていたので、かなり助かりましたが、予想通り、疲弊しました。会場の広島工業大学へは、広島駅からJR山陽本線に約20分乗って五日市駅で降り、そこから建築学会が用意した(って言っても、片道500円も取られるんですが)シャトル・バスに約20分乗ってやっとたどり着きます。それがもう、ものすごい混雑なんですね。

 多分、地元の皆さんには多大なご迷惑をおかけしていることは間違いありません。山陽本線と言っても3両編成(通勤時には5両編成)ですから、われわれ学会くんがどわーっと乗ってくれば、それだけでもう痛勤列車に早変わりします。五日市駅でもただならぬ人波が延々とバスに吸い込まれて行きますから、それを見た地元のひとが目を丸くしているわけです、何事かと。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ大会2017広島工業大学:P1020336.JPG

 そんな苦痛の学会ですが、久しぶりに会ったひともいました。研究室OBでは、初日の朝イチに林秀樹さんにばったり出会いました。まさか林くんが来るとは思っていなかったので、しばらく気付かなかったくらいです。構造設計や建設現場の苦労話しをいろいろと聞けました。

 わたくしの発表直前には、中沼弘貴さんがわざわざ会場に会いに来てくれました。ただ、そのときはちょうど司会者と発表時間についてのネゴをした直後で、発表用コンテンツの組み替えを一所懸命にしていたときだったので、あまり詳しい話しをすることができなかったのは残念でした。まあ、中沼くんは原子力の仕事をしているので、また会う機会はあると思います。あとになって林くんと中沼くんとが一年違いで、二人とも連層鉄骨ブレースを対象とした研究で修論を書いたことを思い出しました。さて、この二人は会場で出会うことが出来たのでしょうか,,,。

 この四月から大学の教員になった田島祐之さんにも着任後初めて会いました。構造系の教員は彼ひとりだそうで、学生諸君のほとんどはデザイン志望らしいので、苦労しているようでした。そんな中でもいろいろと工夫して、自分の研究を立ち上げようと模索している感じでした。なお田島さんの話しでは白山貴志さんも大会に参加していたようですが、わたくしは会っていません。

 鉄筋コンクリート構造部門の若手優秀発表顕彰のためのお仕事ですが、幹事の高橋典之さん(東北大学准教授)に全面的にお引き受けいただき、採点結果の取りまとめや集計もしていただきました。ことしの大会は四日間でしたので、かなりの負担になったことと思います。そのご尽力には感謝いたしております。

 若い頃は大会と言えば、いろいろな人と久しぶりに会って飲んで懇親をはかったり、ちょっとした観光に皆で出かけて息抜きしたりすることが楽しくて、そういう課外?活動を積極的にしたものです。でも、だんだんと年齢を重ねるにつれ、そういうこと自体が億劫になって来たというのが正直な感想です。

 こんな感じで相変わらずお疲れさまの学会ですが、リタイアした先輩方の何人かが会場にお出でになっているの気がつきました。全くもって頭が下がりますな。わたくしなど、もうそろそろ大会はいいかなと思い始めたところなんですけどね。ちなみに来年度の大会は仙台です。広島よりはかなり近いですから、参加はすると思いますが、もう発表はいいかなあと弱音を吐いております、はい。


多様性に逆行では? (2017年8月30日)

 国立大学の付属校がエリート化して本来の役割を十分に果たせていないので、入試をやめて抽選で入学させるべき、という趣旨の提言を文科省の有識者会議がまとめたそうです。わたくしは付属校の出身者ではありませんが、どうなんでしょうかね? エリート化って言いますけど、それは筑波大学付属駒場や、東京学芸大学付属等の一部の付属校だけのように思います。だって東大付属校は言っちゃ悪いですが、全然進学校じゃありませんよね。

 それなのに、文科省の有識者会議の方々はなぜこんなことを言うのでしょうか。現代では何につけ多様性が求められ、また尊重されます。多数ある国立大学付属校にもそのことは当てはまると思います。すなわち、付属校のなかにはエリートを輩出するような進学校があってもいいと愚考しますが、いかがでしょうか。付属校にはそれぞれ明確なアドミッション・ポリシーがあるはずですから、それは尊重されるべきでしょう。

 それなのにどの付属校も同じような属性の入学者集団になってしまっては、多様な教育手法を磨くこともできなくなってしまうと思いますよ。そう考えると、有識者会議の方々はまたぞろ悪しき平等主義に捕われているのではないかと危惧します。さらに言うと、有識者会議がまとめた文書を見たわけではないので分かりませんが、エリートはいけないものだという間違った認識に毒されているのではないでしょうか。

 以前にも書きましたが、横並びの教育は国民レベルの底上げには役立ったでしょう。しかしその結果として一人一人の個性や能力は抑圧されて、優秀な人材が輩出されずに日本が沈没しつつある、というのが現在の危機的状況の大もとだと考えます。そういう現状なのに、この苦い教訓は活かされないのか、とても心配です。そもそも、エリートを嫌悪すべきもののように考えること自体が間違いです。

 大学入試改革にせよ、この付属校の改革にせよ、どうも文科省の打ち出す改革案はピントがはずれているように思えてなりません。教育は国家の根幹です。そこに多様性を追究せずして横並びになるように“指導”するとは、いったいどういった了見なのでしょうか。

 ちなみにわたくしの親族には付属校出身者がたくさんいます。大昔の話しで恐縮ですが、わたくしの結婚式のときに、叔父が小谷俊介先生(恩師で仲人)と同級生だったことが判明した、なんてこともありました、あははっ。


もうすぐ大会2017 (2017年8月28日)

 きょうは少し涼しくて楽で助かりますね。さて、今週後半から建築学会大会が広島工業大学で開かれます。今年は四日間の長丁場となり、多分暑いでしょうから、今から戦々恐々としています。

 さて、今年度の我が社の発表は二編しかありません。おまけに協同研究者の苗思雨さんは会社の都合で欠席するとのことですから、わたくし独りだけの発表となりそうです。いやあ、寂しい限りですな。なおM1二名も発表しますが、二人とも他学出身なのでそちらでの研究を発表します。ですから、ことしの夏は発表練習もありません。

 で、例年は一緒に発表するひとに発表用のコンテンツを作ってもらいます。今年は苗くんに簡単な原案を作ってもらいましたが、わたくし自身が発表し易いようにアレンジし直しています。今回の発表はわたくしと苗くんとが連番になっています。学会大会では代理出席は認められていませんので、苗くんの分をわたくしが発表することはルール違反になります。とはいえ、内容を見れば苗くんのほうに記載したコンテンツのほうが遥かに重要です。

 そこで当日、司会者の方と折衝して、二編分の梗概を7〜8分程度で発表することをお許しいただこうと目論んでいます。そのため、発表用のパワーポイント・コンテンツを現場で臨機応変に対応できるように作り込んでおかないといけません。苗くんや共同研究者の晋沂雄さんが今までに作ったコンテンツを再利用できるところが多いので、かなり助かっていますけどね。

 でも、会社によって学会発表に対するスタンスは随分と異なることに驚かされます。昨年度の今村俊介くんは会社の方針で積極的に発表するように言われて、会社から旅費を支給されて大会に参加できました。ところが苗思雨くんのほうは、会社から特段、配慮もしてもらえないようです。もっとも建設現場の所長さんの立場で考えれば、現場のお仕事はそれどころじゃないでしょうから、仕方ないとは思います。


そろそろ季節が… (2017年8月24日)

 また暑さが舞い戻って参りました。我が社では今、実験がたけなわですが、大型構造物実験棟はあばら屋なのでものすごく暑いです。扇風機一個のほかにはシャッターを開けて換気扇を回すくらいしか涼を得る手段がないため、学生諸君の健康も心配です。こまめに水分を補給するようにして下さい。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC柱梁部分架構実験_岸田研_ネツレン_三井住友建設2017:2体目_スクライムH工法_平面十字形:DSC_5767.JPG

 さて、そろそろJSPSの科学研究費補助金の申請をする時期が近づいてきました。今年は三年計画の基盤研究Cの最終年度なので、来年度以降の研究費補助金を申請する年に当たっています。三年ごとのお約束とはいえ、この時期になると憂鬱な気分になるのは毎度のことですなあ。

 来年度の申請から、作成する申請書類の内容が大幅に変更されるとのことで、その原案が先日公開になりました。その説明会も来月早々に学内で開かれます。さっそくそれを見ましたが、記載する内容はそんなに変更されていないように思います。いな、中核となる研究目的、独創性、研究の方法、予想される成果、などの記述は、今までよりも1ページほど減っているようです。審査のやり方も変更になっているでしょうから、それを聞いてから、対策を練ろうと思っています。

 ただ、次期申請の研究課題の内容や申請する研究種別はそろそろ考えないといけませんね。今までは基盤研究Cでしたが、公開された原案を見ると基盤研究CとBとでは、書く枚数は1枚くらいしか違いませんから、それだったら研究チームを作って基盤研究Bにアプライするか、という色気も出て参ります。でも従来通りの採択率だとすると、圧倒的に基盤研究Cのほうが採択されやすいですから、やっぱりよく考える必要がありそうです。

 研究課題のほうですが、ここ3回の申請ではずっとプレストレスト・コンクリート(PC)構造で応募して来ました。鉄筋コンクリート(RC)構造に較べるとPC構造は明らかにマイナーですから、わたくしの研究はPC分野においてはそれなりに価値があると自負しています。

 いっぽう、わたくしのホーム・グラウンドはやっぱりRC構造ですから、そろそろ本流に戻ろうかとも考えています。まあ、もう少し考えてみます。ただ、いずれにしても構造実験が研究の主要を占めることになるとは思うのですが、(以前にも書きましたが)試験体のセットや入れ替え、さらには加力までを一貫して自分自身でやる必要がありそうで、そのことのハードルはどんどん高くなるように感じます。研究室に実験を補佐してくれるような有能な教員(具体的には助教の方)がいない、というのはやっぱり痛手です。もっとも、今までが恵まれ過ぎていたのかも知れませんけど,,,。

 今までしこたま実験してきたのだから、そろそろ打ち止めにしてもよかろう、という考えに傾くことも一再ならずあります。いまでも実験は楽しいし、実験すれば必ず発見があって、得るものも多々あります。でも、好きだから実験し続けるっていうのは学問的にはどうなのでしょうか。そういうモンでもないんじゃなかろうか、とも思います。

 あるいは、世の中には役割分担ということもあるでしょう。実際、気働きができて、耐力、じゃなかった体力がある若手が実験作業には相応しいと思います。だんだんと齢を重ねてきて、反射神経も衰えて来た感じがしますので、事故や怪我がないうちに若手に譲るというのが、世の常なんではないかなあ、と(自分勝手ながら)思います。こんな感じで悩みは尽きませんが、まあ考え続けることですね。


盛夏の実験 (2017年8月18日)

 今年度は芝浦工業大学・岸田慎司研究室にお声掛けいただいた実験を協同で実施していますが、真夏の暑い盛りに実験をするのは久しぶりな気がします。そこで、このHPの記録を辿ってみると、2009年の盛夏にWPC構造・立体耐震壁の実験を実施して以来であることが分かりました。その時は実験の差配を見波進助教(現・東京電機大学教授)に全面的に引き受けていただきました。
追伸: 2010年の真夏にもRC十字形柱梁部分架構の実験をやっていました。そのときの主担当者はM2・王磊さんでした。

 ことしの実験では、試験体のセットや入れ替えから加力まで、全て岸田慎司教授にやってもらっています。ご多忙のなか遠くまで来ていただき申し訳ない次第ですが、わたくしといえば実験装置の動かし方などは既に忘却して久しいですので、しようがないなあと思ってお許し下さい、あははっ。

 実験のほうは思わぬアクシデントがあって一時は意気消沈しました。その後、担当学生諸君(北山研:B4・長谷川航大さん、岸田研:B4・田中勇祐さん)の頑張りのお陰もあって、一体目の加力がお盆のなか、無事終了しました。下の写真は押し切り載荷時に撮ったものです。我が社は3名、岸田研は5名の合計8名です。我が社からの参加者が少ないのはとても遺憾に思います。ホーム・グラウンドなのですから、皆さんにはもっと興味を持って実験に参加して欲しいと思います。研究室会議の際に何度も言っているのに、担当者ではないと他人事なんでしょうか、寂しい限りです,,,。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:DSC04442岸田.JPG

 我が社に較べると、岸田研の四年生諸君はとてもよくやっていると思います。なによりも、楽しそうに実験に参加しているのがとてもいいですね。これもひとえに岸田先生のご人徳だと思います。見習いたいものですな。最初は卒論生だけで実験できるかなと危惧しましたが、岸田研の田中勇祐さんがリーダーシップを発揮して皆さんを督励したため、ここまで来れたのだと思います。

 ところで上の写真の試験体はかなり特殊なモノでして、柱梁接合部の曲げ降伏破壊を避けるための工夫を施しました。しかし、この写真を見て、専門の皆さんはどう考えるでしょうか…。まあ、わたくし自身はだいたい分かったつもりでいますが、詳細は長谷川くんと田中くんとでこれからじっくり検討して下さい。

 実験はまだまだ続きますので、これからも怪我や事故のないように注意して作業に当たって下さい。涼しかったり、暑かったりという不順な天候ですので、健康管理にも十分配慮して下さい。


ニュートンさん? (2017年8月17日)

 塾から帰ってきた子供が「パパ〜、ニュートンさんって知っている?」と聞く。はあ?大学で構造力学を教えているオトーサンに向かって何を聞いているんだ、お前は、ニュートンを知らないはずがないだろう、ってな感じだったが、そうではなく、算数の「ニュートン算」というもののことだった。

 えっ?なにそれ、ニュートン算って(皆さんご存知ですか)。“牧場に牛が20頭いるときには8日で草を食べ尽します。25頭だと6日で食べ尽します。では、45頭だと何日で草を食べ尽しますか”とまあ、こういう問題である。でも、わたくしのような常識人(?)にとっては、なにが与条件なのか分からない。始めは、牧場の草の総量は一定というもとで計算したが、そうすると(当然ながら)解なしとなってしまって解けない。うんうん唸ったが結局、解くことができずに降参して、子供に解き方をご教示いただく仕儀と相成った。とっても悔しい。

 で、子供の言うことを聞いてみると、毎日草は生えるのでその量のことを考えないといけない、というのである。えっ、なにそれ?マジですか〜。すなわち、当初から牧場にあった草の量と当該日数に生える草の量とを考えないといけない、らしい。そんなこと、聞いてないから分かるわけないだろ、というのが迂生の負け惜しみ,,,。

 そこで、草の量の初期値をXとして、一日に生えてくる草の量をY、牛一頭が一日に食べる草の量をZとすると、題意より以下の数式が得られる。

 X+8Y=20Z・8日…(1)
 X+6Y=25Z・6日

辺々引くと、2Y=10Z となるので、Y=5Z…(2) が得られる。

 次に45頭が食べ尽す日数をnとすると、X+nY=45Z・n(日)となる。(2)式をこれに代入すると、X+5nZ=45n Z となって、これより X=40nZ となる。これと(2)式を(1)式に代入すると、40nZ+8・5Z=160Z…(3) となる。結局、(3)式を解いて、n=3日という答えが得られる。

 でも、ここまでで変数が四つも出てきて、これでは小学生は解けるわけがない。子供に説明しても、答えは合っているけどパパのやり方は全然分からない、バッカじゃないの、って言われる始末である、ぎゃははっ。首都大学東京では何教えているの、と勝ち誇ったように子供が言う。で、子供に聞くと、数直線(線分図というらしい)を二本書くことによって(小学生でも分かる方法で)この問題をスマートに解くのが、どうやらニュートン算ということらしい。

 いやあ、驚きますな。鶴亀算の話しは以前に書いたが、こんなもんを解けることにどのような意味があるのだろうか、甚だ疑問である(って言ったら、身もフタもないのだろうが)。しかし、現在の子供にとっては重要なことらしい。これをゆがんだ教育と言わずして何と言おうか、などと迂生は思うのだが、そうしないとよい学校に行けないというのが、現在の日本の教育事情なのだ。かくして、嘆かわしい世は過去から未来へと続いて行く、ということなんだろうな、きっと(なお、この文章は全編、負け惜しみで成り立っていますので、真に受けないで下さいね、あははっ)。


敗戦の日2017 (2017年8月15日)

 お盆です。雨模様が続いていますが、気温が低くて助かりますね。今年もまた大学院レポートの採点のために大学にいます。今年度は九名の院生が受講したため、レポートのチェックにも時間がかかって結構大変です。授業中の演習の出来が悪かったので大丈夫かなと心配したのですが、レポートの方はちゃんと計算できていて(まあ、出来て当たり前なのですけど,,,)考察もそれなりに為されたものが多かったので、その点では安堵しました。

 さて、原爆の日、御巣鷹の慰霊の日が終わるとすぐに終戦の日がやってきます。終戦というとその位置付けがピント外れになるので、きょうは敗戦の日と書いておきます。今日が何の日なのか知らない若者が増えていると聞きますが、それはとても憂慮すべき事柄だと思いますね、やっぱり。

 昨晩のNHKテレビでは、敗戦後にソヴィエト連邦軍が攻め込んできた樺太での悲劇が報じられていました。ここにも皇軍—日本軍のことです—が配置されていたのですが、(沖縄や満州と同様に)日本軍が民間人を守ることはなく、一般民衆が多数、犠牲になったとのことです。いつも書いていますが、日本軍は天皇陛下ただ一人のための(もしくは国体護持のための)軍隊でしたから、国民を守るという視点が完全に抜け落ちていました(もちろん、徴兵された兵隊さんたちは自分の家族を守るために戦地に赴いたことと思います)。

 敗戦後の満州や日本に攻め込んだソヴィエト軍の無法は強く非難されるべきで、その行為を正当化できるどのような論理も存在しません。しかし元を糾せば、終戦のための講和をぐずぐずと先延ばしにしてきた日本中枢の判断の甘さがありました。よく言われますが、結局、欧米で何が進行しているのかを把握できなかった、すなわち情報から疎外されていたことが、根本的な欠陥だったわけです。連合国軍との和平のために、当時は中立だったソヴィエトに仲介を頼もうと最後まで(呑気に)考えていたことがその代表例でしょう。

 もちろんヨーロッパの中立国には日本の外交官や駐在武官がいて、彼らは貴重な情報や連合国の動向を本国に送信していました。しかしそれが日本の中枢部で真剣に取り上げられることは残念ながらありませんでした。いわば宝の持ち腐れ、です。日本の敗戦に至る失敗の本質として、常に語られる事柄のひとつです。

 翻って現在はどうでしょうか。このような歴史から貴重な教訓を得て、それを語り継ぐこと、それが大切なことだと思います。全くもって当たり前ですが、敗戦72年目の日にあたり、忘れることなく肝に銘じたいと考えます。


Strain いろいろ (2017年8月14日)

 昔の読書シリーズです。高校一年生の冬に読んだ『アンドロメダ病原体 The Andromeda Strain』(ハヤカワ文庫SF、昭和52年12月)を再読しました。著者はマイクル・クライトンで、原書は1969年刊行です。

 約半世紀も前のSFなので、現代の目で見ると陳腐化しているのではないかという一抹の危惧を持って読み始めました。でもそれは杞憂で、面白くて一気に読み終えました。極めて科学的で緻密なプロットと、ドキュメントのような第三者的な視線が時々挿入されることがリアル感と臨場感とを高めています。コンピュータの描写はさすがに現代の視点からは多少古びていますが、それでもAIの先駆けのような能力も記述されていて、さすがはクライトンだと認識を新たにしました。

 宇宙から地球外生命が地球にやって来て未知の危機を引き起こす、というテーマはSFにあっても古典的な題材ですね。それが知的生命だと『ET』とか『未知との遭遇』になりますし、微生物(あるいはウィリス?)であればこの本になるわけです。ただ半世紀前にこの『アンドロメダ…』で鳴らされた警鐘は、科学技術が格段に進歩した現在にあっても基本的には解決されていないと思われます。NASAやJAXAでは緊張感を持って研究されているのかも知れませんが、少なくとも一般には認知されていないでしょう。

 ところで、タイトルにStrainという単語が使われていますが、菌株とか病原体という意味があるとは知りませんでした。わたくし達がStrainと言ったらそれはひずみという意味ですからね、あはは(例えば、応力とそれに対するひずみはStress and Strainです)。ちなみにStrainを辞書で調べると、Strain1は精神的緊張、悩み、痛めること等で、Strain2は血統、家系、品種、種族などと書いてありました。

 著者のマイクル・クライトンは映画にもなった『ジュラシック・パーク』が最も有名でしょうが、わたくしにとっては『アンドロメダ…』や『ターミナル・マン』(こちらも高校生か大学生の頃に読みました)のようなSFとか、『ウエスト・ワールド』のような映画で馴染み深い作家でした。ハーヴァード大学を出た秀才らしく、才能溢れる多才なひとだったようです。

 でもバリバリの科学信奉者という訳ではなかったみたいで、非科学的なものに対する興味や自然に対する畏怖の念(すなわち人間にとって未知なものや、科学で解明できない事象はまだ無数にあるという認識)を持ち続けていたであろうことは『トラヴェルズ —旅、心の軌跡』(田中昌太郎訳、ハヤカワ文庫、2000年)を読むとよく分かります。


長崎原爆の日とソヴィエトの参戦 (2017年8月9日)

 きょうは長崎に原爆が投下されてから72年目の夏です。台風がやっと去ってくれたのはよいのですが、ものすごい暑い朝となりました。陽に照らされているとそのまま蒸気になって、ユラユラと(クラクラと?)立ち昇りそうな気分になってきます。

 さて72年前のこの日は、二発目の原爆投下に国政中枢が衝撃を受けたわけですが、それに拍車をかける事態が出来しました。それまで中立だったソヴィエト連邦が突然、満州国に攻め込んで参戦したのです。足元を露骨に見られたわけですが、当時の日本はそれこそ“悪の枢軸”の最後の砦だったわけで、そういう無法国家を成敗するという勝手な理屈で襲いかかってきました。どうみても火事場泥棒ですな、やっぱり。しかし、これによって日本帝国の敗戦は必至と判断した昭和天皇のご聖断によって、ほぼ無条件降伏に近いかたちで終戦を迎えました。

 わたくしの父は当時、西八王子にあった陸軍将校の養成学校にいたそうですが、どのような気分で敗戦を迎えたのか、話しを聞いたことはありません。ただ、終戦直前に空襲があって、生徒がかなり亡くなったというのは聞いたことがあります。終戦によって帝国軍隊が解体され、天皇陛下の御ために命を捧げるという教育が一朝にして間違ったものとされたわけですから、その混乱と戸惑いとを思うととても気の毒に思います。

 しかし、わたくしがまだ小さい頃の我が家では、そこで受けた教育が色濃く受け継がれていたようで、とくに食事のときには残してはいけない、最後まで食べるようにうるさく言われました。とにかくその学校の話しが出ると、子供心に恐ろしく感じたものです。

 当時、その将校養成学校に入学できるのはほんの一握りの生徒だけだったようで(全国から志願者があって競争倍率は数十倍だった)、東大に入ることなんかよりよほど大変だったみたいです。実際、我が家ではその学校の話しは折に触れて話題にのぼりましたが、東大の話しは聞いた記憶がありません。でも、それも遠い昔の懐かしい思い出になってしまいました…。

------・------・------・------・------・------・------・------・------・------

 さて72年後の現在にはなしを戻して、わが大学ではきのうから大学院入試が行われています。例年のことですが、暑いのにホントご苦労なことです。我が社の希望者は昨年ほど多くはありませんが、それでも7名が受験していて、その半数は中国からの留学生です。大学院には定員がありますから、全員が合格できるかどうかは分かりませんが、とにかく皆さんの健闘をお祈りしています。


耳ネタAugust 2017 (2017年8月8日)

 この七月中旬に佐野元春の新しいアルバム『Maniju』が出ました。マニジュと読むそうで意味は書かれていませんが、どうやらサンスクリット語のMani(摩尼珠…珠玉、仏の骨の変化したもの)から取られているようです。二年ぶりの新譜ですが、ここのところコンスタントにアルバムを世に送り出しているのは、なかなかすごいことと思いますね。創作活動は未だ衰えず、むしろ溢れ出てくるみたいで、ひと事ながら昔からのファンとしては嬉しい限りです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:アルバムカバー:スクリーンショット 2017-07-31 21.19.13.png

 サウンドとしてはここ数作のバンドの路線を踏襲して、かなりハードなロック感が溢れています。ただそのなかにも佐野くんらしいポップな感覚が随所に盛り込まれていて、なかなかGoodです。全部で12曲が納められていますが、「純恋」(すみれ、と読むそうです)という曲が一番気に入りました。ただ例によってリズムはかなり複雑に作り込まれていて、耳には心地よいのですが、これを口ずさもうとするとうまく追従できません。まあ、わたくしが音痴なだけなんですけどね、がははっ。

 このアルバムを何度も聞いているうちに、1曲目と10曲目との歌詞がよく似ていることやメロディも似ていることに気がつきました。曲名はもちろん違うのですが、1番目は「白夜飛行」で10番目は「夜間飛行」なので、曲名もよく見ると似ていました。こうした試みは、佐野くんの長い創作活動の中でも初めてのことだと思います。

 世はCDからネット経由のダウンロードによって個別の曲を楽しむ時代に変化しつつあるようです。そうなるとアルバム内の曲順はあまり意味を為さなくなるようにも感じます。しかしこのアルバム『Maniju』では、曲の並び順には何か意味があるように思えます。さまざまな仕掛けが施されているようなので、そういった意図は追々明かされるでしょう。

 ちなみにわたくしは手元に何かブツがないといやなので、音楽は全てCDで購入します。ダウンロードだと格納したパソコンが壊れると楽曲が失われてしまうことや、アルバムにはやっぱり手元にアートワークがあったほうがいいと思っているからです。でも、そんなことを言うのは古い時代のオヤジだけなのかも知れませんねえ,,,。

 もう一枚は村田和人の『Showdown』です。彼は残念ながら昨年亡くなりましたが、やはり三十年前から聴いていた、お気に入りのひとりです。先日、彼が1986年に出したこのアルバムの復刻CDをタワーレコードで見つけたので、思わず買ってしまいました。まあ、曲はよく知っているのですが、上記のように手元に置いておきたいということです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:アルバムカバー:41fKnC6g31L.jpg

 復刻CDにはボーナス・トラックが付いていることが多く、このCDにもオーリアンズ(Orleans)の有名な「Dance with me」(例えばこちら)の村田版が格納されていました。すごくいい曲ですが、(わたくしのような)音痴には歌うのが難しいリズムラインです。でもさすがにプロは上手です(って、当たり前か)。村田さんの新しい曲はもう聞けませんが、それでもいろいろな音源が残っているので、そういったものをこれからも噛みしめて楽しんでゆこうと思っています。いつまでも Boy's Life だぜ!

追伸; 「Dance with me」を聴いていて気がついたのですが、風(1970年代のフォーク・デュオです)の「あとがき」というお気に入りの曲のある部分がこれとよく似ているように感じます。風の曲たちには伊勢正三が唄っている曲に有名なものが多いのですが、「あとがき」は大久保一久がボーカルをとっている曲で、アレンジが秀逸です。「Dance with me」が先発ですので、この曲をヒントに「あとがき」が作られたのかも知れません、分かりませんけど,,,。


原爆の日2017 (2017年8月6日)

 台風が近づいているせいで東京は曇っています。72回目の原爆の日は日曜日です。先祖たちの努力のお陰で日本は今のところ平和が保たれています。しかし世界を見れば、そんなに安穏としてはいられないのはご承知の通りです。権力に対する人間の欲望には限りがありません。それを維持するため、あるいは新たに奪取するため、核兵器は未だに無くなることはありません。

 しかし一度それを使えば、人類は滅亡の憂き目を見ることは明らかでしょう。それはSFの世界ではなく、現実として目の前に広がっているのです。人類が誕生してから700万年と言われています。その間、ヒトは進化し続けて現在のホモ・サピエンスに至りました。われわれがまだ進化を続けているとすれば(地球上の生物としてそれは確実だと思いますが)、そのような人為的な危機を避けるべく未知の叡智が醸成され、やがて花開くと信じています。

 今月末に建築学会大会が広島で開かれます。久しぶりに広島に行きますが、今回はRC構造運営委員会のタスクが多いため、広島市内の建物を巡る時間はとれそうもありません。残念ですが、それはまたの機会に、ということで。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:広島2012:CIMG2357.JPG
   写真 広島にて(2012年撮影)


集中する (2017年8月4日)

 梅雨に逆戻りしたようなどんよりと蒸し暑い日々が続いています。まとまった雨が降ると野川の小流はいったん回復しますが、すぐにまた元の渇水状態に戻ってしまいます。ここのところ、カワセミも鴨たちもトントご無沙汰です。元気かな〜。

 さて七月末から建築学会の委員会が連続してありました。そのすべてが、規準、指針あるいはState-of-the-Art のような資料集といった出版物の作成(すなわち、原稿執筆)にかかわるタスクでした。偶然ですがこれらが一週間のうちに集中的にありましたので、わたくしの頭のなかではこの委員会は何の原稿だったかゴッチャになってしまうようなこともありました。さて、以下はかなり専門的な事柄になりますので、興味のある方だけどうぞ。

 2016年4月に出版した「鉄筋コンクリート構造保有水平耐力計算規準(案)・同解説」ですが、引き続き和泉信之主査(千葉大学教授)のもとで改訂作業に当たっています。出版したばっかりなのに、もう改訂するのかとお思いかも知れませんが、この規準には(案)の字が付いています。出版するまでの学会内でのたび重なる査読のなかで、この内容は出版物に(案)の字が付いているのでまあ大目に見てやる、というご意見をかなりいただきました。すなわち、規準としては不十分とか不明瞭とかいう箇所がかなりある、ということです。

 また(案)の字付きの規準では、将来、国土交通省にエンドースしてもらうにも都合が悪い、ということを漏れ伺っています。そこで、早期にこの(案)の字を削除するために、規準として認知されるように実力を整備しよう、ということになりました。

 わたくしに関係するトピックとしては、柱の変形性能を部材種別FAと同等と判定するための方法が懸案になっています。Demand側としては、柱の軸力を評価する際に水平二方向地震動による軸力をどのように評価すべきか、が挙げられます。現行法規では基本的には水平一方向ずつの検討によってOKとしていますから、これを水平二方向地震動による軸力の累加を考えるように変更すると、やり方によっては既存不適格建築を膨大に産み出すことになってしまう懸念があります。それは避けて欲しい、というのがお上サイドのご意向のようですが,,,。

 Capacity側としては、部材種別FAと同等の変形性能を維持できると判定する際、柱に許容する軸力比の最大値を0.67に設定することの妥当性、が挙げられます。この部分は石川裕次さん(現・芝浦工大教授)が既往の実験結果を精力的に検討してくれた結果として新規提案した、この規準(案)の売りのひとつでもあったのですが、やはり釣り合い軸力比0.4をはるかに超えるような高圧縮軸力を許容して大丈夫か、という懸念が湧き上って参ります。

 設計という行為にあたっては結局、DemandとCapacityとをセットで考えることによって、設計した建物にそれなりの安全性(余裕)を確保できるようになります。この両者を睨みながら、皆さんが合意できるバランスを探ることが今後のわれわれのタスクになるのでしょうね。

 上述の規準(案)は保有水平耐力計算にかかわるものでしたが、日本の法律では限界耐力計算も認められています。そこで、応答スペクトルに基づいた等価線形化法を用いる性能評価型の設計手法を新たに構築する作業が、勅使川原正臣主査(名古屋大学教授)のもとで進んでいます。こちらについては原案はいちおう完成して、鉄筋コンクリート構造運営委員会の三名の委員による査読結果が出揃い、それへの対応を協議している段階です。

 ただ、こんなことを言うと勅使川原先生に怒られますが、多層建物(多質点系)をたった一つのお団子に縮約し、その一質点系の地震応答を推定して、その結果をまた各層各部材の応答量に戻してやる、という、ある意味まどろっこしい手法が、今後普及して使われるようになるのかどうか、迂生はかなり疑問に思っています。どうせ骨組モデルを作成するのですから、そのまま立体骨組の地震応答解析をやったほうが早いでしょうな。計算機のパワーは今後も増強されるでしょうから、わざわざ一質点系に縮約することもあるまい、ということです。(つづく)


暑いのに期末試験 (2017年8月1日)

 八月朔日(八朔の日)がやって来ました。物なり豊かな三遠駿の地を豊臣秀吉から体よく取り上げられた徳川家康が、恨みを抱きながら関東の鄙びた江戸に入部した日です(もう毎年書いていますから覚えましたね、皆さん?)。

 さて、わが大学では今週が期末試験週間に当たっています。今年度からセメスター制に対応できるように前期の真ん中に補講期間が設定されたため、期末試験の時期が今までよりも一週間後ろにズレてしまいました。いくら冷房が入っているとはいえ、八月に期末試験を実施するなど、正気の沙汰とも思えません。

 ということで本日は、鉄筋コンクリート構造および建築構造力学1の期末試験を実施します。蝉の鳴き声もこれだけ重なると暑苦しく感じますね。こんなに暑いなか、学生諸君は大変だと思います。学年暦を何とかして欲しいものです。これというのも、文科省が半期15回の授業をキッチリ確保するように全大学を統制していることが主因でしょう。そのご趣旨は理解しますが、半期に教える内容を満足できるのであれば、もう少し柔軟に運用してもよろしいのではないかと愚考します。


夏休みの宿題2017 (2017年7月31日)

 子どもは夏休み全開ですが、親にとっては頭の痛い夏休みがまたやって参りました。今年もまた家内から子どもの夏休みの自由研究を何とかするように(って、親が研究してどうするの?[例年通りの“お約束”です])というお達しを受けました。おとーさんは大学の先生だからそういうのって得意でしょ、って言うんですから,,,。まあその通りですけど、学術論文みたいにキッチリ書いたら、子どもの作品らしくないじゃないですか。

 そこでことしは子ども独りで図書館に行かせて、好きなテーマを勝手に選んで来い、ということにしましたが、それはあえなく挫折しました。それで家内が、昨年は「日本沈没」だったので今年は「津波」にしようとアドバイスして、子どもがそのテーマの本をたくさん借りてきました。

 でもそのままじゃ、どうしてよいか分からないというので、始めに「研究」の大体のストーリー(章立て)を父親が考えてやりました(得意ですから、がははっ)。それから、借りてきた本を子どもと一緒に読みながら、そのストーリーの肉付けに役立ちそうなところを抜き書きしたり、図を写したりさせました。しばらくは一所懸命にやっていましたが、しばらくするともう飽きたらしく、この日は結局、下書きまで進めませんでした。

 研究って、われわれプロも集中力が重要ですが、それは子どもの夏休みの自由研究でも同じことが言えそうですな。かく言う迂生だって、小学生の頃は落ち着きがないと言われ続けるような集中力ゼロの子どもでしたから、自分の子どものことをとやかく言えないわけですよ。ただ、そんなことは家内は知りませんから、子どもに向かってガーガー文句を言うんですね〜。ということで自由研究が完成するまで、しばらくは修羅場が続きそうな感じの我が家でございます。


そんな場合か? (2017年7月27日)

 M進党の蓮舫さんが同党代表を辞任するという報道が今日、ありました。先日、野田幹事長(元首相ですよ)が辞めると言ったばかりです。確かに都議選ではM進党のことはほとんど話題にすらならず、同党の退潮は末期的な様相を呈しているように見えますね。

 だからこそ、今後の日本の政治をどうするか、野党第一党として真剣に議論して市井のひとびとに説き、そのための布石を着実に打って欲しいと期待していました。ところが、どうでしょう。M進党のなかでは相も変わらずお家騒動(としか外部のわれわれには見えないような茶番)にうつつを抜かしているとしか思えません。そんなことをしている場合ではないということに、この期に及んでもまだ気が付かないのでしょうか。

 事ここに至っては、M進党はもうダメかも知れませんねえ(認識がおそ過ぎ?)。政権時の失策と無策の数々を国民は未だに忘れない、ということでしょう。J民党のように主義主張が異なるひと達が集合する、ということは政党としてあり得るでしょう。しかしそのためには、そういうひと達を統合するための柱や旗が必要で、M進党にはそれを確立することがついに出来なかったのだと思います。すなわち、烏合の衆です。政党としてのレゾン・デートルはどこにあるのでしょうか…。


健康診断2017 (2017年7月26日)

 昨年は体調が絶不調だったため、健康診断を受けられませんでしたが、ことしはなんとか大丈夫でした。きょうの午後の診断開始とともに会場に入りましたが、ほとんど来場者はなくて、きわめてスムーズに25分くらいで終えることができました。

 ことしの問診のお医者さんは例年と較べて丁寧なかたで、いろいろと聞いたりして下さいました。ルーチンワークとは言え、やっぱりお医者によってまちまちということでしょうか。血圧測定と採血とはいつまでたっても慣れません。

 とくに血圧を測定するために幅広の布みたいなもので腕を締め付けられると、心臓がバクバクし始めるのが分かって、どうにも気分が悪くなってきます。採血も、抜いたあとのどす黒い血液(って、自分の血なんですけどね,,,)を見せられただけで、もう気分最悪です。こういうイヤな気分を味わうことなく、(非破壊検査みたいに)非侵襲で損傷とかストレスとかを与えない検査方法ってないのでしょうか。これだけ科学技術が発展しているのですから、そういう方法を是非考えて欲しいと思います。


すごい国 (2017年7月25日)

 蒸し暑い日が続いておりますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。さて、お昼のお弁当を食べながらACI(American Concrete Institute)の月刊誌Concrete International を見ていました。巻頭には必ず会長のメモが1枚掲載されていて、何気なくそれを読んだところ、中国が2011年から2013年のあいだの3年間で使ったセメント量(6.6ギガトン)は、米国が20世紀の百年間に使ったセメント量(4.5ギガトン)を超えた、と書いてありました。3年間で米国の100年分を優に超えるセメントを使った、というのですよ。

 いやあ、驚くべき事実ですな。お隣の中国は広大な国土とべらぼうに多くの国民とを有する超大国ですが、インフラ整備などの経済活動も世界の度肝を抜くような大容量だということを改めて理解できます。基本的人権の尊重が危ぶまれるとか、共産党一党支配のような問題はいろいろとあるようですが、とにかくすごい国ですね〜。

 ところでACIですが、わたくしは会員なのですが、二十年くらい前に会員になったときの会費は年額170ドルくらいでした。ところが請求される会費の額は年々少しずつ増額してゆき、今では230ドルを超えています。もちろん年齢を重ねれば普通は収入も増えるでしょうから、年寄りには多くの会費を負担してもらう、という考え方は合理的なような気もします。でも、日本の学会ではそのようなことはないように思います。何につけ、アングロ・サクソン流のものの考え方は和流とはかなり異なるということが分かります。

 ちなみにACI Journalの論文は掲載料は無料ですが、査読者に対する謝金もありません。これもひと昔前の日本ではあり得ないことでした。以前に書きましたが、ACI Journalの論文査読は大変なのにボランティアです。そのうえ、会費は年々増額されるというのは、ちょっと納得できないような気もしますね(相変らず、ちっちゃな人間ですな〜、がははっ)。もっとも日本建築学会の論文査読の謝金も今年1月に廃止されて、査読はボランティアになりました。その理由は予算不足、ということみたいです。


アクティブ・ラーニングのセミナーに参加する (2017年7月22日)

 先日、FDの一環として学内で開かれたアクティブ・ラーニングのセミナーに参加してきました。今回は定員30名で申し込み先着順ということでしたので、是非参加したいと思って、一ヶ月ほど前に急いで予約しました。すぐに満員になるだろうと予想したからです。

 でも、行ってみたところ、会場は6号館(昨年まで、基礎ゼミナールをやっていた教室棟です)の90名くらい収容できる結構広い教室だったのですが、集まったのはわずかに13名に過ぎませんでした。後述するようにこのセミナーはワークショップ形式でして、グループ討論などがあって教室全体を見渡せたので、参加人数をゆっくり数えることができたのです。

 えっ、なんでこんなに少ないの?っていうのが率直な感想でした。文科省の肝入りもあって、アクティブ・ラーニングは一般社会でも相当に認知されてきています。それを考えると教員の皆様がたの認識も高まってきていると思ったのですが、そうでもないのかな。あるいは皆さん、既にそんなことは先刻ご承知でアクティブ・ラーニングをスラスラと実践できている、ということでしょうか。

 さてセミナーですが、講師は阪大・教育学習支援部・講師の家島明彦先生です。ご専門は心理学、教育学やキャリア・カウンセリングということでした。わざわざ大阪から90分のセミナーのために八王子くんだりまでお出で下さったのかと思うと、自然と頭が下がりますな。さすがに教育法のプロだけあって、セミナーの随所に仕掛けが施されていて、とても参考になりました。ただ、彼にとっては日頃から行なっている講演のひとつに過ぎないでしょうから、ルーチンワークに近いのかも知れません。

 それでも現役の大学教員たちに対して、アクティブ・ラーニングの要諦を90分で叩き込もうというのですから、それなりの苦労もあるのでしょうね。セミナーでは途中に二人一組になって自分が学生の頃に試みたアクティブ・ラーニングを紹介し合うとか、アクティブ・ラーニングの実践法を31例紹介した文書を読んで自身がそれを実践したことがあるか、実践してみたいか、やりたくないか、という分類(○、△、×)を5分間でやったあと、四人一組のグループになってそのことについて10分間討論して、その結果を他のグループに紹介し合う、というようなアクティブ・ラーニングを実際にやってみる?ということも含まれていました。

 以前にも書きましたが、アクティブ・ラーニングの実践法って、馴染みのない名前が付けられていて(バズ・セッション、ジグソー法、クリッカーとか)、それがそもそもどんな方法か全く知りません。ですからそれらの説明をじっくり読みたいのですが、なんせ時間が5分しかなくて、おまけに家島先生があと1分です、とか、それじゃペースが遅いですよとかプレッシャーをかけるものだから、久しぶりに出来の悪い学生に戻った気分でした、あははっ。

 また、二人とか四人で話し合えって言われても、初めてお会いした先生がたと何をどう話したら良いのか迂生は全く分からず、ホント途方に暮れる気分でした。そこでハタと気がついたのです、わたくしが教えている学生諸君もわたくしと同じように戸惑っているのかなと。

 ほかの先生がたとお話ししているうちに、ここで紹介された実践例はどちらかと言うと文系オリエンティッドな手法であることがだんだんと分かってきました。ですから、工学には工学に適したアクティブ・ラーニングのやり方があるのではないでしょうか。また家島先生も、手法にはいろいろあるので、それが上手くいっているのであれば、それも立派なアクティブ・ラーニングの一手法である、と言っていました。

 またセミナーのなかで、授業の全てをアクティブ・ラーニングにする必要はない、ということを伺ってちょっと安心しました。例えば、通常の一方向の講義において、ときどき学生諸君への問いかけをして考えさせる時間を取るとかすることでもよい、と仰っていました。それなら、わたくしも普段からやっています(もっとも問いかけても、返事はほぼ返って来ないんですけどね、そこがつらいんだな〜)。

 ということで、いろいろと参考になりましたし、このセミナーに参加してよかったと思います。今後どのようにアクティブ・ラーニングを取り入れて実践するのか、模索を続けることに変わりはない、という当たり前のことを再認識いたしました。人間、一生勉強だ、と言われますが、わたくしに言わせれば教授法も一生苦心しないといけない、ということみたいです。結局、授業の方法に王道はなく、試行錯誤を続けるほか道はないのでしょうね。

 ところでアクティブ・ラーニングを享受する側である学生諸君の反応ですが、家島先生のお話しによると、最近の日本の学生さんはアクティブ・ラーニングよりも坐って聞くだけの(通常形式の)授業のほうが好き、という調査結果が出ているそうです。アクティブ・ラーニングでは予習や当日の作業、そして課外活動などで大変、というのがその理由だそうです。授業をするほうとしては、様々な工夫を施し、それなりの仕込みと準備とをした挙げ句に、そんなアクティブ・ラーニングは好きじゃない、とソッポを向かれるわけですから、なんだかな〜っていう脱力感満載じゃないですか。ほんと、センセはつらいよ、でっせ、とほほ,,,。



ことし唯一の実験、はじまる (2017年7月19日 その2)

 今朝、鉄筋コンクリート十字形柱梁部分架構の試験体3体を大型構造物実験棟に搬入いたしました。ことしは我が社本来の実験の計画はなかったのですが、芝浦工大・岸田研究室からお声掛けいただいて協同実験を行うことになりました。というか、岸田慎司先生に全面的に依存した、おんぶに抱っこ状態なんですけどね、あははっ。お仲間に加えていただき、どうもありがとうございます。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC柱梁部分架構実験_岸田研_ネツレン_三井住友建設2017:試験体搬入20170719:DSC_5457.JPG

 岸田研からは卒論生2名が、我が社からは卒論生の長谷川航大くんが研究担当者になって作業が進行中です。ただ卒論生諸君は実験をやったことがないでしょうから、折に触れて岸田さんに来てもらって指導していただいています。今日の搬入にもお出で下さいました。いつもありがとうございます。ホント、助かっています。

 そろそろ梅雨明けでしょうが、とにかく暑い日が続いています。試験体の作製や搬入はまだ続きます。とにかく健康と安全とに注意して作業して下さい。皆さんの健闘を期待しています。


現代の聖人は… ある医師の105年 (2017年7月19日)

 聖路加病院の日野原重明先生がお亡くなりになりました。105歳だったそうです。日野原先生のことはほとんど知りませんが、それでも100歳を過ぎてもなお現役の医師を続けるという超人的な方だったことは存じています。

 朝日新聞の土曜版に「105歳 私の証 あるがまま行く」というコラムを毎週書いておいででしたが、ここのところそれが滞っていたので、さすがの超人先生もお歳を召して大分お疲れになったのかなと思っていました。しかし残念ながら、この7月8日に医師ウイリアム・オスラーについて書いた文章が絶筆になってしまいました。瀬戸内寂聴さんは、この先生は死なないと思っていた、と言ったそうですが、わたくしもほとんど同感です。

 日野原先生は食事にすごく気を使っていて、動物性タンパク質を補充するために週に一回は90グラム程度のステーキを食する、と言っていました。年齢を重ねると牛肉などは食べたくなくなります(わたくしもその境遇にそろそろ至りそうです)が、それでは健康を維持できないというまさに科学的真実に従って生活されていた訳ですね。さすが生涯現役医師、といったところでしょうか。

 日野原先生が医者になったのは太平洋戦争が始まった頃だそうです。その暗い時代を先生はどのように過ごしたのか。一億の日本人が総じて火の玉になって戦争に突入した時代は、良識ある医者にとっていかに住みにくい場所であったことか、想像にかたくありません。

 当時のお医者は軍医になるか、生物兵器の開発等で軍部に協力するか、いずれにせよ軍国日本に資することを求められたはずです。アメリカ人捕虜を生きたまま解剖した「九大医学部生体解剖事件」(遠藤周作の『海と毒薬』のモデルとなったでき事)は医者がその主人公でしたし、中国で細菌兵器を製造した731部隊にも医者が協力していました。そのようなつらい時代を日野原先生はどのように生きたのか、あるいは生きようとしたのか迂生は知りません。でも、察して余りあるとは、まさにこのことでしょうね。

 そのようなつらい時代を生き抜いたからこそ、戦後、自由な時代が到来すると、理想に燃えてご自身の信じる道を邁進し、その理想の幾ばくかは実現されたのだろうと思います。何も知らないわたくしでも、それは素晴らしい人生であったであろうと推量します。

 そのような超人、いや聖人がきのう、天に召されました。ご冥福をお祈りします。


高校野球おわる 〜2017年 夏〜 (2017年7月18日)

 ねっとりと暑い日々が続いていますね。セミの声をちらほら聞くようになりましたが、南大沢キャンパスではお役目を終えて果てたセミを早くも見かけました。よくは知りませんが、セミって7年とか11年とか13年とかを地中で過ごして出てくるんですよね。それを思うと、いみじうあはれなり、という感じです。ちなみにセミの地中で過ごす年数は素数になっていて、そうすることによってある年のセミの大繁殖を防ぐようになっている、という話しを聞いたことがあります。長い年月による自然淘汰の賜物でしょうか。

 さて、高校野球の東京都予選はいまたけなわです。南大沢には西東京大会予選の野球場があるので、今朝も駅前に高校球児達が集合しているのに行き会いました。朝一の試合でしょうが、その首尾はどうだったのでしょうか。

 わたくしの母校の都立A高校ですが、東東京大会の3回戦を勝ち抜き、今朝、母校の目の前の神宮球場にて4回戦に臨みました。相手は強豪私立の二松学舎大学付属高校です。もうその名前を聞いただけで勝てる気がしませんが、案の定、0−7のコールド負けを喫しました(授業だったので、神宮まで行ったわけではありません。ネットの速報で見てみました)。

 ちなみにこの展開って、わたくしが高校生だったときとそっくり同じで、そのときには4回戦の相手は早実で、やっぱりコールド負けでした。でも、神宮球場はまさにわがホームなので、そこでのゲームには在校生のほとんど?が集まります。すなわち、負けてもものすごく盛り上がるというわけです。ゲーム終了後のエールの交換や、「さみどり匂う神宮の〜杜にそびゆる学び舎よ〜」という校歌斉唱が神宮の杜に轟き渡ったことでしょう。

 これで現役の皆さんの短い夏が終わりました。でも、4回戦までよく頑張ったと思います。ここから先は大学受験でしょうね(おっとその前に、秋の外苑祭があったな)。後輩諸君の今後の活躍を期待しています。

-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----
追伸(2017年8月1日) わが母校に勝った二松学舎大学付属高校ですが、結局、今年の東東京の代表校に勝ち上がりました。そういう優勝校に善戦したわが母校に再度拍手をおくりま〜す、パチパチパチッ。


仙台にて (2017年7月15日/16日)

 ことしのコンクリート工学(JCI)年次大会は仙台で開かれました。この大会には授業とか会議とかで都合がつかずに参加できないことが多いのですが、ことしは木曜日の教授会に出席してから仙台に行って、最終日だけ参加することができました。

 さて、往路の新幹線で隣りに坐ったひとが、いきなりコピーの束を取り出して読み始めたのですが、フッと見るとそれはJCI年次論文でした。ああ、このひとも同じ大会に参加するひとかと思いましたが、その論文をどうも見た記憶があります(って、しげしげ見たわけではなくて、載っていた図に心当たりがあっただけです)。そこで横目を使ってその論文のタイトルや著者を読み取ると、それはなんとわたくしが査読した論文だったのです。その隣人は与り知らぬ他人さまでしたから、土木分野の方だったのかもしれません。

 実はわたくしも、同じように論文のコピーを束にしてリュックに入れていましたが、それは某セッションの座長(司会のこと)を頼まれていて、そのセッションで発表される論文の出来や講演内容の上手下手を採点する必要があったからです。ですから、夕方の車内で(ビールも飲まずに)そんなに一所懸命に論文を読むということは、その隣人も多分、どこかのセッションの座長だったのではないかと推察します。

 JCI年次大会では論文の発表会のほかにコンクリート・テクノプラザという企画もあって、ゼネコン、セメント会社、混和剤メーカーなどがPRのためのブースを出展しますが、そのなかにことしもアシス株式会社(いつもお世話になっている試験体作製会社)のブースもありました。

 で、お昼どきにそのブースに行ってみると、清水建設技研の金本清臣さんと竹中工務店技研の掛さんとがパイプ椅子に座ってお弁当を食べています。そこに村上のおじさん(社長です)も戻ってきて、結局、わたくしもそこで買ってきたお弁当を食べ始めました。でも、PRのためのブースの前に四、五人のおとなが椅子に座ってお弁当を食べている風景って、その会場の中ではそこだけでして、異様というか、明らかに場違いという雰囲気が蔓延していましたね。これじゃ、せっかくのPRのためのブースなのに、ほかのお客さんが入りにくいのは明瞭なのに、村上社長は一向に気にしていないんですから、こちらが心配になったくらいでした。

 さて本題の論文発表ですが、ことしの我が社は苗思雨くん(この春に大学院を修了)の一編だけでした。昨年度の四編と較べると寂しい限りですが、これが我が社の今の実力ですから、まあ仕方ないか。彼の発表は最終日の最終セッションでしたが、幸いわたくしも出席することができました。ちなみにこのセッションの建築側の座長は金本清臣さんで、土木側の座長は当初予定していた方が参加できず、ピンチヒッターの方が担当していました。

 さて、苗思雨くんの発表は上手にできましたが、質疑応答になると質問者とのチグハグなやり取りが目立って、あとで本人に聞くと頭が真っ白になって質問の内容がよく分からなかったと言っていました。しかしながら、緊張している上に彼にとっては外国語である日本語で議論しないといけないわけで、それを考えると苗思雨くんはよく健闘したと思いますね。

 ですから、そのあとの閉会式の式場で、年次論文奨励賞の受賞者名が会場のスクリーンに投影されて自分の名前があるのを見た苗思雨くんは、自分自身、ビックリしたと言っていました。ちなみにそのとき迂生は、河野進さん(東工大教授)と楠原文雄さん(名工大准教授)とで建築学会の委員会活動についてあれこれ相談していて、フッと気がついたときには閉会式の終わりの時刻を過ぎていました。

 あわてて閉会式の会場に向かいましたが、既に人気はなくて片付けが始まっていました。で、そのあたりをウロウロしていると晋沂雄さんにバッタリ会って、「苗さんは年次論文奨励賞を受賞しましたよ」と聞きました。いやあ、嬉しかったですねえ。質疑応答がうまく行かなくても、査読時の論文の評価が高ければ奨励賞をいただけることもありますから、彼の場合は論文の基礎点が高かったのだと思います。

 JCI_Annual Meeting 2017_1
   写真 閉会式での授賞式(JCI年次大会のツイッターより)

 苗思雨くんは大学院から我が社に入ってきましたが、研究室で熱心に研究し、プレゼンテーションのやり方についても(小谷先生ゆずりの)わたくしの厳しい指導を受けてきました。その努力の成果が奨励賞の受賞に結びついたわけですから、本当によかったと思います。

 それから、わたくしは国籍を意識することは普段はありませんが、やはり言葉の問題は大きいですから、その点からも苗くんの受賞は意義深いものがあります。ちなみに我が社の外国籍の受賞者は、1994年の姜柱さん以来、二人目になります。

 その晩、仙台駅の近くで金本清臣さん、晋沂雄さん、苗思雨くんの四人で祝杯をあげました。久しぶりにアンボンド・プレキャスト・プレストレスト・コンクリート・チーム(って、名前が長過ぎ!)が再会したわけです。お気づきでしょうが、苗くんのセッションの座長のひとりが金本さんだったことはやっぱり幸運だったんでしょうが、これ以上言わないことにします。

 苗思雨くんの受賞で、我が社では三年連続で年次論文奨励賞をとることができました。よく書いていますが、研究室の研究の進展は優秀な学生諸君が入ってくることにかかっています。とくに2010年代に入ってから、研究室のアクティビティは相当に向上したように感じています。我が社で今までにこの賞を受賞したひとは全部で9名いますが、そのうちの6名はこの五年間に集中しています。現役の学生諸君もこういった先輩方の活躍を糧として、一層の飛躍を期待しています。

 JCI_Annual Meeting 2017_2
写真 年次論文奨励賞の記念品(雄勝硯のペントレー)を持つ苗思雨くん

 久しぶりに晋沂雄さんと話しましたが、東北大学・前田研究室の研究活動は多岐に渡っていて、非常に活気があることを伺いました。鉄筋コンクリート構造に限らず建築構造学の分野を幅広く扱っているそうです。晋沂雄さんは正規の助教という立場ですから、そういった研究の全てに目を配って、場合によっては学生諸氏の論文執筆の指導もする訳ですから、我が社にいたときよりも格段に忙しいことでしょう。でも、多種多様な研究に触れることで得られるものは多く、そういった経験は将来、必ず役に立つと思いますので、できる範囲で頑張って欲しいと思います。

 話しは変わって、最近の大学院生事情に移ります。金本さんから、技研に就活のために来る大学院生のなかには論文も書かないくせに研究したいって言うひとがいるんですよ、という話しを伺いました。金本さんとかわたくしとかが大学院に入った頃は、純粋に研究をしたいひとが大学院に進学したものです。でも、時代は確実に変わりました。これもよく書きますが、今では先端研究がしたいという大学院生は少なくなって、むしろ確たる目標もなくキャリア・パスの一つとして大学院に進学する、というひとが増えています。レベル的には昔の卒論生と同等程度のように感じますね。

 そういうひと達に(昔の自分のように)アグレッシブに脇目も振らずにガンガン研究しろと言ったって、それは土台無理な相談でしょう。ですから研究室の学生諸君の性向を注意深く見極めながら、それぞれに見合った指導をして行こうというのがわたくしの方針です。いろいろなひとがいるのはそれこそが多様性の根源ですから、よいと思います。ただ、何のために研究室に入ったのかという目的は、常に反芻してよくよく意識して下さい。

 もうひとつ強調したいことは、我が社では大学院生といえども研究者(の卵)としてカウントされることです。このことは我が社のウエブ・ページに明記してありますし、大学院入試の前の面談の際に皆さんに確認しています。このことも折に触れて再認識して欲しいと思います。

 -----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----・-----

 以下は、JCI年次大会でわたくしが座長を務めたセッションの感想です。そのセッションでの発表はほぼ全てが土木分野の研究で、建築分野のものは一編だけでした。その点だけから言えばわたくしは完全なアウト・サイダーで、発表した皆さんも座長の北山って誰だ?みたいな感じだったと思いますね。

 それでもほとんどの研究は実験を主体としたものでしたので、その点ではわたくしにとってはファミリアな分野とも言うことができます。で、それらの研究内容ですが、土木分野のきわめて実務直結型の研究が多かったせいか、実験やったらこんなになりました、みたいな論文が大多数だったのは残念でした。

 セッション内でわたくしから質問やコメントをしましたが、そのような実験結果となった理由や、そのようになるメカニズムを考察して説明することが研究だと思いますけどね。それから、実験の詳細をきちんと説明していない論文が見受けられたのも、いただけませんねえ。土木分野の論文を久しぶりに真剣に読みましたが、(言っちゃ悪いのですが)ちょっとレベルが低いのではないかと心配になった次第です。

 でもまあ、普段の我が社のことを考えれば、他人さまのことをとやかくは言えません(あははっ)。それでもJCI年次論文は鉄筋コンクリート構造学の分野で言えば、日本建築学会の論文に次ぐレベルのRefereed Paper ですから、それなりのレベルと格式?がある論文集だと認識しています。その採択率は例年85%程度だったと思いますから、査読をもう少し厳しくしてもよいのかも知れません。


高校野球はじまる 〜2017年 夏〜 (2017年7月13日)

 昨日の八王子の気温は35度もあったようです。道理で息もできないくらい空気がネットリとして、ベタベタとまとわりついた訳です。もう、梅雨は明けたと思いますけど、わたくしは。

 さて、高校野球の東京都予選が始まり、先日、我が母校が登場して、6−3で勝利しました。で、新聞の地方欄に小さくスコア等が載っていたのでよく見ると、2−2の同点で迎えた8回裏になんと満塁ホームランが飛び出して勝ち越し、9回の相手の攻撃を1点でしのいで勝ったそうです。いやあ、すごいじゃないですか。

 フツーの都立高校の選手がホームランを打つところなんて(わたくしは)見たことありませんし、それが満塁ホームランというのですから、もう驚きです。応援していたA高の生徒諸君は欣喜雀躍したでしょうし、打った選手はさぞ男をあげたことでしょうね。こんな最高の勝ち方なので、チームの士気も大いに上がったと思います。その勢いで次も頑張って下さい。と言っても、相手がどこだかは知りませんけど、あははっ。


お暑い日々 (2017年7月11日)

 東京では真夏の太陽が照りつける、かなり暑い日々が続いておりますが、皆さま、いかがお過ごしでしょうか(と、手紙調になってみる)。東京に限ってはもう梅雨は明けたというふうに思いますけど、どうなのでしょうかね。

 さて我が家では先週末に突発事態が発生して、それへの対応に追われています。いくつかの事柄が運悪く重畳したため、対応すると言っても選択肢が非常に限られていることが、状況をいっそう悪くしています。弱り目にたたり目、とはまさにこのことでしょうな。

 例年、この時期は体調が絶不調になることが多かったのですが、今年は(どういうわけか)幸いにもそういうことはなくて、具合よく過ごせそうだなと思っていました。ところがこの突発事象のせいで、いきなりストレス全開になったものですから、あっという間に不調へと転げ落ち始めました。ホント、人間の体って精神的なものと直結していることがよく分かります。いずれにせよ与条件が多いなかで、ベストとはいえないまでもそれに次ぐ解決法を模索しているのが現状です。

 今週の後半には、コンクリート工学年次大会が仙台で開催されて、それに出席することにしています。しかし、そんな気分ではなくなって来ましたな。人間の感情って、本当に現金なものだと、つくづく思います。とにかくこのストレスを早く解決して(って、どうすりゃいいんだろうか,,,)、精神と肉体との健康を取り戻したいと願っている次第です、はい。

-------・-------・-------・-------・-------・-------・-------・-------・-------・-------

 お暑いって言っていたら、今(ちょうどお昼です)、館内放送が、消費電力量が多くてピーク・カットになりそうだから節電しろ、と言い出し始めました。ことし初めての"警報"です。これからまた、つらい季節が始まりますね〜。


七夕に改訂版 (2017年7月7日)

 まだ梅雨は明けてないみたいですが、八王子は晴れています。きょうは七夕ですから、晩にはお星さまが見られるかも知れません。芝浦工大・岸田研究室との協同実験では試験体の一部が完成し、七月下旬から本学の大型構造物実験棟で載荷する予定です。きょうは朝から岸田慎司先生が来校して、梁端治具の入れ替え作業をして下さっています。岸田研と我が社の学生諸君も一緒です。暑いなか、ご苦労さまです。

 さて以前に書きましたが、既存鉄筋コンクリート建物の耐震診断基準(日本建築防災協会)の改訂版(2017年7月)が出版されました。壁谷澤寿海委員長を始めとする委員の皆さまの努力の賜物です。わたくしは途中からの参加だったこともあって、たいした貢献もできずに申し訳ない気分です。それでも、新しい耐震診断基準の改訂に参画できたことは嬉しいですし、誇りに思います。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:建防協_耐震診断基準2017_01.JPG

 ざっと見たところ、わたくしが書いたところではWordに貼り込んだ図が編集の過程でずれたせいか、変なところに変な文字が被さっているのを発見しました。まあ、初期欠陥?はやむを得ないのでしょうな。訂正が適宜施されて、だんだんと落ち着いてゆくものと思います。これから皆さんの目に触れるでしょうから、おかしなところがあったら教えて下さい。


台風一過と基礎ゼミの相談 (2017年7月5日)

 昨晩は台風が通過したので、ものすごい雨でしたね。しかしそれも今朝になってあがり、大学に出勤する頃にはお日様が照り出して、なんだか夏本番を思わせるような青空が広がり始めました。もう梅雨明けでしょうか、よく知りませんけど,,,。

 さて、昨日、1年生の建築構造力学1の授業が終わったあと、ある学生さんから基礎ゼミナールの課題について相談がある、と言われました。経緯を聞くと地理コースの高橋先生の基礎ゼミの課題で、長周期地震動について調べていると言います(課題は自分たちで好きに選んでよいそうです)。で、何が聞きたいのですか、と聞いてみると、集まって来た建築都市コース、システムデザイン、地理の学生さん三名が脈略もなく地震動や建物の耐震性や耐震補強などに関連する事柄を並べたてて、これらを説明して下さい、というのです。

 まあ一年生だから無理もないかも知れませんが、自分たちで調べもせずに、いきなり教えてくれ、というのはないよね、君たち、とまず諭しました(やさしい先生だな〜)。次に、あなたたちが言ったことは相互に関連がなく、何を調べたいのか分からない、とコメントしました。

 じゃあ、どうすればいいのですか、みたいなことをさらに聞くので、調べる対象をもっと絞って、その事柄を重点的に調べると良い、とアドバイスして、たとえば、これこれといくつか例を挙げてあげました。そうしたら、じゃあ、それを説明して下さい、とまた言うんですから、もうビックリです。そうじゃないだろ、まず、図書館にでも行って自分たちで調べなさい、と再度言うことになりました。

 基礎ゼミナールは昨年までわたくしも担当していましたから分かりますが、グループ調査では自分たちで(分からないなりに、素人なりに)調べたことをロジカルに正しい日本語で説明することを求めます。そのあとのグループ間での討論も大事です。ですから、調べる内容については正直言って期待していないわけですね、われわれ教員サイドは。そういうことも、彼らに言ってあげました。ホント、やさしい先生だな〜、おいらって。

 まあ先生に相談するのはよいでしょうが、わたくしから聞いたことを基礎ゼミでそのまま発表するつもりでいたとすると(どうやらそのようでしたが,,,)、それはちょっと安直かつお手軽過ぎだと思いますぞ、諸君。


耳ネタ 2017 July (2017年7月4日)

 7月に入って最初の土曜日、朝日新聞に『岬めぐり』が載っていました。1974年に山本コウタローさんが唄ってヒットした曲ですが、その直ぐあとにわたくしが高校生になった頃にも、この曲はフォークソングとしてよく歌われていました。クラスのギター小僧の栗須修くん(オフコースとか風とかをわたくしに教えてくれた学友で、今は医者)が教室とか遠足のバスの中とかでギターを弾いてくれて、みんなで『岬めぐり』を歌ったことをよく憶えています(まさに青春のひとときですな)。ちょっと物悲しいのですが、不思議とジメジメしたところのない、そんな曲です。

 この山本コウタローさんですが、千代田区の麹町中学校、東京都立の日比谷高校から一橋大学へと進んだひとですから、当時の(今でも?)日本のエリートということになります。その山本コウタローさんが本学名誉教授の深尾精一先生(建築構法学)とは中学・高校時代の同級生だったそうです。これは深尾先生から伺いました。

 そうなんです、山本コウタローさんの中学校時代の担任の先生は、わたくしの高校のときの担任で先日亡くなった内藤尤二先生だったのです。当時の高校生のわれわれにとっては、上述のように『岬めぐり』とセットになった山本コウタローは有名人でしたから、この話しは多分、内藤先生から聞いて知っていたように思います(でも、気のせいかも知れません、深尾先生から伺った話しとゴッチャになっているかも,,,)。

 この『岬めぐり』ですが、当時のレコード・ジャケットをみると三人が写っています。歌手の名前も「山本コウタローとウィークエンド」と書いてあります。ということはグループを組んで歌ったということでしょうが、ほかの二人がどんな方で、いまは何をしているのかは全く分かりません。

 『岬めぐり』もいいですが、山本コウタローといったらやっぱり「はしれ〜はしれ〜コウタロー、本命穴馬かき分けて〜」っていう、あの曲『走れコウタロー』でしょうね。フォーク・クルセイダーズの『帰って来たヨッパライ』、なぎら健壱の『悲惨な戦い』などと並んで(?)王道を行くコミック・ソングです。


東京に吹く風 (2017年7月2日)

 東京都議会選挙の結果ですが、ここまでの大差がつくとはちょっと想定外でした。奢れる平家も久しからず、でJ民党にもそろそろ鉄槌が下されてもよかろうが,,,とは思っていました。ただ、他地方の選挙などで今までもそんなふうに言われながら、結局はJ民党が勝利してきたように記憶します。それが今度の都議選では、世間で言われていたようなことが現実として雪崩のように起こりました。

 これは一体どのようなメカニズムなのかと考えると、結局は市井の人びとの目は節穴じゃなかったということに尽きると思いますな。つまり、こうです。ひとびとの政権に対する不満や不安は始めはボンヤリとして表には出てきません。しかし与党・政権の無人の野を行くが如くの暴虐なさまを見せられるとそれが蓄積して行って、それがある限界を超えると急激な風となって噴出する、ということではないでしょうか。不満・不安の積分値が臨界点を超えるかどうかが分かれ目だと思います。

 政権側にいる人たちはそういった民衆のメカニズムを忘れ果てていたとしか思えません。かつて一度はそういった逆境を身を持って体験したにもかかわらず、です。そうだとすると、市井の人びとのバランス感覚みたいなものをみくびっていた、甘く見ていた、ということになるでしょうね。

 その反対に急浮上したT民ファーストの会ですが、その急激な膨張ぶりには期待よりも不安を抱くのは迂生だけでしょうか。都民のために活動するという理想は高尚で、是非とも実現して欲しいと思います。でも、具体的に何をどのようにしたいのかは全くつかめません。

 大量に当選した新人たちを世間ではK池チルドレンとか呼ぶそうです。かつて民主党が政権を奪取したときに、小沢チルドレンと呼ばれる議員たちが誕生しましたが、彼らの多くの末路は哀れを極めたことは記憶に新しいと思います。今回の状況はまさにそのときにそっくりですが、将来、その二の舞にならないように精進していただきたいと切に願います。

 ほとんど話題になりませんが(それがいっそう、もののあはれを誘いますが,,,)、M進党の凋落振りはまさに目を覆いたくなるような事態です。一度は国政を担った政党が地方選挙とはいえ、ここまで零落するとは,,,という感を受けます。代表のR舫さんは東京選挙区ですから、そのお膝元での大敗に対して御家騒動が再燃するのは必定のような気がします(この党の宿痾のようなモンでしょうな)。そんなことしている場合じゃないのにねえ。

 さて、わたくしの住む選挙区ですが、選挙直前にM進党からT民ファーストに鞍替えした方が午後8時早々に当選確実となりました。今まで世話になった党を捨てて話題の先にヒョイと乗り換えるようなひとは、世間のほうでソッポを向くと思っていましたが、世の中って、やっぱりそんなに青くなかったみたいです。この方は結局、投票者全体の1/3の支持を受ける圧倒的な勝利でした。ええっ!ホントーかよ、っていう感じです。

 そのあとK明党の方が当選確実となり、最後の一議席をK産党の新人が獲得しました。次点のJ民党現職との票差はわずかに600票余でした。K産党にとってはこれは快挙だと思いますね。わが選挙区だけ見ても、T民ファーストへの追い風以上にJ民党へのダメ出しが勝ったように思えて、そのおこぼれにK産党があずかった、というのが今回の選挙の構図だったようです。

 で、わたくしが誰に投票したかというと、以前に書いたように縁もゆかりもない無名の新人に投票しました。もちろん落選しましたが(って、威張って言うことじゃありませんやね,,,)、それでも3600票余りも得票していました。投票総数の約3%に相当しますから、これって結構立派じゃないですかね?

 わたくしは国政与党を支持することはありませんが、そのほかの既存の政党に対する不信感と、T民ファーストという新興勢力に対して抱く胡散臭さ、といった理由から、投票できるひとがいなかったというのが実情かな。でも、そういう意思を示すことができましたから、自由市民としての義務および責任は果たせたと(自己)満足しているわたくしでございます。家内には呆れられましたけど、がははっ。


一年の半分 (2017年6月30日)

 六月の晦日となりました。毎年書いていますが、一年の半分が終わることになります。この歳になると実感するのですが、平穏無事に過ごすことができることほど幸福なことはないと思います。日々の生活に感謝、でございます。

 先日、学内でSDセミナーがありました。この日は全学の会議と重なっていたため、それが終わってから、セミナーの後半から参加しました。テーマは「教職協働による大学改革の推進」ということで、後半にはダイバーシティ推進の事例の紹介と、前半で講演して下さった方々(東工大の副学長と事務方の課長、および早稲田大学の事務方要人)等によるパネルディスカッションが行われました。

 いつものことですが、上野淳学長と山下英明副学長とが最前列に座って、PDでもパネリストとして参加していました。ホント、大変だなあ、ご苦労なことだなあと思いますね。それに較べて一般の参加者はそんなに多くなくて、終わりの方でザッと数えたところ、パネリストも含めて五十名程度でした。

 今回のSDセミナーを聞いていて、学生ひとりひとりへの目配りというか、手厚いサポートというか、そういうものが益々求められていると感じました。現在の学生諸君に対してはメンタリティの面でひ弱さを明らかに感じますので、そのようなケアは確かに必要だし、重要なんだと思います。でも、それって小学校レベルじゃないの、という疑問も湧き上って参ります。やらないよりはやった方がよいというのは分かりますが、それに要する人的資源(教員数と職員数)は有限なわけですから、雪だるまのようにどんどん膨らむお仕事をどうやってこなせばよろしいのでしょうか。

 さて、波乱に満ちた国会は終わりましたが、相変らずJ民党の議員・大臣の失言や問題行動が連日、やり玉にあがっています。政治家として脇が甘い、とか言われていますが、憲法を遵守するなんてことは一国の政治家としては当たり前のことで、それができないような人は政治家になってはいけませんよね。オツムはいいはずなのに、そんなことになるのは、どう考えても一強J民党政治を嵩にした大いなる驕慢の為せる業というふうに思います。

 こんな感じで問題感ありありの現政権ですが、それに対抗できる野党がいない、というのがなんとも寂しい日本の政治状況を物語っていて、これってまさに政治的貧困としか言いようがありません。こんな豊かな国なのに、いったいどうしてでしょうか。

 そうそう、都議会議員選挙ですが、誰に投票しようかと悩んでいることを先日書きました。その後、広報や新聞でのアンケート等を見て、どの政党にも属さず、どの党派の推薦も受けず、分からないことは分からないと正直にそう言う人に投票しようかな、と考え始めました。政治家としては頼りないですが、議員に当選すればそれなりに勉強して成長するのではないか、と愚考します。こればっかりは分かりませんが、既存の政党の尻馬に乗るよりははるかに誠実な態度のように感じますから。でも、まだ時間はありますので、ゆっくりと考えてみます。


大型構造物実験棟の整理 (2017年6月29日)

 蒸し暑くどんよりと曇ったこの日、まあ雨でなくてよかったですけど、研究室総出で大型構造物実験棟の整理整頓を行いました。実験棟のクレーン改修を労基署から求められたため、その作業のためのスペースを確保するように事務方から求められたためです。この作業は人出がたくさんあったので、すぐ終わりました。それはまあ、よかったです。

 この夏、芝浦工大・岸田研究室との共同研究で鉄筋コンクリート柱梁部分架構の実験を行うので、載荷装置に載ったままになっていた、鄒珊珊さんの試験体(アンボンドPCaPCト形試験体です)を降ろす作業も行いました。昨年末に実験が終わったのですが、試験体を片付けるのを今までサボっていました。

 でも、今まで、試験体のセットとか取り外しの作業は晋沂雄さん(当時特任助教)とか田島祐之さん(当時アシス)に任せっ放しでした。そのため、取り外しの工程を理解しているひとは皆無で、かろうじて当時卒論生だった岩田歩くんが朧げな記憶を引き出しては、教えてくれました。ということで、予想通りではありましたが、その作業は難航を極めました。安全に配慮することが第一ですので、とにかく神経を研ぎ澄まして作業を少しずつ進めました。途中で立ち往生して、いったいどうすりゃいいんだよ、ということも再三ありましたな。

  説明: KITALAB:DCIM:100NCD80:DSC_5450.JPG

 こんな感じで作業は遅々として進まず、結局、朝9時半からお昼ご飯も食べずに午後3時までかかって、やっと試験体を降ろすことができたのです。神経を使うのでホント疲れました。学生諸君は何をやってよいのか分からず、ボーッと時間が過ぎただけだったかもしれません。でも皆さん、最後までお付き合いいただいたので、ご苦労さまでした。

 感想ですが、こんなありさまでは、今後の実験遂行には暗雲が垂れ込めていると感じざるを得ません。やっぱり大型の試験体を用いた実験は大変ですね。実験を主体とする研究者が減っていることは以前に書きました。でもそんなことを嘆いている迂生自身が、実験からリタイアする日もそんなに遠くないような気がしてきました。もちろん、そうならないように努力はしますけどね,,,。

 そうそう、試験体を取り外す手順を写真に撮ろうと思ったのですが、三枚撮ったことろでデジカメの電池が切れてしまいました。弱り目にたたり目、とはこのことです。まあ、きょうの経験はかなり強烈に記憶に残ったとは思いますが、何と言っても半世紀以上生きて来たわたくしでございます。記憶はそんなに当てにならなかったりするかもね?


論文集委員のお務め、終わる (2017年6月28日)

 日本建築学会の論文集委員のお務めが昨日、どうやら終わったようです。今まで担当していた案件の担当者を交替する旨のメールが、学会から昨日届きました。振り返ると二年間の任期でした。主要なお仕事は、毎月学会に投稿される論文の査読者を割り振り、査読者からいただいた査読結果をもとに採否の原案を作成することです。また、採否についての異議申し立てがあった場合には、それに対処する担当委員となります。

 以前に書きましたが、現在の査読の作業は全て、ネットに接続したサイト上で行われますので、以前にやっていた文書の切り貼りとか郵送とかの手間は大幅に省略されて便利になりました。でも、便利なのはいいのですが、24時間のべつまくなしに査読サイトから自動的に送付される種々のメールに対応する必要があって、それが結構な苦痛でした。ネットに接続できればどこでも作業ができますので、この二年間、わたくしは担当案件の査読者リストを持ち歩き、それを常に更新していました。

 もちろん原則は、自分の好きなときに作業をすれば良いわけです。でも、日本建築学会の論文集は日本の建築界のなかでは最も権威のある論文集ということになっていますから、査読結果が出揃ったら、速やかに採否の原案を作ることが求められていると、少なくともわたくしは考えています(まじめ、なんですねえ)。

 そこで真夜中でも(サイトから案内メールが届いたことに気が付いたときには)、原案作りの作業をすることがよくありました。掲載までの時間をできるだけ短くすることが、論文執筆者の重要な関心事になることは多々ありますからね。わたくしも経験がありますので、よく分かります。

 あとは、査読をお願いした方に次々と断られて、なかなか二名の査読者が決まらないとか、査読を引き受けていただいた方からいつまで経っても査読報告書が上がってこない、というのが、つらかったですね〜。査読者が決まらないのはわたくしのせいではないのですが、査読拒否が延々と?続くと相当にめげました。

 また、一ヶ月の期限が過ぎても査読書が来ないと、それもわたくしのせいではないのですが、そういう方を査読者として選定した非?はわたくしにあるので、やっぱりやきもきしたものです。早いところ査読結果を送ってくれ〜、ってな感じです。ですから、査読受諾の三日後くらいに査読結果を送って下さる方がいると、もう欣喜雀躍、平身低頭、ありがたく感謝の念でいっぱいになったわたくしでございます。

 このような年がら年中のストレスから解放されて、正直なところ嬉しいです。二年とちょっと前、学会の構造本委員会の席上、塩原兄貴から論文集委員を仰せつかったわけですが、その職責を一応果たすことができてよかったです。この二年間、査読を引き受けて下さった方々には本当に感謝しております(もちろん、大部分のかたはわたくしが依頼しているとは気が付かないわけですけど,,,)。

 なお、わたくしのような論文集委員が論文を提出したときに(実際、任期中にわたくしは三編の論文を投稿しました)、その査読者は自分で決めるのか、という疑問を複数の方からいただきました。その場合、当たり前ですが査読者を決めるのは他の論文集委員でして、査読者が誰なのかも分からないようなシステムになっています。ということで、査読は常に公正に行われますので、どうかご安心を。逆に言えば、論文集委員のメリットは何もなく、正真正銘のボランティアである、ということです。


どうするか都議選 (2017年6月27日)

 東京都の都議会議員選挙が告示されました。わたくしの住む選挙区では定員三名に対して六名が立候補しています。以前は民主党(現・民進党)の若手の方に投票して、そのかたは当選して議会でもそれなりに活躍しているようです。都連の幹事長も務めていましたから。

 ところがその方はほとんど選挙直前に突然、民進党を離党して、K池都知事が率いるT民ファーストの会の推薦を得て立候補したのですから、まさに驚天動地です。現職の幹事長が世話になった(はずの)党をあさっりと見限って鞍替えした、その代わり身の早さというのか、空気を読む嗅覚の鋭敏さというのか、とにかく政治家の業を目の当たりにして鼻白んだというのが正直な感想です。

 確かに泥舟にしがみついて一蓮托生に沈むというのも、芸のない話しではあります。しかしながら、ひとにはそれまで抱いてきた信条とか信念とかが必ずあるはずです。そういうモノを一切合切抛擲して勝ち馬に乗り換える、その節操のなさというか破廉恥さに思わず顔をしかめるのは迂生だけではありますまい。

 そもそも忽然と姿を現した「T民ファースト」とは、いったいどのような政策集団なのか、少なくともわたくしは存じ上げません。その主導者である現職都知事ばかりがクローズアップされるだけで、そこに集い、都議会議員に立候補している個々人はほとんど見えてきません。

 ということで、今回の都議会議員選挙では誰に投票したらよいのか、またぞろ迷うことになりました。わたくしの選挙区では上記のようなことになりましたので、民進党からの立候補者はおりません(まったく、罪作りな話しですよね〜)。国政の与党(およびその腰巾着)には投票しないというのが、わたくしの信念なのですが、そうすると投票先はヒジョーに限られるんですよ。具体的にいえばK産党の新人、ということになりますが、いつも書いているようにこの党に対する不信感は決定的に重いですし、口先だけの理想論者を信用する気にはサラサラなれませんな。

 ということで次の日曜日ぎりぎりまで迷いそうですが、棄権は絶対にしません。投票所に行って、自分の意志を表示してこそ、政治に対してモノ申すことができると考えるからです。なによりも、最近よく言われている○○チルドレンみたいなエセ議員を大量に生み出すようなことがあってはならないと思いますよ。


夏至のころ (2017年6月22日)

 きのうは夏至でしたが、もの凄い豪雨でした。八王子では昼前に雨で周囲が真っ白になってほとんど先を見通せないくらいの降りかたになりました。登校して来た学生に聞くと、ズボンがずぶ濡れになって往生したと言っていました。

 この日は午後から田町の建築学会で、年に一度の災害委員会が開かれることになっていました。今年度から災害委員長が勅使川原正臣・名古屋大学教授に代わったこともあって、幹事を継続するわたくしは万難を排して参加するつもりでした。

 そういう悲壮な決意でいるところに、角田誠さん(教授)がやって来て、こんなに激しい雨は年に数度あるかないかの非常事態であるから、こんな日には出かけないほうがよいよ、もっと分散して降ってくれよ…とか言いながら去って行きました。そのお言葉を聞いて、確かにその通りだよなあ、出先で電車が止まったりしたら目も当てられないよなあ、どうしようかなと思いました。災害委員会に出席するために出かけて、災害に遭ったりしたらホント、シャレになりませんからね。

 そのうち委員長の勅使川原先生から、新幹線が止まっているので東京に行けない、災害委員会は適当にやっておいてくれ、というメールが来るに及んで、それなら、わたくしも行かなくてもいいかな、と思い込むことにしました。なんちゃって、あれこれとへ理屈を付けて外出しない理由をこじつけただけですけどね、えへへっ。

 ということで八王子では豪雨でしたが、これは極めて局地的な現象だったのかも知れません。夕方ころこちらはまだ激しく降っているのに、家内にメールしたらそっちは雨が上がって、晴れ間さえのぞいている、というのです。確かに雲の動きがべらぼうに早かったですから、場所によって結構ドラスティックに天候が変化していたのかも知れませんね。皆さんのところでは、いかがでしたでしょうか。

 そうそう先日書いた野川ですが、さすがにこの日は濁流が渦巻いていましたが、今朝になるとそれが嘘のような小流にまた戻っていました。コンクリートで固められた都市型河川の典型を見るようでした。


人生の空虚 (2017年6月21日)

 『されど われらが日々ー』、これはわたくしよりも上の世代の人たちにとっては、懐かしく馴染みのあるタイトルだと思います。これは1963年に柴田翔氏によって書かれた小説です。わたくしの蔵書のなかから発掘したのは、1981年発行の文春文庫でした。値段は260円でした(当時はもちろん消費税はありません)。

Saredo_WareragaHibi

 大学に入って駒場キャンパスに通っていた頃、大学生協でこの文庫本を手に取って、買った記憶があります。著者の柴田翔氏は東大文学部の先生だったので、読んでみようと思ったのかも知れません。あるいは、フランス語未修の同じクラスだった茂山俊和くんか村上哲くんに勧められたのかも知れません。多分、その両方だったのだろうと思います。

 この小説を久しぶりに読んで、青春の頃の切なさが蘇りました。この小説の主題はひと言でいえば、人生の持つ空虚そのものであると感じました。そして、ひとが生きるとはどういうことなのか、という人生の根源的な問いを内包しています。人生をより良く生きるにはどうしたらよいのか、という、ある意味、贅沢な悩みではありません。人生そのものをどうやったら生きてゆけるのか、自分に忠実に生きるとはどういうことなのか、そういう切実な問いが問われています。

 心のなかに知らずに巣食う空虚感をどのように飼い馴らして、それに折り合いを付けて生きてゆくのか。あるいは誠実が故にそれができない純粋で不器用なひと達はおのれの生にどう決着を着けたのか、そういう若者たちの苦悩が生き生きと描かれていました。

 時代背景として、日本共産党がそれまでの武力による闘争の方針を否定して、穏健路線に転向したという事件(1955年、共産党の第6回全国協議会…って言われても、わたくしですら知りませんけど,,,)がこの物語の下敷きになっています。そうではありますが、生きるということを若者が真摯に追究した主題は今読んでも、決して色褪せるものではありません。そういう意味で、素晴らしい小説だと思います。

 しかしながら、柴田翔先生がこの小説を書いたのは二十代後半の頃だった、ということに驚かされます。人生あるいは恋愛について、二十代の若者がこれだけ知っている(あるいは思索できる)ということに、迂生は感心するというよりも驚きましたな。昔のひとは早熟だったのでしょうか、それとも勉強家だったのでしょうか。

 序章の冒頭で、主人公が古本屋で本を眺める、というところからこの小説が始まるのですが、そこでいきなり、「それは無意味な時間潰しであった。しかし、私たちのすることで、何か時間潰し以外のことがあるだろうか。」という独白が現れます。なんだか、境有紀さんの「しょせん、人生退屈しのぎ」みたいですが、こんなことを書ける二十代の若者って、いったい何モノなんでしょうか。若くして芥川賞をとるひとはやっぱり違うってことかも知れませんけど,,,とにかくタダ者ではありませんな。


雨乞い (2017年6月20日)

 梅雨だというのに、梅雨らしい雨の降り方をしませんね〜。夕立のようにザーッと降ったかと思うとすぐに上がってしまって、降水量にしたらごくわずかにしかならないような気がします。

 以前に書きましたが、野川(こんな一般名詞のような名前ですが、立派な一級河川です)の水が完全に干上がってしまって、下の写真のように白々とした川底が続いています。もともと野川は国分寺崖線のハケ下に沿って流れていますので、この崖から湧き出る地下水が集まって小流を形成していました。ところが都市化が進んで、崖わきから流れ込む地下水が押さえられてしまったようで、慢性的な水不足が続いている状況です。それでも、こんなに完全に渇水したのは久しぶりなような気がします。

 このままでは、水辺に住む生き物たちの生態系が完膚なきまでに破壊されてしまうのではないかと心配です。せせらぎが涼やかな音を響かせているときには、鴨、カワウ、サギ、カワセミなどの鳥たちが川面に集い、カエルの合唱が聞こえ、亀が日なたぼっこをし、鯉や小魚たちが泳いでいました。川底には川藻がはえ、ヤゴなどの水棲昆虫たちが生活していたはずです。こうした鳥、小動物、昆虫たちはいま、どうしているのでしょうか。

    説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:渇水した野川20170619:P1020307.JPG

 雨降りは都市住民の普段の生活ではあまり歓迎されません。それでも、雨が降らないとこういうことになりますし、お百姓さんたちもさぞお困りだと思います。何より、夏場の水不足だけはご免蒙りたいですな。ということで、日本の八百万[やおよろず]の神々にせめて雨乞いでもしようかと思う、今日この頃でございます。まさに困ったときの神頼み、ですけどね、あははっ。


小学校にて 2017 June (2017年6月19日)

 この週末、子どもの学校参観があって小学校に行ってきました。この日は授業のあとに、防災訓練と子どもの引き取り訓練も行なわれました。わたくしが見た授業は家庭科だったのですが、そのときには父兄は六、七人くらいしかいませんでした。家庭科だから見なくてもいいんだろう、ということでしょうね、きっと。

 ところが正午近くになって引き取り訓練の頃になると急にお母さん達の数が増えてきました。その人たちのかしましいことといったらありませんでしたな、まったく。集まった父母にむかって先生方が、静粛にお静かにお願いします、と言っているのに、その目の前でピーチクしゃべくっているお母さん方には正直なところ、あぜんとしました。モラルというものが全くないのですからね。

 この引き取り訓練ですが、実際に地震が発生したときには、震度5弱以上で授業を速やかに中止して、父母が子どもを引き取りに来るまで児童は学校で預かる、ということになっているそうです。場合によっては子どもが学校で宿泊することもあり得るらしいです。

 2011年の東北地方太平洋沖地震のときには東京は震度5弱程度でした。あのときのことを思い出すと、電車やバスは全て止まるでしょうから、わたくしはすぐに帰宅できるとは思えません。もしも家内も外出していれば、子どものお迎えに行けないということになりそうです。ですから、小学校には緊急時のマニュアルを作って(多分、既にあるとは思いますけど)、しっかり対応していただけると安心しますし、ありがたいと思います。

 さて、子どもの引き取りを待つあいだ、うるさいお母さん方から離れて、学校の窓から外を眺めていました。南側に少し行くと多摩川が流れていて、多摩水道橋のトラス頂部が見えます。その向こうは川崎市や稲城市になっていて、多摩丘陵の丘々がなだらかに横たわっています。よみうりランドの観覧車も望見できました。

 そして、真向かいの小高い丘の上に明治大学・生田校舎の建物が遠目に聳えているのがくっきりと見えることに気がつきました。意外と近いんだなあ、というのが感想です。そこの小山明男さん(建築学科教授/建築材料学)には、先日、本学大学院のオムニバスの授業に非常勤講師として来ていただきました。いつもご協力いただき、感謝申し上げます。


ファーストの陥穽 (2017年6月16日)

 南大沢ではさきほど、ものすごい豪雨が走り去ってゆきましたが、みなさまのところは如何でしょうか。黒雲が覆い被さって、雷鳴が突然轟き、大きな雨粒がボコボコと降って来て、9号館のアトリウムにザーッという音が響きました。

 さて最近、〇〇ファーストということばをよく聞いたり、見かけたりするようになりました。特にアメリカの大統領がトランプ氏になり、東京都知事がK池さんになってからでしょうか(この〇〇には国名や都市名が入ります、まあ、お分かりでしょうが,,,)。先日は南大沢駅前で、日本ファーストって言いながら演説しているひとを見かけました。

 この〇〇ファーストって、地元の市井のひと達を最重視しているようで一般受けはよいのかも知れません。でも、これは〇〇ファーストと言っているひと達の主張に賛同しないひとは排除する、という排除の論理を暗黙のうちに内在しています(このような見方は、ときどき新聞などにも載っていますので、わたくしのオリジナルな意見と言うわけではありません)。

 トランプさんやK池さんもそうなのでしょうが、イエスマンだけを回りに集めて、異なる意見をもつひとは仲間じゃない、という了簡のようです。そういう“好き嫌い”で政治が進んで行くのは、なんだかイヤ〜な感じがするんですよね。もっと大人の政治をやって欲しいと思いますな。


また、いつもの… (2017年6月14日)

 梅雨入りしたのに(確かに、どんよりとした日は続いていますけど)、雨は降りませんね。うちのそばの野川は相当に干上がって渇水状態です。鯉などの魚たちは、わずかに取り残された水たまりに寄せ集まってなんとか生き長らえているみたいですが、それも限界がありそうです。小魚を補食するカワセミも、ここのところ見かけません。

 さて、大学院の授業ですが、授業内に演習を解いてもらうスタイルを今年度は復活させました。講義で説明した各テーマに沿った小問題を出して、学生諸君に解答を白板に書いて貰うのですが、相変らず解けないですね〜。たった今、説明したことはさすがに分かるみたいですが、それに付随した計算ができないようです。ああ、また、いつものが始まったな、という滅入った気分で憂鬱さ全開の迂生でした、ホントに。

 例えば、きょうは梁の降伏モーメントMyを計算する方法が分からない、と言っていました。でも、その略算法は学部三年のときから、折に触れて何度も説明しています(などと言うほどでもなくて、My = at・σy・ j というたった三つの項の掛け算に過ぎませんが,,,)。そんな基本すら知らない(忘れている?)のですから、演習を全て解くのに約1時間も費やしました。あまつさえ、挙げ句の果てに授業時間はそれで終わってしまったのです。

 世間には広くアクティブ・ラーニングが知られるようになって参りました。そのこと自体は慶賀すべき事柄ですが、では具体的にどうやってソレを実行するのか、(いつも書いていますが)教えて欲しいというのが率直な感想です。上記のわたくしの授業は、学生に考えさせて自分で解決させる、というまさにアクティブ・ラーニングの王道(?、言い過ぎか,,,)を地で行くようなやり方であると思っています。でも、〇〇が分からないので解けません、というところで思考停止してしまうようでは、アクティブ・ラーニングもへったくれもないじゃないですか…。

 というわけで、どうすりゃいいんだ、というところで思考停止におちいったわたくしでございます。演習は宿題にする、という昨年度のスタイルのほうがいいのでしょうか。でも、一週間かけて解くほどのモノでもないんですけど,,,。教育法についてはいつまで経っても正解がなくて、試行錯誤を続けて行くしかないのかも知れませんね。


やっと仕上がる (2017年6月12日)

 昨年9月にニュージーランドで開催されたNZ-Japan Workshopですが、そのときに発表した研究を論文としてまとめて、ニュージーランドの地震工学会(NZSEE2017)に投稿するように言われていました。そこで今年の2月に論文を投稿しましたが、査読の結果が帰ってきたのが4月末くらいで、それから査読意見に従って論文を修正して、再投稿しました。

 その結果、論文のアクセプトのお知らせがNZのリック先生から来たのが5月末で、ああよかった〜って思ったのですが、またまたマイナー(とは言え、図や写真を作り直さないといけないので結構、面倒)な修正事項を食らってしまいました。図・写真の生データはOBの片江拡さんが持っていましたので、片江くんからそれらのデータを貰って、エクセルの図を作り直したり、写真の解像度を調整したりしました。そして先週、やっとそういった修正作業が終わって、最終原稿を投稿できたのでした。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2016_Auckland:NZ_Japan_Workshop2016_Auckland_北山撮影:P1010770.JPG
写真 昨年9月のNZ-Japan Workshop(発表しているのはわたくしです/この写真は加藤大介先生[新潟大学教授]に撮っていただきました)

 ということで、当初は英文のハンドアウト程度のつもりだった文書が、結局、約十ヶ月ほどかけて査読付き論文になりました。それはそれでよかったのですが、どうせ英文論文を書いて査読を受けるんだったら、もっとメジャーな(って、失礼ですけど,,,)ところに投稿したかったな、などという色気もでてまいりますから、人間って、勝手ですね〜。

 さて、そうこうするうちに今年度のNZ-Japan Workshopの予定が壁谷澤御大から来ました。今年は日本で開催するそうですが、それにあわせて、新しい発表用のネタとコンテンツおよび英文の文書を用意しないといけません。それはそれでまた大変だなあ、という余韻?にひたっているような案配でございます。でも、このワークショップは基本的には鉄筋コンクリート壁部材を主な対象としているので、わたくしは全くもって門外漢なんですよ(皆さまご承知の通りです)。どうしたもんかなあ〜と、また悩んでみたりするのですが、多分、そのうち忘れるんでしょうな、あははっ。


校正する (2017年6月8日)

 日本建築防災協会で出している既存鉄筋コンクリート建物の耐震診断基準を改訂する作業が壁谷澤寿海御大を中心に行われていますが、それもついに大詰めを迎えたようです。昨日、最終入稿前の校正を行うので出頭せよというので、虎ノ門の協会まで出かけました。

 以前に書きましたが、わたくしは壁谷澤寿海御大のお言い付けによって途中からこの作業に加えられたのですが、とりあえず第5章「耐震性の判定」を見直して、適宜、修正や追記をするように仰せつかっていました。その原稿はずいぶん前に提出して、5月中旬の校正も終了していたのですが、昨日行ってみると、壁先生が「もう、ほとんど全部直しておいたから」とおっしゃいます。

 で、校正原稿を見てみると確かにかなり大幅に変わっていました。まあ、壁谷澤御大が御自ら直された原稿なので、それで結構かと思ったのですが、拝見するとなかなか難しくて(って、初めて見るようなものですから)、校正作業だったはずなのに、実質的にはまず原稿の中身を理解することからスタートすることになってしまいました。いま思えば、これが誤算の始まりでした。

 そうしてウンウン唸りながら、隣にいる壁先生に「ここって、どういう意味ですか?」とか頭の悪い学生みたいなことを聞きながら、原稿に赤を入れて行きました。でも、だんだんそれが面倒になってくると、最後のほうは?印でご勘弁いただいたりしました。そうすると、隣同士に坐っているのは便利なもので、壁先生が直ぐに原稿を直して、これでどうだ!って言いながら見せてくださいます。

 こんな感じでやり取りしながら第5章が終わったときには、既に予定の三時間は過ぎていました。そのあと、わたくしの担当の付則や、旧版で執筆した付録などを見て、やっと終わったか〜と思ったら、壁先生が「勝俣さんが書いた付録も見ておいてくれよ」とおっしゃいます。もう、こうなったら、焼けのやん八火事場のなすび、ですから、わかりました〜拝見しま〜す、ということで見始めました。

 でも、その原稿の中身がまたもやベラボウに難しくて、目の前に坐っている勝俣英雄さん(大林組技研の所長さんです)に向かって、「ここの意味が分かりません」とか「この式、どうしてこうなるんですか?」とかを連発する次第となってしまいました。そういったやり取りを見ていた壁先生が「北さんが分からないってことは、誰も分からないってことだろ、がははっ」とか言うものだから、勝俣さんと二人で頭を抱えたりもしました。こうして六時間半があっという間に過ぎていったのです。

 これが入稿前の最終校正だっていうのだから、ホント、大丈夫なんだろうかと少しばかり心配になりました。でも、七月初めには2017年版として出版されるそうですから、世の中、なんとかなるっていうことでしょうね、きっと,,,。


安部公房を読む (2017年6月6日)

 昔の読書シリーズです。安部公房の『夢の逃亡』(新潮文庫、昭和52年10月)を約四十年ぶりに再読しました。安部公房の文庫本は手元にたくさんあるのですが、どれも紙質が悪いせいか黄ばんで古びていて触りたくないような状態のものばかりのなかで、この『夢の逃亡』はどういうわけか黄ばむこともなく、綺麗なままでした。

Abe_Kohbo

 現在では安部公房の名を聞くことは全くなく、忘れ去られているようですが、わたくしにとっては高校から大学にかけて多読した小説家のひとりでした。特に彼の『密会』という小説は都市の混沌がその根底にあったように記憶します。大学三年生のときに鈴木博之先生の「近代建築史」か何かのレポートで、この『密会』をテーマとした論考(ってほどのものでもないでしょうが,,,)を原稿用紙に記述して提出したこともありました(何を書いたのかはすっかり忘れました、あははっ)。この頃は建築構造学をやろうなどという気はサラサラなくて、マンフレッド・タフーリ、磯崎新、八束はじめ等の建築論や建築評論の書をむさぼるように読んでいました。

 そんな思い出があるので、この『夢の逃亡』を期待して読んだのですが、結論からいえば読んで面白いという類いの小説ではありませんでしたね(あっさり)。七編の短編小説が納められているのですが、いずれも非常に観念的な小説で、筋というものがほとんどないといってもよいような短編がほとんでした。

 その当時、高校生だったわたくしがこの文庫本をどのように読んだのか、今となっては茫洋とした霧のなかに隠れて定かではありません。でも、かなり入れ込んでいたような形跡が残っていて、特に「名もなき夜のために」という未完の小説には相当の思い入れがあったようなのですが、その理由もさっぱり掴めませんでした、われながら。そういった形而上的な観念論を好んだというのは、青年期に特有の揺動する心理のなせる業かも知れません。そうだとすると残念ながら、年齢を重ねたことによってわたくし自身の感性が鈍化した、ということでしょうね、多分。


どんな授業 (2017年6月5日)

 『読んじゃいなよ! 明治学院大学国際学部 高橋源一郎ゼミで岩波新書をよむ』(高橋源一郎編、岩波新書、2016年11月)を電車内で読みました。大学の図書館で借りた本です。普段だったら絶対に読まないなあ、という類いの本なのですが、二つの偶然がわたくしの手に取らせたのです。

 まず著者(編者)の高橋源一郎さんですが、ああ、このひとは『理性の限界』(講談社現代新書、2008年6月)などの理性モノを書いているひとだなあ、と誤解しました。『理性の限界』は分かり易くて面白かったので憶えていました。ただこの本の著者は同じ高橋でも、高橋昌一郎先生でした。高橋源一郎と高橋昌一郎、ってかなり似ているでしょう? 『読んじゃいなよ!』の高橋源一郎さんは小説家(かつ明治学院大学の先生だそう)ですが、残念ながらその著作を読んだことは一度もありません。

 次にこの本のタイトルですが、わたくしは「読んじゃ、いないよ」と誤読していたのです。こんな本、読んじゃいないよって、読むこと自体を否定するタイトルを付けた本って、どういう本だろうかと誤解したんですね。でも、この本を借りて読み進めるうちにタイトルが『読んじゃいなよ』っていう、読むことを勧める(迂生の解釈とは正反対の)意味だということにやっと気がついた次第です。

 このような二重の僥倖?の果てに読むことになったこの本ですが、中身は長谷部恭男先生(憲法学者)や伊藤比呂美さん(詩人)等が明治学院大学の教室で学生諸君の質問や悩みに答える、というもので、その性格上、話し言葉で書かれています。わたくし自身は話し言葉で書かれた書籍を読む、というスタイル自体があまり好きではありません。ちゃんとした本だったら、それに相応しい格調高い文語で記述されてしかるべし、という風に考えているからです。

 わたくしのこの文章だって、くだけた話し言葉で書いていますから、他人さまのことをとやかく言えた義理ではありません。でも、論文を書くときには簡潔かつ論理的で正しい日本語を書くように努めています。まあ、高橋源一郎さんは小説家ですから、言葉に対する感性は迂生などとは較べ物にならないとは推察しますけどね,,,。

 という感じで、この本の中身については特段のコメントはありません。ここのところ露出度の高い長谷部恭男さんの思想の一端が少し分かったのはよかったですけど、基本的には、自分で考えて行動しようという当たり前の事柄が強調されているに過ぎません(それはそれで極めて重要ですが,,,)。

 それよりもわたくしが驚いたのは、明治学院大学の高橋源一郎先生の授業のことです。大学の正規の授業でちゃんとしたシラバスもあるようなのに、その授業には正規の学生ではない、いわゆるモグリの人たちが多数出席している、というのです。高橋源一郎先生はそういうモグリの人たちも正規の学生も等しく平等に処遇して、レポートを課したり議論させたりしているそうです。出席の管理をしているかどうかは分かりません。

 授業にモグリの人たちが多数出席しているのって、わたくしの記憶では駒場で開講されていた衛藤瀋吉先生の「国際関係論」くらいかな〜。この当時は国際関係論という学問が起こり始めた頃だったのでしょうか、とにかく駒場の階段教室が満員だったことだけはうっすらと憶えています。ですから、大学の授業にモグリのひとがいるというのは、その授業の内容あるいは講師の先生が魅力的な場合に限られると思います。

 確かに『読んじゃいなよ!』を読むと、この授業に出てくる人たちは高橋源一郎さんの考え方とか行動力とかに共感したり、感動したりしていることがよく分かります。正規の学生諸氏が、学外のいろいろな出自・経歴の持ち主たちが多数集まった集団のなかで議論したり、経験を見聞することが、人生の修養としては役立つだろうということは、わたくしだって分かります。でも、それが大学の正規の授業として果たして成り立つのか(例えば必修授業にはならんだろうな、とか)、かなり疑問を感じるんですよね〜。高橋源一郎さんの授業って、どんな授業なんだろうか。そういう興味が湧き出てきます。

 それと同時に、多数のモグリの人たちが教室に来ることを黙認し(?)、あまつさえそのことを天下の岩波新書で堂々と開陳することさえ許容する(?)明治学院大学もすごい大学だなあと思います。明治学院大学は文系の大学でしょうから、わたくしはとんと存じ上げませんが、度量の広い大学だと感心したわけです。


デッキでバッタリ (2017年5月30日)

 きょうはセメスター制の講義の試験日になっているため、通常の半期制の授業はお休みです。以前にも書きましたが、大学全体としてセメスター制の導入への道筋を付けたいという意図は分かりますが、制度が混在している現状では不便なだけという不満が聞こえてきそうです。この余分な一週間のせいで、期末テストは例年よりもさらに遅くなって、八月になってから試験になります。そんな盛夏に落ち着いて試験なんかできやしないよ、というのが迂生の主張でございます。

 そういう訳ですし、ここのところまた調子が悪くなってきましたので、今朝はちょっと遅めにのんびりと登校しました。大学に向かう学生諸君の姿はほとんど見かけませんでしたな。で、南大沢駅を降りて正門に向かうペデストリアン・デッキをトボトボと歩いていると、向こうから姜柱(ジャン・ジュウ)さんが歩いてくるのにバッタリと行き当たりました。ちなみに彼は、大学の近くに住んでいます。

 姜柱さんには、この四月末に美味しい中華料理をご馳走になったばかりでした。このページで書いているように、今年度の我が社の半数(五名)は中国からの留学生達です。彼らは多かれ少なかれ、みな姜柱さんにお世話になっています。姜柱さんは、そういう彼らと、今年三月末に我が社を修了した苗思雨くん(現在はスーパー・ゼネコンのS建設勤務)およびわたくしを招待して、ご馳走してくれたわけです。調布の布田天神通りに面した、ものすごく活気のある中華料理店でした。

 とういわけで、姜柱さんとは久しぶり、ではなかったわけですが、どういう縁か分かりませんが、彼とはよく出会うんですね。年に数回は件のデッキの上でバッタリと会っているように思います。わたくしは残念ながら中国語は分かりませんので、我が社の留学生達の生活や勉学についての相談等に姜柱さんが尽力して下さることに、ホント、助けられています(姜さん、いつもありがとうございます)。そういう立派な卒業生を持つことができて、わたくしも果報者だとつくづく思いますな。

 縁は異なもの不思議なもの、とは良くいいますが、姜柱さんとの縁もそのひとつだと思います。彼が博士課程の大学院生だった頃にはそんなことは考えもしませんでしたから、ひとの人生って分かりませんね。


大学で披露する (2017年5月29日)

 この週末、大学内のレストラン(ルヴェ・ソン・ベール南大沢)で、鈴木清久くんと高松玲さんとの結婚披露パーティが開かれました。東大駒場のルヴェ・ソン・ベールでは野口博先生や小谷俊介先生のお祝いの会を催しましたが、本学内での結婚披露パーティは初めての経験でした。白ネクタイの礼服を着て大学に行くというのが、なんだか不思議な気分で、落ち着きませんでしたな。そういう意味では、この日は非日常のハレの日そのものなんですけどね。

 鈴木清久くんは学部から大学院の三年間を我が社で過ごしたので、彼にとってはわたくしは恩師ということになります。お相手の玲さんは上野淳先生(現・学長)の主宰する建築計画研究室の出身なので、この会には彼らの同級生がべらぼうにたくさん集まっていました。ただ、我が社の出身は石木健士朗くん独りだけで、あとになって鈴木翔太郎くん(プロジェクト研究室)を見つけたくらいで、他の人びとは顔は見たことがあるけれど名前は知らない、というレベルでした。

 正式な結婚式は既にあげていたそうで、この日は彼らの友人たちを招いた気楽な会?という位置付けのようでした。職業柄、わたくしはスピーチを求められていたのですが、そのような会のわりには「では、主賓の挨拶を…」みたいにそこだけ堅苦しく言われたのが、場違いなような気がしましたけど、まあ、いいか。さらに、式次第のようなものも当然配布されていませんでしたから、突然、指名されてかなり面食らいましたね、もう少し、心の準備をさせてくれっていう感じです。

 しかしもっと困ったのが、学長である上野先生よりも先に迂生が話すことになった、ということです。どうやら新郎側の主賓が迂生で、新婦側の主賓が上野先生ということらしいのですが、上述のようにこの二人の「主賓」だけが堅苦しくて浮いている感は否めませんでした、やっぱり。学長を差し置いてヒラの教授であるわたくしが先にスピーチする、っていうのは、同じ大学に所属する教員として、やっぱりちょっとやりにくかったですね〜。でも、そんなことはこの日集まった皆さんがたは知ったこっっちゃないわけですから、どうでもいいことなのかも知れませんけど,,,。

 で、結構長々と迂生が話したあと、上野淳学長がスピーチをされたのですが、それがまた非常に簡潔かつ短かったので、あちゃ〜、ちょっとまずかったかな?などと、いらぬ気を回すハメに陥りました。でも、(幸か不幸か)相手は学長だけあって、普段は顔を合わすこともないから、まあ、いいか、ということで、気にするのはヤメにしましたけどね、ぎゃははっ。

 パーティは幹事さんたちの奮闘もあってとても楽しく、三時間があっという間に過ぎて行きました。催し物の仕込みは大変そうでしたが、そういった準備等も彼らにとってはきっと楽しみだったのだと思います。

 いつもニコニコしている清久くんとそれを暖かく見守っている玲さんとのお二人は、見るからにお似合いのカップルでした。では、末永くお幸せに!


軍事研究の是非 承前 (2017年5月26日)

 梅雨のはしりのような激しい雨になりました。気温も一週間前とくらべるとかなり低いようなので、これでは体調も悪くなろうというものです。皆さまもお気をつけ下さい。

 さて、軍事研究の是非についての迂生の立場は、以前(2017年1月13日)にこのページで開陳してあります。この件について、本学でもやっと大学としての意思を表明いたしました。5月23日付けの上野淳学長名義での文書が、われわれ教員に配布されました。以下にその抜粋を掲載します。

    説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:スクリーンショット 2017-05-26 10.49.26.png

 ここには、「デュアルユース技術(防衛技術にも応用可能な民生技術)の開発を明確な趣旨とする研究への関与は、本学として認めない。」と明瞭に書かれています。ちょっと遅かったとは思いますが、軍事研究に対して明確にノーを宣言しているので、とてもよかったと思います。慶賀すべき事柄でしょう。

 日本学術会議の「軍事的安全保障研究に関する声明」が今年の3月24日付けで表明されました。そこでは、O西会長らの一定程度の軍事研究は認めるべきという声に配慮したようで、軍事研究に完全反対という明確な表現にはなっていません。しかし、よく読めばそれに対する否定的な意見であることは明瞭です。この日本学術会議の意思表明が本学の今回の発表にも役立ったようです。

 いずれにせよ、研究者は軍事研究についてよくよく考えるべきである、ということを強調しておきます。


気力のおとろえ (2017年5月25日)

 ちょっと寂しげなタイトルになってしまいました。ここ数年、病気で授業を休講にしたことはありませんでした。昨年度はコース長だったので常に緊張していたからでしょうか、幸いにも風邪を引いたりすることもなく、つつがなくお役目を果たせました。でも、そのツケがここに来て一気に噴き出したように感じます。

 先週末には子供の運動会があって、焼け付く太陽の下でかなり体力を消耗しました(って、場所取りして、見ていただけですけど、あははっ)。それもあってか、この数日、具合が悪くて、ついに授業を休んでしまいました。一回休むと、カリキュラムが狂ってそれを修正するのに腐心しないといけないので、多少の熱があっても今までは講義をして来ました。でも、今回はそういう気力がどうしても湧きませんでした。体力的に学校に行けそうもない、ということもありましたが、それにも増して、どうしても講義をしてやろうという覇気がみなぎりませんでしたな。まあ、熱があってボーッとしているのだから仕方ないか。

 結局、健康が第一というありふれた真実を再認識した、というだけの話しです。健全な肉体があってはじめて気力が充実する、という普遍的な理です。これも年齢から来る肉体的な衰えであって認めざるを得ない、ということでしょうね。無理せず、こころ穏やかに過ごすことを心掛けたいと思います、はい。


ハラのはなし (2017年5月19日)

 いやあ、この頃、メタボで腹が出ちゃってサ〜って話しではありません。セクハラ、パワハラ、アカハラとかのことです。昨日、本学・都市環境学部の常勤職員を対象としたハラスメント研修というのが開かれて、約一時間、学外からお招きした講師の方の講話を伺いました。この手の研修は五、六年前くらいからポツポツと開かれたように記憶しますが、今回、初めて出席をチェックされました。先生の出席を取るとは、世も末という気もしますけど,,,。ちなみに建築都市コースの教員の出席は半数以下でした。

 講師の方のお話しの前振りで、ヌーハラとかグルハラを知っているかと問われました。いや〜知らないなあ。ヌードル・ハラスメント(ヌーハラ)というのは、蕎麦やラーメンを食べるときのズズズ〜ッっていう音を止めて欲しいというもの、グルメ・ハラスメント(グルハラ)は宴会のときの鍋奉行に食べ方をあれこれ指図されるのは我慢できず、宴会のときくらい楽しく食べさせて欲しい、ということだそうです。ええ〜っ、そんなことまでハラスメント(嫌がらせ)になるのかと、のっけから驚かされました。

 で、本題に入ると、パワー・ハラスメントやアカデミック・ハラスメントの例などを聞いていて、そんなことまでダメ出しされるのかと驚きを禁じ得ないことが多々ありました。ハラスメントの線引きは時代によって変わって来たようですが、現在のように細かなことまであれこれ文句をつけられると、教育なんてできないよってことになりかねないと、かえって危惧いたしましたな、迂生は。

 例えば設計製図の講評会では、全学生の前で学生ひとりずつの作品の講評を教員団がします。そのコメントには辛口のものも多々ありますが、そのことが学生諸君への教育効果を高めると考えています。でも、大勢の前で批判されること自体が、当該学生にとってはハラスメントと受け取られかねない危険性をはらんでいる、ということらしいです。個人的な攻撃や、人格を否定するようなコメントをすべきでないことは当然であって、そんなことをわれわれ教員がするはずはありません。でも、ガラス細工のように繊細な学生さんにとっては、ショックで不快なこともあるかもしれません。そうすると、それはもう立派なアカハラということになります。

 あるいは、研究室ゼミのように多数の学生が集まる場で、ひとりの学生を叱責することもダメだそうです。我が社の昨日のゼミでは、誰も資料を出しませんでした。それに唖然としたわたくしは、「君たちそれはルール違反だよ、ゼミというのは皆が資料を出して互いに議論する場だということがまだ分からんのか、君たちは!」って、かなり大きな声で全員を叱りましたが、怒鳴ったり大きな声をだすこと自体がレッド・カードだそうです。

 いやあ、こんな具合では、教員の側が萎縮しちゃって何も言えないんじゃないかと思いますが、いかがでしょうか。骨抜きにされて、大人しくなった飼い犬のような先生なんかに魅力はあるんでしょうか。節度はもちろん必要です。しかし、自己愛に対する過剰とも言える尊重は、教育自体を危うくする諸刃の剣であるようにも思えるのです。○○・ハラスメントと声高に言う前に、よくよく考えるべきではないかと愚考します(って、こんなことを言うとブラック・リストに載っちゃうかも?)。


早起きする (2017年5月16日)

 爽やかな五月の日ですね。火曜日は1限の授業があるため、毎週早起きしますが、きょうはそれに輪をかけて早く起きてしまいました。三時半(まだ、暗いです)に目が覚めて、ちょっと早いかなと思ってウトウトしたら、四時半(薄明です)になっていました。

 その半覚醒状態のあいだに変な夢を見たのですが、その状況からして大学の代議員会の会議のようでした。ところがその会議はどうやら夜通しやっていたらしく(恐ろしい〜)、もう眠いからやめよう、とか、俺は今寝てたぞ、とか言っているんですね〜。ホント、いやな夢でした。いやあ、四月になってやっとコース長から解放されたというのに、未だにこのような悪夢を見るのかと思うと、心底げんなりしました。

 で、もう眠れそうになかったのでそのまま起きて、朝七時過ぎには大学にいました。早朝はちょっと肌寒かったですが、すがすがしい気分で登校できましたな。そうして1限の「鉄筋コンクリート構造」の授業をして研究室に戻ってきたのですが、どうにも眠くて仕方がありません。そう言えば、今朝の教室はいつもよりもギャラリーが少なく、おまけに学生諸君にいくら話しかけたり、質問したりしても返事が帰ってきません。学生さんもきっと眠たかったんだなあ、と独り合点が行ったのでした。

 早起きは三文の得、と言います。確かにそのような場面も多々ありますが、普段の習慣よりもあまりに早起きするとずっと眠くてつらい、という状況に立ち至りますのでお勧めできませんね(って、当たり前か,,,)。


耳ネタ May 2017 (2017年5月14日)

 先日、久しぶりにレコードを聴いた話しを書きました。そのとき、冨田勲のシンセサイザー楽曲(ホルストの『惑星』)を聴いたわけですが、レコードをよく捜したら、もう一枚、アルバムが出てきました。冨田勲の『Cosmos(宇宙幻想)』というアルバムで、『惑星』に続く五番目のシンセサイザー作品として1978年に発売されました。今から約四十年前の作品、ということになります。

Tomita_Cosmos_Jacket

 このアルバムを自身が買ったこと自体をすっかり忘却していましたので、かなり新鮮な驚きでした。納められている曲は、「スペース・ファンタジー」(R.シュトラウスのツァラトゥストラおよびワグナーのワルキューレなどを組み合わせたもの)、「スター・ウォーズのテーマ」(ウィリアムズ)、「アランフェス協奏曲」(ロドリーゴ)、「ソルヴェーグの歌」(グリーグ)などです。

 当時の音楽界において、シンセサイザーはまだほとんど使用されていなかった時期でしたから、冨田勲のサウンドは耳新しく、非常に前衛的だったのだと思います。彼の一連のアルバムが発売されて一時代を画したこと自体が、そのことを物語っています。ポピュラーやロックのいわゆる“打ち込み”が普及するよりもかなり前です。ピコピコ的な電子音、あるいはブルックナーの「原始雲」のような通奏低音を電気的操作によって産み出すことが物珍しく、また近未来的に捉えられたのでしょうね、きっと。

 でも、コンピュータが目覚ましく発達して電子音に囲まれた21世紀になってこのアルバムを聴いてみると、それらの音たちは今じゃ身の回りに溢れていますから、色褪せて陳腐化したという印象をぬぐえませんでした。もちろん、わたくしが使ったレコード針やアンプの性能が悪いというハード的な問題もあったでしょうが、総体的なイメージは残念ながらこのようなものでした。そのなかで、電子音の重ね合わせが非常に幅広の音域を実現して幻想的な雰囲気を醸し出した「アランフェス」や「ソルヴェーグ」はなかなか良いと思いました。

 このアルバムが世に出た当時はまだCDはありませんでした。そこで、シンセサイザーによる電気的な処理によって発出されたデジタル音を、アナログ処理してレコードの音溝に刻み込んだわけです。ということは、そのレコードが奏でる音は(アナログ盤にもかかわらず)あらゆる周波数の音が無限に存在する自然の音ではなく、離散的な周波数だけが取捨選択された(ある意味)不自然な音を聴いている、ということになりますね。デジタル録音のいまのCDは音のゆらぎを忠実に再現できないわけでして、それをレコードで聴かされるっていうのもなんだかなあ、っていう気がしますわな。

 そうそう上記の欠点を補ってできるだけ自然の音に近づけるために、昨今ではハイ・レゾリューション(ハイレゾと呼ぶようです)などというやり方が出て来ました。でも、結局これは、アナログ・レコードであらゆる周波数の音を物理的にゆすっていたことをデジタルで再現しようってだけのことです。そんなに心地よい音を聴きたいのならば、レコードを聴きゃいいんじゃないでしょうか。


テーマが決まる (2017年5月12日)

 昨日、五回目の研究室会議があって、卒論生および大学院M1の研究テーマがほぼ固まりました。今年度の実験研究は、結局、岸田慎司研究室との協同実験一シリーズだけとなりそうです。本当はM1のどなたかに鉄筋コンクリート部材の限界状態に関する実験をやって欲しかったのですが、三人とも解析的な研究を希望したので、まあ仕方ないですね。この実験は今後に持ち越すことにいたします。

 昨日のゼミでは、鉄筋コンクリート柱梁接合部の研究の歴史と地震被害についてレクチャーいたしました。我が社の本流研究ですので、説明するわたくしも力が入って、一時間半も説明しちゃいました。そのあと、質問や意見を募ったのですが、例によってだ〜れも何も言わないんですよ。かなり疲れたので、じゃあ僕は10分間休むけど、君たちは休まないで質問を考えていなさい、と言っておきました。

 で、戻ってきても、やはりほとんど質問はありませんでした。では、なぜ質問が出ないのか考えてみると、それは、1) 内容が全て理解できたので質問がない、2) 内容がほとんど理解できなかったので質問できない、3) つまらなくて寝ていたので質問できない、のどれかということになります。もし1)だとすると、反論や意見を言うことができますから、該当しません。ということは、必然的に2)か3)のどれか、あるいは両方、ということになるのですが、それじゃ、いったい何のために迂生は声をからして講義をしているのでしょうか。かなり空しい気分になりましたな。

 でも、わたくしが三十年以上をかけて修得した知識や知見を、昨日研究を始めたばかりの若いひと達にこの場で理解しろ、というのが、どだい無理な注文なのかも知れません。

 ちょっと語り過ぎたかもしれません。どうやら、先生が熱く饒舌になればなるほど、それに反比例して学生諸君は黙り込む、という傾向があるように感じます。こちらとしては(年寄りの老婆心から)なんでも教えておいてあげよう、と思うのですが、それが若い彼らにとってはありがた迷惑なのかも知れません。そういえば、同じようなことを年輩の教授の方々も仰っていたことを思い出しました。

 ということで、次回からはレクチャーはするとしても、もっと短めにしたほうがいいかも知れません。我が社の学生諸君の集中力が切れない程度の範囲で説明する、ということです。う〜ん、教育って、つくづくホントに大変だなあ。


廃棄物の仮置き場を整理する
 (2017年5月10日)

 二限の大学院講義を終えて研究室で一服していると、助教の国枝陽一郎さん(材料学)が研究室にやってきた。相談があると言う。実験棟の前に作業のためのヤードがあって、そこに産業廃棄物(実験で使ったコンクリート・ガラとか、試験体とか木材など)を廃棄するまで仮置きしているスペースがある。ところが、そこに不法に投棄されたゴミが山積みになって、今にも崩れ落ちそうで危険なのでなんとかしたい、というのだ。

 で、よくよく話しを聞いたり、写真を見せてもらったりして、確かに危険だということが理解できた。そのことを気にかけてくれた国枝さんには感謝したい。そこで、とりあえず頂部に積まれたゴミ類(主にコンパネのような木材だった)を降ろそう、でも、その作業は結構危険そうで学生にやってもらうにはリスクが伴う。じゃあ、仕方ないからわれわれ教員でやるか、ということになった。

 たまたま迂生はそのあと空いていたので、善は急げということで(昼ご飯も食べずに)、すぐに作業することにした。隣室の多幾山法子准教授も手伝ってくれると言う。ということで、三メートル近い高さまで小山のように積まれた木材類(下の写真/国枝さん撮影)を、教授、准教授、助教の三人で積み木崩しのように慎重に取り除いていった。そんな危険なところに誰が積んだのか分からず仕舞いだったが、とにかくかなりアクロバティックな“作品”ではあったな。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:IMG_4994.JPG

 こうして小一時間ほどかけて崩れそうな部分は除去して、再度の不法投棄を避けるためにブルー・シートを被せた養生をして、作業を終了した。しかし最も知的な労働者であるところの大学教員が、なんだってそんな産廃の面倒まで見なけりゃならんのか、もう、理解不能である。そのための一時間を知的生産に費やせば、どれだけの効果があがるのか(って、上がらなかったりして、ぎゃははっ)、資源の無駄も甚だしい。

 それにも増して腹立たしいのは、そこにゴミを不法に投棄したやからがいたということである。多幾山さん曰く、以前に不法投棄されたゴミを多幾山さんが苦労して処理したため、そこに捨てると誰かが廃棄してくれて楽だ、という旨味をしめたひと(達?)がいるのではないか、とのこと。そうだとすると、知の拠点たる大学におけるモラル・ハザードもここに極まれり、という感を強く抱く。この怒りの憤りはどこに持って行けばよいのだろうか,,,。


Man is mortal (2017年5月9日)

 高校のときの担任だった内藤先生の訃報に接しました。この日、4限の講義が終わって研究室に戻ってくると、同級生たちからドワーっとメールが来ていて何事かと身構えたのですが、それは黒い縁取りの、悲しいお知らせでした。

 Man is mortal. これは内藤先生が教えてくれた英文のひとつです。人間は死すべき運命にある、という意味ですが、この宿命からはスーパー先生だった内藤先生も逃れられなかった、ということですね(当然ですが,,,)。

 折に触れて書いてきましたが、今のわたくしがあるのは内藤先生のお陰です。これもよく教わった内藤文型のひとつで、I owe Naito-sensei what I am. だったかな。とにかく三年間、みっちりと英語を鍛えていただいたお陰で、いまとても役に立っています。

 高校三年生のときに、内藤先生の自主授業というのが放課後にあって、これにはクラスの枠を超えて誰でも自由に参加できました。内藤先生の授業は独特の形式で、生徒に機関銃のように質問を浴びせて答えさせます。SVO to不定詞の文型をとる動詞(ask, force, oblige など)を四つ言えとか、SVOCの例文を言え(She makes me blue.)、とかです。このときは、”-ee”で終わる名詞を言え、という質問があって、想定される答えはabsentee(欠席者)とか refugee(亡命者)等の人間に関わる名詞なのですが、このとき内藤先生から指名された迂生はその裏をかいて guarantee(保証)と答えたんですね。それを聞いた内藤先生が「ほう〜、北山、そう来ましたか」と嬉しそうに仰ったことを今でも憶えています。

 このような教育法は英文法とか英文解釈とかに重きが置かれたもので、現代のコミュニケーション重視の英語教育としては多分批判される類いのものだと思われます。でも、英語に全く馴染みのない日本人が英語を学ぼうとしたら、文法や文型を論理的に理解することは大いに役立つと今でも思っています。

 内藤先生の授業は厳しかったですが(北山、答えられるまで、立っていなさい)、とても暖かな人間味溢れる方でした(おまえ、そんなことでいいと思っているのか、バコン![黒表紙の出席簿で頭を叩かれた音です])。ひとりひとりの生徒のことをよく理解していて、それは卒業後もず〜っと続きました。その当時のことをよく覚えておいでで、こちらが忘れているようなことを言われることも度々でしたね。

 斯様に受けた内藤先生からの学恩とご厚情とに感謝しながら、先生を偲んでいます。内藤先生のご恩はわが大学の学生諸君に返そうと思いますが、なかなかその域には到達できません。まだまだ修行が足りないぞって、先生から怒られそうですけど,,,合掌。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:青高内藤クラス会2012:DSC01862 (1024x768).jpg
 わたくしの先生…ありし日の思ひ出(五年前のクラス会にて)


甍の波と (2017年5月5日)

 いらか〜の波と、雲の波〜っていう、鯉のぼりの季節です。さぼっていましたが、家内から鯉のぼりを出せと何度も言われるにおよんで、じゃあ、空を泳がせるかと、こどもの日になってやっとベランダに竿を立てました。ことしは子供が出かけていて、全ての作業を独りでやったので、結構大変でした。やっぱり手は多い方が楽ですね。竿の先端につける風車を留めるための割りピンが、昨年折れたことを忘れていて、結局、風車はナシになりました。どうにも不格好で落ち着きません。結束線を学校から持って帰るんだったなあ、と思っても、あとの祭りです。

 で、お決まりですが、今年も柏餅をいただきました。こし餡でおいしかったです。きょうは日向に出ると汗ばむほどの暖かさでしたが、この一週間で、玄関先に植えてある薔薇の花が一気に咲き出しました。陽も長くなって、今が一番よい季節ですね。


SFを読む (2017年5月4日)

 五月の連休ですが、家でのんびりダラダラとしながら、本を読んだり、レコードを聴いたりして過ごしています。以前に書いたように、ソニーのレコード・プレーヤーにビクターのコンポ・ステレオのアンプとスピーカーをつないで聴くのですが、アンプは年代モノのせいか、音があまり良くないような気がします。作曲家の冨田勲がシンセサイザによって編曲した『惑星』(ホルスト原曲)をかけてみたのですが、音が良くなくて、せっかくの(当時は)前衛的なサウンドがだい無しでした。やっぱりPhonoイコライザーを買って、デジタル・コンポにつないだ方が良さそうだな、こりゃ。それとも、レコード・プレーヤーのアースを採っていないせいかな?

 若い頃に読んだ本を掘り出してきて再読する「昔の読書」ですが、久しぶりにSFを読んでみました。中学生の頃には星新一のショートショート(って、懐かしい呼び名ですね〜)の文庫本を買ってきて読みまくりました。『N氏の遊園地』、『ボッコちゃん』、『おーい、出て来い』とか、小説のタイトルがすぐに思い出されます。

 でも、今回、引張り出してきたのは長編です。それは眉村卓の『かれらの中の海』(講談社文庫、昭和50年8月)という小説(値段は300円)です。読了した日付が書いてあって、それによれば、今からちょうど四十年前の読書でした。

 『かれらの中の海』という表題は、どういうわけかずっと頭に残っていて、忘れることはありませんでした。「海」という漢字のなかには「母」があり、フランス語の母”mere”のなかには海”mer”がある、という趣旨の、上田敏の『海潮音』だったかな(調べたら、三好達治の「郷愁」という詩のなかにありました)、有名な詩句の一節が強烈にリンクしていたせいかもしれません。でも、中身はすっかり忘れていました。

 ということで、どんな素晴らしい小説なんだろうと期待にワクワクしながら、あっという間に読み終わりました。で、四十年ぶりに読んでみて、意外にたわい無い話しだな(身も蓋もない言い方ですが,,,)、というのが正直な感想です。

 文明が遥かに進歩した銀河連邦の宇宙人たちが、自然環境が汚染された地球を救うには人類をなんとかしないといけない、ということになって、地球外バクテリアを使って石油を変質させて使えなくして、その結果として文明があっという間に崩壊する、というストーリーです。1970年代には地球規模の石油危機がありましたから、この筋書きも当時の社会情勢から産み出されたものでしょうね。その頃の日本は右肩上がりの活況期であり、その必然として発生した公害が重大な社会問題となっていたことも思い出しました。

 こういう宇宙人型や人類破滅型のSFって、昔は多かったように思います。『渚にて(On the Beach)』(ネビル・シュート作)に代表されるような、核による第三次世界大戦が勃発して世界が終末を迎える、という内容もよくありました。でも、20世紀末に東西冷戦が終結し、21世紀になって科学技術の進歩がある意味、当時のSFの域を超えたような現代では、あまり見かけなくなった類型ですね。そもそもSFというジャンル自体をあまり聞かなくなったように思いますが、どうでしょうか。あ、そうか、伊藤計劃が遺した数冊の小説はSFといってよさそうですな。

 ちなみに著者の眉村卓ですが、『ねらわれた学園』、『まぼろしのペンフレンド』、『なぞの転校生』などが有名かも知れません、テレビ・ドラマなどにもなりましたから。中学から高校にかけては他にもたくさんのSFを読んだことを思い出します。小松左京、矢野徹、筒井康隆、半村良、安部公房の『第四間氷期』なんかもSFだったような気がします。海外モノではマイクル・クライトン、アーサー・C・クラーク、フレデリック・ブラウン、レイ・ブラッドベリなどかな。

 こんなにSFを読んだのは、NHKで午後六時くらいから放映された「少年ドラマシリーズ」をよく見ていて、それに触発されたからかも知れません。これを見たあと、「新八犬伝」のような人形劇を見て、それから晩ご飯をいただく、というのが(小学生くらいの)当時の生活スタイルだったように思います。とても懐かしいです。


連休の谷 (2017年5月2日 その2)

 適度に暖かくて気持ちのよい陽気ですね。世間はゴールデン・ウィークで休暇を満喫している方も多いでしょうが、本学では連休の谷間の平日にはちゃんと授業をやっています。きょう一限の『鉄筋コンクリート構造』のギャラリーはさらに減っていましたが、ちゃんと来ている学生諸君もいるわけですから、梅村魁先生のように「よく来たね、みんな」ってな具合に褒めてあげるべきでしょうな、やっぱり。

 でも、休講の授業も多いみたいなので、融通の効かないバカ正直な先生、みたいに思われているかもしれません。昨年までは連休の谷間に全学休講日があったりして、それなりにGWをエンジョイできたようです(学生さんが、ですけど,,,)。ところが今年度から学年暦が大きく変更になって、セメスター制に対応するようなカリキュラムになりました。

 本学では一年を前期、後期の二つに分けていますが、それぞれをさらに二分割して(セメスター)、授業を設定できるようになりました。その結果、セメスター制を採用した講義の期末試験が五月末にセットされました。その期間は、普通の授業をしてはいけないそうです。そうすると半期に納められる授業時間数が圧迫されて、そのとばっちりで連休谷間に講義をせざるを得なくなった、という具合みたいです。わたくしの授業はその制度に移行していませんので、全くもって迷惑な話し、というわけです。

 でも、明日からは暦通りに五連休になりますので、まあ、いいか。先日のテニスのせいでしょうか、関節のあちこちが痛んで、ロボットみたいなぎこちない歩き方になってしまいました。板書するときに白板の前を右往左往するのがつらいです。


憲法の季節 (2017年5月2日)

 ゴールデン・ウィークの頃になると例年、日本国憲法が話題にのぼります。憲法も大学の自治と同じく空気みたいなものですから、日常、それを意識することはほとんどありません。でも、現在、日本を緊迫させている北の無法国家とトランプ・米国とのつばぜり合いのような緊急事態が生じると、集団的自衛権とか専守防衛とかが俄然として注目されます。結局、日本はアメリカの核の傘のもとで守って貰っているわけで、米国がやると言ったら、黙ってついて行くしかないところが悲しいですな。

 日本のA倍首相の言動を見ていれば分かるように、とにかく米国一辺倒の国是には危機感すら抱きます。グローバルな時代と言われているのに、日本は世界のなかの米国しか見ていません。自分で考えることが重要、といつもここで書いていますが、日本国は残念ながら自分で判断することなく、常に米国のやり方を追認するだけです。わが国には国家としての確固とした信念がない、ということを世界の国々も知っていて、そのことが日本への信頼や尊崇の念を抱かせない大きな要因になっていると思います。

 こんな感じで一国の意思決定を米国にアウトソーシングしている状況において、現行憲法は自分たちで作ったものじゃないから改正するんだ、と言われても、片腹痛いとしか言いようがありません。そもそも、米国の言うことには斯様に文句も言わず盲目的に従うのに、ことが憲法になると、これは米国から押し付けられたのでけしからん、という二律背反的な精神構造が理解できないんですよね、迂生には。

 このような政治状況から見ると、現行憲法はわれわれよりも遥かに高い位置にあって、日本の民度は残念ながらまだそれに追いついていないのではなかろうか。そうであれば、神の如くにある現行憲法を改正するようなバチ当たりな行為はまだ百年早いわ、っていう感じを抱きます。

 世界のなかの尊敬されるべき国家として、日本国が未だに成熟していないとするならば、諸国民の公正と信義に信頼して平和を構築する、という現行憲法の精神を世界に向かってもっと声高に標榜し、平和の伝道師としての道をあえて選ぶ、ということを考えたらどうでしょうか。核兵器廃絶を世界中に訴えているのに、米国の核に守ってもらっているということ自体がすでに自己撞着であって、そのことを弁明しようとすればするほど、それが空々しく聞こえるのは当然の理でしょう。

 1945年の夏、われわれの先祖たちが米国に敗れたのは事実です。その帰結として、現在あるような日本と米国との関係が築かれました。しかし、米国のやることはいつだって正しいのだという呪縛から、そろそろ解き放たれるべき時期だと思いますが、いかがでしょうか。結局のところ現行憲法を正しく理解して運用するためには、まずは米国との関係を見直すことが必要である、ということでしょうね。

 憲法前文の最後に「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」とあります。しかしながらこの崇高な理念をわれわれは残念ながら忘れてしまったように思えます。憲法の季節において、もう一度この誓いを噛みしめるべきではないでしょうか。


GWと五月 (2017年5月1日)

 この週末からゴールデン・ウィークが始まりました。土曜日は夕方あたりから黒雲が広がって突風が吹いたりして、怪しげな天気になりましたが、日曜日はよいお日和になりました。わたくしといえば、どこにも行かないで家でゴロゴロしていましたが、庭(と言っても、文字通り猫の額、ですけど,,,)に植わっているレモンの木がモジャモジャに繁茂していたので、ほとんど丸裸になるほど剪定しました。でも、夏に向けてすぐに元通りになるんだと思います。

 子供がテニスをしたいというので、近くの団地にある球技スペースに行きました。そこではキャッチ・ボールとかサッカーなどをやっていることが多く、少しスペースを分けてもらってテニスをはじめました。しばらく見ないうちに子供のサーブは大分早くなっていて、うまく打ち返せないくらいでした。子供の成長って、ホント早いなあと思いますね。

 でも、子供が成長するということは、それに反比例して迂生はとしをとって行くわけでして、こんな些細なことにも世代交代とか人生の無常とかを感じます。でも、いつの世もひとびとはそうして人生を過ごしてきたわけですし、人間と言えどもフツーの生物に変わりはありませんから、当たり前の至極当然の道を歩んでいるに過ぎません。子供には早いところ、わたくしを追い越して欲しいものだと願っています。

 きょうから五月です。五月は緑が萌え立つ、気持ちのよい季節です。この気候のなかで、せめてしばらくは気分よく暮らしてゆきたいものだと、しみじみと思うわたくしでございます。そうそう、不自然な体勢で作業をし、久方ぶりに運動をしたので、腰が痛いです、とほほ,,,。


春のひと月 (2017年4月28日)

 新年度になってほぼ一ヶ月が経ちました。各授業とも三回をこなして、やっと調子が戻ってきたという感じですね。三年生の『鉄筋コンクリート構造』は朝一限ということもあって、出席者は十数名と例年並みになってきました。毎回、演習や例題を入れるように努めています。

 一年生の『建築構造力学1』ですが、一年前期の専門の授業は二科目しかないので、新入生たちは大学の専門の授業がどういうものか興味を持って受講していると思います。でも、皆さんご承知のように初歩の構造力学って、ほとんど実物の建物を想起させるようなものがありませんよね。それじゃ、あまりにも寂しいかなと思って、先日ちょこっと書きましたが、キャンパス探訪を実施したわけです。昨年まで『基礎ゼミナール』でやっていたものを、建築都市コース全体に拡張したことになります。

 初回の授業のときに、あらかじめキーワード(都市、多摩丘陵、歩者分離、鉄筋コンクリートなど)や登場人物(ロジャー・ペンローズ、大谷幸夫、グンナール・アスプルンドなど)を提示して、それらを調べてこの探訪に臨むように言っておきました。彼らがどれくらい調べたかは不明ですが、散策しながら折に触れて質問したところ答えが帰って来たこともありましたから、調べたひとも少しはいたようです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU構造力学1キャンパス探訪20170418:CIMG0910.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU構造力学1キャンパス探訪20170418:CIMG0935.JPG

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU構造力学1キャンパス探訪20170418:CIMG0913.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU構造力学1キャンパス探訪20170418:CIMG0939.JPG

 六十人以上の学生諸君をわたくし独りで引き連れて歩き、説明するので、ちゃんと聞いていないひとも結構いたと思います。でも具体的な建物や都市(大学のキャンパスは都市の縮図ですし、本学は都市計画された南大沢地区の文脈のなかに建っています)を解説付きで見て回ったことは、建築都市コースでの最初期の経験としては彼らの記憶に残るのでは、と期待しています。なお、さすがにわたくし独りではつらいので、我が社のM1三名(岩田くん、扇谷くん、李さん)にアシスタントをお願いしました。写真は彼らに撮ってもらったものです。

 それから研究室の運営ですが、今年度はKick-off Meeting 以来、毎週ゼミを開いています。そのため、四月のひと月にゼミを四回も開くという、我が社始まって以来の開催頻度となりました。そのなかで、わたくし自身が一時間半程度のレクチャーを行なうというのも、初めての試みです。それがどれくらい役に立つのか、立たないのかは、この一年のあいだに自ずと分明になるでしょう。学生諸君の研究テーマ選びはまだ途上ですが、五月の連休明けにはだんだんと固まってくるものと期待しています。

 なお、我が社では第一回目のゼミのことをKick-off Meetingと称しています。これは、1988年に迂生が宇都宮大学の構造研究室に助手として赴任したとき、研究室主宰者の田中淳夫教授(鉄骨構造)がそう呼んでいたことにちなみます。テニスにスキーやクロッケーとスポーツ万能だった田中先生だからこそKick-off Meetingという呼び方もさまになっていました。でも、わたくしはスポーツマンでもなんでもないので、何故こう呼ぶのだろうと不思議だったひともいたかと思います。こんなところにも長い歴史と由緒があって(?)、趣き深いことでございますなあ(なんちゃって)。


自分のことは自分で (2017年4月26日)

 このまえ、かなり後味の悪い思いをしました。いや〜な感じ、とも言えそうです。数年前にわがコースを卒業したというひとが、ふら〜っと研究室にやって来たのです。そのひとは我が社の出身でもなんでもなくて、ただ、目当ての先生がいなかったので、研究室のドアが開いていたわたくしのところに入ってみた、らしいです。

 そのひとが言うには、一級建築士の受験資格要件として、大学在学中に配布された『履修の手引き』には載っていない条件があることが判明し、そのために不利益を蒙りそうなので、その事実を確認しに来た、ということでした。わたくしは一級建築士の受験要件については詳しくないので、よく分かりませんでした。ただ、そのひとが持参したペーパーに書いてあった受験要件の一部は、確かに『履修の手引き』には明記されていませんでした。

 しかし、『履修の手引き』は本学の卒業に必要な要件を記したものであって、一級建築士の受験資格要件については、学生諸君の利便に供するために参考までに掲載してあるだけです。ですから、それは本来、各自が自分自身で確認すべき事柄だと思います。そのひともそのことは理解しているようで、確認を怠っていた自分の責任を認めていました。でも、在学中に先生がそのことをちゃんと説明しなかったのは、大学側の過失ではないか、というようなことも言っていました。

 いやあ、多分そんなことはないと思うよ、とわたくしは言いました。『履修の手引き』は、建築都市コースの入学時に一時間近い時間をとって、詳しく説明しています。一級建築士の受験資格要件も大切ですから、そのときにちゃんと説明しています。話しを聞いたのが入学直後なので、忘れてしまっただけなのでしょう。

 はなす言葉は丁寧で言うことも穏やかでしたが、そのひとは結局、文句を言いにきたということだったようです。その真意が分かるにつれて、わたくしはいや〜な気分になってきました。そのひとは卒業して数年経って、一級建築士の試験を受けようと思って件(くだん)の要件を調べたところ、初めて自分がそれを満たしていない、ということに気がついたわけです。そんなに重要なことであれば、本来は自分自身で確認しておくべき事柄でしょう。

 それなのに、それを大学の先生のせいだ、みたいに今更言われても、こちらとしては困惑するしかありませんよね。なんだか知りませんが、近頃はこんな感じで自立できていないというのでしょうか、自分のことを自分でできないひと達が増えてきたように思います。そうして、そのひとが去った後、どんよりとした暗澹たる気持ちだけがわたくしの胸のなかに沈殿したのでした。


若いひとを評価する (2017年4月24日)

 先日、建築学会大会のプログラム編成会議があって、行ってきました。鉄筋コンクリート構造運営委員会では、大会発表において若手研究者の優秀賞を顕彰する事業を行なっています。その採点者を、今年から各セッションの司会のおひとりにお願いすることになり、その人選のために出かけました。以前に書きましたが、RC構造運営委員会において塩原等主査(当時)から、この事業のためのWG(「大会活性化」という名称です)の主査を務めるように指名されたためです。

 この表彰事業は二年前から始めましたが、今年は受賞者数を有資格者総数の10%程度以内におさえるようにと学会上層部から厳命されたそうで、審査もかなりの厳格化が要求されます。そのためには、発表時の採点を確実に実施してくれて、かつ、その審査内容に信頼が置けることが、今まで以上に重要になります。

 そこで採点者は原則として、大会活性化WG、RC構造運営委員会および河野進さん(現・RC構造運営委員会主査)が差配する小委員会・WGの委員から選ぶことといたしました。ことしの発表のセッション数は64となりましたが、できるだけ2セッション連続で採点してもらうようにしました。さらに各人の専門、自分自身や関係者の発表がないセッションを担当することなど、いくつかの与条件を満足するように採点者を選ぶことは、予想した通り大変でした。

 我が社では幸か不幸かRC部門での研究発表がことしはなかったため、人選が難航したセッションの採点をわたくし自身が引き受けました。究極のワイルド・カードといった感じですが、丸く納まってまあよかったです、あははっ。

 このような面倒な作業をお引き受けいただいた、プログラム編成会議参加者の皆さま(十名ちょっとですけど,,,)にはあらためて御礼申し上げます。午後一時から始まった作業が終わったのは六時ちょっと前でした。そんな遅い時間までプログラム編成作業をやっている部門は、当然ながらありませんでしたね。

 このように準備は大変ですが、発表する若いひと達にとっては顕彰されるせっかくのチャンスです。どんな賞でも、それなりに価値はあると迂生は思いますよ。実際、我が社では二年連続で石塚裕彬さんがこの賞を受賞しましたが、彼もわたくしもとても嬉しかったことを憶えています。ですから、是非とも素晴らしいプレゼンと活発な質疑応答とをお願いしたいと思います。

 さて、ことしの大会は通例よりは一日多い四日間も開催されますので、表彰事業の実施責任者であるわたくしは四日間出突っ張り、ということになります。夏の暑い時期なので、それはちょっとつらいよなあ、と今から弱音を吐いているわたくしでございます。会場は広島工業大学でして、広島市内から結構の“通勤”になりそうなのが、二重に苦行といったところです、とほほ,,,。


歩道の歩き方 (2017年4月21日)

 『地球の歩き方』という本は外国に行くときにとても役立ちますが、「歩道の歩き方」とはなんでしょうか。なんと本学ではついに、歩道の歩き方まで学生に指導するようになったのです、驚きですね〜。

 本学の正門は南大沢駅から真っすぐに続くペデストリアン・デッキの正面にあります。この通路はベルコリーヌ南大沢などの近隣の集合住宅等にお住まいの方々の通勤通学の主要路となっています。写真は先日、『建築構造力学1』の授業の一環として実施した、南大沢キャンパス探訪のときのスナップ(力学とは全く関係ない内容ですが、このことについてはいずれ書こうと思います)ですが、正面に伸びている歩道が件の通路です。この先の左側に南大沢駅があります。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU構造力学1キャンパス探訪20170418:CIMG0942.JPG

 朝の通学時間帯にはこの通路が、南大沢駅から大学に登校する学生で超混雑します。そうすると駅に向かう近隣住民の方々がスムーズに歩けなくて困る、という苦情があったのだと思います。今週から、この通路に二、三人の事務方の職員さんがプラカードを持って立ち、通路の両端を空けて通学するように、という指導を始めたんですね〜。カラー・コーンまで立てて、学生の通行を規制しています。いやあ、驚きました。ついにここまでやるのか、という感慨を新たにしたわけです。

 これって、もちろんモラルの問題ですが、朝のわずかな時間帯に出現するラッシュ現象を許容できないで、苦情を言うっていう権利意識?も相当なものだと思うのですが、如何でしょうか。皆さんがお互いに気持ちよく暮らせるように、ちょっとだけ気配りすればよいだけの問題ですよね。なんにせよ、そのような心の余裕がなくなっているのが現代という(悲しい)時代の特徴のような気がします。

 とはいえ、かく言うわたくしも些細なことで腹を立てたりしているわけで、この言葉はそっくりそのまま自分に返そうと思いました。そうそう、上の写真の授業のときも六十名以上の学生さんが通路を専有していたわけで、これも立派な近所迷惑だったのでしょうか,,,。


授業を活性化する (2017年4月19日)

 学部三年生の授業科目『鉄筋コンクリート構造』では今まで、授業に出なくても、レポートを出さなくても、期末試験さえできれば単位を付与する、と言ってきました。これはこの科目がAdvanced Course の授業であると位置付けていたからです。この結果、演習や課題を出題しても、それを提出する(奇特な)学生はほとんどおらず、授業に出ないで期末試験だけ受けるひとが多数いました。

 でも、一連の授業改革が進んできて、このようなやり方ではいけないと大学から言われるに至りました(もちろん、直接叱責されたわけではありませんよ、念のため)。授業時間外の学習を促進して、持続的に勉学するように向かわせろ、ということらしいです。これじゃ、自律的な大学生とはとてもじゃありませんが言えず、ほとんど小学生と同じレベルのような気がしますね。しかし、残念ながらこれが、今の大学教育の現状です。

 というわけで(従順なわたくしは)『鉄筋コンクリート構造』の授業において今までの方針を180度転換しました。すなわち、授業には出ること、課題は必ず提出すること、課題提出を成績に加味する、というようなことを第一回の授業で宣言しました。また、第一回の授業ではRCの誕生とその発展の歴史や、RC構造の特長などをパワーポイントで説明するのですが、ことし初めて、これについての課題を出題したのです。授業に登場した人物、建物、出来事等について調べて提出せよ、という人文科学的な(?)課題としました。ちなみに枚数は自由です。

 そのレポートを昨日の授業のときに回収しました。第一回目の講義に出席していたのは三十数人でしたが、二十人ほどの学生が提出しました。まあまあの提出率でしょうか。どれどれ、何を調べてどんなことを書いてきたのかな、と興味津々見始めたのですが…。

 いやあ、驚きましたな、迂生は。ほとんど全てのレポートがネット上の情報を(多分、丸写しに)コピペしたものだったのです。ウィキペディアとかコトバンクとかが多かったですね。参考文献として、長ったらしくて%とか&が羅列したURLを書きまくっていました。ネット上の情報には間違ったものも多いのですが、間違ったものもそのまま転記しているのですから恐れ入ります。あるレポートなどは、誰かの口述筆記録をそのまま写していて、口語かつ間違った日本語が悪びれずにそのまま記述されていました。いくらなんでも、そりゃないよなあ、とは思わないのでしょうかね。

 一年生のときの『基礎ゼミナール』で、参考文献としてURLを記載してはいけないよ、とあれだけ注意したのに、二年もするとすっかり忘れ果てているわけです。これはホントにひどい、と思いました。そうか、課題の出し方が悪かったのかもしれません。ネットの情報をそのままコピペしてはいけません、とは言わなかったので。でも、そんなことをしても、何の役にも立たないことは彼らだって分かっているのでしょう?

 ん?、分かってない、ということでしょうか。先生が課題を提出しろと言ったので、コピペして(すなわち、自分自身では何も考えずに)お茶を濁せばいいだろう、というふうに思っているとしたら、学生が自分自身で考える能力を鍛えるなどというカリキュラム・ポリシーは、画餅に帰せざるを得ません。それとも前述のように、出題を工夫しないといけない、ということでしょうか。いま、頭を抱えております、はい。


研究室の活性化に向けて
 (2017年4月14日)

 ちょっと前に書いたように、研究室の立て直しを計るため、4月の研究室会議を一週間に一度の頻度で開催するようにしました。あわせて、学生同士のあいだで議論するように促しました(なんだか、アクティブ・ラーニングの実践例みたいになってきましたが…)。昨日のゼミでは、新M1に各自の卒論を発表してもらい、それをネタにしてディスカッションを試みました。でも、たいていは皆、しら〜っと黙っています。仕方がないので、「じゃあ、みんなは今の発表を聞いて、全て分かったのかい?」と問うてみると、チラホラと発言が出てきました。

 どうやら彼らは、こんなことを聞いたらダメなんじゃなかろうか、と勝手に思っている節がありますな。でも、そういう質問が本質を突いていたりすることもあるので、結構楽しめました、わたくしは。もちろん、頓珍漢なことを言うひとも中にはいますが、始めはしょうがないと割り切って、それでもいいから発言しろと言っています。

 また、今まで研究室内でわたくしがレクチュアーすることはありませんでしたが、そうも言っていられないと思いましたので、研究室の先端研究に結びつくような基本に関する講義をすることにいたしました。その第一弾として、RC建物の耐震診断の考え方および概要を一時間ほど説明しました。いろいろな知識を若くて回転の速い脳ミソに注入すれば、なにがしかの反応が起こって、興味を持てるような事柄が見つかるかも知れない、などと期待しているわけですが、さて、どうなるでしょうか。このような研究室内での講義をしばらく続けようと思っています。われながら、すごいサービスだなあ、と思ったりもします。

 こんな感じで昨日のゼミを行ったところ、なんと4時間もかかりました。もっとも、学生諸君の発言がなかなか出てこないので、沈黙の時間も結構あったりはしましたが,,,あははっ。こういう雰囲気に慣れれば、それなりに議論できるようになるかな、と期待しております。


耳がいたい (2017年4月12日)

 わたくしの祖父が地理学者だったことは以前に書きました。その昔には日本地理学会に所属して、半世紀以上前にはそこの会長も務めたそうです。で、ふと気がついたのですよ、その学会のサイトに行けば、大昔に祖父が書いた論文を見ることができるのではないか、と。建築学会のサイトには論文アーカイブがあって、一世紀以上前の論文や講演の速記録を居ながらにして見ることができますからね。

 ということで、そこから結局はJ-Stageに入ったのですが、予想とおりに祖父の論文が数十編ほど格納されていました。そのなかの最古は1931年のものでした。86年も前の論文ですから、こりゃもう“古典”の部類に属しそうな感じです。怖いもの見たさにチラッと中身も見てましたが、何が書いてあるのかさっぱり分かりません(まあ、当然か、その道のプロが書いた論文なんだから)。

 でも、学会大会で行なった会長講演の記録が残っていたので、それだけは通読してみました。言ったことがそのまま書かれていて、読み易かったこともあります。そこには人文地理と自然地理との関係について縷々綴られていました(それは、地理学にとっては「永遠の課題」だったみたいですけど…)。そう言えば、祖父がまだ存命中に、地理学科が所属するのは大学によって文系学部だったり理学部だったりする、ということを聞いた記憶があります。

 ところが、そういった地理学の抱える課題みたいなものが述べられているなかに、以下のように、どのような学問分野にも通じそうなことが書かれていたのです。

 「この大会の研究発表を見聞していますと、もう一年あたためて、よく考えて、発表するとさらに一層立派な研究になるのだが、と感じることがあります。」

 ぎゃははっ、もう、笑っちゃいますな、ホント。耳が痛いったら、ありゃしません。告白しますが、わたくしの研究室でも建築学会大会の梗概などは、(オリンピックじゃありませんが)参加することに意義がある、みたいな感じで提出したことも多々ありました。査読はありませんので、何を書いたっていいんだ、ヘノヘノもへじよりはましだろ、みたいなノリです(これは絶対にまねしないで下さいね、あははっ)。そういうのはよくないぞ、もっとよく考えてから投稿しろよって、半世紀以上前に祖父は言っていたわけです。

 まあ、そんなのは言われるまでもなく、当たり前のことです。でも、その当たり前のことが半世紀前の(この場合には地理学の)研究者もできていなかった、ということで、これって、「最近の若いもんは…」っていうのと同じような、いつの時代にも普遍のセリフなのかも知れません。実際、これと同じようなことを迂生は約二十年ほど前に、岡田恒男先生から直接伺った記憶があります。あれ?そう言えば、岡田恒男先生と祖父とは(偶然ですが)同郷でした、う〜ん、単なる偶然とも思えませんが…。

 いやあ、いつの時代にも研究者の抱える悩みとか、締め切りになると仕方なくエイやっと原稿を出してしまう習性とかは変わっていないんだなあ、と思ったのでした。


受け入れない (2017年4月10日)

 わたくしの研究室ライフがあと十年ほどであることは先日、書きました。この研究室ライフを充実したものとするには、共同研究者(の卵)となる学生諸君の資質が大変に重要であることもあわせて述べました。

 今までは、来るものは拒まず、という鷹揚な姿勢で臨みました。でも今後は入室希望者に対して、ある程度の資質とやる気とを求めようと思います。そこで、トップページに記しましたように、我が社で受け入れられないひとを具体的に列記しました。それは以下のようなひとです。

● 協調性のないひと(他人と議論できなかったり、共同作業することのできないひと)
● 約束を守らないひと
● 言われたことをキチッとできないひと

 ただ、このようにわざわざ書いてみましたが、これってどれも社会人としての常識ですよね。あえて言えば、三番目の「言われたことをキチッとできないひと」はちょっと厳しいかも(?)知れません。でも、同じことを何度言ってもできない、やらない、というひとを指導するような根気と忍耐とは、すでに失せてしまったのが現在のわたくしなんですね〜。

 研究室のメンバーが少ないと確かに寂しいです。実験をするときも大変です。でも、研究成果を整理して論文を書くことを考えると、上記のような資質(ってほどのものでもないが…)くらいは備えていて欲しい、ということなのです。もう半世紀以上生きてきた人間のわがままだと思って、お許しいただけるとありがたいです。


研究室草創の頃 (2017年4月7日)

 研究室二十五周年のことを昨日書きました。北山研究室草創の頃の実験などの研究活動については「北山研ヒストリー」のコーナーにありますが、そのほかの研究室ライフで何をやっていたのか、古い写真を捜してみました。すると、忘れていた、懐かしいスポーツ関連の写真が出てきました。

  1992BaseBall

 ひとつは四大学・構造系研究室対抗野球大会が本学で開かれたときのものです。この野球大会はわたくしが大学院生の頃からあって、東大(青山・小谷研)、明大(狩野研)、芝浦工大(山本研、清田研、上村研)および都立大(遠藤研、西川研)のRC構造系研究室の対抗戦で、各校持ち回りで毎年開かれていました。わたくしが都立大学に赴任した年には、たまたまその大会が本学で開かれたというわけです。

 上の写真のバッターが迂生でして、どうやらデッドボールをくらった瞬間みたいで、不自然にのけぞっています。うしろに写っているギャラリーの皆さんが楽しそうに笑っていますね。わたくしの左うしろが北山研第一期の卒論生・池田浩一郎くん、ほぼ中央の黄色のシャツは芳村研の助手だった津村浩三さん(現・弘前大学)、その右が寺田研の助手だった見波進さん(現・東京電機大学)です。右はじの鉢巻き姿は西川研M2の南輝弥くんで、彼とは宇都宮大学構造研で一緒だったことは既に書きました。

 楽しそうな雰囲気がよく分かる、じょうずに撮れた写真ですが、誰が撮影したのかは分かりません。もしかしたら、西川研の助手だった山村一繁さんかも知れません。

  1993Association FootBall

 もう一枚は迂生が助教授になった年の構造系vs計画系のサッカー大会のときの写真です。前列ほぼ中央の青シャツが上野淳先生(建築計画学/現在は本学・学長)です。その右脇のタオルを掛けたのが上野研の助手だった伊藤恭行さん(建築デザイン/現・名古屋市立大学)です。彼は大学時代の同級生で、いまはプロフェッサー・アーキテクトとして活躍しているみたいです。伊藤くんの隣りは中山哲士くん(建築環境学/現・岡山理科大学)で当時は石野研の大学院生だったと思います。

 わたくしは後列の右から四番目のボールを抱えた赤シャツで、その左に、わたくしと一緒に助教授に昇任した吉川徹先生(都市計画学/現在は本学・副学長)が写っています。こう見ると、計画系のお二人が学長と副学長との要職に就いているわけで、驚きをあらたにします。二十年以上前には想像もしなかったことでしょうな、きっと。

 若かった頃にはこのようにスポーツ大会にも精出して参加していましたが、それも20世紀末までのことで、その後はトンとご無沙汰になってしまいました。キャッチボールすらやっていませんので、残念ながらボールを投げられない、蹴れない、という体たらくに成り果てて久しいです。かように運動していないので、実験でのボルト締めなんかも、ちょっとやっただけで息は上がるし、筋肉痛にはなるしで、情けないかぎりです。


新しいマーク (2017年4月6日)

 昨日の朝日新聞にも載っていましたが、本学のロゴ・マークが刷新されました。それまでの黒と灰色で塗り分けた四色問題みたいな辛気くさいマークから、下記のように盾とT字と矢印とを組み合わせたマークに代わりました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:スクリーンショット 2017-03-21 14.03.16.png

 わたくしは、今までのマークは使ったことはありませんでしたが、この新マークならば使ってもいいかなと思います。このマークになるまでには、原案が五つほどあって、それに対する学生・教職員の投票を行ったという経緯があります。前回のマークが天から降ってきたのに対して、今回はいちおう民主的な手続きを経て選定されましたので、その点でも好感を持っています。

 ということで、昨日開いた研究室のKick-off Meeting の資料に早速、このマークを登載いたしました。


二十五年 (2017年4月5日)

 わたくしが東京都立大学(現・首都大学東京)の建築学科に研究室を構えて、今年がちょうど二十五周年になります。このように書くと25年なんて、あっという間のとても短い期間のような気がします。でも、人間の年齢からすると、二十五年はとてつもなく大きな変化を心と身体とに与える、非常に長い年月であったということを体感しました。三十代のはじめに都立大に赴任したときには、二十年や三十年先は確かに存在するのだろうと、概念的には想像できました。しかし具体的には、何がどうなっているかは全くもって霧のなかに霞んでいたというしかありません。

 この間、講師から助教授・准教授を経て、教授になりました(その前に他学で助手を四年間務めました)。助教授のときには高見沢邦郎先生(都市計画学)や深尾精一先生(建築構法学)のもとで二度、教室幹事を務め、教授になってからはコース長・学域長を二度務めています。そういう大学運営のお仕事はやってみて初めて分かることも多く、驚いたり、納得したり、嘆いたりすることの連続でした。

 研究室の運営でみると、赴任した当初は研究室に割り当てられる卒論生の定員が定められていなかったせいもあって(それが“リベラル”ということのあらわれだったようですが,,,)、我が社にやって来る学生さんはごくわずかな人数に限られました。大学院に進学するひとはもっと少なかったことになります。他学から大学院に進学した最初は豊田浩一さんで、1996年のことでした。

 その後、21世紀になっても研究室の人数は低迷し、2005年度および2006年度には二年連続で大学院生がゼロになったこともありました。本学の助手だった岸田慎司先生が芝浦工業大学でご自身の研究室を立ち上げると、そこの出身者がコンスタントにわが方の大学院に進学してくれるようになったのは、とてもありがたいことでした。

 2000年代半ばに卒論の定員が定められると、毎年三人から五人の四年生が入って来るようになりました。しかし、それにともなって必ずしも第一志望のひとだけではなくて多種多様なひとが来るようになったせいでしょうか、卒論に取り組む態度にも大きな差が見られるようになっていったのは、ことの必然だったのかも知れません。

 2000年代後半くらいから、他大学からわたくしのところの大学院を志望してくれるひとが確実に増えてきました。その理由は定かではありませんが、研究室のHPを充実させたことが大いに寄与したことは間違いないと思います。2010年代になると中華人民共和国や韓国からの留学生が増え始めて、現在に至っています。

 ちなみに数えてみたら、今まで北山研究室に所属して卒論を執筆した学生さんは62名でした。一年にならすと平均2.5人足らずなので、やっぱり少ないですね。修士論文を執筆したひとは36名で、これに西川研究室で面倒をみた2名、プロジェクト研究室(2006年度から設置)で主に面倒をみた3名を加えても41名です。このように修士課程を修了したひとは少ないですが、彼らは皆それぞれ、実験や解析を担当して北山研での研究の牽引役となってくれたわけで、わたくしにとっては重要な共同研究者だったのです。

 研究のテーマや進め方の大きな方向性を決めるのは迂生ですが、それを具体の形にして研究を進めてゆくのは彼らです。ですから、研究のビジョンがいかに立派で先端的であっても、それが結実するかどうかはひとえに彼らの奮起にかかっています。ひとにはそれぞれの能力が備わっていて、加えて担当したテーマに対する向き・不向きやそのときどきの運・不運もありますので、期待した成果があげられなくて意気消沈して落胆することもあれば、予想外の(と言ってはナンですが)成果に快哉を叫んだことも、ままあります。

 そのような喜怒哀楽を若い学生諸君とともに今まで分かち合うことができて、わたくしはつくづく果報者だと思いますね。わたくしの研究室ライフはあと十年、続く予定です。この先、どのようなひとがわたくしの研究室の門を叩くのか分かりませんが、今までと変わらずにコツコツと研究を続けられれば、これに勝る幸せはないと思っています。柔軟な思考を持ち、何事にも熱意を持ってチャレンジし、やる気に満ち溢れた若い力にこれからも期待しています。


大会梗概の提出日 (2017年4月4日)

 陽光うららかな春の日になりました。南大沢の桜もやっと少しばかり開き始めました。今朝は、心地よく登校することができました。

 さて、今日の正午が日本建築学会大会の梗概の提出締め切りです。我が社の戦力ダウン振りは折に触れて書いてきましたが、残念ながら、それが如実に現れる結果となってしまいました。今春、我が社が提出した梗概はわずかに二編にとどまったのです。この三月末に大学院を修了した苗思雨くんがわたくしと連名で執筆した二編だけ、ということになりました。もしかしたらこの二編だけかな、まさかなあ、とは思いながら新年度を迎えたわけですが、悪い方の予想が当たってしまったのは、かえすがえす残念でなりません。

 思い返すと、我が社が投稿したAIJ大会梗概がわずか二編しかなかったのは、北山研究室が誕生した翌年の1993年以来だと思います。このときは東京都立大学に着任したばかりで、かつ、卒論生は池田浩一郎くん唯一人だったので、これくらいの成果でもよくやった方だと思うのですが、今回はそうではありません。大学院生や卒論生はそれなりにいたわけですから、その低打率ぶりに愕然とするわけです。

 しかしこのような結果になったのも、わたくしが大学運営の業務の忙しさを言い訳として、研究室内の活動の停滞を容認していたことが原因なんでしょうな、やっぱり。つまり、自分自身の不甲斐なさの結果が、このような体たらくを生み出したわけで、大いに反省すべきはわたくし自身ということでしょう。

 ということで、この四月からはヒラノかつタダノ教授に戻ったので、もう一度ねじを巻き直して、研究室の研究体制を整えようと決意しました。幸い、明日午後に研究室の第一回のゼミナールを予定していますので、エンジンを暖めながら臨もうと思っています。もっとも、一緒に研究してくれる学生諸君の資質も重要です(当たり前ですが,,,)。2017年度はどういうひと達なのか、これから見極めることになります。


2016年度の年度末 (2017年3月31日)

 肌寒い三月晦日となりました。ということは、年度末です。この午前中、わが学科の最大の懸案について議論する会合が開かれて、紆余曲折の末に妥結しました。二月のときの轍を踏まないように、今回は宇治公隆学部長から懇切丁寧なご忠言をいただいたほか、人数で負けないように角田誠・学部長補佐と永田明寛・次期コース長に同席を求めて、一緒に会合に出てもらいました。

 ただ、想像した通り、冒頭から緊迫したやり取りになりました。やっぱり、もうダメかなと思いました。でも、これで妥結しないともう泥沼に入り込んで来年度のコース長が困るだろうと思い、また宇治学部長のご忠告も思い出しながら、なんとかねばって妥協点を見い出すことができました。本当によかったです。

 その会合が終わって誰もいなくなってから、交渉相手のひとりだったY教授(この方がわたくしにとっての唯一の知り合いでした)が、ここまで話しがこじれた原因の一端はお前の方にある、と言われました。大学人としての常識がない、とも言われました。今後はお互いに意思疎通をはかってゆけるとよいね、とまとめて下さいましたが、こちらとしても言い分がある訳ですし、ハイそうですね、とは簡単には納得できませんでした。

 なにより「大学人としての常識がない」というのには承服できません。小なりとはいえわが大学は総合大学ですし、事務方を飛び越えて議論できない場合もあります。今回のことはそういう全学的なスケールでの話しだったと迂生は認識しています。ただ、もし相手方が初めからY教授のように話しの“分かるひと”だったならば、その後の展開は大いに違ったものになっただろうとも思いました。

 同じ大学の構成員とは言え、お互いに知らないひとが大部分です。そういう中で、いかにして意思疎通をはかるか、そのためにはやっぱり直接知己となっていることがとても重要である、ということを改めて認識いたしました。そういう意味では、ざっくばらんに語って下さったY教授には感謝しております。

 いずれにせよ本年度最後の一日で、最大の懸案が解決に向かって進み出したことは事実です。これで今年度のコース長としてかなり肩の荷がおりた気分になりました。ただ、会議でのやり取りや先方の不服そうな顔を思い出すと、いや〜な気分になるのはどうしようもありませんな。ですから、これでスッキリ爽やか、というのにはほど遠い結末となりました。これも多分、わたくしの不徳の致すところなんだろうと思います、とほほっっ。


夜の会議 (2017年3月29日)

 なんだか怪しげなタイトルですが、別にそんなものではありません。昨日、建築防災協会で夜に開かれた会議に出席しました。以前に書いた記憶がありますが、年齢を重ねるに連れて夜の会議がおっくうになってきました。夜くらいは家でのんびり過ごしたい、というのもあります。ですから、夜に会議に出るのはなるべく避けています。

 でも今回はわたくしが担当する案件を審議する会議でしたので、出席しないわけにはゆきません。そこで(気は重かったですが)夕方五時過ぎに、トボトボと霞ヶ関あたりを歩いて行ったわけです。

 この会議には岡田恒男会長を始め、久保哲夫先生などの協会重鎮もご出席されます。委員長は壁谷澤寿海先生で、副委員長は中埜良昭さんです。で、久しぶりにこの会議に出てみて愕然としたことがあります。それは、この会議に出席しているひと達の最年少がわたくしと中埜とのふたりだった、ということです。五十代も半ばに来たというのに、いまだに一番下っ端なんだあと、中埜とふたりで嘆きあった次第です。いい加減、気が利いて若くて有望な新人を補給してくれと切にお願いしたいです、あははっ。

 こんなわけで全員先輩という会議ですから、ご質問やご指摘には容赦がありません。
まあ、諸先輩方のおっしゃることですから間違いはなく、正論なんですけど、とにかく受け答えが大変で、気を遣うことは確かですな。でも今回の部会では稲田泰夫先輩を仲間に引き入れましたので、稲田さんからの質問攻撃を避けることができたのはよかったです、ぎゃははっ。

 こうして審議は延々と続き、終わったのは午後10時でした。予想通り長引いて、想定通り疲れました。やっぱり、夜の会議は健康に悪いですな〜。


気魄か… (2017年3月26日)

 大相撲春場所の千秋楽ですが、いや〜、すごかったですね。まさか横綱・稀勢の里が本割りと優勝決定戦との二連戦を制して優勝するとは思いませんでした。まさに気魄で優勝をもぎとった感じでした。でも、もしかしたら昨日の横綱・鶴竜戦ははなから捨てていて、きょうに賭けていたのかも知れませんね。まあ、勘ぐり過ぎだろうとは思います、国歌斉唱のときに男泣きに泣いていましたから。

 それにしても一番驚いたのは、対戦相手の大関・照ノ富士ではないでしょうか。本割りだって、立ち会いで横綱が左にふわっと変わったときには、もう力が出なさそうに見えました。こりゃダメだな、って正直思いましたね。それでも土俵際で横綱がクルッと素早く回って照ノ富士を突き落としたときには、呆気にとられましたな、迂生は。ええっ、本当かってな感じです。

 でも、続く優勝決定戦では同じ手は使えません。それで立ち会いからガップリ四つに組んだときには、照ノ富士はこれでいただき〜って思ったはずです。しかし、照ノ富士が押し込みながらも、またしても土俵際を上手く回った横綱が小手投げを打って大逆転が起きました。同じことが再び生起したわけです。

 それにしてもこの日の大阪場所は、観客全員が稀勢の里を応援しているんじゃないかと思われるような雰囲気で、照ノ富士には気の毒でした。でも、昨日の関脇・琴奨菊との一番で驚くような変わり身を見せて、これでお客さん全員を敵に回してしまったのは確かなことで、自業自得かも知れません。

 いつもは白鵬たちモンゴル出身のお相撲さんを応援するわたくしですが、昨日の照ノ富士の立ち会いすっ飛びを見ていたので、さすがのわたくしも彼を応援する気にはなれませんでした。ただ、大相撲は勝ってナンボの世界ですから、長い15日間のなかではそのような相撲で勝つことも時には必要なんでしょうな、きっと。プロはそれだけ厳しいのでしょう。

 今回は苦汁を飲んだ照ノ富士ですが、日本人の判官贔屓が並々ならぬことは今回のことで身に沁みて分かったのではないでしょうか。そのような日本人の国民性を理解した上で、賢く立ち回って欲しいなと思いますね。もちろんヒール役に徹する、というのもあるでしょうけど。


こき使われる (2017年3月24日)

 きょうは暖かな日で助かります。調子は相変らず悪いです。でも、寒い日に較べると、陽光がまぶしく照っていると気分が清々してちょっとハイな心持ちになるせいか、調子も少し良くなるような気がします。

 わがコースの懸案は今も未だぶら下がったままですが、見かねた宇治公隆学部長が精力的に学内調整に当たって下さっているので、少しずつ動き始めました。この三月末までにカタが付けばよいのですが、相手のあることですから楽観視はできません。

 今は来年度のTA(ティーチング・アシスタント)の推薦や業務内容の申請の書類の取りまとめをやらされています。前回、わたくしがコース長だったとき(三年前です)には、そんなお仕事はありませんでしたので、事務方が勝手にコース長にやらせようと決めたみたいです。

 ただでさえ、上述のような組織内における懸案を抱えて精神的に参っているのに、取りまとめみたいな面倒なだけの仕事さえも割り当てるのかと思うと、ホント悲しくなって来ます。TAの申請をするわがコースの先生方も勝手なことばかり言うし、もう勘弁してくれ〜って、大学の中心(って、どこだろうか?)に向かって叫びたい気分です、あははっ。

 三月も残すところ一週間になったというのに、最後までこき使われるコース長です。わたくしは基本的に楽観的な性向を持った人間ですが、ひとに対する不信感がこれほど増すとは、精神的にまずいんじゃないかと(自分自身を)心配し始めました。仕事のストレスで精神的に病んだりしても、誰もなにもしてくれませんし、結局は自分だけが損をするわけですから、そんなの馬鹿らしい、の一言に尽きます。ですから、タラタラといい加減に仕事できればいいのでしょうが、あいにくとそういう性分でもないのが、わたくしという人間なんですね,,,。いやはや、困りましたな、こりゃ。


後期の合格発表 (2017年3月22日)

 きのうとはうって変わって暖かな日和となりました。雨上がりの翌日が好天になると花粉がいっそう飛び回りますから、たまりません。

 昨晩は都市環境学部の教授会メンバーによる送別会が開かれました。建築学域からは権藤智之准教授が退職して、母校に戻ることになりました。着任以来4年での転出ですから、学生と同じように“卒業”ということで、暖かく送り出したいと思います。まだお若いので、前途洋々たる未来が開けることでしょう。今後の活躍を期待しています。わたくしが11号館に行ったときには、8階でお茶でも飲ませて下さい、あははっ。

 お昼ご飯のあと、図書館に行って本を借りようとしました。ところが貸し出し期間は3月31日となっていて、一週間ほどしかありません。いくらなんでも短すぎるので、係りの方に文句を言いました、これじゃ、本が読み終わらないよって。

 そうして受付の方がわたくしの職員証と一緒に図書利用カードを調べたところ、図書利用カードの有効期限が今年の3月31日に設定されていたことが判明しました。なんとも不思議でした。停年までにはまだ十年近くあるわけですし、係りの方も不思議がっていましたが、とにかくその有効期限を停年の日?まで延長してもらって、ことなきを得ました。

 さて、きょうの正午に後期日程入試の合格発表があって、わが建築都市コースは12名の合格者を出しました。これで平成29年度の一連の入試が、全て終わったことになります。コースの責任者として、幾分は肩の荷が下りた気分ですな。ただ、このあと、どれだけの合格者が入学手続きをしてくれるのか、固唾を飲んで見守らないといけません。定員を割り込むようなことになると、次のお仕事が待ち構えていますので、三月末までやっぱり気が抜けない、ということになりそうです。はやく自由になりた〜い!


2016年度の卒業式・修了式 (2017年3月20日)

 春分の日のきょう、本学で卒業式および修了式が開かれました。春らしい暖かな日和となり、おめでたい日に花を添えてくれましたね。もっとも、ソメイヨシノはまだですし、学校内のハクモクレンの花もやっと一つ、二つが開いたところですが,,,。例年、三月中旬には花が咲く、国際交流会館前の桜は今年は一分咲きといったところで、ちょっと寂しい卒業式となりました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU卒業式_修了式20170320:P1020245.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU卒業式_修了式20170320:P1020253.JPG

 今年度は建築都市コース長および建築学域長なので、学部・大学院の全体の式から出席しました。正門脇の講堂大ホールの壇上に坐らされました。式の最初にまず、われわれを紹介してくれるのですが、そのときに“幹部教員”と言われました。でも、あて職のコース長などは別に“幹部”でも何でもないのは、自分たちが一番よく知っていますので、なんだか気恥ずかしかったです。おまけに壇上に坐らされたときに、どういうわけか左足がつってしまい(あははっ)、しばらくは痛みに耐えるのに必死でしたぜ、まったくどうしてでしょうかね?(普段の行いが悪い、ってことか)

 この全体会が終わったあとに、個々のコース・学域に別れて個別会が開かれました。建築は学部54名、大学院39名の卒業者・修了者がいて人数が多いので、講堂小ホールです。わたくしひとりは壇上に立っているという特権?を活かして、集合途中の学生諸君を撮ったのが下の写真です。ただ祝日だったせいか、この場に出席して下さった建築の先生は、山田幸正教授、須永修通教授、竹宮健司教授、多幾山法子准教授、熊倉永子助教および国枝陽一郎助教の6名にとどまったのは、ちょっと残念でした。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU卒業式_修了式20170320:P1020258.JPG

 証書の授与の後、一言、はなむけの言葉を贈りました。それはいつもここで書いていることですが、自分で考えて、自分で判断して行動するように、ということです。それだけの素養は本学で身に付けたはずである、諸君は意識していないかも知れないが、そもそも諸君は既に選ばれたエリートである、と持ち上げておきました。

 こうして三時間ほどの式が終わって研究室に戻り、お茶でも飲もうかと思ったところに、M2の苗思雨くんがやってきました。彼とは今日の午前中、日本コンクリート工学会の年次論文の修正について打ち合わせをしたばかりです。苗思雨くんは2016年度の我が社唯一のM2として、十分に活躍してくれました。毎年のことですが、やっと議論ができるほどに成長した大学院生が三月末には去って行く、というのが、どうにも残念ですな。苗思雨くんには、社会に出ても大いに活躍して欲しいと願っています。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU卒業式_修了式20170320:P1020259.JPG


2016年度最後の教室会議 おわる (2017年3月17日)

 昨日、2016年度最後の教室会議が終わりました。でも、全く達成感はありませんでした。そもそもコース長のお仕事がこれで終わったとは全く言えないことに、改めて愕然としました。終わりよければ全て良し、とはよく言いますが、今まで快調に仕事をこなして来たのに、ここに来て懸案続出となって、終わりがよくないわけです。こうなると、全てがお釈迦になったような気分で、最悪です。

 さらに三日ほど前に、この4月からスタートする教育改革推進事業の三カ年計画の具体案を作成せよとのお達しが、宇治公隆・都市環境学部長より降って参りました。これで完全にとどめを刺されましたな、迂生は。そこでやむなく昨日の教室会議で皆さんのご意見を伺いました。でも、その計画文書を作ろうなどという奇特な人物はひとりもいないわけです。当然、コース長が作るんだろ、ということで、わたくしがない知恵を絞って作文することになりました。

 その計画案の締め切りが3月22日にセットされていて、これまた一週間もありません。ということで、全ての仕事を投げうって(学会等には当然、出かけずに)、この作文にうんうん唸っているところでございます。

 これが研究計画とか自分のファミリアな分野であれば、それなりにスルスルと文章が浮かんで来たりもします。ところが教育改革なんて言われると、全くもって徒手空拳、どうすりゃいいんだというのが実感なんですね〜。そりゃ、自分だけの問題ならばまだ書きようがありますが、ことは建築都市コースの教員全員にかかわる問題ですから、慎重にならざるを得ません。泣きたいような日々の続く、この春三月、でございます,,,。


なぜだか毎年… (2017年3月15日)

 今日も真冬の寒さにふるえています。灰色の空に押しつぶされそうです、身も心も…なんちゃって。とにかく、絶不調です。毎年、三月には必ず具合が悪くなります。インフルエンザとか風邪とかではなく、原因が(花粉かも知れませんが)よく分からない体調の悪さです。おまけに学科内には問題山積で、頭を抱えたままなんです。このような懸案続出は想定外だったので、それだけ精神的なダメージも大きいです、とほほほほっ。例年の三月って、こんなに大変だったでしょうか?

 具合は悪いのですが、会議は随分前から決まっています。特に自分が委員長だったりすると休むわけにもゆかず、もう、ホントつらいですね〜。ということで、神宮前の免震構造協会の原子力関係施設免震構造委員会に出かけました。すると必然的に、今日の国立競技場はどんな具合かな、ということで、以下に写真を載せておきます。曇り空なので、写り映えのしない写真ですが、ご容赦を。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:国立競技場跡地20170315:P1020235.JPG

 国立競技場の建設現場ですが、二ヶ月ほど前と較べてあまり変化は分かりません。ただ、地盤が全体に掘り下げられたようで、(ここには写っていませんが)生コン・プラントのような円筒状の構造物が幾つか設置されていました。仙寿院の交差点にあった都営アパート群もすっかり解体されて、移転して建設中の日本青年館の建物が見通せるようになっていました。

 さて、この日の原子力免震構造委員会ですが、東京電力の高橋裕幸さんが柏崎刈羽原発の免震重要棟を巡る一連の騒動について説明してくれました。彼の説明によって、技術的な説明は納得できました。われわれのような工学の専門家が相手であれば、それでよかったのでしょう。でも、それを社会に発信するやり方がいかにもまずかったと言わざるを得ません。

 膨大な作業を抱えている東電社内では、相当な混乱があったように想像します。そのこと自体は同情を禁じ得ません。しかし、東電が置かれている社会状況を考えれば、もっと上手にやらないと、原子力規制庁に不信感を抱かれるどころか、世間からのブーイングはいや増すばかり、ということになります。六年前の福島第一原発の事故以来、言われ続けてきたことですが、社会に対する情報発信のあり方とかその重要性に、もっと神経を使って欲しいと改めて思いました。

 いつも書いていますが、免震構造そのものはうまく使えば非常に有効なツールとなります。今回のような誤解によって、免震構造はダメなんだ、みたいな間違った印象を世間に持たれることだけは避けねばなりません。

 ところで、上述の説明をしてくれた高橋裕幸さんですが、彼は都立大・西川研究室の出身で、その修士論文の実験研究はわたくしと一緒に行なったものでした。この委員会では西川孝夫先生がお目付役、わたくしが委員長で、高橋さんが幹事役です。幹事は電力会社側の都合によって入れ替わりが激しいのですが、たまたま今年度から電力会社間の都合で彼が幹事役になっただけです。とはいえ、かつての指導教員に囲まれて、高橋さんもやりにくいでしょうね、あははっ(お気の毒さま)。


寒い春 (2017年3月13日)

 春だというのに、まだまだ寒い日が続いています。今朝もどんよりと曇って、真冬のような寒さでした。こんな気温ですが、花粉だけはしっかり悲惨、じゃなかった飛散しているのだから、もうイヤになりますな。

 さて、昨日、後期日程入試が実施されました。東大や京大が後期入試を廃止したせいでしょうか、後期入試についてのテレビ等での報道は全く見かけませんでした。世間は東大入試しか興味がないのでしょうか、そんなはずはないと思うのですが,,,。

 さて、わたくしの建築都市コースでは、後期入試に小論文を課していましたが、それも今回が最後となります。来年度からの後期入試では、数学および物理の教科を課すことにしました。この入試科目の変更に至るまでには、多量の資源を投入して学科内での詳細な分析と議論とがなされました。ここで書くのははばかられますが、一言でいえば、小論文試験によって入学した学生諸君のその後の学内での成績があまりパッとしなかった、ということに尽きると思います。

 わが学科ではそのような判断のもとに、後期入試科目の変更を決断しましたが、ほかの学科・コースでは逆に小論文を採用したところも多く、そのことに迂生は結構驚きました。昨今の世の風潮でいえば、ペーパー試験で分からないことが小論文試験ではあぶり出されて、多様で優秀な学生を確保できる、ということなんだと思います。いわゆるペーパー試験悪玉説です。でも、ペーパー試験では分からないことがほかの試験をすれば分かるだろう、というのは幻想に過ぎないことは、既に以前に書いた通りです。

 思い返すと、わたくしが東京都立大学建築学科に赴任した頃には、小論文だけではなくて面接試験もありました。それらがだんだんとなくなってゆき、四半世紀以上経ってそれら全てが廃止されたことになります。いまは建築都市コースと名乗っていますが、その名称も平成30年度からは(伝統ある)建築学科に戻ります。このように世の中の流れに棹さすかのようなわが学科のやり方ですが、これからも誇り高き孤高の道を歩んでゆきたいと思います。


春のひかり (2017年3月9日)

 今朝は寒かったですが、お昼ご飯を食べに外に出てみると、春のひかりが燦々と照っていて、ほんわか暖かみを感じました。ただ、春の陽気に誘われて花粉もブンブン舞い出しました。これにはホント、困りますね〜。わたくしの花粉症は昨年よりは軽いような気がしますが、それでもつらいことに変わりはありません。窓から外を見ると、空気が何となく黄色がかって見えます。わたくしなどはそれだけでくしゃみが出てまいります、はい。

 先日書いた学内での懸案はなんにも進展はなくて、文字通りペンディングで宙づりになっています。もう、くよくよ悩んでもどうにもなりませんので、朗らかに明るく過ごそうと思います(開き直った感じですな)。

 三月も初旬が過ぎようとしていますが、来年度に向けた様々な動きが目に見えて動き始めています。本学では前期日程入学試験の合格発表が昨日ありましたし、後期日程入試はこの週末に実施されます。大学等の人事についても、だんだんと漏れ聞こえてくるようになりました。わたくしなどは井の中の蛙で大学以外を知りませんが、フツーの会社に務めている方にとっては、大学ってやっぱり魅力的に見えるようですね。

 確かに自分の好きな研究を好きなようにできて、優秀で前途有望な若者に教えを垂れることができるのは、はた目には羨ましいのかも知れません。でも、いつも書いていますが、研究するには先立つものが必要ですし、学生だって全てがやる気に満ちあふれているわけでもありません。雑用はひとりで全てやらないといけません。大学には大学の社会があって(って、とってもちっちゃな社会ですけど、あははっ)、それなりのしがらみや拘束もあります。そういう点では、フツーの社会と何ら変わるところはないと思いますけど、どうでしょうか。


責任を取るということ (2017年3月6日)

 東京都の築地市場が豊洲に移転するかどうかの一連の問題で、石原元都知事が記者会見した。彼が言うに、専門的なことは分からない、都庁の役人や議会が決めたことを尊重して認可した、だから責任はそれら全体にある、という趣旨のことを話したという。

 ここのところ責任を取るとはどういうことなのか、考えている。先日書いたが、わが建築学域において持ち上がった問題において、統括責任者であるわたくしが責任を負わないといけないことになりそうである。でも、石原流に言えば、大学こそ構成員による合議によって全てが決まる組織であるから、誰も責任を取らなくてよい(あるいは逆に、全員が責任を取る?)ということになろう。

 例えば江戸時代、藩内の執政(家老等の政策実行の責任者)が藩政改革などに失敗すると、その責を負うために、藩主から死を賜ることはよくあることだったらしい。責任を一身に引き受けて、切腹して果てたのである。現代においてはまさか死刑にはならないだろうが、それでも、なにがしかの責任は負わないといけないだろう。じゃあ、どうやって取るのか。

 そこでハタと気がついた。組織には上役がいるではないか。コース長を直接に統括するのは(通常は意識しないが、職制上は)学部長である。自分であれこれ悩んでも責任の取り方を思い浮かばないときには、上役に下駄を預けるというのもひとつの手であろう(他力本願?で、ちょっと情けない気もするが,,,)。


年度末だけど…(2017年3月2日)

 三月になって、今年度もあと一ヶ月になりました。建築都市コース長・建築学域長のお役目から早く解放されたい、という念がいや増します。あと一ヶ月、なにごともなく大過なく過ごせれば、と思っていましたが、そうは問屋が卸してくれなさそうな、怪しい雲行きになってきました。いや、既に抜き差しならない状況に陥っています。

 この二週間ほどで大学の枢機にかかわるような出来事が、わがコースを対象としてたて続けに起こりました。今はその対応に追われていますが、正直言って難航しています。自分たちだけでは解決できない事柄であることも痛手です。

 さらに悩んでいるのが、それがわがコース・学域の失態だった場合にはどのように責任をとるべきか、という問題です。フツーの組織ならば、トップがその職を辞任するということになるのでしょう。でも、あて職のコース長の場合には、誰もその職をやりたがらないわけですから、コース長を辞任します、なんて言ったら、それだけはやめてくれっていう、訳の分からないことになりかねませんね、あははっ(ここは弱々しい笑い、ですが,,,)。

 う〜ん、困りました。頭ならいくらでも下げますが、それでかたが付けばよろしいのですが、どうでしょうか。学長や学部長から、譴責とか減給とかの処分を受ければよいのか、いま思案中です。学内の手前もあり、さまざまな人(教員および事務方)の目もありますので、うやむやにするのはよくないでしょうな、やっぱり。


右へ (2017年2月28日)

 二月も晦日になりました。明日からは春とはいえ、まだまだ寒いです。花粉もつらくなって来ましたから、しばらくはつらい日々が続きそうです、とほほ,,,。

 さて、アメリカではトランプ大統領が過激な右寄りの発言を繰り返しています。ヨーロッパでも右派政党への支持がこのところ増えているようです。地球上が飽和状態に達して、出口の見えない沈滞からどうやって抜け出して成長を続けるか、そういうことを模索する混沌とした時代になったのかとも思います。

 日本ではどうでしょうか。A倍首相夫妻が関わっているとされて、このところ問題になっている私立小学校ですが、その理事長?は日本会議の方らしいです。日本会議と言えば右翼の総本山みたいなところですから、類は友を呼ぶ、じゃないですけど、日本でも首相を先頭にして右へ向かって突き進んでいるという感じですね。

 こういう世界的な“空気”というものは、いつの時代にもあったように思います。今から四十年くらい前には、ユーロ・コミュニズムと呼ばれた共産党の躍進がヨーロッパを席巻しました。その当時はソビエト連邦の末期でしたが、ソ連とは一線を画した“ヨーロッパ独自”の共産主義が標榜されて、市井の人びとがそれに共感した、ということだったのでしょう。

 こんな感じで左から右へと転換したわけですが、世界中の右寄り路線がいつまでも続くわけでもないことは、斯様に歴史の教えるところです。行き過ぎるとブレーキがかかって揺れ戻しが来る、このようなバランス感覚が人類にはあるようです。周囲の流れに惑わされずに、わたくしはわたくしの信念に基づいて、まっとうな生き方をしたいと思います。


お茶の水の穴 (2017年2月27日 その2)

 今年の卒論で津島竣くんが、鉄筋コンクリート耐震壁の誕生と発展の歴史について調べてくれました。多くの論文等を読み込んで、彼なりに努力したとは思います。ただ、“耐震構造歴三十年以上”のわたくしとしては物足りない部分があって、裏付けが不十分であったり、謎のまま残ったことなどが結構ありました。

 津島くんの卒論はもう終わってしまったので、じゃあ自分で調べるか、ということにして、空いた時間を小まめに使って既往の文献をしらみ潰しに当たっています。具体的にいうと、明治、大正、昭和の建築雑誌(日本建築学会が毎月刊行する情報冊子のこと)を悉皆的に調べています。幸い、建築学会では全ての建築雑誌をPDF化していて、学会員であればそれに自由に(もちろん無料で)アクセスできます。

 ということで、研究室のコンピュータの前に坐ってこの作業ができるわけです、便利ですね〜。すなわち、耐震壁とか耐震構造についての論文や速記録を、手当り次第に一所懸命にダウンロードしているのです。今はやっと昭和10年くらいに到達しました。

 さて、そうやってネット上を逍遥していて、それらの研究とは全く関係ないのですが、とても興味深い記事を見つけたのです。それは1934年8月号に載った『お茶の水に発見された地下横穴に就て』という報告でした。著者は建築家の大熊喜邦氏(大蔵省勤務)です。お茶の水はわたくしのような東京人にとっては馴染み深い土地でして、高校生までは予備校、大学に入ってからはレモン画翠など、よく行ったものです。寅さんも「チャラチャラ流れるお茶の水」って言ってますし,,,。

 そのお茶の水に横穴とは、いったい何だろうという興味から記事を読むと、それは今の東京医科歯科大学がある敷地を掘ったところ、地下三メートルくらいのところに人為的な竪穴および横穴を見つけた、ということでした。面白いので、その実測図を以下に載せておきます。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:スクリーンショット 2017-02-27 18.23.37.png
(大熊喜邦:御茶の水に発見された地下横穴に就て、日本建築学会、建築雑誌1934年8月、第588号より)

 帝都のお膝元で多数の横穴とか竪穴が見つかったことは当時も驚きだったらしくて、このような報告記事が載ったようです。で、この横穴の正体がなんであるのか、遺物がほとんどなくてよく分からなかったそうですが、おそらくは地下複式横穴古墳で、庶民の墳墓だったのだろう、ということでした。医学校の校舎を建設するために、これらの穴群は埋め戻されたそうですが、東京の地下って、よく考えればこういった遺跡だらけなのかも知れませんね。


入学試験のこと (2017年2月27日)

 全国の国公立大学と同様に、本学でも前期入試が終わりました。試験業務は細心の気を使いますから、とても大変です。とはいえ、人生がかかっている(ちょっと大げさか?)受験生諸君が最も大変であることは言うまでもありません。試験問題を見ても、わたくしにはとても解けそうな気がしません。短時間にあれだけの問題を解くエネルギーは、若く、かつ前途への希望に溢れているからこそ湧きいずるのだと、つくづく思います。

 翻って迂生が大学を受験したときはどうだったか、もう、忘却の彼方にあって思い出せません。ただ、その日はどんよりと曇っていたのでしょうか、全体的に灰色がかった記憶があります(遠い日の思い出だからかも知れませんが,,,)。本郷の法文一号館か二号館だったか、どデカい階段教室に坐って受験したことは憶えています。

 当時の答案用紙は、科目を識別するためだったのでしょうか、用紙のうえの所定の位置をハサミで三角形状に切り取るようになっていました。今も変わらないのでしょうか,,,。倍率は三倍未満だったので、両隣りを蹴落とせば合格できる、というのはよく言われていましたね。今の若い人はそんなセコいことは言わないのかもしれませんが、あははっ。

 大学入試ではないのですが、家内が電車内の広告で渋谷学園幕張中学校(超難関校らしいです)の算数の入試問題を見たといって、スマホで撮影して持ってきました。どうやら息子とふたりで、オトーサンに解かせてみようと思ったみたいです。見ると図形の問題でした。自慢じゃないけど数学は昔は得意だったので、小学生の図形の問題なんて楽勝〜って宣言して、紙と鉛筆とで解き始めました。

 ところがこれが難しいのなんのって、もう、驚きましたな、迂生は。うんうん呻吟した末に答えが出ましたが(もちろん、正解でしたよ)、わたくしは三角関数を使って解いたんですね。でも、これは小学生には使えない、或る意味、禁じ手ですよね。そのあと一時間以上も考えましたが、結局、小学生の知識だけを使って解く方法を見出すことはできませんでした。

 子供はもう鬼の首をとったかのように大喜びです、は〜いオトーサン、渋幕には入学できませ〜ん、だって…。全く、そんな難しい問題をそれも短時間で解ける小学六年生って、いったい何者なんでしょうか。けっこう愕然とした出来事でした。でも、そんなテクニックを身に付けたからといって、なにか良いことがあるんだろうか、という疑問もフツフツと湧き出てくるのでした(まあ、負け惜しみですけど)。


主査のおつとめを終える (2017年2月22日)

 昨日、建築学会の原子力建築運営委員会がありました。今年度最後の開催で、これをもってわたくしの主査としてのお務めが終わりました。いつも書いていますが、このSocietyは電力会社やゼネコンのエース級が集まっていて、議事内容や資料等は全て彼らが準備してくれます。ですから、わたくしは手ぶらで会議に出て、机の上に載っている資料を見ながら、幹事の方(きょうは代理の梅木芳人さん[中部電力]でしたが)に仕切ってもらいながら、時おり何か言ったりするくらいで事足ります。

 こんな感じですので、主査としての一番大変なお仕事は、構造本委員会に出席することでした。まあ、その場に出るだけならよいのですが、構造本委員会傘下の各小委員会が作成する規準・指針類の査読が割り当てられるのがつらかったですね〜。あまりファミリアじゃない分野の出版物を有無を言わせず担当させられるのだから、相当なストレスでした。この苦役(なんて言ってはいけませんが,,,なんと言ってもGive & Takeなのですからね)から解放されることは、かなり嬉しいです。

 この原子力建築運営委員会の主査ですが、二期四年務めました。瀧口入道先生(東工大名誉教授)から主査を引き継ぎましたから、この運営委員会は創立以来まだ八年しか経っていない、ということです。傘下の小委員会も二つしかなく、構造本委員会のなかでは最弱小の運営委員会でしょうな、やっぱり。ちなみに次期主査は前田匡樹さん(東北大学教授)に引き受けていただきました。この四年間、お付き合いいただいた運営委員会の委員の皆さまに、あらためて御礼申し上げます。

 原子力関連でいうと、電気協会の建物・構築物検討会の主査を昨年後半に久保哲夫先生(東大名誉教授)から引き継ぎました。思い返すと十数年のあいだ、久保先生のもとで副査としてこの検討会に参加してきました。そもそも原子力の世界に足を踏み入れたのも、21世紀早々に久保先生(当時は名古屋工業大学においででした)からこの検討会の副査をやってくれないかというご依頼があったからです。

 ということで、この先例に倣えば、主査となったわたくしが今度は副査を選ぶことになります。そこで久保先生や幹事の今村晃さん(東京電力/青山研究室の同級生)とも相談しながら、人選を進めました。その結果として次期の副査を楠原文雄さん(東京大学)に引き受けていただきました。よかったです。青山先生、久保先生、わたくしと来ましたから、ここはやっぱり同門の後輩に頼むことにしたわけです。こうやって少しずつ世代交代を進めてゆくことが大切でしょうね。

 もうひとつ、日本免震構造協会に設置された原子力建築免震構造委員会のほうはしばらくは開店休業でしたがまだ続いていて、相変わらず委員長を務めています。原子力規制庁の免震建物に対する審査が難航しそうということで、電力各社側の免震熱が一気に冷めたため、もうやめるのかと思っていましたが、また少しぶり返した?みたいです。免震構造は上手く使えば明らかに地震被害を低減できますから、これを原子力関連施設に使用することのメリットは絶対にあるはずです。技術の適正使用とそれによる安全性の増進という視点から、これからもこの委員会に関与しようと思います。


小学校にて (2017年2月20日)

 この週末、子供の学校の授業参観に行ってきました。いつも書いていますが、小学校に行くと学ぶことが多々あって、未だに勉強になります。また、小学校の先生にはいつも頭が下がります。黒板に書く字がとても丁寧で、一画ずつゆっくりと綺麗に板書し、かつゆっくりとお話しされます。大学の講義でもそのことの重要性は重々認識しているのですが、ついつい早口で、かつものすごいスピードで板書していることを思い出して、ひとしきり反省いたしました(でも多分、こんな気持ちも、四月になって講義を始める頃には忘れているのでしょうけどね、あははっ)。

 「道徳」の授業では、想像力を働かせて他人の気持ちを慮ることの大切さを取り上げていました。そのなかで先生が、腹が立ってカーッと頭に血が上ったら、五秒とか十秒とか間をあけることが大切だよと仰っていました。そうでした、全くその通りでございます。

 つい最近も、大学内の打ち合わせの場でホントいやなことがあって、向っ腹を立てて、つい毒を吐いてしまいました。でも、あとになって考えると、先方にも何か都合があったのだろうと思えないこともないかなと思います。いやあ、小学校の授業や、そこで先生のお教えになることは、斯様にいつも大いに役立っております、はい。


ゼミはつづく (2017年2月14日)

 この日の午後から夕方にかけて研究室ゼミを開きました。例年だと2月のゼミをもってその年度のゼミを終了していました。しかし今年はその慣例を変えてみました。既に三年生四名が研究室に配属されていますので、彼らに早く研究に慣れてもらうことを主眼に、3月も研究室会議を継続することにしたのです。

 三年生にはとりあえず我が社の既往の発表論文を何でもよいから読んで、その概要をA4用紙一枚にまとめるように言い付けてありました。きょうのゼミでは幸い全員がその資料を提出しましたので、それをサカナに彼らに基礎的なことを教授しました。始めが肝心ですので、彼らのやる気が醒めないうちにガンガン指導してゆこうと思っています。

 三年生四人のうちの三名までが建物の地震被害に興味を持っていることはちょっとした誤算でした。全員が同じテーマを研究できるわけではありませんし、四月から入ってくる新M1のテーマとの兼ね合いもあります。ですから、彼らにはほかの主題の論文もよく読んでみてね、と言っておきました。まあ、おいおい彼らの興味を上手く誘導して、様々な研究テーマに取り組んでもらおうと思っています。


とっても高効率 (2017年2月13日)

 先週金曜日の夜に非常勤講師の先生方に感謝する会を催しました。小雪の舞うなか、はるばる八王子くんだりまでお出でいただいた皆さまには御礼申し上げます。このページに記したように先週はとても大変な一週間でしたので、この懇親会を無事に終えることができてホント嬉しかったです。そこでこの週末は脱力して腑抜けのようになって過ごしました、われながら情けないですが,,,。

 きょうは穏やかに晴れたよい日和ですね。最近は電車内で学士會報を読んでいます。学士會報にはさまざまな学問分野の第一線で活躍される方々の解説やエッセイが載っていて、とても役に立つものが多いのです。それが数冊分溜まっていたので、じゃあ電車の中で読むか、ということにいたしました。

 そのなかに、阪大の難波啓一先生という方が書いた『システムとしての生物』(学士會報、No.922、2017-I)という短い解説がありました。タンパク質とかアミノ酸とかの小難しい専門名称が“そんなのみんな知ってるでしょ”的に散りばめられているのは、化学分野の先生方によくあることで、この小文もその例に漏れません。読みにくいなあ、もう飛ばそうかなあと思っていましたが、あとのほうに以下のように驚くようなことが書かれていました。

 それは生体の消費エネルギーについての何気ないコメントでした。スパコンの「京」が一千万ワット以上の電力を消費するのに対して、それよりも遥かに高次の情報処理を行える人間の脳はわずかに二十ワットで動く、というのです。ひゃ〜、もう、桁違いどころじゃないですな。ヒトの脳の人知を超えた素晴らしさについてはこのページでも時々書いていますが、消費電力という観点でもその効率はべらぼうに良い、ということです。いやあ、生命って本当に不思議に満ちあふれていますね。

 でもなぜそれほどに高効率なのかというと、それは「熱ゆらぎ」が基盤にあるため、と書かれています。「熱ゆらぎ」とは、原子や分子の乱雑な方向性のない動きのことだそうで、そのエネルギーを利用しているらしいです。なんのこっちゃ、さっぱり分かりませんが、そのようなミクロの事象を研究しているひとがいることにも改めて驚きました。

 この著者も書いていますが、この「熱ゆらぎ」を工学で利用できるようになれば非常な高効率を実現できそうです。それが夢物語なのか、それともすぐそばの近未来には実現するものなのか、なんだか楽しみです。


卒業設計の講評会 (2017年2月10日)

 昨日の夜七時頃まで卒業設計講評会の第二部をやっていました。午前中の採点の結果、上位約半数に入った作品(ことしは九人)が午後の第二部に進出できて、学外から新たにお招きしたゲスト・クリティーク三名の方の講評を受けることができる、というシステムです。この講評会ではひとりあたり二十分の時間が与えられるので、かなり濃密な議論が可能となり、手厳しいコメントが行き交います。ちなみにことしのゲスト・クリティークは、中山英之氏(東京芸術大学准教授)、太刀川瑛弼氏(デザイナー、NOSINGER主宰)および篠崎淳氏(日本設計)にお引き受けいただきました。

 ゲスト・クリティークは建築界等で活躍される百戦錬磨のおじさま方ですので、多方面に渡る様々な質問やコメントが飛んできます。なかにはその作品を超えて、社会システムとか宗教論にまで話しが飛躍しますから、学生諸君はさぞ大変だったと思います(実際、立ち往生した学生さんも何人かおりました)。その作品に対する賛否や、場合によっては厳しい叱責もありました、もっと勉強しろと。

 でもゲスト・クリティークのお三方の根底には建築をこよなく愛していて、それに取り組もうとする若者に対する深い愛情と応援したいという心情とが満ち満ちていました。それゆえ、彼らのコメントを聞いていてとてもすがすがしく感じました。

 とてもよい講評会だったと思います。若者達を叱咤激励して下さったお三方のゲスト・クリティークには大いに感謝申し上げます。また、この場でおじさま方に果敢に立ち向かった(でも、その結果、轟沈したひともいましたけど、あははっ)学生諸君の健闘にも拍手を送りたいですね。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU卒業設計20170209:P1020225.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU卒業設計20170209:P1020227.JPG


卒業設計の採点 (2017年2月9日)

 お昼に研究室に戻ってくると、小雪が舞い出し始めました。薄暗くてとても寒い日になりましたね。

 さて、午前中は国際交流会館で卒業設計の採点を行いました。ことしは19名の学生諸君が卒計を提出しました。ここ数年では最も少ない人数でした。まず総評ですが、気になったのは図面の枚数の少なさです。図面が多ければいいってものでもありません。しかし、これは卒業設計です。そうであれば、ある程度の枚数は必要でしょう。すなわち、卒計として自分の計画や提案、そして具体の建物を説明するためには少なくとも十枚以上の図面は必要になると思いますが、いかがでしょうか。そういう観点から図面の枚数を見ると六、七枚という学生が多くて、十枚を超えたのはわずかに二名にとどまったのは残念です。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU卒業設計20170209:P1020215.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU卒業設計20170209:P1020223.JPG

 さて卒計の内容ですが、総じて小振りの提案であったことは否めません。ことしはコンセプチュアルな提案は皆無で、具体の建物・構造物や街なみを丁寧に設計した作品が多かったのはよかったと思います。皆さんがそれぞれの問題意識に基づいてテーマや課題を設定していたのもとてもよかったです。ただ、そのようなコンセプトをどのように解決して具体の建物を実現させるのか、ということを図面によってうまく表現できていた作品は少ないと感じたのは残念でした。模型はよくできているものが多く、個別の作者の話しを聞くとよく分かったりするのですが、如何せん、そのことが図面に表現されていないんですね〜(これは毎度のことではありますが,,,)。

 卒計は実物件の設計ではありませんから、敷地や問題の設定から個々の建物へと至るストーリーが大切です。そういうストーリーを強く意識したひとの作品は総じてわかり易く、見るひとの共感を得ることができたと思います。ちなみにわたくしが最高点を付けたのは、大田区の町工場と住宅とが混在するエリアの活性化をはかるプログラムを設計した作品です。ただこの提案も、街区ごとの拠点施設五つの相互の関連性が明瞭に説明されていなかったことは惜しまれます。

 どちらかというと苦言が多くなってしまいました。でも、短い期間で(Bコースのひとは一年あったわけですが,,,)ここまで仕上げるのは大変だったと思います。皆さんの努力は多とします。また、随所に若々しく大胆な提案があり、そのことは今後の飛躍を予感させるものがありました。というわけで、この経験をひとつの踏み台としてさらに発展することを期待しています。

追伸; これから午後の第二部(卒業設計の選抜作品の講評会)が始まります。これがまた、長いんだなあ〜、とほほっ。


修論発表会おわる (2017年2月8日 その2)

 きょうの夕方、環境・設備系の発表をもって二日間に渡った修士論文発表会が終わりました。コース長・学域長は卒論、修士設計、修論と最後の講評を毎回求められるのですが、もう言うことが枯渇しちゃっています(あははっ)。

 で、このClosing Remarkの場で、ついに言ってしまいました。スライド一枚一枚をもっと丁寧に説明しなさい、グラフの縦軸・横軸はちゃんと指して説明しなさい、グラフに線が複数あるときには一本ずつ丁寧に説明しなさい、ということです。そして、総じて練習不足であることも言い足しました。わたくしが大学院生のときには十回近く練習したぞ、そのときの指導教官だった小谷俊介先生が毎回ダメ出しするのでホトホト困った、ということまで(小谷先生の実名を出して)言っちゃいました。

 それを聞いた大学院生諸君は多分、やっと発表が終わって晴れ晴れとした(?)気分になったところだったのに、そんな老人の小言みたいなことを言われて逆に気分が悪くなったでしょうな、きっと。

 こんな説教を言い終わって、場がしらけ切ってしまったことは明白でしたが、わたくしの言は閉会の辞も兼ねているのでなんとか気を取り直して締めました。でも後味の悪いことといったらありませんでしたね、やっぱり。物分かりのよい大人のフリをして、よくやったみんな、みたいな好々爺ぶりを発揮すればよかったのかも知れません。なかなかに大人になり切れない、始末の悪い中高年といった感じかも知れませんな、わたくしって,,,(もう、どう思われてもいいですけどね…)。


修論発表会 進行中 (2017年2月8日)

 修論発表会の二日めが進行中です。午前中は都市計画分野の発表でした。わたくしは門外漢ですが、数理モデルによって都市の構造を理解しようとする研究などは興味深くて面白いと思いました。でも、そういう研究って(数学や統計学を駆使しているせいでしょうか)文系?の先生方のウケはあまりよくないようで、質疑応答も低調でした。

 それとは逆に、ただ事例を調べただけの調査でつまらないなあとわたくしが思った研究が、他の専門家の方々から絶賛されていたりしたのにも結構驚きました。総じてわたくしの研究分野(バリバリのエンジニアリング系)とはかなり「文化」が異なっているような印象ですね(まあ、これは今に始まったことではありませんけど、あははっ)。

 都市構造の解析についてですが、混沌とした都市を簡単な数理モデルに置き換えるために多数の仮定を設けています。しかし、それらの仮定の妥当性については特に検証されていなかったみたいで、そのことがわたくしの分野の研究とはかなり様相が異なると思いました。そこでその点を質問しましたが、仮定の妥当性を検証するという視点はどうやら持ち合わせていないようで、それってこの分野の特質なのか、それともその学生さんが単にそこまで考え及ばなかったのか、どちらなのかが気になりました。


修士設計の発表会 (2017年2月7日 その2)

 午前中は9階アトリエで修士設計の発表会がありました。普段だとわたくしは参加しませんが(だってデザインなんてあまり関係ありませんからね、あははっ)、今年度は学域長なので出席しました。発表者はM2の七名なのでギャラリーも少なく、こじんまりとした講評会でした。

 普段縁遠い分野ではありますが、聞いていると(細かいデザイン論などは分かりませんが)、それなりに理解できます。さすがに二年間の成果の集大成ですから、前半の理論的考察や分析と後半の具体の建築設計とのつながりがそれなりに工夫されていて、なかなかよかったです。若々しく瑞々しい提案が多くあって、さすがに修士設計はひと味ちがうなあと感心しました。

 わたくしが特に考え込んだのが、建築の部分と全体とについて考察してそれに基づいて複合施設を設計した研究でした。わたくしの持論はいくら部分を究めても、それをアッセンブルして出来上がった全体は理解できない、というものです。これは物理学においてミクロの量子力学をいくら探求しても、マクロのニュートン力学は説明できないこと、あるいは生命科学において個々の神経細胞を調べても、その集合として誕生した脳を理解することはできない、というのと同様です。

 こんな具合に建築を議論することは容易く哲学へと続きそうで、それはそれなりに楽しめました。午後からは修士論文の発表会があります。こちらは各分野の(細かい)専門についての研究成果が披露されるはずですから、午前中のように楽しみながら聞ける、という類いのモノではないでしょうな、やっぱり。


いい時代いやな時代 (2017年2月7日)

 文科省のお達しがあったようでして、昨年来、研究倫理研修を受けるように大学執行部から求められてきました。常勤教員はまあ仕方ないでしょうが、非常勤講師の方々にも受講してもらうように命じられています。わずか数回、大学に来て学生諸君に話してもらうような方にまで、そのような面倒をお願いすることにわたくしは抵抗がありました。

 非常勤講師って(分野や学科によって随分と違うとは思いますが)、だいたいがこちらから無理にお願いして、かつ、微々たる報酬でお引き受けいただいているというふうにわたくしは認識しております。言い換えればそれは、ほとんどボランティアと同義です。

 そのような善意で引き受けてくださる非常勤講師の方に、さらに研究倫理研修の受講という面倒をお掛けすることは甚だ申し訳ない、と思うんですね〜。しかし文科省の理屈は、非常勤講師といえども学生に教育を施す者であるのだから研究倫理は身につけていなければならない、ということです。もちろんその通りではありますが、研究倫理ってそもそも「倫理」な訳ですから、フツーの良識ある大人ならば身に付けている類いのモノだと思います。

 なんでもリジッドに厳格に運用する、というのもいいのですが、正直に言えばそういう当たり前のことを声高に叫んで従わせようとする風潮に対して、いやな時代になったものだとつくづく思います。目標を掲げろ、成果をあげろ、エビデンスを残せ、自己評価せよ、とうるさく言われるようになったのはここ十年くらいでしょうか。その基本には、ひとがひとを信頼せず(あるいは信頼できずに)、余裕がなくて、カサカサに乾いた社会が根底にあるように思います。

 大学の執行部で日夜努力されている先生方には本当に頭が下がります。彼らも文科省や都庁からいろいろと言われて(心のなかでは)困惑しているのかも知れません。そうであればその葛藤は大変なものであろうとお察しいたします。でも、わたくしにはそういうお仕事はやっぱり務まりそうもありません。

 それでも建築都市コース長として上述のようなことを言ったあげく、都市環境学部長をはじめ事務方の皆さんにも多大のご迷惑をおかけすることになってしまいました。それはわたくしの本意ではありませんので、やむを得ず非常勤講師の方にも研修を受けてもらうようにお願いいたしました。追伸;無事、受講していただきました、よかった、よかった,,,。

 人間って(わたくしだけ、かも知れませんが,,,)本当に自分勝手ですよね。科学技術が発達して便利で快適な生活を享受しているのですから、本来いい時代になったはずです。日本に限って言えば戦争もありません。い〜い時代じゃありませんか。

 こんなにありがたい状況に置いていただいているにもかかわらず文句ばっかり言ったら、ご先祖からバチが当たろうというものでしょう。それでも斯様にグダグダとクダを巻くとは、人間の業の深さにあらためて驚くわたくしなのでした(って、おいらだけかな?)。


卒論発表会おわる (2017年2月6日 その2)

 きょうは建築都市コースの卒論最終発表会でした。わたくしはコース長なので朝から夕方まで全ての発表を聞いて、ときには質問したりコメントを発したりしました。ことしの学生諸君の発表を聞いていて、調査や実験は一所懸命にやっていることは分かるのですが、その考察が不十分であったり全く為されていなかったりしたひとの多いことが気になりました。

 なぜそうなるのかという理由・原因やメカニズムの探求、あるいはその成果を実際の設計や施策にどのように活かすのかという応用展開について、しっかり考えて明示して欲しいと思いました。そこまでやらないと研究とは言えませんからね。総体として底の浅い研究(のようなモノ)が多かったのは残念でした。学生諸君の今後の奮起に期待したいと思います。

 それにしても六時間以上も固い椅子に座って発表を聞くのは、想像以上に大変でした。年齢を重ねたせいでしょうか、こらえ性がなくなったというのか、耐力じゃなかった体力がなくなったというのか、多分その両方でしょうがとにかく甚だしい疲労感を抱きましたね。これから木曜日まで修士設計講評、修論発表および卒業設計発表と続きますが、耐えられるかどうか自信ありませ〜ん。


師弟愛をみる (2017年2月6日)

 週末、大学で博士論文の公聴会があったので出勤しました。コンクリート工学の橘高義典教授が主査を務めるD論の副査を頼まれたからです。世間はお休みのなか、結構大勢の方がお出でになりました、ありがたいことです。そのなかに菊地雅史先生および小山明男先生のお姿もありました。

 お二人は明治大学建築学科・材料研究室の三代目および四代目に当たります。この研究室の結束の強さについては以前にこのページに書きましたが、この日の公聴会の主役である論文提出者(水谷さん)が実は菊地先生のお弟子さんであったことに(不覚にも)この日、気がついた次第です。菊地先生のお弟子さんへの愛情の深さにはいつもながら感心させられますし、それに応える弟子の皆さんの思いやりも立派だと思います。はたから見ていても実に麗しい師弟愛で、ホント羨ましいなあ。

 この日のように材料分野の博士論文の審査はときどき頼まれますが、コンクリートは化学反応なので物性を理解するためには化学の知識が必要ですし、それをモノとして利用するときには強度等の構造力学の知識を要します。こんな感じで守備範囲が結構広いので、それを究めるのは大変だなあと思った次第です。


メンテナンス (2017年2月2日)

 二月になりましたが、まだまだ寒い。それでも街々の梅の枝々に白やピンク色の花が咲き始めたのを見ると、春は確実に近づいていることを感じます。寒いせいかここのところ調子がよくなくて気分が悪いです。そのような体調のときに学生諸君の不甲斐なさを見聞きすると、もう怒ったりする気力も失せてしまって、只々脱力感に浸ったりする迂生でございます。

 人生も半世紀以上を閲すると体のあちこちにガタが出て参ります(イヤな話しになって来たな、われながら)。そのような状況ですので人体のメンテナンスが必要なんだろうなと実感はしております、はい。自分の体と相談しながら、仕事にしろ研究にしろ取り組んでゆくしかないと今は思っていますが、どうでしょうかね…。

 メンテナンスが必要なのは建物も同じです。きのうM2の苗思雨くんがやってきて大型構造物実験棟の扉を解錠できなくて中に入れない、と言います。一緒に行ってカード・キーをかざしますが、ピピッという音ともにリジェクトされてしまい、なるほど解錠できません。

 仕方がないので建物の保全を担当している京王サービスに電話して、見てもらいました。すると鉄扉のカギが錆び付いていて、カード・キーの動作に連動して電動で解錠するそのモーターの力では鍵を開けられなくなっていた、ということでした。鍵のところに潤滑油を差し込んで当座は使えるようになりましたが、そのうちまた開かなくなるよと言われたそうです。

 そんな状況なら鍵を付け替えるとかなんなりしてくれればよいと思うのですが、予算がないみたいで、とにかく更新してくれないんですね〜。もっとも、大型構造物実験棟を実質的に使っているのは本学広しといえどもわたくし唯一人なので、仕方がないのかもしれません、よく分かりませんが,,,。

 以前にも書きましたが、この大型構造物実験棟はとにかくベラボウな安普請なので雨漏りもひどく、暖房やトイレもありません。利用者としては建屋全体を建て直して欲しいくらいです。外壁の補修にせよそれなりのお金がかかりますから、大学当局に計画的な保全をお願いしようと思います。


ひと月が過ぎる (2017年1月30日)

 きょうは春のような暖かさでした。こんな陽気だと寒の戻りがいよいよつらく感じられるのではないかと危惧いたしております。

 さて、2017年になって最初のひと月が過ぎようとしています。年明け早々のJCI年次論文の投稿が今年は1編だったこともあり、まあ大過なく過ぎていったような感じです。とはいえ、卒論の最終梗概の提出も過ぎ去りましたが、今年は誰も原稿を見せに来ませんでしたので、その出来は推して知るべし、ですけど,,,。

 午前中に虎ノ門に行って既存建物の補強に関する審査をして来ました。そのとき一緒に審査している設計者の方々とお話ししたのですが、いまの構造設計者はコンピュータにドップリつかっていて、コンピュータが出力する中身の吟味が疎かになっている、と言います。まあ、そのこと自体はわたくしも見知っていましたが、構造物の応力図をすぐに思い浮かべることができないひとが多いということを聞くに及んで考え込んでしまいました。

 う〜ん、基本的な構造の曲げモーメント図などは大学の構造力学で教授する初歩的な内容です。単純梁とか片持ち梁とか、簡単な門型フレームに対してはそういう訓練を大学時代に積んで来たはずです。それにもかかわらず実際の建物になった途端に、その(複雑かも知れませんが)構造の曲げモーメント図を描けない、というのはどういうことなんでしょうか。

 それは結局、建物のモデル化自体をコンピュータが勝手にやってくれるので、それを入力した構造設計者(これじゃ設計者じゃなくて単なる計算者、ですけど…)はどんなモデル化が為されたのか知らないので、曲げモーメント図も想像できない、ということなんだろうと思います。

 でもそんな構造設計者が設計した建物って信用できますか、恐ろしいですね〜。昔の構造設計者は全てを手計算でやっていました。その際、建物のモデル化はその物理的な本質を見抜いた上で、できる限り簡略にやっていたと言います。計算が大変になりますから、それは至極当然なことだったと思います。そのような思考の結果として、当時の構造設計者には「相場観」と言いますか、直感的な判断力が備わっていたのです。

 ところがそのような経験知はコンピュータ世代では失われつつある、というのです。これは日本のような地震国では致命的な欠陥になりかねません。大学では前述のような基本は教授できても、具体の建物のモデル化のような応用を教えることはできません。その意味でゼネコンや設計事務所での知識と経験との伝授は非常に重要になります。中堅以上の構造エンジニアの方には大変だとは思いますが、是非とも心にかけてこのことを実践していただきたいと思いますね。


流れたゼミナール (2017年1月25日)

 全国的に寒い日々が続いていますが、八王子もスキー場並みの寒い朝でした。きょうの午前中には大学院プロジェクト研究コース(注)のゼミが予定されていました。ひとりの学生からはインフルエンザなので欠席するという連絡が一昨日くらいにありました。ところが残る二人の学生も今朝になって立て続けに体調不良で休みますというメールが来て、結局ゼミは流れました。

 まあ病気だというのなら仕方ありませんし、この大切な時期に教室内で病原菌を撒き散らされても困りますので休むのは結構なことです。お大事に、っていう感じなのですが、特任教授の青木茂先生はこのゼミのためだけに大学に向かっていたので、結構お怒りになっていました、もっと早く連絡してくれと(当たり前でしょうね)。

 われわれ教員としては、今回のゼミを結構重要なものと(勝手に)位置付けていました。四月初旬に提出の建築学会大会の梗概執筆に向けてそろそろ研究テーマを決めて、そのためのコンテンツ作りに走り出すための大切なゼミ(のつもり)だったので、流れてしまったことは痛手です。三名の学生さんともこれまで種々議論してきたにもかかわらず未だに確固たる研究テーマが決まっていません。そろそろ決めないとまずいでしょうという空気が(教員たちのなかには)溢れてきています。

 このプロジェクト研究コースの担当である山田幸正教授(東洋建築史)と角田誠教授(建築生産)のお二人がわたくしの部屋に先ほどおいでになって、とってもまずいよね、大丈夫だろうか、という心配を口々にされて(愚痴って)行かれました。

 わたくしの研究室でも今年度の卒論では実験以外は好きなテーマを自分で決めて研究するように言いましたが、学生諸君にとってはとても大変なことだということに改めて気がつきます。もちろんアドヴァイスはしますが、基本的なストーリーは自分で考え出さないといけませんから。大学院とはいえプロジェクト研究コースでも、結局は同じことで三名とも苦労していることはよく分かります。

 でも研究ってそもそも苦労しながらウンウンと唸りながら実行して、さらにまたあれこれ悩みながら論文を書き上げるものですよね。よく楽しく研究したい、みたいなことを言う学生がいます。もちろん興味津々でワクワクするような研究はたくさんあって、わたくしもそのような研究をしているつもりですが、それと“楽しい”研究とは別物だと思います。いや、鼻歌でも唄いながらサクサク進んで行くようなものは研究などではなくて、単なる趣味だということです。

 そういうつらい時期を乗り越える体験こそが大学院で学問をすることの意義ですし、だからこそそれを乗り越えて成果を出したときの喜びはまた格別なのです。楽して何ごとかを達成できるということは決してありません。しばらくは大いに悩んで下さい。でも、四月にはそれなりの成果を出すことを期待しています。

注: 大学院建築学域における第14番目のプロジェクト研究は「身近な文化遺産としての建築ストックの賦活・更新とそれを基点とする地域活性化プロジェクト」という名称です。チーム・リーダーは山田幸正教授で、担当教員は角田誠教授、北山和宏教授、青木茂特任教授(建築再生・設計)、松本真澄助教(住居学)および猪熊純助教(建築設計)の合計6名です。

 大学院生3名に対して教員6名、それも蒼々たる顔ぶれ(って自分で言うのもどうだか…)ですので、ホント学生さんにとっては恵まれていると思うのですが、彼女/彼らはそんなことは意識の外でしょうな。この素晴らしい環境を是非とも活かして欲しいと思います。


おかしな愛国心 (2017年1月22日)

 稀勢の里が千秋楽の結びの一番で横綱・白鵬に勝って優勝に花を添えましたね。これで稀勢の里の横綱昇進は確実、とのことで本当におめでとうと言いたいです。彼の土俵態度とか仕種とかは明らかに以前とは変わったように見えますので、名実ともに横綱の風格を十分に感じました。

 でも日本人の横綱が何年振り(十九年だそうです)に誕生したのはめでたい、みたいなことを相変わらずいうひと達がいるのには感心しません。事実としてはそうでしょうが、別に日本人だろうがモンゴル人だろうが強いお相撲さんが横綱になるのです。この日の結びの一番でも稀勢の里への応援ばかりが目立って(まあ心情としては分からないこともないのですが)、白鵬へのそれはほとんど見られませんでした。今までひとり横綱の時から大相撲の屋台骨を支えてきた白鵬に対して、もう少し敬意を込めてもバチは当たらないと思いますけど,,,。

 大相撲は日本の国技といわれますので、日本人にとって思い入れもひとしおということは理解します。でもそれをスポーツという観点から見ると(大相撲は神事であってスポーツではない、という人ももちろんいるでしょうが、ここではそれには触れません)、その競技に参加しているひとは等しく敬われてしかるべきです。以前にも書きましたが、大相撲に時として見られる狭量な愛国心は厳に慎むべきと考えます。


寒くて滅入る (2017年1月20日)

 きょうはものすごく寒いですね。八王子はまだ雪こそ降っていませんが、今にも降り出しそうなどんよりとした天気です。こういう日には気分が滅入ってきます。日本海側のような雪国の皆さんは日々このような憂鬱のなかで過ごしているのかと思うと、春の到来を待ちわびる気分はまたひとしおだろうと拝察いたします。

 さて日本のAパ・ホテルが南京大虐殺を不当に評価するような書籍を客室内に置いていることが報道されました(その本を読んだことはありませんので、なにが書いてあるかは承知しません)。民間企業がなにをしようが自由ではあります。こういう戦前の日本(正確には旧日本軍でしょうが,,,)の行いに対する根拠のない認識を信奉する人びとが一定数いることも事実でしょう。南京事件で虐殺された人数がよく問題とされて、今回も三十万人という数字を否定しているみたいです。

 でも、ことの本質としてその人数は問題ではないというのが迂生の持論です。旧日本軍がかつて南京でなにをしたのか。このことが重要であって、その蛮行は大勢の目撃証言があることから事実と考えます。中国の人びとの生活を踏みにじり、あまつさえ無辜の民に危害を加えたわけですから、その被害者の数が違うなどとあげつらうべきではありません。

 歴史を正しく認識し、過ちは素直に詫びて、友好的な未来を築いて行くべきです。日本と中国との長い交流の歴史を振り返ってみても、両者が互いを理解したことなどなかったと思われます(なんせ相手は“中華”思想の民族ですからね)。そもそも他者を理解することは口でいうほど容易くはない。それが常にいがみあって来た隣人であればなおさらです。それでも隣人と認識を共有して平和な時代を作ってゆくことが、ほんとうの国際化ではないでしょうか。そういうことを実行できなければ、国際化など絵に描いた餅に過ぎないと迂生は考えるんですね〜。


トーマス・マンのこと (2017年1月19日)

 電車内読書で北杜夫の『木精(こだま)ー或る青年期と追想の物語ー』(新潮文庫、昭和54年8月)を読み終わりました。これも昔の読書シリーズで、昭和54年(1979年)ですから高校生のときに一度読んだ本でした。北杜夫はわたくしが中学生から大学生くらいまで愛読した作家です。今の若者は多分知らないでしょうが、わたくしが子供のころには『どくとるマンボウ』シリーズで結構な人気作家でした。テレビ・ドラマで北杜夫の『ぼくのおじさん』が放映されたこともよく憶えています。

 さて、この『木精(こだま)』という小説ですが、主人公の精神科医がドイツやオランダでドイツの作家トーマス・マンの足跡を辿りながら深い思索を巡らすという形式で書かれています。これを読んでいて、北杜夫がトーマス・マンに深く傾倒していたことを思い出しました。

 トーマス・マンは『魔の山』が一番有名でしょうが、北作品を読むと『ブッテンブローグ家の人びと』や『トニオ・クレーゲル』がよく登場します。北杜夫の代表作のひとつは『楡家の人びと』ですが、このタイトルを見れば分かるように『ブッテンブローグ家の人びと』への哀惜から来ています。この『木精(こだま)』でも、主人公はトニオ少年の歩いた道を辿ったりもしています。それくらい北杜夫はトーマス・マンを愛していたのですね。

 こんな具合に北作品にはこれでもかというほどトーマス・マンが出てきます。それに触発されてわたくしも十代の頃に『トニオ・クレーゲル』を読みましたし、『魔の山』も読み始めました。ただ以前にも書きましたが、海外の小説を深く理解するためには、書かれた場所の歴史や風土、あるいはその土地に根付く民族の習俗などを把握していることが必須です。残念ながらわたくしは当時も今もドイツに行ったことはありませんので、『トニオ・クレーゲル』を読んでなんらかの感銘を受けたという記憶はありません。『魔の山』に至ってはあまり面白くなく(その小説の真価が理解できなかっただけでしょうが,,,)途中で読むのを止めてしまいました。

 この『木精(こだま)』ですが、北杜夫はなぜこのようなタイトルをつけたのでしょうか。主人公が精神科医であることやトーマス・マンに傾倒して小説家を志しているという設定は北杜夫本人と重なります。ですからこの小説は(副題にもあるように)自分自身の若かりし頃をかなりセンチメンタルに回想して綴ったものなのでしょう。

 そして彼が精神科医となり、さらには作家になったことはそのまま彼の父へと繋がります。北杜夫の父は(わたくし以上の年代の方々はよくご承知でしょうが)歌人・斎藤茂吉です。『木精(こだま)』の一枚目には次のような茂吉の短歌が掲げられています。

 はるかなる国とおもふに狭間[はざま]には木精[こだま]おこしてゐる童子あり

 小説のタイトルはこの短歌の一語から採ったわけです。「こだま」は山などに当たった音がはね返って聞こえるエコーのことです。父・茂吉の放ったものが遠くはるかな国(それは多分ドイツだと思いますが)からはね返ってもどってきて自分(=息子・北杜夫)になった、というふうに考えるとなんとなく?分かるような気もします。つまりこの小説は自分自身のことを書くと同時に、父・茂吉への追慕の情がその根底にあるように思いました。


成果を出す (2017年1月17日 その3)

 きょうは日本コンクリート工学会(JCI)の年次論文の締め切り日です。これはフル・ペーパーが査読される論文で、査読は結構厳しいです(査読意見が二十以上つくこともザラにあります)。今年度はM2の苗思雨くんが論文を仕上げて投稿しました。わたくしの科研費で行った実験研究の成果をまとめることができたのでよかったです。日本語で論文を書くのは大変だと思いますが、苗思雨くんはよく努力したと褒めてあげたいと思います。

 ただ研究としてはまだまだいろいろなことを検討できるはずです。すなわちまだ“宝の山”が眠っています。修論提出にはまだ少し時間がありますので、そのうちのいくつかでも拾い出して焦点を当ててくれると嬉しいですね。また、来年度以降も後輩に研究を引き継げるように実験データ等の整理もお願いします。

 こんなわけで今年のJCI年次論文の投稿は一編ですが、苗思雨くんはよくやってくれたと思います。昨年度は四編投稿したので例外的に豊作でしたが、2015年度および2014年度はいずれも一編でしたから、我が社としてはこれがフツーなんでしょうな。とにかくよかったです(わたくしとしてもひと安心です)。


四年後に来る (2017年1月17日 その2)

 先週、南米チリで第16回世界地震工学会議(16WCEE)が開かれました。わたくしは学内の雑用山積で行きませんでしたが、参加した壁谷澤寿一さんから会議の様子などを聞くことができました。チリ・サンチャゴは行くのに三十時間以上かかるという、日本の裏側です。それを聞いただけでわたくしなどはビビっちゃいますよ、ホント。だから(用事があって)行けないでよかったというのが本音です。

 さて、四年後(正確には2020年)の世界地震工学会議の開催地ですが、JAEE(日本地震工学会)のロビー活動が奏功したのか、あるいは東京オリンピックの余得か、日本・仙台に決まったそうです。そう言えば昨年末に会った中埜良昭くんが招致のための演説をチリでやると言ってましたので、それが上手く行ったということでしょうかね、「お・も・て・な・し」とか言ったのでしょうか(まさかね…)。いずれにせよご同慶の至りです。

 ただ中埜には悪いのですが、わたくしは日本での開催には反対でした。ご当地での開催となればそのための種々の雑用を引き受けないといけませんが、そういう役回りはだいたいが若手と相場は決まっています。ヘタをするとわたくしクラスの“中堅の上”あたりまで仕事が割り振られるかも知れません。

 よく、苦労は買ってでもしろ、と言われますが、それも苦労によりけりです。会議の裏方ほど大変な割に報われない仕事はないと思いますよ。わたくしは世界地震工学会議のお手伝いをしたことはありませんが、国内の日本地震工学シンポジウムの裏方は何度か務めました。会場の設営とかプログラムの作成とか、宴会(懇親会、か)のセットとか、その仕事は多岐に渡りますが、そんな仕事を幾らやっても何も得るところはありません。本来はイベント屋がやればよい仕事ですからね。

 もちろん国際会議であれば外国の要人と知り合いになったりできるかもしれませんが、上述のような雑用と天秤にかければやはり労多くして得るもの少なし、と言わざるを得ません。後ろ向きのことばかり言って申し訳ありませんが、これがわたくしの本心ですから致し方ありますまい。なんだか憂鬱な気分になった一月十七日です。


神戸の地震から22年 (2017年1月17日)

 兵庫県南部地震(1995年)によって阪神大震災がおこってから、きょうで22年になります。これが契機となってわが国における既存建物の耐震診断が国策として実施されるようになったことは何度も書いたとおりです。そのもととなる耐震診断基準は岡田恒男先生(東大生研)や村上雅也先生(千葉大)らの先輩がたによって1977年に作られました。

Hyogoken_NumbuEQ1995_01 Hyogoken_NumbuEQ1995_02
     写真: 神戸市役所の中間層崩壊(1995年)

 わたくしが大学院生だった頃、青山博之先生のお達しによってアメリカで震害を受けた鉄筋コンクリート建物の耐震診断をその基準を用いて行いました(注1)。また岡田先生の大学院の授業ではその基準を精読して間違いや疑問点を書き出せ、という課題が出たように憶えています。すなわち1980年代前半にはまだ耐震診断基準はポピュラーではなく、それを用いた診断例も数少なかったのだと推量します。

 こんな感じで耐震診断基準はひっそりと存在していましたが、上述のように1995年の地震以降、急に表舞台に躍り出たわけです。その後、多数の建物を耐震診断した実績が蓄積されて診断基準の問題点や課題が明瞭に浮き上がったことから、2001年に耐震診断基準は大幅に改定されました。

 そして2011年には東北地方太平洋沖地震が発生して現在に至ります。その耐震診断基準ですが現在、何度目かの改訂作業が進められていて、本年半ばくらいには出版される予定だそうです。壁谷澤寿海先生がその主導者で、市之瀬敏勝先生、勝俣英雄さんや加藤大介先生らが精力的に作業に当たってこられました。わたくしは途中からそのコミッティに呼ばれて(どうやら人手が足りなくなって、“猫の手”だったみたいですが,,,あははっ)、一部の見直しや新規コンテンツの作成に携わっています。

 当初の耐震診断は手計算を前提として書かれていましたが、2001年の改訂で電子計算機の使用が前提となり現在に至っています。コンピュータを使ってよいのならば、建物をモデル化した立体骨組の静的漸増載荷解析や地震応答解析といった精緻な評価が耐震診断計算の地平のちょっと先に位置付けられることになります。

 ですから耐震診断基準を精緻化すると必然的にそういった解析との境界があいまいになってしまって、それまで持っていた耐震診断基準の利点(当該建物が保有する耐震性能をザックリ把握できるという分かり易さ)が失われるということになりかねません。現代あるいは未来の耐震診断として、そのあたりの加減とか案配とかが今後は重要になってくるように思いますね。複雑で精緻、というのと、簡易なので割り切って大要を把握、ということとのあいだのバランスが大切、ということかな。

注1: 耐震診断のための計算とその考察は、もともとは青山先生が海外でなさる講演の英文梗概を作成するために依頼されたものでした。その下案となる英文は当時M1だったわたくしが作りましたが、初めて英語の論文を書いたこともあって多分ひどい出来だったと思います。

 その草稿をご覧になった青山先生はそれをスラスラと直してくれました。そして結論のあたりで「北山くん、こういう言葉を知っていますか」とおっしゃった青山先生がお書きになったのは「hitherto」というちょっと堅苦しげな副詞でした。もちろん知りませんでしたが、その思い出は鮮烈で、今でも憶えているわけです(これ、どこかに書きましたね…こちらでした[“七夕と師匠と”2014年7月7日])。


月夜を往け (2017年1月13日 その2)

 わたくしの研究室のある建物の7階から、綺麗な満月のお月さまが見えました。ちょうど東になるので、多摩センターや遠くは新宿あたりの光が見えています。このお月さまに照らされながら、ゆるゆると帰りましょうか。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:TMU9号館7階からの月夜20170113:DSC_5448.JPG


軍事研究の是非 (2017年1月13日)

 寒いです。大学の構内には霜柱がバシバシ立っていました。

 日本の防衛省が110億円の研究費を軍事研究に配分することになって、ちょっとした話題になっています。日本の大学は戦前の苦い経験から、軍事研究にはかかわらないという立場を取ってきました。理念としてそのことは崇高であり、誰も異議を唱えることはないと思います。戦争を永遠に放棄することを国是としたわが国にとっては相応しい考え方ですよね。

 しかし昨今の「選択と集中」によって手元不如意となった研究者が多くなったことが主因でしょうが、総額110億円の研究費に目がくらんでフラッと防衛省の研究費に応募するなんてことも起こりそうです。自分のやりたい研究にお金を付けてくれるならどこだって構わない、これは純粋に学問的な研究なんだから、と自己に言い聞かせて納得しているのかも知れません。

 ここで、軍事的な研究とそうではない研究との区別が俎上にのぼります。しかし理工系の研究に限れば、どんな研究でも何かしら軍事的な利用に役立つところがあると思います。オッペンハイマーやフォン・ノイマンの原子力に関する研究が原爆を生んだというのがその典型的な例でしょう。

 ですから、軍事的な研究か否かということでその研究の是非を判断することはできないとわたくしは考えます。では、どうやって区別するか。それは研究費を出す相手を見て決めるしかないでしょう。それが防衛省であれば、彼らが何と言ってもその研究は(将来は)軍事目的に使用されると考えて間違いないでしょう。日本の自衛隊は海外に行って道路を造ったり、水道を整備したりと地道に人道支援に従事しています(そのこと自体は立派なことで是とします)が、だからといって土木工学の研究を彼らが本気でするとは考えられませんよね。

 ということで研究の中身で軍事研究かどうかを判断する、などということは言わずに、防衛省の研究費であればそれはいずれは軍事に応用されるだろうから貰わない、というふうにすることが一番手っとり早いと考えます。それによって研究費を得る手段のひとつを失うことにはなります。しかしそれが過去の過ちを繰り返さないという一点において必要なことではないでしょうか。やせ我慢、だけど、武士は食わねど高楊枝、ってね。


引用文献にまつわるお話し (2017年1月12日)

 研究者は論文を書きます、当たり前です。その論文には必ず引用文献があって、末尾に明記されます。ファミリアな分野であればその論文の参考文献リストを見るだけで、論文のだいたいの内容が推量できたりします(って、ちょっと誇張がありますが、まあ真実です)。ミラクルでウルトラな論文でない限り、どんな研究にも必ず先人の足跡があるはずですから、そのような先人の業績が感謝の意も込めて引用文献としてリストアップされるわけです。ですから引用文献がきちんと明記されていないと、それはちゃんとした論文ではないと見なされます。

 さて先日このページに書いたACIジャーナル論文の話しですが、いただいた査読の意見としてこんなものがあったことを思い出しました。それは、晋沂雄さんの引用した文献が日本語(in Japanese)で書かれたものばかりなので英語の論文をもっと引用しろ、というのです。日本語の文献じゃ欧米人には読めなくて分からないから何とかしろ、ということですね。

 確かにどんなに素晴らしい論文でも、それが未知の言語で書かれていれば読解できませんので全く価値がないということには同意します。しかし上述のような意見を提示されて、わたくしどもがホトホト困惑したのも事実です、そんなこと言われても困るじゃないですか,,,。日本には日本の斯界があって日本語で議論されているのですから、そのことは尊重すべきではないかと迂生は愚考しますがいかがでしょうか。いつも書いていますがグローバルな時代こそ、地に足のついたヴァナキュラーなものが尊重されるべきなのです。

 でもそんなことを言っては論文をアクセプトしてもらえません。しかたがないので、(晋沂雄さんが)うんうん唸りながら関連する英語の論文を捜し出して追記し、あわせて日本人の書いた論文でもWCEEや英文ジャーナルに投稿した類似の内容の論文があれば、それらを引用文献に変更したりしました。なんでそんなことをせにゃならんのでしょうか、もう、涙の物語、ですよ。せっかくですから当該論文の参考文献リストのところを以下に載せておきます。

Reference_ACIStr.J_Jin

 このように悲喜こもごもの引用文献ですが、日本建築学会の論文集のフォーマットが今年一月から変更になって、日本語の論文でも参考文献リストは全て英語表記すべし、となりました。ここに至るまでには論文集委員会において激しい議論が交わされたと聞いています。なぜそんなことになったかと言えば、それはトムソン・ロイターか何かが決めるインパクト・ファクター(IFと略記)を取得するためのとびらを開くためです。

 ホント、阿呆らしいとわたくしは思いますが、その論文集のワールド・ワイドな格付けのためにはIFが付与されていることが必要で、その土俵に乗るためにはトムソン・ロイター(?)が決めた様々なハードルをクリアしないといけません。そのひとつが文献リストは英文であることを必須とする、ということだったそうです。

 まあ引用文献の数をもとにして算出されるのがIFですから、肝心要の引用文献リストが日本語で書かれていたらIFを計算できないでしょ、というのはよく分かります。でも建築学には例えば日本建築史のような分野もあって、英語には馴染みません。そういう場合には次のように表記しろ、というのです。例えば日本語では;

中村達太郎:日本建築辞彙,丸善,1906

という文献を参考文献リストの表記では;

Nakamura, T.: Nihonkenchikujii (Japanese Terminology Dictionary for Architectures), Maruzen, 1906 (in Japanese)

というふうにローマ字で記述するそうです。え〜!これじゃ、なんの論文だか全く見当がつかないじゃないですか、“Nihonkenchikujii”ってどこのジジイなんだよ、あははっ。著者も中村達太郎と漢字で書いてあればすぐに分かりますが、Nakamura, T.だとどの中村さんなのかピンと来ませんよね。

 問題はそこまでして世界内での格付け競争(狂躁?)に参入するのか、ということです。日本国内の建築に関する論文として最も権威のある日本建築学会論文集を世界のなかで光輝あるものとするためにIFを獲得して世界中にアピールする、というのがその狙い(らしい)です。そのような論文集を求める声が多かったので、そうなったということでしょうが、わたくしははっきり言って反対です。

 よく言われることですが、自分たちの母語を用いてあらゆる分野の最高の教育を受けることができるのは、世界中でごくわずかな国々に限られます。日本はそのような恵まれた国のひとつであり、日本語で考え、日本語で実践できる恩恵に浴しているのです。そのような環境を維持し続けるためには、最高レベルの論文を日本語で執筆し、日本語で議論し続けることが欠かせません。

 もちろんグローバルな世の中ですから、有益な知見は英語なり何なりを用いて世界に発信し、それらの言語を用いて議論すればよいわけです。日本語のなかに分かりにくい、あるいは無意味な英語?を混ぜては、論文として分かり難くなるだけと考えます。木に竹を接ぐ、という感じですな。

 折に触れて書いていますが、格付けのような競争の原理はあまねくアングロ・サクソン流の合理主義から来ています。しかしそれは彼らにとっての「合理性」であって、必ずしも世界中のあらゆる人びとが同意したものではありません。なぜ、そのような欧米流の原理に唯々諾々として従うのか、迂生には理解できないんですね〜。手っ取り早くて便利だから、ということはあるでしょうが、そのようなまやかしの便利さに幻惑されてはなりません。

 結局そこには英語を母語として話す人びとの根拠なき特権意識が横たわっています。でもそのような事態も、やがてAI(人工知能)があるゆる言語を母語に瞬時に翻訳してくれるようになれば劇的に変化するはずです。そのときこそ、真のグローバリズムが到来すると言えるでしょう。電子計算機が「心」を持つことは不可能ですが、そのような“オールマイティ翻訳機”ならば遠からず実現すると思います。期待しております、そのような公平で明るい未来を。


チューリングの時代 (2017年1月11日)

 昨年末から読み始めたアラン・チューリングの伝記ですが、おおかた読み終わりました。彼は1954年にわずか41歳で亡くなりました。その死因は公式には自殺になっていますが、彼の母親は(青酸を用いる)化学実験中の事故だと信じていたそうです。

Aran_Turing_Portrait

 で、この本の著者(アンドルー・ホッジス)は彼の自殺当時の世界の情勢や同性愛(チューリングは同性愛者だったそうです)に対する当時の世間のあり様とかを執拗に記述します。なんでそんなことを長々と書くのか、はじめは退屈に思いました。チューリングは自殺したんだから、そんなことはどうだってよいじゃないか、と。でも、読み進めるうちに、著者は実は彼の死因を疑っていて、それは書くのもはばかられるようなことが原因と考えているのではないか、ということに思い至りました。

 当時(1950年代)の英国では同性愛は犯罪でした。チューリングは亡くなる二年前にひょんなことから同性愛者であることが露見して、パートナーとともに警察に逮捕されています。同性愛者は普通の性向のひとと違って意思が弱いので脅迫に屈し易いため、信用を要する職につけるべきではないというのが当時の英米政府の考え方でした。

 ところがチューリングは第二次世界大戦中には英国や米国の政府のもとでナチス・ドイツのエニグマ暗号の解読という極秘の仕事についていました。また戦後は電子計算機の開発に携わって原爆開発に関する計算等も分担したようです。そういう機密事項を“知り過ぎた”男が同性愛者だったことに英米政府は大いに困惑したはずである、と著者は言っています。その当時はソビエトによる赤化(共産主義の浸食のことです)が自由主義諸国において非常に怖れられた時代で、ソビエトのスパイが欧米を席巻していました。

 そのような時代背景を深読みすると、同性愛者のチューリングはソビエトの脅迫に容易に屈するような危険人物であるというレッテルを政府の秘密機関(英国で言うと007が務めているような部門)から貼られたのではないか。政府の機密をたくさん知っていることから、邪魔者は消せ、ということになったとしてもおかしくはない…。

 というようなことを著者は言いたかったのではないか、というふうにわたくしは読み取りました。すなわち自殺に見せかけた他殺、です(著者はもちろんそのようなことは一言も記してはいません、念のため)。でもそれが真実だったとしたら(世界的な頭脳として嘱望された科学者をそんな理由で抹殺するとは思いたくありませんが)、チューリングは本当に気の毒な人物であると同情しないではいられません。個人が個人として尊重されるような時代ではなかったわけです。とにかく今から考えるとイヤな時代でした…。

 天才と言われるひとにはよくあることですが、チューリングはとにかく変わった人物だったそうです。ひと付き合いはよくないし、他人から誤解されることも多々あったとこの本には書かれています。きわめて有能で人類に貢献する仕事を残しましたが、そんなことは彼にとっては多分、重要ではなかったと感じます。では、彼にとっての幸せとはいったい何であったのか、それを知りたいと思いました。

 以下蛇足です。彼は亡くなる前には生物学の研究に熱心に取り組んでいたそうで、電子計算機に対する興味はかなり薄れていたみたいでした。電子計算機は“心”を持ち得るかという根源的な疑問を失ったとは思えませんが、少なくともそれに対する論考を発表したわけではなさそうで、チューリングの卓越した思考は永遠に失われました。

 なお、この本(『エニグマ アラン・チューリング伝』2015年8月、勁草書房)ですが、初版は1983年の出版でした。それから三十年以上が経過しましたが、チューリングに関する伝記の決定版は未だにこの本とされているそうです。第二次世界大戦とその後の冷戦期における社会情勢がチューリングの業績を覆い隠したため、彼の事蹟は明らかになっていないことも多いらしく、それを丁寧に調べたアンドルー・ホッジスの業績もまた金字塔的な存在だということでした。


耳ネタJanuary2017 (2017年1月10日)

 この三連休はお正月とはうって変わって寒かったですね。近所の公園に子供とテニスに行ったほかは、本や雑誌を読んだり音楽を聴いて過ごしました。所蔵している古いCDをiTunesに格納する作業もしました。今回はJoe Jackson 『Night Music』(1994年)、Bobby Brown 『Dance ! …ya know it !』(1989年)およびTears for Fears『The seeds of love』(1989年)の三枚の番です。何の脈絡もない三枚ですが、わたくしのCDラックに並んで入っていたので、手っ取り早く取り出してきただけです。

 手始めにJoe Jacksonを聴いてみました。彼の音楽では「Steppin’ Out」が有名でしょうね。その曲が納められている『Night and Day』もちょっと不思議な感じのアルバムでしたが、今回の『Night Music』もやっぱり不思議でした。わたくしにとっては聴いていて心地よい、安らぐという感じではなくて、どちらかというと不安感を駆り立てられるような気分です。

Joe_Jackson_NightMusic

 『Night Music』“夜の音楽”というタイトルのせいでしょうか、ノクターン(日本語にすると夜想曲)が四曲散りばめられています。それらはボーカルのないインスツルメンタルなのですが、オーケストラで使う楽器が多用されています。ヴァイオリン、ビオラ、オーボエ、ハープなどです。またオンデ・マルテノという時代遅れの電子楽器もありました。オンデ・マルテノはクラシックの演奏会でも使われることは滅多になくて、以前はよくコンサートに行っていたわたくしでさえ、この楽器が使われるのを見たのは一度だけです(見てくれは足踏みオルガンのような箱形をしています)。

 このアルバムでは四曲のノクターンとそれ以外の五曲とが配置されていますが、その曲順は作者が考えて並べたのでしょうね。現代であれば好きな曲をダウンロードして一曲ずつ聞くというスタイルになっています。しかし二十数年前にはまだCDを買って聞くというのが当たり前でした。ですから曲順は作者にとって重要な意思表示の手段だったと思います。

 ちなみにこのアルバムのカテゴリーはiTunesではオルタナティブになっていました、何だそれ? まあロックとかポップスではない、ということでしょうが、言われてみるとギターやドラムスは使っていなかったようです。この点でわたくしがフツーに聴いているボーカル・アルバムとは異なっていました。そんなこともこのアルバムの不思議感の醸成に役立っていたのかも知れません。


とれないのに (2017年1月5日)

 まだ松飾りもとれないというのに(すなわち、まだお正月モードだというのに)、この日には卒業設計の中間発表会がありました。中間発表会とはいえ、作品の提出までにもうひと月もないくらいですから、それなりのレベルに達していないとまずいですな。今までこの中間発表会をまともに聞いた記憶はないのですが(って、問題発言か)ことしはコース長なので全ての発表をきいて、がんがんコメントしました。

 幸いなことに皆さん、それなりに問題意識を醸成させてプログラムを設定していたので、その点はかなり安心いたしました(毎年書いていますが、実体のないコンセプチュアルな提案はおもろくないですからね)。ただ、そういうコンセプトを具体の建築(あるいは地域計画)にどのように落とすのかについては、まだまだ形になっていなかったので、この一ヶ月のあいだに熟慮して魅力ある提案を示して欲しいと思います。

 そのあと都市環境学部の代議員会があって、新年早々ハードな議論がありました。世の流れの常なのでしょうか、学生さんへの介入が過剰なほど要請されるのにはホント辟易とします。特に学生諸君が授業外学習にどのくらいの時間を割いているのか、ちゃんと調べてしっかり勉強するように促せ、という件に至っては、そんなことまで大学生相手にするんだろうか、これじゃ小学生と変わらないよな、という諦念というか驚きを抱きました。とにかくもっと学生諸君を信頼して彼らの自由にさせてあげちゃいけないのでしょうか?

 アドミッション・ポリシーとかカリキュラム・ポリシーとか、そりゃ重要だとは思いますが(それらが文科省の要求するものであることは重々承知しておりますが)、そんなにストリクトに決めても、教育はなんせ生身の人間を相手にしているのですから、お題目の通りに行くわけはありませんよ。ここにも西洋至上主義の匂いがプンプンしていて、素直に賛成できないわたくしでございます。教育の成果はすぐには分かりません。もっと鷹揚に構えて、大きな目で教育を眺めて欲しいというふうに思います。結局、全てのおおもととなるのは世の中の余裕なんでしょうな。


やっと… (2017年1月4日)

 仕事始めで登校しましたが、メールボックスに溜まっていたり、昨年末からの懸案であったり、とにかくコース長としての雑用をさばくことから始まりました(なんだかな〜)。なんで予算の執行のための交通整理を責任教授がしなけりゃならないんでしょうか,,,。

 さてトップページに記載したように、晋沂雄さん(昨年9月まで我が社の特任助教でした)が執筆した論文がAmerican Concrete Institute(ACI、アメリカ・コンクリート学会)のStructural Journalに掲載されました。この論文を彼が投稿したのは2015年7月でしたから、足掛け二年も要したことになります。やっと掲載されたか、という安堵感を正月早々味わっております。

 このジャーナルは査読が厳しいことで知られていますから、掲載までに時間がかかっても仕方ないのかも知れません。また多数の投稿論文があるらしくて、査読作業や掲載決定から電子ジャーナル掲載までの待ち時間など、とにかく時間ばかり過ぎて行ったような気がします。これに較べると日本の建築学会(AIJ)の査読論文は早ければ半年以内で掲載されますから、この点については圧倒的にAIJのほうがいいです。

 ただ世界的にみれば日本語のAIJ論文にはインパクト・ファクターがそもそも付与されていませんので、外国の方にとってはACI論文のほうが遥かに魅力的、ということみたいです。またACIジャーナルは掲載に至るまで一円(アメリカだから1セントか)もかかりません、つまりタダということです。すなわち世界のなかでの研究者の業績としてはACIジャーナルのほうが圧倒的に上である、ということになりますな。

 ちなみにACIジャーナルの査読ですが、投稿料がタダですから査読を依頼されてもそれはボランティアです(すなわち査読料はない、ということ)。わたくしも時々ACIジャーナルの査読を依頼されますが、自分たちの論文を査読してもらっているのだから他人さまの論文も査読しなくっちゃね、というGive&Takeの互助精神で引き受けております。

 その査読は(ページ数が多いために)結構大変なのですが、大変な割には締め切りは厳しく設定されています。わたくしは気が弱いのでその締め切りは必ず守っています。しかしながら先述の晋沂雄さんの論文の査読過程を振り返ると、そのような締め切りはあって無きがごとくのようで、査読がかなり長いあいだ続きました。

 このようになかなか掲載されなかった論文ですが、とにかく日の目を見てよかったなあ。晋沂雄さん、おめでとうございます。これを弾みとして東北大学でも研究にいそしんで下さい、期待していますよ。


お正月がおわる (2017年1月3日)

 この三ヶ日は穏やかに晴れていいお正月でした。こんな日には初詣とかに出かければいいのでしょうが、家人の具合が悪いこともあって普段遣いのお買い物のほかは子供を塾に連れて行ったくらいでした。

 さて恒例の箱根駅伝ですが、こちらも例年通りにアナウンサーが絶叫して“感動”を押しつけようとしているのが、なんとも浅ましく見えましたな。走っている選手たちはアンタ(アナウンサー氏のことです)が思っているようなことを考えて走っちゃいないぜ、っていう風に迂生は考えますけど、いかがでしょうか。

 でも関東地方のローカルな駅伝大会をこれだけ全国区に押し上げた某テレビ局の戦略にはホント、頭が下がります(皮肉ですよ、念のため)。半世紀以上も前からのすごく遠大な計画だったとしたらそれこそ脱帽モノですが、多分、そんなことはなかったと思いますね。

 いずれにせよ優勝した青山学院大学の選手たちは日頃の努力が実ったわけて、すばらしいことだと思います。でもそれをお正月の風物詩とやらに仕立て上げた“大人たち”に対しては、その動機の不埒さがもう見え見えなことと相まって、大いなる疑問符を投げかけますな、わたくしとしては,,,。アマチュアスポーツのone of them の駅伝の、それこそ数多いる選手たちの一部を英雄のように持ち上げるって、いったいどうなのよ? 感動の押し売りはご免ですし、ヒーローだって別に待ち望んでなんかいやしません。そのあたりのメディア戦略に乗せられることほど不愉快なことはないでしょう。

 こんなふうに思いながら箱根駅伝を見ているひとって、世の中にはいないのでしょうかね(どうでもいいですけど,,,)。こんな感じですから、テレビもほとんど見ませんでした。

 ということで(なんのこっちゃ?)、このお休みには英文論文作りに精を出しました。しかしホント、マイクロソフトのワードっていうワープロ・ソフトにはイライラさせられます(毎度のことです)。貼り付けた図表がどこかに飛んで行っちゃうのは何とかして欲しいです。ニュージーランドの地震工学会への投稿を目指しているのですが、論文フォーマットのインストラクションにこの作業は「can be challenging and frustrating」って書いてあって、思わず笑っちゃいました。皆さん、フラストレーションの塊になりながら同じ作業に勤しんでいるのかと思うと、どれだけの資源の無駄なのか、途方もない徒労感に見舞われましたな、新年早々。

 こんな感じで不愉快な思いをしながらことしのお正月は静かに過ぎてゆきました。ワードに向かってこれだけ不平不満を並べるのだったら他のワープロ・ソフトを使えばよいのでしょうが、そこまでするガッツもないわたくしでございます。とにかく世界標準って、ものすごいことですね。


お正月二日め 〜電子計算機と心〜 (2017年1月2日)

 この年末年始には大学図書館で借りた『エニグマ アラン・チューリング伝』(アンドルー・ホッジス著、2015年8月、勁草書房)の下巻を読んで過ごしています。ここのところコンピュータ・ソフトが将棋や囲碁のトップ・プロに勝ったり、自動運転の車の開発が進んでいることからAI(人工知能)が話題になっていて、AIによる電子脳は人間を超えられるか、もし超えられるとしたらそれはいつか、ということがしばしば論じられます。

Aran_Turing

 しかしこれと同じ議論は実は約七十年前に電子計算機が開発されているときから既にあった、ということがこの本を読むと分かります。チューリングはまだ誕生していない電子計算機がいずれは「心」を持つだろう、ということを言っています。しかしその当時もこの問題は結局は哲学へと続く答えのない議論に終始したように思えます。

 突き詰めると生身の人間の「心」とは何か、その「心」はどういうメカニズムによって生まれるのか、という問いに答えることが必要なのでしょうが、最先端の研究によってもそれは依然として謎のままです。原理としては無数のニューロンのあいだに微弱な電流が流れて脳内の活動が励起されることによって何ものかが創出される、ということでしょうか。でも、そういったミクロな解釈を寄せ集め、組み立ててみてもマクロな現象=「心」にはならない。あれ? これって以前に書いた物理学の「壁」(例えば2015年2月5日の小話/こちらです)と同じことみたいですね,,,。

 以前にも述べたように、人間の脳が脳自身のことを語るのは不可能である、というのがわたくしの持論です。ですから脳が「心」を生み出すメカニズムをその当人が解明することはできない、ということです。このことを敷衍すると、人間がつくり出す電子計算機が人間と同じ「心」を持つことは永遠にない、ということになります。だって、解明できないものを人為的に再現できるわけはありませんからね。

 チューリングの伝記はまだしばらく続きますが、彼が到達した境地がどのようなものだったのか、彼はそこになにを見たのか、興味は尽きません。


お正月2017 (2017年1月1日)

 穏やかな新年を迎えました。明けましておめでとうございます。ことしが皆さんにとって素敵な年となることをお祈りします。お正月には今年の抱負っていうのを心に誓うことになっているようですが(実際、子供には聞いてみましたが)、半世紀以上も生きてくるとあまり思い付かないなあって言うのが正直なところでしょうか,,,。そうでした、研究室の再活性化っていうのはどうかな? 昨年末に三年生四名が我が社に配属になりましたので、手始めに彼らのオリエンテーションに力を注ごうと思います。うん!Good Idea だな、我ながら…。

 朝、お雑煮を食べて、暖かな陽差しを浴びながら新聞を開く。やがて年賀状が届くのでそれを見る。今どきは元旦からお店が開いているので、近所のスーパー・マーケットに行って夕方に食べるお刺身を買ってくる。冷凍で保存していたイクラの醤油漬けを取り出して常温に戻す……。こんな感じの元日でした。

 たまには少しくらいは飲んでもよかろうということで、日本酒をチョコッといただきました。秋田・新政酒造の「亜麻猫」という純米酒です。口に含むと甘みが大いに来て、そのあと酸が現われます。米の旨味をかなり感じつつ、余韻は酸と最後にかすかな苦み。基本として甘・酸のお酒で、これは評価が割れるだろうなと思いました。

 さて、恒例の凧揚げにことしも子供と一緒に行きました。近所のトンボ池公園です。お天気がよいこともあって親子連れがたくさん集まっていました。そのすき間を縫ってビニール製の凧をあげました。子供が(ちょっとばかり)成長したせいもあって、ことしは少しは凧が上がって嬉しかったです。相変わらず公園じゅうを駆け回っていましたけど,,,。なんだか動きがムダなんですよね〜。子供が凧を揚げているんだか、凧に子供が走らせられているんだか、よく分からん。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:北山家の写真:元旦2017凧揚げ:DSC01719.JPG

 こんな感じでことしの一日めが暮れてゆきました。ことしも元気で楽しく過ごしてゆきたいと思います。皆さま、本年もよろしくお付き合いのほど、お願い申し上げます。


Copyright (C) 2017 KITAYAMA-LAB. All Rights Reserved.