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■ 2009年版はこちら

 このページは北山の日々の雑感などを徒然なるままに綴るコーナーです。今日からは2010年版を掲載します。相変わらず不定期更新ですが、宜しくご了承下さい(2010年1月4日)。


年末叙景2010 (2010年12月29日)

 すでに御用納めも過ぎたが、我が社ときたら大型実験棟では試験体に加力しているし、研究室の学生諸君との研究打ち合わせの予定も入っている。今年は11月から12月にかけて二シリーズの試験体(全て平面十字形の柱梁部分架構であわせて9体)を作ったので、年末は慌ただしく過ぎていった。そのせいでこの二ヶ月くらい、研究室会議は休業中である。その代わり個別にゼミを開いているので、私としてはとにかく忙しかった。そんなわけで忘年会もせずに年を越すことになった。来年早々にJCI年次論文の締め切りがあるので、それが終わってから新年会でも開くことにしましょうか。

 ちなみに思い出してみると今年の2月に王磊さんの試験体を作ってその後に実験したので、今年は合計三シリーズの試験体を作製したことになる。よくまあやったものだと思うが、これも学生さん達が一所懸命に計画して、身を粉にして実行してくれたお陰である。せめてお正月くらいは餅でも食べながらゆっくり休んで下さい。

 ただ自分が大学院のM2だった頃を思い出すと、除夜の鐘を研究室で聴いて、正月二日には研究室に出て研究をしていた。暖房の切れた広い研究室内で、同級生だった李康寧さんと二人でパソコンとプロッターをガンガン動かしながら論文作りに邁進していたなあ。寒いので隣の輪講室のエアコンを最強にして、ドアを開け放して暖をとっていた記憶がある。

 今年は東大の塩原等先生からお声掛けいただいて、共同研究を行うことにした(塩原さんからは好きにやってよい、というありがたいお言葉をいただいた)。この十年くらい、議論・争論になっているRC柱梁接合部パネルの破壊機構についての研究である。塩原研での精力的な実験によって、塩原理論の妥当性あるいは問題点などもかなりクリアになったと思う。我が社では幸いにも、より現実に近い状態で載荷実験できるので、塩原理論を検証して従来の破壊機構との連続性やその限界について考察できれば、と考えている。塩原さんも、他の研究機関による追加実験や検証が不可欠だと考えたんだと思う。

 いずれにせよ従来とは異なる考え方で骨組の耐震設計をすることが必要になるかも知れない。この問題については学会のRC柱梁接合部WGで、主として楠原文雄さん(東大塩原研助教)が考えている。来年には何らかの原案が出ることであろう。

 それでは、よい年をお迎えください。また来年!


今年の本ベスト3 (2010年12月27日)

 今年も残すところ五日ほどとなりました。2010年に読んだ本から、ベスト3を考えてみました。今年はこのページで結構いろんな本の感想を書いたので、必然的にその中から選ぶことになりました。

 第一位は藤沢周平の『白き瓶 〜小説 長塚節〜』です。やはり藤沢周平の小説はいいですね。年末にNHKで『坂の上の雲』を放映していますが、このあいだの回で正岡子規が死にました。テレビでは子規の廻りの歌詠みとして河東碧梧桐らが登場していて、長塚節は出てきませんでしたが、子規の短歌の正統的な継承者は長塚節であると見られることもあるようです。この小説を読んでから、長塚節の小説『土』の文庫本を買いましたが、思った以上に厚くてかつ活字が小さくて読みづらいこともあって、本棚に寝かせたままになっています。来年になってから読むんだと思います。

 第二位は伊藤計劃の『虐殺器官』(ここここ)です。これを読んだときにはホントに驚愕しましたね。タイトルの物騒さやテレビ・ゲームの場面のような残虐な戦闘シーンなど、表面的には眉をひそめさせるような色彩を帯びています。しかし内容はそのような上っ面なものではなくて、太古から連綿と続く人間とか文明とかを人間を人間足らしめている源の器官である「脳」にスポットを当てて描いた作品です。

 第三位は中田整一の『トレイシー』です。事実は小説よりも奇なりとよく言いますが、太平洋戦争中の日本兵捕虜についてさえそんなに分かっていないのに、その日本兵捕虜を秘密裏に尋問する施設がアメリカ本土にあったなどということに驚きました。秘められた真実を掘り起こし、広く認知せしめた著者の功績は非常に大きいと思います。

 で、ここから先は選外ですが、『のぼうの城』(和田竜著、小学館文庫、2010)を挙げておきます。書評などで紹介され、ついに映画化されることになったので既に読んだ方も多いと思いますが、これは時代小説というよりは“戦国エンタテイメント”と言ったほうが良いような一大活劇だと思います。ほとんど誰も知らないような武将?(成田長親というひと)を主人公としたことと武蔵国・忍城の攻防戦を描いたことが、そのような“お話”を可能としたんでしょうが、とにかく胸のすくような場面が多くて、読んでいてワクワク、ドキドキしましたね。

 この小説が成功したのはそのような“お話”の場に、架空と言ってもいいような主人公側の面々に対するカウンター・パートとして、歴史上非常に有名な石田三成とか大谷吉継とか長束正家などを登場させたことだと思います。このような配役と忍城という場面設定とによって時代小説としての厚みが増したことは間違いありません。面白いという意味では、この小説もその通りです。


あきれ果てる (2010年12月24日)

 今、半藤一利著『ノモンハンの夏』(文春文庫)を読んでいます。このページでも何度か触れた、約70年前にモンゴルの草原で起こった悲劇を綴ったものです。これを読んでいて腹立たしいのは、旧日本陸軍の参謀本部の無策振りと関東軍作戦課の傍若無人の振る舞いです。まあ著者の半藤さんの書きっぷりのせいもありますが、とにかく陸軍大学校出の秀才たち(いわゆる天保銭組)のやりたい放題にはあきれ果てるしかありません。

 関東軍参謀の辻政信や服部卓四郎たちの独断専行と思い込みが、一般の兵士達を死地に追い込み、ひいては日本国そのものを滅亡へと導いていったのです。これは本当に恐ろしいことです。天皇さえも彼らの独善的な行動を止めることができなかったのですから。彼らは自分の所属する組織には忠誠を誓いますが、祖国のことなどは考えずにやりたいようにやったに等しいと思います。

 しかしガダルカナルの戦いもそうですが、東京の参謀本部にいる参謀達の机上の空論によって現場の将兵達は文字通り将棋の駒のように動かされ、働かされました。参謀達は暖かい布団で安眠をむさぼり、おいしい食事を摂っていたときに、戦争の現場では近代的な武器・弾薬もなく食料や水もなく、あるのは大和魂だけというお寒い状況でした。その挙げ句に命を落とさねばならなかったのです。全くもって噴飯ものです。ここまで来ると相手が秀才だけに余計にたちが悪いですな。

 現代でも国内トップレベルのエリートたちが官僚として実質的に日本の国を牛耳っていますが、彼らの組織保全本能とか縦割り主義とかセクショナリズムは旧日本軍中枢部のそれと全く同じように思えます。われわれ日本人は先の戦争(もう65年も昔のことです)を総括せず、反省することなく現在に至りました。このことを思うとき、日本の国を支配するひとたちの心底に亡霊のごとく沈潜している「亡国のメカニズム」が不死鳥の如くに蘇ることを危惧します。伊藤計劃の『虐殺器官』のように、そのメカニズムのスイッチが突然にオンになることをどうやって防げましょうや。使い古された言ですが、歴史は繰り返しますから。


小掃除 (2010年12月22日 その2)

 年末なので、普段いらないものを放り込んでいる納戸みたいな部屋(自宅の)を掃除するか、と思い立った(風邪をひく直前です)。建築学会の月刊誌『建築雑誌』は最近のものはホントにつまらないので、バンバン捨てていった。特集のタイトルだけ見て取捨選択したのだが、2009年10月号を何気なくパラパラとめくっていたら、その後に論文剽窃事件で学会を騒がせたある人物のインタビュー記事に行き当たった。

 そのひとはトルコ人だが東大・建築学科で助教をしていたひとで、科学者のみならずスキー選手、ギタリスト、宇宙飛行士候補者と多彩な人物であることが紹介されていた。ちょっとした好奇心でその記事を読んだのだが、そのなかでは至極まともなことを言っているし、問題がある人物とはとても思えなかった。敢えて言えば(その後の騒動のことが頭にあるので)、ちょっと虚言っぽいことを言うひとだな、という感を受けた。

 しかしその後の騒動は皆さんご存知の通り(論文剽窃とか経歴詐称疑惑とかで東大を解雇され、東大において重大な汚点を残した)なので、いったいどういう訳なのかと改めて訝しい思いを新たにした。そのひとのそれまでの活動はそれなりに知的でかつ魅力的だったからこそ新聞などでも広く紹介され、東大の教員にも採用されたんだろう。そのように知的レベルの高いひとが何故にそのようなことをしたのか(あるいは、する必要があったのか)、全く理解できない。

 と、そんなことをしていたので、結局部屋の整理はほとんど進まず、不用の雑誌類をヒモで縛った束が幾つかでき上がっただけであった。やれやれ,,,。


かぜ (2010年12月22日)

 風邪を引いてしまいました。猛烈な腹痛で唸っていました。週始めに休んだので、多くのひと達にご迷惑をお掛けしてしまいました。お詫びします。研究室の学生さん達との研究打ち合わせも伸び伸びとなってしまい、すいません。忙しいのでこの穴埋めも難しいところですが,,,。


先達の知恵 (2010年12月17日)

 昨日の夕方に、AIJ関東支部の地震災害調査連絡会の総会が開かれた。年に一度の開催で、今年で七回めである。例年、地震工学や地震防災分野の先達を招いてそのお話を拝聴する、という講演会を併設しており、今年は東北大学名誉教授の柴田明徳先生をお招きした。柴田先生は『最新耐震構造解析』という教科書で我々のあいだではご高名な先生である。私もそうだが、この本によって建物の振動とか耐震構造について勉強したひとは多いと思う。

 さて、柴田先生のご講演は耐震構造の発展の歴史ともいうべきものであった。そのお話は私のような歴史好きには非常に興味深いもので、不勉強な私の知らない内容が多くてたいへんに勉強になった。そのなかでも特に私が関心を持ったことをお話ししたい。

 ひとつは明治以前の日本で建物の耐震構造というものが考えられていたかどうか、というお話である。江戸時代には「火事と喧嘩は江戸の華」というくらいで、しょっちゅう大火が起こってその度に木造家屋は灰燼に帰したので、耐震構造など考えるはずもないと私は思っていた。しかし柴田先生のお話によれば、江戸時代中期に弘前城天守では筋交いを入れるという耐震補強が行われていた、ということでビックリした。

 また彦根城にある建物では「地震の間」というものがあって、地震のときの避難スペースとして使われていたらしい(それが耐震構造として適切かどうかについては柴田先生も疑問を投げかけていたが)。この「地震の間」については、本学の歴史研究室の卒論でそれについての研究があったのでその存在は知っていたが、もっと詳しく調べるとおもしろいかなと感じた。

 もうひとつはジョン・ミルン先生にまつわるエピソードである。彼はコンドル先生らと一緒に濃尾地震の被害調査に出かけ、その後に日本地震学会を設立したことで有名である。ミルン先生は日本に約二十年滞在した後に、英国に帰国してワイト島という小さい島で生涯を閉じたという。ところで柴田先生はそのワイト島に今年の夏に出かけて、ミルン先生の記念館やその住んでいた場所にまで行って当時の面影を偲んでおいでになったそうで、その写真を見せていただいた。

 歴史の現場にまで足を運ぶことの大切さや醍醐味は私も承知しているのだが、それでもイギリスまでわざわざお出かけになった柴田先生の情熱には満腔の敬意を抱いた。柴田先生の現地調査によって、ミルン先生は故国イギリスでも少しずつ関心を持たれるようになってきたことが分かり、よかったなあという気持ちになった。

 我が社でもここ数年、RC建物設計のパイオニア・遠藤於菟やお雇い外国人教師のJ.コンドル先生について研究(というか趣味?)を始めており、耐震構造とか地震工学の歴史についての研究の重要性を再認識することができた。今年の北山研には残念ながら歴史研究を担当する学生さんはいないが、少しずつでも研究・調査を継続していきたいと思っている。


さびしい授業 (2010年12月14日 その2)

 今日の「構造設計演習」の授業は、学生さんの出席者がたったの2名でした。この日の午後5時に「先端研究ゼミナール」の成果物であるポスターの提出締め切りが設定されていたこともあるでしょうが、それにしてもあまりにも寂しいですな。学生2名に対して教員も2名(私と高木次郎准教授)という、何とも贅沢な(ある意味、無意味に教員が配置されている?)次第でした。

 でも以前にも書きましたが、この授業科目が新設されて以来、受講者数は確実に減って来ています。ロードの割に単位数が少ないというコスト・パフォーマンスの悪さが、学生さんから敬遠されている一番の原因であるような気がしてなりません。計画分野とか環境分野の演習と較べて、構造設計という課題のもつ厳格性も学生からみると画一的で面白みがなく見えるのかも知れません。このあたりの分析を本気でやるべき時期に来たのかも?


悲しい時代 (2010年12月14日)

 今日は日本人が大好きな忠臣蔵の日ですね。われわれ日本人のメンタリティとして、忠義とか恩義とかにはホント弱いですよね。私が今まで読んだ忠臣蔵モノでは、池宮彰一郎の『最後の忠臣蔵』が面白かったです。これは確か、討ち入り後にただ一人生き残った寺坂吉右衛門の“忠臣蔵のその後”を描いた小説だったと思いますが、そのラストに涙が出た記憶があります。吉良上野介は巷間に流布するような悪人ではなかったということも、忠臣蔵に対する反発からか、よく言われることです。

 書こうと思ったのは、実はこのことではありません。今日、お昼頃に新宿駅から京王線に乗ろうと思ったら電車が止まっていて、笹塚駅で人身事故があって現在警察の現場検証中です、というアナウンスを聞きました。私は午後に授業があるために急いでいましたので、困ったなあと思って小田急線へと向かったのでしたが、これはよく考えれば、ひとひとりが自らの意思で命を絶ったという厳粛な事実を示していたんですね(合掌)。

 最近は京王線でもこのような事故でしょっちゅう電車が止まっているような気がします。景気が悪くて不安定な時代がその背景にあることは間違いないでしょうが、それにしてもあまりにも悲しい事柄です。文明が発展してわれわれの生活が豊かになったのは事実でしょうが、この国の陰の部分をあらためて垣間みた気がしました。


結構なExcursion (2010年12月13日)

 先日は東京都内を広く移動した。朝、虎ノ門に行って中埜良昭さんの会議に出席したあと、清瀬の大林組技研に行って勝俣英雄さんのところの壮大な実験を見学した。そこで慌ただしいスケジュールをこなしてから、南大沢の大学に行って授業ひとコマを行った(まあ、これが本務ですけど)。大学院の授業だったので、学生さんに頼んで開始時刻を通常より1時間半遅らせてもらった。こうして授業が終わったときにはもう宵の口といった時間になっていた。

 いつも思うのだが移動の時間って、バカになりません。普通のサラリーマンなら移動の時間も仕事のうちかも知れないが、私のような研究者は頭を集中的に使って何かを産み出すという仕事だから、机に齧りついてウンウンうなっていないと基本的にはダメである(ひとによって違うだろうが,,,)。でも電車に乗っている時間が長かったので、車中で講義の準備もできたし読書も十分にできたので、それはそれで良かったかも知れない。時間を上手く使うことを考えないとね。


不思議な会議 (2010年12月10日)

 それはえも言われぬ不思議な会議だったな。今まで全く無縁だった会議に、なぜだか幹事役として参加してくれと言われて、それじゃあ行くかという感じで初めて出席した。どんなひとが委員をやっているのか全く知らなかったのだが(委員長のお名前も知らずに引き受けた私も迂闊だったが)、行ってみて、こりゃ場違いだったかなとちょっと感じた。だって、見知った方はひとりしかいなかったんですもの。分野違いの門外漢、という印象だった。

 さて、審議が始まったがあまり討論が活発ではない。委員長が誰かなにか言ってくれ、と仰るので、じゃあというわけで折角出席したんだし何か言わないと参加した価値がないから、といつものように考えて発言した。しかしあまり反応はない。そのうち委員長や他の幹事の方が別の提案をして、それがそのまま決定事項となった。そんなことが二、三度続いて、だんだんと居心地が悪くなってきた。

 なんだ、それなら意見なんか求めずに始めから自分たちで原案を出して、それを審議すればいいじゃないか、と思った。そして私はハッと気がついた。この会議は、そもそもそのような上意下達の組織なんではなかろうか、と。今どきまさかそんなこともないだろうとは思うが、そのような雰囲気を感じさせる素地は十分にあった。うーん、どうするかな。任期は二年なので、引き受けた手前、やんたというわけにもいかないだろうから、のらりくらりとやり過ごすことになりそうである。

 でもよく考えれば、初めてやってきた新参者が何か言ったって、おまけにそれがどこの馬の骨か分からないのだから、その場のリアクションが悪くても当然だろう。あるSocietyが持つAtmosphereみたいなものは、やはり尊重しないといけないのかも知れない。だが、それは私には苦痛である(あちゃあ、困っただよ〜)。


ことしの先端研ゼミ2010 (2010年12月9日)

 3年後期の先端研究ゼミナールもいよいよ大詰めである。今までやっていた『知の論理』関係の課題とディスカッションは、今年はやらなかった。また「論文の書き方」みたいなペーパーの配布も取りやめた。あれもこれもと欲張りすぎると、学生さんが消化不良になって結局は何の役にも立たないことになるのを危惧したのが大きな理由である。ただ正直に言うと、それだけのガッツが出なかったというところもある。

 くじ引きによって北山研に配属になった今年のメンバーは三人とも男性という、はじめてのケースであった。毎年思うことだが個々の学生さんと話をすると、皆それなりにいろいろと考えていて、見どころのある学生ばかりである。で、今年の特徴はゼミをしているあいだ、全員で大笑いすることが多々ある、ということだろう。これは学生同士がそれぞれの資料に対して、質問したり意見を言いあったりする(単に突っ込みを入れているようにも見えるが,,,)なかで、自然と湧いて出てくるようだ。この点で、今年の先端研ゼミは少人数ゼミナール本来のつっこんだ討論が出来ているように思う。大変に喜ばしいことである。

 ゼミの風景? 北山研にて

 このゼミのなかで、ひとりの学生さんが防災街づくりに関する調査がやりたい、と言い出した。幸い、今年はAIJ関東支部の「横浜を歩く会」で東久保町地区を取り上げていたので、ここがいいねということになった。そこで横浜国立大学の松本由香さん(鉄骨構造が専門)に横国大の都市計画研究室に問い合わせてもらって、東久保町地区の和田会長さんに話を通していただいた。幸いにも和田会長さんは学生さんに会って下さることになったので、何とかゼミナールの成果を出せそうである。ご協力いただいた皆さんには大いに感謝しています。

 しかし何が役に立つか、ホント分かりませんね。多くのひと達の尽力によって現地調査ができるのだから、このチャンスを意義あるものとして活かして欲しいですな。


上がらない腕 (2010年12月7日)

 いやあ、いくら練習しても一向に上手くならないんです、っていう話ではない。物理的に本当に腕が上がらないのである。もう、三ヶ月くらいになるかな。右肩や右肘が痛くて右腕を自分の目の高さくらいよりもうえに上げられない。腕を背中に回したり、肘をひねったりすることもできない。多分、世の中でいうところの“五十肩”ってヤツだろう。

 先日、久し振りに駒場の頃の仲間と宴会したのでこのことを話すと、航空トリオの村上(JAXA)も西沢(こちらもJAXA)も田村(東洋大学)も口々に「それは五十肩だよ」と言う。彼らは皆経験者で、半年は直らないとか、そのうち馴れるよとか言うのである。経験していないのは天文学者の茂山(東大ビッグバン)だけであった。そうかあ、しばらくは痛いまま、ということなのか。

 キーボードを叩いたり、字を書いたりするのは大丈夫なのだが、一番困るのは講義中の教室でホワイトボードに板書するときである。いつも話しているように私は板書屋なので、これは相当に困った事態である。腕が上がらないので白板の上の方に字が書けない。そこでやむなくつま先立ちになって、バレリーナのように両足をプルプル震わせながら少しずつ横に移動しながら字を書くのだが、そのときに肩が痛いのなんのって、もう冷や汗もんです。でも学生さんには悟られないように、白板に向かっているときだけ苦痛に顔をゆがめている訳で、やせ我慢もいいところである。大声で「痛いぜよ〜」と叫べれば、気持ちよくなるかも?

 五十肩であれば、結局のところ放っておくしかないらしい。来年の春頃にはすっきりとしてブンブン右腕を回せるようになっていることを楽しみに待つだけである。


空を飛んだ男 (2010年12月6日)

 皆さん、江戸時代後期の日本に鳥のように空を飛ぶことを夢見て、それを実践した男がいたことをご存知でしょうか。すっかり忘れていましたが、今日たまたま新田次郎の『鳥人伝』(新潮文庫『梅雨将軍信長』所収)という短編小説を読んで、そのことを思い出したのです。それは備前岡山の表具師で幸吉というひとでした。その内容については小説を読んでいただくとして、私が何故これを取り上げたかと言うと、新田次郎の小説を読み進むうちにある記憶がだんだんと海馬の奥深くから蘇って来たからです。

 それは2004年の夏に読んだ『始祖鳥記』(小学館文庫、単行本は2000年に刊行)という飯嶋和一の長編小説です。飯嶋和一についてはこのページでも触れましたが、最近では『黄金旅風』や『出星前夜』(いずれも小学館)を執筆した、私の贔屓にする作家の一人です。彼のこの小説が、同じく鳥人・幸吉の物語だったのです。

 新田次郎と飯嶋和一とが同じ主題を扱っていた訳ですが(先に書いたのは当然ながら新田次郎で初出は昭和31年とのことです)、二人とも優れた作家ですから内容は全く異なります。しかし二人とも、遥か昔の日本で空飛ぶことに情熱を傾けたひとりの男に興味を持ち、その主題をふくらませて一編の小説に仕上げたということでは同じでしょう。

 主人公が名もなき市井の職人であったということが、豊臣秀吉とか徳川家康とかとは違うだけで、情熱を持ってひとつのことに打ち込みそれを達成した人間だけが放つ輝きは、やはり誰にとっても魅力的に映るのでしょうね。もちろんその魅力を正しくかつ生き生きと伝えるためには小説家の確かな腕が必要だった訳で、誰にでもできる所業というものではありません。


69年めの邂逅 (2010年12月2日)

 もうすぐ太平洋戦争開戦から69回めの12月8日がやって来ます。言わずと知れた真珠湾攻撃の日です。先日、『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』(中田整一編、講談社文庫、2010年11月)を読んで、久し振りにハワイ真珠湾での戦争を思い出しました。淵田美津雄海軍中佐は真珠湾攻撃のときの空中部隊総指揮官として、艦上攻撃機のコクピットからトラトラトラ(我れ奇襲に成功せり)を打電したその人です。

 彼の自叙伝を読むと、彼がいかに優秀な人間であったかが伝わってきます。そもそも当時の海軍の正規将校は海軍兵学校を卒業しており、それは百倍を超える競争率を乗り越えて突破できたエリートだけに許された栄達でした。現代の大学入試だって、例えば東京大学理科一類の競争倍率はたかだか3倍以下ですから(直接比較するのは妥当ではないかも知れませんが)、その難しさは容易に理解できます。

 彼は真珠湾攻撃後のミッドウエー海戦で九死に一生を得て、その後も原爆が投下される前日まで広島に滞在していたにもかかわらず当日は広島を離れて無事であったとか、原爆投下後の広島と長崎とに調査のために入ったにもかかわらず二次被爆の害を受けることがなかったとか、とにかく奇跡的に太平洋戦争を生き抜きました。これだけでも驚きですが、彼はこのような幸運はキリストの恩寵であることに気がついたそうで、戦後はキリスト教の伝道者として生きました。

 職業軍人からキリスト者への転身はすぐにはピンと来ませんが、もともと頭の良かった人ですからそこに至るまでには大いなる葛藤があったことは想像に難くありません。しかし煎じ詰めれば人間は弱い存在ですから、戦争中に自分がしたことの恐ろしさを知ったとき、その罪から逃れるためには結局は宗教に行き着かざるを得なかったのだと思いました。日本のために最後まで戦ったひとが、その後は世界平和の実現のために生きたことを知ったとき、戦争が如何に無意味で残酷かと言うことをまざまざと実感したのでした。


鳥取へ行く (2010年11月30日)

 日本建築防災協会の仕事で、初めて鳥取へ行きました。鳥取中央病院の耐震診断および耐震補強計画の妥当性を評価・判定する仕事で、今回は現地視察です。ちなみに部会長は壁谷澤寿海先生(東大地震研教授)です。

 鳥取中央病院では病院業務を続けながらのいわゆる「居ながら」補強ですので、その苦労たるや大変なものでした。病気の方には振動・騒音・塵埃は御法度ですし、手術や診察にも大いに差し障るため、綿密な施工計画と工法の選択とが必要でした。そのせいもあって工程は遅れ気味のようでした。


 本当は建物外部に取付ける予定の鉄骨ブレースの施工を拝見したかったのですが、上述のように遅れていたので、取付け基部のアンカー打設等のみを見ただけでちょっと残念でした。ご案内いただいた病院の方々、設計監理の伊藤喜三郎建築研究所、施工の清水・やまこう建設共同企業体の皆さんに御礼申し上げます。

 さて、帰りの飛行機までに時間があったので、せっかく鳥取まで来たことでもあるし、お約束の鳥取砂丘に行ってきました。鳥取中央病院からは目と鼻の距離です。この日は晴れているかと思うと急に暗くなって雨が降って来る、という日本海側特有の冬型の天候でしたので(弁当忘れても傘忘れるな、と地元では言うそうです)、砂丘はもの凄い風で砂が横なぐりで吹き付けてきました。お陰で頭が潮風と砂とでバリバリになった程です。鳥取に詳しい建防協・菊池部長もこんな嵐の日に来たのは初めてと言っていました。でも砂丘初心者の私は、大自然のなかの砂丘を満喫できて満足です。


 そのあと巨大な鳥取城趾を訪れ、戦国時代から江戸時代にかけての頃を思い描いたりしました。紅葉がとても綺麗で、久松山(きゅうしょうざん)の城山をもっと登ろうかと思ったのですが、途中に「クマに注意」という看板があって、上から降りてきたおばさんは熊よけの鈴をならしていたので、こりゃ本物だと知って断念しました。

 城趾の下のほうには、明治末に建てられた瀟洒な洋風建築が建っていました。仁風閣(じんぷうかく)という重要文化財で、なんでも片山東熊の設計らしいです(勉強不足かつ認識不足でした)。この日は休館日で残念ながら中には入れませんでした。


 こうしてあわただしい鳥取行は終わりました。でも今年はいろいろと出かけたので、私が未踏の都道府県はあと4県となりました。いつかは訪ねてみたいものです。


名前の英語表記 (2010年11月26日)

 先日の朝日新聞に、日本人の名前の表記についての意見記事が載った。日本人が自分の名前を英語表記するときに西洋風に名ー姓とするのはやめて、本来の姓ー名にそろそろ戻しませんか、という趣旨である。

 このことについては私も常々、不思議に思っていた。特に中国人の名前の英語表記が日本人とは違って姓ー名である、ということに気がついたときに、この疑問は頂点に達した。それ以来、私は英語論文で自分の名前を記すときには(日本人として)正しく姓ー名と表記している(論文を見てみると、1994年くらいから私が自分で書いた論文ではそうなっている)。しかしそうすると、日本人の名前は西洋人と同じように名ー姓と記されていると今まで思っていた外国人たちは、私の名字はKazuhiroだと思う訳で、事実、外国から来るメールなどで”Mr. Kazuhiro”などと記されていて、(私にとっては)笑止なことになる。

 ただ、英語の論文で”Kitayama Kazuhiro”と私が書いて提出すると、査読した日本人がわざわざ”Kazuhiro Kitayama”などと余計なお世話で直して来たりすることもあった。そうすると私は苦笑しながら、また元に戻すのが常である。しかし学内の英文紀要のときだけは、再度連絡が来てどうしても”Kazuhiro Kitayama”と表記せよ、とこれはもう強要されてうんざりした。

 新聞記事にもあったが、名前の表記は個人のIdentityに直結している。自分の名前を正しく伝えられないひとは、他人に対してもそのIdentityに無頓着と言わざるを得ないだろう。そのように思っている人が他にもいることを知って、私は嬉しくなったのであった。

 ちなみに新聞によれば日本人が自分の名前を名ー姓と記すようになったのは、明治維新後の西洋文明模倣の時期と一致するらしい。文明的な一等国になるために、まずは西洋のかたちから入ろうとした先輩方の苦労の痕跡だろうが、度々書いているようにそのような時期は遥か昔に過ぎ去った。もっと自分たちの文化に対して自信を持ちたいものである。


会社のやさしさ (2010年11月24日)

 先週末にアシス(旧入部工業)でRC十字形柱梁接合部試験体のコンクリート打ちを行ったことはここに書いた。私は滅多に行かないが、この日は土曜日だったので参加できた。で、例によって社長(村上のおじさん)といろんな話をした。アシスの社員はだんだん増えてきて、今では三十人を超えるそうだ。社員さんの面倒を見るのも大変だ、という話の流れから、ひょんな調子で「うちのトイレも全部ウオシュレットにしたんですよ」と村上社長が言い出した。

 しかし社長の親心でせっかく“綺麗なお尻”を可能にしたにもかかわらず、それを使わない(あるいは使い方を知らない?)社員さんが多いそうで、そのことを村上のおじさんは嘆くのである、「せっかくウオシュレットを入れたのに、どうして使わないんだ」と。いやあ、会社の経営も大変なもんですな。社員のお尻にまで気を使う優しさが必要なんですから。でもそこは苦労人のおじさん(社長)のことだから、先々を見越してそのような投資を行ったはずでしょう。おじさんの仕事の夢はどんどん広がって、少しずつだが確実に実現しているようなので、きっとまた進展があると思います。楽しみにしています。

 夕方になってさて帰ろうかというときに偶然、細川洋治先生にお会いした。なんでもアンカーに関する資料をアシスに取りに来た、ということであったが、こちらも旺盛な研究意欲に何とも脱帽した次第であった。

 帰りの常磐道は事故で大渋滞で、そこをやっと抜けたと思ったら首都高も高井戸までまた渋滞で、結局帰宅するのに4時間もかかって(往路は2時間だったのに)もうグッタリであった。


危機管理 (2010年11月19日)

 以下は昨日(18日)のことである。

 それは何の前触れもなく突然きた。研究室の窓から外を見ても、曇っているものの雷が鳴っている気配もない。うーん、この大学に来てから落雷時以外では記憶にない事態である。

 停電である。私はネットに接続してオン・ラインでデータを入力する作業をしていた。それが突然にコンピュータがキューンといって、画面が真っ暗になった。わお、今までやった仕事はどうなるんだ、お釈迦だな。電気が来ないって相当に困った事態であることを再認識した。でも、実験中じゃなくてほんとよかったなあ。

 これから教授会だといって、芳村学先生がエレベータのスイッチを押したところ、これは非常用電源装置が作動したらしくてちゃんと動いている。でもこれじゃ、教授会やる気分でもないんですけど,,,。停電から10分くらいたってから館内放送で「ただ今停電中です。原因は分かりません」とのこと。

 あっ今、大学の外から拡声器の放送が聞こえてきて、「八王子市の広範囲で停電しています。東京電力の変電所で事故が発生した模様です」と言っている。フェイル・セーフの機構が幾重にも張り巡らされた現代において、一カ所の変電所がダメになったくらいでこんな大事に至るのだろうか。

 部屋の中が暗いのでブラインドを全開にして見ていると、京王線はちゃんと走っていることに気がついた。電力の系統が一般のものとは違うんだろうな。ところでこの文章はバッテリ搭載のノートパソコンで打っているのだが、いつまでもこんなことしている訳にも行かない。

 何だか下界が騒がしい(大学の研究室棟は尾根筋に建っているので、大学構外はまさしく下界なのだ)。パトカーかなんかのサイレンの音がする。停電するといろんな不具合・事故が起こるのかもしれない。不幸なことが起きていなければよいのだが,,,。

 おっ、電気が戻ってきた。ここまで約30分であった。よかったあ。さてではこの文章をHPに掲載するか、と思ったのだが、大学の計算機センターにアクセスできない。本学のメイン・フレームはダウンしたままであることが判明した。

 正常に復帰するにはまだしばらくかかりそうである。自分自身の危機管理が全くなされていないことに、ちょっと呆然とした時間であった。

(追記)今朝(19日)の新聞を見たが、この停電事件に関する記事は全くでていなかった。いったいどうしたんだろうか?


万歩計 (2010年11月17日 その2)

 新しいiPodには万歩計がついていることを以前に書いたが、おもしろいのでいつもポケットに入れて歩数を測っている。で、今日はRC構造の講義があったので見てみると、講義中に何と1000歩も歩いていた。私は基本的に板書するので、横長の白板(マジックで書くホワイト・ボードのことです)の前を行ったり来たりする(学生さんにとっては右往左往する、かな?)。常々そのあいだは相当に歩いていると思っていたが、やはりそうであった。

 家から学校を往復するだけの基本歩数は八千歩、外に会議に出かけたりすると一万歩を軽く超えている。車に乗りさえしなければ毎日結構歩いていることになる。これって、やはり健康にいいんでしょうかね。自覚は全くありませんが。


隔世の感 (2010年11月17日)

 月曜日に設計製図のエスキースがあった。課題は青山に建つ美術館である。そこである学生さんのファサードを見ながら、「この放物線みたいな開口部は山田守みたいだね」と言ったら、きょとんとしている。一緒に見ている若い建築家の先生も「知らないなあ」と言っている。「伊東豊雄とかなら,,,」ともおっしゃっている。

 それで今度は私の方がビックリした。昭和初期の逓信省建築の流れを知らないのだから、当時の分離派(石本喜久治、堀口捨巳、滝沢真弓など)の建築思潮などは知る由もない。逆に私は最近の流行建築にはとんと無頓着なので、学生さんが「○○みたいな感じでやってみました」というときの○○を知らなかったりする(まあ、どっちもどっちみたいな感じもしますな)。

 しかし建築デザインの思想の歴史も、ご多分に漏れず“歴史は繰り返す”を実践していると私は思う。19世紀末のゴシック・リバイバルを引き合いに出すまでもなく、かつて一世を風靡したが廃れてしまったムーブメントが不死鳥のごとく蘇って、また一方の流行を形作ったりする。有機的な建築とか自然回帰の建築とかがその典型であろう。

 そんなことを考えるとき、若い学生さんたちにも是非とも建築の歴史を学んで欲しいものである。そのことが自分の設計を豊かにしてくれるはずだからだ。

 課題では具体的な敷地を与えているのだが、その敷地を活かした設計をしているひとが少ないのも気になった。そこで「鈴木博之先生の『地霊(ゲニウス・ロキ)』って知ってるかい」と聞いても、やはり返事は「?」であった。まあまだ二年生だからしょうがないとは思うので、これからいろいろと勉強してくれることを期待している。

 ところで私が学生の頃には、鈴木博之先生とか八束はじめとかマンフレッド・タフーリとかの書物や論説を読んでいたが、では現代の論客とはどのようなひと達なのだろうか。五十嵐太郎さんとかかな。どなたか教えて下さい。


クリスマスにはまだ早いのに (2010年11月16日)

 南大沢駅前から大学正門へと続くペデステリアン・デッキのクリスマス・イルミネーションが先週末に点灯されました。駅前にアウトレット・モールが店開きしてから、ここ数年は恒例行事になったようです。さすがにクリスマス・ツリーのライトアップはまだですが(15日の晩には灯りが入っていました)、それにしてもちょっと気が早過ぎますよね。もっともいろんなところでライトアップが始まっているようなので、ひとを集めてものを売りたい人達の戦略なんでしょうが。


 最近では10月末のハローウィンも全国的なイベントに格上げされたようで、日本の伝統行事はすたれてゆく一方なのに、縁もゆかりも無い欧米の習慣が取り入れられるというのは、いったいどういうことなんでしょうか。もうすぐ神嘗祭!とかいって、日本の伝統と精神風土に根ざしたイベントを盛り上げるべきである、とわたくしは思います。いったいいつになったら欧米盲信から脱却できるんでしょうかね。

 いずれにせよ、この時期からクリスマスなんて言っているのは、子供くらいのものではないでしょうか。世の中、そんなに浮かれていませんし,,,。


光あり! (2010年11月15日 その2)

 今朝登校してしばらく経ってから気がついたのですが、窓の外にあった足場がなくなって、陽光が燦々と室内に差し込んでいました。外の景色もくっきり見えます。いやあ、太陽の恵みってほんとありがたいですね。先週までは、7階だというのに窓の外を安全帯を付けていろんなものをジャラジャラ言わせた作業の方が歩いていましたので、やっと通常のなんにも無い7階に戻ったという感じですな。

 でもせっかく大枚をはたいて足場を9階まで掛けたのだから、窓拭きくらいやってくれたらよかったのに、とも思います。外壁のメンテナンスは為されたのでしょうが、窓の汚れはどうするんでしょうか。なんだか釈然としません。


サッカー大会 (2010年11月15日)

 週末に荒川の河川敷にある秋ガ瀬運動公園で開かれたサッカー大会に行ってきた。と言っても、子供の、である。子供は幼稚園のサッカー・クラブで遊んでいるのだが、そのクラブに指導者を派遣しているクラブ(まあ会社でしょうな)が主催する大会である。うちの子供の学年では、清瀬とか新座とか西東京とかから全部で5チームが参加していた。子供の幼稚園は多摩川べりにあるのに、わざわざ荒川くんだりまで出かけるのがまず大変であった。

 朝早いのが苦手な我が家は出発が案の定予定よりも大幅に遅れて、そのうえ環8の渋滞にハマってしまい、会場に着いたのは開会式が終わったあとであった。もちろんビリである。で、試合であるが、なんせ幼児のことだから前後七分ハーフである(ちなみに一チームは8人である)。また、うちの子供などはルールさえ分からないので、もうボールに向かって突進するだけで、自分のゴールの方に蹴っ飛ばしたりしている。

 それに大勢の子供がボールに密集するので、どうみてもラグビーにしか見えない(笑い)。そのモール?から、コロコロとボールが転がり出るとチャンスである。ひとりかふたりいる上手な子供がドリブルしてゴール!ということになることが多い。そうすると、ギャラリーのお父さんお母さんがもう大騒ぎである。はたから見ていると微笑ましいのだが、選手のご父兄の入れ込みようといったら、そりゃもうビックリしますぜよ、ご同輩。うちは初めて参加したので、そういうご父兄をただ口をアングリ開けて見ているだけでした。

 そんなレベルのサッカーなのだが(幼稚園児ですから当たり前ですが)、どういう訳か点を取れるチームとそうではないチームとが歴然と分かれて勝敗が着くのである。これはいったいどうしてなんでしょうかね。大会は総当たりのリーグ戦で勝ち点を競う方式なのだが、うちの子供のチームは三勝全勝で勝ち進み、最終戦でやはり三勝負け無しの強敵と対戦して残念ながら0−1で敗退し、準優勝に終わった。しかしその最終戦は強豪?同士の対戦らしくものすごい接戦になって、私たちも一喜一憂してちょっと熱くなったほどである。

 こうして目出度く銀メダルをゲットした息子は大喜びで家路についたのであった。夕方の帰りの車の中ですやすやとお休みになったのは言うまでもない。ほんと、子供が羨ましいです。


敦賀へゆく (2010年11月10日)

 福井県の敦賀へ行ってきました。初めてです。今年はAIJ大会が富山であったので、二度目の北陸探訪ということになります。敦賀は日本海に面し、福井県の中央部、琵琶湖の真北に位置します。そういうわけで東京からは新幹線で米原まで行き、そこから北陸本線に乗って敦賀まで、約3時間の道程でした。意外に近いですね。

 敦賀市の人口は約7万人で、これは奇しくも私の住む狛江市とほとんど同じです。JRの敦賀駅で下車してすぐに気がついたのですが、駅前に何もありません。大きなビジネス・ホテルが二つと、小さな旅館が幾つか建っているだけでした。富山駅と同様に駅舎の改築工事を行っていたこともあるでしょうが、それにしても賑わいのない寂しい駅前でした。

 ただ、駅前から少し歩くと北陸特有の雁木状の庇を付けた商店街が続いていました。ところどころに銀河鉄道999(松本零士)のキャラクター銅像が置かれているらしいですが(私は見ませんでした)、町おこしの一環でしょうかね。調布駅前の布田天神通りにもゲゲゲの鬼太郎たちの人形が置かれており、これを見に来るひとが結構いるらしいですから。

 さて日本海の冬の味覚と言えばカニですが、運よく11月初めに解禁となっていたので、美味しいカニをご馳走になってきました。で、カニが盛りつけられたお皿をよくよく見ると、カニの足に小さな黄色いタグがついています。これは、このカニが確かに敦賀で採られたことを証明するものだそうです。へえ〜、こんなところにまでtraceabilityが浸透しているんですね。もっとも敦賀まで来てロシア産のカニを食べさせられてもたまりませんが,,,。

 足についた黄色のタグ(左上)

 って、別に敦賀まで遊びに行ったのではありません。敦賀半島の先端にある、日本原子力発電(株)の敦賀発電所を見学に行ったのです。敦賀湾沿いの道路を北上して行くあいだの景色は素晴らしかったです。こんな風光明媚なところに原発を作ろうという発想はどのようにして生まれたのでしょうかね(これは非公式発言ですので、気にしないで下さい。私の実感を述べているだけですので)。

 駅前のホテル(10階)からの眺め

 敦賀発電所には1970年の大阪万博に送電したという由緒ある原子炉(1号機/2号機)があり、このうちのひとつがプレストレスト・コンクリート製の原子炉格納容器(PCCVと略します)で出来ています。この敷地からさらにひと山越えた北側に、新たに2基のPCCVを作るそうです。こちらは若狭湾に面しており、文字通りひと山越えると気候も激変しました(この日は猛烈な風と激しい雨に見舞われました)。

 その建設予定地(サイト)を拝見しましたが、その規模の大きいことといったらなかったです。先ほどから「ひと山越える」と言っていますが、人間ならいざ知らず、重機類や大型トラックなどを通すために、まず手始めにトンネルを作ったのです。そのトンネルを抜けると広〜いサイトが広がっていて、彼方には荒れ狂う波濤が望めました。大型ダンプが小っちゃく見えました。

 山を削って、その土で海を埋め立てて、道路を造って原子炉施設を建設して、荒れた山肌は再度緑を修復して、という作業です。その気宇壮大さには正直なところ唖然としましたな。しかしそのスケールの大きさと膨大な作業量とを思うとき、こんなものを自然界に作って良いものだろうか、という畏怖さえ感じたのです。人間が社会活動を行うためには電力が必要です。そのために石油を燃やすことが許されるような時代ではなくなりました。

 原発が必要なことは論理的には理解できますし、それがなければ皆が困ることも確かです。しかしそういう理屈を超えたものを感じました。人間が理解できるスケールってきっとあるんだと思いますよ。こういった様々な思いを抱きながらも、社会基盤の整備と自然環境との調和をはかってゆきたいものです。


 (2010年11月8日)

 いま、藤沢周平の『白き瓶 〜小説 長塚節〜』を読んでいます。彼の長編小説はおおかた読んでいて、これが残っていた大物だったので大事にとっておいたのですが、この秋にいよいよ読み始めました。司馬遼太郎もそうですが藤沢周平も故人なので、彼らの小説は大切に読まないとやがては読了!ということになってしまって、つまらないことになります。

 で、『白き瓶』の主人公の長塚節ですが、私は小説『土』の作者と言うこと意外には何も知りませんでした(もちろん、『土』も読んだことはありません)。しかし彼は小説家というよりは歌人として名をなしたひとで、伊藤左千夫と並んで正岡子規の愛弟子ということらしいです。この小説には石川啄木とか島木赤彦とか斎藤茂吉とか、その他にも私が聞いたことのない歌人達がたくさん登場します。

 しかしこの小説を読んで行くと、これは実は長塚節を主人公としながらも、藤沢周平による短歌論とか短歌批評であることが分かってきました。私には短歌は馴染みのないものですが、この小説を読み進むに連れて長塚節ほかのひと達の短歌が紹介され、それに対する解釈などを読むにつけ、明治以降の短歌の発展の様子なども分かります。

 また歌人だけで食べていけるようなひとはいなくて、例えば長塚は農業、伊藤は牛飼い、斉藤は医者という具合に本業?で稼がないと文芸活動をすることは難しかったようです。その本業での苦労もこの小説には描かれています。藤沢の『一茶』を読んだときに俳人って大変だなあと思いましたが、明治の歌人も状況は同じだった訳です。

 でも私は短歌が十編くらい並んでいるのを読むだけで、なんだか頭がくらくらして来ます。斎藤茂吉の有名な歌集『赤光』はなんと八百を超える短歌が収録されているそうで、とても読む気がおきません。長塚節はその晩年に斎藤茂吉から『赤光』の批評を書くようにせがまれたそうですが、その苦労がほんとに偲ばれます。

 そんなわけで短歌集には手が出ませんが、小説『土』くらいだったら読めるかもしれません。その前に夏目漱石が書いたという『土』の序文くらいからまずは読みましょうかね。

追記; 今朝の電車の中で読み終わりました。長塚節は37歳という若さで亡くなりました。旅と歌づくりに明け暮れた生涯だったそうです。死因は結核でした。現代のことを思うと、医学の進歩のありがたさを身に沁みて感じますね。


大学祭いま昔 (2010年11月5日)

 横浜を歩く会に参加した日には、わが大学の大学祭があった。南大沢キャンパスは駅前にあることもあって、大勢の方がおいでであった。で、毎年感心するのだが、大学祭を裁量している学生さん達は規律正しく自主的に行動し、キャンパスを汚さないように努力している。飲酒の慎みとか学内立ち入り禁止時間の設定、また大学祭終了後の清掃の徹底など、自分たちで差配して良くやっていると思う。


 それと較べて私が学生だった頃は、現役の学生さん達のように自律的に行動していたとはとても思えない。私は実は学部3年生のときには工学部の五月祭実行委員をやっていた。工学部2号館の地下にカビ臭い実行委員会室があって、いつもそこにたむろしていた。そのときに精出したことと言えば、いろんな会社や予備校に行って五月祭パンフレットに掲載する広告費を出してもらったり、コンサートの企画をたてたり、揃いのトレーナーを作ったり、とそんなことばかりだった気がする。

 もちろん工学部キャンパス内のサイン計画とかはやった気もするが、清掃に関しては全く記憶にない。今と較べてエコロジーとか環境に優しいとか、況や地球環境の保全などはまだプロパガンダされておらず、なんにつけおおらかだったのかもしれない。


使い勝手 (2010年11月3日)

 新しいiPod nano を10月中旬に買った。大学の生協で買ったのだが、生協のお姉さんがたに「先生が最初に買ったひとです」と言われた。性能の割には安くなったと思うのだが、学生さんにとってはちょっと微妙な値段だろう。ちなみに私にとってはこれが三台めのiPod nanoで、容量が4GB(ピンク)から8GB(ターコイズ・ブルー)へ、そして今回が16GB(ダーク・ブルー)と値段は少しずつ安くなってきたと思うが、容量は倍々で増え、形はと言えばどんどん小さくなった。



 既に新型を持っているというお姉さんは「あんまり小さくて、ポケットに入れたまま洗濯しちゃいそうです」と話していたが、確かに小さくて軽くなった。FMラジオも聞けるし、歩数計にもなるという具合で、機能も増えている。

 で、問題の使い勝手であるが、今までのホイールをクルクルと回す方式をやめて、iPhoneなんかと同じ形式だろう(私は持っていないので知らない)が、画面を指で撫でながら操作するようになった。しかしすぐに私はかなりの違和感を抱いた。一番の問題はボリューム調整を本体側面についた二個のボタンでするようになったことである。今までのiPodではボリューム調整もホイール・クルクルでできたので、一連の操作に連続性があって直感的にも使い易かった。流れるような動き、とでも言うんでしょうか。

 多分、今回の方式を採用するにあたって、アップルには基本的な考え方の転換があったように思う。すなわち今までは片手で操作することを前提としていたが、新型では基本的には両手を使って操作するという体系に変更したのだろう。片手でボディを持って、もう一方の手で画面をタップしたり撫でたりするのである。この操作が結構デリケートなので、手のひらに乗せてその手の親指だけで操作するのは(私には)難しい。二個のボリューム・ボタンも、押すときに反力を取らなければならないのでボディをホールドする必要があり、片手での操作は難しい。

 このように、新しいやり方ははっきり言って不便である。今までであれば、荷物を持っていたり傘をさしていても片手で操作できたので、とても便利であった。アップルとしてはiPhoneとの連続性を重視したのであろうが、iPhoneはかなり大きいこともあって、もともと両手で使うように設計されていたと思う。しかしiPod nanoは音楽を聴いたり、写真を見たりする機能に特化しており、小さいボディを片手で操作するということにアドバンテージがあったはずだ。

 使い勝手はとても大事である。極めて秀逸なアイデアであったホイール・クルクル(これだけで基本的には全ての操作が可能)を是非とも復活して欲しい。ボタンでボリュームを調整するなんて全然スマートじゃないよ。皆さんはどうお考えでしょうか。

(追伸) しばらく使ってみて、何とか片手で主要な操作はできるようになった。でも、画面のタップは親指ではやはり難しい。二個のボリューム・ボタンは武骨だが、ボディの持ち方を工夫すると意外と使い易いかも知れないと思うようになった。要は馴れでしょうかね。


講義の出前 (2010年10月29日)

 都立新宿高校に講義の出前に行ったことはすでに書いたが、このときに同時に開講された講義はどんなものだったのだろうか。知りたかったのだが、さすがにその場で初対面の他大学の先生方に尋ねることはできなかった。ところが講義室(普通の教室です)にゆくと、本日のメニューが黒板に貼ってあった(もちろん新宿高校の高校生用に)。やったあと思ってそれをデジカメに撮影してきたので、以下にそのタイトルを書いておく。

・ 法学部で学ぶこと(明大法学部)

・ 早稲田大学商学部で何を学ぶか

・ Your World(上智大学外国語学部/外人の先生でした)

・ 文学とスポーツ(青山学院大学文学部)

・ 教育って何だろう(東京学芸大学教育学部)

・ 昆虫の天敵を使って害虫を防ぐ「生物防除」の話(東京農工大学農学部)

・ 極限環境微生物と極限酵素(東京海洋大学)

・ 移動ロボット工学入門(明大理工学部)

・ 大学の建築都市コースで何を学ぶか(北山)

・ 光学異性と医薬品(千葉大学薬学部)

・ キャリアを考える(慶応義塾大学総合政策学部)

これを見ると分かるが専門的な講義をしたひとは少数派で、私を含めて多くの大学教員は「何を学ぶか」のような総論を話していたのである。ただ上智大学の外国人先生(日本語も達者でしたが)だけは、Your Worldじゃどのような内容のお話か分かりませんね。いずれにせよ大学の模擬講義とは言ってもやはり高度な内容は高校生には無理なので、このような入門編となるのだろう。


ヒーターの秋 (2010年10月29日)

 今週は急に冷えましたね。我が家は寒がりなので、この秋初めてリビングルームのメイン・ストーブをつけました。石油をもの凄く消費する古いタイプのもので、地球には優しくないヤツです。それまでも小さなガス・ストーブはちょこちょこつけていたのですが、女房曰くあんまり寒いので、とのこと。夜に帰宅すると、ストーブがガンガンと音をたてて燃えていました。

 でも、北海道では雪が降っているのに、沖縄には台風が来ているという、日本がいかに南北に長いかを再確認させるような気候ですな。猛烈に暑かった夏といい、今年は気候が不順でこの先もどうなるのか、ちょっと怖いです。

 ところでいま研究室では二シリーズの実験研究が同時に進行中で、これからともに試験体を作るところです。例年通り、やはり寒い時期に実験をすることになりそうです。ひずみゲージの費用が思いのほかかさ張って、研究室のお財布は破産寸前です。まだ秋だっていうのに、これじゃ益々「寒い冬」を迎えざるを得ないようです。おおサブっ。


英語を考える (2010年10月25日)

 英会話か英文解釈か、どちらを優先させるべきかという議論はそろそろ止めにしませんか、という主張がいつぞやの朝日新聞に載っていた。その先生は、英語の背景となる文化に対する理解は脇に置いといて、意思疎通手段として割り切って英語を使いましょう、と言っていた。ネイティブが聞いたら首を傾げるような英語(例えばtheの使い方)でも気にせず、英語を母国語としないひと達が利用する分には些細な事柄は問題にせず、新しい世界共通語としての英語を皆で産み出そう、という趣旨であった。

 英語教育に関する私の考え方は以前にこのページにも書いたが、言語と文化とを切り離して考えるという視点は私にはなかったので、なるほどなあと思うところが多かった。アングロサクソンの話す英語とは違った“英語”でよい、ということになれば相当に気が楽になる。農耕民族は農耕民族の、騎馬民族は騎馬民族の、それぞれの文化に基づいた新しい“英語”を話してもよいのである。

 だがこのときに問題となるのは、英語を母国語とするひと達がそのように真のコスモポリタンとなった英語を許容することができるか、ということだろう。彼らにとってはそれは多分に“変な英語”だろうから、それに対する嫌悪とか侮蔑とかを排除することは難しいのではないだろうか。

 すなわち冒頭のような試みの成否は、ネイティブ達の心映え如何にかかっていると言える。彼らにとっては英語は自分たちの生活に根付いた文化そのものなのだから、そこから切り離されて浮遊する新たな“英語”を聞いたときに、違和感から拒絶へと至る道程は結構短いのではないか。われわれ“外国人”がいくら意思疎通のための道具としての英語、と言ったところで、彼らがそれを受け入れなければ結局差別としての英語はなくならず、対等な付き合いは望むべくもないということになる。

 ここまで来て、言語と文化とを分離して考えることはやっぱり困難なことがらであると思えてきた。かつて万国共通の言語としてエスペラント語というのがあった。これはどの文化にも基づかない新しい言語だったのだろうが、その特徴が逆にあだとなって結局どこの国のひと達も話すことはなかった(この推論の正否は知らない)。かように言語と文化とは不即不離の関係にあるのである。


思わぬひと (2010年10月22日)

 昨晩は岡田恒男先生の建築学会大賞の受賞記念祝賀会が帝国ホテルであった。広い会場だったにもかかわらず、文字通り立錐の余地もないような混雑ぶりで、なんと400名以上もの参加者があったそうだ。これも岡田先生の気さくで気取らないお人柄のなせる業であろう。ちょっと歩くと必ず誰かとぶつかるような具合で、ほんとに歩き回るのが大変なくらいであった。

 で、この祝賀会では、日頃よく会う顔、久しぶりの顔など多くの人たちとお会いしたのだが(境有紀さんとはわずかに顔を合わせたくらいで失礼しました)、そのなかでちょっと異色?と思うような方に出くわした。

 おひとりは鈴木博之先生(東京大学名誉教授で現在は明治村館長)である。西洋建築史とか近代建築史とかがご専門で、博之先生についてはこのページでも何度か紹介した。私にとってはいわば“プレ師匠”である。博之先生は私のことはお忘れだろうが、私にとっては忘れ得ぬ先生なのでご挨拶した。でもすぐに私のことを思い出されたようで、「あなたは構造分野には珍しい文化人だから」などと仰っていた、あはは。でも構造分野も結構文化的ですけどね(とは、さすがに申し上げなかったが)。もっとも構造分野の斯界では、私は文化人とは思われていないだろうから、この認識のギャップがちょっと面白いですな。

 もうひとりは後藤治くん(工学院大学教授)である。彼は大学のときの同級生(すなわち、この日の司会だった中埜良昭くんとも同級ということ)で、日本建築史が専門である。なぜ彼がこの祝賀会に参加していたかというと、香川県にある皆行社の木造建物の改修で岡田先生と一緒に仕事して、それ以来、岡田先生と後藤くんとは友人になったためである(これは以前に岡田先生から直接伺っていたので、このことをすぐに思い出した)。でも、さすがに後藤くんに会うまではそんな経緯は忘れていたので、遠くからニコニコした奴がやあやあ言いながら来たときには、はじめは誰か分からなかった。

 彼からは、来年4月に発足する建築学部についての苦労話を伺った。彼曰く、工学院大学は崖っぷちにいて起死回生の一打として建築学部で打って出る、なんて言っていた。どこの大学も学生集めとかレベル・アップとか魅力作りに腐心していることがよく分かった。その苦労が報われることを祈りたい。

 蛇足だが、ここでまた小谷俊介師匠から爆弾をいただいた。例の改定RC規準についてのご質問であった。突然うしろから声をかけられ「北山くん、暇だったから今度は19条(耐震壁のところで、壁谷澤寿海先生が主に執筆したところ)を読んでみたよ。質問をたくさんメールしたから、返事をたのしみに待っているよ」とのこと。うひゃあ〜、またですか〜。でも、今度は私が主担当者でなくてよかった(本音です)。そして今朝登校してメールを開いてみると、確かに小谷先生からなが〜い質問メールが届いていたのでした。ありゃりゃっ。


やりたいもの探し (2010年10月20日)

 筑波大学の境有紀さん(誕生日、おめでとう/お互い歳をとったな)のページを見ていたら、“やりたいもの探し”について記されていた(結構大変だが面白いとあった)。彼自身がやりたいもの探しで苦労したらしいことはいろんなところに書いてあった。そこで、では私自身はどうだったかということをふと考えてみた。そうして思い出そうとしたのだが、どうもはっきりとは思い出せない。ということは、特段にやりたいもの探しで苦労しなかった、ということだろうか。

 で、よくよく考えてみると、どうも積極的に今の専門を選んだというよりは、消去法によってたどり着いた、というのが本当のところみたいだ、ということに気がついた。

 大学に入るときには理科系のコースに所属したが、そのときには数学とか化学とか、航空とか都市工学とか建築などをやりたいなあと漠然と考えていた。大学に入るまでは数学が好きだったが、大学の教養学部で線形代数とか解析学とかの初歩を勉強し始めると、まったく分からない。先生がコンパクトとか、エクスプリシットとかいろいろ仰ることの概念もさっぱり分からない。じゃあ、数学の専門書を読んで勉強してやろうと思って、教養学部の図書館でブルバギの『数学原論』という書籍を借りて読み始めた。

 するとある時、そのことを知った同級生の斉藤君が「北山、あれ(『数学原論』のこと)読んだんだって」と話しかけてきて、それについての感想みたいなことをべらべらと聞かされた。実は私はその本を読み始めたのだが、案の定さっぱりわからずに閉口して返却したのである。ところが斉藤君にとってはその内容は十分に理解できたらしく(すごいなあ、と思った)、私を同学の士と勘違いして話してくれたようであった。そのとき私ははっきりと理解した。数学は斉藤君みたいなひとがやるべき学問であって、私には無理であると。(残念ではあるが)この選択は正しかったと思う。なぜなら斉藤君はやがて理学部数学科に進むとそのまま大学に残り、若くして東大教授となったからである。

 そんな訳で数学からは早々に撤退した。次に都市工学であるが、当時叔父が都市工学科の助教授をしていたのでいろいろと話を聞いていたのだが、あまり魅力的な話をしてくれない(教員同士の仲が悪くて研究が思うように進まない、みたいな内容だったと思う/もう時効でしょうな)。また、都市工学科は工学部にあるにも拘らず、文系的な内容も根強いことから“文科IV類”なんて揶揄されていたこともあり、やめようかなということになったのだろう。航空工学については、多分物理が主要なツールなんだろうと思って、こちらも早々に見切りをつけた(と推測する)。高校の頃には物理が嫌いだったからである。

 建築については家にいろいろな本があって、近代日本の建築家全集とか、G.ギーディオンの『時間、空間、建築』などを読んだりしていた。駒場では広部達也先生が主催する自主ゼミが開講されていて私も出席していたのだが、広部研の大学院生たちがコルビュジェとかルイス・カーンなどの作品のスライドを映しながら熱く語るのを聞いて、建築って奥が深いなあと感心した。

 こんなわけで、あれこれと消去していくうちに残ったのが建築だった、という感じである。しかしこうして選んだ建築ではあったが、二年後期に建築学科に進むことが決まって駒場での設計製図の初歩を学び始めると(学びの場は確か駒場の2号館だったような気がする)、広部先生と横山正先生による猛烈な課題の嵐に遭遇した。その科目では多数の課題がオーバーラップしながら重畳的に課されるので、息つく暇がなかった。こんな殺人的なスケジュールをよくぞ組んだなという感じである。木造のコピーは吉村順三の軽井沢の別荘だった。RCのコピーは槙文彦先生の代官山ヒルサイド・テラスとル・コルビュジェのラ・トゥーレットの修道院だった。これらは面倒だったが何とかこなせた。

 ところが、パースの課題になってこれには心底から閉口した。上記のラ・トゥーレットの修道院とフランク・ロイド・ライトのロビー邸がパースの課題だったが、与えられた平面図と立面図とを用いて、透視図法に従ってひとつずつ点をプロットしては作図するという、今思えばバカ正直な方法で作図を試みた。しかし製図板の上で平行定規と三角定規および三角スケールを使って作図したことがあるひとならすぐ分かるだろうが、A1版くらいの大きなサイズの紙の上でも容易に作図誤差が蓄積して、どこかで必ず齟齬が生じてしまう。その処理が私にはもの凄い苦痛で、大概はその部分でパースがおかしくなってしまった。

 いずれにせよこの“全点プロット方式”には膨大な時間が必要で、私はそのためにしばしば徹夜してそのまま登校するというハメに陥った。もう、つらいの何のって。自室の壁に張り付けた課題表を睨みながら、ため息をついたものである。そこで友人たちの話を聞いてみると、そんなバカ正直な方法で作図しているひとはあまりいなかった。剛の者になると、(図面ではなく)写真を見ながらこーんな感じかなあとか言いながら、それなりのパースを(それでも私よりははるかに上手く)仕上げていた。

 こうした苦労の末にやっと課題を提出したのだが、上述のようにどこかしら歪んだパースになっていて、そのうえに周辺の情景描写がまたヘタだったので、それを見た広部先生から「カエルはいないかなあ」などと揶揄される始末で、もう踏んだり蹴ったりであった。

 かようにこの半年は私にとっては本当につらい半年であった。何度、建築学科に進むことを辞めようと思ったことか。でもその度に私は、こんなパースぐらいで建築進学を諦めたらそれこそ後悔するぞ、と思って頑張ったのである。でも、コピーとかパースごときの課題をそんなに多数(ヒステリックと言ってもよいだろう)出題するやり方は、ちょっとやり過ぎではなかっただろうか。

 ただ良かったことと言えば、名作といわれる建築の幾つかをじっくりと見て、考えることができたことである。上述のコピーとかパース作図の対象となった建築名は全て覚えていて、すらすらと記すことができた。それくらいインパクトがあったと言うことだろう。得たものがあったのだから、それでいいじゃないかと言われそうだが、それ以上に苦痛と恨みのほうが勝っていたと思う。

 というわけで、やっと見つけた“やりたいもの”が危うく掌中から逃れるところであった。今思えばこれが最初にして最大の危機だったような気がする。

 でも、本当に建築が心底からやりたいことだったのかどうか、それは今まで述べてきたような経緯を振り返るとき、どうにも心もとない。もし医学部に受かったら医者になったかも知れないし(私は血を見るのが嫌いなので無理でしょうけど)、もの書きになったかも知れない。なので“天職”などというものが存在するとは、私には到底思えないのである。

 私自身の性格を分析すると、くよくよとものごとを考えることはせず、その時に「これはいい」と思ったことは実践し、あとは脇目を振らずにしばらくはそれに専念し、常に楽天的にものごとを考えている。私のような凡人は、あれこれ目移りしていろんなことに手を出しても、結局はどれもモノにはならないだろうということを感覚的に理解している。すなわち、これこそが自分のやりたいものである、などと考えて自分自身を追い込むようなことはして来なかったということだろう。


けものみち (2010年10月19日)

 うちの大学は多摩丘陵の尾根筋に築かれている。これとは直接関係ないのだが、キャンパスの中には大学が指定した通行路以外の“けものみち”が結構たくさんある。通路でないところを人間が歩くことによって、やがて道のようになってきたもののことである。わがコースの卒論でこの“けものみち”を調べて考察した学生さんまでいたくらいである。

 で、私が通勤時にいつも利用するけものみちがあるのだが、当然舗装されていない土の路面のため、雨が降ったりすると泥濘と化してとても歩けなくなる。でも、けものみちは通常はショートカットとして発達するので、通れなくなれば迂回するだけである。

 ところが今朝そこを通ろうとしたら、なんとアスファルトで舗装されているではないか。幅1メートルくらいでそこだけ黒色のアスファルトがきれいに敷かれていた。このけものみちが有用であって多くの人たちが利用していることを大学当局も理解して、公式の通路に“昇格”させた、ということだろう。おかげでとても歩き易くなったが、植え込みの真ん中を黒い筋が走るようになって、ちょっと無粋な気もします。当たり前ですが、利点もあれば欠点もある。ただどうせやるなら、もう少しデザインして周辺と溶け込むように工夫して欲しかったですな。ランドスケープ・デザインとか景観設計とかが建築にも土木(本学では都市基盤環境と呼ぶ)にもあるんですから,,,。


暗い窓 (2010年10月15日)

 私がいる大学校舎の外壁をメンテナンス中であることは以前に述べた。いつからか窓の外に足場が立って、さらに、薄暗く向こうが見えるシートが掛けられた。7階の窓の外側を作業するひとが歩くことにももう馴れてきた。しかし、しばらくはあまり気にならなかったのだが、やがて何となく息苦しさを覚えるようになった。窓から外を見ても、晴れているのか曇っているのか、それとも雨なのか、皆目分からない。

 設計製図のエスキースで学生諸君には無窓室を作っちゃいけないよ、と言っているが、太陽の光が射さない部屋に長期間いることの精神的なダメージとか心理的な影響とかは相当なものであることを、今わたしは実感している。はやく光を、とぶつぶつ言いながら仕事をしているのだ。


ありがた迷惑? (2010年10月15日)

 今朝は車で通勤したのだが、赤信号から発進したときに、車内のスピーカから女性の声で「急発進です。安全運転に注意しましょう」というフレーズが流れてきた。初めて聞いたので、思わず「あっ、すいません。気をつけまーす」と答えてしまった。

 後ろから煽る車がいたので、こいつからちょっと離れたいなと思ってアクセルを心持ち踏み込んだのを、車くんがするどく察知したのだろう。ドライブ・コンピュータがアクセルの瞬間開度とかガソリンの瞬間噴射量とかを判断して、こういうアナウンスを流すのだろうが、ちょっと余計なお世話じゃないですかね。

 テクノロジーの進歩でいろんなことが可能になって便利にはなった。確実に安全面にも寄与していると思う。でも、例えばワープロのMSワードで、勝手に変換を変えられてしまったりすることに代表されるように、放っといてくれとか好きにさせてくれ、という所謂“おせっかいもの”が多くなってきたのも事実である。このあたりの絶妙な案配を判断してくれるアルゴリズムが登場してくれるとありがたいなあ、と思っているが、皆さんいかがでしょうか。


回転寿司2 (2010年10月14日)

 回転寿司恐るべしということを以前に書いたが、またまた子供が回転寿司に行きたいという。さすがに以前行ったスシ○ーはあまりに安すぎて怖かったので、今度は調布駅南口にある某寿司店に行った。しかし子供は結局はクルクル回るコンベアを面白がるだけで、たいしてお寿司は食べなかった。ベルト・コンベアの上のものをいじっていてお店のひとに注意されたりした。カッパ巻きと卵焼きが好きという、なんとも安上がりな息子である。まあトロとかウニとかばっかり食べられても、それはそれで困りますけど,,,。

 で、お勘定を済ませて外に出ようとすると、先生、先生というひとがいる。でもこんなところに私の知り合いがいるわけもないようなあ、と思って聞き流そうとしたら、建築の学生です、先生のところで先端研ゼミを受けた、、、と彼が言ったところでやっと思い出した。それは建築都市コース4年生のIくんであった。どうやら彼はそのお寿司屋さんでアルバイトをしているらしい。

 宇都宮にいるときには何度か学生さんがアルバイトしているお店に飲み食いに行ったことがあったが、東京は広いので南大沢以外で学生さんがバイトしているお店に入るような偶然に、本当にビックリした。

 そのお寿司屋さんの彼は大学院に進学することになっているが、大学院生になってもバイトを続けるのかと尋ねると、続けるかもしれません、お寿司が好きですから、との返事。そうかあ、お寿司屋さんでアルバイトするとお寿司が食べられるんですね。別れ際、先生また来て下さい、今度はサービスしますから、という営業トークも忘れない彼であった。


履修相談 (2010年10月13日)

 研究室で仕事をしていると二人の学生君(いずれも二年生)がやって来た。なんでも履修のことで相談があるという。教務の担当は永田明寛先生なのだが、彼が不在だったので直ぐそばのドアの開いている研究室に入ってみた、というところらしい。

 まあ私も建築都市コースの教員のひとりだから、履修のことくらい分かるだろうと思って、どれどれ言ってみなさいと鷹揚に構えてみた。で、聞いてみると、教養プログラムの履修の縛りについて分からないというのだが、よくよく見てみると確かにそれは、あらゆる条件を想定した記述にはなっていなかった。うーん、困ったね。しかし常識的に考えることは可能で(当たり前ですが)、そのように読み解くんだろうね、というふうに伝えた。

 でも、後からよくよく考えてみると、その学生君の「履修の手引き」の解釈は相当に自分に都合の良いような解釈であって、昔だったら誰も想像もしないような解釈だろうな、ということに気がついた。ただ近頃は日本でも文書にした契約が重視されるようになって、毎年新入生に配布する「履修の手引き」も学生諸君との契約だ、などと言われることを考えると、きわめて良いとこ取りの手前勝手ではあってもこちらが想定しているものとは異なる解釈が可能であってはいけないのかも知れない。あれはだめ、これはいい、とゴチャゴチャと記述しないといけないんでしょうか。

 いやあほんと、昔の(っていつの頃かは明瞭ではないものの)おおらかだった頃の大学が羨ましいですな。


十月のはじめの頃 (2010年10月12日)

 このあいだ書いたように後期は授業が目白押しなので、十月のはじめに第一回の講義がひと通り終わるとほんとにホッとする。夏休みの二ヶ月間は講義がなく、こちらも久し振りなので結構疲れる。感覚が戻っていないので必要以上に大きな声で話したりするからだと思う。

 で、今年の三年生の授業だが、私が関わっているものは全て昨年よりも受講者数が減った。RC構造、構造設計演習、建築構造実験のどれをとっても、三年前から徐々に減ってきている。昨年も書いたように、新大学(首都大学東京のことです)になって学生諸君の履修Behaviorが明らかに変わってきているのが最大の原因だと思うが、授業とか演習とかの大変さに較べてコスト・パフォーマンスが悪いという先輩からの伝言?もあるのではないか。

 私が担当する選択科目『RC構造』では、この授業はAdvanced courseなので出席はとらない、講義には出ても出なくてもよい、期末試験だけで成績を付ける、と言っているのだが、これがまずいのだろうか。しかし学費を払うことによって勉強しようという意志を表明している学生諸君が、われわれ教員の提供するサービスを享受しようとしない、というのは理解の域を超えている。

 昔は学生が講義に出ないのは当たり前のようなところもあっただろう。しかし最近では学費に見合っただけの講義を受けて知識を修得し、きっちりとキャリアを形成するという姿勢に転換している。そのため、うちの大学でもそうだが休講は原則として出来ず、休講した場合には補講することを求められる。だが、我が大学は公立大学なので私学に較べれば学費が安いため、学生さんの権利意識が低いのかも知れない。

 それとも、いっそのこと全ての授業を必修科目とするか。小学生じゃあるまいし、さすがにそんなことはやりたくないと思うが、建築についてのひと通りの知識を修得することなく卒業するようでも困ると思っている。


ハッピー・マンデー (2010年10月11日)

 今日は体育の日で、我が家では子供の幼稚園で運動会がありました。二、三日まえの雨が嘘のように晴れ上がって、暑いくらいでした。午前中は幼稚園のグランドでビデオ撮影に励んでいましたが、お昼前にはお弁当を慌ててかき込んで、大学に出勤しました。

 世間ではハッピー・マンデーでしょうね。ところが大学では、ハッピーではありません。なぜならこのお陰で月曜日の授業が休講になることが多くて、半期の授業回数をこなせなくなって、その結果、世間ではお休みなのに大学では授業する、ということになるからです。多分、多くの大学では今日は講義をやったんだと推察します。

 せっかく家族そろって運動会に参加しようと思っていたので、ちょっとガッカリです。女房からは午後にある親子競技の写真を撮るひとがいなくなって困る、とか言われました。今日の午後は設計製図のエスキースだったので、勝手に休むと回りの同僚に迷惑がかかってしまいます。来年の運動会が月曜日にならないことを祈るのみです。


ヒヤッとした (2010年9月4日/10月8日)

 私が大学で使っているメイン・マシン(PowerBook G4/17inch)の調子が悪くなった。ワードの文書をPDFに変換しているうちにだんだんスピードが落ちてきて、しばらくはダマしダマしメールを打ったりできたが、とうとうフリーズしてしまった。ああ、何てこった。この日の午後に開かれる建築学会の某小委員会の資料を作って送らないといけないのに、忙しいときに限ってこんなことになる。

 しかしここで重要なことに気がついた。前回HDのバックアップをとったのは十日ほど前で、それ以降に当該の資料を更新したり、新しいファイルを作ったりしたので、このままでは仕事ができない。そこでマシンを強制終了して再起動を試みた。いろいろやってようやく起動できたので、よしバックアップをとろう、とした。

 しかしここで私はミスを犯した。必要以上に巨大なサイズのフォルダをバックアップ用HDにドラッグしたのである。ところが、そのバックアップ作業中にマシンは再度フリーズしてしまった。あちゃあ、不要不急のファイルまでバックアップする必要はなかったのだ。やむなくHDがカラカラと回ったままのマシンをぶった切って(もう不安で一杯だったが)、またもや再起動を試みたが、そうは問屋が卸してくれずにその後はうんともすんともいわなくなった。

 これで貴重な午前中は空しく過ぎ去って、ギブアップした。マシンは相当に熱くなっていたので(私の頭も同様に熱かったが)冷やせば何とかなるかも、と思いながら翌日朝はやく登校すると、すべてのケーブルを外して、さらに一度バッテリを外して付け直して、祈るような気持ちでスイッチを押した。マックさん、どうか動いて下さいますように。

 その祈りが通じたのか、天の助けか、なんと起動できたのである(そんなことってあるんですね)。やったあと思いながら、プライオリティの高いファイルから順次バックアップしていった。そしてこれで大丈夫かな、と思った頃にまたもやフリーズした。ああ助かった(私も、ファイルも)。でも、どうしてこんな症状が現れるのか。これから建築学会大会があったりするので、原因を突き止めて対策をとれるのは9月中旬以降になってしまう。しばらくは憂鬱な気分のままでいないといけないなあ。

 こんなことがあるので、パソコンを二台併用していてよかったなあ、とつくづく思う。この文章をHPにアップできるのも、サブ・マシン(iMac G5 20inch)が動いているお陰である。

(追伸)いよいよ調子が悪くなったので、生協に修理を依頼した。するとなんと「古いので修理できません」とのコメントとともに戻ってきたのである。でもまだ6年しか経っていませんけど、、、。コンピュータの世界では6年前のマシンは過去の遺物ということですかね。ちょっと納得できません。


率直なひと (2010年10月7日)

 今年のノーベル化学賞を受賞した鈴木先生のインタビューをテレビで見た。そのなかで鈴木先生は、受賞の対象となった研究成果は学生諸君や共同研究者のお陰、というようなことを述べておいでだった。多分その通りだったのだと思う。大学での研究は(文系のことはいざ知らず)学生さんや同僚と協同して為されることが通例であり、そのヘッドとしての教授は研究のアイデアを出して、研究の進む方向をDrivingはするが、具体的な計算だったり実験だったりは学生諸氏に担当してもらうだろう。

 実態は上記のようなことだろうが、鈴木先生はそのことを十分に認識されていて、かつての共同研究者だった学生諸氏に対して率直に感謝の念を表明されたのだろう。これを聞いて私は感心した。まわりのひと達のお陰、というような謝辞はよく聞くが、具体的に「学生さんのお陰」と言ったひとはほとんど記憶になかったからである。

 このページでも時々書いているが、自分の考えている研究が進展するかどうかは結局のところ一所懸命にやってくれるパートナー(すなわち学生さん)がいるかどうかにかかっている。優秀でかつ裕福な先生はポスドクや特任研究員を雇って研究させることもできるだろうが、たとえ優秀でも手元不如意の先生(私もそのひとりです)がほとんどだろう。そういう研究者にとっては必然的に、自分のところの学生さんに期待することになる(まあ、学生さんにとってはいい迷惑でしょうが、、、)。

 すなわち、研究室での研究の成果があがるかどうかは、ひとえにやる気のある(優秀であればさらに良いが)学生さんの仕事にかかっているのだ。幸いにも我が社では、(不人気研究室だったので数は少ないものの)優秀でやる気の溢れた若者たちにそのときどきの研究を進めてもらってきた。ありがたいことである。

 10月になってそろそろ研究の取りまとめが気になるシーズンになった。こういう訳だから、北山研の現役学生諸君にも是非とも各自の能力をフルに発揮して、研究を少しでも発展させて欲しい。ノーベル賞という至高の話題から、研究室での研究という卑近な話題に最後はなってしまったが、どうかご容赦を(そもそも我々にはノーベル賞なんて、はなから無縁なんですから)。


夢を語る男 (2010年10月6日)

 自分の夢を大っぴらに人前で語るのって、相当に勇気がいります。しかし先日、私の先輩がそれをテレビの番組の中で実践したのです。

 9月末にTBSの『夢の扉』という30分番組に、大林組技研の勝俣英雄さんが主役で出演しました。この番組は日曜日の午後6時半スタートだそうです(私は今まで一度も見たことはありません)。ということは、国民的アニメの『サザエさん』の裏番組です(まあ相対的な呼び方に過ぎませんが)。我が家ではこの時間は子供と一緒にサザエさんを見ているので、勝俣さんの番組は当然見ませんでした。というか、知らなかったんだから見ようもありません。

 先週、清瀬にある大林組技研に実験見学に行きました。そこで勝俣さんに、私はその番組は残念ながら見ていません、と申し上げると、「サザエさんだからなあ」との返事。しかし技研を辞去するときに、勝俣さんからその番組を録画したDVDを手渡されました。10回しかダビングできないので貴重なものなんだぞ、という例によって勝俣さん一流のセリフを拝聴していただいたものです。

 で、家に帰って子供が寝静まってから、そのDVDを拝見したのです。そこには既存建物の耐震補強に常に全力投球で取り組んできた勝俣さんの軌跡が描かれていました。テレビカメラを通して見る勝俣さんは、いつもの勝俣さんとは違って、何だかすごくビッグなひとのような気がしました(実際、本当にビッグなひとなのですが)。これが私がよく知っているひとなのかと、一瞬感じたのです。でも、とてもカッコよかったですよ。

 そして番組の中で勝俣さんが夢を語るのを聞いて、こういう夢があるからこそ困難に立ち向かってそれを克服すべくチャレンジすることができるんだ、ということを再認識したのです。やはり市井のひとが生きて行くためには、個々人の“小さな夢”が必要なんですね。

 勝俣さんの夢は地震で建物が被害を受けて泣くようなひとをひとりでも少なくしたい、という社会的にも崇高な目標です。翻って自分のことを考えたときに、私にはどんな夢があるのだろうか。確かに耐震構造の分野で社会に少しでも貢献したい、とは常々思っています。しかし私を動かしている本当の欲求は、自然界における鉄筋コンクリート構造とは何なのかという問いに答えたいとか、鉄筋コンクリート構造の物理を支配するものを知りたい、その挙動を理解したい、という極めて個人的な欲求なんです。

 ですから私の夢は勝俣さんのそれとは違って、相当に個人的な“小さなもの”です。自分自身が納得できればそれでいい、くらいのもので、その副産物として社会への還元が為されたらさらによい、くらいに考えています。


油断か時の運か (2010年10月5日)

 先週末の東京六大学野球で、東大が早稲田大学から久し振りに勝利を挙げた。まあ弱小の東大野球部が勝つこと自体が結構なニュースなのだが、この日に打ち勝った相手はあの斉藤投手だったのだ。しかも東大の投手は1年生で今シーズンにデビューしたばっかりの、それこそルーキーである。斉藤投手はたぶん東大の先発投手を見て、今日も楽勝だなと思っただろう、いただきーってな感じで。

 それなのに結果は4−2で東大の勝利であった。勝負事はなんでもそうだが、勝つこともあれば負けることもある。勝敗は時の運ともいう。しかし野球は実力の世界だから、力の差が歴然とモノをいうだろう。それを思えば斉藤投手が負けたのは、相手をみて油断したからかも知れない。なんせ鴨ですからね、東大は。

 いずれにせよ、大学野球界の大エースである斉藤投手から勝ち星を挙げたことは大いに喜ばしいし、誇ってよい。そう言えば大昔、作新学院から法政大学に進んだ怪物・江川卓に初黒星を付けたのがやはり東大野球部であった。忘れた頃に、胸のすくようなスカーッとした快挙を成し遂げるところが憎いです。まあそれに至るまでに何十連敗もしているので、たまに勝ったときに世間が過剰に反応するのは事実でしょうね。

 翌日の試合では例によって東大は負けた。二勝しないと勝ち点は得られないので、三回戦はなんとか頑張って欲しいです。

(追伸)三回戦ではまた斉藤投手が登板して、今度は東大を0−7で完封したそうです。きっちり借りを返したところはさすがですが、東大も一点くらいは返しておかないと、、、。


壊された校舎 (2010年10月4日)

 廃校になった小学校の校舎が我が家から見えることを以前に話した(こちら5/24です)。この校舎は一体どうなるんだろうと思っていたのだが、今年の夏の盛りにデリック・クレーンが出現すると、しばらくのあいだに校舎は取り壊されてしまった。あらら、なんということだろう。で、その跡地は何になるかというと、放置自転車の仮置き場とのこと。これでは優良ストックの卵だったのに取り壊された校舎が恨みつらみで泣いてるぜ。

 跡地の一部は狛江市学校給食センターの新設にも使われるそうだが、それならば既存校舎を耐震補強して使用し続けるという選択肢もあったのではないか。残念である。


もうすぐ後期スタート (2010年9月30日)

 明日(10月朔日)から後期の授業がスタートする。私学では9月中旬くらいから後期が始まった大学も多いだろう。それに較べればまあ恵まれているかも知れない。でも前期末試験が7月末に終わってから、なんだかあっという間に夏休みが終わったような感じで、もう授業が始まるのかあ、というのが率直な感想である。前期の大学院講義のレポートの採点もつい数日前にやっと終わったばかりなのに、である。

 で、後期のロードであるが、何と月曜日から金曜日まで授業担当があるのだ。もちろん複数教員で担当する科目(設計製図、構造設計演習、建築構造実験)もあるのだが、それにしてもハードである。せめて設計のエスキースだけでも免除して貰えるとありがたいのだが、、、(小林克弘先生、お願いしまーす)。また先端研究ゼミナールの少人数ゼミは、自分たちでそのカリキュラムを作ったとは言え、結構な労力と工夫とを要求され、息切れすることもしばしばである。

 高校以下の先生方は毎日授業があるのが当たり前なので、こんなことを言うと怒られるだろう。でも、大学の仕事以外にも学外での委員会とか学会活動とかがあって、これらは自分の研究の肥やしや動機付けになるだけでなく、社会的な貢献としても位置付けられる。それを考えれば、やはり毎日授業というのはつらいです。

 でもまあ、こんな泣き言をいっても始まらないので、全力を尽くしてオブリゲーションをこなすだけです。もちろん、やるからには手抜きせず、工夫を凝らした最善の授業を提供しますよ。

(蛇足)設計のエスキースだが、三十代の頃には結構ガッツを入れて見ていたし、講評でも積極的に(学生さんには迷惑だったろうが)コメントしていた積もりである。ところがだんだん歳をとってきて、そういった“親密な指導”が億劫になってきたのは否めない。

 ちなみに私が学生だった頃には西出和彦さん(当時助手、現東大教授)によくエスキースを見てもらったが、彼はとてもまじめな方なので、私の下手な設計を見ながらウンウン唸りつつもこうしたらいい、ここはこう直したらどうかなどと、それはもう親身にエスキースして下さった。私が黒野弘靖くん(現新潟大学准教授)や松原和彦くん(現NTT)などと一緒に集合住宅を共同設計したことなども西出さんはよく覚えておいでで、今でも会えば挨拶する。彼もその頃は若かったと思うが、それくらいの気合いでエスキースは見ないといけないのだろう。正直言って、今の私にはちょっと無理である。


何してる、NHK (2010年9月29日)

 昨日と今日(9/29)、女房が地デジのNHK総合(いわゆる1チャンネル)が映らない、と言いだした。実は昨日(9/28)の晩、確かに映らないので、テレビのチャンネル登録を見てみると1チャンネルだけ未登録になっていた。そんなことがなぜ生じたのか、分からなかったので、子供がリモコンを投げたり落としたりしているうちに何かの拍子で、チャンネル登録がキャンセルされたのだろう、と判断した(実はこれは後述のように濡れ衣だったことが判明した)。そこで再度チューナーの登録をやり直した。こう書くと簡単そうに聞こえるが、最近のテレビは複雑になっていて、これらの登録のやり直しなどはマニュアルをしげしげと見ないと分からず、結構大変だった。ああよかった、ひと安心。

 ところが今晩帰宅すると、またまた映らない、と言う。もう、やめてくれよ、と言いつつも昨日同様に処置して見られるようにした。でも、おかしいね、と話していたのだ。ところが、深夜に朝日.comを見たところ、「NHKは、東京都世田谷区などの一部地域でNHKデジタル総合テレビが受信できなくなる障害が発生したと29日、発表した」とあった。NHK放送技術研究所(世田谷区)の実験用電波が原因で、単純なミスだと言う。我が家はこのNHK技研の比較的そばに位置しているため、ああこれが原因だったのか、と判明した。

 なんだと〜。おいおい、いい加減にしてくれよ。お陰で我が家の子供に濡れ衣を着せちゃったじゃないか。子供に謝ってくれ。ちゃんと受信料は払ってるんだぞ(関係ないか)。もう寝ようと思っていたのに、これじゃ頭に血が上って寝られません。

 しかし電波送信によって家庭のテレビが簡単に操作できるということが現実に我が身に降りかかって、ちょっとビックリした。冷静に考えれば、そういうことは理論的には可能な訳だが、これって空恐ろしいと思いませんか。今回は“単純なミス”かも知れないが、何らかの意志(悪意といってもよい)を持ってこれを利用しようとすれば、不特定多数の人間に悪影響を及ぼすことも可能になるのだ。

 デジタル化って、実は我々が知らないうちに恐ろしい作為をこっそりと埋め込んでいるんじゃないかという、伊藤計劃氏のSF小説のような不気味さを感じたのである。


時間を遡る (2010年9月28日)

 時間を遡ることはできない。当たり前である。これができればタイム・マシンの完成だ。

 今日、久しぶりに朝早い総武線各駅停車に新宿駅から乗った。そのとき、私は突然に高校生だった頃を思い出した。その当時は毎朝、大久保駅から千駄ヶ谷駅までこの電車に乗って通学していた。今日の弁当はいつ食べようか(早弁)とか、サッカーの部活がかったるいなあとか、漢文の教科書忘れっちゃったよ怒られるなとか思いながら、乗っていたんだろう。もう三十数年前も昔の話である。

 しかし時間は遡れなくても、同じ空間に身を委ねることによって、そのときの記憶とか高校生の頃の懊悩とかがまざまざと蘇ったのである。その当時はまあ、大学くらいはいくだろうと想像はしたが大学院のことなど全く知らなかったし、況や自分が大学の教員になろうとは想像もできなかった。いや正確に言えば、その頃にも将来のことをあれこれ考えたはずだが、それらは全くもって曖昧模糊として霧のかなたに霞んでいた、というのが実態だった。

 それから三十数年経ってすでに老境に差し掛かりながら、高校生の頃の自分と向き合った。未来の霧が晴れ渡って、今の自分がいる。何とも不思議な感覚だったな。過去は(記憶さえ定かであれば)いくらでも手繰り寄せて反芻できるが、未来は何も分からない。当たり前である。しかしこの当たり前のことを不思議に思ったのである。

 そんな物思いに耽っているうちに、目的地のお茶の水駅に着いたのだった。


つくばの街Vol.2 (2010年9月27日)

 このあいだ、つくばに行ってきました、という文章を書きましたが、そのときにつくばという研究学園都市の持っている雰囲気みたいな私の感触を記しました。で、今日、筑波大学の境有紀さんのHPを見ると、つくばの街に住んでいる彼自身の“感触”や筑波大学の学生氏のそれなどが書かれていて、基本的には私の認識とあまり変わらないということが分かりました。境さん、教えてくれてどうもありがとう。

 私も地方の幾つかの街に住んでいたことがありますが、“住めば都”というのは全くその通りです。つくばにも住んでいるひとにしか分からない、四季折々の景観とか空気とか匂いとかがあるでしょう。そういうものを一つでも感じ取れれば、本当に幸いだと思います。しかしそのためには最低でも一年間は住まないと、結局分からないことになります。


壮大な0 (2010年9月27日)

 前から読みたいと思っていた百田尚紀著『永遠の0(ゼロ)』(講談社文庫、2009年7月)が大学生協の書籍部に平積みになっていたので購入して、週末に一気に読んだ。600ページ近くあったが、さすがにいろんなところで一位を取った本だけあって面白かった。

 ここでの0(ゼロ)は古代人を悩ませた数字の0の話ではなくて、太平洋戦争を通して日本海軍の主力戦闘機であった零戦(零式艦上戦闘機)に乗っていたひとりのパイロット(ゼロ・ファイター)の物語である。これはフィクションなのだが話の展開上、太平洋戦争の大筋がプロットされ、旧日本軍の戦跡をたどるちょっとしたクロニクルになっている。あるいは海軍航空隊へのレクイエムとでも言おうか。

 小説の中身にはここでは触れないが、ストーリーの組み立てとか展開とかが何となく浅田次郎に似ていて(ちょっと褒め過ぎか?)、読み易い。ただ、ここぞという泣かせどころの上手さは、やはり浅田の方がはるかに上で、本の帯にあるように“号泣する”にはほど遠かったな。百田には今後の精進を期待したい(なんて偉そうに言ってすいません)。また、話の中に出てくる幾つかのエピソードは実話を元にしているのだが、それらは戦史をちょっと読んだことのある人なら大抵は知っているので、ちょっと安直な気がした。

 ところでこの本のタイトルである「永遠の0」であるが、これはかなり意味深長なネーミングである。宇宙のそもそもの始まりはビッグバンだと言われているが、これは結局のところ無から有が生まれたということで、ゼロが無限の宇宙空間を産み出すもとになっている。そして膨張し続ける宇宙もついに収縮に転じて、やがては宇宙の死を迎えると言う。その意味で宇宙は永遠ではないが、それでも人間の感覚からすればほとんど無限と言ってもよい時間である。

 このようにほとんど永遠と思われる宇宙はゼロから生まれてゼロへと帰るのである。こんな形而上学的な事柄を連想させる表題を、零戦に乗って戦ったひとりの男の葛藤を通して戦争の理不尽さを訴えた本書に用いたのは、秀逸であったと私は思う。作者の慧眼と言うべきか、はたまた私の穿ち過ぎか、どっちでしょうね。


外壁洗浄中 (2010年9月24日)

 昨日はもの凄い雨だったが、今日も天気は悪い。研究室の窓から外を見ると、あたり一面が暗くなって、轟々と水が窓を叩き付けてきた。ああ、また豪雨がきたのかなと思ったが、たまたま芝浦工大の岸田慎司さんから電話がかかってきたので、「こっちはすごい雨だよ」と言ったら、「え、こっちは降ってませんけど」とのこと。まあ、八王子と豊洲とはだいぶ離れているからそういうこともあるかと思ったのだが、窓を叩き付ける音はますます激しさを増して、いくら何でも凄すぎると思った。

 そこでよくよく見てみると、なんと校舎の外面を高圧放水で洗浄していたのである、ありゃりゃ。私の研究室は7階だが、いつのまにか足場がかかっており洗浄作業が進んでいたのであった。昨年度の8号館の洗浄作業はさとうベネックだったが、今年の9号館は西武建設である。まあ、メンテナンスは必要だし、綺麗になるのだからありがたいことではある。あ、今、横殴りの“雨”が窓を打ち始めました。でももの凄い音だなあ。


インパクトがない (2010年9月23日)

 昨日の暑さが嘘のように、涼しさを通り越して肌寒ささえ感じた一日になった。さて菅総理大臣だが、国連総会の演説でも「最小不幸の社会」を唱えたそうだ。すっかり忘れていたが、彼が首相に就任したときに掲げたスローガン?であった。しかしどうにも華のない、さえない標語である。

 そもそも停滞した現状を打破して上昇気流に乗りたいと誰もが夢想しているのに、スローガンの真ん中に“不幸”の文字が居座っているのは、いかにも居心地が悪い。そのマイナス度合いを“最小”で打ち消していることは勿論分かるのだが、最小も不幸もどちらもネガティブな単語なので、それらの漢字が連なっていると、見た感じとして意気消沈してしまうし、何よりもありがたみが感じられない。

 また「最小不幸」を解釈すると、不幸なひとをなるべく少なくしますが幸福な人々が多くいるかどうかは知りません、と言っているような気がする。なぜ彼は「最大幸福の社会」と言わなかったのだろうか。なるべく多くのひと達が幸福になるように努力しますと言った方が、遥かに一般受けはよいと思うのだが。これは政治家としては当たり前の姿勢だと思うが、当たり前のことが忘れ去られがちの当今、初心に戻って理想を追求するのもいいんじゃないでしょうか。


こどものパワー (2010年9月22日)

 久し振りに子供と一緒に府中に出かけた。府中の駅前にあるビルには、府中市立の子供の家みたいな施設があって、小学校就学前の子供を遊ばせるスペースは府中市民以外も利用できる。ありがたいことである。女房が伊勢丹に用事があったので、私が子供を見ていることになった。

 扉を開けて私が入館の手続きするのも待てずに、子供はピューッと走って行ってしまう。こらこら待ちなさいと言っても聞こえない。もう、夢中で遊んでいる。あっちに走っては壁に絵を描き、こっちに走っては線路をつくって電車を走らせる、という具合で、まあいつものことではあるが、その忙しなさ、目まぐるしさには本当に目が回ってとてもついて行けない。パワーのレベルが根本的に違うのである。なんであんなに一心不乱に遊べるのか、不思議な生き物としか言いようがない。

 でも私自身も小さい頃には同じようにちょこまかしていたようで、小学校低学年の頃の私の通信簿には「落ち着きがない」と記されていたことを思い出した。

 こうして一頻り遊んだあと、今度は「トイザらス」に行きたいと言う。子供にとっては嬉しいことに、このコンプレックス(複合施設)の地下一階にはおもちゃ屋さんの「トイザらス」が(ご丁寧にも)入っているのである。ここは子供にとっては楽天地だ。エスカレータを降りると、またもや子供はピューッと走って行ってしまう。もう、追いかけるのにこっちは必死である。待てー、といってもダメである。

 こうして店内の追いかけっこがやっと一段落して、トミカのコーナーで遊び始めた。やれやれ、これでひと休みできる。こちらはもうグッタリと疲れ果てていた。しかし子供ってほんとに何にでも興味をもつことに驚かされる。こうやって走り回っているうちに脳のシワが増えるんだろうな。これは子供にとって大切なことなんだと自分自身に言い聞かせながらも、やれやれの一日であった。


つくばの街 (2010年9月21日)

 建築研究所で行われている実験を見るために、久し振りに筑波の研究学園都市に行った。ご存知のように人工的に作られた都市なので、道路は広いし街路樹も綺麗に揃っている。街区はゆったりと区画割りされていて、緑豊かな一角に建研はある。このような環境で実験して研究ができるのは非常に恵まれていると思う。実験施設も最高だし。

 しかしここに来るといつも肌で感じることだが、ひとの気配といったものが希薄である。都内であれば狭い土地に大勢のひと達が暮らしていることもあって、一種猥雑な雰囲気を醸し出しているものだが、そのような都市のアメニティが感じられない。良いとか悪いとかは別として、“居心地の悪さ”みたいなものを感じてしまう。まあ、私はよそ者なのでいたしかたないのかも知れないが、、、。長く住んでいるひとにとってはどうなのかな?

 ただ、谷田部のインターチェンジから走っていて広大な郊外型スーパーマーケットを見かけたが、そこだけは車の出入りが頻繁で人間の営みを垣間見ることができた。それにしても半端じゃなくデカイ施設だったな。映画で見るアメリカ郊外のショッピング・モールみたいだった。

 さて実験の方だが、こちらは国土交通省の補助事業で建研と東大生産技研(中埜良昭研究室)、東北大学(前田匡樹研究室)および東京理科大学(衣笠秀行研究室)とが共同研究体を組んで行っているものである。私はこの事業に関連する委員会のRC部会委員である。ちなみにRC部会長は中埜さんである。同級生と一緒の委員会は気楽で好き勝手言える(?)のでやり易い。最近は建築学会の耐震裕度小委員会で今村晃さん(東電)と一緒で、ついいつもの癖で「おい、今村〜」なんて呼びかけて、あわてて「今村さん」と言い直したりする。

 実験は非常に大掛かりなので、上記の三研究室から多数の学生さんが参加しており、数えたら15名もいた。ひび割れ書きやひび割れ幅測定となると、これらの学生さん達がワラワラと試験体に群がって、一心不乱に作業しているのはちょっとした壮観であった。加力は建研に職を得たばかりの壁谷澤寿一さんが仕切っていた。


 ひび割れ幅は我が社と同様にクラック・スケールで測定していたが、担当の学生さんはすでにして名人の域に達しているらしくて、スケールも当てずにひび割れを見ただけで「幅は0.03mm」なんて言っていた。さすがに驚いたので「おい、本当かよ」と尋ねると「だいたいこんなもんですよ」と言ってスケールを当てると確かにそんなもんであった(ほとんど全てのひび割れの幅を測っていたので、それくらいの“省力化”は良しとしよう)。

 いつも言っているが、実験するのって本当に大変である。先生に言われたので仕方なく参加している学生さんもいるだろうが、それでも筑波に寝泊まりして実験しているのだから、その努力は大いに褒められてよい。


『秋の気配』を考える (2010年9月16日)

 先日のこのページでオフコースの『秋の気配』にちょっと触れたが、9月11日の朝日新聞の別冊土曜版に懐かしいこの曲が取り上げられていた。その見出しは「飽きた恋人をふる男」となっていて、おやっという違和感を持ったのだが、記事を読んでみて仰天した。この歌は、恋人に飽きたからという理由で別れようとしているとんでもない男を歌ったものである、と書かれていたからである。

 しかし私は今まで、以下のような全く反対の解釈をしていた。気の強い女が男に別れ話を持ち出している、女々しい男は「なんでこんなことになったんだろう、自然は変わらないままで時も普段のように流れて行くのに、彼女の心だけはもう以前のように僕のところにはない、僕のやさしさはもう彼女には届かない、、、」ってな感じである。

 こんな風に解釈していたのは、オフコースには例えば『こころは気紛れ』みたいに身勝手で「生意気な女」を歌ったうたが他にもあったからだと思う。何よりも、美しいメロディ・ラインに乗ったオフコースの絶妙なハーモニーを聞かせてくれる『秋の気配』には、そんな「とんでも男」は似合わないでしょう。先入観、と言えばそれまでだが。

 新聞を前にして私はしばらく腕を組んでうなったままであった。うーん、そうかあ。確かに(新聞記事の言うように)解釈しようとすればそうとも受け止めることができそうだ。作者の小田和正自身がこの曲のなかの男を「ひどい男だな」と言っているらしい。しかし三十年以上も(勝手に?)想定していた歌詞の世界をひっくり返された今、私は相当程度に呆然としている。もしかしたら、コペルニクスによる地動説の正しいことが証明されたときの欧州の聖職者たちは、今の私のようなショックを受けたのかも知れないな(レベルの全く異なる話で恐縮ですが)。

 しかし正直なところ、私の世代のオフコースのリスナーは『秋の気配』をどう思っていたのだろうか。私のように夢想?していたひとはいないのだろうか。知りたいものである。高校生の頃にオフコース・フリークだった栗須くん、どう思う?

(追記)この記事には『秋の気配』の歌詞をめぐって数人の方の奥深い論考が掲載されていて、それ自体には感心させられました。興味のある方は是非お読みください。それに較べれば私の「解釈」は単なるセンチメントや思い込みかも知れません。


秋、かな? (2010年9月15日)

 昨晩のひどい土砂降りの雨が上がった今日は、ひんやりとして急に涼しくなりましたね。朝には半袖では肌寒いくらいに感じました。今までの暑さがうそのようで、本当に楽です。でも、気温が急激に変化すると体調を崩すのも毎度のことで、我が家の子供も熱を出して幼稚園を休んでいます。また、研究室の学生さんでも風邪をひいたひとがいるようです。今までのようにお腹を出して寝ていると一発でやられますので、皆様ご注意下さい。

 我が家の百日紅(サルスベリ)の花は、昨晩の雨でだいぶ散りました。暑さでお花のほうも陽に焼けてカサカサになっていましたが、もう旬は過ぎたかなといった感じです。


代表選の結末 (2010年9月15日)

 民主党の代表選挙は菅さんが征しましたね。まあ、各種の世論調査によってある程度は予想できましたよね。開票結果を見ても、国会議員の票は半々、地方議員の票もほぼ互角でしたから、結局勝敗を決したのは党員・サポーター(すなわち一般民衆)の多数決であったと見るのが妥当でしょう。すなわち一般市民の民意が反映された結果であり、民主主義が実践されたことは評価に値します。

 しかしこの開票結果を見て、民主党の国会議員のBehaviorには大いに失望しました(こちらもまあ、予想通りでしたが)。国会議員と一般市民との意識の乖離については以前に書きましたが、今回の投票行動にはそれが如実に現れました。党員・サポーターの83%(ポイントによる)は菅さんを支持したのに対して、国会議員では半数に過ぎなかったのです。ああやっぱりそうなんだあ、という感想ですな。こんなことなら国会議員なんていらない、という極論も出かねません。

 とにかく、日本という国が確実に変わりつつある現状を上手くdrivingするために、国会議員諸氏には奮励努力してもらいたいと思います。小沢さんが今後どうでるかは予想もできませんが、開票結果が明らかになった直後に菅さんに向かって“おめでとう”と言っていたようにテレビでは見えました。彼らの言っていたノーサイドが実現されることを祈っています。


あるローカル線で (2010年9月13日)

 毎年恒例の建築学会大会が終わった。今年は富山大学(五福キャンパス)で開催されたが、富山は予想した通り(あるいは想像以上に)小さい街だった。富山大学には建築系の学科はないため、今まで建築学会大会が開催されたことはなかったので、初めて訪れた。富山市は県庁所在地なので栃木県の宇都宮市と同格だろうと思っていたが、少なくともJRの駅(富山駅と宇都宮駅)に関していえば、新幹線が通っている宇都宮のほうがまだ都会っぽかった。

 建築学会大会は三日間で一万数千人のひとが参加するマンモス大会なので、当初から宿泊場所が不足するとの懸念があったが、想像通り現実のものとなった。聞いた範囲でも金沢や魚津から通うという不幸なひと達に出会った。そしてご多分に漏れず、私たちも富山市街に宿をとることができなかった。

 で、どこに泊まったかというと、富山駅からJR高山線というローカル鉄道の各駅停車に乗って、三つめの速星(はやほし)という何もないベッドタウン?であった。高山線は電化されておらずディーゼル機関車で、単線であった。しかしもっと驚いたのは、夜には一時間に一本しか汽車(電車ではないので、汽車と呼んでおく)がなくて、おまけにたったの一両で運行されていたのである。駅に着くと、降りるひとが人力で汽車の扉を開けないといけない。それが結構な力を要するようで、体験者の白井遼君は「もう、扉を自分で開けるのはいやです」なんて言っていた。いい若者が何言ってんだか。


        JR速星駅               速星駅跨線橋からの眺め

 でも地方のローカル鉄道は皆、こんなもんなんだろうと思った。たまたま現地で見たローカル・ニュースでも、高山線の利用者数を増やすための試みを伝えていた。ローカル鉄道を維持することがいかに困難であるか、またその鉄道がないと困るひと達も大勢いるということが実感できて、日本国民として貴重な体験をすることができたと思う(大袈裟です)。

 しかし折角富山まで来て美味しい魚とお酒を楽しみながらも、帰りの汽車を気にしないといけなくて(それも一時間に一本ですぞ)、何だか味気なかったな。おまけに帰りの特急「はくたか」は前回金沢で大会があったときと同様に遅れて、越後湯沢駅での新幹線に乗り継げないというトラブルに見舞われた。車内放送では「乗り継ぎの新幹線は待っていますので、ご安心ください」なんて言っていて、過密ダイヤの新幹線が本当に待っているのかなあとも思ったが、着いてみると案の定お目当ての新幹線はとっくに発車していた。全くなんてこった!指定券代はどうしてくれるんだと思ったが、たまたま耳にした大宮駅構内での放送で払い戻しのシステムを知ることができて、損しなくてよかった。

 ちなみに来年の建築学会大会は東京の早稲田大学で開催されるそうだ。見知らぬ土地にゆく楽しみはない代わりに、早稲田(あるいは理工学部のある戸山)の地は私にとっては大変に思い出深いところなので、それなりの楽しみを今から抱いている。


エレベータと階段 (2010年9月7日)

 国および都から、一定規模以上の法人に対するCO2削減の達成義務の通達が我が大学にもやってきた。執行部はできることからやる積もりらしく、私のいる9号館の4基あるエレベータのうち2基を休止した。ただでさえうちのエレベータは運転を制御するコンピュータのアルゴリズムが劣悪で、利用する人間にとってはストレスの種だったのに、さらに待たされる時間が長くなって精神衛生上、極めて良くないこととなった。

 この愚行?に対して、ひとりのおとこが敢然と立ち上がりました(劇画調です)。「近代建築は高層化する道を選んだが、そのときに上下方向の動線であるエレベータは必須のものになった。エレベータは建築計画の知識をもとにその配置が決定されており、そのエレベータの半数を止めることは建築を研究するもののすることではない」というのが、彼の主張である。そのひとこそ建築都市コースの長老教授で、建築生産を専門とするF尾教授である。

 全く同感である。エレベータがなかなか来ないことによるイライラ感の増長および時間的損失を考えると、どう考えても仕事の効率は低下する。私はこのような負の側面は省エネという大看板に勝っている、と考える。いつも言っていることだが、世間的な大きな流れ(この場合にはCO2削減)に対して、費用対効果とか生産効率とかを考えることなくして盲目的に追従することほど愚かなことは無い。大学当局には是非とも再考をお願いしたい。

 と、ここまで書いてきたが、私は実はほとんどエレベータは利用しない。研究室のある7階から降りるときにはいつも階段を利用する。また、昇るときも半数くらいは階段で歩いて行く。気が短いので、うちのエレベータを待つくらいなら歩いた方が早い、というのが私の考えで、事実そうである(逆に言えば、我が大学のエレベータはそれほど遅い)。

 私のいる建物は斜面に建っているため、駅からキャンパス内を歩いてアクセスするときには、2階から建物に入れる。また一番西側にあるRI棟の外付け階段で1層分昇ってブリッジを渡れば、しばらくは廊下を歩くことになるので、苦もなく3階までは達している。そういう経路を行けば残りは4層分で、これだったらそんなに苦痛を感じなくて済むのである。皆さん、如何でしょうか。

 ちなみに宇都宮大学の田中淳夫先生(名誉教授)も5階の研究室までいつも階段を利用されていた。彼はスポーツマンなので、健康のためということだった。ただ、階段の上り下りは膝の関節にとっては相当の負荷らしくて、必ずしも健康には良くない面もあるらしい。ご注意を。私は前述のようにエレベータを待つのがイヤなだけで、健康によいなどとは思ったことはない。


伝 説 (2010年9月6日)

 民主党の代表選挙のつづきです。小沢さんには豪腕伝説というのがあって、彼の“豪腕”に対する期待は相当に大きいらしいと感じます。このひとこそ沈みつつある日本を救ってくれる、という類いです。しかし「伝説」というくらいなので、本当のところは誰も分からない、というのが真相のようです。ここはひとつ小沢さんに賭けてみよう、というひとも多いかもしれません。何といっても“豪腕”という言葉には、最近のリーダーにはない強いリーダーシップを感じますから。

 でも、そんな伝説に日本の将来を託す、というのは相当の博打じゃないでしょうか。普天間基地の問題で、何か素晴らしい解決案を持っているような口調でしたが、翌日には「特に考えがある訳ではない」とトーン・ダウンしました。その伝説もだんだんと色褪せてきているように感じましたね。岩手の建設王国に君臨している(していた?)その姿には、ふた昔くらい前の政治家像を思い描いてしまいます。

 議員さん達のウケはいいけど、国民からはソッポを向かれている、という実情は、日本の政治が抱える根本的な問題に起因していると思います。すなわち政治にはお金がかかる、という実態です。そんなにお金のかかる議員になぜ成りたがるのか、という点にこそ、われわれ庶民は胡散臭さを感じています。そのことに多くの議員達が気がつかない(あるいは気がつかない振りをしている)ことが、私にとっては大いなる驚きですけど。

 そんな訳で、私は「豪腕伝説」よりも「市民派」のほうに信を置いています。


ノートのはなし (2010年9月2日)

 私は大学4年生になって青山・小谷研究室に入室したときに、研究ノートをつけ始めた。しばらくは読んだ論文の要旨とか、数式の展開とかを記していたが、やがて研究が進んでくると自分で考えたことや疑問に思ったことなどを書き付けるようになった。ちなみに毎年、北山研究室に入室してくる学生諸君にも必ず卒論ノートを作るように指導している。

 こうして年を追うごとに研究ノートは増えていった。しかし大学の教員になってからはノートの進み方が遅くなって、二年に1冊くらいのペースになったこともある。それでもちょっとした思いつきとか、考えたことやアイデァをメモしておいたので、それらは研究の進展に大いに役立った。何よりも、ノートに書く、すなわち腕を動かすという行為によって自分の考えが整理され、理路整然と思考することを大いに助けてくれる。

 ただ時おりノートを見返していると、未だにウンウンうなっている問題が随分昔からの懸案だったことを再発見したりすると、こりゃ全然進歩しておらんわい、なんて思ってがっくり来たりする。反対に、数年前のToDo リストの項目の幾つかが解決できたことを見いだしたときには、我ながらよくやったな、進歩したぜ、なんて自画自賛したりもする。

 私も年を取ってくると、梅村魁先生(故人)が歴史について興味を持たれ、晩年には大いに勉強されていた、その心境が少しずつ分かるような気がしてきた。そして最近になって自分の研究室の歴史を書き始めたが、そこに記したことは全てこの研究ノートに書いてあったものをネタとしている。東京都立大学に赴任して研究室を主宰するようになると、そのときどきの研究費の残額なんかもメモされており、あの時は裕福だったなあ、などと思い出に耽ったりもする。

 さてここ数年は、研究ノートは毎年1冊のペースだったのだが、今年は8月末になって二冊目のノートに突入した。久しぶりの快挙?である。で、その理由をつらつら考えてみると、研究室のメンバーの増加とともに、研究テーマが増えたことが第一であるが、そのほかに建築学会等の委員会とかWGの主査を務めることが多くなって、そのための備忘録とかマネジメントを記すことが多くなったことも原因だと思う。まあ仕事量が増えたといえばそれまでだが、昔は全部あたまのなかに格納できたことも、年齢のせいで憶えきれなくなったというのが実情かも知れない。そうだとするとノートの消費量が増えたことを喜んではいけないだろうな。

  最後に1983年に最初に付け始めた卒論ノートと現在の研究ノートとを載せておく。較べてみて、そんなに変わらないような気もするが、大脳の引き出しに蓄積されたものはノート量に比例して増えている、と信じたいものである。

    
    1983年の卒論ノート              2010年の研究ノート


よく聞くセリフ (2010年8月31日)

 今回は買い物のはなしである。実験機器でもひずみゲージ500枚でも、あるいは車でも何でもよいが、あるものを購入しようとして業者と交渉するときに、「この値段じゃ買えないな。もうちょっと何とかしてよ」とこちらが言うと、「すいませんが、他のお客さんにもこの価格で買っていただいているので、これ以上はちょっと,,,」との答えが帰ってくることがよくある。しかし私にとっては、このように返答するひとの気が知れない。

 私は常々書いているように自分勝手な人間なので、他人のことなど知ったことではない。業者がこのように言うと、普通の人は「それならしょうがないか。この値段で買おう」と思うのかどうかは知らないが、私は「ひとのことなど、どうでもよろしい。ひとはひと、私はわたし、ですよ。」と答えるのが常である。そう言うと、大抵の業者は「こいつはちょっと手強そうだぞ」と思うようで、それから真剣な価格交渉が始まる。

 そのときに私はこう言うのである。「大学で御社の製品を使うことの意義とかメリットを考えて下さい。それを使い、その使い方に習熟した学生たちが卒業して社会に出たあと、将来御社の製品を再び選ぶ確率は非常に高いと思いますよ。」

 要は損して特とれ、ということである。なかには私の言うことをよく理解してくれる業者さんもいる。しかし現代は短期的な利益追求に汲々とした世知辛い世の中なので、長期的な視点で商売を見通すことのできるひと(あるいはそのような体力のある企業)がどのくらいいるだろうか。別の言い方をすれば、本物の商人(あきんど)かどうか、ということである。

 このように言う私に対して、マニュアル社会ゆえか臨機応変に対応できない業者さんからは、残念ながらモノを買うことは無い。しかし私は大学の研究者だと言うのに、モノを購入するときにこんな交渉までやっているのである(もちろん研究費の大部分は国民の税金から出ているので、なるべく安く購入するのは当たり前であるが)。なんだかなあ、と思ったりする。


不可解なこと (2010年8月30日)

 民主党の代表選挙に小沢一郎さんが立候補した。一政党の党首を選ぶだけだったら別にどうでも良く、勝手にやっていただいて結構だが、ことが一国の総理大臣に直結することとなると無関心ではいられない。多分、国民の大多数が思っているだろうが、わずか三ヶ月前に何かの責任をとって辞めたひとが、その責任についての決着もつかないうちに総理大臣の椅子を目指す、ということはどういうことだろうか。

 鳩山さんの言うことも怪奇である。昨日まで菅首相を支持すると言っていたのに、翌日には大義によって小沢さんを応援する、とのこと。鳩山さんもいろいろと考えるところがあるのだろうが、個人的な「大義」によって一国の政治を動かして貰っては困ろうというものである。

 朝日新聞の社説ではこの両氏をボロクソに批判していたが、そうも言いたくなる。しかし小沢さんの出馬をよってたかって促した民主党議員の人数の多さを見ると、この政党自体がすでに国民から著しく乖離しているのではないかと疑わざるを得ない。

 いったいなぜ、こんなことになったのだろうか。国民が政権を託した民主党には是非とも初心に帰ってもらって、もう一度日本の国の将来を真剣に考えて、それを実現する為の政策を実行して欲しいと思う。そして、借金まみれになりながらお金を垂れ流す愚行だけはやめて欲しい。そんな能の無いことはプロの政治家がやるべきことではない。明智光秀じゃないが「ときはいま」である。今こそプロとしての自覚を持って、国民の負託に答えるときである。

 民主党のひと達に告ぐ、われわれ国民の期待を裏切ることなかれ。しかし不幸にもそれが現実となったならば、そのときこそ我が国の政党政治は国民の信頼を失って、日本の国は混沌状態に陥るだろう。そしてそれは、昭和初期の「いつか来た道」を彷彿とさせる事態を招来するのではないかと秘かに畏れる。


秋の気配 (2010年8月26日)

 八月末というのに、もの凄い暑さが続いています。『秋の気配』というのはオフコースの名曲のタイトルですが、こんな残暑の中にもささやかな秋の気配を見つけました。昨日の夕方、下校するときに大学構内でツクツクボウシの鳴き声を聞いたのです。夕暮れの薄暗くなった林の中から聞こえて来るその声に、ちょっとした涼しさを感じました。

 でもこの暑さは九月になっても続くらしいので、富山大学での建築学会大会が大変なことになるのではないかと危惧しています。昨日、北海道大学の佐藤さん(土木・コンクリート工学)と話していて聞いたのですが、北大の教室には冷房はないらしくて、大学院入試は暑くて大変だったと言っていました。試験中にペットボトルを出して水分補強することを認めたそうです。富山大学の教室にはエアコンはあるんでしょうか。まあ、さすがにあるでしょうね(希望的観測ですが,,,)。


不愉快なこと (2010年8月25日)

 私が研究室の電話を切っていることは以前にここで書いたが、それは仕事とは無関係な不愉快な宣伝電話から自分を守る為である。電話さえ鳴らなければ仕事を中断されることもなく、不愉快な目に遭わなくても済む。

 ところが先日の夕方、研究室で仕事をしていると、ドアを叩くひとがいる。最初は文具等を扱う飛び込みのセールスさんかと思ったが、相手が「ワンルームマンションを、、、」と言い出したので、「ちょっと待って下さい。そういう話ですか。ここは仕事場ですよ。お引き取りください」と言って問答無用に出て行ってもらった。

 これで一気に気分が悪くなって、仕事をする気が失せてしまった。というか、貴重な思索のときを邪魔されたという腹立ちでいっぱいになった。電話なら線を切っておけばよいが、直接訪ねてくるひとにはどのように対処したらよいのだろうか。向こうはただ仕事をしている、というだけで罪の意識などないだろうが、仕事を邪魔されるこちらの身になって考えたことはないのだろうか。『セールスお断り』みたいな貼り紙を研究室のドアに張り付けておこうかとも思うが、そんなものは効果がないだろうな。

 しかしいくら定時以外とはいえ、そのような(こちらの仕事とは全く無縁の)セールスマンが大学の校舎内を自由に歩き回っている、ということがそもそもおかしいと思う。わが大学は都民に対して広く開かれていることを標榜しているが、もう少しセキュリティーを考えてもよい時期に来ているのではなかろうか。それともそういうセールス氏は事務方のところへは廻らずに、教員のところだけに来るのだろうか。

 こんなことを考えさせられるだけで資源の無駄というもので、またぞろ腹が立ってきた。もう止めよっと。


南伊豆・下田へ行く (2010年8月23日)

 暑さ厳しいある週末に家族で南伊豆・下田へでかけた。伊豆には学生時代に大学の寮があった西伊豆・戸田(へだ)や南伊豆・下賀茂に海水浴に行ったものだが、下田へは行ったことがなかった。

 本題から逸れるが、戸田の御浜海水浴場の砂浜に寮は建っていて、早朝には寮生の指導のもとに砂浜の掃除を行い、そのあとに砂浜に立てられた看板をみながら「タリラッタッタ〜」という寮歌を歌うのであった。寮には和船もあってその櫓を漕ぐのだが、素人はいくら漕いでも進まず、やむを得ず岡安章夫くん(現東京海洋大学教授、港湾工学専攻)に漕いでもらった。

 夕方になると太平洋岸の堤防の上を歩き、真っ赤な夕陽が水平線に沈むのを静かに眺めていた。御浜の海岸には夜光虫が棲んでいて、夜になると波打ち際がキラキラと輝いたことを今でも憶えている。

 さらに話はさかのぼるが、戸田寮には私が小学校に入るか入らないかくらいの頃に、実は行ったことがあった。叔父が当時東大助教授だったために、その一家に連れて行って貰ったのである。当時は沼津から船に乗って行った。

 そのときにこんなことがあった。まだ小さかった私が堤防の上を裸足で歩いていて、貝殻を踏んでしまって怪我したときに、寮に泊まっていたお兄さんがおんぶして連れ帰ってくれたのである。それを契機として私はお兄さん達の部屋に出入りするようになった。みんな、とても親切だった。今にして思えば彼らは皆東大生だったのだが、子供だった私には分かるはずもなかった。大学の寮なので、部屋の仕切りはわずかに襖一枚だけであり、襖の向こうで大学生のお兄さん達がする麻雀のジャラジャラという音を子守唄として眠りについた。

 大学生になって駒場キャンパスに通い出した頃、福永武彦の『草の花』を読んだ。とても甘美な小説だったことしか覚えていないが、重要な場面として出てくるシーンを読んで、それが戸田寮や御浜のことであることが私には直ぐに分かった。東大出身の福永武彦も学生時代に戸田寮に行ったに違いない。そのことを同級生の村上哲くん(現JAXA研究員)や茂山俊和くん(現東大准教授、天文学専攻)に話すと、彼らも知っていたのである。

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 話を現代の下田行きに戻そう。下田は言わずもがなだが、幕末期に重要な役割を果たした、史跡と言ってもよい町である。米国の外交官タウンゼント・ハリスが上陸した地であり、開国を承諾した日本に初めての米国総領事館を開設したのがここ下田であった。

 このように歴史好きには垂涎の地なのだが、当然ながら小さい子供にはそんなことは分かろうはずもなく、下田湾の遊覧船(黒船を模したもので、その名もサスケハナ号という)に乗ったり、伊豆急・下田駅前から出ているロープウエイに乗ったりした。ロープウエイは寝姿山というやまの頂上に続いており、そこからは下田の町や海が一望できた。そのような場所だったので、そこには江戸幕府の監視所がおかれており、大砲も置いてあった。
 

 翌朝、私は30分ほどの時間を貰って、ハリスが総領事館を開いた玉泉寺まで歩いて行った。そのとき私は、電信柱に張り付けられていた一枚の看板に吸い寄せられた。休暇で来ていることも忘れて、である。そこにはこの地が海抜4mであり、津波に注意すべきことが記されていた。そうだった、伊豆は地震が群発するところであり、当然津波も押し寄せるのだ。日頃の防災意識がいざと言うときには役立つだろう。

 さて早朝だったので玉泉寺にはまだだれもいなかった。ここには1979年にカーター米国大統領が来たとのことで、そのときの歓迎パネルがお寺の裏側にひっそりと残っていた。そのすぐ右下に、またも注目した。ハリスの日記から、以下のような抜き書きがあったのである。

「1856年10月4日(安政3年10月7日) 午前8時に地震があった。激風を食ったように思われた。なにか重いものが倒れたように、家が震動した。また、それに相当した音響がともなった。この大きな衝撃に続いて、二、三度軽い横揺れがあった。天気は晴朗で、おだやかだった。程近い大島の火山は、何ら活動を増したようすもなかった。その音響と震動は南東から来て、北西へ去ったように思われた。」

 ハリスは多分、地震を知らなかったのだろうな。文章の感じからは震度2か3くらいの日本人にとっては良くある地震なのに、わざわざ日記に書いているからである。イギリスの外交官だったアーネスト・サトウもその著作『一外交官の見た明治維新』のなかに、初めて体験した地震の奇怪さ、気持ち悪さを残していたことを思い出した。

 境内のひときわ高くなったところに、黒船乗船の軍人さんのお墓があった(日本最初の外人墓地、と書いてあった)。そこから見た下田の様子(写真)である。今では海までのあいだに家屋がぎっしり建っているが、当時は多分見晴らしが良かったんだろうと往時を偲んだ。



 慌ただしく玉泉寺を拝見したあと、境内から出て旅館までの道を戻り始めたとき、ふと足下のマンホールの蓋に目が行った。その図柄はなんと外輪を付けて帆を広げた黒船だったのである。さすが下田の地、歴史の証人はこんなところにもひっそりと息づいていたのであった。

 蛇足だが、週末は高速道路千円ということもあって、往復ともにもの凄い渋滞にはまった。子供は熱中症にかかって大変だったし、ヘトヘトに疲れた下田行きであった。しかし、大学教員が平日に夏休みを取ることもままならない、などということが一般のひとには信じられるだろうか。多分、理解できないだろうな。説明するだけでも大変な労力を費やすので黙っているだけである。


大学説明会2 (2010年8月20日)

 今日はことし二回めの大学説明会です。暑いなか、大勢の高校生が来ています。お昼に生協にご飯を食べに行ったのですが、若いパワーで超満員で入れませんでした。わが建築都市コースからは、芳村学先生が模擬授業をすることになっています。大変ですね。でも、私も既に過去二回、模擬授業を担当しました。準備する先生がたや事務方のご苦労もねぎらいたいと思います。

 いつも角田誠さんと話しているのですが、高校の授業には当たり前ですが建築学は全くないため、物理とか数学とか化学とかの高校で学んでいる学科に較べて不利である点は否めません。そこでわれわれとしてはまず、建築学とは何かということを高校生に知って貰う必要があると思います。そのため、模擬授業や高校への出前授業などが重要であると認識しています(言うのは簡単で、実際に実行するには多大なエネルギーを必要としますが)。そうして、ひとりでも多くの高校生を“建築シンパ”にすることが大目的です。

 ですから私が高校生相手に講義をするときには、建築構造の話などはほとんどせずに(そんな細かいことを話してもインパクトは薄いと思いますから)、「大学の建築学科で何を学ぶか」というようなタイトルで、建築学全体の魅力を説明するようにしています。今年も秋に某都立高校へ出前に行くことになりました。総体として高校生は熱心に講義を聴いてくれるので、こちらとしてもやりがいがありますね。
追記(8月23日); 今回の参加者は約5100名で、過去最高だったそうだ。多くの人たちに関心を持っていただけたことは素直に嬉しいですね。


ワルキューレ (2010年8月19日)

 伊藤計劃氏の「驚くべき小説」について以前に紹介したが、最近、二冊めとなる『ハーモニー』を読み始めた。出だしはちょっとダルかったが、だんだんと氏の本質的な題材へと進みつつあるところである。

 ところでこの小説に出てくる、主人公の上司に当たる杓子定規でお役人然とした人物の名前がとても気になった。「オスカー・シュタウフェンベルク」というのだが、この名前を見て私はすぐにひとりの歴史上の人物を思い出した。第二次世界大戦中のドイツでヒトラー暗殺計画の中心人物であったクラウス・シュタウフェンベルグ伯爵(ドイツ国防軍大佐)である。彼らはヒトラー暗殺後にドイツ予備軍を動員してクーデターを決行する予定であり、その作戦名が「ワルキューレ」であった。

 しかし様々な偶然の帰結として、自身のすぐそばで爆弾が爆発したにもかかわらずヒトラーはかすり傷を追っただけで生き延び、ワルキューレ作戦も不発に終わった。そしてクラウス・シュタウフェンベルグ伯爵はベルリンで捕えられ処刑された。

 このような人物と同じ名前をなぜ伊藤計劃氏が持ち出したのか、何も意図がないとはとても思えない。これから小説を読み進むうちに、その謎が解けるのだろうか。
追記(8月25日);『ハーモニー』を読み終わったが、結局この「オスカー」氏はたいした役回りの人物ではなかった。私の深読みのし過ぎだったみたいだが、腑に落ちないのも確かである。


あ・つ・い (2010年8月17日)

 べらぼうに暑いです。私はあまり暑いとは言わないほうですが、その私が脱帽するくらいです。ここ八王子は多分、38度を超えていると思います。ここしばらくは、朝晩は結構涼しい風が吹いたりしましたが、昨日と今日は、朝起きたときから汗が出ます。南大沢駅で電車から降りると、あまりの暑さと湿気とによってメガネがあっという間に曇りました。お昼ご飯を生協に食べに行くわずかな道のりでさえ、はあはあいってしまいます。

 我が家では昼間は一階のリビングを冷房していますが、二階はもうサウナ状態で、とても二階に上る気がしませんでした。

 あっ、たった今、学内の消費電力量が制限値に達した旨の放送がありました。でも、こんなに暑いのにクーラーを止める訳にも行かず、どうしろと言うのでしょうか。もちろん、不要な照明とかコンピュータは消しますよ。でもCO2削減は分かりますが、健康を害してしまっては元も子もないと思います(いつも言っている通りです)。


その後の実験 (2010年8月17日)

 実験するのは大変だ、というのを6月初旬に書いたが、8月13日、ついに王磊さんをチーフとする実験は終了した。とても嬉しい。三軸一点クレビスの修理とテスト・ランとに結局、一ヶ月近くを費やしてしまい、予定がさらに狂ってしまった。実験準備を始めたのは春だったから、足掛け五ヶ月に渡る大実験となった(と言っても、試験体は3体なのだが)。

 王磊さんにとっては初めての実験だったこともあり、何事も慎重に進めたためであるが、多数の変位計の設置と調整に手間がかかったこと、載荷の繰り返し回数を従来よりも増やしたこと、などがその理由に挙げられよう。

 しかし何よりも、載荷ピーク時と除荷時のひび割れ幅の測定が大変だった。我が社では昔ながらのクラック・スケールでひび割れ幅を計っている(下の写真)が、実験を見に来られた京大・河野進さんが「いやあ、ひび割れ幅の測定は大変ですね。測定する人間が壊れるのが先か、試験体が壊れるのが先かの勝負ですよ」と仰っていた。まあ、笑うに笑えない話ではある。


 でもこのような苦労によって、RC梁部材の耐震性能評価手法を検証するための貴重なデータが得られたことと思う。王磊さんには、このお宝を十分に吟味して貰って素晴らしい論文を書いて欲しいものである。とにかく今日は実験終了ご苦労様でした、と言いたいね。

 しかし今年はさらに二シリーズの実験を予定している。実験は得られるものも多く、楽しいが、試験体の設計から作製、そして実験の実施と次々にやってくる実務をこなさないといけないので、段取りとか諸事調整能力なども重要である。そういうもの全てを含めて、学生諸君には積極的に取り組んで欲しい。


ブルーベリーその後 (2010年8月13日)

 ブルーベリー摘みの話をこのあいだ書いたが、その後、阪大の岸本さんから「ブルーベリーは冷凍しておくと、シャーベットみたいに美味しくて、いくらでもいけまっせ」というメールをいただいた。うーん、なるほど、その手があったか。言われてみると確かに美味しそうである。

 こいつぁいいやって訳で、家に帰って得意げに女房に話してみた。すると「何いってるの、あなた。いつだったか冷凍にしたけど、その後、冷凍にしたことをすっかり忘れて食べもせず、結局捨てたじゃないの。何言ってんだか」と即座に却下されてしまいました。全然記憶にありません。まあ、その程度の執着しかなかったんだ、ブルーベリーには。


今年のお盆2010 (2010年8月13日)

 7月末から、大学内のとある重要な事務作業に従事していたため、研究のことは全く考えられなかった。如何に効率よく作業を進め、段取るかということに腐心していたため、それ以外のことは考える余裕がなかった、というのが正しいだろうな。実験を見に行くことすらできないくらいに忙しかった。

 阪大の岸本一蔵さんからのメールや、筑波大学の境有紀さんのHPを見ると、彼らの大学では一斉休業日というのがあって、その期間は大学に来ることまかりならぬ、ということらしい。教員の好きにできないとか、実験していたらどうするんだ、とかいろいろと不満もあるだろう。しかし私自身のことを思うと、この暑い盛りに精神的に辛い仕事に従事させられるくらいなら、大学全体を強制的に休みにして貰えれば、いっそありがたいと言うものである。

 年をとって来て実感しつつあるのだが、日本の古くからの習慣ってやはりそれなりの理由があるものだ。お盆は休む、というのはもちろん祖先の霊を祀るという意味合いもあるだろうが、一年で一番暑い季節には休むべきである、という先人の体験に根ざした知恵だと思うようになった。

 来週も内外での委員会や学会活動、研究室内の小ゼミなど、もう予定がびっしりである。やはり休めないような気がする。でもどこかで一息入れないと夏の終わりくらいになってそのツケが確実に廻ってくるので、気をつけないといけない。何といっても、もう若くないですから。

 そうだった、大学院授業のレポートをまだ採点していなかった。事務方への成績の提出締め切りは今日なのだが、もう無理そうである(というか、とても取りかかる気分になれない)。あっさり諦めて、気分をリフレッシュしようっと。


英語教育を考える (2010年8月12日)

 文科省の学習指導要領が改正されて、小学校でも英語を教えるようになる。また、英語の授業は英語でやるべきである、との意見も根強くあるらしい。そこには、中学・高校・大学と合計十年間も英語を勉強したにもかかわらず、ほとんどの場合には英語を話せるようにならない、ということに対する反省があると聞く。

 私の意見を言うと、小学校で英語を教えることにも、英語で英語を教えることにも反対である。日本語の基礎もできていない小学生に、モノの考え方と深く結びついた異言語を教えることには無理がある。表面的には日常の挨拶くらいは話せるようになるかも知れないが、それはうわべだけの単なる猿真似に過ぎない。明治維新以来、我々の先輩は常に「物真似の上手な日本人」と言われてきた。それなのに、21世紀になってもまだそれを続けようというのだろうか。

 端的に言えば、IとかWeとかの主語を厳格に用いる英語と、主語をあいまいにしたままで会話が進行する日本語とでは、国民性にまで遡ることのできる、思考法の違いに深く根ざした超え難い溝があると私は思う。俺が、私が、と自分の主張を声高に叫ぶ英語と、自分のことを控えめに話す奥ゆかしい日本語とでは、根底にある国民性が全く異なる。文化が違うのである。いくらグローバルな時代と言っても、英語が世界標準と言っても、地域毎に根ざしたヴァナキュラーなものを否定することはできない。むしろそう言った地域性を尊重することこそが、現代には求められている。

 英会話ができれば文法なんてどうでもよい、文法教育が日本の英語をダメにした、という意見にも私は与しない。私は高校生だった頃、担任だった内藤尤二先生に英文法と英文解釈を徹底的に教育された。そのことは短期的には大学入試に役立ったが、長期的には英文法の基底に流れるアングロサクソンのものの考え方と日本人のそれとの違いについて、深く洞察する契機となった。SVOとかSVOCとかの文型を知ることによって、よりよく英語を理解することが可能になる。文法は今でも英語を理解するための基礎であることに変わりはないと思う。

 私はこのように考えるので、大学院講義(耐震構造特論という講義)で使う英文テキストを学生達に全訳させている。バートランド・ラッセルとかロバート・リンドとかのような格調高い英文はそこには無いが、論文や教科書は基本的には文法的に正しい英語で書かれている(まあ時には、おやっと思うような構文が出てきたりもするが)。それを学生諸君に全訳してもらうと、構文を理解していないことがすぐに分かってしまう。「このitは何ですか」とか「この文の目的語はどれですか」などと聞く訳である。30年前に内藤先生に教わったように「SVOCの例文を一つ言え」とか、「SVOOとなる動詞を3つ言え」などとも聞いている。

 まさに歴史は繰り返す、である。私は自身の信念に従って今年もまた英語を教えるであろう。ただこの授業の欠点は、本筋である耐震工学とか鉄筋コンクリート構造とかについての議論がともすれば忘れ去られがちになる、ということであろうか。


大学院入試 (2010年8月10日)

 世間ではお盆休みに入ったひとも多いでしょうが、私のところでは今日から大学院博士前期課程(修士課程のこと)の入学試験が行われます。受験する方のみならず、準備する教員や事務方も大変だろうと思います。いつからかお盆の頃に入試をするようになりましたが、一番暑いこの時期に試験をする、というのもどうでしょうかね。

 日本の夏はやっぱり蚊取り線香と団扇片手にビールでしょう、なんてステレオ・タイプを言っているのは、かなりの年齢のひと、ということでしょうか。


終戦の夏2010 (2010年8月9日)

 今年もまた、まもなく終戦の日を迎える。原爆の日の頃からテレビや新聞には、この話題が増えてくる。NHKスペシャルでは、原爆投下直後から日本軍部(終戦以降は日本政府)による被爆者の詳細な調査が為されたにもかかわらず、それらの成果はアメリカに手渡されてその後の核戦略のための基礎的資料として利用されただけで、日本の被爆者の治療や援護に使用されることはなかった、という衝撃の事実が明らかにされていた。

 本当に驚いた。戦後65年が経っても公開されずに埋もれている貴重な資料が、まだまだ存在することを伺わせる。同時に、戦争を経験した世代の高齢化が進み、個々人の体験が語られることなく永遠に封印されたまま彼岸へと去りつつある。

 そんななかで、戦後世代が戦争時の悲惨な体験を調査して取りまとめたルポルタージュを続けて読んだ。以下の著作である。

 ・『硫黄島 栗林中将の最期』 梯 久美子著(文春新書、2010年7月)

 ・『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』 早坂 隆著(文春新書、2010年6月)

 ・『8月17日、ソ連軍上陸す 最果ての要衝・占守島攻防記』 大野 芳著(新潮文庫、2010年8月)

 今年の夏は特に、8月15日の終戦後に起こった、ソ連軍の北千島への不法侵入についての著作が目立つような気がする。現在でも北方四島は依然としてロシアに占領されたままだが、このときの旧日本軍による祖国防衛戦争がなければ、日本は北海道まで占領された可能性があった。まだ読んでいないが浅田次郎の『終わらざる夏』もこのことをテーマとした小説だろう。

 しかし、やっと戦争が終わったのに、その後に理不尽な戦闘に従事させられた日本軍の兵士達のことを思うとき、本当に気の毒になる。ただ満州にいた関東軍とは違って、この最果ての地にいた軍隊は、祖国防衛のために敢然と立ち上がり命を賭して戦ったことが、大野の著作を読むとよく分かる。そのときに活躍した日本陸軍の戦車は、未だに占守島に放置されたままらしい。

 このような事実は、主として生き残りの当事者からのヒアリングや残された手記等によって明らかになってきたが、それだけではなくて、アメリカ公文書館で公開され始めた資料と、ソ連からロシアへと体制が代わることによって公開されるようになった資料によるところも大きい。それらの資料を探し出して丁寧に読み込む作業は、手間ひまのかかるとても大変なことだろう。しかしそのような労作によって、終戦時の混乱に紛れて侵攻したソビエト・ユニオンの不法と不正義とが再認識されたことには、大きな意義があると考える。

 歴史から学び、それを将来のより良い社会構築のために活かすこと、そのためにも事実は事実として正しく記録されて後世に伝達されることが重要なのである。


夏休み始まる (2010年8月5日)

 期末試験も先週に終わって、大方の学生さんは夏休みに入った。お昼に生協にご飯を食べにいったが、とても空いていて助かった。

 しかし私はと言えば、大いに忙しい。というのも大変に頭を悩ます問題に直面したからである。ある母集団をいくつかにグルーピングする、という数学的問題なのだが、個々のデータの保有する制約条件が複雑に絡み合っているため、どのようなアルゴリズムによれば最適解が導けるのか、さっぱり分からなかった。

 このままでは作業が進まないので、しょうがないの最適解の導出は諦めて、工学的に許容できる解を人力で求めることに方針転換した。そこでエスキス?を繰り返しながら、何とかひとつの解を得ることができた。しかしこれが許容解なのかどうか、全く自信はないのだが。何でこんなことしてるんだろうか、と時々我にかえるのであった。

 これは一例だが、私にとっての苦行はまだまだ続いている。


健康診断 (2010年7月29日)

 学内の健康診断を受けて来た。夏の暑いさなかでの一年に一度の恒例行事だが、今日は雨模様の涼しい天候だったのは助かった。だが、健康診断を受託した実施団体が昨年までと変更になったためか、ものすごく混雑していて一時間半以上かかってしまった。昨年までは40分くらいで終わっていたので、倍以上の時間ロスである。

 診断の様子を観察していて分かったのだが、担当する職員数が極めて少ないのである。血圧測定、採血、聴音の各ブースともに今までは担当者が二人だったのに、今年は一人しかいない。これでは先がつかえてしまって進まないのも道理である。

 どうしてこんなことになったのか。私には分からないが、大学側が業者選定の入札で金額を縮小したのではないだろうか。しかし、時は金なり、である。授業に間に合わないと言って途中で止めて出て行った先生も見かけた。こんなところでケチっても、割に合わないと思ったのは私だけだろうか。学内の放送で「受診するのも仕事のうちです」と言っていたが、勤務時間内は大学にいればいいんだ、といった親方日の丸的な事務方の気質が透けて見える(まさかこのご時世に「親方」もないだろう、とは思いますが、、、)。


前期の授業終了 (2010年7月28日)

 学部の建築構造力学1の期末テストが無事終了した。受験者数は新大学になってからは一番少なかったが、この理由としては昨年度に単位を落とした学生さんがいなかったことが大きいだろう。また、現在の二年生のなかで観光コースに進学することを既に決めている学生さんもいると思われる。せっかく建築都市コースで二年間を過ごすのだから、建築構造力学の初歩くらい勉強しておけば良いのに、とは思うのだが。

 大学院の講義も最後の課題を出題して終了した。学生諸君にとってはいよいよ夏休みに突入である。是非とも有意義に過ごして欲しい。しかし、われわれ教員にとっては業務がいろいろとあって、のんびりとしたお盆を迎えると言う訳にはいかない。忙しく過ごしているうちに後期になってしまうんだろうな。


ブルーベリー摘み (2010年7月26日)

 日曜日の早朝、家内と子供とが農園に行ってブルーベリーを摘んで来た。我が家は多摩東部にあるのだが結構いなかで、自転車で5分くらいのところにブルーベリー農園がある。そこにあることは今まで知っていたが、行ってブルーベリーを摘んできたのは初めてであった。

 農園はそんなに広くないので入場制限しており、朝7時過ぎには受付が終了してしまう(この近所では有名だそうで、コアなリピーターもいるようだ)。ブルーベリー摘み自体は朝8時から始まるが、その日の分を摘んでしまうともう終了となる。おまけに営業は週に二回だけということで、何とも商売気のないところである。

 そこは富永農園と言うのだが、このあたりには「富永さん」が大勢居住しており、一帯の大地主といった感じである。戦国時代の小田原北条家の被官に富永姓の武将がいたので、多分その一族の末裔達であろうと私は思っている。三河地方にも富永姓の武将がいたので何か関係があるかも知れない。

 ということで、摘みたてのブルーベリーをヨーグルトに入れていただいた。ほんのりと甘く、ちょっと酸っぱい味がした。でもブルーベリーって、ムシャムシャと食べられるようなものでもないですよね。ほどほどで御馳走さまと相成った。


趣味ってなに? (2010年7月22日)

 先日は朝から午後まで、某センターでの部会とか委員会に出ていた。部会では阪大名誉教授の大野義照先生とご一緒した。大野先生は登山がご趣味とのことで、部会が終わったあとはだいたい先生の体験談を興味深く伺っている。今日は中国の成都からラサまでランドクルーザーで冒険した、というお話であった。チベット仏教の聖地であるラサについてはテレビの番組などで見たことがあるが、実際に行ったというひとには初めてお目にかかった。いやあ、先生凄いですね。

 そう言えば、北大名誉教授の城攻(じょう おさむ)先生は秘境・ブータン王国に切手収集のために?旅行した、ということをご本人のブログで拝見していたので、リタイア組のパワー恐るべしとの感を強くした。

 で、そんなお話をひとしきり伺ってから、大野先生がおもむろに「ところで北山さんは休日は何をしているの?趣味はなに?」と発問された。そう聞かれて、はたと困った。休日は大体子供に振り回されて、何しているという訳でもない。じゃあ趣味は何かと言うと、昔は「車です」と言っていたが、今では家庭の事情で小さな国産コンパクト・カーに乗っているせいもあって、とてもFun to drive という気分はしない。脱線するが、ヨーロッパでは日本のコンパクト・カーに相当するカテゴリーを「Bセグメント」と呼ぶらしいが、シトロエンでもプジョーでもゴルフでも作りがしっかりしていて、とても日本のコンパクト・カーとは同列に論じられないと思う。こんなマニアックなことを言っているようでは、趣味はやはり車なのかも知れないが。

 という訳で上述のような休日の過ごし方をお話ししたところ、大野先生は「子供が小さいうちに、うんと時間をとって遊んであげて下さい。大きくなってから違ってきますからね」とご自分の子育て体験を話して下さった。うーん、さすがに人生の先輩の仰ることには含蓄がありました。

 この部会のあとの委員会では、田中仁史先生(京大防災研教授)のお隣に坐っていたのだが、猛暑の熱気が部屋の中にまで伝播して来たようだし、お昼ご飯のあとということもあり、ちょっと眠くなってぼーっとしていた。すると田中さんが急に「北山先生も良いと言っていることだから、良いんでしょうね」と大きな声でのたまったので、ギョッとした。私、なんにも言ってないんですけど、、、とも言えず、「いえ、その、はあ」ってな感じであった。びっくりしたなあ、もう。

 こうして眠気も吹き飛んだので早々に退散して、次の西川委員会に出向いたのであった。

追記;田中仁さんには、私が大学院生だった頃に青山・小谷両先生に連れて行っていただいたニュージーランドで初めてお会いした。それ以来、トルコ・コジャエリ地震(1999年)の被害調査をご一緒したのを始めとして、仁先生にはいつもお世話になっています。


万歳!ゼミ三昧 (2010年7月15日)

 昨日は朝から夕方までゼミ三昧の日であった。午前中は二週間に一度の我が社の研究室会議で、M2の白井君と嶋田君、卒論生の鈴木君がそれぞれ資料を提出した。そのいずれも有益な議論ができて白熱し、気がつくと三時間が過ぎていた。

 急いで生協でお昼ご飯を食べて戻ってくるともう二時になっており、あわてて次のゼミに向かった。今度はWPC構造のPCa壁や床に開口を設ける研究に関する、高木研との合同会議である。今年三月に修了した和田君が残していった膨大なお宝(実験データのこと)の処理や料理を、今年の4年生やM1(高木研・長谷川君)に担当してもらっているのだが、こちらのほうは相当に難航している、というのが正直な感想である。変位計をどのように設置したのか、といった基本的な資料が既にあやふやになりつつあり、前途多難な感を強くした。でも彼らの検討の中に随所にキラリと光るものが見られたことは嬉しかった。

 我が社の鈴木君は午前中のゼミでも資料を出したくせに、WPCゼミで出した資料について高木先生から散々に意見されて、私の予想通りに玉砕したのがちょっと可笑しかった(いと、いみじうあわれなり、といった感じ)。でも着実に進んでいるところは大いに評価しているよ。

 で、この高木研合同ゼミでもすぐに三時間が過ぎ去った。自室にてやれやれと思っているところに、今度はM1の平林君と卒論生の石木君がやってきた。第3ラウンドは柱梁接合部パネルの破壊機構に関して塩原理論を検討するミニゼミである。平林君は多分すでに私よりも塩原理論をよく理解しているのではないかと思われるくらい、一所懸命に勉強している。ここでもまた議論が白熱して、「君の言っていることは矛盾していないかい」「うーん、そうでしょうか?」と言った会話が飛び交った。

 もうこの頃になると相当疲れていたので、一時間半くらいでお開きにして貰った。いずれのゼミでも、若い柔軟な頭脳から飛び出した考えに触れることができ、こちらの脳もフル回転であった。こんな感じで考え続けたので、夕方にはぐったり疲れ切っていた。しかしそれは心地よい、爽快な疲労感であった。大学においてこんなに充実した研究ライフは、そうそうあるもんじゃない。付き合ってくれた学生諸君に感謝、である。

(蛇足; この小文のタイトル「万歳ゼミ三昧」って、早口言葉で言えますか。三回唱えてみて下さい。結構、難しいですよ)


参院選が終わって (2010年7月14日)

 まあ、ある程度予想されていたとは言え、将来に対して暗澹たる気分にさせる参院選でしたね。選挙の直前に消費税増税を口にしたのは、今となってはあとの祭りですが、まずかったということでしょう。でも自民党も同じことを言っているのに、民主党が惨敗して自民党が復活したことが私には驚きでした。まあ、総理大臣の発言と一野党の総裁のそれとでは重みが違った、と言うことかも知れませんが。

 しかし皆さんはもう、一年前のことをすっかり忘れちゃったんでしょうか。自民党には日本を任せられないという審判が下ったのが、わずか一年前ですよ。国民の判断がこんなに急激に転変することに危機感すら抱きます。ポピュリズム政治の危うさでしょうね。

(追記;今朝の朝日新聞の調査によれば、自民党に政権を任せられないと考えるひとが約7割いる、ということでした。と言うことは、民主党にお灸を据える的な、ある種のバランス感覚の結果とも言えそうです。)

 現在の日本の経済状況や社会情勢を考えたとき、そんなにのんびりと構える訳にもいかないことは承知しています。それでも一国の舵取り役をそう頻繁に代えても、いいことはないと思うんですが、、、。それとも強力なリーダーシップを発揮できる政治家は現代には絶滅してしまって棲息しておらず、社会に漂っている閉塞感を一気に打破することなど出来ないのでしょうか。

 とにかく未来の世代に対して、我々の自由奔放さのツケを回すことだけは避けたいと思います。そうしないと若いひと達が希望を持って暮らして行くことすら、できなくなってしまいます。「大きな夢」は不必要でも、個々人の「小さな希望」は生きる糧ですからね。


不思議に思うこと (2010年7月12日)

 JCI(日本コンクリート工学協会)の年次大会が終わった。今年は大宮のソニックシティでの開催のため自宅から通うことができた。それはそれで楽だが、反面見知らぬ土地に出掛けて行くときの楽しさというものはない。

 会場は大宮駅から歩いて直ぐなので助かったが、発表会場となるフロアの建築計画は正直言って、ひどいもんであった。廊下の幅が極めて狭く、これが大勢のひと達が行き来するための公共のスペースかと我が目を疑った。また、エレベータの前に人々が溜まれるスペースが全くないため、ひとつのセッションが終わるともう廊下にひとが溢れて大渋滞する。

 さらにエレベータ計画も貧弱なため満員で乗ることができず、エレベータに乗ることを諦めて6階から階段で降りることになる。私は大学でも階段を利用して7階まで上り下りしているのでさほど苦痛ではないが、鈴木計夫先生のような後期高齢者(失礼な物言いだが、ご本人がそう言っているのでお許しを)にはおつらいことだったと思う。

 ちょうど市之瀬敏勝先生(名古屋工業大学教授)とご一緒になり、たまたま二人とも大学で設計製図のエスキスをやっているという話題で盛り上がったところだった。そこでこの惨状を見て、「これは建築計画がひどいですね」「私がこのプランのエスキスを見たとしたら、やっぱりひどいと思いますよ」などと会話を交わしたのであった。

 さて論文発表のことであるが(こっちが本題です)、いつも思うのだが日本の論文発表ってなぜ、かくも盛り上がらないのでしょうかね。「柱梁接合部」のセッションは例外的にいつも討議が盛り上がるのだが、それも塩原さんと私とが大概論争していたからであって、今年は塩原さんの質問も少しトーンダウンしたので、私も噛み付く必要はなかった。

 会場にいるおおかたのひと達は質問もせず、つまらなそうに他人の論文発表を黙って聞いている、というふうに私には見える。それではいったい何のためにその場にいるのだろうか。不思議である。塩原さんとか私とか、鈴木先生とかの一握りのひとしか質問しない。個々の発表があまりに専門的すぎて質問すらできない、ということはあるのかも知れない。それは私も同じであるが、10分の発表を真剣に聞いていれば「おやっ?」と思うことのひとつや二つ、気がつくものだと思うのだが。

 しかし、発表があまりに専門的すぎるために質問できない、という訳でもなさそうである。私が座長をしたセッションで、島根大学教授になられた丸田誠さんが超高強度材料を用いた超高層RC建物の耐震設計に関するプレゼンを「土木のひともいるので、、、」と平易にして下さったのだが、それに対する質問も皆無であった。うーん、不思議である。これはもう単なる無関心としか思えませんな。

 JCIには土木分野および建築分野の人々がクロスオーバーしているため、お互いが相手のことをよく知らない、ということは実感としてある。しかし研究の対象となるのはコンクリート構造物であり、その破壊として曲げ破壊やせん断破壊を扱うという点では土木・建築などは関係ない。常々このように思っている私は、土木のひとにもガンガン質問した。知らないこと、ファミリアでないことでも折角なのでその場では一所懸命に考える。そのためひとつのセッションが終わると、もうグッタリと疲れるのが常である。


常識を疑う (2010年7月12日)

 JCIの年次大会で感じたことの続きである。われわれ研究者は、常識と言われるものを常に疑うことによって研究を発展させて行くと言っても過言ではない。常識的に言えばこうなるのだが本当にそうだろうか、と疑問に思うことによってスタートする研究も多いはずである。

 このような観点からは(私が)首を傾げるような研究発表を、約半年のあいだに二つも聞いたのである。ひとつは昨年秋の日本地震工学会年次大会にて、もうひとつは過日のJCI年次大会にて、である。そのいずれもが土木分野の発表であった。断っておくが私が「おやっ」と感じたのは別に土木分野プロパーの問題ではない。ひとつは主筋の抜け出しについて、もうひとつは基礎のロッキングについてであった。いずれも土木・建築といった専門分野にこだわらない問題であろう。

 RC橋脚の主筋の抜け出しについて、土木分野では基礎からの抜け出しのみを考えるようだが、上部構造物自体からの主筋の抜け出しがない(あるいは無視してよい)、と断定できるのだろうか。後者の研究発表では橋脚-基礎の全体系を対象として、耐震補強した基礎のロッキングは生じないものとして研究を進めていたが、地震力による正負交番載荷を受けた状態で本当に基礎のロッキングは生じないのだろうか。

 研究の前提条件や対象範囲にも大きく依存するだろうが、私にはこれらの「設定」が十分な検討の末になされたもの、とは思えなかった。発表会場において私はこのような「常識的な設定」に対して疑義を提示したが、納得可能な回答を得ることはできなかった。

 しかし「人のふり見て我がふり直せ」ではないが、他人のことばかり言えた義理でもない。自分自身もそう言った「常識」に捕われているなあと感じることが、特に若い学生さん達とディスカッションしているときに時々ある。これはいけない、気をつけなければ、という思いを再認識したのであった。


プチ旅行 (2010年7月6日)

 昨日の午後、清瀬にある大林組の技術研究所へ行って来た。大学のある南大沢から清瀬まで電車で行くのは結構大変である。経路は以下の通りである。

京王・南大沢発--(京王相模原線)--京王・稲田堤--(徒歩7分くらい)--JR・稲田堤--(JR南武線)--府中本町で乗り換え--(JR武蔵野線)--JR・新秋津--(徒歩6分くらい)--西武・秋津--(西武池袋線)--清瀬着

 とまあ、こんな具合である。清瀬駅からはさらにバスかタクシーで技研に向かうことになる。鹿島の技研だったら駅前(京王・飛田給)にあるのになあ、などと全く無関係のことを思ってしまった。ネットの乗り換え案内によれば、電車に乗っている時間は40分にも満たないのに、歩いたり、駅待ちしたりでトータルとしては1時間15分近くもかかってしまう。

 八王子市南大沢の大学と清瀬とはほぼ南北の位置関係にあるが、電車の経路はジグザクと北上している。東京の特性として都心からの放射状の路線は発達しているのに対して、南北間の移動手段は非常に貧弱である、という欠点をモロに受けているのだ。このように東京西郊の田舎から、多摩中央北部の田舎への移動はちょっとした旅行気分なのであった。

 技研では勝俣英雄部長や米沢健次さん、清水明さんなど多くの方にお世話いただいた。篤く御礼申し上げる。


読書のリズム (2010年7月5日)

 私はいつも5、6冊の本を同時並行して読んでいる。あっという間に読み終わる本もあれば、数ヶ月経っても読み進むことのできない、難航している本もある。ところが先週から今週にかけて4、5冊の本をたて続けに読了してしまった。読書のリズムがどうもそういう巡り合わせになったようだ。

 そうすると次に何を読むか、という悩みが沸き上がる。未読の本がかなりストックされてはいるのでただ表紙をめくればよいようなものだが、どんな本でも新たに読もうと決断してページを開くには、それなりのエネルギーが必要である。そのような初期エネルギーを相次いで発動するのは正直、億劫ではある。

 それならば1冊だけ読めば良いだろう、ということになる。まあその通りなのだが、電車の中で読むものと家でソファに座って読むものとでは、やはり違うでしょう。そんな訳で、今はどんな本を読もうかとあれこれ楽しくも悩んでいるところである。ただ、たまたま大学への車中で一冊読み終わったため、帰りの電車用に研究室にただ1冊ストックしていた『鳥羽伏見の戦い』(野口武彦著、中公新書)という本を(この場合には何も考えずに)鞄の中に放り込んだのであった。


シャラノキ (2010年6月30日)

 湿度の高い蒸し暑い日が続いていますね。6月も末となり今年も半分が過ぎました。私は駅から研究室までの経路として、大学の正門の脇に塔を配した教室棟に入ってその中庭を突っ切ることにしています。これが最短コースだと思います。

 その中庭に白い花をつけた木が何本か植わっています。大学なのでちゃんとネームプレートがついているので、私のように不案内な人間にもそれが「シャラノキ」であることが分かります。その白い花が風もないのに、ポロッともげるように落花するのを見かけました。よく見ると木の下には沢山の花が既に落ちていました。

 その落ち方がツバキのようだったのです。ツバキの花は首がもげるように落ちることから、江戸時代以前の武士には大変に嫌われていたそうです。シャラノキの落花のさまを目の当たりにして、これは風流と言うよりは哀れさを催すものだな、と感じました。もうしばらくすれば、シャラノキの白い花々も全て散ってしまうんでしょうね。いとあわれなり、です。


どうなる、日本 (2010年6月28日)

 サッカー・ワールドカップで日本チームが大方の予想を裏切って(?)16強に進出しましたが、その話ではありません、念のため。でも日本人って、本当にコロッと変わりますね。こういう熱し易いが冷め易い、という国民性がいかに危険であるか、ということは歴史が証明しています。気をつけたいと思います。

 さて参議院選挙が始まりましたが、消費税増税が俄然クローズ・アップされてきましたね。日本の財政状況を考えたら、今のようなバラマキ政策でよい訳はありませんから、何らかのアクションが必要なことに異論のあるひとはいないと思います。このままでは未来の世代に膨大な負の遺産を押し付けることになり、次世代のひと達に希望に輝く将来を思い描いて貰うことは不可能です。これは途方もなく不幸なことでしょう。

 ではどうするか、と言うことで、簡単に取れる消費税を上げようというのは、こちらも誰でも思いつく一番手ですな。しかしそれをいきなり今の二倍の10%にする、というのはどういう計算に基づいているんでしょうか。消費税を上げれば何とかなるという幻想がその背後に見え隠れしていて、結局は大きなビジョンを描いている訳ではない、場当たり的な提案のような気もします。

 また自民党以外の野党が言っているように、消費税を上げる前にやるべきことがまだまだゴマンとあるはずです。議員定数や議員歳費の問題、役人の天下り先となっている諸機関への不透明な税金の投入、各種税制のあり方、など挙げればきりがないでしょう。人口が減って行き、それにともなって経済も縮退して行くことが必然とすれば、今以上の福祉と健康に関する行政サービスを享受しようと考える限り、やがては消費税の増税は避けて通れない道でしょう。

 私もいずれは消費税は上げざるを得ないと考えています(欧州の先進国を見れば分かるでしょう)が、それはこの2、3年先ということではなく、またいきなり10%ということもないんじゃないでしょうか。菅首相には是非ともリーダーシップを発揮して日本の国を引張ってもらいたいし、期待もしていますが、まだ何もやらないうちから自民党の「10%」をいただいちゃって選挙戦に突入、というのは、どうにもいただけませんね。

 消費税が選挙の争点に坐ってしまうと、本当に大切なこと(大きな枠組み、と言っても良いでしょう)が置き去りにされてしまって、この国の将来をどうするかという未来像が語られないことを危惧しています。


オムニバスの授業 (2010年6月23日)

 一年生を対象とした『建築学概論・演習』の講義が終わりました。私の担当は今日の二コマで、「RC構造って何だろう?」というテーマで話して最後に課題を提示する、というものです。

 毎年そうなのですが、なんで彼らはじっと聞いていられないんでしょうかね。だんだんと後ろのほうがザワザワとうるさくなってきたので、何やってんだ!と一喝しました。またお疲れなんでしょうか、寝ているひとも沢山いました。プロジェクターを使って説明するため、教室内は薄暗くなっているので、寝るにはうってつけです。まあ、私の講義が魅力的ではない、ということでしょうけどね。

 一年生の前期で建築の概要を先生達が入れ替わり立ち替わり説明してくれるこの講義は、彼らにとっては大いに興味を引く授業だと思うんです。でも、必ずしもそうではないと言うことは、昔と違って建築に興味がないという学生さんも少なからず存在する、ということを物語っているようで、暗然たる気持ちです。大学全入時代に突入したので、仕方がないんでしょうか。


モラルの欠如 (2010年6月22日)

 わが大学の学生によるネット上での心ない行為が問題となっている。今朝の朝日新聞にも取り上げられるくらいの騒ぎとなった。建築都市コースのHPからアクセスできるアドレスにも、彼らを非難し処罰を求める匿名メールが(どういうわけか)舞い込んできた。彼らのやったことはひとの道に反するし、他人の気持ちを慮ることのできない幼稚な行いであり、非難されてしかるべきものである。大学当局による公式のお詫びが大学HPのトップに掲載された。

 都立の4つの大学が統合されて現大学が誕生してから、学生定員が大幅に拡大されたため、言いたくはないが東京都立大学時代には入学してこなかった人たちが多数入ってくるようになった。それに学生の未成熟状態および幼稚化が重なって、学生諸君のモラルの低下が進行していたように感じる。でももう大学生なんだから「大人としてちゃんとやろうね」なんて言いたくもない。当世、そんなことではいけないんだろうか。

 しかし朝日新聞に報道された紙面の面積は相当に大きかった。それに較べて、大学が広報活動の一環として出している広告は大枚をはたいているにもかかわらず、縦長のちーちゃいやつに過ぎない。こんなマイナス・イメージの報道で大学名が出た場合の広告効果(逆効果?)って、どれくらいなんだろうか。こんなことも考えさせられる事件である。


驚くべき小説 読了 (2010年6月21日)

 伊藤計劃著『虐殺器官』を読み終わりました。結局、ミイラ取りがミイラになってしまいました(ミステリーなので詳細を書くことは遠慮しますが)。解説にも少し触れていましたが、この小説のキーとなる「虐殺の深層文法」とは如何なるものなのか、それがどのようなメカニズムで人間を残虐行動へと駆り立てる脳内スイッチを入れるのか、については何も記述されておらず、その部分は多少とも欲求不満をおぼえましたね。

 しかしいずれにせよ、おもしろい小説であることは事実です。現代の混沌とした世界情勢を色濃く反映している小説と言われますが、私にはむしろ人間の抱える宿命とか、太古から受け継がれ進化し続けてきた遺伝子の役割とかが興味深かったです。


寿×3 (2010年6月20日)

 梅雨のあい間の薄曇りの午後に、壁谷澤寿一さんの結婚披露宴があった。言わずと知れた壁谷澤ジュニアである。私も彼が小さい頃から知っていた(ここに書きました)。21世紀冒頭にシアトルであった日米ワークショップ(壁先生が主催者)には親子で参加しており、そのころから多分、建築構造の分野に進もうと考えていたんだと思う。

 主役のかずくんだが、ほんわかとした雰囲気の持ち主で、ほんとに素直な感じが滲み出ている好青年に成長した。自分の子供ではないとは言え、その立派に成長した姿を見て嬉しく感じたのは私だけではないだろう。これから独り立ちした研究者として、さらに活躍することを期待しているよ。いやあ、おめでとうございました。

 その彼のお相手もRC構造を研究しているひとということで、この日の披露宴ではRCの研究者が大集合だった。隈沢文俊さん(芝浦工大教授)なんか、「今日はここで委員会が開けるぞ」なんて言っていたくらいである。

 私のお隣は和泉信之先生(千葉大学教授)だったので、久し振りに懐かしく千葉大学のことをあれこれとお話しした。また和泉さんはゼネコン勤務時代には本学の『建築架構計画』という三年生向けの授業(残念ながら専門科目のリストラにあって今はない)の非常勤講師を引き受けて下さっており、そのときの経験が役立ったとお話しいただいた。私もその講義を学生に混じって聴講したことがあったが、和泉さん御自身が構造設計した建物を紹介しながら、構造設計の醍醐味や楽しさが伝わって来るような興味深い講義だった。

 で、披露宴が終わったあとに岡田恒男先生から、「塩原君と接合部の論争をしているんだってね。どんどんやって下さい」と言われたので、私は「いえいえ、どうも私のほうの分が悪くて、もう論争にはなりません。塩原理論は卓越しているのでやがてはパラダイムの転換が起こるかもしれません」と申し上げた。すると岡田先生は「ああ、そう。現象はひとつだからねえ。でも、お二人のやっていることがそんなに違っていることもないと思うよ」と、最後のほうは私へのエールともとれるお言葉を残して、去って行かれた。ここでもまた、いやあ先輩ってほんとにありがたいですね、と言うことになった。

 岡田先生にはこう申し上げたが、私が今までやって来たことが完全に間違っているとは(当然ながら)考えてはおらず、塩原理論では説明できない実験事実があることも把握している(そのことについても、常々塩原さんと論議している)。しかし塩原理論が柱梁接合部の物理を理解する上で、今まで誰も言わなかった卓抜したアイデアに基づいていることは確かであり、そのことに対して私は千万の敬意を表している。

 何だか最後は相当に脱線したが、かずくんの披露宴を肴にして多くの先生たちといろんな話をすることができて、とても楽しかった。耐震ファミリー、ありがとう!


大学院入試説明会 (2010年6月18日)

 本学大学院・建築学域の博士前期課程入試の説明会を開催した。教室が満員となるほどの盛況で、102名(他大学:60名、本学:42名)の参加があった。このような社会情勢なので就職も芳しくないせいだろう、大学院を希望する学生さんは確実に増えているようだ。

 で、この説明会の終了後に、プロジェクト研究コース(「学校建築ストックの利用価値向上に資する対震改修デザイン形成」)に興味を持って話を聞きにくれた他大生が1名、北山研の話を聞きに来てくれた他大生が2名、それぞれいた。また、プロ研や北山研に興味があるという申し出も何件かあった。本当にありがたいことである。私にとっては、これだけでも説明会を開いた価値があったというものである。
 なお説明会の準備等には我が社の大学院生(嶋田、白井、村上の各氏)に手伝って貰った。助かりました。


ひどすぎる (2010年6月18日)

 太平洋戦争終結後にシベリア等に抑留されたひと達に対して慰謝金を支給する特別措置法が、この16日に国会で成立した。太平洋戦争の終結直前にソビエトが火事場泥棒のように旧満州に侵攻したことからシベリア抑留は生じたので、第一義的な責任はソ連にある。しかし過酷なシベリアでの強制労働を生き抜いてやっと帰国できたひと達(極寒の地で食料もなく想像を絶する労苦を強いられたひと達である)に対して、日本という国家がいかに冷たかったか。この事実を知ると慄然たる思いがする。

 戦争は国家が始めたものなのだから、その責任は日本国政府が負っているのは自明の理である。それなのに今までシベリア抑留者に対してねぎらいも補償も全く為されなかったという。これはあんまり酷すぎる。終戦の夏から今年で65年、日本の戦後はまだ終わっていない。


驚くべき小説 (2010年6月17日)

 唐突ですが皆さん、伊藤計劃という作家をご存知でしょうか。私もつい2週間前までは知らなかったのですが、新聞の書評に「こんなおもしろい小説はない」と紹介されていたので、生協に積んであった『虐殺器官』(ハヤカワ文庫、2010年2月)を買って読み始めました。まだ読み終わっていませんが、結論を言えば期待を裏切らない面白さ、です。

 この小説のタイトルは相当に物騒で、中味も非常に残酷なシーンが多いのですが、随所に人間とか科学・技術とかについての鋭敏な分析が施されており、SF小説という単純な分類を遥かに超えている作品だと思います。読了していないので何とも言えませんが、タイトルになっている虐殺器官とは、どうも人間自身の脳であるような気がします。長い進化の過程で遺伝子によって人間の脳にインプットされた狂気、それが呪文によって意識の表層に浮かび上がって来たとき、人間による大虐殺は発生する、というのです。まあ詳しい内容はご自分で読んで下さい。私の理解は間違っているかもしれませんから。

 これを書いた伊藤計劃氏ですが、昨年春にわずか34歳にしてこの世から去ったそうです。ですから残した長編小説はわずかに3編しかありません。この奇才とも言うべきひとの小説をもう読むことができないかと思うと、残念でなりません。夭折した建築家・岩元禄(京都西陣の電報電話局で有名で、やはりほとんど作品を残すことなく死没した)を思い出しました。彼らの若くして失われた才能に哀悼の意を表します。


小山さんのお祝い会 (2010年6月12日)

 この週末に、明治大学建築材料研究室の第4代教授に就任した小山明男さんのお祝いパーティがあった。私も縁あって、先任教授の菊池雅史先生からこの会に招待していただいたので、のこのこと出掛けていった。小山さんのところのお子さんは、我が家の子供とほぼ同じ年齢であることもあって、とても可愛かったな。

 で、行ってみて沁みじみと感じたのは、この連綿と続く研究室の鉄の結束であった。彼らは自分たちのソサイエティを「まとい会」と呼んでおり、その名付け親は初代教授の狩野春一先生とのことであった。何よりも驚いたのは、小山さんのお父さんのような年代の方がこのお祝いの会に多数参加されていることであった。私の出身の武藤・梅村・青山・小谷研究室でも最近は上下の繋がりが薄れてきており、「まとい会」の盛況は羨ましい限りであった。


 このような鉄の団結の「まとい会」であるが、私のような部外者のほかにお二方、ご招待された先生がおられた。いずれも明治大学名誉教授の狩野芳一先生と洪忠喜先生である。実はお二人とも私にとっては研究室の大先輩に当たられるので、相当に緊張した。と言うのは嘘で(すいません)、同じ研究室出身ということで気楽にお話しさせていただけた。明大の「まとい会」と同様に武藤・梅村研究室の伝統も連綿と受け継がれていることを認識できて、私としては内心嬉しかった。

 若くして4代目となった小山さんだが、これからも元気で大いに活躍して欲しい。健闘を祈っているよ。


先輩はありがたい (2010年6月12日)

 うえの続きである。狩野芳一先生とは、私が学生時代に野球を通して交流があり(研究を通して、ではないところが残念ではあるが)、さらには私の父と狩野先生とが同級生ということもあって、久しぶりにゆっくりと狩野先生のお話を伺うことができた。

 小山さんのお祝いの会が終わって、新宿駅で「もう少し、どうですか」と狩野先生からお誘いいただいたときは、「これでさらにいろんなお話を伺える、ラッキー」と思ってとても嬉しかった。こうして久しぶりに大先輩のお話をサシで伺うことができた。そしてそれは、私にとっては望外の得難い経験だったのである。

 このページで何度か書いたように、今年になってRC規準を十年振りに改訂した。そこで1958年版から続いてきた許容付着応力度がどのような経緯で決まったのか、狩野先生に伺ってみた。と言うのは、1958年版の制定のときに許容付着応力度を定めたのは明治大学の小倉弘一郎先生だったからである。小倉先生の身近におられた狩野先生ならば、許容付着応力度の数値が決められた根拠について、何かご存知かもしれない、と思ったのだ。

 そうして狩野先生がお話しくださったのは、もともとの許容付着応力度はドイツの規準を参照して定められたこと、小倉先生は付着割裂破壊という現象を実験によって把握して、ドイツの規準をモディファイされた、ということであった。小倉先生はある意味天才であって、ピンポイントの実験でそのような規格値を定められた、ともお話しされた。しかしそのような経緯はドキュメントとして残されてはおらず、今となっては誰も知らないことである、ということを私が申し上げると、狩野先生は「そうですか、当時は常識だったんですが」と感想を漏らされたのであった。

 しかし私が一番勇気づけられたのは、狩野先生が「自信を持って下さい」と仰られたときである。ときどきこのページで書いてきたように、某センターなどでひとさまの仕事の評価とか評定のお手伝いをしているのだが、私はどうにも馴染めずに、ある意味社会貢献だから仕方がない、といったスタンスで望んできた。何が嫌かと言うと、その分野では私よりも経験があり実績もあるひと達に対して、あれこれ訳知り振ってコメントすることである。

 そのことを狩野先生に申し上げると、先生は「自信を持って下さい。あなたが信念を持って言ったことは必ず相手に通じるし、それによって良いものが出来上がるのですから」とお答えになった。しかしこうもおっしゃった、「相手にこちらの意見を押し付けてはいけません。最終的に責任をとるのは相手なのですから。あなたの意見は記録として残せば良いのです」。

 狩野先生のご経験から発せられたこのお言葉を聞いて、私は心底から先輩ってありがたいなあ、と思ったのである。狩野先生はその他にも私にとってはビックリするようなことを率直にお話しくださった。年長者の知恵とか経験とかはかくも得難く貴重なものなのか、ということを再認識することができた。

 ついでだが、狩野先生は我が家の親父のことを「北山は我がままな奴だからなあ」と仰っていた(親父、聞いてるか?)。あたり前だが、狩野先生と父とは私よりも長い付き合いなのだから、私よりも的確に父のことを把握されているはずである。親父のことは呼び捨てだが、私を呼ぶときは「北山さん」とか時には「北山先生」などとも呼ばれて、面映い心地がした。

 こうして私にとっては至福のひとときがあっという間に過ぎ去った。新宿駅の地下街で先生とお別れして雑踏の人ごみの中を歩いて行かれる先生の後ろ姿を、私は突っ立ったままいつまでも見送りながら、口のなかでこう呟いたのである。先生、どうかこれからもお元気で、我々に貴重なお話を聞かせて下さい、と。


業績評価 (2010年6月11日)

 昨年度の業績評価の結果が先日、建築学域長の須永修通教授より手渡された。新大学になってから本格的に業績評価が導入されて、その結果によって業績給が加算されたりされなかったりする。評価の項目だが、教育、研究、社会貢献および組織運営の4つで、それらを総合した総合評価が冒頭に表示されている。評定値はS,A,BおよびCの4ランクで、まじめにやっているひとは基本的に「B」である、という。

 しかしいったいどうやって評価しているのか、全く不明である。うんうん唸りながら評価をしている管理職の先生方には大変に申し訳ないのだが、評価の基準と言うものはあるのだろうか。数年前に某主任から評価書を渡されるときに「普通の人はB評価ですから、がっかりしないで下さい」と念押しされて自分の評価書を見ると、なる程ほとんどの項目がB評価になっていた。

 まあ、いつでもベストを尽くして研究や教育あるいは学会活動をやっている積もりなので、他人の評価などどうでもよい、と常々思ってはいるが、こうやって「B」と判子を押されると私のような凡人は心穏やかではいられなくなる(その瞬間だけだが)。よーし、がんばるぞーと思うよりは、こんなにやってても「B」かー、という落胆のほうが大きい。

 これでは何のための業績評価なのか、分からなくなる。業績と給料とがリンクしているので、多分相対評価なんだろうが、そのような評価にどれほどの意味があるのだろうか。対外的には「毎年、教員の業績評価やっています」という本学の基本方針を発信できるというメリットはあるのだろうが、そもそも大学教員に営利企業の社員さんのような評価が必要なのか、私には疑問である。

 さらに附言すれば教育の効果は即時的に表れるものではなく、十年スパンで見えて来る気長なものであることは、自明の理であると私は思うのだが、、、。そうは言うものの、任期制や業績評価を受けることを私も承諾したのだから、文句を言ってはいけないのかも知れない。

 毎年一度だけ、この評価書を手渡されたときにだけ思うことを書いてみた。オフィシャルな「業績」などは気にせず(というか、直ぐに忘れますが)自分のやり方で仕事するだけです。


実験はたいへんだ (2010年6月9日)

 いつも話しているように、RC構造の実験をするのは大変です。今は、大型実験棟でM2の王磊さんをチーフとするRC十字形柱梁部分骨組実験をやっていますが、次から次へとトラブルに見舞われています。

 まだ一体目なのですが、載荷もやっと終盤に差し掛かってペースが上がって来たかと思っていた矢先に、今度は三軸一点クレビスの不具合が降って湧きました。今までとは機構が異なる新しい三軸一点クレビスを2年ほど前に導入したのですが、どうも微妙な調整が難しいようで、前シリーズの実験のときには顕在化しなかったトラブルです。三軸一点クレビス内のどこかがどうも引っ掛かっているようで、水平ジャッキの動きに対して鉛直ジャッキの接続部が追従できずに、ある程度水平変位が進むとそれに堪えられるなくなった鉛直ジャッキ接続部が急激に動いて異音が発生するようです。

 すなわち三軸一点クレビスが瞬間的には半固定のような状態になるので、鉛直ジャッキのシリンダー・ヘッドには明らかにせん断力が作用します。そうすると最悪の場合には、鉛直ジャッキのシリンダー・ヘッドがせん断力によって脆性的に破断する可能性があり(このような事故は我が社では恥ずかしながら過去に一度だけ生じています)、大変に危険な状態だと言えるでしょう。

 そう言う訳ですので、取りあえず柱に掛けている圧縮軸力を半減させて実験を継続することにしました。でも、それも様子を見ながら、ということになります。これでも異音の発生が止まない場合には、軸力をゼロにせざるを得ないでしょう。これでは実験を継続できません。さてさて、困りましたな。

(追伸) よく観察したところ、鉛直ジャッキ接続部が急激に動いて異音が発生する直前に鉛直ジャッキのシリンダーが明らかにたわんでいることが分かりました。あな恐ろしやあ。このままでは実験できないので、結局のところ実験を中断して三軸一点クレビスの点検を行うことにしました。うーん、進まないです。


自転車 (2010年6月9日)

 仕事から帰ってくると、子供が「自転車に乗れるようになったよ」と息せき切って言いながら、「ねえ見てて」と自転車にまたがった。そして補助なしで、少しフラフラしながらも乗れる様子を披露してくれた。補助輪をとってから、後ろを押さえながらの練習を少しはやったが、あまり練習もせずに女房からおこられていた。ところが今日乗ってみたら乗れるようになっていた、という。これで子供の世界がまたひとつ、広がることだろう。

 自分のことを思い出すと、私自身のときには補助輪を片方ずつ取り外してゆき(もちろん父親がそうしたのだが)、その状態でしばらく乗っているうちに、やはりいつの間にか補助なしでも乗れるようになっていた。それがいつ頃かは定かでないが、幼稚園の年長くらいではなかったか。そのときの思い出は今でも鮮烈に憶えている。女房に聞いたら、やはりよく憶えていると言う。

 そんな訳で子供にとっては、自転車に乗れるようになったことはとても嬉しい出来事なんだろうな。でも昔と違って今は車がビュンビュン走っているし、怪しげなひともいたりするので、子供を独りだけで自転車に乗せるのはちょっと不安である。おおらかな社会に戻ることはもうないのだろうか。まあ都会に住みながら、そんな桃源郷とかユートピアを夢見るほうが間違っていると言えばそれまでではある。


奇なる真実 (2010年6月8日)

 昭和初期の対中国戦争や太平洋戦争に関する話はこのページで何度か触れてきたが、終戦から半世紀以上を経た今になってもなお知られざる事実は無数にあるだろう。第二次世界大戦中にアメリカ本土に設置された日本兵捕虜秘密尋問所について記述した『トレイシー』(中田整一著、講談社、2010年4月)を読んで、その感を一層深くした。

 戦争中の日本には捕虜はひとりもいないことになっていたが、実際にはそんなことはなくて、五千人近くの日本人がアメリカ本土に収容された。特殊潜航艇でハワイの真珠湾へと出撃して捕われた酒巻和雄少尉が日本人捕虜第一号であることは、比較的よく知られている。しかし、この日本兵捕虜秘密尋問所(そのコードネームが「トレイシー」である)に送られてきた一般兵士や将校については初めて聞くことばかりで本当に驚愕した。

 そのなかでも、収容所内で撃たれて亡くなった潜水艦乗員の悲運とその事実が明らかにされるまでの気の遠くなるような道のり、終戦間際のドイツから日本に向かったU-ボートに乗っていてアメリカに投降したドイツ空軍大将が、同乗していた日本人海軍技術将校二人の自決を涙ながらに日本人捕虜(海軍少将)に語ったシーン、に深い感銘を覚えた。

 後者の悲劇については、テレビでも何度か放映されたことがあって広く知られているだろうが、前者の一兵士の悲劇が明らかになってその遺骨が四十数年後に日本の遺族のもとに還ってくるまでの顛末は涙なしには読むことはできなかった。

 本当に戦争は悲惨であり、その傷跡は戦争が終わっても当事者がこの世を去っても、決して消えることはない。そのことを重々分かっていながら、今なお戦争を続ける人間とはいったい如何なる存在なのだろうか。そういう“原罪”を背負った人間というものに対して、空虚感を抱かずにはいられない。


データベース、ん? (2010年6月7日)

 ここのところ、日本建築学会のRC梁柱性能評価WG(北山が主査である)において、RC梁・柱部材の既往の実験結果をデジタル化してまとめる、所謂データベース作りを行っている。直接の目的は、建築基準法令で定められたFAとかFBといった部材ランクにおいて暗黙のうちに要求されている変形性能を明示することであるが、当WGに本来求められている、RC部材の耐震性能評価に関する様々な検討にも使えると期待している。実際のデータベース作りは私がひとりでできる訳はないので、石川裕次さん(竹中工務店技研)を中心とする若手によるタスク・フォースで精力的に作業していただいている。

 もう一つ、北山研究室でこの約十年のあいだに実施したPC柱梁部分架構実験のデータベース作りも研究室内で取り組んでいる。こちらはM2の嶋田君を主担当者として着々と進んでいる(はずである)。PCやPRCの十字形柱梁部分架構の実験は十年前にはそんなに多くなく、柱梁接合部パネルがせん断破壊する実験はほとんどなかったと記憶する。そんな状況下で、鹿島技研の丸田誠さん(当時、現島根大学教授)との共同研究が契機となって、我が社でもPC部分架構の実験に取り組むようになった。そしてこの約十年で、我が社での試験体数は40を超えるほどとなった。

 このようにある意味、データベース漬けのような状態なのだが、ふと京王線の車中から見た駅名の看板に目が止まった。その駅とは「代田橋」であった。新宿から二つめの小さな駅で、読み方はいろいろありそうだがここでは「だいたばし」と読む。その漢字の駅名表示の下にローマ字があった。もちろんそれは、

 Daitabashi

である。だがそのとき、私は一瞬わが目を疑ったのである。なぜかって?それは、そのローマ字が

 Database

に見えたからさ。長い前振りのあとの、つまらない落ちでした(ちゃんちゃんっ)。


メディアのはなし2 (2010年6月3日)

 昨日の午前中、電気協会の会議があった。例の(こちらをどうぞ)指定席のやつである。今日もまたまた、師匠の青山博之先生のお隣に席がセットされており、こちらも例のごとくに緊張した。でもせっかく出席したのだから、余計なことをひとこと言って帰ってきた。

 で、その会議の最後に話題として「週刊エコノミスト6/1号」のコピーが配布された。表紙には『妻が不機嫌な理由』と書かれていてギョっとしたが、話題は当然そっちではなくて、その上にあった『iPadが巻き起こす電子書籍革命』のほうであった。そして最先端のこの話題を提供されたのは、東大名誉教授の柴田碧先生であった。

 柴田先生がおっしゃったのは(iPadなんかはどうでもよくて)、紙の書類や書籍がなくなるのは構わないのだが、それでは裁判とか政府間の公的なやりとりなどに電子媒体を用いたときに、その証拠能力はどの程度のものなのか、また許認可などの書類は将来どうなるのか、といった問題提起であった。電子媒体では改ざんの問題も心配である、古い電子媒体に保存された電子情報はわずか十年前のものでも読めなくなっている、ということも指摘された。

 なるほどと感心した(大先生に向かっての失礼はご容赦を)。確かに個人が自分のパソコンとかiPadとかに電子書籍やPDFファイルを格納して、私的に利用する分には何の問題もなかろう。しかし公的に使用する証明書とか契約書とかはそうはゆかない。少なくとも柴田先生のお話によると、インド政府は電子書類を公式なものとは認めていないそうである。紙の書類を出せ、と言ってくるそうだ。

 まあ言われてみれば当然かもしれないが、便利になる反面、それでは済まされない問題もまた生まれてくるのである。何ごとにも表があれば裏がある。光あるところには常に陰がある。物事はすべからく注意深く見なければならない、ということを再認識したのであった。


青雲の志 (2010年6月2日)

 うーん、鳩山首相ついに辞めましたか。普天間の問題では確かに失点しましたが、民主主義の政治としてその他にも解決すべき問題が山積していたので、それらに対して何らかの道筋をつけてから辞めて欲しかったですね。

 このページで何度か言及したように、私は鳩山首相にエールを送っていたので総体としては残念に思います。彼も聖人君子ではありません。確かに一般人とは隔絶したところもありました。だけどそんなこと言ったら、大学の先生なんか社会のことを何も知らない世間知らずにもかかわらず、「学識経験者」なんて呼ばれて社会に重きをなしているのも、おかしなことですよね。

 大事なことは国家・国民を思って、理想を実現することに邁進しようという青雲の志を抱き続けるということだと思います。そして今までの自民党の総理大臣には感じられなかったそういうものを、鳩山さんは持っていたと私には思えました。

 彼が辞めたからと言って、事態が急転直下好転するなんてことはまず考えられません。トップの首をすげ替えれば何とかなる、という幻想はいい加減に止めたらどうでしょうかね。いずれにせよ、日本丸よどこへ行く、という情けない事態に立ち至ったことだけは確かでしょう。


青春を紡ぐひと (2010年6月1日)

 松本隆の作詞活動40年を振り返る番組がNHKで放映された。今年の始めに佐野元春の『Song Writers』というやはりNHKの番組に松本隆がゲストで呼ばれたのを見たとき、随分歳をとったなあと思ったのだが、それもそのはず彼は60歳になったそうだ。

 松本隆と言えば大滝詠一を連想する。伝説のアルバム『A Long Vacation』の冒頭の一曲「君は天然色」は強烈な印象を私に残した曲で、「唇つんととがらせて、なにか企む表情は〜」という出だしはよく憶えている。アイドルだった松田聖子も直ぐに思い出す。うっかりしていたのだが、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」も彼の作詞だった。

 番組の中で、壊れそうで繊細な青春をつねに描こうとしている、と彼は言っていたが、還暦を迎えたひとがそういうことを言えるのは素晴らしいことだと思った。松本隆にしても、佐野元春や杉真理にしても、幾つになっても永遠の青年のような印象を受けるのは、つねにそういう風に意識して活動しているからだろうか。

 大学にいるとこちらは毎年歳をとってゆくが、入ってくるひとはいつも18才であり、そのせいか大学の先生も気が若いひとが多いように感じる。こちらは外的要因によって知らず知らずに若さが保持されているのだろうが、やっぱり気分もEvergreenでありたいものだ。


彷徨える言葉 (2010年5月28日)

 師匠の青山博之先生ご夫妻の金婚式などをお祝いする会が、東京・目白の椿山荘であった。私はうちの子供をまだ青山先生ご夫妻や小谷先生ご夫妻に見せていなかったので、いい機会なので家内ともども出席した。

 さて、宴会の中ほどで3分間のスピーチをするようにとの要請を、久保哲夫先生から予め受けていた。しかし研究室関係の今までの経験から、出席の皆さんはお話に夢中になってスピーチなど誰も聞いていない、ということはうすうす予想できた。そして、今回もその通りになったのである。

 トップバッターは中田慎介さんである。中田さんは小谷先生の同級生だが、相変わらずの毒舌で3分どころか10分くらいお話しになったのではなかろうか。会場はざわざわとざわついており、ほとんど誰も聞いていない。

 次いで野口博先生、さらに芳村学先生と続く。芳村先生は「誰も聞いていませんが、、、」ともう諦め切ったようにお話しされて、私の番となった。偉大な先輩方が誰も聞いていないのに一所懸命にお話しされたので、私も奮起して素晴らしい話をしよう、などとは露とも思わなかった。マイクを握ったまま、私は困惑して立ち尽くした。誰もこっちを見ていないし、聞いてもいない、、、どうするべえ。

 さすがに気の毒に思ったらしくて、前のほうにいた田才晃先生と今村晃さん(書いていて気が付いたのだが、お二人とも偶然にも同じ名前である)の二人が聞いて下さったので、学生の頃に青山先生に朝ご飯を作って食べさせていただいた思い出話を披露して終わった。とっておきのネタだったんだけどなあ、ああ残念!

 しかし、大勢のひとがいるのに明らかに誰も聞いていない、ということが分かっていながら話をすることが、こんなにも苦痛であるとは想像以上であった。私がはなった言葉は行き場をなくして、目に見えないブラックホールのようなものに森々と吸い込まれてゆくのである。これを思えば、講義中の教室内で少しばかりの学生さんが寝ていることなど、なんでもありません(だからと言ってそこの君、いびきかいて寝るなよ)。そんなことがわかっただけでも、いい勉強になりました。いやあ、これで私はまたひとつ大きくなったような気がします(おいおい、ホントかよ)。


教室点景II (2010年5月26日)

 授業の話の続きである。私の構造力学1では出席をとるのだが、名前を呼んでも声を出して返事をしない学生さんが2/3程度いる。また前回の演習を手渡しで返すのだが、そのときに私は「はい」と言いながら渡すことが多いが、彼らの多くは無言で受け取る。なかには私の手からレポートを引ったくるように持って行く者もいる。助教の山村一繁さんが丁寧に添削してくれているのに、である。

 大きな声で返事してくれる学生さんは数人しかいない。でも、そういうひとと接するのは大いに気持ちがよい。学生と教員とはすでに大人の関係であるはずだから、心地よい人間関係とはどういうものか、分かっていると思うのだが。人間なんだから、挨拶は必須ですよね。それとも、返事すると何か損するとでも思っているんでしょうか。ここ数年、「無言学生」が増えて来た気がします。これも時勢でしょうか。身近にも空恐ろしさが迫ってきましたね。


教室点景 (2010年5月26日)

 二年生を対象とした構造力学1の授業でこんなことがあった。この日は反力の計算の3回めで、3ヒンジ構造の反力を求める方法を一般論と例題とを用いて説明した。所要時間はジャスト40分であった。講義時間は90分なので、残りの50分間は演習問題4題を解いてもらう。構造力学の初歩では手を動かしてなるべく多くの演習をやることが有効である、というのは私が宇都宮大学で助手をしているときに学んだ事柄である。

 ところが説明のあと、出席をとり終わったあとに、荷物をまとめて教室を出て行った学生さんが複数いたのである。どうみてもお帰りになる、といった風情だったので、「ちょっと待ったあ」コールした(ねるとん紅鯨団が懐かしいですな。まあシチュエーションは全然違いますが)。

 そして私の授業の趣旨を再度説明して(というのはこの講義のはじめに、授業のスタイルは説明プラス演習である、ということをちゃんと説明しているのだ)、時間内は教室で演習を解くように諭したのである。私は内心、結構ムッと来たので、「あ〜あ、君たち私を怒らせちゃったねえ」と言ったら、なぜだか他の学生さん達がクスクス笑い出した。「先生が難しい問題出しても知らねーよ」なんて言い出す学生さんもいて、「そんなことはしないけどさあ」と答えたら、今度はもっと大きな笑いが起こった。

 これで私の(ちょっとした)怒りはあっという間に納まり、教室内が険悪な雰囲気に染まることも避けられたのである。私は短気な人間なのでしばしば怒るが、今年の構造力学1の授業中に怒ったことは今までなかった。私が怒りかけたことに気が付いた学生さん達が、これはまずいと思って、中和作用として笑いを演出したのだろうか。今までになかった、何だか不思議な感じがしたのであった。

 でも正直に言うと、私の意図が伝わっていなかった学生さんがいたことに、とても悲しく思ったのである。


クレーム顛末記 (2010年5月25日)

 昨年10月に発生した実験機器(スイッチ・ボックスなど)の不具合に対する、一連の出来事が約半年たってやっと終息した。モノつくりの危機を端的に表す事象としてこのコーナーでも紹介したが(こちらをどうぞ)、我々が経験した不具合を再現して原因を突き止め、それに基づいて対策および点検を講ずるのに半年も掛かった、ということである。

 まず、実験室で起こったトラブルが、点検先の会社ではなかなか再現できなかった。ひと月ほどして、何も不具合が見られないので掃除だけしてお返しします、と言われたときには本当にビックリした。何言ってるんだ、我々はそのトラブルのお陰で貴重な実験データをゲットできなかったんだぞ、どうしてくれるんだ、ってなわけで怒りが爆発した。

 それからまたひと月ほどして、やっとトラブルが再現できました、と連絡があった。だから不具合があるって言ってんだろうが、まったくも〜、という感覚である。そしてその原因を突き止めるのにまたしばらくかかって、あるコネクタの接触が悪くてそういう現象が生じることがある、ということがやっと分かった。

 今までそんなトラブルは聞いたことがない、と製造者は言っていたが、少なくとも我が社では複数の製品に同様のトラブルが生じていたので、怪しいものである。そこで同時期に納品した他の製品についてもチェックをお願いした。それらには幸いにも不具合は見つからず、大丈夫でした、ということで戻ってきた。ここまでで半年を要したのである。

 この不具合のせいで、苦労した実験のデータを取り損ねたことは事実であったので、それに対する埋め合わせはきっちりとしていただいたのは言うまでもない。いつも言っているように、ひとつの実験をするのに要するエネルギーたるや膨大なものがあるので、最後の最後でデータが取れませんでした、なんて言われると本当にもうガックリくる。実験機器を作っているメーカーにはこのことを心していただき、万全の信頼を寄せることのできる製品を世に送り出して欲しい。


校舎の再利用 (2010年5月24日)

 我が家の二階からは、廃校になった小学校の校舎の最上階が見える。この学校が廃校になってから既に7、8年が経過したが、校舎は取り壊されることもなく、さりとて何かに利用されることもなく、ただ黙然と建ち続けている。

 私は今まで大学のCOE研究などを通して学校建物の再利用や再生についての研究を行ってきたので、この身近な例題を放っておく手はないと思ってはいる。以前、狛江市役所あてにCOE上野・角田・須永・北山・倉斗・森田チームで作った『学校再生マニュアル』(リンク先ページの下にある「アウトプット」から「REPORT」を選ぶとリストが出て来ます。『学校建築を活かす』というのが正式タイトルです)を送付したり、狛江市の施設整備計画に対するパブリック・コメントにこの校舎の再利用を提案するなどしてみた。

 しかしそのような試みはいずれも不発に終わった。市の財政が非常に厳しいこともあるだろうが、どこの馬の骨とも分からぬたったひとりの市民が行政に提案したところで、それを取り上げて検討してみよう、という気が起きないのだろうな。私は今までハードの面から学校建物の再利用を研究してきたが、それを実現するためにはまずソフト面の仕掛けを理解し、手立てを講ずる必要がある、ということを痛感した(しかしそれは私の専門とするところではない)。

 そんな訳で、私は自身の研究の成果を実践することもできず、今日も為すところなく4階建て校舎を仰ぎ見るのであった。少し耐震補強すれば優良ストックへと変身できるであろうに、子供たちの賑やかな声が消え去って静まり返った校舎の忍び泣きが聞こえるぜ。


何なんだろう (2010年5月21日)

 この夏の参議院選挙にいろんな有名人が立候補するらしい。別に悪くはないが、柔道で有名な女性が「議員でも、金」とか言ったのには、ちょっとビックリした。このひとは柔道だけでなく家庭人としても全力投球しているとのことで、世間からは立派なひとと見られている。しかしいくら何でも、それに議員という仕事をプラスして金メダルが取れるのだろうか。そんなに甘くないでしょう。

 逆に言うと政治家ってそんなに楽な仕事なのか、と思ってしまう。多分、そんなことはないだろう。政治は政治を真剣に考えているひとがやるべきである。民主党の票集めのために利用されているのだ、ということが分からないのだろうか。日本や世界のことを本当に考えているなら、金メダルとります、なんて言わずに政治に全力投球して欲しい。

 しかし有名人乱立の様子を見ていると、この国の政治がいかに程度が低いかと言うことを思い知らされてしまう。国を思う優秀な人材が政治を見放した、と言うこともでき、これは危機的な状況である。いい意味の「政治のプロ」が出現して欲しいものである(世襲政治家はお断りです)。


みなと祭 (2010年5月16日)

 子供が帆船に乗りたいというので、東京湾の晴海埠頭で開かれた「東京みなと祭」というのに行ってきた。首都高の汐留インターで降りて、勝鬨橋、黎明橋と渡って、いつもPS三菱の本社に行くときに渡る交差点を右折してちょっと走ると、そこはもう海だった。その一角に「東京みなと祭」のための臨時駐車場があって、千円を払って車を停めた。

 岸壁には練習帆船『日本丸』と消防艇『みやこどり』が係留されており、いずれも無料で乗船見学が可能であった。『日本丸』はもの凄い人気で、長蛇の列に加わってやっと見ることができた。帆を広げていなかったので帆船らしさは半減であったが、それでも4本マストで三千トンを超える立派な船であった。甲板を磨くヤシの実があったり、子供は舵輪に触ったりして大喜びであった。

 そのほかに東京海洋大学の練習船『海鷹丸』も公開されていたので内部を見学した。この船も結構大きくて、内部は8階建てだったので見学は結構疲れた。そう言えば、駒場のときの同級生の岡安章夫くんが東京海洋大学の教授をしていたことを思い出した。

 ところでこの「東京みなと祭」であるが、その存在をどうやって知ったかと言うと、東京都の広報紙の小さな宣伝記事を見たためである。主催者は「東京みなと祭協議会」となっているが、実質は東京都がやっているのだろう。そこで疑問に思ったことは、結構なお金をかけて大勢のひとを集めているのだが、いったい何のためにこんなことをやっているのだろうか、ということである。お陰で我が家も半日楽しむことができたので我々としては満足なのだが、それでもよく考えると、どういうメリットがあるんだろうかと思ったりする。

 この「東京みなと祭」であるが、今回でなんと63回めだそうだ。と言うことは、どういう目的かは知らないが、とにかく当初設定した目的は達成でき、何がしかのメリットがあるからこそ、これだけの回を重ねることができたのだろう。楽しければいいじゃん、ということかも知れないが、イベントの目的をどこかに示してくれると多くの人々にこの行事の意義を理解してもらえて、さらにGoodであると私は思う。それくらいしないとこのご時世ですから、生き残ってゆけないと思いますが、如何なもんでしょうか。


わがままなひと (2010年5月14日)

 「ああっ、授業めんどくせっ」とは、学生さんの言ではない。もちろん、学生諸君はこのセリフを連発しているだろう。しかし講義をするほうの私も実は同じセリフを吐いているのだ。誤解しないで欲しいのだが、私が講義をするときには十分に準備して、全知全能を傾けて分かり易く説明することを心掛けている。私の講義を受けた人なら多分わかってもらえると思う。それでも講義の前日には、冒頭のように感じるのである。

 もちろん大学ではそのようなことはおくびにも出さないが、家では女房に「めんどくせっ」と時々言っている。そのたびに「あなた、就職先間違えたんじゃないの」とたしなめられる。そりゃそうだ、正論である。それなら大学の教員を辞めれば良い、と言う理屈だが、私は大学の教員は好きなのである。

 今日の午前中には、研究室ゼミがあった。M2の白井君と嶋田君とが興味深い資料を説明してくれて楽しかった。実験をやったり見たりするのも好きである。だが自分の研究室のゼミをやっているときには余り感じないのだが、大学内の他の学部の建物を歩いていて、他所の見知らぬ研究室がゼミをやっている様子をチラッと垣間みたりするとき、「大学の知的活動っていいなあ」と改めて思ったりするのだ。

 結局私は、贅沢でわがままなひと、ということだろう。はっきりとそうだと認めましょ(開き直ってどーする、ってか)。以前にこのコーナーに記述したことだが、私がかつて助手を務めていた宇都宮大学・構造研究室の田中淳夫先生(教授)は学生さんから、「わがままなひと」といつも言われていた。まあ、私から見てもそれは当たっていたのだが(田中先生ご免なさい)、私も研究室を主宰するようになって、学生諸君からそのように見られているのだろうか。歴史は繰り返す、因果は廻る糸車、なので多分そうだろうな。


どうしたもの? (2010年5月11日)

 ようやくM2の王磊さんのRC十字形部分架構試験体の加力まで辿り着いた。ところが、いよいよ柱軸力を導入するという段階に至って、またもやトラブルが発生した。軸力を導入する前に水平ジャッキを変位制御にしてホールドするため、ポンプの回路をつないだところ、勝手に水平ジャッキが動き出してあっという間に層間変形角3%を超える大変形まで載荷してしまったのである。

 その報を王磊さんから聞いたとき、またか!と思った。それ以前にも学生さんのミスや原因不明のジャッキの暴走によって、たびたび手痛い目に遭ってきたからである。講義が終わって大型実験棟に行ってみると、柱梁接合部パネルにはきれいなせん断ひび割れが発生していて、おまけに予期せぬ単調載荷となったので、塩原モデルのような入り隅部のひび割れまで明瞭に見えていた。

 見波進先生のご協力も得て、何故そのような事態に至ったのかの検証を行ったが、その原因がどうしてもわからず、ポンプを動かすたびにジャッキは勝手に押し続けて、ついに層間変形角5%まで行ってしまった。これより先はレッドゾーンなのでついにギブアップとなった。見波先生が長岡テクノの五十嵐さんに電話して、応急指示を聴きながら実行してゆき、やっとのことで水平力を除荷することだけはできた。荷重を除荷できてこんなに嬉しかったことは今までになかったな。

 見波先生との議論でジャッキ制御信号の極性が反対になっているとしか思えない、という推論に立ち至ったが、制御コンピュータの入力データには誤りはなさそうで、結局のところこの原因は未解明のままとなった。

 しかしこう度々不都合が起こっては、安心して実験することができない。大学の泣き所なのだが毎年学生さんは代わるため、実験ノウハウの伝承が難しい。それでもこのことを割り引いても、事故が多すぎる(ただ幸いなことに、これによって怪我人が出たことはない)。五十嵐さんは非常に有能かつ親切な方で、その都度丁寧に対応して下さるのだが、結局対処療法に過ぎず、我々には本質的には何も分からないままで今まで来たような気がする。その点は我々も反省すべきであろう。

 ユーザが手押しポンプで加力するような直感的な操作を可能とするように、制御プログラムを抜本的に修正できないものだろうか。ユーザは入力を間違える可能性がある、だからそのような事態が生じることを前提にできないだろうか。プログラムの修正には費用が掛かるかも知れない。でも、このままではR精機の静的載荷システムを使い続けることは難しくなる。加力するのにストレスを感じるようでは、先端研究の実験などやってられないからである。是非とも対応をお願いしたい。

PS 翌日、五十嵐さんにチェックしていただいたところ、予想通り極性が反対になっていた。学生が設定した入力には誤りはなかったが、それよりも上位の設定に誤りがあったらしい。しかし、これはいかにも紛らわしいし、素人に理解を求めるのも酷ではないだろうか。


おめでたいはなし(ダブルで) (2010年5月9日)

 週末に明治大学の菊池雅史先生からお手紙をいただいた。菊池先生のご専門は材料分野なので私とは直接の関係はない。ご無沙汰だなあ、菊池先生はお元気だろうか、それにしても何だろう、と思いながら開封すると、そこには小山明男さんの教授昇格を祝う会の招待状が入っていた。

 私のHPの「北山研ヒストリー」のコーナーに詳述したように、小山明男さんは北山研第2代の助手であった。その彼が母校の明治大学に戻って約10年で教授に登り詰めた。いやあ、立派だし、おめでたいことである。昨年に私の教授就任のお祝い会を研究室OB・OGたちが開いてくれたときに、小山さんも駆けつけてくれて、「次は小山さんの番だな」なんて言ったような気もするが、それにしてもビックリするほど早かった。小山さんの日頃の研鑽の賜物であろう。名実共に親分になったのだから、これからも大いに活躍して欲しい。彼の専門はコンクリート材料が主であるが、構造分野についても昔のように共同研究ができればよいなあ、と思っている。

 さて、もうおひと方は筑波大学の境有紀さんである。彼は青山・小谷研究室の二年後輩である。彼のHPを見ていたら、この四月に教授に就任したことがさらりと、それにまつわる話は縷々、綴られていた。まあ彼一流の書きっぷりではある。彼が書いていたことには概ね共感を覚えた。境さんにとっては別にどうってことないかもしれないが、やはりおめでとうございます、と言いたい。ついでだが、彼の同級生で本学に在職する建築家・小泉雅生さんもこの4月にめでたく教授に昇格した。そういう年まわりになった、ということであろう。

 さて自分自身のことを言うと、昨年4月に教授になったときに心底実感したことは、これで任期切れによるクビは避けられたな、やれやれ、という安堵の気持ちであった。本学では2005年に新大学となったときに任期制が導入され、准教授は5年任期で最長でも十数年しか在任できないのに対して、教授になると5年の任期はあるものの原則として定年まで再任可能、という人事制度に変革したためである。

 しかしその後じわじわと沁み込んできたのは、これからは(ある程度は)他人からの評価を気にせずに好きなようにやれる、という開放感だったのである。それまでも別に誰かから、あーせい、こーせい、言われるようなこともなかったのだが、まだ准教授なのだから目立たずに嫌われないようにやらないとな、と時折思ったことは事実である。それは今思えばやはり一種の抑圧感であったのだろう。

 本学ではこういう人事制度なので、誰かから評価されて業績給などが決まることはやむを得ないとしても(というか、本当を言えば真っ平ご免なのだが)、逆に私が他人の業績評価をすることはできれば避けたいものである。しかし建築都市コースのコース長は今のところ教授職の持ち回り役なので、やがては廻ってくるだろう。そのときのことを思うと、今から憂鬱である。

 ダブルでおめでたい話だったのに、最後は現実直視の憂鬱な話になってしまった。霞を食って生きている訳ではないので、まあ、致し方ないとしよう。


どうするのか? (2010年5月5日)

 連休前からの風邪がぶり返して、連休中はほとんど臥せって過ごした。いろいろと宿題もやろうと思っていたが、そんな意欲は全く湧かなかった。オープンエアでは夏日だそうで、最高の休日だったのだろう。こちらは汗でじっとりした布団をこどもの日に干すことができて、まあ良しとしようか。子供はこどもの日だと言うのにどこにも連れて行ってもらえず、「今日は何でお休みなの?」との質問に「こどもの日です。以上」と答えて問答を打ち切った。もう少し大きくなったら「こどもの日」の世間一般の過ごし方に気が付くだろうな。こうやって誤魔化せるのも今年だけかも知れない。

 さて、どうするのか?という問いは、別に来年の「こどもの日」の過ごし方ではない。鳩山首相のこと、である。私は2010年5月末までに米軍移転問題が解決せずとも鳩山首相を見限るつもりなど毛頭ない。民主党政権には、この問題だけでなく様々な公約を実現して貰わないといけないと考えている。それによって日本という国が再生することに期待しているのだ。第一、鳩山さんはダメだ、民主党はダメだ、と言ったところでそれに代わり得るサード・パーティが存在しないではないか。

 多くの国民が選挙によって民主党政権を選択したのだから、もう少し我慢強く、かつ鳩山さんに何とかして貰うという態度ではなくて、自分たちも努力するという態度で政権に接すべきだと思う。わずか数ヶ月くらい成果が出なくても、もう少し長い目で見てあげることができないのだろうか。この問題に限らず(大学に短期間で研究成果を求めることも、また近視眼的であるが)、あまりにも性急に成果を要求する日本社会に危ういものを感じざるを得ない。

 米軍移転問題は鳩山政権が解決すべき問題の一つに過ぎない。彼らの言う「平成維新」を成し遂げるためには、多くの苦労や問題を乗り越えなければならないのは当然である。そのためには国民も意識を変革する必要があり、年単位の日月が必要であろうことは容易に想像できる。

 私が最も恐れる筋書きは、かつての細川侯のように鳩山さんが衝動的に政権を放り出すことである。ただ現在の沖縄問題での彼の対応振りや社会の反応を見ていると、魔が差すというか、嫌気が差すというのか、そんなことが起こらないとも限らない、と思えるところが何とも悲しい。リーダーシップというものは多分全人格的なもので、その人の人となりと人生経験とに基づくものだろう。少なくともそのような資質があったからこそ、一国の総理大臣にまで登り詰め、理想とする国家を作ろうという志で熱く燃えていたはずだ。

 『末は博士か大臣か』という言葉が昔あったが、この両方になったひとは明治以来そんなにいなかったと思う。もう一度初心に返って、是非とも職務を全うして欲しい。日本という国家の舵取りはひとえに貴方に任せられているのだから。


メディアのはなし (2010年4月29日)

 今日の朝日新聞に福岡伸一さんがメディア(媒体)の話を書いていた。彼も私と同様に紙に印刷された書籍に愛着を感じているようだが、最近手にしたiPadによってその認識が変わりそうだ、という。彼の言によると物事に接したときには、そのものの手触りとか感触とかを実感できることが大切で、それがないとメディアとして普及しない。

 パソコン内の文書を閲覧するには今のところ紙の本をパラパラとめくるというような芸当はできず、かなりストレスを感じる。ところがiPadではそういう芸当が可能になり、あたかも紙の本を読んでいるように実感できるのだという。これが本当なら私にとっても朗報である。iPadの中に愛読の書だけでなく論文とか専門書とかも全て格納されていれば(そしてそれが紙の書類のようにストレスレスで扱えるのであれば)、検索も便利であろうし学会などのときにもすぐに見直すことができる。

 しかし、以前にこのコーナーで書いたように(こちら)、図書館のような閉鎖的なスペースで紙の書籍に囲まれて感じる至福の感覚は、これからのひと達には無縁となるのであろう。でも人類の叡智は計り知れないので、iPadのような電子ビューアに馴れた新人類たちはその仮想図書館に彼らなりの流儀で「文化」を構築するようになると思う。結局、福岡さんが言うように、慣れ親しんだ紙媒体も長い人類の歴史の中では一瞬の光明に過ぎない、ということであろうか。

 人類の歴史まで考え出すと、例えば数千年後の我々の子孫が(人類が生存していたと仮定しての話だが)土中深くからハード・ディスクやCDを発掘しても、それを再生する装置が失われていた場合には何が記録されているのか読み取れない。現に私が学生の頃に使っていた8 inchのフロッピィ・ディスクは、それを読み取るドライブが失われたので最早無用の長物と化してしまった。未来の人類ならばその媒体への記録の原理などは理解できるだろうが、細かい規格(それは一種の暗号のようなものだろうから)が不明であれば何が書いてあるのかを知ることは難しいだろう(まあ、量子コンピュータが開発されていれば可能かも知れない)。

 そんなことを思うと、紙媒体はそのものが腐らない限り、その優位性は保持され続けるような気もする。


気づいたこと (2010年4月27日)

 気温の高い日やべらぼうに寒い日が繰り返されたせいか風邪を引いてしまった。見学会や委員会など幾つかを欠席せざるを得なかった(関連する皆様にお詫び申し上げます)。それでも学部の授業だけは休講にするとそのあとが厄介なので、なんとか授業だけはやってすぐに帰宅した。

 熱が高くて朦朧としているとき、食卓の上の子供用のお皿をふと見ると次のような英語が書いてあった。ピーターラビットの絵柄である。

 She went through the wood to Baker's.  (1)

彼女は森を通ってベイカーさんのところへ行った、と言う意味である。ところがぼーっと見ているうちに、この文のなかの副詞句”through the wood”の位置は、wentのあとではなくて以下のように文末に置いても日本語としては全く同じ意味になるんじゃないか、ということに気がついた。

 She went to Baker's through the wood.  (2)

 日本語で「彼女はベイカーさんのところへ行った、森を通って。」とは普通は言わないだろう。そこで例えば森を通る(through the wood)ということに焦点を当てたいのかな、と思ってこれを日本語にすると、例えば「彼女はベイカーさんのところへ行くのに、森を通り抜けた。」となる。でもこれを英訳すると、

 She passed through the wood to go to Baker's.  (3)

となって、最初の文とは一致しない。すなわち我々異邦人には、語の並びだけを代えた文(1)と文(2)とは全く同じ意味にしか捉えられないのである。これってどういう構造なんでしょうかね。英文学者なら答えられるのかな。それともネイティブならば語の並び方によって細かいニュアンスを感じられるのであろうか。

 普段は見過ごしている身近なものに、ちょっとしたことに気がついて疑問に思った次第である(まあ、どうでもいいことですけどね)。


ダイヤのはなし (2010年4月21日)

 京王線のダイヤが改正されて一ヶ月が過ぎた。しかしどうもギクシャクしている。調布から橋本までの相模原線で言うと、確実に乗り継ぎが悪くなって通勤時間は10分程度は確実に伸びた。本数が減ったせいか、下り線なのに朝の混雑度も相当なものになった。柴崎から南大沢まで座れない、という状況である。

 相模原線ではATC(自動列車制御装置)が導入されて、いっそう安全になったという。それはそれで結構だが、電車の運行がスムーズでない。駅から発車してすぐにブレーキがかかったり、(乗客にはわけも分からないまま)急減速したりする。私は鉄チャンではないのでよく分からないが、電子制御によって電車がギクシャクと動くようになったとしたら、注意深い人間による運転のほうがはるかにまし、ということになる。

 電車の自動制御もコンピュータ・プログラムによって為されているのだろうから、人間が行う融通の効いた制御を活かしつつ、安全限界を超えそうになると自動制御が作動するようなマイルドなプログラミングにできないものだろうか。それとも、このような運転制御じゃないと安全を維持できない、ということのなのか。だとすると今までは相当に危険だった、ということになる。

 いずれにせよ、新しいダイヤと自動制御手法には相当な改善の余地があると思う。こんな風に感じているのは私だけなのだろうか。


ブンとフン (2010年4月18日)

 小説家の井上ひさしさんが亡くなった。私は彼の小説はほとんど読んだことがないが、しかし私の人生にとって少なからぬ、いや非常に大きなと言ったほうが良いが、影響を与えた作家であった。

 中学生になった頃、朝日新聞に彼の連載小説が始まった。小説のタイトルは忘れたが(調べたところ『偽原始人』であった)、そのなかに辞書のページ番号を使って暗号文を作る、という話があって、私のクラスの親友たちがその暗号作りに夢中になったことがあった。授業中に小さな紙に数字を羅列した暗号を手渡して、クスクス笑ったりしていたのである。その暗号を解読するためには三省堂の国語辞書が必要だったが、みなそれを持っていた。ちなみにその暗号文のうちの一枚は、未だに私の辞書に挟まったままである。

 そんな訳で氏の小説に興味を覚えて、当時住んでいた新大久保から自転車で高田馬場駅前にある芳林堂書店に行って、買ったのが『ブンとフン』である。これが、私が自分で選んで自分で購入した初めての文庫本であった。

 こうして本屋で本を見る、という楽しさに目覚めて、その後は主として星新一のショートショートを買って読むようになった。そのためSF小説にハマってゆき、その後は小松左京とか眉村卓、レイ・ブラッドベリ、アイザック・アシモフなどを貪るように読んだ。北杜夫や遠藤周作もよく読んだな。特に高校受験のとき、某高校の入試問題として北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』が出題されたのを目にして、嬉しくてやったあと思ったものである(何が、やったんだか、訳が分からんが)。

 かように井上ひさし氏は、私に読書の楽しさを教えてくれた恩人なのである。そのようなひとの作品をほとんど読んでいなかったことに今更ながら気づいた。氏のご冥福をお祈りする。


拍手 (2010年4月14日)

 建築会館でのRC規準講習会が終わりました。昨日と今日の二日間、エクストラで開催しましたが、いずれも大ホールが満員になる盛況でした。使用性、損傷制御および安全性という三つの限界状態に対する性能を確保する、という今次改訂の基本的な考え方をひとりでも多くの方に理解していただきたい、そう思いながら説明しました。

 今日は改訂の概要と柱・梁について説明しましたが終わって挨拶したら、聴衆の皆さんから拍手をいただきました。それはそれで嬉しかったのですが、実は昨日は拍手はありませんでした。広島での講習会では確か拍手をいただきました。同じ内容の話を同じようにしているのに何故だろう。そんな訳で、どういうメカニズムで拍手が発生したりしなかったりするのか、ちょっと興味を持ちました。

 学会での発表で言うと、建築系では一般には拍手がありません。ところが土木系では大袈裟なくらいに拍手します。コンクリート工学協会の年次大会では建築と土木とが一同に会するのですが、ひとつの発表会場に各系半々だったりすると、拍手がパラパラと聞こえます。それぞれの出身母体の習慣が身に沁みていますので、建築系の我々はおいそれとは拍手しません。これが土木のひと達が大半だったりすると、多勢に無勢、やむなく拍手するハメになったりします。

 結局、日頃の習慣が大いに規定的要素として働くのでしょうが、ちょっとしたきっかけで大衆としての行動が沸き起こってそれに従わざるを得なくなる、ということでしょうか。もっとも、素晴らしい講演を伺ったり、演奏を聴いたり、演劇を見たりすると衝動的に(ブラボーと叫びながら)自然と拍手してしまいますので、そんなに難しいメカニズムではないのかも知れません。


散る桜〜ささやかなこの人生 (2010年4月10日)

 桜が散り始めた。野川で久しぶりに見かけたカワセミが、ハラハラと散る桜花の乱舞をバックにして、川面の上空2mくらいのところでしばらくホバリングしていたが、さっと水中に突入した。しかし再度飛び上がって枝に留ったところを見ると、嘴には獲物はなかった。残念だが狩りに失敗したようだ。カワセミには縄張りがあるということなので、私がほぼ同じ場所で出会うカワセミ君は多分同じ個体であろう。すなわち、生き続けているということなので、何回かに一度くらいは小魚を捕まえて食べているのだろう。

 桜の花が散り始めるたびに私は、伊勢正三の『ささやかなこの人生』という歌を思い出す。私が高校生だった頃には彼は「風」というフォーク・デュオで歌っていた。「花〜びらが〜散ったあとの、桜が〜とても〜冷たく〜されるように」という出だしで始まるのだが、この季節が訪れるたびに私はこの歌を口ずさんでいる、人の世の無情を感じながら。

  優しかった恋人たちよ
  ささやかなこの人生を
  よろこびとか、悲しみとかの
  言葉で決めて欲しくはない   (伊勢正三『ささやかなこの人生』より)


怖いはなし (2010年4月7日)

 ジョサイア・コンドル先生の銅像(こちら)が東大工学部に建てられてから半年後の1923年9月1日に関東大地震が発生した。地震工学に携わる者であれば忘れることのできない出来事である。今でも関東大地震についての研究は脈々と続いており、例えば鹿島の武村雅之さんはこのときの東京市内の詳細な震度分布を調査して、それを地図として発表している(武村雅之著『関東大震災』、鹿島出版会、2003年)。

 で、話は変わるが、このあいだ大学生協で偶然にも同じタイトルの『関東大震災』(文春文庫、1977年)という本を見つけた。著者はノンフィクション作家として著名な吉村昭である。彼の著作はたくさん読んできたが、冷厳ともいえる視点から歴史的事実を淡々と、しかし簡潔明瞭に語るのが大きな特徴だと思う。

 吉村昭のその本では陸軍被服廠跡での惨事(こちら)について、その酷さがいやと言うほど説明されていて背筋に冷たいものを感じた。特に「被服廠跡は、壮大な墓所であった。」という記述には戦慄さえ覚えた。字面では四万人以上のひとが亡くなったということを知っているが、それがどのような状況であったかということは(写真は残っているものの)実感として乏しかったからである。このような事実を強烈に教えてくれた吉村昭に大いなる敬意を表したい。

 また、東大地震研究所の地震学者であった大森房吉(当時教授)と今村明恒(当時助教授)との確執についても、トップレベルの学者間にしばしば見られるような(?)人間ドラマを炙り出しており興味深かった。

 しかし私が最も驚いたのは、大地震後にひとびとのあいだに発生した流言蜚語とそれに伴う数々の悲惨な事件であった。具体的には朝鮮人虐殺事件(この中には朝鮮人ではない日本人や中国人への殺傷事件を含む)や日本陸軍による大杉栄殺害事件などである。これらの事実はもちろん知っていたが、改めてその恐ろしさを知らしめてくれた。

 このような悲劇が続発した主因として吉村は、その当時の時代背景(朝鮮併合のこと)から日本人には朝鮮人への負い目があって、その意識の裏返しがそのような行為へと走らせたこと、そして何よりも地震によって正確な情報の発信が途絶して人々が情報弱者におかれたこと、を挙げている。これだけでも、正確な情報を皆で共有することの重要性がわかろうというものだ。

 翻って現代のわれわれ東京人を考えるとどうであろうか。確かに科学技術は飛躍的に進歩した。日本の耐震構造は世界に誇れるものと自負している。情報の伝達手段は多様化していくつもの経路が存在するので、大地震後にも完璧な情報遮断には至らないような気がする。しかし「人間」そのものはどうであろうか。人間の本能に基づく深層意識だけは変わらずにわれわれの脳髄の奥深くに眠っているだろう。関東大震災の悲劇がほとんど忘却の河を流れ去って行ってしまった現在、やがては来るであろう大地震時にこの深層意識を制御し、飼い馴らすことは果たして可能だろうか。どうにも心もとない限りである、心配だ、というのが私の心境である。

 あさは四本足、ひるは二本足、よるは三本足、なあ〜んだ? ----それは人間です。


新学期始まる (2010年4月6日)

 キャンパスに活気が戻って来ました。至るところにフレッシュマンが溢れています。キャンパスを歩いていた先ほども、新入生に教室の場所を質問されました。彼はお礼の言葉とともに11号館目指して飛んで行きました。

 しかし私はと言えば、例年とおりに昨年度の積み残した仕事に追われています。PS三菱の浜田公也部長に提出する研究報告書(本体は矢島龍人くんが作ってくれました)の製本を大学生協に頼んだあと、生協の食堂でお昼ご飯を食べました。もう二時近かったので席は空いていましたが、いつもはケースにたくさん並んでいる小鉢がびっくりしたことにほとんどありませんでした。フレッシュマンたちが腹ぺこ青虫のように食べ尽くしたのでしょうな。おかげで今日の昼食は緑黄色野菜なしとなってしまいました。値段も350円くらいと安くあがりましたが。

 アニュアル・レポートの英作文は毎度のことながら大変です。昨年度は研究課題が8つもあったので、それぞれの英訳に四苦八苦です。しかし和文はともかく、英文の報告書なんて誰が見るんでしょうか。私は随分昔、石野久弥先生(現本学名誉教授、建築設備学)から「アニュアル・レポートは自分のために、丁寧に書いたほうがいいよ」というアドバイスを受け、なるほどそういう考え方もあるなと納得したので、今もその教えを守っています。でも少し手を抜きたいのが本音ですね。

 建築学会の大会論文については、私の思惑通り順調に進んでいます。ただ、WPC関連の論文についてはノータッチです。高木さんや見波さんにお任せです。

 科研費の継続採択の内定を伝えるハッピー・メールは昨日、大学事務室から届きました。ばんざ〜い、です。ただ必要な書類の提出は来週早々ということで、もう時間がありません。研究費をいただけるのは嬉しいのですが、もう少し何とかならないのでしょうか。

 9号館のアトリウムに面した防火シャッターは全階降ろされたままです。暗いし、シャッターの饐えたような臭いはするし、学生のいる研究室に行くのにブリッジを渡れないため不便なことこの上ありません。早く光を〜って叫んじゃいます。


桜さくら (2010年4月3日)

 4月になって少し暖かくなってきましたね。今日は土曜日なので、のんびりと桜を見ながら登校しました。家を出るとすぐに野川(一般名詞みたいな名前ですが、れっきとした一級河川の固有名詞です。二子玉川で多摩川へと合流します)ですが、その脇に数本の桜が植えられています。先日の朝日新聞武蔵野版によるとこの桜は、地元の有志によって半世紀も前に植えられたものだそうです。満開になるとすぐ脇のコンビニがライトアップしたりして、散歩する人たちの目を楽しませてくれています。

 次は京王線・柴崎駅の上下ホームの両側に植えられた桜です。この時期には、ホームの屋根越しに楽しむことができます。やがて散り始めると、ホームに電車が入ってくるたびに美しい桜吹雪を演出します。




 南大沢に到着すると、大学正門脇に一本の桜が植えられており、そこから桜並木が東に続いて行きます。この遊歩道沿いの桜は東京都立大学が1991年にこの地に移転して来たときに植えられたものと思いますが、私が本学に赴任した1992年春には、木自体が細くて桜の花もほとんど付いていなかった記憶が朧げながらあります。

 しかし20年近くも経つと桜の木も立派に成長して、この写真のように桜の回廊が続くようになりました。どの桜も満開にはまだ間があるように見えました。ここしばらくは楽しむことができるでしょう。


年度末 (2010年3月31日)

 年度末ですね。今日の午前中は、内幸町で開かれた鈴木浩平先生(本学名誉教授、機械工学専攻)の委員会に出席して、言いたいことを言って学校にやってきました。

 いろんな委員会に呼ばれて行くときにいつも思うのですが、いわゆる「学識経験者」として呼ばれているときには何かしらのコメントをすることを要請されているんですよね。なので立場上、先方の言うことを、はいはいそうですか、ご説ごもっとも、と聞いている訳にはゆかず、やむを得ず、これを言うと相手は困るだろうなあ、ということを(専門家の視点から)発言するハメに陥ることが多々あります。うるさい奴だな、と思われるのを承知で言わざるを得ないので、内心忸怩たる想いがあります。やだなあ、って感じです。

 ここ数日、真冬のような寒さが続いたので、本学正門脇の桜はまだ二分咲きといったところです。三月中旬にはあたたかな陽気が続いたので、桜の開花も早いかなと期待したのですが、結局南大沢に限っては昨年並みの桜具合でした。

 さて建築学会の大会論文(4/11締め切り)ですが、去年の成功に気を良くして我が社での始動を早めました。その結果かどうかは分かりませんが、明日から社会人になる矢島君と島君とが合計3編を仕上げて昨日投稿しました。いずれもPC(プレストレスト・コンクリートの略)関係です。まあJCI年次論文にも投稿していますし、卒論の梗概の出来も良かったので、私は全く苦労しませんでした。よくやってくれたと思います。

 明日からはリセットされて、新しい仲間が研究室にやって来ます。毎年のことですが、彼らが研究室で有意義に過ごせて、その結果として北山研の研究活動が前進すれば私としては最高ですな。君たちの活躍を期待しています。


あんたが大将 (2010年3月29日)

 『歴代陸軍大将全覧 昭和編/満州事変・支那事変期』(半藤一利、横山恵一、秦郁彦、原剛著、中公新書ラクレ、2010年1月)を読んだ。大将と言えば、軍国時代では功成り名を遂げた、エリート中のエリートだけが着くことのできたあこがれの存在であっただろう。しかし昭和の戦争で敗れた戦後日本の評論家たち(本書の著者のこと)は、非常に厳しい評価を彼らへ与えていた。

 無能とか、無為無策とか、何でこのひとが大将になったんだろうとか、存在感が全くないとか、もう散々であった。大将ともなれば日本を破滅の淵へと導いた軍部の中枢に少なからず関与していたはずで(しかし本書を読むと出身母体の陸軍からもソッポを向かれていた大将が多かったことがわかるが)、そのような歴史の奔流に抵抗しなかったことに対する批判はやむを得ない気がする。

 しかしやはり、戦争を始めてその挙げ句にコテンパンに負けて国民に塗炭の苦しみを味わわせたことが、そのような批判の底流にある。「勝てば官軍、負ければ賊」じゃないが、勝つと負けるとでは彼ら職業軍人に対する評価は180度転回するだろう。だから彼ら大将にとって気の毒な一面もあるかと思う。

 個々の陸軍大将は優秀で頭の良い人だったに違いないが、そういう軍人が集まって帝国陸軍という組織になったとき、巨大な帝国陸軍は個人の人知を超えた得体の知れない意思を持ち始めたのである(もちろんそのような潮流の形成に寄与した軍人が多数いたことは間違いない)。このことが昭和日本の不幸の源であったような気がする。


研究の時間 (2010年3月26日)

 先週、本当に久しぶりにまとまった時間が作れたので、懸案だったプレストレスト・コンクリート(PC)梁部材のひび割れ幅と部材角との関係の評価手法をじっくり考えることができた。2009年度の北山研での活動として大学院生諸君にこのことを検討して欲しいと伝えており、研究室ゼミのときにこんな風にやってみましたがダメでした、みたいな報告を受けてはいたが、定式化までは至っていなかった。

 しかし博士課程の田島さん、修士課程の矢島くんや嶋田くんによって、我が社のさまざまな実験結果の整理はかなり進んできた。また、先行した知見として鉄筋コンクリート(RC)梁部材の耐震性能評価手法があって、PCにもその手法は大いに使えるはずと考えた。

 そこで学会の小委員会に提出する期限も迫っていたので、ここらでいっちょ、自分でやってみっか、と一念発起したのである。まず、あーでもない、こーでもない、という思索に一日を費やした。次の一日では、ひび割れ幅と部材角との関係を構築する手法を、有力そうな二つに絞って具体的に計算してみようと決断し、必死になってエクセルにデータやら数式やらを入力して計算を行い、北山研での実験結果との比較検討から精度がよいと判断された手法を最終的に確定した。そして最後の一日に、この手法をまとめて定式化して、指針本文および解説として明文化したのである。

 こうして久しぶりに自分で計算して、自分でグラフを作り、生データを料理する楽しさを味わうことができた。この仕事の途中で阪大の岸本一蔵さんとメールのやり取りをしたときに、「私は今一所懸命にエクセルで計算していて大変でーす」とか送ったら、「でも、それって楽しいでしょ。まとまった時間がないと、できないことだから」という返事が来て、確かにその通りだと再認識した。さらに(良否は今後皆さんに議論してもらうとして)いちおうはまとまった形の評価手法を提案することができた、という成果まで伴ったのである。ただ提案とは言っても、内実は既往の知見の切り貼りで構築したものに過ぎないのだが。いずれにせよ私にとっては至福の研究タイムを過ごすことができた。

 これで懸案のひとつを解決する目処が立ったので、研究者としては素直に嬉しい。だが教育者として言えば、こういう成果の伴う楽しさを学生さんに味わって欲しかったな。だって(どんなに些細なことでも)成果が得られたときの達成感って、格別じゃないですか。それに北山研の学生諸君の継続的な検討がベースにあってこそ達成できたのだから、何だか美味しいとこ取りしたような感じで、申し訳ない気もする。

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 と、ここまで書いてきて、大学の研究者のくせに久しぶりに研究した、みたいなことを言うとは何事か、とのお叱りを受けそうな気がしてきた。ここに書いてきたようなことは私たちにとっては既に当たり前になっているが、世間様から見たらビックリ、ということだろう。

 誤解を受けるといけないので説明するが、我々大学の研究者は常に研究のことで頭の中は一杯である。ただ、私が研究している建築構造学では実験が不可欠なので、ひとりで研究することは不可能である。また、研究テーマもひとつではなく、複数の課題に取り組むのが通常であろう。

 しかしこれが一番肝要だが、大学の研究者は研究以外の授業だとか、研究室における予算執行のような事務処理とか、学内外の委員会だとか、学会活動だとか、とにかくやることが列をなして、山のように存在している。裕福な研究者なら秘書さんを雇うとか、恵まれた研究者なら共同研究者としての助教さんとかがついているだろうが、残念ながら私はそのどれにも該当しない。結局、研究室を主宰している大学の先生って、聞こえはいいが内実は中小企業の社長のオヤジと変わらず、何でも自分でやらないといけないのである。

 すなわち、われわれ大学の研究者には研究に費やすことができる時間が圧倒的に少ないのである。そこで研究室に所属する大学院生や学部生にそれぞれテーマを割り振って、具体的な実験や解析、データの整理とそれを用いた検討、などは個々の担当者に任せることになる。私は彼らの報告を聞きながら議論して、間違いを指摘したり、そのときにひらめいたアイデアを語ったりして研究の方向性を指示する、というようなマネジメントを行うのだ。

 という訳で、私は自分の研究室のことを「我が社」と呼んでいる。ただ、給料は払わずに逆に授業料をいただいている、ということには抵抗があるが。勿論、このような先端研究を行うとは言うものの、そこはやはり大学であるので、教育的効果をねらった指導は常に行っている。学生さんには研究室におけるプロジェクトに携わることによって、問題発見能力、課題解決能力、諸事調整能力、成果発表能力などのスキルを身につけて社会に出て行くようにと常に言っているのである。


追いコン(2009年度) (2010年3月25日)

 追いコンが終わりました。寒い一日で、夕方の八王子はみぞれでした。今年は南大沢・多摩ニュータウン通り沿いのお好み焼き屋です。学生たちは南大沢駅前の飲み屋にはもう飽きた、とか言っていました。飲み放題・食べ放題のコースでしたが、なかなか美味しかったし食べ出もあって、学生向きでした。追い出されるひとのうちの3名が参加して、総員6名の小じんまりした会でしたが、机一つに皆で座ってわいわい楽しかったです。




 で、その店の家紋がお箸の袋に印刷されていたのですが、ふと見ると何と我が家の家紋と同じでした。まあ珍しい紋ではないので、よく見かけます(有名どころで言うと、徳川四天王の一人だった酒井左衛門尉家の紋どころ)。そこで学生さんに自分の家の家紋を知っているか訊ねたところ、一人しか知りませんでした(その学生さんの家紋は結構珍しそうでしたが)。まあ、そんなもんでしょうか。家紋なんか普通は使わないし、現代では羽織袴もめったに着用しないので、家紋を知っている必要性はないでしょうから。

 でも家紋は日本人特有の美意識から生み出された伝統的なデザインですから、廃れることなく存続して欲しいと思います。


懐かしいひと3 (2010年3月24日)

 芝浦工大の岸田慎司先生が、我が社の田島祐之さんの博士取得お祝い会を新宿で開いてくれた。鹿島技研の永井覚さん、高稲宜和さんも駆けつけてくれた。しかしもうひとり、懐かしいひとが参加してくれた。北山研出身で鹿島(こちらも鹿島、である)に勤めている森山健作くんである。

 「久しぶりだねえ、何年振りかなあ」と私が言うと、「私の結婚式以来だから2年振りくらいですかね」との返事。なんだか十年ぶりくらいで会った気がしたのは、どういう訳だろう。でも元気そうだったので安心しました。これからも頑張って下さい。

 で、森山くんと話していて、最近の若い人は会話ができない、隣にいるひとともメールじゃないと話しができない、ということには驚いた。最近の新聞でそのようなことを読んだ気がするが、すぐ身近に迫った問題とは認識していなかった。しかし、少なくとも我が社に入ってくる卒論生とは今のところ会話は(何とか)成立しているので、とりあえず安心してもいいのかな、と思う。

 ところでここで取り上げた丸ノ内線・西新宿駅であるが、きれいな内装が施されていたのでコンクリートの地肌を見ることはできなかった。私が西新宿駅で下車してエスカレータに乗ったときに、前にいた数人のサラリーマンが「ここは陸軍の、、、」と話していたのにはちょっと驚いたが。こんな話は結構話題になっているんだな、と実感した次第である。


初音 (2010年3月23日)

 今朝、図書館の裏の雑木林から鶯の鳴き声が聞こえてきました。まだ、練習不足?らしく、たどたどしく“ケキョ、ケキョ”鳴いてましたが、紛れもなくウグイスでした。お彼岸を過ぎて、やっと春らしくなってきましたね。

 ところで先週末に京王線のダイヤが改正されたのですが、私の朝の通勤経路に限っていえば、京王多摩センターでの停車時間が異常に長くなって、結局従来よりも5分以上余計にかかるようになりました。

 調布駅付近の地下鉄化の工事の影響で、ダイヤにゆとりを持つように改正したらしいのですが、(これは想像ですが)全般的に所要時間は増えたのだと思います。その証拠に、京王電鉄は今回のダイヤ改正について、ほとんど何もコメントしていません。所要時間の短縮といった文言はもちろん聞かれません。

 まあ、今までダイヤ遅れが常態化していたので、実質的に運行可能なダイヤ表示にした、ということでしょうね。それはそれでまあ、受け入れ可能です。ただ南大沢駅に通じる相模原線は支線なので、ちょっと虐げられたような気がするのは、私のひがみでしょうか。


東京の地下 (2010年3月22日)

 先週末の謝恩会の前に虎ノ門で会議があり、ちょっと時間があったので本屋に寄った。そこで何気なく『帝都東京 隠された地下網の秘密』(秋庭俊著、新潮文庫、平成18年)という本を買った。そして読み出したのだが、あんまり面白くて三日で読み終えてしまった(私はいろんな本を同時並行で読んでいるため、通常は読了するのに一週間くらいはかかる)。

 東京の地下には、戦前に既に多数の地下鉄や地下道路が密かに敷設されており、戦後の営団や都営の地下鉄路線(あるいは首都高速の地下部分)はそれを利用して作られたものが多いというのがその骨子である。そしてそれらの地下遺産は、そのような計画があったことも含めて未だに国民には公開されておらず、権力によって密かに使い続けられているものもあるだろう、とのこと。

 一番分かり易い例は、赤坂見附駅であろう。ちょうど謝恩会のときにこの駅で乗り降りしたのはGood Timing であった。銀座線は日本最古の地下鉄と言われており、戦前に建設された唯一の地下鉄であるが、赤坂見附駅は上り下りのホームが二層に設置されている。そして、上り下りとも銀座線のホームの反対側には丸ノ内線が入っている。そのため、我々利用者にとっては乗り換えがとても便利ではある。

 しかし、銀座線が開業した当時には丸ノ内線は全く存在しなかった。それではなぜ、ホームを二層に重ねたのか。二層重ねにすると設計も施工も複雑になることは当然で、それだけ面倒なはずなのに、である。

 そこから得られる結論は、銀座線が開業した当時、銀座線のホームの反対側には壁で仕切られて一般人には分からなかったものの、すでに地下鉄の線路が敷かれていた、ということらしい。

 まあ真相は闇の中、ということだろうが、そういう目で東京の地下鉄を見てみると、確かに私も気になることがある。それは東西線の茅場町駅である。文教施設協会に行くときにいつもこの駅を利用する。そしてその後に三田の建築学会に行くときには、再びこの駅に戻って、地下通路を歩いて都営浅草線の日本橋駅まで歩くのである。地上を歩くと幾つかの信号に引っかかるので、この地下通路のほうが便利である。だが、この地下通路がどうも不自然なのだ。

 東西線の茅場町駅の隣は日本橋駅なので、まず地下通路でこの二駅を結んでいる理由が不明である。さらにこの地下通路の幅はそれ程でもない(でも、人間が歩くには非常に広い)が、トンネル高が異常に高いのである。必要性の薄いトンネルを何の目的でそんなに立派に作ったのか。常々疑問だったが、これも戦前から何らかの目的のために「既に」存在していたとしたら、別に不思議でもなんでもない。

 結局考えられることは、旧帝国陸軍が帝都防衛の目的のために東京の地下に地下道や地下鉄を網の目のように敷設した、ということだが、いかにもありそうなことである。つい最近になってやっと日米核密約の存在が公式に確認されたが、戦前も戦後も我々国民には知らされない国家機密は山ほどあったに違いない。しかしこれだけ建物が林立している東京都心の地下に、未だに人知れず地下施設が眠っている(あるいは使い続けられている)かと思うと、背筋が寒くなる思いがする。

 なお本書によれば、丸の内線の西新宿駅(この駅は1998年に開業した)も戦前に作られた地下鉄の駅である、とされている。近々、所用があって西新宿駅で下車する予定なので、トンネル内や駅のコンクリートをしげしげと見てこようと思う。


謝恩会 (2010年3月20日)

 週末の金曜日、建築都市コースと建築学専攻の謝恩会が都心のホテルであった。高級ホテルの宴会場にご招待いただいて感激したのだが、お金がかかっただろうなあ、というのが最初の感想である。バブルがはじけて社会は沈滞ムード一色なのに、このホテルの宴会フロアだけは華やかな別世界であった。

 私は諸事あって五年ぶりに謝恩会に出席したのだが、なんとプロの写真屋を頼んで研究室ごとの記念写真まで金屏風の前で撮ってくれた。北山研ではプロジェクト研究室をあわせて合計七名の卒業・修了者がいたのだが、そのうちの五名が出席した。

    
     注; この写真は北山のデジカメで撮ったものです

 だがこの会場にて、プロジェクト研究室の和田芳宏くんから、JCI年次論文の査読結果が未だ来ない、ということを知らされ、もしかして論文そのものが受領されていなかったのでは?という衝撃の事実が明らかになった。こんなめでたい日に、一気にブルーな気分になった。確かに論文を電子投稿したのは締め切り日の午後五時ぎりぎりだったが、私はそのとき和田くんの後ろにいて、大丈夫だな、はい投稿できました、という会話をしたことをよく憶えていた。それなのに何でだろう?

 そのことを聞き知った高木次郎さん(共同研究者、准教授)も同じように憂鬱な気分になったらしくて、相当にめげていた。ところで帰り道に高木さんから「謝恩会って何なのか、分かりませんでした」という話しを聞いた。なんでも京都では、我々関東人が昔から?やってきた、学科全体でお世話になった先生方をお招きして感謝しつつ飲み食いする、という「謝恩会」はやらないそうである。それを聞いて今度は私のほうが驚いた。ええっ、てな感じである。やはり場所が違えば文化が違うのだ。特に京都はかつての日本の都だったせいか、彼らからすると遠く東の果ての東人(あずまびと)とは違うんだ、という意識があるだろう。

追伸(3月23日); 和田君がJCIの事務局に確認したところ、論文はちゃんと受理され査読されていました。メールが和田君のところに届かなかっただけ、ということらしいです。でも今度は、メールが届かない、なんてことがあるのか疑問に思っているところです。何でだろう?


さよならジェーン (2010年3月17日)

 久しぶりに都立A高校の同窓会のHPを覗いてみた。そしてかつて物理を教わったA先生の訃報に接したのである。三十年近く前の都立A高校には、当時の都立の進学校に多く見られたように、いわゆる“名物教師”がたくさんおいでだった。

 物理のA先生もそのひとりと言ってよく、授業の合間によく「いい?、ダメ?」とか、「じぇーん、じぇん、ダメ?」とか生徒に投げかけていた。われわれはその度にクスクス笑っていたものである。ちなみにその「いい?、ダメ?」というセリフは、学生たちの理解度を確認するために私もときどき授業中に使わせていただいている。

 多分その口癖のせいであろうが、『ジェーン』というちょっとバタ臭いあだ名が受け継がれていた。A先生ご自身もそのあだ名を気に入っておいでだったようで、我々のクラスの文集に寄せて下さった文章にもそのあだ名で署名されていた。

 その当時、A先生は既に老境に差しかかっていたように見えたが、訃報に載っていた享年から逆算するとまだ五十歳代半ばであったようだ。

 私が東京都立大学建築学科に赴任して以来、母校の都立A高校から進学して来た学生が何人かいる。そのなかに親子そろって都立A高校出身という学生がいて、「先生、ジェーン知ってますか?」と聞かれて面食らったことがある。話してみると、そのひとの父親が『ジェーン』に教わった、と言っていた。ずっと昔から『ジェーン』だったのである。

 ちなみに私が在校していた当時には、『カバさん』、『ペヤング』、『いと地理』、『かに玉』、『イトカン』、『うなぎいぬ』などのあだ名の愛すべき先生がたがいた。皆さん、お元気なんでしょうか。

 A先生のご冥福を心より祈る。さよなら、ジェーン。

蛇足; ところで高校の物理であるが、私はどうにも苦手で好きになれなかった。力にしても電気にしても目に見えないものを扱うのがピンと来なかったんだろうな。数学と化学は好きだったので理系志望になったのだが、そんな私が力学バリバリの建築構造を専門とするとは思わなかった。でも建築構造学でツールとして用いるのは、ご存じのように力学とは言っても基本的には力の釣り合いという古典力学だけなので、なんということもないのだが。

 それでも私の結婚式のときに級友の伊東正明くんが「北山は物理が苦手で嫌いだったのに、今じゃ耐震構造を研究しています」とかスピーチしちゃったものだから、並みいる青研の諸先輩方の前でとんだ冷や汗をかいたのであった。


プラモデル (2010年3月14日)

 子供と初めてプラモデルを作った。旧日本海軍の防空駆逐艦『秋月』である。私が父親にプラモデルを作って貰った(アメリカ軍のジープだった記憶がある)のが確か小学校に入る前くらいだったから、そろそろいいかなと思ったのである。結論から言うと、まだちょっと早かったみたいだ。プラモデルは手先の器用さが要求されるので、私が用意したスケール1/700のウオーターライン・シリーズはちょっと無理だった。子供は扱いも乱暴なので、すぐに壊れてしまう。おじいちゃんに作ってもらった紙製の帆船『日本丸』も、すぐに帆がとれてしまって、今では見る影もない(おじいちゃん、ごめんなさい)。

 私は子供の頃は、プラモデル少年だった。タミヤのドイツ陸軍の戦車とか装甲車、それにドイツ兵の人形などをせっせと作っては、庭に並べてジオラマ写真を撮ったりしていた。プラモデルの改造にも手を出して、プラ板を買ってきて工作もした。プラスチックを火で炙ってワイアを作ったりもした。そのエネルギーたるや、今思えばもの凄いものがある。同じくらい一所懸命に勉強していたら、また違った未来があったかも知れない、と思うくらいである。

 さて私は、小学校5年生くらいから1/700のウオーターライン・シリーズを作り始めた(懐かしいでしょう)。空母『赤城』、『飛竜』、戦艦『榛名』、重巡『青葉』、『利根』、軽巡『長良』、駆逐艦『松』、『陽炎』、伊号潜水艦『イ400』など、大小あわせて20隻以上は作ったと思う。ウオーターライン・シリーズはその名の通り、水の上に浮かんだ艦形を作るもので、スケールが統一されているため机の上に並べて艦隊を形作ることができるのだ。子供心にそれはとてもカッコ良く映ったのだろうな(戦争の意味など、そのころには分からなかったから)。

 しかしそれから40年近く経って再び1/700の模型を作ってみると、こんなに小さくて細かい作業だったかな、とちょっと驚いた。『秋月』は全長20cmにも満たない。25mm連装機銃なんか、もう本当にちっちゃい!これじゃ、老眼の私には実際のところ無理である。内火艇やカッター・ボートを吊るすデリックなんかも微小で、ピンセットなしにはつらい作業だった。そう言えば、子供の頃もピンセットは必需品だったことを思い出した。

 で、さらにウオーターライン・シリーズの続きだが、現代にも売られていたことには本当に驚いた。やはりコアなマニアはいまだに棲息していると見える。そして値段も私が子供の頃よりはるかに高くなっていた。まあ、物価の上昇を考えれば当たり前だろう。駆逐艦は昔は150円くらいだったのだが、今回買った『秋月』は790円もした(それもディスカウント価格である)。さらに私が子供の頃には旧日本海軍の軍艦だけだったのだが、このあいだ見たらドイツ海軍の高速戦艦『シャルンホルスト』とか、米軍の空母『ホーネット』とか、国際色も豊かになっていた。

 もうひとつ驚いたのは、昔はプラモデル用接着剤が必ず同梱されていたのだが、今のものには接着剤が入っていなかったのである。しょうがないので、子供と一緒に接着剤を買いにゆくところから始めた。ついでにカッティング・シートとヤスリも買って、準備万端整えたのであった。

 枠から切り離したパーツにヤスリを掛けていると、自分が子供だった頃の思い出が彷彿として来て、なんだかとても懐かしい気分に浸った。でも、自分の子供に「早く作って、作って、は〜や〜く〜」と連発されると、私も昔、自分の父親に同じようにせがんでいたことを思い出して、歴史は繰り返す、因果は廻る糸車、などとも思ったのである。

 もう少し子供が大きくなったら、塗装なんかもしてリアルなプラモデルを作ろうっと。

追伸; この二日後、『秋月』はおもちゃ箱に放り投げられて、マストは折れ、カッターは脱落し、機銃は折れ曲がって、あえなく轟沈したのでした、トホホッ。


前途洋々 (2010年3月15日)

 今日は本学の入学予定者の入学手続き日だそうだ。正門前にそんな掲示が出ていた。それで辺りをよく見回してみると、確かに高校生みたいな人たちがポツポツと歩いている。これからの薔薇色の?大学生活に想いを馳せて、元気溌剌といったところだろうな。

 しかしそのような人ばかりでもないだろう。第一志望に落ちて、止むなく本学の門をくぐったというひともいるだろう。しかしそれでも、本学で勉強しようと決意したからには、そんな未練な想いはさっぱりと捨て去って、ポジティブに大学生活を送って欲しい。やだなあ、つまらないなあ、と思って過ごすと、何事も上手く行かない。逆に、楽しいなあ、面白いなあという心意気で日々を過ごすと、それだけで何でも良い方向に進むものである。

 要は気の持ちようである。人間いたるところ青山あり、である。今、自分の存在するポジションにおいて常に全力投球し、何でも吸収してやろうという積もりで生活することが、心身ともに健康を維持するためにも重要だと思う。

 君たちの前には前途洋々たる未来が開けている。その大海に乗り出すのは、君たち自身である。日々、笑いながら楽しく過ごすよう、心掛けて欲しい。そうすれば必ず未開の沃野を切り開くことができるであろう。皆さんの健闘を祈っているよ。


わが建築学科、今後の展望 (2010年3月13日)

 昨日、後期日程の入学試験が終わった。わが建築都市コースの受験者数は定員(後期は10名である)の約6倍だったとのことで、数年前と較べると確実に減少しているそうだ。18歳人口が低下して定員割れとなる大学もあるのだから、やむを得ないだろう(などと達観している訳でもないが)。

 そんな話を同僚の角田誠さんとしているうちに、いつしかわがコースの今後の展望についての話題となった。学力は明らかに低下しているし、学生全体の気質が幼稚化しているのも衆目の一致するところである。

 2005年に都立の4大学が統合されて新大学が発足し、それに伴って今までの建築学科に都市科学系の大学院教員が加わって建築都市コースに改組された。学部学生定員はそれまでの40名から一挙に1.5倍の60名になったのである。パイは減っているのに定員が増えたのだから、レベルが下がるのは当然の理であろう。

 さて学生たちのBehaviorといえば、1、2年生のうちに多くの単位を取得して、3年生になったら設計デザインを中心に履修し、本来学ぶべき専門の講義(例えばRC構造とか、我田引水ですが、、、)にはあまり出て来ない、というふうに変わりつつある。

 さらに最近の不景気の影響で、3年後期にはもう就職活動が始まり、学生さんは授業に集中するどころではなくなった。こうして本来は専門の講義群から建築学に対する様々な知識を貪欲に吸収すべき3年生の時期を、(我々から見れば)無駄に過ごしているように思えるのである。

 しかしこのような学習Behaviorを可能にしているのは、我々のカリキュラムのほうにも問題がある。建築都市コースには准教授以上が二十数名も在籍しており、それぞれが複数の講義を担当している。さらに「余人を持って代え難い」という理由によって非常勤講師の先生も多数いる。すなわち講義数が圧倒的に多いのである。学生さんへのサービスと言えば聞こえはよいものの、こんなに沢山講義があったらよっぽど志の高い学生さんでも全ての講義を履修することは不可能である。

 しかし、例え数年にひとりしか履修者がいないような科目(例えば某大学のインド哲学とか)でも、その科目を準備しておき、担当する教員も存在する、ということが大学の果たすべき基本的役割である、このことこそがCenter of Excellenceである、という考え方もあろう。私もこのことにはもろ手を上げて賛成である。ただ、全ての授業科目を自前で用意しなくても、同じ大学の他学部などに開講されていれば、それでよいとも言える。

 実は21世紀になって早々にわが建築学科では、授業科目数をもっと減らそうという試みに挑戦した。しかしその結果はわずかに幾つかの科目が廃講となったに過ぎず(そのうちの一つは退官された西川孝夫先生の『地震工学』であった)、当初の目論みはあっさり潰え去ったのである。国政や地方政治の議員さんが自分たちの議員定数を減らすことは本能的にできないように、大学の先生たちが自分の担当する授業科目を廃することは多分不可能であろう。

 では、どうするか? 自分の講義科目を減らさずに総授業数を減らすには、担当教員数を減らすしかないであろう。このことによって教授すべき講義科目を精選して、学生に提供するのである。こんなことを言うと、それではまずお前が辞めろと言われかねないので、これ以上は触れないことにしよう。

 いずれにせよ現状のままでは、われわれが掲げているアドミッション・ポリシーを実現することは不可能で、われわれ教員が期待しているような知識とスキルとを身につけないで卒業して行く学生が多数を占めることは間違いない。

 そのような(中途半端な)学生を社会に送り出す事態が続くと社会からの信頼が損なわれてゆき、その結果としてわれわれの存在理由そのものも危殆に瀕するであろう。建築学科の卒業生として恥ずかしくない教育を学生に施すことと、われわれ教員の存立基盤を安泰に継続して大学を保全することとは、実は完全に等価な事象なのである。このことを忘れずに日々を過ごしたいと思う。

 追伸; とは言うものの、一教員に何ができるのだろうか。今のままでは、イバラの道でしょうな。前にも書いたように、私は権力とか管理とかとは対極のマインドを持った人間なので、これを実現するためには“人民共闘”みたいな形態しかあり得ないでしょうね。うーん、何だか高橋和巳の『憂鬱なる党派』みたいになってきたな。こりゃいかん、煮詰まったのでもう止めます。大学についてはいずれまた、論考したいと思います。


南大沢だより1 (2010年3月10日)

 昨日は寒かったですね。南大沢ではお昼から雪が本降りとなり、今日の午後登校してみると、そこかしこに雪が残っていました。

 今日は前期入試の合格発表がありました。正門を入って左側にある大講堂のコンコースが発表掲示場所ですが、私がちょっと覗いたときにはすでに閑散として、数人のひとがいるだけでした。本学では合格者の受験番号だけが示されていますが、遥か昔に私が自分の合否を確かめたときには、カタカナで氏名も発表されていました。今の時代、個人情報保護の観点から氏名は掲示しないんでしょうね。

 今日の午前中は建築学会で会議でした。そのあと東大の塩原等さんや楠原文雄さんとご飯を食べながら、コンドル先生や佐野利器についてちょっと話しました。佐野利器が出て来たところで、塩原さんが「そう言えば真島健三郎の写真を見つけたよ」と言い出しました。

 耐震構造について研究しているひとなら多分ご存知でしょうが、その昔、『柔剛論争』というのがあって(ひとことで言えば、建物は堅く造るべきか、柔らかく造るべきか、についての論争)、剛構造を主張した佐野利器に対するもう一方の相手が、柔構造を主張した真島健三郎でした。

 真島健三郎は土木分野の方ですが、当時海軍の建築局長などを務めた技師で、日本最初期にRC建物を設計したひととして知られています。しかし、その人となりや業績については、あまり調べられていないようだ、とういことに今日の会話で気がつきました。

 日本最初の全RC構造建物として有名な横浜・三井物産一号館を設計した建築家・遠藤於菟は、われわれの遥か昔の大先輩ですのでそれなりに研究されていますが(北山研では2008年度の卒論として小太刀さんが調べました)、真島健三郎は土木分野のひとということもあって、あまり研究されてこなかったのかなあ、と思いました。

 こんな世間話の中にも“研究のタネ”は転がっているんだ、ということを再認識した次第です。やることはまだまだ沢山ありますぜよ。


RC規準講習会終わんぬ (2010年3月9日)

 2月中旬から全国10都市を行脚したRC規準(2010年版)講習会が終わりました。受講者総数は1852名でした。市井の構造技術者のRC建物の構造設計に対する関心の深さが伺われました。

 なお今回の改訂版に対して、すでにかなりのご質問をいただいています。今後、市之瀬敏勝先生(名古屋工業大学)を中心とするQ&A-WGにおいて回答等を検討し、順次Web Siteに掲載する予定です。

 4月13日の東京会場での追加講習会も既に満員となり、翌14日にも建築会館にて再度の追加講習会を開くことになっています(既にお知らせしましたが)。

 別の話題ですが、AIJ関東支部から出しているテキスト『鉄筋コンクリート構造の設計』も来年度(2010年度)に改訂することになりました。こちらは塩原等先生(東京大学)を主査として今後の改訂作業が進められる予定です。このテキストは毎年300冊程度は売れているので、そこそこ使われている教科書?だと思います。


花のあと (2010年3月5日)

 藤沢周平の短編『花のあと』が映画化されたことを新聞で見かけたので、久しぶりに読み返した。本当に短いので読むのに半時間とかからない。武家の娘の秘めた恋、というのは確かだが、語り口はどこかコミカルであまり深刻ぶったところのない、藤沢独特の世界であった。

 藤沢周平の時代小説と言えば、酒井家中(庄内藩)をモデルとした海坂藩を舞台とする武家ものが有名だが、市井の人々の暮らしを描いた町人ものも人情味溢れておもしろい。先日の朝日新聞の「読者が選ぶ藤沢作品ベスト10」では、『蝉しぐれ』(武家ものです)が予想通りトップを獲得していたが、町人ものの『海鳴り』もベスト10に入っていたと思う。ちょっと脱線するが、最近では山本一力の町人ものをよく読んでいる。

 私が初めて読んだ藤沢作品は、米沢藩の中興の祖である上杉鷹山を描いた『漆の実のみのる国』である。九州の小藩から名門上杉家に養子入りして米沢藩主となった若き鷹山が、重臣達の抵抗にあいながらも藩政改革を行い、藩財政を立て直して家中の支持を得ることに成功するのである。義父である前藩主は遊興三昧で、鷹山の倹約施策にもどこ吹く風という態度であったが、重臣達の鷹山に対する反逆に対しては一喝、断固として現藩主を守る、というくだりは、水戸黄門の「印籠シーン」のように胸のすく場面である。

 藤沢作品の私のベスト3を挙げるとすると、『三屋清左衛門残日録』、『一茶』、『漆黒の闇の中で 彫師伊之助捕物覚え』かな。『三屋清左衛門残日録』はNHKの時代劇で放映され、主人公の隠居(三屋清左衛門)を仲代達矢が、飲み屋の女将をかたせ梨乃が、それぞれ演じた。この番組の中で、庄内地方の様々な食べ物が紹介されるのが楽しかった。私はこの文庫本をハワイに持ってゆき、その海辺に寝そべりながら読んでいたほど、好きである。

 『一茶』は言わずとしれた俳人・小林一茶の生涯を辿ったものであるが、我々が表面的に知っている一茶ではなくて、食べて行くこと自体が大変だった江戸時代に生きた人間・一茶を藤沢流に赤裸々に描いた作品である。俳人って(現代でもそうだろうが)大変なんだなあ、ということを思い知らされた。

 『漆黒の闇の中で 彫師伊之助捕物覚え』は、江戸下町に暮らす元岡っ引きで版木刷り職人の伊之助が難事件の解決に挑むという内容で、これは明らかにハードボイルド時代小説である。『闇の傀儡師』もこの系統の作品だろうが、藤沢作品にはこんな作風のものもあるのである。


2009年度最後のゼミ (2010年3月4日)

 今年度最後のゼミが終わった。4月に締め切りのあるAIJ大会論文の割り振りを決めることが主要な相談事であった。就職活動で忙しいM1二人は欠席だったので最終決定ではないが、卒論生の島宏之君も含めて各人の担当を割り振った。

 そのほかに、矢島君がPC鋼より線-シース管系の付着引き抜き実験の結果を報告し、王磊さんが先日搬入された十字形柱梁接合部試験体の梁部材の性能評価についての検討結果を報告した。また、宮木香那さんとJ.コンドルについての研究の引き継ぎを行い、検討できなかったことや気になった事柄についての報告を受けた。このように年度末まで充実した研究活動を送ることができて、私は幸せである。

 来年度の研究室のメンバーは今年よりひとり多い9名となる予定である。2009年度は嶋田君ひとりを島流しのように別の部屋にしていたが、やはりその弊害は大きかったようである(嶋田君からネチネチ文句を言われました)。そこで来年度は、相当に窮屈ではあるが全員をひと部屋に入れるように、これから模様替えなどを行うつもりだ。

 残るはWPCプロジェクト関連の取りまとめだが、こちらは担当の和田芳宏君をはじめ、高木次郎准教授や見波進助教と詳細を相談することになる。


機知に富むひと (2010年3月1日)

 JCI(日本コンクリート工学協会)の研究委員会があった。委員長は東大コンクリート研の前川宏一先生である。この委員会名は何だか一般名詞のようだが、JCIにおいては非常に重要な固有名詞の委員会である。一番の仕事は、会員から設置申請のあった研究専門委員会(設置期間は2年間)の諾否を投票によって決定する、ということである。

 この日は、全部で7つの専門委員会の設置申請があり、そのうちから5つを委員の投票によって選んだ。コンクリートに関する材料、構造、社会など多岐に渡るテーマが掲げられており、さすがはJCIという感じである。

 鳩山首相の唱える「コンクリートからひとへ」というスローガンは、ここJCIではすこぶる評判が悪いのはまあ当然である。しかし、社会基盤を構成する基本材料としてコンクリートは確かに必要だが、それらも結局は地球環境を保全しながらひとのために存在しなければならない、ということが折に触れ議論の合間に確認されたりもした。その意味では、このスローガンは当を得ている、とも言うことができるだろう。

 と、ここまでこの研究委員会について書いてきたが、正直言って退屈ではある。専門とは全く関係のない話も聞かないといけない。そんなまったりとして沈鬱な気分を吹き払ってくれるのが、前川委員長がときどき挟む示唆に富んだウイット溢れるひとことなのである。若くして東大教授に就任したひとだけあって、博学だし仰ることにはいちいち感心させられた。特にFEM解析におけるボンド・リンクの功罪については先生の持論を開陳され、なるほどなあと一頻り感心した。

 またJIS規格などの規定がどのような経緯で決まったのかが、年月とともにだんだんと分からなくなってしまうという問題については、その制定に関わった大先生達が鬼籍に入る前にちゃんと聞き取りをして、記録を残しておかなければならない、その例として原子力建屋の耐震設計法があって(いわゆる3Ciのこと)、それには武藤清先生とか梅村魁先生などが関わっておいでだったのだが、存命なのは今や岡村甫先生お一人である、などというお話もあった。

 このような前川先生の合いの手に、なるほど、とか、へえ〜、とか思っているうちに、なんとか研究委員会は無事終わったのであった。ああ、よかった。


ガムあるいは大学入試 (2010年2月26日)

 やっと前期日程入試が終わりました。受験生の皆さん、お疲れさまでした。多量かつ難しそうな(?)問題を短時間で解かなければならいない受験生は、それはもう大変なことだとお察しします。そのエネルギーたるや膨大なもので、若くかつモティベーションがあるからこそ、解けるんでしょうね。問題の中味を見てみましたが、私にはとても解ける気がしませんでした。

 でも受験生だけでなく、われわれ監督員も大変に疲れました。今年はいろんな事態が相次いで出来しました(詳細はここには書けませんが)ので、その対応と失敗してはいけないと言う精神的重圧とで、クタクタになりました。

 ところで、試験室でチューインガムを踏んづけちゃいました。そして、そのことの持つ重みに気がついたとき、実はちょっと呆然としてしまったのです。試験室は普段は教室として使っているところで、当たり前ですが、その床にガムを吐き捨てる、などという不埒な学生は今まで見たことはありませんでした。ところが、本学に入りたいと希望しているひとの中に、教室の床にガムを捨てても気にならないという、モラルや常識もなくデリカシーもない、というひとが存在したのです。

 ご同輩、これは恐ろしいことですぜ。そんなひとがゾロゾロ大学に存在することになるかと思うと、もう世も末じゃないでしょうか。電車内のポスターじゃないけど、そういうことは自分の家でやって欲しいものです(まあ、家の床にガムを捨てるひとは、絶対にいないでしょうけど)。


RC規準講習会in広島 (2010年2月24日)

 春のように暖かな日となったこの日、広島でのRC規準講習会が行われました。場所は広島県情報プラザという、広島駅からはかなり離れた、広電の停留所からも歩いてかなりあるところで、ちょっと不便でした。でもGood day だったので、チンタラ歩くにはもってこいのお日和でよかったです。

 私は午前中の概要および柱・梁についての講演を行いました。予想はしていましたが、相当の駆け足かつ早口な説明となってしまい、聴衆の皆さんにご理解いただけたか、ちょっと不安です。

 さて、この日の最後に講演される予定の南宏一先生(福山大学教授)に、久しぶりにお会いしました。私がまだ大学院生だった頃、当時大阪工業大学におられた南先生の実験室にお邪魔するなど、非常に親しく接していただき、いろいろなことをご教示いただいた先生です。

 福山大学には非常に大掛かりな実験装置があって、南先生の研究室ではそれを用いて精力的な研究が行われていることは周知のことでしょう。そうした会話の中で、南先生はRC部材のせん断終局強度に関する寸法効果について言及されました。この点は実は私も非常に気になっている事柄で、土木学会と建築学会とで定量的な見解が大きく異なっています。建築分野でも原子力建屋のように非常に部材寸法の大きい部材が使われることもありますので、その安全性を確保する上で、寸法効果を避けて通ることはできないはずです。

 しかしながら建築分野で行われた実験の範囲では、寸法効果によるせん断終局強度の低下は小さい、と結論されており、本当かなあ、大丈夫かなあ、と私は常々考えています。ですので、南先生が図らずもそのことを口にされたことに、私はとても勇気づけられました。建築構造の研究者の中にも、寸法効果について定量的な決着がついていない、と考えている方がいる、ということに我が意を強くした次第です。

 ところでこの文章は帰りの新幹線の中で書いてきたのですが、だんだんと気分が悪くなってきました。不規則に揺れる車内で、一点を見つめているとこうなるようです。筑波大学の境さんのHPを読むと、電車の中だけでなくバスの中でもワープロを打っているそうなので、一体どうやってこの“気持ち悪さ”を克服しているのか、不思議です。三半規管が特殊なのかしらん?


路面電車 (2010年2月23日)

 RC規準2010年版の講習会の講師をするため、広島に来ました。広島は2008年夏に学会大会で訪れて以来、一年半ぶりです。広島駅で新幹線を下車して、広島電鉄に乗りました。正真正銘の路面電車です。全て車道の上を走る“正統的な”路面電車に乗ったのは、いったい何年ぶりでしょうか(鎌倉の江の電[ほとんど専用軌道上を走っている]には、このコーナーでも書いたように昨年秋に乗りました)。ちょっと思い出せませんね。子供の頃によく乗っていた都電以来だとすると、もう40年ぶりくらいです。ただ、子供がいつも見ている乗り物のDVDに広電が出てくるので、電車の行き先表示で「江波行き」というのを見ても、ああ、あれか、みたいな感じでした。

 乗りかたですが、さすがに現代の路面電車なのでワンマン運転です。まあ、バスと同じですな。ちょっと戸惑ったのが、料金(150円でした)を運転台横の料金箱に入れるのですが、お釣りは出ないので、予め両替しておかなければならない、ということです。そこで、150円を握りしめていないといけない、ということになりました。何だか子供みたいでしょう。もちろん東京のパスネットみたいなICカードもあるようで、そのためのタッチ・パネルも設置されていましたが。

 路面電車は道路上を車とともに走っているためでしょうか、スピードはのろかったです。あるいは駅間が非常に近いせいかもしれません。路面電車って、こんなにおそかったかなあ、というのが正直な感想です。明日、広島のひとに聞いてみよっと。

 (追記)タクシーの運転手さんに聞いたら、スピードはあんなもんですよ、でも朝夕のラッシュ時にはスイスイ進みますけん、と言っていました。


学生さんを指導するはなし (2010年2月21日)

 福岡大学の高山峯夫さん(大学院時代の同級生)のページに紹介されていた『理系のための即効!卒業論文術』(中田亨著、講談社ブルーバックス、2010)を読んだ。私はいろいろなところに掲載される書評によって、書籍を選んで手に取ることが好きだ。同様に、ごく親しい知人に「最近読んだ面白い本は何?」と聞くことも多い。特に知人からの情報は、日頃のbehaviorを良く知っているひと達からのものなので、自分の興味のツボにピッタリはまる、ということが多いものである。

 という訳で、卒論の発表会は既に終わってしまってタイミングとしては最悪であったが、高山さんの文章を読んで興味をそそられたので、大学の生協にあった本書を読んでみた。タイトルは卒業論文術であるが、私のような大学教員が読んでも十分に面白いし、なるほどそうだよなあ、と思わせる文章(「研究のネタがないときは放浪せよ」とか、「成算のない実験をしても成果は得られない」など)が随所に散りばめられた良書だと思った。

 特に研究初心者である卒論生に対して、先生はすぐに具体的なテーマを与えるべき、というくだりではやはりそうだよね、と膝を打った。我が社では毎年4月になって新しい卒論生が入ってくると、キックオフ・ミーティングでその年度の研究テーマを提示し、彼らに選ばせている。テーマを早く決めれば、その課題に対する検討とサーベイとをそれだけ早く始動できて、学生さんを遊ばせることがなくて有益である、と考えるからだ。

 博士課程の学生さんには科研費などの外部研究費の申請書の下書きを教育の一環としてやらせるべし、と書かれていたところでは、うーんと唸ってしまった。私は今までそのようなことをしたことは、実は一度もなかったからである。しかし本書で述べられている通り、研究費をゲットすることは一人前の研究者に要求される必須事項なので、研究者の卵である博士課程の学生にそのような訓練をさせることは当然と言えば当然であろう。

 自分の経験を紐解いてみると、私自身も大学院生の頃には科研費の申請書を書かされたことはなかった(研究報告書を作成する、ということは日常茶飯事であったが)。そのため大学の助手になって、初めて科研費の申請書を書こうと思ったときに、さすがにどうすればよいか分からなかった。そこで当時東大の助手だった田才晃先生に今までに彼が書いた申請書を見せていただいて、「こんな風に書くんだよ」と教えていただいた。こうしたスキルの口伝(いわゆる虎の巻)は大いに効果を発揮するものである。

 このような自身の経験からも、外部研究費の申請書の書き方を博士課程の学生さんには指南すべきであろう。残念ながら、こちらのほうも既にD論を提出して公聴会も終わっているので、ちょっと遅かったが。

 本書の、多くの研究室を体験すべし、というくだりも全く同感である。私自身、助手となって幾つかの研究室に所属した経験が、その後の大学人生活に大いに役立ったし、視野を広くしてくれたとも思う。先生にも様々な考え方の持ち主がいるし、個性もある。しかしこちらのほうは、教員側にいろいろと思惑もあって学生さんに素直に勧める、というのは難しそうだ。まず優秀な学生を卒論生として採りたいし、そういう学生さんには大学院に進んでも自分のところの研究室に所属してもらいたい、というのがおおかたの大学教員の本心ではなかろうか。まあ私のスタンスは、来るものはみなウェルカム、去る者は追わず、であるが。

 来年度の卒論生には、この本を紹介してみるつもりである。でも、論文を書いたことがない人間には、何が書いてあるのかさっぱり分からない、という部分も多いかも知れない。そういうことも含めて、学生さんのリアクションを見守ってみようかな、などと思ったりするのであった。


花粉探知機2 (2010年2月19日)

 寒い日が続きますね。昨日は東京・多摩東部は雪でした。ただお昼から晴れたので雪はすぐに溶けて、助かりました。京王線は相変わらず遅れていましたけど。

 ところで皆さん、今年は花粉の出が遅いような気がしませんか。昨年でいうとバレンタイン・デーのときには、もうたまらん、という状態であったと記憶します(ここにあります)。それに対して今年はまだ、ほとんど症状は出ていません。ときどき目が痒くなって、くしゃみが出るくらいです。

 ここでまた、あのお方にお会いしました。土木の小泉明教授(衛生工学)です。今日のお昼に富士見坂(学内のメイン・ストリートのこと)でお会いしたときの会話です。

先生: 「いやあ、寒いですねえ」

 私: 「先生、そのマスクは花粉ですか」

先生: 「ええ、私のセンサーが反応しています」 と言って、ご自分の鼻を指す。

 と言う訳で、量は少ないですが確実に飛散していることが「超精密生体センサー」によって明らかになりました。皆さん、お気をつけ下さい。


RC規準講習会in東京 (2010年2月16日)

 このコーナーでも何度か紹介してきたRC規準改訂版ですがやっとのことで出版となり、2010年版として世に出ました。そのお披露目の第一弾として東京・砂防会館にて講習会が開かれましたので、行ってきました(写真は、講演する市之瀬先生)。今回は私は発表者ではありませんが、一週間後の広島会場では講師として概要および柱・梁についてご説明に上がります。広島の皆さん、どうかおいで下さい(とは言うものの、広島のひとでこのページをご覧の方は多分いないと思います。あははっ、、、)。

 東京会場は600名が入れるとのことですが、満員でした。RCの構造設計に対する関心の深さが伺われました。講師の方の説明は要点を簡潔に説明していたので、初めて聴くひとも詳細はともかくとして概要は理解できたと思います。

 ただ、19条の耐震壁についてはほとんど全面的に書き直したこともあって、全貌を理解するのは容易ではないと感じました。壁谷澤先生一流のトークもあって、よく出来る構造設計者の方にはふむふむと頷いて貰えるような、玄人受けする説明でしたね。でも、一貫計算ソフトに頼っているような構造設計者にとっては多分、??の連発だったのではないでしょうか。

 私が担当した柱・梁ですが、今回の改訂の大きな特徴は、せん断設計および付着設計において使用性、損傷制御および安全性という三つの限界状態に対する性能を確保するという形式に改めたことです。しかしこの用語は一般の設計者にとっては必ずしも周知の事実というわけでもないでしょうから、その説明が理解いただけたかどうか若干の不安はあります。今日の発表は柱梁WG主査の黒瀬行信さん(清水建設)がなさったので、非常にクリアな説明だったとは思います。

 16条の付着および継手については、鉄筋の許容付着応力度を1991年版のものに戻すとともに、使用性および損傷制御の確保のための付着の検討は1991年版で規定されていた曲げ付着あるいは平均付着による検定に戻しました。これはこれで明快ですが、1999年版の許容付着応力度も「付着割裂の基準となる強度」として安全性の検討の際に引き続き使われ続けます。このあたりが、初めての方にはちょっと分かり難いかもしれません。用語が長ったらしいことも、聞いていて分かりにくさを助長するような気がしました。

 設計例(7階建て)は今までのものとは全く異なって、袖壁や腰壁を有効に利用するための耐震設計の手法を示すとともに、構面外のRC壁も積極的に利用した意欲的な試みになりました。最近の設計では、袖壁、垂れ壁および腰壁に対して考えるのが面倒なので何でもスリットで対処する、という傾向が見て取れますが、そういう風潮に対して異議あり、と声高に叫ぶ効果はどの程度でしょうか。ただ、袖壁や腰壁を正面からまともに扱うことは、設計としてはちょっと複雑な感じもしました。一般の構造設計者がそのあたりのメリットとデメリットとをどのようにはかりに掛けるのだろうか、ちょっと心配です。

 というように、今までのRC規準からさらに一歩(というよりは数歩だと私は思っていますが)前進した新しいRC規準(2010年版)を是非手に取ってご覧下さい。皆様からのご質問やご指摘あるいはご叱責をお待ちしています。アドレスは以下の通りです。

 RC規準(2010年版)に対するご質問等の受付: rcqa@aij.or.jp

また、ご質問に対する回答は以下のHPに掲載いたします。

 http://www.kyusan-u.ac.jp/J/rcqa/


人生を語る (2010年2月15日)

 底冷えのする寒い一日、試験体の作製状況を検分するために、(株)アシス(旧入部工業)に行ってきました。工場が成田から茨城県稲敷市に移ってから、私は初めて行きました。JR常磐線の佐貫駅まで約2時間、そこから車で約30分という結構な小旅行でした。ちなみに実験担当はM1の王磊さんです。

 我が社作成の工程表では翌日がコンクリート打設でしたが、行って見ても(予想はしていましたが)何も出来ておらず、名工大・市之瀬研究室の試験体を一所懸命に作っていました。かろうじて、入部のヤスタカさんたちがうちの試験体の柱の鉄筋を組み立てていました。しかし、大学の検収が厳しくなったために三月初頭の納品は変えられないので、とにかくちゃんと作って下さい、とお願いするしかありませんでした。古い付き合いだし、安い価格で無理を言っていますので、あんまりガーガー言いたくありませんが、もうちょっとスケジュール管理をできないものでしょうか。

 とは言うものの、村上社長(と言うか、むしろ“村上のおじさん”というほうが私には馴染みがあるのですが)と話しをしていると、四半世紀も前の思い出話が出てきたりして、「あの頃があるから今があるんです、みんなあの頃学生さんだった皆さんのお陰です」などとおじさんから言われると、そう強く文句も言えなくなってしまいます。そうしていつしか、おじさんの人生譚が始まるのです。

 村上のおじさんは苦労人なので(ということも、話しを聞いているとよく分かります)、一流の人生哲学みたいなものを持っておいでです。そういう話しをしていると、ちょっとした会話の中にも「ああ、なるほどな」と思わせるものが顔を覗かせます。またおじさんは複雑な家族の持ち主でもあるので、子育てについても貴重なお話を伺うことができました。おじさんのところのお子さんはうちよりはだいぶ大きいですが、それでも随分と参考になりました。

 しかし(株)アシスの発展ぶりには目を見張るものがありますね。試験体作製専門会社がこんな成長産業になるとは想像しても見ませんでしたが、これも村上のおじさんの努力と人柄の為せる業であると私は思っています。入部工業が大成建設戸田PC作業所から離れて独立した会社としてやって行くことになったとき、細川洋治先生が「我々の役に立つ試験体作製の専門会社なんだから、我々が育てないといけないよ」と言われたことを思い出します。そして事実、そうなったのです。

 願わくば、村上のおじさんのあとを継ぐ人材が早く育って欲しい、ということでしょうか。結局、村上のおじさん無くしては、ここまで来れなかったでしょうからね。


春を想う (2010年2月10日)

 街にある梅の木にちらほらと花が咲き始めました。まあ、梅にもいろいろ種類があって、ろう梅みたいに正月には咲いているものもありますが。それに刺激されたのか、通勤途上の京王線の車中で一句、思い浮かびました。ちなみに私には俳句の趣味はありません。

 梅が枝に 寒さこらえて 餅ひとつ

 お粗末でした。


最適な耐震改修とは? (2010年2月9日)

 修論の発表会が終わった。建築生産を研究する角田研究室からは、耐震改修に関する研究が二つ発表された。そのうち前野聖人くんの研究では、RC校舎の耐震改修について最適の工法を選択するための手法を提案した。具体的には(私の理解だが)耐震性能の向上、工期の長短、教育環境の維持、という三つの要因をコスト評価して、これらの組み合わせから合理的に耐震補強工法を選択できる、というものである。

 具体的な数値の決め方とかポイントの決め方など、詳細については私は理解していないが(個々の数値については、ちょっと?といったものもあったような気がするが)、アイデアとしては面白かった。研究の手法としてはこういうのもあるかな、と感じたし、評価できる。

 ただ、この研究のひとつの結論として外付けブレース補強が有効である、というふうに述べられていたのには、ちょっと驚いた。外付け補強は居ながら補強に対応できることが多く、造作に手を加えないなど、確かに利点もある。しかしながら構造の観点から言うと、力学的には力の流れがスムーズではなく、明らかに無理をしている。躯体内に組み込む補強形式(RC増設壁や鉄骨ブレース)と較べて、地震時の脱落や二方向加力による影響など心配な点も多々ある。

 そこで前野くんの研究に、このような力学的な優劣も組み込んで、あわせて指標化できれば、構造屋からの疑問も解消できるのではないか。角田先生、いかがでしょうか(などと言うと、またプロジェクト研究しないといけなくなりそうですが、、、)。

 ただこうした構造的な優劣を組み込むと、結局、構面内のRC壁補強やブレース補強のポイントが高くなって、指標を用いたコスト評価する意味が無くなる、なんてことになるかも知れないが。

 さて、修論の発表会を途中で抜け出して(すいません)、虎ノ門の某協会で耐震補強物件の審査を行った。対象は地方の中核となる大規模な公立病院である。耐震性能はかなり悪く、それ相応の耐震補強が必要になったのだが、病院という用途上、耐震補強を入れられる部位が著しく制約されたため、その補強計画は構造的には相当な無理があった。手っ取り早くいうと、補強部材から既存骨組への力の流れ(その逆も然り)がスムーズでない、ということに尽きる。

 もう少し意匠屋さんを説得できないものかとつくづく思ったのだが、とにかくはじめに建築計画ありき、といった感が強く、何を言っても暖簾に腕押し、みたいであったのは残念である(まあ、ある程度こちらの要望も入れてくれたのでよかったが)。計画サイドと構造サイドとが協力して耐震改修に当たることが大切なのだが(誰もが言っていることで、当たり前ですな)、現実にはそうでないことを実感させられた事例である。ちなみにここでも外付け鉄骨ブレースが今までにないような形態で使われており、大いに議論になったのであった。

 今年の修士論文には、WPC中層集合住宅の大規模改修に関する研究(建築家の小泉雅生さんが研究代表者)が構造系2編(坂元尚子さん、和田芳宏くん)、計画系2編(高塚直樹くん、畑江未央さん)の合計4編もあり、小泉・高木・北山でチームを組んだプロジェクト研究としてはまとまった成果を出せたと思っている。今後はこれらの研究成果を現実に活用するための戦略が重要となるだろう。


おごれるものは、、、 (2010年2月7日)

 トヨタが大変なことになってきましたね。一連の車の不具合に対して、完全に対応を誤った、という感じです。雪印や三菱自動車など、今までにこのような事例はたくさんあるにもかかわらず、トヨタはそれを他山の石として見過ごし、そこから何も学ばなかったと言われても仕方ないでしょう。

 私は五年ほど前に初めてトヨタ車のユーザーになりました。それまではホンダに乗っており、日本一の自動車メーカーであるトヨタはあまり好きではありませんでした。まあ、いわゆる判官びいきというヤツでしょう。しかしトヨタのディーラーに行ってみて、他のメーカーにはないきめ細かいサービスを実感しましたし、車自体もよく出来ていると感じました。なるほど、トヨタ車が売れるのもむべなるかな、と思ったものです。

 ところが二年ほど前、トヨタが世界一になるかならないかの頃でしょうか、私の乗っている小さい車がリコールになりました。リコールの通知がトヨタから届きましたが、しばらくディーラーからは連絡がなく(リコール対応で大変だったのでしょうが)、やっと電話がかかってきても、すいませんの一言もなく、車を持って来て下さい、というだけでした。車を引き取りにくるとも言いませんでした。思うにこのあたりから、トヨタの慢心が始まっていたのではないでしょうか。世界一という頂点を極めて、舞い上がっちゃったんでしょうな。

 皆さんが言っていますが、ここらで「お客様目線」というものを再認識していただき、基本に立ち返って車づくりに臨んで欲しいと思います。ブレーキの効きが悪くて止まりたいところに止まれないという事実に対して、「フィーリングの問題」で片付けようとした企業意識は大いに非難されてしかるべきです。止まるということは自動車に求められる基本的かつ最重要の要求性能ですから。

 しかしこの原因がABSシステムのコンピュータ制御の問題であるとすると、ブレーキという最も安全に関わる部分をコンピュータで電子的に制御することにちょっと不安を感じます。複雑なシステムになればなるほど、コマンドの組み合わせは膨大なものとなり、その全ての場合について安全性をチェックすることは限りなく不可能になります(この問題は、以前に書いた量子コンピュータが誕生すれば解決できるでしょうが)。すなわち、想定外の事象が発生する確率は確実に増大する、ということです。これに対するフェール・セーフはどのように考えられているのでしょうか。


博士論文の公聴会 (2010年2月6日)

 週末の土曜日、我が社の田島祐之さんの博士論文公聴会が朝9時半から開かれた。この朝の八王子は、この冬一番の寒さではないかと感じるほど寒かった。数日前に降った雪が根雪となって残っており、それがなおのこと寒さ感を増幅させた。

 それにもかかわらず、鹿島技研RCチームのオールキャスト(丸田誠さん、永井覚さん、高稲宜和さん)をはじめ、大成技研(竹崎真一さん)や芝浦工大(岸田慎司准教授)、それから北山研や岸田研のOB(中沼くん、足立くん)などがわざわざおいで下さった。主催者としてあつく御礼を申し上げます。ちなみに審査員は主査が私で、副査が芳村学教授および高木次郎准教授である。

 田島さんは博士論文の成果のなかから、PC十字形柱梁部分架構内の曲げ破壊する梁部材のエネルギー吸収性能を定量的に評価する手法について発表した。建築学会の構造系論文集に発表した内容である。これに対してフロアの方々から、構造設計に関する話題や、評価手法の妥当性など幅広い意見や質問をいただくことができて、田島さんだけでなく私としても大いに有益であった。

 この日に至るまでに審査会を三回に渡って開催し、副査の両先生から時には厳しい質問をいただき、私もプレゼンテーションの方法に注文を付けたりして、田島さんは大変だったと思う。しかし公聴会を無事に済ませるところまでたどり着いたので、私としても大変に嬉しい。田島さん、ご苦労様でした。

 私が博士論文を提出したときには(今からもう二十年近く昔のことになるが)、主査が青山博之先生、副査が小谷俊介先生(当時は助教授)、岡村甫先生(当時は土木・コンクリート研教授)、岡田恒男先生(当時は東大生研教授)、南忠夫先生(故人、東大地震研教授)というもの凄い顔ぶれで審査していただいた。東大では本学のように全審査員が集まって審査会をやる、という習慣はなかったようで、青山先生から、副査の各先生のところを廻って論文の説明をして意見を伺ってくるように、と言われた。副査の先生方は皆それぞれに要職に着かれており多忙なため、二、三時間を割いていただくのがやっとという状況だったが、それでも的確なアドバイスや相当に対応に苦慮するような質問を頂いた。公聴会は工学部1号館2階の絨毯敷の部屋で開いていただいたが、ギャラリーは主査と副査の先生方あわせて5名だけであった(まあ、名のみの公聴会ではある)。

 さて、はなしを元に戻そう。この日には実は田島さんのあとに、三名の方の公聴会が開かれた(芳村研がひとり、橘高研がふたり)。そして私はなんとその三名の方のいずれも副査を務めていたのである。すなわちこの日、私は全部で四つの公聴会をハシゴしたのだ。いやあ、疲れましたね。ひとつの公聴会が約二時間ですから、二時間×4=八時間、ということになりますな。こうして朝9時半から日没後の午後6時まで、私は大会議室の椅子に坐っていたのだった。田島さんも大仕事だっただろうが、私もかくの如くにとっても大事な大仕事をこなしたのである。


パラダイムの転換(その2) (2010年2月5日)

 私の専門とする学問領域における(世間から見れば小ちゃな部分であるが)パラダイム・シフトについて、以前にここで書いた。しかし今回はもっとスケールの大きな、自然界を支配する法則や宇宙誕生の謎に迫ることができるかも知れない、というパラダイムの転換についてのはなしである。

 量子コンピュータについての平易な解説書を読んだ。ジョージ・ジョンソン著/水谷淳訳『量子コンピュータとは何か』(ハヤカワ文庫、2009)である。今、“平易な”と書いたが、結論から言えば量子コンピュータの成り立ちについては、私はよく分からなかった。我々が使っている電子コンピュータは0と1というビットによって全ての演算をシーケンシャルに実行する。それに対して、量子コンピュータでは量子が持つあいまいな性質、すなわち0と1とが重なってこの両方の属性を同時にあわせ持つことを演算に利用することによって、電子コンピュータでは事実上実行不可能な演算(計算に膨大な時間を要するため)をほとんど瞬時に実行できるようになる、らしい。

 現在のところ、量子コンピュータが最終的にどんな原理を利用して、どんな形態になるのか、誰も予想できない。それは光を利用するかも知れないし、特殊な液体を利用するかも知れないが、私のような凡人では想像すらできない。しかしこれは、半世紀前に電子コンピュータが今のように手のひらに乗るくらいの小ささでサクサク動くことなど誰も考えられなかったことと、本質的に同じである。

 我々が今使っている電子コンピュータとは全く異なる原理で作動する次世代型の量子コンピュータが、しかしいずれは実用化され、一般に用いられるようになるだろう。そのために物理学者や数学者がリアルタイムで研究に邁進しているかと思うと、ひとごとながらワクワクしてくる。パラダイムの転換点は、実は今このときかも知れないのである。どこかの研究室で、それはひっそりと誕生することだろう。

 私はこのような壮大な試みに関与することは残念ながらできないが、量子コンピュータを研究する彼らに大いなるエールを送りたい。


エース (2010年2月4日)

 東大の元エースがNHKのニュース番組のキャスターになる、という小さな記事が新聞にのっていた。その人の名前を見ると大越健介さん、とあった。東京六大学野球で八勝を挙げたとのことなので、東大は言わずもがなだが、東京六大学の中でもエース級と言っていいだろう。年齢は私と同じであった。ということは、私が神宮球場に野球の応援に行っていた頃、彼はマウンドで投げていた、ということになるが、あまり記憶にない。

 まだ駒場の学生だった頃、野球好きの村上哲くん(現JAXA)などと一緒によく野球の応援に行った。その時代は東大野球部の全盛期ともいってよい時期で、立て続けに勝ち点2を挙げて、もう一校に勝てばAクラス入りも可能、ということがあって、駒場キャンパスはその話題で持ち切りだった。

 その頃に投げていたのは、大山とか国友とかいったひと達だった記憶がある。神宮球場の応援席に座ると、応援団の指示に従って歌を歌ったり、ヤジを飛ばしたり、選手の名前を連呼したりした。ところがラッキー・セブンの7回裏表では、それまでのヤジや鳴りものを中断して、双方の応援歌(慶応であれば「陸の王者」、東大であれば「ただひとつ」など)を歌ってエールを交換するため、球場内はウソのようにしーんと静まり返る。

 そのとき、私は奇跡を見たのである。東大のピッチャーである国友(だったと思う)が、そのエールの交換中に打席に立った。そして次の瞬間、カーンという小気味よい快音を発したかと思うと、彼の打球はライナーで無人の右翼スタンドに飛び込んだのである。ホームランだ! スタンドはもう沸き立ちたくてしょうがないのだが、何せエールの交換という応援団にとっては最も神聖な儀式の最中なので、「静かにしろ!」というお達しとともにベースを巡る国友を黙って見ていたのであった。

 こうしてこの試合は2−0で勝った。ただ結局、このカードでは勝ち点を挙げられずに勝ち点2止まりで、悲願のAクラス入りも夢と消えた。東大の選手がホームランを打つのを私が見たのは、これが最初で最後であった。


2009年度の授業終了 (2010年2月3日)

 今日の午前中で「鉄筋コンクリート構造」の授業がやっと終わりました。今年度は水曜日の休日が多かったため、2月まで授業をせざるを得ませんでした。2月に学部の講義をしたのは初めてのような気がします。最終講義だというのに、結局ギャラリーは少ないままでした。まあ、明後日が卒業設計の講評のため、3年生はみんな卒計の手伝いで大わらわなんでしょうけどね。

 鉄筋コンクリート構造に対して学生さんたちはいかに興味がないか、ということがよく分かった訳で、一体どうすれば良いんだろう、と考え込んでしまいました。

 なお、期末試験は来週にあります。試験期間の最終日なので、学生さんは多分うんざりでしょう。こちらもやむを得ません。こんな感じで「やむを得ない」を連発しているところが、学生受けの悪い理由でしょうか。


『殉教』と『沈黙』 (2010年2月3日)

 山本博文著『殉教 日本人は何を信仰したか』(光文社新書、2009年)を読んだ。山本博文さんは東大史料編纂所教授を務める学者だが(面識はない)、日本史上の出来事をいろいろな角度から平易に解説してくれる本を多数執筆している。私もいろいろと読んだが、『江戸お留守居役の日記』(講談社学術文庫、2003年)や『島津義弘の賭け』(中公文庫、2001年)などは特に面白かった。

 後者の島津義弘は戦国時代の猛将として知られ、関ヶ原の戦いのときには西軍に属したにもかかわらず石田三成の再三の出動要請に応ずることなく、西軍総崩れ後にわずか数百人の島津家中とともに一致団結して血路を開いて戦場を離脱し、薩摩に帰国したことで有名である。その島津義弘の活躍を、山本さんは小説と見まがうような生き生きとした筆致で描いたのである。

 さて、『殉教』である。その冒頭で遠藤周作の小説『沈黙』を取り上げて読者の興味を惹き付けたのはさすがであったが、牽強付会の感がなきにしもあらずで、私は山本氏の論旨にはあまり共感できなかった。

 『沈黙』は非常に有名な小説なので読んだことのあるひとは多いだろう。ひとことで言うと、江戸時代初期に日本に潜入したバテレンが迫害を受け、神の沈黙に絶望してキリスト教を棄教する、というお話である。私も高校生くらいのときに『海と毒薬』とともに読んだ記憶がある。

 山本氏は、遠藤周作が『沈黙』で描く来日宣教師の思考法は現代人のそれであり、江戸初期当時の宣教師はそのようには考えなかった、と結論づけている。『殉教』という本はこのことを二百枚近い紙数を費やして説明している、と言ってもよいだろう。

 山本氏も別に遠藤周作の『沈黙』を非難したり否定したりしている訳では全くなく、そのあたりは注意深く言葉を選んで書いている。しかし敬虔なクリスチャンであった遠藤周作は『沈黙』によって、江戸初期のキリシタンが置かれた絶望的な状況を背景として使いながら、キリスト教とかデウス(神)とかを描こうとしたように私には思われる。なので、その登場人物がきわめて現代人的な考え方をしたかどうかは全然重要ではないと思うのだが。

 日本における殉教の歴史を説明するために、『沈黙』を引き合いに出したのは山本氏の勇み足であった、と私は感じる。本書の構成はちょっと強引すぎたようだ。もっとも、かく言う私も『沈黙』を引き合いに出した冒頭部を見たために、本書に強い興味を覚えて読了したのだから、結果としては山本氏の戦略は正しかったのかも知れない。いずれにせよ、爽やかですっきりした読後感、という訳にはいかなかったことは確かである。


回転寿司 (2010年2月1日)

 三十年ぶりに回転寿司屋に行った。多分、大学生の頃に本郷通り沿いにあった店に行って以来である。子供が行きたい、と言うので家族で行ったのだが、週末の夕方ということもあってべらぼうに混んでいた。安くて旨いことで有名な店らしく、待っている客の数も尋常ではなく、何と一時間も待ったのである! 回転寿司ごとき(失礼ですね)にこんなに待つなんて、ちょっとビックリですな。

 そしてやっとボックス席に腰を下ろすと、クルクルと回るベルトコンベアの上を次から次へとやってくるお寿司とかケーキとか焼き肉(お寿司屋さんなのに?)とかの皿を見て、子供はもう大喜びである。きゃっきゃ言いながら、楽しそうにお寿司やデザートを食べてくれた。しかし、どのネタも一皿105円である。こんなに安いって、ちょっと心配じゃないですか。安全な食材なのかなあ、などと思ったりした。なんせ鮮魚ですからね。

 そして、お会計のときにまたまたビックリした。家族でたらふく食べて三千円にも満たないのである。うーん、これって一体どうしてでしょうかね。待っているひとが沢山いて、店員さんも沢山いるので確実に儲かっていると思うんだが、やはり安いお店にしかひとが集まらない、というご時勢なんでしょうな。

 でも、食べている脇を常にお寿司が動いており、何だか落ち着かなった。お茶もないし、ワサビは小さなビニール袋入りのものだし、味気なくてどうも日本食の王様であるお寿司を食べているという気はしなかった。流れてくるエサをカゴの中でついばんでいるブロイラーをふと連想したのは、果たして私だけだろうか。


進化するひと (2010年1月30日)

 先日、半年ぶりに高校のときの同級生八人が集まった。昨年、二十数年ぶりで再会した級友達との絆が戻ったといったところか。そのなかに中学校から大学まで同じ、というIくんがいる。彼は中学生の頃には生徒会長選挙に打って出て各クラスを回り、高校では剣道部で活躍した。高校三年生のときには私と同じ理系クラスにいて、数学の問題を解いていた。ところが、彼は文転して有名私大に入った。ところがそこを辞めて有名国立大に入り直した。ところがそこも辞めて、結局東大文Iに入ったのである。そこまでで数年を要していた。

 私が大学院生の頃に、彼は法学部生だったが青山研究室に遊びに来て、ソファーに座ってしばらくマンガを読んでいったこともある。大学時代には東大・体育会の花形と言ってもよいボート部で活躍して、某有名会社に就職した。ところが、である。彼は何と数年前にその会社を辞めて勉強に専念して司法試験に合格し、最近、なんと弁護士になったのである。もう驚き、である。弁護士ルーキーである彼は「何でもいいから、相談に来てくれ」などと冗談半分で言っていた。

 私たち同級生は、生き続けて既に半世紀近くを経過した。しかし日々の仕事に疲れ切っているような我々にとって、彼のように今なお進化し続けることは正直言って相当にしんどい。ひとところに留まらずに常に前進し続けて来た彼の生き方には、感嘆を通り越して賛辞さえ送りたいと思った。


研究室だより1 (2010年1月29日)

 今日の午後は研究室会議の予定でしたが、試験体の作製とPC鋼より線-シース管系の付着引き抜き実験とで学生諸君が忙しい、ということで会議は延期になりました。いやあ、この時期に試験体の作製で忙しい、というのも珍しいですが、さらに実験までやっている、というのは非常にレアなケースですな(まあ昨年度も冬にPRC部分骨組試験体を作っていましたが)。

 通常は卒論や修論が忙しくて、そんなことをやっている場合じゃない、ということになるのでしょうが、今年は皆優秀なせいか(?)、どんどんと作業が進んで行きます。M2の矢島君などはもうすぐ修論の提出だと言うのに、昨日から付着引き抜き実験を始めました。RC立方体に埋め込んだPC鋼より線-シース管系を単調に引き抜くという、何でもなさそうな実験です。興味深かったし、たまたま時間もあったので、私もその実験に参加しました。矢島君ひとりじゃ、かわいそうだと思ったこともあります。

 しか〜し、実験をやったことがあるひとはお分かりでしょうが、どんな実験でも「簡単」にできちゃう、などということはあり得ません。付着引き抜き実験のための鉄骨治具は、二年ほど前に宮崎裕ノ介くんが設計して作ってくれたものを使っていますが、試験体の下にロードセルを入れて、さらにその下に球座を入れているので、試験体が少しでも中心からずれると、引張っている途中で球座がグラッと来て、試験体が急に傾いてしまって加力がうまく行きません。

 PC鋼より線の引き抜き実験は我が社では初めてやるのですが、この「境界条件問題」に加えて、PC鋼より線を引き抜いていくと、より線が回転しながら抜け出してくるので(中塚先生たちがしきりと仰っていることです)、今までになかったような問題も出てきます。そんな訳で、付着引き抜き実験は現在試行錯誤で矢島君が頑張っています。ノウハウをつかむまでが大変でしょうね。

 試験体の作製ですがこちらはM1・王磊さんの研究として、RC十字形部分骨組試験体の梁部材の性能評価手法の検証を行うための実験です。北山研としては久しぶりにRCの十字形試験体に取り組みます(このところはPC構造ばっかり、という状況でしたから)。これは日本建築学会で北山が「梁柱性能評価WG」の主査を務めているため、そのための研究作業の一貫と位置づけています。まあ王磊さんにとっては初めてのことばかりだし、日本語の壁もあるので大変だとは思いますが、ひとつずつ乗り越えて、自分でやり遂げた、という満足感を味わえるように努力して欲しいと期待しています。

 このように、いつになくアクティブな北山研の1月末でした。


コンドル先生のこと (2010年1月24日)

 コンドル先生は本郷にある東京大学・工学部一号館の前に立っておられる。颯爽として右手にはチョークを持っておいでである。130年前の造家学科の教室では、4人の日本の若者(辰野金吾、片山東熊、曾禰達蔵そして佐立七次郎)をまえにしてKing’s English で講義をされていたのだろう。その後、日本最初の建築家となる若者達にとって、大して歳の違わないコンドル先生はどんな教師だったのだろうか。

 ジョサイア・コンドル先生は、明治維新後の日本に学問としての建築学を教授するために日本政府に雇われて来日され、工部大学校造家学科の唯一の教授として日本の建築界を産み出し、育てた恩人である。しかしそれから百年後、同じ学び舎で建築学を勉強していた私は、この銅像のGentlemanが何者であるかということを気に留めることはほとんどなかった。製図室に泊まり込んで設計していた頃、黎明に疲れ果てて一号館の玄関から外に出ると、ひんやりとした空気のなかにぽつんとコンドル先生が立っておられた姿をなぜか憶えている。

 私は卒業して紆余曲折の末に東京都立大学に籍を得て、教養の授業を担当することになった。講義名は『建築と文化』である。私のように工学を学ぶものが「文化」を論ずるなど笑止であると思ったが、日本における耐震構造の発展史なら興味もあるし、ひとに教えることも出来そうだ、という風に感じ、そのための資料を作り始めた。ここではじめてコンドル先生について調べてみたい、と思うようになった。そこで、建築史を専門とする山田幸正先生(本学教授)からいろいろな書籍をお借りして調べたりしたが、残念ながら深く調べる時間はなかった。コンドル先生が地震国日本に来てから、耐震構造をどのようにお考えになり実践されたのか、知りたいとは思ったが、多忙にかまけてその調査に着手できないでいた。

 ところが2009年度になって、日本の耐震構造の発展にコンドル先生が残した足跡を調べる研究に、卒論生の宮木香那さんが取り組んでくれることになった。その成果は彼女の卒業論文にまとめられるだろうが、私が今一番注目しているのは、コンドル先生が煉瓦造建物を鉄材で補強する方法を考え、実践したという事実である。

 小野木重勝先生による既往の研究にはコンドル先生の書簡(明治15[1882]年)が紹介されており、そのなかに煉瓦の壁体に水平および鉛直の鉄材を挿入して補強するという手法、およびそのときの煉瓦目地(石灰モルタル)の水平強度および水平鉄材(錬鉄)の引張り強度が具体的に記されている。これをもとにコンドル先生が暗黙のうちに想定したであろう水平震度(k=QW)を具体的に求めることはできないか、と考えた。幾つか仮定を設けざるを得なかったが、その結果得られた水平震度は1程度であり、結構大きな数字となった。すなわち、重力加速度(下向き)と同程度の水平加速度(横向き)が地震時に建物に作用しても壊れないくらいの強度を想定していたことになる。

 ただしコンドル先生は、現代で言うところの保有水平耐力を考えていた訳ではなさそうである。先生の書簡によると、建物内の諸々の部位がその質量に依存して様々な周期で振動する(このことはニュートンのf=maという力学法則から容易に想像できよう)ことから、壁体の連層開口の上下の部材(短スパン梁に相当)のように左右の重量物に挟まれた部位には大きな引張り力が作用するので、この部分に水平鉄材を挿入して補強すればよいと考えた。すなわち、純粋な引張り補強である。

 現代に生きるわれわれは水平力を受ける煉瓦やRCの壁部材がせん断破壊する、という現象を知っているが、19世紀のコンドル先生はそんなことはご存じなかった、と思われる。地震のない英国では基本的には軸力に対して建物を設計すればよかったので、日本において地震対策を考えたときにも軸力だけに対処すればよい、とお考えになったのではなかろうか。その証拠にコンドル先生は、煉瓦壁体に挿入した鉛直鉄材は鉛直地震動による引張り力のみを受ける、と述べている。水平力にともなって生じる曲げモーメントに起因する軸力については触れていないのである。

 しかし当時は地震動によって建物がどのように振動するのか誰も知らなかったし、鉄組補強煉瓦造どころか鉄筋コンクリート構造の力学挙動についても未解明であっただろう(RC構造が誕生したのは1867年である)から、コンドル先生がこのように考えたのもやんぬるかな、であろう。しかしコンドル先生は同じ書簡で、煉瓦壁体内の鉛直および水平鉄材がフレームを形成して各煉瓦ブロックを拘束するのに役立つ、とも述べており、煉瓦と鉄材とが協同して外力に抵抗する効果を想定していたとも思われる。

 コンドル先生の時代には建物の構造力学が未成熟だったために、地震動に対して安全な建物を構築するための耐震構造を科学的に考えるには、まだ早過ぎた。結局、煉瓦造を鉄材で補強するという一点において、その後の我が国における鉄筋コンクリート構造の導入を準備するのに役立った、ということであろうか。なお煉瓦造を鉄材で補強するという考え方にはいくつかの系譜があったようだが、そのことについてはここでは触れない。

 この後、明治24[1891]年に直下型地震である濃尾地震が発生して、煉瓦造の建物が甚大な被害を受けた。コンドル先生は鉱山学者のジョン・ミルン先生とともにその被害調査に出向いている(ついでだが、日本最初の全RC造建物を横浜に建設した建築家・遠藤於菟も、帝国大学学生としてこの調査行に参加した)。そのときミルン先生が残した写真が『The Great Earthquake of Japan 1891』という写真集になってまとめられており、佐野利器、武藤清、梅村魁、青山博之、小谷俊介と連綿と続く東大の研究室に秘蔵されていた。その写真集は私が大学院生の頃に研究室において“再発見”され(このあたりの経緯については間違っているかも知れない、ご容赦ください)、復刻されて関係者に配布された。私の手元にも一冊あるので、煉瓦造建物の被害の様子をここに載せておく。    

 さらに時代は下って、佐野利器が『家屋耐震構造論』において世界最初の耐震設計法である震度法を提案したのは、20世紀に入った大正5[1916]年のことであった。

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 最後にもう一度、先生の銅像に戻ろう。コンドル先生の背後の左にあるタイル貼りの建物は工学部11号館で、ここの7階に私がかつて学んだ青山・小谷研究室があった(代替わりして今は久保・塩原研究室になっている)。この1階には数年前にスターバックスコーヒーが開店して、雰囲気も随分変わった。余談だが、私が学生の頃には11号館の1階吹き抜けに「工部大学校」と書かれた大きな木札が無造作に置かれており(その当時は、その木札の価値を私は全く理解していなかった)、その脇にネットを張って小谷俊介先生(当時は若手の助教授)や研究室のメンバー達とバトミントンに興じていた。なんとも無知とは恐ろしいものである。

 ちなみにコンドル先生の下の台座は伊東忠太の設計である。その台座の脚部には地震鬼がいて、コンドル先生の足下に踏みつぶされている。これは、コンドル先生が日本において耐震構造を発展させた結果、地震を征服できたという功績を表わしているそうだ。ところでこの銅像が建てられたのは1923年の春である。そうである、地震関係の研究を生業とするひとなら直ぐに気が付くはずだが、この年の秋に関東大地震が発生したのである。踏みつけられた地震鬼の強烈な逆襲を喰らって、冥界のコンドル先生もさぞや御無念であったことだろう。自然に対しては常に謙虚であれ、という教訓である。


研究室選びのはなし (2010年1月22日)

 今年も憂鬱な一時期が終わった。来年度の卒論生の研究室選びである。例年のことなのだが、構造系は人気がないためにこの行事のころになると、芳村学先生と一緒になってため息をついていることが多い。このときばかりは教員側はなす術もなく、学生さんに“選んでもらう”ことを祈るばかりである。8階の先生方のように(本学の建築都市コースの建築系の教員のうち、計画・意匠系の教員は主に8階に居を構えている)大勢の志望者の中から学生を選ぶ、ということを一度でいいからやってみたい。

 今年は私が担当する「鉄筋コンクリート構造」の講義のギャラリーが少なく、先週なんかは定刻に来ている学生さんはたった二人であった。講義が終わるお昼頃になっても出席者は十名に満たなかった。このように今年は逆風下にあったので、教室会議で「北山研の定員は4名でお願いします」なんて勢いで言ってしまったことをちょっぴり後悔したりもしていた。しかしふたを開けてみると、第一志望で三名の学生さんが来てくれて、残りの一席も芳村研をあぶれてしまった(珍しいですな)学生さんが直ぐにやってきて即決となった。こうして4名の定員は無事に充足した。やれやれ、ひと安心である。

 ここ数年は3名から4名の卒論生が来るようになった(こちらをどうぞ)が、これは研究室の卒論生受け入れ人数をなるべく均等になるように教室会議で取り決めたためである。それまでは卒論生がゼロであったり、独りだったりしたことが多々あったので、私のところのように人気のない研究室にとってはありがたい制度である。この「定員横並び方式」には学生が希望の研究室に行けない、という根強い不満があるのだが、私のところにショッピングに来る学生諸君に対しては「卒論の研究室で人生が決まる訳じゃないんだから、もっと柔軟に考えろよ」と説教している。今年は合計24名の学生が私のところに話しを聞きに来たので、対象学生の1/3以上にこれを話したことになる(同じようなことは、角田誠先生も話しているらしい)。さらに暴言を吐くが、私のところでは最近では建築史(と言っても、RC構造や耐震構造などの技術史onlyであるが)もテーマとしているので、極論すればデザイン志望のひとでも卒論を書くことが可能である。なので、どの研究室に行ってもそれなりに自分のやりたいことと関連したテーマが見つかるはずである。

 ちなみに来年度に卒論を書きたいという学生は70名近くいて、その学生さん達が合計23の研究室(建築系15、都市系8)に配属となった。新大学になって建築都市コースの定員が60名に増えたことも、我が研究室に来る人が増えたことの一因であることは確かであろう。これだけ人数がいると、初めて顔を見た、なんて学生さんも結構いるもんである。


懐かしいひと2 (2010年1月18日)

 今日の朝日新聞朝刊を見ていたら、見開き二面を使った「工学部へ行こう」という広告が目に飛び込んで来た。工学部離れが厳然たる事実として存在するので、それを何とかしてくい止めて、再度工学部にひとを集めよう、という趣旨の広告である。その左紙面半分くらいに、全国国立大学工学部長会議のHP委員長を務める野口博先生のお写真とともにその談話が掲載されていた。野口博先生は現在は千葉大学工学部長であり、私が約二十年前に千葉大学に助手として赴任したときの直接の上司であった先生である(詳しくはこちらをどうぞ)。ここ数年は千葉大学の管理責任者のおひとりとして活躍されており、ご多忙ゆえに学会などでお会いすることもなく、それ故にとても懐かしい気持ちがした。野口先生のコメントは工学部長という立場からは当然出てくるであろう内容であったが、それでも建築学だけでなく工学全体の魅力を小中学生やそこの先生方に伝えるべく活動したいという方針表明には大いに共感を覚えた。大学に入るまで、工学が具体的に何をどのようなツールによって学ぶ学問であるかが、高校生以下の若いひと達には全く知られていない、というのが現状である。この取っ掛かりの部分を何とかするというのは、遠大な計画ではあろうが長い目で見れば確実に効力を発揮する、そういう試みであると思う。

 ちなみに今日は一日中建築会館にいて、RCやPC構造に関するWGや小委員会に出席した。その帰り道に、京都大学の河野進さんと「やっぱり実験やるのは大変だよねえ」という会話のなかで、「野口先生のようにFEMを使って検討するっていうのもあるよね」なんて話しが出て来た。そんな話しをしたあと、家に帰って見た新聞で野口先生その人を発見したので、まさに「噂をすれば影」のような気分になったのである。


こんなのあり? (2010年1月17日)

 何だか凄いことになってきましたね。鳩山・小沢政権vs検察庁の仁義なき戦いです。鳩山首相が小沢幹事長に「検察と戦って下さい」と言ったらしいですが、そんなこと言ってこれからどうなるんでしょうか。検察組織は法の正義に従って、行政からも独立して職務を執行するということでしょうが、検察庁のトップは法務大臣であり、その上にいるのが内閣総理大臣です。すなわち検察当局の最高責任者たる首相が、自分の下部組織に公然と敵対している、ということです。これは組織のあり方から見ても、不自然であると思います。検察の立場からすれば、公正なる視点に基づいて捜査を行おうとしているときに最高指揮官から裏切りにも相当する横槍を入れられた、といったところでしょうか。さらに想像を逞しくしていきますが、鳩山首相の発言は内閣の意見を代弁している(?)とすると、そのことを忖度した法務大臣が伝家の宝刀たる指揮権を発動して検察の捜査に介入するような事態になったら、どうするんでしょうか。

 とにかく一国の首相が、自分の党の幹事長と一蓮托生みたいな態度を表明することは、どう考えても賢明ではないと思います。そんなことをすれば、民主党政権に日本の将来を託した多くの国民の想いはどうなるのでしょう。民主党でも結局はダメだった、従来の政治と実は何も変わらなかった、ということが明らかになったとき、一番不幸なのは日本国民です。そのような失望と絶望感を我々に与えないような、成熟した“大人の政治”を望んでいます。


風は山河より (2010年1月14日)

 宮城谷昌光著『風は山河より』(新潮文庫、2009−2010)をやっと読み終えた。文庫本で全6巻であり、昨年の秋から読み始めた。宮城谷昌光氏は中国の歴史小説を多く執筆しているようだが、私は中国モノといったら吉川英治の『三国志』くらいしか読んだことが無くあまり興味もなかったので、宮城谷昌光氏の小説は今回初めて読んだ。はじめは読みなれない漢字の熟語になかなか馴染めなかったが(だって、漢字にフリガナが振ってあっても意味が分からないんですもん)、まあ何となく前後の文脈と漢字から受ける感覚とで理解すればいいんだと思うようになってからは俄然面白くなって来て、ずんずん読み進むことが出来た。

 内容だが、戦国時代の三河国に割拠した小豪族であった菅沼新八郎三代(定則、定村、定盈)を主人公としたもので、同じ三河の松平氏(のちの徳川氏)三代の物語を織り込みながら展開する大河小説である。昨年後半に新田次郎の『武田勝頼』を読んだが、そのなかに三河地方の山家三方衆として菅沼一族が出て来ており、それに関連するはなしとして興味を持ったのである。『風は山河より』は菅沼一族の傍流を主人公としているので、山家三方衆とは直接の関係はなかったが、尾張の織田家と駿河の今川家さらに甲斐の武田家といった大国に挟まれた三河国の小領主達の悲哀がよく分かった。悲惨な合戦の場面などが多く出てくるわりには、じめじめとした暗さがなく、何となく暖かな気分にさせてくれる小説であった。そして山河から吹き寄せる風がひとを育み、ひとの気質は風土から感化を受けるという、当たり前と言ってしまえばそれだけのことを強く認識させられた。明るい陽光に満ちあふれ、海がキラキラと輝く遠江国(現在の静岡県西部)に是非とも一度行ってみたいものである。


花粉探知機1 (2010年1月13日)

 昨日、エレベータホールで土木の小泉明先生にお会いしたとき、先生がマスクをされていたので、あれっと思った。まさかなあ、とは思ったがとりあえず、次のように聞いてみた。

私 「先生、まさか花粉じゃないでしょうね」

先生 「いやあ、今年は何だか変なんですよ。飛んでるみたいでどうも怪しいので、予防してます」

私 「えっ」(絶句)

 うーん、ついに今年もやって来たか。それにしてもちょっと早すぎる、とは思ったが、何しろ小泉先生は名うての“人間花粉探知機”なので、まず間違いないであろう。こう聞いた瞬間に、私も何だか鼻がむずむずしてきました。いやはやご同輩、つらい季節がやってきましたね。


RC規準改定の最終作業 (2010年1月12日)

 先週末、朝から午後遅くまでかけてRC規準改定の最終作業を建築会館で行った。二回めの校正結果を確認するとともに、改定RC規準の内容について最後の意見交換を行うことが目的である。基本的には最終原稿通りに粛々と進んだが、全面的に書き換えられた19条耐震壁については若干の議論があった。壁谷澤チームの意欲的な提案だが、結構細かい部分もあるので読みこなすのはちょっと大変かな、という印象を受ける。でも、柱付き袖壁とか枠材(柱梁部材)なしの壁等の現実に存在する壁部材の耐力評価を導入したことなど、大いなる進歩を遂げたと言って良いだろう。今後最終的な修正を施してから、2010年2月16日の東京を皮切りに全国を巡って講習会を開くことになる。ちなみに東京会場の定員は600名だが、新年早々予約で満員御礼となったそうだ。RC構造設計に対する関心の深さを物語っていると言えるだろう。そこで東京での追加の講習会を急きょ4月に開くことになった。よろしかったら、どうぞご参加下さい。


大学における広報活動 (2010年1月7日)

 仕事始め早々、学部の広報委員会というのがあった。議題は本学のHPの問題を洗い出して、来年度に予定している大学HPの刷新につなげる、というものである。我が大学のHPのトップページを見ても、どこに何が書いてあるのか直ぐには判断できない、というのがまずもって大問題である。議論していくうちに分かったのだが、このHPは5年ものあいだ手直しされていないらしい。おまけにHPを担当する職員はわずかに二人しかいないということだ。どんな組織にでもだいたいは広報部というものがあって、そこで広報活動の戦略と戦術とを決めて首尾一貫して行動すると思うのだが、本学の事務局にはそのような組織すら無いのである。こりゃ、まいった。いくら教員があれこれ言ってみても、それを組織的かつ有機的に実行する組織がなければ、画餅と化すのは明らかである。

 話しはさらに本質に迫って行く。2005年の新大学発足とともに、旧都立大学は大ざっぱに言えば都市教養学部と都市環境学部とに再編された(他の部局に配属になった先生方もいて、それが大問題を引き起こしたのだが、ここでは省略します)。この学部名は当初から危惧されていた通り、いったい何を研究するところなのか、にわかには分かりにくい。特に都市教養学部には、文系の法学や文学から理学系の数学や物理、果ては工学系の機械や電気までが組み込まれている。ところが「都市教養」とはそもそも何ぞやといった説明は、HPにはどこにもないのである。まあ、大学統合のどさくさに紛れて出て来た「都市教養」という名称にこだわる必要はさらさら無いのだが、そんなことは外部のひと達の預かり知らぬことである。だから本学の特徴とか魅力とかをアピールするためには、まず「都市教養」とは何か、ということを分かり易く説明しなければならないと思うのだ。

 このようにHPひとつとって見ても、我が大学が抱える矛盾と言うんでしょうか、ゆがみと言うんでしょうか、そういったネガティブな面が、多くの意見を無視して大学統合を強引に実行したツケとして、亡霊のごとく浮き上がってくるのでした。怖いこっちゃ。


当世レゴ事情 (2010年1月2日)

 明けましておめでとうございます。今年も皆さんにとって良い年であるようにお祈りします。

 さて元日に実家に行ったら、子供へのお年玉としてレゴを貰った。Cityシリーズというやつで、警察関係のカーゴ・トレーラーと警察署のキットである。対象年齢は5歳から12歳まで、と書いてある。もうすぐ小学校6年生になる甥っ子は、レゴにはもう興味がないようなので、この対象年齢は当を得ているような気がした。さてこのキットには、人形が4体同梱されており、そのうちの1体はなんと泥棒で、囚人服を着ている上に手錠まで用意されている。私が子供の頃にもレゴはちゃんとあって、随分と遊んだものであるが、基本的なパーツは定形で決まっていて、それを組み合わせて自分で好きな造形を生み出すという遊び方であったように思う。それが今どきのレゴといえば、さまざまな特殊な「ヤクもの」によって設計図通りに決まったものを作る、というのが販売戦略らしくて、お家、消防車、レーシング・カー、飛行機や船、果てはスター・ウオーズまで用意されている。レゴ専門店では、レアな「ヤクもの」ばかり集めたつかみ取りセールまで開かれるくらいである。そうして組み立て終えた完成品を手にすると、すごいなあとは思うが(いろんなところが開いたり、動いたりするぞ)、それ以上に創造力は発揮され得ず、すぐに飽きて見向きもされなくなる。我が家では、しばらくすると子供がバラバラに壊してしまい、そのパーツを使って何か別のものを作るようにせがまれる。「何か作って〜」攻撃である。自分でやれってば、そうすれば創造力も少しは発揮されるだろうに。

 そのようなキットをひとたび購入すると、次から次へと子供は欲しくなり、世のジジババたちが孫かわいさに、またまた次から次へと購入して与える、という循環にはまって行くのだ。ちょっとしたキットになるとすぐに一万円近くになるのだから、これって、レゴ社のなんてすばらしい戦略なんだろう。コアな客層をピン・ポイントで狙えっていうのは、この縮小社会における数少ない成長戦略なような気がしますが、どうでしょうかね。

 という訳で、このお正月は貰ったキットを組み立てて、その車両を使って子供と警察ごっこをするという遊びで明け暮れつつ、レゴ社の販売戦略に触発されて今年の経済状況がどうなるのかちらっと考えたりしました(まあ、私が考えてもどうにもなりませんが)。


凧あげ (2010年1月3日)

 お正月になりました。私が子供の頃には「お正月には〜凧あげて〜、こーまを回して遊びましょ」を地で行っていたもんだが、最近ではとんと見かけませんな。羽根つきなんかもよくやりました。羽子板に羽(バドミントンのシャトルに相当するヤツ)があたると、かーんって音がして気持ちよかったです。ところで年末に、女房が凧を買ってきました。子供を外で遊ばせる作戦の一環らしいです。今日は暖かい日和だったので、それでは公園に行って凧あげしよう、ということになりました。最近の凧はビニール製で、尻尾などはついていません。昔は、新聞紙を切って尻尾を作って糊付けして、その出来いかんが、よく上がるかどうかの分かれ目だったような記憶があります。こんな尻尾も無い凧が上がるのかなあ、と心配でしたが、案の定、上手くあがりませんでした。まあ風がほとんどないこともあったのですが、子供に「それっ、走れー」と言って公園中を目一杯走らせると言う当初の目的?は達成できました。走っているあいだ、凧はそれなりに宙に浮いていましたので、風に乗れば上手くあがるんだろうな、と思いました。「それでは、お父さんに手本を見せてもらおう」などと女房が言ったのですが、どうせ上手くあがらないだろうから「今日は風がないからダメだなあ、うんうん」などと言って、ごまかして帰ってきました。次はコマ回し、でしょうかね。子供の頃には鉄輪がはまった重いコマとか、木製のコマとかいろいろ持っており、手に乗せるときには軽い木製のコマ、とか遊び方に応じてコマ回ししていた記憶があります。今は、そんないろんな種類のコマがそもそも売られているのでしょうか。ベイ・ブレードってやつが世の子供達には流行っているようですが、あんなマシンでコマを回すようなおもちゃには、全く未来を感じられません。

追記: 小学生の甥っ子たちと上述のビニール製の凧を持って、公園に行きました。彼らはとても上手にその凧を上げましたので、あんな凧でもちゃんと上がるんだ、こりゃすごい、と思って帰ってきました。




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