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 このページは北山の日々の雑感などを徒然なるままに綴るコーナーです。勝手気ままさ加減も相当なものになってきましたが、「何言ってるんだか」ってな感じで笑って許して下さい。今日からは2012年版を掲載します。例によって不定期更新ですが、宜しくご了承下さい(2012年1月4日)。



年の瀬叙景 (2012年12月29日 その2)

 御用納めも過ぎて世間では年末年始の休みに入りましたが、学校に行って研究室を覗いてみると、M2の落合くんが有限要素解析ソフト「FINAL」を回していて、鈴木清久くんはお昼ご飯を食べていました。みんな研究熱心で偉いですね。私はといえば溜まった雑用を次々にこなしながら、これを書いています。

 さて、今年は大御所と呼ばれる方々(山下達郎や松任谷由実)の記念アルバムが世に出ましたが、今年の最後に40周年記念のベスト・アルバムを出したひとがいます。伊藤銀次です。彼のアルバムは大学生の頃に聞いていて、全てカセット・テープに録音していました。でも、ラジカセも壊れてしまったのでつい最近、それらのテープを廃棄しました。

 どうしたものかと思っているところに、この記念アルバムです。迷わずに購入してiPodにぶち込みました。でもiPod nanoは16GBしかありませんので、数枚のアルバムに相当する曲たちをデリートして容量を確保しました。彼の名曲である『Baby Blue』や『雨のステラ』、何度聞いてもいい曲です。

 そのほか、最近では村田和人の5thアルバム『Boy’s Life』が復刻されたので手に入れました。紙ジャケットですが、それがとっても綺麗です。左が表面で右が裏面です。昔のアルバムのジャケットにはこういった美しい図柄のものが多かった気がしますね。

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 こんな真冬に(ジャケットからも彷彿とさせますが)夏丸出しの曲もいいんじゃないかと思って聞いております。では心は暑くなったところで、また来年。皆さま、よいお年をお迎え下さい。


ことしの本 ベスト3 (2012年12月29日)

 先日書いたように今年の年末はブラボー、じゃなかった、べらぼーに忙しかったので、毎年恒例になった『ことしの本』がお座なりになっていました。他人様にとってはどうでもよいことでしょうが、私にとってはこれを書かないと年を越せない、という類いのモノなんですね。残念ながら今年読んだ本たちが身の回りにないので、記憶やメモをたよりに書いてみようと思います。

 第一位は『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド著)です。この本は邦訳されてから十年近く経っていると思いますが、やっと読むことができました。先輩の芳村学先生はこの本を原書で読んだそうです、やっぱり優秀な方は違いますな。

 人類がアフリカで誕生してから世界に散らばり文明が興って伝播してゆく過程で、集団間での文化格差がどのようにして生じたのか、征服する人間と征服される人間とはなぜ生じたのか、という疑問に対する回答が本書の骨子です。読んでいてこの本は、私が人類の進歩・進化について感じていたのと同じ疑問から発しているように思えました。例えば、2000年前に電子コンピュータが発明されなかったのは何故なのか。ソクラテスやプラトンのように優れた思索家がすでに存在したのに、、、といったような問いかけです。

 そのような問いに対する明瞭な回答が得られたとは思えません。それでも、野生の動植物の多様性、人類による食糧生産の開始、気候の違い、人口の急激な増加と密集化、家畜由来の疫病、病原菌に対する免疫などが人類の興亡に大きくかかわったという著者の分析は興味深いものでした。

 第二位は『林蔵の貌(かお)』(北方謙三著、集英社文庫、1996年11月)です。北方謙三の著作を読むのはこれが二作めでした。北方を冒険して蝦夷地の地図を作製した間宮林蔵が主人公ですが、かれは幕府の遠国御用を勤める隠密でもあったという設定です。その枠組みとして幕末前夜の尊王に向かう胎動期を借りた時代小説ですが、北方謙三お得意のハード・ボイルドだと思いました。文字通り血湧き、肉踊るような内容で、ラスト近くでそれまで上役の言いなりだった林蔵が乾坤一擲の反撃に出るところがその真骨頂でしょうね。実はまだ読み終わっていませんが、いずれにせよ読んで楽しいエンターテイメントです。

 第三位は『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(戸部良一、寺本義也、鎌田伸一ほか、中公文庫、1991年8月)です。福島第一原発での放射能漏洩事故があってから、この本が再度注目されるようになりました。私のページでもよく書いているように、旧日本軍の失敗は現在の政治にも当てはまるという視点からでしょうね。歴史から学び、それを教訓として未来に活かすこと、すなわち温故知新ですが、このことの実践がいかに難しいか、私たちは身を持って経験したばかりです。科学技術が進歩して何でも分かった気になっていますが、自分たちの文明とはなんなのかという基本的な問いに真摯に向き合うことが今、必要なのではないでしょうか。

 番外ですが『不可能、不確定、不完全 「できない」を証明する数学の力』(ジェイムズ・D・スタイン著、ハヤカワ文庫、2012年11月)をあげておきます。現代に至る数学や物理学の歴史が折に触れて語られていて、それにかかわった多くの科学者たちが登場します(私が知らないひとも多々いました)。ただそれ以上に、読むに値する本がたくさん紹介されていて、知的関心が励起されたのが私にとっては収穫でした。

 そのなかにジョージ・ガモフの書いた『1、2、3‥無限大』が非常によい本だゾと勧められていました、子供がいるなら是非読ませなさい、とも。この本は高校生くらいのときから読みたいと思っていましたので、いい機会なので先日、思い切って買いました(4000円もしました)。しばらくは机の上に積まれたままで年を越すことになりそうですけど。たとえ私が読まなくても、そのうち子供に読ませようという下心もありますね。


常識的な?年末 (2012年12月27日)

 今年のクリスマスは師走にふさわしい、あわただしい年末となりました。極めて個人的な事情によるものですが、先週末の三連休からクリスマス明けまで、メールをチェックする暇すらありませんでした。

 この間、島哲也くんをチーフとする実験は一体めの載荷が無事終了しました。普通なら、加力中は実験を見ていることが多いのですが、今回はほとんど実験棟に足を運ぶことができないうちに加力が終わってしまいました。そのため、研究室HPの実験写真には実験終了後の(壊れたあとの)状況だけが載っています。

 この実験では、我が社としては初めてデジタル・マイクロスコープを使ってひび割れ幅の計測をやっています。この最新鋭のマシンを学生さんたちがどれくらい使いこなせるようになったのか、野中くんや森口さんに聞いてみたいと思います。でも、クラック・スケールによるアナログ計測よりも時間がかかる、なんてことはご免蒙りたいですね。

 こういう訳ですのでフツーのひとは明日が御用納めでしょうが、私にとってはそうは問屋が卸してくれそうもありません。28日には大切な校務もありますので、年末ギリギリまで仕事しているような気がします。JCIの年次論文のチェックもあるでしょうから。


きよしこの円 (2012年12月23日)

 朝日新聞の土曜版に「きよしこの夜」が取り上げられていました。言わずと知れたクリスマスの定番ソングです。今ではとくに感慨もありませんが、子供の頃には飾り付けた電飾の灯りが寒い家の闇のなかでピカピカ光っていた記憶が清浄な雰囲気とともに残っています。

 その歌詞を作ったのがオーストリアの司祭だったヨゼフ・モール(1792〜1848)だとありました。この名前を見て、私は同じ名前のひとりの人物を思い出しました。構造力学をやっているひとなら、『モールの円』とか『モールの定理』とかを知っていると思います。しかしよく考えてみるとそれを考えたモールとはどういうひとなのか、全く知りませんでした。

 例えば材料の弾性係数を見出したトーマス・ヤングはイギリスの著名な科学者で、光の屈折実験などでも有名な人です。彼はニュートンとは同時代人で、その当時はニュートンよりも有名だったようでニュートンとのあいだの確執を含めて、いろんな書物に取り上げられます。それに較べるとモールはずっと地味な感じですね。

 そこでウィキペディアを調べると、Christian Otto Mohr(1835〜1918)はドイツの土木工学者で、シュツットガルトやドレスデンの工科学校で教授を務めたと書いてありました。ということは「きよしこの夜」を作ったモールとはドイツ系のひとというほかは接点は無さそうです。

 いずれにしても二人のモールとも、その曲あるいはその定理でのみ現代にひっそりとその名を刻んだわけですが、よく考えればほとんどの人々は無名のままこの世を去るのが世の常です。それを思うとやっぱりモールは偉大なり、とも言えるのではないでしょうか。「きよしこの夜」を知らないひとはいないでしょうし、私のような構造工学者は「モールの円」を使わずして材料力学を直截的に理解することは難しいのですから。


とおり道、あるいは山田守のユートピア (2012年12月19日)

 その建物は私が普段、車で通っている道路脇に建っている。向ヶ丘遊園のあたりから根岸陸橋へと上がって行き、明治大学生田校舎を右に見ながらうねうねと曲がりくねった坂を登ってゆくと左手に生田緑地があって頂上に到達する。そして平坦な道をちょっと走ると、無粋な黒いフェンス越しにその建物はチラチラっと見えるのである。

 建築学科の学生だった頃、まだ鉄筋コンクリート構造を専門にしようとは夢想だにしなかった時期だが、写真集でその建物を見たことがあった。とてもモダンな感じで、鋭い感じのなかにも優美さを醸し出す、こんな建物を設計したいものだなあと思ったものである。

 そんなことはその後、すっかり忘れていたのだが、十数年前にその道を通るようになってから、あの建物はもしかして、、と驚いた記憶がある。というのも、その建物はもう現存しないだろうなと勝手に思い込んでいたためであろう。

 その建物とは、東京都水道局の長沢浄水場である。神奈川県川崎市にあるのになんで東京都水道局なんだ、というのはこの際わきに置いておこう。いずれにせよこの浄水場は小高い丘のうえに設置されており、向かいの谷越しには聖マリアンヌ医科大学の付属病院が見える。

Nagasawa_WaterPlant01

 この長沢浄水場は山田守の設計である。日本におけるDOCOMOMO100選にあげられている。昭和32年竣工のRC3階建てということだが、ご覧のように4階建てのように見える。ラッパを立てたような、マッシュルームのような柱とそれが支える薄いスラブ・ラインとが特徴で、そのあいだにある窓の曲線のデザインがピッタリはまっている。黒いカーテン・ウォールのような部分はのちの改修によるものだろう。

Nagasawa_WaterPlant02

 残念ながら浄水場の敷地内には入れなかったが、周囲を歩き回ってフェンス内にカメラだけ突っ込んで撮ったのが上の写真である。浄水場の本館から長く延びた監視用廊下の先端から建物に向かって撮ったもので、ガラスの内側にあるマッシュルーム柱が写っている。

 山田守は戦前に堀口捨巳、石本喜久治、滝沢真弓らと分離派建築を実践したことで知られる。しかし長沢浄水場は分離派運動が既に遠い過去となった戦後に設計されたにもかかわらず、分離派建築の匂いを強く感じさせる(と私には思える)。浄水場というきわめて実用的な施設に対してこのような独特なデザインを与えた山田守は、小さな丘の上だけのユートピアを夢見ていたのではなかろうか。

Nagasawa_WaterPlant03 Nagasawa_WaterPlant04

 完成した当時は近未来的なイメージだっただろう浄水場は今もなお、建築家の夢を追い続けたまま異彩を放ち続けている。そんなことを感じさせること自体が優れた建築であることを示しているのだと思った。


宴のあと (2012年12月17日)

 国民の審判が下りました。予想されてはいましたが、民主党がこれほどダメだとは思いませんでしたね。まさに坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、きょうは愛想も尽きのすけ、ってな感じでしょうか。でも自民党だって早晩、化けの皮が剥がれるだろうとも思います。ちなみに私が投票したひとは衆議院議員選、都知事選ともに落選しました。自慢じゃありませんが、私が投票するひとは滅多に当選しませんぜ、いったいどうしてなんだろう? やっぱりアウトローってことでしょうか。

 で、各党の獲得議席数を見ていたのですが、朝日新聞の12月14日付け朝刊に載った議席推計が驚くほど当たっていました。民主党がかなり多めに評価されていて、そこだけが大はずれという感じでした。このことから、どこに投票しようかなあと迷っていたひとが自民党か維新かに入れたことが推察できます。いずれにせよ、事前調査がこれほどピッタリくるとは今まで気がつきませんでした。

 でもあれほど原発を廃止せよという声が大きかった(ように見えた)のに、いざ蓋を開けてみると自民党が圧勝するとは、いったいどういうことなのでしょうか。彼らの「日本を取り戻す」とかいうスローガンの意味も分かりません。取り戻すって、政権を奪還して日本を自分たちの好き勝手にする、と言うことなんじゃないかと私なんかは邪推しちゃいますけどね。

 ところで東京都知事選挙ですが、当選した元副知事はなんと434万票を獲得したそうです。彼のなにがそんなに多くの人たちを引きつけたのか、こちらも未だに理解できません。ちなみにこの方も作家らしいですが、その著作を読んだことはありません。

 こうして私にとってはさっぱり理解できない『宴』が終わりました。年末の街に吹く風がいっそう肌身に辛くあたってくるようです。私はかなり楽観的な人間だと思うのですが、それでもこの結果を受けて自国の行く末を案じないわけには参りません。どうなっちゃうんだろうね、来年は、、、。


暮れの総選挙 (2012年12月16日)

 今日はよく晴れた小春日和となりました。選挙の投票にはうってつけですね。そこで朝食後にさっそく投票に行ってきました。投票所の地域センターでは投票を待つひとが外まで列をなしていて、驚きました。こんなことは滅多にありませんな。衆議院の小選挙区、比例代表、最高裁裁判官の国民審査とこなして、最後が東京都知事選挙でした。候補者を記名するブースも満員で、窮屈になりながら記載しました。

 それら一連の投票が終わって外に出ようとすると、ハイご苦労様でした、と言いながら係の方からポケット・ティッシュを渡されました。選挙の投票をしてモノを貰ったのも長い投票人生?ではじめてのことです(別に嬉しくもありませんでしたが)。

Sosenkyo2012

 見ると左下に東京都と書いてあるのに、東京都知事選挙のことはなにも記されていません。一体どういうことでしょうかね。衆議院議員選挙に目くらましされて、都知事選挙は失念してしまったのか、それとも都知事はもう決まったも同然だから書かなかった?、どうなんだろうと勘ぐりたくなりました。


忘年会2012 (2012年12月14日 その2)

 したに書いたように終日、建築会館で忙しくスケジュールをこなしたあと、研究室の忘年会がありました。新宿です。午後7時からというちょっと遅めのスタートにもかかわらず、いつものように集まりは悪かったです。

 今年は17名が集い、賑やかな会となりました。この四月に着任した助教の遠藤俊貴さんも来てくれました。またOBの参加は5名で、白山貴志さん、田島祐之さん、嶋田洋介さん、白井遼さん、島宏之さんが忙しいなか参加して下さいました。OBの皆さんがそれぞれの持ち場で活躍しているお話を伺うときほど、大学の教員をやっていてよかったなあ、と嬉しく思うときはありませんね。でも、不況で仕事が減っているというのに、会社等で働く彼らは一様に忙しいと言っています。大学や大学院を出た彼らは一般社会からみればやっぱりエリートということでしょうか。

BonenKai_KitaLab2012

 今年PRC構造を研究している卒論生の野中翔太くんが嶋田先輩の作った断面解析プログラムを使おうとしているのですが、断面の配筋によってはプログラムが動かないといって困っています。嶋田さんには是非とも彼にアドバイスをお願いします(と、この席でも言っておきましたが)。

 研究室における先輩方の仕事・研究は私たちにとっても有益なる知的財産です。ですので、そのメンテナンスにはその当事者であるOBの皆さんにもご協力をお願いしたいと思っています。では、OB諸氏、現役諸君の来年の活躍をお祈りします。


言葉をうしなう (2012年12月14日)

 今日は四十七士の討ち入りの日ですね。最近読んだ、葉室麟著『花や散るらん』もこの事件を下敷きにして展開していました。いまに至っても様々な憶測・解釈が飛び出す国民的事件ですが、昨年もこの話題を書いたので今日はやめておきます。

 この日は終日、田町の建築会館で建築学会の会議がありました。朝から午後3時まで原子力関係の小委員会やWGがあって、そのあいだのお昼にはPC(プレストレスト・コンクリートの略です)界の重鎮である岡本伸先生のお話があるというので5階に行きました。いやあ、忙しかったです。

 で、それらが終わってから、途中からでしたがPC構造運営委員会(深井悟主査)に顔を出しました。私にとっては久し振りの出席です。そこで、それまで4つの小委員会等で原案を作ってきた新PC指針(案)・同解説の今後の扱いについて議論することになりました。

 こ〜んなに分厚い指針案ができました、と言いながら深井主査がその冊子を手渡して下さいました。確かに分厚いです、こんなものを査読させられる2名の委員が気の毒になりましたな。さて、こんなのができましたが、今後どうするか議論しましょう、と深井さんが言われると、皆さんシーンと黙っています。そのとき、深い静寂がその場を包んだのです。

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 え?なんだろう、この沈黙は。苦労した大作(?)がやっと出来上がったというのに誰も嬉しそうな顔をしていません。指針(案)としてのこんな船出は初めてでした。様子が分かっていなかったのは私だけだったようですが、お話を伺っていくうちに上位委員会の査読を受けるには完成度として今一歩であるらしいということが分かってきました。結局、敬愛する首領格の西山峰広先生(京都大学教授)がお正月返上でこれらの指針(案)を見て下さって、修正意見等を我々臣民にdistribute することになりました。ご苦労なことでございます。

 でも、せっかく完成した(つもりな)のに、その作成に携わった方々が言葉を失うっていうのも、ちょっと不思議な感じがしましたね。早いところ我々の手元から羽ばたかせて社会に出してやりたいものだと、いつもながら思っています。


先端研究ゼミナール終わる (2012年12月13日)

 何度か書いてきた三年生の『先端研究ゼミナール』ですが、昨日の発表会をもって実質的に終わりました。私のところに配属になった三名はいずれも立派に発表することができたと思います。プレゼンテーションの勘所はちゃんと伝えたので、それなりに実践してくれました。ちなみに三名のテーマは以下の通りです。

 田村明日香 団地の現状と課題 〜日本と海外の団地改修事例の比較〜
 新村圭右 免震構造から考える日本における地震対策の未来
 中野 匠 歴史的に価値のある建築物の保存・活用 〜神戸市の条例改正から生まれる可能性〜

 私のところでは建築構造に限らず好きなことをやって貰っていますので、直球の構造テーマは新村くんの免震だけでしたが、最終的に三名とも既存ストック活用に行き着いたみたいです。こういう時勢ですので、建築初学者といえども世の中のトレンドには敏感ということでしょうね。論文執筆の作法も含めて、来年度の卒論執筆に向けたイントロダクションは説明したつもりですので、それぞれの道に進んでもこの知識を忘れずに活躍して欲しいものです。


辛抱する (2012年12月11日)

 今朝は研究室ゼミの予定だったのですが、子供の具合が悪くて留守番しないといけなくなったので急きょ延期しました。ただ、年末で予定がビッシリなので、いつに延期すりゃいいんだとは思いましたけど。まあ仕方ありません。

 でも今日から島哲也くんのPRCスラブ付き十字形柱梁部分架構実験(長過ぎてひと息では言えませんな)が始まったので、研究室のメンバーには実験の手伝いをするように言っておきました。アシスから北山研OBの田島祐之さんが来て指導してくれましたので助かりました。で、なんとか登校して、午後2時半過ぎに授業に行く前に大型実験棟を覗いたら、言い付け通りにたくさんいましたのでよかったです。

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 そして二コマ続きの『構造設計演習』に臨んだのですが、明日は三年生の『先端研究ゼミナール』の発表日にもかかわらず、履修している8名の学生さんたちはちゃんと出席して待っていました。いやあ、偉いですね(って、当たり前か)。北山研に配属になった3名はこの授業を取っていませんが、明日の発表用のパワーポイントの内容をチェックするため、教室に来るようにいってありました。演習ですから、作業の内容を説明したあとはヒマになります。その時間を利用させてもらった訳です。

 さらにこの日は清水建設の説明会が学内であって、構造設計の黒瀬行信さんとか原子力担当の和田芳宏さん(本学OBでプロジェクト研究室出身)とかがおいでになりました。和田くんには、やはりこの教室まで来てもらいました。学生さんがRC建物の構造設計している脇で、和田くんから手土産をもらったり近況報告を聞いたりしていたのです(こういう状況だったので許してちょーだい)。いただいたお菓子はお八つにちょうどよかったので、教室にいた学生さんたちに分配しました。結構喜んでいましたよ。

 本当はこの授業のあと、芳村先生や黒瀬さんと久し振りに一杯やる予定だったのですが、子供がこういう状態だったので辞退して帰宅しました。黒瀬さんにはせっかく大学までお出でいただいたのに立ち話しかできなくて、とても申し訳なく思います。建築学会で作成中の「RC構造保有水平耐力計算規準(案)」についてのお話なんかをゆっくりしたかったのですが、残念でした。

 おっと、こんなことを書こうと思ってパソコンを開いたわけではありゃしません。選挙戦も終盤に差し掛かってきて、どの党や誰に投票するかそろそろ決めないといけません。積極的に支持するというよりは消去法によって選ばざるを得ないだろうとは以前に書きました。今もその考えに変わりはありませんが、新聞を読んでいるとそれなりに参考にはなります。

 そのなかで、(多分民主党寄りのひとなのでしょう)どこかの大学の先生が一度の失敗くらいで放り出したりせずにひとつの政党を支持し続けることが大切だ、というようなことを書いていました。なるほど、確かにそれは一理ありますな。民主党は政権を獲ったばかりで経験もなかったわけで、上手くゆかなくてもある意味当然だったとも言えるでしょう。

 さらに野田政権末期?のゴタゴタで民主党内でも出てゆくひとはさっさと出て行き、自己清浄化が為されたと言ってよいかも。少なくとも、具体的な策を何も示さない第三極といわれる政党よりは信頼できるような気がしてきました。なのでもう少し辛抱するというのもありかな、と思うようになりつつあります。どうするか、まだしばらく考えようと思っていますけど。

 東京都知事選挙のほうは、前副知事が優勢のようです。まあそれはよいのですが(いや、ホントーはよくないのですが)、都民の半数以上が東京オリンピック誘致に賛成という調査結果には相当に驚きました。最も革新と思われる弁護士候補でさえも誘致反対とは言っていません。いったいどうなっているのでしょうか。オリンピックに回すお金があるくらいなら、もっと有効な使い道はいくらでもあるはずです。これも内なる不満のはけ口として使われるだけだとしたら、こんなに情けないことはありませんね。


揺れる (2012年12月7日 その2)

 夕方の地震、わが大学の9号館はすごく揺れました。SRC構造の9階建ての7階に研究室はあるのですが、初期微動が結構長く続いたあと、大きな揺れが長時間続きました。これは大きいと思ったので、研究室の扉を開けて廊下の袖壁付き柱を見ていたのですが、ウニャウニャッと斜めせん断ひび割れが袖壁に入りました。損傷度は1くらいでしょうか。目の前で実建物にせん断ひび割れが入るのを見たのは初めてです(ビックリするところがフツーのひとと違うって?)。

 気象庁の震度速報では多摩東部は震度4になっていますが、もっと大きかったというのが実感です。三陸沖が震源ということですから、昨年の3・11の余震でしょうか。マグニチュードは7.3ですが震源が陸地からかなり離れていたため、青森県(東北から北関東までの広範囲みたいですが)では震度5弱程度で済んだのかなと思います。あっ、また揺れています、余震の余震(M6.2らしい)でしょうか。ちょっと不安です、、、。


選挙のやり方 (2012年12月7日)

 総選挙真っ盛りですが、メディアによる情勢分析では民主党惨敗、自民党圧勝という図式のようです。まるで三年前の裏返しのようでオセロ・ゲームを見ているようですね。ねじれ国会を生むもとになった前回の参議院選挙では、国民の多くが民主党にお灸をすえた結果となりましたが、今度の衆議院選挙では腹に据えかねてついに民主党を見限った、ということのようです。

 ところで選挙のやり方ですが、現在は比例代表制と小選挙区制との並用ですが、やり方によって結果が大きく変わることは経験的に知られた事実です。じゃあ、全てのひとの意見・選択を反映させることのできる方法があるのかというと、そういうものは存在しないことが数学的に明らかになっています(ケネス・アローの不可能性定理です)。

 なので結局のところ、なるべく多くのひとの意見を反映させることのできる選挙手法を近似的に求めることになります。しかしそのときには各政党の思惑が働き、つまり自分たちに有利な選挙制度にしようと画策するので、どうしても恣意的な判断が入ってしまいます。ですからその時々の選挙制度というものは、そのときに有力な政党の意思が色濃く反映されたものにならざるを得ません。そうなった瞬間から、公平な民主主義というものはすでに画餅に帰してしまっているのです。民主主義って、実際に実現することがなんて難しいんでしょうか。


見えないってば‥ (2012年12月6日 その2)

 したの続きです。午後の部になったら、非常に小さくてとても読解できない表や図をスクリーンに映し出す学生さんが散見されました(計画系の学生さんに多いようです)。多分、こ〜んな感じです、といったつもりで紹介しているのでしょうが、見ているほうには何なのかはっきり言って分かりません。大きな図にして、それをしっかりと説明して欲しいものです。


卒論中間発表会2012 (2012年12月6日)

 今日は建築都市コースの卒論中間発表会(卒業設計をとる学生さんは最終発表会)です。例年この日は、雨だったりどんよりした曇天だったりの寒〜い日のことが多いのですが、今日はスッキリ晴れた暖かい日和となりました。よかったです。

 発表者ごとのパソコンの入れ替えなどに手間取り、午前の部は約30分も遅れて終了しました。我が社の4名の卒論生もまあ無事に発表できましたが、先生方から貴重な質問やご意見をいただいたひとは適宜、個別に回答するようにして下さいね(なんせ発表が4分で質疑応答が1分しかないので)。

 学生諸君の発表を聞いていて、「梗概に書いてあります」というだけの説明だったり、スクリーン上のグラフの縦軸とか横軸、グラフ内の線が表す事象などを説明しない、などが見受けられたのはちょっと気になりました。いつも書いているように私は学生時代に小谷俊介先生からプレゼンテーションについても厳しく指導されましたから、そういう発表については相当に違和感をおぼえました。人の振り見て我が振り直せじゃないですが、プレゼンテーションの極意を若いうちに仕込んで下さった小谷先生には今でも感謝しています。一言だけ書けば、何も知らない聴衆にいかに理解してもらうか、ということをよく考えて発表して欲しいですね。


師走の総選挙 (2012年12月5日)

 衆議院の総選挙が公示されました。寒くてせわしない時期にやらなくてもよいのにとは思います。帰りの南大沢駅の改札前にはM主党の候補者とそのスタッフ4、5人が並んで、改札から出て来る人たちに向かって「お帰りなさい、○○です」と大声で名前を連呼していました。ただ、まだ練習不足だったみたいで、次はこうやってみよう、とか言いながら軌道修正していたのには、思わず笑ってしまいました。彼らにしてみても、久し振りの選挙が突然やって来たのだから、そんなもんなんでしょう。

 どの党、どの候補者に投票したらよいのか、まださっぱり分かりません。ただ、似たり寄ったりの主張が多いようにも見え、争点の是非について様々な組み合わせの数だけ政党がある、というふうにも見えます。こうなると、これだ!という積極的な選択よりは、これはダメ、こいつはやめよう、という消去法によって選ぶしかないのではないかと思い始めています。腹黒くなさそうで(まあ、ひとのお腹の中までは見えませんけど)、信頼できる人柄が重要でしょうね。

 日本の将来を決める大切な選挙であることは間違いないでしょうが、現在の混乱はまだしばらく続くだろうと感じます。すなわちこの選挙だけで全てが決まってしまう、と考える必要はないということです。ここでも長期的な視点に立って、個々人の意思を決定することが大切ではないでしょうか。政治家の短期的・近視眼的な主張に一喜一憂しては、がっかりしたり怒ったり、ということを今までさんざん経験して来たのですから、少しは学習しないとね、というところでしょう。


足おと (2012年11月29日)

 今日は卒論の中間梗概の提出日です。我が社の学生さんたちは残念ながらまだまだ完成にはほど遠そうで、仕方ないので朝5時に起きて大学に登校しました。西の空に沈みかけた満月とそのそばに寄り添う明けの明星とがきれいに見えました。で、三人分の原稿を見て、今一息入れているところです。

 ところで政治ですが、日本未来の党の公約を見てビックリしました。「卒」原発という表現も何だかよく分かりませんが、子育て応援券なるものを年額30万円くらい配るというのです。これでは民主党によるこの三年間の再生産に過ぎないじゃないですか。同じ愚をまた繰り返そうというのでしょうか。そもそもO沢さんと合流したことで、相当の数の支持をはやばやと失ったと思っています。

 原発を廃することによる電力不安は全く解消されず、それによって日本国内の製造業は拠点を海外に移し始めたということをよく聞きます。そうなれば雇用が不安定になるとともに経済活動もシュリンクせざるを得ません。その結果、国家の税収も確実に減るので、子育て家庭に年額30万円も配布するための財源が確保できないことは明らかではないのでしょうか。

 国民にとって耳障りのよいことばかりを羅列して、国民の注意を惹こうとするそのやり方は分からないでもありません。でも内実は不可能なことばかりでは、国家としてあまりにもお粗末過ぎると考えます。それとも、国民ってそんなにバカだと思われているのでしょうか。

 右寄りの勢力では国防軍とか憲法改正とか、領土問題には断固とした態度をとるとか、勇ましい言説が横行しています。しかしこれらはわれわれ市井の住人の平和と自由とにとっては大いなる脅威です。ことあるごとに書いているように、これらの傾向は昭和初期に旧日本軍部が台頭する頃の雰囲気にきわめてよく似ています。いつか来た道を繰り返すべきではない、そんなことをすれば第二次世界大戦で亡くなった人びとに、どの面さげてあの世で相まみえることができましょうか。

 いずれにせよ亡国に向かう足おとがひたひたと聞こえてきます。大勢に迎合したままだと、ひとたび決まったベクトルの向きを変えることは至難になってしまいます。ひとりひとりの国民が自分で考えて判断することがいま、求められていると強く思うのです。


試験体の搬入とセッティング (2012年11月28日)

 本日朝一でプレストレスト鉄筋コンクリート柱梁部分骨組試験体を本学の大型構造物実験棟に搬入しました。今回の試験体は北山研究室としては初めて、スラブおよび直交梁を付けたものです。そのため、結構なボリュームがあることと重量があることが今までにないハンドリングの悪さを引き起こす、ということに気がつきました。スラブが付いているので柱頭プレートから下げ振りを降ろすこともできない、という当たり前の事実には当惑しましたね。

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 幸い、北山研OBの田島祐之さんが助っ人に来てくれて、試験体のセッティングなどの指導をしてくれています。田島さん、どうもありがとうございます。やっぱり頼りになるのは卒業生、ということかな。ちなみに担当者は、チーフがM1・島哲也くん、卒論生が野中翔太くん、森口佑紀さん(芝浦工大・岸田研)の3名です。やはり寒い時期の実験とあいなりました。怪我の無いように、また風邪など引かないように取り組んで下さい。皆さんの健闘を期待します。


あかり (2012年11月24日)

 昨日に続いて今日も学内の重要な仕事があって登校しています。iPodに入れたユーミンを聞きながら、うすくもやった野川の緑道を歩いてきました。

 先日、三年生の『先端研究ゼミナール』で北山研独自の課題、『知の論理』(東京大学出版会)を読んでそれに触発されて考えたことをレポートとして発表してもらい、議論しました。この本では様々なテーマについてオムニバスで説かれていますが、今回の三人の学生はそれぞれ異なったテーマを取り上げてくれました。

 彼らの書いたレポートや説明を聞いて、私はとても嬉しくなりました。私の意図(出題の狙い)をちゃんと理解して、調べ物をしたりそれなりの時間をかけて論理的に思考した結果を、丁寧に記述したことがはっきりと分かったからです。『建築文化論』でガッカリすることが続いたので、私にとってこの成果は一縷のあかりとなって頭の中に灯りました。いやあ、よかったです、本学の若者達もまだ捨てたもんじゃないということが分かって。


事 件 〜トイレにて〜 (2012年11月23日)

 昨日、教室会議に行く前にトイレに立ち寄った。書類とか手帳とか水筒とかを入れた布袋を持っていたので、手洗いシンクの脇にそーっと置いた。バランスが悪そうだったので、倒れたらやだなあとか思いながら。でも、じーっと見ていれば大丈夫かなあ、なんて都合良くも考えながら。

 だが、用を足していると悪い予想は現実となった。見ているあいだに布袋は傾いてゆき、シンクにダイブしてしまったのだ。ここまでは想定の範囲内だった、まあ、仕方ないか。ところが次の瞬間、予想しなかったことが起こったのである。

 わが大学のトイレは今年の春先に改修されて、手洗いは手をかざすと自動で水が出るタイプに置き換わっていた。そう、普段は手をかざせば水が出て来る、便利である。ところが今日は手の代わりに私の(大切な)布袋が蛇口のしたに差し込まれたのである(って、勝手に倒れただけなんですけど)。すると自動的にジャーっと水が勢いよく流れ出したのは、まあ当然といえば当然である。

 ところがこちらは小用中なので、身動きできない。狼狽した私はああー、助けてくれえ〜と思わず大声で叫んでしまった。するといい塩梅にたまたま廊下を通りかかった遠藤俊貴さんが、ビックリしたらしくて駆け込んできた、なんなんだあってな感じで。

 私は便器にへばりついたまま(その場を離れるわけにはいかないので)、そこ見てくれ、シンクのなか、と言いながら指さすと、遠藤さんはあれっ、どうしたのかなといった様子でしばらくそれを見ていたが、やっと事情が飲み込めたらしくて、ははあ、こうなるんですね、なんて独りで合点しながら妙に感心している。先生、濡れてますよ、ひどいことになっていますよ、なんて言いながら。そんなこと言わずに早くなんとかしてくれよ、というのが私の偽らざる気持ちだった。

 こうして私の手帳と書類はビショビショになってしまった。恐ろしい事件だった、私にとっては。でも、遠藤さんは笑ってましたけど。


あの日にかえった (2012年11月21日)

 どんどん寒くなってきますね。さて、今朝また、建築都市コースのコース長・角田誠先生から「配給」がありました。今度は松任谷由実の40周年ベスト・アルバムです。このアルバムは買おうかなあと思っていたのですが、せっかく貸していただいたので今はそれを聴きながらこれを書いています。

 山下達郎以上に私は彼女をよく聴いていましたから、ホント懐かしくて『あの日にかえりたい』なんかを聴くと、まさにあの日に帰っちゃいますな。私が中学生の頃、まだ荒井由実だったころです、NHKに夜の連続テレビ小説があってその主題歌が荒井由実の歌う『晩夏』(?)でした。そしてそれが彼女を聴いた最初の記憶です。

 今から三十年以上前、高校生や大学生だった頃にはエアチェックしたり、貸しレコード屋の「You & I」からLPレコードを借りて来て、せっせとカセットにぶち込んで聴いていました。なので、1970年代や1980年代くらいのアルバムは全てカセットに入っています。でも、カセットデッキを今はもう持っていないので、それらを聴くことはできませんでした。

 ですから、この40周年記念アルバムで久しぶりに彼女の初期の頃の曲に再会したわけです。それらを聴いていると、新宿・百人町に暮らしていた頃の記憶が沸々と蘇ります。アルバム「Pearl Pierce」は夏の暑い頃に聴いていた思い出があって、夕涼みの気分がわたしの脳裏に刻み込まれていたりもします。『Blizzard』はバブルの頃のスキー場の思い出です。ゴンドラ待ちが一時間なんていうのもザラだった頃です。

 1990年代になるとCDが普及し始めたので、何枚かのアルバムは手元にあります。でも、その頃にはもう忙しくて、彼女をじっくり聴くということもなくなりました。多分、宇都宮との往復の車中(その頃には軟派なホンダ・プレリュードというクーペに乗っていました)で聴いていたはずですが、何の記憶もありません(ちょっと悲しいですが)。やっぱり年をとった、ということでしょうか。


建築家へのみち (2012年11月20日)

 2年生後期の『建築設計製図2』の私の担当分が終わりました。建築家の小林克弘先生(私の師匠である田才晃先生[現・横浜国大教授]の同級生)をチーフとして、さまざまなビルディング・タイプをこなしてゆく本格的な課題の冒頭です。60名程度の学生に対して教員やTAあわせて10名がエスキスを見て講評するという、極めて手厚い体制を敷いています。ちょっと過教育?すぎるんじゃないかとも思いますが、もうひとりの建築家である小泉雅生さんが「このくらいやらなくちゃ、ダメなんだ!」と言ってこのカリキュラムを創案したので、言う通りにやっています。

 で、最後は美術館の講評でした。毎年敷地は同じですが、ひとつとして同じ提案はない訳で(当たり前ですが)、見ていて楽しかったですね。なのでこちらもついつい熱を帯びて、ときには厳しいコメントになったりしました。でもよく考えると、このなかで将来建築家と呼ばれるようなひとになるのは多分一割もいないと思います。すなわち大多数のひとは直接に意匠設計には携わることはないのですが、それでも学生時代に一度くらいはちゃんと設計をやっておく、というのは意義があると私は思います。

 自分の学生時代を振り返っても、学部三年生のときの一年間は製図室に入りびたって、一所懸命に設計をやっていました(まあ、ご想像の通り、下手くそでしたけど、、、)。真夜中の製図室で同級生や先輩たちに相談に乗ってもらい、いろいろと教えてもらったのもいい思い出です。

 なので、将来構造系とか環境系などに進みたいと考えているとしても、二年生の設計製図くらいは本気で取り組んでも損はないと私は思います。私のような普段、建築設計に無縁な人間があれこれコメントするのもどうかと内心忸怩たる思いはありますが、聞いている学生諸君にとっては多様な意見のひとつくらいに受け取ってくれると嬉しいですね。


朝いち (2012年11月19日 その2)

 今朝は冷え込みましたね。月曜日一限の『建築文化論』ですが、始業時刻に来ていたのはわずか38名でした。264名定員の階段教室にこれしかいないと、休日を挟んで冷えきった教室がさらに寒々と感じられますな。

 約70分講義をして、ミニ・レポートの用紙を配ると63名に増えていました。ということは25名は遅刻、ということでしょうね。鳥海さんの言じゃないけど、それだけ私の講義は魅力がないということだと思います、残念ですが。

 だけど、相変わらずレポートをちゃんと推敲せずに出そうとする学生さんがいることにはちょっと頭に来ましたね。この3回、自分が考えたことを正しい日本語で論理的に記述するように、と言い続けているのにこのあり様です。私が言っていることを理解していないということに対して、少なからずガッカリしました。教養の授業って、こんなもんなんでしょうか。こちらも相当にヤル気が失せてきたのが正直なところです。

 でも、梅村魁先生じゃないけど、聞いてくれる学生さんが独りでもいれば、“よく来たよく来た”と歓迎して講義するべきなのでしょうねえ。同じことは時々思いますが、因果な商売かも知れません、教師って。


第三極 (2012年11月19日)

 政治の季節となったこのところ、第三極という言葉が多用されています。耳慣れない用語で、これを国語辞典で引いても出ていません。ちなみに三極とは「宇宙万物の三大分類。天•地•人」という意味だそうですから、民主党、自民党につづく第三番目の政治勢力ということらしいですね。

 十月末くらいから「小異を捨てて大同につく」という掛け声のもとに、多くの政治家がくっついたり離れたりし始めました。しかし、こと政治に関してはそんなことでいいんでしょうか。理念なき同床が破綻することは、既に民主党がこの三年間、白日のもとに明らかにしてくれた筈です。とくに都知事だったI原さんは、かわいいのは自分だけという極めて独善的な方ですから、多くの人たちと集合して第三極を自認したって結局は喧嘩分かれすることが目に見えています。

 われわれ市井の住人は、そのような一見華やかな政治の舞台に目を奪われてはなりません(多くの人たちはそんなことは先刻ご承知だと思いますが)。私は政治なんかははっきり言ってどうでもよくて、毎日を穏やかに暮らすことができて、この素晴らしい風土を子孫たちにきっちり手渡せれば、それでいいのです。

 しかし政治家と言われる人たちは、永田町に集まるとなぜ国民のことを忘れてしまうのでしょうか。多分、個々の政治家はなにがしかの理念とか志とかがあって政治家を志したはずです。高邁な理想を掲げていたひともいたでしょう。そういう人たちが国民そっちのけで離合集散を繰り返すようになる、そのメカニズムとは一体どういうものなのか。個人の利益を追求するという人間の本性的な弱さが露呈すると言ってしまえばそれまでです。もしかしたらDNAにインプットされた本能に基づいた行動に過ぎないのかも知れません。

 私は今まで工学というものを研究の対象としてきました。それはそれでとても面白いし、やりがいがあります。工学と人間との関わり合いを考えなければならない、ということにも(遅まきながら)気がつきました。

 でも半世紀も生きて来ると、人間とは一体何者なのか、という本源的な問いに対する興味が募ってきます。人類学的あるいは生物学的にネアンデルタール人と現代人との関係を追求するのも興味深いですが、手始めとして政治家という人種をじっくり観察して、そこから演繹的にある結論を引き出す、というのもいいかも知れません。そうした分析眼を持って彼らを見れば、その行動にいちいち腹を立てることもなくなるかもね。


 旗 (2012年11月15日 その2)

 下の続きです。日本国を任せたい政党が見当たらない、ということですが、K産党もちょっとね、と思います。駅前や市街地での演説とかビラ配りとかではいちばん目にすることが多いですね。でも子供がまだ赤ん坊だった頃に、家の前で演説をやられちゃったときには、うるさい!せっかく寝た子を起こす気か、と怒鳴りつけたこともありました。

 日本の国をよくしたい、というその主張の一部には共感することもあります。でも、如何せん、その名前はどうでしょうか。今更「共産」なんて言っても、誰もついて来ないでしょう。ソ連が崩壊して東欧諸国もそれぞれの道を歩み、唯一の共産主義超大国になった中国にしても、その内実は経済至上主義にどっぷりと浸かり始めています。一党独裁を堅持するためだけに「共産」を標榜しているようにも見えます。すなわち、共産主義は壮大なる幻想に過ぎなかった、ということを歴史は証明しています。

 名は体を表すといいます。だから政党の名称は重要です。それは世間に対して旗を掲げていることにほかなりません。フツーの市民の支持を得ようと本気で考えるならば、まず旗から始めよと私は言いたいですね。


大 義 (2012年11月15日)

 野田首相、やりました。機先を制して解散を言い出したのには、びっくりしましたね。これでAKBナントカじゃないホントーの総選挙が実施されそうです。しかし、この解散・総選挙は一体誰のためになにを目的として行われるのでしょうか。

 報道では野田首相の乾坤一擲の大勝負とか言われていますけど、結局自分の影響力を有効に発揮できるタイミングを見計らっただけで、極言すれば永田町の力学に従っただけのようにも思えます。われわれ市井の住人にとってはそんな政治の論理なんかはどうでもよく、山積する課題をひとつでも解決するように努力して欲しいだけなんですけど、、、。そういう訳で、この解散宣言にはなんの大義もないと私はみました。

 しかしこの状況で総選挙になっても、われわれは一体どの政党・政治家を選べばよいのでしょうか。政権を穫った民主党のゴタゴタと無策ぶりを見てきただけに、民主党に入れようという気はさすがの私もしませんな。もちろん自民党とか維新とか太陽とかは論外です。多分私と同じように考えている人は多いと思いますよ。

 衆議院選挙と同時に東京都知事選挙も行われそうですが、こちらは候補者さえ出揃っておらず、どうなるのか不安です。私の大学は公立大学法人になったとはいえ東京都が設置することに変わりはありませんので、都知事の意向は死活問題に直結します。現在のわが大学は2005年の統合・新大学開学以来、言ってみれば非常事態宣言が発令されたままの状態です(少なくとも私は、そのように認識しています)。Center of Excellence(知の拠点)としての大学の存在意義を理解して、この非常事態を解除してくれるような方に都知事になって欲しいと切に思います。

 これは一般都民にとってはどうでもよいこと、とは私は思いません。いつも書いているように、大学に対して自由主義経済の大原則をそのまま当てはめること自体が不当なのです。物事を深く洞察して、その成果を豊かな市民生活のために還元すること、そのためには大学がどっしりと構えていることが必要なのです。そのような目的に向かって大学人は日夜努力していることを都民の方々に発信して、ご理解いただくことはもちろん大切です。ですからそれぞれの都知事候補者が本学についてのドライビングをどのように考えるのか、注意深く見守ろうと思います。


く も (2012年11月14日)

 2回めの『先端研究ゼミナール』が終わって、ホッと一息入れながらこれを書いています。三名の三年生ともまだ馴れていないせいもありますが、少しは議論ができてよかったと思います。これから活発な議論ができるようにしたいですね。

 今日のお昼に外に出たら気持ちのよい青空が広がっていて、真っ白な雲がポカンポカンと漂っていました。多分空気が澄んでいたせいだと思いますが、その雲がとっても美味しそうに見えたんですよ。この雲を千切って食べたらさぞ旨いだろうなってな感じでした。入道雲を横にしたような形でしたから、晩秋の雲にしては珍しいと思いました。

 野田首相、この頃にわかに解散をちらつかせ始めたようですが、民主党の面々はやめて下さい、総理!って言ってるみたいです。「首相の言葉はおもい」とも自らおっしゃっているようですが、いろんな思惑があって言っているのでしょうね。ほとんど忘れられていたTPPが再び俎上に登ってきたのも不思議です。何となく一国の総理大臣が裸の王様になったようで、大丈夫かなあと案じられる今日この頃です。


光の塔のダメージは‥ (2012年11月13日)

 昨日の朝一に『建築文化論』を講義したが、教室は正門脇の一号館2階のAV教室である。で、この教室に行くのにたまには異なるルートを通ろうかなと気紛れに思いついた。本学の正門の脇には光の塔と呼ぶランドマーク的な建物がある。光の塔のなかは頂部のガラス天井まで吹き抜けていて特に用途はないのだが、2階や3階の教室に上がるための階段と通路が一部に設けられている。

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 そこでその階段を歩き始めたのだが、コンクリート打ち放しの壁面には斜めのひび割れが多数発生しているのに直ぐに気がついた。職業柄、RCの壁には目がいってしまうのだ。それらのひび割れはみな同じ方向を向いている。明らかにせん断ひび割れである。損傷度で言えば2くらいかな。多分、2011年3月の地震のときに入ったものだろう。

 気になったので、下に降りて1階部分の壁面もしげしげと観察してみた。そこを通り過ぎる学生さん達には、なんだろうこのオッサン、見たいに思われたんだろうな。なんせコチトラときたら、壁際に立ってコンクリートの表面を撫でながら、うーんとか唸ったりしていたのだから。ハタから見ると不気味かも?

 そして私が予想した通りのひび割れを見つけたのである。光の塔は巨大な片持ち柱と見なすこともできるので、基部に水平な曲げひび割れが生じているのではないかと思ったのだが、案の定だった。ただ、そのひび割れの幅は斜めのせん断ひび割れ幅とほぼ同等か小さいくらいだった。

 鉄筋コンクリート構造の建物にある程度の力が作用すれば、ひび割れが生じるのは当然である。なので、光の塔も想定通り地震力に抵抗しただけである。専門家としてはああよかったね、というところだが、剛性はかなり低下していることが予想される。ただ、ひび割れ発生によって低下した剛性を回復させるのに効果的な補修工法は特にないと考えられるので、当分はこのまま放置しておくしかなさそうだ。コンクリート打ち放しなので、ひび割れ表面をシールしたあとに再塗装して隠してしまう、なんてこともできないだろう。

 ちなみにこの日の講義のお題は『鉄筋コンクリート構造ってなんだろう?』というものだった。まことにタイムリーな(って、私にとってだけなんですけど、、、)話題設定と言うしかないな、と、ひとり悦に入っている私であった。


おけいこ (2012年11月12日)

 子供がスイミング・スクールに通い始めたので、この週末に私が初めて連れて行った。1時間のコースである。子供を更衣室に送り出したあと、付き添いの親やジジババたちはプールが見える観察室みたいなところで我が子や孫の様子を見ることができる。ガラス張りの向こう側である。

 で、そこに足を踏み入れてみると、そんなに広くはないこともあるがもう父兄たちで満員なのだ。これにはホントびっくりした。世のなか不景気でモノは売れず、賃金は下がる一方なのに、子を持つ親たちはといえば我が子可愛いさのせいか、お金を消費することもものとはせずに子供を通わせているのである(もちろん、我が家もその一員なのだが)。

 これを見て思ったのだが、高齢者への各種サービスを始めとして、ひと様に何かサービスする業態がこれからの成長産業なのであろう。日本人は総体としては豊かになったので、そんなにモノを欲しいとは思わなくなった。皆がこだわりを持つようになって、いろいろ吟味して自分にマッチしたものならば高価でも手に入れる、というbehaviorを示す。

 モノに対してはかように淡白になりつつあるが、少子化ということもあって子供への投資は相当な額にのぼるのではないか。新聞などによると子供をお稽古ごとなどに通わせるための金額は二極化していて、多額を費やす親たちと全く費やさない親たちとに分かれるという。それでも件のスイミング・スクールに行って、受講生たる子供たちがうじゃうじゃといるのをこの目で見ると、(少なくともここは)儲かっているだろうなあと思う。

 ところで今の子供たちは、外で遊ぶことが少なくなっているように思う。私が子供の頃には近所にまだ空き地が多かったせいもあって、よく野球をやったものである。そういうところに見ず知らずの子供たちが集まって来て、即席のチームを作って野球を楽しんだ。ときにはフラ〜ッとやって来た見知らぬお兄さんが、ボールの投げ方とかバットの振り方とかを教えてくれたりもした。なんとなく“三丁目の夕焼け”のようにノスタルジックな靄がかかってはいるが、、、。

 今ではそもそも空き地なんかは全くないし、小さな公園はあっても「球技は禁止」なんていう掲示板があったりする。そもそも子供だけで外で遊ばせるのが不安な世の中になってしまった。なんでこんな世の中になってしまったんだろう。


先端研究ゼミナールの少人数ゼミはじまる2012 (2012年11月8日)

  3年生後期の『先端研究ゼミナール』のオムニバス講義が終わって、少人数のゼミナールが始まりました。我が社には3名の学生さんがくじ引きで配属になってやってきました。今年は男性2名、女性1名です。手始めに興味があることや取り組んでみたいことなどを発表してもらいましたが、皆さんそれなりに面白そうなものに目を付けていることが分かりました。来週以降の進展が楽しみです。

 さて、電車内読書の『長宗我部』を読み終わりました。大坂の陣で破れて打ち首になった長宗我部盛親以降は、山内家が支配するようになった土佐国で長宗我部を名乗ることを許されず、下級武士として忍従しながらも連綿と続く血筋を保ちました。そして江戸幕府が滅びて明治維新の世になるとともに長宗我部の苗字も復活したそうです。江戸期における土佐国での武士身分の階級は厳然と区分けされており、その最下層に押込められた長宗我部侍の末裔たちは幕末にそのエネルギーを爆発させて倒幕に大きく寄与したのは周知の事実です。

 で、今は『破軍の星』(北方謙三著、集英社文庫)という小説を読んでいます。これは後醍醐天皇が建武の親政を始めてから南北朝の内乱のときに活躍した北畠顕家を主人公とした小説らしいです(読み始めたばかりなので詳しくは分かりません)。北方謙三氏の小説を読むのは初めてなので、その文体に慣れるのにはちょっとかかりそうです。いろいろな本を読んでいると、自分にマッチする文体とそうでないものとがあるということに気がつきます。もちろん司馬遼太郎のように誰にとっても読み易くて面白い、という小説もあるでしょうけど。

 ところで文部科学大臣のT中さんが新聞の一面を賑わせているようですね。国内の人口が減少に転じたにもかかわらず、大学をどんどん作ってどうするの?という疑問は分からないでもないですが、そのことを表明する場を間違えたとしか思えません。今度ばかりは尻拭いさせられる官僚諸氏が気の毒に思えました。

 日本には大学が多い、というのは確かにその通りだと思います。しかしこれは以前に書きましたが、大学という組織の内部にいる人間が自ら大学を減らすように行動することはあり得ないでしょう。大学に限らずどんな組織でもそのなかにいるひとはその組織に依って生きているのですから、その大本を枯らすようなことをするはずがありません。いくら大学人が良識あるといっても、自分の所属する学科を縮小したり廃止したりすることを諾うわけはありませんよね。

 結局、大学の縮小・廃止は自分自身では決定できずに、社会情勢に大きく左右されるわけで、その点では営利追求団体である民間企業と何ら変わりはありません。名誉ある撤退などというと聞こえはよいですが、外圧がなければそういう決定ができない人間の悲しい性を感じます。

 T中さんが大学全体の縮小に向けた外圧を生み出そうと考えて、そのためのトリガーを引こうと判断したのならば、それはそれなりに評価します。ただ今回の騒動は、周到な準備もなく唐突に銃口を突きつけた、その方向が誤っていたとしか言いようがありません。


建築文化論はじまる2012 (2012年11月5日)

 教養科目の講義である『建築文化論』の今年の担当が今朝から始まりました。前任の鳥海基樹准教授(パリの都市計画)が厳しく絞ってくれたらしく、今朝のギャラリーは64名でした。昨年は100名くらいいましたから、かなりの減少です。

 昨年は10分以上の遅刻者は入室させないという厳しい措置を講じました。そのことが後輩たちに伝わって敬遠されたのでしょうか。ただ、昨年の学生諸氏による授業評価でこの措置はかなり糾弾されたので、今年は取り止めにしました。講義が始まってからもパラパラと入室してくるのは、正直言って気持ちの良いものではありませんね。遅刻しないようにと鳥海さんもずっと言っていたらしいですが、それにもかかわらず、このありさまです。

 まあ、分からなくもありません。秋も深まり寒気の増したなか、月曜日の1限(午前8時50分)スタートですからね。で、定刻のチャイムが鳴り終わると同時に講義をスタートさせましたが、ちょっとはしょり過ぎたせいか、1時間ほどで説明は終わりました。

 そのあとミニ・レポートを書いてもらうのですが、30分も時間を与えたにもかかわらず、さらにはちゃんとノートに構想を練って推敲して提出用紙に記入するように言ったのに、汚い字で書きなぐったものや、たった5行しか書いていないものなど、オイオイそりゃないんじゃないの、と首を傾げたくなるレポートが散見されたのは残念でした。それらを除くと、時間に見合った(それなりの)内容のレポートが多かったのはよかったですが。


秋深し (2012年11月4日)

 今朝は結構冷えましたね。車に乗り込むと気温が8.5度しかなくて、思わずヒーターのスイッチをひねりました。目の覚めるような青空で、真っ白になった富士山がよく見えました。例年、11月3日の「文化の日」くらいになると急に冷え込んで来て、暖房が恋しくなってきます。暑いあついと言っていたのがつい最近なのに、この時期の気候の変化にはいつも驚かされます。我が家でも昨日、この秋はじめてガス・ファンヒーターに点火しました。これも例年通りです。

 これからどんどん寒くなっていき、清冽なツーンとした寒気のなかで暮らすのかと思うと、ブルブルっと身震いしてしまいます。でもこのような四季の変化がわれわれ日本人の精神性や気質を育んだのは明らかです。ハワイのように常夏の国で過ごしてみたいと思うことも時にはあります。しかしそうなるとうつろいゆく自然に思いを馳せる、なんてことはなくなるし、勉強や仕事にいそしもうという気も失せるような気がします。

 やっぱり日本人なんだなあとしみじみ思います。寒い冬には鍋でもつつきながら、美味しい日本酒でしょうか。その頃には体も寒さに慣れているでしょうしね。


遠流の地 (2012年11月2日)

 電車内読書で『長宗我部』(長宗我部友親著、文春文庫、2012年10月)を読んでいます。これは面白いですね。戦国時代の長宗我部元親が有名ですが、この一族の2000年におよぶクロニクルを記した読み物です。で、長宗我部元親が土佐一国から台頭して四国全域を切り従えたというのが史実ですが、土佐国(現在の高知県)は平安の昔には罪人の遠流の地であったということです(長宗我部家は信濃国から移り住んだらしいですが)。

 我が家も高知県の出ですが、ということは祖先は罪人であったのかも知れません。そう考えるとなんだかちょっとガッカリです。でもまあ我が家は単なる百姓だったみたいで幕末期くらいの祖先までしか分かっていませんから、どうだったのでしょうか。土佐のひとは酒飲みで気性が荒い、というのがステレオ・タイプの理解みたいですが、土佐国の斯様な歴史がそのような風土を生んだのかも知れません。

 しかし元親後の長宗我部家がどのような歴史を辿って今日に至ったのか、そのことのほうに私は興味があります。徳川家康に破れて国を失った彼らは、敗者として土佐を始めとして各所で雌伏の時代を過ごさなければならなかったはずで、そのような無名な人たちの暮らしにこそ、人生の機微が秘められているでしょうから。これから本書を読み進んで行けば、そのあたりが分かるかも知れません。楽しみです。


街路樹のイルミネーション (2012年10月31日)

 昨日は電気協会の会議に出てゆきました。今回は原子力発電所の免震構造設計技術指針についての再審議でしたので、関係者として議論を聞かないといけないと思ったからです。しかし地震動についての審議冒頭から議論は紛糾して、予定を大幅に超えて結局4時間の会議となりました。久し振りにそんな長時間、トイレにも行かずに坐っていたので、ただ聞いているだけだったにもかかわらず疲れました。私自身は納得がゆかないところもあったので、その旨を(オブラートに包んで)申し上げたのですが、副分科会長の久保哲夫先生からやんわりとたしなめられて終わりました。

 会議が終わって外に出ると、すっかり日は暮れてツーンと澄んだ夜気があたりを包んでいました。有楽町の大名小路の街路樹は美しく電飾されていて、疲れた目にしみたのでした。


つまらない (2012年10月30日 その2)

 先日ちょっと書きましたが、『足利義満』(小川剛生著、中公新書、2012年8月)を読み終わりました。いやあ、申し訳ないのですが、つまらなかったですね。なんだか分からないところは読み飛ばして、それでも内容を理解しようと努力した(つもり)なんですが、結局なにが分かったんだか分からなかったのか、さっぱり分かりませんでした。

 どうやら、足利義満が天皇になろうとしたということはないだろう、ということだったみたいですが、それすら私の頭にはあやふやにしか残っていません。とにかく普通は使わないような日本語(漢語か?)が羅列されており、読み難いことおびただしい。どうしてそんな表現を使うのか、理解に苦しみました。久しぶりに読後に腹が立ちましたね。

 主張したいことをもっと平易に書くことはできなかったのでしょうか。少なくとも専門家ではなく、一般読者を対象としているということをわきまえて欲しかったですな。このような書籍の出版を認めた新書の編集者の見識も疑いたくなってきます。なかにはこんな本もあるんだ、ということを忘れないためにあえて書き留めておきます。


わきまえる (2012年10月30日)

 吹く風の冷たさが日増しに感じられるようになってきましたね。早いもので、もうすぐ十一月ですから。今週後半には学園祭があるので、水曜日以降の授業は休講になります。十月から始まった後期もこれで一息入れられようというものです(学生さんも先生も、です)。

 さて研究室での研究のほうは、そろそろ本気を出して取り組まないとあとで困ることになる、という時期になったのですが、卒論生諸君にはまだそのような自覚はないようで、今までのように呑気にやっているように見えますな。

 でも君たち、それはちょっと了見が違うというものですぞ。何事にもメリハリというものがあって、もう本気モードに入らないと間に合わなくなります。基礎知識を仕入れて醸成させる時期はもう終わったということをわきまえて欲しいものです。馴らし運転からギアを入れ直して、アクセルをふかすと言ってもよいでしょう。

 というわけで、卒論生諸君に気合いを入れてもらうためにも、ここ暫くは強力に指導しようと思います。それぞれが満足のゆく研究成果を得られるように、自分自身で計画を立てながら取り組んで下さい。皆さんの奮闘を期待していますよ。


分かり合う英語 (2012年10月29日)

 先週末に高校1・2年のときのクラス会がありました。担任の内藤先生は、私にとっては英語の基礎を築いて下さった恩師です。先生の授業は独特で、われわれ生徒達に多様な質問を多発しながら解説を加えてゆくというスタイルでした。あるとき、内藤先生の質問に答えることができなかった私に、「北山、お前は答えられるまで立っていなさい」と言われました。そしてその後も矢のようにやって来る質問に全く答えることができずに、結局授業の終わりまで立ち尽くしたことがありました。そのことが私を非常に発奮させました、これではまずい、と。これを契機として、英語に熱心に取り組むようになったのです。

 こうして内藤先生の「特訓」に耐えてきた私は、高校3年生になった頃には内藤先生の発する質問にほぼ答えることができるようになって、ちょっと気の利いた返答ができるくらいになっていました。こうして身につけた英語の知識は、今日に至るまで私を大いに助けてくれたのです。

 で、その内藤先生がクラス会のスピーチで、今日はこれだけは話しておきたい、とこんなことをおっしゃいました。われわれ日本人は英語に対して英米人(いわゆるNative)に較べてはじめから不利であるのは否めない。だが、彼らに「今の表現は最近の英語では言わない言い方だ」みたいなことは絶対に言わせてはならない。そんなことを頭ごなしに言われたら、話しが終わってしまって会話にならない。彼らを上位者にさせてはならない。そうではなく、滅茶苦茶な英語でもよいからハートで話せ、そうすれば必ず通じる。そして相手にもこちらを理解させるように努力させろ。それがコミュニケーションというものなんだ。

 いやあ、久し振りに「内藤節」を拝聴して、ほんとスッキリしました。結局、共通言語としての英語をNativeだけの閉ざされた地域圏のものとしてではなく、世界での意思疎通のツールとして使うことの心構えみたいなものを説かれたんだと思います。それは話者としての自分だけでなく、相手にも要求すべきものなのです。

 このことは、私もだんだんと分かって来たような気がします。今年の3月にあった国際シンポジウムで発表したときに(もちろん英語です)、質疑応答での私のかなり滅茶苦茶な英語でも相手には通じたように思います。実際、そのときには私には相手に伝えたいという熱意がみなぎっていましたし、相手も私の言うことを理解しようという強い意志を持って下さっていたと思います。そういう対等な関係のもとでなら、どんな英語でも意思の疎通をはかることができるのでしょう。

 こうしたクラス会の席でも、いまでも情熱を持って英語をあつく語れる内藤先生は素晴らしいと思いました。そしていつまでたっても我々卒業生のことを憶えていてくださる先生にはホント感服します。


今日はなんの日? (2012年10月26日)

 今日が『原子力の日』だって、皆さんご存知でしたか。折しも原子力規制委員会が原発事故の際の放射能拡散予測の結果を公表したこの時期に『原子力の日』を迎えるというのは、単なる偶然にも思えませんな。とは言っても、私もこんな日があるなんて、つい最近初めて知りました。でも、M重工から貰ったカレンダーにはよく見るとちゃんと書いてありましたが。

 そういえば朝日新聞朝刊の『プロメテウスの罠』という連載記事に、本学・地理環境コースの山崎晴雄先生(地震地質学)のことが載っていました。もちろん原子力に関連する事柄です。朝日の記者は取材を断られたので、大学の教室まで押し掛けて講義が終わって出て来た山崎先生にアタックしたそうです。ひえ〜ってな感じです。そこまでするのか、かなわんゼヨ、と思わずのけぞりそうになりました。それでも山崎先生は取材に応じられたようで、その結果として記事が書かれたのでしょうね。

 私の研究室では電話線を切断しているので直接に電話はかかってきませんが、大学の事務室には時たまメディアのひとから取材の申し込みがあります、北山先生にお伝え下さいって。もちろん返事はしませんが。記者の方からメールが来たときには仕方がないので、丁重にお断りの返信をします。でも山崎先生のように大学まで押し掛けられてきたら、ちょっと手の打ちようがありませんね。山崎先生のような大物でなくてよかったです、ホント。

 さて、東京都の知事が唐突に辞職を表明しました。まあ、衆議院選挙が近いと噂されるこの頃ですから、政界にどっぷり浸かった人たちにとってはさもありなん、ということかも知れません。でも市井の一般人にとってはやっぱり唐突感は否めませんね。尖閣諸島購入の件で腰を折られたので、つぎなる“目立ちの装置”がこれだったのかも、などと深読みしたくもなります。最近では存在感がめっきり希薄になっていましたから。でも、オリンピック招致はどうなるんでしょうか、どうでもいいですけど。

 つぎの都知事には、大学というものに対して一廉の見識を備えた方になって欲しいものです。別にわが大学を特別に重視してくれなくても結構ですから、せめて敵視したり迫害したりはしないで欲しいなあとは思います。


地震被害調査へ行く2012 (2012年10月25日)

 一昨日、雨が降ったかと思うと陽が差したりする大荒れの天気のなか、栃木県に昨年3・11の地震被害調査に行きました。今さらと思われるかも知れませんが、我が社では耐震補強したRC建物の地震被害について研究しており、今回は耐震補強が想定とおりに有効に機能した例を捜しに行ったのでした。主担当者は卒論生の山上暁生くんですが、昨年の経緯があるのでM2・石木健士朗くんと助っ人としてB4・栗本健多くんに同行を頼みました。

 今回は地震被害がないことを確認することが主要な目的でしたが、目当ての小学校に行って(もちろん、耐震補強されています)、地震当日の様子を伺ったり、そのときの写真を拝見したりすると、いろいろな被害があったことが分かりました。もちろん構造体自体の被害はそれほどでもありません。それでも、学校内を拝見させていただくと、耐震壁や柱には損傷度2程度のひび割れが見られました。また、校庭にはかすかな地割れや地盤の乱れが生じた、ということでした。

Tochigi2012-1 Tochigi2012-2_Ninomiya

 実際に部材の様子を見たり、お話を聞いたりして、やっぱり耐震補強していてよかったなあ、とつくづく思いました。もし耐震補強していなかったならば、もっと損害が大きくなったことが予想されました。

 一日の調査で有益な知見が得られましたので、今後の研究活動に大いに活かせるような気がしています。いつも思うことですが、自分の目で見て確かめる、というのはホント大切ですね。

 調査の際にはI町役場の皆さまに大変にお世話になりました。またA小学校では校長先生や事務長さんに丁寧に説明していただきました。終日お付き合いいただいた方々にあつく御礼申し上げます。役場や小学校の皆さんに暖かく迎えていただいて、本当にありがたかったです。

 なおこの日には、近隣のkik-netの地震動観測ポイントにも行ってみようと思っていたのですが、ひどい天気だったことと小学校の調査に時間がかかって、すでに暗くなっていたこととで、立寄りは取りやめにしました。その代わりと言ってはなんですが、筑波大学の境有紀先生のサイトに同地点の立派な写真が載っていましたので、そちらを参照するように学生さんには言っておきました。境先生、利用させてもらいます(周辺の様子もレポートされているので、とても役立ちます)。

 ところで校庭の片隅に二宮金次郎先生の立像がひっそりと佇んでおりました。熱心に本を読んでいるお姿です。都会では見掛けなくなりましたが、地方に行くとまだ残っていますね。こちらの二宮先生はどういう訳か校舎に背中を向けておいででしたので、校長先生に理由を尋ねると、昔は二宮先生の像の向かいに校舎が建っていた、ということです。でもそうすると昔の校舎は校庭の南側にあった、ということになりますな。なんだか今は訪れる児童もなくて、お寂しいのではないかと思いました。


これっきり? (2012年10月22日)

 ここのところ、山口百恵のTribute selectionというアルバムを聴いています。山口百恵は私にとっては同年輩のかたですが、彼女が現役のときは(今もですけど)全然興味がありませんでした。中学生の頃に同級生たちが山口百恵にキャーキャー言っていても、私には無関係に過ぎてゆきました。

 でも彼女が残した歌たちは、その当時も否が応でも耳に入って来ていました。そのなかにはメロディー・ラインの美しいものもあったと記憶しています。で、彼女の曲たちを大勢の歌手たちが歌って一枚にまとめたアルバムがつい最近、出ましたので、懐かしさもあって手に入れたのでした。

 久し振りに耳にした山口百恵の歌詞ですが、まだ中学生の頃からこんなに大人びた歌を(私の記憶では結構ドスの効いた声で)歌っていたことに改めて驚きましたね。そういう曲たちをいろんなアーティスト達が入れ替わり立ち替わり歌うのですが、おお、いいねっていうのと、うーんと首をひねるのとに綺麗に分かれました。

 私がいいと思ったのは、ビギンが歌う『夢前案内人』と八神純子の『さよならの向こう側』です。とくに『さよならの向こう側』はとにかくいい曲なので、その曲の力に助けられて得したなあ、という感じです。

 反対にうーん、ちょっと違うだろと思ったのは、渡辺真知子の『横須賀ストーリー』とパフィの『ひと夏の経験』でした。『横須賀ストーリー』は山口百恵の「これっきり、これっきり、もう〜これっきりですか」という歯切れのよい歌いっぷりが未だに耳に残っているので、渡辺さんの歌い方はどうにも粘着的で馴染めません(お年のせいかも?)。「これっきりッ」っていう山口百恵のイメージとは違う曲にしようとしたのかも知れませんが、残念ながら成功とは言えないと思います。パフィに至っては自分らの『アジアの純真』と全く同じ感じで歌っていて、おいおいそれはないだろ、ってな感想です。

 しかしこうして他人が歌う山口百恵の曲たちを聴いてみると、いかに彼女の歌唱力が優れていたか、聴くひとの脳幹に強烈なイメージを残していたかが分かろうというものです。その意味で山口百恵は美空ひばりと並ぶ国民的な歌手であったのかも知れません。冒頭に記したように私は全く興味ありませんけど。なので、彼女の歌を聞くことはもう、これっきりだと思いますな。


ドングリ (2012年10月19日)

 秋らしいカラッとしたよい日和になりましたね。今朝は結構肌寒くて、カーディガンを羽織りました。それなのに愚息ときたら、半袖・半ズボンしか着ないと言って、母親をてこずらせていました。鼻水ズルズルで明らかに寒いはずなのに、いつまでも夏姿でいようとします。でも自分のことを思い返すと、小学校4年生くらいまでは一年中半ズボンでしたから、理屈じゃないのかも知れません。真冬には膝小僧なんかはカラカラに乾いていましたけど。

 生協でお昼を食べて、図書館の裏の雑木林を歩いていると、ドングリがたくさん落ちていました。ドングリを見ると必ず思い出す記憶があります。私がうちの子供と同じくらいかもっと小さかった頃、まだ元気だった祖母に連れられて新江戸川公園に行きました。神田川の北側にあって、早稲田の家から歩いて行ったのでしょうか。

 そこで祖母と一緒にドングリをたくさん拾って帰りました。つやつやとオレンジ色に光っていたかなり大きなドングリです。祖母と手をつないで歩いたそのときのことが、黄金いろの秋景色とともに脳裏には鮮明に残っているのです。不思議ですね。

 しかしこの話にはまだ続きがあって、そのドングリたちを中目黒の家に持ち帰って大事にとっておいたのですが、しばらくするとそのドングリの皮を食破って、中から小さな白い芋虫たちがたくさんでてきたのです。ぎゃーってな感じで、慌てて庭に捨てたことをやはり憶えています。幼児の頃のちょっと甘美で切ない思い出でした。

 もうひとつのドングリの思い出は、高校生のころに京都に行った修学旅行のときのものです。一日、グループ活動の時間があって、私たちは高雄の神護寺に行きました。そのあと清滝の川沿いの道を歩いて下ったのですが、そのときに落ちていたドングリを蹴りながら、友人たちとだらだらと歩いたのでした。道すがら、立ち木のあいだから漏れ差してくる陽の光の輝きが強く印象に残っています。

 その後帰京してから、現代国語の授業中に小田原栄先生が修学旅行を題材にして俳句を作れというので、このときのことを『ドングリを 蹴り蹴りたどる ○○○』(○○○のところは思い出せません)という駄作を作ったのでした。このこともよく憶えています。


笑 う (2012年10月18日)

 来年のことを話すと鬼が笑うといいますが、今日の建築都市コースの会議で来年度の卒論生配属が議題に上がりました。10月になって後期の授業が始まったばかりのような気がしていましたが、学年暦はどんどん進んでゆくわけでして、もうそんなことを考えないといけない時期なんだなあ、とは思います。

 今でこそ我が社にも卒論生が3名とか4名とか来てくれますが、数年前にはゼロという年があって、おまけに大学院生も来ないという冬の時代がありました。なので、そういうことがないように教室全体が配慮するべきと私は思っています。しかし卒論生が多すぎても、ちゃんとした指導が出来なくなりますから、4名程度がちょうど良いような気がします。

 特に来年3月には三人の教授が揃って停年でお辞めになりますから、その分、一研究室の卒論生数が増える可能性はあります。そうなっても自分の力量の範囲で(受け入れられるならば受け入れて)やろうと思います。


退 く (2012年10月17日)

 以下は私が主査を務める小委員会の委員諸氏に宛てた書信ですが、私の活動を記録するとともに私の偽らざる気持ちを吐露するために、ここに掲載しておきます。

/////////////// 以下、書信 ///////////////

日本建築学会 PC部材性能設計法小委員会
委員の皆さま

御礼と主査退任のご挨拶
 同小委員会 主査 北山和宏

 委員各位には、今日まで「PC部材の構造性能評価指針(案)・同解説」の執筆に精力的に取り組んでいただきました。お陰をもちましてPC構造運営委員会の査読とそれに対する修正も終わり、今後は構造本委員会の査読を受けて刊行へのラインに乗るものと思われます。

 このような成果物をまとめることができましたのも、ひとえに委員の皆様のご努力の賜物であります。それぞれの業務でお忙しいなか、無理な注文や無茶な締め切りにもかかわらず、原稿作りにいそしんでいただいたことには感謝の言葉もございません。非力な主査のもとで黙々と仕事をして下さった委員の皆様にあつく御礼申し上げます。

 さて、本小委員会は2013年3月で設置期間が満了となります。上記のように本小委員会の最大のタスクであった指針(案)の作成はなんとか達成できそうなので、私も主査としての責任のなにがしかは果たせたのではないかと愚考します。

 顧みますと、当時のPC構造運営委員会の主査だった中塚佶先生からこの小委員会の主査を依頼されて引き受けて以来、既に六年が経とうとしています。知らないうちにかなりの期間が経過しておりました。そして、指針(案)もほぼ道筋が立ち、小委員会も満了というタイミングは、主査の交代には持ってこいということに気がつきました。

 そこで本小委員会の終了とともに、わたくしの主査の任も解いていただくことにいたします。ひとりで決めてしまった身勝手をお許し下さい。上述のように委員の皆様には多大なご尽力とご協力とをいただきました。そのことに御礼申し上げるとともに、皆さんとともに一致団結してひとつの事に当たれたことを嬉しく思っています。

 なお、本小委員会の仕事を継続し、PC部材の力学特性や構造性能評価などを扱う小委員会を新規に立ち上げることを計画しております。こちらの主査は河野進先生にお引き受けいただきました。来年4月からは河野主査のもとで、新小委員会がさらにパワフルに活躍されることを期待しております。

 以上、委員の皆様への御礼と主査退任のご挨拶とさせていただきます。
 今までありがとうございました。

追伸; 2013年3月末までは、引き続き指針(案)の完成に向けてさらなるご協力をお願いします。私もそれまでは主査として責任を果たします。


削 る (2012年10月15日)

 今日はものすごく久しぶりに、カッターで鉛筆をゴシゴシと削りました。学生の頃に設計デザインに使っていた、Castellの赤鉛筆です。私の引き出しの奥に秘蔵されていました。だって、現在では赤のサインペンかボールペンを使うので、赤鉛筆なんかの出番はないからです。

 ところで、今日は二年生後期の設計製図2のエスキスでした。うちのコースでは構造系の教員といえども、設計製図のエスキスおよび講評を割り振られるので、結構つらいですね。そのエスキスに、久しぶりにCastellの赤鉛筆を使うかなあ、と思い至ったのでした。それに三角スケールを携えて行けば、何だか建築設計も出来そうな気分になってきましたから不思議です(まあ、形だけですけど、、、当たり前か)。

 で、そのエスキスですが、60名の学生さんを5つのグループに分けて、私は本学出身の建築家・田中幸子さんと一緒に1グループの学生さんの図面を拝見しました。まあ建築家と一緒なので、その点は気が楽になります。今回はコミュニティ・センターの提出一週間前のエスキスなので、さすがにグジャグジャとした星雲状の図面ではありませんでしたので、私の赤鉛筆が有効に機能しました。

 ここのスペースは周辺諸室との有機的な連携が取れていないねとか、このスペースは暗くて気持ちよいとは言えないねとか、動線が解けていないねとか、この階段を歩いて行くと梁に頭がぶつかるぞとか、相手は初めて建築設計に取り組む初心者ですから、私でもそれくらいのことは言える訳です。

 でも、やっぱり必要なのは想像力です。自分が設定したスペースがどのように使われるのか、人間の行動はどのような動機によって引き起こされるのか、というようなことをしっかり想像して考えるように言いました。彼らは図面上に『陽だまりラウンジ』と書けば、そこがラウンジとして使われると信じているからです。でも、人間のbehaviorがそんなに単純なものではないことは、皆さんご承知の通りです。

 そんなふうにエスキスをしていたら、思いのほか時間がかかって、結局4時間以上も費やして、終わったときには文字通り日が暮れていました。ガ〜ン、ちょっと一所懸命にやり過ぎたかな。建築家の田中さんからも「構造系の北山先生がこんなに丁寧にエスキスするなんて意外でした」などという、褒められているんだかそうじゃないんだか分からないような感想も頂きました。

 正直に言えば、私もそんなに時間をかけるつもりはなかったのですが、学生さんたちが懸命に取り組んで来たものなので、それなりにちゃんと見ないといけないな、とは思いました。でも、今後はほどほどにしたいと思います(どうかご容赦を)。


メールの功罪 (2012年10月12日)

 今日は授業時間のほかはほとんどパソコンに向かって、メールを読んだり、それに対応するための返信を書いたりして日が暮れました。建築学会の研究委員会については、そろそろ来年度に向けて廃止とか新規立ち上げとかを決めるべき時期に来たため、それに関係するメールが多いですね。主査をどうするか、という頭の痛い問題もありますし、、、。

 こうして自分の部屋に居ながら、各地の人びとと(ほとんど)リアル・タイムでやり取り出来るのはホント凄いと思います。でも以前にも書きましたが、メールの処理だけで仕事をしたような気になってしまうことが怖いです。現にほとんどの時間をそれに費やしたので(もちろんそれに付随する文書の作成とかも含んでいますが)、それは仕事じゃないよ、と言われた瞬間に給料泥棒を標榜しないといけなくなります。それはやっぱりつらいです。

 自分としてはいろいろと考えながら作業して、その成果を踏まえてメールを打ったりしているので、こりゃ知的活動のひとつでしょ、と言いたいところです。でも、こんなエクスキューズを書いていること自体が、メール作業を後ろ暗いと思っている証拠ですね。

 結局は自分が納得出来ればそれでいい、というだけなんですけど、そのことについてウダウダ書いている私がちょっとかわいそうな気もしてきました。と、自分を慰めてこの雑文を閉じることにします。


三ツ星へ行く (2012年10月10日)

 この週末、高尾山へ行ってきました。高尾山へ行くのは子供のころ以来ですから、多分四十年ぶりくらいなんだと思います。我が家から一時間くらいで京王線「高尾山口駅」に着きましたから、結構近いということに気がつきました。

 日頃からなんの運動もしていませんので、いきなり登山するなどできません。で、登りはケーブルカーで中腹まで行きました。一気に400m近く標高を稼げます。そこからほとんどは舗装された道とか階段で、さらにはお土産屋とか茶屋とかがたくさん建っているので、登山というほどのものではありませんでした。

MtTakao2012_01 MtTakao2012_02
登山途中で見かけた蝶           頂上の様子

 ミシュランによって三ツ星に選定された効果でしょう、山頂に着くとそこはもう「原宿」状態というほどの混雑ぶりでした。頂上のすぐ手前にはバカでかいトイレがあって、女房の話しではべらぼうに広くて、かつウオッシュレット完備でとても綺麗だったそうです。さすがは三ツ星!ということでしょうか。

 でも山頂を行き交うひとびとを見ていると、赤ちゃんを連れたひと、犬と一緒のひと、ハイヒールを履いたひとなどなど、都心と何ら変わりありません。これじゃあ、山の神がお怒りになるんじゃないかと、ひとごとながら感じ入りましたな。自然と親しむという感じも全然ありませんでした。

 頂上でお弁当を食べて早々に下山しました。あんまりもの凄い人出だったので、長居は無用ってな感じです。ただ、下山くらいは歩こうかということで、6号自然観察路というコースを選びました。

 このコースは沢沿いを下ってゆくコースで、ケーブルカーからの登山路と較べると大違いでした。木々の作るトンネルのなかを行くのは気持ちがよかったです。でも、みちは狭いし滑り易いし、登ってくるひとがどんどんやって来るので、すれ違いが大変でした。

 おまけに子供は若いだけあって敏捷なので、もうもの凄い速さでピューッとひとりだけ先に行ってしまいます。そりゃもう子天狗みたいでした。お〜い待てー、行くんじゃな〜い、と叫んでも聞く耳持たずに飛んで行ってしまいます。こちらはもう若くないのでそのスピードについて行けずに、途中で転びそうになったりしながら、はあはあ言いながら下山したのでした。自然を楽しむどころではありませんでした。

 やっと琵琶滝まで下って来て一息いれたときには、女房ともどもああ疲れた、という感じでした(子供は平然としていましたけど)。こうして頂上から二時間ほどで「高尾山口駅」に戻ったのでした。高尾山にはたくさんの登山路があるそうなので、また行って見たいと思います。

 でもその晩は足がだるくて、翌日は腰とか膝とかの関節が痛みました。日頃、一日一万歩近くは歩いているので、歩くことには少し自信を持っていました。だけど、登山(下山?)と通勤とでは使う筋肉が違うということでしょうか、ちょっとガッカリしました。


充電、そのあとオーパス (2012年10月4日)

 先週はポルトガルの15WCEEに参加した方が多かったせいか、外部で開かれる学協会関係の会議・委員会がほとんどなかった。後期の授業もまだ始まっていなかった。そのお陰で先週一週間は久しぶりに研究室にこもることができた。

 で、何をしていたかというと、直近の研究の進め方を練ったり、来年度以降の研究活動として取り組みたいことを考えたり、協同学習の方法論についての書籍を読んだりした。しかし最大の収穫は、落ち着いて他人様の論文をまとめて読むことができたことだろう。

 研究者であれば世の中の研究の動きには敏感でなければならない。それは間違いなく基本である。だが、日々の仕事に追われて自転車操業を強いられることが多いので、ゆっくり論文を読んでいる暇がない。結局、今まで培った知識を少しずつ排出しながら日々の研究活動に対応しているのである。

 しかし出てゆくばかりでは、資源はやがて枯渇してしまう。これは知識でも同じことである。そういう訳で、この一週間は貴重な充電のための時間となった。これでしばらくはまた凌げそうな気がして来た。ああよかった、というところである。

 そんなある日、同僚の角田誠先生がやって来て「北山さ〜ん、同世代だよねえ?」という。何だろうと思うと「山下達郎、聴いてる?」と聞く。で、私はピンときた。つい最近、山下達郎は『Opus(オーパス)』という4枚組だかのベスト・アルバムを発表していた。私は彼のアルバムは歯抜けのようにとびとびに持っているので、どうしようかなあと思っていた。11月にはユーミン(松任谷由実)もベスト・アルバムを出すっていうし、、、。

 その『Opus』を角田さんは持っていた(なんと素早いことでしょうか)。幸いにも貸して下さるというので、じゃあということで私のiPodのなかに納まったのであった(角田先生、ありがとうございました)。ところでオーパスというのは、音楽作品とか作品番号とかの意味らしい。よくクラシック音楽の巨匠の作品にOp.××とか振られているが、山下達郎もいよいよその境地に到達したのか、とちょっとばかりビックリもした。

 そのアルバムであるが、最初のほうの曲は懐かしいものばかりなのだが、だんだんと現在に近づくにつれて知らない曲もちらほらあったりした。で、一枚目のCDの三曲目に『パレード』という曲がある。この曲は私の知る限りでは、1976年発売の『ナイアガラ・トライアングルVol.1』という、その筋ではよく知られた、でも一般の人びとは多分知らないだろうコアなLPレコードに収録されていた。

NiagaraTriangleVol.1

 この『ナイアガラ・トライアングルVol.1』は大滝詠一がプロデュースして、それに山下達郎と伊藤銀次(ギタリストでアレンジャー)とが乗っかって出来上がったマニアックなアルバムである。ちなみにナイアガラ・トライアングルには第二弾があって、その『ナイアガラ・トライアングルVol.2』(1982年発売)には大滝詠一、佐野元春、杉真理の三人が参加していた。

 そんなところに出自のある曲がベスト・アルバムにチョイスされたことが、私には嬉しかった(まあ、どうでもいいことなんですけど)。でも山下達郎って、そもそもがマニアックなひとみたいなので、このあたりが彼の本領なのかもしれない。私にとっての達郎サウンドはやっぱり『Ride on Time』かな、何といっても初めて耳にしたときの印象が鮮烈だったからなあ。皆さんにとってのベスト・ソングはなんですか。


東京駅再生 (2012年10月3日)

 一昨日、所用があって東京駅を通過する機会があった。もう夕方であったが、復元されてお披露目された駅舎が美しくライトアップされて、写真を撮るひとびとで溢れかえっていた。一般に開放されたドーム部分にはさらに多くのひとが渦巻いていて、見上げて写真を撮っている。それはもう、通るのが大変なくらいであった。きれいに出来上がったな、という感想である。

 昨年11月に建築防災協会で現場視察を行ってから(こちらをどうぞ)約一年が経った。このときに撮影した写真を幾つか載せておこう。鉄骨レンガ造の躯体は地下に免震装置を挿入して浮き上がった。基礎梁したでしゃがんでいるひとが写っている写真を見ていただくと分かるが、高さが非常に低いため、免震層での作業は大変だったことだろう。免震デバイスの今後の維持管理等の作業は大丈夫だろうかと心配になる。

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TokyoStation2012-3 TokyoStation2012-4

 右上の写真はドームの頂部に吊り下げられた鷲の彫像である。足場が掛けられていたためにこのような近距離から撮影できた。左下はドームの上部での作業風景である。主として換気(あるいは暑さ対策?)のためと思われるが扇風機が随所に置かれていた。

 右下は既存の鉄骨梁を残したまま、RC梁によって補強した部分である。既存の鉄骨梁は大きく曲がっており、戦災の傷跡を生々しく伝えている。レンガ壁には戦火で焼けて黒焦げになった木片がそのまま挟まっていたりした。改修現場では何にせよ建設当時のものはそのまま使うという方針が徹底していたようである。


読みにくい (2012年10月2日)

 最近は足利ものの本を読んでいる。足利尊氏が室町幕府を開いたのだが、開幕当初から弟・足利直義とのいざこざがあったりして安定していたとは言い難い面がある。尊氏は足利義詮を二代将軍として京都に据えるとともに、源頼朝以来の鎌倉の地に足利基氏を関東公方として配置した。このことが室町幕府の統治機構としての不安定さをのちになって招来することになる。

 さて三代将軍を継いだのは義詮の子息の足利義満であった。このひとは天皇に代わって日本国王になろうとした人物として知られている。でもどんな人だったのか、私はほとんど知らない。つい最近、中公新書から『足利義満』(小川剛生著、2012年8月)というそのものずばりの本が出たので(私にとってのタイミングはどんピシャだったし)、じゃあ読んでみるかと購入した。

 ところがいざ読み始めると、難しい単語が頻出するのと、言い回しが馴染めないのとでどうにも読みにくい。読みにくいので読み進むのが苦痛になって、その結果すぐに眠くなってしまって本を閉じることになる。室町初期についての知識が私には乏しいため知らない用語とか人名とかが沢山あるのは仕方がないにしても、一般読者を対象とした新書としては如何なものだろうか。

 この本の著者は四十ちょっとくらいの年齢の方なので、もう少し読み易い本にしてくれたらよかったなあと思う。たまには難しい本も読まなくちゃと自分に言い聞かせながら、今日もこの本のページを少しずつめくっている。でも、難しいことをむずかしく記述したって、誰もついて来てはくれないんだがなあ、、、。


世界地震工学会議終わる (2012年10月1日 その2)

 9月下旬にリスボンで開かれていた第15回世界地震工学会議(15WCEE)が終わった(らしい)。私は宇都宮大学助手となった1988年に東京・京都で開催された第9回のWCEEに参加して以来、毎回論文を投稿してきた(2000年のニュージーランドのときは、アブストラクト審査で落ちて投稿できなかったが)。ただ2008年の北京、そして今回のリスボンはいずれも現地にはおもむかなかった。

 特に今回のリスボンは東京から17時間も飛行機に乗らないといけない、ということらしかったので、とても我慢できないなあと思って行くのを取りやめた。異国の地に行けば物珍しいものばかりなので、それなりに得るものもあるだろうし刺激も受けるだろう。ただ、日本のように治安が良いところはほとんどないだろうから、言語の問題もあって気疲れすることも甚だしい。なので、海外に出るということについては、最近とみに億劫になって来ている。

 で、高山峯夫さん(福岡大学教授)のページを見たら、次回(2016年)の世界地震工学会議はチリのサンティアゴで開催されることに決まったそうだ。IAEE(世界地震工学会)の事務局長を務めておいでだった本学の芳村学先生から、2016年の開催地として日本も立候補していた、ということを伺っていたので、チリに決まったと聞いてほっと安堵の吐息を漏らしたところである。

 16WCEE開催地に立候補するに当たって芳村先生から意見を求められたことがある、「おい北山、日本でWCEEやることにどう思う?」と。私はえっ立候補するんですかあ、と思った。実際にWCEEを日本でやることになったら、実質的な事務作業を私の世代が勤めないといけないだろう、というのが芳村先生が仰ったことであった。

 そこで私自身はそんな(得られるものがほとんどないだろう)仕事はしたくないですね、と本音を話したのであった(いつも書いているように芳村先生は梅村・青山・小谷研究室の先輩なので、二人で話すときには率直な物言いができる)。芳村先生も中堅世代に課される雑用のことをよく理解して下さって、立候補には慎重な姿勢をとって下さったようである。しかしJAEE(日本地震工学会)では川島一彦会長を始めとする誘致派が大多数を占めたようで、結局16WCEE開催地として名乗りを上げることになった、という経緯があった。

 高山さんのページには、開催地がサンティアゴに決まったことから新旧事務局の方々の写真が掲載されており、その中央に芳村学先生が写っていた。芳村先生はIAEEのSecretary Generalとしてご苦労なさっていたので、その任から解放されて肩の荷を下ろされたことだろうと推察する。芳村先生、ご苦労様でございました。

 こうして2016年にはチリのサンティアゴでめだたく16WCEEが開かれる。それはそれで大変よかったのだが、東京からサンティアゴに行くためにはなんと30時間以上かかるようだ。うひゃあ、一日以上かかるのか。多分4年後も論文は出しても会議には参加しないのだろうなあ、と思いました。


後期の授業スタート (2012年10月1日)

 猛烈な風をもたらした台風が昨晩のうちに通り過ぎ、今朝は青空が広がっています。今日から本学では後期の授業がスタートします。朝一に都市教養プログラムの『建築文化論』があって、今、正門そばの教室を覗いたら予定とおり鳥海基樹さん(都市計画学者)が講義をスタートさせていました。ご苦労さまです。ちなみに私の担当は11月です。

 例年のことですが、後期には講義・演習・実験が多くて、時間割上は月曜日から金曜日まで担当がびっしり入っています。水曜日の午後には『先端研究ゼミナール』がありますが、今年の少人数ゼミナールでは三年ぶりに「知の技法」読解を復活させる予定です。また、授業形態として協同学習(Collaborative Learning)を取り入れることができないかどうか、検討を始めました。今年は無理かも知れませんが、学生さんに今まで以上に自ら考えさせられるような授業が出来ないか模索しています。


出そろう (2012年9月27日)

 自民党総裁にA倍元首相が選出されて、これで二大政党のトップが決まりましたね。民主党のほうはゴタゴタしたけど結局は野田首相があっさり再選されて、盛り上がりませんでした。こんな難問山積の時期に総理大臣になってもいいことはない、火中の栗を拾いたくはないという感じがありありで、なんだか幻滅しました。少なくとも三年前の政権交代のときには民主党に期待を寄せましたから、この落差は一体なんなんだろうと思ってしまいます。

 いまの日本には民主党も含めて、残念ながらプロの政治家というものはいないように見えます。優秀な官僚たちの力を引き出して彼らを上手くドライブしながら、自分が責任を持って政策を実行する、という政治家本来の仕事ができる政治家がいない、というのは国民にとって不幸です。

 こういう時期だからこそ、大阪発の維新を名乗る政党に視線が集まるのだと思います。しかしこのことは、いつも言っているように非常に危険な兆候だと私は危惧します。第一次世界大戦後のドイツでナチスが台頭してきた状況と似ていると思うからです。維新という名称ひとつとっても、明治維新や昭和維新(2・26事件)という過去にまとわりつく(ある意味、狂信的な)右寄りの性向が思い出されて危うさを感じます。

 しかしA倍元首相の復活にはビックリしました。このひとはかつて総理大臣の職責を自ら放棄したという実績?があります。そういうひとが再び選ばれる、というのはどういうメカニズムなんだか、われわれ一般市民には理解不能ですな。I破さんが多くの地方票を獲得したにもかかわらず、(そのことを斟酌した政治家はいたと思いますが)多数の国会議員は彼らの永田町流論理でA倍さんを選んだ、ということになります。

 こうして役者は揃ったことになりますが、この先いったいどうなるのでしょうか。代わり映えしない民主党の執行部と、摩訶不思議なロジックによって蘇ったA倍さん率いる自民党。野田総理大臣が自分たちに不利な衆院解散を今するとはとても思えません。そうすると自民党が反発するのは必至で、、、という具合に今までの動きが繰り返されて、いわゆる負のスパイラルに落ち込むことは避けられません。出口が見えない、とはまさにこのことでしょう。


激 突 (2012年9月24日 その2)

 私はスポーツ観戦はほとんどしませんが、大相撲だけは比較的よく観ます。子供の頃から国技館(当時は浅草橋にあったような記憶がある)に何度か連れて行ってもらったこともあって、お相撲は結構好きです。

 で、昨日の千秋楽の結びの一番、すごかったですね。横綱・白鵬と大関・日馬富士が激突した大一番でした。日馬富士の最後の連続した攻めとそれを驚異的なねばりでしのごうとする白鵬、もう手に汗握るとはこのことです。日馬富士の投げ技に白鵬が土俵上をトットットッという具合に片足で半回転くらいしながら、ついに力尽きて白鵬から先に土俵に着きました。二頭の巨象が倒れ込んだようにも思えました。

 両者とも力を出し切った、正統的な大相撲だったので、観ているひとは誰もが大満足だったと思います。私も久しぶりに大相撲をみて、鳥肌が立ちました。こういう相撲が多くなれば、大相撲の人気も回復するんじゃないでしょうか。日馬富士もこれで横綱になるでしょうから、これからは両横綱による「白日」時代を築いて欲しいものです。


趣味と実益 (2012年9月24日)

 お彼岸になって、べらぼうに涼しくなりましたね。さて、トップページに記したように「BELCA News」9月号に短い巻頭言を寄稿しました。BELCA(ベルカと読みます)の事務局から依頼があったときには、なんで私に?と思いました。この協会は既存建物の維持保全一般に関する業務に従事しているところであり、わたしのような耐震構造屋はいわゆる傍流です。

 つぎに気になったのは、締め切りまで二週間ちょっとしかなかったことです。いくら一ページの原稿とはいえ、これはあまりにも短期間です。依頼があったのは7月下旬で、この頃は公私ともにべらぼうに忙しかったので、即決で断ろうと思いました。さらに既刊の巻頭言を拝見すると、みなさん維持保全に関連する真面目な内容を執筆しており、私はお門違いという感じも受けました。

 でも、ちょっと待てよ。日頃感じている『オジさんの主張』みたいなものは、折に触れてこのページに書いているじゃないか、ということに気がつきました。2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震によって発生した福島第一原発の爆発事故を契機として、一年半に渡って考えたことを書きついできました(ひと言でいえば、血の通った工学とは、という内容です)。

 こういう内容だったら、広く工学を扱っている「BELCA News」なら受容可能かなあ、というふうに判断して、このページのいろいろなところに記載した文章を切り貼りして、さらに少しは新しく書き足して出来上がったのが、この巻頭言でした。それゆえ忙しいなかで、かつ短期間でも原稿を提出することができたのです。BELCAの事務局は幸いにもこの原稿を受け入れて下さいました。
 という訳でここで書き溜めた文章が初めて役に立ちました。そんなつもり(した心か?)でこのコーナーを書いているわけではありませんが、趣味が実益を兼ねるというのも悪くはないですな。


カリキュラムの改革 (2012年9月20日)

 この夏、私の所属する建築都市コースのなかの旧・建築学科のメンバーでカリキュラム改革を検討し始めた。構造系の代表は高木次郎准教授にお願いして、私は一・二年生の基礎教育担当としてそのWGに参加している。

 そのなかでも大きな問題は、基礎教養プログラム(いわゆる教養科目で、全学の学生を対象に開講)に提供している二つの科目を建築都市コースの学生にも聴かせられるように再編する、という課題である。現在の提供科目では、建築都市コースの学生は受講できないように縛っており、その方針を180度転換しようとする大改革である。

 私が昨年から担当している『建築文化論』もその科目のひとつである。工学を生業とする私のような研究者が「文化」を語ることの苦労は昨年、このページに記載した。しかし難儀して講義内容を練り上げたので、それなりの授業はできると自画自賛している。

 ただ、これらの科目を上述のように専門科目の入門編としても機能させようとすると、とたんに計画系とか構造系とか環境系といった“建築学の縦割り”の意識が入り込んでしまうのはどうしようもないのだろうか。そのような縄張り意識みたいなものから解き放たれた現行のスタイルのほうが私は好ましいと思ったのだが、これは少数意見だったようであっさり却下された。

 現在のところ、一年生に対する専門科目が少ないので、それを解消することも改革のひとつの目的である。構造系では三年生後期に講義・演習・実験が集中しているので、これを改めたいという志向がもともとあった。そこで二年生から始まっている構造力学の一連の講義を一年前期に前倒しする、という思い切った案を提示した。こうすれば二年生までに不静定力学を修了できるので、三年前期にRC構造とか鉄骨構造などの一般構造についての講義が可能になる。

 三年後期に開講している『先端研究ゼミナール』についても議論している。これは2005年に首都大学東京が開学してから設けられた新しいゼミナールであるが、このような演習科目の実践例を、当時名古屋工業大学におられた久保哲夫先生から伺って、それに刺激を受けて本学でも立ち上げたと記憶している(これは私自身の経験であって、ほかの先生方がどのように考えていたのかは知らない)。

 『先端研究ゼミナール』は2007年から少しづつ形態を変えながら今日に至っているが、基本的には各先生がひとり30分の持ち時間でそれぞれの研究分野についての紹介を行なって(これに1ヶ月間を費やす)、その後の六週間くらいをプレ卒論みたいなゼミナールに費やす。

 このプレ卒論の実践では、各教員当たり3、4名の学生が配属されて、それぞれの先生の方針のもとに短期研究に取り組む。しかしこの配属は今までのところ、くじ引きによって決めているので、学生諸君・先生方双方から不満が出ているという。結局のところ、『先端研究ゼミナール』に対して先生方がそれぞれにバラバラの考え方を抱いているため、指導方針が統一されていない。これをあえて統一しようとすると空中分解は避けられないため、そのような試みは成功しない。

 このような実態があるため、現行の『先端研究ゼミナール』に対しては効果がないから廃止したほうがよい、という意見に代表されるように、否定的な意見が多いようだ。

 しかし私の意見はそうではない。私はこのゼミナールにそれなりの意義を見出している。少数の学生さんたちと個別具体のテーマについて議論していると楽しいし、そのような議論を通して彼らに論理的な思考のための方法論とか、論文を書くときの約束事やルールを指導できる。それは彼らが四年生になって本当の卒論に取り組むときに多少は役に立つのではなかろうか(まあ、聞いてみた訳ではないが、、、)。私の研究室における過去の取り組みについては以前に書いたのでそれをご覧いただきたい(ここそこあそこなど)。

 ただし、議論のなかで登場した、三年後期に研究室配属を決めて個別の卒論指導を開始する、というアイディアは一考の価値があるように思う。私学のなかにはそのようなカリキュラムを実施しているところもあることから、それなりの利点があるだろう。

 こうして問題は卒論(講義名称は『特別研究』だが)へと広がってゆき、もう少し行けば学部・大学院相乗り授業へと進み、さらには大学院のカリキュラムにまで波及する。ここまでくると完全に発散してしまうので、ある程度のエリア化と割り切りとが必要であろう。今までの経緯もあるので、そう簡単にカリキュラムを大改変することはできないだろう、とも考えられる。今後の議論の展開が気になるところである。


夏の鍛錬 (2012年9月18日)

 建築学会大会が終わりました。今年は名古屋大学でしたが、名古屋はホテルが多いし、名古屋大学は地下鉄ですぐにアクセスできますから、とても便利で良かったです。大学の中に地下鉄の駅(その名も『名古屋大学駅』とそのまんまです)があって、恵まれた立地です。例年だと駅から超満員のバスに乗って、みたいなことが多いですから、学会の発表会場に到達する前にグッタリ、ということは避けられるかなと思いました。

 でも、今年もやっぱり疲れました。駅を出てから目的の会場まで相当に離れていて(まあ、大学構内が広いのは仕方ないことですけど、、、)おまけに強烈な暑さが続いていたせいです。校内の建物の多くは耐震補強されていましたが、ピタコラム(下の左の写真)が目立ちましたね。やっぱりお膝元だけのことはあるなあ、ってな感じです。

Nagoya_Univ01 Nagoya_Univ02

 初日の午前中には原子力建築部門のPD(Panel Discussion)にパネリストとして参加しました。誰も来ないんじゃないかとも思いましたが、そこそこの入りでホッとしました(まあ、ムラのひとが多かったようですけど)。用意したハンドアウト150部もPDが始まる前に売り切れたそうです。討論の時間は20分くらいしかとれませんでしたが、差配役の兼近稔さん(鹿島)の周到な準備?のお陰で、スムースに進みました。

 会場で同級生だった今村晃くんに久しぶりに会いました。ムラのひとですが、福島第一原発にかかわる仕事で忙しそうでした。多分、われわれがリタイアするまでその仕事は続くのだろうなあと予想します。

 PDのあと、建築学会の「建築雑誌」から原子力建築についての寄稿を要請された件について、原子力建築運営委員会の瀧口克己主査(東工大名誉教授)や梅木芳人さん(中部電力)たちと打ち合わせしました。「建築雑誌」については昨年の今頃、われわれの運営委員会と編集委員会とのあいだにちょっとしたやり取り(というか、一方的な記事を載せられたこと)があって、あまりよいイメージを抱いていません。そうではありますが、原子力建築運営委員会の存在を学会員の皆さんに知っていただくよい機会でもありますので、寄稿を承諾したという経緯があります。

 それを終えて、あわててRC部門のオーガナイズド・セッションに向かいました。でも建物が古いせいかプランが複雑で(駒場時代の教養学部2号館を思い出しました)、目的の教室になかなか到達できません。石木君の発表があるので気が急くのですが、やっとたどり着いたときには石木君がまさに発表しているところでした。

 で、午後からは「RC建物の保有水平耐力計算規準(案)」の条文作成についてのWGを開きました。査読意見が出揃ったので、それにたいする修正案などをどうするか相談するために集まってもらいました。でもそのための会議室などあるはずもなく、仕方がないので休憩スペースの一角に陣取って議論を始めました。石川裕次さん、前田匡樹先生、田才晃先生などが忙しいなか参加して下さいました。そこでああだこうだ議論して、ひと通りの議論が終わったときにはもう午後6時近くになっていました。発表のセッションも終わったらしく、回りに人気はなく閑散としていました。ああ疲れた、というのが偽らざる気分でした。

 二日目の午前中は落合くんと鈴木清久くんの発表が「梁」のセッションでありました。例年のことですけど、発表時間が5分ではホントに何も説明できませんな。他人の梗概を予め読んでくるような殊勝な(ヒマな?)ひとなどいる筈もありませんから、質問も出る訳がありません。本当は現役の学生さんなんかはしっかりと他人の梗概を読み込んで、セッションの場でガンガン質問すべきだと思います。そうだな、来年からは我が社の大学院生にはそのようなオブリゲーションを課すことにしましょうか。

 二日目の午後は豊田講堂でRC部門のPDがあって、こちらもパネリストとして参加しました。去年に引き続いて二年連続のダブル・ヘッダーです。ちなみに豊田講堂は槙文彦先生(私が学生の頃、設計の講評を受けた先生)の作品です。槙先生のデビュー作だったと記憶しますが数年前に改修されて綺麗になり、今も現役として使い続けられているのは立派ですね。写真では知っていましたが、実物を見たのは初めてです。想像していたよりも大きいなあ、というのが第一印象でした。

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    写真 豊田講堂(槙文彦先生・設計)

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 PDが始まる前に会場内で岡田恒男先生をお見かけしたのでご挨拶したところ、「ちょうど良いところで会った、今あなたの梗概を読んでいたところだよ」と言われ、ひとしきりご質問やご意見を伺いました。私はこの日、耐震補強したにもかかわらず2011年の地震で被害を受けたRC建物についての報告をすることになっていましたが、耐震診断や耐震補強を多年進めてきた日本の第一人者である岡田先生とお話しできてよかったです。

 PDでは多数のパネリストが熱弁を振るったせいもあって(どの講演も興味深い内容でしたが)、討論の時間がほとんど取れなかったのは残念でした。今まで多くのPDを見たり聞いたりしてきましたが、討論がこんなになかったPDは初めてです。これじゃあPanel Discussion じゃなくて単なるPanelだよう、ってな感じでした。盛り沢山の内容だったので、まあ仕方ないでしょうけど、、、。

 RC構造運営委員会主査の壁谷澤寿海先生が主旨説明のときに仰っていましたが、このPDのパネリストとして谷昌典さんとか壁谷澤寿一さんのような若手が混じっていたことは、これからのRC界の発展を考えれば望ましいことだったと思います。この日の晩は研究室の学生諸君(M2:石木、落合、鈴木、M1:島の四名)と飲んでバカ話しで盛り上がりました。

 三日目は、プレストレスト・コンクリート(PC)構造のセッションで自分自身の発表がありました。梗概2編を投稿したのですが、(その2)の村上友梨さんが不参加でしたので、司会の西山峰広先生(京都大学教授)にお願いして、2分だけ余計に時間をいただきました。たった5分だけじゃあ実験結果をほとんど説明できなくなってしまうからです。正確に言えばルール違反ですが、西山先生のご配慮に心から感謝いたします。

 いつものように勝手知ったる人たちばかりですので、リラックスして発表できました。PCのソサイエティはRCよりもさらに狭いですので、知り合いばかりです。発表が終わってから、中塚佶先生や鈴木計夫先生からいろいろとコメントをいただいたのもありがたかったですね(この実験結果はホンマでっか?、などとも言われましたが)。

 こうして私にとってはハードな三日間が終わりました。もう、ホント疲れました。来年の建築学会大会は北海道で開催されるそうですが、来年はPDの依頼が来ることなく気楽に参加できることを祈っています。


今日という日 (2012年9月11日)

 いま電車内読書で吉村昭著『陸奥爆沈』(新潮文庫)というノンフィクションを読んでいる。太平洋戦争中の昭和18年に戦艦「陸奥」が謎の爆発事故を起こして沈没した、という事実についてのドキュメンタリーである。ちょっと時間があいたときに半蔵門駅の前の本屋で衝動買いしたのだが(安かったので、、、)、これが結構面白くて、電車のなかで読んでいると目的の駅で降りるのを忘れるくらいである。

 で、そのなかに旧日本海軍の軍艦で起こった火薬庫や弾薬庫の火事あるいは爆発という事件についてのレポートも載っていた。それによるとなんと今日9月11日に、佐世保軍港において軍艦「三笠」の火薬庫が爆発して、瞬時にして沈没していたのである。例の日本海海戦で圧倒的勝利を成し遂げ、戦勝に沸き立つまさにそのときに事件は起こったらしい。

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横須賀に行ったときに撮影した軍艦「三笠」の煙突(2011年)

 軍艦「三笠」が沈没した理由は結局分からなかったが、水兵たちによる失火が原因らしいとも書かれていた。その後も「三笠」では火薬庫の火災が発生しており、「三笠」は受難の軍艦だったといえよう。軍律の厳しい軍隊といえども「おかしいひと」はいたらしくて、人間を管理することがいかに難しいかがこれをもっても分かろうというものだ。


木のはなし (2012年9月10日 その2)

 以前に我が家の庭先にあるハナミズキのはなしを書いた。随分古くからそこに立っていて、街の移り変わりを見てきたであろう木である。しかしいろいろと思い悩んだ末に、その木を伐ることになった。

 始めは、町内のランドマークになっているだろうし、綺麗な白い花が咲くので保存しようとした。だが、移植するためには結構な費用がかかること、移植しても根付くかどうかあやしいこと、晩秋から冬にかけての落ち葉の掃除が大変なこと(これはご近所の皆さまに多大な迷惑をかけていた)、などを勘案して『泣いて馬謖を斬る』(意味が違うって)ことになった。

 大学内の木々が立て続けに伐採されたときに「なんて野蛮なことをするんだろう」と、こちらも以前に書いたのだが、まさか自分自身が同じことをするとは思わなかった。まあ、私ほど家内はこの木に思い入れがなかったし、何よりも「お金」の問題が重かった。という訳で、この白いハナミズキは我が家から去って行った。残ったのは対の紅いハナミズキとレモンの木、それに小さなバラの木だけであった。

 別のはなしを。学内のいつも通るけもの道に写真のような紫色(いろは竜胆に似ているような感じ)の可憐な花が咲いている。お盆過ぎ頃からポツポツと咲き始め、今も結構な数の花が開いている。きれいなので、足を止めて見ているひとをときに見かける。

TMU flower01 TMU flower02

 でも、この木には名札が付いていないため、私には名前が分からない。ご存知の方があれば教えて下さい。


悲しみの記憶 (2012年9月10日)

 今年の7月に広島に行って、平和記念資料館に立ち寄ったことを以前に書きました。そのときに感じたのと同じ心の震えが、梯(かけはし)久美子さんの小文『薔薇のボタン』(学士會会報、No.896、2012-V)を読んで蘇りました。原爆で亡くなった少女が着ていた、薔薇のボタンがついた一枚のブラウスにまつわる短いお話です。

 あのとき私は平和記念資料館のなかで、当時の中学生くらいの男の子が着ていた帽子、服、ズボンそして靴の全身像の前に立っていました。服はボロボロになっていました。そこに至るまでにたくさんの写真とか遺物とかを見てきて、暗く沈んだ気分で歩を進めて来たのでした。

 そのとき、その像の脇に坐っていた、多分ボランティアの方だと思いますが「これは三人の男の子が着ていたものをひとつに合わせたものなんですよ。皆、亡くなりましたが」と仰ったのです。それを聞くともう私は、ポロポロと泣けてくるのを止めることが出来ませんでした。なんて可哀想なんだろう、前途有望な若者がなんの咎もないのに理不尽にも命を奪われるとは。

 そのときの悲しみの記憶が、梯さんの随筆を読んで再び蘇ったのです。平和記念資料館のなかで直接に目に触れたときに感じた悲しみが、梯さんの文章を読むことによって同じように励起されたのです。梯さんは淡々と筆を進めておいででしたが、そこにはひとの心に直接切り込むような力強さがありました。『ペンは剣よりも強し』と言いますが、文章の持つ力の素晴らしさを再認識しました。


9月になって (2012年9月6日)

 9月になっても暑いです。でも、夜には秋の虫の音とセミの鳴き声とが混ざっていて、季節の変わり目だということを感じます。夏休みあけの研究室ゼミを昨日開きました。昨年とはかわって、多くの学生さんが資料を提出してくれました。かなり研究が進んだひともいたので、嬉しかったです。

 大学院の入試も終わりましたので、これから本格的に研究に取り組んで欲しいと思いますね。皆さんの奮闘を期待しています。


輝く海
 (2012年9月3日)

 まだまだ暑い八月末に、中部電力の浜岡原発に行ってきました。東京から東海道新幹線の「こだま」に乗って1時間40分、掛川駅に着きました。久し振りの「こだま」でしたが、各駅停車なので停まるたびに「のぞみ」などに抜かされます。で、停車中の「こだま」の脇を超特急が通り過ぎるとき、もの凄い衝撃波のせいで車両がドンッと傾いて細かく振動します。これは何度体験しても気持ちのよいものではありませんでした。

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 さて、掛川駅からは車で遠州灘に向かって進みます。道の左右には水田がひろがって、稲穂が黄金色に揺れています。ああ、ここは昔から物成り豊かなところだったなあ、と感慨に耽ります。途中、高天神城跡はこちら、という標識を見つけて、えっこんなところにあったのか、とまたもや感慨もひとしおです。高天神城は戦国時代、武田勝頼と徳川家康との死闘で有名な山城で、一度は行ってみたいなあと思っていました。思いがけずその存在に気がついたわけですが、今日は仕事ですので黙って通り過ぎました(残念!)。

 ちなみに掛川駅のそばには、資生堂アートハウスという名建築が建っています(新幹線からも見えますのでご存知の方も多いでしょう)。谷口吉生さんの設計です。そこにも行きたかったのですが、アッサリ却下されました(そんな時間はハナからなかったのです。原発見学が分刻みのスケジュールになっていたことに、後ほど気がつきました)。

 海岸に近づくにつれて、大きな風車が並んでいるのが見えてきました。海からの風が強いところらしく、中部電力が風力発電を試みているそうです。技術改良を重ねて、効率よく安定的に電力を供給できるようになればよいのですが、、、。

 さて原発に到着して、最初に所長さんから浜岡原発の沿革についてお話を伺いました。いつも思いますが、原発を建てるのは大変です。特に地元の方々から合意を取り付けるのに相当の時間を費やしますが、多くのひとたちが悩み、真剣に考えた結果として、原発は建っているんだということに改めて気がつきます。なお原発構内での写真撮影は禁止ですので、写真はありません、ご了承を。

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                   緑色の部分が旧相良町(現・牧之原市)

 で、原発の立地についての説明を伺っているとき、近隣の町に相良(さがら)という文字があるのに気がつきました。そのとき私のなかでは、ひとりの人物が思い浮かびました。それは江戸時代後期の幕府老中だった田沼意次(たぬま おきつぐ)です。田沼意次というと、ああ賄賂政治家か、と思うひとが多いでしょうが、そうではない、という説も多々あります。

 その田沼意次は軽格の旗本から立身出世して、ついに一万石の大名になるのですが、そのときに封地として将軍から与えられたのが遠州・相良の地だったのです。そして彼はそこに相良城をつくります。そのあたりの話しは平岩弓枝著『魚の棲む城』(新潮文庫)にいきいきと綴られています。

 こういう知識が頭の中にはあったのですが、肝心の相良の地がどこにあるのか、詳しくは知りませんでした。やはりその地に行って見て、知識は初めて強固なものとなりシックリ来るようになるのだ、ということを実感しますね。

 同じことを、浜岡原発でのさまざまな津波対策工事を見ることによっても感じました。つい先日の内閣府の発表では、東南海地震によって浜岡原発には19mの津波が襲来するそうです。でも、現在中部電力が建設中の防波壁の高さは18mで、数字上は1m足りません。こういう数字は分かり易いので、それじゃダメじゃないか、と世の中は噛み付きます。でも、ちょっと考えれば分かりますが、津波の高さ19mというのは、多数の仮定のもとで計算されて出てきたひとつの数字に過ぎません。

 もちろん中部電力でも、19mの津波が来たら防波壁を乗りこえて海水が流入することは分かっています。そこで彼らは、津波対策の多重化を進めています。それは福島第一原発の事故から得られた貴重な教訓のひとつであり、具体的には個別建屋の防水性の強化、冷却水の確保、外部電源の強化など幾重にも対策を打っています。

 このような多大な労力と努力とが実を結ぶことはあるのか、誰にも分かりません。浜岡原発で働くひとびともおおかた同じように思っているのでしょうが、彼らの顔は思いのほか明るく、生き生きとしているように私には思えました。自分たちの出来得る限りのことを誠実に実行しているのだという誇りのようなものさえ感じました。

 こうした行為が最新の科学技術によって評価されて、市井のひとびとが理解できるような形で社会に対して公開されること、それが大切なんじゃないでしょうか。その上で、浜岡原発再稼働の是非についての民意を問うべきであると思います。

 この日、原子炉建屋から見た遠州灘はキラキラと眩しく輝いていました。この静かな海が牙をむいて原発に襲ってくることがあるのだろうか、と思ったくらいです。でもつい最近、われわれはそれを体験したばかりです。想像することが大事である、などとこのページでも書いていますが、人間の想像力なんて多寡が知れてるのかも知れません。


ムラを考える (2012年8月29日)

 3.11に端を発した福島第一原発の事故以来、原子力発電に関わるソサイエティのことがにわかに注目されるようになった。特に原発の建設や維持にかかわる電力会社とかゼネコンに属する人たちのことを「原子力ムラの住人」などと呼ぶ。自分たちだけの殻に閉じこもって外部のひとびとの干渉を排除するかのような態度が見え隠れする、という排他性がムラという呼称の根源であろう。江戸時代の村では、幕府による人別帳を用いた人員統制が峻烈を極めたため、村の外からやってくるエトランジェ(いわゆるよそ者)を強く警戒して排除したためである。

 私が発電用原子炉施設の耐震設計にかかわるようになってから約十年が経つが、その当時も彼らの言うことが彼らの分野でしか通じない『言語』であることが多々あった。そういうときわれわれ学者たちから、「それって、原子力ムラの論理ですよね」なんて酷評されたものである。すなわちそういう体質は、世間一般から見たら「ムラ」の一員のように見える(実際、半分は足を突っ込んでいるのだが、、、)われわれ学者たちでさえ常に感じていたのである。

 ということで現在は「原子力ムラ」が脚光を浴びているが、では「ムラ」はそれ以外には存在しないのだろうか。こんなことは実は今まで考えたこともなかったのだが、先日、某センターの会議の場でひょんなことから「ムラ」の存在が浮き彫りになったのである。あれっ、これって「ムラ」そのものなんじゃないの、っていう、、、。

 詳しくは書けないが、その会議の場で使っている用語が、その場でしか通じない略語になっていて、そんなことはトンとご存じない私が「この用語は間違っていま〜す」というと、「いいんだよ、ここではこの用語が慣用されているんだから」と言われたのである。

 ここはお役所の出先機関みたいなところで、日本の建築行政に大きな影響を持っている部署である。そういうところで、そこでしか通じない用語が使われているって、まさに「ムラ」そのものじゃないか、と思ったのである。ここまで考えて、私は気がついた。日本のお役所自体が実は巨大な「ムラ」そのものなんじゃないのか、と。

 誰も言わないけど、多分これは的確な指摘なんだと思う。相手があまりにも巨大でかつ絶大な権力を持っているため、口をつぐんでいるだけなんだろうな。市民生活のすみずみまでいろんな「ムラ」がひっそりと息づいていて、それが現在のわれわれの暮らしをガチガチに縛っているのかと思うと、なんだかゾッとしたのであった。


規準の改定 (2012年8月28日 その2)

 建築学会では今、『原子力施設鉄筋コンクリート構造計算規準・同解説』(2005年刊行、RC-N規準と呼ばれる)の改定作業が着々と進んでいる。親元のRC規準が2010年に全面改定されたために、それに整合するようにRC-N規準のほうも改定しておこう、というのがその趣旨である。

RC_N Standard by AIJ

 こちらの改定作業は、学会における他の指針とか規準とかの制定・改定作業とは異なって、原発建設に関わる電力会社とかゼネコンとかのエース級の人たちがチームを組んで当たっている。そのため私のような学者は、自分でウンウン唸って文章を作ったり手を動かしたりしなくてよいので、その点はとても楽でありがたい。私は巨大構造物の寸法効果が気になるので、そのあたりを強調して意見を言っておいた。

 発電用原子炉施設が今後、日本において建設されるのかどうか、私は知らない。しかしアメリカの例を引くまでもなく、使われなくなった先端技術の末路は哀れなものである。技術の伝承が為されずに、それまで築いたせっかくのノウハウや技能が忘却の河を流れ去るのである。

 日本の原子力技術にそのようなことがあってはならないと思う。たとえ新規の原子炉建屋が建てられなくても、廃棄燃料の貯蔵施設や廃炉に必要な諸施設は今後も作り続けなければならない。そのようなときに、RC-N規準は必ずや役に立つはずである。将来になって困らないように、そのときのために準備をしておくのである。

 そのRC-N規準であるが、これから原子力建築運営委員会や構造本委員会で査読を受けて修正等を加えたのち、2013年9月に発刊する予定で作業が進んでいる。


原子力発電のゆくえ2 (2012年8月28日)

 国会議員の約40%が2030年時点で原発をゼロにするべきと考えていることが朝日新聞に載っていた。まあ、衆院選も近いんじゃないかとの憶測が飛び交う永田町だから、脱原発を唱えないと次の選挙には勝てないのではないか、という恐怖感が先に立っているようにも見える。

 本当に原発をゼロにできるならば、それはそれでご同慶の至りである。しかしそれでは、原子力発電に替わってCO2を排出せず「地球に優しい」ような新しいエネルギー生産手段はあるのだろうか。太陽エネルギーの利用を始めとして風力発電、海流発電、地熱発電、等々いくらでも「夢」を語ることは可能だが、それらのいずれも今のところ電力の安定供給にはほど遠い状況にある。

 いつも書いているように、現在のわれわれが享受しているエネルギーによる恩恵を綺麗さっぱり捨て去って、「自然に帰る」ような生活に戻ることが可能とはとても思えない。そうであるならば、もっと冷静に将来のエネルギーについて議論すべきである。それも、ちゃんとしたデータや現状分析に基づいた科学的な議論を、である。

 残念ながら現状は、相当程度に冷静さを欠いているとしか思えない。それまでCO2削減と言っていたのに、あれはどこへ行ったんだろうか。原子力発電をゼロにした代償として、石油や石炭をガンガン燃やして電力を生産することを世界が許容するとでも言うのだろうか。

 大切なことは、感情に流されずに具体的な数値とか、展望とかを基礎に据えて考えることである。私だって、2030年までに太陽エネルギーの効率的採取が可能なのかどうか、可能だとしてそれによって発電される電力量がどの程度なのか、などについて承知しているわけではない。まず、そういう現状認識をしっかりした上で、議論しましょうよと言いたいだけである。

 こういう風にいうと、世間からは叩かれるんでしょうか。ただ、お前は福島の悲劇を体験していないからそんなことを言うんだ、という批判に対しては、返すべき言葉を持ち合わせていないことも事実である。結局、冷静な科学技術と熱い人間感情との狭間でわれわれはどのような合意を得ることができるのだろうか、という重い問いかけが横たわるのである。


夏休みの宿題 (2012年8月27日)

 そろそろ夏休みも終わりです。横浜市の小中学校は8月27日から授業が始まるそうです。我が家の子供は9月からですが。で子供に、夏休みの宿題はもう終わったのかどうかよくよく聞いたところ、まだ終わっていないということが判明しました。早くやっとけよ、と言っておいたのに、遊び呆けていたみたいです。

 自分自身が小学生だった頃、どんな夏休みの宿題をやったのか、全然憶えていません。水とか塩水とかに釘を沈めて、釘がどのように変化するのか観察する、という自由研究?をやった記憶はありますが、もちろんこれは父親が率先したものです。中学生のときには水彩画を描いたり、美術の宿題でオブジェを作ったりしたことがありましたね。音楽の宿題でクラシックのレコードを聴きまくって、その感想を記したレポートがSAと評価されたこともありました。

 高校生になると夏休みの一日だけ徹夜して勉強する、という行事を自分に課して三年間実践しました。小説を読んだり、漢文の副読本を一気に読破したりしたことを憶えています。中学生までは徹夜なんかしたことがなかったので、夜の闇が弱まっていって、やがて空が白み始めるのをなんだか神秘的にさえ思ったものです。

 斯様に日本の子供たちにとっては昔からの頭痛の種である夏休みの宿題ですが、アメリカの小中学校にはそんなものはないそうです。オンとオフとの区別がしっかりしている、というお国柄を感じますな。ワーカホリックな日本人は休むことに罪悪感を抱くため、子供たちにもその習性を押し付けて来たのかも知れません。夏休みの宿題ひとつをとってみても、国民性が垣間みられて面白いですね。


探求する姿勢 (2012年8月23日)

 今まで源頼朝の画像だと信じられてきたものが、実は足利直義像である、という衝撃的な仮説について、このページに紹介したことがある(こちらをどうぞ)。子供の頃読んだ、日本の歴史についての教科書や読み物に必ず載っていた、あの厳めしい肖像画は源頼朝である、と刷り込まれて来たのだから、それは別人だよと言われれば私ならずとも驚嘆することと思う。

 で、その仮説をさらに強固に支持する書籍が世に出た。黒田日出男著『国宝神護寺三像とは何か』(角川選書、2012年6月)である。この仮説の提唱者である米倉迪夫は、主として描かれている画像の分析からこれは足利直義であるとした。それに対して黒田は、三像が描かれた絹の大きさ(縦143cm、横112cmと、かなり大きい!)からスタートして、足利直義が1345年4月23日に神護寺に奉納した願文に決定的な証拠を見て取った。

 そこには「征夷将軍ならびに予の映像をえがき、もってこれを(神護寺に)安置す」と書かれていたのである。征夷将軍とは足利直義の兄・足利尊氏のことである。そして黒田は、弘法大師と八幡大菩薩を一対にして画いた「互いの御影」が神護寺にかつて存在したこと、そのことを足利直義に教えたのは夢窓疎石だったと思われること、足利直義は兄・尊氏との二頭政治を続けることを願っていたこと、などを次々と明らかにしていった。

 その推理は非常に緻密で、読んでいてグイグイと引き込まれた。ちょっと強引じゃないかと思うところもあったが、なによりも江戸時代初期から信じられてきた「通説」に対して、事実はそうじゃないんだ、という著者の強い思いと意思とが感じられた。

 このページでもよく書いているが、常識を疑うこと、知的好奇心を持つこと、そして探求する姿勢を常に保持すること、これらが研究者には必要である。黒田によればこの著作は四半世紀にわたる思惟の成果とのことだが、著者の旺盛な探究心には本当に頭が下がる。そして足利直義像、足利尊氏像および足利義詮(尊氏の次男で、室町幕府二代将軍)像がセットになって神護寺に納められた理由について、大きなストーリー(仮説)を組み立てた想像力がなにより素晴らしいと思う。

Ashikaga_Tadayoshi Ashikaga_Takauji
  足利直義像(伝・源頼朝像)    足利尊氏像(伝・平重盛像)

 しかし、著者自身が最後に示しているが、これらの卓抜した画像を残した画家は誰なのか、という謎が依然として残っている。これだけの大作を遺したひとが誰だったのか分からない、というのも不思議な気がする。また、足利直義は自分自身を弘法大師(あるいは聖徳太子)の再来と信じ、兄・尊氏は八幡大菩薩がこの世に現れたもの(この本のなかでは『化現』と記述)と信じた、と著者はいうのだが、神仏に対する信仰があつかったこの時代のひとがそんな畏れ多いことを考えて、あまつさえ実行するだろうか、と私などは思ってしまう。

 それにしても著者の言う通りだとすれば、足利直義というひとはじつに興味深い人物である。人格者といってもよい。最後は兄・尊氏に破れて失意のうちにこの世を去ったのだから、結局彼も敗者であった。これもいつも言っているのだが、歴史は常に勝者によって作られる。この原則に立てば、足利直義の事跡が抹殺されて現在にはほとんど残っていない、伝わっていないのもむべなるかなと思う。

 伝源頼朝像が本当に足利直義像だとすれば(黒田の著作を読めば、その感は益々深くなるが)、神護寺に奉納されてから現在までの660余年のあいだ、その像は一体なにを見てきたのだろうか。肖像画は沈黙してなにも語ってはくれない。それこそ、『沈黙の肖像画』である。

 なお足利直義と兄・尊氏については、こちらにも書いてありますので、ご興味のある方はどうぞ。


サイド・ビジネス (2012年8月20日)

 お盆は過ぎましたが、もの凄い暑さですね。お昼に外に出たら、国際交流会館の前にパトカーが2台ほど停まっていました。いかん!これは事件か、でもパトカーが学内まで入るのも一昔前なら相当の問題になったのになあ、とか思いながらよく見ると、どういうわけか国際交流会館の入り口の上に『○○警察署』という取って付けたような看板が出ています。

 これで、どうやら映画かテレビか何かの撮影らしい、ということが分かりました。学内の施設をなにかの撮影のために貸し出しているのでしょう。本学も公立大学法人になって「金儲け」することを求められるようになりましたので、こんなサイド・ビジネスでも幾分かの収入はあるのでしょうね。

 でも、崇高なる学問の府がなんだか俗塵にまみれているようで、私はいい気分がしませんな。近づく人をガードマンがいちいちチェックしているのも気に食わないです(余計ですがこういう業界の人間が、街頭で傍若無人に振る舞うことには常々眉をひそめています、自分を何様だと思っているんだろうか)。

 ただ、こんなことを言うと、大学に入学してくる学生諸君は「お客さま」である、なんて言っている先生がたにまた怒られそうなので、この辺で止めておきます。これはもうイデオロギーの問題だろうと思いますから。


澄んだ空 (2012年8月16日)

 お盆で社会活動がひと休みしているせいでしょうか、今日は多摩川べりから富士山がよく見えました。黒々としていますが、上のほうに少し白いところも見えました。残雪でしょうか。

 さて、日本建築学会の大会では今年から論文集がDVD-Romだけになりました。ただし希望者は別途費用を払って紙版の論文集を手に入れることもできます。以前に書いたように私は論文集に関しては紙版派なので、迷わずに購入しました。

 先日のPC(プレストレスト・コンクリート)構造運営委員会のときに、紙版の梗概集にどれくらい注文があったかという表が配られました。で、私が購入したのは構造IVという部門なのですが、申込数はたったの22冊だったのです。このなかには大学図書館とかもあるでしょうから、個人として申し込んだのはもっと少なかったと想像できます(そのひとりが丸田誠さんだということは、先日はからずも分かりました)。ちなみに一番多かったのは建築歴史・意匠部門の35冊でした。全17部門を合計しても注文数はわずか289冊でした。

 いやあ、びっくりですね。もっとも、紙版をゲットするためには追加の支出を要するので、当たり前なのかも知れませんが。でも使い勝手を考えれば、研究室に一冊おいておけばどれだけ役に立つことか、ということは以前にも書きました。

 今年も子供が近所の農園でブルーベリーを小さいバケツ一杯分も摘んできました。でも彼は摘むだけで、全然食べません。量り売りなので摘んだだけ料金を払わないといけません(結構な金額です)。ですからもったいないので、毎日せっせと食べています。ことしのブルーベリーは昨年よりも美味しいような気がしますが、気のせいかな。そろそろなくなってきたので(って、こちとら一週間も食べ続けたんだぞ)、また農園に行くとか言っています。どうしたもんかな〜。


今年のお盆2012 (2012年8月15日)

 お盆です。蒸し暑いです。ゆっくり休みたいところですが私はと言えば、今年もまた登校してレポートの採点とか成績付けなんかをやっています。ここ数年、同じようなお盆を迎えていて、今年こそはお盆前に全ての成績を付け終わるぞ、と意気込んでいました。

 学部の『建築構造力学1』のほうは期末試験の翌日には採点を完了して、ウエッブ経由で成績を登録し、好調なスタートを切ったと我ながら思いました。ちなみに今年の平均点(57点でした)は一昨年に較べて6点ほど下がりました。以前のこのページに学生たちがちゃんと理解しているのか不安だ、と書きましたが、残念ながらその危惧が現実となってしまった、という感じです。

 こうして学部試験のほうは軽くクリアしたのですが、大学院のレポートのチェックに予想以上に時間を取られています(まだ終わっていません)。昨年はサバティカルで大学院の講義をやらなかったため、今年は二学年分の大学院生が受講しました。その結果、受講者数が増えて、見るべきレポートも増えたというわけです。

 私の課題は計算するだけでなく、実験結果との比較を行って考察せよ、というものが多いのが特徴です。そのため、個々のレポートにはピンからキリまでいろんな考察が為されているので、それらが正しいのか間違っているのか、私のほうもいちいち考えないといけません。なかにはよくできた考察もあって、なる程と感心したりしています。腑に落ちないときには自分で計算したりもします。なので、一時間に二人のレポートしか読めなかったりして、はかどらないこと夥しいのです。

 計算のチェックだって、そんなに簡単じゃありません。どのような評価式を用いたのか、代入した数値はどうやって求めたのか、などに注意して採点します。昨日もM2の石木くんのレポートにあった計算式が学会の指針とは異なるものだったので、わざわざ彼に聞きに行ったりしました。もう、大変です。でも、学生諸君が一所懸命に書いたレポートはこちらにも伝わりますので、それに対して赤字でコメントしたりする労を厭うものではありません。

 斯様なレポート採点と平行して、日本建築学会・和泉委員会で作成中の『RC建物の保有水平耐力計算規準(案)』の条文(といっても、私の担当は梁部材および柱部材に関するものだけですが)を見直して仕上げました。もちろんこれらは、梁柱部材性能評価WGの委員の皆さんが分担して作成してくださったもので、彼らの労力の結晶です。私は最後の見直しを行なって、よりよいものにするように努力した、というだけです。それでも、成案を学会のサーバにアップロードしたときには、やっとできたなあと嬉しくなりました。

 こうして今年のお盆もあたふたとしながら、あっという間に過ぎてゆくような気がします。懸案がまだ幾つもありますから、このお盆のあいだにたくさん仕事して少しでも貯金したい、というのが本音ですね。あっと、プレストレスト・コンクリート構造のほうの性能評価指針(案)の原稿締め切りが間近であることを思い出しました。うーん、やっぱり終わりそうもないですな、とほほ、、、(3章担当の岸本一蔵先生、大丈夫かなあ)。


終 幕 (2012年8月13日 その2)

 ロンドン・オリンピックも終幕を迎えました。大勢のひと達が一喜一憂したことと思いますが、うちの子供はいつも「オリンピック、早く終わらないかなあ」と言っています。なぜかというと、あらゆるテレビ局がオリンピックの特別編成になっていて、彼の楽しみにしている番組がことごとく休止になるからです。

 まあ、そうでしょうね。子供にとってはオリンピックもプロ野球も同じようなものでしょう。唯一興味があるのは金メダルくらいらしいです。確かに自分自身の子供時代を振り返っても、オリンピックの記憶はほとんどありません。微かに憶えているのは、1972年の札幌オリンピックです。それもトワ・エ・モアというデュエットが歌った、なんとかのバラードという曲(テーマ・ソング?/調べたら『虹と雪のバラード』というタイトルでした)が好きだったためで、競技自身のことはなにも記憶にありません。

 オリンピックのお陰で、日本の夏の風物詩である高校野球のかげが薄くなっているのは気の毒な気がします。暑い夏は団扇片手に高校野球をテレビ観戦、というのがやっぱり定番でしょう。そういう意味では、オリンピックの終焉とともに世界の喧噪も止んで、いつもの静かな夏に戻るのも悪くありません。いや、そうなることを願っているところもある位です。


あの戦争 (2012年8月13日)

 そろそろお盆の入りですが、例年、この頃が一番暑いような気がします。そうしてまもなく、日本敗戦の日がやって来ます。

 で、人騒がせの東京都知事の発言が新聞に載っていました。例によって靖国参拝の件を記者に問われて「当然、参拝する」と答えたところ、記者から「公として参拝することには問題があるでしょう」と問われました。それに対して次のように答えたそうです。

「バカなこと言うな、本当におまえら。日本の近現代史知ってんのか。あの戦争がどんなもんだったか知らないから、バカなこと言うんだよ」

 うーん、いろいろと考えさせられますね。純真な気持ちで祖国のために闘って、異国の地で倒れた祖先たちのことや戦後の苦難の歩みなどを思うとき、靖国神社に眠る幾千万の英霊に対して哀悼の気持ちを表すことは自然な気持ちの発露であると思います。確かにわれわれ戦後世代は、戦時中の筆舌に尽くし難い悲惨さを体験していませんから、彼の言うことも分からないではありません。

 しかし今言ったことには重大な視点が欠落しています(ここではA級戦犯合祀の問題は除外します)。すなわち、『あの戦争』において当時の日本の一般大衆は被害者であると同時に、加害者でもあったということです。アジアの地における日本人の行為によって被害を受けたひとびとの数もまた幾千万に及ぶのです。

 そういう加害者としての歴史には触れないで(あるいは意図的に無視して)、同胞のことだけしか視野にないかのような発言は、立場ある東京都知事としてはやっぱりふさわしくないと思います。そして結局は、国籍を問うことなく、『あの戦争』で非命に倒れた一般民衆すべての御霊を慰めるための施設が未だに日本には存在しない、ということが問題なのでしょうね。

 でもこの問題を解決することは残念ながらほとんど不可能なように思います。何故なら、折に触れてこのページで書いて来たように、日本ほど『あの戦争』を反省していない国はないからです。反省していないからこそ、東京都知事のあのような発言も出てくるわけで、問題の根は深いと言わざるを得ません。

 過去の歴史を冷静に分析して反省すべきは反省する、というふうになるには、残念ながら次世代以降の活躍を待つしかなさそうです。


長 崎 (2012年8月9日)

 今日は長崎の原爆の日です。今朝は強い日差しのなかにも、少しだけ涼しい風が吹いているのを感じました。長崎には大学生の頃、行きました。平和祈念公園には立ち寄りました。当時は父親が鹿児島に赴任していたため、そこをベースにして車で旅したときのことです。でも、グラバー邸などの観光地には行った記憶がありませんし、坂の上から海を眺めた記憶もありません。

 太平洋戦争末期に松山を基地とした海軍343航空隊(司令:源田実大佐、戦闘機・紫電改を用いたことでも有名です)の飛行隊長だった鴛淵孝(おしぶち たかし)大尉の故郷が確か長崎だったように記憶します。以前に読んだ豊田穣著『蒼空の器―撃墜王鴛淵孝大尉』に彼の青年時代のことが活き活きと綴られており、長崎の町の様子を想像することができました。

 でも、長崎と言えばやっぱり『精霊流し』でしょうね。もちろん、これは行事の名称ですが、私には「グレープ」というフォーク・デュオの名曲として脳裏に刻まれています。さだまさしのハイトーンな声が奏でる、とても物悲しい曲調です。あるいは彼の『絵ハガキ坂』という曲もいいですね。この曲で私は活水という名称を知りましたが、これが女子大のあるところだということは最近まで知りませんでした。

 という訳で、坂の街でもある長崎を、是非とももう一度訪ねて歩き回ってみたいと思っています。そうして折々の場所から、鎮魂の祈りを捧げたいと思います。


大学院の入試 (2012年8月8日)

 大学院博士前期課程(修士課程のこと)の入試が終わりました。今日はどんよりした天気なので暑さはやわらぎましたが、セミの声が賑やかなことに変わりはありません。北山研の志願者は6名で昨年から倍増しました。やっぱり内部からの進学者が多いと、こういうことになるみたいです。まあ、志願者が多いことは素直に嬉しいですな。

 さて、夏の入試が終わるとやっと夏休みといった気がしてきますが、明日は研究室会議がありますし、試験体の設計もこれからが本番ですから、そうそうくつろいでもいられません。ただ、休むときはしっかり休んでリフレッシュすることも大切ですから、学生諸君はそこのところをよく考えて、この夏を有効に使って欲しいと思います。大事なのはメリハリですから。



原爆の日2012 (2012年8月6日)

 世界は今、ロンドン・オリンピック一色で寝不足のひとも多いことと思います。でも、表彰式なんかを見ていると未だに国旗掲揚なんかを行っており、国同士の競技の場という感を深くします。しかし真のコスモポリタンたるには、国家同士の戦いという形態を脱して、個人による個人のための競技というふうにすべきと考えるのは、私だけでしょうか(もちろん同胞として日本人の活躍は嬉しいですが、、、)。

 本題はオリンピックではありません。今日は広島の原爆の日です。通勤の途中で町なかの防災無線から「今日は原爆の日です」という放送が流れてきました。黙祷、というアナウンスがありましたが、こちらは道路を歩いていたので、軽く頭を下げてお祈りの言葉をつぶやいただけでお許しいただきました。

 でも、原爆投下の悲劇は絶対に忘れてはなりません。そのことは同時に科学技術の開発とか利用とかに関しても、大いなる疑問を提示してきました。今の時代は特に、原子力という『禁断の火』を手に入れた人類の叡智がまさに問われているとも言ってよいでしょう。そのときに必要なのは、われわれ人間の幸福の増進につながる、ということを冷静に考えることです。

 人類は道具を発明したことによって急速に進歩し、「人間らしく」なったと言われます。しかしその道具を使って、戦争も格段に発達しました。道具は人間を殺傷するためにも使われて来たのです。だから道具を使っちゃダメだということになれば、われわれは原始時代に戻らざるを得ません。これは出来ない相談でしょう。

 そんなことを考えるとき、原子力だけを本当に廃絶すべきなのかどうか、冷静に議論し将来の方針を定めることが望まれると思います。


外でのお仕事 (2012年8月3日)
 
 暑い日々が続いていますね。ここのところ外回りの仕事が立て込んでいて、私のように普段は涼しいオフィスで仕事をしている人間には、炎天下の移動はとても疲れます。こんなことを言うと、外で仕事をしている方から怒られそうですが、まあ仕事の性格上しかたがありませんな。今も某センターでの仕事が始まる前のわずかな時間にこれを書いています。

 若い頃は冷房などない実験棟で、率先してボルト締めとか高所作業をしていました。試験体を作っているときなども、作業員の方々に混じってフツーに作業していました。大学院生時代には「北山くん、ハッカー(鉄筋を結束するための専用工具のことです)上手だね、うちでアルバイトしない?」なんて、大成建設PC作業所の溝渕さんから言われたくらいです。

 しかし、今はもう無理です。レンチにパイプを突っ込んでボルトを締めたりすると、もうそれだけで息切れしてしまいますから。そういった労働は若い人に任せて、年齢相応の仕事をするべきでしょうね。そうすることによって若い人に仕事を作ってあげられるんだ、などと自分に都合の良いように考えています。

 昨日は建築学会で東日本大震災の報告書を編集するためのRCグループのWGが開かれました。親分は例によって壁谷澤寿海先生です。1995年の兵庫県南部地震のときにも大部な報告書を作成しましたが、今回もそれに倣って発刊する予定だそうです。

 で、このWGのメンバーをみると、1995年のときとほとんど同じような気がします。今回一番若いのは楠浩一さんでしょうか。いずれにせよ、17年前と変わっていないわけで、RC界の世代交代は大丈夫なんだろうかと相当に心配です。当時、私は三十代前半だったわけなので、現在のRC研究者でその年頃のひとがいないのかというと、そんなことはないと思います。

 これは壁先生をヘッドとする我々中堅どころが若手を登用する努力を怠っている、とも言えるかも知れません。あるいは「老害」?のせいで若手のポジションが少ない、ということもあるでしょう。いずれにせよ若手の台頭を支援しないと、早晩大変なことになると危惧しています。と同時に、若手のほうももっと元気を出して自分から積極的に活躍して欲しいと思いますね。


蝉しぐれ (2012年8月1日 その2)

 今日は八朔の日ですね。その昔、徳川家康が江戸に打ち入って、、、というはなしは昨年のこのページに書きましたので、やめておきます。ばたばたしていたわたくし事が一段落して、午前中は大学で健康診断を受けました。受付のシステムの劣悪さは相変わらずでしたが、そこを通過するとあとはサクサクと進みました。

 で、そのあと某センターの部会に向かいました。多忙のなか、一時間半もかけて都心に出たのに、なんと肝心の申請者が来ていないのです。30分待って事務局が先方に電話すると、そこにいるではないですか! なんてこった、日取りを間違えていたということでした。ガックリ来ましたが、もう仕方がないのでグダグダ言わないでさっさと退散して、また大学に戻ってきました。

 南大沢駅を降りて見上げると、夏の青空が広がっていました。ああ眩しい。そして、都心では聞かなかった蝉しぐれのシャワーを浴びました。今日は暑い陽射しの中にも、吹く風が幾分涼しさを運んでくれますね。しばらくは暑い日が続くと思いますが、健康に留意して乗り切りましょうや、ご同輩。


うなぎ (2012年8月1日)  

 先週金曜日は土用の丑の日でした。うなぎの価格が高騰していて、今年はちょっと無理かなあと思っていましたが、家内がどうしても食べたい、ということでスーパーで買ってきたそうです。

 この日は午後から夕方にかけて建築学会で会議が三つあって、最後は和泉信之先生(千葉大学教授)が主査を務める「RC建物の保有水平耐力計算規準」作成のための小委員会でした。このページでも何度か触れたことのある、相当にハードな委員会です。この日も案の定、いろいろと紛糾しましたが、和泉先生の「なんとしても成案を得るぞ」という意気込みがいつもにも増して強力に発動されたような気がします。そうしないと、いつまでたっても具体的な成果を得られないことは皆、理解していると思いますが、、、。

 で、この晩には、東大生研の中埜良昭さんが所長に就任したお祝いのパーティが都心で開かれるということで、和泉小委員会もそのことに配慮して早めに終わりました。私は個人的な事情で欠席しましたが、中埜くんの今まで以上の活躍を祈っています。でも大学のマネジメントって、ホント大変そうです。 

 ちょっと脱線しましたが、そういう訳で委員会が終わって帰宅すると、食卓にはうなぎが載っていました。家内と子供はもちろんもう食べ終わって、寝る準備です。ああ疲れたという疲労感と、まだまだ暑いからこれ食べて精をつけないとなあ、という気分とを抱きながらいただきました。

 やっぱり先人の知恵には長い経験に根差したそれなりの理由があります。なので、他人さまと同じことはしたくない、なんて粋がってないで、素直に慣習に服すこともまたよいかな(武者小路実篤調です)、なんて思ったりしながら、今年のうなぎ様をいただいたのでした。


技術の普及 (2012年7月24日)

 昨日の午後、日本免震構造協会の審議員会に出席した。いつも言っているように、私は免震構造も制振構造も研究していない。なのにどういう訳か、西川孝夫先生から頼まれる。大恩ある西川先生からの依頼なので、例によって二つ返事でお引き受けした。

 そこで二時間ばかり、主として免震構造の現状や問題点、将来への課題などを議論した。審議員のメンバーには、私のような大学の先生だけでなく、現場の設計者やゼネコンのひと、免震装置を作っているメーカーのひとなどがいて、多彩な顔ぶれだった。そのあたりの人選はよく練られているようだったので、じゃあなんで私が?という感をより深くしたのだが、、、。

 いろんな話題が出たのだが、特に印象に残ったのが古橋剛先生(日大教授)のお話しになった免震構造における技術の普及についてだった。日本で免震建物が建設されるようになって約三十年。出始めの黎明期には、何をやるにも慎重であった。それなのに普及が進むとともに、技術だけがどんどんと独り歩きし始め、なぜそのようにするのかといった意義が忘れ去られるようになる。

 やがて21世紀になって建築基準法に書かれるようになると、法律を満たしていればそれで安全である、という風潮が構造設計者のあいだに広がるようになり、ついには思考停止に立ち至っているのではないか、という。ああ、恐ろしい。

 これは何も免震構造に限らず、優れた技術の普及には必ずついて回る宿命のようなものだろう。それを防ぐには、その技術を利用する人間が技術の基本原理を理解するとともに、自分で考えて設計する、という至極当然のことを実行するしかない。

 結局、ここでも最後には「想像すること」に行き着く。自分の設計したモノがうまく機能しなかったときに何が起こるのか、想定以上の外力が作用したときにどのように壊れるのか、そういった事柄に思いを馳せることができれば、少なくともコンピュータ任せの設計などできるはずがない。以前にも書いたが、人間の血の通った工学とは、こういう在り来たりのことを実践することから始まるのではないか。科学技術に携わる工学者として、肝に銘じたいと思う。


涼しい (2012年7月20日)

 ここのところいろいろと忙しかったため、このページを更新できませんでしたが、それもちょっと寂しいので雑感を。

 今日はとても涼しいですね。昨日まで猛暑だったため、その差にびっくりです。朝起きると肌寒かったので、家内に冷房止めてよ、と言ったくらいです。はあ?、ついてませんけどお、って言われました。

 広島から帰ってからずっと調子が悪かったのですが、やっと復調してきました。来週には構造力学1の期末テストがあり、8月早々には大学院入試もありますので、そろそろそういった試験の準備もしないといけません。試験を受ける学生さんと同様、こちらも体調を整えてベストで臨まないと、しんどいですから。

 耳が痛くてよく聞こえなかったので、耳鼻科に行って診てもらいました。鼓膜に異物がくっついていたらしく、それを除去すると途端に周辺の音が聞こえるようになりました。スッキリしたという感覚とともに、物音が鋭く耳に突き刺さって来て、それはそれで違和感を抱きましたね。もっともそれがフツーなんですけど。

 昨日まで、大型実験棟の加力装置の組み替えをやっていました。北山研OBでアシスに勤める田島祐之さんが監督してくれました。これで、いつものRC柱梁部分架構実験が出来るようになりました。今年はM1の島哲也くん担当のPRC十字形実験と、丸田誠さん(島根大学教授)にお声かけいただいたアンボンドPCの実験との二本立てになりそうです。これから設計して試験体を作製しますから、加力は例によって年末から来年となるでしょうね。今は涼しいとか言っていますけど、その頃にはうら寒い中での実験になりそうです。


 (2012年7月12日)

 国政の話しです。O沢さんが作った新党のことですが、「国民の生活が第一」という名前には驚きましたな。この方はホントーに心底そう思っているのでしょうか。

 スローガンに掲げている「反消費税」も「脱原発」も、唱えるのはご自由です。しかし、ひとにはそれぞれの立場というものがあるでしょう。いやしくも国政の場で国民の負託を受け、国家の将来に対して大いなる責任を背負っている方が、対案を提起することもなくただそれだけを連呼するのは、どうなんでしょうか。政治家であるならば、ためにする反対ではなく、こうすればこのように良くなるんですよ、というビジョンを示すべきです。

 実現可能性のある、そのような将来構想を提示することもなく、人気取りのようなスローガンを叫んでいる。そのことに対して、八割程度の国民がうさん臭さを嗅ぎとったとしても、それは至極当然のことですよ。衆愚政治と言われることも多い昨今ですが、国民もそんなにバカじゃない、ということでしょう。

 国政の場が、とても空々しい。もうちょっと、なんとかならんのでしょうか。


大学院の講義
 (2012年7月10日 その2)

 前期の大学院講義が今日で終わりました。昨年度はサバティカルで休講でしたので、今年は二学年相手に講義したため、例年になくギャラリーが多かったです。それ自体は嬉しいことですが、人数が多くなれば、そこにいる学生さんのレベルもさまざまになるわけでして、ちょっと首を傾げることも多々経験しましたね。

 今日も、鉄筋コンクリート部材のせん断抵抗機構とかせん断終局強度とかのテーマで話してきた最後だったのですが、荒川式に出てくるpwとかの記号の意味を何気なく学生諸君に尋ねてみました。これくらい分かっているだろう、と思ったのですが、とんだ誤解でした。記号の意味も分からずに私の講義を聴いていたことが分かって、もうガックリきましたね。

 上述のように人数が増えればいろいろなレベルの学生さんがいることは予想していましたが、大学院のレベル低下も現実味を帯びてきたという気がします。大学院ではアドバンス・クラスの講義をしたいと思って、そうして来たのですが、そのような講義内容自体を見直すべき時期に至ったのかも知れません。残念ですが、これが現実なのでしょうか。


広島にて2012 (2012年7月10日)

 先週、コンクリート工学年次大会で広島に行きました。司会やら学生・OBの発表やらで結局今年も三日間出席することになりました。疲れるので本当はイヤなんですけど、お仕事なのでしょうがありません。

 初日の午後4時くらいから、私が座長を務めたセッション「柱」がありました。このセッションの終了は7時過ぎになりましたので、最後のほうは発表者しかいないという極めて寂しい論文発表会となりました。いろいろと事情はあるのでしょうが、こんな時間にセッションを設定した主催者側に問題があるんじゃないでしょうか。

 例年のことですが、ホントに質問が出てきません。翌日、うちの落合くんと鈴木清久くんとが発表したセッション「はり」でも、質問しているのは私と中野克彦さんくらいでした。発表している学生さんは皆さんパワーポイントを分かり易く、工夫してプレゼンしています。それはもう、感心するくらいです。なので、しっかり聞いていれば質問の一つや二つ、すぐに湧きあがると思うのですが、、、。同じ感想は昨年もこのページに載せましたので、もう止めときます。

 さて、年次大会の会場は平和記念公園内にあります。せっかくですので、セッションの合間に付近を歩き回ってみました。国際会議場の脇には丹下健三の平和記念資料館があります。で、今回初めて気が付いたのですが、この建物の正面と鞍形のモニュメント(例の『あやまちは、、、』の碑文が立っているところです)とを結んだビスタ(軸線)の延長線上に原爆ドームがあったのでした。さすがによく計画されていますね。幸い雨があがったので、原爆ドームの脇でお昼のお弁当を食べました。

Hiroshima2012-1 Hiroshima2012-2

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 平和記念資料館のなかにも入りました。今までに何度か見学しているのですが、原爆の悲惨さを物語る写真とか遺物とかをこれでもかと見せられているうちに、悲しくて涙が出てきました。そして、この平和記念公園とその周辺の川辺とが巨大な鎮魂の装置であることに思い至ったのです。爆心地にもはじめて足を運びました。小さな説明板が建っているだけでしたが。

 資料館には大勢の西洋人(英語を話すひとびと)もいましたが、彼らはどういう感想を持っているんですかね。彼らがこの地を訪ね、原爆の悲惨さを理解し、犠牲者を悼むことは歓迎すべきことであり、ありがたいと思います。でも、原爆を落としたのは紛れもなく彼らの祖先です。それを思うと複雑な心境ですね。

 例えばハワイの真珠湾には、日本軍の奇襲によって沈んだ戦艦アリゾナがそのまま記念館となっています。ハワイには数回行きましたが、日本がかつて米国人に与えた苦痛や悲しみを思うと、私自身はその聖地に足を踏み込むことを躊躇します。なので、そこに行ったことはありません。

 もうひとつ、巨匠の名建築を見てきました。こちらは村野藤吾設計の世界平和記念聖堂です。行ってみると、RC打ち放しのような部分もありましたので、手でなぜて来ました。基本的な構造は鉄筋コンクリートみたいでしたが、中世のゴシック聖堂に見られるフライング・バットレスを模倣したかのような部材(なんの飾り気もありませんでした)が、身廊脇の上部にくっついていました。

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 聖堂の内部は広々としていて、ステンドグラスも綺麗でした。でもこの建物の特徴はやっぱり、身廊にくっついている尖塔でしょうね。ヒョロッとしているので、耐震性は大丈夫かなあなどと思いましたが。尖塔の下のほうには日本語の碑文が刻まれていました。『原子爆弾の犠牲となりし人々の追憶と慰霊のために』と書かれていました。

 広島の地において、丹下健三および村野藤吾、このふたりの巨匠の、鎮魂と平和祈念という理念とに基づいた名建築を合わせ見られるのは素晴らしいと思いました。しかしその建築は全く異なっていました。かたやモダニズムの極致みたいな建築であるのに、もう一方はひと肌を感じさせる、装飾性豊かな建築でした。戦後の復興期の同時期に、両極にあるようなこの二つの建物が建てられたことに不思議さを感じた次第です。

 この日のexcursion、しめて16142歩なり、でした。


庄 屋 (2012年7月3日)

 まずはこのビデオクリップをご覧ください。ちびまる子ちゃんではなくて、そのしたの「しあわせのラストダンス」のほうです。桑田圭祐と関根(高橋?)恵子がでていますね。桑田がご機嫌なナンバーを聞かせてくれますが、そちらはひとまず脇において下さい。

 で、このクリップで、桑田が腰かけている縁側とか、彼が座っている和室とか、関根がほうきを持って佇んでいる玄関とかが今回のお題です。実は、この建物は私の高校時代の友人の実家なのです。彼の家系は江戸時代初期から東京・世田谷で代々続く庄屋の家柄で、戦国時代には北条家の家人だったことが分かっています。戦国末期の北条家の滅亡と同時に野に下ったと思われます。

 この建物はその庄屋の母屋でして、明治初期に建てられた堂々たる木造建築です。私ももちろん見に行ったことがあります。ただ、そのときにはこの百年以上経過した建物をどうするか、という相談でした。そしてこのときには結局、結論は出なかったのです。

 その後、紆余曲折の末に彼がたどり着いたのは、この建物とか庭園とかを映画やCMの撮影場所として提供する、という新たなビジネスでした。こちらのほうはボチボチらしいですが、少しづつ引き合いが来るようになったらしく、最新作がこのクリップということでした。

 私の予想ですが、こんな立派なところが東京都内にあるのですから、これからどんどんと需要が伸びるのではないかと思っています。新しいビジネスとして成功することを祈っています。何にせよ、ちょっとした発想が大切だということを再認識させてくれる出来事でした。


大失態!
 (2012年6月29日)

 昨日は大変な失敗をしてしまいました。我ながら、そのウッカリぶりにあぜんとしました。授業の時間を間違えてしまったのです。1年生前期に開講される、オムニバスの講義で『建築学概論』というのがあって、昨日が私の担当でした。

 今までその講義は4限(午後2時40分スタート)と5限の二コマ続きでしたので、この日もその積もりでした。でも昨年、私はサバティカルだったためにこの講義を免除してもらいました。これがクセものだったのです。実は昨年からこの講義の時間が3限(午後1時スタート)と4限に変更になっていたのです。

 そんなこととは露知らず、私は午後1時を過ぎても研究室でパソコンに向かって、iTunesに入れたスクリャービンの交響曲第3番なんかを聴きながら、建築学会大会PDの資料作りに精出していました。まあ、知らないとはいえ、のん気なものです。

 そんなふうに快調にワープロ作業をしているときに、芳村先生がやって来ました。
芳村先生: やあ北山さん、もしかして勘違いしていないかい?
わたし: はあ、なんのことですかあ
芳村先生: ああ、建築学概論は午後1時からだよ。
わたし: えっ!(絶句)
 
 ということで、時計を見るとすでに午後1時40分を過ぎている。慌てて深尾先生配布のハンドアウトを見直すと、確かに3限および4限と書いてあるではないですか! あちゃあ、やってもうた。

 そうこうするうちに、今度は高木研究室の森くんが携帯電話片手にやって来て、「高木先生からお電話です」というではないか。
高木先生: もしもし北山先生、あのお、105教室で学生たちが、、、
わたし: ああ、ご免なさい、建築学概論だよね、あと5分待つように学生さんに言ってちょうだい

 かくして私はパソコンを引っつかむと、教室棟に向かって突進したのでした。でもパソコンを立ち上げていなかったので、パワーポイント・ファイルが起動するまでの時間がなんと長く感じられたことでしょうか。こうして50分遅れで授業が始まりました。

 幸いこの日は2コマ続きでしたので、相当にすっ飛ばしましたが無事に午後4時10分の定刻に講義を終えることができました。最後にスクリーン上に課題を出題したのですが、大勢の学生たちがやにわに携帯を取り出して写真を撮り出したのにはびっくりしました。おいおい、いくら何でもこれくらい手で書き写せよな、と思わず言ったくらいです。

 さて、授業が終わってから前のほうに坐っていた学生さんに、私が来なくてみんな困らなかったかい?帰らずによく待っていてくれたね、と聞いてみました。するとどうやら、真面目な学生さんが教務係かどこかに尋ねに行ってくれた、ということが分かりました。いやあ、ありがとうございました。そしてご迷惑をおかけしました。こんなことは長い教員生活で初めてです。お恥ずかしい限りです。ご迷惑をおかけした先生方にもあらためてお詫び申し上げます。

 人間、偉そうなことを言っていても、こんな単純なミスをやらかすもんだということに、我ながら気が付いた次第です。反省しなくちゃなあ、ということです。



政治のとき
 (2012年6月27日)

 先週末に私の住む小さな市で市長選挙がありました。それまでは、東京都で唯一の共産党員市長が4期16年を勤め、そのひとが引退することにともなって、共産党員候補とそれ以外の理念なき4党相乗り候補との一騎打ちになりました。

 私はどうしたものかと困惑しました。私は自慢じゃありませんが、今までかつて一度も自民党の推薦する候補に投票したことはありません。それどころか、二十年前には共産党に投票したことさえあります(私はもちろん、共産党員ではありません、念のため。私は基本的には党派には属さない主義ですから)。

 でも、今回はホントに困りましたね。今までの共産党市政によって、私腹を肥やしたり悪事をはたらく役人は減ったかも知れませんが、税金は高いし、市民サービスがすごく良いというわけでもありません。なによりも、このご時世に「共産」なんかを掲げていること自体に強烈な違和感をおぼえます。

 一時は投票を棄権することさえ考えました。しかし投票は市民の義務であり権利です。それを行使しなかった段階で、もはや市政に対してあれこれ言う資格はなくなるでしょう。それではまずい。うーん、どうするか。

 さんざん悩んだ末、投票所の小さな投票ブースの前で鉛筆を転がして、、、なんてことはしませんでしたが、結局、理念なき相乗り候補に投票しました。多分、私のように悩んだ市民は多かったと思います。だって、両候補とも明確な政策などは何も言ってないに等しかったのですから。

 そう言うわけで、両者の得票は拮抗しましたが、結局、理念なき相乗り候補が当選したのでした。自分が投票したひとが当選したのに、こんなに嬉しくない選挙は初めてです。あとはこの当選者が、よりよい市政を実施してくれることを祈るのみです。

 国政のほうは、消費増税法案がすったもんだの挙げ句に衆議院を通過しましたが、O沢さんのやり方はホントにひどい。彼らは正義は我にあり、などと主張していますが、私にはそのようには全く見えません。自分たちの主張と利益のみを追求するエゴイストではないでしょうか。

 野田総理大臣のやり方がよいとは言いませんが、皆で議論して一つの方向性を導くことが政治家の大切な仕事のはずです。彼らはそれを拒絶して、放棄したようにさえ見えます。こんなことだから日本には民主主義が根付いていない、などと揶揄されるのではないでしょうか。政治ゲームはお断りと、強く言いたいですね。


なかよしと協調と 〜小学校で教わったこと〜 (2012年6月25日)

 この週末に子供の授業参観があって、久し振りに小学校の教室で授業を聴きました。この学校の校舎は五、六年ほど前に新築されたので、いわゆるオープン・タイプの教室です。すなわち教室とオープン・スペース(通常の廊下に相当しますが、非常にゆったりとしたスペースが割り当てられています)とのあいだには壁とか扉とかはなく、隣近所の教室の声がツーツーに聞こえます。

 このような教室形態には賛否両論あるだろうと思います。実際、私が参観しているあいだにも、隣の教室の拍手とか笑い声とかが聞こえました。それによって児童たちの様子が明瞭に変化するようなことはなかったようですが、それでもうるさいなあと感じました。

 この種の新しいタイプの教室に対する先生方の好みは分かれるようで、新奇の試みに熱心な先生が在籍するとオープン・スペースが積極的に活用されます。ところが、そのような先生が転任してしまうと、使い方のノウハウが伝承されずにいつの間にか使われなくなる、というケースを幾つか聞いたことがあります。これは、かつてCOE研究で、既存学校校舎のコンヴァージョンとか大規模改修についての共同研究を行ったときに数校の見学に行きましたが、そのときの見聞です。

 で、今回の授業参観では、隣のクラスが特別教室に出かけて留守になったときに、幾つかのグループに分けた発表活動を自分のクラス・ルームとオープン・スペースとで同時並行する、という使い方を見ることができました。先生が小さな教卓と児童たちの椅子をいくつか運んで、オープン・スペースに並べていました。

 なるほど、こういう風に使うんだ、ってな感じです。でもこんなことを言うと、なんだか建築計画学のフィールド・ワークみたいに聞こえますが、実際にはただ単に我が子の授業の様子を見ていたに過ぎません。

 立ちっぱなしで疲れたので、子供たちがいなくなって空いていた椅子に座って見ていました(そんな自堕落な親は私ひとりでしたけど、、、)。日頃自分が教壇に立って講義をしているときには、90分間立ちっぱなしでもそれほど疲れません。むしろ大きな声で話すので、そっちのほうが疲れますね。ところが小学校の教室の後ろに立って、45分間の授業を一コマ聞いただけで、もう足がだるくなってしまいました。これは一体どういうメカニズムでしょうか。

 でも、小学校の先生って大変そうです。とても私には出来ませんな。全ての科目を自分ひとりで見ないといけないし、子供たちを飽きさせないようにいろいろと工夫しないとダメなようです。また、常に子供たちに問いかけて、彼らに答えさせるようにしていました。いわゆる双方向の授業ってヤツですね。大学にいても、ひと様の講義を拝聴するという機会は全くと言ってよいほどありません。なので、小学校の先生の授業を拝見して、いろいろと参考になりましたし、考えさせられもしました。

 さてこの日は、授業参観のあいまに、道徳特別講座という父兄向けの講義?も開催されており、折角ここまで来たんだから聞いてみるべえ、という軽〜い気持ちで小ホールに入りました。聴衆はそんなに多くはなかったですね。講師は東京都教育委員会の課長さんで、樋口豊隆さんという元教員の方でした。

 ここでやっと本題に入ります。樋口さんは45分間講義をされたのですが、そのテーマは人権でした。まあ、誤解を恐れずにいえばよくあるテーマなので、どんな話しなんだろうか、と思いましたが、樋口さんは大上段に振りかぶることなく、身近な話題に終始されました。

 そのなかで強い印象を受けたのが、以下の事柄でした。学校でも社会でも、皆が仲良しになることは理想だが、そんなことは現実には不可能である、なので組織のなかで協調して皆でひとつのことに取り組めるような人間を育てたい、そういう教育をすべきである、というお話でした。

 講師の樋口さんは、学校という組織のなかでみんな仲良くしようというスローガンがいかに空虚で実現不可能であるかを事も無げに認めました(このこと自体がちょっとした驚きでしたが)。そのようなドグマを軽々と飛び越えて、そんな絵空事にこだわらずに、お互いがお互いを尊重して社会のなかで上手くやってゆくにはどうしたらよいのか、そのための実現可能な方策が協調である、ということを説明してくれました。

 なるほど、と思いました。どんな社会でも気に食わないヤツとか嫌いなヤツとかいますよね。それはそれでいいんだ、だけども、ひとつの目的に向かって何かをやり遂げないといけないときには、そんな人たちとも協調して事に臨む、それが大事であると。

 小学校に行って子供の勉強の様子を見てこようと思って出掛けました。でも、何のことはない、こちらが勉強させて貰って帰ってきたのでした。小学校って、すごいです。とても有益でした。やっぱり、違うソサィエティに属する人々の話しもときには聞いて見るものだなあ、というのがこの日の感想です。


ターニング・ポイント (2012年6月21日)

 6月も中旬を過ぎましたが、今から70年前の6月にミッドウエー海戦が生起して、帝国海軍は米軍との戦闘において初めて完膚なきまでの敗北を喫しました。正規の航空母艦四隻を瞬時にして失うとともに、練達の飛行機搭乗員を多数失いました。そして同じ年、南太平洋のガダルカナル島において今度は帝国陸軍が破れました。確たる戦略もないままに地上軍を逐次投入し、優勢な米軍に対して肉弾で立ち向かい、弾薬・糧食の補給がないままに敗れ去ったのでした。

 この海陸ふたつの作戦における日本の敗北が太平洋戦争の帰趨を決するターニング・ポイントになりました(もちろん、これは戦後になって歴史を辿った結果としての認識に過ぎません)。しかし当時の旧日本軍はこのような重大な失敗を反省することもなく、何らの教訓を引き出すこともなく、そして失敗の責任を誰も取ることなく、戦争を継続したそうです。

 翻って現在の日本を見るとき、福島第一原発の重大事故への対応とかその後の対策とかにおいて日本国の政府は当時の軍部と同様の轍を踏んでいると思えてなりません。と言うか、これに限らず日本人は常に済んだことは水に流して、という発想のもとに事に臨んで対処してきたような気がします。

 しかし歴史から学ばない、とはなんと勿体ないことでしょうか。書籍ではたった一行で片付けられる歴史的出来事も、そこには人びとの血の滲むような苦労と悲しみとがあったはずです。原爆の碑に刻まれた「過ちは繰り返しませぬから」という文言が虚空にそらぞらしく響いています。


授業の光景1 (2012年6月20日 その2)

 二年生の構造力学の授業ですが、応力図の作成も終盤にさしかかっています。毎回演習をやってもらって、彼らの理解度合いを把握しています。で、今年は4割程度の学生さんはしっかり理解しているようなのですが、残りのひと達は分からないところがあるみたいです(演習を採点してくれる遠藤さんからの情報です)。

 でも、いったいどこが分からないのか、われわれ教員側にはさっぱり分かりません。遠藤さんと顔を見合わせて、何が分からないんだろうね、と頭を悩ませました。そこで昨日の授業のときに、「君たち、なにが分からないのか言って下さい。今日の講義について、何か質問はありませんか」と発してみました。すると相変わらず、シーンとしています。もう一度、同じことを問いました。そして三度目に「じゅあ、皆さん理解できたんですね」と訊くと、やっと二人ばかりが質問をしてくれたのです。

 いやあ、質問してくれてこんなに嬉しいことは滅多にありませんな。よくぞ訊いてくれました、みたいな感じです。しかし、なんでこんなに手間がかかるんでしょうか。いつも書いているように現代の大学生の知的レベルが垣間見えるようで、嬉しいんだか悲しいんだか分からないような出来事でした。それでも、大多数の人たちの疑問点は結局、分からず仕舞いでした。大丈夫かなあ、期末試験が心配です。


地域のコミュニティ (2012年6月20日)

 建築学の世界ではよく、街おこしとか近隣のコミュニティの再生とかが議論されたり、研究テーマになったりフィールドワークの対象となったりしている。でも、自分が住んでいる地元のことになると、とんと不案内だったりする。

 私がその典型で、向こう三軒両隣くらいはどなたが住んでいるのか承知していて挨拶もするが、それを超えるともう全く分からない。実は今年の春先に町内会の班長さんを頼まれて、何も考えずに引き受けた。順番だろうし、まだやっていないしなあ、くらいである。

 で、その主要な仕事は町内を巡って町内会費を集める、ということであり、仕方がないので各ご家庭を廻り始めた。そうして改めて、こんなひとが住んでいたのかという一種の驚きを新たにした。はっきり言えば居住者がお年寄りなのか、若夫婦なのか、子供がいるのか、そのようなことを全く認識していなかったのである。まあ、子供が同じ学校に通っているお宅は何となく分かってはいたが。

 そうして気が付いたことは、わが町内(約50軒ほど)では世代交代が半分程度進んでいる、ということであった。驚くようなご老人がお住みになっていたり、その反対に赤ちゃんがいるような若いご夫婦だったりした。ただ、新しく引っ越して来たような方(おおむね若い人類)は町内会に入らないひともいるので、私の管轄内もところどころ歯抜けのように抜けている。

 ところで町内会って、どうして必要なんだろうか。私がなぜ町内会に入っているかといえば、特段の理由もなく、それこそ地域コミュニティに所属している証くらいに思っている。こちらから入れて下さい、と懇願した覚えもない。

 でも、班長なんかをやってみると、別にこんなのなくてもいいじゃん、くらいに思えてきた。私が集めている町内会費も何に使われているのか私は知らないし、私にどんなメリットがあるのだろうか。さらに言えば、町内会の役員をやっているひとは昔からの地主みたいな方々であって、ヒジョーに縁遠いものを感じる。そのようなひとたちの指令で動く端末がわたしなんだなあ、と自虐的に思ったりもする。

 大事な情報は自治体の広報誌に掲載される。なので回覧板の情報が必要、ということもなさそうである。同じ町内といっても、それこそ何をやっているひとなのかとんと分からない。そういう方々と、同じ町内なんだから仲良くしようね、と言ったところであまりリアリティを感じないのは私だけだろうか。

 こうして、今年班長を終えたら町内会から卒業しようかと思い始めたところである。もしかしたら、独りよがりのコミュニティ破壊者のように見られるのかな。


プライバシー 〜 FaceBook を考える 〜 (2012年6月19日)

 突然ですが、皆さんはFacebookに加入していますか。先日、高校の同級生からメールが来て、クラス会の相談をFacebook上でやりたいので、アカウントを持っていないなら取得して仲間に加わってくれ、と言われました。

 Facebookはもちろん知っていましたが、私はいわゆるSNSに登録したことは今までありませんでした。それまでのSNS とFacebookとの大きな違いは、Facebookでは実名で自分の情報を公開するということでしょう。ワールド・ワイド・ウエッブ上はヴァーチャルな空間であるとよく言われますが、Facebookはそうではなくてネット上にリアル空間を構築する点に特徴があると言われています。ネット上にもついに格差社会が出現したなどと捉えられることもあるようです。

 で、Facebookに登録するかどうか大いに悩みました。高校の友人達ともメールで議論しました。その結果として、登録するのは見合わせました。実名や出身学校などのきわめて個人的な情報を得体の知れないネット空間に晒すことを躊躇したのです。

 もちろんFacebookでは情報内容の公開・非公開を選ぶことができるようになっています。でもデフォルトは全ての情報の公開になっています。ですから自分で面倒な分類をしないと、非公開にはできないということになります。

 しかしたとえ非公開に設定したとしても、入力した情報はFacebookの保持するサーバー上に保存されますから、運営会社はその内容を(多分、簡単に)把握できますし、サイバー攻撃などによってそれらの情報が漏洩する、というリスクもあるわけです。

 そのような「危険な空間」に顔写真を含めた「個人」を開陳することに、どれだけのメリットがあるのでしょうか。今まで音信不通だったかつての「友人」が見つけてくれるかも、とかいうのが最も分かり易い利点なのでしょうが、そんなことのためにそこまでするのか、というのが私の正直な感想です。

 と、ここまで書いてきましたが、この文章をアップしているのも実はネット空間です。ご承知のようにこの場には、きわめて個人的な事柄が明け透けに語られています。でもこのページが存在するのは相当深いところですし、検索してもほとんどヒットしません。すなわち、これを読んで下さる方は基本的には私の知り合いだけなんですね。

 同様にメールも基本的には友人・知人たちとのあいだで交わされます。このように私の「ネット」は常に特定のひとびとを対象とした「リアル」を基本としていることになります。そのような人間がネット上で不特定多数に対して「リアル出向」する必要性など全くない、ということに気が付きました。

 以上が私がFacebookをリジェクトした理由です。もうちょっと付言します。一度登録すると、友だちリクエストがたくさんやって来るそうです。それらにいちいち反応するのは想像するだけで面倒くさいですね。ヴァーチャルな空間だったのに、そこだけリアルなので、そこでの対応如何によっては現実世界においてトラブルが発生することもありそうです。ヴァーチャル空間のリアル化の弊害は想像以上に大きそうですが、皆さんはいかがお考えでしょうか。


梅雨のころ (2012年6月14日)

 梅雨なのでしかたないのですが、鬱陶しい天気が続きますね。例年の自分のことを思い返してみると、この時期には必ず原因不明の不調に悩まされています。胃カメラなんかで調べてもらっても、大丈夫ですよと言われて安心するのですが、不調はそのまま続き、しばらくするといつの間にか直っている、という案配です。

 この一週間も絶不調です。昨日は研究室会議で、いつになくたくさんの学生さんが資料を出してくれたので、つい白熱してコメントしましたが、終わったらもうグッタリです。38度近く発熱していたので、帰ってそのまま寝てしまいました。

 で、今、熱を測ったら37度7分ありました。もう早く帰って寝たいのですが、全学の会議があるためそうも行きません。こうやって体力を少しずつすり減らして年老いて行くのでしょうか。なんだか寂しいですね。


クロにしろ (2012年6月12日)

 先日の新聞にユニクロが大学1、2年生十人程度に内々定を出した、というニュースが載っていました。大学人としてこの出来事は座視できないと思い、ここで取り上げる次第です。

 ユニクロの社長の柳井さんは相当のヤリ手だと仄聞していますが、この件についてはどういう了見なんでしょうか。これって究極の青田買いではないでしょうか。そもそも大学での教育とか経験というものに全く価値を見出さない暴挙だと思います。

 大学が休みのときにはユニクロに「出勤」して大学卒業と同時に店長を目指せ、とのことです。でも大学生時代には「書を捨てて街に出よう」じゃありませんが、長い休みのときに旅に出ていろんなものを見聞するなど、様々な非日常の体験をすることによって、人間として大きく成長するのだと思います(もちろん、アルバイトを含めても結構ですが)。それは一見無駄かも知れませんが、人間が成長して一人前の大人になるためには必要な過程ではないでしょうか。

 また大学での勉強や研究にしても、1年生や2年生くらいではまだ何も分かっていないといっても過言ではありません。すなわち自分の将来や未来について、あれこれと考えを巡らす重要な時期なのです。その時期に内々定を貰った学生さんって、その後の大学生活をどのように過ごすのでしょうか(余計なお世話かも知れませんが)。

 先日も書きましたが、ここにも大学での勉学を職業活動に直結させるような極めて短絡的な考え方が根底にあると思えます。そんなことで豊かな人生をおくることが本当にできるのでしょうか。いくら一民間企業のささいな出来事にせよ、この問題については大学人としては「ユニクロよ、好きにしろ」とはとても言えません。


大学のあるべき姿 (2012年6月11日)

 大学はどうあるべきかという問いは、明治維新後の日本に常に存在した基本的な問いかけであろう。西洋のように何百年もの歴史と伝統とがある大学と違って、日本においては全てが初めての経験なので、仏作って魂入れずということになったと思う。

 そもそも理想とする大学像といったものをイメージできないのだから、当初はお雇い外国人教師に頼り切りで西欧列強に追いつくことだけを目指した。そのために必要な学問領域を横並びに陳列しただろう。もちろん江戸時代には儒教に基づく思想が発展し、西洋とは無縁の和算が独自に花開いた。日本各地に作られた藩校や寺子屋が日本人の教育水準を押し上げたのは事実である。

 明治当初の大学が手探りからの出発だったとは言え、このように学問に対する下地はかなり耕されていたので、たったひとつだけの大学には日本全国から飛びきり優秀な人材が集うことになった。それらのエリートによって日本の大学は形作られ、成長していったのである。

 それからおよそ百五十年を経過して、大学進学率は60%近くになって大学全入の時代となった。大学に対する社会からの要請は厳しく、教育や研究に経済的な観念が持ち込まれ、すぐに役立つものやすぐに成果が出るものが求められる。そうでない学問は急速に廃れてゆくような、いわゆる実学重視である。卒業して社会に出たら即戦力となるような教育が企業からは求められる。

 そのような要請に対して、大学側も懸命に応えようとして努力している。教員の自己評価とか他者による評価、常に大学を改革することを目指した委員会等による活動、研究資金を外部から獲得するための集金活動、大学の魅力を発信して受験者を増やし入学者を確保するための広報活動など、あげればキリがない。

 すなわち、大学を取り巻く無数の要求に対して愚直なまでに誠実に対応して、できる限りのことはしようというのが現代日本の大学の姿であろう。そうした姿勢を示し、目に見える成果をあげることによって社会からの信頼を勝ち取り、生き残ろうとする。しかしこれは大学が本来持つべき、あるべき姿なのだろうか。

 確かに民間の営利企業であれば、このように活動しなければ利益を上げられず、自らの存立を継続できない。しかし大学というところは、本来そのような社会からの風に対して無関係であるべきではないか。むしろ社会に存在するあらゆることを疑い、深く思考することによって物事の本質をきわめること、すなわち蘊奥の窮理こそが大学に期待される事柄ではないか。

 大学のことを昔は『象牙の塔』と呼んだ。これは一般には社会から隔絶した大学とか大学人を揶揄する言葉であろうが、逆に言えば大学とはそういうものであるということを人々が暗黙のうちに了解していた、とも言える。もちろん『白い巨塔』のように学内抗争に明け暮れるようなことは社会から是認されるはずもない。しかし一般社会から離れたところで、すなわち市井の人々の論理とか常識とかからは隔絶したところで沈思黙考することを大学人は期待されていたのではないか。

 そうやって得られた知識を集積して熟成させ、そこから得られた新しい知を世の中に発信すること、それが大学の本来の役割ではないだろうか。学生に職業訓練のようなものを施し、即戦力として社会に送り出すことが我々大学の役目ではない。そうしたことは予備校とか専門学校とかの方が格段に優れていると思う。

 そうではなく、彼らに自分で考える方法を教授し、深く考えることが人生を豊かにすることを教え、知的活動の基盤を築く手伝いをすることが我々大学人の務めであると考える。社会からの要請をあまりに短絡的に捉え、近視眼的な視野でしか物事を判断できないと、上述のような大学の持つ本来の役割を果たすことができなくなる。今がまさにそのような事態である。このような姿は日本という国家にとっては長期的には大きな損失であることを私は深く憂えている。

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 なぜこのようなことを考えているかというと、我が大学でもご多分に漏れず大学改革が進行しつつあるからである。組織を見直し、改革することは悪いことではない。しかしそこでは残念ながら学内の論理が優先され、大学として生き残るための方策が主として追求されているように見えた。この小文は、本当にそれでよいのですか、学生のためになるのですか、というささやかな異議申し立てでもある。


頭のいいひと
 (2012年6月8日)

 昨日は午前中は大学で会議、午後は夜まで田町の建築学会で打ち合わせとか会議とかでとっても疲れた。

 で、帰宅してグッタリしながらも新聞を開いてみると、そこかしこに「総選挙」という文字が踊っている。野田首相も先任者の轍を踏んでついに政権を投げ出したのかと一瞬ギョッとしたが、もちろんそうではなくて、AKBナントカとかいうグループの人気投票のことであった。でも、「総選挙」っていうネーミングはどうなんでしょうか。社会に対するアンチテーゼか、それともブラック・ユーモアか。

 新聞の記事を読んでやっと分かったのだが、これはAKBナントカのCDを購入させるための巧妙な仕掛けですな。投票券はCDに付いているのでそれ欲しさにCDを購入して、自分の贔屓の芸人?(アイドル?、それともフツーのひと?)に投票するというシステムのようである。新聞には2700票の投票券を得るのに53万円を費やしたひととか、CDを20枚買ったひととかのコメントが載っていたが、ホントびっくりした。

 だって、自分で稼いだお金だから何に使おうとご勝手なのだが、私なんかとはあまりにも価値観が異なるからである。でも、CDをたくさん買ったひとは、余分のCDはどうしたのだろうか。捨てたのだろうか。

 昔わたしが子供だった頃、仮面ライダー・スナックというのがあって、それについている仮面ライダーの写真欲しさに子供達がスナックをたくさん買って、写真だけを取り出してスナックは捨ててしまう、という現象が社会問題になったことがある。なんだかそれに似ているなあ。

 でもこの「総選挙」というシステムを考え出したひとは、ホントに頭がよいなあと感心した。景気が悪くてもうまい仕掛けを考えれば、ひとはお財布を開くのである。もちろんこの試みが成功するまでには、入念な準備と仕込みが必要で、そのための費用もかかったことだろう。

 だけどこの「総選挙」によって潤うのは結局はレコード会社とかエージェントとかの企画者たるおとな達だろうから、ダシに使われるAKBナントカはかわいそうな気がします。おとなの欲望に踊らされる純良な乙女たち、なんて構図は現代のこの世にはないのだろうか。それともおじさん達の欲望なんかは承知の上で、踊らされるフリをしているしたたかな女たち、なのか。まあ、どっちでもいいけどね。


現代におけるエリートとは (2012年6月4日)

 エリートという言葉、めっきり聞かなくなりましたね。文科省の学習指導要領で『ゆとり教育』を謳っていたくらいですから、ひと握りのずば抜けた高峰を育成することよりも底辺の底上げに注力していたことになります。横並びが望ましいこととされて、運動会でも勉強の成績でも順位を付けるようなことは忌避されたと仄聞します。

 そのような背景を背負った若者たちの60%は大学に進学するようになり、大学の大衆化が促進されたのは当然と言えばその通りでしょうね。以前にも書きましたが、学部の授業で学生さんに向かって「ここまでのところ、分かりましたか、それともダメ?」と問いかけても全く返事は返ってきません。無関心ということもあるでしょうが、自分だけ声を上げて目立ちたくない、という横並び意識が根強くインプットされていることも根底にあるような気がします。

 斯様に若者の二人にひとりが大学に行くご時勢ですから、戦前の旧制大学の大学生のように学生というだけで社会からエリートと見なされることはもうありません。というか、大学生が自分のことをエリートだと思っても社会のほうでそうは見てくれないですね。

 ただエリートという言葉を使うときには、その根底にねたみ・そねみの心情があるような気がします。なのでリーダーという言葉を見かけることが多いのですが、エリートと本質的には同じものだと思います。そして皆が横一線に並んだ現代日本において、再びエリートが嘱望されています。政治家でさえ自分で的確な判断をできるひとがほとんどいないように見受けられますから、このままでは日本が沈没してしまうという危機意識は国民のあいだに広く蔓延していると感じます。

 大衆化し幼稚化した現在の大学において、本当のトップ・エリートを育成して世に出すことは多分難しいでしょう。しかしある程度のレベルまで自分で考えて判断することのできる、言ってみれば「プチ・エリート」みたいなものは現代の大学教育によって可能だと思います。

 現代の大学には社会から様々な要請が為されますが、それらの多くは明日のパンを得るために必要なものであって残念ながら皮相的なものと言わざるを得ません。それらの要請に盲目的に応えるのではなく、学生諸君の考える力を鍛えることが大学本来の役割だと思います。このあたりの大学のあるべき姿については、別に論じたいと思います。

 私自身はトップ・エリートを育てたいとは思いませんが、世界の将来を背負って立つ気概を持った若者を見出して大切に育てることは必要だと思います。もちろん本人がその気でも、そのような素質と能力とがなければダメですから、それなりのふるい分けは必須です。それこそが選良、すなわちエリートなのです。日本を低迷させる一因となった平等主義から決別すべきことは、おおくの人々も気が付いていることでしょう。そのようなシステムはどうやったら可能なのか、知恵を出す時期に来ていると思います。


もう無理
 (2012年5月31日)

 子供が戦艦『大和』のプラモデルが欲しい、というので重い腰を上げて購入した。こんな複雑なモデルはまだ自分だけでは組み立てられないので、結局は私がやらないといけない。ああ気が重いなあ、とは思いながらも、息子と一緒にプラモデルを作るのが夢のひとつではあったので、家内から「買ってあげなよ」とのひと言で決断した。

 しかしこのシチュエーションは私が子供の頃のものと全く同じなので、いつも書いているように因果が巡っただけといってよい。小学校1年か2年の頃、従兄弟のうちにあった戦艦『大和』のプラモデルを見せてもらって、欲しくなった私は祖父に言って買ってもらった。でも、それを組み立てたのは私の父親だった。

 そのころの私は、週末に父親が作ってくれるのをワクワクしながら待っていたものである。それと全く同じ立場にいま、私は立っているのだ。ただ、うちの子供は夜昼なく作れ作れとせがむものだから、もう大変である。子供が寝てからも作り、今朝も早くに叩き起こされて、ここのマストがくっつかないようとか言っている。もう勘弁してくれよ。

 プラモデル作り自体は子供の頃は大好きだったので、やっていると楽しい。でも、部品があまりにも細かくて、老眼の身にはちょっとつらい。根を詰めた細かい作業は正直なところもう無理なような気がする。早いところ子供が成長して、自分で作れるようになることを期待している。

Battle_Ship_Yamato&Haruna

 この写真は現在建造中の『大和』と、私が小学校5年生頃に作った戦艦『榛名』のツーショットである。すなわち『榛名』は建造以来40年が経過したことになる。我ながらよく作ったなあ、というのが感想である。奥に見えるのは以前に作った重巡洋艦『最上』である。そのうち子供との合作で、机上の88艦隊が実現するかも知れないな。それを楽しみに待つことにしようっと。


気安い会 (2012年5月29日)

 久しぶりに高校1、2年生のときの仲間と会った。自営で多角的な事業を展開しようとしているひととか、職場を変わろうとしているひととか、子供が念願の大学に合格してウハウハのひととか、皆いろいろとあったんだなあと思った。

 私がお酒を飲めなくなった理由として、人間が一生に飲めるお酒の量は決まっていて若い頃にしこたま飲んでしまったため、という怪しげな自説を紹介した。そうしたら参加者のひとりの医者が「本当かあ? 動物が一生のあいだに打つ拍動の回数はだいたい決まっているけど」と言っていた。それには逆にそうなんだあ、と感心する始末。

 ただ、人間五十年も生きているとからだのあちこちにガタがきて、皆なにかしら悩みを抱えていた。薬と老眼の話題では大いに盛り上がった。眼鏡を4つも持っているヤツがいたり、医者などは手術のときに実はよく見えなくて、縫うときに困るんだよね、などと恐ろしいことを言っていた。

 ときどき書いているように、高校のときの仲間って気安くて、ホントに安心して何でも話せる。高校生の頃の悪事も含めていろんな体験を共有しており、大人になってからは何の利害関係もないためであろう。今だから話すけど、と言って、それまで封印されていた高校時代のエピソードが出てきたりもする。いやあ、面白いし楽しいですな。日常とは切り離された(でも、確実に現在に続いている)非日常のひとときを過ごすことも、たまには必要だということを痛感した。


遅いリコール (2012年5月25日)

 昨年の春先に、我が家の車のターボ・チャージャーがぶっ壊れた話を書きました。ハイテクを駆使するエンジンに付随している重要な機械です。症状としては、アクセルをいくら踏んでもスピードが出ないというものでした。

 それから一年後、ディーラーからリコールの案内が届きました。で、それを見ると、このときの症状と同じことが書いてあります。どうやらターボ・チャージャーのハードだけではなく、エンジン制御用コンピュータのプログラムにも不具合があったようです。でも、これってどういうことなのよ、ってな感じです。

 だって我が家の車の不具合は一年も前に発生しています。多分、同じような故障事例が多数発生して原因をよくよく調査した結果、リコールに至ったのでしょうが、あまりにも時間がかかり過ぎではないでしょうか。車にとってエンジンは心臓部です。そのハードや制御に不都合が生じては安全を確保できないことだって起こり得ます。それを考えるともっと迅速な対応が必要だと思いました。

 それにしても今の車って、走るコンピュータなんですね。エンジンを制御するコンピュータのプログラムひとつで燃費をいくらでも上下できるみたいです。シリンダー内に噴出するガソリンの量を減らせばそれだけ燃費は良くなりますが、もちろんあまりに減らすとパワーが低下したり、エンジンが止まってしまいますから、そうならないギリギリのところに調整してあるみたいです。

 こうしてメカが複雑になればなるほど、それにともなってトラブルも増える、ということでしょうか。地球環境の視点からは燃費をよくするように努力せざるを得ないのでしょうが、一度不具合が生じるとその対策に費やされるエネルギーや資源はと言えば、膨大なものとなります。結局、トータルのエネルギーは余計に使われることになる、なんて本末転倒も甚だしいことにならなければ良いのですが、、、。


はじめてのJリーグ (2012年5月23日)

 私はサッカーにはそんなに興味はありませんが、この週末に味の素スタジアム(鹿島技研のすぐそば)に行ってきました。某J1チームの下部組織が運営するサッカー・スクールに子供が入ったことから、ご招待してもらいました。ちなみに子供が練習する場所は我が家の川向こうにある鹿島建設のグランドで、日頃はそこで鹿島のアメフト・チームが練習しています。チア・リーダーもときどき黄色い声で練習しています。

 ちなみに私は高校生のときにはサッカー部に属して、ウイング(なんて言っても今のひとは知らんだろうな/当時はフォワードは三人が普通で、センター・フォワードの左右のフォワードをウイングと呼んでいた)なんかをやっていましたが、Jリーグには興味はなく、初めての試合観戦です。

 で、試合はFC東京対サガン鳥栖という、ぜ〜んぜん知らないチーム同士の対戦でした。聞いたこともないチームなので、どうせガラガラだろうと思ったのですが、あにはからんや(満員とは言いませんが)ホーム席はほぼ満員の盛況でびっくりしました。試合終了直前のアナウンスでは26,000人の入場者とのことだったので、入ったほうではないでしょうか。

 さて、Jリーグ初心者にとってはホントにビックリすることばかりでした。試合開始時刻が近づくにつれて、ホーム席は異様な盛り上がりを見せ始めます。応援歌?を大声で歌ったり、オーオーとこぶしを挙げたり、選手の名前を連呼したり、旗を上げたり下げたり、、、。皆さん、歌詞カードなんか見ないでもソラで歌っていますし、誰が音頭をとっているのか知りませんが、応援の調子が絶妙に揃っています。

 そんななか、我が家だけは別にそのチームのサポーターでも何でもないので、もう度肝を抜かれて女房と顔を見合わせるばかりでした、この熱気はなんだろうって。試合の前に子供が練習で使うユニフォームを買ったところ子供が着たいというので、それを着せてスタジアムに入りました。ホーム・チームのユニフォームと同じ柄です。そのおかげで、かろうじてホーム・チームのファンのように見えたと思います(もちろん、エセ・ファンですが)。

 肝心の試合ですが、後半10分くらいまでは0−2でFC東京は負けていて、もういいところなくボールを支配されていましたので、こりゃダメかなと思いました。ところがFC東京の選手が二名交代したところから俄然元気になってきて、我々が陣取る相手ゴール前に向かって怒濤の攻撃が始まったのです。回りのサポーターの人たちの絶叫がすごいです。もう総立ちなので、うちの子供は見えないよ〜と言って怒っていましたけど。

 そうして立て続けに2点取って同点となり、後半43分についに逆転したときにはもう鬼の首をとったかのような大騒ぎでした。やっぱりトップ・プロのプレーはすごいので、さすがの我が家も(周囲の熱気のせいもあって)熱くなりました。ロスタイムが5分もあってギョッとしましたが、そのまま試合終了となって3−2で大逆転勝ちをおさめたのでした。なんだか知りませんが(たまたま)応援したチームが勝つってことは、それはそれで嬉しかったですね。

 ちなみにFC東京の3点はワタナベ・カズマっていう選手のハット・トリックでした。彼は後半になって投入された選手だったので、監督の起用がドンピシャで当たったということでしょうか。いずれにせよ、男を上げましたな。

 その彼の名前が場内アナウンスされるのを聞いていて、なんだか聞いたことがある名前だなあと思いました。そうして思い出しました、渡辺数馬というのは確か荒木又右衛門で有名な『鍵屋の辻』(江戸時代初期です)の仇討ちの当事者だったなあということを。熱狂するゴールネット裏でこんなことを考えていたのは私だけでしょう。まあ、その程度のにわかサポーターだったということです。

 試合としてはとても面白く、いろいろとビックリすることも多かったのですが、ちょっと首を傾げるようなこともありました。サポーターのことですが、相手チームの選手の名前がコールされると親指を下に向けてブーブーと叫んだり、相手側のいいプレーに対してヤジを飛ばしたりしていたことです。スポーツなんだから、いいプレーに対しては敵味方を問わず、拍手するくらいの寛容さが欲しいですな、ナイス・プレーって。

 とは言うものの私自身がサッカーをしていた頃は、相手チームの選手に足を蹴られたりしたくらいで「何するんだこのヤロー」って喧嘩していたくらいですから、サポーターのマナー云々を口にする資格もありゃしません。



やっぱり 〜野口先生の記念会にて〜
 (2012年5月21日)

 今朝は金環日食一色でしたね。我が家の子供は学校で観察会があるらしく、朝7時過ぎには登校して行きました。7時半過ぎには確かに外が薄暗くなりました。昔のひとはこんな自然現象のことなど知らなかったわけで、さぞかし怖かったことだろうと思います。私はと言えば、奇麗な日食をテレビで見ただけです。しかしなんでこんなことで大騒ぎするのか、正直なところ私には理解できません。

 さて、この週末に千葉大学・野口博先生の『定年退職を記念して祝う会』が品川で開かれたので行ってきました。第一部では野口先生のご講演があって、研究のはなしと大学管理とか工学の未来とかのお話がありました。野口先生は21世紀には千葉大学の工学部長とか研究科長などを歴任され、大学の運営に携わっておいででしたので、それに関するお話だったのですが、工学部を10学科に改組したと言われても正直ピンときませんでしたな。

 工学の将来のあり方については、我々にとっても考えなければならない重要な課題なのですが、パワー・ポイントの枚数が非常に多くて、ゆっくり見る暇もなかったのは残念でした。野口先生ご自身がおっしゃっていましたが、プレゼンとしては中身を詰め込み過ぎで、もしも私が指導教員だったら間違いなくダメ出ししただろうと思います(野口先生、すいません)。

 そのあとの第二部は宴会でした。そこでは野口先生や私の師匠である青山博之先生をはじめとして小谷俊介先生、松崎育弘先生(東京理科大学名誉教授)、上村智彦先生(芝浦工業大学名誉教授)、石橋一彦先生(千葉工業大学名誉教授)、白井伸明先生(日本大学教授)といった蒼々たるひとたちが祝辞を述べられました。

 先生方のお話はいずれもタメになるし随所に笑いもあって、さすがでした。でも、関西の会(こちらをどうぞ)に較べると、やっぱりお固い雰囲気は隠せませんでした。丸田誠さん(島根大学教授)と「やっぱり、随分違いますねえ」と実感したのでした。「有限要素解析」とか「分布ひび割れモデル」とかの用語が宴席の場でフツーに語られる会って、やっぱり特殊です。関西の宴会ではそういう専門用語を語っていても、シャレのめして笑い話にしてしまうところがスゴいと思いました。

Noguchi_RTM2012

 でも久しぶりに「野口節」を聞くことができたし、いろんな卒業生たちと再会できたので嬉しかったし楽しかったです。野口先生は在任35年で200人以上の卒論生を育てたそうです。でも野口研究室の歴史を拝見すると、野口先生がお若かった頃には学生さんの人数も少なく、女性もいなかったことなどを知って、やっぱりそういうもんなのかなあと思いました。

 大林組の長沼一洋さんを中心とする幹事さんが『野口博先生と研究室の仲間たち 野口研究室アーカイブス』という立派な冊子を作って下さいました。私が寄稿した小文を載せておきます。

 なお、この日は折り悪しく大林組と大成建設とが談合事件にかかわる営業停止処分中とのことで、長沼さんをはじめとする十人程度の方が出席できなかったそうです。野口先生もさぞや残念だったことと思います。


ユーザの視点 (2012年5月17日)

 機械・建築実験棟において部分リプレースしたBRI載荷装置一式の取り扱い説明会を午前中に実施した。納入業者のSノミヤにお願いしたのだが、アクチュエータ制御用ソフトウエアの説明を聞いていて、使いにくいなあというところが幾つかあった。

 で、画面上の表記が我々の実験装置には相応しくないので修正して欲しいと言ったのだが、「これが標準ですので、、、」とのこたえ。うーん、数千万円もかけているのにそんなこともやってくれないのか、と首をかしげてしまった。そんな高価なものなのだから、個々の顧客に対応したもの(すなわち特注版)とするのが普通ではないだろうか。

 やっぱり大会社は小回りが効かないなあ。でもユーザの視点に立てば、それくらいは当然のことと考えてもらわないといけないと思う。もちろん新しく追加された機能のおかげで載荷システム総体としては明らかに便利になった(はずな)のだが、そんな些細なところで悪印象を持たれてしまっては、会社としては損失ですよ。そこのところはよ〜く考えて欲しいですな。


研究室考2012 〜鏡としての学生諸君〜 (2012年5月16日)

 ここ数年は卒論生がコンスタントにやって来るようになった。大学院生も嬉しいくらいに来てくれる。若い頃には、大勢の学生に私のやっている研究の魅力を知ってもらって、仲間に加わって一緒にガンガン研究してくれることを強く望んでいた。しかしそういうときには、何故だか学生さんは私の研究室の門を叩かなかったのである。オレはこんなにお前たちのことを思っているのになんで来ないんだあ、と絶叫しかかったことも一度や二度のことではない。

 ところがいつの頃からか、来るものは拒まず、去る者は追わず、をまさに地で行くような心持ちになってからであろうか。達観と諦観とがないまぜになったような心境であろうか。それは多分に私自身の年齢にも関係があるのだろうが、学生さんが来ても来なくても別にどっちでもいいや、と思うようになり出した頃から、学生さんが集まりだしたのである。なんとも不思議な心持ちである。

 だが、このことをただ単に喜んでいいのだろうか。このことは、学生諸君と一緒に最先端の研究に取り組みたいという私自身の情熱が薄れてきたことを暗に示しているのではなかろうか。私自身はそのように意識したことはないのだが、私の話す内容や言葉の端々にそのような「雰囲気」、すなわち学生さんにとっては安逸な感触をもたらす、耳障りの良い何かが微かに漂っているのではなかろうか。

 別の言い方をすると、私が学生諸君に対して抱いている期待度が昔に較べるとだんだんと下がってきていて、そのことをその年々の学生さんが如実に肌で感じて「これくらいの先生ならついていけそうだな。結構楽そうだな」みたいに値踏みするのではないだろうか。

 もしそうだとすると、これは実に嘆かわしいことである。学生諸君が楽をしたいというふうに思っていることが、彼らのbehaviorに表れていたことになるからである。それと同時に、私自身は研究に対して変わらぬ興味と情熱とを持っているつもりなのだが、そのようなオーラが弱っているということは、やはりそれなりの「情熱の衰え」みたいなものがあるのも事実かも知れない。大いに反省すべきであろう。

 もちろん年齢を重ねるにつれて、万骨枯るといったようなことになるのは自然の摂理なので避けようもない。しかし世の中にはそうではなくて、年齢を経るごとに知的活動がアクティブになって益々活躍してゆく驚異的なひとがいることも事実である。

 だが、全く逆に読み解くこともできる。若いころに較べると研究のテーマとか幅とかが格段に広がったのは事実である。このことは学生諸君の選択肢が増えたことを意味するので、このテーマならやってみたいというふうに思って志望する学生さんが増えたのかもしれない。すなわち学生諸君はいつだってやる気満々なのだが、こちらにそれに応えるだけの度量が私自身の若い頃にはなかった、ということになる。

 この考察に結論を出すことはできそうにもないが、いずれにせよ学生諸君は私自身の心映えとか学問に対する態度とかを如実に映し出す鏡である、と見た方がよさそうである。学生諸氏のことをあれこれ忖度するよりも、まずはおのれ自身の内部に深く沈潜して熟考せよ、ということなのかも知れない。


新歓2012
 (2012年5月15日)

 北山研究室の新人歓迎会を開きました。今年は新たに助教として遠藤俊貴さんを迎えたほか、修士一年生2名、卒論生4名が加わって、修士二年生3名、研究生1名とともに今までにも増してパワーアップしました。明るい人たちばかりなので、とてもよい雰囲気の研究室になりそうです。ちょっとバカすぎるきらいもなきにしもあらずですが。また、スペースの都合で研究室が二部屋に分かれざるを得ないことがちょっと気がかりです。まあ、仲良くやって下さい。

 これからの皆さんの活躍を期待しています。

Shinkan_2012KitaLab
 写真 2012年—北山研新人歓迎会にて


文化と風土 (2012年5月10日)

 ちまたで少しばかり話題になっている『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎、大澤真幸著、講談社現代新書、2011年5月)を読みました。私は別にキリスト教に帰依している訳ではありませんが、遠藤周作の『沈黙』の主題であったキリスト教の神とはいかなるものなのか、分かるかもしれないと思ったからです。

 ふたりの著者の対談形式となっている本書は読み易く、平易に書かれていますが、結論から言えばキリスト教とはなんなのかは分かりませんでした。ただ、キリスト教は不思議だということはよく分かりました。私の理解ですが、曖昧なところの多いキリスト教をよりよく理解したい、よりよい信者として生きたい、という人々の欲求が西欧文化を発展させた原動力だったのではないでしょうか。

 現代に至る西洋文明の根底にはキリスト教の影響が色濃く漂っていて、グローバル化した現代の文化の世界標準が西洋文明であることから、キリスト教を理解することは世界を理解することに通じるはずです。異文化を理解することは大切です。相手を知ればおのれがなんであるかにも思いが至るからです。

 でも、時々書いているように、文化はそれぞれの風土に密接に根ざしたものであり、ひとびとの信仰も同様に風土に依存しています。なので、日本という(西洋から見たら東のはじの)オリエントな国においてはキリスト教を理解できないとしても、それはまあ当然でしょう。

 キリスト教は一神教である(本書を読んでこのことを理解しましたが)のに対して、古代の日本人はやおよろずの神々を信仰しており、自然の至るところに神が宿っていると信じていました。自然は畏怖の対象であって崇め奉りさえすれ、征服すべきものでは絶対にありませんでした。西洋とのこのような大きな違いは、ひとえに日本という風土のなせるわざだったと考えます。

 本書を読んで、このような日本人の心性は大事にすべきだと思いました。アングロサクソン流の資本主義とか民主主義とかがわれわれにとってはシックリこないのも当たり前です。それなのに西洋流の契約社会を押し進めようってのは、どうなんでしょうか。

 ところで最近の大学では、入学してくる学生さんとの契約ということをよく言います。「履修の手引き」に書いてあることは学生との契約である、というように。ここでいう契約というのはまさに西洋流の思考に基づいているのでしょうが、われわれ日本人にはそういう発想はなかったと思いますね。古き良き日本では、教育は基本的には師と弟子という一対一の関係のうえに成り立っていました。そこにあるのは絆であり、信頼です。

 ですから私は、大学に入ってくる学生諸君と「契約」などという人間味を感じさせないもので結ばれている、とは考えたくありません。情動的と批判されそうですが、教育とはそもそも、自分が持っているものを相対する相手に全身全霊を賭して伝えるという点において、極めて情念的なものだと言ってよいと私は思います。


東京の富士塚 (2012年5月9日)

 今日は西川孝夫先生が会長を務める日本免震構造協会で会議があったので、神宮前に行ってきました。ちょっと早く着いたので、そばにあった勢揃坂というところに寄ってみました。写真のようになんのことはない緩やかな坂なのですが、後三年の役のときに八幡太郎義家の軍勢がここで勢揃いして出陣したというのが、その名の由来だそうです。いやあ、由緒が正しいですな。私の母校の裏側にこんな名所があったとは今まで知りませんでした。

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 勢揃坂(渋谷区)            鳩森八幡神社境内の富士塚

 で、会議がちょっと早めに終わったので、今度は千駄ヶ谷駅そばにある鳩森八幡神社に立ち寄りました。ここには完全な形で江戸時代の富士塚が残っています。今でも登ることができ、とても貴重な遺構です。頂上には小さな祠が建てられており、本物の富士山まで行かなくてもここに登って拝めばご利益があるという、江戸時代の民間信仰に基づいています。

 この境内だけは緑が多く茂っており、千駄ヶ谷駅から歩いて5分の東京都心とは思えない静けさでした。高校生の頃には千駄ヶ谷駅から毎日学校に通っていたのですが、迂闊にもここには来たことがありませんでした。まあ、高校生くらいの時分には歴史とか遺跡とかにはフツーは興味ないでしょうけど。


トパーズのいろ (2012年5月6日)

 ゴールデン・ウイークもとうとう終わりです。こどもの日にやっと天気がよくなって鯉のぼりを泳がせ、今日は近くの公園に行って遊びました。明日からはまた学校だあ、と(私ではなく)子供が残念そうに言っています。

 週末の朝日新聞土曜版にグレープの『精霊流し』が載っていました。高校生のときに聞いて以来、もの悲しい曲だなあと思っていました。この記事を読んだせいでしょうか、久し振りにさだまさしを聞いてみたくなりました。

 高校生の頃には『雨やどり』が大ヒットしており、彼の曲はよくFMラジオから流れていました。『絵ハガキ坂』、『飛梅』、『セロ弾きのゴーシュ』なんかはエアチェックしてカセット・テープに録音して聞いていました。でもカセット・デッキはとうの昔に壊れてしまって、もう聞けません。

 しかし現代では、ネットで探せばいくらでも聞くことができます。ホント便利ですね。で、YouTubeにアップされているこれらの曲たちを聞いているうちに、『つゆのあとさき』という曲にたどり着きました。何となく覚えていてしばらく脳内の記憶をあさっていると、サビの部分も口ずさむことができました。

 そして三十五年ぶりくらいにこの曲を聞いたのです。いやあ、いい曲ですね。私のなかの名曲に数えてもいいくらいです。ちなみに私が名曲と認めているのは、

 『アイリーン』 安部恭弘
 『あとがき』 風(伊勢正三と大久保一久)
 『バルセロナの夜』 佐野元春

くらいでしょうか。

 さて、さだまさしの『つゆのあとさき』ですが、その歌詞のなかに「トパーズ色の風は、、、君のあとを駆け抜ける」という一節があります。この歌詞を聞いて、風の『トパーズ色の街』という曲を思い出しました。こちらも私が高校生の頃に発表された曲です。ここでやっと本題に入ります。このトパーズ色の風って、一体どんな色なんでしょうか。

 宝石には縁遠いのでよく知りませんが、トパーズ色って淡い黄色みたいな感じでしょうか。『トパーズ色の街』は晩夏から初秋にかけての、夕暮れどきには何となく物悲しくなる季節の歌ですので、多分、落ちかかった夕陽を浴びてほんのりと黄金いろに輝く街の哀愁を歌ったんだと思います。

 それに対して『つゆのあとさき』は、これはどうもよく分からないのですがタイトルからすると6月から7月にかけての時期でしょうか。この時期のトパーズ色の風って、どんないろなのか。私の想像は、どんよりとした梅雨ぞらのもとで、ふっと薄陽が差したときの空気の輝き、みたいなものです。いかがでしょう、でもさだまさしフリークにとっては既に定説があるのかも知れません。

 ちなみにさだまさしですが、『雨あがり』のあとに『関白宣言』がさらにヒットしましたが、私はこの曲は好きではなかったので、その後は全く聞かなくなって現在に至っています。それでも『つゆのあとさき』や『セロ弾きのゴーシュ』などの初期の曲なんかはもう一度聞きたいですね。


憲法2012 (2012年5月3日)

 今日は憲法記念日です。新聞を見ていると信教の自由に関連して、公立小中高校で教職員に対する日の丸・君が代の強制について書かれていました。私は別に日の丸も君が代も嫌いではありません。自分自身が子供だった頃には、フツーに君が代を歌っていました。ただその当時は、日の丸に一礼するような先生はいませんでしたね。

 このように個々人が自分の好きなようにやれることと、ひと(もっと言えば公の権力)から強制されて渋々やることとでは雲泥の差があります。先日、こどもの入学式に参列したのですが、起立して君が代を斉唱するように言われたときには違和感を覚えました。私は天の邪鬼ですから、強制されると歌いたくありません。また、校長先生が演壇の日の丸に最敬礼する姿にもあまりよい感じはしませんでした。

 権力から何かをするように命じられるとき、特にそれが日の丸や君が代という歴史的に見て「戦犯」としての過去を有するものであるとき、われわれは慎重になるべきだと強く思います。昭和の時代の初期に国民がこぞって(好むと好まざるとにかかわらず)戦争へと向かった事実を忘れてはなりません。国民全体がそのような過去を忘れることなく、二度と戦争の惨禍を味わったり味わわせたりすることがないように今の憲法は作られました。その根幹をわれわれはもっと尊重し、実行しなければならないと思います。

 権力というものは人知れず、われわれの身近に忍び寄ってきます。そもそもそういう性質のものだからです。ですから市井のひとびとはそのことに十分に注意する必要があります。俺はそんなこと知らないよと言っていると、いつのまにか権力にがんじがらめに縛られて身動きがままならない事態に立ち至ります。それが戦争前の日本でした。いまは見せかけの自由という砂上の楼閣のうえに危ういバランスを保っている、そういう状況のように思えます。

 ときの権力が国民主権を侵害することがないように権力を牽制し、国民を保護することこそ憲法の役割です。憲法も空気のようなものではありますが、一年に一度くらいはそのありがた味を認識するのもいいかな、と思ってこの一文を書いてみました。いつもこんなことを考えている訳ではありません。ただ、権力には与せず、善良なひとりの市民として自由に暮らしたいという私の立ち位置は変わることはありません。


かぜ薫る
 (2012年5月1日)

 風薫る五月になりました。やっと心地よい陽気となり、木々の若葉もこれで安心して伸びてゆけるといった風情です。私がいつも観測?している学内のハクモクレンですが、今年はどういうわけか白い花をつけることなく、若芽が出てきました。春先があんまり寒かったせいでしょうか。それとも何か天変地異のまえ触れか。はたまた福島第一原発からの歓迎されざる目に見えない物質のせいか。うーん、木になる、じゃなかった、気になります。

 我が家のハナミズキもやっと白い花が満開になりました(下の写真です)。秋口に枝葉を刈り込んだので、あんまり花は咲いていませんが。この木は結構太くて、専門の方に見てもらったところ、50年から60年くらい立っているのではないか、とのことでした。ということは、この家が建つずっと以前からここに立っていた、ということです。それだけでなんだか、よしよし、よく頑張っているな、と思ってしまいます。

 さて、五月の連休になったら、鯉のぼりを飾るとしましょうか。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro:写真:我が家の木2012:CIMG2291.JPG


早い朝 (2012年4月27日)

 ここのところ、岸本一蔵さん流に早起きして大学に登校している。といっても、日の出が早くなってきたので、お日様はもう出ている。朝もやに煙る野川沿いを歩きながら登校するのは気持ちがいいですな。

 で、南大沢駅に着いて改札口を出るあたりになると、都心方面はちょうどラッシュの時間みたいで、駅に向かって足早に急ぐひと達が津波のようにこちらに向かってドワーっと押し寄せて来る。それはもう、ものすごい人波で(局所的には新宿駅並みです)、こんなにたくさんのひとが南大沢近辺には住んでいたのかと改めて驚かされた。

 考えてみると南大沢駅前には大学もあるし、三井アウトレットモールもあるし、イトーヨーカ堂もあって、一日中途切れることなく大勢のひとで賑わっている。こりゃあ、京王電鉄は相当に儲かっているな、と思わざるを得ない(まあ、どうでもよいことではあるが)。その分を乗客サービスなどに還元してくれるといいのだが、、、。


二十周年 (2012年4月26日)

 東京都立大学および首都大学東京での北山研究室は2012年4月に記念すべき(?)二十周年を迎えました。二十年前の1992年4月に建築学科地震工学講座(西川孝夫教授主宰)の専任講師として着任し、たった独りの卒論生とともに研究活動をスタートさせたのでした(このあたりの経緯については「北山研ヒストリー」のコーナーに詳述しました)。着任当時はまだ三十歳そこそこだったので、怖いもの知らずの(周囲から見たら)高慢な若者だっただろうと今にして思います。

 もう時効でしょうから書きますが、特に建築学教室の会議では並みいる先輩がたに相当楯突いていました。まあ若さゆえに理想を追求していたところがありましたね。例えば学部カリキュラムの改変を議論したときに、皆さんは必修科目の導入に否定的でしたが、私だけは強く必修を主張しました。意見を表明されない先生方もいたので、「それならば多数決をとって下さい」と(向こう見ずな)私がお願いしました。そのときの主任が誰だったかはもう忘れましたが、そんな私の取り扱いに苦慮されたと思いますが、多数決をとってくれました(このこと自体、異例でしょう)。

 するとなんと、必修賛成は私だけで他の十数名の先生方全員が反対だったのです。そのときはホントにビックリしました(今でも昨日のことのように思い出します)。学生の自主性なんかに任せていたら、建築学科の卒業生として必要な知識を修得することなく出て行ってしまう学生が続出すると思っていたからです(もっと具体的にいえば構造力学関連の知識です)。そしてダメ押しするように深尾精一先生が「教室として決まったことなので、従ってもらわないと困ります」と仰ったのでした。多分、不服そうなわたしの顔にそんな決定には従わないぞ、と書いてあったんでしょうね。

 しかし伊藤直明先生(建築環境学、故人)だけは、そんな跳ねっ返りのわたしをいつも暖かく見守って下さいました。伊藤先生の研究室に呼ばれて、親しくお話をして下さったこともありました。伊藤先生は退官されるときに私に向かって「厳しい先生になって下さい」と言われたことを今でも忘れません。学生に迎合することなく、常に厳しい態度をとっていた私に、どこまでやれるかやってみなさいとエールを贈って下さったんだと(自分に都合のいいように)思います。

 その頃に較べると、さすがに年齢相応に角がとれてきたとは(我ながら)思います。ただ、いつも書いているように「物わかりのいいおとな」になる気はサラサラありません。特に研究に対しては、常に妥協を許さず全身全霊を賭して取り組んで行きたいと思っています。東京都立大学・首都大学東京での折り返し点は既に過ぎましたが、さらに幅広く、いろいろなものに興味を持って教育・研究に従事したいですね。


サンドバッグの気持ち
 (2012年4月24日)

 昨晩も建築防災協会の委員会で、某物件の審査担当だったので説明しました。しかし顛末はさんざんで、まあ予想されたとは言え、それをはるかに上回る質問、批判、疑義の嵐で、もうボロボロになりました。まあ、資料を作成した申請者に対する批判とか何やってるのか分からん、といったご指摘はその通りのところもあるので、仕方ないと思います。

 しかしそのうち舌鋒鋭い批判は、私が書いた評価書の文言にまでおよび始め、この文章の語尾がおかしいなどと言われる始末と相成りました。もちろん妥当な部分も多々あるので、仰せごもっともなんですが、あんまり細かいことまで(どうでもよいことも)言われるに至って、久しぶりに頭に来ました。

 その委員会には武藤・梅村研の先輩方が多数ご参集なさっているので憚られるところですが、我慢できなくなって(例によって気が短いので)そんなに面倒なこと言うなら、もう全部削除して下さい、がたがた言わないで下さい時間の無駄ですからっ、と言ってしまいました。

 でもそう言い放った後は(予想されたことではありましたが)、ホント気分が悪かったです。いくら先輩でもそんなに言わなくてもいいんじゃないか、と帰りのあいだじゅう、鬱屈した気分を引きずってトボトボと歩いていました。出来の悪い申請者に代わって、なんで私がこんな立場に立たなければいけないのか、理不尽極まりない。こんな仕事はもう金輪際お断りだわい!と言いたいところですが、いろんなシガラミがあってそうもいかないでしょうな。

 もの言わぬサンドバッグって、こんな気持ちなんでしょうか。サンドバッグに宿った神は、理由もなく理不尽に殴り続けられることをどう思っているのでしょうか。どう考えても割に合わないです。


ひといき (2012年4月20日)

 懸案だった建築都市コースのアニュアル・レポート作りがやっと終わりました。和文はともかく、英文作りには毎年腐心します。細切れの時間で英作文することになるので、脳内思考を英語モードに切り替えるのがいつも大変です。その度に、日本語ってなんて曖昧な言語なんだろう、と思いますね。Nativeの書いた英文を読むときには、これはと思う英文や言い回しをコツコツと記録しているのですが、そのメモがこんなときには大いに威力を発揮します。

 科研費の成果報告書とか実績報告書もなんとか仕上げたので、これでとりあえずは2011年度の仕事が一段落ついたことになるかな。やっとひと息つけそうです。今日の午前中には鈴木清久ゼミが始まったし(その標語は「継続は力なり」だぞ)、午後には新M1ふたり(岡崎さんと島くん)のここ一年間の研究テーマを決めたし、鋼管杭の実験も田島祐之さんの尽力で1体めの載荷が終了したので、これからは新年度モード全開となるといいのですが。


教える (2012年4月18日)

 一年ぶりの講義が先週から始まりました。大学院の『RC構造特論第2』と学部の『構造力学1』です。大学院のこの講義は昨年は休講にしたので(サバティカルだったためです)、今年はM1とM2の二学年合同となって受講者が15、6名もいるという盛況(?)になりました。

 学部の授業の方は選択必修のためにほとんど全ての学生さんが受講しており、数えたら65名いました。今日は60分ほど講義したのですが(そのあとの30分は演習です)、開始から30分もすると教室のなかがソワソワしだして、後ろを向いて友人とヒソヒソ話す学生も出てきました。最近の若い人(って、年寄り臭いセリフですな)は集中できないとよく言われますが、まさにその通りです。「あと30分で終わるから、もうちょっと我慢してね」と言って、なんとか頑張ってもらいました。こんなセリフを吐くようになったのは、ここ七、八年くらいでしょうか。

 で、授業を終わって自室に戻ると、同僚の角田誠先生がやって来て「授業をやっても全然反応がないんだよう」と悲しそうに言うのです。聞いてみると、都市教養プログラムという全学向けのいわゆる教養の授業のことでした。何を言っても暖簾に腕押し、豆腐に釘、のようで教室中がしら〜としているそうです。これって、こちらにとっては不気味な状況だし、教え甲斐もないし、そんなカボチャみたいなギャラリーを相手に俺、何してるんだろ、と魔が差しても仕方ありませんな。

 まあ私も『建築文化論』で経験がありますが、教養の授業では教える教員と聞いている学生さんとが完全に「他人」化しているんですね。同じ教室に居ながら、その場の空気を共有していない、と言ってもよい。すなわち我々教員が何を言っても、学生さんのほうは自分には関係ない、無関係な世界の話、という風に思って聞き流しているんじゃないでしょうか。

 そう言えば先月、学生さんによる授業評価による結果が戻って来ました。『建築文化論』については、授業開始から10分以降は入室を認めない、という鳥海方式に対するブーイングが溢れていました。全くなに言ってやがるんだあと、こちらも人間ですから思いましたが、まあご意見は真摯に受け止めないといけないでしょうな(と、不誠実な政治家みたいなことを言ってみたりする)。

 いつも書いていますが、教えるってことはホントに難しいです。間の取り方とか、声の強弱とかメリハリとか、5分間ペーパーを書いてもらうとか、いろいろと気を使いますが、如何せんこちらは専門的な教授法の教育を受けたこともありませんので、限界があると思います。そのうち、黙って坐ってられない学生さんばかりになって、小学校の学級崩壊みたいな事態になったら、どうすりゃいいんでしょうか。想像するだけで恐ろしいです。


組織と個人
 (2012年4月13日)

 折に触れて書いているように、私はひとに管理されるのは嫌いです(まあ、誰でもそうでしょうが)。でも大学という組織に属しているのは紛れもないことです。ですからできるだけ管理する側には回らないように、また管理者側からの介入を避けるように、自分自身で判断して行動しています。ひとからどう思われるかは、二の次、三の次にしています。

 すなわち私がやる研究はまさに自分の個人的な興味や関心に根ざしたものだけであって、管理する側からああしろ、こうしろと言われてやるものでは決してありません。私の実施する研究は将来、ひとびとの幸福の増進や社会の安定に寄与するものかも知れません。そうであれば幸いです。しかしながら、研究をしているそのときにはそのようなことを考えたことは(ほとんど)なく、おもしろいなあとか楽しいなあ、なんでだろう、どうしてだろう、不思議だなあ、などと考えながら研究に没頭しているのです。

 ですから、このきわめて知的な研究という場には是非とも組織の論理を持ち込まないでいただきたい。そうでないと、口はばったい言い方になりますが、よい研究はできないし、その結果として社会に役立つような研究など出来るはずもありません。複数の人間で共同する研究にもそれなりの醍醐味とか旨味とかはありますが、結局は個々人の考える研究が大学における全ての知的活動の基盤になっています。このことは間違いありませんので、強調しておきます。私は皆さんご存知のようにわがままな人間ですが、良識ある大学人でありたいとは常に思っています。


一勝一敗 (2012年4月9日)

 トップページに記したように、日本学術振興会の科学研究費補助金をめでたくゲットすることができた。年度の切れ目なく科研費をいただけるのは久し振りなので、なおさら喜びもひとしおである。これでまたプレストレスト・コンクリート構造の実験に取り組めるので、それもまた嬉しいし、正直なところホッとした。やっぱり我が社では実験研究が主軸なんだと実感する。

 昨年の10月に科研費の申請書を作っているときには、同僚の角田誠先生に見てもらっていろいろとアドバイスを貰ったし、青研の先輩である芳村学先生には申請書の冒頭部分を読んでいただいて貴重なご助言を賜った。そういった皆さんのサジェスチョンのお陰だろうと思う。こういう申請書って、ともすると独りよがりになりがちなので、他人さまの目で見てもらうことの重要性をひしひしと感じますな。

 ということで、昨年度に申請書を作成してトライした公募研究費のうち、三月のこのページに書いたように某財団の研究費はあえなく落選したので、一勝一敗という成績になった。もちろん今回ゲットした科研費のほうが金額的にもはるかに大きく、かつ三年計画なのでずっと価値が高いのは勿論である。

 こうして実験研究の予算は確保したので、次は一緒に研究してもらう我が社の大学院生や卒論生諸君の頑張りに期待したい。しっかりやってくれよ、皆さん。


履修相談会 (2012年4月6日 その2)

 今日はこの四月に入学したフレッシュマンのための履修相談会があって、私が担当でした。午後の約3時間、ひっきりなしに一年生たちがやって来ました。そんなに質問することがあるのかと思いましたが、いやあ、授業科目の履修は(分かってはいましたが)複雑ですね。「履修の手引き」を初めて目にする学生さんにとっては、私のような古株には当たり前のことでも、分からないことが多いようでした。

 そもそも単位とは何ぞや、ということを聞く学生さんも複数いました。これにはグッと来ましたが、「履修の手引き」はよくできたもので、単位とか単位制についてもちゃんと載っていました(もっともそれを見つけたのは、質問した当の学生さんだったのですが。あはは)。私自身も随分と勉強になりました。

 高専から三年次に編入した学生さんは全て質問に来ました。彼らにとっては単位認定が重要で、残り何単位をこの二年間でとればよいのか、がんじがらめの縛りを考慮しながらちゃんと計算して、履修計画を立てるように言いました。でも、二年間で卒業するのはやっぱり大変そうでした。やればできる、と言っておきましたが。


すずかけ台というところ
 (2012年4月6日)

 昨日、東工大のすずかけ台キャンパスに坂田弘安先生を訪ねに出かけました。このキャンパスは東名高速道路と国道246号とのあいだにあって、そのなかの高層棟は東名高速からもよく見えますのでご存知の方も多いでしょう。最寄り駅は東急田園都市線のすずかけ台駅です。この路線は私にとっても馴染み深いものですが、如何せん長津田駅までしか行ったことがなく、今回、生まれて初めてすずかけ台駅で下車しました。坂田先生のお話によると、すずかけの木は学問に関係があるとのことで、それにちなんでキャンパス名がつけられたということです。

 で、そのキャンパスですが、我が大学と同じくらい田舎染みていました(なんていうと、東工大の人たちからブーイングが聞こえそうですが)。キャンパス自体はそんなに広くはなさそうでしたが、地形がアップ・ダウンに富んでいるために、各建物へのアクセスが意外と分かり難いという特質があります。

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 キャンパス内には耐震補強された校舎が幾つかありましたが、それらは和田章先生が設計されたものだそうです。写真をご覧いただくと分かりますが、壁脚をピンにした連層耐震壁(プレストレス入り/その計算は坂田先生が為さったとのこと)がズドンと通っていて、これで地震時の建物の振動を強制的に一次モード卓越型にするのだそうです。各層との接続部に制振装置も入っています。見たことのない、ユニークな発想が和田先生らしいですね。

 こうしてひとしきりすずかけ台キャンパスを歩き回ってから、R3棟の6階にある坂田研究室に向かいました。この建物も結構古そうで、耐震補強は必要ないのかとお尋ねしたところ、Is値は0.6くらいあるとのこと。うーん、まあギリギリってところですかね。微妙な数値ではありますな。

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  坂田教授室にて(山崎くんに撮ってもらいました)

 すずかけ台キャンパスは基本的に大学院だけなので、坂田研究室にも大学院生しかいませんが、修士課程と博士課程の大学院生それにポスドクを合わせて結構たくさんいました。聞いてみると、我が社よりも多かったです。坂田研ではRCやPCのほかに木造も研究テーマに組み込んでいますから、幅広い人材が集まっている、ということかもしれません。見習うべきところは多々ありますね。

 ポスドクの方のなかに、東京都立大学の旧藤田研究室(木質構造)を卒業した山崎くんがいて、坂田先生とともに実験室を案内してくれました。COEの予算で構築したという実験装置がすごかったです。よく見ると「多自由度大変位実験システム」という銘板が貼られていました。とっても複雑そうで、これを使いこなすのは大変そうだなあというのが第一印象でした。でも上手く使えば、博士論文が三つくらいは直ぐに書けそうにも思いました。鉄骨構造を専門とする山田哲先生がもっぱら使っているそうです。

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 お忙しいなか、お相手して下さった坂田弘安先生に御礼申し上げます。さて坂田研究室を辞去したあと、せっかくここまで来たので、この四月に新たな研究室を構えたばかりの河野進先生のところにアポなしで突撃訪問してみました。いるかなあ、とか思いながら。

 河野さんの名前のあるドアを叩きましたが返事がなく、施錠されていました。やっぱりいないかあと思って、ちょっと落胆しながら振り返りました。すると向かいの部屋のドアが開いていて、そこにひとりのひとがパソコンに向かって一心に何かやっている姿が目に飛び込んできました。あれあれ、よく見るとそれが河野さんでした。どうですか(これ、私の師匠・青山博之先生の口癖です)ってな感じです。私が新生河野研究室の第一号の訪問者だそうで、光栄です。

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  河野教授室にて(誰もいないので、私が御自ら撮影しました)

 でも上の写真では分かりませんが、広い部屋にはがら〜んとしてなんにもありません。学生さんのための部屋も羨ましいくらい潤沢なスペースが割り当てられていますが、こちらも何もありません。聞いてみると、ここでは教員個人が調度類を揃えるというのがルール(あるいは掟か?)だそうです。これは大変なことだと思いました。上の写真の机類も河野さんがご自分で持ってきた、と仰っていました。さすが独立王国の東工大です。ひとりひとりの教員がそれぞれ研究費を取ってきて好きにやりなさい、ということでしょうか。

 河野さんの今後のご活躍をお祈りします。これからたくさんの大学院生を集めて、いっそうアクティブに研究を進めて下さい。そのうち、研究室対抗の野球(女性もいるから、ソフトボールかな)でもやりましょう。

 でも、このような厳しい「風土」のなかで生きてゆくのは、ぬるま湯のような都立大学で過ごしてきた私にはできそうにもないと思いました。河野さんとキャンパス内を歩いていると、偶然に近藤慶一くんに会いました。岸田研究室出身で、卒論のときに私のところに実験しに来ていた学生さんです。まあ世間は狭いってことですね。


春の嵐
 (2012年4月4日)

 昨日は午後からもの凄い嵐になりました。半年前の台風のときにしぶとく大学にいた結果、電車はストップするわ、びしょ濡れにはなるわでエライ目に遭ったので、きのうは具合が悪かったこともあって早めに帰宅しました。学習効果、でしょうか。でも、びしょ濡れにはなりましたね。たいへんな強風だったので、電車が多摩川の鉄橋を渡るときにはかなり怖かったです。多摩川を渡り終わったときには、これでなんとか家に帰れるメドがたったと思ったほどです。

 大学では入学式はまだなのですが、本学では新入生を対象とした英語試験が昨日実施されて、大勢のフレッシュマンが教室に集まっていました。四月ですが正門脇の桜はまだ咲いていません。でもこの嵐なのでせっかくの花が吹き散らされなくてよかったね、ってな感じです。教室棟の中庭の水仙は今日見るとやっと咲き始めていました。定点観測している(?)国際交流会館前の桜も同様です。したの写真はいずれも4月3日朝に撮影したものです。

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 ところで新年度になって、建築都市コースの構造系は相当に陣容が変容しました。中村、見波の助教二名が相次いで他学に転出して、新たに助教として遠藤さんが着任しました。本学でもご多分に漏れずリストラが行われているため助教の数が減ってしまい、教授・准教授の下に助教を付ける、という昔ながらのやり方はもはや採れません。ですから、新しく来た方がどこかの研究室に所属する、という訳でもありません。ただ、今までの経緯から、遠藤さんには北山研究室に席を置いてもらうことになりました。

 助教というのは英語ではAssistant Professor です。すなわち「教授」の一席であることには違いありません。とは言え、構造系の先生方とは密接な関係を持って、講義とか研究とかに積極的に関与してくれることを期待しています。

 ちなみに春の嵐で思い出した曲は、竹内まりやの『恋の嵐』です。皆さんはいかがでしょうか。


年度末2012
 (2012年3月30日)

 JCI年次論文の提出がやっと終わって、今は15WCEE(第15回世界地震工学会議)の論文を作っています。図表を作成しているのですが、どうにも上限枚数に納まらずに苦心しているところです。

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 さて年度末を迎えて、機械・建築実験棟のBRIフレーム(建研式の逆対称曲げ・せん断載荷装置)の部分リプレースが完了しました。軸力を2000kNまで載荷できるように鉛直アクチュエータを交換するとともに、制御システムを一新して(遅まきながら)コンピュータ制御できるようになりました。担当していただいた助教の見波進さんも本日辞令が交付されて退職されます。四月からは新天地でさらなるご活躍をお祈りしています。

 いま、クレイジーケンバンドの最新アルバム『イタリアン・ガーデン』を聴いています。なんだか懐かしいサウンドで、特に際立った曲があるわけでもないんですが、これぞニッポンのロックといった感じを受けます。男のための男による純情(?)ロックってな趣です。CDという媒体になってから、アルバム内の曲はどこからでも聴けるので、曲順はあまり意識されないようになったようですが、このアルバムは違います。最初から最後までシーケンシャルで聴くように細工されていますね。なかなかGoodです。堺正章とのデュエットも楽しいです。

 大地震の被害調査から始まった2011年度でしたが、それも今日でおしまいです。四月からは新しいメンバー(新規着任の助教、M1が二名、卒論生が四名)を迎えて、さらにパワーアップした北山研究室が始動するといいですね。そうなることを期待しています。ワクワクだぜっ!


初音2012 (2012年3月28日)

 陽光にも力強さが感じられるようになり、やっと春めいてきました。我が家のそばを流れる野川に棲んでいるカワセミのピッピくんも、どうやら彼女を捜し始めたようで、ピイピイさえずりながら訳もなく(と、私には見えるのですが)飛び回っています。昨日は野川に注ぐ排水口のうえに見慣れぬカワセミ嬢と一緒のところを見掛けたので、好みのタイプを見つけたのかも知れません。

 また今日のお昼には、大学図書館の脇に広がっている武蔵野の雑木林のなかからウグイスの初音を聞きました。例年に較べるととても遅いですね。正門前の桜の蕾みも急に大きくなってきましたから、生命に満ちあふれる春爛漫ももう直ぐそこまで来ているように感じます。

 研究室のほうは、学生たちの居室の模様替えも済んで、四月からのフレッシュマンを迎える準備が整ったようです。明日がJCI年次論文の修正等の締め切りなのですが、WPCの長谷川くん(高木研)を除いた我が社の社員は誰も完成版を持ってきません。そんなにギリギリまでやらずに、サッサと片をつけたほうが気が楽なのに、と思わずにはいられません。早いところお願いしますよ、ホントに。

 昨晩は虎ノ門の建築防災協会で、ある物件の耐震補強法の妥当性を審査する委員会がありました。委員長は千葉大学名誉教授の村上雅也先生です。理事長の岡田恒男先生もご出席されます。その物件の部会担当は私だったので、申請者である某大手組織事務所の所員になった積もりで説明しましたが、審議案件はこれだけだったこともあって、もうものすごい質問・疑問の嵐に遭遇して、あえなく遭難したのでした。

 このような公的な審査委員会の委員を務めることは社会貢献のひとつであると認識しています(つまりは半分ボランティアです)が、それにしても申請者は有り体に言えば金儲け(あるいは生活)のためにやっているわけです。そのような人たちに成り代わって、どうして私があれこれ説明して、さらには機関銃のような質問の矢面に立たにゃならんのか、もう理解に苦しみます。二時間近い委員会でボロボロになり、それでも何とかやり過ごして、部会担当の太田所長と二人でボヤキまくった一晩でした。


今どきの門出
 (2012年3月26日)

 この週末、私の研究室を卒業したNくんの結婚披露宴が都心であった。今は大手ゼネコンのT工務店に勤めており、世間一般から見ればエリートだろう。私は乾杯の音頭を頼まれたので短いスピーチをしたのだが、至極常識に則って褒めまくっておいた。事実、彼は修士課程の二年間で二本の査読付き論文を書くという、我が社でも過去に数人しか成し遂げていない「偉業」を達成しているので、偽りはない。

 でも本当は、実験する前に試験体を壊しかかったこと(エピソード)を話したかったんだな。彼には鉄骨ブレースで耐震補強した2層3スパンのRC平面骨組試験体を用いた実験を担当してもらった。非常に大掛かりな実験だったし、試験体作製にも多額の費用を要したため、試験体は1体だけだった。

 その1体しかない骨組試験体にまず始めに軸力を載荷したときに、圧縮力をかけすぎて柱を半分ほど座屈させてしまったのである。しかし試験体はそれしかないので、何とか復旧して実験を続けたのであった。このことは当然、前述の論文にも記述せざるを得ず、実験結果の記述の前に「事故の影響」とかいう一節を加えるという、とてもカッコ悪いことになった。

 しかしまあ、そういうアクシデントも乗りこえて無事大学院を修了し、持ち前のガッツを引っ提げて社会で活躍しているのはとても喜ばしい限りである。で、宴たけなわの頃に、Nくんの会社の同僚やS浦工業大学の同級生たちが出し物をして場を盛り上げてくれたのだが、いずれも変な服装をして登場し、おまけにこのためにわざわざムービーを作成して上映してくれた。

 それがいずれも相当に凝っているし、もっと言えば相当程度にバカバカしかった(作った方、どうもすいません)。私も遠い昔、塩原等先輩に頼まれて結婚式の二次会用のスライドを作ったことがあるが(当時は今のようにパソコンが発達していなかったのでムービーなんか手軽には出来なかった。ネガ焼き写真を一眼レフカメラで一枚ずつ接写してスライドを作ったのである)、いまの時代は動画を簡単に作っちゃうんですな。デジタルなので編集もサクサクできるみたいだし。今どきの若者の披露宴ってこんな感じなんだと、妙に感心して帰ってきたのであった。


リハビリテーション
 (2012年3月22日)

 再三書いてきた私のサバティカルも、残すところあと1週間になった。ちょうど一年前に東北地方太平洋沖地震が発生してから、建物の耐震構造の研究者である私の生活も否応なく大きく変わった。現地に行って被害調査をして、報告書を書いたりアドバイスをしたり、講演したり、論文を書いて発表したりと活動してきた。これらの活動を相当程度に自由に行えたのも、この一年間はサバティカルとして授業とか学内運営とかの多くのお仕事を免除していただいたお陰であった。

 この一年間の活動は、まさに特別研究期間(本学のサバティカルはこのように呼称されている)になすものとして相応しいものだったと今は思っている。もちろん、多勢のひとたちが不幸を経験したことは本当に悲しいことで、本来そういうことはあってはならない。地震による災害も人災もともに防がなければならなかった。それができなかったことをわれわれ地震工学に携わるものは真摯に反省し、この貴重な教訓を土台として防災や減災を前進させることが要求される。

 という訳で、この一年間に取り組んできたことはこれで終わるわけではなく、さらに継続して研究活動等を進めてゆくことになる。ただ、4月からは講義もあるし、学内の委員会等のお仕事もやらないといけない。そのためにそろそろ「学内復帰」するためのリハビリテーションにかからないとまずいだろうな。といっても別に運動する訳でもなく、登校する時間を変える訳でもないので、私の頭の中の意識を変革するように心がける、ということだろうか。

 ちなみに本学のサバティカルは毎年各コースで1名程度しか採用されないので、将来再び私に回ってくることはもうないと思う。そもそもこの制度自体が継続される保証もない。ということで、次にこのような自由な身になるのは定年退職したとき、ということになるだろう。いやあ、一抹の寂しさを感じますな。


選に漏れる
 (2012年3月21日)

 お彼岸を過ぎたというのに、相変わらず寒い。ハクモクレンの白い蕾みも小さく固まったままである。今日は我が大学の卒業式で、みな有楽町の東京フォーラムに行っているせいか、南大沢のキャンパスはがらんとしてひと気がなかった。

 さて、某大手ゼネコンが主宰する財団の研究助成に昨秋、応募したのだが、その結果が先日送られてきた。その封筒を見たときペラッペラだったので、これはダメだったかなと思いながら開封したが、案の定、あえなく落選との報告が入っているだけだった。

 申請書を作ったときには、これなら絶対に選定されると思っていたし、研究タイトルをつけるときには角田誠さんに相談して「こりゃ、絶対当たるな」と言われるくらいに工夫した(つもりであった)。

 それなのにこの結果である。もう、相当にガックリ来ました。4月からの研究では、この助成金を大いにあてにしていたので(捕らぬ狸の皮算用とはこのことか)、研究方針の転換をはからざるを得ない。自分では自信満々の申請書だったつもりだが、なにせ競争相手のあることだから、他の人のほうが優れていた、ということなのだろう。

 しかし逆に言えば、わずか数枚の書類で多額の助成金をいただこうというのだから、虫のよい話でもある。大学からの研究費はどんどん少なくなり、自分で研究費を獲得することは是非とも必要なので、これにめげることなくこれからもいろんな研究助成にトライしようと思う。


米子で巨匠にふれる
 (2012年3月19日)

 この週末に仕事で米子に行ってきました。米子って鳥取県の西部にあるのですが、すぐ脇はもう島根県なんですね。江戸時代に米子を治めていた殿様は誰だろうか、と思ったのですが、米子鬼太郎空港で手に入れたパンフレットを見たら、鳥取を領地とした池田家中の家老・荒尾氏が米子城を預かっていた、ということでした。この家老は陪臣(殿様の池田氏は徳川将軍の直臣で、その池田氏に仕える家老は将軍にとってはまたもの、すなわち陪臣にあたります)とは言え、一万五千石を食んでいたそうなので、小さい大名並みだったことになります。

 さて、その米子で名所や名産はなんだろうかとタクシーの運ちゃんに聞いたのですが、「なんにもないんですよ」というのがその答えでした。強いてあげれば、すぐそばの境港の鬼太郎ロードですかね、とも。でも、私がかつて調布に住んでいたときには、同じマンションに水木しげるさんご夫婦がお住まいだったし、すぐ脇の布田天神通りにはゲゲゲの鬼太郎とか目玉親父とかの像が飾られていたりで、珍しくも何ともありません。そうか、何にもないんだあ、と落胆を隠せませんでしたが、はるばるやってきたよそ者に、もう少しなんとか説明できるようにしておいて欲しいものですね。

 見るものもないとのことなので、そそくさとその日の宿に向かいました。しかし実はその宿が「見るべきもの」だったのです。この宿は皆生(かいけ)温泉にあります。皆生きる、とはよい名前です。宿の名前は下の写真のように『東光園』です。

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 この名前を聞いただけでピンときた方は相当の建築好きです。建築学科の今どきの学生でも知らないでしょうね。まずは建物全景を見て下さい。一目見てその異様さに打たれ、ただモンじゃないことが分かります。

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 鉄筋コンクリート打放し7階建ての純フレーム構造のようですが、なんだか上の層は吊り下げられているようにも見えます。上三層のキャンチレバーが半端じゃありませんな。よくあんなに跳ね出せたもんだと感心しきり。柱はひょろひょろと細いし、おまけに中間層でブツ切りになった柱もあります。

 そうです、これは巨匠の作品だったのです。設計者は先日亡くなった菊竹清訓氏で、1960年代に黒川紀章氏(故人)、磯崎新氏や大高正人氏(故人)などとともにメタボリズム(新陳代謝主義とでも訳すのか?)という新思潮を唱えた建築家です。昭和39年の産だそうです。かなり古いですね。1981年施行の新耐震設計法以前ですから、旧基準の水平震度0.2で設計されたのだと思いますが、それにしてもちょっと心配になりました。ちなみに現行基準では、鳥取の地域係数Zは0.9です。

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 上の写真はロビーの内観です。RCの柱がたばになっていますが、ご一緒した太田勤社長(堀江研)のお話では、日本古来の木造軸組をイメージしているとのことで、そう言われればX方向とY方向のRC梁が木造の貫(ぬき)のように段差になって一本の柱に貫入しています(左の写真)。ふーむ、そういうことか。RCの軸組がどうなっているのか判然としないため分かりませんが、相当の長柱になっているのは確かなようです。水平力抵抗要素が圧倒的に少ないような気がしますが、、、。

 ちなみにこの建物内の客室は5階と6階にそれぞれ4、5室しかありませんでした(しかも、どうやら使われていなさそうでした)。これじゃいくらなんでもホテルとして経営が成り立たないでしょう。そこでこの建物の脇にRC5階建ての客室棟が建っていて、私もそちらに泊まりました(下左の写真)。

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 5階の客室の下は右上の写真のように床スラブが露出しており、客室の浮遊感を演出しています。ではこの5階の下はなんなのか? 答えは空中庭園でした。ル・コルビュジェがマルセイユに建てたユニテ・ダビタシオンには屋上庭園があったように、モダニズム建築華やかし頃に流行った文法のひとつだったのだと思います。

 この写真では空中庭園の様子は分からないので4階に行ってみましょう。しかしそこにあったのは、、、。階高が低くて潮風がビュービューと吹き抜ける、薄暗い空間でした(下の写真)。訪れるひともなく、寂しげな場所です。この建物は海のすぐそばに建っているため潮風がきついのでしょう、それによるコンクリートの劣化も見られました。5階の床はジョイスト・スラブになっているのですが、それでも前述のように跳ね出しが大きいので、心なしか垂れ下がっているように見えました(気のせいかも)。

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 かように建設当時は最先端の近代建築として名を馳せたのでしょうが、まず形態ありきの意匠設計のせいで構造的には相当に無理をしています。そのことが建物の使い勝手にも影響を与え、使いづらいことになっているような気がしました。しかし打放しのコンクリートの地肌はとても綺麗で、当時の職人さんたちの苦労が偲ばれました。

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 こうして巨匠のモダニズム建築についていろいろと考えさせられながら、仕事に向かいました。向かった先は、こちらも巨匠として名高い村野藤吾の作品です。村野藤吾が設計した米子市公会堂(1958年建設)を耐震補強しようとのことで、実物を見に行ったわけです。地元の人たちからは愛着を持たれているそうで、巨匠のデザインを損なわないように耐震補強することが求められています。

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 こちらも建設当初はコンクリート打放しだったらしいですが、その後の改修によって表面保護が為されていました。側面は写真のように煉瓦調のタイル張りです。正面から見ると造形的なRC柱が林立して、村野らしいファサードを形成しています。玄関上部の跳ね出しがこちらもすごいですね。その上にはRC耐震壁がありますが、キャンチレバーの下は写真のように純フレームですから、上部の壁に作用したせん断力を真下にそのまま流すことはできません。そのことが耐震補強を格段に難しくしています。この下部のフレーム部分に鉄骨ブレースを入れることができれば、耐震補強としての信頼性は格段に高まるのになあ、と思わずにいられませんでした。

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米子市公会堂 ホワイエ部分(内観) 照明が貧弱でかなり暗かった

 しかしそんなことをしたら巨匠のデザインを大きく損ないますから、できない相談です。意匠を保全し、安全に使い続けられるようにすること、この解決困難な課題を目の前にして、改めて巨匠の作品である文化遺産をダイナミックに保存することの大変さを認識したのでした。

 そのためにわれわれ構造技術者は持っている知識と技術とを総動員するのですが、頭の中で考えた力の流れが現実の地震時にその通りに実現されるかどうかは、分からないところもある訳です。分からないのであれば十分な安全率を見込むとともに、もしも想定通りにならなかったとしても安全を確保できるように、二重三重の分厚い工夫を施すべきでしょうね。ここでも、自然に対して畏怖を抱き謙虚であれ、といういつも書いていることを反復することになります。

 こうして近代RC建築の保全という、私にとっては今後の研究テーマにもなりそうな思索を米子の地において為すことができました。とても有益でした。

(注)この小文では登場するふたりの建築家を巨匠と呼びましたが、日本人建築家の誰が巨匠と呼ぶに相応しいかは議論のあるところでしょう。まあ村野藤吾は大方の同意を得られるとは思いますが。菊竹さんもビッグ・ネームであることには間違いありません。
(注2) 東光園は「日本におけるDOCOMOMO100選」に入っています。第78番目です。日本の近代建築の名作としてランクされている、ということでしょう。


花粉2012
 (2012年3月14日)

 ついに来ました、花粉が。今朝は故あって藤沢から登校したのですが、電車に乗る頃からグズグズになり出して、南大沢に着いたらもうクシャミ全壊、じゃなかった全開になってしまいました。つらい季節が始まりましたね。

 電車内読書で『秋月記』(葉室 麟著、角川文庫、2011年12月)を読み終わりました。この作者はつい最近、直木賞をとったことから、では読んでみるかという気になりました。江戸時代末期の九州の小藩(秋月藩)を舞台にしたもので、久しぶりに時代小説を読みました。藩内での抗争を主軸にして主人公の歩みを描いた小説ですが、藤沢周平の『風の果て』とか『蝉しぐれ』とかに似通った面影を持っていました。

 かように姿は似ていますが、物語の深みとか人間描写とかはまだまだ藤沢周平にはおよびもつかない、という印象を受けました。小節を読み終わったときの余韻というのでしょうか、そういうものが何となくストンと来ませんでした。それでも、なかなかに読み応えのある小説を書きそうな方でしたから、そのうち直木賞受賞作なんかも読んでみたいと思いました。


三月上旬の記
 (2012年3月10日)

 3月8日の朝、我が家のそばでやっと梅の花が開いた。二日ほど暖かい日が続いたせいであろう。紅や白やピンクの小さな花弁がなんとも可憐に見えました。それでも今日は肌寒く、冬に逆戻りといった感がある。

 さて私のサバティカルもそろそろ終わろうというのに、この三月上旬も非常に忙しい。四月からは学内復帰(?)することになるので、先日はその準備として、全学の委員会に前任者の山田幸正先生(東洋建築史)と一緒に参加した。ああ、もう終わっちゃうんだあ、という寂しい気分である。私と入れ替わりにこの四月からは山田先生がサバティカルを取得されることになっており、(サバティカルは)いいですよお、と言っておいた。

 3月8日には前期入試の合格発表があった。わが大学では正門を入って左手にあるコリドールのところに掲示板があって、私がお昼過ぎに立ち寄ったときには人影もまばらで、親子連れがチラホラ見られるくらいであった。掲示板の前で記念撮影しているひとが、かろうじて合格発表だということを感じさせてくれた。でも今ではネットでも合格発表されるので、わざわざ見に来る必要もないのである。便利になったのはいいけれど、それに反比例して感慨も湧かないシーンに成り果てたようでなんとも寂しい。ちなみにわが建築都市コースでは45名の合格者を発表した。

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 なんでこんなに慌ただしいのかというと、昨年3月11日の地震で被害を受けた学校建物の調査報告書の締め切りが迫っていることが大きい。建築学会に設置された小委員会の主査である壁谷澤寿海先生からコマ切れに報告書の目次が提示されて(と私は思うのだが)、昨日も、あれっこんなところに私の担当がまた増えている、という具合である。今朝、壁先生にお会いしたのでそのことを確かめたところ「そうだよ、気が付かなかったの? 前から書いてあったぞ、言わなかったけど」と逆に言われる始末である。この締め切りが来週早々にあるので、これを乗り切ることが当面の目標かな。

 で、忙しい合間をぬってその報告書を執筆していたのだが、そんなときに昨年三月に我が社から巣立った白井遼くんが何の前触れもなく突然にやって来た。もう首になったのかと思ったがそうではなく、担当した現場が終わったので休暇を貰ったとのこと。いろいろと現場での苦労話を聞いたが、やはり現場は大変だなあと思いましたな。若いからこそこなせることもあるわけで、彼の話を聞いていると若さに任せて力でねじ伏せた、というような印象を受けた。

 電車内にはいろんなひとがいるが、今朝はホントに驚いた。私の隣に坐ったご婦人が紙袋から何やら布のようなものを取り出したのだが、よく見るとそれには待ち針がたくさん打ってある。ありゃあ、危ないじゃないかと思っていると、そのひとは今度はなんと針と糸とおまけにハサミまで取り出して、縫い仕事を始めたのである! おいおい、いい加減にしてくれよ、どう考えたって危ないです。電車の中でやっちゃいけないことだってあると思うんだが、、、。これに較べたら車中での化粧なんて、大したことじゃないですぜ、旦那。


未だ来らず
 (2012年3月5日 その2)

 三月になって花祭りも過ぎたと言うのに、我が家のそばではまだ梅の花すら咲きません。今日も冷たい雨が降っています。寒いですね。ふつうだったら、二月中旬頃から花粉が飛び始めて憂鬱な季節になるのですが、今年はまだ花粉が飛んでいないようです。このこと自体はありがたく歓迎すべき事柄ですが、やはり春は待ち遠しいですね。


一周年 (2012年3月5日)

 2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震からそろそろ一周年を迎えようとしている。先週から今週にかけてはそれに関連するシンポジウムが多数用意されているようだ。

 そのようなシンポジウムのひとつとして、”One Year after the 2011 Great East Japan Earthquake – International Symposium on Engineering Lessons Learned from the Giant Earthquake –“という国際シンポジウムが田町の建築会館においてこの週末に開かれた。私も論文を提出したので発表してきた。もちろん英語である。日本で開催するので聴衆の大多数は日本人だろうに、なんで英語で発表せにゃならんのか、と思ったが、公用語は英語です、と言われてはしようがない。

 いつものようにパワーポイント・ファイルをウンウン唸りながら準備して(トータルで三日も費やしたゾ)、さらには滅多に使わない英語なのでブツブツ壁に向かって練習もした。こうして発表会場に臨んだのだが、行ってみると小さい会場とは言え、聴衆の半数くらいは外国からの方々でちょっとビックリした。

 私のセッションには4論文がエントリーしていたが、横浜国大の田才・楠研究室の大学院生さんと壁谷澤寿海先生、それに私の三人が発表した。私は耐震補強した鉄筋コンクリート校舎が中破の被害を被った事例を紹介した(こちらをどうぞ)。練習の介あってか、まあ予定通りに発表できたし、いただいた質問にも拙い英語ながらなんとか答えることができた。ああよかった、ってな感じであった。

 こうして無事発表と質疑応答が終わって、ヤレヤレとほっとしたのだが、それはつかのまの安穏であった。私のあとのスピーカーが欠席したために時間が余ったせいで、司会の市之瀬敏勝先生が折角だからDiscussion しようと仰った。まあ、そうだろうなとは思ったが、大御所の壁先生が控えておいでのことだし、英語が達者な楠浩一さん(横浜国大・准教授)もいるので、英語の下手な私に質問が来ることはないだろうとタカをくくっていた。

 ところが豈図らんや、全ての質問は私に集中したのである。うれし、恥ずかし、ありがたや(なんだかドリカムの曲にこんな歌詞があったような?)。私の発表に対してそのように多くの方が関心を持って下さったのはありがたかったが、難しい質問に英語で答えるのはもう大変! 貧しいボキャブラリーを駆使しながら(?)、かなり滅茶苦茶な英語でお答えしたのであった。まあ、こちらの身振り手振りで何とかご理解いただけたのかなあ、と思っている。

 河野進さん(京都大学・准教授)は英語が達者なものだからスラスラと質問して下さったのだが、その結構難しい内容の質問に英語で答えるのはもう甚だ困難だったので、”I have no idea. I can’t answer to your question, Sorry.”と答えてお茶を濁し、赦してもらった。河野さん、どうもすいませんです。

 そして最後には旧知のジャック・メリー先生(Prof. Jack P. Moehle, UCB)から「三階のせん断破壊した柱の隣の柱はほとんど被害がなかったみたいだが、どうしてか」という(かなり本質的な)質問をいただいて、立ち往生に至ったのであった。メリー先生、ご質問ありがとうございます、いやあ、ホントに痛いところを聞いて下さいましたね。私にだって何故そうなったのか、まだ分からないのである。この建物を研究対象としている我が社の大学院生の石木健士朗くんに、これから研究して解明してもらうことにしよう。頼むぞ石木くん、この仇を討ってくれ(なんてね)。

 こうして私にとってはVery busyなセッションがなんとか終了したのであった。質問して下さった方々の思いやりとか優しさとかを強く感じた次第です。でも滅多に英会話などしないので、この苦い経験も直ぐに忘れちゃうんだろうな、と思うとちょっぴり残念な気もしました(ほんとか〜?)。


地吹雪体験ツアー
 (2012年3月2日)

 二月の晦日、東京は大雪になった日に私は青森へ行きました。私のかつての上司であるN川大先生が地吹雪を体験したいと宣ったので、お供することになったのです(って、ウソですけど、、、)。しかしこの日は東京はすごい雪で、私は自宅から長靴を履いて出かけざるを得ないほどでした。青森で体験する前に、東京で遭難するんじゃないのかと思ったくらいです。

 で、やっとの思いで東北新幹線に乗って一路八戸へ向かいました。八戸へは、1995年のお正月に三陸はるか沖地震の被害調査に出かけて以来です(こちらにあります)。そして、新幹線で八戸へ直接乗り付けるのは初めての体験でした。途中、盛岡駅についたときにMoriokaというローマ字表記を見た途端、ユーミンの『緑の町に舞い降りて』を思い出しました。「Morioka というその響きが、ロシア語みたいだったあ」という歌詞だったからです(相当に昔の曲です)。

 この辺りから晴れてきて、八戸に着いたときには快晴でした。結局、地吹雪は体験できませんでした(よかったですけど)。ただ八戸や三沢の根雪はすごくて、道路の両側に除雪された雪が壁のようにうずたかく積まれていて、びっくりしましたね。この日は移動日なので三沢で一泊しました。

 Misawa2012
    写真 ホテルの部屋から撮った雪景色

 翌日は暖かな春本番を思わせるピーカンでした。この日は仕事なので六ヶ所村に出かけました(仕事の内容を書くのは憚られますのでご容赦を)。相変わらずの根雪でした。とくに三沢空港から小川原湖あたりにかけてはな〜んにもない原野で、一面の雪景色は綺麗でしたが、人跡未踏の地みたいでちょっと気が滅入ったのも事実です。コンビニどころか人家も何もないんですから。ただ近くに米軍の射爆場があって軍用機の爆音が轟いていました。

Map_AomoriEast

 六ヶ所村には核燃料の再処理施設だけでなく、原油の備蓄基地もあって日本で消費する一週間分をキープしているそうです。本州の北の果てが実は日本のエネルギー事情にとって非常に重要な地位を占めていることに気がついた次第です。

 こうして(?)無事に仕事も終わって、帰りに八戸駅そばのお土産センターみたいなところに寄りました。そこでホヤを見ました。みなさん、ご存知でしょうか。私も大学に入学するまでは知りませんでしたが、駒場のときに東北出身の村上哲くんからその存在を初めて聞いたのでした。そのホヤときたら、なんだか赤黒くてトゲトゲしていて、こんなもんを最初に食べたひとはホントに偉い!と思いましたね。私はとても食べる気がしませんでした。


サッカー2012 (2012年2月28日)

 今年はうるう年なので、二月は29日までありますな。忙しい年度末に差しかかって、なんか得した気分です。さて、先週末に子供のサッカー大会に行ってきました。過去二回の大会ではいずれも三位以内に入賞してメダルをもらって来たので、今回もメダル欲しさの参加だったようです。サッカー自体が好きと言うわけではないらしいので、これで最後の大会でしょう。

 で、全部で8チーム参加したのですが、幼児にしては無茶苦茶に強いチームがあって、うちの子供のチームは残念ながら5位にとどまりました。小学校高学年レベルのシュートを放つ子供がいて、ゴール・キーパーをしていた息子は呆然と見送っていました。ありゃりゃ、です。でも顔面に食らわなくてよかったです。

 全員がボールに突進しては相変わらずのモール状態で、なかなかモールから球が出てきません。それでもラグビーみたいにモールはある方向に進んで行きますので、そこからチャンスが生まれたりします。うちの子供もさすがに味方ゴールに蹴り込むようなことはなくなり、彼なりに進歩したような気がします(親の欲目かも?)。

 この日はどんよりとした曇り空で、午後からは風も吹いてきて本当に寒かったです。グランドに立って応援している我々父兄は大変でした。いくら幼児の試合とはいえ、勝てば盛り上がって大喜びするし、負けるとシュンとなって意気消沈します(応援団の話しです。子供は負けてもケロッとしていました)。もっとも、5試合くらいこなした子供も疲れたようで、帰りの車中では爆睡していました。

 サッカー大会は私学のグラウンドを借りて開かれたのですが、グラウンド脇に建っている三階建ての鉄筋コンクリート造校舎がいかにも昭和40年代の建設と言った感じで、極短柱がバシバシあってこりゃ危なそうだなあ、と思いました。私学でも文科省の助成は出るでしょうから耐震補強すればよいのにと思いますが、やはり予算不足なのでしょうか。子供のサッカーを見ながら、そんなことを考えたりしました(職業病か?)。


メールの利用
 (2012年2月27日)

 電子メールはとっても便利である。自分の見たいときに開いて、好きなときに返事を書けば良い。と思っているのだが、実際の利用に際してはメールが来たら直ぐに開いて見て、簡単に処理できるものにはすぐに返事をする、というふうにすることが多い。そうしないとメール・ボックスにどんどんと溜まってゆき、処理しきれなくなるという強迫観念みたいなものがあるからだ。

 しかしこれはどうやら時間を有効に使って研究を進めて行くという観点からは、きわめてまずいやり方のようだ。そのことが『理系のためのクラウド知的生産術』(堀正岳著、講談社ブルーバックス、2012年1月)に縷々書かれている。そこには、メール処理の時間はなるべく短くして空いた時間を知的生産活動に当てるべし、とか、メールを見る時間帯を決めること、朝一でメールを開くのはやめよう、などとあった。

 言われてみればまさにその通りである。そのような幾つかの箴言(しんげん)のなかでも「メールによる時間の不均衡」という指摘にはハッとさせられた。これは、たった数行の難しい質問に答えるのに膨大な時間を要する、といったような、メールを発するひとと受け取るひととの時間の使い方の著しい不均衡を指す。

 日々メールによって仕事のやり取りをしている皆さんにも経験があると思うが、メール上では、○○を教えて下さい、とか○○について検討して下さい、などの質問あるいは要請はよくやって来る。相手は何気なく言ってるときもあるだろうが、受け取るこちらは(特に質問者が目上のひとの場合には)それに対して真剣に考えたり、調査を尽くしたりした上で返答を作成することになる。私の経験では、そのために数時間どころか何日も要することはザラにある。

 しかしこのような仕事は、自分の先端研究とは直接関係しないことも多く、いわゆる雑事に時間を費やすことになって研究の進展が妨げられる、というのがこの本の著者の主張である。まさにそういうこともあるわけで、よくよく注意してメールに反応しないと、時間がもったいないということに改めて気がついた。

 逆に私が他人に対して、このような質問をすることも大いにあり得るし、実際に今までしてきた。まあ学会の指針作りのように皆で分担して作業しているときにはある程度やむを得ないと思うが、自分の個人的な興味とか研究テーマとかから発する質問には、十分に注意しないといけないと強く戒めを感じた。そのようなときには「直ぐにわかるようならお返事をお願いします。そうでなければ結構です」みたいな一文を付け加える配慮が必要だろう。

 私の場合には電話を切っているので、全ての連絡はメールによってなされる。なので、この本の著者のようにメールを見るのは一日二回だけ、という訳にはさすがにゆかないだろう。大学の事務連絡で緊急を要する、というときも(たまにではあるが)あるからだ。どのような使い方がわたしにとって効率的で有益なのか、しばらくは模索してみようと思っている。

PS 最近はメールソフトの常時立ち上げはやめて、一日三回くらいメールを見るように変更した。それだけでも結構違うような気がします。


まだ出る
 (2012年2月24日)

 今日はとても暖かくて、春のような陽気ですね。学内のハクモクレンのつぼみもまだ小さいものの、ほんのりと白くなって来たように見えます。

 さて大学では修論や卒論が一段落したところですが、WPC関連の研究では先日、久し振りに長谷川君(高木研M2)との個人ゼミを行いました。日本コンクリート工学会(JCI)の論文を出してからとんとご無沙汰でしたが(もう用はない、ってか?)、鉄筋コンクリートや鉄骨で耐震補強したときの壁耐力を計算で予測してみるように言ってあったので、それについて議論しました。

WPC_C5M_afterTest
写真 プレキャストの壁板に開口を設け、その周囲をRCで補強した試験体

 その資料を見ていて、「あれっ、ここの引張り鉄筋の本数は10本じゃなかったっけ?」と私が質問したところ、この期に及んでまたもや私の知らなかった事実が出てきたのです。もう修論も終わって日本コンクリート工学会への年次論文も提出したというのに、この有様です。補強のために開口脇に付加したRC柱の主筋10本のうちの2本が定着されずにズン切りになっていたので、引張り抵抗には寄与しないディテールだったそうです。これではいろんな計算を修正しないといけません。

 言い訳するわけではありませんが、試験体の設計や作製はひと任せにしていたので、私が知らない(見ていない)ディテールなどは結構ありました。しかし結果としては私のこの怠慢が最後まで尾を引いてしまったということです。ホントに反省することは幾つになってもあるもんですなあ。いつも書いているように、学生さんのBehaviorは私自身の行動を映す鏡ですからね。

 でも、あんなに精密そうに見えて、吟味を重ねて発表された「光より速いニュートリノ」の実験でも、実験装置の不具合があったとかないとか言ってるくらいですから、数ミリ単位の誤差なんて当たり前の建築分野の実験では、今回のようなことがあったって不思議じゃないですね(ちょっと開き直り過ぎか)。


経費削減 (2012年2月23日)

 先日、久し振りに茅場町にある文教施設協会の耐震診断等判定委員会に出席した。委員長は岡田恒男先生である。総勢十名くらいの委員で審議したあとに、事務局の縄手さんから協会の移転についての話が出た。経費削減のために今の鉄鋼会館から芝公園にあるオフィスに転居するそうだ。そういえば日本建築センターもお茶の水から神田橋に移転したばかりである。政府の外郭団体はどこもやり繰りが大変、といったところだろうか。岡田先生が理事長を勤めておいでの日本建築防災協会は今のところ虎ノ門で安泰みたいだが。

 その日本建築防災協会では、優れた耐震改修建物やそれに従事した貢献者を表彰する精度を2011年度からスタートしたそうで、栄えある第一回の貢献者として二名の方が表彰されたことを岡田先生から伺った。おひとりは南宏一先生(福山大学教授)である。南先生は私が学生の頃から存じ上げており、大学院生の頃には当時大阪工業大学で教鞭を取っておられた南先生の実験室(大阪と京都のあいだにある)を訪問して、南先生から親しくお話を伺ったりしたこともある。

 そしてもうおひと方は、なんと私の研究室の隣人である青木茂先生であった。青木さんは既存建物を耐震補強・改修して生き返らせる、いわゆるリファイニング建築の第一人者といってもよく、いろんなところでご活躍中である。私も神戸の某病院の耐震性能評価などを青木さんと一緒に研究したりしてきた(こちらをどうぞ)。青木先生、どうもおめでとうございました。


年に一度の合同ゼミ
 (2012年2月22日)

 今年も芝浦工大・岸田慎司研究室との合同ゼミを豊洲校舎で開いた。今回の合同ゼミは午前中の開催だったので全員が発表するという訳にはゆかず、我が社からはM2の村上さんと平林くんとが発表した。特に平林くんは岸田研出身なので故郷に錦を飾ったという格好になった。また芝浦工大・隈澤文俊研究室四年の島くんがこの4月から北山研の大学院生になることから、彼にも卒論の内容を発表してもらった。

 岸田研からは卒論生ふたりがPCとRCの実験について発表してくれ、我が社のふたりもたまたまPCとRCの実験研究だったので、学生さん同士の議論もかなり活発に交わせてよかったと思う。

 岸田研究室とはこの春から共同研究を行うことになったので、今後さらに密に研究内容を議論できるとよいだろう。学生さんにとっては異なる大学で学ぶ同時代人と親睦を深め、討論することで得るものは大きいと思うので、積極的に共同研究に参加して欲しい。

KishidaLab2012
 合同ゼミのあとの集合写真


ところ変われば
 (2012年2月20日)

 先週末に大阪で中塚 佶(ただし)先生の退職記念パーティがあったので、日帰りで行ってきた。中塚先生は大阪大学および大阪工業大学で約40年間、教育・研究に取り組んで来られ、とりあえず今年の三月にめでたく任期を全うされることになった。私にとって中塚先生は研究上の恩人のおひとりなのだが、そのあたりの経緯についてはパーティのときに配布された記念冊子に投稿したので、それをご覧いただきたい(こちらをどうぞ)。

 ちなみにこの冊子のタイトルは『中塚佶先生 退職記念 教育と研究の光と影』というもので、このタイトルを見ただけでなんかありそうだな、と感じさせるものがある。光あるところには必ず影がある、というのはまあ当然の理ではあるが。

 それはさておき、この小文を見ていただくと分かるのだが、二段組みの本文の冒頭に要約があって、さらにキーワードまで書かれている。これはもう、立派な「論文」ですな。もちろんこのフォーマットは祝賀会の幹事団(菅田昌宏さん[竹中工務店]とか阿波野昌幸さん[日建設計])から要請されたもので、ちょっとやり過ぎなんじゃないの、と言いたくなったくらいである。

 このほかにも、会場全体に関西の人たちらしい笑いがあふれ、趣向を凝らした楽しいパーティだった。とにかく皆さん、ひとひねりもふたひねりもしたトークで湧かせ、それにまた中塚先生が突っ込みまくって解説するといった塩梅で、大笑いである。先生のお弟子さん方は(ご多分に漏れず)相当に厳しく鍛えられ、つらい学生時代を過ごしたようだが、そんな体験を笑い飛ばすところはさすが「関西人」である。先生に対する愛情にあふれているのは当然なのだが、そのなかにも小さな「毒」がさりげなく、でも明らかに分かるように仕込まれており、そのあたりの文化は関西独特のものだなあ、と得心する。

 このようなパーティを丸田誠さん(島根大学教授)と一緒に見ていて、東京でのパーティとは全然違うね、と妙に感心したのである。少なくともわたしの師匠の青山博之先生とか小谷俊介先生とかのパーティでは、先生を肴にして笑い話をするなんてことは考えられないし、よしんば考えついてもそんなことは恐ろしくてできないですな。師匠がたが笑って許してくださるという確信もないですし、、、。東と西とでこんなにも文化が異なることに、改めて驚いたのであった。

 ところでこの日の往路の新幹線からは綺麗な富士山が見え、こりゃあいい天気だなあと思ったのだが、名古屋を過ぎると段々と雲行きが怪しくなってきて、関ヶ原を過ぎるともう吹雪といってよいくらいの降り方で一面真っ白になってしまった。このまま遭難するんじゃないか、と感じるくらいに怖かったです。


小 雪 (2012年2月16日)

 お昼ご飯に生協に行ったら、もう後期の授業も修了したにもかかわらずどういう訳か長蛇の列で、短気な私は入るのを諦めました。比較的暖かい日がしばらく続きましたが、今日はとても寒く、小雪が舞ってきました。

 新聞に東大の秋入学の話しが載っていて、そのなかにアメリカの教育関係者のコメントがありました。これで日本も欧米並みになって、秋入学を契機として日本の高等教育は急速に発展するだろう、というものです。なに言ってんだかなあ、というのが私の感想です。私は別に国粋主義者じゃありませんが、あいも変わらぬ西洋中心主義にはホント辟易とさせられました。なんにつけ、西洋のモデルが繁栄・発展の基軸となる、なんて幻想はもう流行りませんよね。

 日本のことについて言えば、明治維新からしばらく経ってから学校の三月卒業・四月入学が始まったと記憶しています(まちがっているかも知れません)。すなわち、そんなに長い歴史があるわけでもありません。なので私は別に入学時期にはこだわりません。入学の時期には桜が咲いていないとね、などとも言われますが、今じゃ4月上旬には桜は既に散ってしまっていることも多々ありますので、そういう暗黙の合意事項みたいなものは風土やひとびとの意識とともに変わって行くものでしょう。

 とは言え、大学の秋入学は日本全体のシステムにかかわる問題ですから、秋入学を拙速に実施すべきとは考えません。幼稚園から大学へと至る教育の連続性、雇用の形態とか産業のあり方など社会全般に渡っての合意がないと難しいでしょう。東大もその辺は十分に承知しているでしょうが、一部の有力(旧帝国)大学と少数の大企業の経営者とだけで相談して決める、なんてことはやめて欲しいと思います。


数列、か
 (2012年2月14日)

 今日は小さな地震が続いていますね。とは言え、私が居住するSRC9階建て建物の7階は結構ゆらゆらと揺れています。ミシミシという音が不気味です。で、気象庁の震度速報ページを見てみました。これらの地震はいずれも茨城県沖を震源としています。このページを見ていたら、同地域を震源とするここ一週間ばかりの地震のマグニチュード(M)が以下のようになっていることに気がつきました。

2月8日20時36分 M3.9
2月11日10時27分 M4.7
2月14日12時28分 M5.5
2月14日15時22分 M6.2

とまあ、こんな具合です。ちょっと怖くありませんか。時間間隔を無視するとマグニチュードが0.8程度づつ大きくなっているのです。ちなみにマグニチュードが1大きくなると、放出されるエネルギー量は約30倍になります。うーん、これが等差数列でないことを祈ります、、、。


感謝の会 (2012年2月13日)

 先週の金曜日、本学・建築都市コースの非常勤講師をお願いしている先生方をお招きして、感謝の気持ちをお伝えする懇親会が開かれた。全員ご招待であるが、この会は本学の国際交流会館内のレストランで開かれたため、残念ながらおいで下さったのは12名の方だけであった。まあ、何の用もないのに南大沢くんだりまで来ようという気は普通は起こりませんわな。

 でもこの会場は、東大の駒場キャンパス内や本郷キャンパスの正門そば等にお店を構えている「ルベソンベール」というフランス料理レストランで、日頃は近隣の有閑マダム方に占領されて我々教員はなかなか食事にありつけない、そういう場所であった。私はそんなに美味しいとは思わないのだが(幹事の鳥海さん[パリの都市計画研究者]は「日本風フランス料理」と揶揄していた)、ランチは1000円でそれなりの雰囲気で食事できるため、奥様方には人気があるのだろう。うちの家内も食べてみたーい、と言っていたから。

Lever son verre in Minami_Osawa
     写真 2010年4月のオープン告知

 何度も書いているように今年はサバティカルで授業を負担しないでよかったため、担当講義のうち『建築構造力学1』は坂田弘安先生(東工大・長津田)に、『鉄筋コンクリート構造』は高橋典之先生(東大生産技研)にそれぞれお願いした。お二人ともお忙しい身なので、残念ながら懇親会にはお出でにならなかった。お二人のお陰で私は自由に時間を使えたため、大いに感謝している。とは言え、別に遊んでいた訳ではないですが。

 さて懇親会であるが、私はお酒が飲めなくなったので、ウーロン茶を飲んでいたが、お茶ってそんなに飲めるもんじゃありませんな。お話しているときに手持ち無沙汰なので、どうしてもお茶を口に運んでしまう。そんなことが続くとお腹がタプタプになってくる。橘高さんや角田さんから「もうお酒は飲まないの?」なんて悲しそうにいわれると、昔のように我を忘れるほど(そして周囲の他人の存在も忘れるほど)飲んでみたい誘惑にちょっとだけかられたが、「もう若くないんだから」と言って自制したのであった。随分おとなになったんだあ、とか橘高さんに言われたが、まあ当たり前ですな。痛飲すると翌日がつらいですから。

 でも久し振りにご飯を食べながらいろんなひととお話ができて、とても楽しかった。芳村先生は先日、15WCEE(4年に一度の世界地震工学会議)の打ち合わせ弾丸旅行でリスボンまで行かれたのだが、飛行機に片道17時間も乗っているそうだ。私はそんな長時間、飛行機に乗るなんてことはもう耐えられそうにありません。なので、論文は出すつもりだが、リスボンに行くかどうかは迷っている。芳村先生は「いやあ、いいところだよ」と仰っていたが。


修論発表会終わる (2012年2月8日)

 昨日、修士論文の発表会が無事終わりました。朝から夕方までの長丁場で疲れました(まあ“中抜け”して、適当にサボりましたけど)。我が社の二人は上手に発表できたと思います。さすがにマスターの学生ともなれば、発表に対する私の教育方針を理解したようで、質疑応答も適切だったと思います。

 村上さんは、研究の意義のスライドと、プレストレスト鉄筋コンクリート建物の耐震性能を考える上でPC鋼材種として適切なものはどれか、という問いに答えた最後のスライドが秀逸だったと思います。この2枚を発表したことで彼女の評価はグンと上がりましたね。

 平林くんは、塩原理論という非常に難解な(?)理論を相手にしたので苦労したと思いますが、分かり易いスライドを作って来たのでよかったと思います。質疑の際に高木先生からいただいた本質に迫る質問に対しても、肝を抑えた応答ができていました(ただ、もう少し自信を持って返答出来ればなおよかったですが)。

 これで一応、修論は終わりとなります。しかし3月末の修了までコンクリート工学論文の修正とか、大会論文の作成とかまだまだやることは目白押しですので、しばらく骨休みして、最後まで研究に取り組んで欲しいと思います。お二人の健闘を期待しています。


佐野利器先生のこと (2012年2月7日)

  今年の卒論では、有賀沙織さんが佐野利器(としかた、と読む)先生の事績について調べてくれた。佐野利器先生は、世界で最初の耐震設計法(震度法)を1916年に提唱したことで知られる。もっとも小谷俊介先生の調査によれば、イタリアでも同時期に耐震設計法が提起されていたそうなので(注1)、どちらが耐震設計の「元祖」なのかは厳密には承知しない。

Sano_Toshikata_Portrait Maruzen_shoten_Sano
写真 佐野利器先生         写真 丸善書店(丸善のHPより)
(佐野先生のサイン入り)

 で、有賀さんが調べた資料には、鉄骨造の国技館(辰野金吾設計)の構造設計とか、鉄骨造の丸善書店(日本最初のカーテン・ウォールで有名)の設計についての古い資料などがあって、結構へーって感心した。私が数年前に手に入れた学士会館(高橋貞太郎設計、鉄骨鉄筋コンクリート構造)の図面や構造計算書も有賀さんに渡したのだが、それについてはふかく検討できなかったようで残念だった。

 佐野利器先生(1880-1956)が発表した論文とか論評を見ていたら、1931年(昭和6年)の建築雑誌に掲載された『耐震論』という小文に行き当たった。関東大震災(1923年)の教訓をもとに、市街地建築物法において日本最初の耐震設計が規定され、そこでは佐野利器先生が提唱した水平震度の具体的な数値を、0.1と設定して建物の構造設計をすることとされた。

 しかるにその法令が制定されてからわずか7年後に、佐野利器先生は市街地建築物法の水平震度0.1が金科玉条の如くに使われることに対する危惧を表明していたのである。法律の中の数値が独り歩きして、水平震度0.1あれば絶対に安心であるとか、どの地域でも0.1でいいんだとかといった誤解が蔓延しているのを強く戒めていた。

 これを読んで、現在の構造設計においてもよく耳にするような事柄(ものごとの本質を理解せずに、数値だけを追いかけるようなこと)が初めての耐震法令制定後にも一般に起こっていたことを知った。

 水平震度0.1という数値によって建物の耐震設計法は一応確立し、それによってそれなりの耐震性を建物に賦与できるようになったのは画期的なことである。しかし市井の設計者は、そのように便利で簡単な「震度法」の皮相だけを取り出して、都合の良いように使い始めたのであろう。いやあ、人間の営みって、八十年前も今もたいして変わっていないんだな、ということに改めて気付かされた。

 ちなみにこの小文の最後では、いわゆる「柔剛論争」の核心に触れている。すなわち、建物を柔構造とすることの危険性を示し、剛構造とすべきであるという佐野一派の主張で結ばれていた。柔構造を唱えた真島健三郎をやんわりと否定して、自説の妥当性を訴えたのである。この当時は「柔剛論争」真っ盛りの頃だったのだろうが、最後に自説の正しさを主張するあたり、かなり直情的な佐野先生の気質を感じた。

 なお「柔剛論争」については、佐野利器先生の研究室を継承した青山博之先生(注2)が建築雑誌に書かれた『免震構造と柔剛論争』(1988年11月)を参照してほしい。

(注1)小谷俊介先生の退官記念最終講義『建築耐震構造 ーこれまでの発展と将来展望ー』(2003年3月)のなかに、イタリア・メッシナ地震(1908年)のあとにM. Panettiという教授が佐野先生と同じような震度法による耐震設計法を提案した、とある。小谷先生はこのとき、M. Panetti氏が層せん断力に注目した点が斬新である、と述べていた。

(注2)現在は東京大学工学部11号館の7階に総本山を構えるRC系研究室は、佐野利器、武藤 清、梅村 魁(はじめ)、青山博之、小谷俊介、久保哲夫、塩原 等と連綿と続いている。


卒論発表会終わる (2012年2月6日 その2)

 冷たい雨が降る一日でしたが、卒論の発表会が終わりました。我が社の三名の発表は5時過ぎの最後でしたが、まあ無事に終わりました。しかし練習不足、理解不足はいかんともし難かったようで、私としてはかなり残念でした。卒論の発表会は一年間の成果の集大成を披露する場なので、それを考えるとなおさら、という感が深まります。

 もっと練習するようにと口を酸っぱく言うべきだったと反省しています、あとの祭りとはこのことですが(最終発表の前に一度も練習しなかったひともいました)。今年は私がサバティカルということもあって、相当に甘めの指導だったとさらに反省しています。彼らを責めるのではなく、自分自身の至らなさを痛感し、来年以降の教訓とします。


トライする (2012年2月6日)

 先日、竹中工務店の技術研究所に実験の見学に伺った。技研は千葉ニュータウン中央駅の直ぐそばにある。しかし大学からは、延々電車に乗って二時間以上である。乗り換えは一回しかないので、じっくりと仕事することができたのはよかった。ちょうど論文の査読を多数抱えていたので、二編ほど読み終えることができた。

 で、一緒に帰った盟友・岸本一蔵さん(近畿大学教授)が、「入試のシーズンですが、我が校の入試の機会は何回あると思います?」と聞く。私の大学でいうと、秋に推薦入試、二月に前期入試、三月に後期入試の三回なので、まあ私学だから四回くらいかな、と答えたところ、「ふふふっ、そんなの甘いでっせ」との返事。近畿大学建築学部ではなんと25回もの入試の機会があるそうだ。ええっそんなにあるの、ってな感じで大いに驚いた。近畿大学では新しく建築学部を作ったので、受験生集めに必死ということもあるのだろう。

 そんなに何回もトライしてくれる受験生がいるかと思うと、大学としてもこんなに嬉しいことはないですな。でも、いくらなんでもやり過ぎじゃないの、とも思いましたが。


文化を感じる (2012年2月3日)

 昨日、建築学会のRC­N規準改定WGが開かれた。これは原子力発電所の建屋用の鉄筋コンクリート構造計算規準のことである。2005年にRC-N規準が制定されたが、母体となるRC規準が2010年に改定されたことから、その変更に対応するために2013年を目指してRC­N規準の改定作業が始まっている。

 このWGの委員には私のようなRC構造の研究者だけでなく、材料分野からも中村成春くん(大阪工業大学・准教授)が委員として参加している。コイツは実は私のよく知っているひとで、何を隠そう私が宇都宮大学に在職したときの最初の教え子のひとりなのである。彼は卒論は材料研究室(橘高先生が助手として当時は在籍)で取り組んだのだが、学部の授業とか演習とかでよく知っていた。当時からユニークなひとだったが、博士を取得して大学教員になってからも、例えばJCI関東支部の若手会21(こちらをどうぞ)で大いに活躍した。

 その彼が改定作業の審議のなかで、ある用語についてクレームをつけた。コンクリートを型枠に流し込む作業を通常はコンクリートを打つ、という。この「打つ」(英語でいうとcast)というのをわれわれ構造屋は「打設」と呼んでいる。ところがシゲハル(中村の名前)は「『打設』は土木用語なので使わないで下さい。建築材料・施工の分野では『打込み』という用語を使います。」とのたまったのだ。

 その場にいるひとは彼を除けばほとんど全てが構造屋なので、もうみんなア然、である。そして左右のひとと「今の話、知ってました?」なんて囁き合っている。私も左右にいた前田先生や市之瀬先生に「知ってました」「いや、知らないよ」とやり取りする。いやあ、びっくりしたなあ。

 確かに土木分野と建築分野とで用語が異なることはある。コンクリートの「調合」は建築で、「配合」は土木、というように。しかしコンクリートを打つという行為についても用語の使い分けがあるとは知らなかった。シゲハルの話を聞いたとき、そこまでするかと思ったが、用語ひとつとっても文化の違いがあらわれているのだと思うと、むげに却下する訳にもゆかず、結局ご指摘の通りに直すことに決まった。

 まあわれわれRC構造の研究者も、土木構造物は軸力がほとんどないが建物の柱には高軸力が作用するとか、土木構造物はほとんど静定(せいてい、と読む。専門用語ですいません)だが建物は不静定だとか、いろいろと違いを言い立てる。一般のひとから見れば、同じコンクリート構造物を扱っているので、どこが違うんだと思われるだろう。結局はそれと同じことだと思う。

 というわけで、明治維新以来の日本独特の土木と建築という区分が、21世紀になっても解消されるどころか、その差異がますます顕在化させられる方向に進んでいるようだ。これも文化だから仕方ないか、といって尊重する(諦める?)か、世間から見ればちっちゃなテリトリーのなかでやりあっている井の中の蛙と見るか、あなたはどっちですか?


未来を見透す
 (2012年1月30日)

 論文作りで大変だった1月もそろそろ終わろうとしています。いろんな締め切りに追われて仕事をしているのは常のことですが、ときとしてそれらの重圧に押しつぶされそうになることって、ないですか。生身の人間ですから、私もときどきもうダメだあと思って、鉛筆を放り投げることがあります。

 でもそういう風に思ったときには、1週間後のこととか、1ヶ月後のこととか、あるいは半年後のこととかを想像するようにしています。すなわち、現在苦しめられている要因から解放されて、せいせいしている自分を頭の中に思い浮かべるのです。今までも常に締め切りを乗りこえて仕事をして来たのだから、今回も一週間後には何らかの成果を出しているはずだ、一週間後にはそれらの仕事から解放された自分がいるはずだ、とこういうふうに想像するのです。

 もちろん現在の懸案から解放されるためには、それなりの努力や労力を費やさなければならないことは当然です。昔、本学の島田良一先生(建築経済)が「論文を書くと言うのは苦しくて砂を噛むような作業です」と仰ったことが忘れられません。それくらい大変なんですが、やればできるはずだ、と自分に言い聞かせて一心不乱に取り組むわけです。

 しかしいずれにせよ、一週間後には出来上がって、また楽しい日常が待っている、と想像すれば何とか乗り切れるような気がするし、自分自身を鼓舞することができるのです。結局人間という動物は、現在を見据えるだけでは生きる元気が湧いて来なくて、常に未来を見透すことによってしか、生き続ける活力を得られないのではないでしょうか。

 しかしそうやって手に入れた未来ですが、次から次に課題やら仕事やらが降ってきてまたぞろ苦労する、ということの繰り返しのような気もします。常に何かに取り組みながら、それを解決して満足している自分がいる、そのような未来を想像することが日々の生活の動力源になっているのでしょうね。未来を思い描けなくなったとき、ひとは絶望して精神的な元気を失うでしょう。そのことが体内の免疫機構を傷つけて肉体的にも衰弱するということが起きるはずです(病いは気から、って言いますから)。すなわち、常に未来を見透しながら生きることこそが重要なのです。


使えない (2012年1月27日)

 東北地方太平洋沖地震が発生してから一年になる今年の三月初めに、国際シンポジウムが東京で開かれます(こちらをどうぞ)。そのための英文論文がやっと出来上がって投稿しました。久しぶりに全てを自分で作成しました。もちろん図は大学院生の石木健士朗くんに作ってもらいましたが、英文作成から図表・写真の張り付けやレイアウトまで全部やりました。結構な充実感がありましたね。

 で、専用のサイトから論文を投稿しようとしたのですが、要項にはPDFファイルだけを送るようになっていたにもかかわらず、投稿サイトではMS-Wordのドキュメント・ファイルも必要となっていて、おまけにその容量が10MB以下に制限されていました。私のDocファイルは写真をたくさん張り込んだおかげで24MBもありましたので、あえなくリジェクトされてしまいました。

 話しが違うじゃないか、というメールを主催者側に送ると、なんと運営委員会委員長の川島一彦先生(東工大教授、土木分野)じきじきに返事が来て、またもやびっくり。丁寧に説明して下さったので、まあしょうがないか(でも半分はそんな面倒なことを本当にするの、という疑問も残ったが)ということで、なんとかDocファイルの容量を小さくするための悪戦苦闘が始まりました。ああ、こんなことするのはホントーにイヤでしたけど。

 いつも書いているように、私はマイクロソフトのワードというワープロ・ソフトは大嫌いだからです(とか言いながら、この文書はワードで書いていますけどね)。その使い方をちゃんと勉強することなどせずに、なりふり構わず文書を作って来ました。容量などに頓着したこともありませんでした。それも今まではPDF形式のファイルだけを要求されていたから、それで済んだのでした。

 しょうがないので、オンライン・ヘルプとかネット上のQ&Aサイトなどを検索しました。で、写真とか図の容量を減らす方法とかファイルサイズを圧縮する方法は分かったのですが、私のワードではどうしてもそれができません。こんなことに数時間を費やしました。

 でも、できない。もう頭にきて、論文の投稿なんかやめてやる、とさえ思いました(短気ですから)。そのとき、他人様が作った文書で容量圧縮作業ができるかどうか試してみよう、ということに気がつきました。そうしたら、できたのですよ! そして驚愕の事実(大げさです)が明らかになったのでした。

 皆さんご承知のようにワードのファイルのセーブ形式には、古いバージョンとの整合がとれるように拡張子がdocのものと、最新版のみに対応する拡張子docxのものとがありますね。私はいろんなマシンを使っているために、常に拡張子をdocにしていました。それがいけなかったのです。Word 2011(Mac版)というソフトでは、拡張子docxのファイルでしか、マニュアル記載の圧縮作業はできなかったのです。もう、唖然としました。そんなことはヘルプにもマニュアルにもどこにも書いてないのです。こんなくだらないことに貴重な時間を浪費せざるを得なかったことに対して、激しい憤りをおぼえます。

 だからマイクロソフトのワードは使えない、って言うんです。しかし主催者側のいうようにPDFでもいろいろと問題があるのは事実のようです。電子投稿は便利ですが、前述のように容量制限のしばりは必ずあって、先日のJCI年次論文の投稿のときにも学生さんがその解決に腐心していました。でも、そんなことに時間をとられるのは、本末転倒もいいところではないでしょうか。便利そうに見えて、実はそれに振り回されている私たちって、いったい何なんでしょうか。これはまさに現代社会が抱える矛盾そのものであることに、今更ながら気がつきましたね。


減りゆく紙 (2012年1月26日)

 世の中からどんどん紙が減ってゆく(私の髪のことじゃありませんよ、念のため)。ここでいう紙とは媒体としての紙のこと、具体的にいうと紙に印刷した冊子のことである。今年最初の『建築雑誌』が年明けに届いたのだが、大会梗概集は今年から紙版を廃止してDVD版だけにする、ということが告知されていた。ああ、残念だなあというのが私の感想である。

 ときどきこのページに書いているが、私は論文集は紙がよいと思っている。分厚い冊子をパラパラとめくってゆき、タイトルとか図表などを眺め、これはと思う論文は落ち着いてゆっくり読む、というスタイルを私は好む。いくらコンピュータが発達したからといって、(今のところ)この使い勝手の良さには到底およばないと考える。

 また、論文集はかさばることは事実だが、研究室の本棚に常備しておいて、あの論文が見たいなあというときにサッと取り出せることが重要である。これがDVDではそうはいかない。ケースから取り出してパソコンにセットし、ドライブがぶいーんと唸りながら回って落ち着くのを待つ。それからおもむろに(通常は同梱されている)検索ソフトを立ち上げて、、、とまあ、こんな具合で、このような一連の操作をしているあいだに自分が何をしたかったのか忘れてしまうくらいである(って、まだそれほどボケてはいませんが)。

 建築学会の大会梗概集はかつては電話帳とか枕とか言われるくらい厚かったので、地方での大会に出かけるときにはその重さに辟易としたものだった。ひとによってはその梗概集をバラバラに切り裂いて持ってきていたくらいである。でもそうすると、上述のように本棚に並べて保管するのが難しくなるので、私はやらなかった。がまんして重い梗概集を持ち歩いた。

 しかし今年からは紙の梗概集の代わりに、パソコンを持ってゆくことになる。まあ、論文の発表は既にパソコン・ベースになっているから、そのことは別に苦にならない。でも多分、梗概集を見る機会は激減すると自分自身は思う。コンクリート工学年次論文もCD—ROMになって久しいが、ほとんど見ることがなくなった。年次大会のプログラムを見ながらこれはと思う論文にマークするのだが、そこから目当ての論文を見るためには上述のようなプロトコル(あるいは儀式?)を強いられるので、よっぽどのことがない限りまあいっか、あとで見るか、となって、結局永遠に見ずに終わるのである。

 どんな論文にせよ、それを完成させるまでには多大な労苦と資源とが費やされたはずである。先生から怒鳴りつけられて泪した学生さん(誰のことだか)もいただろう。そのような労作がほとんど顧みられることもなく(消費されることさえなく)、発表した瞬間から忘れ去られてゆくとしたら、なんだか虚しいじゃないですか。

 世の中には膨大な量の論文が発表されるが、斯界の人々に注目され引用される論文は全体の5%程度に過ぎない、というのをどこかで読んだ記憶がある。すなわち、そうでない大多数の論文はその引き立て役となってひっそりと忘却の河を流れてゆくのだ。うーん、あまりにも儚い、はかな過ぎる。と言いながら、十年前に自分が書いた論文の内容はすっかり忘れちゃってますけどね。

 ちょっと誤解されそうなので付け足すが、どんなに素晴らしい論文もそのことに興味を持つひとがいなければ、またその論文を理解しようとしてくれるひとがいなければ、日の目を見ることはない。そこで、私の論文はこんなにすごいんだぞと世間にアピールすることになるのだが、それさえも他人さまにキャッチしてもらえるかどうか覚束ない。結局、論文作成とは究極すると自己満足に行き着くのである、なんて、もっと誤解されそうだな。ひとびとの幸福と社会の安寧に寄与できる崇高な行為、ということでこの小文を終えることにしようっと。

 追伸; 今日、JCIの委員会に出席したら、コンクリート工学論文集(年に2、3回でるヤツ)も電子媒体に変更になるということを小耳に挟んだ。ますます論文を見なくなるなあ。


雪のあさ2012 (2012年1月24日 その2)

 雨が夜半から雪に変わりました。朝起きるとそんなに積もってはいませんでしたが、道路が凍結して雪かきになりませんでした。で、そうそうに雪かきは諦めて出勤しましたが、足下が悪くて危なかったですね。

 南大沢まで来ると、我が家周辺とはうってかわって綺麗な雪景色でした。弱々しい太陽の光に照らされてきらきらと輝いています。なんだかちょっとスキー場みたいな感じでした。あんまり綺麗なので、道々写真を撮りながら登校しましたが、わがキャンパスが見違えるように美しく見えたのは私だけではないでしょう。

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 最後の右端の写真は7階の私の研究室から撮った景色です。こんな眺めを毎日見ながら仕事をしています。でも普段は眩しいのでブラインドをほとんど降ろしています。


いろんな雨 (2012年1月24日)

 乾燥した日々のあとで今度は雨がしつこく降り続きました。私はあんまり雨降りは好きじゃありませんが、雨のなかを歩きながら、雨の歌を思い出してみました。すぐに思いつくのはこんな歌たちでしょうかね。

 雨のリグレット 稲垣潤一
 雨のステイション 荒井由実/ハイファイ・セット
 冷たい雨 荒井由実/ハイファイ・セット
 水曜日の午後 オフコース
 バカンスはいつも雨 杉真理(すぎ まさみち)
 Water color 大滝詠一
 別れ話は最後に サザン・オールスターズ
 Rainy day girl 安部恭弘
 雨のステラ 伊藤銀次
 雨にキッスの花束を 今井美樹
 ジェラシー 村松邦男

 いくらでも出てきそうなので、これくらいで止めておきますが、なんだかどれも三十年以上も前の歌たちであることに思い至りました。若いひと達にとっては多分聴いたこともない(歌い手の名前も聞いたことがないかな)曲でしょうが、私にとってはどれも馴染み深い歌ばかりで、その曲を聴いていた頃の思い出とか情景とかが鮮やかに蘇ってくるのです。

 高校生くらいの頃にはアルバム(直径30cmくらいのレコードのことです)は高価でなかなか買えなかった(1970年代には1枚2500円から3000円くらいでした)ので、FM放送で流れるお気に入りの曲たちをカセットテープに録音して大切に聞いていました。大学生の頃になると貸しレコード屋がたくさん出現しましたので、アルバムを借りてきてはカセットテープに録音しました。

 カセットテープにもいろんな種類があって、ちょっと高いクローム・テープなんかをおごっていました。録音時間も60分とか90分といったキリのいい数字だけでなく、46分とか54分といった中途半端な(でも、多分当時のアルバム一枚分が収まるように統計的に導かれた)録音時間のテープを使っていましたね。カセットテープのメーカーはTDKとかマクセルとかソニーでしたが、ソニー以外のメーカーは今はどうなったんでしょうか。

 これらのカセットテープは家のオーディオで聴くのはもちろんですが、車のカーステレオ(カーステと略して呼ばれていた/今はもう死語でしょうな)にブチ込んで、ガンガン鳴らしながら疾走したものです。あるいは製図室に持ち込んだラジカセ(これも死語?)にセットして、真夜中に口ずさんだりしたもんです。

 なんだか雨の歌から相当に脱線してしまいました。音楽ネタはそのうちじっくり書きたいと思っています。

AppleMark

 一曲だけ、解説しておきます。最後の「ジェラシー」ですが、これは村松邦男というギタリストの歌で、『Green Water』というアルバムに収録されています。雨音のイントロから始まって、「おもては〜雨が降る〜、お〜もては〜ジェ〜ラシーのあめがふる〜」というご機嫌なポップ・チューンです。村松邦男は山下達郎とか大貫妙子なんかとシュガー・ベイブというポッポスバンドを組んでいたひとです。最近はとんと聞きませんが、何をしているんでしょうか。


脳のトートロジー (2012年1月23日)

 先日の新聞に「麻薬としての経済成長」という記事が載っていました。人間は常に「もっと、もっと」を追求しなければ満足できない、経済成長し続けなければ満足感を得られない、とありました。しかし人間がそのような『味』をしめたのはたかだか17世紀以降のことで、太古の昔と同じように貧しい人々が今も大多数である、とも書かれていました。

 それは高度に脳を発達させた人間の宿命というか、業の深さとしか言いようがありませんね。私が自分の研究をさらに発展させて、自分の知らないことを理解したい、自然法則の一端を解明したい、などと思っているのも、常に『快楽』を求め続けてやまない脳のメカニズムに依存しているのかと思うと、あらためて驚かざるを得ません(と、こんなことを考えているのも脳なんですけどね)。

 こんなことを書くと、伊藤計劃氏の『虐殺器官』(ハヤカワ文庫)を思い出します。生命の進化の過程のひと枝に人類も連なっている訳ですが、生物の脳がこのように進化してきた理由(あるいは必然?)とかメリットはいったい何だったのか、というのは大いに気になるところです。これは遠大なるルーツ探し、と言ってもよいでしょう。

 しかしこのような脳の性癖の結果として、経済が発展し続けないと満足できない、というのも因果なものです。経済成長とは全く別の、新たなターゲットを見出して自分の脳を飼い馴らすことは、人間にはできないのでしょうか。思考する脳の思考を変えるように思考する、のは脳だから、、、うーん、これはトートロジーですかね。いくら考えても結論がでない、ということでしょうか。そうだとすると、これはもう哲学の世界です。最新の脳科学を研究することは、結局は哲学にたどりつくんだ、ということになりました。


卒論生の配属 (2011年1月20日)

 久しぶりの雨が、朝には雪に変わりました。南大沢まで来るとうっすらと雪が積もり始めていました。

 さて、来年度の卒論生4名が決まりました。今年は私のところに話を聞きにきた三年生は11名しかいなかったので、どうかなあと思っていました。ただ以前も書いたように年明けからJCI論文に没頭していたため、来年度の卒論配属のことはすっかり頭から抜け落ち、研究室説明会もあやうく忘れるところでした。

 でもそんな状況とは関係なく、多分なかま内でネゴシエーションしたんだと思いますが(不幸なひとがお互い[学生さんも教員も、という意味]に出ないように気を配ってね、と彼らに言っておいたことが奏功したか?)、今年も4名の有望そうな若者達が第一志望でやって来てくれました。なかにはものすごく専門的な質問を寄せたひともいて、4月以降が楽しみです。大学院希望者が多いのも嬉しいですね。諸君の活躍を期待しています。

 でも、今年はサバティカルのため、RC構造の講義も構造設計演習も担当していませんので、三年生たちにとっては私は「疎遠な先生」だったはずです。それにもかかわらずフル・メンバーが揃った、というのは喜んでいいのかどうか、ちょっと複雑な心境ですね。RC構造の非常勤講師をお願いしている高橋典之先生(東大生産技術研究所)の講義がとっても魅力的なのかも知れません。


出会う (2012年1月19日)

 電車のなかでバッタリと知人に出会う、という経験を立て続けに二回した。最初は東京都立大学時代の工学部長だった古川勇二先生である。機械がご専門だが、工学部長をするほどの方だから、自分の学部の教員の名前はほとんど覚えていたようである。古川先生は都立大から首都大学東京へと変革する混乱前期に他大学に移られたが、それ以降お会いしたことはなかった。なので、電車に乗ってふっと目の前を見て、おやっと思ったが私は直ぐに思い出した。

 そして次は、大学時代の同級生だった松原和彦くんである。彼に会ったのは二十数年ぶりだろうか。そのときもやはり電車(東急田園都市線)だったが、もうびっくりである。都営新宿線に乗っていて神保町駅で降りようとしたところ、同じ扉から降りようとしているひとを見て、おやっ、こいつは松原に似ているなあ、と思ってその顔を見たとき、ばったりと目が合ったのである。そして相手の怪訝そうな表情が緩むと「あれえ、お前もしかして北山?」というので、こちらも思わず顔がほころんで「ああ、やっぱり松原だったか」となった。

 松原くんは昔に較べて少しふっくらとして貫禄が出ていたが、話をすると紛れもなく松原だった。彼とは、学生時代に集合住宅の設計課題のときに共同設計をした仲だったので、仲の良かった間柄と言ってよいだろう。お互いに仕事先に向かう途中だったので、久闊を叙す間もなく直ぐに別れたが、元気そうで何よりだった。

 でも、こんな偶然が二回も続くなんてことが、世の中にはあるんですね。次は誰に出会うんだろうか、なんてね。


寒い朝2012 (2012年1月17日)

 今日も寒い朝ですね。今日は兵庫県南部地震(阪神大震災)が発生した日です。17年前の日の出の前に大地が鳴動して、大災害を引き起こしました。戦後に築かれた近代都市が直下型地震の洗礼を受けた初めての例でした。このときの教訓から、既存建物の耐震診断や耐震補強が国家事業として大々的に実施されるようになり、現在に至っています。

 昨日は、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災、2011年)によって被害を受けた学校建物の調査報告書の取りまとめについての委員会がありました。17年前にも同じような活動をして報告書をまとめたことを、昨日のことのように思い出します。学校建物の耐震補強はこの17年のあいだに随分進んで、2011年の地震のときにもその効果はおおむね発揮されたように思います(今、詳細に調査中ですが)。特に仙台市では学校建物の耐震化率が非常に高いので、被害調査に行くと耐震補強された校舎を随所で見かけました。

 このように建物の地震防災に対する取り組みは確実に進行していますが、地震はそのような人間の営みとは無関係にやってきます。そうするとハード面での対策には限界があるので、例えば耐震補強されていない建物を使用しているときに大地震に遭遇したらどのように行動すべきなのか、といったソフト面での対策が重要になるでしょう。もちろん地震動のレベルによってはそのような人間の知恵は、残念ながら無力化することもあるとは思いますが。

 地震によって建物が被害を受け、それによって不幸になるひとがひとりでも少なくなるように、これからも研究の成果を社会に役立ててゆくことを目指して教育・研究活動を継続しようとあらためて思います(もちろん、折に触れ書いているように自分自身の知的欲求を満足させることも重要です)。


発信する (2012年1月13日 その2)

 論文の話しを書きましたが、今は英文論文を作っています。学生の頃から英文論文は作ってきましたから、普通のひとよりはサッサと英作文できると思います。それでも日本語で論文を書くよりは相当に時間がかかりますし、なるべくNativeの英文に近づけるために関連する英語論文をたくさん見たりして、表現や用語を工夫します。

 昨日の朝日新聞に日本のトップ論文は世界のなかで停滞している、という記事がありました。国内向けの仕事ばかりしている、といった批判も書かれていました。でも私はそうじゃないと思います。世界に伍してゆける素晴らしい研究や開発はまだまだたくさんあるでしょう。しかし、それを海外に発信するためには英語にしないといけません。これが最大の障壁だと思いますね。

 日本人が英語に苦労するのは、もうどうしようもない宿命です。ときどきこのページに書いているように英語が事実上の世界標準語である以上、そのインフラに乗って活動しないことには、世界では認められません。それだけわれわれ日本人にはハンデがある訳です。中学校、高校、大学とこれだけ英語の授業を受けて来たにもかかわらず、このレベルですから。

 最近は英文作成業者などもいるようですが、テクニカルな論文には相当な費用がかかるでしょう。私のような「零細中小企業の経営者」は自分でやるしかありません。そこで時間の合間を見計らっては、少しずつ書き継いでいます。一日に5行しか書けなくても、やがては完成すると思ってやっています。


疲弊する (2012年1月13日)

 昨日、やっとコンクリート工学年次論文を投稿できました。昨年末から正月をはさんで昨日まで、もうこの論文たちにかかり切りでした。もちろん私が執筆する訳ではなく、大学院生たちに担当してもらうのですが、一緒に悩んだり、うんうん唸ったりというのは自分で論文を書くのと基本的には同じことです。もうどうしようもなくなって、学生さんのパソコンの前にじーっと坐って画面を睨んでいたこともあります。「先生、いま何考えてるんですか」とか聞かれて、おまえの論文の落としどころを考えているんだよ、とも言えず、パコパコと勝手にキーボードを叩いて文章を書いたりもしました。

 そんなことをしていると、自分が学生だった頃に小谷俊介先生が丁寧に添削して草稿を真っ赤にして返して下さったことを懐かしく思い出します。その当時は、何度持って行ってもOKが出ずに、田才晃さん(当時は助手)に「また、ダメでしたよ。どうすりゃいいんでしょうか」なんて愚痴ったりしたものでした。

 今回は結局四名が論文を提出しました。これは我が社(高木研を含みます/内容はWPC実験だから、我が社に含めてもいいでしょう)としては最多だと思います。皆さん、よく頑張ったと褒めて上げましょう。しかし四編の論文を見るのは、ホントに大変でした。一編みるのにだいたい2時間くらいかかります。おまけにチェック当初は何を書いているんだかさっぱり分からないということが多くて、議論に時間をさかないといけません。

 三人くらいとこんなふうに議論してその草稿をみると、もう疲弊しきって、ああもうダメだあ、今日はおしまい、ってな具合になりました。疲れると不機嫌になってくるので、あとにやってくる学生さんほど被害を蒙ったかもしれません。先日書いたように、頭が回らなくなるんですね。それでも学生さんによっては十回以上、草稿をチェックしたと思います。これでダメならもうあきらめもつく、ってなくらいです。この四編のうちの一編は二年越しの論文なので(すなわち昨年の今頃もやっていたのだが、結局投稿できずに今年に持ち越した)、ひとりの人間(すなわち私)がくまなく見ることのできるのは三編が限界だと思いましたね。

 でも、正月早々のこの行事は何とかならないでしょうか。例年、正月明けにコンクリート工学年次論文の締め切りが設定されており、まあ恒例ではあるのですが、もう少し締め切りを遅くしてくれると助かるのですが、、、。

 というわけで、提出翌日の今日は、学生さんはゆっくり休んでるでしょうが、私も大学にはいるものの結構ボーッと過ごしているのでした(とは言え、勿論もう次の論文作成にかかっています)。


椿事出来 (2012年1月11日)

 年明け早々、わが大学では大変なことになっています。研究室のある9号館で、便所の改修がいっせいに始まったのです。私の研究室は7階にありますが、一カ所しかないトイレは使えなくなりました。8階、9階も同じで、6階は二カ所あるトイレのうちの一カ所が改修に入りました。という訳で、ああトイレに行きたいなあ、と思ったら、階段を下りてテクテクと歩かないといけないのです。

 でもこれって結構なストレスであることにやがて気がつきました。だいたい「行きたいなあ」と思うときは、(少なくとも私は)相当に我慢して耐えた挙げ句ですから、まずい!漏れちゃうよー、なんて子供みたいなことになりかねません。

 これじゃ、コース長である角田誠先生じゃありませんが、シビンが必要なんてことが冗談事で済まなくなりそうです。トイレに行き来するために階段を昇り降りするひと達に頻繁に出会います。ところがその階段も二カ所あるうちの一カ所で、なんと同時期に改修に入ったのです。もう、どっひゃー、ですぜ。なにもよりによってトイレへの重要な動線である階段まで一緒に工事することはないだろうにと、もう怨嗟の声があめあられと蔓延しています(ちょっと大げさ)。改修の理由は昨年3月11日の地震でひび割れが発生したため、ということですが、同時期になんでやるんだか、理解不能です。

 で、これからは計画的にトイレにゆかなくちゃならないな、ということに気がついたので、昨日は2階の事務室に立ち寄ったついでに用を足そうと計画しました。うーん、我ながらグッド・アイデアとか思いながら。ところが、なんと2階も1階も同じようにトイレが改修されていたのでした。いやあ、これはひどいですね。9号館(9階建てです)にどれだけの住人がいるのか知りませんが、これではトイレ難民が続出するのではないかと危惧しています。一体どういうロジックで、このような施工計画を立案したのか、聞いてみたいくらいです(って、誰に聞きゃいいの?)。結局使えるトイレは中間階の三層分だけのようです。

 長々とシモの話をしてすいません。でも9号館の皆さんも多分同じようにお考えだと思いますので、それらの人々の声を大便して、じゃなかった代弁してみた次第です。どうも粗相をいたしまして、恐縮でございます。


頭脳のポテンシャル (2012年1月10日)

 我が社では年明け早々、コンクリート工学年次論文の投稿に向けて大学院生たちが四苦八苦している。先日も書いたが、北山研のM1三名、M2二名はそれぞれに研究テーマを抱えてそれなりの成果をあげているので、みな論文を書く土壌は出来上がっている(はずである)。

 そのような彼らが入れ替わり立ち替わり、相談にやって来る。そのほかにWPCを研究する高木研のM2もやって来る。どのテーマも耐震性能評価という大枠ではくくれるが、それぞれに異なる研究課題を扱っている。そこで、各々の論文内容の核心にまでたどりつけるように自分の頭脳のポテンシャルを上げないといけないのだが、だんだん年をとってきたせいか、なかなか頭が回ってくれない感じがして自分自身がもどかしい。クマのプーさんじゃないが、えーっと、えーっと、ってな感じかな。なかなかエンジンが回らずに、トップ・ギアまでシフトアップできない、と言ってもよい。

 で、やっと頭脳のポテンシャルが最高潮に達したところで、また別のひとがやって来る。えーっと、君は何が問題だっけ、なんてところから始まるのである。若い頃は頭のなかの引き出しが整然と揃っており、次々に問題を解決できたような気がするのに(錯覚かも知れないが、あはは)、近頃は引き出しの仕切りが溶解し始めたんじゃないのか、とも思う。

 でももしかして、これって新しい脳内成長への階段を一歩登り始めた、と言うことはできないだろうか。だって脳内の知識(あるいは脳内物質?)があちこち自由に行き来できるようになりつつある、ということかも知れないじゃないか。すなわち今までになかった斬新なアイデアが、ある日天啓の如くに湧き出たりするかも知れない。あるいは全く新しい悟りの世界に沈潜して、、、なんて、だんだん怪しくなってきたのでもう止めます。


情報の整理 (2012年1月5日)

 ちまたには多量の情報が流れていますが、これをどう整理して利用するか、というのは大問題です。私は終日テレビを見ないことが多いのですが、このように自分から情報へのアクセスを遮断するのが最も手っ取り早い方法です。ただこうすると時流に取り残された「情報難民」になる可能性も結構あります。テレビの話題に関していえば、私は既にもう「難民」に成り果てています(年末にすごく話題になった何とかのミタ、というドラマも見たことがありませんでした)。

 まあテレビの話題なんか生きる上ではなんということもないので放っておきますが、自身の暮らしとか人生に関わる問題はそうはいきません。例えば、最近はTPPについて見聞きすることがホントになくなりました。これはアメリカが自国の利益を最優先するための戦略であることは明らかですが、これだけ全世界的になった経済情勢を考えると、完全に無視して鎖国のように自国内だけで完結した生活・活動をおくるなんてことは不可能でしょう。

 それではTPPは日本に利益をもたらすのか、あるいは社会の破壊を引き起こす鬼っ子なのか、判断することが必要です。ところが、そのような判断の元になる情報が足りない、というのです。これはいったいどういう訳でしょうか。

 例えば農業の問題をとりあげましょう。農業にかかわるある専門家は、TPPは日本の農業を壊滅させ、自国の食料自給を完全に断ち切る恐れがあると反対します。いっぽうほかの専門家は、TPPは日本の農業を集約させて効率的に運営する契機となるので進展させるべきだ、といいます。それぞれの専門家が使っている数字は具体なものであり、それなりに説得力があるのです。

 このようなことは他の分野にも当てはまるでしょう。すなわち個別の情報はあるのですがそれらは独立してバラバラに存在して、それぞれの他者との関わりを積極的に評価するような場とか機関とが存在しないと思われます。結局、TPPの問題は個々人の利益(それが多くの場合には相反するのですが)にあまりにも強く関わりすぎているため、それらの問題を丁寧に解きほぐして情報を整理し、調整することが不可欠なはずです。

 本来はその役割を果たすのが政治でしょうが、民主党政権には残念ながらそのような力はなさそうですし、野党も政争にうつつを抜かしていてそのような気構えを感じることはできません。われわれ市井の人びとにとって、情報の取捨選択と整理および調整が可能なゴッド・ハンドは望むべくもないのでしょうか。急激に忘れ去られてゆくTPPの問題を例としましたが、情報をいかに扱うかは一国の興亡をも支配する重要な事柄です。それくらいのことを政府には認識してもらって、しかるべき組織を立ち上げて欲しいと強く思います。


アース・ダイビング (2012年1月3日)

 家でゴロゴロしていてもお腹がすかないので、ちょっと散歩しました。私専用の自転車が埃をかぶっていたので、綺麗に掃除して油も差してリフレッシュして、それに乗って出かけました。子供に「探検ゴッコしようよ」と誘いましたが、あっけなくリジェクトされて、ひとりです。

 私が子供の頃には、近所の見知らぬところに出かけること(「探検ゴッコ」と呼んでいました)にワクワクしたものでしたが、現代では小さな子供の独り歩きなどもってのほか、という寂しい時代になりました。そこで、親が一緒になって子供に「探検ゴッコ」を体験させようとしたのでしたが、テレビとかDVDとかを見ているほうが楽しいようですな。全く、子供らしくないなあ、といった感じです。

 そういうわけで自転車に乗ったのですが、ではどこへ行くか。最近は古道に興味があった(注1)ので、それでは近場をアース・ダイビングするか、という気分になりました。もちろんこれは、中沢新一さんの『アースダイバー』(講談社、2005年5月)から採っています。幸い我が家の近辺は縄文遺跡などにこと欠かないこともあって(私が住んでいる真下も文化財埋蔵地域に指定されています)、「ダイビング」するところは沢山ありそうです。

 野川の向こうはすぐに世田谷区成城になりますが、野川とのあいだには国分寺崖線と言われる崖(地図の茶色線の部分)が屏風のように延々と聳えています。この崖にへばりついている建物は三階建てくらいはありますので、比高は10メートルを超えると思います。ここを登る坂は相当の急坂で、自転車から降りて押しても膝がガクガクになります。

Kokubunji-Gaisen2

 で、国分寺崖線から野川に向かって飛び出た台地の突端にある神社(糟嶺神社)とお寺を、初詣を兼ねて訪問しました。境内の石碑には天保とか文久とか江戸時代後期の年号が見て取れました。中沢さんの言では、こういう地形には縄文時代の集落があって、必ず神社などが築かれたそうですが、まさにそんな神威を感じさせる場所でした。野川に向かっての眺めはとても良く、往時を偲ぶことができました。

 子供も大きくなってきたので、今年は自転車でアース・ダイビングしたいなあと思っています。

(注1) 我が家のそばに「品川通り」という道路があります。この道は府中(平安時代に武蔵国の官衙があったところ)のあたりから東に延びていって(その途中に鹿島建設の技研があります)、調布市つつじヶ丘のあたりでプッツリ途絶えており、なぜ「品川通り」と呼ばれるのか不審でした。ところがこの道(のそばにあった古道)は、その昔には本当に品川湊まで通じていたらしいのです。鎌倉街道と呼ばれる道もそうですが、東京の古い道って調べてみると面白いかもしれません。


賀正2012 (2012年1月1日)

 穏やかなお正月になりました。皆さん、明けましておめでとうございます。昨年は大地震が引き金となって激動の一年でしたが、今年は平穏無事に過ごせるように祈っています。

 我が家では大晦日に実家に行ったので、お正月は自宅でまったりと過ごしています。で、昼下がりにソファに座って年賀状を見ているときに、なんだか違和感を感じました。地面が微妙に揺れているようです。あれっ、なんだろう、もしかして、、、と思ってからしばらくして、ガタガタと建物が揺れ始めました。

 直ぐにテレビをつけるとサッカーの天皇杯をやっていましたが、スーパーで多摩地方の震度は3であることが分かりました。でも、マグニチュードは7.0で結構大きかったですね。震源が370キロ・メートルと深かったために津波なども起きなかったのでしょう。ああ、正月早々縁起でもないです。

 東海地震や南海地震もやがて必ずやってくると認識していますが、それが今すぐに起こるとは人間、思わないものです。そこが人間の勝手なところで、分かっているけど都合の良いように解釈して自分の気持ちを落ち着かせているのでしょうね。我が家も早いところ耐震補強して、すっきりと安心したいものです。

 ということで、今年の目標は「耐震補強」に決定いたしました。わが研究室での研究でも、鉄骨ブレースで耐震補強した鉄筋コンクリート建物の地震被害原因の追及とか、耐震性能評価とかをテーマとして活動していますので、これで公私ともに文字通り「耐震補強」を掲げることになりました。社会に貢献するためにはまず自分から耐震安全性を確保しましょう、ということでもあると思います。 


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