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 このページは北山が日々の生活のなかで感じたことや体験したことを徒然なるままに綴るコーナーです。このコーナーもついに十年めに突入いたしました。引き続き、お付き合いいただけるのは嬉しい限りでございます。

 なお、ここに記すことは全て個人的な見解であることを申し添えます。皆さまご承知のようにわがまま者の主張ですので、その旨をどうかご理解のうえ、こいつ何言ってやがるんだって笑い飛ばしていただけると幸いです。

 今日からは2018年版を掲載します。例によって不定期更新ですが、そもそもそういう類いのコンテンツなのでご容赦下さい(2018年1月4日)。



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歳末点描 (2018年12月28日)

 今年もついに御用納めとなりました。ことしの12月28日は金曜日なので区切りがいいって感じですね。身を切る寒さのキャンパスには人影もまばらで、そのことが一層薄ら寒さ感をいや増します、ああ年の瀬なんだなあって。昨日まで列をなしていた企業の人事担当者もさすがに今日は来ないようです、よかった…。

 我が社ではM2胡文靖くん(来年9月修了予定)が実験の準備を進めていますが、なにせ初めてやることばかりなので、仲々はかどりません。アルミ・アングルに穴を開けられないとか、ねじ棒がないとか、スイッチ・ボックス等の機器の置き場所が決められないとか、今までだったら研究室の人たちに聞いてその都度、解決してきたはずなのですが、どうした訳でしょうか…。もっと研究室の仲間を頼って共同で進めて欲しいと思います。中国人だとか日本人だとか意識しないで、みなが仲間であるということを是非とも有効に活用してくださいよ。

 日本コンクリート工学会の年次論文の締め切りが来年早々にやって来ます。今年度は投稿したいと思っていますが、来年三月修了のM2諸君の研究具合を見ているとどうだろうかという不安がいや増します。投稿する意思のある人はいるようですので、これから三週間ほどの頑張りに期待したいと思います。

 来年度の卒論生がやっと決まりました。当初の定員は四名だったのですが、第一志望がひとりしかいなかったので、定員を三名に減らしました。それでも来るひとがいなかったため、結局二名ということになりました。例年のことですが、これだけ不人気ということを学生諸君から突きつけられて、さすがに気が滅入りました。いくら授業を一所懸命に分かりやすくやっても、そのことが研究室選びには結びつかないということに途方も無い徒労感を感じます。これってやっぱりわたくしの心が狭いっていうことでしょうかね,,,。

 さて、建築学会から『鉄筋コンクリート部材の構造性能評価の現状と将来』という書物を出版しようとしているのですが、その原稿の通読を行なっています。300ページ以上の結構大部な原稿を河野進さん(東工大教授)と迂生とのふたりで読んで、書きっぷりとかトーンとかをできるだけ統一しようというのがその意図です。ちなみに原稿は二十人以上の第一線研究者の皆さんに執筆していただき、今までに三回に渡る査読(小委員会、RC構造運営委員会および構造本委員会)を経てきた代物です。このように複数人の目を通しているので、迂生の仕事としては用語の統一とか言い回しの微修正くらいのエディトリアルな作業だろうと多寡をくくっていました。

 ところが数日前から原稿を精読し始めたところ、分からないところや意図を読み取れないところなど、疑問や不審が噴出し始めたのです。これって一体、どういうことなのよ? 結局、それぞれの執筆者に疑問点を糺したり、真意を伺ったりする作業が必要になって、年末だというのにそのお仕事に忙殺されることに相成りました。あまりにも驚いたので、原稿の統括管理者である楠原文雄さん(名工大准教授)と電話で一時間近くも話し込んでしまったくらいです、どうなってるんだと…。

 先ほどもすぐ隣にいる壁谷澤寿一さん(彼も執筆者のひとり)に、ここはどういう意味なのとか、もう少し丁寧に記述して欲しいなあとか質問しまくりました。若先生は「そうですね、お疲れさまです!」なんて言っていたけど、疲れさせないでくれよなあ、ホント勘弁してくれよ,,,。

 これじゃ原稿が気がかりで安心して年を越せないよ〜って感じなんです、なんせ気が弱いですから、わたくしは。でも、いつもの如くできる範囲でやるしかないでしょうな。どんなものにせよ、完全無欠などということはあり得ないわけですからね(って、我ながら相当な言い訳だな、あははっ)。

 こんな感じで懸案事項が宙吊りになったせいで、こころもふわふわと落ち着かないままに新しい年を迎えることになりそうです。いや、やる事がたくさんあって幸せなのかも知れません。

 それでは今年はそろそろこれにてお終いにしとう存じます。ここまでお読みくださったお暇な(?)方々にはネット空間の片隅から叩頭いたしている次第でございます、はい。皆さん、楽しい夢を夢見ながら新しい年をお迎えください。また来年、お目通しいただければ幸いです。


くじら (2018年12月27日)

 日本がIWC(国際捕鯨委員会)から脱退して商業捕鯨を再開することになったそうです。いやあ、驚きましたな、なんで今ごろ鯨なんだろうって…。鯨肉は小学校低学年の頃まで学校給食でよく出てきました。ご同輩の方々は憶えておいででしょうが、まだ日本が貧しかったその頃の鯨肉はいくら噛んでもクチャクチャと噛み切ることのできない、長靴の底みたいな得体の知れない物体でした。その鯨肉が給食に出ると、子供ごころに本当に憂鬱になったものでした。でも当時の小学校では給食を残すことなど考えられません。泣きそうになりながら必死に食べた、それが悲しい鯨の記憶なんですね。

 こう言うと、お前はホンモノの美味しい鯨肉を知らないんだって言われそうです。確かにその通りなのでしょうが、今更、そのようなトラウマとなった物体を食べたいとは思わない、というのもまた真実です。実際、現在の日本で鯨肉を好んで食べるひとは少ないそうですから。

 そのような状況なのになにゆえ今になって商業捕鯨を再開するのか。自分たちの主張が聞き入れられないから脱退するなんて、子供じみたTランプのアメリカみたいじゃないですか。これって、どう考えてもJ民党の一部の議員たちによるスタンド・プレーにしか映りません。そんなふうにひと無き荒野をひとり行くが如く傍若無人に振舞っていると、いつか必ず足元をすくわれるということに気がついて欲しいですな。

 ただ念のために申し添えると、わたくしは捕鯨そのものに反対なわけではありません。日本の各地には古くから捕鯨を生業としていた人びとが生活していますし、それを日本古来の文化であるといえばその通りであると思うからです。なによりもどこぞの国々のように、鯨は頭が良いから殺して食べるなんて野蛮なことは許せない、などという感情論に与するものではありません。

 国際協調の時代であるにもかかわらず、自分の主張が通らないからと言ってそういう組織から脱退するという行為がおかしいと言いたいのです(それも、それがなぜ鯨なのよ…)。その昔、日本が国際連盟を脱退した事実が亡霊のように浮かび上がって参ります。歴史に学んだほうが良いのではないでしょうか。


朝の苦役 (2018年12月26日)

 せわしない年末の朝、京王線が人身事故で止まりました。ニュースで報道していたのでありゃまずいなあ、とは思いました。午前中にM2李梦丹さんとの研究打ち合わせを入れていたので、登校しないといけません。

 仕方がないので25分以上歩いて小田急線に乗りました。でも、小田急線は京王線と並行して走っているので振替え輸送によって混雑したらしくて、その影響によって小田急線も大きくダイヤが乱れていました。小田急線の車内アナウンスでも「京王線の振替輸送の混雑によって…」を連呼していました。他社の尻拭いをさせられて、あまつさえ自社の運行にも悪影響を与えられて憤懣やる方ないといった感じでしたね(でも多分、お互いさまなんでしょうけど)。

 こんなわけで大学に到着するのに、普段の倍近い一時間四十分もかかりました。まさに朝の苦役、です。でも、年を越せなかった気の毒な方がいたという事実には気が滅入りました。健康で無事に新年を迎えられそうなことにやっぱり感謝するべきなのでしょう。


ことしの本ベスト3 (2018年12月25日 )

 真冬らしく凛とした寒さ厳しい朝となりましたね。先ほど、RC隅柱梁接合部試験体の作製についてアシスの村上社長と相談しました。数年前に片江拡さんおよび石塚裕彬さんが実験研究した内容を発展させた研究で、スポンサーは科研費です。今回はM1藤間淳さんが主担当者で、明治大学の晋沂雄研究室にも一緒に研究に参加していただくことになっています。

 さてクリスマスも過ぎつつあり、そろそろ恒例の「ことしの本」を選ぶ時期となりました。この一年間に読んだ本は54冊でした。昨年は55冊でしたから、この二年は平均して一週間に一冊のペースで読み進めてきたことになります。内訳は、大学図書館から借りた本が38冊、昔の読書(以前の蔵書を再読すること)が2冊、新規購入が14冊でした。ただし借りた本のうちの4冊は未読了のまま返却しました。理解できなくて読み進めるのが苦痛になったり、作者の態度にどうにも共感できなかったり、面白くなかったりしたためです。

 というのが総括ですが、じゃあどれがベスト3なのよと思ってよくよく考えると、ダントツでこれが一番!っていう本が見当たりません。本当は飯嶋和一の『星夜航行』(新潮社、2018年6月)を選びたかったのですが、この本は上下二巻の大作でまだ下巻を読み進めているのが現状なので、ここに取り上げるのは控えます。唯一、ものすごく面白いっていう感想だったのは『浄瑠璃坂の仇討ち』(高橋義夫著、文春文庫、2001年7月)でしたが、これは「昔の読書」だったのでやっぱり控えます。

 こんな感じで突出した決め手はないのですが、第一位はスタニスワフ・レムの『ソラリス(Solaris)』(原作は1961年、ハヤカワ文庫SF、2015年)にします。このSFについては既に本年10月1日のこのページに載せましたので繰り返しません。ただ、そのときには書きませんでしたが、知性体であるソラリスの海が個々の人間の心の闇を探り出し、それに基づいて記憶のなかの死者をアンドロイド(?)として蘇らせて主人公たちを惑乱させます。それは出口の見えない恋愛へと進展して、そのことがこの物語に深みを与えていることは確かです。

 惑星ソラリスでは人間には理解できない、不可解で不条理な事象が次々に発生して、それがこの星を訪れる人間たちを翻弄します。そう言った諸々の現象を理解しようとした人間たちは砂上の楼閣のような学問(ソラリス学)を発展させ、議論してきたことが綴られます。

 でもこれって、人類が誕生した地球上で宗教が発生して神々が生み出され、それを解釈するための学問(神学)が発展してきたことを寓意的に表しているとも捉えられます。すなわち、宇宙空間に進出するくらいに科学技術が発達したといえども、人間は自然を理解できないし、理解できたと思うなんて傲慢にも程がある、ということをレムは言いたかったようにも思いますね(深読みのし過ぎかな…)。

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 第二位は『一茶の相続争い 北国街道柏原宿訴訟始末』(高橋 敏著、岩波新書、2017年8月)です。著者は小林一茶を専門に研究するひとではないので、遺産を簒奪した百姓・弥太郎を贔屓することなく冷静に叙述しているところがいいですね。北国街道の柏原[かしわばら]宿の歴史や江戸時代の名主・本陣などの人物を交えて、誹諧師・一茶が生まれ故郷に舞い戻って百姓・弥太郎として生きた背景を丁寧に説明していきます。北信濃には誹諧などをよくする文化人が多くいて、そういうひと達が一茶を宗匠として受け入れていました。だからこそ、百姓とは言え自分で田畑を耕すことのない小林一茶が柏原宿で生きて行けたのでしょう。

 その一茶の句に「松陰(まつかげ)に寝て喰ふ六十余州かな」があります。「松陰」の「松」は松平氏を指し、「松陰」とは太平の徳川の御代の恩沢に守られていることを表している、と著者は書きます。これをいいことに何もせずに寝てうまいものを喰いながら、日本の六十余州の民は暮らしているのである、という徳川の支配を賛美した賀句ということでした。小林一茶って抜け目のない、世渡り上手だったみたいですねえ。

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 第三位は『創発の生命学 生命が1ギガバイトから抜け出すための30章』(佐藤直樹著、青土社、2018年4月)にします。著者は1953年生まれ(迂生よりはほぼ一世代上の世代)の東大総合文化研究科教授です。

 進化を産み出す二つの力として、多様性を産み出す活動と、それらの増殖を抑制する環境による制限とをあげ、この二つの相反する力が対立して、その結果として新たに適応した種ができる、と著者は言います。それゆえ、著者は進化や適応という言葉は後付けの説明としか考えないそうです。ダーウィンの進化論では生物には自然に進化する力があるように思われていますが、このような相反する力のぶつかり合いの結果を進化と呼ぶに過ぎない、と著者は言っています。

 同じことを言い直すと、駆動力としての自由エネルギー(これは太陽から与えられる)と、それに対するブレーキとしての制約がぶつかり合い、それによって新たな創発的な力が生まれるそうです。ヒトゲノムの情報量である1GBはこの制約の大きさに相当する、というのが著者の主張です。

 皆さん、いかがでしょうか? このように書いたわたくし自身、結局、よく分からなかったというのが正直なところです。創発という概念やそれと生命との関係も分かりませんでした。不均一性に基づくエネルギーの移動(エントロピー)によって生命現象を理解しようとする新しい試み、ということは何となく分かりました。でも、そこから哲学へと至る道はほんのわずかなような気がします。哲学であれば理解できないことがあってもそれは当然かなという印象を抱きましたが、いかがでしょうか(負け惜しみか、あははっ)。

 このように分からないことは多々あるとは言え、多くの事ごとを考えさせられた書物であることは確かです。ダーウィンの進化論など歯牙にもかけないその姿勢もわたくしには清々しく感じられました。それらの点を買ってこの本を第三位に選びました。

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 最後に番外として『透明標本 吉村昭自選初期短編集2』(吉村昭著、中公文庫、2018年10月)を挙げておきます。吉村昭の著作はたくさん読んできましたが、これはタイトルにある通り、彼の初期の短編集です。あわせて『少女架刑 吉村昭自選初期短編集1』も読んでいます。

 人間や動物の死を題材とした短編が延々と続きます。描写も相当に気持ち悪いものがあります(ご飯の前には絶対に読んではいけません)。それらの中で死の匂いのしない小説がポコっと出てくると、妙に安心するほどです。さすがに二冊続けてこの手の小説を読み続けると苦痛になって来ます。なかでも気持ち悪さは表題の「透明標本」が頭抜けていました。

 これらの小説を読んで、昭和三十年代の日本では人間の死というものがかくも軽く扱われていたのかと思うと、驚きを禁じ得ません。まだまだ文明国とは言い難い、発展途上の国だったことがわかろうというものです。それでも往年の吉村昭らしさを十分に感じることのできる短編集でした。筆致は淡々としていますが、その情景描写が秀逸なことに改めて気が付いたのでした。

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いつか来た道2018 (2018年12月21日)

 今朝、大学の上空を横田基地に向かって飛ぶオスプレイを初めてこの目で見ました。単機でしたが、かなりの低空を飛んでいたせいもあって大きく見えました。二基のプロペラはヘリコプターのように水平に回っていましたので、着陸動作に入っていたのかもしれません、スピードがえらく遅かったですから。自分の目で見て分かりましたが、あの形ってどうみても安定的ではなくて、やっぱり危なそうだなと思いましたな。

 さて、A倍政権はついに航空母艦を所有することに決めました。ヘリコプターを搭載していた「いずも」型護衛艦を、垂直着艦ができる戦闘機(かつてのハリアーみたいなヤツでしょうか)を搭載できるように改修するそうです。専守防衛に資するように多目的に利用できる護衛艦というのがA倍政権の建前です。しかし、どう考えてもこれって屁理屈にしか聞こえませんよね。海上自衛隊は海外では最新鋭の海軍と認識されています。そこにさらに航空母艦が加わればこれはもう立派な戦力として、外国にとっては脅威と映っても全くおかしくありません。

 そういうことが分かっていて航空母艦への改修を決めたのでしょうから、これは確信犯です。戦前、ワシントン軍縮条約によって艦艇の保有比率を制限された旧海軍は、さまざまな手を使って自軍の充実を図りました。戦艦をすぐに航空母艦に改造できるように建造したのもその一つでした。いやあ、そっくりな構図になっていて、あまりに露骨なのでかえって驚きますな…。

 このような軍備拡張を望んでいる市井の人々は一体どれくらいいるのでしょうか。自民党政権を選んだのは日本国民です。しかし、こんなはずじゃなかったと思っている良識ある市民もまた多いのではないかと思量します。そろそろ民衆が声をあげるべき時期に来たように思います。だって、このままじゃ心底まずいじゃないですか…。


年忘れ2018 (2018年12月20日)

 昨晩、研究室の忘年会を開きました。昨年は現役諸君の誰も企画してくれなかったのでやりませんでしたが、ことしはM1の田中宏一さんを始めとする諸君が準備してくれました。ありがたいことです。夕方に浜松町で会議があったので、今年は新宿で開催して貰いました。そのためでしょうか、いつもよりもOBが多く参加してくれたように思います。それに加えて今年は現役構成員が全員出席したのも珍しいかな。結局、OB参加者10名を含めて全部で25名が集いました。

 久しぶりに懐かしい顔々を見ましたが、その頃の記憶ってすぐに蘇って来るんですよね。これってやっぱり研究室のきずなの強さだと思いました。OBの皆さんの近況を聞いていると、三日前に現場がかわったひと、結婚したひとやもうすぐ子供が生まれるひとなどがいて、それぞれの人生模様を垣間見ることができました。それぞれの職場で活躍している様子を聞いて、わたくしもとても嬉しく思いました。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:北山研究室忘年会20181219:IMG_0299.JPG

 ということで、年忘れの楽しいひとときを過ごしました。集まってくれた皆さんに感謝申し上げます。来年が皆さまがたにとってさらに良い年となることをお祈りします。健康に注意して益々活躍してください。


研究室のきずな (2018年12月19日)

 今朝はよく晴れて、多摩川の鉄橋を渡る京王線から真っ白に冠雪した富士山がきれいに見えました。かように穏やかな日和ばかりだと良いのですが、そうは問屋が卸してくれないのが人生っていうもんなんでしょうね。

 さて、昨日から胡文靖くんの実験準備が始まりましたが、実験棟に行って見るとお手伝いは全て中国の人たちでした(あまつさえ、壁谷澤研究室の中国のひともいました)。我が社には日本の人もいるので(って、当たり前だな)国籍に関係なく研究室のみんなに手伝ってもらうように、胡文靖くんには言いつけました。本人は「はい分かりました」とは言っていましたが、どうにも心もとないなあ…。

 同じ研究室に所属する仲間なのだから、その仲間と苦楽を共にするのは当然のことと迂生は思っています。それぞれが取り組む研究課題についても常に議論しあって、切磋琢磨して欲しいと願っています。

 しかしそのようなことを寿一さん(壁谷澤ジュニア)と雑談したら、彼曰く「そういうのは日本だけじゃないですか。アメリカや中国では、個々人の研究には研究室内の構成員といえども関わることはほとんどなく、実験の手伝いもお金を払って雇っています。そうしないと業績や論文執筆時の著者をどうするかなどでトラブルになるようですよ。」とのこと。

 うーん、そうかあ、考えさせられるなあ。世界って、そんなにシビアなんだ〜。これだけグローバル化が叫ばれる中、日本独自のやり方(上述した迂生の考え方)は世界から見れば異端の研究手法ということみたいです。でも、ここはニッポンなんだ、日本には日本の麗しき良き伝統があって、わたくしはそれを愚直に墨守したい、と、そんな風に思うのですが、皆さんいかがでしょうか。

 ただ、(日本において)他人の実験を手伝う・手伝わないというのは、個々人の資質とか人間性の問題も大きいと思います。手伝いをいくらお願いしても実験室に顔を出さないひとって、わたくしが大学院生の頃にもいましたから。ですから、それぞれの人となりをよく観察して理解してから、手伝いを頼むというのも一法かも知れません。とにかく研究室のきずなを上手く利用して欲しいと思います。


第二陣の実験に向けて (2018年12月18日)

 穏やかに晴れてほんのり温かみを感じる今朝、鉄筋コンクリート十字形試験体二体を本学・大型構造物実験棟に搬入しました。加力装置を組み替える必要があるので、アシス株式会社から村上研さん達が来てくれています。我が社での今年度第二番目の実験になります。

 この実験は以前の王磊さんや鈴木清久さんの研究の延長上にあり、RC梁の最大耐力時の変形を理論的に定量評価するための研究です。その意味では基礎研究の王道をゆくような研究ですな。M2の胡文靖さんが主担当者です(卒論生はついていないのでちょっと大変ですが…)。そうでした、三年生諸君の研究室配属がそろそろ本決まりになりますので、彼らに実験参加を促そうとおもいます。こりゃいいアイディアだな、特別研究ゼミナールの本旨にも則っているし…。

 寒い時期での実験になりました。安全や体調に細心の配慮をしながら実験活動を行なって下さい。試験体設計にあれだけの時間を費やしたのですから、良い成果が得られることを期待しています。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC平面十字形実験2018_胡文靖:試験体の搬出搬入_実験装置組み替え:IMG_1173.JPG


母校で授業 (2018年12月17日)

 冷たい雨の降るなか、今年も母校の都立A高校で90分の模擬授業を行って来ました。『大学の建築学科で何を学ぶか』というタイトルで建築学の魅力を総花的に紹介する授業で、内容は毎年ほぼ同じです。ただ、大学生でも90分の授業は集中が続かないので、高校生諸君の興味を途切らせないように気を付けています。今年は講義する内容の順序を入れ替えるとともに、トピックとトピックとのあいだに気分転換のための小話しなどを幾つか盛り込みました。

 なかでも今年初めて入れ込んだのが、詩人で建築家だった立原道造の紹介です。立原道造についてはこのページで何度も触れているので説明しません。ただ、わたくし自身が高校生のとき、現代国語の授業で山本洋三先生が立原道造を取り上げたのがこの詩人を知る契機でしたので、現代の高校生諸君にも知って欲しいなと思った次第です。文系から理系に渡って無限に広がる建築学の魅力を知ってもらうことが迂生の講義の要諦ですので、詩人だろうが源氏物語だろうが何でもあり、なんですね〜、あははっ。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:スクリーンショット 2018-12-17 16.18.53.png

 ただ、さすがにかつての山本洋三先生のように立原道造の詩を朗読するほどの時間はありませんでした。その代わり、建築の授業らしく彼の設計した「ヒアシンス・ハウス」の写真と図面とを紹介しておきました。まあ、若い高校生諸君がどう思ったのかは分かりませんでしたが…。

 さて講義が終わって表玄関あたりの掲示物を懐かしげに眺めていると、数学教師のS先生が声をかけて下さいました。S先生は迂生が昨年雑談した内容を覚えていてくれたそうで、今年の模擬授業では都立A高校OBの大学教員3名(私を含む)に来てもらうことができた、と話してくれました。毎年、模擬授業の先生を探すのが大変と言っていたので、それなら(わたくしのような)OBに頼むといいと思いますよ、と話しておいたのです。今年は全部で17講座が開講されていましたが、アドヴァイスが役に立ってよかったと思います。

 せっかく渋谷区神宮前まで来たので、国立競技場の今の様子も載せておきます。写真のように外形がほぼ姿をあらわしていますが、(予想はしていましたが)かなり大きいですね。タッパ(背)が高くて千駄ケ谷駅から坂道を降ると壁のように聳えているのが分かりました。こりゃやっぱりアウト・スケールだと思いますけど…。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:都立青山高校模擬講義20181217_国立競技場建設現場:IMG_0288.JPG

 ただそれよりももっと驚いたことがありました。それは千駄ヶ谷駅前に建っていた津田ホールが跡形もなく取り壊されていたことです(左下の写真)。この建物は槇文彦先生の設計で、模擬講義の中でもA高校界隈の名建築のひとつとして紹介していました。ちょうど一年前に撮影したのが右下の写真ですが、かような建物がちゃんと建っていたのですよ。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:都立青山高校模擬講義20181217_国立競技場建設現場:IMG_0294.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:都立青山高校模擬講義20171221_国立競技場建設現場:IMG_0049.JPG

 調べてみると津田ホール(津田塾大学の所有)の竣工は1988年でしたから、わずか30年で取り壊されたことになります。日本の成長神話は遠い過去の出来事となってスクラップ&ビルドの時代はとうに終わり、これからは優れた既存建物を改修しながら使い続ける時代になっているのに、このありさまです。槇文彦先生の建物をさっさと取り壊すなんぞ、日本の文化もまだまだ大したことないな、野蛮だなと思わせる残念な出来事でした。これじゃ、高校生たちに説明できなくなっちゃったなあ…。


討ち入り2018 (2018年12月14日)

 今日も寒い一日でしたね。今週も企業の方がたくさん来校しました。いったいいつ頃まで続くのでしょうか、読めないところが辛いです、とほほ…。

 さて、12月14日は赤穂浪士が本所の吉良上野介邸に討ち入った忠臣蔵の日です。例年書いていますのでネタも尽きたなという感じです、あははっ。この事件については謎がたくさん残っているのですが、それらを解く鍵として時代情勢もあったのではないかと考えるようになりました。

 赤穂浪士討ち入りは五代将軍綱吉の時代ですが、これは戦国時代が終焉して約百年後のことでした。家康から三代将軍家光の頃までは戦国時代の殺伐とした余光が色濃く残っていましたが、そこから徐々に武士たちのマインドが武人からサラリーマン官僚へと変化してゆきます。生き残りをかけて必死に戦った時代を経て、徳川大名になったらなったで幕府から潰されないように汲々となって領国経営を迫られた、そういう時代でした。

 ところが綱吉の頃ともなると「徳川の平和(パックス・トクガワーナ)」が広く定着して、生まれながらの殿様が世の中のほとんどを占めるようになります。すなわち苦労知らずのボンボン殿様ですな。そういう殿様は先祖の舐めた辛酸などは全く忘れて(あるいは知らずに)、領地と権力とが自然と身に付いたと勘違いしがちで、わがままな人も多かったと思います。そういう時代の鬼っ子として浅野内匠頭が出現したのではないか。恵まれた世の中になったので、それまでだったら淘汰されて生き残れなかったような大名までが世にはびこった、ということです。どうでしょうか。今の世の中と似てないこともない、そんな風にも思いますね。


つける (2018年12月10日)

 今日はどんよりと曇った寒い日となりました。朝、野川沿いを歩くと身を切るような寒風が吹き付けて、こりゃあ大学まで我慢できるかなと思ったくらいです。電車の暖房が結構効いていたので一息つけたのが良かったです。寒くて手がかじかむと、電車内で読む本のページをめくるのが億劫になるので困りますけど…。

 大学の研究室棟は鉄筋コンクリート構造なので熱容量が大きいため、研究室内はまあそれなりに暖かかったのですが、足元に森々とした冷気が忍び込んで来ました。こりゃたまらん、というわけで今季初めて研究室の暖房のスイッチを入れました。これでやっと心も暖かくなって落ち着けました。

 年末から年明けにかけてどんどんと寒くなって行きます。冬の寒さに早く体を慣らしたいと思いました。皆さまもどうかお気をつけください。


開戦の日に 2018 (2018年12月8日)

 年の瀬早々に真珠湾攻撃の日がやって来ます。1941(昭和16)年のことですから、今から77年もむかしのことにあいなりました。米英とは圧倒的な国力の差があることは分かっていたにもかかわらず、日本の軍部は無謀な戦争に突入しました。その結果として、自国の民衆のみならず何の関わりもないアジア諸国の人々にも塗炭の苦しみを強いた事実は決して忘れてはなりません。

 旧日本帝国の軍部は自己の論理に都合の良いように民衆を誘導して、日本が生き延びるには戦争をするしかないと思い込ませました。そのような一方的な視座しか持たないやり方は、現在のA倍政権の姿勢にそのまま重なります。これだけダイバーシティ(多様性)が叫ばれる時代なのに、A倍政権はそうではないということに今更ながら驚きます。しかしながら、そのやり方を支持する国民もまた半数以上存在するというのはどうしたことなのか。

 わが国が直接巻き込まれるような戦争はこの77年のあいだありませんでした。このことは日本の長い歴史を振り返れば稀有な僥倖であったと申せましょう。結局のところ、この平和の尊さを忘れてしまって自己の利益の追求にしか興味のない人たちが大勢いるということなのでしょうね。

 人間の欲望には限りがありません。そのことがこの稀有な平和を空気のようなものにしてしまいます。しかし、美味しいものを食べ、好きなように生活でき、雨露をしのげる暖かいお家がある、このようなわたくしたちにとっては当たり前の日常が、77年前にはなかったのです。現在の日常のありがたさ(これってまさしく「有り難い」ことなのですよ)を今一度噛み締めて感謝する、そういう日だと迂生は思っています。


卒論の発表会・中間発表会2018 (2018年12月7日)

 昨日は冷たい雨の降る、真冬のような一日でしたが、この時期恒例の卒論発表会および中間発表会が国際交流会館で行われました。例年、この行事の開かれる日は寒くてどんよりとして気分の滅入る天候になることが多いのですが、今年もまさにそのような日になりました。これって一体どうしてなんでしょうかね…。

 さて今年度は竹宮健司学科長と高木次郎学科幹事の発案によって、中間発表はポスター・セッション(A1用紙1枚)として実施し、本発表は例年通りの口頭発表とするように変更になりました。今までは朝から夜までの発表会だったのですが、このお陰で今年は午後だけの半日で済むようになったのは、大変にありがたいことでした。丸一日だとべらぼうに疲れて集中力も途切れますから、半日くらいがちょうど良いように迂生は思います。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:卒論中間発表会ポスターセッション2018:IMG_0275.JPG

 このポスター・セッションは45分のセッションが二回のトータル90分でしたが、Aコース(卒論のみ履修するコース)の36名のうちの25名の学生諸君からは直接に研究内容を聞いて議論したり、感想を言ったりコメントしたりできました。まあ正直言って、すごく精力的に真面目に研究に取り組んでいるひとと、こりゃやっつけ仕事だなあと分かるひととが明瞭に色分けされました。やってみて分かりましたが、従来の五分間の口頭発表よりはずっと良い、というのが迂生の感想ですね。


マフラーと教えたつもり(2018年12月6日)

 夜半に降り始めた雨が明け方には土砂降りになりましたが、それから数時間で小降りになりました。昨日とは一転して寒い日になりましたので、今季初めてマフラーを着けました。クリーニングに出して仕舞っておいたマフラーが見つからずに、イライラしましたけどね、あははっ。

 さて先月、大学主催のFD(Faculty Development)セミナーに参加しました。時々このページに書いていますが、大学がせっかく開いてくれるセミナーですから、時間が合う限り参加するようにしています。

 今回は「インストラクショナル・デザインをアクティブ・ラーニングに活かす」というタイトルの講演を向後千春先生(早稲田大学教授)から受講しました。カタカナばかりのタイトルでなんじゃこれっていう感じですね。そもそも「インストラクショナル・デザイン」というのが聞き慣れませんが、授業設計とか教授法とかのことみたいでした。それならそうと日本語で言えばいいのに…。

 しかし『世界一分かりやすい教える技術』という御本をお書きになっているくらいの先生ですから(その方面では著名な有名人らしく、講演会には学外者も来ていた)、その講演は分かりやすかったですし、何よりもたくさんのことを学べました。

 わたくしが常々書いていますが、大学の先生って教え方の授業を受けたことがなく、皆さんが自己流かつ試行錯誤しながら授業を組み立てて実行しています。向後先生もまずそのことからお話しを始めました。そして多くの大学教員が「教えたつもりのワナ」にはまっているが、重要なのは相手(学生諸君)が学んだかどうかであると。まあ言われてみれば当たり前なのですが、なるほどと思いましたね〜。

 授業設計の一例として、向後先生のやっている「マイクロフォーマット」を知りました。これは30分を1ユニットとして、始めの15分を講義、次の10分をグループ内での対話(討論)、最後の5分を全体でシェアして様々な考え方を学ぶ、というやり方だそうです。早稲田大学ではこれで授業をしている、ということでした。グループの人数は3名か4名とするそうですが、これも向後先生の試行錯誤の末に得られた適切人数だそうです。

 ロバート・パイクという教育実践家が提唱した「90/20/8の法則」も習いました。これは、一つのセクションは90分以内とし、20分ごとにペースを変え、8分ごとに学生諸君に活動させる、というものです。本学の授業時間が一コマ90分であることを知った向後先生は「それは良かったですね〜、100分とか110分にしている大学もありますが、そういうところでは大体が失敗しています」とコメントしていました。

 迂生の経験からは、学生諸君が我慢して講義を聞いてくれるのは一時間が限界です。その一時間の中で20分ごとに話題を変えたりできれば、学生たちは飽きずに集中して勉強できるように思います。さすがに8分ごとに学生たちに作業をさせるのはちょっと難しいですけど…。

 そのほかにも、教室は座席指定にして座らせる、グループ分けは完全にくじで決める、授業の最初の10分間でアイスブレークを行って脳の活性化を図る、代返などができないように出席の取り方を工夫する、授業内で学生を当てるときには恣意的に決めずにサイコロを振って(公平に)決めると文句が出ない、などの様々なアイディアを聞きました。いやあ、すごいなあと感心することしきりでしたね。

 我が大学では現在、来季の講義のシラバスを提出する時期に当たっています。来年度から「建築構造力学3」を担当することになったので、今回の向後先生の講演を参考にしながら、授業設計を見直そうと思っています。もちろんわたくし自身のパーソナリティは変えられないので、できることをできる範囲でやるっていうだけですけどね。でも、授業前に教科書を読んでくるとかの予習は課しても良いかなと思い始めました。学生諸君の反応や出来具合を見ながらソロソロとやってみようかな。


正直もいいけれど… (2018年12月4日)

 2020年春卒業の学年(学部および大学院)の就職担当教員になったことは以前に書きました。そのことは本学のキャリア支援課発行の就職の手引きに明記されているため、十一月から企業の採用担当者からの連絡が増えてきました。多くは直接会って挨拶したい、というものです。わたくしは電話は使いませんので、それらのやり取りは全てメールです。

 で、もうかなりの企業の方々とお会いしたのですが、それらの人事担当者(あるいは本学出身のOB・OG)には二種類の人種がいるということに気が付きました。一つはなりふり構わずに求人情報を持参する人たち、もう一方は経団連の就職協定をひたすら遵守(する振りを)して求人票などは持たずに来校する人たちです。この時期はオフィシャルにはまだ就職採用活動を行なってはいけないことになっているからです。

 でも、多数の担当者と会わなければならない迂生としては、30分程度の面会時間の中でその企業のあらゆる情報をいただきたいわけです。特にどのような職種(設計、施工など)を何名程度採用する予定なのか、待遇や給与はどうなっているのか、学校推薦の有無など学生たちが知りたがっている情報を得たいのですよ。

 それなのに、いやあ、我が社ではまだそれは開示できません、とか言われると、はあ?って思ってしまいます。そういう情報はまた後日、とか言うのです。えっ、いったいあなたは何しに来たの?それじゃあ、おいらは御社のためにまた時間を採らなきゃならないの、って思わず言ってしまったことが再三ならずありました。そんな面倒なことを一つの会社の為にできる訳ないじゃないですか。俺に研究させない気か、って語気を荒げて言ったこともあります。

 そのあまりの剣幕に恐れをなしたのか、じゃあなるべく早くメール添付で送付しますから、それを印刷して学生さんに開示してください、とかのたまいます。はあ?なんだよ、おいらにPDFファイルを印刷しろって言うんですかい、旦那!。そんなサービスを全ての会社に対してやっていたら、それこそ研究する時間がなくなるって、分からんのでしょうかね。って、思わず相手に言ったら、そうですよねって小さくなっていましたけど…。

 まあ、正直もいいけれど、それも場合によりけりじゃないでしょうか。お互いに忙しい身なのだから、もっと効率的に仕事を進めたいものだと思いますな。それがお互いの利益に合致するのなら、なおさらです。就職協定をなし崩しにして採用活動を行なっているのは企業の方じゃないですか。インターンシップとか称して学生たちを集めるやり方はホント姑息そのものだと思います。そのような実質的な採用活動が大学での教育を圧迫している事実に気がついていながら、そうしているのは彼らの方です。それなのに一部分では就職協定を守っているフリをする、その神経が理解できません。

 でも、こんなやり取りを重ねると、わたくしって自校のいたいけな(?)学生諸君を右から左に動かす悪辣な手配師になったような気がしてきて気分が滅入ります。こんなことが来春の暖かくなる頃まで続くのかと思うと、正直げんなりします。


引用がまずかった (2018年12月1日)

 11月末日に書いた「知識の値打ち」のところで境有紀さんの引用から入りましたが、その引用の仕方が不適切であったと反省しております(境さんにはお詫び申し上げます)。境有紀さんのページに書かれていた内容のほんの一部分を切り出してきたのが「大学で行っている研究の対価として考えるならば貰っている給料は安すぎる」という一文でした。

 確かにここだけ読むと、この人ってもっと給料を上げて欲しいんだな、と捉えられかねません。しかし境さんのページにはそんなことは微塵も記述されてなくて、むしろ給料なんて半分でもよいから研究以外の余計な仕事を減らして欲しいという、大学人としての悲痛な願い(全くもって同感です,,,)がその本旨でした。わたくし自身は境さんのページをずっと読んでいますから大体分かっているつもりでしたが、知らないひとには境さんの考えが正しく伝わらずに誤解を生むような引用でした。

 このように本筋から切り離された一文だけを取り出して来たのは軽率でしたし、配慮が足りなかったことを猛省しております。新聞やテレビでも時々ありますが、情報を正しく適切に伝えることの重要性を再認識するとともに、その難しさも噛み締めているところでございます、はい。


知識の値打ち (2018年11月30日)

 十一月も晦日となりました。ことしも十一ヶ月を経過しようとしているのかと思うと感慨もひとしおでございます。今朝はうららかな陽が照ってほんのり温もりを感じますが、空気は初冬のそれのような澄明さを帯びていました。

 さて、大学で行っている研究の対価として考えるならば貰っている給料は安すぎる、ということが境有紀さんのページに書いてありました。そういうことは考えたことはありませんでしたが、なるほど、確かにそうかも知れませんね。ただ、研究等の知的労働を金銭に当てはめるとどのくらいが妥当なのか、それをどうやって決めるのか、研究分野に無関係に客観的な評価軸を構築することは可能なのかなど、真剣に考えるとかなりの困難が伴いそうな気もします(ですから、これ以上は追求しませんけど)。

 ここで思い出したのが、世間の皆さまから乞われて相談に乗ったり、講演をしたりしたときの謝礼についてです。いずれの作業も相当な知的労働です。求めに応じてこちらの意見を開陳したり、一緒になって考えたりするには、それらの土台となる知識なり智慧なりが必須です。そして、その知識や智慧を身につけるまでには膨大な時間と費用とを要したことは明らかです。ですから企業からの相談を引き受けたり、諸団体から依頼された講演を行ったりした場合には、それなりの対価を受けとっても良いのでしょう。

 ただ、迂生自身は必ずしもそのようには思っていなくて、菓子折り一つでも親身に相談に乗ったりしております(もちろん相手によりますけどね)。ただ、ちゃんとわかっている企業もあって、そういう会社はしかるべき手当をしてくれることもあります。

 宇都宮大学での上司だった田中淳夫先生(鉄骨構造がご専門)は大手ゼネコンのご出身だったせいもあって、大学の先生はそういった仕事に対してもっと対価を要求してよいし、そうすべきである、ということを常々仰っていました。そういう知的な仕事をタダで引き受けてはダメだぞ、とも。そしてご本人が本当にそのことを実践しておいでであることが、ある日、分かったのです。

 それはわたくしが東京都立大学に赴任して間もない頃だったと思いますが、田中淳夫先生が懇意にしている某団体から講義を頼まれて、鉄筋コンクリート部材のせん断抵抗機構について二時間ばかり話したことがありました。そのときに謝金をいただいたのですが、それが月給の手取り額の半分以上というかなりな高額だったことに、戸惑いを覚えたのです(当時は三十代前半の若僧でしたから、たいしたことはなかったのですが)。そのときに一緒にいた田中先生が、いいから受け取りなさい、君の講義はそれに値するんだから、と言葉を添えてくださったことを今でも憶えています。

 汗水流して獲得した自身の知識を安売りしてはいけないし、他者もそのことを正しく理解すべきである、ということでしょうか。ただ、情けは人の為ならず、ということもありますので、対価を受けることなく親身になってやってあげたことが、回り回って自身に返ってくる、ということもあるでしょう。ですから建築関係の世界にいる限り、そういうGive & Takeの関係もある程度は受容すべきなんだろうなと思います。


オイル・ダンパー不正事件の余波 (2018年11月29日)

 カヤバのオイル・ダンパー不正事件の続報です(第一報は今年の10月18日)。これは、免震・制震建物に使用するオイル・ダンパーの試験結果を改ざんして、法に適合しない製品や顧客の要求性能を満足しない製品を出荷していたという事件です。件(くだん)の製品は既存建物を免震・制震によって改修する際にも使われており、わたくしが以前に審査したS区役所にもそれが使われたことが分かっています。

 さてお上(この場合には国土交通省)は、この事件への対応として当該製品を用いた建物の当面の安全性を検証する方法を公表しています(お上の形式上は事務連絡となっています)。そしてそれに基づいて為された検証の結果を第三者機関が確認すること、としています。S区役所の改修設計・施工を請け負ったT建設は、このお達しに基づいて(形式的にはカヤバから依頼を受けて)検証作業を行い、その妥当性の審査を某協会に依頼しました。そういうわけで今回、その評価の場に参加しました。

 しかしながらその場での説明を聞けば聞くほど、この事件の詳細が未だにほとんど明らかになっていないという事実に気付かされて唖然としました。そもそもS区役所に使用されたオイル・ダンパーについて、試験データの改ざんが行われたかどうかさえ不明だというんですから…。

 さらにお上の通達(形式上は事務連絡)には、この検証を年内に終えて「極めて稀に発生する地震(レベル2)に対して倒壊・崩壊しないこと」を確認するように書かれています(900棟近い建物の地震応答解析を実施して、その性能を検証することをあと一ヶ月ほどで実施できるとはとても思えませんし、そもそも誰がそれをやるんでしょうか…)。

 しかし上記のように、使われたダンパーの特性値が分からないのですから、ある仮定のもとでしか国交省から求められた検証を行うことはできません。今後、カヤバから出て来る(?)データや事実によっては、検証作業を再度行わないといけないかも知れません。全く何やってんだかなあ〜という徒労感と、忙しいのになぜこんな尻拭いのような仕事をやらなければならないのかという不満とがゼネコン・設計事務所サイドには充満していることと推察されます。これらの検証作業の対価をカヤバが払ってくれるのかどうかも不明みたいです…。

 でも、これはお上からのお達しなんですね〜。すなわちお上(国交省建築指導課)からの通達には、カヤバの不正ダンパーを使用した建物の安全性の検証作業には、関連する「各建築設計関係団体等」が協力するように、と書かれているのです。もちろんそこには強制的な文言はなく、「ご協力を賜りますよう…」と書かれているだけですが、お上からそう言われたら、やらないわけには行かないでしょう。これって結局、建築業界の不祥事は建築業界全体で後始末しろと言われているようなもんですよね。江戸時代の五人組じゃないんですから連帯責任みたいに言うのもどうなんでしょうか。これって明らかに不条理です。

 さらに驚くことは続きます。免震・制震建物に使用するオイル・ダンパーの製造はカヤバの一社独占に近いそうです。今回の事件のせいでカヤバは新規のダンパーの受注を中止したので、免震・制振を使った建物を新たに建設できなくなっているそうです。病院や役所など用途によってはどうしても免震建物にしなければならない建物はありますから、それらの建設がしばらく滞るということにもなりかねません。これはこれで由々しき事態です。

 いずれにせよ今回の不正事件によって、当該建物の施主や使用者はもとより建築業界全体が多大なる迷惑を被っているのです。ものづくりに携わるものとしての信義を忘れ、おのれの利益の追求に走ったわずか一社のせいで日本の建築業界が、否、社会全体が被った不利益は計り知れません。この会社は一体どうやって責任を取るのでしょうか…。



今季最初の実験終了 (2018年11月28日)

 九月中旬から始まった実験ですが、本日の午前中に最後の九体目の加力が無事、終了しました。実験のチーフである村上研さん(芝浦工業大学・岸田研M1)をはじめ、卒論生の大場、小山田、石川の各氏の尽力による賜物ですね。まあ、いろいろなことがありましたが、実験を終了できたことはホント、めでたいと思います。実験終了後の記念写真を載せておきます。残念ながら岸田慎司先生が到着する前に実験が終わってしまいました。

 説明: KITAK2016_2:RC柱梁部分架構実験_岸田研_ネツレン_三井住友建設2018:9体め_ト形_MB-8_変動軸力(配筋等はMB-4と同じ):IMG_1165.JPG

 これで今季予定している三シリーズのうちの一つがやっと終わりました(でも、もう年末だけどね…)。残る二シリーズのうちのひとつは現在試験体を作製中で、最後のシリーズについては先日、共同研究者の晋沂雄さん(明治大学)との相談が終わって、試験体設計の最終段階に差し掛かったはずです(藤間くん、その後、どうなったのでしょうか?)。多くの方々のご協力のもとに我が社の本流である実験研究を続けられるのは、何にせよ、ありがたいことでございます。現象をこの目で見て理解すること、これがわたくしの研究の原点で、全てはここから始まるのです。


大阪で万博 (2018年11月27日)

 ♪こんにちは〜、こんにちは〜、世界の国から〜 … 
  千九百七十年のこんにちは〜♪

 これは1970年に大阪で万国博覧会が開かれたときに流行った歌謡曲(?)です。確か三波春夫じゃなかったでしたっけ。戦後25年目にして「人類の進歩と調和」を標榜して大阪の地で開かれた文明の祭典でした。当時小学校中学年だったわたくしも、家族とともにこの会場を訪れました。そのときに買ってもらったパンフレット(押入れから引張り出してきました)の一ページを載せておきます。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:大阪万博1970パンフレットなど:DSC_0016.JPG

 入場記念のスタンプが押してあって、そこにはEXPO’70のマークも見えますね。当時はそのように言っていたことが分かります。人気のパヴィリオンはどこもすごい人出で、入場するのに長蛇の列をなしていたように記憶します。そんななか「月の石」を見るためにアメリカ館に行ったことは憶えています(いや、そのように思い込んでいるだけかも知れません)。

 その当時は日本が高度成長期に入った頃で、日本全体が上昇しようという成長への熱気に溢れていた時代でした。働けばそれだけ豊かになれるという希望を誰もが単純に追いかけていた、そういう薔薇色の時代だったのです。その反面、公害病や光化学スモッグ等の環境破壊に代表されるように高度成長の負の側面も表に現れ出した時期でもありました…。

 そんな感慨を新たにしたのは、2025年に大阪で再び万国博覧会が開かれることに決したからでした。2020年に東京オリンピックが終わったあとの日本経済の牽引役として期待されているようですが、二千億円以上かかると言われる費用はどうするのでしょうか。ニュースなどでも大阪万博おめでとうっていう報道ばかりですが、本当にそんなに目出度いことなのか、迂生などは斜に構えて見てしまうのですが、いかがでしょうか。

 1970年の大阪万博のときとは何もかもが違った世相において、何をテーマとして万国博覧会を開催するのか、その理念を是非とも語っていただきたい。もちろん、そういう高尚なものがあればの話しですけどね…。

 ところで1970年に万博が開かれたときの首相は佐藤栄作でした(当時の「日本館」のパンフレットが手元に残っていて、その1ページ目に佐藤栄作の顔写真入りの挨拶文が載っていたので分かりました)。そうか、この人は現在のA倍首相の大叔父に当たる人だったなということに気がついて、万博の大阪招致の不埒さをますます強く感じるのでした。


とどまることを知らない (2018年11月25日)

 この週末の三連休は冬の到来を思わせるような気候でした。ときおり陽差しはあったものの空気には透明感というか澄明さがあって、そのことが冬の訪れを感じさせました。わたくしは調子が悪かったこともあって終日、家でダラダラとして過ごしました。

 さて逮捕された日産のカルロス・ゴーン氏ですが、あまりに高額な報酬に驚きましたな。年俸10億円でもすごいのに本当は20億円だったとか、世界中に億万もする住宅を所有しているとか、プライベート・ジェットに乗っているとか、世の中にはべらぼうな人間もいるということに改めて気づきました。

 ひっそりと暮らす市井の小市民から見れば、それは驚くような生態です。それでも上を見ればキリがないのでしょうか、お金に対する飽くなき欲求と言うのでしょうか、そのとどまることを知らない金銭欲にも大いに驚いたのでした。一生かかっても使い切れないほどのお金を持っていて一体どうするのか、わたくしのような貧乏人には思いもつかないところが悲しいですな、ホント。

 さらに想像ができないことは、一体どういった仕事をすると年俸が20億円にもなるのか、ということです。わたくしのように大学の研究室で好きな研究に地道に取り組んでいるサラリーマンからすると、どのような仕事が20億円に値するのか全然理解できないんですよね。高額の報酬のことは時折耳にしますが、商社とか銀行などに勤めている人たちのとってはファミリアで納得のゆく事柄なのでしょうか。そっちの方が知りたい気分ですぞ、我輩は、あははっ。

 今回の事件に戻ると、これはやっぱり生え抜きの日産社員による一種のクーデターだと迂生は思いますね。日産を立て直したゴーン氏の業績が大きいのは確かでしょうが、そのやり方には不満を持っていたみたいです。何よりも、二十年も経てばその頃の厳しさを知らない社員も増えたでしょうから、会社トップの功績に対する理解も薄れて、独裁者のように振る舞うゴーン氏に対して不満ばかりが蓄積されていったのではないか。結局のところ今回の事件も会社(あるいはルノーを含むグループ)内の権力闘争、すなわち世情によくあるお家騒動に過ぎないような気がします。

 奢れる平家は久しからず、これはやっぱり何事もやり過ぎは良くない、人間はほどほどで満足して中庸を重んじて日々を過ごすべし、という天の声だと解しました。


紅の塔 (2018年11月20日)

 かなり寒くなってきて、大型構造物実験棟での実験も寒気が足元から這い上がってくるような感じで、ヒーターが欲しくなって参りました。実験は八体目が終わりに近づき、いよいよ大詰めの段階に入りました。

 さて、久しぶりに東京都庁に仕事に行きました。建築指導課は第二庁舎に入っていますから、新宿駅西口からは相当に歩きます。もしかしたら初台駅の方が近いかもしれません。例によって都庁でもセキュリティ・チェックが厳しくなって、入館するには申請書を提出してゲスト用のカード・キーを貰わないといけなくなっていました。わたくしは東京都が運営する大学の教員ですがそれでも入館申請書を出さないといけない、というのもなんだかなあって思ってしまいますけど…。

 ひと仕事が終わって庁舎を出るとすっかり暗くなっていました。ふと振り返って第一庁舎(あのノートルダム大聖堂みたいなヤツです)を見上げると、ほんのりと紅色にライトアップされていました。三脚もなしで手持ちのコンパクト・デジカメで撮ったのが下の写真です。さすがに暗くてメリハリはないですが、それでもハイテクの機能は素晴らしくて、ピンボケもせずにうまく画面を(コンデジのコンピュータが)作ってくれるのには驚きます。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:夜の東京都庁20181120:IMG_0267.JPG

 ここにもカヤバの制振ダンパーが使われているらしく、今後、交換作業等が発生するのでしょうが、なんとも大変なことになったものだと今更ながら思います。この建物は丹下健三の代表作ですが、維持管理がべらぼうに大変でその金額も莫大になるという話しを仄聞したことがあります。日本を代表する巨匠の作品が負の遺産などと言われないことを願っておりますが、どうなんでしょうか…。


冬のあし音 (2018年11月15日)

 今朝はよいお天気に恵まれましたね。日増しに朝晩の冷え込みが身にしみるようになって参りましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。けさの南大沢キャンパスの様子を載せておきます。八王子は盆地ですので都心よりはかなり気温が低く、紅葉はすでに終わったように見受けます。構内の富士見坂は落ち葉がすごいですが、どなたかが毎朝綺麗に片付けて下さいます。大変だなあ、としみじみ思います。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:秋の南大沢キャンパス20181115:IMG_0258.JPG

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:秋の南大沢キャンパス20181115:IMG_0261.JPG

 さて、就職担当の件ですが、企業の人事担当者だったり本学のOB/OGだったりから連日ひっきりなしにメールが舞い込みます。だいたいの方は本学までお出でになって挨拶したい、という相談です。それらに対応して面談日時を調整して連絡する、というやり取りがものすごく煩雑で億劫に感じます。

 学生諸君の就職活動(就活)でお世話になっているのですから感謝申し上げて、喜んで歓迎しないといけないのでしょうが、どうもそういう気分にはなりませんやね。年齢を重ねて堪え性がなくなったというか、ワガママ度合いが全開になったのか、よく分かりませんが、まあその両方なんでしょうな、きっと。


シーズン到来 (2018年11月14日)

 わが学科では昨日から推薦入試が始まりました。一般推薦、指定校推薦そしてグローバル推薦の三種類です。夏には高専からの編入学試験や大学院入試が既に実施されましたが、秋も深まるなか本格的な入試シーズンが到来したんだなあ、としみじみ感じます。受験する高校生諸君にとっては大変でしょうが、なんとかこなして欲しいと思います。

 推薦入試とはいえ、指定校推薦以外は結構な競争でして、建築学科では実質的な倍率は3倍から4倍にもなります(多くの高校生に志望していただき、ありがたいことです)。調査書の内容、小論文や面接・口頭試問などによって合否が判定されます。受験生諸君が大変なのはもちろんですが、試験するほうの我々もそれは全く同様でして、昨日は宵の口までその業務が続いて大いに疲弊しました…。

 そのせいで大型構造物実験棟には足を運べませんでしたが、知らないうちに試験体の加力は終了していました。今度の試験体では柱に中段筋を追加して柱梁接合部の曲げ降伏耐力を大きくし、梁のヒンジ・リロケーションの明瞭な発現を試みたのですが、最終的にはまたもや予想に反した破壊モードに至ったみたいです。

 そのほかにも、どうやらひずみゲージの貼付位置とそれに対応する番号との不整合があるようで、妙なひずみ分布になっていることに迂生が気付きました。昨年度の長谷川航大さんの卒論研究と比較することによって、その誤り?に思い至った次第です。かくの如く実験ではいろいろな事が出来いたしますが、一つずつ粘り強く解決して進んで行くしかないでしょうね。そもそもそれが研究することの意義なんですから…。


試行問題をみた 〜国語編〜 (2018年11月11日)

 この週末は比較的よいお日和となって、過ごしやすかったですね。さて、大学入試改革の予行演習として大学入学共通テストの第二回試行試験が行われました。我が大学も実施会場となり、その業務に関係した事務方や先生方もいたことと思います。ホントご苦労なことだと思います(幸い迂生は駆り出されずに済みましたが…)。

 どんな問題かなと思って大学入試センターのサイトでとりあえず国語の問題を覗いてみました。記述式問題がクローズ・アップされますが、今回は(前回とは異なり)論理的な三つの文章を読んで三つの設問に答えるようになっていました。読む文章のジャンルは受験生にとっては多分馴染み深いものでしょうから、その点では前回よりも組し易しといった印象を与えたでしょうね。

 また設問内容も前回より簡単になっています。三問のうち実質的に頭を使いそうなのは最後の一問だけで、それも(これは前回と同じなのですが)条件が四つも付与されていて、個々人の自由な思考を文章化するようなものとはかけ離れていました。ただ、採点を公平かつ厳格にする上ではこのような工夫は必須でしょうから、まあやむを得ないのかなとは思います。それでも受験生諸君に対して同情しますね。でも、全体としては良い問題だとわたくしは思いました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:スクリーンショット 2018-11-11 12.17.36.png

 国語の問題全体を俯瞰すると大問は五題で、その内訳は現代国語が三題、古文(源氏物語でした)と漢文(猿飼いの親方の話し)とが一題づつです。これはわたくしが大昔に共通一次試験を受けたときと同じだったように記憶します。でもこれを100分で解かないといけません。問題用紙はなんと51枚に渡っていました。特に第2問(上記のコピーはその冒頭部分)は著作権についての論考文章でしたが長い上に結構複雑で、それを読んで理解するだけでひと苦労しましたな。ちなみに記述式問題は第1問だけで、そのほかは今まで同様にマークシートをグリグリ塗りつぶす方式でした。

 総じてこの五問を解くにはやっぱりもの凄いエネルギーが必要ですし、相当に訓練を積んでなおかつ集中力を持続できないと解答し切れないだろうなあ。平均が半分程度になるように作問したということですが、フツーの高校生がどのくらい解けるのかはちょっと疑問に思いますね。

 問われたのは今回も、与えられた多くの情報を短時間で把握・整理して、聞かれていることを正確に理解してアウトプットする能力です。物事をじっくりと考えて自身の考えを論理だって記述することとは違います。でも今回の入試改革において標榜していたのはそもそも、課題を自身で発見してそれを解決する能力を見ること、だったのではないか。

 以前に書きましたが、そのような理想は絵に描いた餅に過ぎず、たった一回のペーパー試験で測れるはずがありません。人間って、そんな薄っぺらなものじゃないですよね。それを思うとき(入試問題の作成に尽力されている先生方には相済まないのですが)、今回の入試改革がどのくらいの成果を挙げうるのかという懐疑の念はいや増すばかりです。これだったら、今までと同じでもよいのではないか、という疑問です。よく分からない方針変更に振り回される受験生諸氏が気の毒に思います、ほんとうに…。


授業の変革 〜グループ・ワークを取り入れてみた〜 (2018年11月9日)

 大学院授業の「耐震構造特論第一」は隔年開講なのですが、ことしが開講年に当たります。授業期間(半期)の前半に鉄筋コンクリート構造の耐震設計法についての考え方や具体の手法について講義して、そのあと英文論文の輪読を行う、というのが今までの授業形態でした。講義中は学生諸氏が眠くならないように、いくつかの例題や計算問題を挟みましたが、基本的には一方通行になっていました。

 半期後半の英文輪読では全文和訳してもらっていましたが、彼ら/彼女らの英語力が貧弱だと、主語はどれ、動詞はどれとかの構文解釈や、英文法の授業みたいになっていました。結局、成績を付けるためにはその輪読の内容しか判断できるものはありません。成績は畢竟、英語力によって決まるみたいな感じで、これじゃ耐震構造を修めたことになるのかどうか甚だ怪しい限りでした。

 そこで今年はこの講義形態を大変革?することにしました。具体的には、前半の講義中に演習問題を三つ出題することにして、そのうち二つはグループ・ワークにしたのです。一題は鉄筋コンクリート柱の部材種別(我が国の建築基準法で定められています)を算出するもの、もう一題は建物の保有水平耐力を算定してその建物の耐震性能を評価するもの、としました。

 これらの計算は迂生が割り振ったグループ毎に行い、授業時間内に発表して議論してもらいます。そのあと、議論を参考にして考察は各自で行う、という形式にしてみました。初めての試みなので、どのように進行するかちょっと不安です。これから最初の課題の発表がありますので、ワクワク(あるいはドキドキ?)しているところです、あははっ。

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 最初の発表会が終わりました…。さすがにM2とM1との混成チームなので、思ったよりもちゃんとしたパワーポイント発表になっていたのはよかったです。でも、個々の詰めはまだまだ甘く、この後の考察に懸案は持ち越されたといった感じですな。

 3チームの発表は小一時間で終わりましたので、そのあと二番目の課題を出題して今日の授業は終わりました。学生諸君(今年は16名という結構な人数が受講してくれました)にとっては多分ハードだろうから、いけ好かない先生って思われているんでしょうな。でも、そんなことはどーでもいいんです。彼ら/彼女らが建設業の仕事に就いたときに、少しでも役立つことが大切なんですから…。


あめ煙る (2018年11月6日)

 今日はしとしとと雨に煙る肌寒い一日となりました。大型構造物実験棟ではさすがに寒さを感じるようになりました。実験棟の雨漏りがやっとおさまったと思ったのですが、秋になって陸屋根の樋にまたもや落ち葉が溜まったらしく、竪樋の流れが悪くなって、どこかに開いた穴から水が落ちてき始めました。

 またもや雨漏りが始まるんじゃないかと心配しながら岸田慎司先生と一緒に竪樋を眺めていると、ホント偶然なんですが施設課の方がたまたま通りかかって、この状況を認識してくれました。まあ、すぐに対策を講じるのは難しいかも知れませんが、大学の事務方に伝えたという事実は重要だと思っています。

 実験の方は若者たちの頑張りの甲斐あって、六体目の終盤に差し掛かりました。相変わらずわたくしの予想(仮説)は大きく外れ、想定外の破壊を呈していて頭を抱えている状況です…。でも、特殊な鉄筋を用いることで通常では起こり得ない現象が現出しているというふうに考えれば、世界中で誰も知らない破壊過程をこの目で見ている、そういう僥倖に恵まれた果報者と言うことも可能ですな、ガハハっ(前向き思考、あるいは脳天気なセンセーか…)。

 話題は変わって、二年生の設計製図の課題は二番目の美術館に入りました。担当教員十名(常勤七名、非常勤の建築家二名、TA一名)を二人づつの五チームに分けて、それぞれのチームが13名程度の学生のエスキスを見る、というやり方です。これまで二回のエスキスがありましたが、エスキスを受けたのはいずれも半数程度の学生諸君に留まりました。小林克弘先生や永田明寛先生のチームも同じような状況だったそうですから、今年の学年はどうしたのかなと皆で首を傾げました。

 エスキスでは先生方からかなり厳しいコメントが寄せられるのが常です。そういう他者の意見に耳を傾けたくないという性向が学生諸君にあるとしたら、ちょっと危機的な状況であると憂慮しています。独善的で独りよがりの設計者ほど手に負えないものはありませんからね。でもエスキスに出るようにと言っても、それを聞いているのはそもそもエスキスに出席した学生諸君だけなわけですから、言うだけ無駄っていう感じですなあ。


よいお日和 (2018年11月1日)

 11月の朔日はお日様の差す、暖かい陽気の好日となりました。我が大学では今日から大学祭が始まるので休講です。初日なのでまだ準備している団体もあって、盛り上がりは今ひとつという感じです。でも、昼日中からビールを売っていたりするのでなんだかなあとか思いますね。こちらは仕事中ですから飲めませんやな。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU大学祭20181101:IMG_0254.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU大学祭20181101:IMG_0256.JPG

 お昼に駅前まで出た帰りに、生協前のサンクン・ガーデンでロック?の演奏をやっていました。がなり立てているばかりで、あんまり上手じゃないなあ…。ただドラムを叩いているのが女性だったのはちょっと珍しいと思いました。もちろん、女性がドラムを叩こうが相撲を取ろうが、それは個々人のご勝手です。

 さて我が大学の次期学長選考ですが、どういう経緯や議論があったのかはとんと不案内なのですが、結果として上野淳学長が再任されたことがプレス発表されました。上野先生は建築計画がご専門で、かつて文科省のCOEプログラムのときにプロジェクト研究をご一緒しましたので、よく存じ上げています。任期は二年間ということで大変なのでしょうが、今後の舵取りに期待したいと思います。


十月晦日 (2018年10月31日)

 十月も今日でおしまいです。実験を終えて帰るときにはかなり寒くなって来て、この秋で一番の冷気を感じました。そんな気温なのに、大型構造物実験棟にはいまだに蚊が飛んでいるんですよ、どうなってんだか…。

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   写真 大型構造物実験棟から見た構内北側通路の紅葉

 その実験ですが、ト形の柱梁部分架構試験体になって梁が一本減ったせいで、ひび割れの観察とかひび割れ幅の測定に要する時間が今までよりも短縮できたようです。それとともに担当学生諸君が相当に頑張ったお陰で、午後七時過ぎまでかかったものの二日間で加力を終えることができました。このタイプの試験体を用いた実験が二日で終わったというのは、わたくしの記憶にはありませんね〜。まあそれだけ学生諸君が努力した、ということだと思います。

 この実験の合間に、リクルータとして来校したOBの島哲也さんにお会いしました。会社ライフを満喫?しているようで、よかったです。そのときに彼から思わぬ話しを聞いたのです。それは我が研究室出身のあるOBの訃報でした。にわかには信じられなかったので、そのひとの同級生に確認したところ、二年前に亡くなったということでした。本当に気が滅入りました…。

 彼とは卒業以来一度しか会ったことはなかったと記憶しますが、それでも便りがないのはよい便りと言いますから、元気に活躍しているものとばかり思っていたのです。これからという時期にこの世を去らねばならなかったことの無念を思うと気の毒で、しばらくは言葉も見つかりませんでした。合掌…。


二シリーズめの実験始まる (2018年10月30日)

 二シリーズめの実験の加力が今日から始まりました。引き続き、芝浦工業大学・岸田研究室、ネツレンおよび三井住友建設との共同研究です。今回は外柱(そとばしら、と読みます)を対象とした柱梁部分架構試験体です。担当者も変わらず、チーフが村上研さん(岸田研M1)、卒論生が石川(北山研)、大場、小山田(岸田研)の三氏です。第一シリーズとあわせると試験体数は九体もありますので、長丁場で大変だと思いますが、気を抜かないで気をつけて実験して下さい。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC柱梁部分架構実験_岸田研_ネツレン_三井住友建設2018:5体め_ト形_MB-4:IMG_0342.JPG

 さて、今日の夕方、試験体作製の打ち合わせのためにアシス・村上社長に大学までご足労願いました。若者たちが実験に勤しんでいるときにアシスの御曹司に撮ってもらったのが、上の写真です。我が社の実験もやっとひとつの研究の試験体の設計が終わって、これから作製に入ることになりました。担当者はM2の胡文靖さんです。研究室の皆さんには是非ともご協力を乞う次第です。ひとの研究のことなんか知らないよ、などという顔はしないで下さいね。


入れ替える -OS編- (2018年10月25日)

 うちで使っているノート型Macは5年ほど前のもので、OSのヴァージョンはその当時の古いもの(OS X10.8.5)をずっと使っていました。ただこの古いOSでは、キーボードを叩くはなから日本語に変換してくれる“ライブ変換”には対応していないので、研究室で使っているiMacとは使い勝手が異なりちょっと不便でした。またブラウザであるSafariも古いOSに対応したアップデートは終わってしまい、セキュリティ上の不安も募っていました。何よりもセキュリティを強化したサイトにアクセスできないというのが一番困ったことでした。

 そこでこの秋、アップルから年に一度のOSのヴァージョンアップ版(ヴァージョン10.14 Mojave、この“Mojave”ってなんじゃ?)が公開されたのを好機として、思い切ってこれに入れ替えることにしました。さすがにいきなり研究室のメイン・マシンに導入するのは避けたわけです。とりあえず、やってみるかっていう感じです。何が起こるか分かりませんし、今までのソフトウエアが使えるかどうかも不明ですからね。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:スクリーンショット 2018-10-25 20.47.55.png

 で、OSの入れ替えには一時間ほどかかりましたが、途中で止まることもなく無事、導入できました。でも、いきなり無線LANに繋がらなくなりました。あ〜でもない、こ〜でもないといろいろやってみて、それを解決するのに半時間ほど費やし、やっと繋がりました。次に、iCloudに連動するカレンダーが反応しなくなり、スケジュールが全て無くなって真っ白になってしまいました。あちゃ〜、ってことで頭も白くなりました、ガハハ。これを解決するのにまた小半刻ほど費やしました。

 これでやっと普段使っている状態に戻った気がしますが、まだ何が出てくるか分かりません。やっぱりOSのヴァージョンアップって、かなりのリスクを伴いますな。と思って、最も危なさそうなVector Worksを立ち上げようとしましたが、案の定、ダメでした。あ〜やっぱりな、っていう感じです。これじゃ大学のメイン・マシンのOSはしばらく替えられないなあ。

 しかし自分自身でOSを入れ替えたのは久しぶりです。以前はOSのヴァージョンアップは有料でしたが、その時分には何度かCDを購入してアップしたことがありました。でも、無料になってから自分でダウン・ローディングして入れ替えたのは初めてです。便利な世の中ですけど、ことOSに関してはそうそう触るもんじゃないな、という迂生の認識が正しいことを再確認いたしました。ところでWindows はどうなんでしょうかね、知りませんけど…。


十月も半ば (2018年10月22日)

 十月も半ばに来て、朝晩はかなり冷えるようになりましたね。我が家では先週、冬ふとんに替えましたが、すでにちょうどよく感じられます。日も急に短くなり、深まりゆく秋を感じるこの頃です。

 さて実験ですが、やっと三体めが終わりました。担当する学生諸君は休みがほとんど無いようなのでさぞ大変でしょう。よくやっていると思います。でも長丁場なので、息が続くかどうか心配しています。あわてずに、休みを適切にとりながら実験に取り組んで下さい。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC柱梁部分架構実験_岸田研_ネツレン_三井住友建設2018:3体め_十字形_MA-7_柱中段筋あり:IMG_0125.JPG

 実験での事故のその後ですが、その経緯と対策とをしっかりと文書化して皆さんで共有しました。また、水平ジャッキおよび鉛直ジャッキを速やかに止めるための非常停止ボタンを手元に置くようにしました。そのほか、劣化していたプラスチック製の脚立を全てアルミニウム製のものに替え、デジタル・マイクロスコープを移動させるための運搬台も購入しました。

 さて別の話しです。経団連が就職活動のスケジュールの申し合わせを廃止することが話題になりましたが、わたくしは三年生の担任なので来年度の就職担当教員に任命されました。助教授のときに一度、就職担当を務めましたから久しぶりです。そのときは対象となる全ての学生と面談して、ひとりひとりの希望とか履歴とかを一枚づつのシートにして管理しました。でも、今は電脳社会となり、なんでもネット経由でするようになりましたので、そういうアナログなことはしないみたいですね。

 10月くらいから、2020年4月就職の情報がいろいろな企業(ゼネコンとか設計事務所等)から寄せられ始めました。早いなあとは思いますが、それはまあいいです。困るのは、それらの情報を三年生や大学院一年生に送るのが結構面倒なことです。もちろんメールで一括送信するだけと言えばその通りですが、対象学年や件名等の入力には気を使いますし、何よりそれらの情報が四六時中企業から送られてきますので、気が休まりません。

 そのほか、メール添付のポスターとか求人案内とかを学内に掲示するように依頼されることもありますが、さすがにそんな面倒なことまでやってられません。第一、特定の企業のためにそこまでやる義理はありませんよね。とにかく学生諸君が不利益を蒙らないようには考えますが、できるだけ省力化しようと思っています。そうでなくても雑用が多いので、精神の静逸を図るためにも必要なことでしょうな、やっぱり。


ものつくりの危機2018 (2018年10月18日)

 免震建物や制振建物に使用するダンパーについて、データ改ざんによる不正が報道されました。国土交通省は震度7程度の地震でも倒壊の怖れはなく、安全性に問題はない、というふうに考えているようですが、それは本当でしょうか。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:東京駅2011:CIMG2031.JPG
写真: 東京駅の免震改修に使われたダンパー(左の筒状の物体、これが今回の事案に含まれる製品かどうかは不明/2011年撮影)

 わたくしは免震・制振構造を研究する専門家ではありませんが、既存建物の耐震改修において免震・制振構造を使うことが多いので、それらの建物の耐震性能評価の妥当性を判定するお仕事はしています。つまり、こういうことです。

 建設会社や設計事務所が作成した性能評価のための書類(各種の計算や解析の検討結果、およびそれらを実体化する図面など)を見ながらあれこれ質問したり、追加の検討を要求したりして審査を重ね、その評価が適切であると確認できれば、その建物の耐震改修方法は妥当であるとの評価書を発行します(まあ、平易に言えば“お墨付き”ということです)。この審査には通常は何ヶ月もかかり、相当な負荷が申請者および評価者の双方にかかります。

 今回問題となったダンパーですが、剛性や耐力などの性能を表す物理量は施主等によってあらかじめ設定されています。その数値を用いて建物の静的漸増載荷解析や地震応答解析を実施して、地震時の安全性を確認します。ダンパーではその特性値がかなりバラつくことがあるので、平均値からある程度離れた(例えばプラス・マイナス5%以内とか)数値も用いて解析を行ない、そういう場合でも建物に要求されるクライテリア(判断基準)を満足していることを確認します。

 このような解析では、例えば建物の応答変形が施主の設定した閾値を少しでも超えればアウトと判定されますので結構シビアに評価されて、これではダメですからクライテリアを満足できるように設計変更して下さい、というようなやり取りが繰り返されます。しかしそのような厳しい評価も、ダンパーの性能が施主の要求した通りに発揮されることが前提にあって為されるのです。

 ところが今回の事件のように、ダンパーが設定した性能を発揮できないのであれば、上記の審査はまさに机上の空論、絵に描いた餅、になり下がります。その結果として、ちょっとだけ揺れが大きくなる程度で済むのか、それとも倒壊に至るのかは、個々の事例を再審査しない限り誰にも分からないのではないか、というのが迂生の抱くおそれです。建物が現実にどのように挙動するかはデータ改ざんの程度に依存しますが、それは今のところ公表されていませんので何も分かりません。

 さらに附言すると、在来型の鉄筋コンクリート建物のように通常の耐震構造であれば不静定次数が高いですし、今までの経験もありますので、それほどヘンなものは建たないと思っています。しかし免震建物の安全性は、免震ゴムとダンパーとの性能が想定通りに発揮されることを前提とした数値計算によってしか検証できません。この検証のための前提条件が崩れたわけですから、信頼を裏切ったことも併せて鑑みると今回の事件は非常に罪の重いものであるとわたくしは考えます。


時間、お金、健康 (2018年10月17日)

 なんだかG.ギーディオンの名著「時間、空間、建築」みたいなタイトルですけど、そんな高尚な話しじゃありません。大学に登校する前に市役所に行きました。我が家から市役所までの交通手段は通常はバスになります。ただ、バス停まで歩いてバスがすぐに来ればよいですが、そうじゃないと待つことになります。またこの界隈は都営アパートがあってお年寄りが多いので、途中のバス停での乗降に時間がかかることが結構あります。そんな感じなので、運が良ければ十五、六分くらいで市役所まで行けますが、三十分くらいかかるときもあります。

 そこで今朝は気候もよかったので役所まで歩いて行くことにしました。徒歩だと細い道をクネクネ行けますので経路が若干短くなるのかも知れませんが、二十二分で到着しました。歩数にすると約4100歩です。ふ〜ん、結構すぐじゃないかというのが感想です。

 ただ、歩けば健康にはいいですが、二十二分という時間をどう見るかは難しいですね。バスが早ければ十五分ですから、『時は金なり』の伝でゆくなら、お金を払ってもバスで行くのが正解でしょう。でも、もしバスが来なくて時間がかかるようなら…。

 ということでこの問題は、時間、お金(ここには間接的にバス事情が含まれる)そして健康の三変数を考慮した確率的な思考なり計算(期待値?)なりで解かないといけないのでしょうな、きっと。面倒だからもうやめますけど、あははっ。

 さて市役所での用を足してから大学へ行くのですが、経路は二つあります。一つはK駅まで五分くらい歩いて小田急線に乗って新百合ケ丘駅経由で多摩センター駅へ行き、そこで京王線に乗り換えます。もう一つはバスで京王線の調布駅まで行って、そこから京王線に乗ります。

 結局、この日は小田急線で行きましたが、あとで運賃を調べてビックリしました。小田急線から京王線に乗り継ぐと380円、バスと京王線だと500円でした。所要時間としては多分、同じくらいだと思いますから(バスは時間が読めないのでリスクがありますな)、それなら小田急線で行くのが正解でしょう。京王相模原線(調布から橋本まで)の運賃が高い、というのがその原因みたいです。


心 労 (2018年10月15日)

 大型構造物実験棟での実験ですが、2体めに入って軌道に乗ったかなと思ったところで、残念ながら事故が発生しました。ジャッキ制御装置の不適切な操作によって意図しない大変形まで加力してしまい、試験体は破損しました。ただ幸いなことに人間に損傷はなく、また(いろいろとチェックするのは大変でしたが、その結果として)実験装置もダメージを免れたようなので、その点はよかったです。

 でも実験中はいつでもそうなのですが、何か起こるんじゃないかと常に心のなかで秘かな怖れを抱いています。若い頃は自身が先頭に立って実験室で常に気を配っていましたし、経験豊富な助手の先生方がいる時には彼らに安心して任せることができたので、そういうことはなかったのでしょうね。あるいは年齢を重ねてきて、そういうストレスに打たれ弱くなってきた、というのもありそうです。

 ですから、実験中はやっぱり実験棟に出向いて実験を見ていることが必須ということを改めて痛感します。ただ仕事は研究だけではありません。否、研究に費やせる時間はそんなにありません。授業や会議があったり、諸々の書類作りなどの雑用?が山をなしているので、そうそう実験棟に行けないというのが実情です。いやあ困りましたね。

 この心労から解放されるには、研究の手段としての構造実験をやめるしかありません。このことは以前にも書きましたが、実験はやめてしまえばコンピュータによる解析が研究の主要なツールとならざるを得ません。いわば電脳空間での仮想実験ということになります。ただ、これも折に触れて書いていますが、そういう計算結果をわたくしはそれほどには信用していないんですね〜。やっぱり自分の目で見て観察しないことには、そうそう信じられない質(たち)なんですよ、わたくしって。

 こうして議論は元に戻ってしまいます。しかしながら幸いなことに、今まで数々の実験を実施し、見てきました。また不幸なことではありますが地震による被害も多々目撃したり調査したりして来ました。そういう経験を土台として、コンピュータによる解析の結果を理解し、その妥当性を判断することは多少はできるようになったと自負しています。ですからやっぱり解析研究にシフトして行くのが良さそうです。ここしばらくはご無沙汰の有限要素解析を再開するのも、よいかも知れませんね。そのためにはソフトウエアをレンタルする必要がありますが、試験体を作るのに較べればたいした金額ではありませんから。

 人間の心身の健康に対してはストレスが大敵だそうです。別に長生きしたいわけではありませんが、生きているあいだは快適に楽しく過ごしたいですよね。常々、健康第一を唱導するわたくしですから、やっぱりストレスは元から絶って心穏やかに暮らすことが肝要です。


耳ネタ2018 October (2018年10月6日)

 こんどの週末には、台風が日本海側を通過するにともなって気温が上がり、暑くなりましたね。長袖からまたもや半袖に逆戻りで、体がついていきません。

 さて、久しぶりに耳ネタを。大学生の頃から聞いている角松敏生[かどまつ・としき]ですが、ここのところ『Sea Breeze 2016』を聴いています。これは1981年のデビュー・アルバム『Sea Breeze』の演奏をリマスタリングした上で再度使い、角松の最新のボーカルとコーラスとをそのうえに重ねた、という代物です。いかにもといった感じの軟派のタイトルですが1980年代の始めの頃ですから、バブル前夜でディスコ全盛の時代の落とし子といったところでしょうか。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:アルバムカバー:510nyqcnCPL.jpg

 で、この新しい2016年版と1981年のデビュー版とを交互に聴き較べてみたのですが、角松本人が言う通りに明らかに歌が上手になっているのですよ。録音とかミキシングの技術が向上したということもあるのでしょうが、新しいほうはとにかく歌声のメリハリがあって、バックの演奏から歌声がクッキリと立体的に浮き上がってくるのがはっきりと分かります。これと較べるとデビュー当時のほうはちょっと弱々しくて舌っ足らずな感じで、キレもそれほどはありません。ただ角松の曲が持つ力のせいだと思いますが、メロディは素敵なのでその当時も気に入ってはいました。そもそもそれがいいと思って聞いていたのですからね。

 もう一枚はオフコースの『Fairway』です。このアルバムに収録されている「夏の終わり」という曲については2014年の晩夏に紹介しました。高校生のときに買ったこのLPレコードはいまも手元にありますが、如何せん基本的にはもう聴けません。そんなこともあって先日、タワーレコードにフラッと立ち寄ったときにこの紙ジャケCDを見つけて衝動買いしてしまいました。買ってから気がついたのですが、この日は40年前に『Fairway』のLPレコードが発売されたまさに同じ日だったのです、ホント奇遇です…。

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 こうして久しぶりに『Fairway』を全編通して聞きましたが、とてもよいということを再発見しました。小田和正と鈴木康博とが5曲ずつ書いていますが、鈴木康博が唄っている「美しい思い出に」が最高です。この曲はオフコースのベスト盤には入っていないせいか、すっかり忘れていました。チェレスタ風キーボードによる単音のイントロからヤスさんがハイ・トーンで歌い出し、やがてブラスも交えながら盛り上がってゆく…、これは名曲だと思います。ヤスさんのソロ・アルバムも持っていますが、その中に「でももう花はいらない」は入っていますが、「美しい思い出に」はありませんでした。

 高校生の頃は百人町のアパートの六畳間にソニーのオーディオ・セットを置いて、このレコードを聞いていました。その頃の楽しかったことや悲しかったこと、あるいは何気ない日常の一コマが『Fairway』を聞いているとセンチメンタルな感情とともに鮮やかに蘇って参ります。歌の持つ力の素晴らしさを実感しました。

 愛するひとよ 二人して分かち合う
 このひとときが 美しい思い出に
 よみがえる日まで そばにいて (オフコース「美しい思い出に」より)



一体めの実験おわる (2018年10月3日)

 芝浦工業大学・岸田研究室およびネツレンとの共同研究である正負交番繰り返し載荷実験の一体めの加力が無事に終わりました。ことしは大学院生(岸田研M1・村上研さん)が実験のチーフなので、昨年よりは安心して(?)見ていられますね。我が社からは昨年の長谷川航大さんに引き続いて卒論生(石川巧真さん)が担当になりました。ホームでの実験なので、我が社の学生諸君には実験を手伝うようにお願いしましたが、結局、だ〜れも来ませんでした。もう、わが研究室は崩壊寸前っていう気がしますけど、大丈夫なんでしょうか,,,。

 さて一体めの試験体ですが、昨年同様に想定しないふうに破壊しました。実験って、なにをやっても思いもよらぬ事象が出来して楽しませてくれますよね(かなり開き直っていますけど、ガハハっ)。梁に明瞭なRelocated Hinge が形成されて、柱梁接合部の損傷を緩和できるはず、というのが想定だったのですが,,,。実験を見ながら岸田慎司先生としきりに首をひねりましたが、まあ、いいでしょう、事実は目の前の実験結果として厳然として存在するのですから。

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 これからも実験はまだまだ続きますが、さらにもっと新しい現象に気付かせてくれることと思います。楽しみにしています。事故などのないように気をつけて実験して下さい。


基礎研究について (2018年10月2日)

 ことしのノーベル医学生理学賞に京都大学の本庶佑先生が選出されたというニュースが流れました。いやあ、素晴らしいですね。ノーベル財団から電話がかかってきたときには、研究室で学生諸氏と論文の推敲をしていたと仰っていました。76歳というかなりのご高齢にもかかわらず、現役の研究者として大学で学生たちと研究しているなんて、すごいじゃないですか。その御としと較べれば、迂生なんてまだまだ若造だと思いますが、本庶さんのようにバリバリ研究しているかというと(自分でいうのも何ですが)疑問符が大いに重なるような感じです、はい…。

 で、テレビのインタビューのなかで、臨床で(この方は基本はお医者なんですね,,,)患者さんを診れば数百人や数千人は救うことができるだろう、でも基礎研究が上手くゆけば何百万人のひとを救えるかも知れないし、自分の死後もその成果は世界の人びとに役立つかも知れない、だから自分は基礎研究を選んだんだ、ということをお話しされていました。

 自分が死んだ後のことまで考えて研究しているひとを、きょう初めて知りました。この言葉は結構な驚きを持って迂生の脳内を駆け巡りました。いつも書いているように、わたくしにとって研究とは、基本的には個人の興味や好奇心が原動力となって取り組み、進めるものです。その成果が結果として社会とかひと様のお役に立てれば、それはそれで嬉しいですが、そのことが研究の動機ではないのです。

 本庶さんも、あらゆるものに疑問を持つことが人類の科学を進歩させてきたと話していました。すなわち、“なぜだろう”という疑問が個々人の研究の原点にあるという点では迂生と同じ考えと思われます。しかし、その先が違っていた、ということになりますが、それはいったいなぜなんだろうか、というのが解せません。

 それは研究分野に依拠するのでしょうか。本庶さんは医学の徒として、ひとびとの命を救い、健康の増進に寄与するのが目標でしょう。それに対してわたくしは、建物の耐震構造にかかわる工学者として地震で壊れる建物を減らし、結果としてひとびとの幸福の維持とよりよい生活の保持とに寄与することを目指します。う〜ん、人間の幸福を目指すという点では(アプローチの手法は異なりますが)同じですな…。

 わたくしは学会等での活動によって建物の耐震設計や耐震診断についての規準とか指針とかの策定にかかわってきました。意識したことはありませんでしたが、それらの一部分はもしかしたらわたくしの死後も残って、使われるかも知れません。でも経験に基づく学問である工学では、そのような先人の知見はやがて乗り越えられ、忘却の河を流れ去って行くものです。すなわち迂生の仕事も死後は忘れ去られ、膨大な論文の闇に埋もれるだけでしょう。

 このように考えると結局のところ、自分が研究していることをどのように捉えるかという意識の差であるとしか思えません。本庶さんは医者ですから、ひとびとの命を直接に救うことができる方法を常に意識して研究してきた、ということなんでしょうね、きっと。そういう強い使命感を持ち、非常に長いスパンを見通して研究を続けてきたからこそノーベル賞にすら到達した、という風にも言えるかも知れません。それって、やっぱり素晴らしいじゃないですか。


凶暴な台風 (2018年10月1日 その2)

 昨晩の台風はすごかったですね〜。雨もさることながら、風が尋常じゃないような吹き方でしたから、その音にビクビクしてなかなか寝付けませんでした。日本が熱帯化しているせいでしょうか、このところの台風はどんどん凶暴化しているように思います。経験したことのない強風が日常化するようであれば、それに対応するための窓、外装材や建て具等の設計も見直さないといけないでしょうね、やっぱり。

 さて苦労して大学に登校すると、研究室のM1たちがやって来て、昨晩の暴風雨のせいで研究室の窓が開いてしまい、研究室が水浸しになったというのです。おいおい、どうして窓が開くんだよ、と聞くと、多分、窓枠のロックが甘かったのだろう、と言うのです。でもそのお陰で、パソコンの数台はお釈迦になったみたいですし、何よりパソコン内に格納していた知的データが取り出せなくなってしまいました。全くなにやってるんだろうかって言う感じだなあ。

 そうこうするうちにその部屋の隣の角田誠教授がやって来て、角田さんの部屋の床が水浸しになってしまった、というのですよ。窓とか壁は濡れていないのに、どこから水が来たのだろう、というので、はたと気がつきました。御免なさい、それは我が社の研究室から流れて来た雨水だと思います。いやあ、これだけ被害を被るとは、凶暴化する台風恐るべしだな…。

 今日から2年生の設計製図の授業が始まりました。京王線が止まっていましたので学生諸君は大丈夫かなと思いましたが、皆さん出席していたようで良かったです。台風一過、べらぼうな暑さが戻って来ましたが、9階のアトリエは10月には冷房が入らないということで、構造ガイダンスの一時間半ほどのあいだ、学生諸君は死んだ魚のような目をして迂生の説明を聞いていました(寝ていた?)。大丈夫かな,,,。


考える海 (2018年10月1日)

 この日曜日には、またもや台風が日本列島を横断して行きました。東京近辺の電車は夜になって次々に運転見合わせとの報道が流れています(これが日曜日でよかったです…)。台風がまだかなり遠くにいる段階で電車を止めるというのは、確か今年になってから頻発するようになったと思います。被害などが発生する前に予防的に電車を止めるというのはよい対処策と思いますが、このことは台風のパワーが一段と強烈になったことの裏返しのような気もしますね。

 月曜日の朝になって、京王線は倒れた塀に接触したとかで運転見合わせになっています。今日から後期の授業が開始だというのに、学校に行けない状況です、とほほ,,,。で、やっと動き始めたと思ったら、今度はポイント故障で調布駅にて立ち往生です。いやあ、往生しますわ、ホント…。

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 さて昨年の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(フィリップ・K・ディック、1968年)などに引き続いて、今年もまたSFの古典的名作と言われる小説を読んでみました。今回はスタニスワフ・レムの『ソラリス(Solaris)』(原作は1961年、ハヤカワ文庫SF、2015年)です。この小説は邦訳の『ソラリスの陽のもとに』や、タルコフスキー監督の映画『惑星ソラリス』で十分過ぎるくらい有名ですが、わたくしはそれらを読んだり見たりしたことはありませんでした。

 今回読んだのは、東大文学部教授の沼野充義氏がポーランド語の原作を新たに全訳したものです。現代の新訳なのでさぞ読み易いだろうと期待したのですが、ひとつの文章が恐ろしく長かったり、改行がなかったりして、それは残念ながらはずれました。しかし訳者のあとがきによれば、それはスタニスワフ・レムの原作を忠実に再現したためで、作品の持つ表情や雰囲気をできるだけ忠実に伝えたかった、とのことでした。

 この『ソラリス』ですが、SFの類型としては宇宙における知性体との邂逅譚に位置付けられます。われわれがよく知っているのは例えば映画『ET』や『未知との遭遇』のように、その知性体は人間と類似の形(頭があって、その下の胴体からは二本の手と二本の足とが飛び出ている,,,)をしている場合が多いのですが、『ソラリス』は全く異なります。

 この小説を読み進めると分かってくるのですが、惑星ソラリスに広がる海それ自体がどうやら意識を持って考えることのできる知性体なのです。しかしその異形の知性体は、人間との意思疎通がまったくできない存在として描かれます。遥か彼方の地球から来た人間たちはそのことに振り回され、混乱し、困惑します。

 上述のようにわれわれは通常、未知の知性体の姿・形を人間のように思い描くことが多いのですが、それはただ単に想像力が貧困だからというに過ぎません。すなわち、合理的な理由に基づいて別の形態を思い描くことができないだけです。多分、(もし、存在するとして)現実の宇宙人はそんなことがあるはずはないし、彼らと意思の疎通ができるとも限らない、というのがレムの前提意識なんですね。

 スタニスワフ・レムがこのような考える海を描いたことに、宇宙のなかの人間の矮小さとか、宇宙に対する人間の不遜さとかを読み取ることもできるでしょう。ただ、謎は最後まで謎のままに残り、この物語は終わります。どうなるんだろうと思って一気に読み進みましたが、肩透かしを喰らった感は深く、その点では欲求不満の残る読後感を抱きました。

 ですから、このSFの古典を面白いかと聞かれれば、上記の観点から言えばそれほどでもない、ということになるんでしょうね。でも、読んでいるときにはレムの作った宇宙にどっぷりとつかって、ワクワク、ドキドキ感を感じることができたのも事実です。そういう意味では、『ソラリス』は名作というにふさわしいスペース・オデッセイであるとも思いました。


お彼岸を過ぎて (2018年9月25日)

 今年も、はや、お彼岸を過ぎて、夕暮れの訪れがだんだんと早くなってきましたね。なんだかうら寂しいそんな黄昏どきには、オフコース(Off Course)の「愛の唄」(例えばこちら)が無性に聴きたくなります。小田和正の透明な歌声と厚みのあるコーラス・ワークが際立った佳品だとわたくしが思う曲です。

 この歌はオフコースが二人組だった、彼らの若い頃の作品です。しかし青春まっただ中の若者が作る歌にしては、オフコースの歌には妙に老成したところがありました。そのことはわたくしが高校生の頃にオフコースの歌を聴いているときにも分かっていました。しかし、それらの歌の真の意味とか、彼らが歌う人生の奥深さとかは半世紀以上生きて来た今になって、やっと分かりかけたような気がします。女の子のことにしか興味がないような(?)年頃に、過ぎ去った青春を歌っていた彼ら(鈴木康博と小田和正)って一体何者だったのでしょうか。

 そんなオフコースですが、メンバーが五人に増えて演奏がビッグ・バンド風になり、「さよなら」がヒットした頃から、彼らの歌は聞かなくなりました。理由はよく分かりません。「ワインの匂い」とか「でももう花はいらない」のような初期のちょっとフォーク調で柔らかみのあるサウンドから、がなりたてるようなロックへと変貌していったせいかも知れません。

 さて、高校の同級生だったミチヤスが、文科省での汚職事件に連座したとして処分され、初等中等教育局長を辞職したというニュースが流れました。彼のことは以前にも書きましたが、高校生の頃からものすごく頭のよいひととして知られていましたが、そんなことはおくびにも出さない、人当たりのよい好人物でした。駒場では偶然にも同じクラスになりましたが、飄々と、そしていつも超然として穏やかに笑っていたことを憶えています。

 そんな彼のことですから、そういうことには十分過ぎるくらい気を配っていたと思うのですが、いったいどうしたのでしょうか。火のないところには何とやら…ですから、何かはあったのでしょう。それが罰せられるに相当することであれば、辞職もやむを得ないとは思います。でも、そんなひとの良い彼が事務次官になった姿を見ることはもうできないということが迂生には残念だし、一抹の寂しさを感じるのです。まさに「過ぎ行くは 若き日々…」(「愛の唄」)です,,,。


さかいめ (2018年9月19日)

 めっきり秋めいて来ました。暑かった夏とやがて来る冬とのあいだに秋はあって、物悲しさがふと降りてきたりする、そういう季節ですね。いつの間にか蝉の声も聞かなくなりました。お昼に図書館の裏手の武蔵野の道を歩くと、虫の音とともにツクツクボウシの声が儚げに聞こえてきました。道ばたには、はや、どんぐりの実が落ちています。真っ赤な曼珠沙華の花々もひっそりと咲いています。もうすぐお彼岸でした…。

 きょうは久しぶりに一日大学に居られるので、たまった仕事をこなしています。思いがけない来訪者があったりもしました(お土産、ありがとうございます)。季節がよくなって体調はだいぶ回復してきました。そのせいか仕事がはかどるような気がしますが、まあ気のせいか、あははっ。

 夏と冬のあいだに 秋を置きました
 だから秋は少しだけ 中途半端なのです
 このころはなんとなく こころ寂しくて
 知らないうちに誰かと すき間ができたりします
(オフコース「僕の贈りもの」より)


仏壇がきた (2018年9月18日)

 きょうは電気協会で原子力関係の会議があって行ってきました。久保哲夫先生が主査のヤツです(青山博之先生はご欠席でした)。わたくしの担当する検討会(建物・構築物)の副査をお願いしている楠原文雄さんをこの会議の委員に推薦したので、きょうから参加してくれました。まあ、多分ありがた迷惑だとは思いますけど、あははっ。

 さてこの週末、実家からお仏壇を我が家に移送しました。上下に分割できたので、甥っ子と息子に手伝ってもらって、乗用車に無理矢理積み込んで運びました。ところで皆さんのお宅には仏壇ってありますか。わたくしが子供の頃の家には仏壇は(狭いアパート暮らしだったせいか?)ありませんでした。

 迂生はいつも書いているように無宗教です。とは言え、お寺に行けば仏さまにお祈りし、神社に行けば八百万の神々にお祈りし、教会に行けば天にまします神さまにお祈りするという、都合のよい手前勝手な人間でございます。仏壇って、そういう全ての神さま・仏さまをごっちゃにしてお祭りしてよいものなのかどうか、知らないんですね〜。でもまあ、気持ちの問題なのだから何でもよいんだと(これも自分勝手に)思っているところです。

 お仏壇にはお線香がつきもので、棚のなかにそれが入っていたのですが、その香りが結構きつくて、家内は頭が痛くなるって言っています。ファブリーズを入れたそうですが、そうすぐには臭いは消えないみたいでちょっと困っています。

 そのお仏壇の引き出しのなかに、百年以上前のものがいくつか入っていました。初めて見るものもあって興味は尽きませんが、そのものの意義を知るためには当時の世相や社会の仕組みを理解する必要があるので、これからおいおい調べようと思います。


秋の気配2018 (2018年9月14日)

 朝、野川沿いの道を歩くと、吹く風にときおりひんやりとした涼しさを感じました。空気にも秋の匂いをそこはかとなく感じるようになった今日この頃でございます。建築学会大会が終わって一段落ついたところですが、その建築学会では来年度の委員会やWGの設置に向けて根回しとか折衝とかが行われている最中です。

 建築学会での立ち位置はいつの間にやら中堅からベテランへと移行したようでして、いろいろと頼まれたり、頼んだりを繰り返しているところです。鉄筋コンクリート構造学の学問領域で言えば、(他の多くの分野と同様に)前途有望な若手研究者の数は減っているように思います。そのため仕事を頼むのはいつも同じ顔ぶれになってしまい、自分たちで自身を忙しくしているような感じになっています。

 そんなことでは斯界の発展は望めませんので、なんとかして有望な若手を発掘しようと考えています。しかしそれには相手も学会で活動したいと考えていることが必要で、そういうマッチングをどうやってするのか考えるだけで面倒だし、良いアイディアも浮かびません。建築学会やコンクリート工学会で論文を発表している若手をターゲットにすれば良いのですが、たいていの場合には面識はありませんし、そういう見ず知らずの方に一緒にやりましょうとか、やっぱり言いづらいですよね(などとウジウジ考えていたらちょうど、河野進RC構造運営委員会主査から相談の電話がかかってきました)。

 まあ、学会活動は個人の発意で行われるものですから、自分から手を挙げて参画したいと言ってくれるひとを待つしかないのかとも思います。


今年度の実験、はじまる (2018年9月11日)

 全学の委員会が終わって戻って来ると、大型構造物実験棟に試験体3体が既に搬入されて、載荷装置に載せる作業中でした。共同研究者の岸田慎司先生にお出でいただき、ジャッキの操作や安全確認をしてもらっています。ご苦労さまでございます。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC柱梁部分架構実験_岸田研_ネツレン_三井住友建設2018:試験体搬入後のセッティング20180911:DSC_4633.JPG

 この実験研究は芝浦工業大学、高周波熱錬、三井住友建設および本学の共同研究で、昨年度の続きと位置付けられます。部分高強度化鉄筋を用いてヒンジ・リロケーションを実現させて柱梁接合部の損傷を軽減すること、およびこれをプレキャスト工法に応用することが大きな目的です。

 今年度は岸田研究室のM1・村上研さんが実験の主担当者を務めます。これによってアシスとの風通しもよくなるので、ありがたいことです。我が社からは昨年に引き続いて卒論生(石川巧真さん)が担当となりました。怪我や事故のないように実験に取り組んでください。

 我が社ではこのほかに2シリーズの実験を予定していますが、どれもまだ試験体の形すら見えずに苦戦している状況です。じっくり研究計画を練ることは重要ですが、だんだんと時間がなくなって来ることも事実なので、どこかでアクセルを踏んで進めてくださいね。


仙台での大会にて (2018年9月10日)

 仙台の東北大学キャンパスで開かれた日本建築学会大会ですが、台風に見舞われたとはいえ猛暑も緩和されて、まあ比較的しのぎ易くて助かりました。ただキャンパスの周囲には食べるところは全くなく、昼食には困りましたね。小山明男先生は地下鉄で仙台駅まで戻ってお昼を食べたと言っていました。

 この大会は延べ一万人近くの学会員が集まる一大イベントなので、例年、泊まるところの予約にも苦労します。ここ二年間は若手優秀発表賞のための審査関係のWGの主査を務めています。そのお仕事柄、大会には始めから最後までいることが必要です。大会の日程は一年前から分かっていますので、今回は今年2月に仙台駅前のホテルを予約しました。ここからだと会場まで約二十分で通えましたので、その点も疲労の軽減に大いに役立ちました。

 ことしは研究室の学生諸君の発表は昨年同様に少ないのは残念でした。M1・Yang Dichen くんの発表を聞こうと思って教室に行ったのですが、狭くてひとが溢れて入れなかったので(最終日の午後の発表なのに、ですよ…)、結局、M2・扇谷厚志くんの発表を聞いただけで終わりました。まあ、仕方ないか。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ大会2018東北大学:IMG_0247.JPG

 本学の名称が東京都立大学に戻ることをかなりの方が知っていました(嬉しいですね)。一年半後に東京都立大学に名称変更することはほぼ確定ですから、この大会で所属を名乗るときには「都立大」で通しました。もちろん司会者から「首都大学東京」とご紹介いただくときにはそれに逆らうことはしませんでしたよ、あははっ。

 大会ではいろいろなひとに会うのですが、学生時代の同級生としては今村晃、石井透および野嶋慎二の三氏に出会いました。野嶋とは地下鉄のホームでばったり出会いましたが、彼は都市計画が専門なので普段は縁遠くて会いません。

 鉄筋コンクリート(RC)構造部門のパネル・ディスカッション(PD)では「プレキャストRCによる建築物高度化の最前線」と題した解説および討論が開かれました。迂生はどういうわけか討論の司会を依頼されました。実は21年前にも本会・関東支部においてプレキャスト工法に関するシンポジウムを開いており、そのときのハンド・アウトや討論のメモが結構、役に立ちました。

 このPDに小松幸夫先生および吉田倬郎先生(いずれも建築生産・構法)がわざわざお出で下さりました。お二人とも大学の先輩に当たります。主題解説での説明が、応力伝達機構のようなバリバリな力学ではなく、建物をどのように作るかというシステムや構法の話題だったので、ことのほかお喜びいただけたみたいでよかったです。とくに吉田倬郎先生からは示唆に富むご意見や感想もいただきました。ありがたいことでございます。

 さて、そのPDが終わってしばらくいろいろなひとと話したあと、最後にその会場から出たときに、向こうから来る北川良和先生にばったり出会いました。このPDに最後まで参加して下さったとのことで、ひとしきり感想とか激励とかをいただきました。仰ることは至誠に溢れていて、後輩(わたくしのことです)が上手くやって行けるようにというご配慮に満ちていました。上述の吉田先生といい北川先生といい、後輩思いの先輩には本当に感謝いたしております。

 初日には台風が接近するなか、災害委員会主催の研究協議会が開かれました。ここでは最後のまとめを依頼されました。まとめでは、その協議会のパネリスト達の発表とか討論された内容等をまとめて述べるのが通常でしょうが、そんなのは面白くもないので、自分勝手な主張を述べることにしました。ひと言でいえば、災害調査は被災者の心情を踏みにじるようなものであってはならず、工学が人間のためのものである以上、血の通った災害調査を実施すべきである、ということです。そのためには自己の興味に基づく調査だけではなく、被災者のためになる何らかのボランティア活動を行政と連携しながら行なうべきであろう、と申し上げました。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ大会2018東北大学:IMG_0242.JPG

 この協議会のあと、勅使川原正臣委員長と五十田博幹事とで、災害委員会での活動とは言うものの大きな災害がないに越したことはないよね、それを祈りましょう、といったことを話しました。しかしそのあとすぐに北海道で震度7の地震が発生したのは先日書いた通りです。さっそくに「血の通った災害調査」を求められる状況が現出して、正直なところ困惑しております、はい…。

 三日間の大会が終わった夕方、東北大学キャンパスを地下鉄駅に向かってトボトボと歩いていると呼び止める声が聞こえました。それはかつては一緒に飲み歩いたこともある小林淳先生(秋田県立大学)でした。聞けばこの大会の実行委員会の顧問みたいなお立場だそうで、とにかく大会が無事に終わることを念じていると仰っていました。

 そうですよね、わたくしも二十五年前にわが大学で建築学会大会を開いたときには一実行委員として飛び回りましたが、こんなマンモスな大会を切り盛りするのは非常なご苦労だと拝察します。こういう多くのボランティアの先生方のお陰でこの大会も成り立っているわけで、いつまでこんな大変なことを続けるのだろうかとひそかに案じております。

 で、このときに小林先生から伺ったのですが、大学院修士課程の修了要件に建築学会大会で梗概を発表することを課している大学がかなりあるとのことでした。これは初耳です。わが大学では(今はまだ)そうではないので、結構驚きました。そう言われると、あまり熱意もなく質問しても何も答えられないという学生諸氏がちらほら見受けられたことに思い至り、そういうことかとちょっと納得したのでした。う〜ん、それがよいことなのかどうかちょっと微妙ですな…。

 ちなみに来年の学会大会は金沢工業大学が会場です。金沢駅からはJRと私鉄とを乗り継がないと行けないみたいなのでどうなるのでしょうか、今から心配です。


仙台にいるあいだに (2018年9月7日)

 ことしの日本建築学会大会は仙台の東北大学で開かれて、昨日まで仙台にいました。今回の会場は地下鉄駅の目の前が大学で、仙台駅からも8分くらいでとても便利で助かりました(大会の話しはそのうち書こうと思います)。

 今年は三日間ともお仕事があって、例年にも増して疲れました。初日の午後には災害委員会の主催する研究協議会がありましたが、そのときはちょうど台風21号が四国・近畿地方を通過するときで、仙台も強風が吹いていました。そんななかで災害調査はどうあるべきかという協議会をやっていて、台風や竜巻を専門とする先生はこんなところ(会場)にいる場合じゃないって言っていました。

 その30時間後くらいには北海道で震度7の地震が発生して、北海道全域の停電、山崩れ、建物の倒壊、地盤の液状化などの被害が報道されています(お見舞い申し上げます)。その日の午前中には鉄筋コンクリート構造部門のパネル・ディスカッションがあって、そこで災害委員会委員長の勅使川原正臣委員長(名古屋大学教授)から「おい、どうする?」と話しかけられました。迂生はテシさんのもとで災害委員会幹事を務めているからです。まあ現状では、北海道への足もほとんどありませんから、どうしようもないんですけどね…。

 ということで、仙台にいるあいだに災害委員会マターの(それも激甚な)災害がたて続けに二つも発生した大会期間でした。まさに災害列島ですが、相手は自然現象なので如何ともし難いですね。静穏な日本列島を望んではいけないのでしょうか…。


大学の名前 〜説明会にて〜 (2018年8月29日)

 本学の名称を東京都立大学に変更することになりました。それについての学内向け説明会が今週月曜日に開かれました。プレス発表されたのが先週金曜日ですから、素早い対応です。説明会では上野淳学長、山下副学長および事務方(総務部長など)二名が壇上に並んで説明および質疑応答に当たりました。

 説明を聞いていて認識を改めたのですが、2005年の大学再編のときには旧・東京都立大学など都立四大学が全て廃止されて、全く新しい大学として首都大学東京が生まれました。しかし今回は単なる大学名称の変更として処理されます。ですから2020年4月以降は、それ以前に入学した学生諸君の学籍も全て新・東京都立大学に移管されることになり、彼らも東京都立大学の学生と名乗ることができます。よかったじゃないですか、って迂生などは(単純に)喜ばしく思いましたね。

 でも当局からの一連の説明が終わり質疑応答の時間になって、そうでもないのか?結構不思議なことが起こりました。それは学生諸君からの質問に多かったのですが、東京都立大学への名称変更の是非についての意思は表明しないまま、名称変更に至った経緯が不明とか意見聴取のやり方に不備があるとか、夏休みで学生がいないときに拙速に決めるのはよくないとか、といったような非難だったのです。

 いやあ、迂生は驚きを通り越してあぜんとしましたな。確かに名称変更の議論は現都知事の発言がきっかけになったことは確かです。拙速と言われればそのように見えるかも知れません。でも、それ以前の数年前から行なわれてきた学生アンケート等から、大学名称やその知名度に対する彼らの不満が絶大であることは明らかでした。ですから、(全員とは言わないまでも)大多数の学生諸君にとっては、東京都立大学への名称変更は好ましいことと信じ切っていました。

 ただそういった手続きの不備などを論難する意見は、どうやら学生内部の意見の対立の一端がおもてに表われたようにも感じました。上野学長が答えていましたが、全ての学生の意見を聴くことなど始めからできませんし、名称変更に興味のない学生もいるでしょうから、その必要もないと思います。

 質疑応答のなかで、在籍する約9000名の学生の内の約2500名からアンケートの回答があり、そのうちの2/3が名称変更に賛成と答えたことが明らかにされました。回答者は在校生の約三割、という数字は十分な人数とは言えないにせよ、それなりの重みはあるように思いますが如何でしょうか。

 おおかたの学生諸君は2005年に首都大学東京が開学されるに至る非民主的な経緯とその後の非常な混乱とについて知りません。そのことを知るわたくしの目から見れば、名称変更まで(すなわち本学の非常事態の解除に向けた第一歩まで)十五年も要したという見方もできるわけです。拙速ではなく、おそ過ぎですよ。今回の説明会では、立場が変われば見方も変わるという典型的な風景が現出したのでした。


大学の名前 〜この十五年は… (2018年8月27日)

 世間ではバブル崩壊後の日月を「失われた二十年」と呼んだりします。では東京都立大学から首都大学東京と名を替えて、また東京都立大学に戻ることになった、この十五年は何と呼ぶのでしょうかね? 迂生の感覚で言えば「混乱の十五年」とか「非常の十五年」と呼びたいですな。

 本学においてこの十五年で何が良くなったのか冷静に考えても、特段思い当たる節はありません。都市教養学部という、何をやるのかさっぱり分からない部局はこの四月に廃止されて、元の法学部とか理学部に戻りました。新大学発足時に踏み絵のように選択を迫られた新制度・旧制度は今、どうなったのでしょうか。

 2005年の新大学発足に向けて、当時の都知事の意向を受けて大学にやって来た都庁のお役人さまが居丈高に教員たちに命令していた姿(それは恐ろしいほど不遜な態度でしたが)をまざまざと思い出すことができます。東京都立大学の復活は、そのような異常な状態から抜け出して正常化に向けた大きな契機となることを期待します。

 それにつけてもこの十五年は何だったのか、徒労感はぬぐい難いですな。ものすごい労力をかけて合併して、また(完全にではないにしても)元に戻す…。なにやってんだろうねぇ。

 学部では「建築都市コース」から「建築学科」に戻りましたが、大学院は相変わらず「建築学域」という名前のままです。「学域」という言い方がわたくしはどうも馴染めません。この機会に「建築学専攻」に戻してくれないかな。


逃げ切る 〜高知行始末〜 (2018年8月24日 その3)

 久しぶりに高知に行ってきました。前回は2011年で、その時は東北地方太平洋沖地震の被害調査速報会の講師として高知工科大学を訪問しました。それ以来ですから七年ぶりということになります。今回は高知工科大学の甲斐芳郎教授から博士論文審査の副査を依頼されたので、その公聴会および審査会に出席するためです。

 甲斐芳郎さんは高校、大学、研究室の先輩であり、三重の縁でつながっています。2011年の地震のときにはともに工学部11号館で地震に遭遇し、そのあと電車が止まった都内を一緒に歩いて横断して帰途についた、いわば戦友にもなります。そういう先輩である甲斐さんから、鉄筋コンクリート柱梁接合部に関する博士論文の審査を頼まれたら、いやとは言えませんな。ちなみにもう一人の外部審査者は、その道のプロである楠原文雄・名工大准教授です。それを思えば、わたくしはまあオマケみたいなものでしょうね、ガハハっ。

 さて高知行きですが、わたくしは飛行機は嫌いなので、例によって陸路を電車・汽車で辿りました。新幹線で岡山まで行き、そこから特急「南風[なんぷう]」(これは三両編成のディーゼル・カーです)に乗って瀬戸大橋を超え、徳島県の深い山中にある大歩危(おおぼけ)を経由して太平洋岸の高知に至る、というコースです。我が家から高知駅まではほぼ八時間の道行きです。まあ、一日仕事になりますな。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:高知行き20180822:IMG_0211.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:高知行き20180822:IMG_0218.JPG
   写真 瀬戸大橋からの眺め             高知駅構内(注)

 特急「南風」では、先頭車両の一番前の席にしました(って、わたくしは“鉄ちゃん”ではありません)。そのため運転手越しに前方の景色もよく見えました。そこで初めて気がついたのですが、特急の運転士は四人が入れ替わって高知まで運転したのです。その運転時間はまちまちで、一番長いひとは阿波池田から大歩危の山を越えて終点の高知までを担当したので、時間にすると一時間以上でしょうか。どういうルールで分担を決めているのでしょうか、運転区間ごとに鉄道免許が必要なのかな?

 夕方間近に高知駅に降り立つと、お日様が照りつけてやっぱり蒸し暑かったです。駅前の広場には土佐テラスという観光案内所のような平屋が建っていました。これは2011年にはなかったと記憶します。結局この日は移動に一日を費やしたことになります。高知は父祖発祥の地なので本当はその故地へ行ってみたかったのですが、そもそも辺鄙なところですし、台風も近づいていたのでそれは断念しました。この接近しつつあった台風20号がくせものだったのです。

 その晩の夜中には暴風雨になったりしましたが、翌朝は日がさしたかと思うと急に大雨が降ったりする典型的な台風日和でした。で、高知駅まで行くと、岡山行きの特急「南風」は午前10時台の汽車が最終で、そのあとは全部運休になると駅員が言うのです。ええっ、公聴会は午前10時からの一時間の予定でしたから、これでは帰京できません。もうがっかりですが、お天気にはかないません。この時点では高知にもう一泊することを覚悟しました。

 でもまだ台風は太平洋のかなり向こうにいるっていうのに、運休になるのが早過ぎやしませんかね。最近の天気予報は精度が高くなって、必ず荒天になることが確実視されているので、鉄道会社としては早めに予防策をとって非常事態を回避しようということでしょうが、足止めされる身にもなって欲しいなあとチラッと思いました。おまけに駅員に掛け合いながら高知駅で途方にくれているところをテレビ・カメラに写されたりして、これじゃニュースでよく見る、困惑する乗客そのものじゃないですか。

 高知工科大学には、高知駅から特急「南風」に乗って土佐山田駅で下車します。このとき、一緒にいた楠原さんと「このままこの汽車に乗ってれば、帰れるんだよね」とか言いながら、でもまさかこのまま乗り続ける訳にもゆかず、後ろ髪を引かれる思いで「南風」から下車したのです。そこから高知工科大学へはバスで15分ほどの道程です。

 さて下車した土佐山田駅で再度、運行状況を確認すると、岡山行きの特急「南風」は午前11時27分が最終、というふうに変更?になっていました。お仕事は午前10時から一時間ですから、上手くやればこれは帰れるかも、ということになって俄然元気が湧いて参りました。

 そこで主査の甲斐さんに相談して、博士論文公聴会および審査会は一時間弱で切り上げていただき、午前11時に大学を出立できるように取り計らっていただきました。当該の学生さんはヴエトナムの方でしたので、公聴会は英語でした。そこで拙い英語で質問したりしましたが、回答は残念ながらよく分からなかった、というのが実態でしたね。

 その後、高知工科大学の四名の先生方と一緒に審査結果を討議したのですが、これが思いのほか紛糾いたしました(詳しくは書けませんが…)。結局、午前11時になっても終わらないので、僕たち帰れなくなりますのであとは皆さんにお任せします、とか言いながら、半ば強引に退席しました。待たせてあったタクシーに飛び乗って、なんとか特急に間に合ったのでした。ああ、良かった。

 でも、土佐山田駅の窓口では指定席は既に満席ということでした。おまけに午前中なのに上り方面の最終列車なのでお客が多くて、自由席も既に一杯で立っている人がたくさんいました。二時間半も立ちっ放しはつらいので、指定席で並んで空いている席があったのでとりあえず楠原さんと一緒に座りました。

 すぐに車掌が通りかかったので、ここの席はどこまで空いていますか、と聞くと、そこは終点まで空席です、って言うじゃありませんか。駅の発券所では既に満席だって言うのにこれってどういうことなのよ、とは思いました。でもとにかく座れるんだからいいじゃないか、ということで喜んで指定券を発券してもらいました。ああ、良かった。指定代はわずかに360円でした(本当かな?)。もう地獄で仏とはこのことでっせ。

 この車内で、楠原さんに岡山からの新幹線の指定席をスマホでとってもらったりして(迂生はスマホを持っていないので不可能ですから、えへへっ)、東京までの席は確保できましたが、電車が実際に動くかどうかは東京駅に着くまで気が気じゃなかったですね。実際、その後に山陽新幹線は運休になりましたから。

 こうしてからくも台風をかわして逃げ切って帰宅できました。とにかく台風に追いかけられているっていう感じでドキドキした、高知からの帰りみちでした。二日もかけて、おまけに精神的に圧迫されてわずか一時間の仕事をするっていうのも、どうなんだろうか…。(甲斐さんには悪いですけど)あんまり生産的じゃないようにも思いますが、いかがでしょうか。でも幕末の志士たちは、自分の足で歩いて(あるいは船に乗って)何日もかけて移動して、その挙句にそれぞれの志を達成しました。そのことを思えば、移動の時間などをくよくよと気にかけてはいけないのかも、とも思います。

(注) 高知駅は確か建築家・内藤廣さんの設計だったと思います。写真のように木造と鋼管とを組み合わせたハイブリッド・トラスによって大屋根が構成されています。全景は下の写真です。屋根を支える鉄骨柱の脚部は完全なピン支持になっていました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:高知行き20180822:IMG_0225.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:高知行き20180822:IMG_0228.JPG

 ちなみに高知県は漫画家のやなせたかし氏の出身地なので、高知駅前にはアンパンマンのキャラクター石像がいくつか設置されていました(右の写真はドキンちゃん)。これらは七年前にはありませんでしたから、高知の町おこしとしてアンパンマンを利用するようになったのかも知れません。


大学の名前 〜完結編〜 (2018年8月24日 その2)

 首都大学東京という本学の名称ですが、本日、理事長名の文書が配布されて、2020年4月から変更するための手続きに入ることが公示されました(本学のHPにも学長名の告知が掲載されています)。すなわち、首都大学東京を元の「東京都立大学」に戻す(戻す、とは執行部は言っていませんが)ことになります。

 東京都知事がこの件について発言したのが7月12日ですから、大学執行部が強い危機感を持って早期に方針を示すことに注力したことが分かります。その素早い対応には敬意を表しますし、迂生としては何よりも嬉しいです。これで伝統ある大学名称をまた大手を振って名乗ることができるのかと思うと、喜びがじんわりと湧いてきますなあ。

 実はわたくしは木葉会(建築学科の同窓会)の名簿には未だに「東京都立大学 教授」と書いています。他のOBの皆さんが所属を「首都大学東京」と書いているにもかかわらず、です。でも結果として所属大学名を修正しなくてよかった、ということになりそうです、あははっ。


OCWに講義を公開する (2018年8月24日)

 トップ・ページに記載しましたが、大学説明会のときに行った模擬授業「耐震構造・温故知新」の様子が本学のオープン・コース・ウェア(OCW)のページで公開されました(こちらです)。

 授業の撮影およびコンテンツの編集や修正については、本学の学術情報基盤センターの皆さまに大変にご尽力いただきました(ありがとうございます)。特にスライドに載せた写真について、著作権があるものは事務方に調べていただき、適宜、追記してもらいました。もちろんわたくし自身が撮影した写真も多かったので、そういう写真にはクレジットはついていません。

 講義の公開に当たっては、通常は15分程度にまとめた縮小版を搭載するそうですが、今回は約150年に渡る通史を説明していることもあって、特別にほぼ全編を公開してくれることになりました。そのため、スライドは4編に分かれていて、それぞれが13分程度の分量となっています。いやあ、ありがたいことでございます。

 というわけで、建物の耐震構造の発展史などにはご興味がないかもしれませんが、のぞいて見ていただければ幸いです。スライドのスクリーンの前をうろうろと歩いている迂生が鬱陶しいかも知れませんけど、あははっ。


つぎに向かって (2018年8月21日)

 お盆あけの昨日、日本建築学会で鉄筋コンクリート構造運営委員会の拡大委員会が開かれました。わたくしのように鉄筋コンクリート(RCと略称します)構造学の分野の研究者にとっては一応、最高の意思決定機関と位置付けられます。もちろんこれはわたくしが勝手に思っているだけで、ひとによってどうなのかは関知しません。

 この運営委員会でも世の流れには棹させずに高齢化はいかんともし難く、今まで無縁だった若手を呼び込んで世代交代をスムーズに実現し、今後の委員会運営のあるべき姿とあわせて議論するために、臨時に開かれました。このような将来計画を議論する委員会はわたくしの知る限りでは今まで開かれませんでしたので、現主査の河野進さんの英断だと思います。

 この日は出席した全ての方が何らかの発言や意思表示を行なったので、そのことはよかったと思います。ただ将来のあるべき姿については、残念ながらまとめることはできませんでした。まあ二時間かそこらのディスカッションで結論がでるような問題ではないし、皆さんそのことは重々承知の上で議論したのだから、まあいいのでしょう。いろいろな意見や考えがあることが分かったのも収穫でしょう。

 ただ、その場でわたくしは申し上げましたが、RC構造運営委員会の委員の選定の仕方が現状は不透明で、この場に参加したいと思っているひとを吸い上げられる仕組みになっていない、というのは問題だと思います。その場の皆さまには残念ながらあまりご賛同いただけなかったみたいですけど…。現状の委員選定は、大学同窓だったり、同じ研究室のつながりだったり、教え子だったり、といったきわめて曖昧な契機によって為されているような気がします。まあ、そういう迂生自身が、青山研究室の先輩方の引きによって委員にしていただいたのですから、偉そうなことは言えませんけどね。

 わたくしとしては、かつて自分がそうしてもらったように、若いひと達にもっと活躍の機会を提供できれば、それでよいと思っています。規準・指針類の改訂とか新規作成が現在のところ、委員会活動の中心をなしています。そのことが学会の活動として相応しいかどうかについては、迂生も考えるところはありますが、今は置いておきましょう。

 しかし、少なくともわが国においては学会で提案した耐震設計手法がお上の施策と直接に結びつくことが往々にしてあります。ですから、そのような活動に加わることは、日本の建物の耐震設計法のあり方にコミットすることを可能とし、新たな研究テーマの発掘や自身の見識の充実にも大いに役立つと思いますし、実際、わたくしにとってはそのようになりました。

 いつも書いていますが、このようにして先輩方から受けたご恩は後輩諸氏にお返しする、というのが迂生のポリシーです。それこそまさに体験を受け継ぐ、と言うに相応しいとわたくしは思うのですが、如何でしょうか。とは言え、そんなの迷惑だよとか面倒なのでやりたくないと言われるのであれば、押し付けるものでは全くありませんよ、念のため。学会活動はあくまでも一個人の意志によって実施される、というのが全ての基礎をなしていますから。


大学説明会2018 二回め (2018年8月18日)

 きょうも昨日と同じようにカラッと乾いてしのぎやすい晴天になりました。この土曜日は本学の第二回大学説明会です。前回のとき(ひと月前)はものすごい暑さでしたので、それに比べれば今日は助かります。

 迂生の出番は午後二時からですので、お昼前に南大沢駅に着くと、ものすごい人出です。でも、もう見学を終えた人たちも結構いるようで、大学へと続くペデストリアン・デッキ上は上り下りの人たちで混雑していました。キャンパスの中も、見たことがないくらいの人々で溢れています。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:大学説明会オープンキャンパス_二回め20180818:IMG_0185.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:大学説明会オープンキャンパス_二回め20180818:IMG_0193.JPG

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:大学説明会オープンキャンパス_二回め20180818:IMG_0205.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:大学説明会オープンキャンパス_二回め20180818:IMG_0206.JPG

 でも、道すがら来場する高校生諸君を何気なくみていると、正門のところで写真を撮って「これで首都大には来たぞ、終わった〜」なんて大声で叫んでいる高校生のひと塊りがいたりして、来るひとにも色々な人がいるんだなあ、といういつもながらの当たり前の認識を確認できましたね。高校の先生から大学説明会に行ってレポートするように言われているのかも知れません。

 まあ現地に来てくれれば、何でもいいという風にも思います。実地に体験することで得られるものは多いはずですから、是非とも今後の進路選択に役立ててほしいですね。わたくし自身の講義でも、別に本学に進学してくれなくて構わない、建築学という学問領域に興味を持ってくれればありがたい、と説明しています。


少ししのげる (2018年8月17日)

 きょうは日差しは強いものの、カラッと乾いて、かなり強い風がかすかな涼気を届けてくれます。そのお陰で、このところの暑さがひと段落してしのぎやすく感じますね。青空に流れる雲も筋状に伸びて、秋の訪れが近いことを感じさせます。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:南大沢の空_7階研究室から撮影20180817:DSC_4628.JPG
       写真 7階の研究室から撮った南大沢の空

 昨日は教授会があり、学部および大学院の成績の提出締め切りも迫っていたので登校して仕事をしました。ACI(American Concrete Institute)からまたもや論文の査読を依頼されて、今回は断らずに引き受けました。以前に書きましたが、ACIの論文査読は完全なボランティアですが、サイトにアクセスして開いた論文は50ページ以上もありました。ありゃあ、これはまた大変だな、というのが最初の感想ですな。

 査読を引き受けるかどうかを判断する材料はAbstractだけです。ですから本文がどの程度の長さなのかとか、詳しい内容については分からないまま引き受けるかどうか判断しないといけません。まあ、そういうものなのでしょうが、当たり外れはやっぱりありますよね。あとは、分かり易い英語で書かれているかどうかも重要です。

 しかしACIの事務局はどうやって査読者を選んでいるのでしょうか。ACIのConvention などには参加したこともなく、専門委員会のメンバーになったこともありません(頼まれても、英会話の苦手な迂生ではお役に立てないでしょうけど、あはは)。わたくしには年に三、四件は依頼が来ますが、誰が人選しているのか知りたい気分です。もっとも二回に一回はお断りしていますけど…。わたくしたちが投稿した論文は結構落とされていますので、そんなにコキ使わないでくれよっていうのが正直なところです(こころの狭いヤツですな、ガハハっ/でも人間なんだから、そんなもんだろ)。


ことしのお盆2018 (2018年8月15日 その2)

 今年もお盆を迎えました。それは中国やアメリカ等の連合軍との戦争に負けて昭和天皇による終戦の詔勅が発布された日でもあります。きょうも七十三年前のその日と同じように蝉の声がかしましい、暑い日になりました。我が家のことを書けば、父、祖父そして曽祖父はいずれも旧帝国陸軍に所属して、それぞれの場所で戦争を潜り抜けたことと思います(もう直接、はなしを聞くことはできないので分かりませんが…)。否、曽祖父は中国・旅順で戦死しました(相手はロシアでした)から、戦場から生きて戻ることはできませんでした。

 曽祖父も祖父も市井の住人だったのに徴兵されて戦地に送られたのですから、本当に気の毒です。嫌な時代だったとつくづく思いますね。しかしそのように辛酸を舐めた祖先たちのおかげで、現在の平和で繁栄した日本があるのです。このことを常に忘れないようにしたいと思います。

 お盆の日に登校して、大学院のレポートの採点をやっています。一日かけましたが、まだ終わりません。結構大変ですが、まあ仕方ないか。もっと楽に採点できるレポートを課せば良いのでしょうが、それでは院生諸君の勉強になりません。結局、まさにバリバリの筆記式の思考経路を問うような課題になるのは必然でしょうな、やっぱり。でも、だんだん齢を重ねてきて、堪え性がなくなってきたのも事実です。根気強い採点をいつまでできるものか、ちょっと自信はありませんねえ。


大学入試の英語について (2018年8月15日)

 2020年度から始まる大学入学共通テストに英語の外部試験を導入することになっていますが、それをどのように利用するのか決めていない(決められない?)国立大学が半数近くあると、昨日の朝日新聞に報道されていました。そりゃそうだと思いますよ。方法も目的も異なる、幾つもの外部試験の結果をどのようにキャリブレーションして同じ土俵に載せるのでしょうか。

 現行の大学入試では、得点のわずか1点の差が合否を分けます。そのような極めてデリケートな問題に対して、公平性を確保するには同一問題を全員に解かせるほかにはない、という風に考えるのがフツーですよね。そういった常識をあえて廃するのであれば、それ相応の方策を示す必要がありますが、それは全く聞こえてきません。

 英語の外部試験は何回でも受験してよいそうですから、お金と時間とがありさえすれば何回でも受けられます。そのこと自体が公平でない、という見方もできます。経済的な余裕のない家庭であるとか、近隣に試験会場がないとか、そういう個別の格差の問題です。

 そもそもなぜ、英語の外部試験を採用したかと言えば、SpeakingおよびWriting の能力は今までのセンター試験では測れず、それをやろうとするとベラボーに大変なので、やむなく外部試験にお任せする、ということでした。しかし大学入試に本当に英語のSpeakingやWritingが必要なのでしょうか。Writingすなわち英作文であれば、二次試験で課すことは可能です。社会に出たあとの職種によってはSpeakingも重要でしょうが、日本で暮らす限り英会話など必要のない生活をおくるひとが大多数なのではないでしょうか。

 大学入試を改革することで高校での勉学のあり方を改善する、という方法はあるのでしょう(お上がよく言っていることですね)。でも英語のSpeakingやWritingが重要となれば、高校教育の現場ではそれらに対する対策を迫られることになって、結局は今までと同じことが対象科目を変えて現出するだけのような気がします。

 大学入試を細々と変えることによって振り回されるのは結局は当事者たる高校生諸君です。お上(もっと具体的にいえば文部科学省)のお役人さまの思い付きで入試制度を変えようとしているのであれば、ホント迷惑なはなしです。しかし、この新制度を利用する側の大学がこれだけ困惑し混乱しているということは、この新しいやり方に対して大いなる疑念を持っているからに他ならない、と迂生は思いますね〜。

 ちなみにわが大学では、外部英語検定試験(認定試験)と大学入学共通テスト「外国語」とを併用する、となっています(こちら)。認定試験は大学入試センターが認定した全ての試験を対象とします。ただしこの認定試験の結果をどのように活用するのかは検討中となっています。


暑さが追い打ち (2018年8月10日)

 そろそろお盆の入りでしょうか。暑いです。大学院の入試が終わってから昨日まで、仕事を休みました。体調が悪くて、とても頭を回転させる仕事をする気が起きなかった、というのが一番の理由です。それに輪をかけて毎日の暑さが耐力、じゃなかった体力を奪って行くように感じますね。それくらい、今年の夏の暑さはひどいです。テレビで危機的な暑さとか言っていますが、生存を危うくするという点でそれは妥当な表現だと思います。

 来週はお盆ですが、例によって大学院のレポートの採点がたまっているので、多分、登校してお仕事をすることになるんでしょうな、やっぱり(ひとが休むときに仕事をする天の邪鬼か…)。そして来週末には二回めの大学説明会が開かれて、模擬授業をもう一回することになります。

 第一回の模擬授業をビデオ撮影しましたが、その編集が終わったので見せてくれました。自分自身の講義姿を見るのは初めてで、迂生ってこういう声でしゃべっているのかっていうのが最初の感想ですな。おおむね、ゆっくりとしゃべっていましたが、時々早口になっていて、そういうところは初めて聞く人たちにとっては分かりにくいだろうと反省しました。講義を聞いてくれた方々のアンケート結果を見ると、概ね好意的に捉えていただけたみたいですので、この調子でやればいいんだなと確認できたのは良かったです。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:スクリーンショット 2018-08-09 21.46.12.png

 ただアンケートには、「いろんな人が出てきて訳が分からなかった」(確かにコンドル先生から始まって、辰野金吾、伊東忠太、アーネスト・サトウ[幕末・明治に滞日した英国の外交官]も出てきます)とか「全然理解できなかった」といった声もありました。そういう声を聞くと正直ガックリ来て、どうしようかなとも思います。ただ、大学説明会にはいろいろな方が来ていて、興味の有無や期待度もまちまちでしょうから、そういった意見の全てにお応えするのは正直な話し無理だと思っています。

 先週の臨時教室会議のときに、母校の都立A高校からまたもや出前講義の依頼があったとの報告があって、当然ながらわたくしが行くことになりました。ここのところ毎年、年末に行なっている恒例の講義です。それでも今年の依頼は今までで一番早かったです、どうしたのかな?

 わたくしとしては若い後輩諸君に話しをするのは嬉しいくらいですから、苦になりません。でも昨年末の講義の後、他にもOBの大学教授はたくさんいるのだから、そういう方にも依頼したらどうですか、と担当の先生にポロッと話してみました。高校では一年先輩で大学の建築学科では同級生だった千葉学さん(建築家で東大教授)なんて、A高校のすぐそばの神宮前にオフィスがあるんですからね。

 すると担当の先生は、今まで講義を引き受けてくれた方には頼み易いのでつい…ということを正直に話してくれました。想像するに、依頼をしても引き受けてくれない大学教員が結構いる、ということでしょうかね、詳しくは聞きませんでしたが。


大学院入試始まる2018 (2018年8月1日)

 八月に入って暑いなか、大学院の入試が始まりました。例年のことではありますが、こんな猛暑のなかで試験をすることが(受験者だけでなく実施する方としても)本当にいいことなのか、大いに疑問を感じますな。

 さて建築学域では来年度は研究室が三つ減ることもあって、受験者数はかなり少なくなりました。我が社についても今回は受験者を精査したこともあって、志望者数は三名と(例年に比べて)減りました。まあ、少数精鋭っていうふうになるといいなあとは思っていますが、どうなることか…。

 プロジェクト研究コースについては、第二志望を含めてそれなりの受験者数となりましたので良かったです。建築家の小林克弘先生がメンバーに加わってくれた賜物でしょうね。受験される皆さんの健闘を祈っています。


七月も末 (2018年7月31日)

 週末のお騒がせ台風が去り、暑さがまた戻って来ました。きょうで七月もおしまいです。相変わらず具合は悪いですが、ルーチン・ワークがあって登校しました。

 さて、この四月に学部再編があってわたくしの所属する建築都市コースの名称が「建築学科」に戻ったことは何度も書いています。この改変の際に、かつての都市研究所系の教員が分離され(新しい学科に移った)、なおかつ再生・建築学科としての教員定数が削減されました。それに伴って学生定数もそれまでの60名から50名に削減されました。

 そういうわけで今年の一年生は新生・建築学科の第一期となります。定員が減ったので大学入試では狭き門となり、今までよりも優秀な学生諸君が入学したのでは、と内心期待していました。実際、一年生前期の「建築構造力学1」で毎回課しているレポートの出来は過去の学生諸君よりも明らかによく、また学生諸君の受講態度も良かったため、これはいけるかもという手応えを感じていました。

 ところが先週実施した期末試験を採点したところ、上位得点者の人数は少し増えたようではありましたが、51名受験の平均点はほぼ例年と変わりませんでした。なんだかひどくがっかりしましたね。毎回のレポートは良くできるのに試験はできないって、一体どういうことなのよ?

 まあ、考えられる理由は一つです。レポートは皆で相談できるので、優秀なひと(これは複数名いるようですが…)の解答を写して提出した、ということになりますな。それでも良いのですが、写すときにちゃんと考え、理解していなかったのでしょうね、きっと。それが残念です。

 でもよく考えると、少子化で18歳大学入学適齢者の人数は減少に転じているのに、大学の建築系学科は増えているんですよね。新しく建築学部を作ったり、土木系の学科の中に建築系のコースを新設したり、という具合に。ですからいくら建築学科の人気が高くても、募集人数が多少減ったくらいでは追っつかない、っていうことだと思います。ただ、今年の一年生は受講態度はよくて素直な印象を持ちますので、その点では期待できると思います。


大学の名前(承前 二) (2018年7月27日)

 先週末からいろいろなことがあって、このページを更新できませんでした。突発事態というのはいつの時にでもあるものでして、それはやむを得ません。でも、そのために精神的に大変疲弊しました。精神を病むとそれはそのまま体調に反映されます。ということで今は体調が激悪の状態でございます。今日は「鉄筋コンクリート構造」の期末試験があるので、仕方ないので登校したような塩梅ですな。

 さて大学の名前のことですが、大学当局から「首都大学東京の名称に関して意見伺い」という照会メールが来ました。大学執行部が小池都知事発言に相当ナーバスになっていることが伺えます。迂生の持論はすでにこのページに書きましたが、その意見をほぼそのまま書いて送信したところです。

 その大学当局からのメールには、「首都大学東京が東京都立大学に戻る、という安易な表現は不適当」という例示がありました。東京都立大学という名称に戻すことがどうして“安易な表現”なのか、とんと分かりません。大学改悪の象徴である「首都大学東京」をもとの伝統ある「東京都立大学」の名称に戻すことに、これ以上の理由が必要なのか、わたくしには理解できませんけど…。

 しかし、わたくしの言うような正論は耳が痛いのは確かなことでしょうから、大学執行部の皆さまにとっては鬱陶しい意見なんだろうなあ、と忖度します。でもわたくしだって大学人として一廉の意見を持っているという自負がありますので、これで良いと自分自身で勝手に思っているところです。


冷房停止の一時中止 (2018年7月23日)

 今、大学の事務方から通知が来て、危機的な暑さのために電力の使用制限(通知文書にはデマンド・コントロールって書いてありました)を一時的に停止してくれることになりました。いやあ、よかったです、やれやれ…。その措置は8月10日(金)までのわずかな期間ですが、それでも大学当局が学生・教員の声に耳を傾けたという事実は重要ですし、評価できます。

 それにもかかわらず、わたくしの研究室の室温は今でも31度のままなんですけど…。エアコンの具合がそもそも悪いっていうことでしょうか。それとも室外がベラボーに暑くてエアコンの能力が追っつかないっていうこと? そうだとすると恐るべき猛暑ということになります。いやあ、つらいですねえ。


大学の名前(承前)と冷房停止への異論噴出 (2018年7月20日)

 きょうは愚息の学校の終業式です。初めて五段階評価の通知表をもらって帰ってくるはずですが、現実の厳しさを目の前に突きつけられてどんな反応が返ってくるのか楽しみですねえ、がははッ。

 さて、小池都知事の鶴の一声で始まった、首都大学東京と言う非認知の名称を伝統ある東京都立大学に戻してはどうかというお話しのその後についてです。ついに朝日新聞でもこの件が報道されて、教員や卒業生には名称変更を歓迎する声があるが、一方で都知事に言われたから名前を変えるのは如何なものか、という意見もあると書かれていました。

 わたくしは諸手を挙げて「東京都立大学」復活に賛成していますが、同僚の先生方と話した感触では、そうではないひともいると言うことに気がつきました。それには結構、愕然としましたね。でも考えてみれば、新大学になってから採用された教員は最初から「首都大学東京」なわけで、後述するような非常事態についてはご存知ないのだから仕方ないかも知れませんが…。

 折に触れて書いてきたように、2005年の新大学発足時に石原慎太郎都知事(当時)によって断行された大学改悪の混乱は現在も続いており、本学は依然として非常事態を継続中というのが迂生の認識です(こういう認識がそもそもない教員が多い、というか迂生のような意見の持ち主は少ないような気がします)。この4月に上野淳学長のもとで学部再編が実行されたのは、この混乱を解消するための第一歩であると評価します。

 さらにそれを推し進めるためには大学名をかつての由緒正しくて、かつ、設置者が誰なのかが一目瞭然の「東京都立大学」に戻すことが必須であると考えます。何故ならば、非民主的な手法によって断行された大学改悪の象徴が「首都大学東京」という名称だからです。「大学」のあとに「東京」がくっつくという座りの悪さは言うに及びません。

 今年度末には学長選考が行われます。大学名称変更問題はそれにも影響を与えるかも知れません。ただ、この学長選考も教員は意向投票をすることはできますが、その結果は参考としかされずに、決定の主体は別組織に握られています。これも悪しき遺産の一つだと思っています。理事長は経営サイドのトップですから構いませんが、学長は教職員の総意で選ぶべきというのが迂生の意見でございます。

 別の話題です。電力ピーク・カットによる空調の停止について、ついに正常な意見の持ち主たちの“反乱”が発生しました。先日の教授会の最後に、NU教授が挙手をして発言しました。研究室が暑くてたまらないのでご配慮を賜りたいという内容で、非常にやんわりとではありますが空調の停止に異議を唱えたわけです。

 ところがU学部長は(どう言うわけか)研究室の冷房が強制的に止められて送風モードに変更されていることをご承知なく、ええ、そうなんですかあ?僕の部屋は涼しいけど…とか言っています。それを聞いてカチンと来た迂生が(手も挙げずに)「わたくしの部屋は30度ですよ、学生も干上がっています、まずいんじゃないですかねえ」と不規則発言したことから、大学の節電方針に対して多くの先生方から文句が百出したのです。

 でもそれはいずれも極めて真っ当かつ正常な感覚の発露に過ぎません。建築環境の先生は学生たちの部屋の室温を“温度取り”で測定していますが、7名くらいの学生がいる部屋ではパソコンも同じ台数あることから、室温は35度だそうです。これじゃあ、研究できませんな、ホント。

 ということで東京都が頭ごなしに押し付けてくる節電目標に唯唯諾諾と従うのではなく、生命の危険にかんするような場合にはもっと臨機応変に対応して欲しいと皆で要望したところです。多くの教授たちのあまりの剣幕に、U学部長も事の重大さに思い至ったことでしょうから、今後の善処を期待しております。

 この電力ピーク・カット時の冷房の停止ですが、床置きのファン・コイル・ユニットは大学の中央監視室で遠隔操作できるようになっているそうです。設定した電力量の上限値を超えると、中央監視室が各室の冷房設定を送風モードに勝手に変更するのです。ちょっとひどすきませんか、エアコンを上手に使って熱中症から身を守りましょうって国家が先導しているのに、東京都の出先機関ではそれを自らの意思で妨げているのです。そのやり方は反則でっせ!

  学生や教員が倒れる前に早急に対策を改めて欲しいと切に願います。


異常な暑さ (2018年7月18日)

 晴天が続いています。異常ともいえる暑さのなか、日陰のないキャンパスを歩いていると登校するのも命がけじゃないかと思えるくらいつらいですね。日なたでばったり倒れて遭難するんじゃないのかっていう感じです。蝉の鳴き声がその暑さにさらなる苛立ちを加えてきます。今朝は、牧野標本館新館の打ち放しコンクリートの壁に蝉の抜け殻が二つくっついているのを見つけました。もう夏本番真っ盛りに突入したようです。

 学内の電力ピーク・カットは早々に発動されて、研究室内の気温は29度です。たまらなく蒸し暑いので、扇風機を作動させてみました。生ぬるい風が撹拌されるだけですけど、それでも少しは楽に感じます。ちなみにこの扇風機は2011年の東北地方太平洋沖地震の後に電力危機が叫ばれたとき、大学当局が節電のために買い与えてくれたものです。冷房は効かないけど、この扇風機の首を振って涼しげになって下さいよっていうシロモノです、なんだかな〜。暑くてボーッとなって、仕事する気が失せつつあります…。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU771北山研究室_節電の風景20180718:IMG_0169.JPG

 さて大学院の前期の授業が先ほど終了しました。時間内に例題を出して、できなければ宿題として、指名された学生さんが翌週にその解答を白板に書くようにしています。今日はその解答が間違っていたので、他の学生さんにどこが間違っているのか聞いてみました。でも、答えがありません。宿題をやってこなかったのか、それとも本当に分からないのか、迂生には分かりませんが、ホント悲しくなったひとときでした。

 教員が工夫して分かりやすい(と教員が思う)ような授業をいくらやってみても、彼らには通じない…という諦めの気分が心のうちに満ちつつあります。徒労感とでも言うんでしょうか。これじゃお互いに不幸になるばかりのような気がします。教授する内容をもっと減らして、簡単な例題や演習をたくさんやって実力アップを目指すための授業に変えた方が良いのか、考え始めています。しかしそれでは研究することの楽しさに到達することはできませんし、いわんや先端研究に取り組めるはずもありません。


日本の底に流れるもの (2018年7月17日)

 日本には万世一系の天皇がいます。その連綿と続き高貴とされる家系が、この国のかたちを陽に陰に作って来ました。日本の歴史のなかでエポック・メーキングにかかわった天皇が何人かいて、それらをわたくしの独断であげると、よく分かっていない古代を除くと、平安時代末期の後白河法皇、建武の新政の後醍醐天皇、そして明治天皇の三人だと考えます。以下はイメージのためのざっくりとした説明です(事実は複雑怪奇であることを申し添えます、念のため)。

 後白河法皇は天皇と貴族の政治を守るために武士の力を利用しようとしました。すなわち平家と源氏です。最初は平清盛、その後は木曾義仲、そして源頼朝とその時期ごとに最善と思われるパートナーを選びましたが、結果として頼朝が鎌倉幕府を開くことになりました。すなわち武家の台頭とともに、宮廷政治は衰退して行ったのです。

 この鎌倉幕府を倒し、武家中心ではない天皇親政の世の中を復活させたのが後醍醐天皇です。ただ彼の政治はあまりにも急進的で、足利尊氏を棟梁とする武士ばかりでなく当の貴族にすら受け入れられずに、結果として南北朝の分裂を招き、彼の理想の政体はあっけなく瓦解したのです。

 その後、室町幕府、戦国時代そして江戸幕府と武家の世の中が続きました。しかし、江戸時代後期に水戸藩で興った尊王思想が諸外国の来訪と相まって再び天皇親政の時代を切り拓き、その頭に明治天皇を戴きました。これが明治維新の革命です。

 ただし明治天皇は個人の意志でこの革命を成し遂げたわけではなく、その点で前の二人の天皇とは根本的に異なります。後白河法皇と後醍醐天皇とは自分自身のアクションによって好むと好まざるとにかかわらず、この国に大転換をもたらしました。しかし明治維新について言えば、大事だったのは天皇という存在そのもの(いわゆる“国体”)であって、誰が天皇であるかはそれほど重要ではありませんでした。

 現代はこの明治維新による革命の延長線上にありますが、ご承知のように太平洋戦争の敗戦によって新憲法が発布されて、天皇が持っていた大権は否定され、国民の象徴となりました。このように時代の大きな流れの転換点には常に天皇が存在しました。未来の日本においてどのようなことが興るのか、それは過去のように国内だけの論理にとどまらず、ワールド・ワイドが密接にかかわることと思います。そのときに未来の天皇はどのような役割を果たすのでしょうか。それがいつなのか、迂生がそれを見ることができるのかどうか、誰も知りません…。


大学説明会2018 模擬講義おわる (2018年7月15日 その2)

 午後2時スタートの模擬講義が終わりました。激暑にもかかわらず、階段教室が満員でしたから300名近くのギャラリーがいたことになります。本当にありがたいことでございます。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:大学説明会オープンキャンパス20180715:IMG_0158.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:大学説明会オープンキャンパス20180715:IMG_0162.JPG

 さて、『耐震構造・温故知新』というタイトルで明治維新からの耐震構造の歴史をお話ししましたが、案の定時間が全く足りませんでした。大正時代の佐野利器先生の説明のところで残り20分くらいしかなくなり、ここからはだいぶ駆け足で、スライドを端折りながらの説明になってしまったのは、我ながら情けない限りです。

 前述のように体調は悪かったのですが、いざ講義を始めると大学人のさがでしょうか、そりゃもうスラスラと説明が進むのには我ながら感心しましたな(自画自賛)。でも以前に書いたように、好きな内容を好きなように説明できるのは、話していて自分自身もとても楽しかったです。もちろん聞いていらっしゃる方々はどうか分かりませんけど…。そのあたりは皆さんに書いていただいたアンケートの結果を見れば明白になると思います。

 講義の対象は高校生ですが、教室にお集まりいただいた半数近くはそのご両親でした。でも、大学の説明会に親と一緒に参加するというのが、今一歩、腑に落ちないのはわたくしだけでしょうか。遠方のひとはそういうこともあるでしょうが、近場のひとは友人と来るとかの方が(昔だったら)フツーのような気がします。

 ところでこの授業は大学当局によってビデオ撮影していただきました。編集した上で、本学のオープン・コース・ウエア(OCW)として公式ページ上に公開される予定です。自分自身の講義は自分では見られないので、良い機会だと思って撮影&公開を了承した次第です。どんな風なのか、今から楽しみ(あるいは戦々恐々?)だなあ〜。


大学説明会2018(2018年7月15日)

 あ・づ・い、です、以上!って言って終わりたいくらいの不快度です。

 さて、きょうの日曜日は本学の第一回大学説明会です。このお暑いなか、南大沢に向かう京王線はラッシュ・アワー並みに混んでいて、座れませんでした。調布駅で電車に乗ったときは、まさか皆さんが本学に来るわけじゃないよな、と思ったのですが、(途中の多摩センターでちょこっと人が減ったのは確かでしたが)南大沢駅に到着してドワーッと大勢が下車したときには心底驚きました。ええっ、ホントーかってな感じですよ。そこから長蛇の列が正門まで続いていました…。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:大学説明会オープンキャンパス20180715:IMG_0156.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:大学説明会オープンキャンパス20180715:IMG_0157.JPG

 いやあ、この猛暑のなかを来学いただく皆さんには感謝ですね。でも、うちの大学にはクール・ミストのシャワーなんかはありませんし、室内の冷房も(例によって)効きが悪くなったりでもしたら、それこそ熱中症になりかねません。大丈夫かなあ、かなり心配です。そのあたりは大学当局も考えてくれていると信じたいです(もう宗教の領域ですけどね、がははっ)。

 さて、迂生の出番(模擬講義)は午後ですが、よりによってこのタイミングでバイオリズムが底に来てしまったらしく、絶不調です。講義するのは正直つらいですけど、お仕事ですから体力を振り絞って当たろうと思います。


大学の名前 (2018年7月13日)

 猛暑ですね、お見舞い申し上げます。トップ・ページに書きましたが、今週末に開催される大学説明会(オープン・キャンパス)で模擬授業を担当します。高校生やそのご父兄方が対象ですが、例年、階段教室が満員になって入れないひともでるような盛況でして、お出でくださる皆様には感謝します。

 この模擬授業ですが、一昨年はルーキーだった壁谷澤寿一准教授が、昨年はベテランの角田誠教授がそれぞれ担当して、今年は久しぶりに迂生がやることにしました。教室会議で誰も手を挙げなかったので、じゃあやるかっていう感じで引き受けました。ここのところ毎年、母校の都立A高校で授業を行なっていることもあり、高校生相手に話すことは苦ではありませんから。

 その講義の内容ですが、都立A高校で話している内容とは違ったものにすることにして、タイトルを『耐震構造・温故知新』としました。日本における建物の耐震構造の発展の歴史を構造研究者の目から概説しようという、謂わば文理融合の授業です。専門と趣味とを合体させて自分の話したいことを話せるのは嬉しい限りですな。

 でも当然ですがもとネタはありまして、数年前まで教養の授業として担当していた「建築文化論」で使用したスライドが底本となります。当然ながらこのお話しはジョサイア・コンドルから始まりますが、我が社での研究に基づいて彼についての新しいスライドを追加したりしました。ただ模擬授業の時間は一時間ですから、「建築文化論」よりもコンテンツを2/3程度に減らす必要があって、それには苦労しています。

 さて本筋に入ります。わが大学の名前は首都大学東京といいますが、迂生がこの名前には馴染めず、否、名乗りたくないと思っていることはこのページで何度も書きました。これは何もわたくしだけではなくて、在学する学生諸君の多くもそのように思っていることがアンケート調査から明らかになっています(知名度が低い、というのが最大の理由みたいですけど…)。

 ところが昨日、都庁で開かれた都政改革本部会議において小池都知事が、都立の大学であることを周知するためには、首都大学東京の名称を「東京都立大学」に変更するというのも一つの考えとしてある、と発言したそうです。会議は完全にオープンだったそうで、この情報は既にメディア等も知っているのでここに書きました。

 いやあ、やっと石原元都知事の呪縛から解放されるきっかけが現れましたね。その引き金を現職の都知事が引いてくれるとは思いもしませんでした。奇貨おくべし、とはまさにこのことでしょうな。この機を逃すことなく、是非とも大学名を伝統ある「東京都立大学」に戻して欲しいと切に願います。チャンスだあ〜!


高校野球の予選 (2018年7月12日)

 都内では高校野球の予選が進んでいます。南大沢駅は西東京地区予選の野球場への玄関口となっています。昨日の朝、丸坊主で野球道具を持った高校生諸君の一団が駅に集まっていました。揃いのバッグにはNの文字があったので、ああ日大の付属校のどこかだな、と分かりました(新聞を見たら日大Sヶ丘高校でした)。

 彼らの様子を横目で見ながら登校しましたが、運動部の上下の礼儀は厳しいみたいで、下級生とおぼしき生徒さんがほとんど直立になって先輩?にお辞儀しています。で、その先輩は特に挨拶を返すでもなく無言で通り過ぎました。いやあ、すごいなあ、と思いましたね。野球の強豪と言われる学校では、やっぱりそういう“しきたり”がチームを強くするのでしょうか。昨今のスポーツを取り巻く様相(日大アメフト事件など)から推量して大丈夫かなとはチラッと思ったのも事実です。

 さてその高校野球予選ですが、わが母校の都立A高校も昨日、学校の目の前にある神宮第二球場で最初の試合に臨みました。相手は(またまた日大ですけど)日大豊山高校で、言わずと知れた強豪校です。あちゃあ、初戦から悪い相手にぶつかったなあと思いましたが、結果は予想通りの敗退でした。スコアは2−9で7回コールド負けです。でも強豪相手に2点も取ったのだから、立派だとわたくしは思いますよ。いずれにせよ、後輩の諸君にとっては短い夏が終わりました。それはまさに一瞬の夏といった感じで、かなり気の毒に思いました。

 ところで高校の部活(サッカー部)のことを思い出すと、夏の練習では2時間から3時間のあいだ炎天下で練習しましたが、とにかく水を飲んではいけないときつく言われました。また、日陰で休むなんてことも言語道断で、とにかく灼熱のおてんと様にあぶられながら、ひたすら走り回っていたのでした。今だったら明らかに熱中症にかかって問題視されるでしょうが、当時は熱中症という言葉すらありませんでしたから、これがフツーだったんだと思います。でも、熱中症になって倒れるようなことがなかったのは、やっぱり若かったからでしょうか、それとも運が良かっただけ?

 ところが大学に入っていっとき所属したグラウンド・ホッケー部では、いくら水分を補給してもよいし、疲れたら日陰で休んでもよい、と言われました。実際、先輩方はそのようにしています。高校のときとはえらい違いです。また練習の最後には12分間走というのがあって、12分間を自分の好きなペースで走ってよいというのです。そうするともう全力疾走するひともいれば、迂生のようにチンタラ走っているひともいます。さらには坐って休んでいるひとさえいたのです、なんじゃこりゃ?

 あとから聞いたのは、それらの練習法はいずれも東大教育学部の(その当時の)最新の体育理論に基づいているということでしたから、さすが東大はリベラルでエレガントだなあとものすごく感心したことを憶えています。いまはどんな練習法を取り入れているのでしょうか。それに較べると都立A高校の部活は野蛮だったなあ、という感想を抱きます。


暑い2018 (2018年7月11日)

 猛暑が続いていますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。西日本の豪雨によって被災された方々には本当に気の毒なことと思います。心からお見舞い申し上げます。

 さてわが大学では、午前中からすでに消費電力過多のせいで電力カットが実施されています。研究室の温度計を見ると30度になっています。床上に設置されたファン・コイル・ユニットの吹き出し口に手をかざして見ると、なま温かい風が吹いています。こりゃ、たまりません。昨日も我が社の胡文靖くんが「暑くてつらいです。何とかしてください」と言ってきましたが、それはこっちのセリフでして、迂生も同前なんですよ。

 熱中症を防ぐためにはエアコンを上手に使って室温を28度以下にするように喧伝されています。しかし、わが大学ではそれすらできません。なんとかしてくれないと、学生・教職員共々熱中症の被害者が多発するということになりかねません。夏の気候が熱帯化している昨今ですから、そろそろ消費電力量の制限値をアップする等を考えないと、それこそ犠牲者が出てからでは遅いと思います。

 いつも書いていますが、節電にも程度ってモンがあるでしょう。それを人間の健康と天秤にかけるなんて本末転倒も甚だしいじゃないですか。大学中枢部ではどのように考えているのか知りませんが、早急に対応策を打って欲しいと切望します。


発達障害を知る (2018年7月6日 その2)

 昨日、大学の学生支援・対応策研修において、青年・成人の発達障害についての講演がありました。講師は本学・学生相談室の精神医学アドバイザーである野村俊明先生(日本医科大学教授で精神科医)です。昨今の学生諸君の精神的な脆弱さについては常々気になっていましたので、そう言うひとに対応するための何かのヒントが得られればと思って参加しました。

 付言すると、大学ではいろいろなセミナーや講演会を企画してくれますので、自分の専門等とは関わりがなくても出来るだけ参加するようにしています。せっかくの機会ですし、その道の専門家のお話を聞くことで思わぬ刺激を受けたりできます。

 今回も発達障害という症例について、かなり理解を深めることができました。明らかな発達障害(人とうまく交流できない、強いこだわりがあったり変化に極端に弱い、視覚や聴覚などの感覚が過敏、など)は脳機能の障害ということで、子供の育て方とは無関係だそうです。しかし軽度の発達障害というのが21世紀になって注目されるようになりましたが、その障害の程度は連続しているので、正常なのか異常なのかを線引きするのは難しいそうです。

 そういう事例を幾つか紹介して下さいました。例えば、とても優秀なのにアルファベットの綴りだけがどうしても覚えられない、という方がいるそうです。あるいは知的レベルは高いのにミスが多いために仕事ができないという人もいました。普通だったら、なんでそんなにミスばかりするんだと叱責されますよね。でも、それが脳機能に関するなんらかの不具合に起因しているとしたら、それを根絶することは極めて困難でしょう。

 ただ、そういう方が発達障害なのかどうかを見分けるのは専門家でも意見が分かれるそうです。それだけ難しいということですし、発達障害ということが分かったとしても、そのことを周囲に打ち明けることで差別等の不利益を被る可能性もあります。ですから授業等でそういう方を特別扱いすることには注意すべきである、と野村俊明先生は仰っていました、確かにそうでしょうね。

 このご講演を伺っていて、わたくしの身の回りにも、同じことをいくら言っても分からない、できない人がいることに気が付きました。それが本人の不注意ではなくて、このような脳機能の問題にかかわっているとしたら気の毒ですし、そのことを叱責しても良いことは何もない、ということになります。

 いやあ、難しいですね〜。こういうことが分かっただけでも、今回の研修に参加してよかったと思いました。その反面、気を使うことばかりが増えてゆき、こんなんじゃ、こっちの精神が参ってしまうという風にも感じました。なんにつけても社会生活は大変です。でも、それが人間を人間たらしめている根本なんですよね…。


たまには世界を (2018年7月6日)

 梅雨が戻ってきました。数日前のような猛暑ではないので助かりますけど。今日は大阪府立大学との定期戦が開かれるために大学は休講です。

 さてわたくしの研究ライフは南大沢(東京都八王子市)を中心に回っていて、都心に出ることも最近は少なくなりました(自身でそういうお仕事を減らしてきたという経緯があります)。いわんや世界がどうなっているのか、肌で感じることはありません。もちろん新聞は読んでいますので、それなりに把握しているつもりではいます。

 でも、たまには世界のことも考えてみるかと思い立ち、大学図書館で『現代日本の地政学 13のリスクと地経学の時代』(日本再建イニシアティブ著、中公新書、2017年8月)を借りて読んでみました。日本再建イニシアティブというのは、船橋洋一さんや加藤洋一さんという朝日新聞系の方が運営しているシンクタンクだそうです。

 この本では、財政金融、貿易、エネルギー、サイバー(インターネット環境)、気候変動などの多方面の切り口からそれぞれの専門家がオムニバスで執筆しています。しかし結論から言うと、総じて総論のようなものばかりで面白くありませんでした。トランプ政権の不確実性や中国の台頭について、それによる危機が叫ばれていましたが、それらはいずれも新聞やテレビでの報道とそれほど変わりはありませんでした。

 またこの本のタイトルには地政学という用語が、サブタイトルには地経学という用語がそれぞれ使われています。地政学は分かります。その国・地域がどこに位置するかによって状況は全く異なるので、地理的環境を的確に捉えることは必要です。でも、地経学というのは聞き慣れない用語ですな。そこで注意してこの本を読みましたが、そんな新しい用語(造語?)を使う必要はないように思いました。「地経学」という新しい用語を流行らせたいだけじゃないの、というふうに邪推したくらいです。

 さらに言うと、この本では主として2017年始めまでのことが書かれていますが、2018年に入ってK朝鮮にかかわる状況が激変しました。そのため世界の状況もまた相当に変化していると考えます。すなわち、こういった時事物はそれが出版されたらすぐに読まないと、情報の旬の時期はあっという間に過ぎてしまうと言うことでしょう。ジャンルによっては本の賞味期限があるということですな。


正直の程度 (2018年7月5日)

 正直は美徳とされます。なんでも正直に言えば情状が酌量されたり、極端な場合では賛美されすらします。いまの世の中ではなんにつけ透明性が求められるようになりました。そこで、ことが露見して世間から叩かれる前に(些細なことであっても)正直に発表してしまおう、という傾向を強く感じます。

 でも、そういう風潮が極端になってくると、そんなになんでもかんでも正直に言わないといけないものかと、迂生などは(ひねくれ者だからでしょうか…)逆に首をひねったりするわけです。誰にも迷惑をかけず、不利益を蒙ったひともいないような案件の場合、そのことについてひと様に話して了解を得る必要は特にはない、と思うのですが、どうでしょうか。

 例えば、道を歩いていて犬のフンを踏んづけてしまったとしましょう。そのことによって公共の道路を汚してしまったので、ごめんなさい、なんて謝ったりしますか。文句こそ言え、謝ったりはしないですよね。

 ある会議でこのような案件(もちろん「フン」ではありませんよ、念のため)が審議されたのですが、そこまで世間さまに対して気を使う必要があるのか、疑問に思いました。そういう時代になったことはしっかりと認識するべきですが、モノには程度ってもんがやっぱりあると思いますけどね。


七月のこえ (2018年7月3日)

 七月になりましたが、すでに夏全開の様相を呈しています。お昼前から電力のピーク・カットが発動されてエアコンが効かなくなり、とにかく暑いです。これじゃ研究室で仕事できません。何言ってるんだ、昔はエアコンなんかなくてもやってただろ、って言う人がいるかも知れません。それはそうなのですが、我が大学の校舎は窓には網戸がありません(エアコンをつけることを前提に設計されている、ということな)ので、窓を開けるわけにはいきませんし、そもそも窓がチョコっとしか開きません。

 これじゃ仕事にならないよ〜、って思っていたら学長発給の文書が回ってきて、それには「引き続き積極的に省エネに取り組め」と書いてありました。でもいつも書いていますが、省エネと自分の健康とを天秤にかけるようなことは絶対にできませんよ。モノには程度ってもんがありますから、あまりの猛暑の時くらいなんとかして欲しいと切に願います。

 さてW杯サッカー・ロシア大会で決勝トーナメントに進んだ日本ですが、残念ながらベルギーに敗れました。朝起きたら、負けてました。でもスコアを聞くと2−3だったというから善戦したようですね。わたくしの予想は1−4で完敗というものだったので、望外の結果を挙げたんじゃないでしょうか。前の試合と打って変わって?敢闘した選手の皆さんには拍手を送りたいと思います。

 ところで今朝のイヌHKの朝ドラ「半分、青い。」で、お爺ちゃん役の中村雅俊が「あの素晴らしい愛をもう一度」をギター弾き語りで歌っていました。この歌は加藤和彦(故人)と北山修の名曲ですが、中村雅俊の唄もなかなか良かったです。まさか朝にこの歌を聴くとは思いませんでした。

 中村雅俊は別にファンでもなんでもないのですが、子供の頃に見た『俺たちの勲章』という刑事ドラマ(確か30分モノ)に松田優作の相方として出ていました。その中で吉田拓郎の「いつか街で会ったなら」を彼が歌っていて、その曲はとても好きでしたね。

  何気ない毎日が
  風のように過ぎてゆく
  この街で君と出会い…(「いつか街で会ったなら」より)


今年も半分 (2018年6月29日)

 六月がもう終わります。今年ももう半分が過ぎようとしていますが、お前は何をして来たのかと吹き来る風に問われると(中原中也流です、あははっ)、ハタと考え込んでしまうところが我ながら情けない次第でございます…。

 ここ数日、八王子は猛暑が続いております。昨日は午後に来客があったのですが、電力ピーク・カットのせいでクーラーが効かないことの言い訳から始めないといけなくて、こちらもいと情けなしといった風情です。エアコンくらいフツーに使えるようにして欲しいですよ、全く…。

 W杯サッカーの予選最終戦のポーランド戦ですが、今までで一番詰まらないゲームだと迂生は思いました。せっかく寝ないで見たのに、時間を無駄にしたというのが第一印象です。長谷部選手が「これもサッカーだ」って言っていましたが(当事者にとってはその通りでしょうが)、闘魂のないスポーツ競技ほど面白味のないものはないでしょう。こんなゲームを見せられた観客諸氏はホント気の毒だったと思いますよ。90分間全力を出し切って、それでもダメだったらそれでいいじゃないですか(って、世間様?は思わないのでしょうか)。

 新年度がスタートして三ヶ月が経ちましたが、我が社の研究活動はまだスタート・ラインあたりでモタモタしているのが実情です(スタート・ラインにすら立っていないひともいるようですけど…)。学生諸君にはそろそろアクセルを踏んで欲しいとは思っていますが、こればかりはどうしようもありません。

追伸: 関東甲信地方はきょう、梅雨が明けたそうです、もう驚きですな。でも、これが異常な夏の幕開けなんてことにならなければ良いのですが…。暑さにご注意ください。


軋 轢 大学入試改革から (2018年6月28日)

 大学入試の改革によって、英語試験は読む・書く・聞く・話すの四つの力を外部試験によって判断することになりそうです。大学に入学したあとに(いわゆる教養としての)英語の授業がありますが、これも外部の英会話学校などにアウト・ソーシングすることが増えると予測されます(実際、わが大学では既に某英会話学校から講師が派遣されているようです)。

 このように英語という学科目にかかわる様々な業務が外部へ委託されることが増えるとすると、どういうことが起こるでしょうか。大学における英語教員の人数は今までほど要らない、ということは誰でも気が付きますな。大学における教員の配置は、どのような科目のどれくらいの内容をどれだけの学生に教えるかという大学の大方針に基づいて決めるのが原則です。そういう精緻な検討を積み上げて行き、各学科の教員定数が決まります。それゆえ、それを覆して教員数を増やすことは相当程度に困難であると迂生は認識しています。

 しかし上記のように、こと英語に関しては、大きな流れは明らかに教員数を減らす方向に向かっています。資源の選択と集中が声高に叫ばれる世情ですから、この問題は多くの大学において早晩、顕在化すると思われます。しかし今のところそのことを指摘したり、英語教員からこのことを危惧する声などは聞こえて来ませんね。

 まあわたくしは部外者ですから他人さまのことは預かり知らないわけですけど、大学全体の運営にも関わることですので、そんなの全く関係ないよとは言えません。実際、わが建築学科はこの度の学科再編において教員定数を削減されるというかなりの出血を強いられましたからね。今後、いろいろなところで軋轢が生じるのではないかと密かに案じているのですが、どうなるでしょうか…。


今期最初の… (2018年6月27日)

 梅雨の中休み?がしばらく続いています。日なたを歩くと刺すような陽光にクラクラと来てそれなりに暑いですが、今日は風が強くて日陰では凌ぎやすく感じます。

 こんな感じでそれほどの暑さではないと思ったのですが、わが大学では今期最初の節電注意報が発令されました。大学で契約した最大電力量を超えそうになるとその旨の館内放送が流れて、いっそうの節電を促されます。各人がそれへの対応を怠って消費電力量が設定値を超えてしまうと、その結果としてピークカットが行われます。すなわちエアコンが効かなくなるということになります。ああ、もうそんな季節になったのかと思います。

 お昼ご飯を食べたあと、図書館に行って本を借りて来ました。エントランスを入ったすぐのところに新刊本のコーナーがあって、興味のある本があればすぐにそれをゲットします。その間、わずかに数分ですから、こんなに効率の良い本選びはないでしょうな。きょうは『式子内親王』(奥野陽子著、ミネルヴァ書房)というのがあったので借りてみました。式子内親王は新古今和歌集で有名な女性歌人です(内親王ってあるので女性だということはすぐに分かるでしょうけど)。

 以前に何度か書いたように高校生のときに詩人の立原道造に傾倒したのですが、その影響で古今和歌集とか新古今和歌集も読むようになりました。立原道造のお気に入りが式子内親王だったことは海馬に焼き付いていました。まあ、この本が面白いか否かはちょっと読めば分かるでしょう。つまらなければ速攻で返却するだけですから、本を借りるってホント便利ですね〜。

 しかし、このような恵まれた生活も定年退職すれば失われます。そうすると地域の図書館などに通うことになりますが、今ほどの利便はありませんし、本の品揃えもどうだか分かりません。やっぱり大学生活ってやめられません…。ただ、楠木新さんの著作を読むと、定年退職後の老人たちは朝から図書館に集まっている、という記述がありました。どこにも行くところがなくて、日がな一日中、図書館で暮らしている人もいるそうです。たまに図書館に行くくらいなら良いでしょうけど、図書館暮らしにならないように定年後の準備をしないといけません。


四十年 サザンオールスターズ小話(2018年6月25日)

 きょうは真夏を思わせる暑い一日でしたね。梅雨はもう終わったの?っていう感じでしたが、どうなんでしょうか。W杯サッカーのセネガル戦ですが、真夜中だったので寝ていましたが、朝起きると2-2で引き分けて世間はまたもや大盛り上がりになっていました。選手の皆さんの努力には頭が下がります、良かったですね。

 ここにきて日本人の国民性でしょうが、二ヶ月前に監督になったばかりのひとへの賛辞が急に賑やかになってきました。でも前任監督が四年近くも準備してきたのに、二ヶ月前に突然監督になったひとの貢献度ってどれくらいなのでしょうか。監督を変えれば成績が上がるなんて簡単なはずがないとは素人でも分かりますよ…。その辺りは冷静に判断して、前任監督の果たした役割も正当に評価すべきであると迂生は考えますがどうでしょうか。

 さて新聞の見開き二面を使って、デカデカとサザンオールスターズの広告が載っていました。デビューしてから四十年ということです、いやあ、すごいですね〜。山下達郎とか松任谷由実などと並んで常にヒットを飛ばし、話題のなかにとどまって来たのはご立派なことだと思いますね、やっぱり。

 彼らのデビュー曲は「勝手にシンドバッド」でしょうが、当時はピンク・レディーの「渚のシンドバッド」が流行っていたこともあり、こりゃ一発屋のコミック・バンドやな、と思ったものです。すぐに消えて行くだろうって…。曲だってスピード感こそありましたが、桑田ががなりたてているだけで、メロディーも何もあったもんじゃないというのが当時の感想です。とはいえ、その歌詞は今でも口ずさめるくらいに憶えているんですが、あははっ。

 それがいっぱしのメロディ・メーカーみたいになってきたのは「いとしのエリー」くらいからでしょうか。高校のときの文化祭のあとの後夜祭で、確か山谷たちのバンドがこの曲をグラウンドで演奏して、ものすごく盛り上がったことが鮮やかに蘇って来ます。まさに青春の時代を彩った一曲に数えられる名曲になりました。

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サザンオールスターズのその名も『Southern All Stars』というアルバム(1990)

 そんなサザンですが、手元にあるオリジナル・アルバム(CD)は1990年以降の四枚だけでして、あとは『バラッド』とか『海のYeah!』などのベスト盤です。ですから、彼らの曲は何でも知っているなんてことは金輪際ありません。あ、でも、原坊(原由子)のソロ名義の二枚組アルバム『MOTHER』(1991年)は持っていて、今でも愛聴しています。

 こんな具合で迂生はサザンの単なる気まぐれリスナーに過ぎませんが、彼らの曲のなかで一番好きなのは今も昔も変わることなく「C調言葉に御用心」です。これは断言できます! 桑田の歌にはかなりきわどい歌詞が多いのですが、この唄もその例にもれずよく聞くとちょっとエッチです…。まあ底抜けに陽気でC調なおちゃらけ男の歌なので、聞き流していただけると思いますけど、がははっ。しかし六十を過ぎてもこんな歌を歌っていられるサザンって、やっぱりただモンじゃないと思いま〜す。

 あ〜ちょいとッ、C調言葉にだまされ
 泣いた女の涙も知れずに
 いっそこのまま不埒な心で
 いるなら胸が痛むね〜……ハイ!


夏至のころ 定年後と沖縄戦 (2018年6月22日)

 きのうは夏至でした。午後七時半くらいでもまだ日が残っていて、ずいぶんと一日が長く感じられます。一日を有効に使う方策としてサマー・タイムがありますが、日本ではあまり議論されないようです。朝早く出勤して午後は早めに仕事を切り上げられれば、その後の時間を自由に使える、という考え方です。とは言え、わたくし自身最近は早起きできないので、こんなことを言う資格はないですな、あははっ。

 さて「定年後問題」のその後ですが、溺れるものは…というまさに典型なんですが、いまは『定年準備 —人生後半戦の助走と実践』(楠木新著、中公新書)を読んでいます。まあ前著の『定年後』を読んで、何かを読んだだけで問題が解決することはない、という当たり前のことは認識したのですが、それでも読書することでヒントを得られるのではないか、という一縷の望みは抱いていたいとも思うわけです。

 子どもの頃の夢が重要、というのはこの本でも再度述べられていたので、それなりに大切なのでしょうね。わたくしが小学生の頃になりたいと思っていたものとして、漫画家、小説家そして政治家がありました。漫画はかなり凝っていて、ヘタクソな四コマ漫画などが今も残っています。でも小説家や政治家にはなぜなりたかったのか、今ではさっぱり分かりません。こんな感じでは望み薄ですな。

 では、研究以外のやってみたいことを考えてみようと思いました。野菜や果物の栽培、日本酒やビールなどの酒造り、古文書解読、寺社巡礼、仏像鑑賞、誹諧、文化財修復、写真撮影、石碑や道標の探訪、古道や廃道の探索や調査、お城巡り、プラモデル作り、コーヒーや日本茶の美味しい飲み方探求…。う〜ん、あまりパッとしませんねえ。どれも趣味の域を出ないとすれば、別に定年後を待つこともなく、今からでもやればいいんですよ。でもそうしない、ということは、それほどやりたいことでもない、ってことでしょうから困りましたな。

 ところで明日は、先の戦争において旧日本軍による沖縄での組織戦が終結した日と言われています。その戦争で沖縄の人びとが体験した惨状は決して忘れてはなりません。沖縄は未だにアメリカ(在日米軍)に実質的に占領された状態にあることや、沖縄の大地には今も人知れず多くの遺骨が眠っていることなど、本土とは明らかに異なる状況が厳然として続いています。

 このようなことを指摘するのは、沖縄と本土との違いを強調したいわけではなく、歴史的事実に基づく現状を正しく認識し、その状態をどうすれば解決できるのか常に考え続けるべきであると思うからです。しかしそのためには、アメリカとの関係を根本的に見直すことが大前提として必要であることは、折に触れて書いている通りです。


雨降りとワールドカップ・サッカー (2018年6月20日)

 かなり強い雨が降っています。梅雨だからまあ当然か…。今朝もまた京王線が遅れています。なんでこうもしょっちゅうダイヤが乱れるのか、京王線だけの個別の問題なのか、それとも日本の社会現象として分析すべき問題なのか、どうなのでしょうか。

 本学の大型構造物実験棟の雨漏りですが、五月末に事務方が調査をしてくださって、建物頂部の雨樋が落葉で詰まって排水できなくなっていたことが原因と分かりました。岸田慎司先生が確か同様の予想をしていたので、その通りだったことになります。なんだ、そんなことが原因で実験棟内が水浸しになったのか。でも、実験棟の屋根にはそう簡単に上がれるわけでもなく、上がったとしてもとても危険ですから、簡単に掃除できるような代物ではありません。その点は困りますなあ。

 さて、ワールドカップ・サッカーですが、日本が勝つとは正直、思いませんでした。日本—コロンビア戦はロシアの聞いたこともない都市で開催されました。でもそれが幸いしたのか日本の応援団は目立たず、日本でのサッカー観戦でうるさい鳴り物や雄叫びが全く聞こえなくてよかったと迂生は思ったくらいですが、いかがでしょうか。

 相手のコロンビアとは四年前の一次予選でも対戦したことを、四年前のこのサイトを見返して気が付きました。そのときは完敗だったようですが、今回はひと泡吹かせたことになり、選手の皆さんにはご同慶の至りでございます。最初のPKのシーンでは、コロンビアの選手がハンドをとられて一発退場になったのですが、ボールが当たったのは肩と二の腕とのあいだくらいのところで、少なくともわたくしには故意にハンドしたようには見えませんでした。ですからコロンビアにとっては不運だったように思います。

 でも、そういうことを全て含めての勝負ですから、いくら相手が十人になったと言っても勝ちは勝ちです。よかったんじゃないでしょうか。ところで二ヶ月前の監督の交代はこの勝利にどのくらい貢献したのでしょうか。素人には分かりませんが、そのあたりはしっかりと分析して、今後の体制づくりに活かして欲しいと思います。


必ず来る (2018年6月18日)

 大阪北部で震度6弱(マグニチュード6.1)の地震がありました。被害を受けたり、不便を強いられている関西の皆さまには心からお見舞いを申し上げます。

 活断層が動いたらしく、マグニチュードはそれほど大きくはなかったものの震源の深さが10km程度と浅かったことから、地上での揺れが大きかったようです。地震動の波形を境有紀さんのサイトで拝見しましたが、主要動の継続時間は15秒くらいと短めでした。

 この地震は1995年の兵庫県南部地震の余震である、という識者もいるようです。既に二十年以上経っているので人間はそのことに驚きます。そもそも現在の大学生の大多数は兵庫県南部地震を知らない世代なんですからね。でも、自然界のスケールでは二十年なんてほんの一瞬に過ぎませんから、よくあることなんだろうなと思います。

 建物の被害はこれから報告されるでしょうが、1981年以降の新耐震設計法によって設計された建物の被害は多分ほとんどないだろうと考えます。しかし今回もまたブロック塀の転倒によって犠牲者が出てしまったことは本当に気の毒です。適切に設計されていないブロック塀の危険性はずっと前から指摘されていますし、地震のたびにその被害例が報告されてきました。たまたま通りかかった脇にブロック塀があったとしても、それが崩れるとは普通は考えませんから、地震の際の転倒・崩落に対してとっさの対応ができるひとは稀だと思います。それを思うとき、ブロック塀の持ち主や管理者の責任は重いと言わざるを得ません。

 大阪のひとのなかには兵庫県南部地震のときよりも揺れた、という方もいるようです。関東に住む我々にとってもひと事ではありません。関東大地震は必ずやって来ます。そのときに備えて身の回り等の出来る限りの対策はとっていますが、上記のように道を歩いているだけで被害を蒙ることもあるわけですから、出先での安全性の確保はかなり困難だと思います。そうするとそのときには天のみぞ知る、という運頼みの状況に陥りそうで怖いです…。

 建築学会関東支部の地震被害調査連絡会の活動も、ここ七、八年は停滞しているようです。いつ来るか分からない大地震に対処することの重要性を改めて認識しているところです。

 ところで1968年5月16日の十勝沖地震から今年でちょうど五十年なんですね〜(不覚にも忘れていました)。鉄筋コンクリート(RC)構造の世界では、柱のせん断破壊による建物の倒壊が世間を震撼させたことによって、この地震は特筆されます。これを契機としてRC柱のせん断破壊を防止するための研究が組織的に為され、その成果が1980年の建築基準法の改正(いわゆる新耐震設計法)につながったのでした。


飛んで見送る (2018年6月15日)

 梅雨空が続いています。そのせいで気分もどんよりとしますが、ちょっと涼しいのは体にとっては助かります。サッカーのワールド・カップがロシアで開幕したそうですが、全く興味がないので多分見ないと思います。本番直前に監督を交代させるなんて、素人の迂生からしたら考えられません。そんなことをした段階でもう見込みなし、というふうに感じたのはわたくしだけでしょうか?

 さて今朝登校するときに野川で久しぶりにカワセミを見かけました。上流の方から独特の啼き声が聞こえたかと思うと、目の前の石にちょこんととまりました。カワセミは川に泳ぐ小魚等を捕食するため、ちょっとした(彼らにとってはいい具合の)木の枝にとまることが多いのですが、今朝はそうではなく川の中の石の上でした。それが左下の写真です。上流の方を見ていました(その理由はあとで分かります)。コンパクト・デジカメで目一杯ズームして撮ったので、粒子が粗いのはご容赦を。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:野川のカワセミ20180615:IMG_0153.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:野川のカワセミ20180615:IMG_0154.JPG

 するとすぐにまた上流から別の啼き声が近づいてきました。カワセミは縄張りを持ちますので、同じエリアに二羽の個体がいるということはペアリングということになります。すると目の前にいたカワセミ嬢(?)はすーっと下流に飛んで行ってしまったのです。そして後から来たカワセミ君(?)が同じ石の上に止まって、そのつれない仕打ちを恨めしげに、彼女が飛んで行った方を見ているのが右上の写真です。

 人間の世でも惚れた腫れたは大変ですが、カワセミの世界にとってもそれはどうやら同じようですな。そのあとすぐに飛び立って彼女を追いかけて行ったカワセミ君にエールを送って見送りました、頑張れよってね。


六月も半ば (2018年6月14日)

 六月も半ばになりました。梅雨入りしてからいっとき大雨が降りましたが、今のところは曇天続きです。雨がダバダバ降るのも困りますが、ある程度は天のお恵みをいただかないと農作物や水の確保には必要です。

 さて、壁谷澤寿一さんと授業科目を交換する話しですが、少し本気になって『建築構造力学3』の内容を考え始めました。先日、寿一さんが彼の作った講義用パワーポイント・ファイルを見せてくれたからです。そこで興味津々、拝見しましたが、わたくしが十数年前に講義していた内容よりも四割増しくらいのコンテンツ量で、なおかつ難しい内容(と迂生が思うモノ)がテンコ盛りでした。いやあ、こりゃ大変じゃないでしょうかね、学生さんも先生も…。学生諸君のリアクションや出来具合について、一度、寿一さんからヒアリングしないといけないなあって思ったくらいです。

 不静定構造の応力と変形を求められるようにすることが『建築構造力学3』のミッションですが、そのためには一年生で学んだ静定構造の力学および材料力学を理解していることが前提です。でも彼らは、一年も前に教わったことは大抵は忘れ果てているんですよね〜。そこで『建築構造力学3』の最初の二回か三回はこれらの復習に当てます。

 ということで、材料力学のなかの梁の基本式(M=EIφ)やモールの定理(梁のたわみやたわみ角を簡易に求める方法)を復習します。これらは本学では『建築構造力学2』の教授内容です。ところで迂生がこの『建築構造力学2』を担当していたのは2000年まででして、その後は藤田香織さん(現・東京大学)に引き継ぎ、そのあとは高木次郎准教授が担当しています。そこで『建築構造力学2』の当時の講義ノートを久しぶりに開いて見ました。ところが演習問題などが見当たりません。おかしいなあ、演習問題をたくさん作った記憶があるのになあ、とひとしきり資料を探しましたが、見当たりません。

 ここではたと気が付きました。そうだ、宇都宮大学助手の時代に入江康隆先生(当時、構造研助教授)のご指示によって演習問題をたくさん作った(作らされた?)のです。そのファイルが三冊ほど、普段は開かない引き出しの中に蔵されていました。いやあ、過去の自分に感謝です。でもそれを見ると、かなり難しい内容の問題が多発していました。今の学生さんだったらとても解けないだろうなあ、という内容です。これじゃ、モールの定理の演習問題は作り直さなくちゃいけないな、と思った次第です、がっかり…。

 さて、授業科目を交換すると、時間割りも見直す必要があります。現在は、寿一さんの『建築構造力学3』が火曜日3限で、わたくしの『建築構造力学1』が火曜日4限です。このままだと二コマ連続の授業になってしまって、迂生にはとてもできそうにありません(軟弱かつ虚弱ですから、あははっ)。そこで建築学科の時間割りをツラツラ眺めると、空いている時間帯はほとんどありません。

 かろうじて空き時間を見つけたのですが、そこは『建築設計製図1』の授業の前のコマでした。そのときちょうどタイミングよろしく、それを担当している角田誠教授がふら〜っとわたくしの部屋に入って来たのです、飛んで火に入る何とやら…(失礼ですね)。角田さんは全学の教務委員会の委員長をお勤めでして(ご苦労様でございます)、その愚痴をひとしきり伺ってから、『建築設計製図1』の前に授業を移そうと思うんだけどどう思う?って質問してみました。

 すると、『建築設計製図1』の授業の直前が課題の提出締め切りなので、前の授業の先生にはご迷惑をお掛けするだろう、って公然と言うんですよ。つまり、課題の締め切りに追われた学生諸君が『建築構造力学3』に出てこないとか、出席したとしても疲れ切って寝ているだろう、ってことです。うーん、どうしましょうか、せっかく講義するのだから、ちゃんと聞いて欲しいですよね。

 ということで、『建築構造力学3』の授業をどのコマに移すのか検討中です。具体の折衝は10月以降になってから始まりますので、それまで熟慮したいと思います。授業のスタイルはやっぱり板書にして、必要に応じてプリントを配布します。教える内容を減らして、演習の時間を20分はとるようにするつもりです。学生さんには大いに手を動かしてもらって、頭を使って欲しいですからね。それから以下は副次的な理由ですが、板書は健康に良いってことです。白板の前を行ったり来たりしながら腕を動かすと大きな声を出し易いですし、歩数を計ると二千歩くらいは歩きます。学生さんは手と頭脳とを動かすので寝られない、こちらは健康に良い、って一石二鳥とはこのことか、ガハハッ。


説得するには… (2018年6月12日)

 勉強したくない子どもにどのようにして勉強させるのか。これは子どもを持つ親にとっては永遠の課題のように思います。親としては、将来、大人になったときに困らないようにある程度の学力(あるいは学歴)と生きる力とを養って欲しいと思って、子どもに勉強するように諭します。しかしそんなことは、まだそのような状況(すなわち大人になって社会に出て、自分で稼いで暮らさなければならない状況)に至っていない子どもに分かるはずがありません。

 では、どうすればよいか。我が家のオトーサン(すなわち、わたくしのことです、えへへっ)は比較的自由に楽しく仕事しているように見えるので、「オトーサンのような生活をおくりたければ勉強しないといけないよ」とか言ってみるのですが、全く効き目はありません。

 わたくしが小学生の頃、遊んでばかりいたときに親父から激しく叱責されたことを憶えています。そのときは「勉強をしないでどうするのか、○○にでもなるつもりか!」(○○のところは多分、蔑称でしょうからここには書けません)と、もの凄い剣幕で怒られました。その○○という言葉が何なのか、そのときは分かりませんでしたが、その語感がとても恐ろしげに聞こえて、何だか知らないけどこりゃまずいと思ったものです。

 そこで、因果はめぐる糸車、をここでも繰り返すことにいたしました、同じセリフをうちの子どもにも言ってみたのです。でも案の定、○○の意味が分からなかったみたいで、ま〜ったく効き目なしでした、まあ、仕方ないか…。

 わたくし自身は勉強は自分自身のためにするものであって、本人がその気にならない限りいくら周囲が勉強しろと言っても無駄である、というのが持論です。でも、そんな態度を家庭内でとれば女房殿から「なんて冷たい父親なの!」って言って非難されるのがオチです。そこで、将来いい生活をしたいなら今、勉強しないと間に合わないぞ、みたいなことも言ってみました。でも上述のように子どもに将来のことを想像させようとしても、それはどだい無理な話しですよね(分かっちゃいるけど、やめられない)。

 ということで、本人がやる気を出すまで、あるいは自覚を持って勉強するようになるまで待つしかない、と心の奥底では思っている今日この頃です(とはいえ、今も家内がガミガミと子どもに怒鳴っていますけど…)。それをいつ頃まで待てばよいのか、難しい対応を迫られそうです(と、新聞調に結んでみました、あははっ)。


授業を交換する (2018年6月8日)

 梅雨入りしたばかりというのに、今日は日差しの強い晴天です。またもや暑くなりそうな感じですな。教室棟の中庭にあるビワの木を見ると、鈴なりのビワの実が黄色く色づき始めました。シャラノキの白い花は既にたくさん散っています。

 さて、このタイトルを見るとなんじゃこりゃ?って思うでしょうが、授業科目を交換することにしたというお話しです。迂生が担当する『鉄筋コンクリート構造』(三年前期)を壁谷澤寿一准教授の『建築構造力学3』(二年前期)と交換することにしました。これには伏線がありまして、十年以上前に芳村学先生(現・名誉教授)が担当していた『鉄筋コンクリート構造』とわたくしの担当だった『建築構造力学3』とを交換したという前歴があったのです。

 これは芳村先生と同じく鉄筋コンクリート構造を専門とする迂生への、芳村先生のご配慮であったのだろうと思っています。ということで、受けたご恩は後輩に返すべしという世のならいに従うことにいたしました。

 ただ、同門のふたりが勝手にやっていると思われても困りますので、構造系のほかの先生方にも担当科目の変更の希望があるかどうか確認いたしました。わが建築学科には構造力学の授業科目は1から4までの四つあって、構造系の教員であれば基本的に誰でも担当できます。問い合わせたところ変更のご要望はありませんでしたので、上述のような仕儀となりました。

 という訳で、来年度から十数年振りに『建築構造力学3』の担当に復帰します。これは不静定構造物の応力や変形を扱う古典力学で、静定構造に較べればやっぱり複雑で難しいでしょうね。かつてわたくしがこの授業をやっていたときには、(例によって)全て板書で説明していました。ところが、先日、寿一さんの授業を見に行ったところ、全てパワーポイントで説明していたのです。どうしようかなあ、という感じですが、今のところはやっぱり板書、ときどきプリント、でやるのかなあって思っています。

 授業のスタイルはこれから考えます。教える内容についてはわたくしのかつてのカリキュラムと現在の寿一さんのそれとを比較して取捨選択しようと思いますが、多分、教授する項目は減らさないといけないだろうなあ。授業内に演習をどの程度取り入れるかも思案しないといけません。現在担当している『建築構造力学1』(静定構造)では、説明1時間で残り30分を演習としています。そのスタイルが望ましいのですが、仮想仕事の原理、不静定一般解法、たわみ角法などの説明は時間がかかりますので、演習の時間をそれほど潤沢にとれるとは思いませんし、実際、かつての経験からは難しそうです。このことからもやっぱり教授項目の精査は必須でしょうね。

 あるいは、いっそのこと授業スタイルを全く変えてしまうという手もあります。反転授業です。すなわち、予め勉強すべき内容を指示して個別に事前学習してもらい、授業では彼らの疑問点に答えたり、演習問題を解いたりディスカッションしたりというやり方です。う〜ん、どうでしょうか。この方法って、教員・学生の双方にとって負担が大きいような気がしますね。いきなり反転授業にしたら、相当な困惑と反感とを抱かれるかも知れないし,,,。アクティブ・ラーニングですら、やる事が多くてイヤだという学生さんが多いそうですから。

 こんな風にあれこれ夢想しているときが一番楽しいのですが、いずれは決めて準備に取りかからないといけません。そのうち寿一さんにも相談してみます。


梅雨と体調 (2018年6月6日)

 きょうは終日、そぼ降る雨といった感じの蒸し暑い一日でした。予想通り、梅雨入りです。例年、この季節になると原因不明の体調の悪さが出来して、それが夏まで続きます。今年はここまで比較的快調に来ましたので、そんなことはすっかり忘却しておりました。しかし今朝目が覚めると、ものすごく具合が悪くなっていたのです。ありゃ〜、今年もやっぱりこれが来たかあ、っていう感じです。お腹が痛くて朝食は抜きにしました。

 ああ、もう休みたいと思ったのですが午前中は講義がありますし、こんな日に限って学生諸君との研究打ち合わせがすし詰めになっていたので、それもままならず、やむを得ず体を引きずるようにして登校しました。幸い授業をしているときには少し楽になりましたが、その後も帰るわけには行かず、つらい一日でした。

 このような体調の悪さが毎年、等し並みにやってくるということは、やっぱり気候が影響しているのでしょうか。いつ頃からこんな感じになったのか記憶は定かではありませんが、二十一世紀になってからのような気がしますので、四十歳を過ぎてからの現象、ということかなあ。

 医学がいくら進歩しても、個々の人間の個別具体の事象まで解決することはできないみたいで、医者に診てもらっても首を傾げられるか、どこも悪くないですね、と言われるのが関の山でした。ですから最近は病院には行きません。ただ我慢して、この具合の悪さが過ぎ去るのを待つだけです。まあ、人生ってそういうものと思えば、我慢もできる気がしますけどね,,,。自分自身の体と折り合いを付けて、精神を正常に保つように努力する、ということでしょうか。


2019年度プロジェクト研究コースの紹介 (2018年6月5日)

 本学・建築学域の博士前期課程入試の説明会が開かれました。学内外から約70名の方にご参加いただきました。そのあと時間をおいて、プロジェクト研究(第16番目)の説明会も開きました。

 大学院のプロジェクト研究コースは本学独特のコースで、いろいろな分野の教員が複数集まって、設定したプロジェクトを対象に研究・設計に取り組む、というものです。今まで幾つかのプロジェクトに参加した経験から、自分で言うのも何ですが、とても面白くて魅力のあるコースです。建築を作ることの醍醐味を味わうことができますから。

 今日の説明会には八名の方がお出でになりました。今回は建築家の小林克弘先生に加わっていただきましたので、多くのひとが集まったのかも知れません,,,。皆さん、意匠や計画の設計に興味を持っているようでしたが、耐震補強などの構造面にも目を向けてくれると嬉しいですね。今回のプロジェクト研究の概要を搭載しましたので、興味のある方はどうぞご覧ください(こちらです)。


定年後 承前(三) (2018年6月4日)

 六月の入りの今週末は気持ちのよい晴天でしたが、もう直ぐ鬱陶しい梅雨になるんでしょうなあ。それを思うと憂鬱な気分になります。

 さて、『定年後』(楠木新著、中公新書)を読み終わりました。後半にはどれだけ有益な方法論が述べられているのだろうかと興味津々で読み進みましたが、結局は各人が自分で考えて定年後の人生を切り拓くしかない、という当たり前のことを再認識しただけでした、がっかり…。でも、それも当然でしょうね、人間の生き方がそんな本一冊で(って、失礼!)分かったりしたら、哲学は無用ということになりますから。

 定年後の生き方の事例がたくさん書いてありましたが、そういった個別解を幾ら紹介されても、ほう〜とか、なるほど、とか思うだけで、自分自身にどう関係するのか、あまり想像できませんでした。サラリーマンのなかには大学教員に転職したひともいて、やっぱり大学教員ってそれなりに魅力的な職業と見られていることが逆に分かったりもしました。迂生がいかに恵まれているか、という認識を新たにしたくらいです。

 ただ本書のなかで、子ども時代に興味を持っていたことを発掘して、それに取り組むのもよいだろう、それは有力な選択肢である、と書かれていたことにはハッとしましたね。小中学生の頃には、ゲルマニウム・ラジオから始めてトランジスタ・ラジオや各種電気器機の製作に熱中しました。山手線に乗って秋葉原の電気街に出かけて、抵抗、コンデンサ、ヴァリコンなどの部品を買ってきて基盤にハンダ付けして作るのです。それがうまく動作したときの喜びとか驚きは、子ども心に新鮮なものだっただろうと思います。

 でも当時はお小遣いがなかったので、そうした一つ一つの部品が(子どもにとっては)高価で大したものは作れませんでした。『ラジオの製作』という月刊誌の回路図を眺めては、こんなものを作れたらいいのになあ、とか思っていたのでした。海外放送を聴取してヴェリカードを集めるBCL(Broad-Cast Listening)も、今だったら高価な短波受信機(って、今でも売っているのだろうか)を購入して、いくらでも夜更かしして楽しめるかも知れません。

 う〜ん、どうでしょうか。例えば高価な真空管アンプなんかを作って音楽を楽しむ、というのは確かに良さそうです。子ども時代と違ってお金はそれなりに使えますから。しかし、長い定年後の生活をそれだけで持続できるとは思えません。なによりも電気の工作は、細かいものを見ながら神経を磨り減らす作業の連続です。根気の続かない老人にどれだけできるのか、我ながら疑問に思いますな。健康によいとは到底思えませんよね…。

 ということで、このような取り組みを幾つか揃えることが必要みたいです。そのなかには体を動かして、基礎体力を温存できるような運動を取り入れることが必須でしょう。ひと頃、自転車がよいのではないかと思ったことがありました。しかし自転車では消費できるカロリーがそれほど多くなく、何よりも危険なこともありますので、あっさり没になりました。

 都会を離れ、どこかの田舎に行って清々しい空気を吸いながら緑のなかをのんびり散歩してみたい、とも思います。我が家からは山梨県は結構近いので、小淵沢などの八ヶ岳山麓に魅力を感じます。長野県でも中央高速で行ける諏訪地方とか蓼科高原も気持ち良くていいですね。ただ、移住するまでの決心はつきません。別荘ライフも憧れますが、現実に生活することとか費用とかを考えるとやっぱり現実的な選択とは思えませんねえ。そうするとホテル等にかなりの期間宿泊しながら、観光はせずにのんびり過ごすということになるのでしょうか。

 定年後に何歳まで生きるのか、生きるとしてどれくらいまで元気で過ごせるのか、そういう自身の将来について誰もが漠然とした不安を抱えています。すなわちお迎えが来るまでにどのくらいお金がかかるのか読めないところが、新しいステップへ乗り出すことを躊躇させるわけです。こればっかりは幾ら考えても分かりませんわな。結局のところ、不意の出来事に備えられる程度に余裕を持った計画を立て、やりたいことにトライするしかない、ということでしょうか。


あんずの実 2018 (2018年5月31日)

 五月も晦日となりました。小雨のばらつく、どんよりと曇った蒸し暑い日です。もうすぐ梅雨入りでしょうか。

 さて、二年前の六月に情報処理施設の脇で見つけたあんずの木ですが、昨年は牧野標本館新館の建設で仮囲いの中に囲われて、伐採されたかも知れないなと案じていました。しかし幸いなことに新館の建設地をギリギリかわしたようで、あんずの木は生き残っていました。

 その木が今年も立派な実をつけました。二週間くらい前にまだ青い実が結構生っていることに気がつきましたが、今朝登校すると綺麗に色づいた実が幾つか落ちていたので、拾って来ました。かなり大きくて立派な実もあります。色づくのは二年前よりもかなり早いような気がします。今年は暖かいせいでしょうか(桜の開花も早かったですよね)。

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 ということでさっそく皮をむいて自ら食してみました。いやあ、酸っぱいです。残念ながら甘みは少ないですね。農家が育てたわけじゃなくて野生のあんずですから、まあ仕方ないか。でも、もう少し熟せば甘くなるかも知れません。木にはまだまだたくさんあんずの実が生っていますのでしばらくは楽しめそうです、あははっ。実験棟から脚立を持って行って、自然落下する前の実を採ってやろうかとも思いますが、さすがに目立ちすぎてまずいかな?


定年後 承前(二) (2018年5月30日)

 「定年後問題」ですが、いま、そのものズバリの『定年後』(楠木新著、中公新書、2017年4月)という本を大学図書館から借りて、電車内で読んでいます。著者はサラリーマンから物書きに転進したひとで、書きっぷりが洒脱で読み易いので電車内読書にはうってつけです。

 半分ほど読み進んだところですが、定年の十年くらい前から心構えと準備とが必要で、その準備は早いほどよい、と書かれていました。これって、境有紀さんが言うところの「ソフト・ランディング」と多分同じですね。なにも考えないまま定年で職を失うと茫然自失として先行きを失うので、そうならないように早いうちから退職後のイメージを思い浮かべるトレーニングをしよう、ということです。

 その通りと思いますし、そのためのヒントは本書の後半に書かれているのでしょうが、著者はバリバリの会社人間を想定して論を進めているので、そこのところは大学教員とは少し違うなと思っています。大学人もサラリーマンには違いはありませんが、裁量労働制なので授業や会議のほかは基本的に自由に仕事(研究や調べもの、授業の準備など)ができます。教授になれば、誰からも表立ってあれこれ指示されることもありませんので、小うるさい上司ともほぼ無縁です。自分で研究室を主宰すれば小なりと言えども一国一城の主ですから、ルールの範囲で自分の好きなように運営できます。これって中小企業の社長と同じだよね、ということはこのページで度々書いています。

 さらに一般のサラリーマンと違うのは、定年になって大学というパラダイス(?)から放逐されても、その専門知識を活かして○○協会とか△△センターとかでのお仕事などは続けようと思えばできることでしょう(もちろん先方から請われれば、の話しですが)。実際、諸先輩方のなかにはそのようにお過ごしになっているひとが結構いるようにお見受けします。ときどき会議とか委員会とかがあって都心に出かけて行けば気分転換になりますし、ちょっとした小遣い稼ぎにもなるでしょう。少しばかり社会貢献をしている、という気分も味わえます。

 ただ、そのような専門知識に依拠した仕事をするのであれば、その分野の先端知識を常に吸収することが必要でしょうから、論文を読んだり学会に参加したりしなければなりません。しかし、それが今までは自身の研究の肥やしになるので、そういうモティベーションも湧いたのでしょうが、定年後はそうではありません。何よりもこれでは研究はできないというだけで、大学でやっていたこととほとんど同じです。定年後は今までとは違うことを自由にやってみたいというのであれば、この道はないということになります。退職後にそれまでと違うことをしたいのであれば、それまでの仕事とはスパッと縁を切るべき、と本書にも書かれていました。

 このように思索は続きます。確かに考えることは楽しいのですが、どこかで踏ん切りをつけて実行に移さねばなりません。ただ、幸か不幸か迂生は折に触れて見切り発車で行動する、という人生を歩んで参りました。まあモノを作る工学者の性かも知れませんな、あははっ(その点が理論一点張りで融通の利かない理学者とは異なります、なんちゃって)。ですから、この「定年後問題」についても今のところそれほど悲観していません。ということで、つ・づ・く…。


一堂に会す (2018年5月28日)

 先週、晋沂雄[ジン・キウン]さんの明治大学専任講師への着任祝いを開きました。彼は以前、我が社の特任助教として本学に在籍し、一緒に研究した仲間です。集まったのは小山明男・明治大学教授、岸田慎司・芝浦工業大学教授およびわたくしの四名です。皆さんいずれも我が社の助手を務めて卒業し、それぞれ一家を構えているというわたくし自慢の方々なので、一堂に会していただいてとても嬉しかったです。

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 このなかでは小山明男先生が最先任でして、我が社の二代目の助手になります(ちなみに初代助手は李祥浩[イ・サンホ]先生)。小山さんとのご縁は明治大学・狩野芳一先生によるものです(狩野先生はわたくしの出身研究室の前身である武藤・梅村研究室の先輩です)。岸田慎司先生は三代目で、東工大・林静雄先生のご縁によるものです。昔は幸いなことに一本釣りで人事を進めることができましたので、採用候補者の人柄および能力を事前によく知った上で採用することができたのです。そして皆さん、期待通りに活躍して、わたくしの元からそれぞれ巣立ってゆきました。

 このように本学に在籍した時期はそれぞれ異なりますが、迂生にとっては勝手知ったる知己たちが集まって楽しいひとときを過ごすことができました。皆さん、どうもありがとうございます。これからもまだしばらくは、共同研究や学会活動などで助けていただくつもりでいますので(って、またもや勝手に決めていますけど、あははっ)、ひとつよろしくお願いしますね。皆さんが今後も益々ご活躍されることを期待しています。


師匠に会う (2018年5月24日)

 昨日、電気協会の原子力施設関係の分科会があって出かけました。この会議は、建築、土木、機器配管、地震および津波に関する各検討会の主査・副査等が一同に会する委員会でして、分科会長は久保哲夫先生です。わたくしは一年ほど前から久保先生の後を受けて建物・構築物検討会の主査をしております。

 随分前にこの会議のことは書きましたが、委員にはわたくしの学生時代の恩師である青山博之先生もお名前を連ねており、この日、久しぶりにお会いしました。青山先生はちょっと遅れて会議室に入って来られましたが、いつものようににこやかに「やあ、どうも」と仰りました。でも、もうかなりのご高齢ですから、杖を頼りにゆっくりと慎重にお歩きになっていました。そのお姿を拝見するだけで、もうハラハラとしていましたが、椅子にお坐りになるのがまた大儀そうだったので、迂生は思わず自席を立って介添えのお手伝いをいたしました。

 でも、その様子って多分、われわれの人間関係を知らない他人からみればかなり奇異だっただろうと思料します。ご高齢の委員の先生は他にもいらっしゃいましたから。この場にいた青山先生の直弟子は久保先生、わたくしと今村晃くん(青山研で机を並べた同級生)の三名です。久保先生は座長として司会をしておりますし、今村くんはかなり遠い島に坐っていましたので、とっさの介添えは困難でした。ということで、弟子としては当たり前のことをしただけですが,,,。

 会議のあと、青山先生と短い間ですがお話しいたしました。お聞きすると、来るときは電車で日比谷まで来たが電気ビルまで歩くのが大変だった、帰りはタクシーで帰る、ということでした。本来であれば、せめて師匠をタクシーにお乗せするところくらいまでは同道してお見送りしたかったのですが、この日の議事で、わが検討会に関するちょっとしたアクシデントがあって、その対策のために今村幹事と相談する必要がありましたので、それすらできませんでした。青山先生、申し訳ございません。

 師匠はご自分で電車に乗って会議に参加され、おひとりで帰って行かれましたから、まだまだお元気なんだろうなと多少は安堵いたしました。そのご様子を拝見できたのはよかったと思います。

 ちなみにこの会議は委員が四十名くらいいますが、大学の先生方(学識経験者って呼ぶみたいです)とそれ以外の方々との座席は明確に区分されているようです。さすがにもう慣れましたが、当初は相当奇怪に感じたものです。実際の仕事は各電力やゼネコンのエース級の方々が担っていて、われわれ大学人はまあ祭り上げられているような塩梅です。もちろん暗黙の役割分担があるので、それはそれで結構です。


嘘ばっかり (2018年5月23日)

 ここのところ立て続けにビックリするような出来事が連続していますね。一国の総理大臣や財務省のお役人さま(モリカケ問題)、わたくしの住むK市の市長(セクハラ疑惑)、N大学アメフト部の監督(“潰せ”疑惑)など、枚挙にいとまがありません。いずれもどうやら当事者が嘘をついていることで問題が拡大したように見受けます。

 嘘も方便という言葉があるように、場合によっては嘘をついたほうが事が上手く運んだり、丸く納まったりすることもあるでしょう。しかし国民や市民の代表として選ばれた公人であれば、公の場で嘘をつくことはやっぱり具合が悪いです。

 嘘をつくと誰だって後ろ暗い気分になって鬱々として楽しめません。そのような状態は精神衛生上、極めてよくないでしょう。それに、ひとつの嘘を取り繕うためにさらなる嘘を重ねれば必ず不整合が表出して結局のところ嘘がばれる、というのが大方のたどる道ですよね。

 しかしなぜまた、これだけ同時期にさまざまな嘘が噴出したのでしょうかね。親が嘘をつくのを見て、子どもが真似る、みたいなこともないでしょうけど、世の中の風潮がモラル・ハザードに向かっているようで薄ら寒い気分ですな、まったく。

 追伸; セクハラ疑惑の市長さんは、被害者本人からさらに証拠を突きつけられてついに辞職を諾ったようです。この数ヶ月のあいだ、市の行政は大いに混乱しましたから、とりあえずはよかったです。でもそうすると近々、市長選挙が行なわれることになりますが、めぼしい候補者はいないような気がします。どうなるのかな?


褒めて伸ばす (2018年5月22日)

 大学での学生の教育や研究についてです。学生諸君を褒めて伸ばすという方法がよくいわれます。先日、壁谷澤寿一さんと学生の教育について話したときに彼は、どうにかして褒めてあげようとするのですが、褒められるところがなくて困るんですよね〜ってことを言っていました。

 褒められれば誰だって悪い気はしませんし、気分がよくなります。それを契機としてやる気を出してもらえれば、さらに成長して成果が上がることもあるかも知れません。勉強や研究に興味を持てないひとをその気にさせる、という点では有効なのかなとも思います。

 ただ迂生は今までの長い大学生活において、そのような手段を積極的に取ったことは一度もありません。もちろん、一所懸命に勉強・研究する学生さんを褒めることは多々あります。でも、それは本心からそのように感じたからそうしただけで、思ってもないのに(おべんちゃらのように)褒めるということはわたくしの気性からして真っ平ご免ですし、出来ません。逆に、もっと勉強しろ〜みたいな叱責はよく飛ばします。最近の大学院の授業でも、鉄筋コンクリート構造の研究室にいるのにそれ知らんのはまずいぞ、みたいな小言を何度か言いました。

 でも学生諸君の立場に立てば、そのような小言は耳に痛いでしょうし、場合によっては意気沮喪してやる気を失う、ということにもつながりかねません。そのようなリスクは重々承知しています。そうではあるのですが、心にもなく(打算尽くで)褒めるようなことはやっぱり迂生にはできないんですね〜。その点では教育者として失格かも知れません。

 大学教員といえども人間ですから、あらゆるタイプのひとが揃っています。そして大学生はもう立派な大人なのですから大学という小社会の中の一員として、そのようなひとの性みたいなものをしっかり理解して個々の教員との関係を構築し、大学生活を送って欲しいと思います。結局、学生諸君にもっと大人として行動して欲しいということなのかなあ。

 いずれにせよ、彼らの機嫌を取ってまで勉強や研究をして欲しいとは思いません。そもそも勉強・研究をするのは他人のためではなく自分のためである、ということを今一度思い返して欲しいと思います。


活力にはまずからだ (2018年5月18日)

 先日、活力の源泉について書いたら、境有紀さんのお返事が彼のページに載っていました。どうもありがとうございます。そうですよね、今まで好きなように研究して、大学ライフを勝手気ままにエンジョイしてきたのですから、それに勝る活力の源はないでしょう。

 でも、齢を重ねて歳をとると体は明らかに衰えてくるわけで、その当たり前の事実に直面するまでそのことを正しく認識することができなかった自分自身に愕然とするというか、腹立たしい気持ちでいっぱいなわけです。ですから境有紀さんが書いておいでのように、内的熟達の一つとして「からだ研究」や「生き方研究」をして、健全な体を維持できるように努力する、ということには大いに同意します。

 そこで自分自身のことを振り返ると、わたくしってからだに良いと言われることは何もやっていないことに今更ながら気がつきます。昨晩、久しぶりに建築学科の同僚たちと語らったのですが、皆さんそれぞれ工夫して体調を整えて気分良く過ごせるように工夫していることを知りました。そういう年齢に差し掛かったことを自覚して、自分の体のことを知ろうとしているっていうことですよね。

 ということで、健全な精神は健全な肉体に宿るという真理に則って、まずは快調な肉体を維持するように努力することが先決ということに思い至りました。皆さんにとっては当たり前のこの事実ですが、それを実践する方法はひとそれぞれでしょうから、どのようにしたらよいのかを考えながら実行したいと思います。なにもトライせずに気分よく歳を取りたいなどと言っても、そんなムシのよい話しはありませんよね。とは言いつつ、先日書いたビリヤードはまだやっていません…。


活力の源泉 (2018年5月16日)

 一日大学で仕事をして帰るときにはぐったりと疲労していて、駅まで歩くのさえ大義に感じます。昔のようにシャキシャキ歩けない、っていうんでしょうか、とにかく足を一歩ずつ前に出すのが億劫という感覚です。まあ半世紀も生きてくれば、体中が経年劣化して衰えてくるのは必然ですから仕方ないのだと思います。

 でもこんな感じだと、六十台、七十台と上がって行ったときにどれだけつらいのか、想像できないところがなんとも辛いですね〜。授業も白坂の前に立って大声で話し、板書しているときには元気な(気がする)のですが、90分過ぎて授業が終わると、ああ疲れた、っていう風になります。それでもエレベータを待つのはどうしてもイライラとして我慢できないので、疲れていても結局七階まで階段を歩くことが多いですから、やる気さえあればまだまだできる?ってことかも,,,。

 身を持って歳を取るということを体験中なわけですが、ここで驚くのが政治家や経済界のお偉いさん達の尋常じゃないほどのアクティビティです。A倍首相やTランプ大統領を見れば分かりますが、七十台、八十台の人びとが朝早くから夜遅くまで精力的に活動していますよね。あの活力はいったいどこから湧いてくるのでしょうか。

 もちろん国民の役に立ちたいとか、世界平和に貢献したいという崇高な使命感に燃えている、ということであれば結構この上ないのですが、どう見てもそのようには思えません。少なくとも、境有紀さんがいう「内的熟達」とは正反対のところにいるような人たちですから、権力欲、金銭欲、名誉欲のような様々な欲望によって動かされているのだろうと推量します。何かに対してどん欲にガツガツとしているくらいが、歳をとってからの人生にはちょうどよいのでしょうか。


こどもの部活 承前 (2018年5月15日)

 期せずして昨日の朝日新聞(朝刊)にブラック部活の記事が載っていました。それを読んで、わたくしと同じように考える方もいることが分かりました。いろいろな種類のスポーツを経験したいとか、部活を楽しくやりたい、などの意見です。しかしそれに対して、部活での成績が進学に直結するという厳然たる事実もあるようです。一芸推薦やスポーツ推薦のような、ある種の推薦入学制度のことでしょう。

 この記事を読んで気が付いたのは、学校での部活に期待するものはひとによって様々であるという当たり前のことでした。すなわちここでも多様性が問題の根に横たわっていたのです。スパルタ式に練習しガンガン指導してもらって、よい成績を上げて進学に有利にしたいというひとと、勉強にさわらない程度にチンタラと楽しく活動できればそれでOKというひととが、同じ「部活」という一括りの土俵に乗っている訳です。

 これって、スポーツカーと軽トラックとが公道を一緒に走っているようなもので、お互いにとって不幸極まりない事態のように思います。でも公立の学校であるならば、ひと握りの“スポーツ・エリート”を対象とすべきでないことは明らかなように思いますが、どうでしょうか。

 もちろん学校ごとに部活の方針を決めればよいのですが、その方針の策定には生徒や父兄の声は通常は聞いて貰えません。そうだとすれば、あとは生徒本人が自分の好きなように取り組むしかないでしょう。でも、そんなことすると、部内でのいじめとか差別とかが顕在化するかも知れません。それでは教育活動として意味がないので、学校の定めた方針に馴染めないならば部活は断念するしかありません。それだけの判断能力と強い意思とを持ったこどもが存在すれば、の話しですけど、やっぱりそんなスーパーなこどもなどいないでしょうね。

 そうであるならば、大人たちがきっちりとレールを敷いてあげる必要があります。それが文科省の通達なのかどうかは分かりません。あるいは、学校ごとに指導教員と父兄とが話し合って各部活の方針を決める、ということが大切なような気がします。学校での教育活動にどこまで父兄が口出ししてよいのか、という問題はありますけど,,,。今まで散々議論されてきた問題だけに、一筋縄ではいきませんなあ。

 でも、こんなことを学校の保護者会で言ったりしたら、なんて面倒くさいことを言うオヤジなんだと忌避されるのが落ちのような気がしますな。こどもからも恥ずかしいからやめてくれ〜って言われそうだし、あははっ(ってことで、もう止めます)。


こどもの部活 (2018年5月14日)

 この週末、こどもの学校に行ってきました。部活の説明を保護者にする、ということでした。近ごろは子どもおよび先生方の双方にとって学校での部活は“ブラック”の烙印を押されており、世間さまでも問題になっていますよね。しかし迂生にとってはそもそも学校での部活って、親がしゃしゃり出るような類いのものなのか、という疑問が沸々といたします。

 自分自身が子どもだった頃には、部活に先生がつきっきりで側にいるようなことは全くなくて、生徒たちで工夫しながら好き勝手にやっていたと記憶します(その分、お遊びの域を出ないというのも事実でしたけど)。高校生の頃の対外試合にだって親が来るようなことは皆無でした(顧問の先生すらほとんど見かけませんでした)。

 ところが先日の説明会では親が車を出したり、必要な用具を運んだりする、というじゃありませんか。あまつさえ、おとーさんには重い荷物の運搬をお願いしま〜す、とかのたまいます。いやもう、驚きましたな、まったく。あたしゃもう歳ですから、そういうお仕事は若いおとーさんにお願いしたいと存じます、あははっ。

 少子化の時代になって子どもに手厚くなったのか、それとも世の中が危険になったのでいちいち親が付き添わなければいけないのか、どうなのでしょうか。指導してくださる先生方もほとんどボランティアみたいなものでしょうから、そんなにガッツを入れて大会とかコンクールとかの上位入賞みたいなものを目指さなくても一向に構いませんけど,,,。でも、世の中の親御さんはそうじゃないのでしょうか? わたくしのような旧人類のおとーさんには理解不能でした。

 部活に必要な費用も万単位で必要とのことでした。外部から指導者を呼んできたら、そりゃ謝金は必須でしょう、お支払いすべきです。でも上述した通り、そこまでする必要があるのか? 部活は教育活動の一環と校長先生も仰っていましたから、適度な範囲で活動すればよろしいかと思いますけど,,,。


寒い五月 (2018年5月9日)

 冷たい雨の降る、寒い朝となりました。つい数日前には冷房を入れたのに、今朝は暖房を入れています。かように不順な天候ですので、体調も悪くなろうというものです。体の節々が痛くなって(低気圧のせい? それとも加齢のせい?)辛いです。

 京王線は昨日と今日と二日連続で電車が遅れています。その理由は二日とも「〇〇駅構内でのお客様同士のトラブル」というのですが、そんなことで電車が三十分も遅れたりするものなのでしょうか。トラブルとは何なのか分かりませんが、なんにつけても余裕のないギスギスとした世の中になったものです。混雑する車内で気が立っているので、ちょっとしたことでキレちゃうんでしょうか…。二日続きで暗澹たる気持ちに沈んだ登校時でした(おかげで大学に着くのに一時間半もかかりました、いい迷惑です)。


研究力の低下と大学教育 (2018年5月5日)

 こどもの日は澄んだ青空の好日となりました。そうではありますが、わたくしはほぼどこにも出かけず家でまったりと過ごしております。子どもは昨日遊び過ぎて風邪を引いたらしく、きょうは塾もサボって寝ております、なにやってんだか…。

 さて、日本の研究力の低下が言われるようになって久しいです。特に国立大学が法人化されて運営費交付金を毎年減らされるようになってから、その傾向が加速しているようです。大学の教員が研究費ゲットのための書類作りに追われ、短期的な成果を求められるようになったこともあって、落ち着いて研究できないというのはその通りでしょう。

 でも、有望と判断されてすぐに成果の上がりそうな一部の研究に対して国家が研究費を大量に投入する「選択と集中」が、日本の研究力の低下にボディ・ブローのように効いて来たのは確実だと思います。このことは多くの研究者が指摘しています。研究者個人の興味に基づき、長期的な視野に立った多種多様な研究が日本の研究力を底支えしてきたのです。世間ではなんにつけても多様性が叫ばれるようになったのに、研究に関しては完全に逆方向に進んでいるのはどうしてなのか、ホント疑問ですよね。

 そういう個々の研究者がある意味自分の好きな研究を遂行するために、日本学術振興会(JSPS)の科学研究費補助金はとても重要です。わたくしの場合は大学からいただける恒常的な研究費はものすごく少なくなりましたから、科研費がなければ実験研究はできません。幸い今年度からの三年間も科研費をいただけることになりましたので、とても感謝しています。

 ただ、いただける交付予定額は申請額の七割以下に減額されていました。これはこの十数年間でもっとも低い数値です。JSPSがどのような論理で申請額を減額しているのか分かりませんが、採択課題の申請予算の中身をいちいち精査して(鉛筆なめなめして)研究費を決めているとは思えませんから、一律のパーセンテージを乗じて減額していると普通は考えます。

 そうだとして、かつ交付総額は変わらないとすれば、採択課題数は今までよりも増えたことになります。すなわち、より多くの(フツーの)研究者が研究費をゲットできて、自分の好きな研究ができるということです。ここで冒頭の話題に戻りますが、そうであれば日本の研究力の底上げに資することになりますので(迂生の研究費がチョコっと減ったのは残念ですが)、良かったんじゃないでしょうか。まあ、本当のところはどうなのか分かりませんが、研究に対する考え方が変わって行けばそれは結構なことだと思います。

 しかしながら文科省は2018年度に重点的に支援する国立大学の評価結果を発表していますので、「選択と集中」のコンセプトはまだ保持されているようです。知の拠点に対してそんな風な競争を強いる施策は百害あって一利なしです。営利企業のような競争は、大学という教育・研究の拠点に対しては本質的に向いていません。国家百年の計は教育にあり、と明治時代の頃には言われていました。その箴言[シンゲン]を現代の為政者たちも今一度噛み締めてみる必要があるでしょう。

 研究に対する世の風潮が今のようになったのは1990年代からと言われます。それからわずか四半世紀にして研究力の低下は顕在化しました。日本の人口が益々減少して行くことを合わせ鑑みると、このままでは研究の行く末には暗鬱たるものが待っていると言わざるを得ません。

 大学入試の改革に腐心するのもいいですが、学生が入ってくる大学そのものが疲弊してしまっては、魅力ある教育を提供することはできません。そしてそれは、ひいては研究力の低下を加速します。そうでした、大学教員は研究だけでなくて教育にも従事しています(当たり前です)。その教育についても、いろいろと言われるようになって久しいです。

 大学では今、学生自身が主体的に考えて勉強するように仕向けるアクティブ・ラーニング(ALと略します)という教授手法が喧伝されています。わが大学でもALの方法や教育の成果の評価手法(ルーブリック)などについて教員を対象としたFDセミナーを種々開いてくれており、それらに参加して来ました。そこで得たちょっとしたノウハウとかヒントとかを参考にして、少しずつ授業を変えてきたつもりです(それがどのくらい奏功したのかは分かりませんが…)。

 しかし大学での勉学はそもそも学生が主体となってするものです。日本に大学が誕生して以来、人びとはそうやって勉強して身を立ててきました。帝国大学の時代や新制大学成立期とは異なり、現代の大学では進学率が50%を超えて大衆化しています。それゆえ学生諸氏のレベルが低下したので教育の方法も変えないといけない、というのも理屈としては理解できます。でも、本当にそれは正しいのでしょうか。

 いくら教員がお膳立てしても、自主的に勉強しない(できない?)人はしないし、勉強する人はする、というふうに迂生には思えます。そうであれば必要なことは、折に触れて書いていますがエリート教育の復活です。勉強したい人とそうではない人とを一緒くたに教育することは、双方にとって不幸なことだと思いませんか。

 わたくしは過去三年間、本学の『基礎ゼミナール』を担当して、新一年生に大学での研究の仕方とか論文の書き方とかのリテラシーの初歩を教えました。しかし、わずか半年の授業であり、入学してすぐということもあって、ここで教授した知識や知恵は四年生になって研究室に入る頃にはほとんど忘却されているという事実を知るに至ります。すなわち、残念ながらそれは無駄であった、ということになります。もちろん『基礎ゼミナール』が全く無駄とはいいませんが、費用対効果で考えれば恐ろしく効率の悪い試みと言うことになるでしょうね、やっぱり。

 ここにも全ての学生を同列に平等にみましょうね、という悪しき平等主義があるように思います。積極的に勉強して知の世界に踏み込みたいという意欲のある人と、生きてゆくのに必要な一般常識みたいなものを身につければよいという人とでは、自ずと教育方法が異なって当然でしょう。そして研究力の低下には、現在の大学教育におけるこのような平等主義(あるいはエリートという言葉に対する拒絶反応)が大きく関与しているのではないかと愚考します。

 積極的に勉強し、研究にも携わってみたいという若者を選択して集中的に教育すること、そのようなエリート教育を復活させないと日本の研究の将来は危ういと考えます。もちろん全体レベルの底上げは重要ですので、今までのような大学教育も必要でしょうが、とにかく重要なのはここでも多様性の確保なのです。

 結局、どの大学でも一律に同レベルの教育を施し、その成果として得られるアウトプットとしても均一なものを目標とする、という現在の大学教育は大いなる幻想に過ぎない、ということになります。大学での教育は義務教育とは違います。そこには多様で様々なレベルの教育および到達目標があってしかるべきです。そしてそのことが、その先につながる研究というものの発展にも大いに資すると考えます。


風薫る (2018年5月2日)

 風薫る爽やかな五月、と言いたいところですが、既に夏の気配が濃厚な暑い五月となりました。我が家のミッションである鯉のぼり揚げは未だに達成しておりません。そろそろ揚げないと証文の出し遅れ、みたいなことになって格好がつきませんな。でも、連休後半は雨風がつよくなりそうな予報ですので、鯉のぼりを出すタイミングを失しそうな予感もします。

 さて五月になったので、ハイファイセットの「五月になったら」という曲を聴いています。これは1979年の『Quarter Rest』というアルバムに入っています。高校生のときにLPレコードは買っていましたので手元にありますが、CDはどういう訳か発売にならなくて、デジタル音源は今までありませんでした。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:QUARTER REST.jpg

 その待望のCDが昨秋発売になったので、やっとiPodに入れて聞くことができるようになりました、嬉しいです。で、この曲はどこかで聴いたことがあるような、そんな印象なのです。どうやらそれはPeaches & Herbの「Reunited」の冒頭の部分ということに気が付きました。この有名なデュエット曲が発売されたのは1978年ですから、「五月になったら」の作曲者(新川博さん)がそれを少しばかり取り入れてみた、ということでしょうかね、やっぱり。そうではあっても「五月になったら」は山本俊彦さん(故人、レコード・ジャケットの右端のひと)のファルセットが爽やかさを醸し出す佳曲で、とても好きな一曲です。

 昨日、二回目の研究室会議を開きました。以前に書きましたが、どうにも質疑応答が出なくて盛り上がらない研究室ゼミを改革するための一方策として、ゼミの司会を学生諸君に任せてみました。これは角田誠教授の研究室のやり方を真似したもので、角田研ではそれなりに活発な議論が為されると聞きましたので、藁をもすがる気持ちでやってみた訳です、あはあっ。

 同じことを言うにしても教員(わたくし)から指名されて発言を促されるよりは、友人や先輩から言われるほうがまだソフトでプレッシャーも少ない、ということでしょうか、それなりに質問が出たりはしていました。でも効果のほどは定かではありませんので、しばらく続けてみたいと思います。


定年後 承前 (2018年4月27日)

 「定年後問題」(by 境有紀さん)の続きです。大学を定年でクビになってやめたあと、肉体および精神の健康を保持するためにどうするか、ということですが、わたくしは今と同じ専門研究を続けることは多分ない、と思います。研究室がなくなれば、わたくしの意を受けて一緒に研究してくれるひともいなくなりますし、第一、せっかく考えた理論なり何なりを実験によって検証したいと思っても、もう実験できません。

 現代はコンピュータの時代なので数値実験によって何とかなるでしょ、と言うひともいるでしょう。確かに地震応答解析とか有限要素解析はそれなりに有効なツールで問題によっては役に立ちます。でも、最終的には現象を実験によって確認することが必要だとわたくしは考えます。すなわち、結局は自分の目で見て納得したい、ということです。ですから、迂生は(正直なところ)計算機による計算の結果をそれほど信じてはおりません。

 話しが横道にそれたので戻しましょう。上記のように専門の研究はしないでしょうが、興味のあること、例えば歴史について自分でいろいろと調べて、それに応じて現地に行って確認する、ということはやってみたいと思いますね。古文書を読めるようになれば(そのための勉強は必要ですが)、未だに読解されていない古文書は日本全国に山のように眠っていますから、そこから今までの歴史の常識を覆すような新たな発見があるかも知れません。いや、そんな大それたことでなくても、先人の残した知恵や経験をひっそりと辿るだけでも十分に楽しめるし、意義があるとわたくしは思っています。

 あとは何かを集める、というのはどうでしょうか。お酒を湯水の如く飲める頃には美味しい地酒を探し出して、その蔵元まで出向いてお酒を買ってくる、というようなことをしたこともありました。そうすると日本の各地を旅することができますし、その地方の風土とか蔵元の歴史とかを知ることもまた楽しいですから。でも、ガブガブとお酒が飲めなくなったので、この趣味?も廃れてしまいました。

 以前に書きましたが、海外のラジオ放送を聞いて報告書を送付し、その放送局が発行するベリカードを集める、BCLという趣味が子供の頃に流行しました。日本酒にせよベリカードにせよ、何かを集めるという行為は脳内物質がドバーッと出るのでしょうか、はまると楽しめるし持続できます。でも健康の保持という観点から言えば(その趣味の副次的な産物としてでも)体を動かすということが必須でしょう。

 何かを集めるために旅に出る、というのがいいかも知れません。日本のダム施設はそれぞれ「ダムカード」というのを発行していて、それは現地に行かないとゲットできないので、ダム巡りをライフワークにしている人びとがいるそうです。ダムには興味ありませんが、仏像でもお寺でも石碑でも見たり触ったり体験したりするために旅に出る、というのもいいかも知れません。

 こんなふうに日本各地を巡る旅はしてみたいと思いますが、疲れるのはイヤなので多くの場合は車を使うことになるでしょう(やっぱり贅沢者か?)。そうすると歩かないので結局ダメか。いやあ、ちょうど手頃で上手い具合なモノが見つかりませんね〜。まあ、まだまだ時間はありますからゆっくり考えましょうか,,,。


都心で鯉のぼりを見る (2018年4月24日)

 そろそろ鯉のぼりの季節ですね。そう言えば家内から鯉のぼりを出せ、というお達しがこの週末に出されましたが、まだ空を泳がせていません。そういう懸案事項(って大げさなものじゃないですけど,,,)が脳裏に引っ掛かっていたせいでしょうか、思わぬところで鯉のぼりを見てハッとしたわけです。

 会議があって虎ノ門に行ったのですが、その交差点脇にある文科省のレトロ建物の屋上に日の丸ともうひとつ何かが掲揚されていることに気が付きました。何だろう?結構カラフルで細長いものが、垂れ下がっている…。よくよく見るとそれが鯉のぼりだったのです。風がないので生気なくだら〜んとしている鯉のぼり、でした。文科省は学校教育を司っていますから、子ども達の健やかな健康を念じて泳がせてみた、ということでしょうか。文科省が鯉のぼりを出すのは例年のことなのでしょうかね。

 ちなみに文科省の横には今、ゴタゴタ真っ最中の財務省および国税庁の建物があります。文科省だってつい最近、学校教育の現場への過度の介入と取られかねない事件があったばかりですよね(そう言えば、その渦中の文科省の局長が高橋道和くん[高校および駒場の同級生]だったな,,,)。そんな状況ですから鯉のぼりクンも肩身が狭くて、悠々と泳ぐこともできないようで、なんだかかわいそうな気がしました。でも、自由に泳いでもいいんだぞ、鯉のぼりクン!

 ♪まいにち、まいにち、僕らは忖度の〜
 ♪波にもまれて、いやになっちゃうよ〜


定年後に備えるには… (2018年4月23日)

 定年退職したあとの話しですが、突然に行くところがなくなると精神に変調を来して途端にガックリくるので、ご近所デビューしておいたほうが良い、ということをよく聞きます。職場のほかに活動できるところを複数、分散して予め用意しておく、ということみたいですね。確かにその通りのような気がします。毎日が日曜日になって家でゴロゴロしていると健康には良くないし、何よりも「粗大ゴミ」に成り下がる確率が非常に高いように思います。そうすると家人に鬱陶しがられて、家にさえ居場所がなくなったら、それこそ大変です。

 そういうことは頭では理解しているつもりです。でも、なにか準備をしているかというと今のところノーなんですね〜。以前に町内会の末端の世話役みたいなことを一年間やりましたが面白くない上に、町内会の会費集めに体よくコキ使われていることが分かって、阿呆らしくなって町内会自体から脱退しました。なんのメリットもありませんし,,,。ご近所の和を乱すけしからんヤツ、みたいに思われていることでしょうね、きっと。

 こどもの通う学校にはPTAのほかに「おやじの会」というのがあって、学校運営に協力したり、いろいろな催し物を企画・実施したりしているのは知っています。以前に小学校で飯盒炊さんがあったときには「おやじの会」のおとーさん方も参加していて、偉いなあとは思いました。でも主に準備とかあと片付けのような肉体労働に勤しんでいる姿を見ると、俺りゃあそんなことはやりたくないべ、みたいな感想を抱くだけで、一緒に活動しようという気はサラサラ起きませんでした。向こうのおとーさん達から見ればわたくしって、やっぱり付き合いにくいヤツ、でしょうね。

 大学で授業をすると大きな声でしゃべりますし、一時間半は立ちっぱなしですから(とっても疲れますが)健康にはかなり寄与しているように思います。何よりも二十歳前後の若いひと達と常に接していると、気を若く保てるのは確かなようです。もっとも最近の学生諸君は授業中のリアクションが少なくて何を考えているのか分からんときも多々ありますけど、あははっ。

 でも六十五歳で定年退職したあとは、そういう“健康維持装置”が失われてしまう訳です。そうして冒頭に戻る、です。これはやっぱり危機的状況ですな。でも上述したような現状ですから、本人(ってわたくしのことですけど)の考え方自体を変革するか、なにか別の方策を模索する必要がありそうです。今のうちに、学校に行くよりも楽しくなるところを探すとか、年齢を重ねても続けられて健康にも役立つ趣味を作るとか、ということでしょうか。

 そうするとビリヤードが真っ先に思い浮かびます。若い頃には四つ球はよくやりましたが、ここ二十年くらいは全くやっていません。ポケット・ビリヤードは面白くないので好きではありませんが、世間では圧倒的にポケットが人気のようです。そのせいで四つ球の台はどんどん減っています。スリー・クッションは難しいのでやったことはありませんが、四つ球以上に頭を使うので、ボケ防止にはうってつけのような気がします(知りませんけど)。

 幸いなことに神保町の学士会館(佐野利器先生が監修して高橋貞太郎が設計した建物)にはビリヤード室があって、四つ球やスリー・クッションがプレーされているようです。そこに行ってお仲間に加えていただくのが手っ取り早くて良いかも知れません。でも今のところ、神保町まで行くのは面倒くさいってことが最大のハードルなんですけど,,,(そんなこと言っているから、何もできないんでしょうな、がははっ)。


学校でのリズム (2018年4月20日)

 今年から三年生の『鉄筋コンクリート構造』の授業を金曜日(今日です)の3限(午後2時40分スタート)に変えたことは以前に書きました。でも、一年生の『構造力学1』のレポートの締切日時を金曜日午後1時に設定していたことを忘れていました。

 きょう、『構造力学1』の最初のレポート提出があったのですが、以前は金曜日の午後いっぱいを使ってレポートの採点および記録をしていました。それが今年度からできない、ということに気が付いたのです。レポートは一つづつチェックしてコメントを書き、五段階評価をつけて学生諸君に返します(これが十週間に渡って続きます)。今年から建築学科の定員は五十名に減りましたが、それでもレポートの採点には二時間半から三時間はかかります。

 まあ、来週の月曜日とかに採点してもいいのですが、ルーチン・ワークはできる限り早く終えて自由な時間をつくりたいので、さっさと採点したいわけです。そのリズムが狂ったのはちょっとした誤算でしたね。やっぱり授業の時間帯を変えると思わぬ点に波及することを再認識した次第です。

 ところで今年度の研究室のキック・オフMeetingは四月末に設定したのでちょっと遅いかなと思い、今年度の研究テーマを既に研究室の学生諸君に開示しました。M1・藤間淳くんが学内のネットワークにNASを接続して整備してくれたので、そこのフォルダに文書類を格納して置いたのです。個別にそれらを見て、研究テーマについて事前に相談に来ても良いよ、とメールまで送っておきました。でも残念ながら、今に至るまで誰からもレスポンスがありません。研究の面白さや奥深さを知って欲しいとは思っているのですが、如何せん食いついてこないので、今のところお手上げの状態です。


超高層のあけぼの (2018年4月17日)

 先週、霞が関ビルが竣工してちょうど五十年というニュースが流れました。でも、わたくしがそれに気が付いたのは、朝日新聞朝刊(2018年4月12日)の全面に三井不動産が掲載した以下の広告によってでした。竣工の式典のときの写真でしょうか、参列者がいっせいに上を見上げている一瞬を撮ったものです。それくらい高くて皆さんの度肝を抜いた、ということでしょうか。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:朝日新聞全面広告_霞ヶ関ビル50年_20180412:IMG_0139.JPG

 霞が関ビル建設の指揮をとったのが、鹿島建設副社長だった武藤清先生です。武藤先生は東京大学教授を定年退職して、鹿島建設にお移りになっていました。高さ100メートルを超える日本最初の超高層ビルディングとして、建築構造の世界ではつとに有名です。これを契機として、日本は超高層ビル建設の時代に突入します。

 でも、そんなことは当時、小学生になったばかりだった迂生は知るわけはありません。竣工後数年して、父が霞が関ビルの展望フロアに連れて行ってくれた記憶があります。憶えているのは、そこにあった大型望遠鏡を覗いてはしゃいでいた、ということだけですけどね、あははっ。

 それから十数年後、武藤清先生の残した研究室を卒業して、鉄筋コンクリート建物の耐震構造を研究するようになるとは、思いもよらないことでした。なお、上の写真のどこかに武藤先生も写っているはずですが、どこにおいでなのかは残念ながら分かりませんでした。


長い二週間 (2018年4月13日)

 今日はちょっと肌寒かったりもしますが、春らしい爽やかな日ですね。さて、四月になって新年度が始まってから二週間が経過しつつあります。たった二週間なのに、べらぼうに長かった気がするのはどうしてでしょうか。

 四月一日に科研費の採択内定の通知があり、四月四日には建築学会大会の梗概締め切りがあり、さらに2017年度終了の科研費の報告書等の書類の提出もありました。それらへの対応に追われたことは事実ですが、どれも今まで経験してきたものばかりです。それなのに、どうしてこんなに長〜く感じるのか、我ながら不思議です。これが学科長を務めるとか、学外の委員会等で何か過剰なタスクがかかるとかであれば、分かります。でも、そのようなつらいお仕事はなく、いずれもルーチン・ワーク的なものですよね。

 あっ、そうか。どれもルーチン・ワーク的ではありますが、個別具体に異なるものばかりで、ものすごく頭を使うものでしたな。脳が消費するエネルギーは人体が消費するそれの20%以上を占めると言いますから、頭を使えば疲れるのは道理です。消費したエネルギーに比して、吸収したエネルギー量が少ないのかも知れません。そうした疲労が蓄積して日々を長く感じさせている、ということでしょうか。

 でも頭を使うのは研究者として当たり前のことです。頭を使ったので疲れたよ〜、なんて言っていたら研究なんかできませんよね。それとも、これも加齢という避けがたい生理現象の為せる業でしょうか。いずれにせよ、若い頃みたいに大学に泊まり込んでバリバリ研究する、などということはもうできそうにありません。


持続しないで (2018年4月11日)

 午前中に大学院の授業をやりました。これで前期の授業全てがひと通り始まったことになります。ここ数日、朝の登校時間を少しずつ変えて京王線の乗り継ぎ状況を確認しているのですが、2月のダイヤ改正でかなりひどくなったことに気がつきました。具体的に言うと、調布駅での乗り換えはもう必須なのですが、それに加えて多摩センター駅止まりの電車が増えて、そこのホームでしばらく(電車が来るまで)待たないといけなくなりました。乗り継ぎが不便になったということです。そうするとスムーズな場合よりも10分以上、余計にかかります。

 以前は、多摩センター駅止まりの電車の場合には、ホームの反対側に南大沢方面行きの別の電車がすでに待っていて、それに乗り換えれば済みました。ところが今は、吹きっさらしのホームで次の電車を待たないといけません。今は気候が良いので苦になりませんが、雨降りだったり寒かったりすればこれはかなり体にこたえます。正直言って、これはマイナーな利用者(フツーの通勤客とは逆方向に向かう客)にとっては改悪ダイヤですな、まったく。

 さて四月になると通常は花粉がおさまって、花粉症も減退するのが常なのですが、今年はどういうわけか様子が変わってしまいました。未だに花粉がつらくて、早朝に目が覚めてしまいます。気象情報によれば、杉花粉は終わって今はヒノキの花粉が飛んでいるそうです。ということは、ついにヒノキの花粉にもアレルギー症状が発症したということでしょうか。そうかと思うと悲しい気分に落ち入ります。なんにせよ花粉には持続して欲しくないです、やっぱり。


平常化する (2018年4月9日)

 先週金曜日に前期の授業が始まり、早速、講義をしました。例年そうなのですが、しばらく授業をしていないと声の出し方とかを忘れて、不必要に?大きな声を出すせいでしょうか、とても疲れます。今年度から「鉄筋コンクリート構造」の授業は金曜日の4限に移しました。そのせいで教室も変更になり、そこにはマイクが常備されていることを思い出しました。そこで途中からマイクを使ったのですが、それでもやっぱり疲れました。どうしてだろう?

 この授業は今までは朝1限で、同じ日の4限に「構造力学1」の授業がありました。昔は講義の曜日をまとめて、学外に出られる曜日を確保しようとしたわけです。でも、だんだん年齢を重ねて、一日に二コマの講義をするのがとてもつらくなって来ました。外部の仕事も大幅に削って、南大沢の田舎で完結できるようにしています。

 こんな理由で今年から授業を分散させて、週のうち三日、授業をするように変更したのです。それでも疲れるのだから、どうしたものでしょうか。まあそのうち慣れるとは思いますけど,,,。

 ということで今週はもう通常の大学業務に平常化しました。四月中には研究室のキックオフ会議を開くつもりで、現在日程を調整しています。

 ところで先週末、子供の入学式があって、家で新聞を読んでいるくらいなら一緒に来てよ、と家内に言われたので、行ってきました。地元の公立の学校です。少子化のせいでしょうか、一学年3クラスのこじんまりとした学校でした。

 そこで久しぶりに国歌(君が代)を歌いました。まあ、いいでしょう。でも結構驚いたのは、校長先生を始め壇上に登る大人は皆が皆、国旗に向かって一礼したことです。官房長官の記者会見などで政治家が国旗に頭を下げているのは見ますが、地方の小さな一公立学校でも同じことが励行されているのです。そうするようにお上から指令が来ているのでしょうが、そのような瑣末な事ごとにまでお上が介入することに、背筋が寒くなる思いを禁じ得ませんでしたね。そんなことを思うのは、迂生だけでしょうか。

 そんな光景はあまり見たくなかったので、耐震補強した体育館(ダイヤモンド・トラスの鉄骨造でした)の補強ディテールをしげしげと見ていました。桁行方向に増設した鉄骨ブレースのガセット・プレートが、鉄骨柱のパネル・ゾーンに溶接されていたのですが、そのパネル鋼板が面外曲げを受けるので大丈夫かなあ、とか(もう職業病ですな、あははっ)。


夢で朋輩となる (2018年4月5日)

 夢などというものはおよそ支離滅裂で、筋道とは途方もなくかけ離れているということは誰でも知っています。そうではあるのですが、先日見た夢はやっぱり不思議でした。鉄筋コンクリート構造研究の大先輩である梅村魁(うめむら・はじめ)先生と二人でなにやら楽しげに談笑している夢です。ところがその梅村先生はわたくしと同じくらいかもっと若い姿形をされていたのですよ。これって、重松清の『流星ワゴン』における主人公と彼自身の若き頃の父親とが出会って朋輩となる、というシチュエーションと基本的に同じです。

 でも当たり前ですが、迂生が大学院生の頃、梅村先生は既にリタイアされた名誉教授でしたから、梅村先生のお若い頃などは知る由もありません。わずかに知るのは、建築会館の会議室だかに掲げられた梅村先生のお若い頃の肖像写真だけです。その梅村先生がわたくしの話しを聞きながらニコニコとされているのですから不思議です。

 学生の頃、迂生が梅村番だった話しは既に書きました。(以下は夢ではなく、回顧談です)梅村先生に料亭とか寿司屋とかスナックだとかに連れて行っていただき、差しで飲むわけです。そのときにどんな話しをしたのかはさっぱり憶えていません。でも、研究の話しはしなかったように思います。そういえば夢の中でも梅村先生が何を話していたのか分かり(覚えてい?)ませんでした。

 梅村先生が自分の孫みたいな年齢の大学院生を連れて飲み歩くことにどのような楽しさを見出しておいでだったのか、今に至るまでわたくしには分かりません。でも、多分それは梅村先生一流の哲学に基づいていたはずでしょう。そうすることが、同門の後輩に対する先達としての務めである、という風な感じでしょうか。

 残念ながら今のわたくしは、そのような境地には達していません。もちろん、いつも書いているように先輩方から受けたご恩を後輩にお返しする、という姿勢に変わりはありません。人間には持って生まれたものがやっぱりある訳ですから、梅村先生の真似が出来るとも思いませんけどね,,,。それとも、人生を経るにつれて到達するような種類のものなのでしょうか。まだまだ修行は続く、というような気がしますな。

 ところで青山・小谷研究室時代の写真って、ほとんど手元に残っていません。というのも、当時の研究室ライフを撮影した写真は全て研究室のスクラップ・ブックに貼り付けて、そこに残したからです。それらの冊子は当時は研究室のソファの脇の本棚に山積みされていましたが、研究室の代替わりとともにそれらもどこにいったのか、分からなくなりました(楠原文雄さんに聞けば、分かるのかも知れませんけど,,,)。

 そういうわけで梅村先生が写っている写真は一枚しか手元にはありません。ここではとっておきのその一枚をご紹介しましょう。これは梅村先生が青山・小谷研究室の卒業生や現役学生を招いてくださった宴会のときの写真です。場所は銀座の美々卯でした。そんな高級なところには行ったことがありませんでしたので、物珍しかったことは覚えています。

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 中央の梅村先生の前に坐っているのは定本照正くん(当時M1)で、右端は李康寧さん(M1)です。その左で両腕を広げているのは江村勝さん(M2)です。梅村先生の右脇には甲斐芳郎さん(OB)、その横にM1のわたくしがいて、その上に中埜良昭くん(M1)もいますね。梅村先生の左には細川洋治先生および田才晃先生のゴールデン・コンビ(助手)もおいでです。ちなみにこの写真を撮ってくれたのは塩原等兄貴(D2)でした。今から思えば蒼々たるメンバーですな、やっぱり。

 でもその頃は、自分たちがいったいどんな未来を歩むことになるのか、誰も知りませんでした(当たり前です)。そういうふうに茫漠とはしているものの前途洋々たる若人たちが放つ一瞬の輝き、そういったものが蘇って来る一枚です。


春の修羅 (2018年4月4日)

 今日は年に一度の重要行事の日でして、建築学会大会の梗概を提出する締め切りです。お昼の12時がタイム・アウトなので、我が社では楊Dichen くんがまだ梗概執筆に励んでいます。どうやら投稿できそうでよかったのですが、昨日の夕方に原稿を見せてもらってコンテンツの説明を受けて、またもや頭を抱えました。考えていたストーリーが成立しないという重大な欠点に気がついたのです(もっと早く見せろよな〜)。此の期に及んで一体どうすりゃいいんだよ、というぼやきが思わず漏れました。

 でもここで投げ出したら、せっかくの努力が水泡に帰します。一年間の努力が水の泡というのは楊くんにとっても迂生にとってもつらいですので、そこからわたくしが知恵を絞って、なんとか梗概を完成させて今朝に至る、です。斯くして久しぶりに修羅場が現出しました。もう若くないので、肉体的にも精神的にもつらいですねえ。できれば今後はご勘弁いただきたい、というのが正直な感想ですぞ。

 でも、楊くんは曲がりなりにも梗概を書くという意思を強固に持って投稿したので、偉いほうです。残念ながら我が社で梗概を執筆した学生はわずかに三名(鄒さん、扇谷さん、楊くん)に留まったからです。晋沂雄さんや優秀な大学院生が在籍したときには八、九編は投稿していましたから、それに較べると我が社のポテンシャルの低下は否めません(最近書いている通りです)。

 でも、それも結局は研究室の主宰者たるわたくしの力不足・指導不十分のせいであると反省しています(また反省か…)。なお、昨年度は芝浦工大・岸田研究室との共同研究を行いましたので、そちらで村上研くんと岸田慎司先生とが頑張って梗概を執筆してくれました(あちらもまだやっているようですが?、まあ大丈夫でしょう)。どうもありがとうございます。

 さて、今日は新生・建築学科の新入生ガイダンスが開かれる日でもあります。学科長および教室幹事にとっては一年間の長いロードの幕開けとなります。入学式は週末ですが、学年暦の都合でそうしないと半期15週の授業時間を確保できないのです。明後日からは授業も始まります。春の修羅とともに新年度が本格始動したといった感じですな、あははっ。


心機一転、あれこれ (2018年4月1日)

 ことしの新年度は日曜日スタートです。週末は家でのんびりしようと思ったのですが、建築学会大会の梗概の締め切りが近いため、その原稿がメールに乗って飛び交い、落ち着きませんでした。M1になった楊 Dichen くんの原稿を見たときには、こりゃ困ったわいと頭を抱えてしまいました。あと数日で何とかなるんでしょうか? でも、原稿を書いて見せてくれただけでも、えらいぞ!君って、褒めてあげないといけませんな。残念ながら現在の我が社はそのようなどん底の状況です。

 迂生の共同研究者で以前に我が社の特任助教を務めた晋沂雄さんが、本日、明治大学建築学科の専任講師に着任して新たな研究室を立ち上げました。テニュアの獲得、おめでとうございます。やはりかつて助手だった小山明男先生も明治大学教授ですので、狩野芳一先生の知己を得て以来、明治大学とはご縁が深いようです。本学と明大生田キャンパスとは距離も近いですので、これから一層活発に共同研究ができると嬉しく思います。晋沂雄さんの益々の活躍を期待します。

 そういえば、この四月からサヴァティカルを取る橘高義典先生の講義を代打(非常勤講師)として担当してくださるのが小山明男先生です。一年間、南大沢に通っていただくことになりますので、そのうち御礼かたがた一席設けて小山さんを慰労したいと思います、あははっ。

 さて、昨年秋に申請したJSPS科研費ですが、お昼頃に電子申請システムの個人ページにログインしてみると、その研究課題名と課題番号とが掲示されていました。日曜日でもそういう情報がちゃんとアップされることに、少しばかり感心しました。お上も随分変わったなあとも思います。

 とにかく、採択されてよかったです。これでこれからの三年間もなんとか実験による研究を続けられます。あ、ちょっと違いますね、研究を続けるための経費をゲットできただけで、どのように研究するかはこれからマネジメントしないといけません。ちなみに今回の研究課題は、鉄筋コンクリート(RC)建物の柱梁接合部における軸崩壊過程の解明とその防止設計法の策定です。

 これまで三回の科研費ではプレストレスト・コンクリート(PC)構造を対象とした課題を設定しました。すなわち十年近く続けたわけですが、そのテーマのかたが付いたということでは全くなくて、それらの研究によって様々な疑問とか新たな課題とかが山のように得られました。ですからPC構造を対象とする研究は我が社の研究の柱としてこれからも続けて行くつもりです。

 ただ迂生はもともとRC骨組の柱梁接合部の研究で学位を取得しましたから、今回はその本流に戻ったということができます。この契機となったのは塩原等兄貴からいただいた科研費による立体隅柱梁接合部の研究で、それらの実験を担当した片江 拡さんおよび石塚裕彬さんの研究成果は非常に大きかったと思っています。世界中の既往の研究や我が社での研究たちを土台として新しい研究に取り組むことができて、いやあ良かったですね〜。

 ということで我が社の本流の研究が復活しますので、研究室のメンバー諸君には気負って取り組んで欲しいと思います、って冗談ですよ、がははっ。研究に貴賤はありません。どのテーマでもやればやりがいがあるし、そのうち面白くなって成果も上がる、というものです。


2017年度の終わり (2018年3月30日)

 今日は金曜日なので、実質的に2017年度末ということになります。ことしも三ヶ月が経過したわけで、時の過ぎるのは早いものと感じます。そのあいだに自分自身が何を為したかと自問したところで明瞭な成果をあげたわけではありません。そのことに忸怩たる思いはありますな、やっぱり。若くて柔軟で優秀な頭脳たちが研究を進めてくれることに期待しているのですが、向こうにその気がないのなら、どうしようもないかという達観の域に至りつつあります。いえ、別に人のせいにしているわけではありません。全ては自分の力不足に起因しているのですから。

 さて、来週からは新学期が始まります。研究室の運営については先日書いたように現在思案中です。新しいメンバーの志向も把握しながら、考えてゆきます。数年前に打ち出した「先端研究」チームと「基盤研究」チームとの区分けを再度、明確にして、学生個々人のやる気と興味に応じたテーマ割り当てをしようと今は思っています。

 ことしの春は暖かくて、新年度の入学式の頃には葉桜になっているでしょう。我が家のそばの野川沿いの桜もすでに散り始めました。散る桜を見ると世の無常を感じずにはいられません。でも桜に対してそのように感じるのはどうやら日本人だけのようです。否、日本人といっても江戸時代以前ではそのような感情はなかったと言われます。それゆえ時代の流れとともに桜に対する日本人の思いも変転するのでしょう。

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馬酔木に思う (2018年3月27日)

 昨日、このページに校内に咲く馬酔木(あしび)の花を載せました。この花や葉っぱを馬が食べるとその毒によって酔ったようになるので「馬酔木」と書くそうですが、本当でしょうか(見たことはないので、受け売りです)。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:春の南大沢キャンパス_桜五分咲き20180326:IMG_0093.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:春の南大沢キャンパス_桜五分咲き20180326:IMG_0121.JPG

 この馬酔木の花から迂生がすぐに思い浮かべるのは、堀辰雄が書いた『浄瑠璃寺の春』という小品です。主人公の「僕」が浄瑠璃寺の門のなかへ石段を二、三段のぼったところで「ああ、こんなところに馬酔木が咲いている。」と馬酔木の花を見つけたことが書かれています。この作品を初めて読んだのは高校生の頃だったと思います。

 その当時は立原道造の詩に傾倒していたので、同じ四季派の文学者だった堀辰雄の小説等も読むようになりました。そうして読んだこの小品によって、浄瑠璃寺は迂生の脳裏に深く刻み込まれたのです。“じ・ょ・う・る・り”という音が脳内のどこかを活性化させるのかも知れません。

 立原も東大寺の日光・月光菩薩を詩に読んでいますし、堀も大和路を旅しました。それらの印象が青年だったわたくしに奈良に対する鮮烈な憧れを植え付けたのでしょうね、きっと。そうして、大学に入学すると何度か奈良を旅行しました。

 多分、建築学科三年生のときだと思いますが、同級生の黒野弘靖くん(現・新潟大学)と奈良・京都を旅行したときに、岩船寺とともに念願の浄瑠璃寺を訪ねたのです。でもこのときは夏休みでしたので、残念ながら馬酔木の花は見られませんでした。



 そのとき、池越しに撮ったのが上の写真です(古い写真ですので色褪せしているのはご容赦を)。浄瑠璃寺には瀟洒な三重塔が建っていて、建築史的にも重要な建物として知られています。この写真のあとに三重塔の深い軒の出や三手先等の組物の写真が続きますので、学生ながらこのことは認識していたのだと思います。

 その後、東京都立大学で教職を得て早々、学生達の奈良・京都旅行の引率者の一人として、早春の浄瑠璃寺を訪れることができました。このときは雪が降って、寒さに震える早朝に雪を踏みしめながら石段を登ったことを憶えています。東大寺のお水取りの時期でしたから、まだ馬酔木の花は咲いていなかったのでしょう。

 ちなみにこのときは建築史の石井昭助教授(当時/石井先生は先日逝去されました、合掌)および山田幸正助手(当時/現・教授)とともに学生諸君を引率しました。専門のお二人と較べて明らかに素人なわたくしですから何のお役にも立たなかったのは当然ですけど、がははっ。

 堀辰雄から触発された浄瑠璃寺の馬酔木の花は結局、未だに見たことはありません。その機会が今後あるのかどうかは分かりませんが、ほのかな憧れは夢のように見ているのがほどよいのかも知れませんね。


いい日 (2018年3月26日)

 卒業式が先週終わって大学内はいっそう静かになり、落ち着いた雰囲気です。暖かくなって桜も咲き進みましたが、南大沢ではまだ五分咲きくらいです。今朝はよいお天気で気持ちがよかったので、学内をのんびりと歩きながら登校しました。光の塔の内側の中庭では水仙と馬酔木の花が満開になっていました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:春の南大沢キャンパス_桜五分咲き20180326:IMG_0089.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:春の南大沢キャンパス_桜五分咲き20180326:IMG_0092.JPG

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:春の南大沢キャンパス_桜五分咲き20180326:IMG_0102.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:春の南大沢キャンパス_桜五分咲き20180326:IMG_0110.JPG

 この感じだとソメイヨシノは今週半ば以降に満開となりそうです。都心では既に満開になったみたいですが、南大沢は都心よりもかなり寒いので、まだまだ桜を楽しめるでしょう。


あいにくの卒業式 (2018年3月22日)

 きのうの春分の日は雪が降り、昨晩から明け方にかけては土砂降りの大雨でした。今朝もまだあいにくの雨模様です。登校一番、大型構造物実験棟に行って来ましたが、案の定、雨漏りがひどくで反力床の南三分の一くらいはびしょ濡れになっていました。電工ドラムなどが水浸しになっていましたので、使えなくなることを危惧します。

 我が家のそばの野川沿いの桜はチラホラと咲き始めましたが、南大沢のソメイヨシノはまだです。どんよりとした空模様で肌寒いなか、我が大学の卒業式・修了式が開かれます。せっかくのハレの日なのに、お天気があいにくで気分が盛り上がらないのは残念です。ちなみに我が家の愚息も今日が卒業式で、初めてネクタイをするというので、その結び方を教えてきました。それはそれでやっぱり嬉しいですね。

 さて研究室での研究のことですが、ここのところの停滞をなんとか打破したいということを最近書きました。でもよく思い出してみると、そういうことは過去に何度もあったような気がします。その年々で研究室のメンバーは異なり、各人の人間性や能力もまちまちですから、十把一絡げにして論じることは適切ではないですよね。そういう当たり前のことを再認識したところです。

 ですから、研究室のメンバーの個々の能力とやる気に応じて、気長に研究あるいは勉強してもらうしかないかなあと(半分、諦めの境地ですけど)思うようになりました。迂生のスーパー・ヴァイザーだった小谷俊介先生だったら「そんな甘いことは学生さんのためにならないよ」と断罪されそうです。でも、わたくしが大学院生だった頃に比べれば大学院進学率は大幅に上がりましたし、何よりも彼らの素養や考え方が大幅に変化したことは紛れない事実と感じます。なによりも、やる気のない人に研究をしてもらう積りは毛頭ありませんし、わたくしはそれほど悠長な人間ではありません。

 まさに時代とともに人間は変化するのです。それに逆らうことはできませんし、棹さしてもいいことはないでしょう。よその研究室を羨んでいても仕方ありませんので、この四月からの研究室運営をどのように変革するか、しばらく考えてみようと思います。何事もやってみなければ分かりません。例えば研究テーマの選択をこれまでは学生諸君に好き好きに任せていましたが、それをやめてこちらから指定するとか、研究室会議の司会を学生さんに任せるとか(角田研ではそうしているそうです)、などなど。こういうことをあれこれ考えるのは、それはそれで楽しいかもしれません。


桜はまだだけど… (2018年3月19日)

 昨日あたり、東京の靖国神社の桜(ソメイヨシノ)が開花したそうです。しかし南大沢ではまだ、かたそうなつぼみのままです。今週中には咲きそうですが今日も肌寒いですし、開花までにはまだしばらくかかりそうですね。ただ、新築された牧野標本館別館の脇で生き残ったアンズの花は今が満開ですし、ハクモクレンも一週間ほど前に咲き始めました。春本番がいよいよ到来するかと思うとやっぱり嬉しいですが、その前に花粉をなんとかしてくれ〜って言うのが偽らざる心境です。

 さて、新しい研究につなげることを目指して、研究室で今まで実施した実験のデータをこの四ヶ月ほど自分自身で検証しています。研究室を修了した担当者たちが残したデジタル・データで、多くはエクセルのファイルです。それらのデータをしっかり整理して残してくれたことに改めて感謝しています。

 ただ、それらの実験データを見ていると、まだまだ分析途上だったり、全く分析されていなかったりで、実験データをしゃぶり尽くすという域には未だ到達していないようにも思いました。また、こういうデータを見たいなあと思っても、当時の興味や研究目的から逸脱したものであれば、残念ながら測定していないことが多々あります。まあ、我が社の実験ではひずみゲージにしろ変位計にしろ、通常はべらぼうに設置していますから、これ以上付けろと言われても困るっていうのも事実なんですけどね、あははっ。その実例を以下に示しましょう。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC柱梁部分架構実験_岸田研_ネツレン_三井住友建設2017:1体目_スクライム工法_平面十字形:DSC_5476.JPG

 上の写真は、鉄筋コンクリート十字形柱梁部分骨組の実験における変位計設置の様子です。銀色の部材は変位計を保持するためのアルミ・アングルで、試験体のコンクリートに埋め込まれたねじ棒にナット締めでくっついています。黒い筒状のもの(小さくて見にくいです…)が変位を測定するための変位計です。試験体のおもて面はひび割れを観察するために空けておく必要があるので、裏面には写真のようにびっしり変位計が付いてます。簾のようにぶら下がっている灰色のコードは、変位計の信号をデータ・ロガーに送るためのケーブルです。

 これを見たらこれ以上変位計を設置するのはかなり大変、というかさらにアクロバティックにしないといけない、ということが分かるでしょう。ということで知りたいデータを得るためには、同じような実験を計画しつつも測定するものは異なる、っていうことになりそうです。まあ実験ってそういうもの、と思えば諦めもつきますかねえ,,,。


3・11に思う (2018年3月12日)

 きょうは本学の後期日程入学試験です。東大・京大が後期日程入試を廃止したためでしょうが、この入試に対する世間の関心は驚くほど低いです。まあ、よそさまのことはどうでもよいのですが、これが終わると長かった入試シーズンが終わりますので、受験生のみならず大学教員も安堵するわけです。もちろん、採点や合格発表までの作業はまだまだ続きますけどね,,,。

 さて、先週末に久しぶりに中学校の同級生たちと会いました。新宿区立T山中学校から当時の22群の都立高校(T山高校とA山高校との二校)に進み、その後、期せずして同じ大学に進んだ友人たちです。新橋のとある飲み屋だったのですが、そこは各地の高校ごとの寄せ書きノートを置いていて、OB達が自由に閲覧・記述できるというのがウリでした。そのノートはお店の本棚にきれいに整列して置かれていますが、勝手に取り出してはいけません。料理等の注文と一緒に、高校名と自分の氏名を紙に記入して、お店のひとにノートを持って来てもらう、というシステムでした。

 そこでわが母校のノートを見たのですが、見知った同級生が二人ほど書いていました。そうやってパラパラと見てゆき、ノートを閉じました。でも、なにか引っ掛かりました。そうして、最後のページに「原子力」という文字が書いてあることに気が付いたのです。むむっ?、これって…。

 高校生だった頃、担任の内藤尤二先生(故人)がどういう訳かひとりの先輩の名前の話しをしてくれたことをそのとき、突然に思い出したのです。そのひとのお名前が「原子力」じゃなくて”原子 力”でした。姓が「原子」、名が「力」という方です。珍しいでしょ、やっぱり。親御さんがどういうつもりで名付けたのか知りませんが、とにかくかつて高校生の頃に聞き知った方が、突然に生身の人間として目の前に姿を現した瞬間でした。

 で、そのページをよく見ると、原子力さんはわたくしの八年先輩で、すでにお仕事をリタイアされたことが書かれていました。多分、ご本人にお会いすることはこの先もないのでしょうが、2011年の3・11以来、原子力さんがどのような気分で過ごされて来たかは想像に難くありません。別に彼のせいでも何でもないのですが、とにかくひとりの先輩に幸あれと思わずにはいられませんでしたね。

 ことしの3・11は日曜日でした。さる用事があって高速道路を走っていて、途中のサービス・エリアに車を停めました。そこのポールに日章旗とNEXCOの社旗が掲揚されていたのですが、それらが半旗になっていることに気が付きました。あれ、どうしてだろう? しばらくして今日が東日本大震災の日であることを思い出しました。忘れるはずはないのですが、四六時中それを意識しているわけでもないので、このような仕儀に相成ったものと思われます。

 幸いなことに迂生はその半旗の意味に気が付きました。しかし、周りの人たちはそこに半旗が掲揚されていることにさえ気付いていないようで、幸福そうに通り過ぎてゆきました。もちろんひと様の心情まであずかり知ることはできませんが、とにかく見た目には何ごともなく過ぎて行ったように思いました。

 あの日に起こったことはひどいことばかりで、その教訓は心して活かさなければなりません。風化させてはいけない、とも言われます。確かにその通りなのですが、人間はつらかったり苦しかったりすることは忘れることによって自身の人間性を保つようにプログラムされています。ですから忘れてはいけないということを理屈では分かっていますが、からだが本能的に忘れようとすることはどうしようもありません。これこそ、まさに人間の持って生まれた原罪のひとつであると思いますね。

 時が全てを癒す、ということもあります。時を経るにつれてひとは忘れてゆきます。このことの功罪とか意味とかを滋養の如くに噛みしめながら、これからもわたくしは生きてゆこうと思います。


システム切り替え (2018年3月6日)

 三月早々に本学計算機センターのシステム切り替えがありました。数日前の休日にその作業が行われましたが、わたくしのようなエンド・ユーザには特段の問題もないだろうと思っていました。確かにメールの送受はそうでした。

 ところがこのページを更新しようとしたところ、FTPエラーが返って来て大元にアクセスできず、更新ができなくなりました。また、トップ・ページの冒頭にあったカウンターがブラウザに表示されなくなりました。

 そうかあ、これはシステム切り替えの影響かなと思って、計算機センターの担当者に対策を教えて下さいと依頼しました。その結果、多分、センターの皆さんが色々と修正したり対策を講じて下さったことと思いますが、今日の午後になって復旧しました。そういうわけで今、このページを書いてアップしました。ご対応いただいたセンターの皆様にあつく御礼申し上げます。

 ネット環境って都市のインフラ・ストラクチャーと同じで、普段使っているときにはそのありがたさを意識することなく、恩恵を享受しています。でも一旦、不都合が起こるとハタと困るわけですねえ。そういう意味で、この素晴らしい環境を保全して下さっている縁の下の力持ちに対する感謝の念を、ときには思い出してもバチは当たらなかろう、と思った次第です。


耳ネタ2018 March (2018年3月5日)

 花粉のつらさが真っ盛りの今日この頃ですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。春になったので(って関係ないか…)いま聞いているモノを幾つか。ひとつは伊藤銀次が久々に出したアルバム『Magic Time』です。五年ほど前に彼自身が選曲したベスト・アルバムが出ましたが、オリジナル・アルバムとしては多分、三十数年振りくらいじゃないかと思います。

 伊藤銀次のアルバムのなかではやっぱり『Baby Blue』(1982年)が名作です。大学生の頃、貸レコード屋で右下のレコード・ジャケットを見て、思わず借りてしまいました(自宅でカセット・テープに録音)。横尾忠則のデザインです。ちなみにレコードは透明なブルーでした。彼が佐野元春のバンドのギタリストだったことは当時も知っていましたが、唄を聴いてみるとうまいのか下手なのか、よく分からん、というのが第一印象でしたね。その点では稲垣潤一の第一印象と同じです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:MAGIC TIME.jpg 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:511UfDDb2+L.jpg
 アルバム・ジャケット2017年          1982年

 さて『Magic Time』ですが、もうすぐ七十歳というのに銀次ワールドは全く変わっていませんでした。ビートルズのサウンドがその底流にあることとか、歌詞がとにかく照れくさいこととか。これが六十代後半の老人の書く詩とはとても思えないくらい、気恥ずかしいです。唄声もそれなりに若々しく聞こえます。二年前に亡くなった村田和人さんの「堕落の夏」という曲をファルセットで唄っているのは結構すごいです。

 もうひとつは家内の持っているクラシックのアルバムを聴き始めたことで、手始めに今まで全く聴いたことの無かったグスターヴ・マーラー(Gustav Mahler)を選びました。マーラーには『大地の歌』を含めて11曲の交響曲がありますが、どういう訳かこの年齢まで聴いたことがありませんでした。どうしてなのか分かりませんが、馴染みがなかったということでしょうか。

 その交響曲のうち第1、2、3、5、9および10番(これは未完で第1楽章だけ)をこれまでに聴きましたが、長い曲が多いこと(第3番は100分以上!)、合唱や独唱の歌が入る曲があること、オーケストラの編成がとても大きいこと、の三つが特徴だと思います(音楽の専門家ではないので、定かではありませんが…)。

 それらを聴いた感じでは、親しみ易い旋律がそうそうあるわけではなく、なかなか敷居は高そうだなというのが感想です。そのような中で、第5番の第4楽章は10分ほどの短い楽章ですが、ストリングスとハープとがゆったりとして美しい旋律を奏でていて、なかなかにGoodです。

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 マーラーの交響曲の三大特徴(迂生が勝手に言っているだけですけど)を上述しましたが、それらは演奏会を開くときにはいずれも障壁となり得るものばかりです。実際、わたくしはマーラーのコンサートに行ったことはありませんし、家内がマーラーを演奏するというのも聞いたことがありません。と思って家内に聞いたら、2番や5番はよくやるよ〜ってことでした、あははっ。

 マーラーの交響曲を全曲踏破するにはまだしばらく時間がかかりそうです。でもよく考えたら、ベートーベンだってモーツァルトだってその交響曲全てを聴いてはいません。コンチェルト(協奏曲)だってたくさんあります。まだまだ聴くべき?楽曲はしこたまあるってことですから、楽しみながら聴き続けようと思います。


治った話しと理由書 (2018年3月3日)

 桃の節句です。太陽がまぶしい良いお天気になりましたが、花粉は相変わらずでたまりまヘンデル。今年は急に来て、それがまた数年来の激しさなので、頭の中には常に薄膜がかかったようで、ぼーっとしていることが多いここ数日です。

 このように花粉にギャフンと言わされている迂生ですが、昨日、花粉症治ったぞ〜っていうひとに立て続けに出会いました。お昼に校内を歩いていると電気の清水さん(教授)が涼しい顔をして歩いてきます。彼も今までは激しい花粉症だったはずなのにと不審に思って尋ねると、タバコをやめたら花粉症がなおった、と言うのです。ホントか〜。その晩、帰りの南大沢駅で出会った土木の上野さん(准教授)が、遭難しかけた山中で沢の生水を飲んだら花粉症が治ったんですよって言うんですよ。ホントか〜。いずれも羨ましい限りなのですが、その理由がいずれもにわかには信じ難くて、頭をひねりながら帰りました。

 さて年度末なので、予算の残額を消費する必要があります。わたくしの科学研究費補助金は最終年度でして、それで赤字のボールペンを購入しました。税込198円です。ところが事務方・会計係からこの時期にボールペンは買ってはならぬ、とクレームが付きました。ええ、なぜですか〜。そのロジックは結局はよく分かりませんでしたが、科研費の研究はこの三月末で終了する建前ですから(本当はそんなことありませんよね…)、それまでのわずか数週間でこの赤ペンがどのように役立つのか、また三月末までにそれを使い切ることができるのか(!なんじゃ、こりゃあ)、というようなことでした。

 あんまり驚きましたが、じゃあどうすれば良いかと聞くと、その赤ペンをお店に返却して他の(購入しても良い)製品に買い換えてくれ、というのです。ええっ、たったの198円ポッチでそんな面倒なことするのかよ、と正直思いました。赤ペンは既に使っていますし…。本気かあ?と思ってさらに折衝すると、それでは赤ペンをこの時期に購入する理由書を提出してください、それでなんとかしましょうと言うのでした。そのほうがまだマシですから、A4用紙一枚の理由書を作成しました。科研費の研究報告書を作成して推敲するときに紙版の書類に赤字を入れてその作業をするために必要、といった内容です。

 科研費にせよ大学校費にせよそれらは税金によって賄われていますから、事務方のその態度は原則に則っていて職務に忠実なそれであるとは思います。でも、大学において先端研究を担う研究者(教員)にそのような(瑣末といっても良いような)仕事をさせることは資源の無駄であり、本来すべき研究に当てる時間が減るのですから、結局は税金の無駄遣いだと言うことに気がつかないのでしょうか。

 なんにつけ原理原則を振り回されると、それがある一面では正論なので始末に悪い、とはこのことか。いずれにせよ大学も過ごしにくくなったなあ、ということを実感させられる出来事でした。ただ事務方にはいつもお世話になっていますし個人的にはいいひとばかりですから、このことで今までの信頼関係を放逐しようなどとは思っておりません。そこのところは誤解のないようにお願いします。


花粉全開 (2018年3月1日)

 三月になりました。朝方、土砂降りの雨が降りましたがそれも上がって、今は真夏のような陽が照りつけています。それに比例して花粉ちゃんがはしゃぎ回っちゃって、もうつらいのなんの、体はだるくて頭はボーッとして何も考えられません…。これじゃ、今日は使いモノにならんなあ〜。

 今日の教室会議で、この四月からの学生の研究室の部屋割りが決まりました。引き続き二室を使わせていただけることになってよかったです。ベース(729室)のほかに、壁谷澤研究室の学生さんと合わせて八名を収容します。角田誠教授の隣の部屋(766室)なので、学生たちには静かに使うように言い聞かせましょう。昨日書いたように二国間の交流および相互理解の促進を目指して、来年度の部屋割りは慎重に決めようと思います。


二月晦日 (2018年2月28日)

 二月は二十八日までしかありませんから、きょうでお終いです。通常の月よりも二、三日少ないわけですから、損したのか得したのかよく分かりませんけど、なんだか慌ただしい気分が少しばかりいたします。

 今年の二月は昨年と比べるとかなり寒く、我が家の暖房費は昨年の五割増しでした。逆に言うと去年の冬は暖かかったということですかね。それでもここに来て、やっと少しばかり温かみのある日々が到来し、春の兆しを感じられるようになりました。それは嬉しいのですが、今朝は花粉がキャピキャピと跳ね回って、ものすごいことになりました。息苦しくて寝ていられなくなって、仕方がないので早起きしたような案配です。

 さて、昨日、久しぶりに研究室会議を開きましたが欠席者が続出して、この四月に投稿する建築学会・大会梗概の執筆分担についての相談がほとんどできませんでした。研究をしていなければ研究成果があがるはずもありませんから、どうしようもない、ということですかねえ。

 今年度は研究室会議を毎週開き、先端研究を話題としたレクチャーを五回に渡って行いましたが、それらの効果が目に見えるようなことは残念ながらありませんでした。このことは研究に対する興味とか熱情とかを持っている学生諸氏が少ない、ということを如実に物語っているような気がします。感じるに、今の大学院修士課程の学生のレベルは20年くらい前の学部学生のそれと同じか、それ以下です。たぶん大学教員の多くは同じことを感じていると思います。

 そういう状況にあって、大学院生だからといってそれなりの研究成果を求めることが土台無理な話しなのかも知れません。数年前の思索から、研究室内の活動を先端研究と基盤研究とに分けて、学生諸君に希望する方を選択してもらうようにしたつもりです。しかし今年度はその色分けが不明瞭だったのか、彼らにそのことがよく伝わらなかったようです。研究についてのスタンスを彼らに明確に表明させる(研究したいのか、それとも研究はそこそこでよくてただ単位が取れればいいのか)ことも含め、この四月からの研究室会議の態様についてどのように変革すべきなのかしばらく考えてみます。

 もうひとつは、中国からの学生をちょっと受け入れ過ぎたかなという苦い反省です。今年度は日本人と中国人とは半々でしたが、そのようにしたのは異国のひと達と交わることによって双方に良い影響を及ぼし合うことを期待したからでした。人数が多くなれば研究室内での議論が活発になり、研究室の活性化が自ずと計れると踏んだのです。

 でも、それは幻影でした…。双方が研究室の中で議論したり交流したりすることは、残念ながらほとんどありませんでした。日本語は難しいですから、中国人同士で固まっていた方が居心地が良いし、意思疎通もできます。わたくしだって外国に行けば日本語が通じないことで心細くなりますから、彼らのBehavior はよく分かりますよ。でも、それでは何のために小職の研究室に所属するのか、ということになりますな。

 外国から苦労して日本に来て研究を志向する若者であれば、是非支援したいと思っています。しかし、見ず知らずの人間がどのような思考の持ち主なのかを掌握することは、口で言うほど簡単ではありませんでした。わたくしに人を見る目がなかったと言ってしまえば、それまでですけどね,,,。研究室の運営は人助けではありませんから、今後は年に一人程度の外国人学生を受け入れるくらいに改めようと考えます。残念なのですが、今は考えを斯様に変えるに至りました。


大学入試 前期二次試験 (2018年2月26日)

 きょうは国公立大学の前期二次入学試験の第二日です。南大沢駅前から大学に続くペデストリアン・デッキには受験生の長い列が続いていました。河合塾や駿台予備学校などののぼり旗も翻っていました。予備校の先生方が激励に来ているのでしょうか。受験生のなかには大きなスーツ・ケースを引張っているひとや親御さんと一緒のひとも見かけました。それを見ていると、大学受験ってやっぱり大変だなあという感慨を新たにします。

 毎年、同じ光景を見ていますし、あまつさえわれわれ大学人にとっては学校行事の一つとしてルーチン・ワークになり果てているので、無感動になっていることが多いように思います。しかし受験生にとっては一生の大事ですし、その家族にとっても一大イベントで大変な日々をおくって来られたものと推察します。そのことは明治維新後の近代日本に大学が誕生してから、今に至るまで本質的に変わることはありません。ですから、受験生の皆さんには笑顔で春を迎えて欲しいものだと心底から思いますね。


改正する (2018年2月22日)

 今日から京王線のダイヤが改正になりました。ところが初っぱなから電車が遅れているのはどうしたわけでしょうか。鳴り物入りで打ち出した京王ライナー(全席指定の特別車両)とか、京王相模原線の運賃値下げ(これは3月17日から)とか大々的に宣伝しているのに、幸先の悪いスタートといったらないですねえ。昨日、南大沢駅を降りると改札の先で駅員さんが配っていたのがダイヤ改正のクリア・ファイルとパンフレットです(下の写真、A5サイズです)。こんなものを貰ったのは初めてですよ。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:京王線ダイヤ改正パンフレット20180222:P1020496.JPG

 それくらい京王電鉄は力を入れているということでしょうが、そこには多摩ニュータウンに乗り入れる小田急線の劇的改善(都区内の複々線化完了)による乗客の争奪があると言われます。多摩センターから新宿への選択肢として今までは京王線が圧倒的なシェアを占めていたのですが、ここにきて小田急が急追しているそうです。京王は安閑としていられないと判断して対策を打ったわけです。

 夜間のみに運行される京王ライナーは新宿—多摩センター間を24分で結ぶというのですから、もしそれが本当なら(って、今までの運行状況を見ると甚だ疑問ですけど,,,)相当に早いです。京王相模原線の値下げ(わたくしの場合には片道20円下がります)も露骨な小田急対策ですよね。ただ運賃については、もっと早く値下げできたはずと勘ぐりたくなりますな。

 こうやって色々やるのはいいのですが、迂生のような各駅停車しか停まらないマイナー駅を利用している者にとっては、ますます不便になりました。特急、準特急、急行、区間急行、快速等とスピードを謳った編成ばかりが増えて、そのしわ寄せは鈍行列車に押し付けられます。これらの電車を通過させるための待ち合わせ時間が半端なく増え続けているのですよ。今回のダイヤ改正によってどうなるのか、戦々恐々としているわたくしでございます。京王ライナーに至っては迂生にはなんのメリットもありませぬ。

 また大学に通うための電車もわたくしの使う駅から南大沢駅まで一本で行ける電車は朝六時台の一本を除いてなくなったみたいです(今までは七時台にも一本だけあった)。調布駅での乗り換えは必須ですが、下手をすると多摩センター駅でも乗り換えないといけません(今朝がそうでした、とほほっ)。なんでそんなに不便なの?っていう感じですぜ。

 このような不便を家内にこぼしたら、急行が停まるつつじヶ丘駅の利用に代えたらいいじゃないのって言われました。確かに我が家から早足で歩けば16分くらいで行けますが、途中にある国分寺崖線の急坂を登らないといけないのであまり気が進みません。もしかしたら贅沢な悩みかも知れませんけど、あははっ。


いざ鎌倉 (2018年2月21日)

 鎌倉時代って、源頼朝が幕府を開いてから、その子である頼家、実朝と続く源家将軍が三代で途絶えるところまでは有名で、歴史の教科書などにも詳しく説明されています。でも、そのあと鎌倉幕府が滅亡する1333年(後醍醐天皇による建武の親政)までのあいだはどのような時代だったのか、皆さんあまりよくは知らないのではないでしょうか(もちろん、わたくしもほとんど知りません)。

 実朝亡き後は、頼朝の正妻・政子の実家である北条氏が執権となって権力を握り、京都から名ばかりの宮将軍を呼んで来て奉ったことくらいは知っています。でも、鎌倉幕府が約150年も続いたことは計算すればすぐに分かりますが、そもそも実朝後の鎌倉時代についての認識が希薄なので、そんなに長いこと続いたことにあらためて驚くわけです。時代小説にしても、この北条氏全盛の時代を舞台としたものは読んだ記憶がありません。

 そもそも北条氏ってどういう一族なのか、また鎌倉時代にどのような役割を演じたのかについては、わたくしはほとんど知りません。そこで先日、大学図書館から『北条氏と鎌倉幕府』(細川重男著、講談社選書メチエ、2011年)という本を借りて読んでみました。この本では論点が明確に提示され、古文書の原文ではなくて意訳を示すことで読み易く、理解が進むように記述されています。著者はかなりくだけたひとみたいでして、分かり易いという点でとても良かったです。

 その本のなかに得宗(トクソウ)とはなにかという疑問に対する見解が縷々書かれていました。北条氏の家督(本家)のことを得宗と呼ぶのですが、なぜそう呼ぶのかなんて考えたこともありませんでした。さすがに本職の歴史家は視点が違いますな〜。歴史家のあいだでもこの問いに対する答えは出ていないみたいです。

 そこで示される著者の見解は、得宗とは北条義時の追号(没後に贈られる名前)であるとします。「徳崇」というのが曾孫・北条時頼が義時に贈った号だったそうですが、その当て字の「得宗」が一般に用いられるようになった、としています。なるほど〜っていう感想です。ただしこの説がどの程度、歴史界で支持されているかについては何も書かれていませんでした。

 また北条時頼(ほうじょう・ときより)の諸国回遊伝説も書かれています。このお話しは「鉢の木」の逸話(注1)として知られ、そこで重要な舞台となるのが鎌倉街道です。鎌倉で一朝事あれば恩顧の御家人たちが鎌倉に馳せ参じるために整備された、“いざ鎌倉!”のための道路のことです。鎌倉街道は特に関東地方には張り巡らされていたようで、今もその名前は各所に残っています。わたくしが少年時代を過ごした東京都目黒区にも「鎌倉街道」という切り通しのような道路がありましたし、大学のそばの多摩市永山にも鎌倉街道と表記された道路があります。

 1923年の関東大地震によって出現した鎌倉時代の遺構についての記述もありました。この大地震による地盤の液状化によって木杭七本が水田に浮き上がって出現しました(茅ヶ崎市下町屋という国道一号線のすぐ脇です)。関東大震災の遺構や記念碑を調べている武村雅之さん(名古屋大学教授)が聞いたらいかにも喜びそうな話しですね。

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      出現した当時の橋杭(茅ヶ崎市のHPより)

 この杭ですが、源頼朝の重臣だった稲毛三郎重成が旧相模川に架けた木橋の橋杭であるとする説が歴史家の考証によってなされ、現在はそれが通説となっています。どうしてそこまでピンポイントに断定できるのか、素人の迂生には分かりませんが、橋杭の年代測定では鎌倉時代初期のものであるという結果が出たそうです。

 こういった逸話には歴史のロマンを感じますし、約八百年の時を経て大地震による液状化によって出現したというのもドラマチックではありますから、事の真偽にそれほど目くじらを立てなくてもよいのかも知れません。ご興味のある方は茅ヶ崎市のホームページをご覧下さい(「旧相模川橋脚」で検索)。

注1 鉢の木の逸話… 鎌倉幕府第五代執権の北条時頼が出家して、旅僧に身をやつして諸国を行脚した(これ自体が伝説と言われていますが,,,)。上野国佐野で大雪に見舞われてあばら屋に一夜の宿を借りた。その家の亭主、佐野源左衛門常世は大切にしていた鉢植えの梅・松・桜を火にくべて旅僧への馳走とした。常世は「今は落魄しているが、鎌倉で事あれば馳せ参じる覚悟である」と語った。後日、いざ鎌倉の号令が発せられて武士たちが鎌倉に集合したとき、佐野常世もそのなかにいた。それを見つけた北条時頼は彼を褒め、梅・松・桜の名前がつく荘を与えた[以上は武部健一著『道路の日本史』からの要約]。


お祭り騒ぎ中 (2018年2月15日)

 韓国での冬季オリンピックで世間は大騒ぎのようですね。日本の選手からもメダリストが誕生しているとのことで、ご同慶の至りでございます。でも、迂生はオリンピックには興味がありませんので、そういった競技をテレビで見ることはありません。

 ニュース等をチラッと見ただけですが、毎度のことながら日本人のことしか報道しませんね。日本の選手が銀メダルのとき、じゃあ誰が金メダルを獲得したのか(報道しないから)分からない、ということすらあります。でも、心密かに眉をひそめるのは、メダルを取ったひとを急に持ち上げて、それまでの経緯とか努力とかをこれでもかとばかりに報道することでしょう。

 メダルをとったひとには、努力が報われてよかったね、素晴らしい、と素直に賞賛の拍手を贈りたいと思います。でも、誰にも知られることなくひっそりと暮らす市井の人びとだって、誰もが努力しているし、悲しい体験やつらい思いもしています。人生を生きるということは、一つとして同じものはなくて、誰もが特筆に値するものを必ず持っていると思います。そういう市井のひととオリンピックのメダリストとはどこが違うのだろうか、と考え込んでしまいます。

 ですから、オリンピックでメダルを取ったひとをスーパー・ヒーロー/ヒロインであるかのように持ち上げるのはやめたほうがよい。そういった報道は、当該者の人生のなかのほんの一瞬を額縁に納まるように切り取って見せているに過ぎません。あっそうか、メダルをとったひと自身もメディアの取材とか報道には辟易としているのかも知れませんね。

 オリンピックには巨額の資本が注入されて、それにかかわることによってご飯を食べているひとも多いのでしょう。それを思えば、メディアが大騒ぎするのもやむを得ないかも知れません。当初のクーベルタン男爵の理念はいつだって標榜されますが、現実にはそんな食えないモノにこだわるひとはいないんだろうな、きっと。ところで、このオリンピックのお祭り騒ぎはいつまで続くのでしょうか(それすら知りません…)。


ある最終講義 (2018年2月10日)

 世間ではインフルエンザが流行っているそうで、ついに我が家からも罹患者が発生いたしました。それは愚息なんですが、昨晩から発熱しまして、今朝、超満員の病院に行ってインフルエンザB型を宣告されました。そういうわけで、うつるんじゃないかとビクビクしながら登校しました。
(追伸;今のところまだ感染していないみたいです,,,0213)

 きょう、わが大学において教授および特任教授を合計十年に渡ってお勤めいただいた青木茂先生の最終講義がありました。既存建物に新たな価値を賦与しながら再生する(青木さんの言うところの)リファイニング建築の第一人者としてつとに知れ渡っているのが青木さんです。非常にバイタリティに満ち溢れたかたで、明朗でおおらかなこともあって、多くの人たちが彼に引き寄せられて(あるいは巻き込まれて?)一緒に仕事をして来ました。

 迂生が初めて青木さんにお会いしたのは十数年前、彼のリファイニング建築の実作を見学するために福岡・大分に出かけたときです。この頃は本学・建築学科(都立大学時代)が文科省のCOEプロジェクトに採択されていたときで、そのなかのプロジェクトの一環として上野淳先生(現学長)や角田誠先生らとチームを組んで活動していました。このチームのメンバーで大分へ行き、お美味しい夕食を青木さんからご馳走になったあと、彼の運転する車に乗って青木さんのご自宅に伺いました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:大分・福岡リニューアル建築2004:IMG_0075.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:大分・福岡リニューアル建築2004:IMG_0112.JPG

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:大分・福岡リニューアル建築2004:IMG_0114.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:大分・福岡リニューアル建築2004:IMG_0121.JPG
写真 青木茂先生の作品(左上:宇目町役場、右上:八女市立福島中学校体育館、左下:八女市多世代交流館、右下:同内部)

 でも、その青木さんがわが大学の教授(建築学域ではなくて、学長直属の戦略研究センターでしたが…)に着任して、あまつさえわたくしの部屋の隣人になるとは夢にも思いませんでしたね。そんなご縁のせいでしょうか、兵庫県南部地震で被害を受けた(が、仕上げ材に隠れたために十年以上もその被害が認識されなかった)RC建物の改修を青木さんが手がけることになったときに、迂生にお声がけいただきました、こんな建物がありまっけど見に来ませんか、と。で、青木さんに連れられて見に行ったのが左下の写真です。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:神戸青木さん現場/伊丹有岡城2009:CIMG0176.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:青木事務所at広尾にて2009:CIMG0343.JPG
    写真 改修現場での青木さん(2009年)  東京の青木事務所にて(2009年)

 これを契機としてこの建物の個々の部材の損傷状況をまとめて被災度区分を判定し、耐震診断や解析によって耐震性能や地震時挙動を推定しようという研究に取り組むことになったのです。その担当を我が社の大学院生だった白井遼くんにお願いして、青木さんとの共同研究がスタートしたのでした。右上の写真は広尾の青木事務所で打ち合わせをしているスナップです。

 このプロジェクトの成果は白井くんの『大地震動を受けて生き残った鉄筋コンクリート造建物の耐震性能に関する研究』と題する修士論文にまとめられ、日本コンクリート工学会年次論文(「1995年兵庫県南部地震で倒壊を免れたRC造建物の耐震性能」こちです)や建築学会大会梗概として発表されました。修論のタイトルでは「生き残った」という文言を使いましたが、JCI年次論文の査読の際に「生き残った…」というのは論文らしくないので改めろという意見が付いたため、「倒壊を免れた…」に修正したことをいま思い出しました。

 青木茂さんは建築家ですから、建築計画系のかたとのコラボレーションは多いと思います。でも、建築家と共同で査読付き論文を書いた構造研究者は迂生くらいじゃないかと思いますね。もっとも青木さんにとってはたいした業績にはならないでしょうけど、がははっ(建築家はやっぱり建ててナンボの世界ですから)。

 その後も青木さんの改修現場の幾つかに呼んでいただき、こちらからアドヴァイスをしたり、逆にいろいろなことを学ばせていただいてもおります。下の写真は六本柱のRC集合住宅の改修現場で、人物の奥に鉄筋コンクリート袖壁補強が見えています。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:青木リファイン建物_三田2010:CIMG0698.JPG
写真 ある改修現場にて(中央は須永修通教授、右端が青木さん、2010年)

 閑話休題、話しを現在に戻しましょう。最終講義では、青木さんの苦労の連続が紹介されました。今でこそその方面では超有名人になっていますが、そこに至る道程は平坦ではなかった、ということです。ピンチを乗り越えることによって成長したとも言っていました。

 でも、わたくしが一番印象に残ったのは、質疑応答のときに発せられた「デザインは消費されてやがて忘れられるが、構造や構法は後々まで残る」という言葉です。これは耐震補強とデザインとをいかに融合させるかに腐心してきた青木さんらしくて、新築Orientedな意匠バリバリの建築家とは大きく一線を画するところでしょう。まさに青木茂さんの面目躍如たるものがありました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:青木茂先生最終講義20180210:IMG_0082.JPG
 写真 講義後の花束贈呈(プレゼンターは多幾山法子准教授)

 これで本学の教授職は退かれることになりますが、青木茂さんのご活躍は益々続くものと思っています。この時代が彼を必要としているようにも見えますから。また、なにか面白いことがありましたら研究をご一緒したいと思いますので、ぜひお声がけ下さい。

 今まで本学での教育・研究にご尽力いただいたことに、あつく御礼申し上げます。


卒業設計の採点 終わる (2018年2月8日)

 今日の午前中は卒業設計の採点がありました。朝9時過ぎに会場に行って、三時間半余り費やしてやっと採点が終わりました。今年は23名の学生諸君が卒業設計にアプライしたので人数が多くて、採点にも時間を要しました。毎年のことですが、とても疲れました。

 今年は作者諸君と話しをせずに淡々と採点しようと考えました。そうすれば時間が短縮できると踏んだからです。でも採点を始めてから、それはやっぱり無理ということが分かりました。作者のコンセプトとか狙いを聞いて実作を説明してもらうと、疑問だったり意見だったりが湯水のように湧き出て来ます。そうすると、すぐに議論が始まってしまうんですね〜。気がつくと一時間かけてまだ五作品しか採点していないことに気が付きました。これじゃ、いくらなんでも間に合わないので、その後は少しスピードアップしましたが、それでも冒頭のように多くの時間が必要でした。

 彼ら/彼女らの説明を聞いて、それを理解できて、さらにその内容に共感できれば一番ハッピーなのですが、いくら聞いても何を考えているんだか理解できないことも多々ありました。これって、迂生が老人化して若者の思考を理解できないのか、それとも彼らがロジカルに説明していないのか、にわかには分かりません。でも、すれ違った壁谷澤寿一准教授に聞いてみたところ、全然分からなかったって言ってましたから、後者だろうということが分かりました、あははっ。

 総体としては、思いもよらないようなアイディアを提示した作品などもあって、見ていて楽しかったです、そんなことを考えるのか〜っていう感じ。経験はないものの若者らしい試みが随所にあって、そのことも好ましく思いました。ジジイになって来たせいでしょうか、うんうんよく考えたねえ、いいんじゃないの〜好きにやったら、みたいな好々爺然とした感覚になって参りました。でもまあ、いいか、採点はきっちり(厳格に)やりましたから…。


発表会進行中 (2018年2月6日)

 今週は本学・建築都市コースおよび建築学域の一連の発表会が行われています。昨日は卒論発表会、本日午前中は修士設計講評会、本日午後から明日夕方までは修論発表会です。われわれ教員にとっては座って聞いているだけとはいえ、かなりの忍耐を要する苦しい一週間ですね。

 今年度はプロジェクト研究室の担当がありますので、修士設計講評会にも参加しました。今、プロジェクト研究室の市川さんの修論発表が終わって戻ってきましたが、ギャラリーの少なさに唖然としましたな。修士研究は相当に専門的となりますから先生が少ないのは仕方ないとしても(非公式発言です、あははっ)、大学院生や学部学生諸君の参加が少ないのは問題ではないでしょうか。友人や先輩の研究内容に興味がないということですからね。まあ、例年のことですが、暗澹たる気持ちがするのは事実です。発表会や講評会はまだまだ続きます。気が抜けません…。


入れ替える (2018年2月5日)

 昨年の半ばくらいから、iPodに格納した曲を最初から通して聴いてきましたが、年が明けてやっと全曲聴き終わりました。クラシックから演歌まで約1700余曲をアルファベット順、あいうえお順、数字順で聴きました。ちなみに最後の曲は山下達郎の「2000トンの雨」でした(ああこれ、角田さんから貰った曲だったな)。電車のなかではクラシックの繊細な音が聞き分けられず、イライラしたりもしました。でも、次にどんな曲が来るのか分からずに聴いていると、なかなかに新鮮だったりもしました。ほとんどランダム・ソーティングといった感じでした。

 ということで全曲聴いたので、iPodの曲を大幅に入れ替えようと思います。どのアルバムにするか、特定のアーティストに集中するかなど、しばらくはその選択に悩みそうです。それは結構面倒な作業でもあります。ですから、気分次第で、お気に召すまま、Listen to the melody、寝ても醒めてもメモリー、楽しもうと思っています。

 先日、お蔵から発掘したCDに大貫妙子の『Drawing』(1992年)がありました。この人の声って透明感があって、頭のなかに直接飛び込んでくるような質です。まあそれが善し悪しだったりもしますけど…。このアルバムの印象は全く憶えていませんでした。で、CDを回すと一曲目がなんだかアフリカの民族音楽みたいな感じで、そのイントロだけ聴いて蔵入りされちゃったのかも? でも、そこを我慢して聴くと、木管楽器やピアノがフィーチャーされた、とても綺麗でJazzyなメロディが現れました。こりゃ、いいんじゃないですかね。文字通りの掘り出しモノでした。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:大貫妙子_Drawing_ジャケット.jpg

 サウンド的にかなり分厚い曲もあって、それはちょっと大滝詠一師匠(元をたどればフィル・スペクター)風のWall of Sound を彷彿とさせます。聴くほどにじわっと滋味がしみ出てくる、そんな曲も幾つかありました。若いときにはその良さが分からなかったかも知れません。


二月になって (2018年2月1日)

 二月になりました。先週降った雪はかなり溶けましたが、大学構内には根雪になって未だに歩けないところが散在しています。わが大学の建物は傾斜屋根が基本となっています。そこから雪がどさっと落ちることがまだ続いていて、危ない限りです。先日も教室棟から外に出ようとしたところで迂生の目の前に多量の雪が落下してきて、そのときばかりは肝を冷やしました、危なかったなあって。直撃したら死ぬかもしれませんから…。

 まだまだ寒くて明日はまた雪が降るという天気予報になっています。そうではあるのですが、ここ数日、わたくしの鋭敏なセンサーが反応し始めました。そう、花粉です。鼻がムズムズして不快なんですねえ。キャンパス内の杉の木も明らかに黄色く色づいていますから、そろそろ飛び始めたように感じます。嫌な季節の到来です。

 昨日、我が社内で卒論および修論の発表練習をしました。学生諸君にはプレゼンテーションの極意を伝授したつもりだったのですが、皆さんそのことをすっかり忘れ果てたように見えて、正直言ってものすごくガッカリしました。

 この時代ではマイクロソフト・パワーポイントというソフトウエアのお陰で、誰でも綺麗なスライドを作ることは可能です。でも、何のために誰に向かって発表するのか、という基本は不変です。仏作って魂入れず、みたいなことにならないように、心して発表の準備をして欲しいと切に願います。

 でも、いつも思うのですが、スライドの情報量は必要最小限にするとか、字をできるだけ大きくするとか、スライドを指しながら説明するとか、そういったプレゼンテーションの基本って、驚くほど実行されません。これはどうしてなんでしょうかね? そういう基本を教えてくれるひとがいない、というのが最大の理由かもしれませんが、少なくとも我が社では口を酸っぱくしてず〜っと叫んでいます。そういうことどもを思うとき、結局は他人に分からせる発表をしたい、理解して欲しい、という情熱の欠如が最大の原因のような気がします。それじゃ、もったいないと思いますけどねえ。


異文化に触れる (2019年1月31日)

 ある委員会から意見を聞きたいと言われたので、昨晩、出かけて行きました。建築計画系の先生方が主体の委員会で、建築構造の専門家として呼ばれたわけです。委員の皆さんのお名前はときどき見かけるとはいうものの、いずれも初対面の先生たちでした。

 で、そこでいろいろな議論が交わされたのですが、他者の論文の評価がとても手厳しいことに驚きました。専門の先生たちですから、それぞれの見識や経験に従って述べていることは分かります。でも、そういった辛辣な意見・見解あるいは感想は、構造系であれば委員会後の飲み会あたりで話題にするようなものですな。あの論文、ちょっとひどいよな〜、みたいな感じで。

 もちろん伺ったご意見はいずれもなるほどと思うようなものですが、立場や見方が変われば評価もまた変わるでしょう。でも、そんな風に思うのは自然現象を相手にする迂生だけで(自然界では真実はひとつだけですから)、人文学に近い計画系では多分に主観的な論文が多い(?)のでそれだけ意見や見立てが割れるのだろうと想像します。建築学の学問領域が違うと、そこに醸成される文化がかくも異なるものかと改めて驚いた次第です。それと同時に、自分の論文がそんな風に酷評されないように心しないといけないぞと、褌を締め直そうと思いました。

 ところで、この委員会の開催場所は初めて行くところでした。不案内な土地(って、バリバリの都心ですけど…)のうえに周辺が暗くてよく分からず、結局、15分くらい遅刻してしまいました。まあ、仕方ないだろ、俺らはアウト・サイダーなんだからと自分勝手に思って会議室に入って行きました。ところがここで、想定外のことが起きました。

 わたくしのファミリアな分野では遅刻するひとがいても、会議は定刻に始まるものです。特にわたくしは委員でもなんでもなくて、単なる参考人です。ですからこの委員会も既に始まって審議が進んでいるものとばかり思っていました。ところがなんと全員がお揃いのなかで、迂生がやって来るのを待っていて下さったのです。その状況を理解した途端、急に慌ててしまいました(って、遅いですけど、がははっ)。どうもすみません、ペコペコともうそりゃ、ひら謝りです。

 多分、お揃いの先生方は初めて来るのにコイツ遅刻しやがって、と苦々しく思っていたことでしょうね。だって異文化なんですから、わたくしたちの常識とは異なっていて当然です。いやあ、いろんな意味で異文化を満喫して刺激を受けた三時間でした(議論がまた長くて収束せず、三時間も掛かりました、とほほ…)。


住宅の耐震性能 (2018年1月29日)

 先日の新聞に、内閣府の調査では住宅の耐震性能を把握していない(正確には住宅の耐震診断を実施していない)ひとが過半数であるとの報道がありました。まあ、予想されることではありますが、そういった現実を突きつけられるとやっぱりちょっと暗澹たる気分になるのは確かです。

 木造一戸建てにせよ、マンションやアパートでも、自分が住む建物の耐震性能に無頓着なひと達が驚くほど多く存在するのはなぜでしょうか。大きな地震は滅多に来ませんし、いつ来るかも分かりません。そんな曖昧なものに気を遣ったり、お金を費やしたりしたくないということでしょうが、なんとなく気持ちは理解できます。江戸時代の庶民は、建物が火事で焼けたり地震で倒れたりしたらすぐに建て直せばよい、という思考でした。しかし当時の人たちにはそういった現象を理解したり制御したりできなかったために、ある意味、諦めの気分というか達観していたのでしょう。

 でも、科学技術が進歩した現代は違います。そのような江戸時代の人々のDNAがわたくし達のなかに脈々と流れているのは事実です。しかし、地震による建物の被害を軽減して命や財産を守る手段をわたくし達は手に入れました。地震自体は制御できず、それがいつ発生するかも分かりませんが、何もせずに地震の為すがままに任せるというのでは、われわれの研究は何のためだったのかということになって、やり切れません。

 東京にも大地震が近いうちに必ずやって来ます。まずは自宅の耐震性能を把握して、必要であれば耐震補強等の対策を講じて欲しいと思います。自分の身は自分で守るしかありません。それはこれまでの幾つかの震災の経験から明らかですよね。

 またお上は、個々人の住宅の耐震性能向上のために公費を多量に費やすことはできない、などと言うべきではありません。地震後の復興に費やす金額を考えれば、事前に公費を投入することになんの不都合がありましょうや。住宅が倒壊して道路を塞いだり、住むところがなくなった人々に避難所や仮設住宅を提供することを考えれば、結局は事前の対策によって減災を計るほうが遥かに効率が良いと考えます。

 市井の皆さんおよびお上の方々の両方に是非とも意識改革をお願いします。


立ち上げる (2018年1月25日)

 雪のあと記録的な寒波がやって来たということで、確かに寒いです。そのせいでしょうか、南大沢キャンパスの雪は溶けないままに根雪の様相を呈していて、寒さがひとしお身に沁みます。

 さて、年始当初に記したように大学院のプロジェクト研究コースを2019年度に立ち上げることで、先日、話がつきました。建築計画学の竹宮健司教授にチーフになっていただき、角田誠教授が知恵袋を務め、そこに迂生がぶら下がるというチームです。

 そのプロジェクトのタイトルは『モダン・ムーブメント建築の動的保存・更新に関する総合的戦略 〜計画・構造・生産の各技術の変遷とその応用〜』です。建築計画、構造、生産の各分野の知を動員することによって、大正から昭和の時代の鉄筋コンクリート建物を使いながら保存するための更新手法を総合的に検討する、というものです。“モダン・ムーブメント建築”としているのは、保存する価値のある建物(名建築と言ってもよいでしょう)を対象とする旨を暗示しています。

 今後は、大学院入試の説明会でこのプロジェクトを紹介して、多くの希望者を集めることが重要となります。現在のプロジェクト研究では、M2・市川望さんが磯崎新のアートプラザ(旧大分県立図書館)の改修設計を取り扱っていますが、それが結構、深みがあって面白いことに気づきました。新プロジェクトでは対象建物は他のものにするとしても、それをさらに発展させることができると楽しくなりそうだなと思っています。


 (2018年1月22日 その2)

 天気予報の通りに雪が降っています。研究室がある建物の7階から新宿方向を撮ったのが下の写真です。かなり激しく降っているので、遠くまでは見通せません(多摩センターすら見えないようです)。風も強いようで横殴りに雪が降っていて、こりゃ大荒れな天気です。

 きょうは都心で建築学会の委員会がありますが、こんな日に出かけて電車が止まったら、命にかかわりますな(ちょっと大げさだが、もう老年に差し掛かっているので本人としては結構、本気です)。ですから、もう少し様子を見て、遭難しないかどうか慎重に見極めようと思っています。電車が止まって都心で足止めされたら、それこそ目も当てられませんからね。

追伸:研究室の窓から京王線の高架線路が見えないほど雪が激しくなってきました。結局、都心遠征は取りやめました。ぶら〜っと研究室に入って来た角田誠先生も、それがよいと勧めてくださいましたから…。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:雪の南大沢_9号館7階より20180122:IMG_0056.JPG

 本日のお昼は卒論および修論梗概の提出締め切りでした。我が社の皆さんはなにがしかの原案を見せてくれましたので、その点は昨年度よりも良かったです。でもやっぱり時間が足りず、満足のゆく議論をできた人は少なかったのが実際であって、その点はとても残念です。いつも言っていますが、時間の管理を自分自身でしっかりとやって欲しいと切に願います。


バブル時代の空気 (2018年1月22日)

 どんよりとした、気の滅入るような朝ですね。南大沢では既にみぞれというか、あられのようなものが降り出しました。天気予報通りに雪になりそうな感じです。

 さて小室哲哉氏が音楽界から引退する、というニュースがありました。彼がどのような仕事をして来たのか、その音楽も含めて全く興味はありません。でも、そういえばTM Network というグループで活動していたな、ということを思い出したのです。手元には彼らの『Dress』という1989年発表のCD一枚だけがありました。そこで、これまた久しぶりにパソコンのDVDスロットにぶち込んで聴いてみました。ジャケットを見ると三人組だったことが分かります。メンバーの木根尚登(きね・なおと)は思い出しましたが、もうひとりは誰だったかな?



 このアルバムには「Be Together」や「Get Wild」という曲たちが入っていて、そういえばこんな曲あったな、という微かな記憶も蘇って参ります。しかしそれらはピコピコ打ち込みの電子音が過剰なほどに溢れていて、耳に鋭く突き刺さってくるディスコ・ミュージックの権化のような曲たちでした。若い頃はそんな刺激が耳に心地よかったということでしょうか…。う〜ん、不思議だなあ。

 なぜこのアルバムを購入したのか、今となってはなぞです(そのようなアルバムがたくさん手元に残っているのですが、あははっ)。でも彼らが流行ったのはまさにバブル真っ盛りの頃でした。すなわち、それはそういった豊穣の時代に渦巻いた熱気を確実に表徴するものと言うことができるでしょう。しかし少子高齢化の時代を迎えて全てがシュリンクしてゆく現代において、こんなにのうてんきに騒々しい曲はお呼びでないっていう気がします、そらぞらしいだけって言うか…。やっぱり時代の風って、なんにつけても大切だと思います。

 それでも本物の名曲であれば時代の淘汰を経ても生き残り、時を超えて多くの人たちに愛され続けるのでしょうね。


あれから二十三年 (2018年1月17日)

 兵庫県南部地震によって阪神淡路大震災が発生してから、きょうで二十三年になります。1995年のあの日も今朝と同じようにどんよりと曇っていたような記憶があります(もう四半世紀近くも前ですから、間違っているかも知れません)。

 地震から約一ヶ月後、文部省から建築学会に委託のあった、文教施設の被災度区分判定と指導書の発行等の業務に従事しました。我が社の社員だった池田浩一郎くん、香山恆毅くん、西川研の姜柱さんたちに同行してもらって、現地調査を実施しました。

 そのときに担当となったひとつが、写真の西宮市立西宮高校です。この写真は学会などの報告書に載っていますので、ご記憶の方もおありかと思いますが、鉄筋コンクリート校舎の右三スパンの一階が崩壊しました。

 ところで、わたくしが地震被害調査に初めて出かけたのは、1987年の岩手県中部を震源とする地震のときで、当時は博士課程の大学院生でした。田才晃先生(当時、東大工学部助手)をチーフとして、隈澤文俊さん(当時、東大生産技術研究所助手)、中埜良昭さん(当時、東大大学院)というメンバーです。田才さんを除いた三人は同年齢ですから、経験のない若者ばかりで田才さんはご苦労されたのではないかと推察します。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:市立西宮高校:西宮高校A棟全景02

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:市立西宮高校:市立西宮高校A棟02

 この1987年の被害調査のときには、一階が潰れるような激しい被害はなかったと記憶します。その後、兵庫県南部地震(1995年)の約三週間前に三陸はるか沖地震(1994年12月末)が起こって、年明け早々にその被害調査に行きましたが、そのときに初めて一階が潰れた鉄筋コンクリート建物を見たわけです。

 そういう体験をしてはいましたが、兵庫県南部地震による写真のような部分崩壊はあらゆる観点から迂生の脳裏に強く刻み込まれました。潰れた一階は家庭科教室ですが、地震は早朝に起こったために生徒さんに被害はありませんでした。不幸中の幸いです。しかし、もしも地震が授業中に発生していたらどうなったか…。それを思うと背筋の寒い思いが今もするわけです。

 この建物では一階柱がせん断破壊して、さらに上部の自重(軸力)を支えきれずに右下に滑り落ちて、半階分ほど落階しました。一番、避けなければならない最悪の破壊形態です。その教訓を忘れないようにするため、この写真は大学での講義や高校への出前講義のときには必ず使っています。それでも、もう二十三年も前の出来事かと思うと隔世の感がいたします。今の大学生諸君は阪神淡路大震災のあとに生まれたひと達です。彼らに「あのときは…」とわたくしが遠くを見るような目をして語っても、なんのことだか知らない世代なんですねえ。


今年は出せなかった… (2018年1月16日)

 きのうはコンクリート工学(JCI)年次論文の締め切り日でした。新年早々にやって来る、この査読論文提出のために年末から年始にかけて苦労するのが、例年の恒例行事でした。ところが今年はそのような苦労をすることはなく、何ごともなく安穏と通り過ぎて行きました。残念ですが、我が社から投稿する論文は一編もなかったからです。まあ、静かな諦念とともに時は過ぎていったという感じです。

 思い返すとJCI年次論文には、1992年に本学に北山研が創設されて以来、毎年一編以上は必ず投稿してきました。その時々の大学院生諸君が頑張って一緒に論文を書いてくれた賜物です。そういう研究室の伝統みたいなものが連綿と受け継がれて来たと(勝手に)思っていたのですが、どうやらそれは幻想で、いつの間にかそれは途切れてしまっていたようです。若い頃には学生諸君に檄を飛ばして、論文書くぞ〜みたいなノリでしゃかりきになっていたような気がします。

 ところが齢を重ねるにつれて、そのような熱情が少しづつ失せてきたように感じます。学問に対する熱気が枯れてきたと言ってもよいかも…。学生諸君の自主性に任せるなどと言うつもりは毛頭ありませんが、彼らからみれば論文を書けとガミガミ言うことのない、物分かりのよさげな先生(好々爺?)に成り果てているのかも知れませんな。

 でも、ひとを育てるという観点からは、このような“物分かりの良さ”は忌むべきものと心得ます。しかしそれと同時に、研究成果を論文にして発表したいという態度を学生諸君自身から発して欲しいという(淡い)希望があるのも確かです。そういう気持ちの行ったり来たりを繰り返しながら、やがてどちらかに収斂してゆくのでしょうが、いずれにせよ好々爺になるにはまだちょっと早い気がしますね。

 いっぽう、いつも書いていますが、先端研究に取り組んでその成果を論文としてロジカルにまとめる一連の作業を経験することこそが、大学院に在籍することの意義であると迂生は認識しています。我が社に所属する院生諸君にはこのことを是非とも再認識してもらい、日々精進して欲しいと願っています。


入試の風景 (2018年1月13日)

 今朝はものすごく冷え込みましたな。南大沢駅に降り立つと、そこはスキー場のような刺すような冷たい空気が張り詰めていました。気温は多分、氷点下だろうと推察します。東京は快晴で良かったですが、日本海側では大雪で皆さん難渋されているようです。お見舞い申し上げます。

 そんな寒さや雪のなか、大学入試の本番を告げるセンター試験が始まりました。例年のことですが、この時期は雪や寒さが到来する確率が高く、なんでこんなにコンディションが悪いなか、国を挙げての一大イベントを開催しないといけないのか。大学入試の内容を改革するよりも、入試の時期とか制度そのものを改革した方がよろしいのではないかと愚考いたします。雪の激しい地域の受験生は前日から近くのホテルに泊まり込むとか、当日は安全をみて早めに試験会場に着いて寒いなか門前で待っているとか、どう考えても公平な試験とは言い難いですよね。

 わたくしが受験生だったときはまだ共通一次試験でしたが、そのときは東京でも雪が降ったことを憶えています。試験会場は東大駒場キャンパスだったのですが、山手線の渋谷駅ホームがものすごく寒かったことや、そこで中学時代の同級生を見かけたことなどをありありと思い出します。

 共通一次試験が終わって自己採点をしたところ、思ったほど点が伸びずにヒヤリとしました。でも二次試験で挽回すれば大丈夫だろうと気を取り直したように記憶します。まあ、大昔のことですからいい加減ですけど、あははっ。その当時は試験問題は全て受験したのですが、今はアラカルト方式になっていて大学が指定する科目だけを受験すれば良いので、システムとしては大きく変化したわけです。しかしマークシートを鉛筆でグリグリとマークする解答方式は不変でして、受験生の心理としてはなんら変わるところはないのでしょうね、やっぱり。


ふたたびの再会 (2018年1月11日)

 昨晩、研究室の新年会を南大沢で開催しました。卒論生の藤間淳くんが幹事になって企画してくれました。昨年末に忘年会をやらないのは残念であるという主旨の文章をこのページに書きましたが、それを見たのかも知れません、分かりませんけど…。いずれにせよ、研究室の学生諸君の生態?がよくわかって楽しかったです。

 ただ、座った席が右側は日本サイド(五名)、左側は中国サイド(五名)と完全に分かれていたのは少し残念でした。迂生はちょうど真ん中に座っていましたので、両サイドの話しを聞けましたけどね。壁谷澤御大の流儀にならって、日中が交互に座るっていう風にすればよかったかも、あははっ。

 さて、この席に特別ゲストを招きました。2015年3月に本学大学院を修了した楊 森[ヤン・セン]くんです。彼はその後、祖国に戻って構造設計の仕事をしていましたが、同窓の姜 柱さんとともに活動するために、このたび来日しました。かつて「しばしお別れ」という一文を記しましたが(こちら)、それから約三年で再びあいまみえることができました。

 楊 森くんが言うには、この三年のあいだ、日本語を使うことはなかったということですが、とても上手な日本語を話し、こちらの言うこともちゃんと通じましたので、そのことに結構驚きました。なぜ日本に再び来たのか質問したところ、北京よりも東京の方が馴染みがあるから、と言っていました(ホントか〜)、おもしろいですね。

 再会は予想したよりも少し早かったですが、元気な様子の彼にふたたび会うことができて、とても嬉しく思います。姜 柱さんも戦力として大いに期待しているようです。楊 森くんのこれからの益々のご活躍をお祈りしています。


他山の石とせず (2018年1月9日)

 大阪大学の入試ミス事件が報道されています。物理の問題に不具合があって正答が複数あった、ということのようです。入試問題は(通常であれば)複数の目で何重にもチェックされますから、出題者が見落とすような正解がほかにもあったというのは結構驚きました(問題自体は見ていませんので、どのようなレベルの不具合だったのかは知りません)。それとも、設問自体が曖昧だったのでしょうか。

 でも迂生が一番驚いたのは、正答が別にもあるという指摘が外部から来たときに、それに対応して問題の再チェックを行なった担当者がわずか二名だった、ということです。阪大ともあろうものが物理学の教員はたくさんいるだろうにもかかわらず、です。多勢の目で見ていれば、確実にもっと早く気が付くことができたと思います。ミスの発見が昨年の五月とか六月くらいであれば、その後の対応の仕方はまた変わったはずです。すなわち、今回のミスによって不合格とされたが採点のやり直しで合格となったひと達(三十名ということです)のリカバリーはまだ容易だったと想像できます。

 人間ですから誤りはありますし、ミスもします。ただ入学試験は受験者の人生にかかわるレベルのイベントです。それゆえ出題して入試を実施する大学関係者としては、それを極力減らすように努力しなければなりませんし、実際にものすごく苦労しているはずです。それでも、やはりこういうことは起きるのだと認識し、起こった後の対応についても想定することが必要なのでしょうね。この出来事を他山の石とすることなく、入試に携わる大学人としてこころしたいと思います。


仕事始まる (2018年1月5日)

 わが大学では昨日が仕事始めでした。朝、いきなり教室会議で始まり、午後は卒業設計・修士設計の中間発表会でした。今日からは授業も始まります。来週末にはセンター試験という一大イベントがありますから、年明け早々からせわしなく落ち着かない生活が始まるってわけですね。学生さんも冬休みが小学生よりも短くて、ちょっと気の毒な感じがします。

 なぜ大学がかように忙しくなったのか、それは多分、文科省から半期15回の授業の実施を厳しく求められるようになったためであると迂生は認識しています。わたくし達が学生だった頃には、休講ばかりの先生も多々おいでだったように記憶します。それがいいとは言いませんが、それでも学生達は(適当だったかも知れませんが)自身で勉強して、あるいは友人の手助けを借りて、単位を修得して卒業したわけです。

 今思えば、古き良き時代だったのでしょう。世の中が今に較べれば遥かに鷹揚で、のんびりと構えていた印象です。そんな固いこと言わずに、もっとフレキシブルに臨機応変に行こうぜ、っていう感覚です。でも、そういう雰囲気だったからこそ、のびのびと研究に取り組むことができたようにも思います。

 厳格にやるのもいいのですが、余裕のない硬直化した状況は息苦しく、なんにつけても良いことはないだろうと思量します。誰かの敷いたレールにしがみつき、そこから逸脱することを極端に恐れる気持ちは、これまでの多くの日本人が共有する意識だったと思います。だからこそ忖度が行われ、政治において他人任せの風が吹いたりするわけでしょう。

 でも、そういう日本独特の社会風土がおかしいぞっていうことに気がつき始めた人も多いのではないでしょうか。それは多分、若い人に多いのだと思います。彼らの行動は理解できないと言われることがしばしばありますが、それ自体がその証左でしょうな。

 そのような社会的な“おかしさ”に今の大学も取り込まれてしまっています。社会からの近視眼的な要求に答えようと汲々とするのではなく、大学が本来持つべき存在意義を再度、問い直してみるべきではないでしょうか。それが何かはこのページで再三書いてきたことですから繰り返しませんが、ひとことで言えば、ひとつの事柄を時間をかけてじっくりと探求し、蘊奥の窮理に邁進することです。


お正月終わる2018 (2018年1月3日)

 ことしもお正月休みは三ヶ日でお仕舞いですね。明日からは通常業務かと思うと、もうちょっと休みたかったなあって思います。ことしは買い物どころか初詣にも行かずに、家でゴロゴロして過ごしました(家人は出かけましたが,,,)。それでもちっとも退屈なんぞしやしません。本を読んだり、音楽を聴いたり、新聞を読んだり、メールをチェックしたり、チラッとテレビを見たりで、こうして時は過ぎてゆきました。

 年頭に当たって今年の抱負を考え、新たな目標を設定するのが、世のおとなの正しい姿勢なのでしょうが、どうにもそんな気が起こりません。日々、健康で気分よく、何ごともなく平穏無事に過ごせればこんなにありがたいことはないと思う、この頃でございます。

 そうでした、年末に同僚の角田誠教授から宿題が出ていたのでした。わたくしの建築学域では大学院にプロジェクト研究コースというコースを設置しています。分野の異なる数名の先生方がチームを組んでプロジェクトを設定し、それに大学院生を募集するというものです(もちろん入試を経て入って貰います)。このコースは手を替え品を替えして十数年続いてきました。そのせいもあって、先生方のモチベーションが下がってきたようです。来年度はプロジェクト研究コースの募集が停止になりました。

 でも、今後数年のうちに三人の教授(建築史学、建築設計および建築環境学)が定年退職を迎えます。そうなると研究室数が減るわけでして、大学院定員を充足させることが今以上に大変になると予想されます。それを案じた角田さんが、受け入れの間口を広げるためにプロジェクト研究コースを復活させようぜ、と迂生に相談しにきたのでした。では、なにをテーマとしてプロジェクト研究をするか。それをこの正月休みに考えることになりました。

 あやうく忘れかけたこの宿題について、少し考えて二つばかりアイディアをひねり出してみました。自分がやりたいことを考えるのですから、この作業は楽しいです。もちろんチームでの研究活動ですから、他分野の方の参加の方法も考える必要がありますけどね。ただ、その辺りはあまり自信がありません。

 明日以降、角田先生と具体に相談しようと思います。でも建築構造学主体ではひとは集まりませんから(だって、それなら小職の研究室に入って貰えばよいだけです)、やっぱり建築計画系の方に音頭を取っていただかないと人寄せパンダ(?)にはならないと思いますけどね、やっぱり。

 でもだんだんと年齢を重ねると、自分のいる建築学科(この四月からの名称)の運営・管理に責任を持たないといけなくなります。それまでは、お年を召した、ある意味老練な教授方にその役を果たしていただいて来ました。でも、そろそろ自分自身がそういう役回りの年頃に達して、ひと任せにはもう出来ない、という時期に達したということみたいです。そうか、こういう認識を強くした、ということに今年の正月休みの意義はあったと考えると、気が楽になりました。ああ、よかった〜。


耳ネタ2018 January (2018年1月2日)

 新年二日目も穏やかなよい天気です。家人は恒例の箱根駅伝をず〜っと見ていますが、迂生は興味ありません。テレビ局はどうしても新しい“伝説”を箱根駅伝に創作したいらしく、アナウンサーが絶叫したり連呼したりするのがいと浅ましく、益々興ざめしてゆくばかりです…。走っている若者たちは、そんなこと考えて走ってないぞって、こっちが声を大にして言いたいくらいです 。

 さて、日頃からGood Vibration をキャッチすべく、アンテナを四方に広げているのですが、そんなことしなくても自分の手元にあるかも知れません。時々書いていますが、大昔に買ってそのまま忘れ去られた(お蔵入りの)CDたちがたくさんあって、未だにiTunesに格納していないアルバムがしこたま残っております。そこでお正月でちょうどよいかなと思い立ちまして、洋モノを五枚ほど聴いてみました。以下のアルバムです。

 バナナラマ(Bananarama)『The Greatest Hits Collection』1988年
 ドナ・サマー(Donna Summer)『Mistaken Identity』1991年
 キャリン・ホワイト(Karyn White)『Ritual Of Love』1991年
 キャリン・ホワイト(Karyn White)『Make Him Do Right』1993年
 アレクサンダー・オニール(Alexander O’Neal)『Love Makes No Sense』1993年

 バナナラマなんて覚えていましたか、懐かしいでしょう?、ご同輩。並べてみて気が付きましたが、いずれも1990年前後のバブル真っ盛りの頃の作品で、三十年近くも聴くことのなかった曲たちでした。この頃は東北自動車道や京葉道路を真っ赤なプレリュード(ホンダの2000ccクーペです/4WSと称して後輪も操舵される珍しい車でした)でかっ飛ばしていた頃で、車のなかでCDを聴きまくりました。

 で、久しぶりに聴いてみると、まさに当時流行ったディスコ・チューン満開といった感じの、騒々しい曲が多かったですね〜。なんでこんなアルバムを買ったのか、我ながら首を捻ることしきりでした。

 でも、それらのアルバムのプロデューサーの名前が、ストック・エトキン・ウォーターマン(Stock & Aitken & Waterman)だったり、ジャム&ルイス(Jimmy Jam & Terry Lewis)だったりするのを見て、若い頃には彼らのサウンドにかぶれたこともあったな、と思い至りました。この時期に一世を風靡したリック・アストリー(Rick Astley)なんかがその申し子の例です。

 バナナラマのアルバムはベスト盤のせいか、アップ・テンポの曲ばかりでバラードは一曲も入ってなくて、聴いていてさすがに疲れました。二、三曲ならまだしも全曲ハイ・テンションっていうのは、はっきり言って老境にさしかかった人間にはちょっとつらいっす、あははっ。ドナ・サマーやキャリン・ホワイトも、キャンキャンうるさい曲が多いような感じで、もういいやって思います。

 ただキャリン・ホワイトはアルバムを三枚しか出してなくて、『Make Him 〜』が彼女の最後のアルバムのようですから、もしかしたら今ではレア盤かも知れません。これにはしっとり落ち着いたバラードも入っていて、聴き込むとそれなりによくなる曲もあるかも知れません。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:Make Him Do Right.jpg  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:Love Makes No Sense 1.jpg

 アレクサンダー・オニールはなかなかによいです。ブラック・ミュージックの王道を行くような感じがします。アルバム冒頭は前作(『All True Man』1991年)のようなロック・テイストなシャカシャカした曲で始まるのですが、だんだんとミディアム・スローな曲に変わって行き、そうかと思うとモータウン調の明るく楽しげな曲が出てきたりします。

 そして、極めつけはラストの「Your Precious Love」と「What a Wonderful World」という名曲です。前者はマービン・ゲイの、後者はルイ・アームストロングのそれぞれカバーですが、元の曲がよいこともあって、アレックスの唄もとてもよいです。これは嬉しい再発見でした。

 ということで、通算で344枚のアルバムをパソコンに格納しました。でも、あと何枚残っているのか、数えていないので分かりません。まあ“よい音楽探し”のためにこれからも追々、続けてゆきましょう。


賀正2018 (2018年1月1日)

 明けましておめでとうございます。目覚めると快晴で気持ちのよい新年最初の日となりました。ありがたいことではございます。

 お昼過ぎに年賀状を投函しがてら野川沿いを散歩しましたが、風もなく穏やかで暖かな陽射しを感じることができました。野川の水量は例年になく多く、清らかそうに見える流れがサラサラと流れて行きます。今年が今日のように穏やかに暮れ、名もなき小川のように何ごともなくつつがなく流れてゆくことを切に願って止みません。

 我が家では朝は恒例のお雑煮(関東風)をいただきました。お餅はスーパーで買った「佐藤の切り餅」です、かわりばえしないですな、あははっ。でもお昼にはもうスパゲッティをいただきました。正月らしくありませんな、まったく。

 お酒はもうほとんど飲みません。でも、お正月くらい縁起物として飲むかということで、近所のパルコに出店していた小嶋総本店という蔵元の純米生原酒を家内が買ってきましたので、それを飲んでいます。山形県米沢の「東光」という銘柄の地酒です。昨年末にしぼったばかり(29BY)の生酒なのでフレッシュですが、その反面まだ角がとれていないので、キシキシとしたザラ付き感は否めません。でも、まずまず甘めの飲み口で、それなりに美味しくいただいております。なお、この酒壜のフタはスクリュー・キャップではなく、プラスチック製の打栓でした。珍しいです。

 子どもはかなり大きくなったせいか、今年は凧揚げに行こうとは言いませんでした。その代わりでしょうか、女房と一緒に近所の公園にテニスをしに出かけました。こうやってだんだん大人になって行くのでしょうね。それはそれで嬉しいのですが、反面、ちょっとした寂しさを感じたりもします。複雑な親心、とでも申しましょうか。

 今年一年が皆さまにとってよい年となることをお祈りします。では、本年も変わらぬお付き合いの程、よろしくお願い申し上げます。



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