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 このページは北山の日々の雑感をあれこれと独白するコーナーです。このコーナーは十五年めとなりました。皆さまにお付き合いいただけることにいつも大いに感謝しています。

 なお言うまでもないかとは思いますが、ここに記すことは全て個人的な見解であることを申し添えます。こいつ、なに言ってるんだろうっていう感じで笑い飛ばしていただければありがたく存じます。

 お正月が明けた今日から2023年版を掲載します。更新は例によって不定期ですがよろしくご了承をお願いします(2023年1月5日)。



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歳末余照 (2023年12月28日)

 御用納めです。ちょっと寒いですが、まずまずのお日和の年末になりました。昨年は風邪だかなんだかをひいてしまって年末はずっと休みましたが、ことしは幸いなことに健康な年の瀬を迎えることができました。日本の八百よろずの神さま達に感謝を申し上げたいと思います。

 年明け早々に日本コンクリート工学会(JCI)の年次論文の締め切りがあります。この数年、残念ながらわが社からその論文を出すことはできませんでしたが、今年度はM1の藤村咲良さんが執筆にトライしてくれています。当人にとっては初めての査読付き論文なので慣れないことも多くて大変でしょうが、なんとか形になるように相談を続けています(先ほどいろいろ議論して、「はじめに」を書き直してみました)。

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 沖縄・辺野古の米軍基地工事ですが、玉城デニー知事は最後まで拒絶を貫いたために、お上は福岡高裁の判決に従って代執行を実施するそうです。沖縄県知事をはじめとして沖縄の皆さんには本当に気の毒に思います。だってお上から見捨てられた形になるじゃないですか。本来であれば国民を庇護すべき立場にあるお上がそれを無視して、米国のほうしか見ていないわけです。なんだかなあって思いますよ、ホント。日本国の安全は大切ですが、そのための方策についてはもっと議論を続けて、解決を模索すべきと思います。それとも、もうそういう段階は過ぎたのでしょうか…。国家あって国民なし、みたいな現状はとてもよくないと思います。

 かように自民党政権には期待できないわけですが、じゃあ野党はどうかというと以前の民主党政権も結局は辺野古移設を承認したわけですから、野党でもダメということになります。じゃあ、日本に住むわれわれ民草はどうすりゃいいんでしょうか。革命的な人物の登場を待たないといけないとすれば、それは当分先のような気がしますし、そういう想定外の事態に期待しないといけないこと自体が健全でないですよね。

 ヨーロッパや中東で戦争が続き、世界中で人びとの分断による争いが頻発しています。国際連合が機能不全に陥ってからも久しいです。世界システムの破綻が明らかとなったいま、成長重視主義とか持続可能な経済とかのお題目の効能は薄れたように考えます。そのように先の見えない現在ですが、少なくとも我が身はこの国の片隅で穏やかな年末を迎えることができました。これってやっぱり神に感謝、でしょうか…。

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 いま田山花袋の『田舎教師』(岩波文庫)を読んでいます。田山花袋といえばまず最初に『蒲団』を思い浮かべるでしょうが、先日の朝日新聞書評欄に斎藤美奈子さんが埼玉県を舞台とした『田舎教師』を読むべき、と書いてあったので、素直なわたくしはそれに従っただけなんです。読むと確かに埼玉県の行田とか熊谷、羽生などが主要な舞台になっていて、ときどき、すぐ隣の古河(こちらは茨城県)がでて来たりもします。先日、高崎線に乗ったばかりなので馴染みっぽくっていいですね〜。百年以上も前の小説ですが口語体で書かれていて読みやすいです。分からない用語には注釈が書かれているのもGoodです。

 年賀状は相変わらず書いていません。多分、大晦日くらいに慌ただしい思いをしながら書くんだろうなあって思っています。こんな感じで今年一年が暮れて行きそうです。皆さん、ことしもお付き合いいただきありがとうございます。来年もまた、楽しく健やかに過ごせればこれに勝る幸せはありません。では、よいお年をお迎えください。

生成系AIは使えるか (2023年12月27日)

 先日、本学内で生成系AIを授業・研究等に使っている先生たちの試みを発表する会が教員限定のオンラインで実施されて、どんなもんなのかなと思って拝聴しました。皆さん、主にChatGPT-4を使っていましたが、わたくし自身は生成系AIといわれるものにアクセスしたことはございません。それもあって、生成系AIをいったいどんなシーンでどのように使うのだろうかという興味はありました。

 学生に出す物理の演習問題を解かせてみた先生は、ちょっとした計算ができないことに驚いておいででした。例えば「2x10+273=283」となっていたそうです、不思議ですね〜。数式を展開するときにはイコール(=)で結んでいきますが、ChatGPTの回答をよく見ると左辺と右辺とが正しくないこともあるそうです。そうやって強引に答えを合わせたりもするらしいので結構姑息なヤツですな。

 これに限らず具体の計算は怪しくて検算は必須とのことでした。問題文のなかに異なる単位系が混在する(例えばメートルとミリメートル)場合にも間違ったそうです。間違った場合にそれを指摘すると、あれこれと屁理屈をこね回してなかなか誤りを認めない傾向があって、このことは多くの発表者が指摘していました。そういうとき、どうやらその世界では「hallucinationが現れる」って言うみたいでした。ちなみにhallucinationは幻覚とか妄想という意味です。

 しかし「〇〇について論じよ」というような問いかけにはうまく対応できている、ということでした。でも、文章を読ませてそれを要約せよ、という問題は苦手みたいで、その文章に書いていない一般的な事柄などを(ネット上の膨大な情報から抜き出して)書いてくるそうです。

 学生が書いたレポートをChatGPTに読ませてコメントさせて、それを見ながら学生のレポートをチェックすると作業が楽になる、ということをおっしゃっていた先生もいました。なるほど、学生のレポートに対するコメントを何もないところから書き出すのは確かに大変なときがありますよね。何にしろたたき台があれば楽っていうことでしょう。

 学会等の講演会の議事録を作るのに生成系AIを利用した先生もいました(そういうソフトも市販されつつあるそうです)。録音された音声を文字に起こして、その要約を作らせるという一連の作業ですが、これはまだなかなか大変みたいでした。

 皆さんが異口同音におっしゃっていたのは、問いかけかたや問いの順番によって回答がいかようにも変わり得るという事実です。問いかけのことは「プロンプト」と言っていましたが、それを工夫することは必須のようで、どうやったら自分の望む答えを引き出せるのか皆さん腐心していたように思います。ChatGPTのくせみたいなものをまず把握すべしということみたいでした。

 でもこのような貴重な体験談を聞くにつけて、発表された皆さんが生成系AIをマシンというよりはひとりの人間とみなしているかのように(少なくとも迂生には)見えたのに実は驚きました。生成系AIは意思を持つのかということは世間でよく言われます。でも、ヤツが物理的な「意識」を生成する前に、使っている当の人間のほうがヤツの意識を感じるようになるのかも知れません。どちらが先なのかは、実際問題としては卵が先か鶏が先かと同じように特段の意味を有さないのかも知れず、なんだか恐ろしい気もして参りました。

 とはいえ、生成系AIを使うことが自分自身にとって有益なのかどうかはじっくり考える必要がありそうで、そのためにはヤツを使ってみることがやっぱり必要でしょうね。なんだか気が重くて腰が上がらない(じゃなくて、キーボードを叩く指が動かない?)んですけどね…、皆さんはどうしますか。

仙川の安藤ストリートをゆく (2023年12月24日)

 クリスマス・イブです。この頃になると“きっと君はこな〜い〜独りきりの…”っていう山下達郎の唄がいつも流れてきますな。わが家では久しぶりに小さなクリスマス・ツリーを出してきて、電飾をピカピカ光らせて悦にいってます。

 パンデミックのくびきから解放された世間さまはいつにも増してクリスマスを謳歌しているみたいです。パルコまで買い物に出かけた家内がものすごい人出に驚いて帰ってきました。例によって鳥のモモ肉を買おうとしたのですが、お昼前だというのにすでに売り切れていたそうです。ひとの波とそれが醸す熱気がすごかったと言っていました。

 さて、調布市仙川の都道114号(松原通り)沿いに安藤忠雄設計の建物が建ち並んでいる一画があることを先日ちょこっと書きました。この都道は数年前にわたくしの住むK市まで延伸しましたので、わが家からは国道20号(甲州街道)に抜けられるようになって便利になりました。

 この都道沿いの安藤建築をうえの地図に黄色で示しました(赤く塗った建物群については後述)。ほぼ南北に走る通り沿いに大小六棟の建物が連なっています。21世紀になってから建てられ始め、いずれもアンタダお得意のコンクリート打ち放しで統一されていて、見るからに人目を引くのですぐに分かります。これらの建物群に安藤建築の特徴とか美しさを見出すことは可能でしょう。でも、このあたりの街の賑わいの創出やまちづくりに貢献しているかと言われれば残念ながら、否、と言わざるを得ないでしょうね、やっぱり。

 その一番の原因はこれらの建物が街に対してほとんど開かれていないことにあります。敷地が非常に細長く非整形なのでパブリック・スペースを取りにくいことや、二棟はいわゆるマンションなので住戸数を増やすことを優先したのは仕方ないのかも知れません。でも、同じ時期にアンタダが設計した表参道ヒルズもほとんど表通りに向かって開いていないことを併せ考えると、安藤ストリートの建物たちも同様のコンセプトで設計されたと考えられます。

 通りに面する長さが一番長い調布市複合施設(せんがわ劇場、保育園など/写真1)では、細いRC柱が規則正しく林立し、柱間はスモークガラスで覆われていてなかの様子は伺えません。細長い建物の中央あたりの3スパンに劇場および仙川ふれあいの家への入り口があってそこだけわずかに通りに開いていますが、とにかく単調な感は否めませんし、何よりもひとを寄せ付けないような冷たい印象を受けます。わずかに建物の北端が壁構造のようになっていて、細いスリット窓や斜めに切り立ったファサードがアクセントになってはいますけどね(写真2)。


写真1 東京アートミュージアム(左)、調布市複合施設(右)


写真2 松原通りを挟んで、左:シティハウス仙川、右:調布市複合施設

 ただ、この表通りから裏に回ると建物の表情がガラッと変わってかなりいい感じなんですよ(写真3)。こちらは保育園になっていて、その園庭は(格子状の目隠しはありますが)裏通りに接していて小さな子供たちが遊び回る姿が垣間見えますし、ときおりかわいい歓声が聞こえて来たりもします。狭いながらも通りから引いたスペースがあって、そこに緑が植えられているのがいいのかも知れません。

 これを見ると、表通りのデザインがますます意図されたものであろうと推察できます。もしかしたら、かような表と裏との対比を鮮やかにしたかったのかとも思います。でもフツーの人たちは表通りしか歩きませんし、実際、ネット上にある安藤ストリートのレポートでもこの裏側の写真を載せたものはほとんどありませんでした。


写真3 調布市複合施設の裏側は保育園

 さて再び表通りに戻って、調布市複合施設の向かい側にはシティハウス仙川というマンションが建っています(写真4)。こちらは一階にレストランや雑貨屋などのお店が入っていますし、列柱の内側に狭いながらもひとの歩けるスペースが設けられているので、通りに対するそれなりの構えが見てとれます。なお四階の一部が通りに対して平行ではないのは、アンタダ一流の造形手法の現れでしょう。あるいは、そこのボリュームだけ裏側の敷地境界に対して平行に置いて、表通り沿いの直方体に貫入させてみた、ということかも知れません(写真5)。


写真4 シティハウス仙川


写真5 シティハウス仙川の裏側 


写真6 仙川アヴェニューアネックスII

 安藤ストリートの南端には仙川アヴェニューアネックスIIという小さな雑居ビルが建っています(写真6)。屋根の妻面が曲線状になっていて、それを細い鉄骨のY字状の柱が支えるという、ここまでみた安藤建築とは異なった佇まいを見せていますね。しかし如何せん小規模な建物なので、その向こうのフツーの住宅とそんなに変わりませんし、なによりも左に建っている端正な鉄筋コンクリート骨組(仙川アヴェニュー南パティオ)の存在感に完全に圧倒されているように見えます。

 ここまで松原通り沿いのアンタダ建物を見てきました。彼らしいテクスチャーで統一された建物群で一見の価値はあると思いますが、仙川という街に対してどのような貢献ができているのかという点についてははなはだ疑問を感じます。これらの安藤建築が持っていないものを明瞭に現出してくれたのが冒頭の地図に赤く示された建物たち(仙川アヴェニュー北プラザ・南パティオ)なのですが、これについては稿を改めてまた書こうと思います。というか、この小文はそもそも仙川アヴェニューの両建物について書くための(安藤忠雄さんには申し訳ないのですが)単なる前振りだったんですけどね。

 なおこれらの安藤建築を見るには、京王線仙川駅で降りて徒歩五分くらいで行けます。仙川駅には数年前から急行も止まるようになり、近くには桐朋学園大学があります。駅前にはクィーンズ伊勢丹をはじめとするお店や飲食店もたくさんあって、一駅向こうのつつじヶ丘駅周辺よりも明らかに賑わっている感を受けました。なお仙川駅の改札は地上にありますが、線路自体はその下の掘割を走っているのでホームへは階段等を降りてゆくことになります。


写真7 京王線仙川駅前のロータリー

久しぶりに年を忘れる (2023年12月21日)

 やっと冬らしく寒くなったように感じます。それでもまだダウンコートは着ていませんので、昔の東京の冬に較べればまだ耐えられるっていうふうに思っています。さて昨日は研究室会議があり、そのあと、わが社に配属になった三年生たちを対象とした特別研究ゼミがあって、それらが終わった夕方から研究室の忘年会を開きました。

 研究室の忘年会をするのは何年ぶりなのか分かりませんが、とにかく五年近くやっていなかったように思います。今回はわたくしのほうから「皆さんにご馳走するから昼食会か夕食会をやりませんか」とごく控えめに持ちかけてやっと実現したようなあんばいでして、お店こそ四年生が決めてくれましたが、主体はあくまでも教員たるわたくしにあるみたいだったので、今回はOG・OBを呼ぶこともしませんでした。

 ということで三年生が配属されて瞬間的に学生数が9名になったので、かなり賑やかな会になりました。お若いひとたちの生態とか経験とかが縷々明らかになって大いに楽しめました。ゼミの場では聞けないような珍しい体験もいろいろと話してくれて、なかなかすごいなあと思いました。

 新しく研究室に加わった学生さんのひとりは、そのおじいさんが大昔、若かりし頃の迂生にお酒を飲ませてくれたひと(大学の先生)だったことが分かって大いに驚きました。そういう時に常に思うのは、建築の世界って広いようでやっぱり狭いということです。またもうひとりの学生さんは、わたくしが千葉大学に勤めていた頃に住んでいたアパートの隣にあった県立高校の出身者でした。朝早くからクラブ活動とかでうるさくて寝ていられなかったことをよく憶えているんですね〜。

 久しぶりの忘年会の様子を載せておきます。とはいえ、まだまだ研究活動は続きますので、引き続き努力を怠らずに進めるようにお願いしますね。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:北山研忘年会20231220at調布駅前「ちび九炉」:IMG_2625.JPG

オンラインで模擬講義 (2023年12月19日)

 すっかり年末恒例になった感のある出前授業をオンラインで行いました。東京都立青山高校(青高と略します)の一・二年生が対象で、ことしは合わせて34名の生徒さんたちと青高の教員1名が受講してくださいました。受講者が三十名を超えたのは三年ぶりでした。最初に青高の先生が出欠をとっていたのが今までと異なる点かな。

 謝金の出ない完全ボランティアですが、まあ母校の生徒さんたちに親しく接する(っていっても画面なしの音声だけですけど…)機会なので毎年楽しく講義しています。わたくしの所属する大学も東京都立なので都立高校へ出講するには特段の手続きを必要とせず、その点は楽です。

 このところは毎年異なるテーマで授業をしていて、ことしは「建築耐震構造入門 〜地震に対して安全な建物をつくる〜」というタイトルで講義しました。本学に入学したばかりの一年生が前期に最初に受ける講義がもとになっていますので、高校生でもかなり理解できると考えています。とはいえ高校一・二年生が微分方程式や力の釣り合いをどのくらい理解できたのか、わたくしには分かりませんが、大学の講義の雰囲気を知ってもらうという点からお許しいただこうと思った次第です。五十数枚のスライドを用意して、途中5分間の休憩も入れてちょうど90分で説明を終了できました。

 講義は90分で終わりましたが、青高の先生と高校生三名から質問を受けてそれに応答しているとすぐに15分が過ぎました。これまで高校生諸君から質問があったことはほとんどなかったのですが、昨年に引き続きことしも質問してくれたことは嬉しかったですね。なかには昨年もわたくしの授業を聞いてくれた生徒さんもいました。いただいた質問はそのどれもが結構いい質問で、高校生でも建築に(漠然とはしていても)興味を持ってくれるひとがいることがわかって心強かったです。

 こうして正午近くになって授業は終わり、そのあと青高の先生と少し雑談しました。この方はわたくしよりも少しお若い数学の先生で、同じく青高出身です。現在の定員は一学年280名で7クラスあるそうです。わたくしの頃は360名で8クラスでしたので、ひとクラスあたり45名見当で、今思えば結構な大人数ということになります。都立高校でもついに(というか、やっとというか)男女別の定員を廃止することになり、今後、青高に入学してくる生徒さんたちの層も変わってくるかもしれません。

 ちなみに青山高校は東京都の進学指導重点校(日比谷、西、戸山、国立、八王子東、立川および青山の七高校)のひとつに選ばれているので、大学進学実績は毎年厳格に審査されるようです。この日陪席した先生は何も仰ってはいませんでしたが、多分、大変なんだろうなと想像しています。


伊勢崎にゆく ちょっぴりまちなかと公開審査編
 (2023年12月18日)

(これは12月10日に書いた小文の続きです)
 伊勢崎駅に着きました。暖かくていい天気に恵まれました。昨年末、同じ企画で茨城県大洗町に行ったときにはとても寒くてどんより鬱々とした一日で、仕舞いには雨まで降って来ましたので、それを思うと本当に御の字ですよ。人間の心理に対して青空の持つ威力って素晴らしいです。

 ということでお昼なので群馬名物のおきりこみうどんでも食べようと思っていたのですが(別に美味しいものじゃないけどな/群馬の皆さん、ごめんなさい)、まず伊勢崎駅には小さなコンビニと居酒屋・庄や(お昼は休業だった)はありましたが、そのほかには何もありません。駅前を見渡しても視界の範囲にはご飯を食べられるようなところはやっぱり何もありません。これには結構驚きました。駅の左脇にスーパー・マーケットが一軒あるだけなんですよ。

 写真のように伊勢崎駅はとても立派で、高架化されています。でも、なぜ高架化しないといけないのだろうか…不思議です。駅前にはきれいなロータリーが整備されているのですが、生活の匂いというのかな、どうにも人気を感じないのです。ここは駅の南側なのですが、北側にもお店はないように見えました。仕方ないのでそのスーパーに行って(どこでも売っているような)お弁当を買いました。で、お店のひとにこのお弁当を食べられるスペースはあるかと問うと(イート・スペースが都内のスーパーにはあるでしょ)無いとあっさり言われて、やむなく駅前のロータリーのベンチに座っていただきました。晴れて暖かくて良かったです、ムシャムシャ…。




 そこから歩いて会場の赤石楽舎[あかいし・らくしゃ]に向かいます。駅から南下する細い道に「武家門通り」というのがあってそこを行きます。この通りの名前の由来はすぐに分かって、それは上の写真のように江戸時代のお武家の四脚門が道沿いに残っていたからです。江戸時代初期の伊勢崎藩の最初の大名は稲垣長茂というひとで、その藩主の屋敷門が移築を重ねてここに遺ったそうです。ちなみに伊勢崎藩は二万石くらいの小大名でしたからお城はなくて、この辺りに陣屋を構えていたようです。稲垣家のあとは前橋の酒井雅楽頭[うたのかみ]家の分家が入封して明治維新を迎えました。ついでに、酒井家にはもう一つ、左衛門尉[さえもんのじょう]家があってこちらは山形県鶴岡を治めました。

 そこから5分くらい歩くと赤石楽舎に着きます。ここの前庭には写真のような塔が建っているのが目を引きます。伊勢崎市のHPによるとこれは時報鐘楼と呼ばれる楼閣でして、見たときには気づきませんでしたが鉄筋コンクリート(RC)構造です。1916(大正5)年に竣工して、群馬県内では最古のRC構造とされています。高さは14.6メートルで、煉瓦が張壁として用いられています。1937年まで近隣の人びとに時刻(朝6時、正午そして夕方6時の三回)を知らせていたそうです。今も伊勢崎市のシンボルで、市の重要文化財に指定されています。

 この写真の塔の奥に広がっている2階建てが赤石楽舎で、1階手前が弧を描いたホールになっています。ここで今回の公開審査が開かれました。この建物の二階は左側の建物につながっていて、そちらは伊勢崎市立北小学校です。市のコミュニティ・センターと小学校とが一体になって運営されているようです。このあたりは伊勢崎陣屋跡で、創立130周年記念の碑が建っていましたので由緒のある小学校のようでした。




 さて今回の提案競技ですが、31件の応募案のうち書類審査で9件がこの日の公開審査に進みました。お題は「まちなか再生に取り組む伊勢崎市の未来を創造する」というもので、建築単体ではなく、むしろそれらが集合したまちづくりを主眼とするのがこの競技の特徴でしょう。審査委員長は建築家の藤村龍至さん(東京藝術大学准教授、上の写真の中央のかた)で、もちろん今日初めてお会いしました。

 わたくしは午後1時半に始まった審査から参加しました(それが上の写真です)。午前中には本選に進んだ9件のプレゼンテーションと質疑応答があったのですが、そちらは失礼ながらパスです。審査では藤村委員長が終始議論をリードして進みましたが、なかなか大変だったと思います。これを見ているだけで彼の頭のキレの良さが分かります。話題に応じて前に並べた作品パネルたちをあちこちに動かして審査委員の皆さんの意見を引き出していました。

 そんな感じでかなりの時間を応募作品へのコメントに費やしてから、やっと各委員が押しの作品4点を投票する段階に至ります。この段階では4票を得た二作品が最多得票で、評価はかなり分かれたように見えました。それからまたしばらくあれこれ議論して、では最終投票ということで今度は各委員が2作品を選んで投票しました。

 そうしたらなんと最初の投票では最多得票だった作品には一票も入らずに、また一回目では上位だった幾つかの作品が同じく票無しになって皆さんびっくり!ってな感じです。なんだかとても不思議な現象に思いましたな、迂生のような門外漢には。じゃあ一回目の投票はなんだったのかというふうにも思いましたが、その結果を受けてあれこれ審査委員の皆さんが議論してお互いに理解を深めた結果、それぞれの考えが変わったと考えるのが妥当なんでしょうか…。一回目は4作品を選び、二回目では2作品を選ぶという作品数の違いが影響したのかとも考えましたが、票の動きを見るとそうではなさそうでした。

 二回目の投票で最多の四票を得たのが一作品で、三票、二票、一票とそれぞれ一作品ずつであとの五作品は無票でした。ここで藤村委員長が四票を得た作品を最優秀賞として、一票以上を得た三作品を優秀賞としたい、皆さんの目の前で票が出ているので公正でしょうとおっしゃって審査が終わりました。

 なるほど…、でもたった一票で優秀賞っていうのもどうかなと後になってから思いましたけどね。四票と三票とは僅差なので例えばこの二作品について再度、議論を行って最優秀賞を決めるとか、二票以下について再度議論して優秀賞を決めるとか、いろいろとやり方はあったとは思いましたが、多分、時間がなかったのが大きかったと思います。このあとの表彰式ではまず伊勢崎市の子供たちの絵画コンクールの表彰があって伊勢崎市長さんがいらっしゃいます。政治家は多忙ですから(実際、この審査会でも中座したりしていた)、表彰式を午後三時から始めるというのは動かせなかったのでしょう。

 わたくしは個別の建物をしっかり設計するのが好きなのでそういう作品がいいと思いましたが、わたくしの押しの作品には残念ながら票が入りませんでした。ただ、その後、伊勢崎市長さんが決める特別賞に選ばれたのでよかったです。市長さん、見る目があるじゃないですか、あははっ。

 こうして伊勢崎のまちづくりに対して多様な提案がなされて意見を交換し、議論の深まった公開審査でした。市長さんがおっしゃっていましたが(まあリップサービスもあるでしょうけど)、いくつかのアイディアは実際に試してみる価値がありそうです。でもどうなんだろうか…。前述した伊勢崎駅前の広場や道路を見ると、とてもじゃないが賑わうような気がしません。だからこそ、こうやってみんなで知恵を出し合いましょうってことなんでしょうけどね。

 審査委員長の藤村龍至さんが表彰式後の総評のときに「建築家は渡り職人みたいなもので、今回の伊勢崎市のように呼ばれてそこの街にかかわってまちづくりとかの仕事をするが、それが終わればそこを去ってまた別のどこかに行くのです」とおっしゃっていたのが印象的でした。職人かあ…、建築家って一般には華やかな印象を持たれていますが、実際の仕事はやっぱり泥くさくて職人技なんだということを再認識した次第です。

民草は知っている (2023年12月14日)

 きょうは江戸時代中期に赤穂浪士が吉良上野介[きら・こうずけのすけ]邸に討ち入った、いわゆる忠臣蔵の日です。一般には、旧赤穂藩の忠臣たちが一方的に罰せられた主君の無念を晴らしたというあっぱれな忠義の仇討ちとされます。しかしこの時代に仇討ち自体は珍しくなかったはずで、それが忠臣蔵の物語として江戸時代の人口に膾炙し現代にまで伝わったのには、それ相応の理由があるはずです。

 それは市井の民草がお上(徳川幕府)に対して突きつけた強烈なNoの意思表示だったのだと考えます。この時代は太平な世になって武士が官僚化し、一般庶民の生活も少しずつ豊かになりつつあった頃で、そういう庶民にとって娯楽とか刺激とかが求められていたという背景もあると思います。

 しかしこの事件はそもそもお上が浅野内匠頭[あさの・たくみのかみ]だけを切腹にして、相手がたである吉良上野介にはお咎めがなかったという偏った裁定に対して、義憤に駆られた旧赤穂藩士がお上に対して実力行使によって異議申し立てを行なったというものです。市井の人たちもそのことをよく理解していたからこそ、今から見れば単なるテロリストに過ぎない浪士たちの事跡を賞賛し、それを大星由良之助(赤穂藩家老だった大石内蔵助[おおいし・くらのすけ]のこと)の物語として世に広め後世に伝えたのだと思います。


写真 二十数年前に京都で買った大星由良之助の手ぬぐい

 お上がいかに隠そうとも臭いものにふた、というわけには行かず、真実は必ず漏れ出て世間に広がるものだということをこの事件は物語っています。その点から一般民衆を侮ると大変なことになるという一例でもありましょう。現在の自民党岸田政権は政治資金の裏金問題から既に末期症状を呈し始めたように見えます。世間は知っているということに気がつかないのかどうか知りませんが、いつまでも永田町の論理だけで(井の中の蛙のように)行動しているとやがて民草からの痛烈な反撃を食らうことは必定だと思います。その日は近いような気がしますがどうでしょうか。

スペアのひと (2023年12月13日)

 トップページに記したように来年度の卒論生三名が決まりました。ここ数年は三年生諸君に第一志望と第二志望とを書いて提出してもらうシステムになっています。ここから先は(情けない)内情を披瀝するわけですが、ふたを開けてみると今年はわが社を第一志望にするひとは一人もいなくて、第二志望がぞろぞろいる、ということになっていました。そんな研究室はわが社だけでしたから、当初はやっぱり憂鬱な気分に浸りました。

 建築学科の教室会議では当然ながら第一志望の研究室から決まってゆき、そこをあぶれた学生さんたちが第二志望に回るわけです。ということでそこからやっと迂生の出番が回ってきますが、かと言って何ができるわけでもなく、第二志望で来てくれるというひとがあれば「ぜひ来てくだされ」って感じで基本的に全員ウェルカムなわけでして、なにやってんだかなあ〜って例のごとくに思うのでした。

 でも見方を変えれば第二志望とはいえ、いちおう「志望」して来てくれるのであればそれはそれで結構なことと言うべきかも知れません。そうであれば、そういう彼らに感謝しないといけないですね。でもそういうひとは計画系を第一志望にしていることが多いので、思考回路をエンジニアリングへとうまく切り替えることができるように祈っています。

 こうしてスペアの研究室としての悲哀を(まあ、わが社ではこれまで日常的にあったことで、今更グダグダいうこともないのですが…)つくづくと感じました。そう言えば以前に英国王室の次男の王子が『スペア』という書籍を発表して、自身のスペアとしての悲しみとか不満とかをぶちまけたことがあったのを思い出しました。この本は読んでいません(し、この次男さんの評判もすこぶる悪いようです)が、同情すべき事柄もあるのかも。

伊勢崎にゆく 電車編 (2023年12月10日)

 毎年やっているのですが、日本建築学会・関東支部が主催する提案競技(設計コンペ)の公開審査会および表彰式がことしは群馬県伊勢崎市であって行ってきました。まちづくりとか建築設計とかは迂生の専門ではないので門外漢ですが、関東支部の代表として挨拶して表彰状を手渡すという大切なお役目があるためです。でも、そのためだけにまる一日かけて往復するっていうのもなんだかなあ…とは、毎度のことながら思いますわな。



 さてその伊勢崎(いせさき、と読みます)ですが、皆さんは行ったことはおありでしょうか。わたくしは東京モノなので子供の頃には家族旅行とか小学校の林間学校とかで群馬県にはよく出かけました。軽井沢、浅間山麓、鬼押し出し、白糸の滝(これらは長野県か)、妙義山、水上、谷川岳…っていうところでしょうか。当時は全て電車(あるいはディーゼル車)でしたから多分、上野から高崎経由で行ったのだと思います。真っ白な高崎観音がすごく記憶に焼き付いています。横川駅での峠の釜めしはよく食べたな。おとなになってからは伊香保温泉、桐生、草津温泉、沼田、富岡、赤城山、榛名山、吹き割りの滝などにも行きました。

 万座温泉も調べたら群馬県でした。まだ小学校に上がる前の小さかった頃に万座温泉に行きましたが、そこで祖父が乗るジープに乗せてもらった記憶があります。石がゴロゴロとした地獄のような景色のところでしたが、なぜそこに祖父がいたのかは分かりません。これは想像ですが、万座あたりは地理学のフィールドワークの対象になっていて、そういう巡検(地理学で使う専門用語で現地調査の意)の一環として地理学者だった祖父がこの地に来ていたのだろうと思います。

 こんな感じで群馬県についてはかなりファミリアと思っているのですが、でも高崎で下車した記憶はなく、そこから枝分かれしてゆく伊勢崎には行ったことはありません。ではその伊勢崎にどうやって行くかですが、JRのほかに東武線もあるようです。JRでも途中は新幹線を利用することもできます。いろいろなルートがあって迷いましたが、乗り換えが少なくお値段もそこそこ安い経路として新宿駅から湘南新宿ラインで高崎駅まで行き、そこから両毛線に乗る、という結論から言えば代わり映えしない?ルートを選びました。

 ところでわたくしが務める東京都立大学は八王子市にありますが、その八王子から高崎までを結ぶ八高[はちこう]線というJR路線があるのをご存じでしょうか。これに乗っても理屈では高崎まで行けるので試しに調べてみました。この日は日曜日なので、少しくらいは時間がかかってもいいかなと考えました。

 すると、八王子駅から高麗川[こまがわ]駅までは電化されていますが、そこから高崎駅までは非電化で未だにディーゼル車が走っています。そのため八王子から高崎まで直通の電車(汽車)は存在しないことが分かりました。必ず高麗川駅で乗り継ぎが生じるわけで、なおかつ乗り継ぎが便利なダイヤでもないようでした。なお八王子駅を出た電車は高麗川駅を過ぎて川越駅まで行っています。

 八王子と高崎とを結ぶ路線だから八高線と呼んでいるのでしょうが、現在ではその実態はなかったのです。八高線には以前に東京都瑞穂町役場に通ったときにその箱根ヶ崎[はこねがさき]駅を使いましたので、本数がとても少ないことは知っていましたし、都内なのに基本は単線です。結果として、八高線を使って高崎まで行くのは正気の沙汰ではない(?)ということがわかった次第です。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:スクリーンショット 2023-12-12 15.44.05.png

 ということで新宿駅から高崎行きの湘南新宿ラインに乗りました(上の地図)。特別快速みたいなのに乗りましたので高崎駅まで約100分です(普通電車だと約二時間かかる)。物珍しいので車窓からの風景を眺めていましたが、ずーっと結構な町が続いていてそんなに田舎っていう雰囲気はなかったですね。というか多摩西部の南大沢がやっぱりかなりの田舎っていうことじゃないかな、あははっ。

 途中に北本[きたもと]駅がありました。最近、わが家では「北本トマトカレー」というレトルトカレーを食べていまして(北野エースで売っています。キーマ・タイプでトマトの酸味が効いて美味しいです)、そうかあ、ここで作っているんだあっていう感慨を抱きました。随分と経ってから籠原[かごはら]駅に着き三、四分停車しますが、ここで15両編成のうちの前5両を切り離し、10両編成になりました。前5両に乗っていてさらに高崎方面に向かう人たちが追い出されてゾロソロとこちらにやって来ました。

 へえ〜そうなんだ…、ここまでは都会でここから先は田舎ってことかな?と、ちらっと思いましたが、そうではなかったのは前述の通りです。ただし籠原から先は自分でボタンを押してドアを開閉するオペレーションに変更になりますので、その点からは乗降客数が如実に減るということでしょうか。

 家を出てから2時間20分くらいで本庄[ほんじょう]駅に着きました。ここで話題にしたいのは「本庄」の発音です。迂生は最初の「Hon」の母音にアクセントを置いてしり下りに発音しているのですが、車内アナウンスは全体に平坦かわずかにあとの「Jyou」の母音にアクセントを置いていて、耳を疑いました(イメージとしては「本城(ほんじょう)」と発音するときのそれと同じようです)。どちらが正しいということはないのか、あるのか…。

 この本庄駅では結構な数の方々が下車しましたが、何かあるのでしょうか。確か早稲田大学の本庄キャンパスというのがあって、新幹線の駅名[本庄早稲田駅]にもなっていましたし、早稲田大学本庄高等学院という高校もあります。これらの早稲田系列の学校に通う人たちが全て新幹線を使うわけでもないのかも知れません(調べたら本庄駅から徒歩30分ですが[フツーは歩かんわな]、本庄駅からスクールバスが出ていました)。

 そして高崎駅の一つ手前の倉賀野[くらがの]駅ではくだんの八高線が合流して来ました。いちおうは八王子まで線路がつながっていることを思うと感無量…ってことはなかったです。

 次に乗った両毛線は高崎駅が始発でここから栃木県の小山[おやま]駅まで通じていますが、伊勢崎駅止まりの電車が多いみたいです。本数は30分に一本くらいです。高崎駅から伊勢崎駅までは快速とか急行とかはないみたいで各駅停車で35分くらいでした。ちゃんと電化されています。ちなみにここまで交通系カードのPASMOで乗降できて便利です。こうしてわが家を出てから三時間半くらいで伊勢崎駅に到着しましたが、もう長くなったので続きは別に書きましょう。

十二月八日に思う (2023年12月8日)

 きょうは旧日本海軍がハワイ・真珠湾を奇襲攻撃した日です。これはだまし討ちだったとしてアメリカ国民が奮い立ち一致団結して日本との戦争に立ち向かったという逸話は有名ですが、事実は闇の底に眠っているようです。しかしその頃、日本の戦争(侵略)はすでに中国に対して長期化のうえ泥沼化していて、冷静に考えれば連合国相手に戦争なんかできるはずはなかったのです。そういう判断のできなかった当時の世相がいかに操作され、国民全体が一方向を向いていたかが今だからこそ分かります。

 この過ちを繰り返してはいけません。しかし現状はといえば、歴史を正しく認識しようとしない人たちがこの国を牛耳っているのは非常な危機ですし、そもそもこの当時の戦争の呼びかた(太平洋戦争、大東亜戦争など)すらコンセンサスの得られたものは未だにないのが実情です。どうなっているんでしょうか…。

 そしてジョン・レノンが殺害されたのが1980年のきょうでした。NHK-FMの「Discover Beatles II」を毎週聞いているせいか、普段は興味のないビートルズをときどき聞きますし、それに釣られてジョン・レノンの歌なども聴くようになりました。彼の「Imagine」「Starting Over」「Woman」はどれもとてもいい曲ですし、それらの歌詞が平易な英語で書かれていることも最近知りました。世間で言われて来た通りにジョン・レノンって稀代の才能だったと思います。彼の「Number Nine Dream」がお勧めです。

避難を訓練する (2023年12月6日)

 朝がたまでかなりの雨降りでしたが、日が昇るにつれて晴れてきてお昼にはよいお日和になりました。今日のお昼に本学全体での避難訓練が実施されました。面倒なのでサボろうかなと当初は思いました。しかし先週末に実験棟で(わが社ではないのですが)ちょっとした事故があって大騒ぎになり救急車やら警察やらがやって来て、吉川徹学部長には大変にご面倒をおかけしたばかりなので、参加しておこうかと思った次第です。

 ということで午前11時55分に地震が起こり、地下1階で火災が発生しました(という想定の訓練です)。そこから授業中の教室も含めて全ての部屋から先生、学生、職員の皆さんがぞろぞろと避難場所に集まってきました。わたくしは7階の研究室から階段を降りて避難しましたが、もう結構な渋滞でして、おまけに集まった人数は度肝を抜かれるほど多くて(よく考えると当たり前ですけど)、本当に避難するときには大丈夫なんだろうかとかなり不安になりました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMUお昼の避難訓練20231206:IMG_2582.JPG

 よく分かりませんがこの訓練での経験を教訓として、実際の避難ではどうあるべきかという検証がなされることを期待しています。少なくとも避難場所はもう少し小分けにして、綿密に指定しておいたほうがいいと思うけどなあ〜。

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 ところで境有紀先生のページに都立大学は遠いのか?という小文がありましたが、そうなんですよ、遠いんです! 新宿から三十数分で着くと謳ってはいますが、それは新宿駅で橋本行きの特急にすんなり乗れた場合に限ります。この特急は20分に一本くらいですから、それに乗れないと小一時間かかります。実際、わたくしが田町の建築会館から南大沢の研究室に戻るときには、(歩く時間も含めて)どうやっても一時間半近くはかかります。

 東京って東西に長いので、23区に住んでいるとそれより西の多摩地域のことなんて知らないひとが多いと思います。わたくしはずっと目黒区や新宿区に住んでいましたので、はっきり言って南大沢なんて全く知りませんでした(多摩の皆さん、ごめんなさい)。ですから東京都立大学の南大沢キャンパスは東京とはいえ田舎であって、東京都心からそれなりに遠いというのが正しい認識でしょう。

師走になる (2023年12月5日)

 師走になってずいぶんと寒くなりました。けさ、この冬初めてセーターを着て、マフラーと手袋とをつけて登校しました。なんだかどんよりと曇っていて、南大沢に着くとスキー場のように寒くて(って、ちょっと大げさ)どうにも気分が鬱々と暗くなって参ります。気圧が低いせいでしょうか…。

 年末になってそろそろ来年度に向けた諸準備がやってきました。わたくしからご相談のメールが届く(あるいは既に届いた)方々も多いかと思いますが、そういうときには迂生の苦境を少しばかり慮っていただけるとありがたく存じます。どうぞよしなにお願いします。

 来年度の建築学会大会については、開催校である明治大学建築学科の先生がたや関東支部役員の皆さんに本格的な検討・作業に入っていただいております。延べ人数で一万人以上が参加するマンモス大会なので大変かと思います。このような手弁当のボランティアによって学会大会が支えられていることを強く認識します。でも、いつまでもそういう善意の人たちの活動に依存していては持続可能ではなく、将来は危ういと思っています。このあたりの危機意識は建築学会のなかでは希薄なことも気がかりですが、わたくしのような一理事の懸念だけではどうにもなりそうもありません。

卒論の中間発表 (2023年11月30日)

 11月晦日のきょう、卒論の最終発表会と中間発表会とが開かれました。初冬というほど寒くもなく、それなりに陽の差す穏やかな日和でよかったです。午前中は卒業設計を履修する人たちの最終発表が口頭でありました。途中から参加しようと思って遅れて教室に行ったら、なんだか知りませんがもう超満員でして、壁際にも人がびっしり立っていて入れませんでした。ええっ、こんなこと今までなかったのに…とか思いながらも、物理的に入れないものは仕方ないかと思ってあっさり退散しました。せっかく下界に降りたので実験棟に行き、壁谷澤研究室のRC壁の実験を見て来ました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU卒論中間発表会ポスターセッション20231130:IMG_2576.JPG

 午後には、卒業設計を履修せずに来年2月に卒論を提出する学生諸君の中間発表がポスターセッションとして開かれました。場所は9号館1階のアトリウムです。ここは井戸の底のようだし極端に細長い空間なので正直言ってあまり気持ちよくないのですが、スペースとしてはそれなりに確保できるので、こういうポスター発表にはいいかも知れません。

 わが社の四名の卒論生もちゃんと発表できてよかったですが、もう少し見栄えよく、かつ見やすくポスターを作ってくれよなってお小言を言っておきました。来年以降はそういう指導も必要かな。三年生諸君もそれなりに参加してポスターを眺めているようでしたので、それはそれでよかったと思います。

 この行事が終わるといよいよ冬が到来して、来年度に向けたさまざまな準備が始まります。あと二ヶ月で卒論生諸君がそれなりの卒論を仕上げることができるのか不安だけど大丈夫かなあ…。

推薦入試2023 (2023年11月29日)

 本学・建築学科の推薦入試が昨日ありました。指定校推薦を除いた推薦入試は定員が合計7名のところに全部で32名の受験者がありました。推薦入試とはいえ結構な倍率(4.6倍)となりましたが、こんなに倍率が高いのは本学でも建築学科くらいです。長いあいだ建築学科の教員をしていますが、どうしてこんなに人気があるのかいつも不思議に思っています。少子化で高校生自体が減っているわけですが、そのような潮流にあっても建築学を志望する生徒諸氏が結構な数いることに感謝の念を抱きます。ありがたいことですね。

 推薦入試は志望理由書や調査書等の書類審査のほかに、大学に来て小論文試験および面接試験を受けてもらいます(受験生もわたくしのような試験官も一日仕事です)。いつものことですが面接試験を受ける高校生たちはとても緊張していて、見ていて気の毒に思います。見ず知らずの大学教員たちからいろいろと質問されて本当に大変だなあと思いますよ。齢を重ねて来て、もっといい方法がないのかなあとか思うようにもなりましたが、試験制度の変更には多大な検討と時間とが必要ですから、そんなに簡単にはできません。

 このうちの何人かとは来年四月にこのキャンパスで再会することになるんだなあと思うと、今は未だ知らない若者たちとはいえ愛おしく感じてくるので不思議です。こんな風に思うのもわたくしがジジイになったからなんだろうとは思いますけどね、あははっ。

その壁はなぜ? 〜安藤忠雄の壁〜 (2023年11月28日)

 この秋、東大の本郷キャンパスを散策しましたが、せっかくのよい機会なので構内のいろいろな建物をしげしげと見て回りました。そのひとつが安藤忠雄氏が設計して2008年に竣工した情報学環・福武ホールで、赤門の脇から本郷通りに沿って長さ100メートルに渡って建設された低層建物(地上2階・地下2階)です。下の写真は赤門脇に立って東立面を撮影したものです。鉄筋コンクリート(RC)の壁が水平にずっと伸びているのが特徴ですね。安藤建築を特徴付けている打ち放しのきれいなコンクリート面をしています。

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 このRC壁には明らかに構造的な機能はなくて(ただし地下部分は地下擁壁として片土圧に抵抗する大切なお役目があります)、学内の通りとホールとの境界を為しているだけのように見えます。でも東大のHPではこのRC壁を「考える壁」と呼んでいて「長さ100mの『考える壁』の向こう側にあるもの--それは『学びと創造の交差路』です。」と書いてありました。

 なるほど…、だからこのRC壁にはひとの目の高さくらいの位置に横長の細い開口が開けられているのでしょうか。この隙間からなかを覗く行為がとりもなおさず知的活動への誘い、ということなのかなあ、よく分からんけど…。でも、この壁の裏側から地下に降りてゆく階段を設けたピットは薄暗くてなんだか気色が悪く、ここを降りて下に行ってみようという気が全くしませんでした。ですから地下ピットの底から見上げて撮った写真はありません。この場所に低層の建物を建てたのはよいかと思いますが、諸スペースの要求を満たすために地下2階を築かないといけなかったのでしょうか。

 上の写真のように、深い軒の出を支えるRCの細柱とガラス面とのあいだに通路状の外部空間ができていて、本来はそれが外部と内部とを有機的につなげる干渉空間として機能するはずです。しかし、この面が東に向いていることもあって午後になると全体に薄暗くなってしまい、気持ち良さを感じられないのは残念に思います。造形としては安藤建築らしさが顕著で、プロポーションも見事ですからさもありなんという印象を受けますが、機能としては首を傾げざるを得ません…。

 福武ホールでは単独で建つ壁が「考える壁」と命名されてそれなりの意義を与えられているようなので、まあ良しとしましょうか。でも下の写真の壁はどうでしょうか。これは東京都調布市仙川にある「仙川デルタスタジオ」というRC3階建てで、安藤忠雄氏が設計して2007年に竣工した民間建物です。この通り(都道114号線)沿いには安藤建築が群がって建っていることで有名らしく、ネット情報では「安藤ストリート」と呼ばれています。わたくしは比較的すぐ近くに住んでいることもあって車で何度も通っているので見知っていました(安藤ストリート沿いの建築についてはいずれまた書こうと思います)。

 この建物は細い三角形の敷地に建っていることもあり、その三角形の頂点に向かってRC打ち放しの壁がすっくと立ちはだかっているのが目を引きます。写真のようにこの壁には2階に上がる外部階段が片持ち形式で取り付いているだけで、そのほかの機能はないようです。

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 この壁こそなぜそこに建っているのか理解不能です。見たひとをギョッとさせるとか人目を引くといった効果はあるのでしょうが、あえて役目を探せば上の写真のようにこの建物の裏手を隠すための目隠しかな…。あるいはアンタダ(わたくしが学生の頃、安藤忠雄氏をこう呼んでいました)の設計した建築であることが一目でわかるようなアイコンとしてのお役目なのかも知れません。でも、そうだとすると相当に費用がかかったアイコンだな、お施主さんがお金持ちだったのかも。

 ということで、最近しげしげと観察したアンタダのRC壁二枚を取り上げてみました。いずれの壁も打ち放しの壁面は綺麗ですし、ピン角がシャープに現れていて日本の職人さんたちの確かな技を感じました。ただ、「仙川デルタスタジオ」の壁にはよく見ると何本ものひび割れが縦方向に入っていました。縦方向の目地ではないところに入っていたので、乾燥収縮のせいではないような気がします。あるいは地震動による水平力によって壁が面外に曲げられたのかも知れませんが、よくは分かりません。

 余話ですが、本学構内にもRC打ち放しの名も無き壁が単独で建っています。この壁は左側の牧野標本館別館が新築されたときに一緒に造られました。以前に紹介しましたがこの壁にはちゃんと機能がありまして、すぐ右にある掘立て小屋みたいな倉庫内の危険物が爆発したときの爆風避けだそうです。でも、そのわりには打ち放しの壁面がミョーに綺麗なんですけどね、誰も見るひともいないのになんでだろう…。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU牧野標本館新館わきのRC単独壁20190313_0314:IMG_0365.JPG

甦るこえ 〜ビートルズ最後の曲〜 (2023年11月26日)

 ビートルズの新曲「Now and Then」、みなさんお聞きになりましたか(お若いかたには興味ないかも…)。1963年にデビューしてからちょうど60年の今年11月2日、ビートルズ最後の曲と銘打って世に贈り出されました。彼らが解散してから半世紀以上が経ち、ジョン・レノンが1980年に殺され、ジョージ・ハリスンは2001年に世を去っていますので、今になってどうしてビートルズの楽曲なのよって思いますよね、やっぱり。



 それが可能になったのはひとえにテクノロジーの進歩のたまものです。ジョンが1970年代後半に残したデモ・テープをその妻・小野洋子さんが保管していて、それをポール・マッカートニーたちに渡しました。1995年にそのテープをもとにしてポール、ジョージ、リンゴ・スターの三人で「Now and Then」に取り組みましたが、当時の技術ではジョンのボーカルをピアノの音から明瞭に分離できずに断念した経緯がありました。

 ところが21世紀になりAI技術が進歩したことから、歌声だけをきれいに抽出することができるようになりました。ジョンの歌声が甦ったのです。そこで残ったポールとリンゴとで再びこの曲に取り組んで完成させた、ということらしいです。音は波ですからフーリエ解析することによって周波数分解できますが、原理は原理としてそれを商用音楽のレベルで実現することは今まで困難だったのでしょう。

 出来上がった「Now and Then」は物悲しくてちょっと憂鬱そうなジョンの唄うAメロで始まります。そこから“Now and Then, I miss you.”と歌うサビで長調に転調して、希望の灯とでも言うのかな、一条の明るい陽が差し込むような感じを抱かせます。そのあたりはかつてのビートルズらしさを彷彿とさせますね。でもそのあとはすぐに元の暗い雰囲気に戻ります。

 先週のNHK-FM「Discover Beatles II」で和田唱さんが言っていましたが、この曲のジョンのデモ・テープにはBメロもあったのですが、世に出た「Now and Then」では全てカットされていたそうです。そういう判断は多分、ポールがしたのでしょうが、その理由は公開されていません。カットされたBメロを和田唱さんが歌ってくれましたが、Aメロと同様にかなり暗い曲調でした。ただしそれはAメロとは異なり転調が繰り返されるかなり難解な節回しでしたので、それを削除して分かり易い楽曲に仕上げたのではないかと迂生は想像します。

 では、すでに故人であるジョージはどうやって参加したかというと、1995年に一度この曲にトライしたときに録音してあったアコースティック・ギターの音源を使ったということです。えっそれだけ?って思いますが、これでいちおうはビートルズの四人が揃っているという条件はクリアされます。

 ということでテクノロジーの恩恵を受けながら、いろいろな時期に録音された音源を抽出して継ぎ接ぎして、そこにポールのギターやピアノとボーカルの一部、リンゴのドラム、そしてストリングスなどを新規に録音してかぶせることによって出来上がったのが今回の「Now and Then」になります。時空を超えて四人が再びひとつになった、ビートルズの再興だ、というとロマンを掻き立てますし聞こえはよいのですが、でも本当のところはそうなのかなとも思うわけです。これをビートルズの曲だと言い切ることができるのか、ということですよ。

 そもそもビートルズのオリジナルな楽曲を名乗るために必要なものは何か、ということになりますが、わたくしはそれは四人が同時に同じ場所で一緒に演奏したことのある曲じゃないかと思います。もちろん「Yesterday」のようにポール独り(と誰かのチェロ)だけで演っていてほかの三人はどうしたのよっていう曲もありますが、それはまあ例外として置いておきましょう。このように定義すると、今回の「Now and Then」は残念ながらビートルズを名乗れないことになります。

 また、これがビートルズ最後の曲と言っていますが、テクノロジーの進化によってさらに新たなウルトラCが出て来るかも知れません。そうするとどこまでがビートルズのオリジナルで、どこから先はそうじゃないのかという区別がますます付かなくなって行くような気がします。

 そうは言っても「Now and Then」はなんども聞くとそのよさがジワっと染み出してくるというか、味わい深い曲であることは分かりましたし、ビートルズのメンバー四人による合作であるということに異を唱えるつもりはありません。面倒なことを言えばキリがありませんし、異論も多々あろうかとは思いますが、60年という時を超えて現れたこの新曲を素直に楽しめばそれでよいのかも知れません。ちなみにこの曲は英国のシングル・チャートで1位になったということです。60年経っても人びとを熱狂させるビートルズってやっぱりすごい人たちなんだなあとつくづく思います。

 最後にタイトルの“Now and Then”の意味ですが、辞書を引くと“ときどき”とか“たまに”とあります。“ときどき”だと中学校で習うsometimesが真っ先に浮かびますが、Now and thenの同義語はoccasionallyだそうです。Now and thenの頻度はsometimesとrarelyとのあいだにあって、Now and thenのほうがsometimesよりは頻度は低いということでした、はあ、そうなんですか…。各語の持つ感覚とかニュアンスみたいなものはやっぱりネイティブ・スピーカーじゃないと分からないですよね。

レーモンドの鉄筋コンクリート住宅を見る (2023年11月20日/21日)

 先日、アントニン・レーモンドの鉄筋コンクリート住宅(旧赤星鉄馬邸)のことをチラッと書きました。この建物は東京都武蔵野市吉祥寺にあって、現在は武蔵野市が管理しています。幸いなことにこの11月に限定公開されたので、予約を取って見に行ってきました。吉祥寺駅から歩いて15分くらいですが、行きは関東バスに乗って「成蹊学園前」で下車しました。電車に乗って吉祥寺を訪問したのは初めてですが、吉祥寺ってすごく大きい街でびっくりしました。いいところですね。



 この建物は1934(昭和9)年竣工の鉄筋コンクリート造2階建て(地下もあるらしいが未公開)で、延床面積は635平米もあるので住宅としては相当に大きいです。でも、住宅として大規模とはいえ、木造で作ろうと思えばできたはずです。それをわざわざ鉄筋コンクリートで造ったのは、設計したレーモンドがル・コルビュジエの近代建築を意識したためと思います。上の写真は庭園から撮影した南立面ですが、水平に窓が連なっているのはコルビュジエの主張(近代建築の5原則)をそのまま取り入れたように見えます。

 20世紀前半に始まったモダニズム建築ムーブメントですが、そこでは鉄、ガラスそしてコンクリートで明快な立体を構成して装飾を極力排除した建物が好まれました。でもレーモンドのこの建物はそこから逸脱したところも多々あります。その最たるものが玄関脇の階段室の造形でしょう。円弧状に立ち上がったRC筒に採光のための縦長スリットを設けていて、見る者に強烈なインパクトを与えます。内部の階段は不思議な曲線を描いており、手摺りの形態も独特です。RC片持ちスラブで跳ね出した玄関の庇には明かり採りの小円が開けられているのも目を引きます。





 上の写真は居間および食堂で約36畳あるそうです。右側は南の庭園に面しているので全面ガラス張りです。北側にも小さい庭を作ってそこにガラスの引き戸を入れ、採光および通風に気を遣ったことが分かります。このため主として建物の南側は(壁のない)柱梁骨組構造になっていますが、北側の水回りなどは鉄筋コンクリートの壁で構成されています。建築計画を優先してそこに恣意的に鉄筋コンクリート造のストラクチャーをはめ込んだような印象を受けます。

 この当時は水平震度0.1で耐震設計(建物重量の0.1倍の水平力が地震時に作用するとして設計)されたと思われます。現在の建築基準法が要求する水平震度の最低値は0.2なのでこのままでは保有水平耐力が足りない可能性があります。またこの建物は骨組構造と壁構造との混合なので現在の知見からするとかなり慎重な構造設計が必要なはずです。これらから想像すると、この建物の耐震性能は現行基準と同等レベルには達していないのかもしれません。実際、武蔵野市によるパンフレットには、耐震診断の結果を踏まえて常時公開はしない、と書かれていましたので、多分そうなのでしょう。



 上の写真は二階にある書斎の北側に設けられた小円群の明かり採りです。鉄筋コンクリートの壁に36個の円孔を規則正しく穿ち、そこにガラスをはめ込んであり、ガラス戸棚のような造りになっています。その芸の細かさに驚きますし、いま見ても斬新な印象を受けますよね。こんな感じでオリジナルの造り付けの家具がたくさんあって、当時の資産家のモダンな居住様式を垣間見ることができて興味深いです。

 武蔵野市ではこの建物の保存および活用の方法を考えているようです。常時一般公開するためには多分、耐震補強が必須と推察しますが、その方法と使いかたとは一緒に考えるのが合理的です。

 その一例として、アントニン・レーモンドの建築や作品を紹介するアートプラザみたいなものはどうでしょうか。戦前から戦後にかけて日本で活躍したレーモンドの事績を辿ってその功績を顕彰するような小スペースがあってもよいように思います。レーモンドの設計事務所は現在まで引き継がれていると思いますので、それなりの資料が残っている可能性もあるでしょう。いずれにせよ、使いながら保存することが重要です。

研究室を体験する (2023年11月15日)

 この時期になるとそろそろ来年度の研究室の陣容のことが気になり出します。三年生の研究室巡りはすでに始まっていて、きょうは『特別研究ゼミナール』の授業時間内で研究室を体験する日になっています。七つ程度の研究室のなかから各自が興味のあるところを見学するというプログラムでして、わが社には数名が来訪する予定です。まあ例によって人気のないところですので、どうなることやら…。

 この体験会でなにをやるかというのは毎年、相当に頭を悩まします。以前には、研究室を体験するには研究室会議に参加してもらうのが一番だと思ってそうしたことがありましたが、なにも分からない三年生諸君が参加しても苦痛以外の何ものでもなかったようでしたから、その後はやめました。

 昨年は鉄筋コンクリート柱梁接合部が降伏破壊したあとに軸崩壊に至る地震時挙動について、主として地震被害と実験結果とをわたくしがレクチャーしました。明治大学(晋沂雄研究室)との共同研究である先端研究の説明がどの程度理解されたのかは不明ですが、この講義を受けたうちの二人がわが社に来てくれましたので、少しは役に立ったように思っています。

 さてでは今年はどうしようか…、そこではたと気が付きました。今年度のわが社にはそれなりに優秀な卒論生が四名もいますので、彼女/彼らに自身の卒論の内容をパワーポイントを使って説明してもらうことといたしました。ちょうど一年前に何も分からないままに研究室選びをしていた四年生ですから、現在、同じ境遇にある三年生の気持ちもよく分かっているはずです。うん、これはいいアイディアだなと自画自賛しています、あははっ。

 ということで卒論生諸君にとっては迷惑でしょうが、研究室活動の一環として協力してくれると助かります。どうなるか、楽しみだなあ。しかし改めて考えると、三年生以下にとっては大学の研究室ってどういうところなのか想像もつかないわけですよね。大学の先生って机に張り付いて霞食って生きているのかなあ、とか。今どきまさかそんなこともないか…。

 わたくしのように三十年以上大学で自身の研究室を主宰している人間にとっては、それはもはや日常生活の場と化しているのでなにが特徴でどこが素晴らしいのかを普段は忘却しています。ですから彼らの困惑やら疑問やらを知ることによって新鮮な気分に戻れるような気もします。先生同士が互いに「〇〇教授」とか職名をつけて呼び合っていると思っているひとも世間にはいるらしいですが、そんな呼び方は全くなくてフツーは〇〇さんとか〇〇先生とか呼んでいます。

 とか書いていたら同僚の角田誠先生がやってきて、ひとしきり雑談してゆかれました。ひとことで言えば大学教員としての悩みは尽きないってことです、学生諸君には多分、分からんでしょうけど。

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 ということで、もうとっぷりと日も暮れましたが研究室体験会が終わりました。今年は四名の三年生が来てくれました、ありがたいことです。上述のようにわが社の卒論生四名にそれぞれの卒論研究の内容を話してもらいましたが、思いのほか皆さん上手にかつ要領よく説明してくれてとてもよかったです。今年の卒論生は予想した通りにポテンシャルは高いと思いました(と、ちょっと褒めておく)。三年生諸君にとっても研究室選びの参考になったのではないでしょうか(来月、その成果?は明らかになりますけど…)。

論理的に文章を書く (2023年11月14日)

 秋から冬に向かうにつれて朝起きるのが日の出前になってきました。外に出るともう真冬の寒さで驚きます。ただ、日が昇るとだんだんと暖かくなって助かりますね。今朝のキャンパスの様子を載せておきます。

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 先日、論理的な文章を書くためのセミナーを十一月中旬に学内で開催するという案内が来ました。論理性や伝達性を向上させるのに役立つパラグラフ・ライティングを説明するそうです。文章を分かりやすく書くことの重要性は重々認識していますが、「パラグラフ・ライティング」のことは知りません。そこで、このセミナーの講師である倉島保美さんが執筆した『論理が伝わる 世界標準の「書く技術」 「パラグラフ・ライティング」入門』(講談社ブルーバックス、2012年11月)を図書館で借りてきて(こういうときも図書館は便利ですな)読んでみました。

 著者の倉島さんも書いているように、欧米の大学では入学すると最初に「テクニカル・ライティング」のような文章の書き方の授業がありますが、日本の大学ではそのような授業は多分ないでしょう。わたくし自身、そういう授業を受けた記憶はありません。それを思うと、このような文章の書き方を勉強することには大いに意義があると考えたので、(この年齢になって今更という感もありますけど)この本を読んでみた次第です。

 さてまずパラグラフの定義ですが、「パラグラフとは、一つのトピックを一つのレイアウト固まり(パラグラフ)で表現すること」とあります。日本には段落がありますがそれとは異なるという認識です。重要なのはひとつのパラグラフにはトピックは一つだけ記載して、二つ以上のトピックを入れてはダメということです。本書では、パラグラフで執筆するときのルールが種々説明されてゆきます。

 ざっくり言うと、欧米人が周知の形式(すなわちパラグラフ)を整えることによって読み手のストレスを軽減し、読み手が先を推測し易いように文章を紡いでゆくことがパラグラフ・ライティングの極意だと理解しました。誤解されることなく、分かりやすく書くために確かにそれは有効な方法だろうとは思います。

 しかしその一方で迂生のように論文執筆を主要な目的とする場合には、それほど役立つ知識ではないとも感じました。本書が対象としているのは、文書を最初から最後までじっくり読むヒマのないビジネスマンであって、そういう人たちがサッと読んで正しく理解するにはパラグラフ・ライティングが有効ということです。そういう多忙なビジネスマンは文書を飛ばし読みするのが通常であって精読してくれる読み手はわずかなので、そういう需要にも応えられるのがパラグラフ・ライティングだそうです。そういう意図で本書は書かれているので、著者自身もこの本はバンバン飛ばし読みして結構です、と最初に言っています。だから、すぐ読み終わりました。

 これに対してページ数の限られた論文では、分かりやすさのために同じ内容の文章を繰り返すのはスペースの無駄です。そもそも論文は精読されることを意図して書かれるのが普通ですよね。わたくしはこう考えるのですが、この著者は学会論文もパラグラフを使って書くのが常道であると書いていて、腑に落ちませんでした。

 もっとも、パラグラフの第一文に要約的な文を置くことや、文の主語は大切なキーワードにした方がよいなどの指摘は、文章の理解を容易にして自身の言いたいことを強調するという点で納得できました。また科研費の研究申請調書のように短時間で査読者に理解してもらって自身の研究の独創性等をアピールするような文書に対しては、(スペース制限はあるものの)このパラグラフ・ライティングの技法が応用できるような気もします。

 論文でも冒頭にその概要を1パラグラフで記載することが多いですが、そういうときには研究の結論まで簡潔に記載することが重要です。こういう目的のためにこういう実験を行なった、みたいな概要をよく目にしますが、これでは全くダメで、その実験の結果として分かったことをちゃんと書きなさい、ということです。同書にはパラグラフ・ライティングの作法として、このことがちゃんと書かれています。全く同感ですね。

 なお蛇足ですが、わたくしがこのページで書いている文書はパラグラフ・ライティングではありません。画面上で読み易いように(文章の流れは意識していますが)適当に改行を入れているだけなので、各パラグラフの内容が尻切れだったり、二つ以上のトピックが含まれていたりします。このページをご覧の皆さまには言わずもがなの付け足しではありますが、誤解されないように一応、記載しておきます。このページは論文でもなければビジネス文書でもないので、お許しを。

ペリーアパートの謎が解ける 〜「スライドの時代」余聞 (2023年11月11日)

 数日前には半袖でいいような夏日だったのに、この週末は急に肌寒くなりました。ちょっと寒いねということで、わが家では今シーズン初めて暖房を入れました。このように目まぐるしく変動する気候なので、体調はあまりよくないです。皆さまもお気をつけください。

 さて新聞の地方欄を見ていたら、東京都武蔵野市にある旧赤星鉄馬邸を期間限定で一般公開するという記事に目がとまりました。この住宅はアントニン・レーモンドが設計した鉄筋コンクリート建物であることを知っていましたので、ちょうどよい機会なので見にゆこうかなと思いました。

 そこで下調べのために手元にある『現代日本建築家全集 1 アントニン・レーモンド』(三一書房、1971年8月)を久しぶりに本棚から取り出して眺め始めました。この書籍は全部で24冊もある大部のシリーズの第1巻でして、以前に書きましたが父が買い揃えたものでした。定価は4,300円(消費税はまだない)とありましたが、これは当時としては相当の高額だったと思います。子供のころの記憶ではとにかくわが家は貧乏でして、そのような家計の状況のなかでよくこんな本を24冊も買い揃えたものだなと今になって思います。ただ、公社の営繕部門で監督者だった父が建築デザインに対する情熱を持ち続けていたようには見えませんでした。でもまあ、子供には分からんか…。



 この本にはお目当ての赤星鉄馬邸がちゃんと載っていましたが、ここで書くのはこの建物のことではありません。以前のこのページに「スライドの時代」と題した一連の文章を載せました(2023年6月および8月)。そこで東京都心の丘の上に建つ鉄筋コンクリート6階建てのアパートを紹介しました(下の写真1)。それがペリーアパート(Perry Apartments)と呼ばれたことや、(現代でいうと)港区六本木2丁目に建てられたアメリカ外交官のための住宅であったことが判明しています。ペリーアパートは占領解除直後の日本の建物としてはモダンで立派に見えること、プランは分からないもののメゾネットタイプだったのではないか等を以前に記しましたが、それ以上の消息については不明でした。


写真1 ペリーアパートの西南面 ジェラルド・ワーナー撮影(1953年9月)

 ところがきょう、アントニン・レーモンドのことを著した同書をパラパラと見ていると「アメリカ大使館アパート」というページがあって、そこにこの建物が写っているではありませんか。いやあ迂闊でしたね、これだけ立派に見える建物ですから名のある建築家が設計したと想像するべきでした。灯台もと暗しとはこのことか…。

 アントニン・レーモンドは1888年生まれのチェコのひとで、フランク・ロイド・ライトが帝国ホテルを設計した際にその助手として1919年に来日し、戦前から戦後まで日本で活躍した建築家です。建築史上は戦後すぐに建ったリーダーズ・ダイジェスト日本支社(ワイドリンガーが構造設計したもの)が著名でしょうが、東京では東京女子大学にある鉄筋コンクリート構造のチャペルが有名です。その塔はオーギュスト・ペレ設計のル・ランシーの教会によく似ています。

 同書によると、この二棟のアパートはペリー・ハウスおよびハリス・ハウスと呼ぶそうです。ペリーとハリス、なるほど…。二人はともに幕末日本に開国を求めにやってきた米国の軍人と外交官でしたから、第二次世界大戦に敗れて占領されていた日本に米国が建てる建物としては相応しい名前だったのでしょうな、きっと。

 驚いたことにこの敷地は治外法権を持つために日本の法律が適用されませんでした。そのおかげで写真のように軽やかな壁構造とジョイスト・スラブの建物が可能になったそうです。ここで行われた厳密な施工と設計監理とは一般の日本では不可能であり、建築家レーモンドは現場に住みついて現場指導と原寸図監理をしたとありました。ここでまた、はたと気がつきました。

 下の写真2(遠くに国会議事堂が見える)はペリーアパートが建つ前の三井邸跡地ですが、そこに木造平屋の仮小屋が写っています。スライドのコメント欄には「Mitsui Imaicho Property looking North toward Diet Draftsmen's Buildings」とありました。 “Draftsmen's Buildings”が実はレーモンドの仕事場兼仮住居だったわけです。そうだとすると下の写真が急に価値あるもののように見えて参ります。


写真2 ペリーアパートが建つ前の敷地(三井邸廃墟) ジェラルド・ワーナー撮影(1951年5月)

 ということでペリーアパートの謎は解けました、嬉しいです。同書には平面図(図1)が載っていて、予想した通りにメゾネットでした。奇数階にはダイニング、キッチンとリビング・ルームがあって南側にベランダが付き、その上の偶数階が寝室です。後述する寸法から推定すると一住戸の面積は110平方メートル程度(ベランダを除く)あり、やっぱりかなり贅沢であることが知れます。

 ちょっと不思議なのはメゾネット住居なのに各階の北側に外部廊下が設置されていて、各住戸の上階にも玄関が設けられているように図面からは見えることです。普通のメゾネットは下階に玄関を設けたら、上階には内部階段でアクセスするので上階に別玄関を設ける必要はありません。そうすれば上階には外部廊下は不要になって建設費を節約でき、経済的にも合理性があります。ル・コルビュジェのユニテ・ダビタシオンのメゾネットもそうなっています。なぜでしょうか…。

 配置図(図2)を見ると都心のど真ん中なのにそもそも敷地が広いですし、二棟のアパートがかなりゆったりと建っていることが確認できます。なお同図にはペリー・ハウスとハリス・ハウスのほかに戸建のような住宅が六戸描かれていますが、ジェラルド・ワーナーの残したスライドには写っていませんでした。ですから、これらの住戸が本当に建設されたかどうかは不明です。


 図1 ペリーアパート 4階平面図(同書より)


 図2 ペリーアパート 配置図(同書より)

 ペリーアパートは前述のように鉄筋コンクリート造の壁構造です。張間方向(短辺)の耐震壁の間隔は24尺(7.27メートル)、ベランダの跳ね出しは5尺(1.51メートル)、階高は約10尺(3メートル)と同書にありました。またジョイスト(RCスラブのたわみを防ぐために床版の下に設けた小梁状の突起)の断面せいは2尺(606ミリメートル)でした。ジョイストのせいがちょっとした大梁並みに大きいので、これは想像ですが桁行方向(長辺)には大梁がない構造形式なのかも知れません。そうだとすると日本ではあまり見ない構造ですが、桁行方向には壁がちょろっとあるくらいで少ないので耐震性能の観点からはかなり不安に思いました(既に取り壊されて存在しないので、どうでもいいけど)。

 せっかくなので、ついでにジョイスト・スラブの実例を以下に載せておきます。これは丹下健三設計の津田塾大学・星野あい記念図書館(1954年竣工)の二階の床スラブです。2019年5月に見学に行った際に撮影しました。画面の手前から奥にたくさん走っているのがジョイストでその上にRC床スラブが載っています。あれっ?ペリーアパートの竣工が1952年か53年ですから、この図書館はその時期に設計されたことになります。もしかして丹下健三はアントニン・レーモンドのペリーアパートの事例を参考にしたのかな…。


写真3 ジョイスト・スラブの例 丹下健三設計・津田塾大学星野あい記念図書館

秋が深まっても半袖 (2023年11月6日)

 けさは薄曇りではあるもののまずまずのお天気になりました。本学ではこの三連休に学園祭が終わって、けさ登校すると既に跡形もなくきれいに片付けられていました。本学ではみやこ祭と呼ぶようですが、その実行委員会の皆さんはマネジメントはしっかりなされているみたいで、清掃等が行き届いているのは立派だなと思います。

 わたくしは本郷の学部三年生のころ、工学部の五月祭実行委員をやっていました。多分、航空学科の村上哲くんに誘われたのだろうと思います。そのときにスポンサー集めとかコンサートの企画とかパンフレット作りとかが大変だったことは以前に書きました。でも、五月祭が終わったあとの片付けや点検はどうだったか、全く憶えていません。そんなに熱心にやらなかったのかも…。

 さて、秋も深まり日没も早くなったというのに、ここのところかなり暑いです。行き交う小学生たちは半袖が多かったですね。十一月のこの時期はそろそろストーブを入れようかという気候ですから、今年はやっぱりちょっと変ですな。とはいえ、学内の木々はそれなりに紅葉が進んでいまして、季節のベクトルは大筋では冬に向かっているようです。

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十月晦日 (2023年10月31日)

 十月も晦日となり、今年もあと二ヶ月になりました。二ヶ月経ったらお正月だって皆さん知ってましたかあ、当たり前ですけど。あとひと月もしたら卒論の発表会が始まったりして、学事暦では早くも年度末モードに突入するわけですから、いやあ今まで何をして来たんでしょうか…(わたくしも学生諸君も)。

 きのうの午後は設計製図の構造エスキスがあって、1時から6時までの五時間を費やしました。迂生自身は自分の研究室で座っていればよくて、学生さんが来なければ好きな仕事をしていられるのでこりゃいいやって感じです。しかし実際にはエスキスを希望する二年生諸君が入れ替わり立ち替わりやって来て、結論を言えばこの五時間、トイレに行く暇もなくて合計22名の学生諸君の話しを聞いてあれこれ指摘しました。それでも二年生は50名くらいいますから、ここに来たのはそのうちの四割程度に過ぎなかったということになります。

 この授業をやっていていつも思うのですが、建築ってやっぱり経験がモノを言いますよね。二年生が建築設計を本格的に始めるのがこのコミュニティー・センターの課題なので、はっきり言って何も知らない無垢の状態です。彼女/彼らが見せに来るプラン(平面図)には、おしなべて居室の四隅に柱が置かれていて、まず軸組(柱と大梁とで構成される骨組のこと)というものが形成されていません。十月始めの構造ガイダンスでは柱と大梁とで骨組を作ろうねってちゃんと説明しているにもかかわらず、こうなんですねえ。

 さらに言うと、諸室の配置(彼らは初心者なので間取りって言う)とストラクチャー(建築構造)とは別個に考えてよいのですが、そのこと自体を理解していません。なので外皮の窓とか室内の間仕切り壁とかの端部には必ず柱を立てて来ます。君たち、世の中に建っている建築をよく見てごらん、って言うんですけどね…。

 こんな感じで建築の常識を何度も繰り返して言わないといけないのがつらいです。だったら最初の構造ガイダンスで言えばよいって思うかも知れませんが、ただでさえ一時間以上も説明しているので、これ以上、説明する内容を増やしても誰も理解できないだろうって思うんです。だから、まあ仕方ないか…。こうやって手を取って教えれば、少しずつ成長していくんでしょうからね。それが教育というものと思えば、まあいいか。

もういいかという感覚 (2023年10月30日)

 十月も末になって朝晩は随分と肌寒くなって参りました。この春や初秋に着ていた上着とかニットとかをクリーニングに出すように家内から言われて出しました。もう、冬の装いになるっていうことですな。

 さてこの週末に高校一・二年生のときのクラス会がありました。COVID-19のせいで四年ぶりの開催になりましたが、クラスの半数近い22名が集まって思い出話しに花が咲きました。入学当初の自己紹介のときに北山はこう言ったぞなんて自分自身が憶えていないことを言われて驚いたりしました、ええ〜っそんなこと言ったっけ? 皆んな、それぞれに印象に残った出来事があったようで大笑いできました。幹事としてクラス会を企画してくれた塩島さんと鶴木さん、ありがとう。

 今回は衆議院議員の尾身朝子さんも地元の群馬県から戻ってきて参加してくれました。でも、立て板に水のように挨拶されるとやっぱり国会議員って大変なんだろうなって思いますね。挨拶冒頭に当選三回って言ってましたから、当選回数がものを言う永田町の常識が市井の場でもつい出ちゃったっていう感じでした。

 皆さんの話しを聞いていると、民間企業では既に定年を迎えてそのあと何もせずに楽しく過ごしているひとや自営業のひとはいつになったらリタイアできるんだあっていう嘆きとか、いろいろあります。孫が何人いてとても可愛いっていうのも結構ありました。あとは年齢がら病気の話しですな…。

 そんななかで多くの同級生たちが言っていたのが、もうそろそろいいかっていう言葉でした。もちろんいろんな文脈の中で発せられた言葉なのでそこだけ切り出してあれこれ言うのも不適切かも知れませんが、大筋として迂生も大いに同感だったからです。何か素晴らしい業績を残したとか世間に評価されたとかいうことではなくて、自分自身がその時々に置かれた場所で最善を尽くして何事かをやり遂げたという達成感を皆さんがそれぞれ抱いて生きてきた、ということでしょう。

 そういう目に見えない圧力から解放されたときにどのような景色が広がるのだろうか。もちろん不安もいっぱいありますが、それ以上に期待感を抱くようになりました。もうそろそろ、何にも束縛されずに自由気ままに生きてもいい年頃になったんだなあと実感します。

配慮の無限 (2023年10月24日)

 先日、教授会のあとにダイバーシティ研修というのがありました。身の回りにいるかも知れないLGBTQの人たちや心の病を持っている人たちに対する配慮をおさおさ怠りないようにという注意を喚起する内容でした。社会には多様な性向の人たちがいることは事実で、どのようなひとでも等しく人として気持ちよく対等に遇されるべきことは言うまでもありません。ですから、このような研修は結構なことかとは思います。建前としてそう理解しています。

 しかしそうではあるのですが、その研修を受けているうちにだんだんと気分が沈んできて人知れず溜め息を漏らしそうにすらなったことをここに告白いたします。身の周りにはどういう人がいるか分からないので、とにかく周囲に対して配慮しましょう、配慮しましょうと連呼されるわけです。それはその通りなのですが、周りの人々にそんなに気を使わないといけないとすると、もう何も言えなくなりますし(何かの発言が人知れずそのひとを傷つけているかも…)、周囲へ気を使い、配慮した挙句に押し潰されたわたくしを世間には配慮して欲しいとすら思うようになるのではないか。

 こうなるとこれはもう配慮の無限ループに陥ってしまいそうで、とうてい平穏ではいられません。そんなに真面目に気にしなくてもいいんだよっていうことであればいいのですが、この研修ではとにかく一方的に配慮を求められているように聞こえてげんなりしたのが実情です。配慮の呪縛によって自分自身の精神に異常をきたしそうで怖いです。

 なにも言わないか、当たり障りのないことだけをしゃべるか、そういう態度でいることが自分自身を守る昨今の世すぎの仕方なのかも知れません。そうだとすれば、どうにも生きづらい世の中になったものだと思います。

学徒出陣から八十年 (2023年10月21日)

 さきの戦争において徴兵猶予を解除されて出征することになった大学生たちが明治神宮外苑競技場で行進した日から今日で八十年めでした。当時の映像を見るとその日は雨降りだったようです。

 ことしの建築学会大会で京都大学に行ったときに百周年時計台記念館にある展示室で、当時の京都帝国大学から出征した学徒兵のかたの手紙や学徒出陣手牒(京大経済学部が出陣学徒に配布した手帳で、軍人勅諭や教育勅語が印刷されていた)を拝見しました。そこで学究生活半ばに大学から引き離されて戦地に送られ戦死された彼らの無念の気持ちを慮ったところでした。


写真 京都大学から学徒出陣して海軍に入り、特攻機で出撃して沖縄方面にて戦死された時岡鶴夫さん

 雨のなかを出陣学徒が行進してから八十年後のきょう、わたくしは本郷の東大にいました。年に一度のホームカミング・デーということで、お日和もよかったので久しぶりに行ってみました。東大がいつからこういう行事をするようになったのか知りませんが、母校のホームカミング・デーに行ったのはこれが初めてです。別に同級生に会うとかではなく、他に目的があったのですがそれは機会があればまた記しましょう。

 東大からは1700名以上の先輩がたが戦死したことが判明しています。ただしその実数は未だに不明ということで、この当時がいかに混乱の渦中にあったかが偲ばれます。お国のために殉じた先輩たちを慰霊する碑などが東大キャンパス内にはないことは2022年6月のこのページに記載しました。そこで卒業生の有志の皆さんがキャンパス外に慰霊碑を建てたことも書きました。

 そのひとつが下の写真です。東大正門前のモンテベルデというマンションの敷地の片隅にそれはありました。そこには「東京大学戦没同窓生之碑」とあって真ん中に「天上大風」と刻んであります。良寛さんの書だそうです。この碑は医学部卒業生の有志の方々が2000年5月に建立したとのことでした。ちなみにこのマンションの2階にあったレストラン「モンテベルデ」は既に無く、ほかのお店に代わっていました。こんなところにも時代の流れを感じますなあ。





 本郷キャンパスをあとにしてから、この日は実は明治神宮外苑も訪れたのですが、八十年前の10月21日に出陣学徒がこの地に集まって行進したことは帰宅後に新聞を見て思い出したことでした。その同じ地にある新国立競技場ではJリーグのサッカー試合が行われていたようでして、運悪く迂生はその試合が終わって帰路につく集団に出くわしてしまいました。JR千駄ヶ谷駅に向かう人波を写したのが上の写真ですが、もの凄い人出で辟易といたしました。

 それはわたくしからすれば迷惑この上ない場面でしたが、これってまさに平和を絵に描いたような光景ですよね。平和でなんの屈託もないかのような日常…、しかしこれこそが八十年前の先輩がたが命に代えて実現した世界かと思うとき、非業の死を遂げられた先輩諸兄には感謝してもし切れないという思いを新たにいたします。ヨーロッパや中東では戦争が起こっている今だからこそ、平和の尊さがいっそう身に沁みて参ります。志なかばにして戦陣に斃れた先輩がたに、合掌…。

爽やかで気持ちよい朝 (2023年10月17日)

 きょうも爽やかで気持ちのよい朝を迎えました。こういう朝はゆったりと散歩するにはうってつけなので、久しぶりに学内の普段立ち寄らないところをブラブラと歩いてみました。自分の通う大学なのに、ふーん、こんなところがあるんだっていう新鮮な気分にいっとき浸ることができました。本学は中規模大学とは言え、まだまだ未知との遭遇には事欠かないことが分かってそれはそれで楽しかったです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU朝のキャンパス_本部のほう20231017:IMG_2244.JPG

 そうしてブラブラと9号館に向かっていると、登校してくる壁谷澤寿一さんと出会いました。それで先日あった日本建築防災協会のオンライン会議のことを思い出しました(以下のように“壁谷澤”つながりです)。

 これは既存建物の耐震診断・耐震補強の妥当性を審査する会議で、壁谷澤大先生(父上)が委員長なのですが、長年の仕来りなのか岡田恒男先生や村上雅也先生などの長老格の先生がたが出席されるというたいそうな場なんですね。わたくしが学生の頃、既にこの先生がたは立派な業績を上げられた一廉の人物という位置付けでして、わたくしのような初老の人間さえ彼らにとってはひよっ子なんです。

 ということで個別物件の担当者(今回は勅使川原先生[名古屋大学名誉教授]と中埜良昭[東大生研教授]の二人)が一時間くらい説明した後に質疑応答があって、そこでそういう長老先生から厳しいご下問やご意見が開陳されるわけです。もちろんこの場はそういう議論をする場所なので結構なことなのですが、担当者からすると相当に緊張するし、つらい場所になるわけですよ。結局、この日は一件の審査に三時間を費やしました。

 担当者のお二人だって世間や学会に出れば既に押しも押されもせぬ立場にあるのですが、なんといっても二人とも岡田先生直系の愛弟子たちなのであれこれ言われてもまあしょうがないかって感じです。でも、議論の挙句に「…それは気にくわない!」なんて言われるとやっぱり困惑するでしょうな。この委員会のことは以前にも書いたのですが、わたくしが担当者のときも先輩がたからものすごく罵倒されたりして相当にめげました。

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 谷村新司さんの訃報が流れました。わたくしが高校生のころ(1970年代後半)からアリスは流行り出していて、「今はもう誰も」が最初に憶えた曲でした。堀内孝雄の「遠くで汽笛を聞きながら」や「君の瞳は10000ボルト」なんかもよく聴きました。当時はまだLPの時代で貸しレコード屋もなかったので、そういう曲たちはFM放送をカセットテープに録音して聴いていました。

 テレビ報道では「チャンピオン」とか「昴」が流れていますが、わたくしはそれらの曲はそんなに好みではなく、その後、アリスは聞かなくなりました。ときどき書いていますが、そういった世間でヒットした曲ではないものにこそ本当の名曲があったりするんですよね。それが迂生にとっては「今はもう誰も」でした。…ご冥福をお祈りします。

十月中旬に (2023年10月16日)

 きょうは雲ひとつない快晴となりました。朝方は気温が随分と下がって12度くらいでした。家のなかはさすがに快適だと思うのですが、女房は寒いので暖房を入れるとか言っていました。

 きのうの大雨が大気の塵を洗い流してくれたのか空気が澄んだようで、多摩川を渡る京王線から真っ白に冠雪した富士山が綺麗に見えました。ちょっと前までは暑くて大汗をかいていたのに、急に秋が深まったように感じます。大学の正門には学園祭(11月初め開催)のための木造ゲートが設置されていました。そろそろそういう時期なんだなあと思います。

 愚息の学校は先週、無事に学院祭を開催できたのはよかったのですが、そのあと予想通りにまた学級閉鎖が相次ぎ、ついに彼のクラスも閉鎖の憂き目にあいました。彼は元気でよかったのですが、クラスの四割近くが欠席した日、午前中の授業で打ち切りになってそのまま昨日まで学級閉鎖になりました。世間ではインフルエンザと新型コロナ・ウィルスとが両方流行っているとのことなので、迂生も注意しております。といっても、手洗いをこまめにするくらいなのですが…、人混みには行かないようにしています。

 十月も半ばになって、本学の卒論はあと三ヶ月半ほどになりました。今年の卒論生四名は皆さん真面目に取り組んでいるようで、研究室ゼミでも毎回、何がしかの資料は提出してくれます。ただその進捗具合と言えば、あまりはかどってはいないように見えます。そろそろ本腰を入れてギアを入れ替え、スピードアップしないと間に合わないよって言ってあります。でもここ数年に較べれば遥かにまともだと思いますので、よしよしっていう感じかな(まさに好々爺ですわ)。

 先週にはうちの卒論生が資料をお借りするために芝浦工大・岸田慎司教授のもとを訪ねました。今頃になってそんな基礎的なことをお尋ねするのも気が引けたのですが、情報がないと卒論が先に進まないので仕方ありませんね。お忙しいなか、岸田先生には資料を探し出して我が社の学生を親しくご指導いただき、御礼を申し上げます。どれだけの研究成果が出るかは分かりませんが、なにか新しいことがひとつでも解明できれば嬉しいです。さらにお尋ねすることもあるかと思いますが、その際にはまたよろしくお願いします。

二番にもどる(その2) 〜ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番〜 (2023年10月11日)

 五月中旬にラフマニノフのピアノ協奏曲第二番のことを書きました。きょうはその続きです。この曲の追求は不断に続けていて、気になる盤を見つけては地道に聴いています。もともとがいい曲なのでいくら聴いても飽きることはありません。それぞれの演奏の特徴にも気が付きますし、ここでこんな楽器が鳴っていたんだという新発見?もあります。もしかしたら演奏によって楽譜が違うのかもしれませんが、わたくしはスコアを見るほどの執着はないので、発見なんて言っているだけかも。

 さて五月以降に新たに聴いたのは以下の三枚です。ピアニスト;指揮者:オーケストラ、録音年の順に記します。左端の番号ですが、録音年の古い順に並べた五月のリストに追加しているので、枝番になったりしています。この三枚ですが、それぞれに纏っている雰囲気というか曲調というか異なりますし、直接比較できるようなものではないのですが、結論を言えばいずれもお勧めのディスクです。

 2-2 ペーター・レーゼル;クルト・ザンデルリンク:ベルリン交響楽団 1982
 7-2 クリスティアン・ツィメルマン;小澤征爾:ボストン交響楽団 2000
 16 ユジャ・ワン;グスターヴォ・デュダメル:ロサンジェルス・フィルハーモニック 2023

 この曲で迂生が注目するところ(全くの偏見かも知れませんが…)は五月に書きましたが、ピアノ単体というよりもオーケストラのなかの一つの楽器としてピアノを捉えるのがわたくしの聴きかたです。ピアノ協奏曲なのでフツーはピアノに注目するのでしょうけど、必ずしもそうではないということです。では、それぞれについて感想を書いてみましょう。



 レーゼル・ザンデルリンク盤(2-2番)はまだ鉄のカーテンが下がっていたころの東ドイツ時代のベルリン交響楽団とのセッションですが、重厚な感じでなかなかよいと思います。第一楽章の冒頭にピアノが奏でる“鐘”は中庸のスピード(22秒ほど)ですが、そのあとのトゥッティは相当にゆっくりになり、ザンデルリンクは思い入れたっぷりにデュナーミクを入れてきます。レーゼルというピアニストは初めて聴きましたが、一音一音を明瞭に打鍵しているのが聞きとれ、キレもいいです。終わりのほうのホルン独奏は若干弱めなのですが、哀愁を帯びた感じがこの曲によくマッチしていると思います。

 第二楽章はゆったりとしたテンポで進みます。冒頭のフルートからクラリネット、そして一連の木管楽器の流れは美しいです。この録音全体として木管楽器の音色がきれいなのは特筆してよいと思いますね。最後に盛り上がるところは淡々と入るのですが、フルートの味付けが明瞭に聴こえるので嬉しいです。ただヴァイオリンなどの弦楽器は絹のように滑らかというわけではないのが惜しいと思います。

 第三楽章の入りもゆっくりしています。第三楽章ではシンバルが随所でかすかに響くのですが、それが明瞭に聴き取れます。トランペットの独特の金属質の合いの手もよく聴こえます。終わりのドン!は大太鼓が盛大に鳴っていて嬉しくなります。怒涛のラフマニノフ終止に向かってザンデルリンクはテンポを落とすことはせず、レーゼルのピアノもきっちりと鍵盤を捉えているのが聞こえます。ちょっと冷静な感じでラフマニノフらしいはじけたラストというわけではありませんが、ザンデルリンクがそう解釈したということだと思います。トリフォノフ・ネゼ=セガン盤と比較するとよく分かるのですが、ザンデルリンクは全体を通してほとんどテンポを揺らすことがなく、そこが安心して聞ける理由かも知れません。

 四十年以上前の古い録音ですが古びた演奏という感じは全くしません。皆さんにお勧めできる演奏だと思います。総じてこの録音では聞こえて来てほしい楽器の音色がどれも明瞭に流れてくるのが素晴らしいです。この曲は常にピアノが主役というわけではなくて、ピアノが前面に出たりオーケストラが前面に出たりを繰り返すのが特徴だと思いますが、それを活かすためにピアノばかりをフューチャーした録音にしなかったのは美点でしょう。社会主義時代の東ドイツの録音なので、ピアノもオーケストラもみんな平等ってわけでもないでしょうけどね、あははっ。



 ツィメルマン・小澤征爾盤(7-2番)は全体としてツィメルマンの技巧が際立っていて、ピアノに詳しくないわたくしでさえ圧倒的な上手さを感じました。ボストン響は言うまでもなくアメリカのトップ楽団ですから上手なのは当然かな。

 第一楽章冒頭の鐘のテンポは相当に遅くて(33秒くらい)面食らいます。しかしその後すぐのトゥッティでは小沢がテンポをあげてきて、そのあとまたゆっくりになります。小沢はかなり頻繁にアゴーギクを入れています。ボストン響のティンパニが乾いた硬質の音色なのはわたくしの好みです。終盤のホルン独奏はなんだかぼわ〜んとしていて冴えない感じなのが惜しいです。

 第二楽章は全体としてゆったりと流れてゆきます。木管楽器がフルートからクラリネット、オーボエと引き渡されてゆくところも美しいです。このディスクの第二楽章は12分ほどの演奏ですが、その2/3ほどのところにピアノ独奏があってツィメルマンがブルックナー休止のように無音状態を数秒続けるところは結構ドキッとします、いつになったら次の低音一音を弾くのだろうかって。第二楽章の最後のほうの泣かせどころではアクセントのフルートの音色が最後までよく聴こえないのは残念です。

 第三楽章の入りは中庸か少し早いテンポです。最初のあたりのシンバルはよく聴こえるのですが、そのあとにはどういうわけか周辺の音にかき消されてしまうようで、よく聞き取れなくなります。オーケストラに対してピアノがちょっと前面に出気味の録音のせいかな。小沢はゆったりして欲しいところを少し遅めにするというように意識的にアゴーギクを入れています。終わりのドン!は大太鼓ではなくピアノを強打したような音色で、ここも残念な点です。その直前のピアノが怒涛に駆け上がるところがもの凄く精緻・精密な感じで力強さも強調されています。ここは今までに聴いたことのない演奏でかなり鳥肌が立ちました。

 このように繊細かつすご腕のツィメルマンが演奏するピアノ協奏曲第三番も是非とも聴いてみたいと思いました。ただちょっと探したのですが、市販のディスクは見当たりませんでした。ツィメルマンは第三番はお好きじゃないってことでしょうか。



 ワン・デュダメル盤(16番)はメジャーなレーベルでは迂生の知る限りで同曲の最新録音だと思います。結構大胆なアルバム・ジャケットですね。ラフマニノフのピアノ協奏曲全4曲とパガニーニ・ラプソディを収録した二枚組のアルバムです。ドイチェ・グラモフォン(DG)の最新録音(2023年)のおかげなのか音の解像度が高く、特にそれぞれの木管楽器が明瞭に浮き上がってきますし、ティンパニは皮を強く張っているような乾いた音色で、いずれもわたくしの好みです。

 演奏全体に暖色系の明るい雰囲気が漂っていて、本来はロシアの暗くて憂鬱な情景を思い浮かばせる演奏が好まれるのでしょうが、これはこれでいいと思えるから不思議です。明るい雰囲気をまとっているのは指揮者のデュダメルが南米の方だからでしょうかね。でもピアニストは中国人だから関係ないか…、単なる偏見かも。

 ユジャ・ワンのピアノは精確でへんに強調するところもなく、デュダメルはところどころにアゴーギクを入れて来ますがこちらも嫌味を感じません。アメリカのトップ・オケだけあってロサンジェルス・フィルの完成度も高いと思います。全体として素晴らしい演奏・録音です。わたくしがこれまで聴いてきたピアノ協奏曲第二番では一、二を争う素晴らしさであると思いますので、ぜひお聴きください。

 第一楽章の冒頭の“鐘”は途中から和音の一音だけ離れて弾く変形アルペジオ・タイプです。かなりゆっくりとした感じですが(28秒ほど)、これは2010年のクラウディオ・アバドおよびマーラー室内管との演奏(18秒!)と較べると相当に遅いです。同じピアニストでこんなに違うのには正直、驚きました。やっぱり指揮者の指示なのでしょうか…。ただ、そのあとのテュッティは普通のテンポで演奏されます。弦の微かな揺らめきが空気感として伝わってくるのはすごいと思いました。中ほど過ぎのトランペットの合いの手はちょっと弱く、終わり近くのホルン独奏は少し濁り気味の音色かなと感じましたが、弦が上手に寄り添っている感じでトータルとしてはよいかと思います。

 第二楽章の冒頭、フルートからクラリネットへと受け継がれて進みますが、それらの木管と弦とのバランスがよくてとても美しいです。最後の盛り上がりに向かうところの弦のユニゾンは綺麗ですし、フルートの合いの手は最初から明瞭に聴き取れます。ピアノとオーケストラとの音のバランスがよいのは、ミキシングを担うプロデューサー(それともエンジニア?)の腕がよいということでしょうね、きっと。

 第三楽章では、シンバルがしっかり聴こえます。終わりのドン!では大太鼓が明瞭に打ち鳴らされています。ドン!の直後は歌うようにゆったりと奏でられますが、フィナーレに向かう怒涛の音形ではユジャ・ワンのピアノが急に速くなってちょっと驚くくらいです。それがまた難なく弾きこなしているようなので恐れ入ります。そのままのスピードでフィナーレ終末のジャンジャカジャン!に突入しますが、特段の変化もなくてあっさりと終わったような気がしてそこだけちょっと不満でした。

 ワン・デュダメルのコンビはなかなか相性がいいみたいで、彼らとヴェネズエラのシモン・ボリバル交響楽団とによるラフマニノフのピアノ協奏曲第三番(2013年、DG)もスピード感に溢れる素晴らしい出来でした。指揮者のグスターヴォ・デュダメルは42歳、ユジャ・ワンは36歳とともにまだ若く、これからさらに飛躍しそうな勢いがあります。いっそうの活躍を期待します。

中庸というものがない (2023年10月9日)

 きょうは冷たい雨降りになりました。一週間ほど前には30度を超えるような暑さだったのに、ここのところは涼しさを通り越して肌寒いくらいの気温です。何にでもほどほどの加減というものがありますが、こうした気温の乱高下は体にこたえますよね。地球環境が変わりつつあるせいかほどよい秋が短くなっていて、中庸というものがなくなっているように思います。

 さて先日、角田誠先生がふらっとお出でになったときに、『先生、どうか皆の前でほめないで下さい いい子症候群の若者たち』(金間大介著、東洋経済新報社、2022年3月)という単行本を置いていってくださいました。なんでも本屋で見かけて買ってみたらとても面白いから貸してあげる、ということでした。いやあ、ありがたいことですね。角田先生は山下達郎や松任谷由実や日本酒は置いていってくれましたが、本をご持参いただいたのは初めてのような気がします。

 ということで拝読したのですが、彼が言うに違わずとっても面白いです。著者の金間大介さんは金沢大学教授でイノベーション論などを専門とする方だそうですが、迂生は知らないひとでした。この本では現代の若者気質(著者はそれを「いい子症候群」と呼んでいます)を鋭く論考していて、多少デフォルメされ過ぎているきらいはあるもののあるある感満載で、頷いたり笑ったり首を傾げたりして楽しく読むことができます。

 本書には、今の若者は平等で横並びであることを好み、強い同調圧力にさらされており、とにかく集団から浮き上がって目立つことを極度に怖れるという現状分析が書かれています。それが自分自身を守るために小学校中学年くらいから身に付けた知恵、ということらしいです。でも若者たちがそのように振る舞うのは、元をただせば我々大人たちがそういう社会を作ったからだということを忘れるな、と書いてありました。確かにその通りのような気もいたします。

 この本には「大学生が選ぶ嫌いな講義ランキング」というのが載っていて(大学の先生がた必見!?)、そのベスト3は「1位:当てられる」「2位:内容が難しすぎる」「3位:成績上位者が公開される」になっていました。ふ〜ん、そうなのね…。わたくしの授業でもこの1位と3位とは実践していました。授業中に当てたり、試験やレポートで高評価のひとを受講者のまえで公表することって今の若者たちにとってはNGなんですね。

 う〜ん、困ったなあ。アクティブ・ラーニングの一環として双方向の授業を行うために学生諸君を当てることはよくやっています。また、試験やレポートでいい点をとったひとを公表するのは学生諸君の奮起を促したいと考えてのことです。教師としてそういう意図を持ってやっていることが現代の学生諸君にとっては一番嫌なことと言われては、こちらも立つ瀬がないなあって感じです。

 でも、どうなんでしょうか…。確かに、他人さまが嫌がることはやってはいけないというのが人間社会の規範です。社会生活においてこの規範を守るのは当然のことです。ただ、こと教育に関してはどうなのでしょうか。彼ら/彼女らにとって心地よいことという視点だけで授業のスタイルやら何やらを決めないといけないのでしょうか(そこまで迎合するの?)。そもそも勉強って「強いて勉める」と書くくらいですから、楽しいわけないじゃないかって古い人間である迂生は思ったりするんですけど…。

 いつも書いていますが、勉強なんて自分自身がそれぞれの目的意識において自発的にするものであって、大学の先生からああせいこうせい言われないとやらないってこと自体がおかしいと思います。皆さんがある意味、大人として振舞ってくれればこちらはこんなことをあれこれ思い迷わないで済むわけです。などと書くと自分のことは棚上げして責任転嫁しているように聞こえるので、もうやめます。

 古来、若者は老人の優しさが分からないし、老人は若者の気持ちが分からないというのが人間世界の在りようでした。それは21世紀になってどれだけ社会が進歩しても変わらない、ということでしょうね、きっと。

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 東京六大学野球の秋のリーグ戦が始まって一ヶ月ほど経ちましたが、きのうの東大―法大二回戦で東大が4−2で今季初勝利を挙げました、おめでとう。ピッチャーの松岡さん(4年、駒場東邦)は3回までに6安打され2点を取られましたが、その後は調子を上げてきたようで4回以降は1安打に抑えて完投しました、素晴らしい。(ネットTVで見ていましたが)最後の9回も法政打線を三人で切ってとって危なげない勝利でした。松岡さんは淡々としていましたが、めちゃくちゃ嬉しかったと思います。いやあ、いい試合を見られてよかったなあ。三回戦もぜひ勝って勝ち点をゲットして欲しいものです。



追伸(2023年10月10日) 本日の東大—法大三回戦で残念ながら東大は2−8で敗れました。先発投手が打ち込まれたようで、2回までに8点を取られました。やっぱりピッチャーが不調だとつらいですね。勝ち点の奪取は遠い夢のようです…。

琵琶湖疏水をたどって (2023年10月4日)

 日本建築学会大会に参加するために久しぶりに京都を訪れた話しはまだまだ続きます。ロームシアター京都や京都国立近代美術館が琵琶湖疏水べりに建っていることは先日書きました。京セラ美術館から琵琶湖疏水に沿って東へ歩くと疏水の幅が広くなるスペースが現れます。下の地図の中央に「南禅寺草川町」とあるところで、ここが南禅寺船溜りです。水面の中央に噴水があり、写真1の左手は京都市動物園で、右側の建物は琵琶湖疏水記念館です(あいにく改修工事中のようで入館できませんでした)。

 実はわたくし、二十年以上も前に琵琶湖疏水に興味を持ち、これまで二回ほど現地を訪れていて、後述するインクライン(傾斜鉄道のことで、船ごと台車に載せて運んだ)を下って南禅寺船溜りに至り、琵琶湖疏水記念館も見学していました。ただ、先日書いたようにこの岡崎公園周辺は初めて来ました。




 写真1 琵琶湖疏水の南禅寺船溜り

 琵琶湖疏水は1885[明治18]年に着工して1890[明治23]年に竣工した運河で、琵琶湖から京都の鴨川までを結んでいます。明治時代になって都が東京に移り、沈滞した京都を盛り立てることを目的に、水力発電や水運に利用するために建設されました。

 工部大学校(現在の東京大学)で土木工学を学ぶ学生だった田辺朔郎(たなべ・さくろう、1861-1944)は卒業論文として琵琶湖疏水や隧道(トンネルのこと)建設を研究しました。卒業後、京都府知事の北垣国道に請われて京都府に着任した田辺は琵琶湖疏水の設計・施工の総責任者となりました。卒論の内容がほぼそのまま現実になるという、現代ではあり得ないような経緯で完成したのが琵琶湖疏水です。

 明治23年に琵琶湖疏水が完成したときの田辺朔郎は弱冠28歳で、今でいえば大学院博士課程を修了するくらいの年齢です。そんなに若いひとのプランが採用されて実現するところに明治初期の日本における西洋化・近代化への意気込みを感じます。「坂の上の雲」を無邪気に目指していた新生日本のロマンの時代でした…。

 下の写真2はインクラインの頂上側にある蹴上(けあげ)船溜りのそばに設置された田辺朔郎の顕彰碑です。京都の街なかは観光客で溢れていますが、ここまで来ると観光客はほとんどいません。ただ、外国からの観光客はパラパラと見かけました。ミーハーな日本人と違ってお目が高いですな。しかしその人たちも田辺朔郎先生のことはご存知ないらしくて(まあ当たり前か)、顕彰碑には誰も来ませんでした。ここに来ると青雲の志を抱いた若き田辺朔郎に会えることを知っていた迂生は、変わらぬ銅像を前に二十年ぶりの邂逅に感謝の念を捧げました。田辺先生、また来ました…。

 ところで銅像って、それがどういうひとか分からなければフツーは興味を持ちませんよね。顕彰碑には日本語による丁寧な説明が彫りつけられていましたが、英語による説明はありませんでした。外国人が興味を持たないのも当然といえば当然かも。インクライン周辺には英語の説明板が何枚かありましたが、それでうまく伝わるかどうかはまた別です。三十石船を「Sanjyukkoku-bune boat」とローマ字でそのまま書いてありましたが、外国人にとってはなんじゃこれ?って感じで説明になっていない気がします。


 写真2 蹴上船溜りそばの田辺朔郎顕彰碑

 琵琶湖から鴨川まで疏水を流すには、その間にある山々を越えないといけません。そのために隧道(トンネル)がいくつか築かれました。琵琶湖疏水の断面図を下に示します。「京都インクライン物語」(田村喜子著)に載っていた図にわたくしが追記したもので、太い赤線が隧道です。大津寄りの長等山(ながらやま)にある隧道は2,436メートルもあり、当時はほとんどを人力で作業したようで工事は困難を極めたとのことです。長等山はいにしえの昔から和歌の歌枕として有名なところですね。

 この頃の土木構造物の材料は主に石と煉瓦で、それらを積んで造られています。土木構造物というと現在ではデザイン的な要素はほとんど見られませんが、明治時代の琵琶湖疏水は違います。これらの隧道の入り口および出口にはそれぞれに異なったデザインと装飾とが施され、その上部に当時の著名人たちの揮毫になる扁額が掲げられています。それらを見ているだけでも楽しいですよ。




 写真3 琵琶湖疏水第二隧道の(左)西口、および(右)東口 2005年撮影

 以前に現地を訪れた際に第二隧道の出入り口を撮影しました(上の写真)。西口の扁額は西郷従道の筆になるもので「随山至水源」と書いてあります。また東口のそれは井上馨による「仁似山悦智為水歡」です。これは論語のなかの一文で、仁者は知識を尊び、知者は水の流れをみて心の糧とするという意味だそうです。

 今では琵琶湖疏水の隧道の出入り口などを訪れるひとはほとんどないと思います。しかし当時の人たちは京都の、そして日本の発展を願ってこんなところにも贅を尽くしたのだろうと想像すると、明治の先輩がたの心意気を強く感じます。それにしてもこのように貴重なものが何気なくゴロゴロしている京都って、やっぱりすごいところだなあと思います。少なくとも東京にはそんなものないですから。

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 と、ここまで書いてきましたが、琵琶湖疏水は純然たる土木構造物の近代化産業遺産なので建築屋の迂生は本来は関係ありません。でも、鉄筋コンクリート(RC)構造を専門とする者として忘れてはいけない重要なモノがここにあるのですね〜。

  それは1903[明治36]年に日本最初のRC構造物として造られた橋で、琵琶湖疏水の第三隧道東口付近に架けられて現存しています。田辺朔郎が設計したスパン7.5m、幅約1mの小さな橋なのですが、日本におけるRC構造の受容発展の歴史の上では大変に貴重なものとして建築分野でも認識されていると思います。わたくしの『鉄筋コンクリート構造』の授業の第1回では必ず紹介しています。

 ちなみにこのRC橋は土木学会の「日本の近代土木遺産」のリストには『日ノ岡第11号橋』と命名されて載っています。ランクはBでしたが、そうかなあ、Aランクだと思うけど…。今回の京都紀行でもこの橋を見に行きたかったのですが、あまりにも暑くてバテてしまったので行けませんでした。というわけで約二十年前に現地訪問した際の写真を載せておきます(写真4)。

 どうですか?拍子抜けするくらい何の変哲も無い橋ですよね。柵代わりの錆びた金網がなんとも無粋で、これが本当に近代化遺産なのかと目を疑いました。ウェブ上を調べるとさすがに金網は撤去されましたが、代わりにもっとゴツイ鉄製の手摺りが取り付けられていました。今でもひとが普通に利用することを考えるとやむを得ないのでしょうが、デザインのかけらもないのは残念です。少なくとも建物の保存活用ではこのようなかわいそうな真似はしませんよ。この橋の全貌を知るために完成当初の写真も載せておきます(写真5)。日本コンクリート工学会(JCI)のデジタル・アーカイブからいただきました。


 写真4 琵琶湖疏水に架かる日本最初のRC構造物たる橋 2005年撮影


 写真5 琵琶湖疏水に架かる日本最初のRC構造物たる橋 撮影者・撮影年ともに不明 JCIのページより


 写真6 RC橋の脇にあった記念碑 2005年撮影

 この橋を渡った左手に上の写真6のような石碑が建っていました(写真5の右端にも写っています)。草木が生い茂っていて橋を渡るまでこんなものがあることに気が付きませんでした。少なくとも二十年前は産業化遺産と言ってもほとんど忘れ去られた存在だったことがよく分かりますね。この石碑には「本邦最初鐵筋混凝土橋」とありました。当時はコンクリートを混凝土と書いたのですな。確かに、混ぜて凝固した土とは当意即妙な当て字です。このように書いた明治人のウィットとユーモアとを感じます。

 ここまで長々と書きました。(もういいよってお思いかも知れませんが)インクライン周辺については稿を改めて書きたいと思います。

後期の授業はじまる(2023年10月3日)

 十月になってやっと猛暑がおさまり、朝晩は涼しくしのぎやすくなって参りました、いやあ、よかったです。地球の回転は順調なようで秋は間違いなくやってきてくれました、感謝ですね(って、何に?)。

 世間ではインフルエンザと新型コロナウィルスとがダブルで大流行しているようです。電車のなかでもマスクをする人たちがまた増えてきました(まあ、涼しくなったのでマスクを付けてもいいと考えただけかも)。愚息の学校では毎日、学級閉鎖になったクラスの連絡がメールで来て、多分もう10クラス以上が閉鎖になったと思います。幸い愚息のクラスは皆さん元気らしくて閉鎖にはなっていないので、(学級閉鎖になって)公休をくれ、なんてことをほざいております、罰当たりだな…。

追伸; とか書いていたら今またメールが来て、新たに二クラスが学級閉鎖になりました。愚息のクラスの両隣はお休みになりました。今週末には学院祭があるのに、こんな状況で実施できるでしょうかね…、不安ですな。

 九月末に本学の図書館のシステムが変更になって、IDが変わったほかに貸し出し用の端末も新しくなりました。そこで早速、それを使って本を借りようとしたのですが、どうやっても借りられません。全くイヤになりますな。最初のアクセスの仕方が今までの端末とは変わっていたことが原因だったのですが、そんなこと説明がないと分かりっこないじゃないですか。図書館の職員にそのように文句を言っておきました。言いたくないですけどそこにお役所仕事の残滓を感じましたな、迂生は。

 さて本学では昨日から後期の授業が始まりました。しょっぱなから二年生対象の『建築設計製図2』があって毎年、構造ガイダンスを担当しています。ビルディングタイプは「市民農園のあるコミュニティ施設」で、鉄筋コンクリート構造で造ることを基本としています。担当教員は建築家の能作准教授を筆頭に竹宮教授(建築計画)、永田教授(環境)、木下助教(デザイン)、讃岐助教(都市計画)の常勤教員とお二人の非常勤講師(いずれも意匠設計を生業とする方)との合計八名です。学生数は50名程度ですから、私立大学に較べれば手厚い布陣だと手前味噌ながら思います。

 『建築設計製図2』は建築学生にとっては初めての本格的な設計ですので、基本は全員が履修します。ですから全ての学生が必ずしも建築設計をやりたいとは考えていないと迂生などは思うのですが、デザインの先生がたはとにかく課題を複雑にしてレベルを上げたがる傾向があるように見えます。初めての設計だし、そんなに難しくしないほうがいいんじゃないの?という意見をやんわりと言ってはいるのですが、どこ吹く風っていう感じです。まあ、いいんですけどね…。

 この構造ガイダンスですが、昨年は具合が悪くて欠席したのでやらなかったのですが、今年は幸い元気に登校して講義をしました。大声を出して70分もしゃべったので疲れたのは例年と同じです。幾つになっても最初の授業はやっぱり慣れないなあとか思うものの、しゃべり始めるとあとは自然にスラスラ話せるので不思議だなあ。

 そうして午後五時過ぎに研究室に戻ってお茶でも飲んで一息いれようと思っていたら、久しぶりに角田誠先生が研究室に立ち寄ってくださいました。多岐な話題に渡って雑談して楽しかったのですが、わが学科の将来とか人の事とかの話しになるとだんだんと声のトーンが低くなって来て、終いにはひそひそ声になっていました。そういうことはそろそろ若いバリバリの先生がたにお任せしたらよいと二人とも思っているのですが、ひとの思惑って多様じゃないですか。そういうことを考え始めると憂鬱になって夜も寝られなくなるので、やめました、あっさり。

岡崎公園周辺にて (2023年10月2日)

 ロームシアター京都が岡崎公園の西隣に建っていることを先日書きました。下の地図の左上にロームシアター京都があります。水色のL形に塗られているのが琵琶湖疏水です。岡崎公園の北には平安神宮があり、公園の周辺には京都市京セラ美術館、京都国立近代美術館、みやこめっせ(京都市勧業館)、京都府立図書館などの近現代建築が密集していて、わたくしのような建築屋にとっては見どころの多いエリアになっています。

  とか書いていますが、このことはここを意識して歩き回って初めて知ったことでして、まあ付け焼き刃の知識なんですね〜、あははっ。それぞれの施設に入って展示品や美術展を見る時間はなかったので(京セラ美術館ではルーブル展をやっていて盛況でした)、建物の概略と外観だけを以下に紹介しましょう。



 地下鉄東山駅から歩いてゆくと琵琶湖疏水を渡る慶流橋という雅な名前の橋があって、その向こうに平安神宮の大鳥居が聖俗の結界の如くに建っています。下の写真の左端に京都国立近代美術館(1986年竣工、設計は槇文彦先生)が見えています。槇先生のこの建物は写真ではよく知っていたのですが、実物を見ると思っていたよりも小さくてこじんまりとしていました。琵琶湖疏水の脇に建っていることも今回初めて知りました。入口からちょこっと入ってチケットブースの手前から、エントランスホールにある大理石の大階段を見たのですが(企画展をやっていて写真は撮れなかった)、これも思っていたほど大きくありませんでした。やっぱり写真で見るのと実物とでは全く違いますな。





 槇先生のこの美術館は四隅にガラスの箱のような階段室が設えられているのが上の写真からも分かります。ファサードは四角形と三角形とで構成された槇先生らしいすっきりとして端正なデザインですね。ただ、わたくし達が学生のころに「槇十字」と呼んでいた特徴的な十字形のモティーフはこの建物でははっきりとは見られませんでした。

 京都国立近代美術館の北隣りには京都府立図書館があります。この旧館は武田五一[たけだ・ごいち]の設計によって1909年に煉瓦造3階建てとして竣工しましたが、1995年の兵庫県南部地震で大きな被害を受けたそうです(どのような被害だったのか知りたい)。そのため、旧館のファサードを遺す形で2000年に改築されました。下の写真では分かりませんが、保存された正面の前を掘り込んでサンクン・ガーデンとしてあり、そこに面したガラス張りの地下閲覧室に陽光が降り注いでいました。後ろにある新築建物の表面がなんだかまだらにくすんでいて冴えない気がしましたけど、どうしてでしょうか…。





 京都府立図書館のわきには小公園が寄り添っていましたが、そこに上の写真のような記念物が設置されていました。結構、立派です。調べるとワグネル博士顕彰碑という名前でした。明治の初めにお雇い外国人として来日したゴットフリート・ワグネル(Gottfried Wagener)というドイツ人化学者が京都の産業の近代化に貢献した功績を称える碑でした。1924(大正13)年に建立された由ですので、かれこれ百年ものあいだこの地域の移ろいを見て来たわけです。そう思うと、見知らぬ顕彰碑にもふと心を動かされたりいたします。大正13年には東宮殿下(のちの昭和天皇)ご成婚奉祝の記念博覧会が岡崎公園で開かれましたが、それに付随してこの碑が建てられたことが書かれています。

 平安神宮の大鳥居を挟んだ向かい側には京都市京セラ美術館があります。当初は京都市美術館として前田健二郎の設計によって1933年に竣工しました。鉄筋コンクリート造2階建てですが、和風の屋根が載っていて正面中央には切妻の小屋組のようなものが見えます。帝冠様式と言われるスタイルですね。この当時は日本が軍国主義に急速に傾斜していった時代で、国威発揚が叫ばれて和風が奨励され建築の様式にもそれは現れたということです。

 ただし帝冠様式については当時の建築家のなかでも受け止め方は様々であったようで、渡辺仁(上野の東京国立博物館で有名)や丹下健三のように帝冠様式の建物を設計した建築家がいた一方で、前川國男のようにそれに与しなかったひともいました。建築の表現が主義主張の発露であることをいみじくも語った出来事でした。





 この様式建築をほぼ保存したまま大規模な改修が行われて2020年に竣工し、京都市京セラ美術館へと名前が変わりました。建物前面を掘り込んでゆるいスロープを設け、地下1階からアクセスするように変更したのです。改修設計は建築家の青木淳さんです。この方はかつて磯崎新アトリエで磯崎さんの右腕として活躍されました。

 さて、その改修後の建物ですが、上の写真を見ると分かりますが、もともとの正面玄関の真下に新しいエントランスを設置して、緩やかなスロープの脇にはガラス面が見えます。よくこんなことやったな、と思いますわ。どうですか皆さん、このデザイン? 好きか嫌いかと問われれば、迂生は好きじゃないって答えます。もともとのカチッとした様式建築に対して丸みを帯びた曲線状の構築物がアメーバ状にベターっと伸びていて、どうにも調和していないように感じるからですが、まあ感じ方はひとそれぞれなのでいいんですけどね。

 ただ、新しい地下1階から外を見たのが下の写真ですが、この見え方は悪くないと思いましたね。街並みのダイナミズムとでも言うのでしょうか、外と内との相互の関係がうまくデザインされているように感じました。





 上の写真はみやこめっせ(京都市勧業館)で、ロームシアター京都から二条通りを挟んで撮影しました。左端に京都府立図書館の新館が見えています。みやこめっせは1996年竣工でRC造4階建ての展示場、美術館、レストラン等からなる複合施設です。設計は川崎清先生(京都大学名誉教授、故人)です。川崎先生は京都大学の百周年時計台記念館の設計者だそうで、そう言えばそこの大ホールで建築学会大会のシンポジウムが開かれていました。このみやこめっせには残念ながら足を踏み入れませんでした。見るからにとても大きな施設なので敬遠したところもあります。

 長々と書いて来ましたが、最後に琵琶湖疏水沿いに京セラ美術館、大鳥居および京都国立近代美術館が並ぶ様子を載せておきます。赤い橋は冒頭に紹介した慶流橋ですが、その赤が疏水の濃緑によく映えて綺麗でした。このあと琵琶湖疏水に沿って東側へと歩いて行くのですが、その話しはまた改めて書くつもりです。



京都で前川建築にふれる (2023年9月27日/10月1日)

 京都での日本建築学会大会にはフル参加だったことを先日、縷々書き留めました。でもせっかく京都に来たのですから、諸行事のあいまを縫って見たかった建物や旧跡を訪ねました。そのひとつが、京都大学・吉田キャンパスから少し南下した東山にあるロームシアター京都(旧京都会館)です。京都大学の谷昌典准教授からの情報では京大から地下鉄東山駅まで歩いて25分くらいとのことでしたが、とにかくベラボーに暑くて歩く気力が湧かなかったので、ちまちまと電車を乗り継いで行きました。



 旧京都会館は前川國男が設計して1960年3月に竣工した鉄筋コンクリート3階建て(のように見えますが、正しくは地上6階、地下2階)の公共建築です。しかし時代を経るにつれてホールなどの使い勝手が悪くなったため、それを含めた大幅な改修が行われ、2016年1月にロームシアター京都という名前で再オープンしました。この改修設計は建築家・香山壽夫先生の設計事務所が担当しました。香山壽夫先生はわたくしが本郷の学生の頃(1980年代初頭)には助教授でしたが、品のいい建築家という香りがしていて九州芸術工科大学キャンパスなどの作品がすでにありました。ちなみにこの九州芸工大の建物は鉄筋コンクリート打ち放しで、黒野、柴原、長谷部と四人で見に行きました。

 さて京都会館やそれがロームシアター京都に改修されたことなどつい最近まで知らなかったのですが、大学院のプロジェクト研究コースで嶋田ミカイル久幸さん(新潟大学の黒野研究室出身)がこの建物が改修されるに至る経緯とその改修設計の内容について調査して修士論文を執筆したことから知るに至りました。嶋田さんの修論は、この改修計画の方針を決定した主要因が世界水準のホール機能の充実および二千席規模の客席の維持の二つであったことを示しました。

 建物の南側は二条通りに面していますが、上下の写真のように深い軒の出によって水平線が強調されたファサードになっています。鉄筋コンクリート(RC)の片持ち梁によって支持された庇の先端が曲線を描いてパラペット状に立ち上がっているのが特徴で、上野の東京文化会館(1961年竣工)とよく似ています。この南面には改修による手はそれほどは入っていないように見えます。1階には蔦屋書店やスターバックス・コーヒーが入っていて、下の写真のように外側にベンチや机が置かれていました。





 建物の西側は上の写真のように琵琶湖疏水に面していますが、そちらにはメインホールに新設されたフライタワー(淡いオレンジ色のせいの高い部分)が現れています。これはホール機能の充実を実現するためのものでしたが、先述したRCの軒が水平に貫通している見てくれを維持したせいか、あるいは右から左に行くにつれて建物高さが階段状に上がってゆくデザインの賜物か、いずれにせよフライタワーにそれほどの違和感は抱きませんでした。

 前川建築といえばピロティがつきものです。旧京都会館にも当然ながらそれはあって、二条通りからピロティを通して中央の広場を見やったのが下の写真です。階高が高いこととふところがそれほど深くないことによってピロティ部分が暗くなることをうまく防いでいますね。建物は中央広場をコの字状に囲んでいるのですが、その部分にガラス面と庇とを増築してそれまで外部だったところを建物内部に取り込んだ様子が下の写真に見えています。





 上の写真は増築されたガラス面と庇とによって内部化された通路部分で、大小のホールを結んでいることからプロムナードと呼ばれているようです。ガラス面の外が中央広場で画面の奥にピロティが見えます。写真右手の壁は当初は外壁だったので煉瓦タイルの打ち込みになっていて、そのまま遺されています。

 嶋田さんがプロジェクト研究ゼミに提出した資料のなかに彼が書き起こした(と思われる)平面図を見つけました。ほぼ三年前のものです。改修後の1階平面図を以下に載せておきます。建築の図面では北を上にするのが原則です。上の写真の通路(プロムナード)は、平面図では南西にあるサウスホールおよびホワイエの東側の部分(淡いオレンジ色で着色)を南向きに撮影したものになります。



 このようにもともと外だったところを取り込んで内部空間にしたので、外部テラスの手摺りだった部材が新しい室内にそのまま遺されていました。下の写真は2階にあるメインホールのホワイエ部分で、画面手前から奥に向かって凹形断面のプレキャストコンクリート(PC)製の手摺りが走っています。前川國男の原設計をできるだけ尊重したいという改修設計者(香山先生)の意図を感じますね。ただこのPC手摺りの室内側には新たにスティール製の手摺りが付けられていました。従来のPC手摺りのせいが低くて危険なためだと思います。





 建物の南ウイングの3階は上の写真のような共用スペースになっていました。案内図には「パークプラザ共通ロビー」とありました。このスペースには座り心地のよいソファーや椅子と机、それに図書類が置かれていましたが、2階以下にあるレストランやカフェおよび書店のためのロビーという位置付けのようです。

 とはいえ、わたくしが涼を求めてこのソファにどっかり腰を下ろしているあいだ、ご老人が机に向かってなにやら書き物をしたり、ベビーカーに赤ちゃんを乗せた若いお母さんが本棚の本を手にとって読んでいたりしました。このそばに住んでいる人たちなのかどうかは不明ですが、気持ちよさげなちょっとしたスペースとして活用されているように思いましたね。とてもいい感じでした。

 暑いなかを歩き回ったせいかちょっと疲れたので、2階にある「京都モダンテラス」というレストランで休みました。二階分の吹き抜けになっている気持ちのよい空間で、わたくしは下の写真の右手奥の3階から階段を降りて入店しました。ただ、このルートからこのレストランに来る客は少ないようでして、ほとんどのお客は1階の蔦屋書店から上がって来ていて、すごく並んで待っていました。もしかしたら迂生は横入り?しちゃったということかも知れませんが、まあ店員さんが案内してくれたので気にしないことにします。





 改装なったホールにはさすがに入れませんでしたが(だから客席が二千あるかどうか知らんわ)、それでも前川國男の原設計と香山壽夫先生の改修設計とが上手に調和したとてもよい建築だと思いました。お二人とも優秀な建築家なので当然ですね、あははっ。上の写真は「京都モダンテラス」で休んでいるときに二階のテラスに出て中央広場方向を撮ったものです。奥のフライタワーはこちらからもそんなに気になりませんでした。

 写真右手の大きな外階段は多分、二階のメインホールへとアクセスするためのものと思われます。行ったときには立ち入り禁止になっていて残念でした。階段があると登り降りしないと気が済まないのは、やっぱり建築屋のさがかも知れません。

 階段つながりで、せっかくなので建物内部の階段を載せておきましょう。狭い階段室内に薄いコンクリートの折板が90度づつ回転して設置されていて、裏面に型枠の跡が綺麗に見えるように施工されていました。このコンクリート板は当時のものと思いますが、手摺りやガラス板は改修によるものでしょう。



 ロームシアター京都、いやあ、いい空間でした。鉄筋コンクリートの柱梁骨組による耐震構造と建築デザインとが見事に融合した好例だと思いました。暑いなかをがんばって行ってよかったです。今度はライトアップされた夜景も見てみたいと思います、まあいつのことやら…。この建物の東隣は岡崎公園で、その向こうには東山の山並みが連なり(下の写真)、広々として気持ちのよいところです。近辺には美術館や図書館などが密集していてとてもいいエリアでした。それらにも入ってみたかったのですが時間がなくて残念です。

 なお下の写真の左手には、和風の屋根のしたに唐破風が付くという不思議なデザインの建物が建っています。これは京都市美術館別館で1930(昭和5)年竣工のようです。見た感じはRC構造ですね。

 ちなみに前川國男の作品は東京には結構あって、先述した東京文化会館のほかに世田谷区役所・区民会館(1960年)、 紀伊國屋書店(1964年、新宿駅東口)、東京海上ビルディング(1974年、東京駅そばのお堀端)、 東京都美術館(1975年、上野公園)などがあります。



耳ネタ2023 September(2023年9月24日)

 京都大学での建築学会大会への新幹線のなかで久しぶりにiPodの曲たちをランダムで聴いていました。おっ、これいいねっていう曲があって、それは山下達郎の「I Do」という曲でした。すっかり忘れていましたが、彼のアルバム『Rarities』(2002年)に入っています。達郎お得意の全部自分で多重録音して作るってやつで、コーラスも素敵です。達郎のファルセットのボーカルにマッチしていて、軽快でとてもポップなGood vibration なのですが2分半くらいの短い演奏だったので、これはオールディーズのカヴァーだろうなと思いました。



 そこで帰ってから調べると案の定、1964年の曲でした。ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソン(Brian Wilson)が作ってキャステルズ(The Castells)という男性四人のグループに提供したものでした(例えばこちら)。この頃はビートルズもそうですが、男性四人組とか五人組とかのボーカル・グループがたくさん活動していた時期で、キャステルズもそのひとつだったのでしょう、初めて聞く名前でしたが。さすがはレアな洋楽に造詣が深い達郎の面目躍如といったところでしょうか。



 そう言われて聴いてみると、確かにビーチ・ボーイズチックな曲調です。「I Do」はその後、本家本元のビーチ・ボーイズも歌っているようです。これらのオリジナルのほうは達郎よりもさらに短くて2分ほどでお気楽に聴けますので、ぜひどうぞ。

 しかしながら皆さんに紹介したいのは実は“ブライアン・ウィルソン I Do”と打ち込んで検索して偶然に見つけたこの曲(こちら)のほうなんですよ。「I Do」でヒットしたので当然、キャステルズに提供した同じ曲だと思うじゃないですか。でも聴けば分かりますが、全く別の曲でした。それでも何だか知らないけどこちらもとても軽快で聴いていて心地よくなるし、とにかくコーラスワークが秀逸です。ということでとても気に入って毎日、何度も繰り返し聴いています。

 とは言え同じ人物が同じタイトルで違う曲を作るなんてことがあるのだろうか…。そこでネット上を逍遥すると、この曲は歌詞に「I Do」が繰り返されるためかどうやらそれは通称で、本当の曲名は「Do You Have Any Regrets?」ということのようでした。この曲はイントロなしでいきなりボーカルが始まるのですが、冒頭に確かに“Do you have any regrets about last night?”って言っています。

 そこでこの曲が入ったCDが欲しいと思って調べると『Sweet Insanity』という未発売のアルバムに収録されていた、ということで一般には入手できないことが分かりました。『Sweet Insanity』は約30年ほど前に制作されましたが、レコード会社にリリースを拒否されたということでした。その曲がなぜネット上にあるのかというと、なんでも彼のシングルか何かに収録されているようです。ということで「Do You Have Any Regrets?」(音質がよいのはこちら)もぜひお聴きください。“Much better, much better 〜”って一緒に歌いましょう。



お彼岸に吹く風は… (2023年9月21日)

 もうすぐお彼岸ですね。昨日降った雨のおかげか、気温が少し下がったような気がします。でも湿度はやっぱり高いままなので、ちょっと歩くとムシムシとして不快なことに変わりはありません。野川沿いの遊歩道や南大沢の大学構内では曼珠沙華の真っ赤な花々が咲き出しました。毎年、この時期に同じ場所で咲き、やがて一斉に枯れてゆくという営みに自然の不思議さを感じずにはいられません。

 久しぶりにお昼ご飯を食べに研究室から出かけたのですが、牧野標本館別館で開かれている牧野富太郎の企画展に驚くほどたくさんの人たちが来ていてびっくりしました。それらはほとんどがお年を召したご老人がたでして、皆さんきっとお暇なんだろうなって(大きなお世話でしょうが)思いました。そこにわたくし自身の近未来を見たような気がして少しばかり気分が滅入りましたが、思い過ごしかな…。

 昨週、京都に行っているあいだに岸田首相が内閣改造を行ったのですが、その評判がすこぶる悪いですね。フツーならご祝儀相場ということで支持率は(一時的に)上昇するらしいですが、今回は横ばいか調査によっては低落しているそうです。彼が何をしたいのか分からないということは自民党内でさえ囁かれているそうで、どう見ても来年の自民党総裁選挙を見据えた、自分のことしか考えていない布陣、ということでしょう。彼の発する談話等では抽象的な理念めいたことをよく聞くのですが、そこには具体の中身はないというか、なんだか空虚な言の葉がただ出てくるだけという印象を受けます。せっかく総理大臣になったのだから、もっと大志を持って日本や世界をドライブして欲しいなあと思います。でもそれって人間の資質の問題ですから、無理な要望っていうことなんでしょうかね?

 そろそろ十月が見えて来たので、後期の授業を考えないといけません。学部三年生向けの『構造設計演習』は高木次郎先生(鉄骨構造、教授)と折半して行っているのですが、今年度は彼がサバティカルでお休みなので、迂生ひとりで半期を担当しないといけません。そのため、わたくし担当の例年のカリキュラムでは足りないので、新たなコンテンツを大幅に増やす必要があります。この科目は設計演習なので、それに資するような内容が求められます。これが結構大変なことに今頃になって気が付きました。いいや、本当は昨年の今頃は分かっていた事柄でして、意識しないように(忘れたふりを)していただけなんですけど。

 とか、これを書いている今、愚息から内部大学進学に向けた特別考査試験の結果がラインで送られて来ました。最初は、オッなかなかいいねって喜んだのですけど(5点満点だと思っていた)、その用紙をよく見ると評点は10点満点だったので、ギョッとしちゃいました(どんな成績か大体予想できるでしょ?)。まあ、どこかの学部には行けるんだろうなあ、知らんけど。

初秋の苦行(その3) 京都大学で建築学会大会 (2023年9月20日)

 久しぶりに対面開催となった日本建築学会大会ですが、最初から最後まで参加したのも随分と久しぶりのことのように思います(調べたら2018年の東北大学での大会では全日参加していました)。9月15日の最終日も厳しい暑さになりました。この日は朝のRC柱梁接合部のセッションにおいて自身の発表および司会のお仕事がありました。

 司会は名古屋工業大学教授の楠原文雄さんと一緒でしたが、楠原さんから「この歳になって年上の人と一緒に司会をするとは思いませんでした」と言われて、わたくしも「この歳になって司会を依頼されるとは思わなかったよ」って返しました、あははっ。鉄筋コンクリート構造の分野もご多分に漏れず活きのいい若手が不足していて、年寄りまで駆り出さないと間に合わなかったということでしょうかね、知りませんけど…。

 午前のセッションが終わると次には新旧の大会委員会の引き継ぎ会がありました。2024年度の大会は東京・御茶ノ水の明治大学・駿河台キャンパスで開催することになっていて、その実行委員会委員長を引き受けていただいた山本俊哉先生を始めとして明治大学理工学部建築学科の先生がたに中核を担っていただきますが、関東支部の役員(ゼネコンの方々)や東大の先生にも部会長をお願いしました。相手方は今回の大会実行委員会委員長である西山峰広先生、総務部会長の三浦研先生など全て京都大学の先生がたです。

 ここで二時間近く、京都大会での工夫や苦心の一端を伺うことができてとても有益でした。今回の京都大会は随所に新しい試みを取り入れた大会でしたから、さまざまなところでトラブルや苦労がおありだったことが分かりました。そういうご経験を来年度の大会に活かしてゆきたいと思います。最近は夏休みに就活を兼ねたインターンシップなどが大流行りのため、アルバイトの学生諸君を集めるのには苦労したということでした。この点は来年も気になります。アルバイト代もはずまないとダメのようです(お仕事に見合ったお代を払うのは当然ですから、それはそれでよいと思います)。ちなみに、必要なお金はケチケチしないで使いましょう、お金で解決できることはお金で済ます、というのが次期大会委員長たる迂生の方針です。

 最後のお役目は午後5時からの閉会式です。フツーの参加者は閉会式なんて出たこともなければ見たこともないと思いますが、毎年やっているそうです(これもすっかり忘れていた)。そこで三たび西山先生と顔を合わせて、そう言えば若い頃に野球やったよな〜なんて雑談をしたりしました。京大の六車・森田研究室はスピリッツ、東大の青山・小谷研究室はドリンカーズっていうチーム名で軟式野球の試合をやったものでした。いかにも酒飲みの集団みたいでイヤなんですけど、まさにその通りなので仕方ないか、あははっ。ちなみに西山先生は現在ではプレストレスト・コンクリート構造の分野では大御所として君臨(?)していますし、日本コンクリート工学会では会長としてご活躍中でして、ご同慶の至りでございます。

 閉会式ではまず西山先生が閉会の辞を述べ(下の写真、iPadに原稿を用意されていました)、そのあと広田副会長のご挨拶がありました。今回の閉会式はクローズドの小ぢんまりとした会にしたそうで、その点は(わたくしを含めて)皆さん気が楽だったみたいです。



 ついで学会旗の引き継ぎというのがあって、2023年度大会委員長の谷口徹郎先生(大阪公立大学教授)から2024年度委員長のわたくしに畳一枚ほどの旗が手渡されました。こんなことをやっていたなんて全然知りませんでした。そして最後にわたくしが挨拶して(って、どういう主旨なんだか分からなかったのだけど…)、来年度の明治大学での大会では高層ビルを使ってエレベータで上層に移動します、そこで大会のキャッチ・フレーズは明治大学のそれの「前へ!」に倣って「上へ!」にしようと思います、なんて冗談です、とか言っておきました。こうしてジャスト15分で予定通りに閉会式が終わりました。

 そうして思い出したのですが、先述した2018年の東北大学大会の最終日に自分たちの発表がほぼ最後のセッションだったせいで仕方なく最後まで会場にいて、それが終わった夕方にそろそろ帰るかと門に向かって歩いていたときのことです。旧知の小林淳先生(当時秋田県立大学教授)に呼び止められたのですが、そのときの小林さんは確か東北支部長だか大会委員長だかだったらしく、これから閉会式ですって仰っていたような気がするんですね。そのときは全く気が付きませんでしたが大会実施に向けて多分、ご苦労されたことと今になって思い至ります…。

 こうして長かった京都大会が終わりを告げました。あとは帰るだけのはずですが、それがまた遠かったんですよ。京都駅に着くとかなりの人たちが改札周りにたむろしていました。迂生は家族から頼まれたお土産を買おうとお店巡りを始めたためにしばらく気がつかなかったのですが、人々が見ていたのは新幹線が止まったという案内表示板だったのです。なんでも新横浜と小田原とのあいだで豪雨が降ったそうで、結局のところ運転再開まで小一時間ほどかかりました。そうやって京都駅のコンコースで待っているあいだ、東京でも会わないような人たちに出会ったりして(北山研OBの白山さんにもバッタリ!)、それはそれで結構楽しかったのですが、でもそれじゃ東京には帰れませんわな。

 ということでやっと乗り込んだのぞみ号ですが、新横浜の手前くらいから電車が渋滞していてなかなか先に進みません。結局、定刻よりも100分遅れで東京駅に到着いたしました。そうして帰宅できたのは日付がちょうど変わった頃でした。ああ…もう、疲れたなあ〜。

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 ということで初秋の苦行がやっと終わりました。来年の第125回大会は先述のように明治大学・駿河台キャンパスで8月27日から30日の四日間、行われる予定です。JR御茶ノ水駅や地下鉄・神保町駅から歩いて直ぐですし、周囲に飲み食いするお店もたくさんありますので、そういうインフラは心配していません。お弁当の販売も(今のところは)しないつもりです。この駿河台から神田神保町にかけての一帯は日本最初の学生街と言われていますので、(京都ほどではないものの)そういう歴史も踏まえて近辺を散策するのもいいかも知れません。レモン画翠や南洋堂書店など建築を学ぶ人々にとっては馴染深いお店もあります。

 ただ、高層ビル内の発表会場の移動はエレベータ頼みなので、その渋滞とか過剰な人数の滞留とかが気になります。今後、それらに対するシミュレーションや対策を考えてゆくことになるかと思います。八月末の東京はやっぱり暑いでしょうが、建築学会の会員の皆さんのご参加をお待ちいたしております(なんて、本格的な準備はこれからなんですけど…)。


  写真 明治大学・駿河台キャンパス(2023年5月撮影)

初秋の苦行(その2) 京都大学で建築学会大会 (2023年9月17日)

 京都大学・吉田キャンパスで開かれた建築学会大会ですが、9月13日からは対面による個別の研究発表や研究協議会などが始まりました。過去の大会では参加費を事前に振り込んだひとに参加証を送付するスタイルでしたが、それだと主催者側の手間ひまがかかって費用も余分にかかります。そこで今回は、事前に交付されたQRコードを現地の総合受付で読み取ってから参加証を手渡すという方式が初めて採用されました。あわせて当日受付や資料配布を排することによって現金の授受を完全に無くしたのも新しい試みです。大会実行委員会の労度をできるだけ削減するためで、結構な試みであると考えます。

 対面開催の初日の午前9時から災害部門の研究協議会があって(こちらは現地の教室に聴衆を集めて実施)、災害委員長である塩原等兄貴(東大教授)から司会をするように仰せつかったので、朝8時過ぎには出町柳駅に着きました。そこから20分くらい歩いて吉田南構内の総合受付を目指したのですが…。正門から東一条通りまではみ出して並んでいる学会くん達の群れが目に入りました。そうなるんじゃないかと実は危惧していたのですが、QRコードを読み取るところで大渋滞になっていたのです。



 大会実行委員会ではこれはまずいと思ったらしく京都大学の谷昌典先生(鉄筋コンクリート構造、准教授)たちが急遽、列の並びかたを指示して誘導に当たってくれました。そんなしんどい作業は京大の偉い先生がたにさせないで学生アルバイトにでもやってもらえばいいのにと思いましたが、あとで聞いたところではそういう臨機応変の対応は学生では無理とのことでした。まあ、そうかも知れませんね、でも京大生ならできるんとちゃう?

 さて災害部門の研究協議会ですが、ことしは関東大震災からちょうど百年なので「関東大震災の記録を振り返る」というテーマと、ことし二月に発生した「トルコ・シリア地震の緊急調査報告」との二本立てになりました。これらを三時間半に納めないといけなかったので、興味深い内容なのに時間が足りなかったのは致しかたなかったと思います。主題解説の個別発表が長引くのは止むを得ないことですから、その結果として討論の時間がほとんど取れなかったのも残念でした。この研究協議会の様子を下に載せておきます。

 なおこれとほぼ同じ時間帯に「関東大震災100周年提言(案)について」と題した総合研究協議会が建築学会全体として開かれていました。われわれにとっては不利な状況だったのですが、それでも八十人ほどがこちらの協議会に参加してくださってよかったです。なお、前日のPDや13日以降の研究協議会等は全て録画されていて見直し配信されているので、興味のある方(参加費を払ったひとだけです)は学会のマイページからアクセスしてご覧ください。



 この日は夕方に日本建築学会主催の懇親会があり、それに出席する必要があったので、ずっと時計台の近辺に留まっていました。久しぶりに塩原等兄貴といろいろとお話しすることができて楽しかったです。やっぱり頭のいいひとは普段から考えることも違うみたいで、迂生なんか考えも及ばないことをたくさん話してくださいました。時々、いつもの調子で「北さん、これってなぜだと思う?」と質問されるので、(さっぱり分からないので苦し紛れに)ホニャララって答えると「違うよ、そうじゃない…」って感じで御説はどんどん広がります。青山・小谷研究室で机を並べていた頃から塩原さんには頭が上がりませんでしたが、それは今に至るまで続いていることを確認できて、それはそれで嬉しかったですね。

 さて懇親会ですが、午後6時から時計台の二階の三百人くらい入る大会議室で始まりました。この時計台は建築家・武田五一の設計で、免震改修されて使われ続けているそうです、素晴らしいですな。時計台の一階には京都大学の歴史の展示室や座り心地のよいソファの並んだ京大サロンがあって、ちょっとした時間待ちのときには度々利用させていただきました、空調が効いていて涼しいしね。



 この公式の懇親会ですが、わたくしがこれに参加したのは確か1986年に北海道大学で建築学会創立百周年の大会が開かれたときに、サッポロビール園かどこかでジンギスカン・パーティがあって、飲食目当てに参加したとき以来のように記憶します。あっ違うか、1993年に自分の勤める東京都立大学・南大沢キャンパスで大会を開催したときは実行委員だったので、学内の国際交流会館のレストランで懇親会を開き、それにはきっと参加したはずです、全く憶えていないけどな、あははっ。いずれにせよ三十余年ぶりの参加ということになります。

 さて京都大学での懇親会ですが、大学側の施設使用の都合から午後7時半には終了して午後8時までに全ての後片付けを終えないといけなかったそうです(このことは、後日、大会実行委員会の先生がたから伺いました)。定刻通り午後6時にスタートしたものの、来賓の皆さん(京都大学副学長、京都工芸繊維大学学長、京都府知事および京都市長)の挨拶が思いのほかに長引いて、乾杯が始まるまでにすでに50分が経過していました。そのため、飲食の時間は実質30分くらいしかなく、そのことに対する批判もちらほら聞かれたようです。

 で、終了10分くらい前に来年の次期大会を開催する主体である関東支部の代表が挨拶することになっていて、それが迂生の公式なお仕事でした。でも宴会の常ですが宴もたけなわなそんな頃合いに壇上に立って挨拶したってだ〜れも聞いちゃございません。用意した挨拶を半分くらいに切り詰めてすごすごと退散いたしました。何やってんだかなあっていう徒労感でいっぱいでした。そのあと、大会実行委員会委員長の西山峰広先生(鉄筋コンクリート構造、京大教授、学生の頃から知っている旧知の間柄です)が締めの挨拶をされたのですが、やっぱり誰も聞いてなくて、ダメだコリャってつぶやいていたのが印象的でしたな、あははっ。まあお互いにそういうお役目ということで、ため息混じりに顔を見合わせて終わりました。お疲れさまでございます…。

 懇親会が終わって時計台の外に出るとかなりの雨が降ったらしく、道路が濡れて薄いオレンジ色の街路灯に照らされて光っていました。夜の大学構内は人気が少なくてそれは寂しげでした。雨上がりで少し涼しくなったように感じられましたがそれもつかの間で、出町柳の駅まで歩くあいだにすっかり汗だくになったのはこれまで通りでした。

初秋の苦行(その1) 京都大学で建築学会大会 (2023年9月16日)

 ことしは日本建築学会大会(以下、大会と略します)が四年ぶりに現地で対面開催されました。9月12日から15日までの四日間で、開催地は京都大学の吉田キャンパスです。2019年以前の大会は八月下旬から九月初めに開催されることが多かったようですので、そのときには迂生にとって大会は夏の苦行でした。それがことしは九月中旬になったので季節としては(一応は)初秋ですよね? ということで今回は「初秋の苦行」としてみました。なお、2019年の金沢大会のときはわたくしは病気のために不参加でしたので、今回は五年振りに対面で参加する大会です、楽しみだなあ〜。初秋なので苦行にならなきゃいいなと思っていましたが、どうだったでしょうか…。

 京都大学での対面開催と書きましたが、初日の9月12日だけはオンラインによってパネル・ディスカッション(PD)等の研究集会が開かれました。ですからフツーの参加者は翌日の13日から京都大学に出向けばいいわけです。しかしわたくしは以下のような事情から12日のお昼過ぎには京都大学・吉田キャンパスに到着いたしました。

 わたくしは鉄筋コンクリート構造、プレストレスト・コンクリート構造および原子力建築の各運営委員会に所属していて、このうちの原子力建築部門のPDに登壇いたしました。担当小委員会の主査として主旨説明を行い、討論に参加するためです。オンラインなので自分のPCさえあれば参加する場所は問わないのですが、登壇者がバラバラだと討論の際にやりにくい(?)という意見があり、そういう団体は他にもあったようで、それを受けた主催者側(京都大学の先生がたを初めとする大会実行委員会)がPD開催用の小部屋をいくつか用意してくれました。お忙しいのにありがたいことです。

 ということで迂生は12日の朝に新幹線に乗って京都に向かいました。京都大学の吉田キャンパスには行ったことはあるように思うのですがその記憶は全くなくて、じゃあどうやって行くのか?ということになります。もちろん主催者がアクセス情報を準備してくれているのですが、京都市内のバスは観光客で非常に混雑するので時間に余裕を持ってと書いてありますし、京都大学の知人からはバスには乗らんほうがよい、歩けるひとは京阪電車の出町柳駅から15分くらい歩くのが一番や、って言われていました。

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 なるほど…、COVID-19の脅威が表向きは去った現在では京都も観光客で溢れているのですね。では京都駅から出町柳駅まではどうやって行くのか…。学会の案内サイトには地下鉄烏丸線で北上して烏丸御池で地下鉄東西線に乗り換えて東へ行き、三条で京阪電車に乗り換えて北上して終点の出町柳へ至る経路が示されていましたが、距離が短い割には乗り換え回数が多くて面倒そうです。

 ところが乗り換え案内で検索すると、京都駅からJR奈良線に乗って南下して一駅目の東福寺駅で京阪電車に乗り換えるというルートがあるではありませんか!これだと東京から行くひとは京都市内行きの乗車券を買うので東福寺まではその料金で行くことができますし、乗り換え回数を減らせます。なぜこの経路が学会の案内には載っていないのだろうか…かなり不思議に感じましたな。ということでわたくしはこの経路で京都大学・吉田キャンパスへ行くことにしました。

 さて下の写真は東福寺駅ですが、乗換駅にしては小さくて通路も狭かったです。翌13日に現地開催が始まってこの駅に数千人の学会くんが集まったら、とてもじゃありませんがパンクしそうでした。それが学会の情報サイトに載っていなかった理由かも知れませんね。実際、最終日に東京に帰る際もこの経路を利用しましたが、そのときは夕方だったこともあって大きな荷物を抱えた外国人観光客がホームや通路に多数停留していて、とても歩きにくかったです。



 といことで京阪電車に載って終点の出町柳駅に着きました。なんだか知らんけど、出町柳(でまちやなぎ)って風情のある名称ですよね。その由来はウェブ上に載っていますが、それよりも京阪電車のこの終着駅が開業したのが1989年ということに迂生はむしろ驚きましたな。歴史ある京都の鉄道としては比較的新しいからです。ちなみに京阪電車は七条あたりから地下に潜って北上し、終点までずーっと地下鉄でした。

 地下にある出町柳駅から地上に出ると、その西側には賀茂川と高野川とが合流して鴨川となる三角州が広がっていました。いやあ、いいところですねえ。賀茂大橋から東を見やると今出川通りの先のアイ・ストップとなるお山の中腹に大文字焼きの「大」の字がくっきりと見えました、なるほど、ここかあ…。でも初秋というのにこの日もべらぼうに蒸し暑くて景色を楽しむという気分にはほど遠かったのが残念でした。大会の期間中ずっとこういう気候でして、東京とは違ったねっとりとして肌に纏わりつくような蒸し暑さを体感いたしました。




 出町柳駅から今出川通りを東に向かって10分ほど歩くと百万遍の交差点に到達します。ここが百万遍かあっていう、もう、おのぼりさん丸出しの感覚ですよ、あははっ。でも初めて東大に来て赤門を見たひともきっと同じような感慨に浸るのだろうと思います。ちなみに江戸時代までは京都に上る、江戸に下ると言っていましたので、この場合の「おのぼりさん」という用語は正しい使い方ですね、まあどうでもいいか…。

 下の写真は百万遍の交差点から東を見たところで、右角が京都大学・吉田キャンパスの敷地になります。このキャンパス脇の道路がとても広いことに結構驚きました。東大正門前の本郷通りと較べると幅が二倍くらい広いんじゃないでしょうか。それとも雅な京に対する東夷(あずまえびす)の僻み言だったりして、ガハハっ。ここから京都大学の構内に入って目当ての総合研究9号館に向かいました。





 PDの登壇者が小部屋に集まった様子が上の写真です。わたくしを含めてちょうど十名でした。皆さん、ヘッドセットやイヤホンを着けていますね(皆がパソコンのマイクをオンにするとハウリングするため)。右奥は討論での話題を提供していただいた前田匡樹先生(東北大学)です。

 冒頭に書きましたが、オンラインなので登壇者も自分の好きなところで参加すればよいと思っていたのですが、こうやって登壇者が一堂に会するメリットもありました。それは討論の際に内輪でコソコソとあれこれ相談できますし、発言したいと思っているひとを顔色やら態度やらで感じ取れることです。ただ、登壇者のなかにはこのためだけに京都にやって来たひと達もいて、終わるとそそくさと帰って行きました。ですからオンラインによるPDの登壇者が集まることには一長一短があると思いましたね。

 こうしてPDが夕方に終わり、この日のタスクはこれで完了です。ホテルを四条駅(烏丸駅)の近くに取ったので、京阪電車で祇園四条駅まで行って四条大橋を渡って京都河原町駅へ歩き、そこから阪急に乗って烏丸(からすま)駅に向かいました。駅数にするとわずかなのですが、乗り換えや電車待ちで30分近くはかかりました。

 おまけにこの辺りは観光客が集まるポイントらしく混雑していて四条大橋を渡るのには難渋しました。下の写真は祇園四条から鴨川越しに河原町方面を見やったもので、右端が四条大橋です。塔のある鉄筋コンクリート建物は東華菜館本店という中華料理屋ですが、この建物は戦前からあったように記憶します(調べたら、ヴォーリズ設計で1926[大正15]年に竣工していました)。

 ということでオンライン主体(だけど登壇者は現地集合)の初日がやっと終わりました。この日歩いたのは約9,100歩でしたので、普段、自分の大学に出勤するのとほぼ同じでしたが、見知らぬ土地を気張って歩いたせいか、あるいは蒸し暑かったせいかとても疲れました。翌日からの対面開催では毎日12,000歩から16,000歩は歩きましたので、これでも少なかった方でした。明日以降についてはまた書こうと思います。



沖縄にみる不条理に思ふ (2023年9月5日)

 不条理なことはこの世にわんさかあるので、いちいち真剣に反応していたら生活できません。とはいえ、沖縄で起こっている不条理な出来事を見るとやっぱり考え込んでしまいます。普天間基地を辺野古に移設することに対して沖縄県が反対を続けています。沖縄県民の七割がそれを支持しているとの調査結果もあります。米軍施設の多数が集中する沖縄の人たちに加重な負担を強いているのが現状でしょう。

 さて沖縄県が起こしていた訴訟で今回、最高裁判所の小法廷が裁判官五名の全員一致で沖縄県の上告を棄却しました。ひとことで言えば門前払いということになります。しかしその結果、沖縄県知事は法治国家の諚として日本国政府の命令に従わなければなりません。過酷なお裁きと言わざるを得ませんなあ。しかしいくら法律を重んじる法治国家とはいえ、その判決には人間の情というものが微塵も感じられません。ここのところよく聞く「寄り添う」という文言は軽々に使いたくないのですが、それでも沖縄の人びとに対する配慮や感謝の気持ちを少しでもよいので表すことはできなかったのかと悲しく思います。

 法律家は法律の原則に従って公平に審理して判断を示します。そこに私情を挟んではいけないのは当然です。しかしそもそもなんのために裁判があるのか、ということに思いを致すとき、それは市井の人々のささやかな幸せを守るためにあるのではないでしょうか。沖縄の人びとには不自由なことや危険なことに耐え忍んでもらっている場面が多々あると思います。そういう地域に住む人々に対してこのような素気無い仕打ちをしてよいものか、というふうに思います。遠山の金さんのように、強きを挫き弱きを救うようなお裁きは現代では不可能なんでしょうかね…。

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 まだまだ暑い九月ですが、それでも夕暮れがだんだんと早くなっているように感じます。夕方になって下校するときに学内で撮った写真を載せておきます。さて、それではここはどこでしょうか。内部(いや、正確にいえばここは外気とツーツーなので内部ではないんですが…)はご覧のようにコンクリート打ち放しです。しかしこの建物の外部はタイル貼りになっています。先生がたよりも学生さんのほうがすぐに分かるかも…。

 

進化する掃除機 (2023年8月30日)

 掃除機の話しは何度かこのページで書いています。わが家でこれまで使っていた掃除機は三菱電機の「風神」という名前のサイクロン式でして、このページを検索するとちょうど九年前に購入していました。かなり古いわりには今でもそれなりにちゃんと動いて家中を綺麗にしてくれます。ただ、掃除機の掃除はやっぱり面倒ですし、埃が飛び散ったりして汚ならしいのでいつも屋外での作業を強いられます。

 こういうメンテナンスは迂生のお仕事なのですが、最近、女房どのからクレームが出るようになりました。それは掃除機の電源コードが足にまとわりついて鬱陶しいし、階段を掃除するときには危険ですらある、というのです。まあ確かにそうだわな。年齢を重ねると若い頃のように敏捷に動けなくなって、こういう仕儀に相成るわけです。ということで、調布のビックカメラまで行って女房どのが新しい掃除機を買って参りました。そういう備品を買うときはだいたいがウジウジとあれこれ悩んで進まないことが多いのですが、今度はわが家にしては素早い行動でしたな。

 なんでも女房どのが言うには、そういうハンディ・タイプのコードレス掃除機ではダイソンがダントツに有名だけど、それはゴミタンクを本体に搭載しているせいかかなり重くて直ぐに腕が疲れてしまって掃除にならないそうです。義母の家でダイソンの掃除機を使っていたのでそういう欠点を把握したようです。そこでビックカメラの売れ筋を紹介されて女房どのが買ってきたのがシャークというメーカーの掃除機です。買ったのは型落ちらしくて六万円くらいでしたが、ポイントを使ったので五万四千円くらいでゲットしました。それにはスティック・タイプの本体とは別にゴミを自動的に収集するためのドック・ステーションなるものが付属していました(写真の下部にある白い箱)。

 

 なるほど…、これだったら掃除機の掃除も楽かもしれないなあ。ただ、本体に一時的にゴミを溜めておくカップとフィルターがついているのですが(まあ当たり前だよな)、それは水洗いしないとダメみたいです。ところで「シャーク」っていうメーカー名を聞いたこと、ありますか?ないですよね、「シャープ」の間違いじゃないんですよ。調べるとアメリカでシェアNo.1の掃除機メーカーって触れ込みなんですけど本当かな。

 そういうところが若干不安でしたが、使ってみると確かになかなか使いやすいです。かなり軽いですし、何よりも電源コードがないので持ち運びが便利でスイスイ動かせます。これだったら楽しく?お掃除できるような気がして参りました。いやあ、テクノロジーの進歩ってホントすごいなあと思います。でも、掃除機の掃除を完全にしないで済むような掃除機は未だに開発されていないようです。頼むから迂生が元気なうちになんとかしてくれ〜って思うんですけど、ダメですかね。

夏の終わり (2023年8月28日)

 八月ももうすぐ終わるというのに連日35度近い暑さが続いています。とはいえ季節は確実に進んでいて、先日は大学の正門から続く銀杏並木でまだ堅そうな銀杏がポツンと落ちているのを見つけました。蝉しぐれもいっときのかしましさは影を潜めて、それに代わって秋の虫々のなき声が聞こえて参ります。

 先週はこの暑さのさなかに大学の健康診断がありました。わたくしの研究室からその会場までは歩いて八分くらいはかかるので、汗はかくわ息は切れるわでもうひと苦行です。そこで血圧を測るものだから、普段は見ないような高血圧が測定されたりします。おまけに今回は採血の注射針を抜かれるときにどういうわけか腕に激痛が走って思わず悶絶してしまい、驚いた担当の看護師さんが大丈夫ですかあと言いながらそこに冷えピタシートを貼り付けました。でも、そんなんじゃ痛みは緩和しやしないのですがなんせ大勢の人たちが後ろに控えているので、そろそろとその場を離れました。いつも思うのですが、健康診断を受けるとだいたい気分が悪くなって、どう考えても健康に良くないんですよね。血圧測定も迂生にとってはまことに気持ちが悪いので(血管を強く締め付けるので心臓がバクバクして来ます)、全ての検査を非侵襲にできないものでしょうか。

 さてきょうは、来年度の科研費を申請するための研究計画調書の提出日(本学が設定したもの)でした。以前は秋もふかまった頃の提出だったと記憶しますが、なぜこんなに早くなったのでしょうかね…。国民の皆さんの税金からいただく研究費ですから、そのための書類くらい精魂込めて作りゃないかん、ということはよく分かっています。そうではあるのですが、それでもほとんど何もないところから研究計画という壮大な?伽藍を構築しないといけませんので、それ相応のものすごく大変な作業です。大学の教員になって以来、三十年以上続けてきたこの作業ですが、その苦しさは毎回、変わることはありません。

 ということで今回もウンウンと唸りながら、頭を抱えながら、知恵を絞り出して調書を作成いたしました。ただ今回は頭のなかでアイディアをかなりの期間、熟成させていたせいか、ワープロに向かって文章を書き始めるとその後は一気呵成に書き上げたような気がします、まあ、そういう“気がする”だけですけど、あははっ。そういう苦労ではありますが、あと数年もすれば調書を提出したくても出せない立場に変わりますので、できるあいだは頑張らなきゃいかんって自分を鼓舞しているような感じかな。とにかく無事に提出できてよかったというのが本音ですね。

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 以前に書いたNHK-FMの「Discover Beatles II」ですが、先週は小田和正さんがゲストでした。小田さんは75歳だそうですが、今でも昔のような高い澄んだ歌声が出るなんて素晴らしいですね。ホストの和田唱さんが「若い頃はやっぱりビートルズが好きでしたか」って質問したところ、小田さんが「いや、特に何も。俺たちの頃はやっぱりフォークだったからさ」って肩透かしに答えていたのが面白かったです。1970年代の半ばくらいまで、日本ではフォークがブームだったことをお若い和田唱さんは知らなかったのでしょうね、きっと。

 番組のはじめのほうで小田さんが「(中学か高校の頃)学校からの帰り道でヤスと二人でビートルズの曲をハモったらバッチリはまったんだよね」と例のボソボソ声で話したときにはおや?っと思いました。「ヤス」というのはその後、オフコースとして一緒に活動する鈴木康博さんです。オフコースが五人組になって全盛だった1980年代半ばに路線の対立からヤスさんはオフコースを抜けて、それ以来、小田さんとヤスさんとが一緒に活動することはありません。でも、小田さんのなかではやっぱりヤスさんとの思い出は重要なんだなと思いました。この二人が当初のオフコースの頃のように一緒に歌う姿をそろそろ見たいと思うひとは結構いるんじゃないでしょうか。わたくしもこの二人の絶妙のハーモニーをもう一度、聴きたいと思っています。

 
オフコースのアルバム「Fairway」(1978年)から 左が小田和正、右が鈴木康博で三十歳頃の写真

人間の認識の不思議 (2023年8月23日)

 夏の高校野球は慶應義塾高校が優勝して終わりました。107年ぶりって言われても、そんなに昔のことを知っているひとはもういないでしょうから、あまり意味もないとは思います。それよりも夏の高校野球にはそんなに長い歴史があったことに驚きます。

 憎らしいくらいに強かった仙台育英ですが2対8で負けるとは想定外の出来事でしたので、ちょっと可哀想に思いました。慶應の応援がすごくて仙台育英にとってはアウェイで試合をしているようでそのことも気の毒でした。でも両チームの選手たちは時おり笑顔も見せていましたので、ゲームを楽しんでいるようにお見受けしました。それが迂生にはとても清々しく感じられましたな。ナイス・ゲーム!って両チームを讃えたいと思います。

 さて順調に行けば明日から福島第一原発の汚染水を処理した水(以下、処理水)が太平洋に放出されます。その処理水に残ったトリチウムを相当に希釈してほぼ無害と考えられる濃度にしてから排出するとのことなので、科学的に言えば無害と言ってよいと思います。トリチウム自体は自然界に存在する物質なので、自然界での存在密度以下にすればそれは自然界と同じ状態であると考えられます。

 しかし処理水の海洋放出に対する反発は根強くて、反対を唱える声は世間に満ち溢れていますよね。福島沖で獲れた魚はもう食べないなんて(非科学的な)ことを言う人々もいるみたいで、いわゆる風評被害も大いに懸念されています。科学的に言えば安全なのですが、安全と安心とは違うとおっしゃる方もいますよね。でも迂生はどうにも腑に落ちません。わたくしは福島近辺の魚も日本酒も果物も今までとおりに美味しくいただきますよ。

 2020年にCOVID-19によるパンデミックが起こって、急きょワクチンが開発されて多くの人たちが接種しました。しかしこのワクチンはm-RNAに基づくもので今までに存在したワクチンとは原理的に全く異なっていて、ヒトに対するその安全性については不明な点も多々ありました。実際、わが家ではそのワクチン接種によってかなり激しい副作用を見たことから、それ以降わが家では誰もそれを打たなくなりました。このワクチン接種によって死亡に至ったと認定されたのは日本では二人に過ぎませんが、ワクチン接種後に亡くなったひとは数千人もいるようで、そういう人たちの死因は詳しく調べられていません。

 このように科学的に見て安全かどうかよく分からない当該ワクチンですが、そのことに警鐘を鳴らしたり問題視するような論評は今ではほとんど聞きません。不利益を上回る利益があったということかも知れませんが、今回の処理水放出に対する大ブーイングを見るとき、日本人の認識に対する不思議さを感じないわけには参りません。

 全てが科学で解決できるとはわたくしも考えていませんが、現在の知見の及ぶ範囲で熟考した結果は尊重してしかるべきかと思います。放出に反対する人たちは、そもそも福島第一原発のサイトに溜まり続ける処理水を物理的にどうすればよいと考えているのでしょうか…。そんなことは知らないよって言って騒ぐだけならばそれは火事場の見物人と同じでしょう。その根底には誰かが何とかしてくれるだろうという日本人にありがちな無責任気質が広がっているようで、空恐ろしい気分を抱きます。

ことばの選び方にみる日本人の精神性 (2023年8月16日)

 きょうは大学院入試の面接です。台風は日本海に抜けたようですが、まだ不安定な天候は続いていて、東京の多摩地域でも突然に豪雨が降って来たりしています。

 世間は多分、お盆休みなんでしょうけど、本学の牧野標本館別館で開かれている「日本の植物分類学の父 牧野富太郎が遺したもの」という企画展には結構な人たちが訪れています。NHKの朝ドラ『らんまん』の影響であることは間違いないでしょうが、実は数年前にも同様の企画展がここで開かれたのですが、そのときにはだ〜れも来ていませんでしたよ。世間さまの関心って結局はそんなものなんでしょうね、やっぱり。ちなみにわたくしは『らんまん』は見たことがありませんし、うちの女房はこのドラマのことを『まんてん』とか言ってました、まあその程度の認識なんですねえ。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU牧野標本館_らんまん展20230810:IMG_2023.JPG

 さてきのう(8月15日)は1945年に先の大戦が終結した日でした。日本では一般に「終戦の日」と呼ばれます。でも実際にはみなさんもご存知のようにほぼ無条件に降伏した敗戦の日だったわけです。連合国に対して降参した結果として日本全土が占領され、主権を回復するには七年を要しました。さらには沖縄県をはじめとして米軍に占領されたままなかなか返還されなかった地域も多数ありました。敗戦の帰結として日本にもたらされた経験は苦難そのものであり、それは現在も続いています。

 いっぽう、帝国日本が侵攻したアジアや太平洋諸島の国々に対して多大な損害と迷惑とをもたらした事実もまた厳然として存在します。しかし敗戦後の日本人たちの中にはそのことを認めないと主張する人たちが一定数いて、それは現在にまで至っています。すなわち、先の戦争において日本は被害者だっただけでなく加害者でもあったことをもっと認識するべきでしょう。

 しかし戦後の日本人はそういった戦争の責任について深く遡求することなく、78年間ずっと曖昧なままに過ぎてしまいました。その根底には全ては軍部が悪かったのであって、天皇および日本国民はそれに翻弄されただけという被害者意識があったと思われます。

 このように自分たちの被害だけに着目した精神性のゆえにこの日の出来事は終戦と呼ばれ、決して敗戦とは言わないのです。かように自分たちの犯した事柄についての責任を曖昧にしたままに追及しない姿勢は日本独特であって、同じ敗戦国であるドイツとは決定的に異なるところです。別にドイツの真似をしろとは言いませんが、自分たちの歴史に対してもっと謙虚であってもよいとは思います。G7の一員とかいって浮かれているどこかの首相もいますが、アジアの国々は本当のところは懐疑の目で日本を見ていることをもっと認識したほうがよいのではないでしょうか。

ことしのお盆 (2023年8月15日)

 お盆を迎えました。わが家は無宗教なのですが、わたくしの方の古い歴史を辿ると浄土真宗だったらしいので実家には仏壇がありました。それを随分前にうちに移してリビングルームに置いてあるのですが、女房どのがどういう風の吹き回しかそれを久しぶりにご開帳してぼんぼりに灯りをともしたんですよ。チーンってかねも鳴らしてみます。そうするとなんだか本当にご先祖さまたちがここに宿っているようで、ちょっと不思議な気持ちがいたしました。でも、すぐにお仏壇の扉を閉じちゃったのでそれもすぐに消えましたけど、あははっ。

 台風は予想よりも西にそれたようで(でも、関西の人たちは大変でしょうが)東京では薄陽が差して暑いです。きょうと明日とは大学院の入試が行われるのでその業務です。台風の直撃は避けられたので、ホッと安堵の息をつきました。例年、お盆には試験やレポートの採点をしていることが多いのですが、今年はお盆の入りの休日に頑張って全部を終えることができました、よかったあ〜。それでもお休みのさなかに仕事をしたことには変わりなく、毎年感じるのですがなんだかなあって感覚なんですよね。もっとゆったりとした気分で仕事をしたいと思うのですが、それって贅沢なのでしょうか…。

 さて別の話しです。学士入学で第一学年に入った方が志半ばでやむなく退学するという決断をされたそうで、先日、わたくしのところに挨拶に来られました。その方は日本を代表する私立大学の特任教授を勤めておいでで、本職の専門とは別に建築学も学びたいということでわが建築学科に入学されました。お話しを伺うとその方はわたくしよりも六歳ほど年上でした。退学される理由は(ほぼ想定されるでしょうが)本職と学生との二足のわらじはやっぱり無理だったとのことでした。

 そのときにその先生がお話しされたのは、人間は生きるにあたって社会とつながることが重要で、世間さまから要請がある限り仕事を続けたいとのことでした。正直言ってその意欲は素晴らしいと思いました。迂生などは定年後はブラブラと好きなことをして過ごしたいと思っているからです。でもその先生曰く、旅行とか趣味とかは半年もすればすぐ飽きる、とのことでした、うーん、そうかなあ…。

 以前に定年後の生活についてあれこれ思案していることを書きましたが、具体のプランが決まったわけでもなく、なんとなく時が過ぎて行きます。それはそれでいいとは思います。この先生のお話しは世間一般でよく聞くような内容ではあるのですが、それでもそれをまさに実践しているロール・モデルを目の前にするとやっぱり強く響くものがありますな。なかなかに考えさせてくれる出来事でした。

スライドの時代(その3) (2023年8月12日)

 お盆の入りです。またもや台風が近づいていて不穏です…。来週の大学院入試のときに最も接近する予報になっていてますます不安なんですけど、大丈夫かなあ。

 さて、ジェラルド・ワーナー(GHQ外交局の幹部)が撮影した占領期日本(Occupied Japan)のカラー・スライドを紹介するコーナーの第三弾です。約二ヶ月前のこのページで鉄筋コンクリート(RC)構造6階建てのペリーアパートを取り上げました。その建物は丘の上にあってはるかに国会議事堂が見渡せる、というロケーションは分かりましたが、建設場所を特定するには至りませんでした。

 ところがこの夏休みに再度、ラファイエット大学スキルマン図書館のサイトを訪問してワーナーのコレクションを見直したところ、重要なヒントが隠されていることを発見しました。それは麻布区今井町(現・港区六本木2丁目)にあった三井邸の廃墟です。ネットで調べると、ここには三井家の当主だった三井八郎右衛門が建てた豪邸(敷地面積は約13,500坪)があったのですが、昭和20年5月の空襲によってほとんど焼失して廃墟と化したそうです。その廃墟をワーナーが1949[昭和24]年8月に撮影したのが下の写真です。終戦から4年経っても東京都心の一等地に戦災による野っ原が広がっていたとはちょっとした驚きですね。



 さて話しはここから始まります。ワーナーは同じ時期にこの三井邸の廃墟からアメリカ大使館を見やった写真も撮っていました(左下の写真)。右奥に見えるのが多分、アメリカ大使館で、そうすると画面の中央あたりを左から右に横切る道路は現在の六本木通り(その上に首都高が走っている)だと思われます。画面手前には木造住宅が密集していますが、左奥にはRCの中層建物が建ち並んでいます。昭和24年の六本木界隈ってこんな様子だったのですね。

 
写真 左:麻布区今井町からアメリカ大使館を見る(1949年8月) 右:ペリーアパートからアメリカ大使館を見る(1953年9月)

 それから四年後の1953[昭和28]年9月に、ワーナーは新築なったペリーアパートの屋上からアメリカ大使館を見やった写真も撮っていました。それが右上の写真です。こうやって並べるとどうでしょうか、ちょっとピンと来ますよね。右の写真は6階建ての屋上から撮影しているので視点が高いことを考慮に入れると、両者がよく似ていることに気がつきます(って、このことに気がつくまでにすごく時間がかかったわけですけど…)。

 こうして麻布区今井町の三井邸の廃墟跡にペリーアパートが建設されたことが分かりました。戦後の財閥解体によって三井家の力は削がれて、この場所も明け渡すことになったのでしょう。そしてこの場所は現在ではアメリカ大使館宿舎になっています。すなわち、ペリーアパートは米軍関係の宿舎ではなくてアメリカ外交官のための住宅だったわけです。現在の地図を下に載せておきます。アメリカ大使館宿舎は下の赤色の四角で囲ったところです。目印に虎ノ門病院も示しておきました。このそばに日本建築防災協会の建物があるので馴染み深いかたも多いかと思います。



 ちなみにワーナーは1951年5月にも三井邸の廃墟跡を訪問して国会議事堂方面を撮影していました。それが下の写真ですが、そのコメント欄には「Mitsui Imaicho Property looking North toward Diet Draftsmen's Buildings」とありました。最初はこの“Draftsmen's Buildings”というのが分かりませんでした。Draftsmenは文字通りに解釈すると設計図を描く人ということで、この写真の被写体は国会議事堂ではなくて、その人たちの建物(写真では木造平屋建てのバラックみたいなのが二棟建っています)ということみたいです。あれっ?、確かペリーアパートが完成したのは1953年なので1951年というとちょうどその設計とか建設が始まる頃じゃないかな…。

 ということで、なぜ彼がこの場所に何度も来ていたのかがやっと分かりました。下の写真はペリーアパートの敷地そのものを撮っていて、ペリーアパートの設計図を引く人たちのための仮設の作業小屋が写っていたわけです。撮影者のジェラルド・ワーナーがペリーアパートに注目した理由は分かりませんが、(その2)に載せた写真には奥さんのリラも写っていたことから、このアパートに住む予定だったのかも知れませんね。



 

 1949年8月にワーナーが三井邸の廃墟跡から北東方向を見やった写真を上に載せます。これはパノラマ写真になっていて左の写真に国会議事堂が写っていて、右の写真の画面の右外にアメリカ大使館があるはずです。ちなみに現在のアメリカ大使館宿舎(港区六本木2丁目)の様子は下のようらしいです(Google Mapからコピーした写真です)。周辺には高層ビルが建ち並んでいて今ではもう国会議事堂は見えないのでしょうか、知りませんけど…。



盛夏のなかで (2023年8月10日)

 盛夏ですね。台風が次々に来ていますが、皆さまのところではいかがでしょうか。東京西部では晴れていたと思っていても突然、豪雨がやって来たりして気が抜けません。きょうは大学院の課題の提出日なので登校しましたが、陽射しが強くて暑いです。成績の登録締め切りが迫っているのですぐに採点しないといけません、あわただしいです。でもすぐにはやる気が出ないのも毎度のことでして…困ったなあ。

 一年生を対象とした「建築構造力学1」(静定力学の初歩)ですが、ことしの学年は今までと違って毎週の演習を提出しないひとが多数いたことから大丈夫かなと危惧したのですが、残念ながらその通りになってしまいました。期末試験の平均点は例年は60点以上になるのですが(毎年、同じような問題を出題しています)、今年はジャスト50点でした。これはこの二十年ではほぼ最低の平均点です。例年と同じように講義して演習を毎週採点して返却したのですが、その効果があまり得られなかったということです。どうしてなのか理由は分かりません。でも、学生諸君の基礎的な学力とかやる気とかが低下したとしか考えられません。

 少子化はどんどん進み、大学はますます余って来るわけなので、優秀な学生の奪い合いとなっていると思われます。そのような中で本学の建築学科は入試の倍率こそまだ高いものの、今まで受験して入学してくれた高校生層よりも学力のグレードが下がっているのかも知れません。そうだとすれば高校生諸君はわが建築学科に魅力を感じなくなっているということで、これは由々しき事態だと思いますけど…。どうしたらよいのか、対策はすぐには思いつかないなあ。それに、それはもう迂生のお役目とも思わないし…。

 でも「建築構造力学1」については毎週行なっていた演習の添削はもうやめようと決意しました。思い返せば1988年に宇都宮大学の助手になって以来続けてきた方法ですから、それをやめるというのはわたくしにとっては一大事なわけですよ。でも、提出しない学生さんも増えたことですし、迂生が頑張ってサービスしてもそれだけの効果を得られなくなったと判断いたしました。残念ですけど仕方ありませんねえ。

耳ネタ2023 August(2023年8月1日)

 八朔になりました。きょうは久しぶりに雷空で雨も降りましたので、少し気温が下がったみたいです。この七月はこれまでで最も暑い七月だったとのことです。日本はこれからがいよいよ夏本番だっていうのに、いったいどうなっちまったんでしょうねえ…。でも地球の熱帯化が進めばこんな感じの猛暑もフツーのことになるのでしょうか、あな恐ろしや〜。

 さてきょうの耳ネタは浜田省吾のアルバム『Down by the Mainstreet』です。1984年10月に発売されてすぐ、例によって新大久保の貸レコード屋でLPを借りてきて、カセット・テープに録音して聴いていました。しかしそのうちカセット・デッキもウォークマンも壊れて聞けなくなりました。しかしそのなかの「A thousand nights」は今でもよく憶えていてお風呂のなかで口ずさんだりしていました。

 そんなアルバムを無性に聴きたくなるときもあったのですが、最近、タワーレコードでそのCDが2200円で売っていたので、それくらいだったらまあいいかと思って買いました。それでも今から約40年も前のアルバムにしてはいいお値段ですよね。アルバムジャケットの浜田省吾(の絵)が実にカッコいいです。

  

 ということで多分三十年ぶりくらいに『Down by the Mainstreet』を全曲通して聴きました。このアルバムには全部で10曲が収められていますが、それらのタイトルは全て横文字でした。アメリカに対する憧れみたいなものがまだ残っていたのでしょうね、きっと。例によって社会に対する憤懣を抱え、鬱屈した日々をおくる若者たちを唄っています。

 このアルバムが世に出た1984年といえばバブル前夜といった時代で、そうは言っても何でも手に入れることができるというほどではなかったと思います。この頃、わたくしは大学院生でして、基本的には研究に明け暮れていたとはいえ、研究室の仲間と海に行ったりテニスをしたり酒盛りしたりとそれなりに楽しく過ごしたことをよく憶えています。

 アルバム冒頭のその名も「Money」という曲では、以下のような歌詞が出てきます。

 純白のメルセデス
 プール付きのマンション
 最高の女とベッドでドン・ペリニヨン
 欲しいものは全てブラウン管の中
 まるで悪夢のように

 この当時の(ブルーカラーの?)若者たちは皆、高級車や豪邸が欲しかったのでしょうか。よく分かりませんが、わたくし自身も若い頃には、カッコいい車が欲しいなあとは確かに思っていましたね。そういう夢を叶えるために自分を押し殺して汗水流して働くのがフツーの若者だと浜田省吾は考えていたようです。ただ、歌詞には「まるで悪夢のように」ともありますから、そんなものにうつつを抜かすのは悪魔に魂を売り渡す所業であるってことには彼も気がついていたのだろうと思います。

 しかしそれから四十年が経過して、世相は明らかに変わりました。そんなふうに欲望をギラギラさせてモノを消費するのは現代ではクールじゃない、かっこよくないと思われるようになり、実際、なにかを買うためにガンガン仕事するということもあまり聞きません。カーボン・ニュートラルとか地球環境に優しいとか省エネルギーとかが声高に叫ばれている今の時代、全体的に萎える方向に進んでいますよね。

 また「最高の女」(って、いったいどんな女なの?)を求めるような男性も現代では絶滅危惧種ではないでしょうか。草食系男子とかおひとりさまとか言われるようになって、パートナーを得ないでひとりで暮らすひとが増えていると聞きます。まあ、自分が生きたいように生きればいいということで、ある意味やっと民主主義も成熟してきたかなといった感じでしょうか。

 しかしその反面、このアルバムで歌われていた日本の活気や熱気のようなものは確実に失われました。『Down by the Mainstreet』が右肩上がりのそういう古き良き日本を懐かしむための作品になったということであれば、これはもう古典の域に入ったということかも知れません。うーん、浜ショーが古典かあ、感慨深いな。日本のロック音楽界のなかで独特のポジションを築き、反骨精神の塊みたいな(と少なくとも迂生は思う)浜田省吾ですが、まさか自分自身が古典になるとは思ってもいなかったのではないでしょうか、知りませんけど。

 ところで上の歌詞に出てくる「ドン・ペリニヨン」ってご存知でしょうか。わたくし以上の年代の方はご承知でしょうが高級シャンパンの銘柄で、ドンペリと言われていました(今はどうなんでしょうか)。すごくお高いらしくて、わたくし自身は一度だけお目にかかりました。迂生が千葉大学から東京都立大学に転任したころ、ちょうど退官される坂田先生(建築家で、「違いのわかる男」っていうテレビCM[ゴールドブレンドというヤツ]に出たことでその当時は有名でした)の送別会についでにお呼ばれして千葉県市川あたりの屋形船に乗ったのですが、そのときに粋人だった坂田先生ご自身がくだんのドンペリを持ってきて飲ませてくれたのでした。どんな味だったのかさっぱり憶えていませんけど、あははっ。

彼らのほんの短い夏 (2023年7月28日)

 お暑うございます。夏の高校野球の地方大会はそろそろ大詰めになって参りました。わたくしはプロ野球には全く興味はありません。でも高校野球はとても興味深く見ています(と言っても新聞の記事くらいですけど)。高校野球ではまず自分の母校が気になりますし、その次には愚息の通う学校やら親族の出身高校、あるいは気のおけない友人たちの母校など、声援を送る先には事欠きませんな。

 わたくしの母校である都立青山高校は一回戦では筑波大学附属高校と対戦して5対0で快勝しました。わたくしの一族には附属出身者が多いですし、身の廻りにも同校出身者がたくさんいますのでちょっと申し訳ない気もいたします(うそで〜す)。二回戦は私立高校相手に11対0でコールド勝ちを納め、三回戦は共栄学園(って知らないですけど…)と対戦して残念ながら3対4で惜敗しました。朝日新聞のサイトには各試合の動画が搭載されているので後日、この試合を見てみました。

 青高の投手の杉山さんはいいピッチングをしていました。本格派の右腕といった様相で三振を狙って取りにゆくピッチャーとお見受けしました。暑いなかを最後までひとりで投げ抜いたのは立派でしたね。共栄学園戦では前半は3対0と明らかに押していましたし、7回もノーアウト満塁、8回と9回はワンナウト一・二塁と攻めましたが、そのあとの一本が出ずに惜しくも敗れました。実力的には伯仲していたと思います。勝敗は時の運とは言いますが、まさにそれを地で行くような試合でしたな。相手の共栄学園はその後、東東京大会の決勝戦に進出しましたから、結果から言えば青山高校は善戦虚しくも惜しい試合を落としたと言えるでしょう。

追伸; 東東京大会の決勝では、共栄学園が9回表に大逆転してそのまま優勝しました。初優勝だそうです、すごいな。

 さて愚息の学校は西東京大会のほうですが、今年は第三シードに位置付けられていて、なんとベスト4まで進出しました。でも準決勝では日大鶴ケ丘高校と対戦して2対6で敗れました。先制したのでこれはいけるかもって思ったのですが、なんでもない一塁の内野フライを見失って落球して同点に追いつかれたのが試合の変わり目になったように思います。慣れない神宮球場で真昼の太陽光線をもろに見ちゃったのかもしれませんね、それは気の毒でした。あと二つ勝てば甲子園だったのに…いやあ惜しかったなあ〜、残念。これで西東京大会の決勝は日大三高と日大鶴ケ丘高との日大対決になって一気に面白くなくなりました。

 日大鶴ケ丘高校は準々決勝で早稲田実業相手にコールド勝ちしましたので、こりゃ意外と強いと思いましたが、そこを相手に9回まで戦ったので愚息の学校はよくやったと思いますね。エースの岡村さんも粘り強く投げていて頑張ったと思います。

 早稲田実業では皆さんご承知のように野球推薦の枠があって全国から有望な球児が集まります。でも愚息の学校には野球推薦などという枠はなく、皆さん難関の受験を突破して入学した生徒さんばかりですから、フツーの高校球児っていうことですよね。それがベスト4まで行ったのだからあっぱれだあ!これはやっぱり快挙でしょう。ただ、彼らの何人かは大学に進学しても東京六大学リーグで野球を続けるでしょうから、そうすると東大野球部にとっては強敵になりそうで、それはそれでちょっと気がかりです(なんて、こころの狭いオヤジですな、あははっ)。

 ということで高校球児の大方の皆さんにとっては短い夏が終わりました。でも、敗れたとはいえ仲間たちを信頼して支え合って戦ったそれらの経験は今後の人生に大いに役立つと思います。皆さんの将来に幸あれと願っています。

梅雨が明けて猛暑の日々 (2023年7月26日)

 七月下旬になって梅雨が明け、猛暑が続いています。登校するあいだもクラクラとして身の危険を感じます。本当は早朝の比較的涼しいうちに家を出て、夕方も陽が落ちてから帰るのがいいのでしょうが、そんなことをしたら働きづめになってしまって、かえって具合が悪くなりそうだな…。

 本学では今週でやっと授業が終わります。とはいえ期末試験は来週なので、八月に入っても授業時間は続くことになります(以前に書きました)。昨年度の大学認証評価の際に、90分授業であれば半期15回の授業を行うべきで、試験の時間は別途取らなければならない、とお叱りを受けました。そこで今年度の学年暦は斯様に後ろ側に伸びたわけでして、夏の暑い盛りに期末試験を受けさせられる学生諸君も気の毒ですなあ。

 まあ、お上の言うことは大学設置基準に照らせば正論なので、正面切って反論することはできません。とは言え運用によっていくらでも何とかできるのではないかと愚考します、ちょっと真面目過ぎるというのかな…。さすがにこりゃたまらんということで大学執行部は半期の授業回数を14回くらいにするために一コマの時間を105分とかに伸ばすことを考えているみたいです。

 しかし迂生はそれには反対です。90分授業でも学生の集中力は続かないのですから、105分なんかにしたらもう全員寝ちゃっていますよ、ホント。迂生の授業では(講義に相当する)説明はせいぜい60分程度にして、あとは演習や復習の時間に当てています。それでも沈没している学生さんはたくさんいるんですよね、まあわたくしの授業がつまらんということでしょうけど、ガハハっ。

 さらに言えば、朝8時50分の始業時間を変えないとすると5限が終了する時間は午後7時を過ぎますので、昨今のワーク・ライフ・バランスの流れとも逆行します。なにを考えているのかと思いますよねえ、正気の沙汰とも思えないけどなあ。実際、多くの大学での事例に詳しい先生のお話しによると100分を超えるような授業時間にした大学はどこも上手くいっていないと仄聞します。皆さまの大学では如何でしょうか。

 このように前期の授業の終了時期が遅くなったので、大学院入試の時期も後ろになって今年度はなんとお盆の日々に実施されます。わたくしの建築学域ではそりゃないだろうって反対したのですが、聞き入れられませんでした。入試が終わっても採点やら合否判定会議やらでまとまった時間が必要ですから、一体いつになったら夏休みをとれるんだって思いますわな。

 いっぽうで科研費の申請調書を提出する時期はどんどん早くなっていて、本学の締め切りは九月初めに設定されました(学内のURAのチェックを受けるためには八月下旬が〆切)。迂生にとっては三年ごとにこの「儀式」が巡ってくるのですが、どうしようかなあと思い始めた今日この頃でございます。暑くてボーッとして頭がクリアにならないんですよね、まあこれはいつものことか、あははっ。

 ここのところ話題にしている明治神宮外苑の再開発ですが、事業主体が近隣住民への説明会を開きました。でも、広く一般民衆にも説明すべきであるとの批判が高まっています、まあその通りでしょうね。新聞等で見る識者のコメントでは聖徳記念絵画館の正面に向かって延びる軸線上の銀杏並木のことばかりが注目されていますが、それよりは二棟の高層ビルのほうがはるかに問題だと迂生は思います(このことも何度も書きました)。近隣の人々だけでなく、この一帯を文化的エリアとして利用する人たちにとっては全く不要の施設です。事業主体がなぜ高層ビルを建てたいのか説明しろという識者もいますが、誰が見てもそれは単にお金儲けのためですから、そんなことを聞いても意味がないと思いますけどね…。

 こんな感じで今年の七月は過ぎて行きそうです。皆さま、お暑いですのでどうかご自愛の上、健やかにお過ごしください。

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   写真 五輪マークと国立競技場(2023年7月撮影)

間がわるい (2023年7月20日)

 こちらはまだ梅雨は明けないのですが、おおかたの公立小中学校は夏休みに入りました。このところせわしない生活をおくっていてこのページに雑感も書けませんでしたが、ちょっと早起きしたのでメモ代わりに書いてみます。

 わが学部の教授会は今もオンラインで開催していて便利でありがたいのですが、きょう、ちょうど教授会が開催されるという時間の少し前に大学の情報処理システム全体がダウンしてしまいました。こりゃ大変だってことで、わざわざ学科長の小泉雅生さん御自らが各研究室のドアを叩いて急きょ対面開催にすることを告げて回りました。いやあ、ご苦労なことです。メールが通じないと意思疎通は究極のアナログとなることを再確認しました。

 で、無事、定足数にも達して教授会が開かれたのですが、審議に必要な資料がNASに格納されていてオンラインでは取り出せないということに気がついて、仕方ないので物理的にそのデータを取り出すまでしばらくお待ちください、となりました。なるほど、そうなるのね…。なんでもかんでもネット環境に依存するといざという時にこういうことになる、ということを再認識しました。まあ当たり前なのですが、普段、ネットが通じているときはそれは空気みたいなものなので、ありがたさを感じることはないですよね。

 教授会では吉川徹学部長(都市計画学者)の差配によって報告事項はほとんど割愛され、あとは資料を見ておいてくれという形で進みますので、時短になってありがたいです。その資料に以下のような内容がひっそりと載っているのに迂生は気がつきました。それは数年前にお辞めになった先生が亡くなって、高額な遺産を本学宛に寄附してくださったというものでした。そんなことがあるのだなあと驚くとともに、そのご遺志に深く感銘を覚えたのです。

 その先生とは学内の委員会等でご一緒したこともあって存じ上げていました。飄々とした感じでかなりユニークなかたという印象がありました。その方は病気のために定年前に退職され、六十代で亡くなったのでした。そういう先生が大学への遺贈をお考えになっていたとは知る由もないことです。ありがたいことです…合掌。

梅雨明けを実感するとき (2023年7月14日 その2)

 今日の午前中もどんよりとした天候でしたが、午後になって授業をする頃になるとうっすらと陽が出てきてだんだんと暑くなっていました。そして夕方になって教室棟を出たときに、ミンミンゼミのかしましく鳴く声が聞こえて来ました。まだ梅雨明け宣言は出ていないみたいですけど、わたくしにとっては梅雨明けを強く感じた出来事でした。これからながい夏がまたやってくるかと思うとちょっと憂鬱ですなあ…。夏を健康体で乗り越えられるように努力したいと思います。

神宮外苑へゆく (2023年7月14日)

 神宮外苑の再開発について先日書きましたが、日本免震構造協会の会合があったので久しぶりに外苑前に出向きました。振り返れば2020年2月末にそこで開かれた会議に出席して以来、パンデミックの災厄が降りかかって会議等が全てオンラインになっていたので、ほぼ三年半ぶりに神宮外苑を訪ねたことになります。

 千駄ヶ谷駅前にある東京体育館(槇文彦先生の設計)の改修工事も終わって構内をもとの通りに通過導線として使えるようになっていました。下の写真の左側が東京体育館で正面が国立競技場(隈研吾設計)ですが、東京体育館のペデストリアンデッキが外苑西通りを超えて国立競技場まで繋がったのが新しくなったところですね。その点は旧国立競技場と違ってアクセスが便利になってよくなったと思います。

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 上の写真はそのオーバーパスの突付きから国立競技場と外苑西通りを撮ったものです。右のガラス面の高層ビルは竹中工務店のインクスです。昔、ここでしゃぶしゃぶパーティを定本照正くんが開いてくれたことは何度か書きました。右側のコンクリート製擁壁の妻面が四分円を描いていますが、この部分はわたくしが高校生の頃からあって、その当時はここが硬式テニスの壁打ちのメッカとして賑わっていました。でも今はご覧のように駐車場になってしまって、その頃の面影はありません。

 ところでこれとは無関係ですが、こうやって国立競技場を歩いているあいだ、空には旅客機がひっきりなしに飛び交っているのに驚きました。多分、羽田空港への着陸ルートが変更になってこの空域を飛べるようになったせいだと思われますが、結構低い高度をそれも二機がかなり接近して飛んでいる光景にも出くわしました、危なくないの?。迂生が高校生だった頃、そしてパンデミック以前にもこの近辺で飛行機を見かけることはありませんでしたから、神宮外苑地区では景観だけでなく環境も悪化しているように感じましたね。

 外苑西通りを表参道方面に向かって歩くと竹山聖さん設計のテラッツァがありますが、そこは写真のように全面に足場が掛けられていてメンテナンス工事中でした。打ち放しコンクリートが綺麗なポストモダニズム建築ですから、そのメンテナンスは多分、結構大変なんだろうなと想像します。化粧直しが終わったらまた来たいと思います。この建物の向かい側に免震構造協会が間借りする建築家協会の建物があって、そこでお仕事して来ました。

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 さてそのお仕事が終わってすっかり夕暮れていましたが、せっかくなのでわが母校まで歩きました。下の写真の左側の植栽モジャモジャのフェンスは都立青山高校、右手の灰色の建物はテピア(槇文彦先生の設計)で、正面には神宮球場が写っています。青高側の歩道の工事をしていました。この日はヤクルト・スワローズの試合があるらしくて大勢の人たちが神宮球場に向かって歩いていました。最後にライトアップされた神宮球場を載せておきます。これを見ると、こんなに趣のある建物を壊して建て替えようっていう計画がいかに説得力がないかが分かると思います。事業主体にはなにを言っても無駄でしょうから、東京都のほうになんとかして欲しいですね。

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 このあと実は、高校の頃の同級生たちとこれもパンデミック以来となる飲み会を開きました。無事に?生き延びた八名が集まって、外苑前で過ごした高校生の頃を懐かしんだのです。それは楽しいひとときでした…。

大学ファンドのゆくえ (2023年7月11日)

 東京は強い日差しがあってべらぼうに暑くなりました。ここだけすでに梅雨明けしていると思いますけど、ダメなんですか?と言ってみる。37度とか38度の気温がフツーになっていますが、よく考えたらこれって異常ですよね。

 さて、約10兆円の大学ファンドについてです。先日、昨年度の運用実績が604億円の赤字になったとの発表が科学技術振興機構からありました。経済に詳しくないので分かりませんが、運用実績が赤字とは元本割れということでしょうか…そうだとすると由々しき事態ですなあ。

 国際卓越研究大学(っていうネーミングもセンス・ゼロでどうだかなあって思うけど…)の選定も進んでいるようで、多分、東大と京大とが選ばれるのでしょうね。そのことには特段の異論はありませんが、ファンドの運用がうまく行かずに今回のように赤字になった場合、選定大学への資金供与はどうなるのでしょうか。元本を取り崩して資金を提供するくらいなら最初からそんなギャンブルはやめて、地道に税金から出せばいいのにって思いますよ、ほんと。

 以前にも書きましたが、大学への投資は未来のよりよい生活に向かっての投資です。それなのにそのための資金源が株式の運用とか投資信託などのギャンブルみたいなものに依存していること自体が胡散臭く思いますし、間違っています。そもそも日本の研究力をかつてのように高めるためには、トップ大学だけを重点的に押し上げてもダメで、幅広く学問の底上げをすることこそが重要であることが多くの研究者から指摘されていて、既にこのページにも書きました。

 始まったばかりの10兆円ファンドを直ぐにやめるというわけにもいかないでしょう。そうであるならば、せめて科研費などの競争的資金の総額を増やし、それをゲットできる研究者の総数を増やして欲しいと痛切に思いますが、いかがでしょうか。とはいえ、市井の皆さんには興味のない話題なんだろうなあ…(本当はそんなことないのだけど)。

おコメにまつわる話し (2023年7月9日)

 日本酒の話しはこのページにときどき書いていますが原料はお米なので、お米にも興味を持つようになりました。もっとも日本酒の造りでは酒造好適米といわれる醸造に適した品種を使うことが多いので、飯米とは種類が異なります。実際、酒米の帝王といわれる山田錦は炊飯して食べても美味しくないらしいです(わたくし自身は山田錦を食べたことはないので、本当のところはどうなのか知らないですけど)。

 さて大学図書館で『ブランド米開発競争 美味いコメ作りの舞台裏』(熊野孝文著、中央公論新社、2021年)を借りて読んでみました。コシヒカリやゆめぴりかといったコメの品種がどれくらいあるのかというと、国が産地品種銘柄として検査対象として認めたものだけでも水稲うるち米で824品種(令和元年産)もあるそうです(お酒用のお米は223種)。毎年、新しい品種が登録されて売りに出されますが、コメの新種を開発するのに約10年、お上の検査を受けて登録し、ブランド米として販売できるまでに約3年かかるので結構な大事業です。

 先ほど「国が産地品種銘柄として検査対象として認め」ると書きましたが、コメの検査・流通・販売にはさまざまな法的な制約があるため、新種の開発は公的な機関が中心になって進められるようです。民間の育種家が参入しようとしてもその障壁は高く、なかなか成功しないそうです。政府の減反政策が長く続いた結果、日本のコメはガラパゴス化して、海外に売りに出そうとしても値段が高過ぎて需要がありません。美味しければ売れる、というのは幻想に過ぎなかったと筆者は言っています。

 なによりも食生活の多様化によって日本人が食べるコメの量は年々減っており、毎年10万トンずつ減少しています。海外で売れるわけでもないので、コメ農家という生業がどんどんと忌避されるようになり、やがて国産のお米を食べられなくなる日が来るかも…。そう考えるとさすがにゾッとするので、わが家では日々お米を食しております、はい。

 ちなみに家庭用精米の売れ筋御三家は新潟コシヒカリ(販売割合10.4%)、秋田あきたこまち(同7.6%)、北海道ななつぼし(同7.5%)だそうで、いずれもコシヒカリ系です。これらは通常は家庭で食べられているお米で、外食や中食で食べられるお米は業務用で品種は違うことが多いみたいです。

 ここでわが家の御三家をあげてみると「ゆめぴりか」、「つや姫」、「新之助」かな。いずれも売れ筋と較べると単価は少し高めでしょうか。でも毎日食べるものなので、美味しいお米を食べたいと思っています。あきたこまちはモチモチ感が少なくてちょっと硬めな食味のせいかわが家では食べなくなりました。「新之助」は新潟コシヒカリの後継品種なので、まあコシヒカリみたいなものかな。「つや姫」は義母が山形県産のものを送ってくれるので食べるようになりましたが、甘みがあって美味しいです。「ゆめぴりか」は炊きたてのモチモチ感がとてもいいですね。

 せっかくなので各種お米の食味チャートを載せようかと思ってネット上で調べました。しかし、お米の銘柄だけでなくその産地やさらに言えば炊き方でも食感や味わいは変わってきます(まあ、当たり前だな)。農協を始め各地の米穀店や炊飯器メーカーがいろいろな食味マップを公表していますが、例えば「つや姫」で全く対極の評価になったマップを見るに及んでこりゃやっぱり無理だわと思って掲載をやめた次第です。

 以前に炊飯の仕方も重要ということを書きました。わが家で十年以上使ってきた炊飯器ですが、上蓋のパッキンのプラスチックがボロボロに劣化し、炊いたご飯がベチャベチャになって来たのでさすがに寿命かと思って買い替えました。これは結構気に入っていたのに残念ですが仕方ないですねえ。今度はタイガーの「炊きたて」にしました。圧力IHで土鍋というのが売りみたいです。最上位機種ではないのですが、ビックカメラで77,000円したのでそれなりにいい方だと思って購入しました。

 ということでそれなりに期待したのですが、炊飯のメニューが以前のものよりも少なかったり(調査不足でした)、何よりも内蓋がペラペラのプラスチック製で相当に安っぽい(これにも気が付かなかった)のが難点です、こりゃもっと早く劣化するかも…。炊飯メニューが少なくてなかなか好みの様態に炊き上がらないのも気にくわないです。土鍋がどれくらい効果的なのかも今のところ不明で、炊き上がりにどのような影響があるのか実感が伴いません。七万円以上するのに…うーん、どうなのかな、認めたくないけどこのチョイスは失敗だったかも。

そろそろ梅雨明け? -学生諸君の就活に思う (2023年7月6日)

 朝方まで降った雨が上がると、空にはきれいな青色が広がって真っ白な入道雲が浮かんでいました。東京はそろそろ梅雨明けかな…という感想を持ちましたが、どうなんでしょうか。日本全国の気象予報を見ると来週もまだ雨が降り続くところが多いみたいなので、梅雨明けはもうちょっと先なのかも知れません。もっとも真夏になれば熱帯化した太陽光線が容赦なく降り注いで不快ですし、梅雨が続けばそれはそれでやっぱり不快なので、じゃあどうすりゃいいんだよっていう感想です。涼しい高原にでも避暑に行ければいいのでしょうが、まあ不可能だな。

 さて学生諸君の就職活動(就活)ですが、その時期はどんどん早くなっているようです。現在の修士課程一年生を対象としたリクルート活動はこの6月くらいから活発化していて、研究室のOBから何件か相談が来ています(大手のゼネコンや組織設計事務所が多い)。まだ夏休み前だというのに、ちょっと早過ぎやしないかと思います。夏休みの体験インターンシップなどに間にあわせるためにはこの時期からタネをまかないといけないということでしょうけど。しかしながら就活が早くなると当該の学生さんはやっぱりソワソワとし出して、落ち着いて研究できる雰囲気ではなくなるのは事実でしょう。

 学部や大学院で何を学び修得したかを最近の企業は重要視するそうです。でもこんなことでは何にも研究しないうちから「あなたの研究成果はなんですか」なんてことをぬけぬけと聞かれることになりそうで、いったいこの人たちは自分がやっていることを理解しているのかと不審に思います。ゆっくり腰を据えて落ち着いて考えることのできる時間を与えて欲しいものと切に思いますが、どうでしょうか。

 あるいは大学院の博士前期課程(修士課程)はすでに学部教育の延長となっていて、(以前のように)最先端の研究活動に携わることは困難ということなのかも知れません。そういう社会の風潮に大学教員がついて行けてないのか…(わたくしだけかも知れませんけど)。でもそうすると誰が研究を推進する主要戦力となるのかな? 少なくともわたくしのような大掛かりな構造実験を行う研究者はひとりでは絶対に無理でして、一緒に作業をしてくれる人たちが不可欠です。それも単なる助手ではなくて(“猫の手”では用を果たせない)、自分自身で適切に判断して実験を準備し遂行する能力を要求されます。それはもう立派な研究行為ですよね。

 世界を見ると日本の科学研究のレベルが明白に低下していることがよく指摘されます。経済界も政界もそのことは十分に知っているはずなのですが、研究に励んで欲しい若者たちをそういう立場に置こうとはしないのはどうしてなのか。現在の日本の凋落は起こるべくして起こっていることと言わざるを得ません。政治家も役人も天下国家を見ずに身の回りの小さいことにしか関心がないことが最たる原因でしょう。青雲の志を奪われている若い人たちがホントに気の毒だと思います。

七月朔日に (2023年7月2日)

 六月晦日のつぎには七月朔日がやって参ります。当然だろうってお思いでしょうが、年齢を重ねるとともにそういう当たり前のことがいとおしくなってくるので不思議です。その日一日を無事に過ごすことができ、次の日もまた目覚めることができて穏やかにかつ健やかにやり過ごすことがとても貴重なことのように思えてきます。若いころには全く懐かなかった感情ですな。

 この週末、駒場の頃の親しかった友人たちと久しぶりに飲み会を開きました。いつものように永世幹事の村上哲さん(JAXA)が音頭をとって場所も決めてくれて九名が集まりました、村上ありがとう。前回はCOVID-19のパンデミックが発生する直前の2020年1月でしたから、この足掛け四年に渡る困難な時期を乗り越えて再会できた僥倖に感謝した次第です(もっとも、この間に黄泉の国に旅立った同級生もいましたが…合掌)。

 さて幹事の村上が各自、近況報告をしろと言うので皆さんの様子を聞きましたが、六十歳定年のひとは既に第二の人生で仕事を続けているし、これから数年後に定年を迎えるひとも働き続けたいと言っているひとがほとんどだったのには少なからず驚きました。もう今すぐにでも辞めたいくらいだよって言ったのは迂生だけでした。だいたいは七十歳くらいまでは働きたいようでした、意欲があってすごいなあ…。もちろん経済的な問題はあるでしょうが、皆さんそれなりのポジションにいるので貧乏しているわけではないと想像します。中には単身赴任して大阪で勤め始めた友人もいて、ホントすごいなあと感心しましたな。

 でも、古い仲間と会って話すととても安心するし、居心地がいいのはなぜでしょうかね。それぞれの出身高校も周知ですし(数えてみたら都立高校三名[国立、青山]、国立大学付属高校一名[筑波大附]、県立高校一名[盛岡一]、私立高校四名[愛光、開成、桐朋、武蔵]でした)、駒場時代から本郷時代にかけては一緒に旅行に行ったり野球したりしましたし、卒業後も互いの結婚式に出席したり等、長い付き合いを続けてきた間柄だからでしょうか。しかし大学に入学してから約一年半の駒場ライフが楽しくてとても印象に残っていたというのがやっぱり大きいみたいです。それぞれがどういうヤツなのかというバック・グラウンドを互いによく知っていて、見栄を張ったり虚飾で取り繕ったりする必要がないのが安心感の基だと思います。

 仕事でのかかわりが全くない、というのも逆にいいのかも知れません。みんながそれぞれやっていることを聞くと新鮮な驚きとか初めて知る事実などがぞろぞろと出て参ります。集まった九名のうちで大学教員が過半数だったので、名物教師とか科研費の話題なんかで盛り上がりました。東大ビッグバン・センター教授の茂山俊和さんは五年間でウン億円!という科研費を取得した経験があって、同級生ながらすごいなあと思いました。もっともウン億円の使い途を聞いてみると必ずしも本人の直接益になったわけではなさそうでして、それはそれで大変そうだなと思ったのも事実ですけど。わたくし自身はいつも基盤研究C(申請額が五百万円未満)にアプライしていまして、三年間で三百万円余というのが身の丈に合っていていいのかもって思いましたね、あははっ。

 ちなみに東大の理学部天文学科の学生定員はたったの十名!でして、茂山曰くそのレベルは年々上がっているそうです。いやあ、レベルの高い大学ではそういうこともあるのかとまたもや驚きました、羨ましい限りですな。もっとも隣の芝生は青いってことかも知れませんけど…。

一年も半分が過ぎ… (2023年6月30日)

 六月晦日を迎えました。毎年書いていることで恐縮ではありますが、もう一年の半分が過ぎ去ったかと思うと心寒く感じることばかりで本当にイヤになっちゃうなあってところです。

 学部三年生を対象とする『鉄筋コンクリート構造』の授業ですが、きょうはいよいよせん断力を受ける鉄筋コンクリート(RC)部材についての話題に入りました。せん断力によってRC部材には斜めのひび割れが入り、曲げモーメントによって在軸に直交するひび割れが入るのですが、そのことを勉強するために、まずは二点載荷の単純梁のせん断力図と曲げモーメント図を学生諸君に描いてもらいました。ところが…

 そういう基礎的な構造力学は一年生と二年生とで完璧にマスターしたはずなのですが、そこで学んだことはすっかり忘れてしまったらしく、そんな簡単な応力図を全く作れないことを知って愕然としました。まあ、今年に限ったことではないのですが、建築構造学の基礎となる知識すら忘れている人たちに、その応用版である鉄筋コンクリート構造を語っても、いったいどんな意味があるのか甚だ疑問に思います。

 学部一年生を対象とした『建築構造力学1』でも、繰り返して説明した内容を全く理解していない学生さんがいたりしてびっくりしたところでした。これは大事だからと言って何度も同じことを(手を替え、品を替えしながら)説明しているのに、どうしてなんだろうって不思議に思います。

 昔から同じようなことを感じてはいましたが、それなりに(教授者たるわたくしが)意欲を持って授業をしてきたと思います。ところが年齢を重ねてきて学生諸君との歳の差が大きくなるにつれて、だんだんとこちらの意欲が減退してきているようで自分自身が訝しいですし(なんでだろう)、こんなことで(学生さんもわたくし自身も)大丈夫かと心配になっているところでございます。

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 ここのところ神宮外苑地区の再開発についての話題が再び取り上げられるようになりました。神宮第二球場の取り壊しが始まり、多数ある高木の伐採もこれから実行に移されようとしているからでしょう。わたくし自身は母校がここにあってその環境の良さをよく知っていることもあり、そのような野蛮な再開発には一貫して反対の立場です(以前にもこのページに書きました)。何よりも経済至上主義がその原動力として如実なところが実にイヤですよね(まあ、どんなことでも経済的なものに結びつくのが資本主義でしょうけど)。

 この場所に神宮外苑が設置されてから約百年が経過して、緑豊かでゆったりとして文化的な魅力ある地域になりました。人びとが苦心して営々と築いてきたそういう環境を破壊するのは本当に簡単なことですよね。なぜそういうことに気がつかないのか、開発者もそれを認可した東京都も適切さを欠いていると言わざるを得ません。

 そうかと言って、この再開発に対する反対の声を坂本龍一さん(故人)や村上春樹さんがあげています(それはそれでありがたいとは思います)が、そのことばかりに注目するのもどうかと思います。有名人が反対しているから反対するっていうような性質のものじゃないと思うのですよね、やっぱり。市井の多くの人たちの声に耳を傾けて、その再開発が本当に必要なのかをもう一度考えて欲しいと切に願います。だって日本の人口は減少しているのですから、なぜそこにわざわざ高層マンションを造らなければならないのでしょうか。伝統ある神宮球場をなぜ建て替えなければならないのでしょうか。そこに合理性は全くありません。

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 写真 神宮外苑のいま(朝日新聞より)中央の神宮球場のすぐ左下がわが母校(薄茶色のグランドとその下の逆「へ」の字形の校舎)左隣のテニスコートがあるのは國學院高校 /左上の白い楕円は新国立競技場(デカすぎるだろ…)


SFの古典に出あう (2023年6月27日)

 このところ梅雨の中休みのようで雨は降らないのですが、どんよりとして蒸し暑い日々が続いています。としのせいでしょうが一時間以上立ったまま授業するのがつらいって愚息に詠嘆したら、座って授業すりゃいいじゃんって言われました。なるほどね、そりゃそうだと思ってここのところは半分くらい座って授業するようになりました。座っているとお腹に力が入らなくて、声も通らないような気がするのですが、心なしか疲れが軽減されるような気もします。どうなんでしょうか…。

 さて、このページでSFの古典を読んだ感想をときどき書いていますが、わたくしにとってはお初となる古典にまたまた出会いました。ジェイムズ・P・ホーガン作の『星を継ぐもの(Inherit The Stars)』(創元SF文庫、1980年5月)です。



 よく読むブログのなかに元証券マンだったかたのサイトがあるのですが(ブルックナーを検索していて見つけました)、そこに話しのつながりからたまたま『星を継ぐもの』が出てきて「月面で五万年前の人間の死体が発見された」という一文があったのです。なんだか知らないけど、それだけで迂生にはビビッと来ましたな。ということですぐにこの文庫本を購入しました。英語の原本は1977年に出版され、日本語訳は1980年に出たようですが、その当時は全く知りませんでした。以来、現在までに104版(2022年5月)も版を重ねていることから、SFの古典的名作として現在まで広く読み継がれていることが分かろうというものです。

 さてその中身ですが、予想に違わずべらぼうに面白くて数日で読了してしまいました。SFではあるのですが、謎解きとしての知的な推理が展開されて、どうなるんだろうという期待感でワクワクさせてくれます。総じてストーリーはよく出来ていると思いますが、謎として残されたものもあって例えばプロローグで登場するチャーリーの相方は「巨人コリエル」なのですが、この「巨人」については何も解明されないまま本書は終わっています。『星を継ぐもの』は三部作の一番目ということなので(また“三部作”が来たぞ!)、この謎は二番目以降の著作で明かされるのかも知れません。

 ところで『星を継ぐもの』というタイトルですが、最後まで読むとその意味するところが分かります。原題の『Inherit The Stars』の最初の Inherit は文字通り「継ぐ」という意味の動詞です。その目的語がStars と複数になっていますから、「星々を継げ」が原題の直訳でしょう。そんな細かいことを言うなよって思うかもしれませんが、それが文字通りそれを意味することが最後まで読むと分かるようになっているのです。とても面白いのでお時間のある方はぜひ、お読みください。

ガウディ展へゆく―東京国立近代美術館の保存と再生 (2023年6月25日)

 わが家の女房どのがガウディ展に行きたいとのたまうので一緒に見に行ってきました。正式名称は下の写真のように「ガウディとサグラダ・ファミリア展」でして、会場は竹橋にある東京国立近代美術館です。ここに行くのは初めてです。朝10時の開館直前に着くとすでにエントランスのピロティ下には結構な人たちが並んでいました、なんでだろう…。美術館好きの家内に聞いてみるとそういうものだそうです、はあ?不思議だなあ。日本人はそんなにガウディが好きなのでしょうか、聞いたことはありませんけど。




 さてこの美術館ですが、竣工は1969年で設計は谷口吉郎さんです(建築家・谷口吉生さんの父上です)。構造は鉄骨鉄筋コンクリート構造で地上4階、地下1階です。新耐震設計法が施行される以前の建物ですから2002年に耐震補強を含めた改修が行われました。免震工法ではなくて耐震壁の増設等の在来工法によって耐震補強したそうですが、増築部分に地震力の多くを負担させる計画としたため、補強部材が外観に現れることを回避したとのことです。すなわち外見上は当初のデザインを保持したわけです。文化的価値のある既存建物を保存して活用するためには好ましいやり方です。

 ところが当美術館のサイトを見たところ、この耐震改修工事によって「竣工時にあった吹抜けは失われました」とありました。あれ?っていう感じです、外観はほぼ保全したけれども内部空間は保存しなかったということでしょうか。ということでこの建物を調べてみました。

 当時の吹抜けの写真が当美術館のサイトに載っていました(写真1)。これは2階から4階の展示室に設けられた吹抜けですが、改修によってそこには床が張られて展示室になりました。当初の図面や写真を見るとこれとは別に、エントランスを入ったすぐそばに1階と2階とをつなぐ吹抜けがあり、そこには特徴的な大階段もありましたが(写真2)、そこも潰されて床スラブが張られてギャラリー・スペースになっていました。


写真1 2階から4階の吹抜け(当初) 東京国立近代美術館のHPより


写真2 1階から2階の吹抜けと大階段(当初) 日本建設業連合会のHPより

 せっかくなので改修前後の1階平面図も載せておきましょう。上が当初で、下が改修後です。当初は入口を入ったらすぐに展示室になっていましたが、改修後にはエントランス・ホールになっていて(写真3)、この部分は大勢のお客さんをゆとりを持ってさばくためには好ましいと言えます。しかしそこを除くと、上下階を結ぶ大階段(写真2)を歩きながら展示品をいろいろな角度から眺められるダイナミズムが失われ、内部空間として明らかにプアになったと考えます。写真1からは中2階から3階へ、そして中3階から4階へと昇る階段が吹抜けに掛かっていることが分かり、展示品を見ながら自然に豊かな空間体験を得られるように工夫されていました。しかし改修後はこの空間も無くなって、展示スペースが増えています。

    1階平面図(当初) 日本建設業連合会のHPより


    1階平面図(改修後) 日本建設業連合会のHPより


   写真3 もとの展示室はエントランス・ホールに

 うーん、どうなんでしょうか…。改修によって建築家が意図した空間の面白さは残念ながら失われました。できればそうしたくはなかったのでしょうが、現代の美術館として要求される機能を納めるためには吹抜けを潰して増床せざるを得なかったということみたいです。当美術館の運営者も改修に携わった建築関係者も内部空間の特徴が失われたことの無念は抱いていたようなので、谷口吉郎さんの建築を残す上では苦渋の決断だったということですかね。

 文化的価値のある既存建物の保存と再生とを考える上でなかなかに考えさせられる事例だと思いましたので、この一文をしたためた次第です。あれっ?ガウディの話しは…、まあそれはまたの機会にということで。そうそう、ガウディ展は1階の企画展ギャラリーで開かれていますが、平面図を見ても分かるようにここには休憩スペースがありませんし、目休めのために外を眺められる窓もありません。古い美術館だから仕方がないとそのときは思っていましたが、改修したのだからそういうところも居心地よくしてくれたらよかったのに…。

日建連のサイト;
当初
https://www.nikkenren.com/kenchiku/pdf/134/0134.pdf
改修後
https://www.nikkenren.com/kenchiku/pdf/734/0734.pdf

沖縄の日 (2023年6月23日)

 きょうは太平洋戦争での沖縄戦において旧日本軍の組織的な抵抗が終わったとされる日で、沖縄慰霊の日とされています。ただこのことは折に触れて書いていますが、この日に沖縄での戦闘がピタッと終わったわけではなくて、沖縄の各地に潜伏した日本軍兵士達が八月の終戦に到るまで沖縄県民を巻き込んだまま戦い続けたことを忘れてはなりません。

 帝国主義の亡霊のようなロシアによるウクライナ戦争は止む気配がなく、世界中が不安定な状況に陥っています。自分たちの自由と民主主義とを世界標準にしようとするアングロ・サクソンのやり方に強烈なノーが突きつけられているわけで、そのこと自体は理解できます。しかし、暴力によって自身の主張を遂げようとするのはスマートじゃないですよね。なんにせよ戦争で解決しようというやり方には全く共感を得られません。なんとかしろよP大統領…って世界中が思っているでしょう。

 先の沖縄戦では沖縄の市民二十万人以上が亡くなったそうです。今なお土の中に眠ったままでいるご遺骨も多いです。沖縄での米軍基地の問題は解決できないままに今日に至っています。日本が米国の核の傘の下にいる限りにおいて、沖縄県の皆さんの苦難は終わらないと考えられます。そうであるならば、日本はG7の一員とか言われていい気になるのはやめにして、そろそろ自主独立の体制を作ってはどうかと思いますが如何でしょうか。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:北山家沖縄旅行2004:IMG_0032.JPG
写真 沖縄県平和祈念資料館の庭に置かれている旧日本海軍の酸素魚雷(の残骸)2004年撮影


夏至に思う
 (2023年6月21日)

 きょうは夏至です。一年で一番昼間が長いということですが、きょうは薄曇りの天気でそれほど蒸し暑くもなく、まずまずのお日柄でしょうか。

 さてCOVID-19のニュースはとんと聞かなくなりましたが、どうなんでしょうかね。ソレが突然に消えて無くなるはずもなく、今もそこここにウヨウヨと存在しているでしょう。実際、電車ではマスクをしている人たちは相変わらず多いですし、皆さんが個々人の判断で対応を決めているように思います。

 どうやら、わが建築学科の学生諸氏のあいだではそのクラスターが発生したらしく、教室会議でそのことがひとしきり議論されました。2020年当初のような劇症が現れることは少なくなり症状も軽減傾向にあるとのことですが感染力は相変わらずに強くて、感染すればやっぱりつらいでしょうし、周辺の人たちは濃厚接触者(これも最近、聞かなくなりましたけど…)として責任ある行動をとることが求められます。

 「三密」はやっぱり危ないということが今回の事例でも明らかになりました。手洗いをしっかりして、三密にならないように気をつけて活動したいと思います。ただ、世間は急速に通常モードに移行していて、わたくしの身の回りでも開放感に浸りたい人たちが久々の飲み会を計画してくれています。それはそれで楽しみなのですが(何と言っても三年以上逼塞生活を強いられましたから)、この年齢で感染したらそれ相応に大変でしょうから、なんだかなあって思いますよね、やっぱり。

児童文学というけれど ―『第九軍団のワシ』を読む(2023年6月14日)

 ローマ時代初期の皇帝だったマルクス・アウレリウス・アントニヌスについての書籍を今年の初めに読んで以来、ローマ帝国に関連する本を読みあさっています。広大なローマ帝国はどのように発展してやがて衰退して行ったのか、そしてその牽引役だったローマ皇帝はどのような人たちで、ローマ帝国軍とはどのような組織だったのかに興味が尽きません。

 先日は『軍と兵士のローマ帝国』(井上文則著、岩波新書1967、2023年3月)を図書館から借りて読んだのですが、そこに『第九軍団のワシ』のことが書かれていました。この小説はいわゆる児童文学らしいです。そうしてわたくしの手元にその本があったことに思い至りました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:第九軍団のワシ20230613:IMG_1934.JPG

 そこで本棚を探すと紙ケース入りでハード・カヴァーの『第九軍団のワシ』(岩波書店)を見つけました。著者はローズマリー・サトクリフで、翻訳者は猪熊葉子さんです。確かに「小学6年、中学以上」と書いてありますし、漢字にはふりがなが振ってあります。手元にあるこの本は1972年発行の初版本だったので、迂生が小学校高学年くらいのときに父か母が買ってきたのだろうと思います。値段は850円でしたが、これは当時としては高かったのではないでしょうか(当時のわが家は貧乏でしたから)。ということでこの本はわたくしが小さかった頃からずーっと本棚にあったわけですが、読んだ記憶はありません。両親がなぜこの本を買ってきたのか、その理由も今となっては永遠に分かりません。

 ローマ帝国ものにハマったこの時期に生まれて初めて『第九軍団のワシ』に興味を持ちましたので、せっかくなのでこの年齢になって読んでみました。ザクッと書くと、当時のローマ帝国の辺境だったブリテン島の北部で反乱が起こり、その鎮圧に向かったローマ軍の第九軍団が忽然と消息を絶ち、行方不明になりました。それから約1800年後に第九軍団の軍旗に取り付けられていた黄金のワシがブリテン島南部で発掘された、という史実に基づいた謎解きの物語です。このあらすじは上述の『軍と兵士のローマ帝国』のなかに書かれていたわけですが、それだけで今の迂生にとっては十分に興味をそそる内容だったのです。

 ということで『第九軍団のワシ』を読みましたが、結論から言えばべらぼうに面白くて物語のなかにどんどん引き込まれ、手に汗握る体験を味わうことができました。描写は簡潔なのですが、その情景がありありと脳裏に浮かんで来て、一行一行を読み進むのがとても楽しかったです。日本語訳も上手なんだろうと思います。読み進んで物語の終盤に差し掛かる頃には、ああ、もう少しで終わってしまうなあという残念な気持ちでいっぱいになりました。考えてみると小説を読んでこんな気分に浸るのは久しぶりです。

 これは大人が読んでも十分に楽しめる小説です。いや、むしろローマ帝国やローマ軍団についての知識が多少ともある大人でないと、この小説の内容を理解するのはきっと難しいでしょう。戦車と言われても、映画『ベン・ハー』などで実物を見たことがないと、ローマ時代の二頭立てや四頭立てのお馬さんが引く乗り物を子供は想像できないだろうと思います。

 この本を読んでよかった、という清々しい読後感で今、わたくしは満たされています、素晴らしい小説です。ところどころにある挿絵が物語の楽しさをさらに増してくれます。挿絵があるのはやっぱり児童書だからでしょうか。それにしても手元にやって来てから読まれるのに半世紀もかかったというのも、なかなかすごい話しではありますなあ…。

 ローマ帝国の時代の物語なので舞台はイタリアあたりにするのがフツーかと思うのですがそうではなく、当時としては辺境の地と見なされた属州ブリタンニア(ブリテン島、現在の英国南部)が主要な舞台に設定されているのが特徴です。イタリアが明るい陽光の地であるのに対して、ブリテン島は常に灰色に曇っていたり霧が覆ったりする地であり(現在のロンドンを想像してください)、その陰鬱感がこの物語の通奏低音を構成しています。消えた第九軍団の史実を下敷きにしているとはいえ、ローマ帝国の北の辺境を舞台としたのはやっぱり著者サトクリフの慧眼だったと言えるでしょうね。

 ちなみに『第九軍団のワシ』は三部作の第一番作と目されているそうで、さらに二作品の本がこれに続いていることを知りました。ということでこれから追い追い、その二作も読もうと思っています。幸いにもこの三部作は現在でも岩波少年文庫で読むことが可能です。二作目は既に手元にあって(先日買いました)、これから読まれるのを待っているところです。これを読むのはまた半世紀後、なんてことはさすがにないと思います、あははっ(それじゃもう死んでるからな)。

はだに合わない (2023年6月11日)

 梅雨らしくどんよりとして蒸し暑い日々が続いております。気温はそんなに高くないので本学では教室の冷房を入れてくれないのですが、結構蒸し暑くて不快に感じます。そんなとき、教室にあるエアコン操作盤のスイッチを押したりしてみるのですが、そこには「中央監視による遠隔操作」のようなシールが貼られていて当然ながらスイッチは入りません。チェッ、使えね〜なあとか悪態をつきながらそこから離れるのでした…。

 さて皆さんにははだに合わない本ってあるでしょうか。わたくしは日々、図書館に出入りして見知らぬ書籍を借りて読みあさり、その結果として望外の収穫を得たりすることもあるのですが、先日は大江健三郎の『万延元年のフットボール』という有名な本を手にとりました。言わずと知れたノーベル文学賞受賞者で日本を代表する小説家・思索家ですよね。ただ、わたくしは彼の著作は高校生の頃に『セブンティーン』や『性的人間』などという若者が興味を持ちそうな小説しか読んだことはなく、ここらでいっちょうちゃんとした小説も読んでみるかなと思ったのです。

 そして読み始めたのですが、数枚読んだところでこりゃダメだと思って放り出し、それから二ヶ月間全く読み進みませんでした(そうして敢えなく返却)。文体というか語り口というか、それが全く迂生のはだに合わなかったんですねえ。いくら有名でも、読んで興味を持てず、また読もうという意欲の湧かない本はどうしようもありません。

 若いときならいざ知らず、この期に及んでは(人生の時間は有限ですから)苦行のようにしてまでそういう本を読もうとは思いません。さっさとポイして、楽しめる本を探そうと思います。そういう本たちはいくらでも図書館で待っているはずですから。

 そう思い直して次に借りたのが庄野潤三の『ザボンの花』です。原本は1956年の出版ですから、わたくしが生まれるかなり前に書かれたことになります。庄野潤三の小説は初めて読んだように思います。ザボンと言えば北原白秋がすぐに思い浮かびますが、そのタイトルだけで手に取ったようなものです。ただ結論を言えば、ザボンはこの小説の最後にちょっとだけ現れるだけで、この小説の全体の流れとはほとんど無関係でしたけど。

 『ザボンの花』ではサラリーマンの夫婦とその子供たちの合計五人が大阪から東京郊外の一軒家に引っ越して、そこでの春から夏の終わりまでのたわいのない日常が淡々と描かれます。随分と牧歌的ですし、事件らしい事件もありません。ただ、そういう何気ない日常にこそ幸せは隠れていることに気付かされますし、ところどころに人生の本質みたいなことも書かれていて、そういうところではハッとさせられました。

 なによりもその文章には難しい用語や漢字は全く使われずに読みやすく、文体もすんなりとわたくしの内側に入ってくるものでした。そういう意味ではわたくしのはだに合った本でした。ただ、面白いかと問われれば、うーん、どうでしょうかね…。

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(告知)このサイトのURLの変更 (2023年6月5日)

 六月になってそろそろ梅雨入りかなという塩梅になって来ましたね。でも、昨年は五月中に梅雨入りしたので、今年は平年並みに戻ったということでしょうか。

 さて、本学の情報システムの切り替えにともなって、このページのサーバも移行することになりました。今までは学内のサーバを使っていたのですが、今後はさくらインターネット株式会社のレンタルサーバを使うそうです。ホント、面倒くさいです。新しいURLは以下となります。お付き合いいただける奇特なお方にはよろしくお願いを申し上げます。

https://kitayama-lab.fpark.tmu.ac.jp/

 既にこの新しいサイトは稼働しています。現在使用中の大学のサーバがいつまで稼働するのか今のところ未定のようです(相変わらず本学の情報システムは混乱が続いているみたいです)。大学側でこのページのデータを新サイトに全て移植してくれるとよかったのですが、どういうわけか5月7日までの分しかコピーされていませんでした。ということで、それ以降の更新分については手動でファイル等を追加でアップしないといけません。ところが、わたくしの使っているDreamweaverというソフトウエアでは、この新しいサイトにFTP接続できないんですよ、困ったなあ〜。ホント、面倒くさい…。

 ということで新サイトの更新は今のところ、すごく面倒くさい方法でしかできませんので、滞ることになろうかと思います。まあ、仕方ないですね…。大学側の担当者に相談しているところです。

 追伸;情報処理施設の担当者の御教示のおかげで、Dreamweaverから新しいサイトに接続できるようになりました。よって、今後はこの新しいサイトで情報を発信して参ります。

スライドの時代(その2) (2023年6月4日)

 ひと月ほど前に紹介した占領期日本(Occupied Japan)のカラー写真の続きを書こうと思います。そのときに紹介した「Gerald and Rella Warner Japan Slides」(こちら)から気になったスライドを取り上げます。少しおさらいすると、撮影者のジェラルド・ワーナーはGHQ外交局の幹部で1950年まで勤務し、翌年まで日本に滞在しました。彼と妻・レラのスライド等のコレクション(567枚)はラファイエット大学スキルマン図書館が所蔵して公開しています。

 わたくしはこれでも建築屋なので、その当時の日本の建物や都市にはそれなりに興味を覚えます。さらに言えば専門は鉄筋コンクリート(RC)構造なのでRCの建物にはすぐに目が行ってしまいます。そういう専門家のお眼鏡にかなった?のが「丘の上のペリーアパート」と題された下の写真でした。1961年11月23日の撮影ですから今から六十年以上も昔の東京が写っていることになります。1961年11月の東京をカラー写真で見た記憶はありませんので、まだこんなにアメリカ色が濃かったのかと感慨もひとしおでございます。

 余談ですが、黒澤明監督の作品に『天国と地獄』という白黒映画(1963[昭和38]年)があるのですが、ある重要な場面で丘の上に建つ建物から煙が立ち昇る場面だけがカラーになる、というのがありました。ワーナーのこのカラー写真を見て、その屹立した建物のシーンを思い出したのですよね、人間の思考回路って面白いなあ…。



 さて上の写真ですが、ホワイトウォール・タイヤを履いた黒いアメ車が手前に写っています。画面右手の「999」の屋上看板のある建物には「Restaurant MANILA」とあります。フィリピンのマニラのことでしょうか。この建物の前にもアメ車が停まっていますので、アメリカ人向けのレストランだったのかも知れません。この写真はヒルトップから撮ったらしく、真ん中の舗装道路は画面奥に向かってすぐにくだって行くように見えます。そしてこの道の先にある谷を超えるとまた台地になるようで、その頂上に二棟の建物が建っています。それはどうやら鉄筋コンクリート構造のようです。この二棟が丘の頂上に屹立しているように見えるので、とても気になりました。なんの建物なんだろうか…。また、ここはどこなんだろうか、という疑問が湧き上がって参ります。

 そこでこの写真を拡大してよく見てみました。解像度のすごく高い写真なのでどんどん拡大してゆきます。すると、左の電柱の濃紺の看板に「港区麻布三河台町[みかわだいまち] 四番地」とあるのを見つけました。かつての麻布三河台町は六本木通り沿いにあり、現在は旧防衛庁跡地に東京ミッドタウンなどが建っているところです。現在の東京都港区六本木3丁目から4丁目の一部に相当することが分かりました。

 さらにワーナーのコレクションを探すとこの台地上の建物を写した写真が三枚あって、その正体はペリーアパート(Perry Apartments)というRC6階建ての二棟のアパートメント・ハウスでした。他のスライドの記録を見るとこのアパート二棟が建設されたのは1953年(昭和28年)のようで、この時期にはすでに日本占領(1952年4月末まで)は終わっています。ということはペリーアパートは占領行政者向けの住宅ではないということになりますが、写真にはワーナーの妻リラも写っていますしアメ車も写っているので、どうみてもアメリカ人向けだったように思えます。





 うえの真ん中の写真はアパートの屋上から他のひと棟を写したものですが、その奥にうっすらと国会議事堂の姿が見えます。ということで冒頭の写真が東京ミッドタウンあたりからペリーアパートを撮影していて、その屋上から国会議事堂が見える、という位置関係が分かりました。すなわち、六本木の東京ミッドタウンから北東方向にある国会議事堂までのあいだのどこかの台地上にペリーアパートが建っていたことになりますが、具体の位置は解明できませんでした(ネット上にはペリーアパートの情報が全くないからです)。

 冒頭の写真ではペリーアパートの二棟が並んで建っているように見えましたが、上の写真からこの二棟は雁行して建っていることが分かります。それも敷地にはかなりの余裕があって、都内の一等地でこれだけの特権的な土地の使い方ができるということから、やっぱり米軍関係の建物のように思えます。

 建物の周辺には残土が盛り上がり、型枠とみられる廃材が置かれていることから竣工直後のように思われます。鉄筋コンクリート6階建てでその屋上にはペントハウスがありますね。妻面(建物の端っこの面のことです)のRC壁に型枠の痕が明瞭に残っていることからコンクリート打ち放しのようですが、その仕上げはとても丁寧で綺麗です。きっと日本人の大工さんたちが一所懸命に仕事をしたのでしょう。一番下の写真で、右側の建物では奇数階のバルコニーは右面に、偶数階のそれは左面に設置されていることから、このアパートの住居はメゾネット・タイプだったのかも知れません。そうだとすれば当時としてはやはり贅沢ですよね。

 ということで冒頭の1961年撮影の写真に戻ると、日本占領の終了から約十年が経過していますが、占領行政用?のペリーアパートはまだ残っていたということになります。プラン(平面図のこと)こそ分からないのですがこんなに立派なアパートがどのような運命を辿ったのかとても興味があるところです。しかしそれは今のところ謎のままです。

お金の価値 (2023年6月1日)

 六月朔日になりました。ちょっと蒸し暑いですな。この朝、駅前で明治大学のT先生にばったり出会いました。すでに定年退職されて数年が経っているそうですが、今も大学で実験をしているそうです。すごいなあ、熱情があるんだなあと感心いたしました。わたくし自身は多分、そんなことはないだろうと推量しますけど、あははっ。

 さて、わたくしはお金の話しは滅多にしない(というか、このページで書いたことあったかな?)のですが、今朝、南大沢の駅前で昼食用のパンを買ったとき、ポイントカードのハンコが溜まったので百円引きですと言われて、すごく嬉しかったです。その結果、今朝のパン代は四百円余でした。まあ、何ていうこともない他愛ない生活上の一コマではあります。

 ところが、例えば十年に一度くらい、うん百万円の車を買うときには一万円や二万円まけてくれたくらいではちっとも嬉しくありません。もっと色をつけてくれよなってセールスマン相手にゴリゴリ交渉するわけです(余計な話しでした)。でも、これってどういうメカニズムなんでしょうか。金額だけ較べたら百円よりも一万円のほうが遥かに価値がありますよね(当たり前だな)。それなのに感覚としては百円のほうが嬉しいわけです。こういうのを精神科学?とか何かの学問で説明できるのだろうか…。まあ、このページを読んでくださるのは多くが理系の方々でしょうから答えは期待していませんけど、ちょっと不思議だったので書いてみました。

海風のなかで (2023年5月28日/31日)

 (以下は5月28日に書いております。)大相撲は横綱・照ノ富士が14勝1敗で優勝しましたね。四場所も休場して大丈夫かなと思いました。実際、初日の正代戦ではいきなり土俵際まで押し込まれて見るからに危なかったです。でも、それ以降は徐々に土俵の感覚を思い出したようで勝ち星を続けました。ただ両膝のテーピングは痛々しくて、それほど長くは相撲を取れないだろうなと思わされます。幸いというか、関脇陣が充実していて霧馬山は来場所に大関になるだろうし、そのほかも数人は大関に上がりそうな予感です。

 さて薄曇りのこの日、久しぶりに横浜に出かけました。子供が小さいころにはアンパンマン・ミュージアム、帆船日本丸、三菱科学技術館、ランドマーク・タワーなどによく出かけましたが、最近はご無沙汰でした。今回は鉄筋コンクリート構造系研究室の親睦バーベキュー大会というのにお声がけいただき、わが社の学生六名と一緒に参加しました。

 東大地震研究所の楠浩一教授の研究室が音頭取りで(幹事長を務めてくれたアンさん、ご苦労さま)、東大生産技術研究所・中埜研、横浜国大・杉本研、芝浦工大・隈澤研と椛山研、都立大・壁谷澤寿一研とわが社です。総勢54名が参加したのですが、結構壮観でした。会場は新港埠頭と赤レンガ倉庫とのあいだの海っぺりにあるBBQ場でしたが、みなとみらい駅からは歩いて十五分くらいあって結構歩きました。

 わたくしにとっては旧知の先生がたばかりで気を使う必要もなく楽しいひとときで、制限時間の三時間があっという間に過ぎて行きました。ただ先輩の塩原等さんや同級の中埜良昭さんは残念ながら欠席で、わたくしと隈澤さんとが最年長になってしまいました。自分自身が若手だった三十数年前を思い出すと、年配の先生たちはみな大先輩ですからいずれも功成り名を遂げた偉大なひとだと思ったものでした。ところがいざその年齢に自分が立ってみると甚だ心もとない限りでして、わたくし自身は大した業績もありませんから後輩たちはどう思っているのだろうかと一抹の不安も覚えました…。

 この四年間はCOVID-19のせいで逼塞した生活をおくってきましたので、リアルでは四年ぶりにお会いするひともいました。それでもオンラインの会議等ではしょっちゅう会っていたので、ご無沙汰っていう感じではないですよね。ただオンラインでは雑談はほとんどできないし、多少の機微に触れる話題はもちろんしませんからやっぱり直接会って談話することの楽しさとか必要性を改めて認識いたしました。

 ちなみにわが社の学生諸君とはほとんど話しをしませんでしたが、それはまあ良しとしましょう。ただ、よその大学の学生さんとも会話する時間がほとんど取れなかったのは残念です。まあ、勝手知ったる同門の知人たちと旧交を温めることで終わってしまった、というところです。そんなわけでおしゃべりに夢中になっていて写真を撮るのを忘れちゃいました、あははっ。

まだ増える大学 (2023年5月29日)

 曇り空です。どんよりしていて(空もわたくしの心情も…)蒸し暑いですね。さて今朝の朝日新聞一面にこの四月に公立大学が100校を超えたという記事がありました。なんでも定員割れになって経営危機にある私立大学が公立化されているそうです。本来、退場すべき私立大学が公費によって延命されているとの批判もあるそうです。またそこに載っていたグラフを見ると、日本全体の大学数も増え続けていて現在は807校もあるそうです。

 これってどうなんでしょうかね。少子化のせいで18歳人口もどんどん減りますが、大学進学率は上がり続けているらしく、また介護や医療福祉関係の人材を地元で養成したい地方自治体の思惑もあって公立大学化が進んでいるそうです。とはいえ私立大学の48%は定員割れしているので、大学の二極化が進んでいるとも言えそうです。具体に言えば、都市部の有名で巨大な一部の大学に学生が集中して、そういうところでは入試による競争が機能していますが、それ以外の中小大学や地方大学では学生集めに苦戦しているということでしょう。

 大学を選ぶのは高校生諸君です。そういう受験生から選ばれないとすると、必然的にその大学は運営できなくなりますよね。まあ有り体に言えば、若者がどんどん減ってゆく日本においてそんなに大学はいらない、ということです。かく言うわたくしの所属する大学も公立大学ですが、とにかく高校生諸君に選んでもらえるように努力を続けることは大切であると考えます。東大や早慶など、黙っていても学生が集まる大学とは所詮、違いますからね。おっと早慶だって日本全国に付属や係属の学校を設置していて学生集めはおさおさ怠りなくやっていることを忘れていました。やっぱり、今の世のなか甘くないってことでしょうか。

宇都宮へゆく (2023年5月25日)

 先日、とても寒くなった一日のことですが、久しぶりに宇都宮に行って参りました。2011年の東北地方太平洋沖地震のときに宇都宮市や市貝町などの学校建物の被害調査に行ったとき以来でしょうか。三十数年前に宇都宮に住んでいたときから宇都宮駅の東口は寂れていて、タクシー乗り場しかありませんでした。夜、都心での会議を終えて新幹線で宇都宮に戻ってきて東口に向かうと、そこにはもうほとんど人はいないといううら寂しい様相でした。

 ところが宇都宮駅東口から東に向かう路面電車(先進システムの次世代型でしてLRTと呼ばれます)が敷設されたことから東口の開発が急激に進んだらしく、東口の佇まいは一変しておりました、もうびっくりですよ。したの写真はLRTの始発駅です。手前の線路が錆びていますね。本来は2023年3月に開業予定だったそうですが、道路の渋滞対策が終わらないということでこの8月に延期されました。カッコいい車両を見られなくて残念です(そのあと、試運転の三両編成が通るのを偶然見かけましたが)。

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 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ関東支部総会_ライトキューブ宇都宮20230523:IMG_1879.JPG

 さらにデッキ上を進むとうえの写真の建物がありました。ライトキューブ宇都宮という公共施設でして、隈研吾さんの設計です。彼にしてはおとなしい外観だな…。この日は日本建築学会関東支部の総会がこの建物で開催されるんですね。昨年のこの時期から迂生は関東支部の代表を務めていまして、総会では挨拶や議事進行のお役目があります。

 思い返すと三十数年前、わたくしが宇都宮大学工学部に助手として赴任したその年にこの同じ関東支部総会が宇都宮で開かれました。そのときの関東支部長はなんと青山博之先生でした。師匠がわざわざ宇都宮までお出でになるということで、わたくしは運転手として青山先生のカバン持ちをいたしました。でもまさか自分がそのときの師匠と同じ立場で思い出深い宇都宮を再訪するとは思ってもいませんでしたので、結構、感慨深いものがありましたな。

 総会が終わった夕方、この思い出を懇親会の際の挨拶でお話しすると、隣に座っておいでだった栃木県知事・福田富一さんが「それじゃあ、北山先生お帰りなさい、ですね」と仰ってくださいました。ちなみにこの懇親会ですが、場所を替えて結婚式場のホールで開かれたのですが、それがなんと着席形式でした。思い返すとCOVID-19蔓延のこの四年間は宴会そのものに出たことがありませんでしたので、ホント久しぶりでした。

 で指定された席に座ると、右隣は上述の県知事さんで左隣は宇都宮市副市長の東智徳さんでした、あちゃーまたすごいところに座らされたもんだなあ〜、というのが最初の感想です。この日、LRTの講演会の講師を務めてくださった早稲田大学教授(土木・都市計画分野)の森本章倫先生が同じテーブルでしたが、もちろん初対面です。ということで最初はビビりましたが、県知事さんは政治家だけあってさすがに如才なく話してくれましたし、そもそも多忙の身ですから乾杯が終わるとそそくさと次の宴席に向かわれました、大変そうだな…。副市長さんは国交省からの出向ということで、エリート役人らしく当たり障りのない話しをしてくださってよかったです。

 で、県知事さんの言によると栃木県では最初の乾杯は日本酒でやるように条例で定められているそうで(真偽のほどは不明ですけど、あははっ)、この日は迂生にとっては思い出深い惣誉[そうほまれ]酒造のお酒が供されたのは嬉しかったですね。前述のように2011年に地震被害を受けた学校建物の調査のために市貝町に出向いたのですが、その際に町長の入野正明さんからお土産としていただいたのが同町に酒蔵がある惣誉のお酒でした。この酒蔵のお酒はきもと造りなので華やかさはそれほどないのですが、味わいは深くて食中酒としては結構美味しいです。その後、被害建物の調査等で市貝町を数回訪問したのですが、そのたびに入野町長さんは歓迎してくださってお土産に惣誉のお酒を持たせてくださいました。

 こんな感じでいろいろな思い出が蘇ってきた宇都宮再訪でした。本当は市貝町にも行きたかったのですが、それにはやっぱり車がないと不便なのでこの日は諦めました。そのうちまた惣誉のお酒を飲みに行きたいと思います。

 なお、総会の前の講演会では早大・森本先生(前職は宇都宮大学教授)が宇都宮のまちにLRTが出来上がるまでの苦労譚を熱弁してくださってとても面白かったのですが、政治にもかかわることからいろいろと機微に触れる事柄もあるとのことで、ここで聞いたことは門外不出にしてくれと言われたので、何も書きません。まあわたくしも大学教員なので人前で話すときには口から先に生まれてきたかのようにペラペラと話すことも多いのですが、森本先生はそれに輪をかけたかのような滑らかな語り振りでほぼ90分間飽きることなくお話しを伺いました、なかなかすごい人でした。

哲学の香りを嗅ぐ (2023年5月20日)

 大昔、テレビで「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか、ニ、ニ、ニーチェかサルトルか、み〜んな悩んで大きくなった」という(確か)ウィスキーのCMをやっていたのは野坂昭如だったかな。よく憶えていませんが、一般大衆にとって有名な哲学者がここにあがっていたように思います。そうではありますが不勉強な迂生は、この四人の著作は全く読んだことがないことをここに告白いたします。さらに言えば読んでみたいと思ったことすらないことを重ねて白状します(って誰に?)。

 かように哲学とは無縁のわたくしですが、この五月の連休明けにいつものようにふらっと立ち寄った図書館の新刊コーナーにその文庫本は置かれていました。プラトンが著した「ゴルギアス」(三嶋輝夫訳、講談社学術文庫、2023年4月)です。とは言っても最初に目に入ったのは表紙にあった廃墟のギリシヤ神殿で、その次にタイトルのゴルギアスという文字が来ました。あれ?ゴルギアスって誰だろう…。

 

 それに興味を引かれて手に取ると、文庫の帯に「初期対話篇の傑作、練達の訳者による堂々の新訳!」とありました。なるほど、古代の哲学書とはいえ21世紀の専門家が日本語に訳したのならば読みやすいだろうと思い、パラパラと見てみるとソクラテスと誰かとの会話の形式になっていました。ふーん、じゃあ読んでみるかということで借りることにしたのです。全くの偶然で気まぐれのなせる技ですな。

 借りてすぐに電車のなかで読み始めたのですが、活字もそれなりに大きく、使われている日本語も平易で読みやすいことからすぐに引き込まれました。ということでほとんどは電車内読書で読み終わり、いまこれを書いています。で確かに会話は平易なのですが、その意味するところは結構複雑でして、注意深く読まないと論理が分からないところが結構ありました。また例え話も多いのですが、それが何をなぞらえているのか分からないところもあって、やっぱり哲学って難しそうだなというのが率直な感想です。善、快、美、不正、悪などの概念が頻出しますが、それらが何を意味しているのか厳密には定義されていないように思います。それゆえ「快いもの」と「善いもの」とは別のものであるってソクラテスに言われても、はあ?何ですかそれ、っていう感じで共感できません。

 この著作はソクラテスとゴルギアス、ポロスおよびカリクレスとの討論の形式で書かれています。討論相手のポロスやカリクレスがソクラテスに向かって詭弁だとか揚げ足取りだとかしょっちゅう言っているように、ソクラテスが誘導尋問のようなやり方で討論を進めています。そのやり方ってフェアじゃないと思うのですが…。またソクラテスがある一つの例をあげてそれがさも全体を表すかのように論を進めるところが多いのですが、一つの例が普遍的な事柄に通じるなんてことがあるのでしょうか、疑問に思います。総じてこの当時(紀元前5世紀頃)の弁論術ってこうだったのだろうかという疑念が湧き起こりました。

 提起された命題に対してソクラテスが相手を論駁して屈服させて自説を納得させる、というのがこの書の形式になっていますが、そもそもそんなことをして何が楽しいのでしょうか。他人の信念をそんなに簡単に翻させることができるとその当時の哲学者たちが考えていたとすると、人間の存在に対する認識が甘いと言わざるを得ないと考えます。それとも二千五百年以上の歳月をかけて人間の思考もまた進化してきた、ということでしょうか。

 こんな感じで分からないことだらけなのですが、この時代の論争とはこういうものだったのかも知れず、そういう点ではとても興味深かったです。日本語として読みやすい新訳を出してくださった三嶋輝夫さんという方にも御礼を言いたいと思います。

 ところで、ゴルギアスって何者だったのでしょうか。それについては結局のところ、確たることは何も書かれていませんでした。そもそもプラトンがこの書名をなぜ「ゴルギアス」にしたのかも分かりませんでした。紀元前五世紀ころにはゴルギアスと言えばそれだけである属性が周囲に通じたのかも知れません。

 どうでもいいことですけどソクラテスは70歳そしてプラトンは80歳まで生きました。そしてゴルギアスに至ってはなんと100歳以上生きたという説があるそうです。この頃の平均寿命がどのくらいだったのか知りませんが、いずれにせよ長命ですよね。このことからギリシア時代の哲学者は長生きだっていう命題を掲げたらソクラテスはなんと言って論駁するのでしょうか、なんてね。

急に暑くなる (2023年5月18日)

 まだ五月の半ばなのに急に暑くなりましたね。大学当局からは、教室の冷房は六月までは物理的に運転不可能で(点検や暖房運転から冷房運転に変換するための整備などが必要、というのがその理由)、冷房運転の原則は七月に入ってからというお達しがメールで来ました。六月になれば物理的には運転が可能になるようですが、どうしても冷房が必要な教室は個別に連絡するように、ということでした。

 なんだかなあって毎年思うんですよね。口では学生さんが大事とか言っておきながら、快適に勉強できる環境の保持には無頓着なのですから。また、そういう劣悪な環境で講義をする教員の労働環境についても配慮されてはおりません。地球環境の変化によって高温になる時季が早くなっているのは明らかですから、それに対応するように準備することくらい、そろそろできるんじゃないでしょうか。わが大学は公立大学ですから、そういうところにまだお役所感覚がはびこっているように感じます。暑いときには冷房を寒いときには暖房をストレスなく使用できるようにしてください。

 こんな夏の陽気ですが、わが家の愚息は高校の行事でバーベキューに出かけました。COVID-19の蔓延のせいで修学旅行などの学外学習がことごとく中止になった世代ですので、日帰りのこういう行事で親睦を図るそうです。で、ヤツの学校では各クラスが好きなことをどこでやってもよいことになっていて(驚くほど自由なんですね)、愚息のクラスは東京・豊洲のバーベキュー場でやるそうです。最初はディズニーランドに行くことにしたそうですが、そのことを担任の先生に言ったところ「僕は入らないで門の前で待っているよ」と仰ったそうで、それじゃあ先生が可哀想なのでバーベキューに変更したそうです。優しい生徒さんたちだなあ〜。

 一学年に十クラス以上あるマンモス男子校ですが、クラスごとにいろいろなところに出かけるみたいで、なかには貸切バスをチャーターして長瀞に行くとかディズニーランドとかもあります。ちなみにそういう手配も全て生徒が差配するそうです。バーベキューがどういうわけか人気で、半数近くのクラスがどこかしらのバーベキュー場に行くことになっていました。そんな中でひとつだけ「将来について語り合う」というクラスがあって集合場所は「教室」となっていました。へえ〜、どういうクラスなんでしょうかね?愚息に聞いても知りませんでしたけど…。とにかく父親としては若者たちに青春を謳歌して欲しいと願っております、はい。

人波におぼれる (2023年5月16日)

 やっと初夏の陽気が戻ってきましたね。いい天気になったので、朝一番に銀行に行ったりスーパーに行ったりして雑用をこなしました。それから京王線に乗りましたが、結構混んでいます。で、南大沢駅に着くと本学の学生さんたちが下車してホームにあふれていました。2限の授業にちょうど間に合うGoodなタイミングの電車に乗り合わせてしまったようでした。ふーん、なるほど、こうなるのねっていう感じです。

 この一瞬だけ新宿並みの混雑ぶりで、大学に無関係の人びとには大いなる迷惑だと思いました。わたくし自身、人波が落ち着くまで階段に寄りつけませんでした。こうした時間帯に登校してはいけないことをうっかり失念していた迂生のミスですな。

 ということでやっと改札を抜けて、そこからも学生さんたちがペデストリアン・デッキに一杯になって大学まで延々と続いていました、結構な壮観ですぞ。1号館の教室棟を抜けて学内に詳しい人しか知らないアンダーパスを通ろうとしたら、向こうから来た宮台真司先生にばったり遭遇しました。お互いに面識はないですが、先方は有名人ですからこちらは気がつきますよね。宮台先生はスマートフォンを見ながらそそくさと歩いていました、これから授業でしょうか…。お見かけしたところはお元気そうでしたが、その心象風景が如何なるものであるかは余人には窺い知れません。今後の平安無事をお祈りします。

二番にもどる 〜ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番〜 (2023年5月14日)

 五月の連休も終わって、これから暑くなる七月まで祭日がないので授業等では気が抜けない感じがいたします(学生諸君も教員も)。夏のように暑くなったかと思うと冬に逆戻りしたように肌寒い日もありますので、体調を維持するのに気を使いますね。

 さて久しぶりにクラシックねたでも綴ってみましょうか。ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番については以前に書きましたが、その際にラフマニノフの場合には普通はピアノ協奏曲第二番が入門となることも記しました。第三番は相当に聴き込んで来ましたが、演奏時間が四十分を超えるものが多く、第一楽章のカデンツァは気疲れするし、第二楽章と第三楽章とは連続して(アッタカで)演奏されるのでそれなりに身構えて聴くことになってかなり疲れます。

 それに較べると第二番は三十数分の演奏で第三番に較べればかなりライトですし、何より全編にわたってロマン溢れて叙情的なので各楽章ともリラックスして聴けます。そこでこのあたりでもう一度、原点である第二番に戻ってみようと思い立ち、新しいディスクも集めて聴いています。これまで聴いたラフマニノフのピアノ協奏曲第二番は以下の通りで、ピアニスト;指揮者:オーケストラ、録音年の順に記します。順番は録音年の古いほうから新しいほうへと並んでいます。なお古い録音には名盤と言われる演奏も多いのですが、それらはモノラル録音だったり音が良くなかったりすることがままあるので、ここでは原則として避けています。

1 スヴァトスラフ・リヒテル;スタニスラフ・ヴィスロッキ:ワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団 1959
2 ミルカ・ポコルナ;イジー・ワルトハンス:ブルノ国立フィルハーモニー管弦楽団 1968
3ウラディーミル・アシュケナージ;ベルナルド・ハイティンク:アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 1984
4 ミハイル・ルディ;マリス・ヤンソンス:サンクト・ペテルブルク管弦楽団 1990
5 ハワード・シェリー;ブライデン・トムソン;スコットランド国立管弦楽団 1990
6 ベルント・グレムザ;アントニ・ヴィト:ポーランド国立放送交響楽団 1996
7 エレーネ・グリモー;ウラディーミル・アシュケナージ:フィルハーモニア管弦楽団 2000
8 ラン・ラン;ヴァレリー・ゲルギエフ:マリインスキー劇場管弦楽団 2004
9 ニコライ・ルガンスキー;サカリ・オラモ:バーミンガム市交響楽団 2005
10 ユジャ・ワン;クラウディオ・アバド:マーラー室内管弦楽団 2010
11 デニス・マツーエフ;ヴァレリー・ゲルギエフ:マリインスキー劇場管弦楽団 2016
12 カティア・ブニアティシヴィリ;パーヴォ・ヤルヴィ:チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 2016
13 エフゲニー・スドビン;サカリ・オラモ:BBC交響楽団 2017
14 ダニール・トリフォノフ;ヤニック・ネゼ=セガン:フィラデルフィア管弦楽団 2018
15 ルカーシュ・ヴォンドラーチェク;トマーシュ・ブラウネル:プラハ交響楽団 2021

 ピアノ協奏曲第二番の演奏に対して迂生が気になる点や注目するポイントは幾つかあって、楽章ごとに書くと以下のようになります。なお全体として録音が良く、各楽器の音色が粒立ちよく聴き分けられること、合いの手のように随所に挿入される木管の音色が明瞭に聴き取れること、そしてピアノとオーケストラとの音塊がバランスよく耳に入ってくることを重視します。

 第一楽章では冒頭、ロシア正教の鐘の音といわれるピアノの和音の連打が響きますが、それがほどほどにゆっくりと奏でられること(ただしあまり遅すぎるのはじれったくてダメ)、最後のほうで弦のユニゾンのうえにホルンが独奏する物悲しい旋律が現れますがこれが情感たっぷりで美しいこと、そして全体としてロシアの冬のじめっとした大地を思わせるように(って、行ったことはないですけど…)暗く鬱々とした心象をよび覚まして心の奥深くを揺さぶってくれる演奏が好みです。

 第二楽章ではその初っぱな、ピアノ独奏のあとにピアノは後景に退きますが、フルートからアルト・クラリネットへ、そしてまたフルートへと受け渡される一連の主旋律がなめらかで甘美なこと、随所に現れる弦楽器によるユニゾンが絹のようになめらかで揃っていること、それは特に最後に叙情豊かに盛り上がるフレーズで顕著であることを求めます。

 第三楽章では終わりの約一分半前にドン!と大きな音が鳴る(以降、これを「終わりのドン!」と略称します)のですが、それが盛大で大太鼓(バスドラム)で奏でられること、そしてそこから怒涛のラフマニノフ終止に向かってピアノの急流の各音が明瞭に区別して聴きとれ、オーケストラの全演奏(トゥッティ)にピアノが埋没しないでフィナーレを迎えること、です。

 第三楽章の終わりのドン!ですが、ラフマニノフによる総譜(スコア)でどうなっているのかは知らないのですが、大太鼓が鳴らされる演奏とそれ以外の楽器が鳴らされる演奏との二通りあることに気がつきました。ドン!が大太鼓なのはポコルナ・ワルトハンス盤(2番)、ルディ・ヤンソンス盤(4番)、グレムザ・ヴィト盤(6番)、グリモー・アシュケナージ盤(7番)、マツーエフ・ゲルギエフ盤(11番)、スドビン・オラモ盤(13番)およびトリフォノフ・ネゼ=セガン盤(14番)の7枚で、聴いたうちのほぼ半数でした。傾向としてロシアや旧ソ連圏の国々のオーケストラの場合に大太鼓が鳴らされることが多いように思いました。

 各盤についての感想はこれからおいおい書いてゆくとして、ここでは2023年3月に発売された最新盤であるピアノ:ヴォンドラーチェク、指揮:ブラウネル、プラハ交響楽団(15番)について書きます。音源ですが、ラフマニノフの4曲のピアノ協奏曲とパガニーニ狂詩曲とが二枚のCDに納められています。ちなみにピアニストも指揮者も、さらに言えばオケもわたくしにとってはお初の方々ばかりですので、何の先入観もなく聴いています。ちなみに全てチェコのかたのようです。

 

 このヴォンドラーチェク・ブラウネル盤はスプラフォン・レコード(チェコ)の最新盤なのでかなり期待しましたが、ピアノが前に出過ぎていてオーケストラがかなり遠くに聞こえます。第一楽章の冒頭の“鐘”はやや遅めのスピードです(25秒ほど)。第一楽章半ばの歌うところでヴォンドラーチェクのピアノはちょっとアゴーギクが不自然に感じるところもありますが、同音連打の正確性など確かなテクニックに裏打ちされたうまさを随所に感じます。終わり近くのホルン独奏はなんだか冴えない響きです。

 第二楽章は全体にゆったりしていてそれなりにいいです。冒頭のフルートからクラリネットへ、そしてまたフルートへと歌い継がれるところがこの曲の聞きどころのひとつですが、それらの楽器の音色が少し奥まっていて明瞭さに欠けるきらいがあります。それでも、指揮者のブラウネルは細かくアゴーギクをつける等、かなり工夫しているようで好感を持てます。終わり近くの盛り上がりに向かう弦のユニゾンはきれいなのですが抜け感が足りないというか、胸焼けしたときの落ち着かなさというか(何を言ってるのか分からんか…)、とにかくちょっと詰まった感じを受けてイマイチ気持ちよさに浸れません。また、ラストの大いに盛り上がるところではフルートが絶妙の味付けで加わるのですが、ピアノが前に出過ぎていてその部分があまり明瞭に聴こえないのは残念です。

 第三楽章は少しゆっくり目のテンポで入ります。ヴォンドラーチェクがときにスタッカート気味に音を切ることがあるのですが、あまり馴染めません。プラハ交響楽団のティンパニが結構明瞭に鳴っていたので第三楽章の終わりのドン!も大いに期待したのですが、大太鼓は鳴らずにピアノがバン!と響いていました、なんでだろう…。随所に合いの手で入るシンバルの音もよく聴こえません。ただ、ラストの怒涛のラフマニノフ終止に向かってはピアノの音色が一音ずつ明瞭に聞き分けられてその部分の演奏はすごいと思わせます。全体としてみればヴォンドラーチェクのピアノはやっぱり素晴らしいと思いますが、期待が大きかった反動として辛口の感想が多かったですかね…。

 ヴォンドラーチェク・ブラウネル・プラハ響によるラフマニノフのピアノ協奏曲第一番、第三番および第四番も聴きましたが、いずれも録音の良さも含めて非常によい作品に仕上がっていました。そのなかでこの第二番だけが各楽器の音色の分解能が多少低いように感じましたが、これは録音があまりよくないということでしょうか。

スライドの時代 (2023年5月7日)

 研究発表でも授業でも現在ではパワーポイント等を用いた画像をパソコン経由でプロジェクタから投影するのが普通です。でも1990年代末から2000年代初めくらいまではOHP(Over Head Projectorの略、図や文章を印刷した透明なプラスチックシートを強力な光源によって投影する方法)の使用が主流でした。ただOHPでは投影した画質は画面を大きくするほど荒くなって美しくありませんし、そもそも機器の性能からして大会場の大画面には不向きでした。そこで広い会場で綺麗な写真や図などを見せたい場合にはスライドを投影していました。大きな国際会議等ではOHPではなくてスライド投影が採用されていたように記憶します。

 しかしスライドの作成には結構な手間ひまがかかります。わたくしが大学院生の頃には、青山先生や小谷先生が海外の学会やワークショップで発表するためのスライド作りを大学院生たちが担っていました(以前にこのページに書きました)。でも当時はカラー・コピーなどありませんでしたから、めりはりのあるグラフをカラーで綺麗に作るにはノウハウがあって、それにはとても労力を要しました。思い出しながらつらつら書いてみましょう。

 まず元となるグラフをA5版くらいの横長の色紙にコピーします。35mmスライドは通常は横長で用いますので、その画面に合わせるためです。色紙はカラー撮影したときにスライドの背景色となるので、色の選択には気を使います。ある意味、美的センスも問われますわな。コピーした線は黒色なので、その線上に幅2mmとか1mmとかのカラーテープ(その色の選択も重要)を慎重に貼ってゆきます。ピンセットを使いながらの手作業です。わたくし達の世界で常用する復元力特性(力と変形との関係)のグラフは曲線だらけなので、カラーテープをカーブさせながらその曲線の上を這わせてゆくのはとても難しいのですが、やるんです。グラフのある領域に色をつけたいときには、その形に切り抜いたカラートーンやスクリーントーンを貼ります。文字を美しくするためにはタイプライターにその用紙をセットして文字や数字を打刻します。

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 写真1 スライド作成用の原図の一例

 こうしてやっとひとつのグラフが出来上がります。基本的には一枚のスライドにグラフはひとつだけ、ということが多かったと思います。これは多分に小谷俊介先生のプレゼン方針によっていたのでしょうが、発表を聞くひとが理解しやすいようにというその基本コンセプトは今に至るまでわたくしの血肉となって染み込んでいます、ありがたいことです。

 そうして出来上がった「作品」を研究室内のスライド接写台にのせてカラー撮影をするのですが、これがまた時間を要します。接写台には撮影用の白熱電灯が二個付いていて「作品」を左右から照らすのですが、その調整に頭を悩ませました。またカメラの調整も同様です。カメラについては詳しくなかったので実際のところは行き当たりバッタリだったような気がしますね。カメラは接写台に固定され、レリースを使ってシャッターを切るのでブレることはありません。しかし肝心のピント合わせは人間がやりますので、この作業を長く続けると目が疲れてファインダーを覗くとクラクラしてきて、下手をするとピンボケになったりしました。

 やっとのことで撮影が終わるとそのカラー・フィルムを現像に出して、出来上がったポジフィルムを35mmのスライド用マウントにひとつずつ入れ込みます。それらをスライド投影機用のドラムマガジン(コダックの製品でカルーセルと呼ばれた)やカセットにセットして一枚ずつチェックするときはそれなりに緊張しましたね。ありゃ〜こりゃ失敗だなあ…予想した色合いではなかったり、ピントがずれていたりしたらもう大変、この作業を再度繰り返す必要があるからです。

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 写真2 スライド投影機にセットするドラムマガジンやカセット

 三十年ほど前に東京都立大学に務めるようになりましたが、わたくしの建築学科には上述のようなスライド接写台がありませんでした。そこで当時の教室幹事だった深尾精一助教授にそのことを話すと学科共通費でそれを購入してよいとのお許しが出て、わたくしがその手続きをいたしました(この文章を書いていて思い出しました)。その当時はそういうちょっと高額の機器を校費で購入するのがとても煩雑で面倒な時代だったので、深尾先生がそのことを新任の若手教員に身を以て分からせようという魂胆?だったような気もしますけど、あははっ。でもそのお陰でしばらくは都立大学でもスライドを作り続けました。

 このような作業の賜物として多数のスライドが迂生の手元に残りましたが、それらを使うことはもうありません。先日、論文等の別刷りを廃棄する話しを書きましたが、これらのマウント済みスライドも同じ運命にあるのでしょうか…。

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 写真3 手元にあるスライドの束

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 こんなことを考えていたときに、「占領期カラー写真を読む―オキュパイド・ジャパンの色」(佐藤洋一・衣川太一著、岩波新書、2023年2月)を図書館で借りて読みました。1945年(昭和20年)の敗戦から1952年の独立回復までの占領期日本の姿を撮影したカラー写真やスライドがふんだんに紹介されていて瞠目しました。とても興味深く、この本はお勧めです。カラー写真の持つ威力というか、真実を知るうえでの訴求力は白黒写真よりも格段に上であることを如実に感じました。

 その中に紙に印画されたカラー写真は褪色したり色落ちしたりしますがカラースライドは(保存状態が良ければ)鮮明な発色を保持できるとありました。実際、この本で紹介されたカラー写真は多くがスライドとして所蔵されていたものだそうです。そうなんだあ、ではスライドを廃棄することを今しばらくは猶予するかな…などと考えております。

 ちなみにこの書籍には占領期日本のカラースライドをウェブ上で公開しているサイトがいくつか紹介されています。そのひとつに「Gerald and Rella Warner Japan Slides」(こちら)があって567枚のスライドが搭載されています。撮影者のジェラルド・ワーナーはGHQ外交局の幹部で1950年まで勤務し、翌年まで日本に滞在しました。彼と妻・レラのコレクションはスライドや白黒フィルムの写真や絵葉書などでラファイエット大学スキルマン図書館が所蔵して公開しています。

 その567枚のスライドをこのGW中につらつらと眺めましたが、とても素晴らしいです。ここではそのうちの二枚を紹介します。一枚めは1950年(昭和25年)の神戸の商店街を撮った写真です。一見したところヴェトナムみたいな東南アジアの街角を写したもののように見えますが、実際は1950年の神戸なんですねえ。女性たちの着る服の赤色をはじめとしてカラーが鮮やかでその保存状態の良さに驚きます。





 もう一枚は「東京のクリスマス」と題されて1949年12月25日に撮影された写真です。撮影者の子供二人(ArthurとBetty)がセント・ルーカス・アパートメントハウス(多分、彼らが住んでいた占領軍住宅のことだと思われます。東京の赤坂付近か?)の近隣の日本人の子供たちにクリスマスのキャンディを配っているところ、とコメントがありました。昭和24年暮れの東京の小景ですが、通常われわれが見るこの頃の写真には白黒でかつ画質が悪くてザラザラとした質感の写真が多いですよね。しかしこのカラー写真のなんと美しいことでしょう。中央の初老の男性は赤く咲いた花束を掲げています。この頃にはもうクリスマスを祝う風習が日本にもあったのでしょうか…。

 この当時の市井の日本人もカメラを持っているひとはたくさんいましたが、使うのは白黒フィルムだけでした。わたくしの父母の若い頃の写真も全て白黒だし、焼き付けた印画紙のサイズも小さいです(手札といわれたサイズでしょうか)。ですから戦後も昭和三十年代までの記録はほとんどが白黒でその古さを際立たせています。しかしこれは当たり前なのですが、その当時にも全てのモノには色があって、そういう総天然色のなかで父祖たちは暮らしていたのです。この事実はともすれば忘れられがちで、そのことと相まって当時の世相の暗鬱さが強調されるように思います。

 しかしワーナーのスライド群を眺めているうちに複雑な心境になって参りました。撮影者のジェラルド・ワーナーの一家は占領期日本の生活を楽しんでいたように見えます。それは占領者としては当然だったのでしょうが、未だに焼け跡が随所に残り貧しい日本人とは完全に隔絶した世界に身を置いていたように思えました。そこには占領軍専用の住宅・アパートやレクリエーション施設(ルーズベルト・レクリエーション場)、ホテル(伊豆の川奈ホテル)、自動車や専用道路などが写っています。それらの占領者向け施設で働く日本人労働者も被写体になっていました。西洋から来た文明人が極東日本の野蛮人たちを観察しているという上から目線を明瞭に感じるのです。撮影したジェラルド・ワーナーたちにそのような悪意はなかったでしょうが、写っているものからはその匂いが明瞭に湧き立って参ります。

 無謀な戦争を起こしてアジアの民衆に多大の迷惑と損害とを与えた末の大日本帝国の敗戦ですから、戦後にそのような境地に陥ったのは因果応報で仕方がなかったと考えます。しかし、わたくしたちの祖先たちがこれらの写真から読み取れるような苦渋の一時期を過ごしたことは忘れるべきではないと思います。それは豊かさと自由とを享受している現代のわれわれ日本人にとっての出発点だったのですから。

論文などの別刷り (2023年4月26日)

 論文や梗概はいまや全てデジタル出版となってPDFとしてクラウド上やパソコン内に格納されるようになりました。検索するのに便利ですし、写真や図などを(私的な利用のために)複写するのも格段に簡単になりました。

 論文などが紙版だったときには、自分の論文だけを取り出した別刷りを100部とか発注して手元に置いておくということが普通に行われていたように思います。わたくしが学生時代を過ごした青山・小谷研究室でも発表した論文・梗概は全て別刷りを購入して、研究室で発表したそれらをまとめて製本して毎年の研究報告集を作成していました(下の写真)。そこに自分の執筆した論文等が入っているのを見て達成感を感じたこともあったような気がします。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:東大青山小谷研_研究報告の表紙.JPG

 そういう習慣を見ていたので、独立して自身の研究室を主宰するようになってからは発表した論文・梗概等の別刷りを購入して研究室に保管してきました。それは21世紀の初めくらいまで続いたように思います。しかしそれらをまとめて製本しようという気も起きずに、いたずらに積み上げられたまま月日は経ちました。そうしてふっと気がつくと、定年というゴールがもう目の前に迫っていたわけです。

 うーん、この紙の束をどうしたものかと(ほんの一瞬だけチラッと)悩みましたが、これらの著作物は今やネット上に格納されているものがほとんどですから手元に置いておく理由はありません。ということで廃棄することにいたしました、あっさり。

 別刷りの束はたくさんあるので毎日、息抜きの時間を使って少しずつ捨てることにいたしました。それらは数十年から三十年近くも放置されていたので薄茶色に黄ばんだり、パリパリになったりしていて、少しばかり切なさを感じます。それらを手に取りながら、そういえばあの頃に誰それがこんな論文・梗概を書いたなあ、あいつ今頃どうしているかなあとか思い出に浸るようになりました(なんだか老人ぽくてイヤだな…)。

 そういう論文類は迂生の業績として全てリスト化されているのですが(大学教員にとっては論文等の業績は大切ですから)、報告や随筆の類のなかにはそのリストから漏れているものがあることに気が付きました。若い頃に建築雑誌(日本建築学会が毎月刊行するオフィシャルな会誌のことで、これは未だに紙版)に載せてもらった『構造は天然色』というエッセイ(妄想?)はちゃんとリストに載っているのに、コンクリート工学会の会誌に投稿した報告文が幾つか抜け落ちていて、今回の廃棄作業中にその別刷りが出てきたのです。そういう雑文を書いたことさえ忘れていたので、三十年前の自分自身に出会えたような感覚になってそれはそれで新鮮でしたね。

 ということでこの廃棄作業が続くあいだ、リストに載っていない(自分自身さえ忘れている)著作がまた発掘されるかも知れません。そのたびにそれを愛おしみながらスキャンしてこのサイトの「論文アーカイブ」に格納することでしょう。引き出しの中、本棚の上、キャビネットの底などに置いてあった別刷りが少しずつなくなり、空虚なスペースが広がるのを見るとなんだか複雑な心持ちがいたします。すっきりして清々しい気分と少しばかりの寂寥感とが同居しているような感じでしょうか。わたくしくらいの年齢の方なら分かるかも知れませんが、お若い方にはわっからないだろうなあ…。

権利を行使し義務を果たす (2023年4月23日)

 きょうはわたくしの住む小さな市の市議会議員選挙の日です。小さいとはいえ人口八万人あまりの市議会の議員定数は22名でして、今回の選挙ではその1.5倍の33人が立候補しました。選択肢がたくさんあるのは結構なことかと思います。

 お昼頃に投票所に行くと混雑というほどではありませんが、人波が途切れることなく続いていましたので市民の皆さんの投票への意識はそれなりに高いと思いました。現在のわが国の政治に何を言っても伝わらないという諦観は常にあるわけですが、それでも政治に物申すためにはまずは議員選挙に投票することが欠かせないと考えます。選挙で投票することは国民の権利です。その権利を行使しないのはもったいないと思いますし、その権利を行使しないのは政治への参加を自ら放棄することになって国民の義務を果たせません。

 こんな小難しいことを常に考えているわけではありません(当たり前だな)が、候補者の33名のなかから選挙公報を見ながらお一人を選びました。例によって御公儀には楯突く性分ですので、野党のなかでも風前の灯の社民党に所属しているご高齢の女性に投票しました。悪いことをしなさそうで、市井の人たちの役に立つ活動をしてくれそうな方を選んだつもりです。でもこの方は前回の選挙では落選したそうだし、そもそも社民党ってわが国の革新政党の老舗とはいえ既に絶滅危惧種となっていますので、どうでしょうかね…。泥舟に乗っちゃったなんてことにならなければよいのですが。

追伸; 翌日、新聞の選挙結果を見たらわたくしの投票した方は残念ながらあえなく落選の憂き目にあっておりました。わたくしのささやかな意思が反映されずに残念です…。

異国でステップアップ (2023年4月19日)

 昨日、我が社の出身である香山恆毅さん(こうやま・こうき、1995年3月卒業)が八年ぶりに研究室を訪ねてくれました。現在はタイ国に滞在してお仕事をしているそうですが、この五月から新しく職場が替わって、なんと大学の先生に就任することになったそうです、おめでとうございます。香山さんはもともと日本のスーパー・ゼネコンに勤めていたので現地ではそれこそスーパー・エリートの扱いだったそうですが、今度のお仕事はそういうエンジニア系ではなくて、なんと日本語関連の内容を教える文系学部の正規スタッフとのことです。就職先はタイ国のトップ2に入る国立大学とのことで、椅子から落ちるほどに驚きました(香山さん、失礼!)。

 でも彼の話しを聞くと、タイ国のトップ大学の大学院に入って日本語関連の修士号を取得していて、そのほかに語学講師として要求されるライセンスも既に持っていたということです。それ相応の素養と経験とを有するうえに、現地の言葉もスラスラと話せて専門とした日本語についての授業をできると認定されたわけですから、まさに彼自身の努力の賜物だろうと思います。

 香山さんからはタイ国の建設事情等とともに、風土に根ざした慣習や経済状況に基づいた慣行などを興味深く伺いました。「郷に入らば郷に従え」じゃないですけど、タイにはタイの考え方ややり方があって、いろいろと日本とは異なることに彼なりの持論はあるみたいでしたが、そうそう思い通りに行くわけもありませんよね。

 そういう異国で全く新しい環境に転身して新たなお仕事をしようっていう香山さんのチャレンジ精神はやっぱりすごいと思いました。もう(お互いに)若くはないので、健康に気をつけて楽しくお仕事できることを祈っています。そのうち現地の大学などの写真も送ってくれよ。

ェレピー (2023年4月16日)

 たまたまアクセスしたネットラジオのNHKFMで杉真理[すぎ・まさみち]さんと和田唱[わだ・しょう]さんの声が聞こえてきました。三年前にこの二人がやっていた「Discover Beatles」のことは2021年3月のこのページに書きましたが、なんとこの四月からその続編の番組がスタートしたそうです。このお二人のビートルズ愛は尋常じゃなくて、その薀蓄やこだわりぶりに辟易とすることもありましたがとても面白く聴いていたので、その続きを聞けることになってとても嬉しく思います。下のイラストは和田唱さんのお父上・和田誠さんの描いたものです。ビートルズの四人の特徴がよく表れていてさすがです(ポールの目がまん丸いこと!)。

 

 ちなみに二年前にこの番組が終わってから、迂生はビートルズを全く聞いていませんでした。そもそもがビートルズに対してはその程度の興味しかなかったということになりますな、あははっ。それでもまた聞いてしまうというのは、ビートルズに対して潜在的に関心を持っているということでしょうか、自分自身のマインドがよう分からんけど…。

 で、この日の放送ではビートルズの「Let it be」が流れました。1970年の作品ですから、すでに半世紀以上経ったということですね。この曲も久しぶりに聞きましたが、その暗い曲調から魂の奥底を揺さぶられるような、黒ぐろとした不安な感じを抱きました。そう言えば中学生の頃にこの曲を初めて聞いたときもやっぱり同じような感想を持ったことを思い出しました。

 この曲の「Let it be」はフツーの日本人ならレット・イット・ビーと読んだり発音したりするでしょう。でもビートルズが唄うのを聴くと決してそうではなく、迂生にはどうやっても「ェレピー」としか聞こえないんですね〜。このことも中学生の頃からそう思っていて、今回久しぶりに聞いてもやっぱりそうでした。最初のLの字の発音がほとんど聞き取れませんし(少し聞こえるところもある)、beはビー[bi:]じゃなくて絶対にピー[Pi:]と聞こえます。そんなバカなって思うかたもおいででしょうが、ネイティブが「Let it be」を「ェレピー」って発音するのだから、それが彼らの正しい発音なんでしょうね、きっと。皆さんもぜひ「Let it be」を聞いてみてください(別にご意見はお待ちしませんけど、ガハハっ)。


意識はしていなかったが… (2023年4月14日)

 心地よい陽気の日々が続いていてありがたいですね。

 そんな陽気に誘われたわけじゃないですけど、少し早く大学に行って仕事でもするかという(滅多にないんですけど、あははっ)気分になって登校しました。愚息の学校の一学期が始まってまた早起きする習慣に戻ったため、ということもあります。で、いつものようにパソコンの前に座ってまずメールでも見るかと思ったのですが、どういうわけかメールにつながりません、あれ?

 どうも様子がおかしいのでまずはパソコンを再起動しましたがやっぱりダメです。ほかのパソコンでやってもダメです。その他のサイトにもつながりませんでした。そのうちに角田誠先生がやって来て同じ症状が出ていることが分かり、どうやら大学のネット回線がダウンしているらしいということが分かりました。ありゃりゃですよ、もう…。

 そうして普段のお仕事でいかにネット環境に依存していたかを再認識いたしました。そういう意識は全くなかったのですが、メールを見られないとすごく不安ですし、何より今日はこれからオンライン会議があって、それにアクセスできないことにすごくあせりました。

 わたくしはポケットWiFiなぞ持っておりませんので、仕方がないのでちっちゃな携帯電話でZoomに接続することにしました。初めての経験です。すごく不安でしたが、まあ画面が小さくて見えないことを除けばフツーに会議に参加できてよかったです。ただ自分がホストだともっと大変だったなと思って安堵した次第です。でも以前のCOVID-19環境下で授業が全てオンラインで行われた際に、携帯の小さな画面で授業を受けていた学生諸君はさぞや大変だったろう、ストレスフルだっただろうと思いましたね。

 そうして会議が終わり、パソコンに戻って見るとメールがつながっていました、よかったです。どうやらネット回線が復旧したようですが、大事なインフラ・ストラクチャーがこのように前触れもなくダウンするようではちょっと困りますな。この三月初めに本学のネット接続方式が大々的に変更になったことと関連があるのかないのか…。とにかく早急にネット環境の安定化をはかっていただきたいと思います。って、誰がやってくれるのかさえ知らないんですから、こんなことでよいのでしょうか。もっともインフラの維持管理ってそもそもそういうものかも知れませんけど…。

前期の授業が始まる (2023年4月10日)

 先週後半から各種ガイダンスがあって、建築学科の教務委員を仰せつかった迂生はカリキュラムや卒業要件などを学生諸君に話してきました。ネットでする履修申請で毎年履修漏れなどのトラブルが起こっていますので、その注意に時間を割きました。でも問題を起こすのはだいたいがこういうガイダンスに出席しない学生さん達なので、何やってんだかなあっていう一抹の虚しさは感じますな。

 今日からは前期の授業が始まりました。大学キャンパスにフレッシュな学生さんたちが戻ってきて活気があっていいですね。いま、ホヤホヤの一年生相手に「建築構造力学1」を講義して来ましたが、久しぶりに90分間立って話したらものすごく疲れました。寄る年波って言うんでしょうか(それを認めるのはイヤなんですけど…)、体力の衰えを如実に感じました。こんなことで教員生活を送れるのか少し不安になりましたが、まあそのうちまた慣れてきて何とかこなせるようになるんだろうか…。手を抜くと言うと聞こえが悪いですが、効率よく授業することも大切だと思いました。

紙媒体の行く末 (2023年4月5日)

 図書館で『レコード芸術』という雑誌を見つけたことを先日のこのページで書きましたが、なんとこれがこの六月をもって休刊するという記事を数日前の新聞に見つけました、ありゃりゃ。昨今の雑誌離れは深刻なようでして、このご時世に紙の月刊誌なぞ買う人がいなくなったということらしいです。レコード云々以前の問題だったということですね。

 さらにきょうの朝刊に、配達の新聞のお値段を値上げするというお知らせが載りました。今までは4400円/月だったものを4900円に値上げするとのことでした。なんの前触れもなくいきなり一割以上も値上げするっていうのもどうかと思いますが、それ以上に新聞が売れなくなっていて新聞社も危機感をもっていることを如実に物語っています。

 ネット上にこれだけ情報が溢れている現代において、確かに紙の新聞を大枚はたいて買おうっていう人種は確実に減っているようです。月々4900円ということは年間では6万円近いわけで、そのようなかなりの金額を新聞に払おうっていうひとはいないですよね、って当の新聞配達会社のひとが言っていたくらいです。

 うーん、どうしようかな…と少し思いましたが、多分、紙の新聞だけは購読し続けるように思います。ネット上の新聞でも確かに見出しと最初の数行くらいは読めますが、詳細の内容は有料となりますので深い情報を得ることはできません。手にした新聞をパラパラとめくって興味を持った記事やコラムを読むとか、紙面の片隅に載った広告に目を奪われたりするとかはやっぱり紙媒体ならではの体験でして、それなりの利点はあると思います。もっと言えば自分の興味のない分野の記事も読もうと思えばすぐそこにあるわけで、そういう品揃えの豊富さや手軽さには大いに魅力があると考えています。

 もちろん新聞社の記者たちが全世界を飛び回って取材して確認をとって記事を作り、それを印刷して配達してくれるわけですから、それに対する正当な対価をお支払いするのは当然です。ひと月4900円というお代が適切なのか妥当なのか分からないっていうところは気になりますけど…。今の地球上ではネットにあるコンテンツを見るのはタダ(無料)であるという意識が幅を利かせていますが、本来、正確なニュースにせよ面白いコラムにせよ、タダっていうこと自体がおかしいですよね。誰かが手間ひまをかけて提供してくれたものをタダでゲットしようっていう根性がそもそもさもしいと迂生は思います。

 ということで紙の雑誌を買うことは今後もないと思いますが、紙の新聞は(それが存在するあいだは)お金を払って読み続けたいと思います。とは言え、それも世の趨勢には逆らえませんのでやがて消えゆく運命にあるのでしょうか。

自分で自分の首を… (2023年4月4日)

 本学のメールシステムが新しくなってからほぼ一ヶ月が経ちました。マイクロソフト・Outlookのインターフェースには相変わらず馴染めません。同時にインターネット接続方式も変更になり、オンライン会議等での音声の途絶や画像のコマ落ちがなくなることを期待していました。ところがWebExというソフトウエアだけがどういうわけか使えなくなりました。理由は不明ですが、ZoomやTeamsは使えるのでわたくしのコンピュータの問題かも知れません。

 メールには添付ファイルがくっつくことが多いのですが、メールシステムの変更に伴ってセキュリティ・チェックが強化されました。パスワード付きのZipファイルが来るとその安全性をチェックするルーティンに勝手に入るらしく、クリックやパスワードの入力などの手数を強いられます。その挙句、そうやって得たファイルはどうやっても開けないのですよ。この形式で添付ファイルを送ってくるのは大会社が多いのですが、ファイルが見られないので仕方なく別の形式で添付ファイルを送付するように依頼しないといけません。これは先方にとっても迷惑な話しでして、相手の労働生産性を下げることになって申し訳なく思います。

 さて、四月になって某大会社では「メール誤送信防止対策」というのを導入したそうで、そこから来た添付ファイルを見るのにひと苦労させられました。クリックやら数字の入力(認証コード)やら色々なものを要求されて、三つも四つも手数をかけないと添付ファイルを届けてくれません。こんなんだったら、わざわざ添付ファイルを見ようという意欲が減退すること請け合いですよ。そもそもなぜその会社のメール誤送信を防止するためにその会社とは無関係のメール受信者が面倒を強いられないといけないのか、理解不能です。

 以上のように自組織のセキュリティ確保のために他者への依頼が増えれば社会全体としては著しく労働効率が低下するのは明らかであり、それはひいては一国の知的活動や経済活動にも悪影響を与えると考えます。そんなことをすれば結局のところ巡りめぐって自分の首をしめることになる、ということにどうして気が付かないのでしょうかね。自分(の組織)さえよければ他の人たちのことなんて知らないよっていう態度が蔓延すること、すなわち社会的なモラル崩壊を危惧しています。

新年度がスタート (2023年4月3日)

 過ごしやすい陽気になりました。桜の花びらたちはそろそろ散って青葉が目立つようになってきましたが、ソメイヨシノとは異なる種類の桜ではこれから満開を迎えるものもあるかと思います。まだしばらくは様々な花々を楽しめそうです。

 四月になって新年度がスタートしましたが、わが大学ではガイダンス等は明後日からのスタートなので、もうしばらく静穏なキャンパスが続きそうです。建築学会の大会梗概の締め切りは明日です。今年はわが社からは誰も投稿できないのでこりゃダメかなと思ったのですが、一緒に実験を担当した村野竜也さん(明治大学大学院修了、晋沂雄研究室)が実験結果の概要を4枚にまとめて投稿してくださいました。新社会人として準備等で忙しいなか、原稿を作っていただきとてもありがたく思います。

 鉄筋コンクリート柱に三本の梁が貫入する立体柱梁部分架構を用いたこの実験(写真はこちら)は日本学術振興会の科研費補助金をいただいて実施した研究です。その成果を簡単とはいえ学会大会に報告することは重要なことですし、大いに意義があります。そういう責任も果たしてくれた村野さんと晋沂雄先生とには本当に感謝しております。

 わたくしがいつも大学図書館に通っていることはこのページにしばしば書いていますが、三月は図書館内も閑散としていることから、普段は立ち寄らない雑誌コーナーをのぞいて見ました。というか、そのエリアで雑誌を手に取ったのは本学に赴任して以来、初めてです。自分でも結構びっくりしてます、あははっ。

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 雑誌の書棚をめぐり歩くと知らない雑誌がぞろぞろあって目を見はります。建築関係の『新建築』とか『日経アーキテクチャー』など普段は読まないものもあって、それらを手に取ってひとときを楽しみました。また『レコード芸術』などという月刊誌までありました。今どきレコードなんて時代錯誤も甚だしいと想像しますが、CDのようなデジタル音の冷たさが敬遠され、アナログ・レコードや磁気テープの音色が見直される世の中になってきたことが関係しているのかも知れません、どうだか…。

 また数年前に図書館が改修されてラーニング・コモンズ等が新設されましたが、そのときかどうかは定かでないのですが、南側に気持ちのよいテラス席が設けられていることも初めて知りました。三十年以上もこのキャンパスにいて未だに知らないことがあるってどういうことなのよって思いませんか、ギャハハっ。暖かな日差しのもとでこのテラス席でお茶でも飲みながら読書するのもいいなと思いました。でもこの静寂はすぐに終わり、学生諸君がまたドバドバとやってきて利用し始めれば、わたくしのような老教授が入りこめるスペースはすぐになくなってしまうのですけどね…。

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夢の中で会えるでしょう (2023年4月2日)

 YMOのメンバーだった坂本龍一さんの訃報が流れました。71歳だったそうです。高橋幸宏さんが亡くなってからまだ間もないように記憶します。わたくしは彼のファンでもなんでもありませんので、彼の活動に対して特段の感慨を抱くことはありません。ただこのページでも何度か坂本龍一さんについて言及したことがあり、彼の音楽に臨む態度には大いに共感を覚えたことを以前に書きました(2020年2月)。

 高野寛さんが歌う『夢の中で会えるでしょう』を坂本龍一さんが編曲して二人で一緒に演奏したテレビ番組(こちらです)についても以前に紹介しました(2017年11月)。坂本さんが流麗で心地よいピアノを弾いています。これを見ながら故人を偲ぼうと思います。RIP、ミスター・ローレンス…。

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スクリャービンのピアノ協奏曲 (2023年3月29日)

 もう十年以上も前になりますがこのページでラフマニノフのことを書いたときに、ついでにスクリャービンのピアノ協奏曲もGoodと付け足したことがあります。そのとき聴いていたのはウラジーミル・アシュケナージのピアノ、指揮はロリン・マゼール、オケはロンドン・フィルハーモニー管弦楽団というデッカ(Decca)のCDで、録音は1971年でした。

 

 アレクサンドル・スクリャービンはラフマニノフと同世代のピアニスト・作曲家で、当初はロマンティックな曲を書いていましたが、やがて神秘主義に魅せられて作風は全く変化してあっち側に行ってしまい、そのままこっち側には戻ってこないまま43歳で亡くなりました。彼は五曲の交響曲を遺しましたが、ピアノとオーケストラのための協奏曲はこの一曲だけだったために第一番などの番号は付されていません。

 このピアノ協奏曲は1896年に作曲されましたが、この年は奇しくもブルックナーが亡くなった年でした。終楽章がとてもロマンティックでして、その甘く切ない盛り上がり方などはラフマニノフのピアノ協奏曲第三番のフィナーレのそれによく似ているように思います。もっとも、ラフマニノフのこの曲が作曲されたのは1909年ですから、真似をしたとするならばそれはラフマニノフのほうになります。

 ところで今年になって、ひょんなことから上記とは異なる演奏者によるこの曲の演奏を聴きました。チェコのリボル・ペシェックという指揮者がチェコ・フィルハーモニー管弦楽団と演奏した作品集(チェコのスプラフォン・レコード)を先月買いました。わたくし、チェコ・フィル好きなので。ブルックナーの交響曲第七番やヨーゼフ・スークのマイナーな作品群が目当てでした。そのなかにどういう訳かこの曲の演奏が含まれていて、ピアノはギャリック・オールソンというひとでした(録音は1986年です)。ラフマニノフのピアノ協奏曲はたくさん聴いてきましたがそのなかにギャリック・オールソンの演奏はありませんでしたので、今まで知らなかったピアニストです。まあピアノには詳しくないのでピアニストのこともほとんど知らないのですけどね。

 で、この演奏を耳にしたところがもうびっくり仰天です。上記のアシュケナージ・マゼール盤とは全然違う曲のように聴こえたからです。演奏時間からしてかなり異なり、オールソン・ペシェック盤のほうが一割以上も長いのです。これはもしかしたら楽譜が異なるのではないかとも考えましたが、作曲者自身が改訂したようなことはどこにも書いてありません。ブルックナーみたいに異稿がいくつもある曲であれば、ああそうかという感じで驚きませんが、そうではないとすればこれは一体どういうことなのよ?

 最初はチェリビダッケのブルックナーのようにすごくゆっくり噛んで含めるように演奏しているのかと思いました。でも違うみたいです。もちろん耳慣れたフレーズはあって全体としてはスクリャービンのピアノ協奏曲だと分かりますが、その合間には聞いたことのない音とかフレーズが入ってきて混乱を誘います。前述のように第三楽章(終楽章)はとても情感豊かでうっとりとした恍惚感に浸れるはずなのですが、この演奏ではとてもそんな感じではなくおどろおどろしい怖れさえ抱かせます、なぜなのよ?

 もうこうなるとそのほかの演奏を聴いて確かめるしかありません。ということでウゴルスキ・ブーレーズ・シカゴ響盤、ゲルシュタイン・ペトレンコ・オスロフィル盤そしてトリフォノフ・ゲルギエフ・マリインスキー劇場管盤(いずれもピアニスト・指揮者・オケの順です)を聴いてみました。その結果、それぞれ良し悪しはあるものの三つとも演奏としては冒頭のアシュケナージ・マゼール盤と同様のテイストであることが分かりました。

 ということでオールソン・ペシェック盤は普通よりも2σくらい離れた特異な演奏と言えそうですが、ではなぜそうなのかという疑問は解けません。想像ですが、指揮者のペシェックとオールソンとが楽譜を改変したということはないでしょうか。

 百年以上前のことですが、グスタフ・マーラーがシューマンやブルックナーの交響曲のスコアを勝手に改変して(よい言い方をすれば編曲して)自分で指揮して演奏していました。そういうことは著作権を重んじる現代の感覚ではあり得ないのですが、当時はよくあることだったみたいです。そういう往古の慣習を懐古的に蘇らせてみた、ということなのでしょうか。スクリャービンを研究している音楽学者にでも聞かないと分からないかも…。

 スクリャービンのこのピアノ協奏曲はその叙情性の豊かさでラフマニノフやチャイコフスキーのそれと比肩できるとわたくしは思います。しかし世の中にあるディスクはスクリャービンのものは遥かに少なくて、もっとポピュラーになってよいのにととても残念に思っています。

首相がキーウに行ったのに (2023年3月22日)

 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の決勝で日本がドリームチーム・アメリカに逆転勝ちして優勝しました、おめでとう。でも言っておきますが、わたくしはWBCには全く興味がございません。この日、日本中がこのニュースで沸き立っているということでテレビのどのチャンネルでもずーっとこの話題をやっていることに辟易としております。街なかで、何だか知らんけど日本チームの活躍に興奮したらしい見知らぬオヤジから話しかけられて、もううんざりって感じです。

 そもそもアメリカのメジャー・リーグの頂上決戦のことをワールド・シリーズっていうこと自体が気にくわないんですよ。アメリカ国内でやっているローカル・スポーツに過ぎないのに「世界」を名乗るとは図々しいにもほどがあると思いませんか。礼儀正しく奥ゆかしき大和民族にとってそういうアングロサクソン流の嗜好にはついていけないなあ、ホント。あっでも、大谷翔平さんは本当にすごいですし、試合に臨んだ選手の皆さんには惜しみなく称賛を送りたいと思います。

 ところで日本国の岸田首相がこの半日くらい前にウクライナのキーウを電撃的に訪問したことは皆さんご存知でしょうか(さすがにそれくらい知ってるよな…)。ウクライナは現在もロシアと戦争中であり、ひと頃よりは収まったとはいえ連日ミサイルが降り注いでいるというキーウに平和ボケした日本の首相がよくぞ行ったものだというのが迂生の感想であり、清水の舞台から飛び降りて行った岸田首相には称賛の念を抱きました。

 極東の日本からキーウを極秘裏に訪問するのは欧米のヤツらとはその困難さの度合いが全く違うということに思いをいたして欲しいと思います。アメリカは確かに遠いですが、彼らはヨーロッパの至るところに米軍基地を持っていて、アメリカ大統領が米軍の支援のもとにそういうところに人知れず飛んでゆくのは比較的簡単でしょう。ところがわが国では実質的に軍隊たる自衛隊が首相を護衛することはできず、首相の身の安全を確保することが格段に難しく、移動に自衛隊機を使うこともできません。無法なロシアに対して「公正と信義に信頼して」なんて馬鹿正直なお題目を言っていたら命がいくつあっても足りないことは、この戦争を見れば分かりますよね。

 ですからこの度の岸田首相のキーウ電撃訪問は日本にとっての大ニュースだったはずですが、WBCでの日本優勝の浮かれた騒ぎにかき消されてしまって、全く影が薄くなってしまいました。タイミングが悪いといえばそれまでですが、岸田首相がなんだか可哀想に思えました。ちなみに朝日新聞の夕刊の一面トップはWBC日本優勝で、電撃訪問はその下にあからさまに格下扱いで載っていました、なんだかなあ〜。国を代表する首相がキーウに行ったことはそっちのけでお祭り騒ぎしている日本って、ホント平和でおめでたいとつくづく思いますけど、いかがでしょうか。


写真 キーウの戦没者慰霊の壁へ献花する岸田首相 内閣広報室提供(朝日新聞より)

春たけなわに (2023年3月20日)

 もうお彼岸です。東京では先週、ソメイヨシノが開花したそうです。その早いことにはやっぱり驚きますね。フツーであれば四月の入学式の頃に桜は満開になるのですが、今年は三月下旬の卒業式の頃に見頃を迎えそうです。とはいえ、わが家の周りの桜は六分咲き、八王子市南大沢では五分咲きくらいでしょうか。本学・牧野標本館新館の前にあるあんずの花々も先週にほぼ満開になっていました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMUあんずの花20230314:IMG_1719.JPG

 そんな陽気に誘われてこの週末に深大寺に行ってきました。自転車に乗ってあたりの花々を愛でながらのんびりと向かいましたが、三十分くらいで着きました。桜はまだ三分咲きくらいで観光客は少なく、境内や周辺をのんびりと散策できました。せっかくなので門前のそば屋で深大寺蕎麦(って、別に珍しくもないが)を食べてきました。

 調布市の深大寺は国分寺崖線(多摩川の浸食によってできた河岸段丘の一種)のへりにへばりついて建っています。そのため深大寺のあたりには至るところに湧水があって、その水が清澄で甘露であることから蕎麦も名物になったのだろうと想像します。周辺には水車も多かったそうです。もっとも野川沿いのわが家から深大寺に行くときにはこの崖線の急坂を登らなければ行けず、自転車を押しながら登りました。そこだけは結構疲れました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:深大寺へゆく_佐須町の敷地20230319:IMG_1730.JPG

 しかし深大寺のわきに神代植物園やカニ山キャンプ場等の緑地はあるものの、都市化の波には逆らえずに周辺は住宅地がびっしりと建っています。国分寺崖線からの湧き水も明らかに減っていて、その水を集めて流れている野川の水量はいつも少なめです。この甘露をいつまで楽しめるのか、かなり心配です…。

ヴァン・ゴッホの夜に (2023年3月19日)

 歌手で作曲家のボビー・コールドウェル(Bobby Caldwell)氏が3月中旬、71歳を一期としてこの世を去ったそうです。今のわたくしにとっては71歳はそんなとしとは思えません、というかすぐそこにあるような気がする…。彼は20世紀最後の四半世紀の日本ではAOR(Adult Oriented Rock—たぶん和製英語だと思います。大人向けのソフトなロックっていう感じ)の旗手としてボズ・スキャッグスと人気を二分しました。しかしながら本国のアメリカでは特段に注目されるような存在ではなかったようで、日本だけで人気があるという不思議なひとでしたね。

 そういう日本のファンの例に漏れず、わたくしも若い頃はボビー・コールドウェルをよく聴いていて、1995年までのアルバム7枚が手元にあります。その特徴はひと言でいえばその唄い口のせいでしょうが「軽い」ということでして、聴くと心地よくなる曲が多くてポップなメロディやロマンチックなフレーズなどが直球で入ってきます。

 ボビー・コールドウェルの歌のなかでなにが一番有名かな。テレビCMで使われた曲もあったような気がしますが、多分1988年の「Heart of Mine」じゃないでしょうか。この曲は同名のアルバム(したの写真)の冒頭に収録されていますが、それより先にボズ・スキャッグスがアルバム『Other Roads』のなかで唄っていました。でもこの曲については、やっぱりボビー本人が唄ったほうが出来がよいように思います。ボビーのほうは明るめでキレがありますが、ボズ版はちょっとウェットでねっとりしています。まあ好みの問題でしょうけど。

  

 このアルバム『Heart of Mine』は全編に渡って素敵な曲たちが散りばめられていますし、ボビー・コールドウェルのサウンド作りやその良さを感じ取るには最適だと思いますのでお勧めです。タイトル曲や5曲めの「Saying it’s over」、7曲めの「Even now」がわたくしは好みです。9曲めの「Stay with me」もどこかで聴いたことがあるような…(調べたらピーター・セテラがこの曲を唄っていました)。

 さてボビー・コールドウェルの曲のなかでわたくしが最も好きなのは「The Night of Van Gogh」(例えばこちら)です。この曲は迂生の知る範囲ではボビー本人は唄っていなくて、前述したボズ・スキャッグスのアルバム『Other Roads』の最後に納められていました。「The Night of Van Gogh」のイントロを聴けばすぐに分かりますがちょっとけだるい感じで、そこにボズの透明で抑えた唄声がのっかると、とてもリラックスしてゆったりとした気分に浸れます。寝る前に聴くのに最適だと思います、試してみてください。

 ということで今宵はヴァン・ゴッホの夜でも聴きながら故人を偲びとう存じます。ご冥福をお祈りします、RIP。

2022年度の実験おわる (2023年3月16日)

 トップページに書いたように2022年度の実験が無事に終わりました。この日まではまだまだ軸崩壊しないような気配があって、層間変形角4%まで柱軸力を保持できるだろうと予想していました。実際、層間変形角3%の一回めの加力サイクルを終わった段階でもそういう風情でして、しばらくは軸崩壊しないだろうと余裕をかましていたんですよ。

 ところが層間変形角3%の二回めの加力サイクルに入って、柱の軸力を長期軸力から地震時に想定した最大圧縮軸力まで増やして水平力(この段階ですでに二方向水平力を与えている)を載荷し始めると途端に様相が急変して、柱梁接合部からミシミシと音がし始めました。あれ?なんか嫌な感じだなあと思いつつ慎重に加力して行くと、ば〜んという鈍い衝撃音とともに柱梁接合部からコンクリートの粉体が飛び散りました。柱梁接合部内の横補強筋が破断したのです。柱主筋も大きく座屈しています。

 こりゃまずいなと思いながらも水平加力を続けると、残っていた接合部横補強筋が各個撃破的に次々と破断して、ついに圧縮軸力を保持できなくなるカタストロフ点に到達いたしました。このままだと実験装置が破壊するので、あわてて柱軸力を抜いてもらいました。もうドキドキですよ、本当に。

 ということで当初の予想よりかなり早く軸崩壊に達してしまいました。終わってみれば2019年度の藤間さんの実験および2020年度の石川さんの実験とあまり変わらないパフォーマンスであったことが明らかになり、少なからずがっかりした次第です。もっとも実験が予想よりもかなり早く終わったので担当してくれたM2のお二人は嬉しかったのかも知れませんけど、あははっ。

 実験終了後の恒例の集合写真を載せておきます。この日は北山研から三名、明治大学・晋 沂雄研からも同じく三名の学生諸君が実験に参加してくれました。主導してくれたM2の井上さんおよび村野さんにはあつく御礼を申し上げます。お二人とも二週間後にはもう社会人ですが、一所懸命に実験してくれて嬉しく思いました。社会に出ても健康に留意して頑張ってください。また、北山研および晋研の新4年生にはこの実験結果を検討して卒論を書いてもらう予定です。今後は自分たちで考えて進めてくださいね。

 しかし実験棟で緊張を強いられるのにはそろそろ耐えられなくなって参りました。思い返すと迂生が学生の頃には青山先生や小谷先生が実験を見にお出でになることはほとんどありませんでした。でも、だいたい助手の田才先生が実験に付き合ってくれていましたから、やっぱりそういう指導的な人がいないとまずいですよね。つまり北山研で実験するときには(助けてくれる教員は誰もいないので)いままで通りに自分で監督しないといけないわけですが、体力的に随分ときつくなってきました…。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC柱梁接合部実験2022_井上村野:試験体F5_梁2本の隅柱タイプ_JointHoopD4_6sets:IMG_6831.JPG

社会復帰できるのか (2023年3月15日)

 それは透明でも水色でもなくて、まさに茶色でした。何がって? もちろん外の空気ですよ。花粉が空気中に充満しているせいで景色全体が明らかに茶色がかっているんです(黄砂もあるかも)。もう、つらいのなんのって、今年は花粉がひどいという予報でしたが今のところその通りになっております、はい。

 そういう空気をかき分けて、きょうは田町の建築会館に出かけました。建築学会・関東支部の講習会があって主催者挨拶というお役目を果たすためです。建築会館に出向いたのは思い起こすと三年ぶりでしょうか(隣にあった読売理工専門学校の建物が取り壊されて、別のオフィスに建て替わっていた)。2020年早々にCOVID-19が全地球に蔓延して以来のことです。そういえば最近はCOVID-19という言葉を聞かなくなったな…。

 そうとは言え感染予防のための配慮はちゃんとしていまして、フルだったら200人くらい入る大ホールに30人くらいの参加者をゆったりと収容するとともに、中庭側の木製扉全てを全開にして換気していました。なかなか気持ちよかったです。なおこの講習会はハイブリッド開催になっていて、オンラインの受講者が40人くらいおいででした。

 こういうリアルの行事に参加すると、思いがけない方にお会いできるのがよいと思います。きょうも数名の知己とわずかですが言葉を交わすことができてよかったです。これがオンラインだとそうは行きませんよね。

 さてお役目を終えて久しぶりに田町の駅から山手線に乗ろうと思って国道1号の歩道橋を渡りました。そのときに撮ったのが下の写真です。ちなみにわたくしは、山手線はいつも混んでいるので嫌いでして、フツーは三田駅から地下鉄・三田線に乗って京王線に向かいます。



 田町駅近辺は再開発が行われているとは聞いていましたが、かなり様子が変わっていました。中央の高くてセットバックした建物の右脇に白い縦形のルーバーが目立った建物がありますね。これは我が社の卒業生である嶋田先輩の勤めるRIAという設計事務所が設計した「札の辻スクエア」というビルです。RIAは日本に古くからある設計事務所でして、建築家の山口文象[ぶんぞう]氏が1934年に創設した事務所の流れを汲む由緒ある組織です。

 この建物には一部にプレストレスト・コンクリート構造が使われていて、構造設計時に嶋田さんや構造技術部長の鶴田正一さん(学生時代の古い知り合い)が相談のために研究室においでになったことがあります。また竣工後には鶴田さんがその報告がてら出来上がった建物の概要を説明しに大学まで来てくださいました。そんなこともあってその実物を今回初めて拝見して、これだったのかと結構感動したなあ。今後、田町駅のペデストリアン・デッキがこの建物までつながる予定らしく、街なみはまだしばらくは変化を続けるようです。

 ということで山手線に乗って、途中に高輪ゲートウェイという変てこな名前の駅を通過し、ホームが新しくなった渋谷駅で降りてみました。普段だと新宿駅まで行って京王線に乗り換えます。渋谷駅から京王井の頭線に乗って明大前で乗り換えてもいいのですが、井の頭線はいつも混んでいて迂生は嫌いなので避けているんですよ。

 でもきょうは魔が差したというのか、渋谷駅界隈も随分変わったみたいだったので怖いもの見たさで下車したわけです。ところがJRの改札を出たらもういけません。どういうわけか昔バスターミナルがあった地上に出てしまって、井の頭線の入り口がどこなのか皆目分かりません。これじゃ完全におのぼりさんですよ、トホホ…。やっぱりやめときゃよかったと思いながら、そばにいた警備員さんに聞いてなんとか井の頭線のホームにたどり着けました。渋谷駅は予想以上のラビリンスでした。皆さんには近寄らないことをお勧めします、なんちゃって。

 井の頭線の改札入り口前のスペースで振り返って撮影したのが下の写真です。正面は通行止めになっていますが、昔はここを直進しても柱右脇の階段を登っても地下鉄・銀座線のホームに行けました。銀座線のホーム自体が移動したらしいので、この閉鎖された通路は将来どこにつながるのでしょうかね、どうでもいいけど…。



 こんな感じでコンクリート・ジャングルの大都会で人の多さに面食らったり迷子になったりしながら、やっと八王子の大学にたどり着きました。マスクの着用が個人の判断に委ねられ、パンデミック後の平常化が急がれているようなので、わたくしも都会に出て対面の行事に参加し、そのあとに大学に戻って仕事するという昔のスタイルを取り戻そうとしてみました。

 でも、それは予想以上につらかったです。この三年のあいだに気がつかないうちに体力が落ちたらしくて、移動自体をしんどく感じました。そもそもオンラインで済んだものを対面でやるということに合理性を見出せないというか、不条理にさえ思えるんですよ。もちろん、冒頭に書いたように対面にはその良さがあって捨てがたいのですが、何でもかんでも昔みたいに対面に戻すことには賛成できないなあ。わたくしのような働き方を許容していただけると嬉しく思いますが、そうでなければ社会復帰は難しいように感じた出来事でした。

ちょっと不思議な組み合わせ (2023年3月10日)

 今週は春本番の陽気が続いていて助かります、花粉は相変わらずつらいですけど…。本学のネットワークのシステムが入れ替えになって便利になるかと思ったのですが、そうでもないです。まずメール・ソフトなのですが、今まで使っていたMacの「メール」がどうやっても動きません。仕方ないので、本学からデフォルトで使うように言われているマイクロソフトのOutlookを使っているのですが、これって使いにくいんですよ〜。見た目も全くセンスのないインターフェースでして、使いにくいことこの上ないです。この画面を見ているともう仕事する意欲が完全に奪われるので、なんとかせんといかんと言った状況にあります。

 さて大型構造物実験棟で再開した鉄筋コンクリート部分架構実験ですが、若者たちの頑張りのおかげで最大耐力を過ぎて耐力低下領域に入りました。すなわち試験体の損傷が急激に進行するということですが、それによって載荷装置を壊さないようにしないといけないので必然的に迂生は緊張を強いられることになります。それは実は結構しんどいのですが、そんなことをいったら実験が進みませんので表面上は穏やかにのほほんとしております。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC柱梁接合部実験2022_井上村野:試験体F5_梁2本の隅柱タイプ_JointHoopD4_6sets:IMG_6684.JPG

 この実験は体裁上はM2のお二人の研究(の続き)なのですが、彼らはこの三月末で大学院を修了してめでたく就職するのでかなり気の毒な立場ではあります。フツーはM1あたりのひとにチーフを引き継いでもらうとよいのですが、残念ながら我が社には現在M1も四年生もいないので、止むを得ず三年生(この四月から四年生になる)にこの実験の担当になってもらいました。とうことでこの写真にはM2の井上さんおよび村野さん(明治大学)と現三年生の原川さんおよび宮坂さん(明治大学)が写っています。奥で座って加力タブレットを操作しているのがM2の二人で、手前でひび割れ観察をしているのが現三年生の二人です。こういう組み合わせって、よく考えるとあまりない(というか、我が社では研究室史上初めてのような)気がしますね。皆さんが一所懸命に実験をしてくれるのでとても嬉しく思っています。

 予想では来週早々にカタストロフを迎えるように思いますので、今しばら気を抜かずに作業に当たってください。ちなみにこの試験体F5は2019年度の藤間さんの実験、2020年度の石川巧真さんの実験、および今年度の井上・村野さんの実験と密接に関係しているので、そういう視点で実験結果の比較・検討をすることを期待しています。

メールシステムが替わる (2023年3月6日)

 きょうも花粉がすごくてつらいです…。お日さまが照るのは嬉しいのですが、景色がうっすら茶色がかって見えるほどで、その花粉のモヤモヤを恨めしく思っているこの頃です。

 さて本学ではこの週末にメール・システムが新しいものに切り替えられました。これまでWeb上では「Active! mail」というソフトを使っていたのですが、これが全く使えなくなって新たなメール・システムに移行しました。

 以前も書きましたが、某学会の査読の業務が現在、佳境に入っておりまして、審議を要する重要なメールが飛び交っています。そういった緊急性の高いメールを読んで返答するために、この週末および本日は新しいメール・ソフトの設定にずっと格闘しています。これまでのメール・ソフトに格納していた既往のメール・データを新しいソフトに転送したいのですが、それはまだできていません。そこまで手が回らないというのが実状ですが、具体の方法としてどうやったらよいのかよく分からんというのもあります。いやあ、困ったなあ〜。

 こんな感じで大学での研究教育活動のインフラとなるメール・システムに振り回されております。あわせてインターネット接続環境も改善してくれたそうなので、これからはオンライン会議のときに途切れたり、落ちちゃったりすることは無くなるだろうと期待しております。

おやじ、カモ〜ン! (2023年3月3日)

 ここのところ某学会の論文の査読をたくさんしているので、すごく頭を使って知恵熱が出そうです、なんちゃって。

 そんな感じで疲れ切って帰宅して晩御飯を食べたあと、じゃあ寛ぐかと思って新聞を広げたときに、珍しく勉強机に向かっていた愚息が「おやじ、カモ〜ン!」と言って呼びつけられました。なんだよ〜のんびりさせてくれよ…とは思いましたが、ヤツは今、期末試験の最中でその勉強についての質問なら仕方ないか(学校の先生の悲しい性かも、あははっ)。

 聞いてみるとそれは世界史かなにかの論述問題で、パソコンに向かって一所懸命にワードでなにやら作文しています。でも明日試験だというのに、なんでそんなレポートみたいなことをやっているのかと不思議に思って聞いたところ、明日の試験問題の一部が前日の午後八時(すなわち先ほど)にネット経由で出題されて、それについていろいろと調べた上で翌日の試験時に解答用紙に記入する、という方式の試験だったのです。

 ということで試験問題になったある世界史上の出来事(20世紀後半)の原因について、ヤツとあれこれ議論することになりました。そうやってパコパコ、キーボードを叩いて文章を作ってゆくのはいいのですが、試験のときにはそれは持ち込み不可で、暗記してゆかないといけないそうです。大変だなあ。

 いやあ、最近の高校ではそんな方式で期末試験を実施するのか、かなり驚きましたな。で、ひとしきり議論を重ねて大体の方針が出切ったと思ったのでしょうか、あるいはおやじに聞いても無駄だと思ったのか(こっちだろうな)、やっと解放してくれました。そのあとヤツは同じクラスの友人たちとライン通話で相談を始めました。それはもう真夜中でした。はたで聞いていたら結構楽しそうに議論していましたが、どれくらい成果が得られたのかは知りません、こちらはさっさと寝ましたので。

実験を再開する (2023年3月2日)

 三月になって春本番の暖かさになりました。花粉もすごくて辟易としております。

 さてトップページに記したように、鉄筋コンクリート柱梁部分架構の実験を大型構造物実験棟で再開いたしました。互いに直交する梁が二本ある隅柱梁接合部を含んだ立体の部分骨組が対象です。昨年秋に一旦終了した一連の実験の続きという位置付けですので、明治大学・晋 沂雄研究室との共同研究になります。

 とはいえ年度末のこの時期は大学の学年暦では端境期に当たりますので、この実験を誰に担当してもらうのかという実務的に重要な問題があります。でも、どう考えても今までの経緯からこれらの試験体を設計して実験してきた今までのM2およびB4の諸君にお願いするしかありません。そこで我が社の井上諒さんおよび晋研究室の村野竜也さんに主要な役割を引き受けてもらったという次第です。彼らはすでに修論の執筆・発表を終えて本来であれば四月までの“自由”を満喫できるわけですが、その貴重な時間を割いていただき、誠にありがたく思っています。晋研究室B4の川合浩平さんも手伝いに来てくれました。皆さん、ご協力いただきありがとうございます。

 しかしながら、一体しかないとはいえ大変な実験をこれから行うのですから、これを新四年生の卒論研究にしない手はありません。そこで我が社からは原川 洸さんにこの実験の担当になってもらいました。井上・村野の両先輩の指導を受けてこれから実験の手法を学んで欲しいと思います。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:試験体F5隅柱梁接合部_設置の様子20230301:IMG_1712.JPG

 試験体は写真のように重量バランスがとても悪い(画面奥の北側にも梁が付いています)のでこれを実験装置に組み入れるのは一日仕事になります。この作業は経験および熟練を要するのでわたくしにはできませんから、晋 沂雄先生にお出でいただき差配してもらいました。花粉がすごくて彼の両目が真っ赤になっていて気の毒でしたな(迂生も同じで、同類相憐れむってな感じです)。この作業は見ての通りに危険が伴いますので、無理をお願いしてアシス株式会社からも助っ人を出してもらいました。助かります。

 こんな感じで無事に試験体を実験装置に設置できましたので、これからひずみゲージの配線や変位計を取り付けるアルミ治具の作製などを経て加力までやってもらうことになります。前述のようにもうほぼボランティア的な活動になりますので、この三月に修了・卒業する皆さんにはホント感謝しております、はい。またこの四月からの新卒論生の皆さんにも実験に積極的に参加して欲しいと思います。

オープン・アクセスの学術誌 (2023年2月24日)

 トップページに記載しましたが、晋 沂雄さん(明治大学)が執筆した英文論文が採択・掲載されました。晋さんおよびハオさん(広州大学)が頑張ってくださいました。彼らのバイタリティには本当に感心させられます。英語も上手ですし、十分に世界で伍してやって行けると思いますよ。

 韓国や中国では研究業績として評価されるのは英文論文だけのようなので、日本人のように日本建築学会論文集(黄表紙と称します)の和文論文が最高峰というような認識は全くありません。英文で発表すれば全世界の同業者たちが理解できますから、それはそれで大いに意義があると思います。でもわたくしのように古い人間はやっぱり黄表紙の権威に弱いんですよね〜。そんなことを言っているとダメダメ研究者の烙印を押されそうで怖いけど…。とはいえ日本の土木学会でも現在は英文論文しか評価されないそうなので、建築学界でもやがてはそうなるのかも知れませんね。

 今回投稿したのはApplied Sciences という科学全般を対象とする学術誌です。このサイトを訪れるとすぐに分かりますが全ての論文はオープン・アクセスで、多種多様な内容の論文が日々、ものすごい勢いで採択されて即刻搭載されます。ですから、そのなかから自分の興味ある内容の論文を探すのは結構コツがいるようです(そういう迂生は実はまだよく分かっていません)。

 今回の論文は投稿から採択まで二週間くらいしか要しておらず、じゃあちゃんと査読されているのかと思うかもしれませんが、三人の査読者から(ちゃんと読んでくれたらしく)適切な意見が付されて返ってきました。ですからちゃんとした学術誌なんだろうと思いますし、実際、インパクト・ファクターは2.8くらいなのでまあまあの格付けでしょうか。

 でもオープンアクセスっていうのは読むひとにとってはタダ(無料)ですけど、投稿する側としては相当に高額の料金を支払う必要があります。そういうことも今回初めて知りましたが、これだけ多数の論文を扱っているとすれば経営主体(どういう団体なのかは知らないが)はガッポリ儲かると思いますよ(下世話ですみません)。査読者にはちゃんと査読料を支払っているのでしょうか。もし査読者はボランティアとすれば、それはちょっとフェアじゃないなあと思いますよね。どうなんでしょうか。

大学認証評価の結果は (2023年2月22日)

 よいお天気ですが花粉がすごくてたまりません。くしゃみ百連発しながらこれを書いています。

 さて足掛け三年に渡って作業してきた大学認証評価のお仕事ですが、先日、評価機関から評価結果(案)が内示されました。その結果、総体としては「…が定める大学評価基準に適合している」という評価だったのでまあ、よかったと安堵しました。ただし幾つかの項目では改善を要求されました。それに対して本学執行部は特段の意見具申は行わないと意思決定したそうです。すなわち仰せごもっともであるとして指摘された内容の改善を粛々と行うことになります。

 それはそれでよいかと思いますが、改善を要求された学部・研究科には文系のそれが多く、そういう部局は言っちゃ悪いですが相当に理屈好きなので(理系とは文化が明らかに異なります)、ある意味確信犯的に現状を維持しているように感じます。今後、そういう部局から文句などが出ないかとちょっと心配になりますが、まあ工学系のわたくしが心配してもどうにもなりませんよね。大学内に波風を立てずにうまくやってよねとだけ念じております、はい。

 さて全学に渡って改善を要求された事項として「シラバスに適切な授業形態等が明示されていない」というのがありました。これも言われた通りに改善するだけですが、シラバスってそんなに重要なのか未だに迂生は疑問に思っています(もちろん非公式見解ですよ)。シラバスは学生諸氏との契約に該当するので正確無比でなければならぬ、みたいなことをいう方もいますが、なんだかなあって思うんですよね。個々の教員がおのれの信念に従って必要だと思う教育をすればいいのであって、シラバスなんかで縛る必要はないとわたくしは考えます。どうでしょうか、でもこんなことを言うと大学認証評価の枠組み自体を否定することになるのでもう止めますけどね…。

ふるさとはあるのか (2023年2月17日)

 よく晴れて日差しが暖かいのはありがたいのですが、そのせいで花粉がたくさん飛び始めたのは招かれざる客といった感じで嬉しくないです。ことしの花粉量は例年の三倍くらい多いそうなので今から怖れおののいています。

 電車に乗ってぼーっと外を見ているとき、唐突に「ふるさと」という言葉が浮かびました。都会で生まれた人にはふるさとがない、というようなことを時々聞きます。わたくしもそのひとりなのですが、ふるさとはどこかと問われると確かに答えに窮しますな。

 父母がずっと社宅暮らしだったのでわたくしは生まれてから大学院を修了するまで何度も転居しました。一番長く居たのは新宿区ですが、そこでは中学生以降を過ごしましたので地元のことは何も知りません。小学生の頃は他の区に住んでいて、区立小学校の社会科の授業で地元の地理・歴史とか特徴とかを習いましたので、馴染みがあるのはどちらかというとそちらの方です。行人坂とか五百羅漢寺とか蛇崩川とか今でもスラスラと出てきます。

 でもそこがふるさとかと問われると、その記憶はもう遥かかなたですし、その頃の友だちとも全く付き合いがないので懐かしさは感じますが、ふるさとという気はあまりしません。

 それよりは今に至る友人もいて、思春期以降を過ごした新宿区のほうに愛着を抱きます。新宿副都心の超高層ビルがニョキニョキと建ってゆくのをアパートの三階から眺めていたことを思い出します。でも、中層のその鉄筋コンクリート造アパートがふるさとかって言われたら、それもなんだか違うんですよね。

 室生犀星の『小景異情』という詩に「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」という有名な句があります。その当時、多くの人たちは地方から東京のような都会に出てきたので、ふるさとが遠いところにあるというのはごく普通のことだったのでしょう。しかし明治維新から百五十年以上経って東京などの大都市に居着いた人たちの子や孫やひ孫が増えて人口集中が顕著になった今、わたくしのようにふるさとがないと感じる人たちはたくさんいるのだろうと思います。

 わたくしの祖父母はいずれも地方の生まれですが東京に出て来て東京で暮らし亡くなりました。ですから祖父母にはふるさとがあったわけですが、わたくしにとってはそもそもその場所さえ分からず、今となってはそこに見知った親族もいないため、結果として根無し草のように宙ぶらりんの状態になってしまいました。

 しかし我が家の愚息は東京西郊のこの場所で生まれて引越しをすることなく育ちました。中学校まで地元の公立校に通いましたので、地場の友人もたくさんいます。ですから彼にとってはまさにここがふるさとになるのですね〜。そのことを考えるとなんだかちょっと感激するのはなぜでしょうか。わたくしがこの場所に新しい「ふるさと」を作ったということになるからかな…。その答えは何十年も経ってから愚息が出すでしょうが、そのときには迂生はもうこの世にいませんから知るすべはありません。

真空時間 (2023年2月15日)

 先週の末に久しぶりに雪が降りましたが、翌日は暖かくなったこともあってすぐに溶けました。ところが今日、大学に登校すると構内の日陰に雪が残っていて少なからずびっくりしました。やっぱり八王子は寒いんだなあと思います。

 さて先週に各種発表会を実施して2022年度の教育活動が実質的に終わりました。建築学科では学生諸氏の姿も見かけなくなって静かな時期を迎え、ちょっとした真空時間が現出します。そこで例年この時期は来学期の授業の計画や準備に当てています。また四月から研究室に新しいメンバーを迎えるので研究計画も練り直します。そうやってあれこれ考えるのが楽しいというか、自由な時間がたっぷりとれて嬉しいというか、そんな感じですね。

 三年生対象の「特別研究ゼミナール」ですが、ことしは卒論研究のテーマを早々に開示してそこから興味のある課題を選んでもらって関連する既往研究を調べるなどの活動をしてもらいました。その成果を二枚の梗概にまとめましたが、四人のメンバーはいずれもまじめに課題に取り組んでくれてよかったと思います。残っている立体隅柱梁部分架構の実験を三月くらいに実施する予定ですので、それにも参加するようにお願いしてあります。

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 この二月六日にトルコ南部で発生した地震ですが、亡くなった方が四万人を超えるということでその被害の酷さに驚いています。トルコでは鉄筋コンクリートの骨組に中空レンガを充填した構造が一般的で、1999年のコジャエリ地震では柱が不規則に配置されていたり、配筋がプアだった建物の多くで層崩壊や建物全体の崩壊が発生しました。

 今度も映像を見る限りでは1999年と同じような被害が起こっていますので、耐震性能の劣る古い建物が崩壊したと考えますが、報道によれば新しい耐震基準によって設計されて建てられた建物でも倒壊が生じているとのことで、そういう建物については被害要因を調査することは重要ですし有益だと思われます。

 日本建築学会の災害委員会(塩原等大兄が委員長)ではこの地震による被害の様相を調査するために現地調査団を派遣する準備を始めました。先日ハイブリッドで開催された拡大災害委員会において調査WGの設置が承認されて、東大地震研究所の楠浩一教授が主査に選任されました。

 現地調査の時期としてこの三月末くらいを想定しているそうですが、現地がこのように厳しい様子なのでしばらくは無理だろうと思われます。被災地はかなりの広範囲に渡っているようなので、調査団が宿泊する場所や被災地までの足を確保するのが困難だと思いますし、現在は救援物資の輸送に重点が置かれていて一般人は現地近傍の空港にアクセスできないと聞いています。現地の状況をよく調べて、トルコのカウンターパートとも相談して、現地に負荷がかからずに自分たちも安全を確保できる調査にしてほしいと願います。

 わたくしが1999年のトルコ・コジャエリ地震の被害調査に加わったのも、やはり建築学会の調査団の一員としてでした。そのときの団長は壁谷澤寿海御大(当時は東大地震研教授)でしたから、東大地震研の主宰教授にはそういう役回りが期待されているようです。このときは夏でしたし、イスタンブールのホテル(とても快適だった)を宿泊基地にしてバスで被災地まで往復できました。しかし今回は真冬で極寒のようですし、前述したように近場にホテルもないでしょうから、格段に条件が厳しいように感じます。なお日本を発つ前に破傷風かなにかの伝染病の予防注射を二回打った記憶がありますので、調査に参加する方はそういう事前の準備も必要でしょう。

Bacharachはバッハラッハ? (2023年2月11日)

 アメリカンポップスの作曲家バート・バカラック(Burt Bacharach)が亡くなりました。94歳だったそうです。ヒットメーカーだった彼が作ったポップスには美しいメロディや口ずさみやすくて耳に残るメロディが多いですね。カーペンターズが唄った「Close to you」が有名でしょうが、リアルタイムで聴いていたのはクリストファー・クロスの「ニューヨークシティ・セレナーデ」(Arthur’s theme)かな。建築学科三年生の頃、製図室のアルコーブに泊まり込んでウンウン唸りながら設計の課題に取り組んでいたとき、製図板の傍のラジカセからこの曲がしょっちゅう流れていたことを思い出します。クリストファー・クロスの透明な歌声のこの曲を聴くと、行ったこともないくせにニューヨークの摩天楼の向こうにキラキラと輝く夜景を思い描いてしまうんですよね〜。

 でも映像とともに記憶に刻まれているのはやはり映画「明日に向かって撃て」じゃないでしょうか。この映画はブッチとサンダンスというアメリカのならず者が銀行強盗を重ねるというお話しでした。主演はロバート・レッドフォードとポール・ニューマンの二人です。基本は殺伐とした内容なのですが、そのひとコマに主人公のひとりが彼女と一緒に自転車に乗ってデートするというほのぼのとしたシーンがあって、そのときにバカラックの「Raindrops keep falling on my head」が流れるのです。唄っていたのはB.J.トーマスというかたです。わたくしはこの映画によってこの曲を知ったのですが(多分、そういうかたが多いだろうと想像します)、バカラックが作曲者だったのですね。

 ちなみに彼の姓のBacharachをわれわれはバカラックと呼んでいますが、言われないとそうは読めませんよね。この読み方は英米流でしょうが、調べてみると彼はドイツ系ユダヤ人のようでした。ということでBacharachはドイツ語読みでは「バッハラッハ」となり、さらに調べるとバッハラッハはドイツ西部のライン川沿いの古い小さな町でした(Wikipediaの地図をしたに載せます)。バート・バカラックの祖先はこの小さな町からアメリカに渡ったのでしょうか。ヒトラーのナチスが政権をとったのが1933年でしたから、ユダヤ人のBacharach家の歴史には悲しい物語があったのかも知れません…ご冥福をお祈りします。



卒論・修論発表会が進行中 (2023年2月8日)

 きのうから明日までのスケジュールで卒論および修論の発表会が開催されています。場所は正門脇の講堂にある小ホールで、したの写真の列柱が並んだ曲面壁の内側にあります。小ホール内部の様子をそのしたに載せましたが、会場設営担当の山村さん曰く「ちょっとゴージャスな雰囲気にしてみました」とのことで、講演者にスポットライトを当てたり、背景を赤色にしたりと工夫したそうです。司会の能作先生(准教授、建築家)が時間ぴったりに講演をやめさせ、質疑応答も時間がきたら「はい、時間なのでやめてください」とドライに切っていたのも(賛否はあるでしょうが)よかったです。おかげでスケジュールとおりに発表会が進行するのでありがたいです。

 きのうの卒論発表会では高木研の学生さんたちに質問したのですが、壇に上がっての発表だったので頭が真っ白になったらしく、うまく回答できなかったみたいです。そのあと高木先生から「ホームランボールが来てしめた!と思ったのに、ちゃんと答えられなくてがっかりした」という内容のコメントを笑顔でいただきました。指導教員としては確かにそういうことはよくありますよね。わが社でも発表練習の際に「〇〇のような質問が高木先生あたりから絶対来るから回答を用意しておけよ」と言っています。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU講堂ロビー20230207:IMG_1692.JPG

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:IMG_1696.JPG

 きょうは修士論文の発表会でしたが、修論ともなると専門性が進むのでよその系の発表のときには会場に行かない先生がたが多くなります(わたくしもそうですけど)。上の写真は今朝の部の会場の様子ですが、ガラガラなのが分かります。数えてみたら発表者8人を含めて全部で23人しかいませんでした…。ちょっと寂しいですけど、自分の研究室でこれを書いている今は計画系の発表が行われていますから、まあ他人のことをあれこれ言えませんけどね、あははっ。ちなみに写真の手前にズラッと並んでいるのは提出された修論の本体ファイルでして(今年度は46冊あった)、わが建築学科では伝統的にこうしているようです。

卒業設計の採点 (2023年2月6日)

 きょうから建築学科での一年の締めくくりとなる発表会が続きます。初日は卒業設計の採点および発表会です。ことしも学生諸君の口頭説明はいっさい聞かずに、図面と模型とによって採点しました。建築設計は口でやるものではなくて基本は図面で語らせるものなのでその初心に立ち返っただけですが、こうすると採点の時間を大幅に短縮できることもメリットです。

 ことしは全部で20作品ありましたが、結論から言うと例年にも増して今年はビビッと来る提案はほとんどなくて、かつ図面の枚数もプアな作品が多かったのは残念でしたね。Bコースの学生さんは卒業論文の執筆はしないで卒業設計だけに専念したはずですが、それに見合うとは思えない提案が散見されました。時間は十分にあったはずですが、どういうことでしょうか…。

 毎年書いていますが、室名の記入がないような平面図は論外で、何を設計したのかとか設計のコンセプトをもっと明瞭に書いてアピールすべきだと思いますよ、やっぱり。ただ、何を設計したのか分からなくても若者らしい情念が発露したような作品はあって密かにほくそ笑んだりしましたが、建築として評価するとそういう作品の採点はどうしても辛くなるのはいたし方ありませんな。まあ提案した本人自身も分かっていると思いますけど。

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   写真 国際交流会館での卒業設計の採点の様子

後期の授業が終わって (2023年2月4日)

 きょうは立春です。その名にふさわしい暖かな陽気になって気持ちがいいので、久しぶりに洗車をしました。

 さて昨日、後期の授業が終了しました。あとは来週の学事ウィーク(卒論、修論および卒業設計の発表会や審査など)を残すだけです。大学院の『耐震構造特論第一』は隔年開講なのでM1およびM2が受講しますが修論の執筆に入っているM2は少なくて、M2は我が社の二人しかいませんでした。わたくしの授業はどれもハードなので敬遠されているようです、あははっ。全部で十一人が受講してくれました。

 この授業の後半では英文論文の精読を行いました。題材はそれまで使っていた論文とは代えて、Paulay[ポウレイ]先生とPriestley[プリーストリー]先生が執筆された書籍「Seismic Design of Reinforced Concrete and Masonry Buildings」(John Wiley & Sons, Inc., 1992)の冒頭のイントロダクションの一部を使うことにしました。以前はJack Moehle[メリーと読みます、フツーは読めんわな…]先生が日米セミナー(壁谷澤寿海御大が日本側代表を務めた)に提出された論文(1993年のグアム島地震で倒壊したリゾートホテルの耐震性能評価)を読んでいたのですが、英文が比較的平易なので英語を精読する授業としては少しもの足りないこと、そして何よりわたくし自身が飽きてきたことを理由として変更しました。

 

 さてPaulay先生の書いた論文や教科書を読んだひとはご存じと思いますが、彼の文章は一文が長いことが多く、結構複雑で分かりにくいんですね。接続詞や関係代名詞だけでなく分詞構文も頻出するので、英文読解の授業としては格段にやり甲斐が出て参ります。ということで今まで以上に建築構造についての勉強というよりは英文の構造を理解して内容を把握し、筆者が言いたいことを推量するという授業になりました。

 授業では学生諸君にひとり十数行を割り当てて全訳してもらったのですが、もう難航してなかなか先に進めませんでした。和訳を聞くとどうもピンとこなかったり、書いてなさそうなことを言ったりします。そこで彼ら/彼女らがどこまで理解しているのかを探るために文の構造を言わせたり(主語はどれ?動詞は何?)、whichとかthatの関係代名詞が指すものを言わせたり、このmayはどういう意味かとか質問するわけですよ。担当者が答えられないと次々に学生さんに当てて答えさせます(これって迂生が高校生のときに受けた英語の授業で内藤尤二先生がやっていた方法そのまんまです)。でも、全員が答えられないという事態もよく起こりました。英文の構造を理解できていないのによく和訳できたな、と感心することもしばしばです。

 そんな感じでなかなか先に進めずに、90分の授業内に四、五人しか順番が回らないということが毎回続きました。こういうふうに英文輪読を7回やったのですが、結局のところ読み終わったのはわずかに13ページくらいで当初予定した28ページには遠く及びませんでした。いつにも増して英文解釈研究の授業になったわけです。この授業はもともと建物の耐震構造について学ぶものですが、わたくしは英文を正しく理解することも大切と考えてこうしたわけです。

 Paulay先生のちょっと叙情的で難しげな英文を選んだせいもあるのでしょうが、学生諸君の英文読解力の無さを今まで以上に強く感じました。最近の英語教育がコミュニケーションに重点を置いているせいか文法に無頓着だったり英文の成り立ちを理解できない学生が確実に増えています。確かに英会話では文法にかまわずに度胸よくしゃべくりまくることが必要でしょうが、書いてある文章を読むときにそれは通用しませんよね。書いてある英文を読めないということはサマセット・モームやバートランド・ラッセルなどの文筆家が執筆した名文を読んでも分からないということで、それって異文化の理解に支障をきたす事態だと思います。そんなことでいいのでしょうか…。

 最後はいつも書いているような英語教育に対する苦言に至りました。中学校や高校での英語教育で文法を重視しないのであれば、文法を知らなくても英文を理解できる方法を教えるべきですが、そんな便利なものがあるのでしょうか。日本人にとっては馴染みのない西洋の言語である英語をある程度機械的に理解するためには、文法を知っておくことが今でもとても有益だと思っています。少なくとも迂生はそうやって英文を理解してきましたし、英作文も行なっています。

 でも現代では別の方法によって英文を理解できるのだということであればそれで結構です。もしそうならば、わたくしが上述したような英文読解の授業をする必要はサラサラないので(老兵は去りゆくのみ…)、二年後のこの授業ではもう英文輪読はやめようかなと考え始めたところです。それまで時間はいっぱいありますので熟考しようと思います、はい。授業内で英文輪読を行なっている大学教員の方がおいででしたら、是非ともその内容や工夫を教えてください。

ロシアの非道は昔から (2023年2月3日)

 ロシアの大統領Puによるウクライナに対する非道はいま現在も続いていて、グローバル社会とか国際平和とかお題目を唱えても結局は誰も何もできないという無力感を突きつけられました。こうしているあいだも罪のないウクライナの人びとが殺され傷つけられているわけで、そういう被害者たちの怨嗟の声ははるか極東の日本にまで伝わって参ります。

 しかし歴史を顧みれば、そういうロシアの非道はいまに始まったわけではないことに気がつきます。わたくしを含めてほとんどの日本人は気に留めないでしょうが、二月七日は「北方領土の日」です。スターリンが支配する当時のソビエト連邦は、ポツダム宣言を受諾して全面降伏した日本に対して火事場泥棒的に侵入しました。そして八月十五日の終戦後に、日本軍は武装解除に向けて動き始めた頃ですが、ソ連軍が北方領土に攻め込んだのです。駐屯していた日本帝国陸海軍は無法なソ連軍を迎え撃って領土防衛の戦いにつきました。その点が満州の関東軍とは大きく異なるのですが、善戦もむなしく結局のところ樺太南部、千島列島および北方四島を占領されました。

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  図 日本の領土である北方四島(外務省のHPより)

 それ以来、ソビエト連邦は北方四島(択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島)を不法に占拠して自国の領知権を行使し続けて現在に至っています。1945年のソ連のこのやり方は現在のロシアがウクライナに対してやっていることと基本的に同じです。20世紀前半の帝国主義をソ連やロシアは否定すると言いますが、やっていることはまさに帝国主義そのものでして、ロシアに染み込んだそういう体質は百年やそこらでは変わるはずもない、ということでしょうね。そういうロシアのDNAが亡霊の如くに蘇ったわけですが、それを先祖返りとして容認していいわけはありません。


卒論を書く ただし高校生だけど (2023年2月2日)

 うちの建築学科では明日が卒論・修論本論の提出日です。ことしは我が社には卒論生がいないので卒論の指導はやらなくてよいのでそこは楽です。そうではあるのですが、わが家では高校生の愚息が卒論に取り組み始めました。高校二年生の後半から三年生の後半までの一年間かけて執筆するそうです。最低字数の規定があって12,000字以上書くことを要求されています。これってかなり本格的な論文のようでして、例年、力作ぞろいの卒論が発表されているみたいです。大学の係属校なので大学入試がありませんからたぶん余裕があって、大学での学びを先取りしたような教育(想像するに探求学習の大掛かりなものか)をしているのでしょうね、きっと。

 本人がテーマを選んでそれに対応できる先生が指導教員になるそうで、スケジュールに従って折に触れて途中経過の報告を求められるようで結構大変みたいです。配布されたインストラクションをちらっと見ましたが、わたくしが大学生に要求するのと同じことが書かれていました(ネットの情報ではなくて、信頼できる書籍や論文を読むことなど)。

 というわけで愚息も関連する参考図書を集め始めたらしくて、先日は進学予定先の大学の図書館まで行って数冊の本を借りてきました。ちなみにそこで借りた本は自分の高校で返却できるそうで、なかなか便利なシステムを構築しているなあと感心しました。まあ高い学費をとっている私立大学だからそれくらいサービスしないとね。

 でも愚息はそれだけでは足りないと思ったらしくて、オヤジの大学の図書館でも借りてきてくれって頼まれました。ネットで検索したら結構たくさんヒットして、そのなかの数冊を借りて来てあげました。いやあ大学の図書館ってほんとうに便利ですな。ヤツの設定した卒論テーマは完全に人文系なので迂生には馴染みのない本ばかりでしたが、ちらっと読んだら結構面白いことが書いてありました。日頃手に取らない書籍を読むことに醍醐味みたいなものを感じた瞬間でしたね。

 ところがそうやって集めた参考図書なのですが、勉強机の上にデンと積まれたまま全く手付かずに置かれています。せっかく借りてやったのに…と思いますが、自身のことを思い起こせばしばらくは机の上に放置して「積ん読」するのはしょっちゅうですから、まあそういうものか、あははっ。

立原道造の「或る果実店」について (2023年2月1日)

 詩人で建築家だった立原道造[たちはら・みちぞう]についてはこのページでよく書いています。東京帝国大学建築学科を卒業して石本建築事務所に勤めましたが、結核のために若くして亡くなりました。そのため残念ながら実在の建築を残すことはありませんでした。しかし、大学時代の設計製図等の課題で設計した図面が多く遺されています。綺麗に着彩されたパース(透視図)や几帳面に書き込まれた平面図を見ると建築センスが溢れていて、さすがに辰野賞の受賞者だけあって非凡なものを感じさせます。

 
写真 立原道造 1938年10月 石本建築事務所にて(角川書店版 立原道造全集 第二巻)

 立原道造が遺したそういう図面を研究している人たちもいるようでして、ことし1月の日本建築学会の計画系論文集に種田元晴さんというかたが執筆した論文が載っていました(文献1、こちら)。そこには建築学科の学生だった立原が1935年に設計した(と同定される)「或る果実店」についての調査結果と考察とが書かれていて興味深く読みました。「或る果実店」の図面には具体の敷地は明示されていませんでしたが、種田氏はこれが東大正門前の「万さだ」が建っている場所であることを状況証拠によって示しました。

文献1:種田元晴,立原道造「或る果実店」設計案に表現された現実性と物語性,日本建築学会計画系論文集,第88巻 第803号,pp.264-274,2023年1月.

 東大正門の本郷通りを挟んだ向かい側にはフルーツパーラーを営む「万さだ」があります。わたくしが学生の頃には本郷通り沿いにくだもの屋も開いていましたが、現在では閉店されてフルーツパーラーだけが営業しているようです。わたくしが大学院生の頃ですが、11号館7階にお出でになった岡田恒男先生がお昼どきに「北山くん、カレーでも食べに行こうか」とおっしゃって「万さだ」のフルーツパーラーに連れて行ってくださったことは以前に書きました。

 ただ、フルーツパーラーというと銀座の資生堂に代表される高級なレストランのようなものをイメージするかも知れませんが、「万さだ」はそうではなくてカレーライスとハヤシライスが名物の庶民的なお店でした。フレッシュなバナナ・ジュースが絶品ということくらいがフルーツっぽいところでしょうか。学生の頃には青山・小谷研究室の先輩がたと「万さだ」に出かけてカレーライスだけでなくこのバナナ・ジュースも一緒に頼むというのがちょっとした贅沢でした。カレーライスはご飯がお皿半分に土手を作って盛られていて、カレーのほうは黒に近い茶色をしていて焦げた風味のするのが特徴でしたが、今はどうなのでしょうか。

 いまの「万さだ」をGoogleのストリートビューで訪問したのが下の写真です。視点は東大正門前にあり、画面の左右を横切るのが本郷通り(国道17号)です。赤信号の右の角地にある、蔦の絡まった三階建ての建物が「万さだ」で、シャッターの降りた果物店の部分が廃屋のようでもの悲しさが漂っていますね。




 図 立原道造設計「或る果実店」のパース

 さて、くだんの種田論文ですが、立原道造の「或る果実店」が「万さだ」の建つ敷地を想定していることを指摘してくれたのはいいのですが、立原の遺したパースを見るとそれがもう「万さだ」の佇まいとそっくりなのですよ。それが上の図です(筑摩書房版立原道造全集4[2009年3月]より)。三階建てといい角地の利用の仕方といい、東大に通ったひとだったら立原のパースを見たらまず最初に「万さだ」を思い出すのがフツーじゃなかろうかって迂生は思うわけです。少なくともわたくしはそうでした。ちなみに「万さだ」のこの建物が建ったのは種田氏によると1928年でして、学生だった立原はいつもこの建物を見ていたことになります。

 わたくしがここで問題としたいのは、建築設計のセンス抜群だった立原がそのように日頃見慣れた建物を模倣するような、ある意味安直な設計をするだろうかということです。設計の課題を出した先生だってこりゃ「万さだ」だなってすぐに分かるわけですからね。立原はこのころから詩人としてのオリジナリティを発揮していて、そういう“芸術家”が今で言うパクリみたいなことをするだろうかという疑問です。同じ場所に同じような建物を設計するなんてことは学生だってフツーはしないと思うけどなあ。

 この点について種田氏は何も触れていませんが少し気になったのでしょうか、「実在する同用途の店舗[北山注;万さだのこと]の改良案として制作されたものであったとも考えられる」と書いています。うーん、どうなんでしょうかね。現在だったら既存建物のコンヴァージョンとかリノベーションは認知されていますが、戦前の日本ではそのような概念は皆無でしょうから、ちょっと苦しい言い訳のような気がします。

 ということで種田論文は興味深くて学術論文の成果としてはこれで十分なのでしょう。でも立原道造の詩歌を若いころに熱愛したこちとらにとっては、その結論として「或る果実店」は「万さだ」の敷地を想定していたと言われてもちっとも嬉しくないわけですよ。立原が設計した「或る果実店」と実在する「万さだ」の類似性についてはどうしてくれるのよ…。それについての見解を是非とも示してほしいと思います。もっとも立原道造亡きあとの今となっては真相は闇のなかっていうことかも知れませんけど…。

知性に地域性はあるか (2023年1月26日)

 スキー場のように寒い日が続いておりますが、みなさんのところでは大丈夫でしょうか。わたくしの住む街では幸い雪が降ることはありませんでした。ただ、ここのところ大きく報道された押し込み強盗による殺人事件が世間を震撼させたために、わたくしの住む小さな市はすっかり有名になってしまったという感を受けます。90歳を超えた方が犠牲になったのですが、考えてみるとその方は太平洋戦争を生き抜き、戦後の混乱と激動の時期をやり過ごしてやっと平安を手に入れたはずだったのに、平和な令和の時代にこんな運命が待っていたとは気の毒すぎて泪が出て参ります。

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 さて、ローマ時代の皇帝で『自省録』を書き残したマルクス・アウレリウス・アントニヌス(紀元2世紀のひと)に関する書籍を読んだのですが、今から1800年以上も前のひとが現代でも通じるような思索を残しました。そこには人としてどのように生きるべきかが自戒として記述され、自由を尊ぶこと、死を自然なものとして受け入れること、名誉などを求めても虚しいだけでそんなものは求めずにただ現在を大切に生きること、などが書かれているそうです。

 
写真 マルクス・アウレリウスの胸像(メトロポリタン美術館蔵、Wikipediaより)

 そういう『自省録』が書かれたのは紀元2世紀後半ですが、ではその頃の日本はどうだったのでしょうか。弥生時代の終わりくらいで稲作は既に行われていましたが、どの程度の権力者がいたのかは明らかではなく(邪馬台国などがあったといわれる)、古墳時代もまだ始まっていません。日本にはもちろんまだ文字もありませんから、書き記された文書や碑文等も残っていないわけです。

 ですから現在に遺っているものだけを見ると、ヨーロッパの文化は発達していたのに対して日本は未開で野蛮な状態であったということになるでしょう。地域ごとのそのような文明度の差異がどうして生じたのかは人類学的な研究対象でしょうが、その明確な理由は分かっていないように思います。

 しかし人間の知性のレベルが住む場所によってそんなに異なっていたということはあるのでしょうか。これが今回の小文でわたくしが書きたい疑問です。紀元2世紀のローマ人は確かにコンクリートで建物を建て水道を引き、数学の定理を生活に使い、ワインを飲み、風呂に入り、マルクス帝のように人生に対する深い思索を行なっていました。すごいですよね。でも日本列島に住んでいた人びとだって水田を開き灌漑施設を作るために測量をし、作物の種を蒔く時期を知るために天体の動きを見てなにがしかの経験則を得ていたはずです。文字がないのでそういうものが文書として残らなかっただけで、集落ごとにいたであろう長老の口伝によってそうした知性は代々伝授されて発達してきたと思うのです。

 約7万年前に人類が二回めの出アフリカ(アフリカ中央部で誕生した人類が揺籃の地を出て拡散を始めたこと)を果たして以降、人類は長い時間をかけて地球全体に広がりました。現在残っているのはホモ・サピエンス一種だけですが、そうであれば現生人類の脳の構造は基本的にみな同じであり、個々人の知性にはばらつきはあるでしょうが、地域ごとの集団としてみればそれはほぼ同程度であったのではないか、というのがわたくしの仮説です。すなわちマルクス帝が遺したような人生訓は日本を含むどこの地でも存在しており、それはその地に生きる人びとの口の端に上って人生を豊かにしたのではないでしょうか。

 このことはどうやったら証明できるのでしょうかね。いつも書いていますが物質の塊である脳の活動の総体として意識や知性が生まれるのだとすれば、そのメカニズムを解明しない限りこの問いに答えることはできないような気もします。そうであれば、わたくしが生きているあいだは謎のままということになりそうです、まあいいけどね。

ポスト・モダニストと呼ばれて (2023年1月25日)

 建築家の磯崎新さんが昨年暮れに91歳を一期としてこの世を去りました。それからしばらくは彼の業績を振り返って建築家のみならず思想家としても卓抜していたという論評が幾つか新聞に掲載されました。そういうとき、彼を評してポスト・モダニストとかポスト・モダン建築の旗手というようなレッテルが使われたのですがそれは本当に適切なのだろうか、とても気になりました。

 たとえばつくばセンタービル(写真1)はポスト・モダン建築の頂点のように言われます。確かにこの建物には歴史様式からの引用が随所に見られ、モダニズム建築からの逸脱のようにとられるのかもしれませんが、そういう過去の回顧は19世紀末のゴシック・リバイバルを見るまでもなく建築の歴史ではよくあることでしょう。わたくしの認識としてはこの建物の根底には明らかにモダニズムがあるのですが、そこにコテコテといろいろな歴史的建築ボキャブラリーを散りばめてみました、という感じではないでしょうか。

 
  写真1 つくばセンタービル(1984年 北山和宏撮影)

 そもそも磯崎新さんご本人がポスト・モダニズムをどれくらい意識していたのか疑問です。彼自身は「廃墟」とか「解体」とか「成長」などの核となる思想のもとに建築を設計しようとしたと思われます。そのときに使えるものは使おう、すなわちモダニズム建築が確立してくれた鉄筋コンクリートや鉄やガラスは使い、発展し続ける技術も使うが、それを乗り越えて全く新しい建築思潮を作り上げようというような(ある意味だいそれた)志向はなかったように思うのです。ですから磯崎新さんご自身はポスト・モダン建築を設計している気などサラサラなかったのですが、モダニズム建築からの逸脱が表面的に目立つことに目を留めた人たちが彼のことをポスト・モダニストなんて呼んだだけじゃないでしょうかね。

 日本における現在の建築界のスター建築家は誰なのかよく知りませんが、隈研吾さんあたりでしょうか。翻ってわたくしが建築学科の学生だった頃には、磯崎新さんがその座にあったように思います。その当時、わたくしが撮影した写真には彼の作品がたくさんあります(たとえば写真2および3)。建築学科の友人たちと連れ立って出かけてゆき、それぞれの建物を見てはその空間を体験したのでした。若い頃のそれは正直に言えば物見遊山気分だったと思いますが、建築学科での教員生活を三十五年も続けてきた今に思えば貴重な建築体験としてわたくしの血肉になったことは疑い得ないと断言できます。

 その意味で磯崎新さんはわたくしにとっては紛れもなくスターであり、その死去はまさに巨星墜つという感覚でやるせない想ひを抱きました。やがて気ままな時間が増える頃には、あらためて磯崎建築を体験しに行きたいと思います。在りし日の面影を偲ぶよすがとして写真4を載せておきましょう(わたくしの父のアルバムにあった写真から抜き出しました)。ご冥福をお祈りします。

 
  写真2 群馬県立近代美術館(1983年 北山和宏撮影)

 
  写真3 北九州市立中央図書館 内部(1983年 北山和宏撮影)

 
写真4 東大建築学科クラス会での磯崎新氏(1994年 屋形船にて 撮影者不明)

なぜ都立高校に進んだのか (2023年1月24日)

 先日の境有紀先生(京都大学防災研究所)のページに東大生の出身高校の話しが載っていて、勝ち組とか敗者復活というようなことが話題になっていました。わたくしの思い出としては、駒場キャンパスで同じクラスになった面々に開成、武蔵(私立)、灘、筑波大学附属などのいわゆる超有名高校の出身者が結構いて、そのことを当初はかなり意識しましたね、やっぱり。だってそれまで開成高校や灘高等の生徒をナマで見たことはなく、その学校に入るのがいかに大変かということばかりが頭にあって、そういう人間に対する好奇心がものすごくあったのだと思います。

 以前にも書きましたが、『大学への数学』(東京出版)の学力コンテストや通信添削のZ会の成績ランキングに名前(やペンネーム)が載るのは灘高のひとが多くて、同じ高校生だということも忘れてコイツらはいったいどういうひと達なんだろうと常々不思議に思っていました。でも、そういう奴らと結局は同じ大学で一緒になったのだから、結果良ければ全てよしじゃないけれども、そんなことはもうどうでもいいんじゃないのって思うようになりましたね。実際、同じ学び舎で隣り合って勉強するようになると、彼らもフツーのひとであって特段、言い立てるようなこともないってことに気がつきました。

 その頃を振り返って、上述の超有名高を意識することはなかったと思いますが、それはそういう高校に入れるとはハナから考えていなかったというのがあります(実際、受験した高校もありましたが落ちました、あっさり)。わたくしが合格したのは22群の都立高校と私立大学の係属高(男子校です)の二校でした。当時、わたくしが住んでいた第二学区では22群(戸山高および青山高)が最上位でして、伝統ある戸山高校の東大進学者が多かったことから青山高校もそれに引きずられて三十名から四十名が東大に進学するようになっていました。

 学校群制度のもとでの都立高校ですが、そのころ有名だったのは22群のほかに西・富士、立川・国立[くにたち]の各群でした。都内の居住地域によって受験できる学群は決まっていて、例えばわたくしが西高・富士高を受けることはできないルールでした。日比谷高校の凋落ぶりはひどくてその当時、大学進学実績で日比谷高校が話題になることはありませんでした。現在は東京都の進学指導重点校になっている八王子東高校もその頃には(新宿区に住んでいた迂生は)聞いたことがありませんでしたね。

 さていっぽう、私立大学係属高に進むと進学先の大学も実質的に決まることになりますが、その頃は生意気で意気揚々としていましたから、たかだか15歳かそこらで自分自身の可能性を狭めなくてもいいじゃないかと思っていました。すなわち三年後に大学を受験して盛り返せばよいくらいの認識でしたね。そうであればそれは敗者復活戦と言えるのかも知れません。もっとも高校生の時分に自分自身を「敗者」と思ったことは一度もありませんでした(まあ、当り前か)。

 そしてこれが重要なのですが、(超有名校を落ちたくせに)東大が手の届かないところにあるとは全く思っていなかったわけです。なぜそのように思ったのかは自分でも分かりません。まさに根拠のない自信そのものですな…。東大合格者は三千人を超えるという事実を冷静に判断したのかも? 理科一類の定員は1090名くらいで入試の倍率は2.7倍くらいだったと記憶します。千人も合格できるし、三人にひとりが受かるとすれば試験場で両隣を出し抜けば合格できるということを考えていましたからね。こう考えると気が楽になるじゃないですか。でも、そもそもが楽天家だったということかも…(これは今もそう)。

 あるいは、タバコをプカプカとふかしてお酒ばかり飲んでは酔っ払っている父がその大学を出たという事実は大きかったかも知れません。父ができたのだから迂生だってできるだろってな感覚ですよ。時代は進んで、我が家の愚息はそのようには全く考えなかったようでして私立大学の係属高に進みました。もちろん、それはそれで大変に結構なことと思います。

 ちなみに世間では今も昔も東の東大、西の京大というふうに言われますが、高校生だったわたくしが京都大学を意識したことは全くありませんでした(京大の皆さん、ごめんなさい)。だって京都は修学旅行で行くところという認識くらいで、勉学や生活の場という感覚が全くなかったし、それ以上に東男(あずまおとこ)にとっては西国は馴染みがないということだったのだと思います。

 ということでわたくしは都立高校に進学しましたが、でも本当を言うと男子校ではなくて女の子もいる共学校に通いたいと思っていたんですけどね、あははっ。

深く考えることを求めない試験 (2023年1月20日)

 きょうは暖かかったですが、明日からはこの冬最強の寒波がやってくるとニュースで言っています。それが正しければつらい日々になりそうですね、やれやれ。

 さて先週、大学入学共通テストが終わりましたが、受験者からは英語(リーディング)が難しかったという声が多いみたいです。実際、この科目の平均点は下がったそうです。

 迂生も英語(リーディング)の問題を見ましたが(見るだけです、解きはしません、そんな元気ないから…)、出ている英語はどれも平易でつっかえることはないと思いますし、格調高い名文の類は一切ありませんでした。英文法を詳しく知らなくても意味は分かるように見えました。

 しかしながら読まねばならない英語の分量がやたらに多いのですよ。以前に何度も書きましたが、相変わらず情報処理の速さを評価する出題方針は変わっていないようです。平易な文章をたくさん読んで、その意図するところを読み取るということです。そういう能力は生活してゆく上では確かに必要でしょうが、それを入学試験で殊更かように問うことの意味はなんなのでしょうか。英文の表層だけをサラッとなぜるだけで、深く考えることを求めない試験って、無味乾燥で味気ないと思うのはわたくしだけでしょうか。

 それとも英語という教科では、深い思考に沈潜して人生を豊かにする手法を模索することは求めていないということなのか。こういう問題が出題されるのもわが国の一般大衆の志向を反映しているのでしょうが、自身で深く考えて判断し自分の意思で行動するという人間が生きる上での普遍的な規範をもう一度思い出していただきたいと思います。

どこまで見えて何を見てるのか (2023年1月18日)

 今朝はきのうまでの寒さが少し緩んだような気がします。さてときどき京王線の車中から富士山や丹沢山塊が見えるというようなことを書いていますが、それでは調布から南大沢に向かう下りの車窓からどんな山々が見えるのだろうか興味を持ちました。そこで、寒くて天気のよい朝、通勤電車の窓にへばりついて観察してみました。

 電車内では普段は読書するので景色は見ないのですが、意識的に遠くに見える風景に集中してみたわけです。この経路はもう三十年以上通っているのですが、気を入れて風景を観察したのは実は初めてでした(フツーのひとはそんなことしないか、あははっ)。

 そしてこの朝、京王よみうりランド駅から稲城駅のあいだで、ほぼ真北あたりに白く輝く山峰がうっすらと見えることに気がつきました。全体に雪が積もっていてそこに陽光が当たったせいか、とても美しい感じがしました。でも皆さんご承知のように東京の北方には全体としては関東平野が広がっていて高い山はありませんよね。そこでグーグルマップで調べたのが下の図です。分かりやすくするために地図の下にある稲城駅にマークをしました。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:稲城駅から北方を望む2023-01-18 11.30.06.png

 その結果、わたくしが見たのはどうやら日光白根山と男体山とである(らしい)ということに気がついて結構びっくりしました。その昔、栃木県宇都宮市で暮らしていた頃には男体山をいつも間近に仰ぎ見ていましたが、まさか東京の多摩地域から見えるとは思わなかったからです。なお、この地図には赤城山(群馬県)も明記しましたが、その山容からはわたくしが車窓から見たものではなかろうと判断しました。

 でも、本当に栃木県北部の山々が多摩東部から見えるのだろうかという疑問が湧きますよね。そこで、そのことについてもネットで調べて見ました。便利なものでそういうことを計算してくれるサイトがちゃんとあるんですね〜(ホント、助かる。カシオ計算機のサイトです)。ちなみに日光白根山および男体山とも最高高さは約2500メートルです。建物の2階から高さ2500メートルのモノが見える距離を計算すると189キロメートルと出ました。なおこのサイトでは、地球の半径を6378kmの球体とし、大気の屈折により6%遠くまで見えると仮定しているそうです。ちなみに京王線はわたくしがこれらの山々を見た区間では高架になっていますので、視点の高さは建物の2階よりも高いと思われます。

 そしてわたくしの視点から日光白根山および男体山までの直線距離は約130キロメートルでした。すなわち理論的にはここから見えてもおかしくないということになりました。いやあ、驚いたな。条件がよくて目を凝らして集中して見れば、そんな遠くの山々まで見通すことができるんですね。あんまり驚いたので皆さんにご報告いたしました。まあ、どうでもいいですよね、ぎゃははっ。

それから二十八年 (2023年1月17日)

 1995年に兵庫県南部地震が発生してからきょうで28年になりました。この頃は若かったので、学生諸君と一緒に被害建物の調査に飛び回り、少しは世間さまのお役に立てたのかなと思っています。でも、多数の方々が亡くなりましたし悲惨な経験をされた人びとも多くいることを考えると、このときの悲しみが癒えることはないのだろうと今更ながらに思います。あらためて犠牲になられた人たちに対して合掌…。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:1995兵庫県南部地震:阪神青木駅_12間通り北上.jpg

 この写真は1995年1月27日に被災地に入って二枚めに撮影したものです。当時電車が動いていた阪神・青木[おおぎ]駅まで行き、そこから徒歩で三宮方面に向かいましたがそのときの一コマです。青木駅まで電車で来て、そこから線路沿いを黙々と歩く大勢の人たちの姿を今でも憶えています。東京にもやがて大地震が来るといわれていますが、28年前のこの教訓がどのくらい活かされたのでしょうか。特に東京近郊に住んでいる市井の人びとがそのことをどの程度意識しているのかは甚だ疑わしいように思うのですが、大丈夫かなあ…。ちなみに今年は1923年の関東大震災からちょうど百年めです。

共通テストに出た建物 (2023年1月16日)

 昨日、大学入学共通テストが無事、終わりました。初日の夕方の英語リスニング試験に対して不特定多数の会場を対象として騒音によって妨害するという脅迫があったそうですが、わたくしの大学では幸いそういうこともなくつつがなく終了できました、よかったです。初日は朝から夕方までびっしり試験があって、受験生諸氏はさぞ大変だったことと思います。いつもこの時期に書いていますが、若いからこそ集中して試験問題に臨むことができるのだということを再認識しました。

 さて国語の問題ですが、その第一問に建築家のル・コルビュジエの窓に対する評論が問題文として取り上げられました。その文章を読んで結構驚きましたが、さらに彼の設計したサヴォワ邸の白黒写真も掲載されたことが驚きに拍車をかけましたな。

 問題では二つの文章が併記されていて、問いの内容もよく工夫されていると感心しました。このような出題であればル・コルビュジエを知らなくても、また建築に対して興味がなくても十分に対処できるような問題だったと思います。しかしこれで約51万人の高校生(受験生)たちが建築家のル・コルビュジエを認識したことになりますから、それって建築学科の教員としては結構大きなことだと考えます。問題を見て建築への興味をかき立てられ、志望を変更して建築学科に出願する人びとが出てくるかも知れませんから。

 ただサヴォワ邸の写真はなぜ必要だったのでしょうか。横長に連続する窓が建物外周に配されるという独特のファサードをしているのは確かですが、問題文を読めば写真がなくても内容は理解できると思います。なによりも掲載された写真の解像度が粗くて、なんだかピンボケみたいで冴えない画像だったことが気になりました。もしかしたら引用された文章にその写真が載っていたのかも知れませんけど…。建築の写真はやっぱり美しくないとダメだよなあ。

 サヴォワ邸は1931年に竣工した鉄筋コンクリート造の住宅でして近代建築史上、燦然と輝く傑作として建築をやっている人で知らないひとはまずいないでしょう。ウィキペディアに載っている写真を下に示しておきます。

 

 ル・コルビュジエは近代建築の五原則を1926年に発表していて、それは以下のようなものでした。

 1 ピロティ(サヴォワ邸の1階がピロティ[Pilotis,フランス語]になっている)
 2 屋上庭園
 3 自由なプラン(プランとは平面計画のこと)
 4 水平連続窓
 5 自由なファサード

サヴォワ邸にはこれらが全て取り入れられて実体化されました。この五原則はいずれも鉄筋コンクリート構造の出現によって可能になったことを申し添えます。


丘のキャンパス 明治大学生田キャンパスへゆく (2023年1月13日)

 わが大学は多摩丘陵の尾根筋に建っていて、京王線から見ると九号館は小山のうえに築かれた城塞のようにも見えます。さて、昨日、明治大学建築学科の晋 沂雄研究室と合同ゼミを開きました。せっかくなのでこの度はそちらの大学へ出向きました。ちなみに2020年早々にパンデミックが発生して以来、よそ様の大学に行くのは初めてになります。

 わたくしは退職された狩野芳一先生の代わりとして1999年度に明大で非常勤講師をしたことがあります。明大生田キャンパスに行くのはそのとき以来かなと思います。その頃は小田急線の向ヶ丘遊園駅から出ている職員専用スクールバスで生田キャンパスまで通いましたが、昨日は都立大から向かったこともあって小田急線の生田駅から歩いてみました。

 明治大学の生田キャンパスも小高い丘の上にあって、昔は急傾斜の階段をえっちら昇る必要がありましたが、24年も経つと諸相が変わっていて文明の利器が設置されていました。それが下の写真です。新築された研究棟の脇にガラス部分がありますが、ここにエスカレータが置かれていて、学生さんたちの多くが利用しています。手前に入口があるのですが、学生さんたちはどういうわけかそこからは入らずに、奥の暗いところにある入り口から入って内部をぐるっと回ってからエスカレータに乗っています。ははあ、そういう掟が多分あるのでしょうね。ということで迂生も学生諸君の後についてエスカレータを利用しました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:明治大学生田キャンパス20230112:IMG_1663.JPG
説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:明治大学生田キャンパス20230112:IMG_1665.JPG

 上の写真のようにエスカレータの脇には階段もちゃんと設置されていました。ここは建物の内部なので屋根がありますし、階段の勾配も昔のアクセスルートにある外部階段に較べると緩やかなので利用するひとはいるのかも知れません。ということでキャンパスのあるレベルまで楽に到達できました。

 久しぶりに来た生田キャンパスが立派になっているのを興味深く眺めながら、晋 沂雄先生の研究室がある建物を目指しました。それが下の写真ですが、この建物は11階建てで丘の上のモニュメントのように屹立しているので下界からはよく見えます。愚息が通っていた小学校の教室からは、丘の上にそびえるこの建物が殊のほかよく見えるんですねえ。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:明治大学生田キャンパス20230112:IMG_1668.JPG
説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:明治大学生田キャンパス20230112:IMG_1672.JPG

 で、十階にある晋 沂雄先生の部屋に行ってみて(もちろん初めてです)、窓から見える景色のよさに仰天しました。それが上の写真です。日よけのルーバーが横に走っていて景色が分断されるのはちょっと癪ですな。この写真には写っていませんが、多摩川がちょっと先を左から右へと流れていて、ちょうど正面は調布市国領あたりであることがすぐに分かりました(京王線の国領駅前にある超高層マンション[久米設計の作品]が目印)。ええっ、ということはわが家はそのちょっと右側ということになって、直線距離にすると思いのほか近いということが分かりました。

 ということで久しぶりの明治大学を満喫しながら、晋研究室との合同ゼミを三時間くらいやって研究活動を堪能しました。それはとても刺激的で有意義な時間だったのですが、そのことは割愛します。そのあと久しぶりに小山明男教授(かつてわが社の助手を務めたかたでコンクリートを中心とする建築材料学が専門)にお会いしてちょっとした内密の相談をしたりしました。

 その建物のすぐそばから向ヶ丘遊園駅に行く職員バスが出ていましたので(そこまでは晋 沂雄先生に連れて行ってもらいました、いろいろありがとうございます)、帰りはそれに乗りました。向ヶ丘遊園自体はずいぶん前に閉園したため駅周辺の再開発が行われているようで、駅前広場が再整備されて広くなっていましたし高層ビルも建ち、四半世紀前の狭くてごちゃっとした雰囲気はなくなっていたのにも驚きました。そこから小田急線に乗って狛江駅で下車し、小田急バスに乗って帰宅しましたが所要時間は40分くらいで、自分の大学のそれの2/3くらいでした。やっぱり近いんだあ。

清冽な朝 (2023年1月10日)

 きょうは太平洋側の冬らしい清冽な朝を迎えました。よく晴れましたが北風が強い寒い日になりましたね。多摩川を渡る京王線の鉄橋からは真白い富士山がよく見えます。そこでふと思いついて南大沢キャンパスの八号館の八階から西側を眺めて見たのが下の写真です。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU8号館8階西側からの眺め:IMG_1659.JPG

 このキャンパスで大学生活を送るようになってから三十年以上が経ちますが、八号館八階の西側ベランダに来たのは実は初めてです。わたくしの研究室は隣の九号館の七階にありますが、八号館と九号館とはツインタワーのように建っていて四階以上では直接の行き来はできません。九号館の西側には八号館が建っていて七階からの視界を遮っていますので、八号館の西側に上の写真のような風景が広がっていることに少なからず驚きました。想像はしていましたが思った以上にいい景色だったからです。

 こんな感じで八号館からは富士山がよく見えるだろうと思ったのですが、その通りでした。上の写真の右端に(写真にすると小さくなってしまいますが)うっすらと白い富士山が写っています。富士山の手前の山塊は神奈川県の丹沢山系と思われます。八王子から相模原を過ぎ丹沢山系を超えると、そこはもう山中湖で富士山はすぐそこです。東京都立大学南大沢キャンパスから富士山までは直線距離で約70キロメートルでした。近いのか遠いのかよくわかりませんが、東京都心からわがキャンパスまでは約40キロメートルなので、それを考えると意外と近いのかも…。


当世風邪考 (2023年1月4日)

 昨年12月下旬の最後の授業が終わって帰宅すると39度近い熱が出ていて、それからしばらくは臥せっていました。家内が心配して病院に行くように言うので幾つかの医院の発熱外来に電話しましたが、受付開始4分後には既に予約で一杯でした。そんなことが二日続いて結局のところ、病院に行って診断を受けることは諦めて寝ていることにしました。

 症状は幸いかどうか分かりませんがフツーの風邪みたいでして、手元にあったカロナール錠を数日飲んでいるうちに熱は下がって、十日ほどで咳なども出なくなりました。でも、私が罹患したのが新型コロナ・ウイルスのCOVID-19なのか、インフルエンザなのか、それとも他のコロナ・ウイルス(すなわちフツーの風邪)だったのかは分からず終いでした(そこでこの文章ではわたくしが今回、罹ったのは風邪と呼んでおきます)。

 これってどうなんでしょうね。病院に行きたいと一番思うのは発熱して具合が悪くなったときでしょうが、そういうときに診察を受けるのは現在の日本では極めて困難なわけです。幸いにも熱が下がって症状が治まってきたら病院に行こうという気分も失せますので、COVID-19かどうか分からないままに治ったひとたちが日本にはゴマンといるのではないかと推量します。あるいは不幸にして重症化した場合にはどこの病院が受け入れてくれるのでしょうか。

 2020年初頭から始まったCOVID-19のパンデミック以来懸念されてきたことですが、これはまさに医療崩壊そのものです。COVID-19はだんだんとウイルスが変異して重症化しなくなったとは言われますが、感染力は強くなって罹患者数が増え、その結果として毎日数百人の方が今も亡くなっています。そういう事実自体がだんだんと報道されなくなって来ていますよね。

 COVID-19をフツーの風邪と同類と見なすのであればそれはそれで構わないので、医療を提供する側にも通常の風邪としての対応を求めたいと考えます。もちろん感染対策はCOVID-19であろうがなかろうが十分に行う必要があります。わたくしが今回風邪に罹患したのは、推測ですが直近の週末に茨城県大洗町に出かけて、わずか数時間ではありますがかなりな三密の環境に身を置いたせいではないかと思っています。もちろん本当のところは分かりませんが、それ以外に思い当たる節はないんですねえ。

 そうだとするとCOVID-19に対して有効な飲み薬が普及するまでは、やっぱり三密は避けたほうがよろしかろうと思料します。世間では三密という言葉をめっきり聞かなくなりましたがそれは現在でも有効な概念であって、それを避けることこそが自衛の大前提であると考えるに至りました。もちろん諸事を天秤にかけて三密下に身を置くことを是とする人々もおいででしょう。それはそれで結構かと思いますが、迂生はラグビーのモールに盲目的に突入するように三密に加わることは今しばらく控えようと考えるだけです。

お正月です (2023年1月3日)

 昨年の12月下旬からこのページを更新できないままに新しい年が明けてしまいました(その事情はまた別に書こうと思います)。年末に自身に課していた「今年の本ベスト3」をまとめる作業もできませんでした。それなら今からやればいいのですがそういう気分にもなりません、まあいいか…。ここのところ出す枚数を減らしつつある年賀状は結局、大晦日や元日に書いてやっと投函したような体たらくでした。この年齢になると惰性で出しているような感じもあって、それならスパッとやめてメールにすればいいような気もします。年賀状のやりとりが社会生活上の潤滑油という感じもなくなりましたよね。

 こんな感じで新年がめでたいという感覚は例年にも増してないのですが、世間はお正月を迎えて新しい年をことほいでいるようなので、その流れに乗っておきます(主体性なし)。この三が日は東京では穏やかな晴天に恵まれ、気分よく過ごすことができました。ただ、どこに出かけても(多分)三密を地でゆくような混雑でしょうからそれは避けて、いつもながら家でうだうだと過ごしました。そういう怠惰な生活は家人からは評判が悪いのですが、まあ自分の家で暮らしているのでお許しいただくほかはございません。

 世間でのCOVID-19の感染増大はいまだに続いていますが、そろそろ温泉くらいには出かけたくなって参りました。よそ様はフツーに海外にも出掛けるようですが(決死隊かって思うけど…)、迂生はそこまで思い切れません。ひとはひと、自分は自分ですから。やっぱり三密は危険であることをこの年末に身をもって体得しましたので、ひとが集まるところにはできるだけ寄らないようにして自分でできる対策は取ったうえで、ゆるゆると出かけたいと思っています。こんなことを考えたお正月です。

 元日にふと思い立ってラジオを聞いてみました。東京FMでちょうど山下達郎が新春放談をやっていて、45回転シングルレコードのオールデイズをたくさんかけていました。亡くなった大滝詠一さんと同様に彼も蘊蓄の深い物知りなので聞いたこともない曲ばかりですが、さすがにそれがまたいいんですよね。

 その中からJack Gold Soundの「Summer Symphony」を紹介しておきます(例えばこちら)。この曲はニール・セダカの作曲みたいですが、それをJack Goldというひとが1970年にカヴァーして発表したレコードらしいです。冒頭に波の音が来て夏らしさを演出し、ところどころに挿入されるハープのアルペジオが素敵な心地よいサウンドです。昔のシングル盤って2分から3分くらいの短い曲が多いので、気軽に聞けるのが嬉しいです。ぜひ、聞いてみてください。

 そういえば日本にもSummer Symphonyの歌がありましたね。井上陽水と安全地帯(玉置浩二)とが一緒に唄う「夏の終わりのハーモニー」(1986年)です。こちらも名曲だと思います。


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