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 このページは北山が日々の生活のなかのちょっとした体験や感想などを徒然なるままに綴るコーナーです。早いものでこのコーナーは十一年めとなりました。引き続き、お付き合いいただけるのは嬉しい限りでございます。

 なお、ここに記すことは全て個人的な見解であることを申し添えます。暖かい目を持って笑い飛ばしていただけると幸いです。

 今日からは2019年版を掲載します。例によって不定期更新ですが、そもそもそういう類いのコンテンツなのでご容赦下さい(2019年1月4日)。



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年の瀬叙景2019
 (2019年12月27日)

 いよいよ御用納めになりました。いい天気ですね。今年の御用納めは金曜日なので、年末年始のお休みがたっぷりとれるので嬉しいです。年賀状はまだ書いていません、かなり憂鬱です。それならやめればいいじゃないかと常々思いますが、これはやっぱり一種の付き合いで相手もあることなので、そうもいかないところがつらいですね。

 この二ヶ月のあいだにAmerican Concrete Institute (ACI) のStructural Journal 論文の査読依頼が立て続けに三編も来ました。そりゃないだろう、とは思いましたが、まあ依頼が来るうちが花かなとも思い直して二編の査読を引き受けました。年内に査読を終えてスッキリして越年したいと思っておりますので、今日はこれから査読意見を書くつもりです(英語なのでそれなりに気は使います)。ACI論文では一編につき三名が査読するルールみたいなので、査読者のストックが尽きているのかも知れません。だってFar East の片隅に生息していて一度もACI Convention に参加したこともない馬の骨に査読を依頼してくるのですから、大丈夫かなあとちょっと心配ですな(余計なお世話か)。

 芝浦工大・岸田研究室と一緒にやっている実験ですが、昨日、ト形実験の二体目の加力が無事、終わりました。今度は期待した破壊モードになってよかったなあ、という感じです。苦労してガス・ストーブを買ったのはいいのですが、ホースをガス栓につなぐソケットが合わずに直ぐには使えないことが分かりました、がっかり…。今日も岸田先生にお出でいただき、試験体の入れ替えをします。その三体目を実験装置にセットしたまま年を越します。

 

 来年早々に日本コンクリート工学会・年次論文の締め切りがあります。我が社のM2の藤間淳さんおよびYang Dichenさんには論文を書いて投稿するようにと激励していますので、頻繁に研究打ち合わせをしています。両者ともなかなか面白い内容だと思っていますので(自画自賛)、是非、論文として結実して欲しいなと期待しています。

 昨日、西川研究室OBの姜柱[じゃん・じゅう]さんと我が社OBの楊森[やん・せん]さんとがそろって来校しました。姜柱さんは約二十年前にわたくしと一緒に研究(鉄筋コンクリート梁の降伏変形を論理的に定量評価する研究)をして博士号を取得したのち、日本で構造解析の会社を立ち上げて社長をしています。楊森さんは縁あってその会社に就職して姜さんの片腕として活躍しています。久しぶりに姜柱さんから中国の国内事情などを聞くことができて楽しかったです。楊森くんは来年にはよいことがありそうなのでこちらも楽しみにしています。三人で大型構造物実験棟へ実験を見に行った写真を載せておきます。

 

 こんな感じで2019年は暮れて行きます。今年もここまでお読みいただき誠にありがとうございます。我が家では、女房が買ってきた静岡県の地酒「臥龍梅」(辛口寄りだけど旨味あり)をこの年末年始にはちびちびと飲みます。皆さまも美味しいお酒でも飲みながら楽しいお正月をお迎えください。それではまた来年、このページでお目にかかりましょう。
(追伸;来年のお正月後の更新は1月6日を予定しております)


世を斜に
 (2019年12月26日)

 青山高校で模擬授業をしたことは先に書きました。授業が終わって、せっかくなので目の前のテピアのなかに入って写真でも撮ってこようと思い立ちました。しかしなかに入ると至るところに立ち入り禁止の札が建っていて、ほとんど歩き回ることができませんでしたし、そもそも何も展示していないんですよ。テピアの正式名称は「先端技術館」ですから、我が国の先端技術を宣伝するような展示を期待しますが、な〜んにもありません。

 
 写真 テピア全景(左後ろにちょっとだけ見えているのは神宮球場)

 
ですからその必然として館内には見学者は誰もいません。いや正確に言えば、カウンターに座った案内?係の女性と制服を着た警備員男性のお二人が一階にいました。吹き抜けのエントランス・ホールには時節柄、クリスマス・ツリーが飾られていましたので、“おもてなし”の心がないわけではなさそうですが、それにしても不思議な雰囲気でしたな。

 まあいいか、とにかく内部の写真を撮れればいいのですから。で、おもむろにカメラを構えて撮ろうとすると、件の警備員氏がそばにやって来て「写真を撮るのですか」と聞きます。そこで「人間は撮りませんし、そもそもこの建物は槇文彦先生の設計した名建築ですから撮るのですよ」と迂生がいうと、「それは知っています」とのお返事。えっ知っててそんなことを言うのかとちょっと驚きましたが、次に出て来た言葉にはもっと驚きました。「撮った写真を営利目的で使わないように」と注意されたのです。

 この人はなにを言っているのだろうかと不思議な感覚を覚えましたな。仕方ないので「わたくしは大学の教員でこの写真は学生たちに見せるだけですからご心配なく。」と言って東京都立大学の身分証明証を提示したのでした。実に嫌な気分に浸りました。名建築の内部空間を写真に撮られるのがイヤならば、この建物自体を一般に公開しなければいいんじゃないでしょうか。そのチグハグな対応ぶりにあきれました。インスタ映えとか言って投稿された多くの写真がネット空間上を漂っていて、それが様々な問題を引き起こしつつあります。そういうものと一緒くたに扱われることに忸怩たる思いをいたしましたが、イヤな世の中になったものだとつくづく思いますね。

 
  写真 テピア内部 展示室わきの階段(途中から先には行けない)

 我が大学で起こった大学院入試問題漏洩事件にしても、一般の教職員にはなんの連絡・報告もなく、テレビや新聞の情報のほうが大学HPで公表された内容よりもはるかに詳しく書かれています。想像するに、この不祥事を世間さまに早く公表して謝罪しないとまずいということになって、内部への連絡は後回しになったのだろうと思います。確かに世間は重要ですし、うしろ暗い事柄を隠蔽するのもよくありませんが、でもやっぱり順序が逆なのでは? 内部の構成員に通知したのちに公表すべきであると迂生は思いますがどうでしょうか。これも社会がおかしな方向へ進んでいる様相のひとつだと思います。

 なんだか世捨てびとみたいにシニカルな気分で世の中を斜に構えて見ていますが、違和感を抱くものは仕方ないでしょう。それともわたくしの感覚がフツーとは違うということかも知れません。まあ、そうであればそれは遺伝子と周辺環境との為せる業ではあるので、やっぱりいた仕方ありませんな、あははっ。


ことしの本 ベスト3
 (2019年12月25日)

 どんよりとした曇り空で寒い日が続いています。昨晩、ニュースを見ようとテレビをつけると、見知ったお顔が写っていました。あれ?上野淳先生じゃないの…本学の学長です。と思っていたら、いきなり頭を深々と下げて謝罪しています、なんじゃこりゃ〜。そしてこれは、本学・健康福祉学部の教授(53歳)が大学院入試問題を漏洩したことを報告して謝罪する会見であることが分かりました、なんじゃそりゃ〜。もうびっくりです。さらにこのことが露見したのは、問題を漏らされた側の学生?が大学当局に通報したから、というのですからさらに驚きました、なんじゃこりゃ〜。なお、この事件の当事者は懲戒解雇の処分を受けたそうです(まあ、当然か)。

 ということで例年のクリスマス騒動でうんざりしたところにショッキングな事件が重なったところで、そろそろ「ことしの本」を選ぶ頃合いとなりました。この一年間に読んだ本は59冊で昨年よりも一割ほど増えました。その理由は分かりませんがお盆の頃に肺炎で一ヶ月休んだので、静養中の退屈に任せて読書したせいかも知れません。内訳は、大学図書館から借りた本が40冊、昔の読書(以前の蔵書を再読すること)が5冊、新規購入が14冊でした。ただし借りた本のうちの4冊は未読了のまま返却しました。面白くない本を苦行のように読み進めるのは、人生の下り坂に足を踏み入れた今となっては時間の無駄であると割り切っているからです。

 今年の第一位は『50年目の「大学解体」20年後の大学再生 高等教育政策をめぐる知の貧困を越えて』(佐藤郁哉編著、刈谷剛彦、川嶋太津夫、遠藤貴宏、Robin Klimecki著、京都大学学術出版会、2018年12月)にします。日本の大学改革がいかに根拠もなく曖昧なままで進められているかが、この本を読むと良く分かります。その根本要因は一義的には文部科学省の推進者たち(お役人さま)の定見のなさに帰することができますが、それを斟酌したり忖度して適当にお茶を濁して対応することに腐心してきた大学側にも一端の責任はあるようです。

 もう、そんな馬鹿げた「改革」などはやめようという「大人気ない」主張が本書の結論です。お役所の作る文書に多用されるアルファベットの略称(PDCA, KPI, ALなど)やポンチ絵、箇条書きの類は意味不明なので脱却すべきであると言っているのにも大いに共感しましたね。

 なおこの本では、イギリスにおける大学等を対象としてその研究上の実績と能力とを評価するための研究評価制度(RAE, Research Assessment Exercise)が詳細に説明されています。この評価結果に基づいて各大学には使途を限定しない補助金が交付されます。この評価で最も大きな比重を占める研究成果は個々の研究者の業績に依存するので、英国でも研究者の業績評価には苦労しているし、そのことによる弊害も色々とあるみたいでした。

  

 第二位は『遺伝子 親密なる人類史 上巻』(シッダールタ・ムカジー著、中野徹監修・田中文訳、早川書房、2018年2月)にします。著者のムカジーは1970年生まれの腫瘍内科医でがん研究者、現在はコロンビア大学医学部准教授です。ハーバード大学のメディカル・スクールに学んだということなので、きっと飛び切りの秀才なのでしょうね。科学モノではサイエンス・ライターのサイモン・シンが飛び抜けていますが、ムカジーは現役の医者・研究者であるにもかかわらずこのような大著をモノにするとは、驚くべき才能だと思います。ちなみに同タイトルの下巻は現在読書中です。

 この本はタイトル通りに遺伝子発見とそれにまつわる諸々の出来事を綴っています。遺伝といえばグレゴール・ヨハン・メンデルです。彼はエンドウ豆の交雑実験の結果を論文として発表しましたがそれは全く注目されず、それから約40年後に彼の「メンデルの法則」は三人の研究者によって別々に“再発見”されたそうです。再発見されたメンデルの業績を欧米に広く知らしめたのがウィリアム・ベイトソン(英国)で、彼は1905年にその研究分野に遺伝学Genetics という名前を付けたことで知られます。そして今日の「遺伝の世紀」を見越すかのように遺伝子操作の可能性を予見したそうです。

 この上巻で印象的だったのはDNAの二重らせん構造の発見にまつわる物語です。DNAの構造が二重らせんになっていることを1953年に発見したジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックには、同じ問題を研究していたモーリス・ウィルキンズとロザリンド・フランクリン(女性)というライバルがいたそうです。ワトソンとクリックが二重らせんにたどり着くに至るかなり人間くさいドラマがこの本には書かれています。彼らにとってウィルキンズやフランクリンの研究成果は大いに参考になったようですが、フランクリンは1958年に卵巣がんのために37歳で亡くなりました。

 1962年にワトソン、クリックおよびウィルキンズはDNAの二重らせん構造の発見によってノーベル賞を受賞しましたが、フランクリンは既に故人だったためにその選から漏れたことになります。とても気の毒な話しだと思いましたね。人間の運・不運を強く感じた出来事でした。

 なお、この本の著者シッダールタ・ムカジーが書いた『病の皇帝「がん」に挑む 人類4000年の苦闘』も面白い著作です。がんは遺伝子の変異によって引き起こされることが明らかになっていますので、本書とあわせて読むと理解が進むことでしょう。

 第三位は『草の花』(福永武彦著、新潮社 福永武彦集 新潮日本文学49、1970年8月)です。この小説は1954年(昭和29年)に発表されました。学生時代以来約40年振りに読みましたが、やっぱり名作ですね。青春の輝きや甘酸っぱさとほろ苦さとをいっとき、思い出させてくれました。

 しかしこのことはすっかり忘れていたのですが、この小説にはキリスト教が一つの大きな命題として取り上げられています。神の愛と生身の人間の愛、それらは共存できるのか、それとも背反するものなのか。主人公やその愛した女性はともにそのことによって苦悩し、お互いを受け入れることができずに離れていきました…。愛することとは何か、人間にとって普遍的な問いを問いかけています。「いつかは愛の謎が解けて、独りきりじゃいられなくなる」(佐野元春の「Someday」の一節)ではなく、主人公はついに自身の孤独を優先して愛から離れて行きました。私には理解できませんが、そういう生き方もあるとは思います。

 戦争もまた、この小説のもうひとつの重要な背景となっています。主人公は結局、徴兵されましたが、戦場で死ぬことや他人を殺すという想念に苦悩し続けました。戦争に対してキリスト教が無力だったことにも作者は疑問を投げかけています。

 小説の舞台のひとつになっている戸田[へだ]の東大寮や御浜、和船、夜光虫、達磨山、沼津からの客船など、どれもとても懐かしく思い出しました。そして信州の浅間山麓にある追分村…、これは立原道造や堀辰雄のことを思い出させてくれます。

  

 番外として『ハプスブルク家』(江村 洋著、講談社現代新書、1990年8月)を挙げておきます。この本は確か朝日新聞のどこかのコラムで紹介されていたものですが、オーストリア一帯を支配した王統であるハプスブルク家が歴史の表舞台に登場してからの約七百年の歴史を、読みやすい読み物としてまとめてあってとても良いです。さすが50刷も版を重ねただけのことはあります。

 この著者の書きっぷりは難しい言葉がときおり出てくるにもかかわらず、とてもソフトな感じを受けて読みやすいです。今まで読んだことのない文体?だと思いました。難点を挙げると、家系図がわずかに二つしか掲載されていないことと、関連する地図が少ないことかな。マリア・テレジアという女帝が自身の子供(十六人もいた!)だけでなく帝国の民をいかに慈しんだかということが感動的な筆致で描かれています。ただ近親婚によって生じた欠陥については、ほとんど述べられていなかったのはちょっと不満ですけど。全体としてハプスブルク家に対して好意的な視点のもとで物語が語られています。


神宮外苑界隈のいま
 (2019年12月24日)

 昨日は東京都立青山高校で模擬講義を行って来ました。今年で五年めになりますが、今回初めて高校側から昨年とは違う内容の講義を、という依頼がありました。そこで今回は新たにコンテンツを作成して講義しました(とは言っても、大部分は大学の講義で使っているスライドをあれこれシャッフルして使い回していますが…)。「地震に強い建物をつくるには? 〜建築耐震構造の理論と実践〜」というタイトルで、わたくしの専門を初学者向けに(でも高校生相手ですから、物理学や微積分などの初歩も織り交ぜながら)、大学の講義と同様に一時間半、話してきました。今年は29名の一・二年生諸氏が聞いてくれました。下の写真は、青山高校の向かいに建っているテピア(槇文彦先生の設計で、写真の右手に写っている建物)から青山高校の校舎を見たところです。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:都立青山高校模擬講義20191223_テピア_絵画館銀杏並木:IMG_0914.JPG

 聴講してくれた生徒さんたちにはA5サイズのレポートを提出してもらいます。それを読むと一年生はまだ微積分を習っていないので、運動方程式は難しかったみたいです。そのことはだいたい分かっているのですが、やっぱりこれを説明することで大学の授業っぽさが醸し出されるんですよね。多少分からなくても、大学の講義を体験してもらうという試みとしてはまあギリギリ許されるかなと思って説明しました。

 ということで明治神宮外苑に行ったので、いつものようにその界隈をレポートしておきましょう。隈研吾設計の新国立競技場はついに完成してお施主に引き渡されたようですが、行ってみるとまだフェンスがぐるっと取り囲んでいて近くには寄れませんでした。新聞等の報道では、材木がふんだんに使われていて周辺の景観に配慮していてよい、みたいに肯定的に捉えた論調が多いのですが、それって本気で言っているのでしょうか。

 下の写真を見れば分かりますが、あたかも壁が立ちはだかるが如くに建っているとしか言いようがありません。高さ47メートルは当初のザハ・ハディド案に較べれば相当に低いと言う方もいますが、47メートルと言えばだいたい15階建てのビルに相当します。それがベタッと横に広がっているのですから、やっぱりデカ過ぎるというのが迂生の感想です。実際に現地に行ったら見上げてください、目の前の壁を…。

 そもそもこの建物の構造体は鉄骨や鉄筋コンクリートでできているのに、その表面にお化粧のように木材をペタペタと貼っていい感じでしょ、などと悦に入っています。でもこのような(姑息な)やり方は、近代建築の正統からは甚だしく逸脱した手法であって、以前ならキッチュな(まがい物の)建築として批判されたものでした。時代が変わったと言えばそれまでですが、建物の構造体とその機能とが直結していることにこそ美しさがあるという構造合理性は普遍的な原理のようにも思います。

 

 この新国立競技場と神宮第二球場との向かいには、以前は旧近衛師団の駐屯地だったことを示す碑があったポケット・パークとかテニス・コートとかがあったのですが、そこには高層のオリンピック・ミュージアムがほぼ完成していました。その足元には五輪のマークが立体的に据えられていて、すでにもう名所のようになっていて写真を撮っている観光客?が結構来ていました。写真はありませんが、ここの玄関口となるJR千駄ヶ谷駅も改修工事が大詰めを迎えているようでした。



 せっかくなので久しぶりに絵画館まで足を伸ばしてみました。絵画館の前は写真のように運動場になっているのですが、この日はフェンスがあってなかに入れませんでした。この絵画館と国道246号(青山通りのこと)とを結ぶ道路の両脇には気持ちのいいイチョウ並木が続いています。ただイチョウの黄葉はすでにほぼ終わったようで、落ち葉が歩道全体を黄色く染めていました。

  


大学入試の改革とは
 (2019年12月23日)

 大学共通テストに来年度から導入予定だった国語および数学の記述式問題ですが、先週になって見送ることが発表されました。このページでは、記述式問題を短時間で公平に採点することは極めて困難なこと、それらの試行問題で問われていたのは情報処理能力であって必ずしも論理的思考を発揮するものにはなっていないこと等を指摘してきました。それゆえ今回の文科省の決定は遅すぎたとはいえ、妥当なものであると考えます。

 繰り返しになりますが、現行の大学入試とは厳密な定員制のもとでの選抜を意図したものですから、一点刻みの熾烈な戦いになることは避けられません。千点満点の試験において一点の差など誤差の範囲であると言ってしまえばそれまで(寅さんじゃないが、それを言っちゃお終いよ)ですが、定員が決まっている以上は合否の境界線を引かざるを得ません。そうではありますが、今までの入試では厳正な公平性が担保されていたので、人びとはこのやり方を受容してきたのです。

 そういう一点刻みの評価が適正ではないというのであれば、大学入学のシステムをドラスティックに変えることが必要です。よく言われるように、一定以上の学力を保持するひとは全て受け入れるが大学の求めるレベルに到達したひとだけを卒業させる、というようなやり方です。しかし日本社会がそのような入学システムを望んでいるかというと甚だ疑問ですよね。そうではないからこそ、英語民間試験の導入見送りからの一連の騒動のような木に竹を接ぐ入試改革が実行されようとしたのでしょう。

 大学入試を変えれば高校以下の教育も変わって、日本がまた以前のように世界で伍して行ける、輝きを取り戻せるというのも幻想に過ぎません。今の若者にはアグレッシブな覇気がないと言われますが、それは社会が成熟して落ち着いたことの必然的な帰結なのです。むしろ日本もやっとそういう社会的ステージに到達したと喜ぶべきでしょう。かつての日本人はそのなり振り構わぬ働きぶりがエコノミック・アニマルとか24時間戦士とか揶揄されましたが、その頃は時代の雰囲気として頑張って富を得れば幸福な人生が待っているという“見果てぬ夢”があったからです。

 しかし21世紀になってそのような夢は幻想であることに人びとは気がつきました。経済的な発展が各個人の幸せとは必ずしもイコールではない、ということですね。それでは市井の人びとの幸せとはいったい何なのだろうか。それこそ多様で多彩な世界が描かれているのだと思います。大金持ちではなくても雨露を防ぐお家があって、ときにはちょっと贅沢な食事もできる、くらいで十分満足なひとも多いでしょう。

 そのように多様な志向があるなかで、グローバルな世界で戦えて経済的に成功できるという単眼的な目標を掲げた大学入試改革でよいのでしょうか。お上がそのような入試改革を唱えても人びとはそこに本質的な胡散臭さを感じ取っています。ルネッサンスの時代ではありませんが、国家の利益ではなく個々人の幸福の達成のために大学は何ができるのか、そのためにはどのような学生を育てればよいのか。そういう地べたに這った視線でもう一度大学入試を見直すべきであると迂生は考えます。


年を忘れる2019 (2019年12月18日)

 きょうは暖かな過ごし易いお日和でしたが、皆さまのところではいかがでしたでしょうか。我が社では、芝浦工大・岸田慎司研究室との共同研究実験が第二シリーズに入って、その一体目の加力が昨日無事、終わりました。ひび割れを観察する梁が一本だけになったので作業がはかどり、丸二日で加力できました。この日は岸田教授御自らジャッキを操作して実験を主導してくださいました。ありがたいことです。迂生は授業の合間にちょっと顔を出し、授業が終わって実験棟に駆けつけるとちょうど実験が終わるところでJust timing!でした。

 

 さて今晩は我が社の忘年会で、十七名が参加しました。就活中のM1・石川巧真さんが幹事を務めてくれましたが、就活先の企業から駆けつけるという活躍ぶりでした。ご苦労さまです(首尾よく就活が成就することを祈っていますよ)。この日は朝から夕方まで原子力関係の会議があって都心にいましたので、会場を新宿にしてもらいました。

 OBの出席は期待したほど多くはありませんでしたが、深海謙一郎さん、石塚裕彬さん、長谷川航大さん、扇谷厚志さんの研究室OBと、小山明男先生(教授)および晋沂雄先生(専任講師)の明治大学コンビが来て下さいました。皆さん忙しいなか、楽しい話しを聞かせてくれてありがとう。お話しを伺うと仕事はそれぞれに大変そうでしたが、健康に留意して、また人生設計はしっかりと立てて、日々の生活を送ってください。皆さんの活躍がわたくしにとっては一番嬉しい便りですので、期待していますよ。

 


日本における鉄筋コンクリート建物の黎明 (2019年12月16日)

 鉄筋コンクリートは現在では日本だけでなく世界中の建物やインフラ・ストラクチャーの基幹材料となっています。これはコンクリートの材料となる酸化カルシウム(CaO、生石灰)は容易に手に入り、その製造も簡便なこと、鉄筋は鉄骨に較べて鉄材の使用量が少なく安価であること、がその大きな要因です。この鉄筋コンクリートはフランスの庭師が発明して植木鉢に使用しましたが、これが欧米の建物や土木構造物に使われるようになったのは1880年代になってからで、その歴史は比較的新しいものです。

 鉄筋とコンクリートとによって柱や梁を作る方法は、例えばフランスのフランソワ・アンネビック(F. Hennebique)によって1890年代に考案されました。建築史家のS.ギーディオンによればフランスのアナトール・ド・ボードー(Anatole de Baudot)は鉄筋コンクリートの柱梁骨組で教会を建設したそうです。ただ、ボードーの名前はほかの論文や書籍では見たことはありません。また、この教会がどのような配筋(部材のコンクリート内に鉄筋を配置すること)を施されたのかは分かりませんし、建物の全てが鉄筋コンクリートだったのかどうかも不明です。

 世界で最初に建物全体を鉄筋コンクリートで造ったのは、フランスのオーギュスト・ペレ(Auguste Perret)が設計して1904年に竣工したフランクリン街のアパートと言われています。写真や図面のように、この建物では明瞭に柱梁によって骨組が構成されています。しかしその柱が構造体として認識されていたのかどうかは判然としないようで、建築史家の吉田鋼市氏によればこの建物のファサードを除く三面には組石造の壁が全面にあって、鉄筋コンクリートはそれを補助する役割だったのではないかということです。


フランクリン街のアパートのファサードと1階平面図Karla Britton: “Auguste Perret“(2001)より

 このように鉄筋コンクリート建物は20世紀になって誕生しましたが、では日本ではどうだったのでしょうか。日本では1905(明治38)年に佐世保鎮守府港内の潜水器具庫が鉄筋コンクリートの柱梁フレーム構造で作られました。設計したのは海軍省建築局の真島健三郎です。余談ですがこの人は土木分野の出身で、1920年代後半に建築学界で起こった柔剛論争において、建物はゆらゆらと揺れる柔構造にすべしと唱えたかたです。ちなみにもう一方の建物は剛に作るべしという論客は佐野利器および武藤清の東京帝大コンビでした。

 この潜水器具庫の他にも土木工学出身の白石真治が1907(明治40)年に兵庫県和田岬に鉄筋コンクリート造の倉庫を作りました。しかしこれらの建物はいずれも土木分野の技術者(建築家ではない)が設計したせいでしょうか、あるいは倉庫類は正統の建物ではないという認識からでしょうか、日本の建築分野ではあまり認知されていません。

 建築学界が日本最初の鉄筋コンクリート建物として認識するのは、遠藤於菟[えんどう・おと]が設計した三井物産一号館で、その竣工は1911(明治44)年でした。横浜の日本大通り沿いに今も建っている4階建てで、軒蛇腹(コーニス)に遠藤建築の特徴がみられます。平面図を見ると柱と壁とで構成されていて、現代のオフィスとほとんど同じですね。ちなみに遠藤於菟は東京帝大建築学科で教育を受けた正統的な建築家でした。

 
   写真 三井物産一号館(2007年撮影) 1階平面図(建築雑誌1912年より

 さてここからがこの小文の本題です。鉄筋コンクリート構造の建物はフランスで1904年に生まれましたが、日本でも佐世保の潜水器具庫(1905年)にせよ、遠藤於菟の三井物産(1911年)にせよ、それとほとんど同じ時期に誕生したのはなぜだろうか、という疑問を迂生は抱いてきました。鉄筋コンクリートが発明されてから後の建物への応用を欧米がモタモタとしているあいだに明治維新後の日本が追いついた、とも見ることができるでしょう。その原因は、西洋と日本とで建物の構成手法が異なったことにあるのではないか、というのが迂生の最近の見解です。

 よく言われるようにヨーロッパの建物は石造が基本で、それを積み重ねることで壁体を造って空間を構成する、というのが歴史的な方法でした。すなわち柱を構造体として利用するという意識は希薄でした。それに対して日本は木の文化ですから、木材による柱と梁とで骨組を造ってそれ以外はスースーに抜けてゆく開放的な建物が作られました。すなわち日本人は柱や梁には馴染みがあり、それをほかの材料で代替することには抵抗がなかったと思われます。そのような下地があったところに、1906年のサンフランシスコ地震での建物被害を調査した佐野利器が鉄筋コンクリート構造の耐震性の優位を唱えたことで、日本での鉄筋コンクリート建物の誕生が加速されたのではないか。

 もちろん、前述したアンネビック式の鉄筋コンクリート構造の情報は日本にも既に届いていて、三井物産一号館の配筋図を見ると遠藤於菟はそれを参照したと思われます。ただ、オーギュスト・ペレのアパートについてはその当時、日本で知られていたかどうかは不明ですし、壁で空間を構成する志向からはまだ完全に離脱できていないようでした。

 このようにそれぞれの風土に根ざした建物の構造形式の違いが、西洋では鉄筋コンクリートの導入を制約し、日本では逆にそれを促進した、というのがわたくしの考えですがどうでしょうか。わたくしは耐震構造学者ですがこのような技術の歴史にも興味があって、日頃から書籍や論文を読んでいます。なんにせよ歴史を探求するのは知的好奇心をくすぐりますので大いに楽しんでいます。

 ちなみに建築構造の発展の歴史について、我が社ではこれまで以下のような卒論が発表されています。
2008年度 小太刀早苗 日本における鉄筋コンクリート建築創成期の設計に関する研究
2009年度 宮木香那 ジョサイア・コンドルの日本の耐震設計における技術的貢献に関する研究
2011年度 有賀沙織 建築構造学の発展への佐野利器の貢献に関する研究
2016年度 津島 竣 構造設計法の変遷から見る鉄筋コンクリート耐震壁の歴史に関する研究


ストーブの話し (2019年12月13日)

 十二月も半ばになりました。今日はまたどんよりと曇って寒くなりましたね。さて昨日は、キャンパス・グランド・デザインの調査のために上野淳学長、西村和夫学長特任補佐と学長室の事務方の総勢六名が建築学科にお出でになりました。わたくしは学科長の代理としてその調査にお付き合いして、それぞれの研究室や実験室の使用目的や使用人数などを説明して回りました。建築学科固有の実験室は(建築計画学の上野学長以外にとっては)珍しいでしょうから全て丁寧に説明しましたが、教員の研究室や学生部屋はどこも似たような使われ方なので、すっ飛ばして行くのかと勝手に思っていました。

 ところがこの調査団一行は全ての部屋(倉庫も!)を視察すると最初から決めていたようでして、在室の部屋だけでなく、お留守の部屋もマスター・キーで解錠して中に入ってひと通り見る、という念の入れようでした。これには結構驚きましたな。キャンパス内の居室の使われ方を見直すという趣旨であれば、分け隔てなく全ての部屋に足を運んで調べる必要があるのでしょうが、やっぱりちょっと異様な感じを受けましたね。

 わたくしが日頃実験している大型構造物実験棟も案内しましたが、この施設は帳簿上は建築学科専有ではなく理工共通の施設であることを迂生がいうと、西村先生(土木工学者)が「それじゃ、実験が終わったら実験装置を全て取っ払って綺麗にして返さないといけないんだ」などと仰せになったので、ちょっとギョッとしました。まあ建前はその通りですが、加力フレームやジャッキを解体するには多額の費用が掛かりますし、第一、(実験棟は狭いので)それらの部品を置くところがありません。まあ本気じゃないことを祈りましょう…。

 さて、その大型構造物実験棟ですが、あまりに寒いのでガス・ストーブを手当てしようと思い立ちました。本学では石油は校費で買えませんので、それじゃガス・ストーブにするか、という感じです(幸い、都市ガスは敷設されています)。そこでガス・ストーブを買っていいですかと事務方にお伺いを立てたところ、研究費では購入できないと言われました。そんなこと言われても寒いんですけど…。すると学科に割り当てて配分した間接経費でなら買っても良いということになりました。なんか話しが大ごとになってしまいましたが、仕方ありません。そこで学科長の小泉雅生教授や教室幹事の多幾山法子准教授に頼み込んで、北山個人の寄付金とバーターで購入を認めていただきました。

 しかしどうも腑に落ちません。本来、居室に暖房設備を敷設するのは大学当局の仕事のはずです。それなのにどういう経緯かは知りませんが、南大沢に移転してこの実験棟を建てたときから冷暖房設備はなかったわけです。労働環境としては極めて劣悪なので、それを改善する義務が当局にはあると思います。でもこのような正論を吐いても、誰も聞いてくれないのですけど…、どうしたもんでしょうか。


屋根が飛ぶ 〜九月の台風の被害 (2019年12月11日)

 師走の今頃ですが、九月の台風15号の強風によって本学・講堂大ホールの屋根材がめくれ上がってその一部は外壁に垂れ下がり、屋根面の防水層も破損するという被害を受けました。その補修のための工事がやっと始まりましたが、その工程表を見ると、仮設足場の設置から防水工事、そして足場の撤去と来年三月末まで要するスケジュールになっています。とても大変です。このような被害は本学では今までありませんでしたから、今回の台風の凶暴化がよく分かります。

 地球温暖化の危機が言われてかなりになります(今年は16歳の北欧女性が話題になりました)が、水害や風害もそのせいなのでしょうか。人的な要因もあるでしょうから、それだけが原因というものでもないと思います。

 
 写真 金属製の屋根材の被害(講堂大ホール、本学総務部施設課撮影)


現状では妥当 〜英語民間試験延期の余波 (2019年12月9日)

 文科省が決めた共通テストの英語民間試験の延期ですが、それにともなう本学の対応がやっと公表されたようです(本学のWeb Pageで発表されましたが、在籍教員宛の連絡はありません…)。それによると、外部英語検定試験の活用は取りやめる、二次試験では「外国語」の試験は行わない、となっています。決定までにかなりの時間を要しましたので、大学執行部のなかでも様々な議論が行われたものと推察します。その結果は、現状では妥当な判断であるとわたくしは評価しますが、いずれにせよ苦渋の決定であったことは確かでしょう。

 ただ二次試験に英語がないっていうのは入試としてどうなのでしょうか、やっぱり良くないですよね。迂生は、英語の出来具合はその人の地頭[じあたま]をある程度あらわすと考えています。今回の決断は緊急避難的な位置付けでしょうから仕方ないと思いますが、こうなったら文科省に振り回されることなく、本学での英語試験を今後どのように実施すべきなのかを定見を持って議論できたら良いと思います。執行部にはそのような舵取りを期待します。

 しかし文科省はこの英語民間試験の利用を延期と言っていますが、これだけケチがついた試験制度をたとえ形を変えたとしても一般入試に利用することはもう不可能だと思います。数学や国語の記述式回答についても以前から書いていますが、試行問題を見た範囲ではとても当初に期待した能力をみることのできる体をなしていません。結局のところ、現政権による大学入試を改革するぞという掛け声に踊らされた人たちによる壮大な勘違いによってこのような事態になりました。大学入試を変えれば高校以下の学校教育も変わるというのがそもそも間違った考え方です。国家百年の計は教育にあり、です。もっと合理的、かつエビデンスに基づいた長期的な視点に立って教育を考えないと日本は沈没します(もう、半分沈没してますけど…)。


卒論の中間発表会2019 (2019年12月6日)

 昨日は穏やかな良い日和でしたが、本学・建築学科では卒論の中間発表会および最終発表会が開かれました。その前に三年生と修士一年生とを対象とした進路就職説明会があって、わたくしは本年度の就職担当教員なのでその説明を30分ほどいたしました。

 中間発表会は昨年からポスターセッションになりました。今年は二階にある204階段教室の前のフォワイエ(というか教室間の大きな渡り廊下)において40名ほどの四年生が卒論の中間報告をしてくれました。スペースとしては相当に狭くて、大混雑する状況も見受けられました。ポスターをみるとこの半年の卒論への取り組みの状況が正直に反映されていて、研究がすでにほぼ完成したひともいれば、これから主要な作業を始めるというひともいて、まあ悲喜こもごもといった印象でしたね。

 おおかたの学生諸君は用意したポスターを熱心に説明してくれて、そこそこの議論ができたのはよかったと思います。でもなかにはちゃんと説明してくれない(説明するほどの内容がない?)ひともいて、それは非常に残念でしたし不快に感じました。自分の考えたことを他人に伝えるということの重要性をよく認識して欲しいと思います。来年二月の最終発表では、立派な研究成果を分かりやすく披露してくれることを期待しています。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU中間発表会at11-204前廊下20191205:IMG_0758.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU中間発表会at11-204前廊下20191205:IMG_0760.JPG


教室棟のうら (2019年12月3日)

 きょうは穏やかに晴れて小春日和のよい一日になりました。今年度の後期は授業が少なくて楽なのですが、久しぶりに教室棟に行って授業をして来ました。『構造設計演習』という二コマ続きの演習科目ですが、後期の前半を燒リ次郎先生が鉄骨造を担当して、後半の今日からは迂生が鉄筋コンクリート(RC)造を担当するという棲み分けになっています。

 以前は3階建ての建物の主方向をRC構造、直交方向をS造にするという結構アクロバティックな課題を教員二人で同時に見ていました。しかしそうすると学生諸君も教員も相当程度に大変でして、結局のところ大昔にやっていたようにオーソドックスに鉄骨造とRC造とを別個にする(すなわち課題は二つやってもらう)ということに落ち着きました。せっかく燒リ先生が意欲的な課題を考えてくださったのに残念ですが、まあ仕方ないか…。

 というわけで久しぶりに教室棟に足を運びました。研究室からは吹きさらしの渡り廊下を歩いて行くので、吹き抜ける寒風が身にしみましたな。でも授業が終わって渡り廊下に出ると、色づいたモミジの葉々が傾いた陽の光に照らされて赤く萌えていてとても綺麗でした。教室棟の裏にはひと気もなくてひっそりとした里山風情でしたが、もうそういう季節になったんだなという感慨を新たにした次第です。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:初冬の教室棟南側20191203:IMG_4217.JPG


師走2019 (2019年12月2日)

 ついに師走になりました。今朝も冷たい雨がダバダバ降る寒い日になりましたね。この秋から冬にかけては雨が多かった気がしますが、いかがでしょうか。わが大学では、来年度の授業のシラバスを登録する時期となりました。

 さて、今年から復帰した前期科目の『建築構造力学3』ですが、来年度の授業計画を再考するために、学生諸君の期末試験の成績と毎回の演習の出来具合とを綿密に解析?いたしました。その結果、演習の出来栄えと期末試験の成績との間には明確な相関はない、というとっても残念な結果を得るに至りました。演習は全部で10回出題して、毎回、わたくしが御自ら添削して返却しました。その際、出来栄えに応じて五段階の評価を付しています。

 この添削が結構大変でして、それだけの労力をかけたにもかかわらず最終成績にはほとんど無関係という事実には相当めげましたな。厳密にいうと丁寧な添削は学生集団の底辺の底上げには役立った形跡はありますが、それも明瞭ではありませんでした。こうした考察の結果として、来年度には演習の添削はやめることといたしました。それだけの効果を見込めないと判断したわけです。その代わりに中間試験を新たに設けて、成績に占める期末試験のウェートを下げるようにいたします。

 こうした晩秋あるいは初冬の晴れた一日、渋谷区表参道に行きました。神宮前にはよく行くのですが、表参道はホント久しぶりです。地下鉄の表参道駅を上がって行くと目の前に槇文彦先生設計のスパイラルが国道246号に面して建っています。たまたまスパイラルの南隣が更地になっていて、スパイラルの奥側が露わになっていました。これは滅多に見られないシーンですね。これを見ると奥側の屋上には緑があることが分かります。屋上庭園になっているようですが、ここにはどうやったら行けるのか分かりませんでした。レストラン専属のプライベートなお庭かもしれません。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:表参道_青山_千駄ヶ谷20191129:IMG_3944.JPG
  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:表参道_青山_千駄ヶ谷20191129:IMG_3952.JPG

 表参道の交差点に出ると、角地に屏風みたいな建物が建っていました(上の写真)。なんじゃこりゃあ!一階の通り沿いにはヨーロッパの有名ブティックが入っていましたが、表通りに背を向けるような建物をなぜ作ったのか解せません。上部の突き出たキャンチレバーもなんだか変なプロポーションですし、大した建築じゃないなと思いましたが、調べるとこれがなんと隈研吾さんの設計でした…(One表参道という名前だそうです)。2003年の竣工ですから、もう随分昔になりますね。建物の中に入ったわけではないので外見でしか判断できませんが、あまり良い設計ではないと迂生は思いましたがいかがでしょうか。


寒さ到来 (2019年11月27日)

 昨日から身に染み入るほどの寒さがやってまいりました。我が家では朝起きるとエアコンがゴーッと唸っていて全開で動いています。お陰で室内は暖かですが、一歩外へ出るとそこはもう真冬です。ダウンコートを出して完全装備で出勤いたしました。

 さて、大型構造物実験棟ではこの寒さのなか、実験が進んでいます。今日のお昼には三体めの加力が無事終了しました。岸田慎司先生が監督してくださるので安心です。でも、試験体の破壊モードはと言えば…相変わらずうーんと首を捻りたくなるような感じで、スッキリ解決!というわけには行きそうもないところが曰く言い難いところだな。なぜなんだろうか、疑問は尽きることがありません(まあ、それが研究っていうものでしょうが…)。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC柱梁部分架構実験_岸田研_ネツレン_三井住友建設2019:3体め_十字形_MA-10_梁主筋が二段(4と2):IMG_3915.JPG

 あんまり寒いので暖房器具をなんとかできないか、我が社の張 志宇くんに検討をお願いしました。灯油を買ってくるのは大変ですし大学から灯油代を支出するための手続きも面倒なので、ガスで動くストーブを考えています。大昔、千葉大学にいたときには大型のガスストーブが数台置いてあったような気がします。例年のこととは言え、やっぱり健康に良くないことに変わりはありませんし、労働環境をよくするに越したことはありませんから。


英語民間試験延期の余波 異聞 (2019年11月22日)

 きょうは冷たい雨の降る、とても寒い一日になりました。もうすぐ冬ということで今シーズン初めて手袋とマフラーを着用しました。皆さまのところではいかがでしょうか。

 さて共通テストの英語民間試験の延期ですが、予想通り本学にとっては強烈な「ハシゴはずし」となって襲いかかったみたいです。本学では約二年前に英語の外部検定試験を導入することを宣言し、一年四ヶ月ほど前には二次試験での英語試験の廃止を表明していました。すなわち英語については、文科省の英語成績提供システムに完全に依存する体制に移行することになっていたわけです。

 ところが文科省の制度設計は予想以上に劣悪でして、以前から指摘されていた問題点や欠点は何ら改善されることもなく、結局のところ今回の延期という決定がなされました。この決定自体は妥当であると迂生は思っていますが、実際に英語試験をどうするか、いきなりの変更を迫られた大学当局の困惑や怒りは想像するに余りありますわな。

 全面的に外部試験に依存して英語の四技能(読む、聞く、話す、書く)を評価する方針を早々に決定したことに対するプライドと、そうは言っても英語外部試験に対して世間から寄せられた不平等や地域格差という厳然たるブーイングとによって、完全に板ばさみとなってしまったようです。このような苦境に陥ったのも、元を糾せばかような不完全で実行不可能な試験制度を立案した文科省にあることは疑いようがありません。お役人さまによるこのような“思いつき”に振り回されるのは高校生諸君だけではなく、試験を実施する大学当局もまた然り、ということです。

 本学がどのような英語試験を実施するのか、議論する時間はもうほとんどなさそうですが、公立大学の雄として社会から後ろ指をさされないような卓抜した見識を示して欲しいと切に願っています。


夢のかよひ路 (2019年11月21日)

 初夏の頃、”昔の読書”で久しぶりに福永武彦の『忘却の河』を読みました。二十歳前後の頃に読んで以来、約四十年ぶりということになります。その内容については、まさにそのタイトル通りに忘却の河を流れ果てていました。ただ、彼の『草の花』ほどには青春の甘美さや眩しいほどの輝きを感じることがなかったのは意外でしたね。

  『忘却の河』は七章立ての長編小説で、主人公の男性とその妻との愛の通い合わない人生を複数の視点から描いた、救いの見えない小説といった感想を抱きましたが、それが人生そのものと思えば納得もしましょうか…。

 さて、その第四章は主人公の妻のひとり語りの形式をとっていますが、そのタイトルは「夢の通い路」でした。その脇に

  はかなしや 枕さだめぬうたたねに ほのかにまよふ夢の通ひ路 (千載和歌集、恋一677)

という式子内親王[しょくし・ないしんのう]の歌が載せられていたのです。枕、夢の通ひ路…と聞いて、その昔、立原道造の詩や小説を読んでいるうちに出会った飛鳥井雅経の次の和歌を思い出しました。

  草枕 むすびさだめむかた知らず ならはぬ野辺の夢のかよひ路 (新古今和歌集、1315)

両歌とも本歌は古今和歌集にあるよみ人知らずの次の歌のようです。

   宵々に枕さだめむ方もなし いかに寝し夜か夢に見えけむ 

 夢のかよひ路とは、中世の雅な王朝びとが夢の中で自分の愛しいひとと会うことのできる一筋の道と信じていたもので、当時の恋の歌に多く歌われました。福永武彦も昭和初期から中期の文学者の例にもれず、その嗜みとして本朝和歌の造詣が深かったのだろうと思います。第四章は「夢の通い路」と命名したこともあって、主人公の妻の叶わぬ悲恋を寂しげに歌っていました。

 ところで式子内親王は平安末期から鎌倉初期に生きた女性で、後白河法皇の第三皇女です。さらに言えば、平家打倒の令旨を全国に発した以仁王[もちひと・おう]は式子内親王の弟です。『枕草子』の清少納言や『明月記』の藤原定家の同時代人でもありました。そのような時代に伊勢神宮の斎宮[いつきのみや]として青春の一時代を過ごし、一生を独りで終えた彼女はどのような気持ちで上記のような恋の歌を詠んだのか。「夢の通ひ路」を通って逢いたい想い人を密かに胸に抱いていたのかと思えば少しは慰められるような気もしますが、如何でしょうか。


大学のキャリアパス (2019年11月18日)

 朝晩はかなり冷え込むようになってきて、我が家では暖房が動き始めました。三年生の研究室配属ですが、一次配属では第一志望の二名が決まりましたが、そこで選に漏れた学生諸君十数名が二次配属に回りました。大方は計画系の八階の研究室を志望していた諸君ですが、そこからわたくしのいる七階に落ちてきた三人ほどが我が社に配属になりそうです。もしそうなると、久しぶりに卒論生が五名ということになりますが、どうなるのでしょうか。彼らのやる気によってこちらの対応も変わりますが、できれば積極的に研究活動に参加して欲しいと願っています。

 さて、大学図書館で借りた『海外で研究者になる 就活と仕事事情』(増田直紀著、中公新書、2019年6月)を読んでいます。ちなみにこの本は、東大や名大の大学生協の書籍ランキングでベスト5に入っています。結論から言えば、迂生のように外国へ異動しようなどとは露ほども考えていない人間にとっても非常に有益で面白い内容です。外国の大学や研究機関で研究室を主宰する職を得るにはどうすれば良いのか、またそこで研究室を運営する方法などが書かれています。

 日本の大学の窮状や惨状がだんだんと世の中に知られるようになって、科学立国日本の屋台骨が危うくなりつつあります。日本では大学教員のお仕事(雑用と言ってもよい)が増えて研究に集中できないのが現状ですが、そんな日本に見切りをつけて若くして外国で研究室を構えるというキャリアを目指す人を対象としたのが本書です。

 著者は1976年生まれで、東大准教授の職を辞してイギリス・ブリストル大学の上級講師(日本の准教授相当)になったひとです。東大の准教授はテニュア(定年まで在籍できる権利)ですし、東大は日本では最高の学府と見なされていますから、その職を自ら捨ててまで英国に渡ったことだけで十分に瞠目すべきことと思います。さらにこれからニューヨーク大学に異動する予定だそうです。まさに世界を股にかけた活躍ですな。

 海外の大学における研究者のキャリアパスは知らないことばかりだったので、驚くことが多かったですね。研究室での主戦力として期待されるのが博士課程や修士課程の大学院生ですが、外国では彼らはお金を払って雇わないといけないそうです。その雇用のための資金を外部から獲得してくるのがPI(Principal Investigator)の甲斐性ということらしいです。日本のように黙っていても大学院生がやってくるという環境は特殊であって、言ってみれば日本の大学はガラパゴス状態ということのようです。それでも一部の超優秀な大学(オックスフォードとかハーバード)を除けば、大学院生の質は平均的には日本の方が上の場合が多い、というのにも驚きました、そうなんですか…。

 我が社でも基幹の研究は博士前期(修士)課程の大学院生諸君に担ってもらっていますが、彼ら/彼女らの大方は優秀ですし、真面目にかつ一所懸命に研究に取り組んでくれています。もちろんボスたるわたくしとしては注文は山ほどあるのですが、海外大学の状況を知ってみればこれは大いなる贅沢ということみたいです、あははっ。海外では優秀な大学院生を集めるために給料を出しますし、そもそも有名で魅力的な研究をしている教員でないと彼らは来てくれません。そうでないと自身の研究を進めることもままならなくなって、研究室をたたむ仕儀になりそうです。

 日本では科研費取得のための書類作りが大変で、迂生もそのたびにウンウン唸りながら多大な時間をそれに費やします。そうやってやっとゲットできる研究費は三年間で300万円程度です。しかしこのような外部研究費の獲得のための申請書作成は日本より大変というのにもびっくりしました。20枚、30枚の研究計画書もざらだそうです。もっともその結果としてゲットできる研究費は迂生とは桁が違うみたいですけどね。

 ただ、この本に登場する日本人たちは英会話などには不自由しないのは当然、という前提で語っていますし、著者もそのような前提でこの本を書いています。それを考えると、やっぱり海外でPI(一国一城の主人として研究費を持って自由に研究できるひと)になるのは大変だなあと思います(少なくとも英会話の苦手な迂生には無理でしょうな、やっぱり)。アジアの韓国、中国、台湾、シンガポールなどは欧米型の大学であり、日本とは大きく異なるということも今回初めて知りました。世界のなかの特殊な大学の日本、ということですが、それは逆にみれば日本の大学の独自性とも言えるわけで、一概に欧米型の大学が良いというわけでもなさそうでした。

  
  写真 本学の新教室棟(12号館)脇から研究棟(9号館)を望む

 日本では大学の正規の教員になるのは大変で、博士を持っていてもなかなかその職に就くことができないこともよく知られています。そういう人たちは幾つもの大学で非常勤講師を務めたりして糊口をしのぐと言います(いわゆる高学歴ワーキング・プア)。ある分野では最高の知識やスキルを持った人たちがその資質を活かすことができないのはホント気の毒に思いますし、日本という国家にとっても損失でしょう。

 ファカルティ・スタッフである准教授の職を得るには現在では公募が一般的になりました。昔は一本釣りが多く、公募であってもそれは見せかけだけの出来レースが多かったとも聞きます。しかし今では少なくとも本学では全て正真正銘の公募になりました。ただそうすると、現在助教として務めている人もその公募レースに乗って熾烈な競争に勝たないと准教授には昇格できません。優秀で気心も知れた若手助教をファカルティ・スタッフに迎えた方がお互いにハッピィだと思うのですが、それは簡単にはできなくなったわけです。どうなんでしょうかね…。よく知らないひとがスタッフに採用されて、その人がちゃんとしたひとだったら良いのですが、そうでないリスクも相当にあると思いますよ。

 この本によると海外でもこのことは重要で、業績だけで人事が決まることは少なくて、ある程度知っているひとやその筋のエキスパートの推薦があるひとを採用することが多いようです。大学教員といえども人間ですから、コミュニケーションが円滑にはかれて一緒に楽しく仕事できる人の方が同僚としては良いに決まっています。

 わが国の公募人事では書類審査で数名の候補者に絞り、二次選考としてその人たちを面接して、あわせて模擬講義をしてもらうことが一般的です。場合によっては英語で議論することも求められるようです。いやあ、大変ですよね。わたくし自身は一本釣りで東京都立大学の講師として採用されましたからこのような経験はありませんが、現在のような熾烈な競争を勝ち抜く自信は全くありませんね〜。英語で議論しろって言われたらもう完全にアウトですな、あははっ。

 大昔を思い返すとわたくしの時には、西川孝夫御大から電話がかかってきて「うち来るか」と聞かれ、「じゃあ行きます」って答えただけで採用されました(もちろん途中に色々ありましたが、それは省略しています)。当時の建築学教室の教授たちによる面接さえなかったわけです。つまり上司たる西川先生の力が絶大で、そのボスがこいつを採ると言ったら原則としては誰も反対しないということだったのでしょうね、きっと(これは想像です)。古き良き時代のお話しでした。


あの頃にもどるのか (2019年11月12日)

 先週末に天皇陛下即位の祝典がありました。午後6時40分過ぎにテレビ・ニュースでも見ようかと思ってNHKをつけると(受信料はちゃんと払ってるよ)、ちょうどその中継映像が流れていました。すると元衆議院議長という方が「天皇陛下万歳!」という掛け声をかけて、その場にいる参列者たちがそれに唱和しました。その後も、どなたか知りませんが声のよくとおる人の音頭に従ってそれが際限なく?繰り返されました。ええっ、これって何なのよ、あまりなアナクロニズムに呆れ果てて気分が悪くなって来たので、直ぐにテレビを消しました。

 いやあ、驚きましたな。天皇の即位はおめでたいことですから、一国民として祝意を表したいと思います。でも、皇居前広場での万歳三唱はいかがなものでしょうか。あの戦争(太平洋戦争とか第二次世界大戦とかいわれる戦争のこと)の頃、同じ宮城の前で万歳を唱えて兵士として異国へ出征し、国体のために死んでいった無数の皇民たちのことは忘れたのでしょうか。そしてアジア解放の美名のもとに皇軍に蹂躙されて塗炭の苦しみを強制された彼の地の人々のことも。その時の過ちを少しでも意識していれば、天皇陛下万歳と叫ぶことには抵抗を覚えるはずでしょう。

 それにもかかわらず、万歳三唱は実行されたのです。そこには何らかの意図的な民心操作の下ごころがあったと考えざるを得ません。何となれば祝意を表するにはいくらでも他に方法があるのですから。決してそのような戦前の時代に戻してはなりません。戦争を知らない人々(もちろん迂生もそのひとりです)が増えても、戦争の惨禍を忘れてはなりません。そういう大切なことを再認識させてくれたと考えることにしましょうか…。


耳ネタ 2019 November (2019年11月11日)

 久しぶりに耳ネタでも書くか。耳ネタの直近は調べたら三ヶ月前で、五ヶ月前とともに竹内まりやを俎上に乗せましたが、今回も期せずして彼女になりました。この秋に出た三枚組の『Turntable』です。税抜き4000円でした。もう竹内まりやは買わなくていいよなあ、と五ヶ月前に思ったのですが、肺炎で臥せっていた九月初めに東京FMで聴いた山下達郎の番組で女房の彼女がゲストで出ていて、このアルバムのことを夫婦がこぞって宣伝していたのです。一曲60円なのでとってもお得ですよ〜なんて、彼女がコロッケでも売るように言っていました。

 その宣伝文句にコロッと行ったわけでもないのですが、彼女の歌うビートルズがちょっと良さそうだったので魔が差して買ってしまいました、あははっ。でも、このアルバム・ジャケットってどうなのよ? やるに事欠いて、ナント自分自身をターンテーブルの上に載せちゃうって、どういう了見でしょうかね。ぐるぐる回してどこからでも私を見てと言っているようで、そのナルシストぶりにはホント辟易としますな。ついに本性を現したか!ってな感じです。



 このアルバムの二枚めは他の歌手のために書いた楽曲のいわゆるオリジナル・カヴァーなのですが、初めて聴く曲もかなりありましたが、曲のクオリティは正直言ってあまり高くないように思います。ご本人が一曲60円って言うとおりでして、それ相応のように感じましたね。曲自体が(当時の)若いアイドル歌手のような人を歌い手として書かれているせいもあるかもしれません。ただサウンドの厚みがないと言うか、薄っぺらな印象を受けました。残念ながら、何度も繰り返して聴こうという気を失わせる出来だと思いました。

 三枚めのビートルズ・メドレーは杉真理ファミリーが演奏とコーラスを担当しているせいもあって、なかなかに良いですね。もともとビートルズの曲ってシンプルですから、それと同じように唄えばそれなりに格好が付くってことかも知れませんけど…(辛口)。やっぱりマージービートは彼女の原点!ということを再認識させてくれる曲たちでした、Goodです。

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 もう一枚もこの秋に出た佐野元春のアルバム『或る秋の日』です。落ち葉が散り敷いた歩道の上を彼自身が寒そうに歩いてゆくアルバム・ジャケットが年齢を感じさせます。神宮外苑の聖徳明治記念館の前に伸びる銀杏並木のようだな。さすがに六十歳を過ぎたら人生の秋でしょうから、ちょうど良いタイトル&ジャケットのような気がします。



 アルバムに入った八曲はいずれも落ち着いた感じで人生の機微を唄っています。秋の発売だからでしょうか、クリスマス・ソングが一曲あるのは販売戦略かな。彼自身の古い曲「Christmas time in blue」をちょっと彷彿とさせる一曲です。また、元春自身が言っていましたが「私の人生」ではフィル・スペクター風のサウンド(Wall of Sound)になっていて音に厚みが感じられます。このアルバムの曲たちはいずれもじっくりと聴かせるものに仕上がっていて、聴くほどに味わいが滲み出てくる感じでよいのですが、若いリスナーにはちょっと物足りないかも知れないな。


高校生に宣伝する (2019年11月8日)

 きょうも秋晴れのよい天気で気持ちがいいですね。多摩川を渡る京王線の車窓からは富士山がよく見えました。

 さてトップページに書きましたが、昨日は都立国分寺高校の一年生約300名が来校して、一日かけて“大学で学ぶということ”を体験しました。この行事を国分寺高校では「進路遠足」と称しているみたいですが、対象は一年生なのでまだ大学進学にそれほどの関心はないんじゃないかな。付け足すと、わが建築学科には国分寺高校からの進学者が結構いて、皆さんそれなりに(?)優秀です。

 この行事ですが、よく分からないのですが高大連携室という本学の組織が取り仕切っているようで、迂生にはそこの渡辺恒雄名誉教授(かつての工学部の頃に一緒に仕事しました)のつてで実験室公開の依頼が来ました。また高大連携室長の河西奈保子教授がわたくしの研究室にわざわざ打ち合わせにお出でになりました。そのときのお話しによると実験室や研究室の公開・説明に応じてくれる先生が少なくて困っている、ということでした。

 すなわち、このような高大連携事業は大学全体が関与しているわけではなくて、学内の先生同士の個人的な繋がりによって為されているということみたいなんですね(この認識が正しいかどうかは知りませんけど…)。そんなことでいいのでしょうか。

 大型構造物実験棟を公開する際には写真のように、説明用のプロジェクタやそれを投影するスクリーンを用意するなど、実務的には細かくて面倒なセッティングが必要でした。その作業は今回は我が社のM2の諸君に引き受けてもらいました(どうもありがとう)。また、生徒さんが来るまでのあいだは実験棟で待っていることも必要です。何と言っても人手がないので、教授御自ら(わたくしのことです)がシャッターの前に立って来訪を待ち受けました。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:都立国分寺高校_進路遠足_20191107大型実験棟公開:IMG_0753.JPG

 ということで、実験棟を見せるだけといってもそれなりの準備や心構えは必要なわけです。そういう大学の宣伝活動はやっぱり全学で共同で行うべきなんじゃないですかね。実際、二週間ほど前の都立桜修館中等教育学校の体験学習は全学の行事になっていました。相手の高校によって取り扱い方が異なっているように迂生には思えましたが、どのように分けているのかな。また、今朝も正門の前に制服を着た小人数の高校生たちが集まっていましたので、多分、高大連携室のスタッフが対応するのだと思います。

 高校生への“布教”活動は大切だと常々思っています。とくに工学は普通高校で勉強することを複合して成り立っているので、高校生にはよく分からない学問分野です。ですから、高校生諸君に建築学への興味を持ってもらうことが重要です。そのための活動はこれまでも模擬講義や出前講義などで行ってきました。ですから今後も機会と都合とが合致すれば高大連携のための活動には協力したいと思っています。


おし寄せる 〜英語民間試験延期の余波 (2019年11月6日)

 空気がかなり冷たくなってきました。今朝はよく晴れて富士山がよく見えます。大学祭が昨日終わって、今朝は一転して静かなキャンパスに戻りました。もっともきょうは片付けの日なので(授業はありません)、これから騒々しくなるでしょうが…。学生会館越しに冠雪して白くなった富士山の頭が見えました(下の写真/中央奥の鉄塔の左ですが、小さくて見えないかな)。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU大学祭の翌日20191106:IMG_0738.JPG

 さて、2021年4月入学の大学入試から導入予定だった英語民間試験ですが、この11月1日に延期が決定されてとりあえずホッと安堵したことは先日書きました。それは望ましいことですし、本来が無茶な制度設計だったのですから良かったのですが、その余波(というよりも大波)が本学の入試にもろに押し寄せて来たことを認識しました。

 本学ではくだんの英語民間試験を導入することで英語の学力は計れるとして、二次試験の英語を受験科目から削除することにして発表していたのです。でも、英語試験をやらない大学入試などは(一般的には)考えられませんよね。ですから大学執行部としては一体どうしてくれるんだ!っていうところだと思います。ちなみに本学では二次試験での英語の廃止を見越して英語の教員を減らしているそうです。これが何を意味するのかは…、ちょっと書けません、怖くて…。

 しかし受験生のことを考えると可及的速やかに英語科目をどうするか決めて発表する必要があります(朝日新聞にもそのように書かれていました)。通常であれば入試科目等の変更はその実施の二年前までに対外的にアナウンスするという慣行(?、あるいは文科省の指導?)がありますが、今回はすでに一年半を切っています。これは由々しき事態ということが分かります。止むを得ない混乱ではありますが、傷は深いような気がします。大丈夫かなあ、心配です…。


お騒がせ (2019年11月1日)

 昨日は世間ではハロウィンというお祭りだったそうで、我が家には無関係と思っていましたが、そうではありませんでした。我が家の愚息が午後十時半になっても塾から帰宅しません。さすがに遅いなあと思って塾に電話すると、すでに営業は終わっていました、まあ当たり前ですな。それから急に我が家では心配になって、家内がラインなどで懇意のママ友とやりとりして探しました。

 すると午後十一時を過ぎてから当の息子から電話がかかってきて、いま友達の家にいると言うのですよ。中学生が夜中によそ様のお宅で何をやっているのでしょうか…。電話口で家内が激怒して怒鳴っています。先方にも迷惑なので早く帰宅するように言いました。

 いやあ、驚きましたな。中学生ですからさすがにお酒は飲まないと思いますけど、同級生たちがそのお宅に集まって騒いで?いたみたいです。全く先が思いやられますなあ。ただ迂生自身のことを思い出すと、高校生の頃に同級生の山谷くんのお宅で(冬休みだったかな)麻雀をやっていて、そのまま泊まって徹マンしようということになったことがありました。そこで夜の十一時くらいに自宅に電話すると、父親が出てきてお前なに考えてるんだ、早く帰って来いっ、て怒られたことがありました。そのときは父親の剣幕に驚いて慌てて地下鉄に乗って夜道を帰りました。まあ、似たようなもんですな、あははっ。

 さて、昨日書いた英語の外部試験ですが、今朝になって文部科学省は延期を表明して、2024年度の実施を目指して再検討することになったようです。とりあえずは良かったと思いますが、公平かつ受験生の様々な負担が軽減されるような方策を考えて欲しいと切に望みます。ただ、今回の延期に安心してこれからの改革が世間から忘れ去られることがないように社会全体でウォッチし、折に触れて異議を申し立て続けることが肝要でしょう。


誰のために 〜大学入試の英語民間試験について (2019年10月31日)

 十月晦日となりました。ひと月のあいだ降り続いた雨も終わり、やっと天高く馬肥ゆる秋がやって参りました。これからどんどんと寒くなって、二ヶ月後にはふたたび新しい年を迎えるわけでして、本当に月日の経つのは早いものと感じ入ります。

 さて2021年から大学入試で実施予定の英語民間試験ですが、いよいよ明日から共通ID交付の申し込みが始まることもあって俄然注目を集め始めました。大学入試などには興味もなくて素養も無さそうな八王子選出の文部科学大臣がおかしな発言をしていますが、これほど問題山積なのに英語民間試験の利用を強行しようとするお上には驚きます。入試制度を誰もが納得する良い方向に変えるのであれば大いにやっていただきたい。しかし、誰のための入試制度改革なのかはちゃんと理解して欲しいですね。

 そもそも大学入試の改革って、政治がトップダウンで決めるような筋合いのものなのでしょうか。関係する多くの人々が叡智を出し合い議論の末に合意を得て、国民全員が賛成するとまでは言いませんが国民の多数が納得するような形で実施されるべきです。お役人さまが勝手に決めた実施時期にひたすら間に合わせるように、周囲が抱く心配や危惧に目を向けることもなく進めるそのやり方には感心しませんねえ。

 性質や狙いの異なる複数の民間試験の結果を同じ土俵に載せて公平に評価することなど不可能です。そのことは当の文科省だって気がついているはずです。そうだからこそヨーロッパの換算尺度であるCEFR(セファール)を使うという奇策を提示したのだと思います。しかしCEFRにはわずか六つの等級があるだけですから、一点を争う大学入試にはそぐわないことはこのページでも度々指摘しています。すなわち極論すれば、英語の実力としてまあこれくらいというような大雑把なグレーディングしかできないと言ってよいでしょう。

 その程度の評価しかできないものに対して、個々の受験生は大学受験料とは別途の出費を迫られることになります(しかも二回受験する必要がある)。試験を提供する団体ごとに受験料は約6000円から26000円と異なります。安いほうがお財布には優しいですが、しかし、事は一生を左右する(かも知れない)大学入試ですから、そんな希薄な理由じゃ選べないですよね。じゃあ、どのような基準で受験する民間試験を選べば良いのでしょうか。全く分かりませんね〜。大学や高校の先生にだって多分わからないでしょう…。予備校だったら戦略的な有利・不利くらいは指導できるでしょうが、それは経験的なものであってロジカルな説明では全くないはずです。

 これほど受験生に優しくなくて不明瞭な入試ってこれまでにあったでしょうか。大学に籍を置く人間として、受験生諸氏には大変に申し訳なく思っております。

 ところでこの英語外部試験は「最大2回まで受験する」となっています。“最大”と書いてあるので一回だけの受験でも良いのか、また二回受験した場合にその二回分の成績はどのようにして各大学が利用するのか(二回の平均?、二回のうちの得点の高い方?など)については、文科省のサイトをかなりしっかり見ましたが分かりませんでした。個別に文科省に質問することになるのでしょうか。いやあ、システムとして本当に劣悪です。

追伸; 文科省のページにあったQ&Aをよ〜く見たら、その48ページに書いてありました。一回のみ受験した場合にはその成績のみが大学に送られます。また指定期間(四月から十二月)のあいだに三回以上試験を受けた場合には、試験の実施日の早い順に二回の成績が大学に送られます。一回ないし二回分の成績がどのように使われるのかは、各大学に任されているようなニュアンスでした。


甲府の五百年 (2019年10月30日)

 2015年に縁あって甲府市役所からお仕事を頼まれて何度か甲府に通いました。そのときのことはこのページに書きましたが、最近、ちょっと調べものがあったので自身のその部分を読み直しました。すると躑躅ヶ崎の小高い丘に武田信虎が館を築いたのが1519年で、2019年は甲府開府五百年の節目の年となるので甲府市ではそれを大々的にアピールするとともにこの地を躑躅ヶ崎館跡として整備する計画、ということが書かれていました。

 申し訳ないことですが、甲府の開府五百年はすっかり忘れていました。そこで、一体どうなったかなと思って検索すると「こうふ開府500年」という立派なサイトを甲府市が立ち上げていました。それを見ると様々な催し物の案内のほか、武田神社の南側に「信玄ミュージアム」を新たに建設してオープンしたことが分かりました。

 

 上の写真は甲府駅の南東にある甲府城址の石垣の上から撮ったもの(2015年5月)で、左のマッシブな建物は丹下健三の山梨文化会館で1966年の竣工です。日本のモダン・ムーブメントを代表する建物といってもよく、当時のメタボリズムの思想を具現化した建物(生物のように成長することを予定した建築)の代表作でしょう。鉄筋コンクリート製の16本の巨大なシリンダーによって支えられていますが、近年、基礎免震工法によって耐震改修が実施されました。

 おっと、つい建築の話しに流れましたが、この写真の山梨文化会館の奥側に武田神社や躑躅ヶ崎館跡があります。免震改修なった山梨文化会館も見学したいですから、この機会にまた甲府を訪ねて武田氏の夢のあとでも辿ってみようかと思います。


秋のシーズン終わる2019 (2019年10月29日)

 今日もまた雨降りで、さらにとても肌寒いですね。この午後、都立桜修館中等教育学校(前身は東京都立大学付属高校)二年生の体験学習の一環として、大型構造物実験棟を公開しました。準備を手伝ってくれた村上研さん、張志宇さんなどの学生諸氏に感謝します。約十五名ずつを二セットに分けて同じ説明をしましたが、大きな声でしゃべったので結構疲れました。もう十月も末ですから寒くなってゆく頃合いで、大型構造物実験棟の反力床から冷たさが這い上ってくるように感じました。

 さて、東京六大学野球の話題です。まだ早慶戦は残っていますが、この週末で東大のシーズンは終わりました。残念ながら十戦全敗という成績でしたが、最後の法政大学戦もエースの小林大雅さんが力投しました。第一戦では先発して完投しましたが0-2で惜敗しました。翌日の第二戦では通常は別の投手が先発するものですが、この日は負ければ最終戦になり、なおかつそうすると小林さんは四年間で一勝もできなかったことになります。ここから先は迂生の想像ですが、第二戦でも多分自身で先発を志願して悲願の一勝を取りに行ったのではないかと思います。

 わたくしはクラス会に出かける直前までネット・テレビで応援していたのですが、その段階では東大が3-0で勝っていました。小林さんの調子も良かったみたいでこれはもしかすると勝つんじゃないかと密かに期待していたのですが… クラス会から帰ってみると残念ながら4-6で敗れていました。

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 しかし上記のスコアボードを見ると小林さんは最後までひとりで投げ抜いていました。明治大学戦で森下投手(ドラフト一位でプロ入りする予定)と延長戦を投げ抜いた末に敗れたときのように、終盤で力尽きたことが分かります。いやあ、負けたとはいえ立派じゃないですか。ホント、立派ですよ。結局、一勝はできませんでしたが、ひとりで投げ抜いてゲームを作ったのだから、その力投に大いなる拍手をおくります。

 また、東大野球部としてもこれほどの成果はないんじゃないでしょうか。小林さんが今後どのような道に進み社会で活動するのかは知りませんが、貴重な経験とかけがえのない仲間を得たことはきっと大いなる人生の糧となることと思います。この秋のシーズンでは、四年生よりも多いくらいの三年生がゲームに出場して結構活躍しました。ゲームに出たキャッチャーが二年生と一年生なのが弱点ですが、来年のシーズンには東大野球部のさらなる飛躍を期待しています。


恩師を偲んで (2019年10月28日)

 この週末、都立A高校のクラス会がありました。そのときの担任で恩師の内藤尤二先生が二年前に亡くなってからはじめてのクラス会でしたので、皆で黙祷をしてから献杯しました。クラスの45名中(本当は46名でしたが、高2のときに安達学くんがバイク事故で亡くなったので45名)22名が集いました。まあ、卒業以来四十年超のクラス会としてはなかなかの出席率だと思います。若い頃にともに遊び、学んだ仲間たちとの気のおけない会話は本当に楽しいですね。

 皆で内藤先生の思い出を語りあったのですが、強烈な思い出がある人もいれば、その逆に特段の思い出もない?という人もいたりして、とても面白かったです。そんなことがあったのかあ〜みたいなこともあれば、初めて明かされる笑撃?の事実に大笑いしたり、とにかく高校生の頃に戻ったように楽しい時間でした。内藤先生が英語の先生でしたから英語ネタが圧倒的に多くて、英語が苦手な人たちにとっては結構辛いこともあったみたいでした。

 わたくし自身は内藤先生の厳しい授業について行けるように頑張って英語を勉強しました。このことについてはこのページで何度も書きましたが、とにかく独特の指導法だったので、初めの頃は面食らって訳がわからないという感じでしたね。うちの母が(英語教員の免許を持っていたので)、そんな指導法で本当に大丈夫なのかと内藤先生に異議申し立てしたこともありました。このことは実は迂生はすっかり忘れていたのですが、当の内藤先生が憶えていらして「北山〜、お前のお袋さんがなあ、俺にこう言ったんだ…」と教えてくれたのが七年前のクラス会のときでした…。内藤先生に向かってそんな文句を言う父兄はきっといなかったのでしょうね、あははっ。

 話しをクラス会に戻すと、今回の幹事役を果たしてくれた整形外科医のH川くんが、健康でいないとクラス会にも出てこれない、そのためにはとにかく転ばないことが大切だ、と力説していたのが耳に残りました。ホント健康第一ですよね(いつも言っていますが…)。老年になると転倒による骨折を契機としてQuality of Life が大きく低下するそうですから、ご同輩の皆さんも気をつけましょうね。

 そうそう、衆議院議員の尾身朝子さんはお仕事が忙しいとのことで今回は欠席でした。この九月の安倍内閣改造で外務省政務官に着任したそうで(おめでとうございます)、そんなこんなの近況報告をMさんと幹事のU田くんがまるで彼女の秘書であるかのように披露してくれました。北米・南米の担当らしいので得意の英語で機関銃のようにしゃべくりまくっているのでしょうか、ご活躍をお祈りします。


働きかた (2019年10月26日)

 昨日はまたもや大変な土砂降りでした。今年の十月は大雨ばかりという印象をうけますが、被害を被った方々は本当にお気の毒なこととお見舞い申し上げます。

 さて、日本の世の中が成熟してきたせいでしょうか、週休三日という働きかたが口の端に登るようになってきました。あらゆる職種でそのような働きかたが可能かどうかは疑問ですが、例えば研究者のような知的労働であれば十分に可能だと思います。自分のことを言えば、本学は裁量労働制なのでどこで何時間働いても構わないことになっています。だんだんと齢を重ねてくると移動が億劫になりますし、それなりの体力も使いますので、実働四日というのも悪くないと思いますね。

 きょう(土曜日)は学科ののっぴきならない業務があって登校しましたが、本学では週休日や休日に出勤したら必ず代休をとるように口うるさく言われるようになりました。また年次休暇も五日以上必ずとるように“指導”されています。それというのも労働基準監督署からの指導が急に厳しくなったようで、役所から改善点をいくつも指摘されたうえでいついつまでにそのエビデンスを提出しろみたいに言われているようです。対応に追われる大学執行部も大変ですね〜。

 迂生も(フツーの大学人の例に漏れず)年休の取得は昨年度までは数日しかありませんでしたが、2019年度はこの夏に病気で一ヶ月近く休んだために年休をどっさりとりました。ですから社会人としての義務?をしっかり果たしたことになって、その点では良かったと思います、あははっ。

 週休三日に話しを戻すと、休みが増えた分給料は減らすというと、もともと高給を得ていた人たちを除いて相当な反発を喰らうでしょうね。給料を減らさないようにするためには今まで五日かけていた仕事を四日でこなす必要がありますから、かなりの生産性の向上が求められます。しかしこれだけ分業が進み、技術が進歩した現代においてそのことが容易だとは思えません。

 ですから週休三日が広がるためには、多少の給料の低下は甘受し、休みになった日々を有効に使って人生を豊かにすることを目指す、というような意識改革が市井の人々のあいだで進むことが必要でしょう。ただ三十年くらい前には土曜日も仕事をするのがフツーでしたが、やがて週休二日が日本社会のスタンダードになりました。ですから、時間をかけることによって週休三日という働きかたが徐々に受容されるということはあり得ますね。AIやロボットがどの程度人間の仕事を代替できるかや世界の経済状況に大いに影響を受けるとは思いますけど…。


たばこに想う (2019年10月22日)

 今日はまたもや大雨ですが、令和新時代の天皇陛下の即位礼の儀式が執り行われる日だそうで休日になりました。雨のなか天皇陛下ご夫妻をはじめ関係する諸氏は大変だなあとか思いながら、わたくしは安穏と家中で過ごしております。

 さて、皆さんご承知のようにわたくしはたばこは吸いませんし、生まれてからこのかた一度も吸ったこともありません。たばこの煙は小さい頃から大嫌いで、それを嗅ぐとクシャミが止まらなくなります。それでもたばこは迂生の人生に大きくかかわり続けました。否、たばこがなかったらどうなっていたか分かりません。

 それというのも迂生の父はたばこを作る会社(その昔は公社と呼んでいましたが)の雇い人で、たばこを作って売ることによって給料を得ていたからです。住まいも父が退職する直前までずーっとその会社の社宅でした。子供の頃は毎夏、茨城県の大洗海岸にある会社の寮へ海水浴に行ったのですが、茨城県はたばこの葉の産地でしたから、列車の窓から見えるたばこの葉を父が説明してくれたことを憶えています。

 このようにたばこから多大な恩恵を蒙っていた我が家ですが、会社に貢献するがごときヘビー・スモーカーだった父に対して、母はたばこの煙が苦手でたばこを嫌っていました。でも迂生が子供だった頃にはたばこの害毒が世間で喧伝されることはなく、我が家でも母が「たばこを吸わないで」と父に言ったのは聞いたことがありませんでした。当時は大人の男性がどこでたばこを吸おうがそんなのは当たり前、というのが社会全体の雰囲気でしたし、そのことを疑うひともいなかったのでしょうね、きっと。

 日本においてたばこの害毒が広く言われるようになったのはいつ頃なのか分かりませんが、そんなに早いことではなくて20世紀も末の頃だったように思います。いま、『病の皇帝「がん」に挑む 人類4000年の苦闘』(シッダールタ・ムカジー著、早川書房、2013年8月)を読んでいるのですが、たばこの喫煙と肺がんとの強い因果関係は既に1950年にアメリカとヨーロッパとで相次いで発表されたことが書かれていました。たばこの煙に含まれるタールが食道内壁にこびりつき、そこから組織の病変が始まってがんになり、やがて他の部位に浸潤してゆくということです。

 そんなに早くからたばこが健康を害することは分かっていたのに、どうして日本ではそれが広く認知されなかったのかは不思議に思います。もちろん当の欧米でもたばこ産業からの反発や抵抗があって、たばこの害毒はなかなか認知されなかったようですから、日本においても推して知るべし、なんだろうな…。

 たばこを吸っているスモーカー本人だけでなく、その周辺にいて望まずしてその煙に巻かれる人たち(いわゆる受動喫煙者)の健康被害についてはもっと知られていなくて、そのことが日本で問題視されるようになったのは21世紀になってからだったと記憶します。ただ我が家では煙たい!という文句の嵐のせいで、受動喫煙による健康被害が広く知られるだいぶ前から父はベランダや庭に出てたばこを吸うようになっていました。

 このように肺がんや食道がんなどのリスクが高まって健康に良くないたばこですが、あんなにたばこを飲んでいた父は幸いにもそのような病に侵されることはありませんでした。ただ、亡くなる数年前に突然たばこをやめたことが今でも不思議です。理由を聞いたら吸いたくなくなったから、ということでしたが、想像するにそれはなんらかの生理的な原因に基づいたのでしょう。人間のエージングの神秘を思わずにはいられません。


蒲団 〜2019秋 (2019年10月21日)

 薄日のさす昨日、冬の蒲団を出して冬支度を整えました。押入れに仕舞ってあった冬蒲団をゴソゴソと取り出し、ベランダにしばらく干して、そのあいだに夏の蒲団をカバーから取り出します。そうするとひと夏のあいだに出てきたのでしょうか、羽毛がもうもうと部屋中に舞うのには閉口しましたね。掃除機をかけるのですが、羽毛たちがなかなか降りてこないので、掃除機の先端を空中に振り回したりして何とか処理しました。はたから見たら、掃除機を持ってなんか変てこな踊りを踊っているように見えたかも、あははっ。

 日中は汗ばむ陽気でしたが日が落ちるとやはり時期相当の気温となって、寝る頃には冬蒲団でちょうどよく感じました。こうして少しずつ冬に近づいて行くのですね。陽が沈むのもだいぶ早くなってきました。今朝登校すると正門には大学祭(11月はじめの開催)の飾り付けが始まっていました。

 イチョウの木々からは銀杏の実がそこかしこに落ちていて結構くさいです。子供の頃には烏森神社の大きなイチョウの木から落ちてくる銀杏を近所の子供たちと夢中で拾って、その場の焚き火で炙って殻を破り、モチモチとしたその食味を楽しんだものです。今はそもそも焚き火なんてしませんし(ダイオキシンが出るから禁止されている?)、銀杏を拾っている子供も見かけません。日本はまだ貧しかったですが、何につけおおらかだった典型的な昭和レトロの思い出かも知れませんね。もっとも、一日中部屋にこもってスマホやゲームをしている現代の子供たちと較べてどちらが幸せな少年時代だったのかは、迂生にとっては言うまでもないことですけどね。


わが市の被害 (2019年10月16日)

 先週末の台風19号の被害が日増しに広がっています。我が家は東京西郊のK市の北端にあって一級河川の野川がそばを流れています。野川は昭和三十年代にはよく溢れて氾濫したそうですが、くねくねして狭い河道をまっすぐに付け直し、河幅も広げる都市改良工事の結果、溢れることはなくなったと聞いています。それでもものすごい豪雨でしたからさすがに心配で、台風のあいだはネットで野川の水位を見ていました。我が家の上流では氾濫危険水位を超えましたが幸いにも溢れることはなく、我が家も無事でした。でも将来的には台風が強大化すると言われているので、今後はちょっと心配です…。

 しかし昨晩のテレビ・ニュースで、わが市の南端を流れる多摩川の氾濫によってその付近では多くの家屋が浸水して約四千人もの人たちが避難したということを初めて知りました。K市の人口は八万三千人ほどですから、結構な数の人々が避難を余儀なくされたことになります。市役所が用意した避難所が満員になって入れなかったひともいたそうで、大変な災害だったことが改めて分かりました。

 新聞配達店からも自店の被害状況を記した折込チラシが今朝の朝刊に挟まれていて、それによれば胸くらいの高さまで浸水したそうです。配布予定だった折込チラシが水に浸かってダメになったとも書かれていました。小さい市とはいえ、南と北とでは様相が大きく異なっていたわけで、しかしそのような情報は直接見に行ったりしない限り分かりません。日本全土のことを思えば、まだまだ明らかになっていない被害があるように思えます。それを考えると台風って空恐ろしいとあらためて認識した次第です。


信頼できて頼みやすいひと (2019年10月14日)

 台風が去ってまた雨降りです。昨日と較べて気温が急に下がって、肌寒いくらいです。街々にはキンモクセイの香りが漂っていて一気に秋がやって来たという風情ですが、皆さんのところではいかがでしょうか。今日は休日ですが我が大学では授業日になっているので、しょうがないので登校しました。

 さて、台風が来襲する直前の金曜日、東京・田町で建築学会の鉄筋コンクリート(RC)構造運営委員会がありました。河野進さん(東工大教授・長津田)が主査で場を取り仕切っていますが、この日は来年の建築学会大会でのパネル・ディスカッション(PD)の主題を決めることになっていました。しかしこの「ネタ出し」は毎年難航していて、無言の空間がその場に現出します。そのようなことになる主因は、何かネタを出すとそれを提案した委員がPDの企画を担当しなくてはならなくなる、すなわち言い出しっぺが自ら責任を取らされる、みたいなことになるからです。それは誰だってイヤですよね。

 そこで、この時間がつらいことを思い知っている河野さんは、迂生が主査を務める「将来計画策定WG」において予めこのPDの主題や概要を考えるようにと指令を出していたのです。このWGはRC構造運営委員会の今後の運営方針や具体的な組織構成をどのようにするかという将来に向けたあり方を議論して指針を示すことがお仕事です。ですからPDのネタ出しは守備範囲ではないのですが、河野さんの窮状も分かりますのでじゃあ考えるかということで、委員の皆さん(は真面目です)からいろいろと案を出してもらったものをこの運営委員会の場で披露しました。

 このほかに何か提案はありませんか、と河野主査が聞いてもシ〜ンとして誰も何も言いません。わたくしどものWGが提案した主題は五つほどあったのですが、じゃあどれにしましょうか、と諮っても意見はほとんどありません。迂生自身が提案したテーマもありましたが、さすがの河野主査も「じゃあ北山さん、そのテーマでPDを立案して」とは言えなかったのでしょう。やっぱり無音の重苦しい空気が漂いました、イヤだなあ…。

 結局、河野主査にとっては今年も針のむしろの時間になったようです。気の毒だなとは思いましたが、RC構造運営委員会の最終的な意思を判断するのは主査である河野さんですからこちらからは何も言えません(それじゃ僕が企画立案しま〜す、と危うく言い出しそうになりましたが思いとどまりました)。今回も窮した河野さんは「それじゃ、谷さんに企画をお願いできますか…」ということで、彼が信頼していて一番頼みやすいひとに重荷が渡ったのでした。谷昌典さん(京大准教授)は河野さんの同門の後輩ですから、困ったときには今までもそのような指名になることがあったと記憶します。

 その要請を谷さんは快く引き受けてくれましたが、頼みやすいひとに頼むというのはやっぱり健全な姿ではないと思います。建築学会での活動は全て個々人のボランティアで成り立っていますので、たくさんあるお仕事を無理強いすることはできません。ですから、信頼できてなおかつ頼みやすい、さらに頼んだらイヤとは言わない(言えない?)ひとという貴重なカードを(今回もまた)切らざるを得なかった河野さんにも、それをスパッと引き受けてくれた谷さんにも申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

 なんとかならないのか…というのが率直な感想です。運営委員会主査の要請にひとりで全て応えるなどということは物理的に不可能ですから、ボランティアとしてその場に集まっている皆さん(すなわち委員)で分担せざるを得ないでしょうし、そうすべきであると考えます。そういうことは皆さんも道理としては分かっているでしょうが、やっぱり仕事を増やしたくないというのも理解できます。組織の運営はどんなものにせよ困難が伴いますが、同じ方向を向いた好学の士が集まっている学会でもそれは例外ではない、ということみたいです。

 このPDの企画についてはやっぱり、小人数のワーキング・グループ(WG)を作って検討するのが相応しいと考えます。そのWGで多年度に渡る計画を作成し、それぞれの主題に精通したコーディネータを提案するとか、さらに進めてパネリスト等の人選もする、くらいのことをしないと円滑な運営や公平な分担はできないように思いますね。WGの数が増えてしまうのが欠点ですが、まあ仕方ないんじゃないかなあ。


映らないはなし (2019年10月10日)

 ノーベル化学賞を受賞した吉野彰さんのインタビューをちょっとだけテレビで見ましたが、「リチウムイオン電池はまだまだ謎がたくさんある」ということを言っておいででした。既に実用化されて世界じゅうで使われているリチウムイオン電池ですが、そのようなものでさえ研究しているひとにとっては謎だらけなんだということが分かって、この方はやっぱり根っからの研究者なんだなと思いましたね。鉄筋コンクリート(RC)構造のせん断破壊についても完全な理論解は未だに得られていませんが、それでもRC建物は建てられ続けているのと状況は同じということみたいです。

 さて昨日、三年生の「特別研究ゼミナール1」の授業がありました。オムニバスの講義で六名の教員がひとり15分ずつ各自の研究内容を説明する、というものです。まあ、卒論の研究室選びのための顔見世興行みたいな位置付けですな。そこで、自分のMacBookを持って教室に出かけました。わたくしの前は壁谷澤寿一さんの担当で、スライドを映しながら説明していました。

 で、迂生の番になりました。教室固定のプロジェクタにつなごうとしてまず慌てました。寿一さんはHDMIを使ってデジタル接続していたのです。しかし、わたくしは昔通りのアナログのRGB接続用のアダプタしか用意していませんでした。ただ幸いなことによく見るとそばにRGB用のケーブルが落ちていたので、それをつなぎました。ところがスクリーンには全く映像が映りません。リモコンをいじくってそれらしい画像が映りましたが、全体が真っ赤になっていてこれじゃ何が何だか分かりません。だんだんと教室内がざわざわとして来ます。早くしてよみたいな、あのプレッシャがイヤなんですよねえ〜。

 あれこれ格闘したけどどうにもならないので、仕方がないので教務課まで歩いて行って、事務方を呼んできました。見てもらいましたが信号は来ているのでこれ以上はどうにもならない、というつれないお返事。ここまでで既に10分を経過しています(残りは5分!)。これじゃ我が社の紹介ができないので、止むを得ず(既に配布してあった研究室紹介の)紙を説明する羽目に相成りました。タダでさえ人気のない我が社ですが写真も見せずに口頭で説明するだけじゃ、さらに印象は悪くなったと思います、なんだかなあ。

 せっかく説明用のコンテンツ(パワーポイント・ファイル)を作成したのに…とは思いましたが、まあ仕方ないでしょう。でも授業でのスライドくらいストレスなく映写できるようにして欲しいとは思いましたな。ちなみに講義が終わってから再度点検してくれた事務方から、RGB接続ケーブルが断線していたという連絡をいただきました。迂生のMacがいけなかった訳ではなさそうです。


世に出る2019 (2019年10月7日)

 やっと秋らしく涼しい朝になりましたね。十月というのは結構ドラスティックに気候が変わる月で、三十度を超える夏のような暑さだったのに、十月下旬くらいになると急に寒くなって思わず暖房を入れてしまう、というようなことがままあります。

 さて昨年末から今年の正月にかけて原稿を通読して手直し作業に従事した出版物が、この九月末に出版されました。楠原文雄さんを始めとする若手執筆者諸氏が講習会を担当してくださいましたが、その首尾はいかがだったでしょうか。

 『鉄筋コンクリート部材の構造性能評価の現状と将来』(日本建築学会)というタイトルです。欲を言えば当該分野のState-of-the-Artにするとよかったのでしょうがさすがにそれは大変なので、個々の執筆者の問題意識が前面に出たレポートとなっています。それでもどのトピックを読んでも、そのテーマの到達状況や問題点がよく分かります。ですから、この中からつまみ食いしてシンポジウムを開くこともできるでしょうし、新たな研究テーマもてんこ盛りですので今後の研究の進路にも役立つと考えます。実際、わたくしが執筆した内容はJSPS科研費の申請課題として取り入れて、研究調書の作成に大いに役立ちました(2018年に採択されて現在研究中です)。

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 ということで大学院の学生さんや若手研究者の皆さんに是非、手にとって欲しいと願っています。ただ、なにぶん300ページを超える書籍なので、お値段が5600円と結構高いのがネックです(消費税を加えると6000円を超えますから)。この価格では自分じゃ買わないだろうな、やっぱり…。研究室の先生や会社の上司に頼んで買ってもらえればと思います。


スケジュールの管理 (2019年10月4日)

 スケジュールの管理法ですが、わたくしは昨年までは手帳でした。予定をその都度、手で書き込むというアナログな手法です。年末に東京測器が持ってくる手帳のサイズやフォーマットが気に入っていたので例年それを使っていました(タダですからね、あははっ)。ところが東京測器の担当者が代わったせいか、昨年末には手帳を届けてくれませんでした。それじゃあ自分で手帳を買うか、というほどの思い入れも特にはありませんでしたけど,,,。

 そこで今年から思い切って手帳を廃して、クラウド上でのスケジュール管理に一本化したのです。実は十年以上前からAppleのiCalendarというソフトにも予定等を記録として残していました。ですから手帳がなくなっても(iCloudにアクセスできる限り)特段、困ることはありません。正確にいうと、迂生はスマートフォンを持っていませんから、パソコンを持ちかつネットに接続できないとスケジュール表を見ることはできません。ただ、オフ・ラインでもそれ以前に書き込んだ予定・記録は全て見られますので、パソコンがあれば通常は大丈夫です。

 さて境有紀さんのページを見たら、我が国に消費税が導入されたのは1989年4月だったということが書いてありました。今からちょうど三十年前のことですね。そのときは宇都宮大学の助手になって丸一年が経った頃でしたが、その当時、どのようにしてスケジュールを管理していたのか、どうしても思い出せません。多分、手帳だったと思うのですが、助手から(東京都立大学の)講師に着任した頃までの手帳が残っていません。若い頃にはそんなに外でのお仕事はなかったので、大学での授業や会議くらいは全部憶えていたということでしょうか。う〜ん、あり得ないと思うけどなあ。

 ですから、三十年前に迂生が何をやっていたのか思い出せません。多分、次の実験のアイディアを練ったり、構造力学の演習問題を作ったり、博士論文どうしようかと悩んだり、宇都宮大学の学生諸君と呑んだくれていた(これが最もありそうですが、あははっ)ことだろうと思います。いつも書いていますが、その頃からは随分遠くに来たもんだと感じますね。


新しいテレビのはなし (2019年10月3日)

 ひと月以上前に肺炎でウンウン唸って寝ていた頃のことです。我が家のテレビが急に映らなくなりました(もちろんわたくしはテレビなど見ないので、家人がそう言うのです)。確かに画面は真っ暗なのですが、どういうわけか音声だけは聞こえます。でもそれじゃテレビとはいえませんな。十月に消費税が上がることもあって、仕方ないけどじゃあ買い換えるかということになりました。

 ということで女房と息子とで調布の家電量販店に行って新しいテレビを選んできました。それまでは東芝のレグザという32インチの機種でしたが、今回はシャープ(って、まだあったっけ?)のアクオスにして、画面も少し大きいモノに進化しました。テレビ・チューナーが4K映像に対応しているものです。ただBSの4K放送を見てみましたが、そんなに綺麗かなあというのが偽らざる印象ですけど…。

 今まで使っていたテレビは十年ほど前の代物でしたがB-Casというカードがあってそれを本体に挿入しないとテレビが映りませんでした。ところが新しいテレビにはそれがなくなって、代わりにそのテレビ固有の番号が与えられています。またネットに接続してYouTubeなどの映像が見られるようになっています。これがIoTということかとちょっと感心しましたな。

 ネットに接続するために無線LANが使えるのですが、そのテレビにはMACアドレスがありません。我が家ではセキュリティ確保のために登録したMACアドレスの機器(具体的にはパソコン等)だけが無線LANに接続できます。そこでやむなくLANのケーブルを直付けしてネットに接続しました。ところがそうすると息子が無制限にYouTubeを見るので、結局女房の要請によってケーブルを廃線しました。なにやってんだか…。

 このように新しくなったテレビなのですが、どういうわけか時々勝手に電源が入ってテレビ番組が映るんですよ。先日は真夜中になんだかうるさくて目が覚めたら、真っ暗な室内でテレビだけが輝いていてそこから歌番組が流れていました。どうなってんだか…。


消費税あがる (2019年10月1日)

 今日から消費税が10%に上がりました。でもわたくしの通勤経費は逆に値下がりしました。驚きますが、京王相模原線の運賃が値下げになったためです。京王本線は新宿から八王子を結びます。それに対して南大沢を通る京王相模原線は調布駅から枝分かれする支線です。この鉄路は1960年代から始まった多摩ニュータウンへの足として敷設された経緯があり、終点の橋本まで延伸したのは1990年くらいになってからと記憶します。

 このように本線に比べれば新しい路線なので、その運賃には割り増しがずっと掛けられていたようです(小田急線に較べると確かに高かった)。その減価償却?が終わったのでしょうか、あるいは小田急線との競合のためでしょうか、この時期に併せてその割り増しを解除したということらしいです。そのせいで、消費税は上がったけれどもその上昇分を上回る値下げが行われて、迂生の場合には片道30円も安くなりました。これは相当にありがたいことです。

 お昼ご飯用のパンを駅前で買いましたが、それには軽減税率(8%のまま)が適用されていて10%の消費税は未体験です。報道されているようにこの他にもクレジット・カード決済だとポイントが還元されるなど非常に複雑なルールになっていて、ボーッとしていると知らないうちに損をしているということになりかねません。たまたま入った一見のお店を信用するなんてことはできませんから、知識をしっかり身につけて払わなくてよいものは払わないようにしないといけませんな。


九月晦日2019 (2019年9月30日)

 お彼岸を過ぎてだいぶ涼しくなり、九月も晦日を迎えました。九月中旬くらいまでは調子が悪くてブルーな気分でしたが、徐々に回復して明日からの後期授業開始にはなんとか間に合いそうです。とは言え、先週までは時短でシングル・タスクをなんとかこなすという働き方でしたので、(以前のように)バリバリ仕事をするには程遠いのが現状です。正直なところ、もうそんなに仕事したくもないんですけどね,,,。

 さて九月末にM2の胡文靖さんが二年間の博士前期課程を修了して修士(工学)の学位を取得しました(おめでとうございます)。我が社では初めての秋入学・秋修了でしたが、結論から言うと研究室としてはあまりメリットがなく、煩雑で面倒なことも多かったため、今後は秋入学の大学院生は採用しないつもりです。中国からは研究生として入室したいというオファーのメールがたくさん来ますが、会ったこともないひとを受け入れることは相当のリスクです。成績表なども送ってもらいますが、そのひとの資質や能力は正直なところ会ってみないと分かりません。

 胡文靖さんはやる気があって実験もしたし努力したと評価しますが、中国の大学では卒業論文を執筆しないので論文をまとめた経験がなく、その指導にはとても苦労しました。このことは同じ中国のひとでも日本の大学で学部教育を受けて卒業論文を書いたひとと較べたときに歴然とします。ですから外国人を受け入れることはやぶさかではありませんが、今後は論文執筆経験のあるひとを迎え入れたいと考えます。

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 今、日本でラグビーのワールド・カップをやっているのですね。迂生はラグビーのルールを知らないし見もしないのですが、調布市飛田給(味の素スタジアム)で試合があるときには京王線が激混みするので、それが鬱陶しいなと思うくらいです。京王電鉄が事前に試合日の混雑予想時刻を掲示してくれるので、それに巻き込まれないように行動しています。

 ただ週末に晩御飯の用意をしながら何気なくテレビをつけたら、ちょうど日本―アイルランド戦をやっていて、なんと日本がトライして逆転するところでした。そのことはもちろんすごいと思いましたが、大男同士があんなに激しくぶつかり合ってよく怪我しないものだなと変なところに感心しましたね。ルールはさっぱり分かりませんでしたが、ラグビーは肉弾戦だということがよく分かりました。

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 大学図書館で借りた『普遍の再生 リベラリズムの現代世界論』(井上達夫著、岩波現代文庫、2019年8月)を読み終わりました。“普遍”とか“リベラリズム”などに特段の興味があったわけではなく、たまには不案内な分野の本でも読んでみるかくらいの気持ちです。ほら、食事でも自分の好きなモノばかり食べていると健康に悪いって言うじゃないですか。読書でも同じだろう、好みの分野の本ばかり読んでいると知識が偏ってよくないでしょ、という感じですかね。

 でも読んでみると…、いやあ、一体何を言っているのか、書いているのか、さっぱり分からない書物に久しぶりに出会いました。ある意味、目の覚めるような体験でしたな(読んでいるときにはすぐに眠たくなりましたけど、あははっ)。最後まで読めば分かるかと思って自分自身を鼓舞して読み進めましたが、それは徒労でした。第1章の「戦争責任という問題」だけは、先の戦争に対する昭和天皇の責任やアジア諸国の人々に対する戦時中の暴虐への謝罪の念など、わたくしの考えとほぼ同じであったので共感を持って読むことができました。しかしそれ以外は、例えば本書のタイトルである「普遍の再生」とは一体何なのか全く理解できませんでした。

 著者の文体が非常に固く、一文がとても長いうえに修飾語句が途中に挿入されたりするため、読みにくいことこの上ないです。何よりも〇〇的△△とか〇〇性とかの用語(著者の造語?)が頻出して、それが一体なんなのか分からないので一層理解を妨げます。「普遍主義的正義理念」とか「脱覇権的世界統治機構」、「自己調整的自生的秩序」とか「脱哲学的文脈主義化」、「正義基底的リベラリズム」……、もう山のように出てきて辟易とします。

 でもこの著者(1954年生まれの東大法学部教授)はどうしてこんなに難しく書くのだろか。フツーのひとにも理解できるようにもっと分かり易く平易に書けば、広く意図が伝わって著者にとってもハッピーこの上ないと思うのですが…。難しいことを分かり易く書こうというマインドがないことを不思議に思いました。

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 関西電力の会長、社長、役員二十名が原発立地の高浜町の元助役から三億二千万円を受け取っていたというニュースが流れました。社長らが会見を開いて謝罪したので事実なのでしょう。当事者は原発マネーの環流を否定していますが(当たり前ですね、それは犯罪ですから)、元助役という地方公務員が三億円余もの金額を自身の稼ぎで出せるわけがありませんし(報道では地元建設会社からの資金とのこと)、そもそも何か理由がなければそんな大金を関電の重役に渡すはずがありません。どう考えても怪しいですよね。

 原発に携わる技術者たちは純粋に人々の幸福の増進と社会の発展とを願って原子力発電を推し進めてきたのだと思いますが、その一方で原発事業を単なる金儲けのツルとしか考えない人たちがいるということには今更ながら失望しますな。人間の欲望は罪深いですからそんな事案は古来数知れず、ということではありますけど…。

 こんな体たらくでは、原子力発電に対する風当たりは強くなる一方です。CO2削減の有効な対策を打ち出せないままで、一体どうするつもりなのでしょうか。時折書いていますが、原子力発電という技術が泣いています。

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 明日から消費税が10%に引き上げられます。もともとは十年ほど前に民主党政権が決めたことでしたが、政権交代後の自民党政権があっさり反故にしてズルズルとここまで先延ばしにしてきたものです。しかし高齢者や弱者の社会保障を維持するために消費税引き上げは止むを得ないと考えます。事実、高福祉を実現している北欧の国々の付加価値税(消費税に相当)は日本の二倍以上と記憶します。

 れいわ新撰組の山本太郎氏が主張する消費税廃止も理念としては分からないことではありません。大企業や富裕階層が妥当な税金を納めていないとか、まだまだ無駄な支出が多いとの主張も理解します。しかしそれらを是正するには税法を改正したり自国の安全保障政策全面の見直しなど、日本という国家のあり方そのものを変えることが必要です。しかし1945年の敗戦以来の長い歴史を振り返れば分かりますが、それらを短期間で実現することはまず不可能です。

 そう考えると少子高齢化の進行が加速する現状では、それらに対応する福祉予算を消費税に頼るのも緊急避難として受け入れざるを得ないと考えます。国債を発行して(すなわち借金を重ねて)未来へその負債を引き渡すことは簡単ですが、それは良識ある大人のすることではないでしょう。


論文の査読 (2019年9月24日)

 次回の第17回世界地震工学会議(17WCEE)は2020年に仙台で開催されます。日本のホスト学会は日本地震工学会で、会長は中埜良昭さん(東大生産技術研究所・教授)が務めていて17WCEEの成功に向かって頑張っているようです。その論文投稿は既に締め切られ、アブストラクトによる審査を経て本論文を提出するようになっています。

 アブストラクトはA4用紙一枚の短いものですが、その査読を先日依頼されました。松竹梅の三段階に分類して適宜コメントを付すというもので、約二十編が送られて来ました。このように短い要旨だけを読んでそのような選別ができるかどうか危惧しました。でも、それぞれのアブストラクトを読んでみると案外とこれはGoodとか、こりゃPoorだなとか分かるものですね。特段の苦労をすることもなく、各ランクに要求されたパーセンテージ(それぞれのランクの編数の目安)を守った選別ができました。でもA4一枚といえども結構な編数だったので、その査読にはほぼ一日を費やしました。労力としてはかなりなものと考えますが、もちろん無償です。

 さて、ここから先が本論です。われわれ研究者は他者の執筆した論文を査読します。研究分野は異なれども、どの学会でもその構成員相互によるこのようなピア・レビューによって発表される論文の信頼性と一定水準とを維持します。ですから、査読を依頼された研究者は学会(あるいは論文集の主宰団体)の信用と信頼とを維持し、さらにその発展に資するように、誠心誠意査読の作業に当たらなければならない、と迂生は考えています。査読の依頼は断ることもできますから、依頼された論文の内容がファミリアではない分野だったり、査読のための十分な時間が取れそうもない時にはそれを断ればよいのです。ということで、査読の作業は依頼された本人がするものと迂生は思っていました。

 ところが、白楽ロックビル氏のサイト(論文の捏造、改ざん、盗用などの研究者倫理)の記事に「査読の半分は院生やポスドクの代筆」(こちらです)という衝撃的な論文紹介があったのです。それは主としてアメリカの大学の院生やポスドクからのアンケート回答を分析した内容でしたが、自身の所属する研究室のボスから論文の査読を頼まれて、半数は査読報告書を書いたことがある、というものです。倫理的には問題だと思いながらも(白楽ロックビル氏が指摘するように、厳密に言うとそれは「盗用」にもなりかねません)、研究者としてのスキルの訓練に役に立つ、と考えるひとが多数だそうです。

 いやあ、心底驚きましたな。まあ、競争社会のアメリカのことですから、依頼された論文をいちいち教授が査読していては時間が足りなくなって自身の研究に支障が出かねません。いきおい、有能なポスドクにちょっと読んで感想を書いといて、くらいのことはありそうですけど,,,日常茶飯事だったということですね。

 上述のようにわたくし自身はそのような発想は全くなく、多分、日本国内の建築構造分野では査読作業を下請けに出している研究者はほとんどいないと推量します(根拠はないが、聞いたことがないので…)。そもそも査読を依頼されるときには、査読者は当該論文を他者に見せてはいけないことになっています。そのような原則がありながら、アメリカでは(それを無視して?)研究室の院生やポスドクに下請けに出すのが普通とは、いったいどういうロジックなのでしょうか。それが彼らの研究者としてのキャリア形成に役立つからよいのだというのは明らかな論理のすり替えで、一般には許容され得ない理屈ですよね。

 大学院生やポスドクだって優秀なひとはゴロゴロいるでしょうから、査読する能力を有する適任者であれば直接本人に査読を依頼して引き受けてもらうのが、やっぱり正論だと考えます。それにしてもポスドクが書いた査読報告書を自身の名前に書き換えて学会に提出する教授って、いったいどんなひとなんだろうかと訝しく思いますね。一応論文は読んで、その査読報告書を書き直したりするのでしょうか。そのポスドクを相当に信頼しているのなら別ですけど、そもそも他人が書いたものをさも自分が書いたように振る舞うこと自体に気持ち悪さとか後ろめたさを感じないのでしょうか(だって、それって盗用ですもの)、そのことの方がよほど不思議に思います,,,。


研究室配属事情2019 (2019年9月19日)

 そろそろ翌年度の卒論生(現在三年生)の研究室配属を考える時期になりました。わが建築学科では、研究室配属を決定する時期がこの数年どんどんと早くなっており、今年はなんと十一月七日の教室会議で決まります。以前は翌年の二月から三月に決めていましたから、それに較べると相当に早くなったと感じます。

 こんなに早く研究室配属が決まると、現在四年生の卒論生と新しい三年生とが共存する期間が長くなります。そうであれば、従来のように三年生は(事実上)放ったらかしみたいな状態ではまずいだろうと思います。でも、研究室に物理的に収容できる人数は限られていて、現在でもほぼ満員なのでそこに新たに三年生を詰め込むことは不可能です。そういう施設上の問題は棚上げのまま研究室配属の時期だけを早めているわけで、先生方は皆さん苦労しているのでしょうな。

 でも、事実として三年生が研究室に入ってくるので、そのマン・パワーは有効に使いたいと考えます。だらだらと遊ばせておくのはもったいないし、建前としてこれは『特別研究ゼミナール1』という授業の活動なので単位を賦与しますから、それに相当するタスクを課すべきでしょう(そうしないと成績をつけられませんし,,,)。

 我が社で言えば今年度後期には幸いにも二シリーズの実験を予定していますので、それに参加してもらうことを想定しています。いつも書いているように実験は大掛かりなので、チームワークが肝要です。実験への参加の態度とか取り組みかたとかを見れば、(今までの経験から)その人の資質はだいたい分かります。熱心なひとがいれば、それをそのまま翌年度の卒論として担当してもらっても良いし、(他の研究室では時々見かけますが)その成果を四年生のときに建築学会大会で発表してもらっても良いでしょう。これはまさに理想的な状況で、まあ絵に描いた餅みたいなものでしょうけど。

 ただ実際には我が社を志望する三年生は少ないと予想されますし、場合によってはいないこともありそうです(実際、2019年度は定員四名のところ、配属になったのは二名でした)。そうであればこんな風に考えてもそれはまさに「とらぬ狸」になりかねません。ですから真剣に考えても詮無いことかも知れません、あははっ。


秋のリーグ戦はじまる (2019年9月17日)

 この週末は三連休ですが、相変わらず調子が悪いので静養しています。発病からすでに一ヶ月を経過しましたが、どうにも治りません。悲しいけれど体力の衰えを実感しております。

 さて、東京六大学野球の秋のリーグ戦が始まりました。開幕は明治大学―東京大学一回戦です。ネット・テレビで中継を見ましたが、始球式で慶應義塾大学総長が投げました。それを受けたのが東大の一年生キャッチャー(松岡さん)でした。一年生で開幕戦のスタメン・マスクに抜擢されるとは、東大とはいえやっぱりすごいと思います。

 東大野球部は浜田一志監督の部員勧誘の甲斐あって、今では部員百名を超す大所帯になっています。その中からレギュラーに選ばれるには、それなりに大変な競争を勝ち抜かないといけないのでしょうね。浜田監督の言によれば、ひ弱な東大生を甲子園軍団の他の五大学と互角に戦わせるために、まずご飯をたくさん食べさせて体重を増やして、スイングの速さと打球の速さを養成するようにしている、ということです。実際、テレビで見た東大の選手はひと昔前と違って皆立派な体格をしていました。

 この日の開幕戦では、明治大学の主将でエースの森下さんと東大のエース・小林大雅さんとが先発して、投手戦になりました。先取点は東大・石元さんのソロ・ホームランでした。いやあ、驚きましたな。だって明大の先発投手・森下さんは東京六大学野球だけでなく多分、大学球界のトップに位置する大エースです。そのようなピッチャーからホームランを放ったのですから、迂生は快哉を叫びましたな、やったあ〜って。



 そのあと明大に逆転されるも八回裏に追いついて、2対2のまま延長戦に入りました。東大の小林さんは淡々と投げていましたが、随所でスライダーやカーブが決まって相手に凡打を打たせて得点を許しません。今年の春のシーズンよりはだいぶ調子が良さそうでした。内野陣も結構なファイン・プレーでピッチャーを盛りたてました。ただ、最終回の十二回表についに力尽きて(失策もあって)2点を奪われ、結局4対2で敗れました。いやあ、惜しかったなあ。大投手を相手に投げあった小林大雅さんには賞賛の拍手をおくります。

 翌日の二回戦には、春のシーズンでやはり明大・森下さんと投げ合って延長戦の末に敗れたものの好投した坂口さんが先発しました。そのことが頭にありますから大いに期待しましたが、この日は残念ながら調子が今ひとつだったようで、早々に明大打線に捕まって4点を取られてしまい、そのあとは昔の東大に戻ったかのようにズルズルと失点を重ねました。

 結局、この日は0対8で大敗したのでした。やっぱり野球エリート相手に勝利するのは並大抵のことではないと実感させられますな。基礎体力はもちろん、実戦で積み重ねた経験が圧倒的に相手が上のように感じました。そのようなハンデをものともせずに戦う東大野球部には是非とも活躍して欲しいと願います(日本人の好きな判官贔屓かも,,,)。


カードやライセンスの更新 (2019年9月11日)

 久しぶりに大学図書館に行くことができました、約二ヶ月ぶりです。そこで本を借りようと思ったら貸出機に警告が出たので、カウンターに相談しました。すると図書館専用カードを大学職員証と統合できるのでそうしませんか、と言われました。カードが減るのは大歓迎なので是非お願いしますと言って、手続きが進んだのですが、係りのひとが思い出したように「カードを統合すると、今までのマイライブラリの内容は失われますがいいですか」と言うのですよ。

 大学図書館のサイトにIDを登録すると「マイライブラリ」が設定されてそこにログインできます。そこには過去の貸出履歴などの自身のデータが残っています。これまで百三十冊以上の本を借りていて、その情報は迂生にとっては貴重です。それが引き継がれないのは困りますので、じゃあカード更新は遠慮します、と言うことになりました。便利になると思ったのに、とんだぬか喜びとはこのことでしょうな。でも、既往の情報の引き渡しすらやってくれないっていうのは、あまりにも融通が効かないんじゃないでしょうか。結構驚いた瞬間でした。

 もう一つは、このページを更新するために使っているソフトウエア「Dream Weaver」のライセンスの更新です。これはAdobe Creative Cloudという一年間のライセンスでして、毎年、お盆明けに大学生協でライセンス・カードを購入してライセンスを更新して来ました。ただ今年は病気で休んでいるあいだに、それが切れてしまいました。そこで八月末に一度登校したときにそのカードを買ってきて、ライセンスの復活を試みました。

 ところが、どうやってもライセンスが復活しません。実はサイトに入力してからその情報が反映されるまでには半日から一日かかるそうで、それまで待てば良かったのですが、そんなことはどこにも書いてありません、不親切ですね〜。あれこれ操作するのですが、常にクレジット・カードの情報を入力しろと(画面上で)言われます。おかしいとは思いながらも試しにそれを入力してみると…、なんといきなりソフトが使えるようになりました。しかしそれはクレジット・カードから一ヶ月分の使用料を引き落とされたからでした(調べてみると、速攻で引き落とされていて再度ビックリ)。

 ええっ、そりゃないでしょう。こちらは一年分のライセンス料を払ったのに、その上に個人のクレジット・カードからお金を取られたらこれは明らかに二重払いです。困りましたが、問い合わせの電話番号などはどこにも載っていません。Adobeのサイトを調べるうちに、やっと「個別対応のサポート」という項目を見つけたのでそこをクリックすると…、それはチャットでした。しばらく待つと先方からチャットが送られてくるのですが、それにどう返答したら良いのか(チャットなどやったことのない迂生には)分かりません。ああ、面倒くさい! 結局、自身のコメントを所定欄に入力してリターン・キーを押すと先方に送信されることに気が付き、先方のオペレータとやり取りするうちに上述のようなことが分かった次第です。

 ジタバタせずに翌日まで待てばソフトが一年間使えるようになったのですが、全くもってしなくてよい苦労を背負わされたわけで腹立ちはしばらく治りませんでした(でも、また具合が悪くなって十日近く静養することになったので、このことはすぐに忘却しましたけどね、あははっ)。

 結局、一ヶ月分の使用料はしっかりと取られ、その代わりにさらに一年分の「無料期間」を付与する、ということで落着したのでした。全く何やってんだかなあ、という徒労感でいっぱいの出来事です。オペレータの方は親切でしたが、Adobeのサイトといったら不親切極まりません。電脳社会は便利ですが、このようなちょっとしたトラブルにはなかなか対応できないということがよく分かりました。


夏休み明けのゼミ (2019年9月10日)

 今日は夏休みの研究成果を披露してもらう研究室会議を午前・午後の終日セットした日でした。わたくし自身は具合がよくないので、研究室スタッフの提出した資料を丸一日かけて熱心に議論する体力があるかどうかとっても不安でしたが、結論から言えば完全な杞憂でした。

 というのも、この日の研究室会議に出席したのはM2・藤間淳さん、M2・Yang Dichen さんおよびM1・石川巧真さんの三人だけだったからです。彼らはいずれも議論のしがいのある立派な資料を提出してくれましたので、とても有益で濃密な討論を交わすことができました。各自の研究に今後の明確な方針が見えてきたのもとても良かったと思います。少数精鋭で議論できたので会議は約二時間で終わり、午後の時間はフリーになったので助かりました。

 でも、では出席しなかった諸君は一体どうしたのでしょうか。病気のひとは欠席で仕方ないですが、そうではない人はどのような了見なのか、全く分かりません。頑張って(多少の無理をして)登校したのに、ホント拍子抜けした夏休み明けの研究室会議でした。今後、どうなるのかとっても不安です(とは言え、卒論や修論を書くのはわたくしではありませんけど,,,)。


台風でたおれる (2019年9月9日)

 今日は重陽の節句ですね、日付を書いたときに気が付きました。九のゾロ目ですからいずれにせよおめでたい日に変わりはありません。とは言え、雅な王朝時代とは隔絶した現代の日本では全く顧みられることはなく、寂しい気分もいたします,,,。

 やっとのことで病が癒えつつあり、今日は秋修了の修士論文発表会があるので登校するつもりです。でも、昨晩からの台風の影響で京王線が止まっているので、どうなることやら…。台風の暴風雨はものすごい威力で、その激しい物音のせいでよく眠れませんでした。

 朝起きて、家の西側の窓がいつもよりも明るいことに気が付きました。この窓の外側には目隠しを兼ねて針葉樹一本(高さは3mくらい)を植えてあるので、普段はそんなに明るくありません。ありゃあ、これはもしかして…と思って外に出てみると、案の定、その木は根元から倒れていました。猫の額のような土に植えられていたので、昨晩の暴風に耐えられなかったのでしょうね。でも幸い折れてはいなかったので、息子と二人でたて起こして根元に土をかぶせ、斜めにかけた紐で引張ってなんとかほぼ元の状態に戻しました。うまく根付くかどうか分かりませんが、とりあえず復旧したっていう感じです。

 今まで庭木が倒れたことはありませんでしたので、昨晩の台風の風がいかに凄まじかったか分かろうというものです。いつも書いていますが、自然の力には人間の叡智など無力です。電車だって(その安全を確認しなければ)運行できません。病を得て三週間以上も療養していた身としては、なるようにしかならないということを素直に受け入れることができます。ですから、なんとかして大学に登校しようなどという気はさらさらないわけです。ダメなら大学には行かない、ただそれだけです。

 大学の先生は気楽でいいなあと思われるかもしれません。表面的には確かにその通りでしょうが、ここまで来るには他人様が想像もできないような努力を積み重ねてきたわけで、そろそろその恩恵に浴しても良い年齢に至ったと勝手に思っています。研究を進めるためのアイディアを涵養するにはまず健康こそが最も重要である、という当たり前のことを今回痛感いたしましたので、今まで以上に健康第一で過ごしてゆきたいと存じます。

追伸; 京王線のダイヤは滅茶苦茶でしたが、何とか大学に登校できましたので、この文章をアップいたしました。


 とどこおる (2019年8月29日)

 久しぶりに大学に登校しましたが、暑さのなかにも秋めいた空気を感じるように季節が動いていました。このページの更新が滞りましたが、この間、病を得て伏せっていたためです。

 お盆の頃に藤間淳さんの実験が終わりましたが、体力が相当に落ちていたせいか、その夜から熱が出て、三日後には体温が40度を超えました。こりゃ堪らん、ということで慈恵第三病院の緊急外来を受診しました。そのときは内科医から感染症ですねと言われて、抗生物質は効かない種類だと言うので風邪薬みたいなものを処方されました。基本は自己治癒と言われ、ああそれならいつもと同じだな、寝てれば治るな、と思いました。

 ところが数日寝ていても熱がさっぱり下がりません。熱が40度もあるとまっすぐ歩けなくなりますし、眠ることもできません。あんまり辛いので近所の柏田医院に行ってみました。柏田先生曰く、感染症?そうかなあ、と首を傾げています。ということで調べたら(レントゲンを撮るだけですけど)なんと肺炎にかかっていたのです。こちらは抗生物質が効くタイプでしたので、その薬を飲んでいるうちにだんだんと快方に向かって来ました、よかったです。

 しかしここまで回復してとりあえず登校できるようになるまで、なんと二週間もかかりました。とは言え、まだ完治には程遠くてすぐ疲れるので、そろそろと少しずつ仕事をしているような状態です。こんな体調ではとても出張などできませんので、来週、金沢で開かれる建築学会大会には行かないことに決めました。二十二歳のときから毎年欠かさず参加してきた建築学会大会ですが、その連続記録も途切れるときを迎えました。まあ健康には代えられませんので、仕方ないかと諦めています…。

 病気のせいでこんなに仕事を休んだのは人生初めての経験でした。もうしばらくすると還暦を迎えますが、長いこと生きていると体にガタが来て、昔みたいに無理は効かないし、やる気も減退しつつあるように感じます。今回の病気静養はそのことをしっかりと認識させてくれる良い機会だったと思うようにしましょうかね。


ついに終わる (2019年8月16日)

 台風が去って蒸し暑さが戻ってきたこの日、世間ではお盆を迎えているこの日に、我が社では今年の三月半ばに試験体を搬入して以来、五ヶ月間に渡った実験がついに終了しました。ものすごく暑かったので、これで実験は完了かと思うと素直に嬉しいです。午後には晋沂雄さんが助っ人で駆けつけてくださいました。最後の軸崩壊発生の瞬間をご覧いただけたのでとてもNice Timing でした、よかったです。

 実験主担当者のM2・藤間淳さんがあれこれ悩んで載荷履歴を決めた甲斐があって、期待した通りに(今までの試験体よりも)柱梁接合部の軸崩壊発生時の変形性能は乏しいという結果になりました、これもよかったです。ただしその破壊モードは、藤間さんが実現させたいと言っていたものとは異なりました。ということは、平面ト形柱梁部分架構を対象とした他所の研究室の実験で見られた破壊モードが、水平二方向載荷して軸力が変動する立体隅柱梁接合部では生じない、というふうにも判断できる可能性があります。そのあたりは実験データを詳細に検討することによってある程度は分かるだろうと期待しています。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC隅柱梁接合部実験2019_藤間淳:4体目_立体ト形試験体F3_変動軸力の載荷履歴変更_F2と同一配筋:IMG_3818.JPG

 今回の実験は担当者諸氏が粘り強く作業に当たったことが特筆されます。そのせいで実験期間が伸びたとも言えますが、夏休み中に終えることができたのでよかったと思います。この実験の成果が実りあるものとなることを願っております、はい。


ことしのお盆2019 (2019年8月15日)

 お盆です。西の方に台風が来ているせいか八王子も不安定な天気が続いていて、猛烈な雨が降ったかと思うとカラッと晴れたりします。空を見上げたら白や灰色の雲々がかなりの速さで北西に流れていました。気温・湿度ともに高くて不快ですが、大型構造物実験棟のシャッターを開けて外に出ると時として涼しげな風が吹くことがあります。そんなとき、季節はうつろって確実に秋に近づいていることを実感します。

 この暑さのなか、大型構造物実験棟では最後の試験体の加力を行なっています。柱に与える変動軸力の幅を大きくして、これまでで最大の圧縮軸力を載荷することにしました。予想としては片江 拡さんのときと同等かそれよりも早い段階で柱梁接合部の軸崩壊が生じると考えています。今日は層間変形角2%の繰り返し載荷を行いますので、そろそろ危ない領域に入るころだなと怖れています。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC隅柱梁接合部実験2019_藤間淳:4体目_立体ト形試験体F3_変動軸力の載荷履歴変更_F2と同一配筋:IMG_3269.JPG

  研究室に登校する学生諸君はほとんどなく、M2・藤間 淳さん、M1・石川巧真さん、B4・王 君穎さんの三人で頑張って実験しています。お盆に実験するのは二年振りです。冷房などはなく、下手をすると外よりも暑い実験棟はわたくしのような老体にはきついですが、彼らは若者ですから大丈夫なんでしょうね、よく分かりませんけど…。もちろん水分補給には気をつけるように言っています。でも迂生が学生だった頃には熱中症などという言葉はなく、夏が暑いのは当たり前だと皆思っていました。ある意味、非科学的な時代だったんだなあと思います。

 大学当局は夏休みをとるように言っていますが、お盆の日に教授会があるので(まじめな)先生がたは皆さん登校するハメになります。わたくしは実験があるので登校しますからどうでもいいのですが、一般論としてはお盆に教授会はやらないで欲しいですな。

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 さて、今日は敗戦の日でもあります。先の戦争では多くの祖先たちが亡くなりましたが、日本の軍隊が進軍して戦場となった東南アジアの国々では無辜の市民が大勢犠牲となりました。その数は数百万人とも言われますが、その実数は誰も知りません。皇軍の兵士たちが彼の地で一体なにをしたのか、論じられることはほとんどありません。あまつさえ、そのような非道な行為はなかったと主張する人々さえいるくらいです。

 常に書いていますが、われわれ自身を検証し、責任を問い、反省することがなければ、世界の国々から尊敬の念をもって見られるようにはなりません。そういう主体的なアクションをとることもせず、自分たちに都合の良いことだけを並べたてて「国益に反する」とか「反日的である」とか主張しても、それは歴史を知るひとにとってはまさにナンセンスの極みにほかなりません。世界のなかで自身を顧みることができてこそ真のグローバル化が達成されると考えますが、いかがでしょうか。


火落ちする (2019年8月12日)

 山の日に連なるこの三連休、皆さまいかがお過ごしでしょうか。台風が近づいているせいか、夜中に急に雨が降ってきたりしましたが、総体としては猛暑が続いています。わたくしは七月末から八月初めの激務による疲れを癒すために、我が家でまったりと過ごしました。

 さてそんな休日のなか、気分転換にストックしていた日本酒でも飲もうと思って、床下収納から冷蔵庫に移しました。兵庫県神戸市東灘区の小山本家酒造・灘浜福鶴蔵が醸造した「空蔵[くぞう]」という純米吟醸酒です。以前に神戸に行ったときにこの酒蔵を訪ねて、美味しかったことを憶えていました。地元の地酒屋でこのお酒をたまたま見つけたので購入してありました。そうして夕飯時に今回のお酒は袋吊りのしずく酒なので楽しみだなあと思って口に含むと…、なああんと日本酒がワインになっているじゃないですか!(そんなことある訳ないだろ)。



 いやあ驚きましたな。利き酒用の蛇の目お猪口に注ぐとわずかに白濁していてほんのり黄色味を帯びていました。そしてまさに白ワインのような香りがしたのです。でも、このときにちょっとおかしいことに気が付くべきでした。清酒はフツーはクリアな透明です。おりがらみ等の場合には浮遊物がありますが、このお酒はそう言う種類のお酒ではなかったのです。そうして飲んでみると、ものすごい酸味でとても飲めたものじゃありません。お米の旨みはなく、余韻によくある苦味もありませんでした。これは日本酒じゃありません(かと言って、もちろんワインでもない)。

 実はこのお酒は生酒[なまざけ](火入れ(加熱のこと)による殺菌を行なっていないもの)で本来は冷蔵保存を求められますが、それを無視して約五ヶ月のあいだ床下収納(すなわち常温)で保存していたのです。というのは、造りのしっかりした純米酒ならば常温での熟成によってさらに美味しくなる、ということがあるからでした。実際、「風の森」(奈良県・油長酒造)という生酒は一年三ヶ月も常温保存したあとに開栓して飲んだのですが、とても美味しかったのです。

 しかし今回のお酒は熟成に失敗しました。結論を言えば、この白ワインのような香りと強烈な酸味は火落ち菌(乳酸菌の一種)がもたらした酒質の変化だったのです(これを日本酒業界では腐造と呼んで忌み嫌います)。乳酸菌ですから酸っぱくなったのでしょうね、きっと。腐造では嫌な臭いがすることが多いみたいですが、今回は香りは良かったのでそこそこ良さげな(?)火落ち菌だったのだと思います。念のために書いておくと、これはもちろん酒蔵のせいではありません。火入れをしていないのだから冷蔵保存しろ、とちゃんと書いてあるのを無視して、常温で保管した迂生が悪いのです。

 今回の経験によって、生酒の常温での熟成にはリスクがあるということを学びました。でも飲めないものは仕方ありませんので、せっかくのお酒ですが流しに捨てるしかありません(料理酒にしようかと思ったら、味見した女房からリジェクトされました、まあ当然でしょうけど…)。火落ちで気落ちしましたので、これからは生酒は早めに飲むことにいたしましょう。でも早々お酒は飲めませんから、やっぱり火入れのお酒を保管してチビチビ楽しんだほうが良さそうだな。


ひと息つく (2019年8月9日)

 八月に入って激暑の日々が続いているので、朝、登校するのがつらいです。大学の構内ではセミの抜け殻を急にたくさん見かけるようになりました。ただ夕方になって陽が陰ると、少しでも風が吹いていれば多少はしのげるように感じますし、セミの声に混じって邯鄲の澄んだ音も聞こえて参りました。それは初秋を連想させるので涼しげに思えるのでしょう。

 さて大学院入試の張り詰めた業務が一段落して、やっとひと息つくことができました。このご時世ですから、大学院入試にも大学入試並みの厳しさが求められます。ただ大学院入試の場合には各研究科・各専攻(われわれの場合には学域と呼びます)で試験の時期や内容はまちまちですしそのやり方も千差万別ですから、事務方にとってもなかなか手強いと感じられるでしょうね。とにかく試験業務では何事もなく無事に終わって当たり前と言われますから、ミスや間違いがないように常に気を張っていないといけません。これは相当につらいです。

 というわけでホッとひと息ついて、今は溜まっていた雑務を片っ端から片付けています。最近の仕事の多くはメールに乗ってやって来ます。迂生の場合には未実施のお仕事は受信ボックスに入れたままにしています(そうしないと忘れてしまうことが多い)ので、それを順番にこなしながら、終わった仕事のメールはどんどん既決ボックスに移してゆきます。こんな感じで受信ボックスに残っているメールの件数はみるみる少なくなりました。いやあ、嬉しいです。

 また、お盆恒例の大学院レポートの採点にも取り掛かりました。一日で全部見切ろうとするとすごく大変なので、(幸いにも今年はお盆までまだ時間があるので)数日かけて採点することにしました。そうするとちょっと気が楽になるんですね〜。ちなみにお盆が採点のリミットになるのは、例年、事務方から要請される成績入力の締切日がだいたいこの時期だからです。

 ただ懸案もあって、それはM2・藤間淳さんの実験です。最後の四体目の試験体はすでに実験装置にセットされて加力を待っているのですが、柱梁接合部の軸崩壊のモードを変化させるために柱軸力の載荷履歴を変更しようとあれこれ悩んでいるみたいです。これまで三体の結果をにらみながら載荷履歴を修正することは良いことですし、あれこれ考えて実験の当初の目的を達成しようと努めることも重要です。ただ、夏休みに入って実験に参加してくれる学生諸氏の人数が減ってしまったらしく、なかなか加力を開始できないようでヤキモキしています。この様子ではお盆前に実験を終えることは難しそうです。まあ、九月早々の建築学会大会の前までに終えてくれれば、大型構造物実験棟のスケジュールとしては大丈夫なんですけど、どうだろうなあ。

追伸: 今日の午後、藤間さんがついに加力を始めました、嬉しいです。人手がないので晋沂雄先生も来てくれました。迂生も久しぶりにひび割れを真剣に探しましたが老眼のせいでよく見えず、あまり戦力にはならないようです、とほほ…。


広島の日2019 (2019年8月6日)

 ものすごく暑い朝になりました。それでも空を見上げるとうろこ雲が棚引いていて、うつろう季節を感じました。七十四年前の広島の人々はどのような気持ちでこの空を見上げていたのでしょうか…。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:北山家旅行・広島_宮島_呉20180325:DSC02161.JPG
    写真 原爆の碑と原爆ドーム(2018年3月撮影)

 お隣の韓国との政治関係が急速に悪化しています。慰安婦問題が大きく関係しているのは間違いありませんが、それは(不幸ではありますが)事実なのですから日本政府はもっと虚心坦懐に歴史に向き合うべきだと思います。そういう心映えは必ず先方に通じるのものです。それなのに今はまさに戦争前夜のような様相を呈しているのが恐ろしく感じるのは迂生だけでしょうか。

 名古屋での「表現の不自由展」が中止になったことにも驚きました。でもわたくしとしては慰安婦の像に反感を持つ日本人が大勢いるという事実のほうに驚きを感じましたね。歴史を正しく認識して被害を被った方の悲しみや怒りを思い計ることができれば、そういう反応になることはないと思うのですがどうでしょうか。

 とにかく、日本の社会から寛容の精神が急速に失われつつあることを危惧します。何につけカリカリと文句を言うひとが増えているのは、社会的に恵まれないと感じる人々が増えていることと無縁ではありますまい。富裕でなくてもよいので、誰もが将来に対して不安なく心安らかに暮らすことのできる日本社会であって欲しいと願います。そしてそれこそが政治の役割であると認識しています。


耳ネタ 2019 July (2019年7月31日)

 先月は竹内まりやをちょっとばかり(?)批判的に論述しましたが、彼女のアルバム『Miss M』(1980年12月発売)については書きませんでした。最近になってこのアルバムのアメリカン・サイド(って勝手に言っていますけど、まあA面のこと)の曲たちが当時のAORとしていずれもかなりよくできたサウンドであることに気が付きました。それもそのはず、ヒット・メーカーとして名高いデヴィッド・フォスターがプロデュースに加わっていたので、必然的にそういうテイストに仕上がったのだと思います。特にミディアム・テンポの「Every Night」やスローなバラードの「Heart to Heart」が気に入っていて、ヘビーに聴いています。

 さて、その竹内まりやの慶應義塾大学での先輩に当たる杉 真理[すぎ・まさみち]の新しいアルバム『Music Life』が今年の春に出ました。六十歳を過ぎてもなお往年のポップスの王道を行くかのようなその楽曲たちにはホント、安心します。もともとビートルズのマージー・ビートのような曲調を得意としていますが、それは今も変わらないということを知って嬉しくなります。期待を裏切らないというか、予想通りなので安心して聞くことができるんですねえ。

 

 このアルバムの中では「This Life」という(彼自身の言によれば)80年代ディスコ・ミュージック風の曲が最高でして、ここのところ毎朝登校する道すがら、必ず聴いています。また数年前に亡くなった村田和人へのオマージュとして作られた「平和な人へ」も村田の曲のタイトルが随所に散りばめられていて、杉真理のかつての名曲「Key Station」と同様の印象を与える佳曲になっています。

 ただこのアルバムのタイトルとしてまさに音楽人生そのもの(Music Life)を付けちゃった点がちょっとばかり気になります。だって彼が懇意にしていたミュージシャンはいずれも六十歳前後に相次いで亡くなっているんですよね。音楽人生の集大成みたいな感じのアルバム・タイトルなので、これにて打ち止め!みたいな感を受けます。でもそんなこと言わないで(by 横山剣&堺正章)、まだまだ愉快なトークで楽しませて欲しいですし、素敵な曲たちを世に送り出し続けて欲しいと願っています。

 Life is just a mystery
 いま君がいて やっぱり愛が世界を回している
 思い出さえも 君の前では ほこりかぶった昔話
 ここが好きさ 君のいるThis Life (杉真理作詞・作曲「This Life」より)


なんで今やるの (2019年7月29日)

 梅雨がやっと空けて、猛暑がやって参りました。昨年は7月早々から激しく暑かったのに対して、今年はかなり涼しかったので凌げました。実際、我が家の今年7月のエアコンの消費電力量は昨年の半分以下でしたから、そのことがよく分かります。さて、本学では今年度は当初から冷房のピーク・カットはやらない方針で臨んでくれるそうなので助かるなあ、冷房の恩恵に浴することができてよかった、なんて思っていました。ところが、です。

 我が大学ではセキュリティの問題のせいなのか、部屋の解・施錠を行うためのカード・キーの交換および扉の脇にあるカード・リーダの更新工事が行われています。その工事の順番がなんとこの猛暑の日に巡ってきたのですよ。カード・リーダは個別冷房のスイッチとリンクしているため、現在のカード・リーダを取り外して新しいものに交換するあいだは冷房が使えないんですね〜。いやあ、ビックリです。結局、朝から午後4時くらいまで冷房なしで過ごす羽目と相成りました。

 こんなに暑くては集中して仕事ができません(気温は35度くらいと思います)。古い扇風機を出しましたが、研究室内の熱気がかき回されるだけで全然涼しくありません(当たり前か)。パソコンの前に座ったり、机にかじりついたりしましたが、能率が悪くて非効率この上ない。でも三十年ほど前、宇都宮大学にいた頃には研究室に冷房などありませんでした。それでも汗水流してはいましたが、フツーに仕事していたと記憶します。どうしても我慢ならない時には、わずかにパソコン室にだけエアコンが設置されていたので、そこに学生ともども逃げ込んだものでした…。

 結局、快適な生活に一度慣れてしまうと、昔の生活スタイルにはもう戻れないっていうことなのでしょうね。あるいは日本国内の猛暑化も関係しているとは思います。でも、よりによってなぜ、こんな暑くなった日に順番が回って来たのでしょうか。それが解せません。もっとも、数日あとだと大学院入試真っ盛りとなりますので、その時期にぶつからなくてよかった、という風に解することもできそうです。そうだとするとこんな些細な出来事も結局のところ、人間万事塞翁が馬っていうことなんでしょうね、きっと。


夏本番か (2019年7月28日)

 台風が去って、日差しが戻って参りました。今年の梅雨は長かったですがこれでいよいよ空けて、日本の夏本番がやって来ると思えば(昨年の猛暑のことはすっかり忘れて)安堵感すら覚えますから、ホント人間って不思議ですよね。以前の長期予報では今年は冷夏と言っていましたが、どうなるのでしょうか。

 夏本番とともに大学院入試もやって来ます。例年のことですが、暑いさなかに入試をやることは受験生諸氏のみならず我々にとっても少なからぬ負担です。世間では表面的には好景気が続いているせいでしょうか、大学院博士前期課程(修士のこと)の進学希望者は十年前に比べると半減いたしました。建築学専攻は人気があるから、という今までの通念はだんだんと通じなくなりつつあります。実際、2019年度の進学者は結局、定員割れになりましたから…。このような状況が続けば、冬入試をやらないわけには行かなくなるかも知れません。

 先週、大学での健康診断が行われました。学部の期末試験や大学院授業の講評会があったため時間が自由にならず、さらに体調が思わしくなくて、結局、最終日の午後になってやっと会場に行くことができました。今年から尿検査が自宅で採尿して持ってゆく形式に変更になり、それがまた億劫かつ面倒でしたねえ。ただ、最終日の午後にもかかわらず診断会場自体は空いていてスムーズに進んだのは助かりました、角田さんから「最終日は激混みだよ」って脅かされていましたから。例年のことですが採血や血圧測定では気分が悪くなるので、なんとかして欲しいと思います。

 大学院の「プロジェクト特別演習」では、既存のモダニズム建築を各自取り上げ、現状の分析や問題点の抽出を行なって今後も使い続けるための改修案を提示するという課題の講評を行いました。上述のように今年度はM1の人数自体が少なかったため、履修者が八名と少なかったのは残念でしたが、履修した皆さんがそれぞれ魅力的な改修案を示してくれて大いに楽しめました。

 そのなかでもわたくしが提示したJIA館(進来 廉[すずき・れん]設計、渋谷区神宮前)を取り上げてくれた小林研M2・西村和起さんの提案は荒削りでしたが、丁寧に模型を作ってくれたせいもあってなかなかに良いアイディアだと思いました。JIA会館の居室部分は四本柱の特異な構造形式なのでその部分を耐震補強することは普通に考えれば無理です。そこで、敷地に余裕があることを利用してそこに新たな骨組を作って既存建物と緊結することで耐震補強としました。西村さんからは予め相談を受けていたので、そういうアイディアもあるよとは言っておきましたが、かなり上手にまとめてくれたと評価しています。実現するためにはクリアしないといけない技術的な問題が種々ありそうですが、コンセプト・モデルの提案としては十分じゃないかと思います。


    写真1 JIA[日本建築家協会]館(2019年3月撮影)


写真2 JIA館(左)と本館(右)とのあいだの隙間
(黒く影になっている部分、ここからJIA館にアクセスする!)

 このJIA館ですが、前川國男が設立した日本建築家協会の別館として建てられました。隣接して同じく進来 廉が設計した本館(上の写真の右側の低層建物)も建っていますが、地下鉄・外苑前駅からJIA館にアクセスする際にはこの本館とJIA館との間にある一メートルに満たない隙間を通らなくてはいけません(上の写真で黒く影になっている部分です)。すなわち両建物の配置計画が良くないと迂生は思うわけですよ。西村さんにはその部分も改修してくれると本当はよかったのですが、まあそこまで要求するのは酷かも知れません。

 かようにJIA館は日本の建築家たちの総本山のはずですが、十分な耐震補強をせずに使い続けていてよいのでしょうか。西村さんの調査では、1995年の兵庫県南部地震以降に七階部分を減築して、重量を軽減することで耐震性能の引き上げを図ったということでしたから、そこそこのIs値(耐震性能指標)はあるのかも知れませんが…。西村さんには今回の改修案をJIAに売り込みに行ったらってけしかけておきました、あははっ。


ほんもの (2019年7月23日)

 まだ雨が降り続いています。昨年の今頃は気温39度の猛暑だったと今朝のニュースで言っていました。そろそろ梅雨が明けてもいい頃合いですね。暑いのはイヤですが、今日のような曇天の蒸し暑さはそれはそれで気が滅入ります。

 さて、少し前のことですが、七月早々に本学・牧野標本館別館のギャラリーで「水野忠邦の江戸日記」という小展示が開かれたので寄ってみました。別館はちょうど通勤経路にあるので、朝九時早々に入ると、係りの方(図書館のひと?)が二名いるだけで見学者はまだ誰もいませんでした。まあフツーに考えれば、そんな朝早くから水野忠邦[みずの・ただくに]を見に来るひともいないでしょうけど、あははっ。水野忠邦は江戸末期に天保の改革を実施した幕府老中で、その杓子定規で容赦のない政策によって庶民からは嫌われた権力者でした。



 以前に書きましたが本学の図書館には水野忠邦の肖像画や自筆の文書が収蔵されていますが、普段は見ることができません。そういった貴重な現物を見ることができるので、こりゃ良い機会と思って足を運びました。ただ、その肖像画は(いつも図書館に掲げられている)レプリカでした。そこでそこにいた係の方に「ホンモノは見せてくれないんですか」と単刀直入に聞きましたが、ゴニョゴニョと言い訳するし、レプリカでもいいでしょみたいな口ぶりがアリアリでした。でも、誰もがモナリザのホンモノを見たがるのと同じように、水野忠邦もホンモノが見たいんですけどねえ,,,。本物を鑑賞したいという人間の心理を理解した展示にして欲しかったと思います。

 それから、自筆の文書などは達筆すぎてよく読めませんでしたが、幕府中枢の人事の手控えには、遠山左衛門尉とか矢部定謙[やべ・さだのり]などの現代でも有名な名前が散見されました(それらは綺麗な楷書で書かれていたので読めました)。ちなみに矢部駿河守定謙は老中・水野忠邦と対立して江戸町奉行を解任され、言いがかりのように罪を負わされて矢部家は断絶となりました。その後、矢部定謙は水野忠邦や鳥居耀蔵らを恨みながら自ら絶食して命を絶ったと伝わります。

 そんなやり手だった水野忠邦でしたが、失脚して嫡子忠精[ただきよ]に藩主を譲ったあとは遠州浜松七万石から二万石を没収され、出羽山形五万石に転封となりました。浜松から山形に転出する際、領内の町民・農民からの借金を踏み倒して行こうとして騒動になったという文書も展示されていました。権勢を誇った権力者も、一旦それを失えば悲哀を味わわなければならなかったということでしょう。まさに奢れるものも久しからず,,,です。


参議院議員選挙 おわる (2019年7月22日)

 この日曜日の参議院議員選挙ですが、総論としては(わたくしにとっては残念ながら)安倍政権が支持されたということかと思います。投票率も50%を下回ったらしいですから、政権与党にとっては有利な状況でした。でも、こんなに滅茶苦茶な政治をやっているのにもかかわらず、国民からノーを突きつけられないってどういうことでしょうかね? 国民が選んだことですからその事実は事実として厳然として重たいのですが、迂生にはどうしても納得できません(そんなの知ったこっちゃないでしょうけど…)。

 わたくしが投票したのは東大法学部出の新聞記者だった方ですが、事前の下馬評では東京選挙区の定員六名のなかに入っていたので、大丈夫だろうと思っていました。ところが今朝起きてみると、元都議で都民ファーストから袂を分かったひとに抜かれて、結局第七位で惜敗していました。ありゃ、またもやわたくしの投票した方は落選ですかい。わずな差だったのでとても残念ですが、やっぱり知名度が低かったことが敗因でしょうな、きっと。だってセクハラ・ヤジで野次られた女性が早々に当選を決めたのですから、主張よりも知名度が大事なんでしょう。なんだかなあ、とは思いますが、それも選挙のうちっていうことかな。


電車が止まったので… (2019年7月19日)

 この日の朝、変電所の火災のせいで京王線が止まってしまい、大学に登校できなくなりました。仕方ないので、付けっ放しになっていたNHKを何気なく見ると、朝イチという番組になんと久米 宏が出ているではありませんか。いや〜、久しぶりにお見受けいたしました。

 彼のぴったしカンカン(TBS)は子供の頃に見ていましたし、ニュース・ステーション(テレビ朝日)もよく見ました。でも、NHKの放送で彼を見たことはありませんでした。その理由が今日のこの放送でよく分かりました。彼はNHKに対して極めて批判的な持論を持っていて、それを公言していたそうです。今朝の放送のなかでもそのことを何度も言っていました。最後には、国営放送の人事や予算を国家に握られて首根っこを押さえられているのは先進国では日本しかなく、それは良くないのでNHKは民営化すべきだ、と。

 それを聞いたNHKの近江アナウンサーが「国営放送ではなく、公共放送の…」とちょっとばかり久米宏大先輩に反論してNHKを擁護?したのに対して、久米宏が「そもそもNHKの何代か前の会長がとんでもない人物で…」と言い始めたときに、華丸なんとかという男性があわてて(明らかにこれはまずいと感じたみたいで)その発言を遮ったのは印象的でしたね。生放送なのでとっさに(NHKサイドとして)判断したのでしょうが、それまで久米宏に好き勝手に発言させてNHKの度量の広さを示しつつあったのに、結局自分に都合の悪いことは放送させないのかよ、という落胆した気分になりましたな。

 ときどきこのページに書いていますが、わたくしもNHKには良いイメージは持っていません。法律で決まっていることを盾として受信料を恫喝するかのようにむしり取ってゆくその態度には反感すら抱いています。ですから久米宏の唱えるNHK民営化には大枠として賛成です。ただ、アナウンサーの大先輩である久米宏に対して果敢に反論を試みた近江アナウンサーには好感を抱きました。自分の仕事や職場に誇りを持っているということですから、いいんじゃないでしょうか。

 久米宏ももう70代の半ばに達したそうですが、話術は相変わらず達者で、機関銃のように話しまくっていました。その勢いはNHKの出演者三名をもってしても制御不能といった感じで、どちらが番組のホストか分かりませんでした。久米宏はいみじくも「敵の本丸に乗り込んだ。まさに桶狭間だ」と言っていましたが、その本丸でもNHKにおもねることなく持論を展開したことに(その剣幕にはちょっと引きましたが)その信念の強さを感じました。


三体めの加力を終える (2019年7月18日)

 昨日、M2・藤間淳さんを主担当者とする立体隅柱梁接合部実験の三体めが無事に終了しました。今回の試験体では柱梁接合部の横補強筋量を増やしたので、二体めよりも損傷の進展が緩やかで少しばかり安心して見ていることができました。ただ、層間変形角4%での水平二方向繰り返し載荷では、接合部内の柱主筋が目に見えて座屈し、多数の斜めひび割れによって細分化されたコア・コンクリートがパラパラと落下して粉塵が舞い上がるのを見ると、やっぱり空恐ろしさが募って参ります。実際の地震時にはこれらの現象が瞬時に起きるわけですから、それをスローモーションで見ているような感覚と思ってください。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC隅柱梁接合部実験2019_藤間淳:3体目_立体ト形試験体F4_接合部高補強:IMG_3015.JPG

 こうして層間変形角4%の加力サイクルを二回繰り返して、予定した加力スケジュールを無事に消化いたしました。柱梁接合部は満身創痍となったものの、幸いにも所定の柱軸力はまだ保持できています。そうすると人間とは欲張りなものでして、ちょっとだけ色気が湧いてきます。藤間さんと相談して、試験体を正立させた状態で柱の圧縮軸力だけを増加させて柱梁接合部の軸支持能力を見てみようというエキストラの載荷を追加することにしました。

 そこで万一に備えて接合部周りの変位計を取り外してから、藤間さんが柱の圧縮軸力を20kNずつゆっくりと加えていきました。どれくらいまで行けるのか、手に汗握るっていう感じかと思ったのですが、追加で60kNを入れたところでもの凄い破裂音がしました。もう、心臓がドキドキです。柱梁接合部内の横補強筋の135度フックがほどけて、コア・コンクリートが大きくはらみ出したことが原因でした。実際の地震被害の現場では、せん断破壊した柱の横補強筋のフックが外れているのを何度も目撃しましたが、実験棟での構造実験でそれを見たのはこれが初めてです(いや、実は二十年以上前に柱の実験をしたとき、予期せぬ加力によってその現象が現出したことはあったのですが,,,)。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC隅柱梁接合部実験2019_藤間淳:3体目_立体ト形試験体F4_接合部高補強:IMG_3003.JPG

 これを見てすっかりビビったわたくしが(すごく弱気になって)これにて実験終了!のコールを発したのはもちろんです。試験体の上柱と下柱とが“くの字”に大きく曲がってしまい、ピン支持の許容限界に到達しそうだったこともあります。実験装置を壊したら、あとが大変ですからね…。こうして三体めの実験も無事に終了することができました。ほぼ軸崩壊に至るまで加力しましたので、とても貴重な実験データをゲットできたとほくそ笑んでいます。

 この実験ではチーフの藤間さんに加えて、M1・石川巧真さん、卒論生・王君穎さんが担当としていつも熱心に実験に参加しているのがとてもいいですね。そして明治大学・晋沂雄研究室の佐野さん、鄭さん、小杉さんの卒論生が代わり番子に参加してくれます。試験体の入れ替えの際には晋沂雄さんにご足労願って、その作業を担ってもらっています。このように多くの皆さんの努力と叡智とによって実験が無事に進んでいるわけで、そのことにはいつも感謝しています。


長い梅雨 (2019年7月14日)

 ここのところもスッキリしない、雨が降ったり止んだりの日々が続いています。昨年は六月中には梅雨が明けていましたから、それに較べると今年は典型的な日本の梅雨、という感じがしますな。気温はあまり高くないのですが、湿気がものすごいので蒸し暑いです。今年は冷夏と言われていますが、さてどうなることやら…。

 そのような天候のなか、参議院選挙の選挙戦が続いています。消費税が争点のひとつになっているそうですが、10%消費増税のストップだけでなく消費税そのものの廃止まで訴える候補者がいることには驚きます。そういう人は何を代替財源にするかと言うと、無駄遣いの精査とか予算の今までの使い方を見直すとかによって財源を捻出するそうです。でも、そんなことが不可能であることは、民主党政権の事業仕分けがほとんど余剰金を産み出さなかったことを思い出せば誰にだって直ぐに分かることだと思いますよ、ホント。日本国の首相は前の民主党政権を「悪夢」と言って揶揄しているそうですが、こういう貴重な経験を残した点では十分な意味があったのではないでしょうか…。

 北欧のような高福祉を実現したいのならば、国民自身がそれ相応の負担をしなければなりません。負担はしないけど、面倒はしっかり見てくれなどと国に要求すること自体が間違っているのです。しかし参議院議員の候補者自体がそういう大衆の声に迎合するようなことを主張するとは、国の行く末をどのように考えているのでしょうか。未来の世代にツケを回して自分たちだけが良ければそれで良い、という風に聞こえますよね。世も末、といった感を深くします。

 少子・高齢化社会と言われて久しいですが、市井の人々が真剣に考えてその未来を正しく予想しているのかどうか、残念ながら疑問符を付けざるを得ません。無からは有は生まれません。利益を享受したいのならば、それ相応の供与をしなければなりません。そんな当たり前のことも理解できないようでは、残念ながらこの国の行き着く先には光明が見えません。自分たちだけでなく子孫たちの未来をどのようにしたいのか、その意思を明瞭に表示することがこの選挙では問われているのです。


ヤードで懇親会 (2019年7月9日)

 昨晩、実験棟のヤードで久しぶりにバーベキュー・パーティを開きました。幸いにも雨が降らず、加えてかなり涼しい気候でしたので助かりました。今年度から明治大学の晋沂雄[じん・きうん]研究室との共同実験が始まりましたので、両研究室の懇親を兼ねて今回のBBQに至りました。我が社でBBQを開くのは久しぶりで、晋沂雄さんが特任助教として我が社のメンバーだった頃に石塚くんや鈴木大貴くんたちが在籍したとき以来だと思います。

 今回は我が社のM1・石川巧真くんやM2・有井季萌くんに一切を取り仕切ってもらい、研究室の諸氏の尽力のお陰でBBQパーティを実施できました。ご協力いただいた皆さん、どうもありがとう。両研究室あわせると二十名以上でしたので、準備は大変だったと思います。ご苦労さまでした。

 明治大学建築学科の学生諸君とはほとんどの方が初対面でしたが、皆さんから色々と若者の生態について話しを聞くことができて楽しかったです。私立大学の雄である明治大学のカラーはやっぱり本学のそれとは明らかに異なっていて、かなり垢抜けて陽気なように思いましたが、我が社の諸君はどのように感じたのかな?

 藤間くんの実験はまだしばらく続きますので、両研究室で協力しながら安全に実験を行って欲しいと思います。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:北山研究室BBQ20190708with晋沂雄研究室:IMG_2510.JPG


一年のはんぶん (2019年7月4日)

 雨が降り続いています。九州では大雨になって難渋しているようです。気温はそんなに高くなさそうですが、湿度が100%なのでものすごく蒸し暑いですね。

 さて、時の経つのは早いもので、今年も残すところあと半年となりました。皆さま、いかがお過ごしでしょうか。東京オリンピックの開催も早や一年後に迫って参りました。先日、渋谷区神宮前に行ったので(例によって)新国立競技場の今をご報告しましょう。躯体はほぼ出来上がったようで、写真のように屋根等の木材が見えています。歩行者デッキ上には若い樹々が植えられて、外構の構築が急ピッチで進んでいました。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:JIA館内部_国立競技場20190701:IMG_0687.JPG

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:JIA館内部_国立競技場20190701:IMG_0691.JPG

 上の写真は改装中のJR千駄ヶ谷駅のオリンピック用ホームの現状です。わたくしの記憶では、このホーム自体はわたくしが高校生の頃にもあって、でも使われてはいませんでした。多分、1964年の東京オリンピックの時に造られたまま、使われずに放置されていたものと思量します。今回のオリンピックに備えて、新しく屋根を架けたりして整備しているようでした。

 千駄ヶ谷駅前では、千駄ヶ谷駅だけでなく東京体育館(槇文彦先生の設計)も大規模改装中ですし、駅の向かいにあった津田塾大学のスクール・オブ・ビジネス棟(これも槇文彦先生の設計)は取り壊されて、だだっ広い不思議なスペースになっていました。公開空地と言うわけではなくて、仮設とは思われないフェンスに囲まれてまさに宙吊りになったような場所です。一体、どのような使い方を想定しているのでしょうか、不思議です…。

 昨日の構造力学の授業では、教科書と白板とを併用して説明しましたが、こうするとやっぱり時間短縮には役立ちます。通常は板書する内容はあらかじめ決めて授業に臨みますが、この日はほとんどアドリブで白板に書きましたので、その作品?を忘れないように(来年度以降の備忘録として)、一番前に座っていた学生さん(矢島わかなさん、ありがとう)に頼んでスマートフォンで白板を撮影して、メール添付で送ってもらいました。いやあ、便利ですね〜。

 そのときにわたくしがスマートフォンを持っていないと言うと、学生さん達がひどく驚いたことに逆にこちらが驚きましたな、あははっ。調べものはどうするんですかパソコンですか、と聞かれたことにもビックリしました。彼女/彼らはレポートなんかの調べものも全てスマホでやっていることが図らずも分かりました。あんな小さな画面でレポート用のコンテンツを集めて見ているので、間違った情報なんかも平気で書き写しているのかも知れません…。わたくし自身はケータイは持っていても携帯しないし、自身の電話番号も覚えていません。そんな人間ですから、スマホなんてハナから不要なんだと思っています。


骨のゆくえ (2019年7月1日)

 七月になりました。ちょっと肌寒い空気のなかを梅雨らしく雨が降り続いています。大学の前期の授業は残すところあと数回となって、やっと終わりが見えてきました。このところ講義が終わって研究室に戻ってくると、疲れて何もする気力が湧かないことがしばしばでした。学期末が近づいて素直に嬉しいです。年齢を重ねてきたためか、全精力を傾注して授業すると激しく疲弊するみたいなので、フル・パワーの八割程度にセーブするようにしないといけないなと自身に言い聞かせています。一所懸命に講義することに変わりはありませんから、それくらいは学生諸君に受容してもらえると考えます。

 さて、江戸時代中期に日本に潜入して捕らえられた宣教師ジョバンニ・バティスタ・シドッチの遺骨が文京区小日向(こひなた)のキリシタン屋敷跡で発見されたことを以前に書きました(2016年4月)。その遺骨がシドッチであることを確実にしたのがDNA鑑定でしたが、その顛末が綴られた書物を大学図書館で偶然見つけました。

 篠田謙一氏が執筆した「江戸の骨は語る 甦った宣教師シドッチのDNA」(岩波書店、2018年4月)です。著者の篠田謙一氏は国立科学博物館に所属して、ミトコンドリアDNAの分析やヒト・ゲノムの解析によって日本人の起源を研究している気鋭の分子人類学者です。その知見と技術とを生かして今回、発掘人骨の核DNAの分析を行いました。最新のマシンである次世代シークエンサによってその分析の時間が大幅に短縮されたことが、今回のシドッチの「再発見」に大いに寄与したそうです。



 さて、シドッチはキリスト教を布教するために日本にやって来て、それが原因で江戸で亡くなりました。すなわち殉教したと理解できます。以前にも書きましたが、殉教したひとが使ったもの、触ったものやその肉体自体は聖遺物としてキリスト教では珍重されます。その点で遺骨はもっとも大切な聖遺物なのです。それゆえ発掘後の遺骨の行方について、迂生は気になっていました。

 篠田氏の本にはそのこともちゃんと書いてありました。出土した三体の人骨(シドッチ、長助、はる)は、つくば市にある国立科学博物館の人骨収蔵庫に保管されています。発掘された遺物や遺骨の所有権は現在の法律では地方自治体にあり、東京都の場合には各区で所有することになっていて、文京区からの依頼で保管しているとのことでした。このことからシドッチの遺骨や遺品はキリスト教会に渡されることはない、ということになりそうです。聖遺物の帰属をめぐるキリスト者内部での争いを防ぐという観点からはその方が良いのかも知れません。

 でも、シドッチはイタリアのシチリア島出身のひとですから、身元が分かったからには故郷の地に返してあげたいとも思います。そうしないというのは、遺骨は貴重な文化財であり、将来、科学がもっと進歩したときにはさらに新たな知見が得られる可能性もあるので、軽々に判断できないということでしょうか。人情を取るか科学の進歩を取るか、ということなのか、その判断は難しそうですね。


寸止めマスター うまくゆく (2019年6月25日)

 藤間淳さんをチーフとして明治大学・晋沂雄研究室と共同で行なっている研究ですが、立体三方向加力した実験が今日の午後に無事、終了しました。鉄筋コンクリート建物の隅柱梁接合部が、地震動によって曲げ降伏破壊したあとに柱軸力を保持できなくなって軸崩壊へと至る機構を把握し、そのときの変形性能を評価するための実験研究です。柱軸力を載荷する鉛直ジャッキは変位制御できないので、圧縮軸力に耐えられなくなると急激に軸変形が縮んで軸崩壊が発生する可能性があります。そうなるともはや制御は不能ですから、最悪の場合には試験体だけでなく実験装置も破壊されることになります。それは避けなければなりません。

 今日の午前中、すでに柱梁接合部内での柱主筋の座屈の徴候が見られましたので、そろそろ危ないなあと思いました。そのあと迂生は講義があったので実験棟を離れましたが、心配だったので講義が終わるとすぐに実験棟に行って見ました。

 するとちょうどタイミングよく、藤間さんが加力を中断しているじゃありませんか。彼も危なさそうだと思ったようです。そこで試験体を見ると、柱の局所変形が進み、柱主筋がいたるところで座屈していて、柱梁接合部内のコンクリートがボロボロと落ちて来ます。これは明らかに軸崩壊直前の徴候であると思われましたので藤間さんと相談のうえ、めでたく実験完了といたしました。

 ただ、この試験体ではうまく行きましたが、このような人間の五感?に頼ったやり方では不安ですし、そもそも心臓がバクバクして精神安定上よくありません。本当は鉛直ジャッキをアクチュエータにして変位制御できれば良いのですが、それだけの予算はありません。ということで、あと二体の実験についても、このようなアナログなやり方で載荷するしかないと思っています。藤間さんたち実験チームの皆さんには、試験体を精細に観察するように心がけて欲しいと思います。

 実験終了後の記念写真を下に載せておきます。トドみたいなひとが後ろに横たわっていますが、それはご愛嬌ということでご笑覧ください、あははっ。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC隅柱梁接合部実験2019_藤間淳:2体目_立体ト形試験体F2:IMG_2400.JPG


夏至のころ2019 (2019年6月22日)

 今日は夏至です。梅雨らしくどんよりと曇ったり雨が降ったりしていますが、気温はそんなに高くありません。小さいころこの時分には、母が梅を漬けて梅干しを作っていたことを思い出します。出来上がった梅干しは甕に入れられて、食器棚の奥深くに仕舞われていましたが、ときどきそれをこっそりと取り出しては梅干しをしゃぶったことが懐かしい、酸っぱい思い出です。梅干しの種を金槌で割るとその中にはほんのり紅色をした皺々の芯?があって、それも食べたものです。子供の頃から梅干しは好きでしたから…。

 父方の祖母が漬ける梅干しは天日干しをしないタイプのまさに“漬け物”でした。干さないので表面がシワシワになることはなく、ハリのある梅干し(厳密には梅漬け)が梅酢に漬けられたままだったように記憶します。母の作る天日干しのそれとは味が違ったため、そこに行ったときには梅干しをやっぱり食べました。それはそれで美味しかったものです。

 今ではそのような懐かしい梅干しを作ってくれるひとは誰もいなくなりました。お店で売っている梅干しを買ってきますが、最近のものは蜂蜜漬けが大部分でへんに甘ったるく、また塩分も少ないものが多いですね。そういう梅干しは迂生の好みではないので買いませんが、昔のように酸っぱくて塩っぱいという伝統的な梅干しは好まれないようでお店ではなかなか見かけません。時々見つけて欣喜雀躍しても、それはベラボーにお高かったりします。まあ、仕方ないかと思って買うこともありますけど,,,。

 ということで自分で梅干しを作ろうと毎年考えるのですが、青梅の旬の時期はいつの間にか過ぎて行ってその機を逸するというのが定番です。梅干しが一個あればご飯がいくらでも食べられたのは遠い昔のことで、年月を経た今では何ごとにつけ塩分控えめが求められます。ですから、そういう高塩分の梅干しなど食べてはいけないのかも知れません。少年の頃の梅干しは遠くにありて思うものになったのでしょうね、きっと。

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 翌日は沖縄慰霊の日です。この戦争で沖縄の人たちは過酷な体験を強いられました。沖縄の大地には今なお何万人もの遺骨が収集されることなく眠っています。米軍基地は無くなることなく現在も沖縄の人々の苦難は続いています。本土で平和と繁栄とを享受する人びとはそのような沖縄の歴史と現状とを忘れてはいけないでしょう。


     写真 沖縄県糸満市摩文仁 平和の礎



むかしに戻る (2019年6月20日)

 先週、授業中にわたくしが板書した白板を学生諸君が写真撮影して済ませることについて書きました。そこで今回はA4用紙一枚に迂生が手書きで記したエッセンスを配布して、白板は使わずに口頭でそれを説明する方式に変更してみました。そうしたら…

 通常の板書しながらの説明であれば四十分くらいはかかるコンテンツをなんとたったの十五分で説明し終わりました。そのあと自分が書いた教科書を開いてもらって関連する例題を説明して、これも十五分で終わりました。この間、白板は全く使いませんでした。いやあ、相当の時間短縮になって、おまけに板書もしなくて良いのでこりゃ楽です。でも…

 これって大昔、わたくしどもが学生の頃に受けた授業と同じスタイルですよね。学部三年生のころの加藤勉先生の鉄骨構造の授業は、教壇に座った先生が自分で書いた教科書を広げて、それを淡々と読み上げてゆくという授業形式でした。すぐに眠くなって気がつくと授業が終わっていた、などということもありましたな、あははっ。溶接をジューっとして…とか、リベットをカンカン打って…とか、加藤勉先生が時折発する擬音ばかりを覚えていて、授業の内容は全く身につきませんでした。

 結局、板書することによって学生諸君に手を動かしてもらいながら頭も回転させてもらって、授業時間内に知識の定着を図ることが大切なことだったように思います。レジメを配って、教科書を説明しただけではそれができません。もちろん、そのあと残った一時間ばかりで演習問題をやってもらったので、それで良いのかも知れません。でも、学生諸君にとっては初めて聞く内容の説明がわずか十五分で終わったことに、当の学生諸君が戸惑っていたように(教室の空気を読む取ると)感じましたね〜。

 これらの経験から、やっぱり板書は必要なような気がします。難しい図や数式は適宜レジメを配布して補助として、板書をメインにした授業の方法がやっぱりよい(すなわち、迂生の従来の方法に戻すことがよい)ように今は思っています。


お米のあじ (2019年6月19日)

 若い頃の暴飲がたたったのか、もともと飲めないのに(その当時は美味しくもないお酒を)無理して飲んでいたのがいけなかったのか、とにかくお酒はほとんど飲めなくなりました。最近のモダンな日本酒はとても美味しいものが多いので、本当は日本酒を心ゆくまで味わいたいのですが、飲むとしても一週間に一、二回、小さいお猪口に一杯だけです。

 アルコールの入った日本酒がダメなら、ノン・アルコールの甘さけはどうだろうかと思って、いっときはいろいろ探して飲みました。対象は、酒粕から作ったそれではなく、日本酒と同じ製造方法で麹から作った甘さけです。でも、飲みにくいものが多くて、結局、八海山の滑らかスッキリした甘さけに落ち着いて、今ではそれが我が家の定番になりました。最近になって山口県の獺祭が甘さけを商品化したみたいなので、そのうち飲んでみたいとは思いますが、八海山よりもお高いのでどうしようかな,,,。

 そうして次には、原料であるお米自体を味わってはどうかと思い至りました。玄米から精米して,,,というようなプロ・レベルではなく、通常のお店で売っている白米です。最近では特A米と呼ばれる美味しい(と評価された)銘柄がたくさんあります。我が家でよく食しているのは山形の「つや姫」と北海道の「ゆめぴりか」で、それに秋田の「秋田こまち」が時々といった感じでしょうか。各地の「コシヒカリ」もよく食べますね。「コシヒカリ」は新潟・魚沼産に拘らなければ関東近辺でもたくさん作っていて、それなりにお安いですから。

 それらの特A米はだいたいのところはどれも美味しいです。でも、多分それらをブラインドで食べても、銘柄を当てることはできないでしょう。実際、我が家で食べているお米の銘柄が変わっても気が付かず、家内から「お米替わったんだけど、分かった?」と言われることがしょっちゅうです、あははっ。

 今は、迂生自身がスーパー・マーケットで買ってきた新潟の「新之助」というお米を食しています。5kgで2600円くらいのお値段でした。「新之助」は「コシヒカリ」の後継銘柄として新潟県が満を持して市場に投入した次世代米のエースと言われています。さてお味のほどはというと、もちろん美味しいです。ふっくら、もっちりしていて、べたつかず粒も大きめに感じます。でも、「コシヒカリ」とどこが違うのか言ってみろと聞かれても、先述の通りにわたくしには答えられません。外食でときどき出てくるまずいお米は「こりゃまずい」と分かりますが、美味しいお米の特徴を明確に言い当てるのは結構難しそうですな。

 お米の銘柄を気にするよりも洗米や炊飯の方法のほうが、お米を美味しくいただくには重要なような気がします。日本酒造りでも洗米や吸水作業は気温や水温を見極めて秒単位で行うほど繊細で重要な工程ですから、お米をご飯として直接口に入れるときにはなおさらだろうと思います。ということで、次は炊飯器選びかなあ。鍋で炊くご飯が美味しいことは知っていますが、やっぱり電気炊飯器のほうが手間がかからずに便利ですよね。

 こんな感じで“お米の探求”は続いてゆくのでしょう。やっぱり日本人にはお米ですから。




立体隅柱梁部分架構試験体 第三シリーズ 加力始まる (2019年6月14日 その2)

 梅雨のあいだの晴れのきょう、M2・藤間淳さんが担当する鉄筋コンクリート・立体隅柱梁部分架構試験体の実験がいよいよ始まりました。我が社では片江拡さん、石塚裕彬さんにつぐ第三番目の実験シリーズとなります。この二人の先輩はともに立派な成果を残しました(実験が上手く行ったというわけでは必ずしもない場合もありましたけどね)。藤間さんはとても慎重にコトを前に進めてゆく性格なので、その点では心配していません。安心して加力を任せられます。実験が何事もなく安全に進むことを願っています。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC隅柱梁接合部実験2019_藤間淳:2体目_立体ト形試験体F2:IMG_1887.JPG

 この試験体の加力準備のあいだに、今まで約二十年に渡って使っていたデータ・ロガー(THS-1100)がついに寿命を迎えたらしく、古くて修理もできないことが判明しました。そこで新しい機種(TDS-530)を使うように変更しましたが、そうするとスイッチ・ボックスもそれ専用のものに代えないといけなくなり、結局、準備を最初からやり直すことになりました。また、データ測定用のソフトウエアにおけるロードセル等のセンサー・モードの設定係数も変更になるらしくて、それがまたよく分からなくて、そんなこんなで加力までに時間がかかりました。まあ、仕方ないか…。

 レーザー変位計についてはわたくしはもう信用していないのですが、藤間さんは断固として使いたいみたいで頑張っています。もちろん接触型の変位計も併設しているので、わたくしはそちらの出力を正だと思っています。ただ、今回は水平二方向載荷するので、可能であればレーザー変位計を使いたいということみたいでした。


授業に臨む態度 (2019年6月14日)

 大阪府立大学の非常勤講師の先生が、居眠りしていた学生にレーザー・ポインターの光を当てて、大学当局がお詫びを表明したというニュースが流れました。レーザーが目に入ったら非常に危険なことは誰でも(?)知っているはずです。ですから、レーザー・ポインターを人間に向かって発光するというその発想にまず驚きましたな。悪ふざけだとしても絶対にやってはいけない行為に変わりはありません。謝罪するのは当然でしょう。

 ただ、その先生の授業を見たわけではありませんから分かりませんが、学生たちが居眠りをしていたというのは確かなようです。一所懸命に準備して講義しているのに学生諸氏が聞いてくれなければ、フツーの教師は相当にへこむはずです。そういうフラストレーションが溜まった挙句に爆発して、そういう行為に及んだのかも知れないと想像することもできるでしょう。もちろん、学生さんが寝てしまうのは自身の講義に魅力がないから、あるいは工夫が足りないからであって、そのことをまず最初に反省すべきことは言うまでもありません(迂生自身は常にそのように考えて身を処しております)。

 ただ、教師が全身全霊をかけて授業している場合には、それを聞く学生諸氏にもそれなりの受け止め方が求められると思っています。いつも書いていますが、学生さんはお客様ではありません。教育の場は、教師と学生とが常に一対一で相対する極めて人間的で濃密な空間でなければなりません。双方がお互いに敬意を持って授業の場に臨む必要があると考えます。学費を払っているのだからどのように授業を受けようと勝手だろ、という意見には決して与することはできないのです。

 先日の構造力学の授業で、わたくしが端から端まで板書し終わったところで、待ってましたとばかりにそれをスマートフォンのカメラでバシャっと撮影した学生がいました。こちらが誠心誠意、丁寧に板書したその作品(とわたくしは思っているのですが,,,)を自分の手で書き写しもせずに掠め取るような態度には流石にカチンと来ました。そこで、それはあまりにもバランスを欠いた行為である(一方は20分以上かけて書き上げたのに対して、他方は一瞬でデジタル化してそれで済ませる)ことを伝えて、撮影はやめるように言ったのです。しかしわたくしの真意は伝わらなかったとみえて、その後もシャッター音は止みませんでした。

 学生さんの言い分としては、迂生がものすごいスピードで説明しながら板書するのでついていけないというのがあるのでしょうね、きっと。しかし授業時間は有限で、その時間内にある程度の知識を伝授しないといけません。白板は左から右へと書き進み、一杯になると左から順番に消して行くようにしていますから、多少遅れても筆記はできるように配慮しています。その知識を定着させるために演習も用意しているわけです。何よりも授業中に手を動かして書き写すことによって脳が活性化され、その知識はさらに身につくと考えています。

 このように迂生は考えるものの、現代の学生諸氏にはもしかしたら通じないのかも知れませんね。もしそうならば、AIのような非人間的なコンピュータを先生として学べば良いわけです。でも、何度も書きますが教育ってそういうものじゃないと思いますよ。


落ちたあんず (2019年6月13日)

 大学で生っているあんずの実ですが、先週末にはうっすらオレンジ色に色付いていたので、今週には“食べごろ”になるだろうと楽しみにしていました。ところが今週月曜日はものすごい土砂降りでしたから、朝、登校したときには大方の実はあえなく落下して地面を汚していたのです。ことしは手の届くところに四、五個のあんずが実っていて、だいぶ前から目を付けていました。こいつらをもいで食味を楽しもうと密かに思っていたので、ものすごく残念です。二本ある木の上のほうにはまだ実が残っていますが、いつ手元に落ちてくるかは天のみぞ知るところですので、もはや期待薄となってしまったようです。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMUあんず20190613:IMG_0671.JPG

 さて、昨日の研究室会議では誰も資料を提出せず、議論もなにもできませんでした。実験(の準備)をしているチームは仕方ありませんが、そうでない学生諸君のやる気のなさにはホント、がっかりします。ときどき書いていますが、研究を楽しもうという気概がないひとも見受けられて、一体なんのために我が社(研究室)に席を置いているのか疑問に思います。

 でも、あまりに活気がないのも考えものですから、何らかの手を講じないといけませんな。そこで、角田誠先生の研究室では毎週ゼミを開いて毎回全員が資料を提出するという話しを聞いていましたので、これだ!と思って、我が社でも次回からそうすることにいたしました。強制的に資料を出させるというのは本当はやりたくなかったのですが、背に腹は代えられません。この際は、なんでもトライしてみましょう。いつもながら角田さんのアイディアをいただいているのが情けない限りですが、やれることは全てやってみる、という実験精神(なんのこっちゃ?)が今こそ求められていると思います。

 研究室の学生諸君と研究についての有意義な議論ができることを一番の楽しみとしています。そういう議論はわたくしだけではなく学生諸君にとってもスリリングに満ち、ワクワク感満載の経験になるはずです。そういう知的欲求を満足させることができるように、各自が研究を進めて新たな境地に到達してくれることを、切に望みます(なんて、天皇陛下のお言葉みたいになっちゃったな…)。


大学院入試の説明会 (2019年6月11日)

 昨日、本学大学院・建築学域博士前期課程の入試説明会がありました。今年度はわたくしが担当なので、準備や片付けを我が社のM2の有井季萌くんと田中宏一くんとにお願いしました。いろいろとやって貰って助かりました。プロジェクト研究室の説明を多幾山法子准教授がしてくれたのですが、それがすごく楽しそうでした。昨年のわたくし達の説明とは相当違って力が入っていましたぞ。

 さてその説明会ですが、激しい雨にもかかわらず約60名の方が出席してくれました(学内と学外とが半々でした)。皆さまにお出でいただいたのは嬉しいのですが、ひと頃に比べれば参加者数はかなり減少していて、ご時世というものを強く感じます。建設業界の活況がいつまで続くのかは不透明ですが、建築学生諸君にとっては少なくとも今は超売り手市場ですから、この機に乗じて就職しようと考えるのはまあ当然ですよね。学部入試では建築学科の人気は依然として根強いものがありますので、大学院の希望者が減っているのは上述のように社会情勢に依存するものと分析していますが、どうでしょうか。

 ところでこの説明会に参加を希望する人は迂生宛にメール連絡するように求めたのですが、希望者から送られてくるメールに驚くことが多々ありました。宛先が明示されていないのは仕方ないとしても、何の前振りもなくいきなり名前や所属、希望研究室が羅列されていて、それだけでブツっと終わってThe Endというメールがとてもたくさんありました。なんじゃこりゃ?

 こういうメールを送るひとってどういう人なんだろうか…。社会的な通念が欠如しているのは学生だからしょうがないだろって言われるかも知れません。でも、そもそもメールだって他人との意思疎通の手段なのですから、それなりの配慮というか人間性の発露みたいなものが必要であるとは思わないのでしょうかね。ひととしてかなり心配な気がします。でも、メールの書き方をしっかり教えないといけないとしたら、なんだか世も末だなあと思います。

 したの写真は本文とは無関係ですが、わたくしが登下校の際に通り抜けに使っている1号館の中庭の夕景を載せておきます。こういう風に切り出して見ると、それはそれで趣深くなるので不思議です、あははっ。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMUキャンパスの夕景20190319:IMG_0462.JPG  
   写真 南大沢キャンパス1号館の中庭(2019年3月撮影)


 耳ネタ 2019 June 小論:竹内まりや (2019年6月10日)

 東京は先日、入梅しました。しばらく鬱陶しい日々が続くかと思うとそれだけで憂鬱になりますね。そんなときにはユーミンの「雨のステイション」でも聴きながら、梅雨空にどっぷりと浸かるのもそれはそれでいいかも。この曲はハイファイセットも歌っていますが、ユーミンの声が乾いているのに対して山本潤子のほうはしっとりしているので、梅雨の唄にはハイファイセットのほうがしっくりするかも知れません(お好みでどうぞ、あははっ)。

 さて時々このページで書いている竹内まりやですが今年デビュー四十周年を迎えるそうで、それを記念して古いアルバムのリマスタ盤が続々と発売されています。別に特段のファンでもないのに、ふら〜っと(魔が差したのか)1980年に発表されたアルバム二枚を買ってしまいました。『Miss M』と『Love Songs』です。

 

  『Love Songs』のほうはレコードを持っていることは以前のこのページに書きましたが、その中にある「磁気嵐」や「象牙海岸」というマイナーな?曲を聴きたくなったのでした。「磁気嵐」の作詞は松本隆で有名どころですが、作曲はまだ名の知れる前の杉真理[すぎ まさみち]です。今から見ても彼らしい軽快なポップ・チューンに仕上がっていて嬉しくなります。

 この『Love Songs』には安部恭弘の「五線紙」、浜田金吾の「Lonely Wind」、林哲司の「September」(Earth, Wind & Fireの同名曲が超有名ですけど…)、加藤和彦の「不思議なピーチパイ」なども入っていて、今思えば名曲揃いだと思いますね。まだ結婚する前の山下達郎の作曲で、作詞が竹内まりやという曲「さよならの夜明け」もあります。

 こんな感じでいい曲も多いのですが、その一方でいったいどうしてそうなるの?っていう“ないない感”満載の曲もときにあるんですね。「けんかをやめて」がその代表です。ちなみにこの曲は、作詞・作曲ともに竹内まりやです。

♪ 喧嘩をやめて 二人を止めて 私のために争わないで もうこれ以上♪

 三角関係のもつれから喧嘩が始まったのでしょうか、でも「私」ってモテモテなのよね〜みたいな感じがありありで始まります。ちょっとイヤな感じ、ですな。しかし案の定そのあとに、この女性がとんでもなくわがままで、いけ好かない女であることが判明します。

♪ 違うタイプのひとを 好きになってしまう 揺れる乙女心 よくあるでしょう
 だけど どちらとも 少し距離をおいて うまくやってゆける 自信があったの
 ごめんなさいね 私のせいよ 二人の心 もてあそんで
 ちょっぴり楽しんでたの 思わせぶりな態度で だから 喧嘩をやめて…♪

 したたかな打算のもとに両天秤にかけていたのならまだしも、純情な男ごころをただ弄んで楽しんでいただけって言うのですから、いったい自分を何サマと思っているのでしょうか。これだけでも十分にひどい女だなあと思うのですが、さらに続きを聞いて唖然となります。

♪ ボーイフレンドの数 競う仲間たちに 自慢したかったの ただそれだけなの♪

 ええっホントかよ、男の数だけが重要であとはどうでもいいんかい? そんなトンデモ女のことで喧嘩している男性二人が愚かを通り越して哀れに思えてきますな。そしてついにトドメが来ます。

♪ いつか本当の愛 わかる日が来るまで そっとしておいてね 大人になるから♪

 おいこら!二人に喧嘩させておいて「そっとしておいてね」って、いったいどういう了簡なのでしょうか。それじゃ、この二人は何のために争っているのか、もう道化の権化みたいに成り果てています。自分勝手もここに極まれり、っていう感じでしょう? いい加減にせい!このばか女って思わず言ってしまうのは迂生だけでしょうか。曲はいいのにこの詞を聴くと胸くそ(品がなくて失礼します)が悪くなるので、なるべく聴かないようにしています、あははっ。

 一度振られた男性と嬉々として再会するっていう「リユニオン」(アルバム『TRAD』に収録、作詞作曲:竹内まりや)という曲については以前に書きましたが(こちら)、この場合には女性だけでなく振った男のほうの心理も全然理解できません。でも上述の「象牙海岸」(作詞:松本隆、作曲:林哲司)を久しぶりに聴いてみて、どうやら「リユニオン」はこの曲のアンサー・ソングらしいということに気が付きました。ふ〜ん、そうなんですかっていう感じです(どうでもいいけど…)。



 だんだん嫌になってきたのでもう止めますが、アルバム『Variety』に入っている「プラスティック・ラブ」(作詞作曲:竹内まりや)もバブル前夜のカフェ・バーやディスコでお高くとまっている勘違い女を歌っています。まりやのメロディと達郎のアレンジは秀逸なのに、この歌詞が残念なんですよねえ、歌詞替えてくれないですかあ…。でも、♪夜更けの高速で 眠りにつくころ ハロゲンライトだけ怪しく輝く♪というところだけは好きです。若かりし日に、深夜の首都高をホンダ・プレリュード(四輪操舵の赤色クーペ)で疾走していたことを思い出すからでしょうか。

 こういった、どうしてそうなるの?っていう曲たちがある一定の割合で竹内まりやの歌にはあるのですが、ユーミンの歌にはそのような反感を呼び起こすような曲は迂生の知る限りではありません。それを思うと、上に書いた “とんでもない女”の資質とか潜在意識とかが竹内まりやの胸裏にはひそんでいて、それが何かの拍子に顕在化するのかも知れません。そうだとすると竹内まりやの本性も…(書いていて恐ろしくなって来ました)。


定年まで (2019年6月5日)

 どんよりとした天気で蒸し暑いですが、そろそろ梅雨入りでしょうか。大学の中庭にあるシャラの木が白い花を咲かせ始めました。道々の紫陽花も青や紫の花々で楽しませてくれるようになりました。牧野標本館新館の前にあるあんずの実は順調に大きくなり、徐々にオレンジ色に染まって来ました。来週あたりは食べ頃?になるんじゃないかと期待しています。

 さて以前に、定年後をどう過ごすか準備しないといけないねということを随分と書き、考えもしました。しかるに最近はそれよりも定年を迎えるまでどう過ごすか、どう乗り切るかという方が俄然、気になってきました。というか、相当に心配になってきたのです。大学での主要なお仕事は研究と教育ですから分けて考えてみましょう。

 まず研究ですが、ここ十数年は日本学術振興会の科研費をゲットできているので途切れることなく好きな研究を続けています。でも定年までそれが続くかどうか不明ですし、定年まで少なくとも二回は科研費の申請をしないといけません。折に触れて書いてきましたが、科研費の研究調書をものするにはものすごい知的労力を要します。集中力も必要ですが、そのような根気と熱意とが今後も継続できるかと言われると自信はありません。そもそも科研費の獲得のためには他の大勢の研究者と競争しないといけないわけで、他人を蹴落としてまで(そこまでして)研究費を欲するかという気力の問題に行き着きます。

 研究の手段について言うと、部材や部分骨組を用いた構造実験は(ことあるごとに書いていますが)大変なので、それを続けて実行しようという気力がこの先持続可能かどうか、相当程度に心配しています。というか、その緊張感には既に耐えられなくなりつつあることを実感として感じています。すなわち、生活習慣の改善ではありませんが、研究に臨む態度を改善して持続可能なものへと変更する必要がありそうです。ただ、その指針は未だはっきりとは見えないままで、日々ずるずると過ごしているというのが悲しいけれど現状ですね。

 教育については、今期は授業が週に5コマあって五月の末には相当に疲弊してきたせいもあるでしょうが、とにかく講義していると疲れるし、何よりも精神的な徒労感に苛まれています。特に構造力学を教えていると、なんで俺、今、こんなことを一所懸命に説明しているのかなあ、と思うことがしばしばです。

 昨日、帰り際に副学長の吉川徹さん(都市計画学者)に会ったときに彼が「今、基礎ゼミが終わったところ。これでやっと半分終わったあ〜」と言うのを聞いて、えっ?まだ半分なのか、そうかまだ半分残っているのか、と思ってわたくしは密かに意気沮喪したのでした…。余談ですが、副学長の激務なのに一年生の必修授業「基礎ゼミナール」を担当している吉川さんは偉いですね。

 構造力学で毎回課すレポート(演習問題)を採点していちいちコメントを書く作業も、力学の授業が今期から二つになったこともあって大変です。今年はもう仕方ないからやりますけど、来年からは他の方法を考えて“省力化”しようと思っています。ただ、教育って手数をかければかけただけの効果があると迂生は信じています(そのエビデンスを示せと言われると、それはできませんけどね,,,)。ですから、なかなか割り切れない自分がいる、というのが実際のところでしょうか。

 教育は大変なのでやりたくない、というところまで行き着いてしまうと、それは大学を辞めるしかありません。しかしそれはそれで(生活等の問題もありますから)容易なことではありませんし、そもそも定年後問題で考えたように、じゃあ大学を辞めて何をやるのか、という問いに対する回答が得られていないようでは、辞めてもいい事はないでしょう。せいぜいその当座、休息できてよかったと思うだけじゃないかと思います。

 こんな感じで結局は何も解決せずに、これからも授業に臨むのですが、今にして思えば先輩の教授がたも多分、同じ道を辿ったことと拝察します。すなわち皆が歩いた踏み固められたはずの道を迂生もまた歩いているに過ぎません。こうやって人生が過ぎ、終わるのかと思うと、それはそれでまあ、いいかって思ったりしますな。


多摩センターにて (2019年6月3日)

 先日、長谷工のマンション・ギャラリー見学記を載せましたが、所在地である多摩センターについても書きましょう。東京のだいたいのかたは多摩ニュータウンをご存知でしょうが、下の地図(東京都都市整備局のページから転載)のように東京都心から西南に40km ほど離れた郊外に位置します。この辺りはいく筋もの丘陵が東西に平行に走っており、それらの尾根と谷戸地とが複雑に入り組んだ地形が特徴です。すなわち住宅団地におけるアップ・ダウンが結構きついということになります。





  副都心である新宿から京王線特急に乗ると約30分で多摩センター駅に到着します。また、同じく新宿駅から小田急線も多摩センターへつながりますが、こちらは新百合ヶ丘駅で小田急多摩線への乗り換えが必要なので普段は使いませんね。ただ、東京・大手町から大学に戻るときには、地下鉄千代田線が代々木上原駅から小田急に乗り入れて多摩急行と称して多摩センター駅への直通電車を運行していますので、利用することがあります。東京都都市整備局の上図の路線図では、橋本駅を通る予定のリニア新幹線まで描かれていて、多摩ニュータウンの宣伝に余念がないようです。

 その多摩ニュータウンの中核である多摩センターですが、駅南には歩車分離のペデストリアン・デッキが伸びています。駅からは緩やかな登り坂となっているそのエリアにはホテル、スーパーマーケット、複合商業施設そしてサンリオピューロランドがあります。そしてペデストリアン・デッキのどん詰まりとなった丘陵頂部には、厳かなる神殿が佇立しているのです。これこそが多摩市の複合文化施設である「パルテノン多摩」です。多摩センター駅からゆっくり登ってくるとほぼ左右対称の神殿が出迎えてくれるシークエンスは、やっぱり一場の見ものではありますな。



 



 中央の大階段を登ってゆくと、頂上には八本柱の巨大なパーゴラが建っています(ちなみにこのパーゴラは図面によれば建物の5階部分に相当するようです)。そこから振り返って見た光景が上の写真です。まさに丘の上の“神殿”であることがよく分かります。よくもまあこんなモノを建てたなと感心します。ここが開館したのが1987年ですからバブルに差しかかった頃で、お金がジャブジャブしていたのだと想像します。設計は曽根幸一さんです。

 このパーゴラ(設計者は「公園の門」と名付けています)の奥には下の写真のように半円状の水盤があって、その先には緑の樹々が広がっていました。大階段を登って頂上に達するまでこの公園は見えませんから、やっぱりなかなかドラマチックな構成になっています。



 しかしそれから三十年を閲して、施設は老朽化するとともにバリア・フリー化などの社会的な要請が顕在化しました。そこでこの建物の今後の使い方の議論が始まり、いっときは建て替えも話頭に登ったみたいです。また改修するとしてもそれには膨大なお金が必要でして、“神殿”の行く末は混沌としていることが以前に報道されました。先ほど多摩市のウエッブ・ページを見たところ、2018年8月に大規模改修工事の基本計画が発表になっていて、結局約80億円をかけて改修することになったそうです。80億円!すごいですねえ。これだけあったら新築できるんじゃないかとも思いますが、どうなのでしょうか…。

 既存建物を改修して使い続けるストック活用が叫ばれ、かなり定着してきた世の中ですから、これは歓迎すべき事業だとは思います。でも本質的な改修を行うためには(建物の規模が大きいせいもあるでしょうが)、それなりの金額になることを予め見越してそのための資金を積み立てるなどの事前対策が必要ということをこの案件は物語ります。このような経験や経緯はぜひとも公開していただき、その経験知を社会全体で共有できればありがたいことと思います。


長谷工のマンション・ギャラリー (2019年5月31日)

 わたくしの通うキャンパスは多摩ニュータウンの西のはずれの南大沢地区にあります。いっぽう、このニュータウンの中核は文字通り多摩センターです。ここには新宿へ繋がる京王線と小田急線、そして立川へと至る多摩都市モノレールが乗り入れています。通勤ではいつも多摩センター駅を通っていますが、この中核駅で降りることはほとんどありません。

 さて先週のとても暑い日、多摩センター駅で降りて長谷工コーポレーションのマンション・ギャラリーおよび技術研究所の見学に行って来ました。ほぼ一年前、駅から歩いて約10分の場所にこれらの建物が新設されました。今回、施工実験の見学に併せてそれらを拝見する機会を得ました。


写真 長谷工マンション・ギャラリーおよび技術研究所(中央のガラスの建物)

 マンション・ギャラリーとは聞き慣れませんが、どうやらそれはマンション(集合住宅、アパート)の過去、現在そして未来を俯瞰する一種の宣伝施設のようです。対象は一般の人ということですが、長谷工の顧客やクライアントをターゲットにしているようでした。完全予約制で最大八名までのグループに案内人がついて、説明しながら館内を連れ歩いてくれるシステムです(標準コースは90分だそうです)。わたくしのように子供の頃から鉄筋コンクリート造のアパートに住んできた人間にとっては、とても懐かしい展示が随所にありました。でも、平成生まれの学生諸君にとってはなんじゃこれ?っていうものの続出でして、現在の便利さを当たり前のように享受する若者たちが感慨を抱くはずもありません。

 でも見学コースの冒頭にあるウエルカム・シアターは結構すごかったです。円筒状の360度のスクリーンと床面全面にCGによる大パノラマが映し出されるのですが、もの凄くリアルかつ臨場感に溢れていて、それが人間の脳に浮遊感を湧き起こすようでした。動いているわけでもないのに体が持ち上げられたりユラユラしたりといった感覚を抱くのですから、ここだけを取り上げればディズニーランドなんかに行く必要はないくらいですぞ。

 このマンション・ギャラリーを見学したあと、その下にある技術研修センターも見せていただきました。これは長谷工のマンションを管理する人たちを主な対象として、建物の管理業務について具体的なモノに触れながら学ぶための施設だそうです。さすがに何十万棟ものマンションを作り続けてきた会社は違いますなあ。ほうきを使ったお掃除の仕方も図解入りで白板に書かれていました。体に負荷をかけずにほうきを操作し、効率的にゴミを集める方法があるそうです。いやあ、感心しました。さらに免震構造のマンション1棟を建てて、丸々実験に供している様子も拝見しました。

 こんな感じで午前中はあっという間に終わり、お弁当をいただきながら技研の構造部門の皆さんにお相手していただき、そのあと実験棟で施工実験の準備の様子を拝見しました。本当は実験にも立ち会いたかったのですが、大学での授業が迫っていたのであわただしく技研を辞去したのでした。でもここから大学までほんの30分ほどですから助かりました。緻密な見学コースを設定してご案内いただいた同社の鴨川さん、川上さん、大竹さんにあつく御礼申し上げます。帰り際に技研の正面で撮った我が社の集合写真を載せておきます。




一体めの実験おわる (2019年5月30日)

 昨日の夕方、M2の藤間淳さんが担当する一体めの実験が終わりました。この試験体では、繰り返し載荷回数がとても多いことと柱軸力を変動させたために載荷に二週間近くかかりました。ただ、藤間さんは非常に慎重な性格で、いろいろと気を使いながら実験していたので、そこは安心して任せられました。

 今回は柱梁接合部を曲げ降伏破壊させたあとに同部位が軸崩壊する機構を調べるための実験なので、柱梁接合部が圧壊するところまで加力する必要があるのですが、いやあ、これってホント心臓に悪いです。変形が大きくなると目で見て柱が傾いているのが分かりますから、ここに800kN近い圧縮軸力を加えて行くときには、もうドキドキものです。(もう危なさそうなので)そろそろ加力をやめようよって迂生は言ったのですが、藤間くんがもう少しやるって言って続けました。結果としてカタストロフ的な破壊は避けられましたが、外見の限りでは軸崩壊直前という感じでしたので、まあ、よくやった方だと思います。

 鉛直力(柱軸力)はジャッキで与えていますから、もともと荷重制御しかできないので突発的な軸崩壊を寸止めすることは不可能です。実験装置を壊さないためにも、“ギリギリ寸止めマスター”みたいな技量と判断力と(さらに精神力も、あははっ)を要求されるわけですが、それって多分、無理だと思います。ということで、できる範囲で(精神安定上、我慢できる範囲で)実験しようと考えています。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC隅柱梁接合部実験2019_藤間淳:1体目_平面ト形試験体F1:IMG_1853.JPG


建築のもつ格式 (2019年5月28日)

 先日、津田塾大学にある丹下健三の図書館を見学して大いに感銘を受けたことを書きました。そのあと、木下助教が小平市の『なかまちテラス』という図書館兼公民館(ミニ・コンプレックス)を見に行くというので、みんなで一緒に行ってみました。妹島和世さんの設計で2015年春に竣工した鉄骨構造3階建て(地下1階)です。



 外観は上の写真のような感じです。皆さん、どう思いますか? 建物全体がアミアミのエクスパンド・メタルで覆われていて、ちょっと見にはなんだか改修中の足場覆いのような印象を受けるのは迂生だけでしょうか。近づいてこのエクスパンド・メタルの隅角部での取り合わせのディテールを見ると、バサッと寸切りにされたような唐突感でして、いかにも安普請という印象を抱きましたな(公営の建物ですから、そもそも予算がなかったのだとは思いますが,,,)。

 建物の至るところに不思議な小開口が設けられていて、そこから中に入って行くことができます。そのあたりのデザインは秀逸だと思いました。下左の写真のかき氷の幟のところに三角形のすき間のような開口があってそこを入って行くと、下右のような斜めのガラス面が複雑に組み合わされた小さなスペースに出くわします。この空間が如実に語っていますが、この建物には鉛直とか直角がほとんどありません。もちろんそれは建築家が意図して実現されたものですが、わたくしにとってはあまり気持ち良いものではありませんでしたね。

 

 

 上の写真が建物内部の様子ですが、ガラス面自体が外側に傾斜していますし、柱も鉛直ではなくて斜めに生えています。うーん、どうなんだろうか…、確かに空間に面白みを与え、かつ末広がりになっているので広々感も若干は感じますが、それに反して居心地の悪さと落ち着かない気分とを味わわされることにもなっています。

 清々しくて美しいプロポーションを持った丹下建築を見たあとなので、この『なかまちテラス』にとっては気の毒だったかもしれません。しかしそれを割り引いても、この建物のどこが良いのかが少なくともわたくしには理解できませんでした。このような印象の差が建築の持つ格式から滲み出るものなのでしょうね、きっと。

 冒頭にも記しましたように費用の問題は与解に決定的な影響を持つことは事実です。それでも、そういう条件も全て併せ呑んだ上で最適解を提示するのが建築家のお務めだと思います。これらの観点から、残念ながらこの建物に対する否定的な印象を拭い去ることはできませんでした。


かなり異様では (2019年5月27日)

 先週末からずっと暑い日が続いております。午後に南大沢駅に降り立ちましたが、熱風が吹いています。多分、体温くらいの気温なのではないかと思いますが、とにかくいきなり来たので辛いですねえ〜。

 この大相撲五月場所は横綱も大関も全く冴えない、面白みのない場所でしたね。新大関の貴景勝は休場し、一人横綱の鶴竜は優勝して当たり前なのに例によって後半ズルズルと崩れて面白みは半減しました。平幕で優勝した朝乃山って誰?って思った人は多いと思いますね(わたくしももちろんその一人ですけど,,,)。

  そんな五月場所の千秋楽に異様な光景が現出いたしました。来日したトランプ大統領が安倍首相ともども奥様同伴で国技館にやって来たのです。わざわざファー・イーストの日本までお出でになったお客人ですからもちろん歓迎はいたします。でも、国技館では天皇陛下が観覧する貴賓席ではなくて、前の方の升席に大きなソファを置いて座ったのです。それだけでも目を疑ったのですが、さらに驚いたのがこの国賓と日本国首相との後ろに警護のSPと思われる男性たちが土俵に背を向けて立ちはだかったことです。

 おいおい、そりゃないでしょう、お相撲って庶民の楽しみですよ。もちろん合衆国大統領を警護してテロ等から守ることは必須で、そのことが要請されることは理解します。でもそれだったら何も枡席に座らずとも、特別の貴賓席で観戦すれば良いわけですよね。レスリングが好きなのでお相撲にも興味があったということですが、それなら大相撲が日本の市井の民草のささやかな楽しみであることも理解していただきたかったですねえ。もう少し配慮があっても良かったのに,,,と思うのは迂生だけでしょうか。いずれにせよ相当に異様な光景であったことは確かでしょう。

 ただし、アメリカ大統領杯を授与するときにトランプさんが元号(令和)を使ったことにはちょっと驚きました。西暦を使わないことで日本の伝統に配慮したっていうことでしょうか。また、土俵の中央で約30kgあるというカップを優勝力士に渡すときに、脇で手伝った元若の里(親方名は知りません)の肩にそっと触れてお礼の意を表したことにも気が付きました。そんなところを見ると、この人ってただ目立ちたいだけで根は悪い人じゃなさそうだなあとも思いましたけどね。


津田塾大学で丹下建築を見る (2019年5月23日)

 夏の陽気が到来したこの日、小平にある津田塾大学に行ってきました。大学院のプロジェクト特別演習の一環として、星野あい記念図書館を見学するためです。この建物は丹下健三が設計して1954年に竣工した鉄筋コンクリート造2階建てです。助教の木下央さんが予め先方に見学を申し入れて了承を得てくれたので、この見学会が実現しました。見学者名簿や車のナンバーなどの提出を事前に求められましたが、その甲斐あってか現地ではスムーズに大学に入構でき、また総務部の方が案内してくださって、各種の資料も用意して自由に閲覧させていただきました。それらはいずれも貴重な資料で、知的好奇心を大いに満足させてくれるに足りるものでした。便宜を図っていただいた津田塾大学事務局の皆さまにあつく御礼申し上げます。

 さてお目当ての丹下建築ですが、先方からの要請により以下の写真以外はここに載せることができないのが残念です。キャンパスは木々の緑が豊かで、歴史の重さを感じさせるとても綺麗なところでした。自分の大学と比べるとその差は歴然でして、我が大学のキャンパスもあと三十年くらいしたらこんな感じになるのだろうかと訝しく思いましたな、ほんとに。




     図 津田塾大学図書館 平面図(丹下健三設計)

 この建物ですが、正統的なモダニズム建築と言ってよいでしょう。一辺がわずか45cm角の柱がシュッと立っていて、とても美しいプロポーションです。玄関を入ると左手は吹き抜けになっていて、一面のガラス張りを通して外部の木々の新緑が鮮やかに映えます。そこには閲覧用の机と椅子とが置かれて、学生諸氏が勉学にいそしんでいました。内部の写真は残念ながらお見せできないので、1階および2階のプラン[平面図]を載せておきます(これは竣工当時のプランで、現在はかなり改修されていました)。2階の平面図にピンク色で吹き抜け部分を塗っておきましたので、その空間を想像してみてください(建築学科出身者でないと難しいかな…)。

 この建物は半世紀以上も前の設計ですから、その耐震性能は現在の耐震基準を満足しません。もとの建物はわずか二階建てで重量も軽そうに思えましたが、耐震診断によるIs値は0.3程度しかなかったみたいです(これはざっくり言えば現行法規で要求される耐震性能の半分程度に相当します)。そのため鉄骨ブレースによる耐震補強が行われていました。写真には右端のスパン部分に斜材が写っていますね。平面図には鉄骨ブレースの設置位置を手書きの赤線で示しました。鉄骨ブレースは連層で入っていますし(1階と2階とで同じ位置に配置されているということです)、長手方向も短手方向も外周にバランスよく配置されていることが分かります。建築構造学の視点からは良い耐震補強と言えるでしょう。

 ただ残念ながら、この耐震補強が丹下建築の美しいエレベーション(立面)を乱しているのは確かでして、もう少しなんとかならなかったのかとは思いますねえ。平面図を見ると分かりますが、この建物は耐震壁が一枚もなく、柱と梁とで地震力に抵抗する純フレーム構造です。建物内部にコアを作ってそこを鉄筋コンクリート耐震壁で補強する、という改修方法がすぐに思い浮かびますが、この建物は直接基礎なので建物の重量増加には耐えられなかったのかも知れません。もちろん内部の使い勝手の制約によってコアを作れなかったということもあるでしょうね。

 この建物を見ていて、角田誠教授が「これはドミノ・システム(20世紀初頭にル・コルビュジエが提唱した構造システム)そのものだな」と言っていましたが、まさに至言だと思います。柱と梁とで構成される軸組の内側にガラス面を設けたことが、外から見たときのドミノ・ハウスっぽさをより一層、醸し出しているのでしょうね、きっと。

 さて津田塾大学ですがオフィシャルには女子大ではないのでしょうが、実質的には女子学生ばかりで、やっぱりちょっと面食らいました(立ち寄った本館の男性トイレはとても狭かったです!)。綺麗なお嬢さん方が闊歩しているキャンパスはとても活気に満ちているように思えたのは迂生だけでしょうか…。一緒に見学に行った我が大学の女子学生諸氏は「みんな綺麗にバシッと決めていて、ジャージで歩いている学生なんていないよね」などと言っておりました。なるほど〜、そう言われればそうだな、そんなところも我が大学とは違うってことね,,,。

 小平のキャンパスは我が大学のほぼ真北にありますが、電車だと相当乗り換えが煩雑なので、この日は先生方の車3台に分乗して出かけました。わたくしは角田誠さんの車に乗せていただき、帰りも京王線の駅まで送っていただきました。おかげで楽ができて助かりました。車の中で角田さんとひとしきり地酒談義をしたので、帰ってから思わず冷酒を一杯やっちゃったよ、あははっ。

追伸; 図書館内の吹き抜けの様子が津田塾大学のサイトにありましたので、以下に転載しておきます。興味のある方はこちらを訪問してください。


星野あい記念図書館 一層吹き抜けの内部(津田塾大学のHPより転載)


三シリーズめの実験 はじまる (2019年5月17日)

 とても気持ちのよい爽やかな季節の中で、藤間淳さんをチーフとする鉄筋コンクリート柱梁部分架構実験が始まりました。我が社にとって2018年度の三シリーズめの実験になります。3月中旬にセットした試験体が、やっと加力できるようになりました。とても嬉しいです。藤間さんは極めて慎重な性格のようで(?)、あれこれ悩みながらやっと加力できる状態になったということみたいです。

 この実験では、明治大学の晋沂雄研究室の学生諸君にも参加してもらっています。そのため、きょうは合計6名から7名の学生諸君が試験体に群がってひび割れを観察したり、ひび割れ幅を測るなどの作業を担当してくれました。活気があって良かったです。慣れるまで大変でしょうが、怪我や事故のないように実験を進めてください。皆さんの健闘を期待しています。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC隅柱梁接合部実験2019_藤間淳:1体目_平面ト形試験体F1:IMG_1623.JPG

追伸; さんざん調整して動くようにしたつもりのレーザー変位計でしたが、加力を開始してみたら怖れていたことが現実となって、やっぱりちゃんと動作しませんでした。結局、接触タイプの従来型変位計を使わざるを得ないことと相なりました。ホント、困ったなあ(岸田慎司先生への業務連絡です)。


授業で考えること (2019年5月14日)

 十連休が明けて日常が戻ってきました。先週、二年生の「建築構造力学3」の授業では、最初の山場である仮想仕事の原理を説明しました。力の為す仕事とエネルギーの保存則とに基づく古典理論ですが、小難しさ満載なので初めて聞くひとにとっては多分、理解不能だと思います(自身が学生だった頃はそうでした)。そこで予め教科書の該当部分を読んでくるようにと言っておきました。でも、自分たちで書いた教科書とは言え、仮想仕事の原理のその説明は(執筆したのはわたくしではないので,,,)初心者向けとは言いがたくてとても分かりにくく、迂生が読んでもにわかには分からないほどでした、あははっ。

 そこで、なるべく分かり易く説明するためのペーパー二枚を自作して、学生諸君に配布しました。しかし、それですら彼女ら/彼らにとっては難しかったみたいで、わたくしの説明が進むにつれて教室にはどんよりとした空気が漂い、一人また一人と脱落してゆくのが看取されました(授業が4限ということもあって、疲れ果てた学生さんがガクッと首を垂れて思考停止へと落ちて行くのです)。本当を言えば、仮想仕事の原理を理解せずとも、それを用いた変形の計算手法だけを伝授して問題が解ければ良いわけです。

 しかし、昨年度の「建築構造力学1」の授業評価の自由表記欄に、問題を解くスキルだけではなくて、その原理や証明も説明して欲しいという意見が複数書かれていました。そのことが迂生の脳裏を離れなかったので、今回、仮想仕事の原理をちゃんと説明しようと思いました。ですから、学生諸君にはこの説明は難しいかもしれないので、興味のあるひとだけちゃんと聞いてください、と前振りしましたが、それが逆効果だったかも知れません(自分で墓穴を掘った、ということでしょうかね)。結局、三十分以上をこの原理の説明に費やしましたが、どれだけの学生さんが理解したか、甚だ疑問で、わたくしにとっては徒労感だけが重く沈殿し、聞いている学生諸君にとっては(多分)虚脱感だけが残ったのではないかと危惧します。

 確認したわけではないので分かりませんが、少しは理解できた人もいたかも知れません。それでも、準備に要した時間や説明した時間に見合った効果が得られたのだろうか(アンケートでもとるか…)。それを考えると、どこまで授業で説明すべきなのか、大いに迷いますねえ。資料を配布するだけにしてあとは読んでね、という方法もありますが、その場合には九分九厘誰も読まないと思います。長年やっている授業ですが、悩みは尽きないですな。

 ところで教科書のことですが、自分たちで執筆した構造力学の教科書を改訂してはどうかという話しが以前に西川孝夫御大や出版社から出たことがあります。ただ、出版社から言われたのは、少なくとも自分の授業でそれを使う先生を執筆者として数名加えて欲しい、ということでした。そうすることによって毎年確実に数百冊は売れることを担保したいらしくて、それが昨今の教科書のビジネス・モデルであることを理解しました。そこで出版社に色々調べてもらうと、旧知の多くの先生方も自身で構造力学の教科書を執筆して使っていることが分かりました。結局、時すでに遅しということか、面子を揃えることができずに改訂作業は頓挫して今に至っています。


バランス (2019年5月12日)

 明治神宮外苑の神宮球場では東京六大学野球のリーグ戦が行われています。最近では東京六大学野球の公式ページでネット中継しているので、家にいながら観戦することができます。さて、昨日の東大は明治大学との一回戦でした。途中から見たのですが、東大のピッチャーは坂口くんという四年生でした。都立日比谷高校出身だそうですが、知らないなあっていう感じです。球は速くないのですが、飄々かつ淡々と投げ込んでいて、それが結構いい球なんですよ。すーっと曲がるスライダーがテンポ良く決まり、東大には珍しく安心して見ていられる投手でした。

 あれっ、この人いいんじゃないの?って思っているうちに、試合はどんどん進んで0対0のまま9回まで来ました。9回表の東大の攻撃では三塁までランナーを進めたものの得点できず、その裏の明大の攻撃も坂口くんが抑えて延長戦に入りました。相手は野球エリート揃いの明治大学ですよ、そんな元甲子園球児たちを相手に堂々と投げ合っているなんてすごいことだと思うわけです。

 10回裏に二死まで取ったものの、残念ながらそのあとついに連打されてサヨナラで負けました。でも負けたとはいえ、それはとても清々しい試合でした。明治大学相手に9回まで0点に抑え、ゲームを作ったからです。東大はいつもピッチャーが崩れて大負けするパターンが多いのですが、この日は一人で最後まで投げ抜きました。球数は116球で、被安打5、死球は2つあったものの四球はなかったので立派な投球だったと思いますね。

 野球はやっぱりピッチャーだと思うのですが、いくらピッチャーが良くても打線が打たないと勝てません。残念ながらこの日はそういう展開で、あまつさえ20三振を喫しました。坂口くんが好投したのだから打線が奮起すれば、とは誰でも思いますが、そこが野球の難しいところなのでしょうね。投打のバランスとはよく言われますが、昨日の東大はまさにそれができずに惜しい試合を落としました。残念でしたが、次回以降の奮起を期待しましょう。

 

追伸; 明治大学二回戦では冒頭に投手がつかまって、結局、2-8で敗れました。エースだった宮台くんがプロ野球に行ったあと、今シーズンも低迷が続く東大です。ところで7回のエールの交換の際、東大サイドが歌ったのは「大空と」でした。“蘊奥の窮理[うんのうのきゅうり]”という歌詞があるヤツです。応援歌は「ただ一つ」じゃなかったでしたっけ?もう忘れたけど,,,。


十連休雑感 (2019年5月4日/6日)

 平成天皇の退位(4月30日)と新天皇の即位(5月1日)にともなって設定された十連休ですが、どうなることかと思ったものの、世の中の「新しい時代」フィーバーとは無縁でいれば、別段のこともなく過ぎつつあります。体調の悪さはやっと底を打ったみたいで、少しずつですが上向いてきました。連休で休んでいるお陰かもしれません。

 こういう時期ですから天皇にスポット・ライトが当たっています。五月三日は憲法記念日でしたが、現行の日本国憲法に照らすと、どう考えても天皇(や皇族)には基本的人権が保障されていないように思えますね。特に天皇家の男性の場合には、その家に生まれたというだけで世襲の「皇族」を一生勤めないといけません。すなわち職業選択の自由は無いわけです。われわれ市井の民草には、仕事のあとにああ疲れた〜とか言いながら安い居酒屋で一杯、ということも訳ないことですが、皇族方にはそのような息抜きの自由もないようです。日本国民統合の象徴とかに勝手に祭り上げられてしまって、気の毒なことこの上ないように思いますが、皆様いかがお考えでしょうか。

 さらに言えば、天皇はなぜ男性でなければならないのか、不思議です。上古の時代、天皇になった女性はいくらでもいます。それが明治の世になって男尊女卑(家父長制)や良妻賢母の概念が国家によって奨励されるようになり、天皇になるのは男性だけということが決定的になりました。しかし昭和二十年の敗戦にともなって日本の世相は大きく変わり、その流れは平成の時代にさらに大きな奔流となって今に至っています。そのことを思えば、天皇に限って男とか女とかにこだわるのは如何なものかと迂生は思うわけですねえ。こんなことを言うと、非国民!とか言われるのでしょうか、そうだとすると嫌な世の中になったものです…(昔に戻っただけ、とも言えますけど,,,)。

 さて連休ですが、家人にせがまれて関越道に乗って出かけました。でも予想通りの大渋滞にどっぷりはまって、百キロメートルばかりを進むのに六時間もかかりました。パーキング・エリア(PA)に入るにも一キロも前から路側帯に並ばないといけません。でも、PAで混雑する人たちは皆さんとても楽しそうにお見受けしました。迂生などはそのあまりの非生産性にウンザリ、げんなりしていたのですが、我が家の家族を含めて大多数の人たちはどうやらそうではなさそうだ、ということに気が付きました。皆さん、嬉々として(?)渋滞の車列に突っ込んでゆくのですから、もう不思議というしかありません。これってラグビーのモールみたいですよね、分かっていて突っ込むのですから。日本人の心性とでも言うのでしょうか、大勢で同じ行動を取ることに安心し、快感さえ覚えているようにも思えました(でも、わたくしは御免こうむりたいのですけどね…)。

 その渋滞ですが、最近の車はハイテク(High-Technology)満載なので、迂生は今回初めて自車に装備されたオート・クルーズ・コントロールというハイテク機器の恩恵に浴しました。これは不規則に走行する渋滞路では大変に便利かつ安全です。車載コンピュータが前車の動きに従って勝手に減速したり、停まったり、加速したり、ハンドルを緩やかに切ってくれたりします。これらの操作は人間がするよりも明らかにスムーズかつ安全なように見えましたな。

 もちろんこの利器とて万能ではなくて、100km/hなどの定速で巡航しているときに斜め横から突然に車線変更してきた車には対応できませんでした(危なかったので自身でブレーキを踏みましたが,,,)。でも、渋滞で停止と発進とを繰り返すような時にはそのストレスからかなり解放されて助かりました。ただ安心しきってハンドルから手を放すと、そのこと自体を車が感じ取って(ハンドルに感圧センサが埋め込まれている?)警告を発するんですよ、手を放すなって。いやあ驚いたなあ〜、親切もここに極まれり、っていう感じです。

 こどもの日には例によって鯉のぼりを泳がせ、兜を出して飾らないといけませんが、そのタスクはまだやっていません。前述の外出のあと、子どもは風邪をもらったらしく臥せっていて、手伝って貰うわけにも参りません(結局、両方とも出しませんでした)。久しぶりに横浜の八景島に潮干狩りにでも行くかと言っていましたが(これも物凄く混雑して駐車場はすぐに満杯になってしまうので、迂生は気が進まないのですが…)、それもお流れになりそうです(結局、これも行きませんでした)。

 わたくしがテレビを見ないことはこのページに時々書いていますが、先日、某BSで桑田佳祐の「ひとり紅白歌合戦」というのを見ました。新聞の二面を使ったデカデカとした広告が出ていて、ひとり紅白歌合戦っていったい何だろう、訳が分からないから見てみるかっていうノリでした。それを見て、迂生は心底驚きましたな。男女歌手による昭和歌謡からJ-Popまでの五十五曲をなんと全て桑田ただ一人で歌いまくる、というパフォーマンスだったのです。

 わたくしは別に桑田佳祐のファンでもなければ、サザンオールスターズのそれでもありません。それでもその「ひとり紅白歌合戦」を見れば、彼の唄のうまさとか一流のエンタテナー振りとかがよく分かります(ちょっと悪のりし過ぎの感もありますが,,,)。テレビ番組は桑田のインタビューと「ひとり紅白歌合戦」の細切れの映像とで構成されていましたが、全五十五曲のパフォーマンスをじっくり見てみたいという気にさせられました。ですから、気が向いたらそのうちDVDでも買って鑑賞しようかな、あははっ。

 十連休を持て余すのではないかとの危惧から、大学から「宿題」を持って帰ったのですが、全くの手つかずのまま日々が過ぎて行きます。家内から、それじゃ宿題をやらない子供とまったく同じじゃないのって揶揄されますが、いいんです、かまいません。その日一日が穏やかに過ぎてゆくことこそが貴重であると思うようになった今日この頃でございます。

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 大学の図書館は相変わらず利用しています。先日、オン・ライン上のマイライブラリ登録をしました。こうすると新規図書の購入を依頼できるようになるからです。さっそく新聞の書評に載っていた本を頼んだのですが、購入の理由を書かないといけないのがちょっと面倒でしたね(単に読みたいから、という理由ではダメなのでしょうか,,,)。今回は日本の研究力の危機についての書籍を頼んだので理由は何とでも書けましたが、流行りの小説なんかを買って欲しいときには何と書けば良いのか、悩みそうです。せっかく依頼した書籍でしたが、しばらくして図書館からメールが来て、既に購入済みで開架しているとのことでした。なんだ、よく調べればよかった…っていう感じです。

 三月中旬の夕暮れ、夕陽が図書館をほんのり紅色に染めて綺麗だったので撮った写真を以下に載せておきます。図書館の事務部門が下屋のように手前に飛び出していて、その奥に図書館本体がマッシブに構えている様子がこの角度からだとよく分かります。画面中央の奥には光の塔の三角ガラス屋根も見えていて、わたくしのお気に入りの構図です。

 

 その図書館で借りた本のなかで、『遠山金四郎の時代』(藤田覚著、講談社学術文庫、2015年8月)が思いがけず出色でした。遠山の金さんって、テレビの時代劇でお馴染みなので多くのひとが知っているでしょう。お白州に座ってしらっぱくれる咎人[とがにん]に向かって、金さんが片肌脱いで桜吹雪の彫り物を見せながら「おい、おい、おい、黙って聞いてりゃいい気になりやがって。この桜吹雪に見覚えがねえとは言わせねえぜ」という啖呵を切る場面は、さしずめ水戸黄門の印籠(葵の紋どころ)か、っていう感じでしたね。

 その遠山の金さん(本名は遠山 左衛門尉 景元[とおやま さえもんのじょう かげもと])が家禄五百石の中級旗本で、十二代将軍徳川家慶の時代に天保の改革があったときの江戸町奉行だということを迂生は知りませんでした。著者によれば金さんは将軍家慶の信頼も厚い優秀な幕府官僚だったそうです。天保の改革は老中・水野忠邦が中心になって質素・倹約を奨励した江戸期三大改革の最後のそれでしたが、金さんは江戸市中を取り締まろうとする改革案についてことごとく老中・水野忠邦に反対したそうです。余談ですが、水野忠邦の日記などは本学の図書館に収蔵されていて、それが随所に引用されていたのが意外でした。

 江戸の町人から人気のなかった水野忠邦や、もう一人の江戸町奉行で町人から忌み嫌われていた鳥居耀蔵([とりい ようぞう]、甲斐守だったので、耀甲斐〜ようかい〜と呼ばれていました)のふたりが格好の敵役になったせいで、金さんの人気が上昇したみたいです。

 ただし著者は、民衆による一揆や打ちこわしを恐れた幕府が民衆統治の政策を転換した結果として、この時期に町人や農民たちから名奉行・名代官と賞賛されて慕われた幕府官僚が数多く誕生したことを書いています。また、江戸の下層町民の生活や仕事の安定・維持を優先する姿勢は、天保期の江戸町奉行たちに共通して見られるものであって、遠山の金さんに特有のものではなかった、とも著者は言っています。そのような中から遠山の金さんの「伝説」が生み出されたようです。

 ちなみに金さんが活躍したのは1840年代であり、それから四半世紀のちには明治維新を迎えるという幕末激動の時代直前の時期でした。そんな時代のひとだったことさえ知らなかったので、結構新鮮な驚きをもってこの本を読むことができました。この本のカヴァーを下に載せておきますが、これは遠山の金さんの晩年の肖像画だそうです。安政二(1855)年二月に63歳で冥界へと旅立ちました。

 

 長かった連休もこうやって(別段、退屈することもなく)過ぎて行きました。明日からはまた授業の日々でございます。学生諸君は気が重いかも知れませんが、それは教師たるわたくしとて同前なのですねえ。春休みが終わって一ヶ月授業をして、やっと調子が出たところで十日も休んだのですから、また一から出直しみたいな感じで、そのことが憂鬱さをいや増します。まあ体に染みついた稼業ですからすぐ馴れるのでしょうけどね、ガハハっ。


肌寒い四月の末 (2019年4月26日)

 明日からゴールデンウイークの十連休が始まります。四月も末ですが、昨日とかわって肌寒いですね。新緑が目に眩しい季節になって、街路樹のハナミズキやツツジの花々が目を楽しませてくれます。

 1993年に日本建築学会大会を東京都立大学で開いたのですが、そのときの記念に紅白一対のハナミズキを教室棟の西側妻面に植樹したことを思い出しました。今朝は小雨交じりの曇天なので写真映えしませんが、こんな感じでひっそりと咲いていました。左側の紅いほうの樹は一度枯れたので新しく植え直したように記憶しています。陽当たりがよくないせいか樹勢は今一歩のように見受けますが、健気に花々を咲かせているようでよかったです。何につけ精いっぱい生きているんだなあと、少しばかり勇気を貰いました。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU教室棟妻面のハナミズキ20190426:IMG_0529.JPG


授業で想定外に遭遇する (2019年4月25日)

 新年度の授業も三回めを終えて、そろそろ慣れる頃かなと思ったのですが、昨日、かなり驚くことが出来しました。今年度から不静定構造の講義(建築構造力学3)を担当することになり、そのための授業内容を相当に考えて組み立てたことはこのページに何度か書きました。その計画に沿って授業を進めていて、昨日は一年生後期の授業「建築構造力学2」の復習をする番でした。

 そこで45分ほど「建築構造力学2」(で高木次郎先生が教えたであろう内容)の復習をして、残りは演習問題を解く時間に当てました。よしよし、予定通りだなあと内心ほくそ笑んでいたのですが、教室内を見て歩くとどうも様子が変でして、回答が全然進んでいません。何人かの学生諸君からはこれって何ですかみたいな質問も受けました。「建築構造力学2」の復習なのだからその時のノートを見てください(「建築構造力学2」のノートを持参するように前もって言ってありました)と答えましたが、やっぱり何かおかしい…。

 そのとき天啓のごとく閃いたのが、もしかしてこの内容(梁の変形を求めるためのMohrの定理)って「建築構造力学2」では教わっていないのではないか、という危惧でした。でも、迂生が「建築構造力学2」を担当したときには(って、すでに前世紀の話しですけど、あははっ)ちゃんとMohrの定理は教えて演習もやっていました。ですから高木先生も当然、Mohrの定理は教授しているだろうと思い込んでいたのです。

 そこで「もしかして君たち、Mohrの定理を教わっていないのかい?」って聞いてみたら、まさにその通りだったので愕然といたしました。あんまり驚いて絶句したのですが、それじゃ問題を解けるわけがありませんから、慌てて説明や例題を追加したのです。でも、教わっていないならそうと学生さんも言ってくれれば良いのに、だ〜れもな〜んにも言わなかったんですよ、これってどう思いますか?

 授業前半の説明中に、ここまで分かりますか、何か質問はありますか、って何度も聞きながら授業を進めているにもかかわらず、このあり様です。もちろん高木先生に授業内容を事前に確認しなかったわたくしも悪いのですが(いや、昨年中に彼に確認した時は、教えている、と返事があったと思うのですが…)、説明中にもっと早く「習っていない」と言ってくれれば、丁寧に説明する時間は十分にあったのです。

 アクティブ・ラーニングとか称して双方向の授業を意図し、学生諸君に自主的に勉強をしてもらうように仕向けるとか言ったところで、かくの如く授業内での意思疎通すらできていないのですよ、恥ずかしながら,,,。現実を突きつけられて、心底がっくりきました。どうしたものでしょうか…。この先の授業では、反転授業じゃないですが、教科書の指定した部分を予習して授業に臨むように指示していますが、大丈夫なのだろうか。その答えはゴールデン・ウイーク明けの次の講義のときに分かるはずです、あな、おそろしや〜。


未来予想図 III (2019年4月21日)

 相変わらず調子は激悪で、先週は結局二日間休んでしまいました。家のそばの大学病院に行ってかなりの検査をしてもらったのですが、特に悪そうなところもないですねえ、なんてお医者さまからは言われて。はあ、でも具合が悪くてつらいんですけど…。一体どうすれば良いのか、別のお医者に診てもらうのでしょうか(セカンド・オピニオン?)。しかし病院って、どこもかしこもなんであんなに混んでいるのでしょうか。診察を待つ時間があまりにも長くて、病院へ行くとかえって具合が悪くなりますよ、ホント。

 さて、久しぶりにドリカム(Dreams Come True)の唄を聴いてみました。この三月までやっていた朝ドラの主題歌をドリカムが歌っていましたが、貰い泣き、貰い笑い、…っていうヘンテコな歌詞でしたね。吉田美和さん達のCDは1989年から1996年までの七枚を持っていて、その後は全く聴いていませんでした。なぜパッタリと聴かなくなったのか(CDを買わなくなったのか)、自分でも分かりません。ドリカムは今でも活躍しているので、新しいCD(?)もたくさん出しているのでしょうね、きっと。



 そのなかに『Love Goes On …』という1989年発表のアルバムがあって、「未来予想図II」という7分以上の大曲が最後に入っています。今からもう三十年も前に聴いていたのかと思うと感無量です(って、大げさか…)。その当時は大学の助手になったばかりで、耐震工学の研究者になるという漠とした未来は予想していましたが、それがどのようなものなのかという具体像は霧の彼方に霞んだままでした。ただ、未来は現在の積み重ねの果てにのみ存在しますから、現在の姿をなぜ予想できなかったのか、今考えるとちょっと不思議な気もします(ゼノンのパラドクスみたいなものかな?)。

 それでは、一般的に考えれば人生の三分の二近くを経過した今、三十年先の未来は予想できるのか、と言われるとどうでしょうか。それはほぼ予想可能なのですが、もうこの世にいない気もしますから、想像しても楽しくありませんなあ…。「未来予想図II」の歌詞に、ブレーキランプ五回点滅、あ・い・し・て・る の合図、っていうのがありましたが、これってやっぱり青くて若いっていうことです。つらくて悲しいこともあるけれど無限の未来が広がっているそういう時期にこそ、未来予想図は相応しい。

 もちろん人生の春秋を過ぎて円熟味を増した老人の知恵や体験には学ぶべきものがあり、自身がその立場になったならば若い人たちに伝えたいとも思います。しかし予想すべき未来は、もうないんだ、と思うとやっぱり一抹の寂しさを感じます。すなわち迂生にはもう「未来予想図III」はないのです。でも、それが全ての人たちの辿った宿命なのですよね。

 ちなみに『Love Goes On …』には「うれしはずかし朝帰り」などの曲も入っていて、当時大いに流行りました。アルバムのジャケット写真も底抜けに明るい若者三人、という感じがみなぎっていて、あらためて見ると(彼女たちのその後の活躍を知っているからでしょうが)味わい深いです。


孤愁の壁 (2019年4月13日)

 このところ真冬並みの寒さが戻ったりしたせいか、体調がすぐれません。具合が悪いとこのページに何か書こうという気力が失せるのはいつものことです。でも、その寒い日々のお陰でしょうか、南大沢の桜はこの週末までなんとか保ったようです。はらはらと舞い散る桜花を浴びながら歩を進めてゆくと、まさに過ぎゆく春という感を強くします。皆さまのところでは如何でしょうか。

 さて、本学の情報処理棟の隣に牧野標本館新館がちょうど一年前に建設されました。そのときにわたくしども9号館の住人がよく利用したショートカットの舗装路も撤去されてしまいました。でも、新館の犬走りのところは土が露出しているものの歩くことは可能で、最近ではそこを通ってちょっとだけ近道するようになりました。



 さて、その犬走りの脇に鉄筋コンクリート打ち放しの壁が一枚、ポツンと建っています。上の写真ですが、左側の壁面は新館のそれで、それに対面して片持ち柱のように存在しています。この壁は新館と同時に造られたのは言うまでもありません。壁の厚さは250mmくらいで、我が社の実験で使う梁部材の幅と奇しくも同じです。これだけ立派な壁ですし、基礎も当然しっかりと造る必要がありますので、数百万円くらいは費用がかかったと思います。

 では、この壁は一体何のために造られたのでしょうか。これだけの壁なのだから、新館と鉄筋コンクリート製の屋根スラブで結べば、建物に作用する地震力に抵抗させる耐震壁として機能させることは十分に可能です。なんてことを考えるのは耐震構造屋の迂生だけでしょうか、あははっ。

 冗談はさて置き、この壁は法律に基づいて必要とされました。上の写真の壁の右側に波板屋根が載った物置みたいなものがあります。これがこの壁を造らせた要因でして、高圧ガスボンベの倉庫なんですね〜。この倉庫と新館とのあいだの距離が法定値よりも狭いために、高圧ガスボンベが爆発するような不測の事態に備えて防御壁が必要だったのです。などと知ったか振りをしていますが、なんのことはない、以上は角田誠教授(建築生産)からの受け売りでした。

 というわけで、この壁はその機能を果たすようなことがあることは望まれないという、かなり不条理な存在なのです。何の役にも立たないことが人間たちから望まれるその壁は、今日も独り寂しく佇んでいるのでした…。



 この牧野標本館新館を建設するときに、傍にあるあんず(杏)の木がかろうじて生き残ったことは以前に書きました。上の写真は今年の3月中旬に撮影した写真ですが、ピンクに色づいたあんずの花越しに見た新館です。あんずの花はソメイヨシノより一週間近く前に咲き始めました。この花が梅雨の頃になると、うすオレンジ色のあんずの実になるんですね。今から楽しみです、なんてね。


えにしの糸 (2019年4月6日)

 竹内まりやの曲名(アルバム『TRAD』の一曲め)みたいなタイトルになっちゃいましたが、その訳は追い追いに。さて昨日の金曜日から前期の授業が始まって、さっそく大学院の講義がありました。受講者を見渡すと例年に較べて中国のかたが多いように見受けましたので、可能な範囲でゆっくりと日本語をしゃべったつもりです。ただ調子が出てくると早口になるのはどうしようもありませんでしたけど…。久しぶりの講義なので例によって不必要に大きな声でしゃべったようで、終わったらどっと疲れました。

 さて、建築家の磯崎新さんのことを書くために、学生の頃に見に行った彼の作品の写真を捜して、それらをスキャンしてコンピュータに取り込んでいます。そのような建築を巡る旅は学部三年生から大学院生の頃に集中していました。

 学部生の頃には、ロシア構成主義やそれよりも前の幻視(ヴィジオネール)派の建築が現代建築に与えた影響について興味を持っていて、それらに関連する書籍をむさぼり読んだものです。鈴木博之先生の研究室を途中でやめたのも、わたくしのこのような志向が聞き入れられなかったことが理由の一つかも知れません(もう古い話しなのでよく憶えていませんけど…)。

 そのようななかで、エル・リシツキーが構想した「雲の階梯」をモチーフにして設計された建物は今でも鮮烈に憶えています。それが磯崎新の設計した北九州市立美術館(1974年竣工)でした。1983年の春に建築学科の関西旅行があり、そのあとに柴原利紀くん(現・建築家)、黒野弘靖くん(現・新潟大学)、長谷部完司くん(現・竹中工務店)の四人で行ったのがこの美術館でした。ちょうど36年前に撮ったのが下の写真です。


     写真 北九州市立美術館(磯崎新設計、1983年撮影)

 この写真を見れば分かりますが、巨大な直方体がキャンチ・レバーとなって大砲のようにせり出していて、見るひとに圧倒的な存在感を主張します。これだけのマスをよく片持ち梁で支えているなというくらい構造的にアクロバットな建物なわけです。この奇抜なところがエル・リシツキーの「雲の階梯」(下の図)から拝借した部分でして、ご覧の通りによく似ていますね。このように過去の建築(この場合には構想)を本歌取りして引用するのはポスト・モダニズムの特徴のひとつで、この建物にもそのような徴候を見て取ることができます。ただ、四角いコンクリート躯体に鉄とガラスを用いるのはモダニズムの特徴ですから、その点では正統的なモダニズム建築とも言えると迂生は思っています。


      エル・リシツキー「雲の階梯」
https://www.artpedia.jp/2015/05/19/エル-リシツキー/ より転載)


     写真 北九州市立美術館の内部(磯崎新設計、1983年撮影)

 磯崎さんのこのキャンチ・レバーの跳ね出した部分は、上の写真のように展示室になっていたようです。この美術館は小高い丘の上に立地しており、そこからは北九州市街とその先の工業地帯を見下ろすことができました。アクロポリスの丘に建つ神殿、と言われればそのように見えるかもしれませんね。丘のどん詰まりにアイ・ストップのように建っているという点では、多摩センターにあるパルテノン多摩(1987年、曽根幸一設計)に似ているかも知れません。

 この旅行では柴原くんの赤いファミリアに乗って出かけましたが、この当時、世間ではマツダの赤いファミリアが爆発的なブームでした。下の写真のように今見るとかなり角々した形態をしていますが、斬新なデザインだったのでしょうね。左から柴原、黒野、そしてサンルーフから身を乗り出しているのが長谷部です。なんだか傍若無人の若者たちって感じがしますが(あははっ)、このときはどういうわけか美術館にはお客さんが全くいなかったのです。それで人の目も気にせずにこんなことができたのでしょう、きっと。


写真 北九州市立美術館の前で(柴原の赤いファミリア、1983年撮影)

 
さて大学院に入った頃、磯崎新のつくばセンタービル(1983年竣工)を見るために、黒野弘靖くんと後藤治くん(現・工学院大学)との三人で出かけました。今からちょうど35年前の春のことです。カンピドールの広場やヨーロッパの石造建物に使われたルスティケーションの本歌取りなど、明らかにポスト・モダニズムの形態言語と思われるものが見られます。バブル前夜だったこともあって、かなりお金がかかっている印象です。ただ、アルミ・パネルのファサードとか人工的な石組みなどはかなり無機質な肌触り(冷たい感触)をこの建物に与えているように思いました。

 その後、研究者になってから学会等でこの建物を訪れましたが、コンサート・ホールなどの大空間には行ったことがなく、飲食街をぶらぶらしただけだったこともあり、この建物の良さは今もって知りません。それはちょっと残念な気もしますなあ…。

 


写真 つくばセンタービル(磯崎新設計、1984年撮影 左から後藤、黒野、北山)

 さて随分と古い話しになってしまいましたので現在に戻りましょう。わが大学院・建築学域ではこの四月から新しいプロジェクト研究コースが始まりました。タイトルは「モダン・ムーブメント建築の動的保存・更新に関する総合的戦略」で、担当教員は竹宮健司(建築計画)、北山和宏(建築構造)、角田誠(建築生産)および小林克弘(歴史意匠)の四教授です。わたくしは鉄筋コンクリート建物の保存と改修に興味があるので、この仲間に加えていただきました。例えば上述の北九州市立美術館は新耐震設計法(1981年)が施行される前の設計ですから、現行の耐震規定を満足していない可能性が大きいです。耐震補強等はどうなっているのでしょうか…。

 この新しいプロジェクトを研究題材とする大学院生二名が学外から進学してくれました。そのうちのひとりがなんと新潟大学・黒野弘靖研究室の卒業生だったのです。黒野くんは建築計画学の研究者なので、その研究室を出た学生も計画とか設計とかへの志向を持ったひとでしょう。それでも、学生の頃からの古い友人から託された大事な若者ですので、これからいろいろと一緒に研究できれば嬉しいなと思っています。ちなみに同級生の研究室から我が大学院に進学したひとは今までに一人だけいて、それが福岡大学・高山峯夫研究室から来た田島祐之さんでした。

  不思議な縁でつながることもあるのだな、というお話しでした。


ことしは現出 (2019年4月4日)

 今日の正午が日本建築学会大会の梗概締め切りでした。今回は久しぶりに修羅場が現出して、提出直前まで梗概の手直しやチェックに追われました。あまつさえ、時間切れで迂生の最終チェックを経ないままに投稿された原稿もありました。本来はそういうことはあってはなりません。しかしその原稿は連番モノで提出しないとほかの共同研究者の皆さんに迷惑がかかるという事情があって、やむなく目をつぶりました(ホントまずいですよねえ、お恥ずかしい限りです…)。

 ただ、そうやって梗概を作成できたひとはそれなりに頑張って成果を出したと褒めてよいでしょうね。例年のことですが、研究室の大学院生が全員、梗概を出したわけではありません。一年間の研究成果をまとめて世に問うことの重要性は折に触れて話しているつもりですが、それが理解されないことは極めて残念です。我が社では先端研究に取り組んでいるのですから、そのことに思いを巡らして欲しいと切に願います。該当する人たちの奮起を期待しています。

 我が社では今回は7編(岸田研究室との共同研究を入れると9編)の梗概を提出しました。このうちの5編は旧M2の三人が執筆してくれたもので、李梦丹さんなどは2月末に梗概2編を早々に提出して巣立ってゆきました。扇谷厚志さんも3月末までねばって2編を執筆してくれました。二年間の研究の成果はそれなりに発表してくれたようなので、そのことは良かったです。

 これでいちおう2018年度の研究の取りまとめは一区切りとなります。今日からは新しい研究を担当するひともいるでしょう。来年こそは立派な査読論文や大会梗概を提出できるように、計画的に研究に取り組んでください。

追伸(2019年4月8日);昨年も同様の修羅場が現出したことが、このページに書かれていました。すっかり忘れてましたなあ〜。まあ、その程度のダメージってことかも…、あははっ。


あなたはどこから? (2019年4月1日)

 新年度がスタートしました。今年は4月1日が月曜日なので区切りの良い年度始めになりましたね。世間さまではこの五月からの新しい元号のことで持ちきりみたいですが、元号なんて何だっていいじゃないのって迂生は思うのですけど…。わたくし自身は普段から西暦を使っていて元号は使いません。あれは何年前?っていうときに、元号だとブツブツと不連続になっていて(平成、昭和、大正、明治…)すぐに分かりませんよね。それがイヤなんですね〜。

 でも新しい元号になったら、迂生なんて昭和、平成そして〇〇(新元号の名前)の三時代にまたがって生きることになります。かつて我が家の祖父母たちは明治、大正そして昭和の三時代を生きましたが、それと同じようなジジババになっちゃうのかと思うと、感慨もひとしおでございます、はい。

 この週末は気温が低かったせいか、南大沢の桜はまだ満開ではありませんでした。だいたい七分咲きくらいでしょうか。新入生がキャンパスに溢れるころには見頃になりそうで、その点ではよかったですね。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:野川_南大沢20190401:IMG_0509.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:野川_南大沢20190401:IMG_0512.JPG

 さて先日の壁谷澤御大のパーティのときに若い研究者の皆さんと話す機会があったのですが、そのときに「北山先生の師匠ってどなたですか」と聞かれました。そうだなあ、やっぱり青山博之先生が第一の師匠だけど、直接に指導を受けたのは小谷俊介先生だなあみたいなことを答えたら、「それって青山小谷研究室ですか」と意外そうに言われて、このひとは迂生の出身大学を婉曲に聞いていたことにやっと気が付きました。

 まあ研究するに当たって必要なのは実力ですから、出身大学や研究室はどこでもいいので、それらにこだわったことは今までありませんでした(もちろん学界ではそういう出自も大事な情報のひとつではありますけど)。また、大学院生から大学の助手になって…という具合に研究者の階段を登り始めた頃には、先輩方はわたくしがどこの出身なのかは皆さま先刻承知っていう具合でしたので、おのれの出自を自分で言う必要はありませんでした。

 でも時が移ろってわたくし自身が中堅からさらに上の年代へと経るにつれて、後輩諸氏にとってはこのひとってどこから来た人?みたいな存在になっていたようなんですね。いやあ歳をとると、今まで見えなかったものや気がつかなかったことに否応なく気づかされるということに改めて気付きました。そんなことは先刻承知だろみたいな木で鼻括ったような態度はとらないように、気をつけたいと思った次第です。


すき間のとき (2019年3月27日)

 花粉がすごくて寝られません…。暖かくなって桜の便りも届き始めましたが、南大沢ではまだほとんど咲いていません。多分、今週末から来週早々くらいに見られるようになるのではないかな?

 さて、先週金曜日に卒業・修了式がありましたが、3月31日(日曜日)にはさっそくに新入生の履修ガイダンスが行われます。今年は天皇即位があるので10連休がセットされたためか、こんなに早くから学校行事を始めないと納まらない、ということらしいです。ということで今週の数日は貴重なすき間の時間ということになりますが、のんびりするどころか目の回るような時間を過ごしています。

 先ほど、M2の李梦丹さんがコンクリート工学会の査読論文を修正して投稿しました。彼女はよく頑張りましたが、やはり日本語の問題はありますから丁寧な確認は不可欠です。また4月早々に建築学会大会の梗概締め切りがありますので、我が社の皆さんも(やっと)その執筆に取り掛かったようで、忙しいときに限ってチェックの相談が重なったりして往生しております。

 こんな感じだとすぐに来週になって、あっという間に授業が始まるのでしょうね。まあいつものことと思えば苦にもなりませんが、とにかく花粉が…。


壁谷澤寿海先生の退職記念祝賀会 (2019年3月25日)

 先週、壁谷澤寿海先生の最終講義が東大・地震研究所であって、その晩、退職記念祝賀会が目黒のホテル雅叙園東京で盛大に開かれました。壁谷澤御大(長男・寿一さんが我が学科で准教授を勤めていて紛らわしいので、最近は「御大」とか「大先生」とか呼ぶようにしています)には学生の頃から常にご恩顧をこうむってきましたので、本当に感謝しています。かくも長いあいだ、公私に渡ってこれだけお世話いただいた方は壁谷澤御大をおいて他にはおりません。



  建物の耐震構造にかかる研究についてのアドヴァイスやご意見は言うに及ばず、諸外国との共同ワークショップへの参加、国内外での地震被害調査、規準・指針類の執筆、学協会での委員会活動など貴重で素晴らしい機会を多々、与えていただきました。なかには迂生の能力を超える類のものもあったように記憶しますが、壁谷澤御大からは辛抱強くお声掛けをいただき続けて、なんとかやり遂げることができたように思います。まさに壁先生の引きがなければここまで来ることはできなかった訳で、長いあいだのご厚情にありがたく御礼申し上げます。とはいえ、斯様なことをご本人に面と向かって言うのは断然照れ臭いので、ここにこっそり書いておくことでお許しをいただきとう存じます。

 上述のように壁谷澤御大との思い出は多々あるのですが、迂生がM1だった1984年の夏、壁先生に初めて飲みに連れて行っていただいた挙句にご自宅まで伺ったことが鮮やかに脳裏に浮かんで参ります。お宅でテレビドラマを見ながら(確か大竹しのぶが出ていたように記憶します)、奥さまが明け方までお付き合いくださったのでした(そのときは同級生の定本照正くんも一緒でした)。あとはやっぱり、代々木駅前のスナックで閉店までカラオケを歌い、別のお店に移って焼うどんを食べ、そして壁邸にお邪魔してさらに一杯飲んでから寝る、という一連のコースでしょうか、あははっ。若かった頃がとても懐かしく思い出されます、今じゃとてもそんな元気ありませんから…。

 研究面では、建築学会の耐震性能評価指針(案)の作成に加えていただき、鉄筋コンクリート梁部材の耐震性能評価の章の執筆を任せて下さったことでしょうか。その時に考えたことややり残したことは現在まで我が社での研究の種として役立ってきました。米国のJack Moehle先生をカウンターパートとする日米ワークショップのメンバーに選んでいただいたことも非常にありがたいことでした。そのときは大変でしたが、今では良い思い出です。2003年に箱根で開かれたときの集合写真を以下に載せておきます。その後、冥界へと渡られた方もおいでになり残念です。



 さて、最終講義ですが(境有紀さんは都合で講義を聞けなかったということなので、その要諦?を書いておきましょう)、壁先生にとっても恩師の青山博之先生がいかに偉大な存在であったかがよく理解できました。講義には具体的な個人名はほとんど出てきませんでしたが、冒頭と最後に青山先生が登場し、文字通り青山先生に始まり青山先生に終わる、でした。以下は最後のスライドですが、青山先生が1993年の最終講義のときに記した教訓(反省)に、壁先生のそれを追加するスタイルになっていました。よく見るとローマ数字が通し番号になっていたり、年代が繋がっていたりして、よく練られた一枚であることに気が付きます。



 個々のご研究では、わたくしにとっては非線形地震応答解析プログラムDANDYの開発とそれを利用した解析研究とが真っ先に頭に浮かぶのですが、壁先生の講義では苦心惨憺した数多の実験についてスライドが割かれていて、秀逸な実験者としての御功績も認識を新たにいたしました。もちろん兵庫県のE-ディフェンスでの大規模建物の振動台実験は記憶に新しいですが、お若い頃の耐震壁の実験などで工夫と苦労とを重ねたことはよく存じませんでした。このあたりの内容も、青山先生の「実験は解析よりも十倍えらい」というお言葉に沿ったもののように感じましたね。

 ただ最終講義はわずかに一時間しかなかったので、全編が相当の駆け足にならざるを得なかったのは残念でした。地震被害調査の実相についてはほとんど説明がありませんでしたが、阪神大震災や東日本大震災での文教施設の地震被害調査とそれに伴う評価書の発行や、耐震診断基準の度重なる改定など壁先生の類い稀なる御功績について、お話を伺いたいと思ったのは迂生だけでしょうか…。

 そうでした、2011年の東北地方太平洋沖地震での文教施設の被害調査では、総元締の壁先生から栃木県担当を仰せつかったのですが、そのときに被害調査をした学校建物の多くの資料はいまだに我が社での研究に活かされています。これらの貴重な遺産はきっとわたくしが退職するまで使い続けるだろうと思っています。壁先生の教訓の追加にさらに追加するのならば、地震で被災した建物のデータも全て使い尽くすべし、かな。

 その晩の祝賀パーティですが、壁先生のご一家が勢揃いした写真を冒頭に掲げました。優秀なご子息二人にお孫ちゃまが五人と、壁谷澤一族のこれからの隆盛を大いに予感させるような象徴的なシーンでした。

 その様子を拝見して、大昔の我が一族のことを思い出していました。母方の祖父は東京教育大学(現在の筑波大学)の地理学教室の教授でしたが、祖父の叙勲のお祝いを弟子の皆さん方が京王プラザホテル(?)で開いて下さり、そのときに子供だけでなく孫たちも招待してくれたのでした。わたくしは既に高校生でしたが、孫を一人一人在学校名まで添えて紹介していただいたことを憶えています。もっともわたくしどもの方は、その後尻すぼみになりそうなのは残念至極なんですけどね,,,。

 祝賀パーティには壁先生を慕って大勢の方が集まりました。壁研究室のお弟子さんたちは(金本清臣さんを除いては)ほとんど存じ上げませんが、梅村・青山・小谷研究室の先輩後輩諸氏に会えたのは良かったです。もう随分前から本郷の閉室パーティにも行かなくなったので、このような機会でもないと同門の大勢が集まることもなくなったのはちょっと残念な気がしますな。かつての上司だった野口博先生からは、先生が学長を務める静岡理工科大学でのさらなる拡張計画(〇〇億円と仰っていました)を伺って正直なところ驚愕しました。少子化で学生数が減るっていうのに、そんなに風呂敷を広げて大丈夫なんでしょうか,,,って余計なお世話でしょうけど。

 それにしても会場の目黒雅叙園が立派なのには驚きましたな。巨大な吹き抜けのアトリウムに面して大きな滝まで配されていました。造作も凝りまくっていて、いかにも外国人が喜びそうなジャポニズムって感じでした。目黒駅からは行人坂を下るのですが、これが細いながらも結構な急坂で、帰りに登るときには結構難儀をしましたね。谷地形ですから、すぐ脇には目黒川があって川岸には多くの桜が植えられていましたが、残念ながらまだ咲いてはいませんでした。

 壁谷澤御大は地震研究所からは退きますが、日本建築防災協会等の公職には引き続き留まってご活躍されることと思います(ご自身の今後については何も仰りませんでしたが)。まだまだ建築構造界を牽引していただけるでしょうから、これからもお世話になろうと(勝手に)決めています、あははっ。


神宮外苑界隈のいま (2019年3月20日)

 先週、免震構造協会で会議があり、久しぶりに渋谷区神宮前に行ってきました。この界隈に行くときにはJR千駄ヶ谷駅から歩いてアクセスするのが高校時代からの迂生の習い性です。この日は春らしい日和でブラブラ歩くにはうってつけでしたしね。

 ということで新国立競技場の出来具合からリポートします。左下は千駄ヶ谷駅から外苑西通りの谷底へと降りてゆく坂道から見た競技場の今です。この坂の降り口はT字路になっているのですが、その先に文字通り壁のようにそそり立っていますね。現地にゆくと分かりますが、予想していたとは言え、結構な威圧感を抱きます。ちなみに写真左側の仮囲いは東京体育館の改修現場です(施工は大日本土木でした)。

 右下のように新国立競技場の外側はかなり出来上がっているように見えました。それにあわせて外構の整備も始めたようで、仙寿院の交差点のところには競技場から反対側へと跨ぐ鉄骨のデッキが施工中でした。ここには昔、都営団地が並んでいたのですが、綺麗さっぱり撤去されたのですね。わたくしが高校生の頃とは風景が一変したことに一抹の寂しさを感じます。変わらないのは競技場の向かいにある立ち食いラーメンのホープ軒くらいだなあ、あははっ。

 

 外苑西通り(通称はキラー通りと言いましたが、今はもう死語?)をさらに南下すると、免震構造協会が間借りする建築家会館があります。左下の写真のように矩形に立ち上がった部分はほぼ正方形の平面で四本柱によって支持されていますが、柱は正方形平面の四隅ではなく、各辺の中央に立つという相当に変則的なプランになっています。すなわち平面四隅の床スラブはキャンチレバー(片持ち梁)で支えることになり、ちょっと不安な構造です,,,。

ちなみに設計は進来廉[すずき・れん]で、竣工は1972年の鉄骨鉄筋コンクリート構造です。すなわち新耐震設計法施行(1981年)以前の建物ですが、2011年の東北地方太平洋沖地震のときにはかなり揺れて下層階の柱のかぶりコンクリートが剥落したり、エクスパンション・ジョイントが衝突してものすごい粉塵があがったそうです。ちゃんとした耐震補強をしないと危ないのではないでしょうか…(余計なお世話か?)。

 

 先ほど書いたように外苑西通りは谷底を走っていますので、この建物はその斜面に建っています。なお、地下鉄の外苑前駅からアクセスするときには、この写真の反対側に入口があるのですが、そこは建物の第三層あたりに該当するみたいです(意識したことはないので精確なことはよく分からん)。このような複雑な地形に立地するので、地震のときの不安がいや増しますなあ。ちなみにこの近辺は江戸時代には江戸城の周縁に当たるので寺院が多かったみたいです。そのせいか、この建築家会館の隣は墓地なんですよ。このすぐ近くのわたくしの母校の裏にもやっぱり墓地があったことを思い出しました。

 外苑西通りをさらに行くと、都市型狭小住宅の最高傑作と建築界では言われる『塔の家』が現れます(右上の写真の中央の建物)。設計者の東孝光氏の自邸で現在はお嬢さん(やはり建築家の東理恵さん)が住んでいるらしいです。敷地面積はわずかに20平米で、1966年に竣工したコンクリート打ち放しのRC構造です。左右の高い建物に挟まれてなんだか居心地が悪そうに見えるのは残念ですけど…。

 さらに外苑西通りを行くと青山通り(国道246号)にぶつかって、そこの交差点には黒川紀章設計の青山ベルコモンズが建っていたのですが、それも近年取り壊されたとのことでとても残念です。


今期三シリーズめ (2019年3月18日)

 先週、鉄筋コンクリート隅柱梁部分架構試験体を大型構造物実験棟に搬入しました。もう三月半ばを過ぎましたが、これが今期(2018年度)三シリーズめの実験になります。今回は二方向水平力および柱の変動軸力(すなわち実建物と同じく三方向の力)を載荷する実験なので、実験装置も加力自体も相当に複雑になります。とはいえ、既に片江拡先輩と石塚裕彬先輩とが同種の実験を行なっていますし、今回の主担当者であるM1藤間淳さんが知恵を絞るでしょうし、明治大学の晋 沂雄先生も参加してくださいますから、そんなに心配はしていません。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC隅柱梁接合部実験2019_藤間淳:試験体搬入と実験装置組み換え:IMG_0445.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC隅柱梁接合部実験2019_藤間淳:試験体搬入と実験装置組み換え:IMG_0443.JPG

 ただ、加力装置に試験体をセットしたりする作業は大変ですし、大いに気を遣いますので、怪我や事故のないように注意して慎重に進めてください。そのあと変位計の取り付け等の準備がありますから、加力自体は多分四月以降(建築学会・大会梗概の提出あけくらいか,,,)と思っています。所期の目的を達成できることを期待しています。


プラ〜っと (2019年3月14日)

 花粉がつらいです…。さて、昨日は田島祐之さん(研究室OBで、現在は愛知の大学の教員)が、先ほどは芳村学先生がプラ〜っと研究室にやって来ました。こんな偶然って、あるもんですねえ。まあ、わたくしに会いに来たわけではなさそうだったので(あははっ)、偶然にも在室していてよかったな、という感じでした。お二人とも元気そうで良かったです。田島さんには年長者としてお話しし、芳村先生からは後輩としてお話しを伺いました。


早咲き (2019年3月13日)

 昨日、本学では後期日程の大学入学試験が実施されて、2019年4月入学にかかる一連の入学試験行事はこれで全て終わりました。前期試験の合格発表は既にありましたが、わが建築学科の手続き率はどうなのでしょうか…。建築学科合格者の私立併願校を例年調べていますが、明治大学、芝浦工業大学および東京理科大学が御三家で、さらに早稲田大学や法政大学あたりが競合校として常にあがっているようです。我が校とそれらの私学の両方受かったら、どちらに進学するのでしょうかね、調べたことはありませんが,,,。早稲田大学に受かったら、やっぱりそちらに行っちゃうのかな。

 さて、この数日ばかり暖かい日が続いていて、それはそれで良いのですが、なんせ花粉が…。朝から腫れぼったい顔して、ボーッとしているのはかなりつらいです。体じゅうに花粉のアレルギーが回っているように感じて(非科学的!)、体調にもすこぶる悪影響を及ぼしていると実感しますね。

 鼻ぐずぐず、目シバシバで歩いていると、野川沿いの早咲きの桜が満開になったのに気がつきました。そういえば例年、ソメイヨシノよりも一週間以上早く咲く木が一本だけあったことを思い出しました。調べてみるとどうやら大寒桜(オオカンザクラ)という品種のようでしたが、すでに花びらが散り始めていましたので、ちょうど見頃というところでしょうか。かような桜は大歓迎ですが、スギ花粉はなんとかして欲しいです、ホントに。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:野川沿いの早咲きの桜20190313:IMG_0363.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:野川沿いの早咲きの桜20190313:IMG_0362.JPG


思わぬ邂逅 〜そしてつながる…〜 (2019年3月11日)

 先日、原子力建築とか鉄筋コンクリート構造とかの運営委員会がたて続けにあったので建築会館に行きました。建築会館に入ると右手に建築博物館と称するこじんまりとしたスペースがあって、この日はアルヴァ・アアルトの模型が展示されていました(展示タイトルは「アルヴァ・アアルト 内省する空間」)。アアルトは20世紀前半に活躍したフィンランドの建築家です。迂生はご承知のように建築学科とは言い条、耐震構造の研究者ですから建築デザインとは対極に位置する人種です。本来なら素通りするはずですが、この日は会議の狭間で時間があったのでプラ〜っと入ってみました。しかし後述するように、何か運命的なものがわたくしを引き寄せたのだと今は思っています。



 そのスペースにはアアルトの作品を忠実に再現した模型がいくつか展示されていました(二、三の大学の学生諸君が製作したようです)。ところが一番奥のスペースに、(アアルトではない)その人の設計した図書館等の模型がひっそりと置かれているのに気が付きました。アアルトの作品でもないのになぜだろうって、何も知らない人は思うはずです。でもわたくしは直ぐに分かりました、ああ、なるほどな、って。

 それは、2017年11月末に『ある建築家の思ひ出』と題した小文にしたためた武藤章先生でした。武藤章先生はアアルトの設計事務所で仕事したこともあり、日本でのアアルト研究の第一人者でしたが、工学院大学教授のまま若くして亡くなりました。武藤章先生が亡くなってすでに三十年以上を閲した今、先生のことを知る人も少なくなったことを残念に思っていましたが、この展示を企画した方や、工学院大学のOB・先生方は忘れていなかったことを知って嬉しくなりました。



 上の写真は「武藤章の建築にみられる内省空間」という一画に展示された工学院大学八王子図書館の模型です(この模型は今年になって工学院大学建築学部の学生諸氏によって作られたようです。なかなか良くできています)。武藤章先生の設計で1979年に竣工しましたが、21世紀になって残念ながら取り壊されたそうです。こんな建物があったこと自体を迂生は知りませんでしたが、この模型をじーっと見たり、脇に置かれていたこの図書館のモノグラフを拝見すると魅力的な空間が展開していたようです。アアルトのように家具や造作も細やかにデザインされていたことが伝わります。

 そのモノグラフに武藤章先生の奥様が寄稿されていて、武藤先生の生い立ちが書かれていました。それによると、高校生の頃は文学に傾倒したがそれで食べてゆくのは無理だと諦め、結局、好きだった詩人・立原道造の影響で建築を選んだ、とのことでした。大学進学後は建築学科の授業にあまり魅力を感じていなかった、とも。

 あれ?武藤章先生も立原道造を読んでいたのか…。以前にも書きましたが、武藤章先生と我が家の父とは建築学科の同級生で、親しく付き合ったと聞いていました。父は終戦後に刊行された立原道造全集(角川書店、全三巻)を所蔵しており、それは今はわたくしの手元にあります。武藤章先生と父とは立原道造を介してつながっているように見えました。

 そこで父がパソコンに残した文書類を片っ端から探してゆくと、これに関連する記述を見出したのです。父は学生の頃、病を得て大学を休学して入院していましたが、その見舞いに来た武藤章先生が持ってきたのがこの立原道造全集で、これは「武藤の形見だ」というのです。父の文書には「武藤は、建築家としてではなく文学者としての立原道造に惚れていたみたいだった。武藤自身、立原道造的なリリシズムの化身だったと思う。」と残されていました…。

 父は遊び人だったので、武藤章先生との付き合いも麻雀から始まったと書いています。しかし武藤先生は非常にまじめな性格で、三四郎池のほとりに座り込んでよくいろいろ話し合ったことがある、とも。武藤先生は「建築を学ぶことに疑問を感じる…」と言っていたそうです。このあたりの記述は奥様の回顧談とも整合します。

 いやあ驚きました。立原道造を父に教えたのは武藤章先生で、その全集本は今、迂生の手元にあるのです。この全集本を父はとても大切にしていましたが、死期を悟った頃だったでしょうか、この三冊をわたくしのもとに携えてきて「お前にやる」と言ったのでした,,,。

 このような経緯を知るに至って、六十年以上のむかし、二人がまだ大学生だった頃の出来事がわたくしの脳裏にうっすらとした像を結んだと言ってよいでしょう。戦前の軍国主義と終戦後の手の平返しの民主主義に翻弄されたために学校には苦労した父でしたが(行く先々の学校が廃止になったのは気の毒だったとしか言いようがありません)、大学生の頃に生涯の友といえる友人に出会えてよかったと思いました。

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 以下蛇足ですが、父のパソコンにあった学生時代の写真を載せておきます。これは建築見学旅行に行ったときに京都智積院僧房のお庭で撮影した写真らしいですが、写っているひとの名前が書いてあるので貴重です。昭和二十年代の大学生って角帽をかぶっていたんですねえ(この風習自体に結構おどろきます)。

 前列中央に武藤章先生、その右横に北山(父)、その後ろに狩野芳一先生がいますね。武藤章先生の左後ろが日本建築史の太田博太郎先生(多分、引率教員でしょう)で、左隣は加賀秀治さんです。この加賀さんのご子息はわたくしの一年後輩で、確か神田研究室にいたように記憶します。我が家の父を含めて皆さん、楽しそうに写っていますが、武藤章先生だけはなんだか硬い表情をしているのが印象的です。前列左から二人目はINA新建築研究所の社長だった小嶋敏夫さんで、小嶋さんは百人町や横浜の自宅に何度かお出でになったことを憶えています。

 そして、最後列の右から四番目は建築家の磯崎新さんです。磯崎新さんはつい先ほど、プリツカー賞を受賞したことが報道されたので一般の方もご存知かも知れません。磯崎さんは文字とおり建築界の巨匠ですが、わたくしにとっての巨頭はRC界の大先輩である狩野芳一先生です。ということで磯崎新さんについてはまた別に書こうと思います。


写真 第76回生 建築学科の修学旅行 京都智積院僧房の庭にて(昭和二十年代後半)
        写したひと:市川幸逸さんか?

 せっかくですから、迂生が学部生のときに参加した京都旅行の写真も載せておきましょう。1983年3月に清水寺にて、石井透くんが撮影したものです。中央のネクタイ姿が近代建築史の鈴木博之助教授(当時)、前列右端に日本建築史の藤井恵介助手(当時)がおいでです。左端には切れかかった千葉学くんがいますね。このときの参加学生は二十数名だったみたいで、父の頃のように全員が参加したわけではなさそうです。


写真 第106回生 建築学科の修学旅行 京都清水寺にて(昭和五十八年三月)
        写したひと:石井透さん


もうすぐ (2019年3月6日)

 もうすぐ東北地方太平洋沖地震が発生した3月11日がやってきます。しかしその前の3月10日も東京にとっては大変な災厄の日でした。東京大空襲の日です。米軍による無差別爆撃によってこの夜、都民約八万人が亡くなりました。市井の無辜の民を焼き殺したこの出来事は、アメリカの戦争犯罪のひとつであると迂生は認識しますが、アメリカに追従する政権側の人たちはそう思っていないらしいところが恐ろしいです、ほんと,,,。

 東京・両国にある横網町公園には、関東大震災後に震災記念堂が伊東忠太の設計によって建てられましたが、この空襲などによって亡くなった方々の遺骨を第二次世界大戦後に安置する施設としても使われるようになって、現在は東京都慰霊堂と呼ばれています。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ関東支部東京を歩く会2009:CIMG0362.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ関東支部東京を歩く会2009:CIMG0360.JPG

 この東京都慰霊堂は(上の写真です[2009年撮影])鉄骨鉄筋コンクリート造ですが、1930年の竣工ですから現行の耐震基準を満足するはずもなく、耐震補強が必要とされました。20世紀の末か21世紀の初頭だったと思いますが、そのための耐震診断の審査の依頼が東京都防災まちづくりセンターにありました。しかし鋼材の材料強度が不明であるとか、詳細な図面が残っていない等の曖昧さが多々あったため、結局、当センターでは審査できないという判断に至ったと記憶します。

 その後、どうなったのかしばらくは知りませんでしたが、この建物の耐震補強が2016年に無事に行われて、それが日本建築防災協会の「耐震改修優秀建築賞」を受賞したことを最近になって知りました(こちらのページです)。建防協のページを見ただけでは詳細については分かりませんが、袖壁補強、透光性FRPブロックによる補強、および鉄骨ブレース補強などが施されたようです。いずれにせよ大勢の人たちが慰霊に訪れる施設の耐震安全性を確保できたのであれば、とても良かったと思います。


早めの始動 (2019年3月4日)

 三月になりましたが冷たい雨が降り続いて、梅の花もこころなしか縮こまっているように見えます。大学の1号館の中庭では、スイセンの芽が5cmほど土から顔を出しているのを見つけました。春は確実に近づいていることを感じます。

 さて、トップページに記しましたが、2019年度の最初の研究室会議(我が社ではKick-off Meetingと称しています)を三月初旬に開くことにしました。北山研究室では初めてのことだと思います。例年は四月になって新しいメンバーがそろってから開いていました。しかし来年度には外部からの進学者がひとりもいないし、卒論生二名もすでに決まっていて実質的に研究室活動に参加しています。また、科研費による研究は来年度も継続するので、新規の大きな実験研究はないだろうと思います。

 ということで、基本的には2018年度の研究を継続することになるので、早いところ2019年度の研究活動を始動したほうがよかろうと判断しました。それによってやる気のあるひとには明確な問題意識を与えて、課題に取り組んでもらえます。また、芝浦工大・岸田慎司研究室だけでなく明治大学・晋沂雄研究室との共同研究も本格的に始まりますので、そのことも研究室内に周知しておく方が良いと思いました(もっとも、藤間淳くんの試験体の作製に晋沂雄研究室の諸氏がすでに参加してくれていますけど…)。

 研究室会議はルーティン・ワークですが、ちょっと目先を変えたりする変化球を投げることで、研究室内に新しい刺激を与えることができるかもしれないという副作用もちょっぴり期待しています。折に触れて新しい試みにもトライしたいですが、今までいろいろとやって来ましたがどれも思ったほどの効果は得られなかったことを振り返ると、やっぱりオーソドックスが一番、ということになるかも…?

 今週には鉄筋コンクリート立体隅柱梁接合部試験体のコンクリート打設が予定されています。それが終われば大型構造物実験棟に搬入して実験が始まります。そのための実験棟の整理整頓をKick-off Meetingの前に実施することにしました。研究室の諸氏の参加をお願いします。


二月も末 (2019年2月26日)

 そろそろ二月もおしまいです。きょうは曇っていてそんなに暖かくもないのに、花粉はひどいですね、どうしてだろう…。

 さて、本学の前期日程入学試験が本日、終わりました。きのうのJR総武線の運転見合わせの影響は本学にも及び、遅れてきた受験生諸氏には1時間おくれで別室で受験してもらう措置を取りました。でも、大学受験で受験生にこんなに配慮するようになったのはいつからでしょうかねえ、親切でいいんですけど…。

 迂生も入試業務に従事しましたが、こんなお仕事もあるんだという経験をしました(もちろん、詳しくは書けません)。大学の教員になってから三十年以上ですが、初めての体験でした。

 この入試が終わると大学では一気に春モードに入ってゆきます。もちろん後期日程入試もありますが、大学人の気分としてはそういうことなんです。そろそろ来年度の研究計画も立てて、2019年度のキッック・オフ・ミーティングはできれば三月中に開きたいなと(今は)思っています。

 M1の藤間淳さんの試験体の作製が進行中で、三月初旬にはコンクリートを打設できる予定です。もっとも、試験体の設計が確定してスターラップやフープの加工が終わってから、かぶり厚さが小さくて粗骨材が通らないという不具合が発覚しました。あれこれ考えましたが結局のところどうにもならずに、部材サイズを(ちょっとだけ)大きくするという変更がありました。それまで精緻な検討を積み重ねてきたのに、それじゃ台無しじゃないかと思いましたが、背に腹は代えられません。まあ、例によっていろいろありますから、いいんですけどね…、なんだかなあっていう気分はあります、やっぱり。


楽しいとき (2019年2月22日)

 久しぶりに豊洲の芝浦工業大学に行ってきました。岸田慎司教授の研究室で共同実験の結果について議論するためです。実験は本学の大型構造物実験棟で行い、昨年11月末に終了しています。今年に入って卒論の発表会も終わったので、そろそろまとまった成果が出ただろうと思ってお邪魔しました。

 具体的な作業は岸田研究室のM1村上研さんと北山・岸田両研究室の卒論生三名が担当しています。この日は、村上研さんが実験結果の概要を説明してくれました。まあ、実験のときにも折に触れて書きましたが、やっぱり分からないことが多いんですよね。自分たちで工夫して作った試験体なのに、想定したようには挙動しないことが多々ありました。

 こうして四時間近く、ああでもない、こうでもないと議論を交わしました。その場で解決できた問題もありましたが、結局のところ、なぜなんだろうという疑問が払拭されることはほとんどなく、謎は謎のままに残りました。でも、その時間はわたくし達にとってはとても楽しいものでした。知的な欲求を満足させてくれると言うか、バック・グラウンドを共有する、モノの分かったひと達とツーカーで議論できることの心地よさを存分に味わえました(岸田先生、ありがとうございます)。

 この成果を論文として世の中に提示するには、幾つかの疑問を解決しないといけないでしょう。それは結構大変な気がします。残った問題を解決するためにはまた実験をしないといけないかも知れません(そのこと自体は心の重荷ですけど,,,)。このように成果物のことを考えると気が滅入りますが、それでも、迂生にとってはあれこれ考えることは至福の時間でした。


春の陽気に (2019年2月20日)

 今日は春のような陽気で、暖かかったですね。でもそのお陰で花粉も全開だったみたいで、目がショボショボして、脳内には薄いもやがかかったようにクリアではありませんでした。

 さて、難航していた実験ですが(って、わずかに二体だけなのですが,,,)、今夕、無事に終わりました。いやあ心底、良かったです。トラブル続きでどうなるかと心配しましたが、まあ終わりました。担当者のM2胡文靖さんによる今後の研究に期待しています、と言っても、あと半年しかありませんけど…。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC平面十字形実験2018_胡文靖:試験体H2:IMG_1600.JPG

 年齢を重ねるにつれて、実験によるストレス(気苦労とか心労)が益々激しくなるような気がします。こんな状態ではいつまで実験できるか、相当に心配です。ときどき書いていますが、我が社での実験データの蓄積は多分、かなりのものであると推察します。それらの膨大なデータをじっくり噛みしめながら分析して成果を出す、という研究スタイルにシフトすることを本気で考えても良いかもしれませんな…。


改善は続く (2019年2月18日)

 卒論、修論および卒業設計などの発表と採点とが終わって、大学構内は急にひっそりと静かになりました。大きな行事として、あとは大学入試を残すのみという状況です。真冬の寒さは続いていて、朝登校すると霜柱が立っているのに行き当たります。

 そんなわけでホッと一息つけるのもつかの間、来年度の授業の準備に取り掛かりました。この四月から、不静定構造を教授する「建築構造力学3」の担当に復帰しますので、そのための詳細な授業内容を詰め始めました。以前にこの授業をやっていた時の講義ノートはありますので、基本的にはそれを踏襲します。ただ、一回ずつの講義内容を見直すと、検討不足の項目がいろいろと出てきます。そこで、古いノートに新しいメモ書きや新規内容を書き足しているところです。それにともなって、新しい例題なども作っています。

 授業のスタイルは講義を70分したあとに演習問題を20分で解く、というふうに新しくします。すなわち毎回、演習問題を出題することになりますが、それを一枚づつ採点するかどうか、いま迷っています。1年生の「建築構造力学1」では毎回、演習を採点しコメントを付して返却していますが、同じことを同じ時期にもうひとつの科目でやるのは、相当な負担です。前期には学部授業、大学院授業ともに二科目ずつあるので、ただでさえ結構大変なんですよね〜(なんてことを言うと、近畿大学の岸本一蔵教授に叱られるのでやめますけど、ガハハっ)。

 「建築構造力学1」ではここ数年、四月にキャンパス探訪を実施して、新入生諸君に建築的な素養を身につけるきっかけを作るガイダンスをやっていました。これは構造力学とは何の関係もありませんが、建築学科に入った学生諸君への純粋なサービスのつもりでした。ところが、授業評価の自由記述欄に「キャンパス探訪は不要です」という意見が書かれていたのです。もちろん、キャンパス探訪は楽しくて役に立った、という意見も複数ありました。でも、不要という学生さんがいるのであれば、貴重な90分を使ってやることもないかなと思い始めました。

 というわけで、来年度はキャンパス探訪は取りやめにして、その代わりに「建築構造力学をなぜ学ぶのか?」というイントロダクションの講義を一回することにします。建築のけの字も知らない新入生に構造力学なんて言っても分からないでしょう。そのことは重々承知しているので、今までは「建築構造を学ぶ意義」というA4一枚のペーパーを配布して、口頭で10分程度の説明をしてきました。

 でも、それでは不十分かと思い始めたので、今度は一回分の講義をまるまるその説明に当てることにして、そのためのパワーポイントを作り始めました。例によってコンテンツの作成には手間暇がかかるので、今の時期だからこそできる作業だなあと思いながら、取り組んでいます。高校の出前講義で説明している運動方程式(二階の微分方程式)を説明するつもりですが、新入生がどの程度理解できるか、楽しみだなあ。

 このように長年(?)慣れ親しんだ講義でも、常に改善は続きます。とは言え、そんなに考えて準備しても、学生諸君の反応にはがっかりさせられることが多いのですが(まさに“とほほ”ですけど,,,)、今の時期は理想を高く掲げて夢見ている、っていう感じでしょうか。


 瑞穂町へゆく (2019年2月14日)

 久しぶりに東京都瑞穂町へ行って来ました。瑞穂町は横田基地がある町ですが、どういうわけか福生市が圧倒的に有名です。八王子からはJR八高線に乗って行きますが、この電車が一時間に二本しかないローカル電車で、距離はそんなに遠くないのに所要時間は結構かかります。

 瑞穂町役場の庁舎の新築工事が始まっていますが、今回は免震ゴムや転がり支承の設置状況を拝見しに行きました。設計は安井建築設計事務所、施工は大日本土木です。建物は鉄筋コンクリート構造5階建ての柱梁骨組構造で耐震壁はありません。大スパンの梁には現場打ちのプレストレスト・コンクリート(PC)構造を併用しています。庁舎のすぐ脇を立川断層が通っているという想定のもとで、基礎免震が採用されました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:瑞穂町庁舎建設2019:免震装置設置_20190213:IMG_0319.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:瑞穂町庁舎建設2019:免震装置設置_20190213:IMG_0330.JPG

 久しぶりにコンクリートを現場で打設する工法を見学しましたが、型枠の製作と設置や現場での配筋作業など、人手はかかっているなあという印象でしたね。工場であらかじめ鉄筋コンクリート部材を作っておいて現場で組み立てる(プレキャスト)工法とのコスト比較は当然された結果として、現場打ちが選択されたことと思います。

 現場では鉄筋カゴを地組したり、鉄筋を運んでハッカーで緊結したり,,,と、懐かしい光景が展開されていました。タワー・クレーンを二基使っているのも目を引きましたね。なかなかリッチな現場だな、という感じです。大日本土木の社員も七名が常駐していると伺いました。それだけ現場管理が行き届くわけですから、歓迎すべきことだと思います。

 こんな感じで免震層が出来上がると、そこから上の上部構造の建設は一気に進みます。次はPC梁の作製のときにまた現場見学させていただこうと思っています。その頃には免震ダンパーも納入されて設置済みでしょうからね。カヤバの事件があったので心配でしたが、ダンパーは予定通りに納品されるようでよかったです。現場見学の機会を作ってくださった田辺さん、大井さんをはじめとする瑞穂町役場の皆さんにはあつく御礼申し上げます。


感知する (2019年2月12日)

 寒い日が続いていますが、今日の午前中は薄日が差して陽の温もりを感じました。春に向かって暖かくなるのはとても嬉しいのですが、今日あたりから花粉が飛び始めたのを自身のセンサーで感知しました。なんだか目がしょぼしょぼするし、鼻もムズムズするんですね〜。花粉かなあと思ったら、夜のニュースでそう言っていました。いやな時節の到来です。それにはやっぱり気が滅入ります。約二ヶ月の辛抱なのですが、一年の1/6かと思うとバカになりませんな。

 あらかじめ予防薬を飲む等の防衛策をとれば良いのでしょうが、迂生は何にせよ薬と名の付くものは嫌いでして、自身の生命力で治すこと(すなわち自然治癒)を信条としています。花粉のせいで頭がボーッとして何も考えられなくなることはありますし、日常生活がつらいということもありますが、生命を維持してゆく上では支障はないとも言えるでしょう。なんにつけ自然には逆らえませんから諦めますが、杉花粉の飛散を抑制することは現代の知恵で可能なのではなかろうか,,,とは思いますけど、どうなんでしょうか。


アクティブ・ラーニングへのうたがひ (2019年2月10日/11日)

 アクティブ・ラーニング(AL)が教育の現場を席巻してからだいぶ経ちます。ALは大学改革を具体化するための特効薬であるとして(例の如く)お上から降ってきたわけですが、そもそもは中央教育審議会が2012年に出した答申に「能動的学修(アクティブ・ラーニング)への転換が必要」と書かれていたことにその源流があるようです。

 このページでも折に触れてALのことを書いています。学生諸君の理解が進み、能力向上に役立つのであればそれは取り入れる価値があるとわたくしも考え、様々な書籍を読み、セミナーにも参加してきました。多くの先生方の実践例やときには失敗談を聞くにつけて、確かに有効な授業手法もあるのだろうことは分かりました。しかし、自身で考え、いろいろと試してみた結果として、そういう授業は果たして有益なのか、あるいは学生諸君が本当に望んでいることなのか、という疑問が最近、沸々と湧き上がって参りました。

 例えば、授業中に学生諸君と教員とのあいだに活発なやり取りがあれば(「双方向の授業」って呼ぶそうです)、授業が活性化したように見えます。教員の問いに学生が答え、それに他の学生がコメントして議論が続いてゆく…、というような具合です。しかしそういう授業をすることによって本当に学生諸君の能力が向上するのでしょうか。あるいは理解が深まるのでしょうか。授業が終わった後で、あの授業楽しかったねといった感想は抱いても、それから先に思索が進むことはなくて、授業時間内だけで完結してしまうような、うわべだけの知識にとどまるということは大いにありそうです。でも、授業はパフォーマンスでもなければショーでもありませんから、学生さんを楽しませる必要は別にないわけです。

 建築学科では建築設計の課題がまさにALの王道を行きます(これは別に今に始まったことではなく、迂生が学生だった頃と全く変わりません)。しかし最近では教員と学生とのあいだで議論しようって言っても、学生のほうがエスキスに出席しないとか、作品を提出しないということが頻出するようになりました。卒論や修論のための研究室ゼミナールも究極のALだろうと考えますが、教員が一方的に喋っているのを学生諸君は他人事のようにただ座って聞いているだけで、積極的に資料を提出する学生も減っています。では、これって、われわれ教員のドライブの仕方が悪いせいなのでしょうか。いいや、そうではないと最近思うようになったんですねえ。

 その底流には、他人から意見されたり批評されることを極度に嫌う性向を持った若者が増えていることがあるような気がします。それは、自分勝手で他者の言うことには耳を貸さず、自身に心地よいことだけを無意識に選択して指向する、ということの裏返しです。豊かな時代になって、貪欲に何かを身につけなければ生きてゆけないという時代ではなくなった現在、なぜ苦行のような勉学に身を晒さねばならないのか、何のために大学で学ぶのか、なぜ多様な考え方を知らなければならないのか、そのような基本的な認識すら意識していない学生諸氏が多いように感じます。

 この現状分析が正しいとすれば、残念ながらALなどやっても無駄、ということになります。いくら大学サイドがお膳立てしても当の学生諸君にその気がなければ、まさに笛吹けど踊らず、ということになりますよね。そういう若者を教育して即戦力(=有能な経済戦士)として世に送り出せ、という要望が経済界からの大きな声として叫ばれています。それが大学改革の大いなる圧力になっているのは周知の事実でしょう。

 しかし、そのことを大学に要請すること自体がお門違いも甚だしいのです。なぜならそういう時代を作ってきたのは日本の社会(もっと正確に言えば、経済至上主義を標榜する階層の人たち)であって、その責を大学だけに負わせるのは理不尽かつ不合理であるからです。大学さえ改革すれば経済が活性化されて経済成長を再び実現できるとするのは、そういう認識不足の人たちによる単なる幻想に過ぎません…。

 以上の考察の帰結として、わたくしは今まで通りに分かり易い授業を心がけ、一人でも多くの学生諸君に理解してもらえるように学問を教授しようと思います。でもそのために、何か奇をてらった授業方法(お上はそれをALと呼ぶのでしょうが,,,)を模索することはもうやめにしようと思います。学問に王道なし、です。やる気のないひとをその気にさせることはもはや迂生の務めではありません。学びたいと心底思う若者を対象に据えて、真の意味でのアクティブ・ラーニングを実践してゆきましょう。そのための努力はこれを惜しむことなく、これまで同様に続けて参る所存です。


ある断絶 (2019年2月8日)

 きのうはあんなに暖かだったのに、今日はべらぼうに寒いですね。外を歩くだけで体の芯に沁み入るような寒気に震えております。八王子がまた一段と寒い地域なのでひとしおです。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC平面十字形実験2018_胡文靖:試験体H1:IMG_1358.JPG

 さてM2の胡文靖さんを主担当者とする実験の一体めの加力が、昨晩やっと終わりました。試験体を実験棟に搬入してから約二ヶ月が過ぎようとしています。ツラツラ考えるに、載荷実験がこんなに難航したことは今までになかったのではないかと思います。その最大の要因は、研究室に伝わって来た実験のノウハウがここにきて断絶してしまったことでしょう。実験上の細かいノウハウは後輩が先輩から直接聞き、教えてもらうことが重要です。剣術の免許皆伝じゃありませんが、細々とした(でも、とても大切な)事柄は実地で手取り足取りして口伝しないと分かりませんし、身につきません。

 そのような伝承が途切れたであろうことは薄々気付いていたので、今回、実験準備のための詳細なチェック・リストを作って実験担当者に渡しました(そんなものを迂生が作ったのは今回が初めてです)。しかし、それでもダメでした。そもそもそこに書いてあることが何なのか、なぜそれを実行しないといけないのか、ということ自体が理解できなかったみたいです。そこで結局、わたくしがひとつずつ実地に説明し、やって見せ、教えないといけない、ということになったのです。

 でも、初めて実験するひとにとっては何も知らなくて当然です。だからこそ、研究室内での技術の伝承は重要なんですねえ。まあ、今回の苦労の体験によって胡文靖さんがノウハウのだいたいを体得してくれたと思っています(そう信じたい…)。胡文靖さんの試験体はあと一体ですが、そのあとM1の藤間淳さんが実験するし、さらに来年度も科研費の実験が予定されています。一度起こった断絶を埋めるのは容易ではありませんが、ここで立て直せればまたしばらくは実験を続けられそうな気もします。研究室の学生諸君にはぜひこの点を理解して実験のノウハウ等を伝承するようにして欲しいと願います。


卒業設計の採点2019 (2019年2月7日 その2)

 昨年のこのページを見たら、卒業設計の採点の際に作者の学生諸君と議論しないで採点しようとしたのに、結局、議論しちゃって採点に三時間半かかったとボヤいていました。そこで今年こそ絶対に議論しないで、張り出された図面と模型だけ見て、ありのままを採点することを自分自身に課して採点に臨みました。そしたら…

 なんと一時間弱で採点が終わったじゃありませんか! ちなみに今年度の卒業設計履修者は22名で、昨年度の23名とほぼ同じです。学生さんと話しをすると図面に書いてないことまで口で“設計”しちゃうので、予断を持った採点にならざるを得ません。それを避けることができて、なおかつ時間も短縮できて、こりゃあよかったっていう感じですな。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU卒業設計発表会20190207:IMG_0311.JPG

 で、今年度の総括ですが、これはという作品は少なくて(迂生がいいねと思ったのはわずかに一作品だけでした)、中位以下の作品が団子状態で並んでいた、というのが全体的な感想です。図面の枚数が少ないのは相変わらずですが、図面が不完全でなにを設計したいのか分からないひともかなりいましたので、そのあたりはスケジュールを睨みながらきっちり仕上げて欲しいなと思います。

 ということで採点が予想外に早く終わったので、これから大型構造物実験棟に行って実験の具合を見ようと思います、そろそろ変形が大きくなって想定外の破壊が怖いので…。しかし、卒業設計の採点のときに実験しているっていうのは、わたくしの記憶にはありません。おっと、大昔、自分自身が卒論生だったときには、自身の実験(田才晃師匠のエポキシ補修の研究)が終わってなかったことを思い出しました。そういうわけで例の如く因果は巡る糸車、ということかな、あははっ。

追伸; 実験棟に行ったら、層間変形角3%の繰り返し載荷をやっていましたが、案に相違して柱梁接合部パネルの損傷が顕著になってきました。典型的な接合部降伏破壊の様相ですぞ。梁部材の性能、それも修復限界状態から安全限界状態の性能を評価するための研究なのに、これって一体どうするの?っていうところで、これからの展開が気がかりです…。


わが身に照らせば 北方領土異聞 (2019年2月7日)

 きょう2月7日は北方領土の日だそうです。わたくしは国粋主義者でもなければ、愛国者でもありません。日本は特別だ、みたいな言説に与することは決してありません。しかし北方領土については、これは日本固有の領土であると考えます。中世から第二次世界大戦終結に至る長い歴史を見ても、千島列島が日本の領土であったことに疑いはありません。

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    図 北方四島(政府広報より)

 それにもかかわらず、1945年8月15日の日本敗戦の直前に、ソビエト連邦は突然日本に宣戦布告しました。ソ連は満州国(中国北東部に日本軍部が建国した傀儡国家)に攻め入るとともに、戦争が終結した15日以降に千島列島に侵攻したのです。それは敗戦直後のどさくさに紛れた、まさに理不尽な行為そのものであり、ソビエト連邦という国家によってなされた大いなる犯罪であると迂生は認識しています。ソ連は中立を守るだろうと思っていた日本の指導層の認識が甘かったことは確かですが、それを差し引いても余りある暴挙でしょう。

 いま、日本国の首相とロシアの大統領とが領土問題の交渉を加速させるとか言っていますが、ソ連じゃなかったロシアが北方領土を日本に返還するはずがありません。彼らは確信犯なのですから、いくら論理を尽くして説明しても負け犬の遠吠えくらいにしか思っていないはずです。

 日本ができることは、ソ連(現ロシア)のこのような非道な行いを世界中に知らしめて、国際世論を味方につけることでロシアに圧力をかけることでしょう。しかし、実は日本も脛に傷持つ身なので、そんなことをするとかつて日本に占領された歴史を持つアジア諸国から猛烈なブーイングを浴びるのは必定です。

 日本とロシアとのあいだには平和条約は結ばれておらず、未だに戦後は続いているわけです。しかしそれは何もロシアとの関係だけではなくて、アジア諸国とのあいだにも深い断絶があることを知らしめます(例えば中国や韓国との現在の関係を見れば分かりますね)。結局のところ、これら全ては日本があの戦争(一般的には大東亜戦争とか太平洋戦争とか言われます)についての総括と反省とを欠いたままに現在に至ったことの帰結と考えてよいでしょう。すなわち身から出た錆び、ということです。悲しいけれどこれが現実ではないでしょうか。

 この状態が続く限り北方領土は帰ってこない、というのがわたくしの結論です。


志向の変化か? (2019年2月5日)

 昨日、卒論の発表会が終わりました。四年生たちの発表を聞いていて、しっかりと研究してその成果を発表した学生と、そうではなくて明らかにやっつけ仕事として義務的に発表した学生とが明瞭に分かれました(これはわたくしひとりの感想ではなく、他の先生方も同様に感じたみたいでした)。こんなに明確に区別できるようになったのは、我が学科ではここ数年のことのように思われます。

 卒論は必修ではありませんが、4年前期の「特別研究ゼミナール2」と通年の「特別研究」とを合わせると8単位にもなるため、ほとんど全ての学生諸君が履修します。どこかの研究室に所属して活動するということに魅力を感じているのかも知れません。しかし明らかに研究する気のないひとに8単位も賦与してよろしいのか、はなはだ疑問ですな。

 研究したくないというひとが研究室に入っても、それは本人にとっても指導教員にとってもお互いに不幸なことであると断言できます。このような状況が続くようであれば、履修規則としての何らかの対策が必要になるだろうと考えます。

 さらに言えば、同じことが大学院生についても散見されるようになりました。これは我が社について言えばここ5、6年のことでしょうか。確かに構造系の色々な勉強をして単位を揃えれば大学院博士前期課程を修了できます。しかし少なくとも我が社では、学生諸君が先端研究に取り組み、自身で設定した課題を自分で考えて解決するという一連の作業を経験することが重要と考えています。

 ですから、研究したくないという方は我が社では受け入れられません。このことを広く宣言するために、「研究室入室・大学院進学をお考えのかたへ」のページに最近、赤字で追記しました。そんな高飛車なことを言う教員のところには行かないよ、ということであればそれで結構です。とにかく研究をやる気のある、溌剌とした若者に研究室の門を叩いて欲しいと切望しているんですから…。


背中のいちょう (2019年1月31日/2月2日)

 作家の橋本治さんが七十歳を一期としてこの世を去りました。駒場祭のキャッチ・コピーとして彼が作った、

  とめてくれるな、おっかさん
  背中のいちょうが泣いている
  男東大どこへゆく

 は、迂生が駒場キャンパスを徘徊していた頃でも、まだ余韻冷めやらぬかのごとくにキャンパスに漂っていたように思います。でもやっぱり橋本氏の作品としては『桃尻娘』シリーズが鮮烈な印象を残しましたね。わたくしもそのシリーズは単行本を買って全て読んだ記憶があります。醒ヶ井涼子、覚えてますよ〜。

 建築学科に進学した頃(1980年代の始め)、まだ百人町のアパートに住んでいましたが、友人たちがわたくしの部屋で徹マン(徹夜麻雀の略ですが、今じゃもう死語かな?)したことがありました。そのときのメンツが誰だったか憶えてないのですが、麻雀をやらない日色真帆くん(現在は建築家)が「北山〜、こんなモン読んでるのかよ〜」とか言いながら、本棚にあった『桃尻娘』をソファに座って一心不乱に読んでいたことをどういうわけか鮮明に覚えています。

 1990年代の前半に、今度は源氏物語の現代語訳である『窯変源氏物語』を読み続けました。広大な源氏物語の世界を原文で読むのは大変ですから、橋本訳で知識を得ようと思ったのです。そのお陰で日本人のフォークロアとしての「源氏」を曲がりなりにも理解できました。建築学の魅力を高校生たちに講義する際、源氏物語絵巻に描かれている寝殿造の建築造作を説明しますが、そういったときに『窯変源氏物語』から得た知識は今でも役立っています。「源氏」は日本人としての嗜みと言うべきものだと思いますよ、やっぱり。

 

 その後、『双調平家物語』も読み始めましたが、四冊ほど読んだところで頓挫してしまい、今に至ります。ふざけたものも真面目なものも硬軟取り揃えた作品を発表し続けた橋本治さんですが、やっぱり一流の作家だったと思います。背中のいちょうを背負ったまま去って行った彼に、おっかさんはさぞお嘆きのことと拝察します。合掌,,,。

 もうおひとかた、ポップス歌手のJames Ingramが一月末に亡くなったそうです(享年六十六歳)。わたくしにとって彼は上質なAORの歌い手という印象で、iPodに常備してよく聴いています。リンダ・ロンシュタットとのデュエット(Somewhere Out There)が映画の主題歌にもなって有名みたいですが、わたくしが一番好きなのは「One Hundred Ways」かな。ちょっとモータウン風で軽快な中にも、一抹の寂しさがピリッと織り込まれている、そんな曲ですね。代表曲とされる「Just Once」はもちろん名曲だと思います。

 James Ingramには、クインシー・ジョーンズの秘蔵っ子という枕言葉が必ずついて回りました。もちろんそれは彼にとって幸運だったのですが、年を経るに連れてそのことが彼にとって果たして良かったのかどうか…。親の光じゃないですが、最後までクインシー・ジョーンズの傘の下から出られなかったということになりますので、それは彼にとって本意ではなかったのではないか。

 わたくしが聞き親しんだ歌い手たちが、次々と世を去って行きます。時は誰にでも平等にやって来ます。自身が歳をとるということは他人にとっても同じです。それを思えば順番に彼岸へと渡ってゆくのも当然といえば当然です。それでもその寂しさ、悲しみはどうしようもありませんねえ。

 


重なる (2019年1月29日)

 一月もそろそろ終わりですが、今年の一月は寒かったというのが第一印象ですね。我が家の空調の電気代は四年前とほぼ同水準で、昨年よりは大幅にアップしていました。逆に言えば昨年の一月はそれほど寒くなかった?ってことかな…。

 この一月はいろいろな論文等の査読が重なったことにも驚きます。具体的には日米のコンクリート工学会と日本建築学会です。また某協会の博士論文賞の審査も依頼されて、博士論文も読まないといけません。ときどき書きますが、アメリカのコンクリート工学会(American Concrete Institute)のジャーナルの査読はひと使いが荒いので辟易とすることが多いのですが、まあ、二回に一回は引き受けるようにしています。

 今回は自身が論文を書いたり、風邪を引いたりしていたので、ACIの査読終了期間(たったの一ヶ月!)を過ぎても査読が終わりませんでした。そうしたらもう矢のような催促が来るんですよ。以前に晋沂雄さんがACI Journal に論文を投稿したときには三ヶ月経っても査読結果が来ませんでしたから、ここの査読はのんびりしているものと思っていたのに、どうやらそうではなかったみたいです、あははっ。

 ひとさまの論文を査読してそのレベルを評価したり、疑問点を指摘したりすることは、今となってはもう完全なボランティアに過ぎません。こんな(訳の分からん)論文を書いちゃダメだよね、などと迂生が思ったところで何の益もなく、むしろ若い研究者にこそ、そういうことを理解して教訓として欲しいと切望するのですが、なんとかならないものでしょうかねえ…。

 もちろん論文査読は自身の意思で引き受けるものなので、逆に断ることもできるわけです。文句を言うくらいだったら断れば良いのですが、そうすると困るひとも確実に出てくるので、そのことを想像すると拒否もなかなかできません(気が弱いわたくしでございます)。

 ですからもう暫くは査読も引き受けようと思いますが、その量はだんだんと減らしてゆきたいと思料します。そのようにゆるゆると世代交代をなし得ればいいかなと思っています。

 ところでACIの査読ですが、その内容は日本では既に結構な量の研究がなされているRC柱のせん断抵抗機構に関する研究でした。わたくし自身、二十年ほど前に類似したテーマの解析研究を発表しています。ところが(迂生の研究もそうですが)日本での研究は大多数が日本語で発表されるだけなので、世界にはほとんど知られません。日本語が理解できない限り、引用もされないことになります。このことは世界の耐震構造研究にとっては不幸なこととしか言いようがありません。

 自分たちの研究がいかに素晴らしいか日本語で叫んだところで、世界では相手にされないからです。二重投稿の問題がありますので軽々には言えませんが、日本語で書いた論文にさらに検討を追加する等、価値を付加して英語で論文を書くようにできれば、世界中に日本の研究の独創性や先進性を知ってもらえると思うのですが、なかなかハードルは高いですねえ。


海老名にゆく (2019年1月28日)

 一月中旬に久しぶりに海老名[えびな]に行きました(まだ風邪を引く前の話しです)。昨年から共同研究している三井住友建設の現場見学です。部分高強度化鉄筋(これは(株)ネツレンが開発した鉄筋)を用いた新しい工法の開発のお手伝いを岸田慎司研究室と一緒にやっていますが、今回はその新工法を使って作っている現場を拝見しようという趣旨です。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:三井住友建設現場見学_ダブルスターク_海老名20190116:IMG_0310.JPG

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:三井住友建設現場見学_ダブルスターク_海老名20190116:IMG_0305.JPG

 対象建物は31階建ての集合住宅(一般にはマンションって呼ばれますな)で、基礎下には免震構造を、上部構造には上述の新工法(タブルスターク工法と名付けたそうです)を採用しています。耐震壁はなく、柱および梁から成る純フレーム構造です。柱および梁部材には工場で作製した鉄筋コンクリート造プレキャスト製品を使っており、それらの部品を現場で組み立てるので工期の短縮、省力化および現場の静謐化が可能になります。床スラブの厚さは結構厚くて(近頃の高級マンションにありがちですが)310mmもあります。もちろん耐震性能の向上には軽量化が必須ですので、内部に空隙のあるボイド・スラブが使われています。

 見学のときには17階まで出来上がっていました。プレキャスト工法なので現場でのコンクリート打設はスラブのトップコンくらいしかないため、コンパネ(型枠材のこと)や大工さんは見かけませんでした。そのせいでしょうか、驚くほど現場が綺麗でしたね。この現場では建物の1層が立ち上がるのにわずか4日の工程という事でした。ということは約4ヶ月で31階まで出来上がります、いやあ、ものすごい速さだと感激を新たにしました。

 これらの工程を伺うと、分単位の計画になっていることが分かりました。律速段階は二基あるタワークレーンの稼働状況のようでした。鉄筋コンクリートの柱梁部材や床スラブをクレーンで吊って建設段階の最上部まで運んでセッティングする必要があるからです。そのためには非常に精緻なすり合わせが必要で、こんなに複雑で入り組んだ(ある意味、パズルを解くような)計画を立てるのは並大抵なことではないと思いましたね。やっぱりプロはすごいです。

 現場見学では所長の川合保徳さんから終始案内や説明をいただき、建築本部の小田稔さんおよび松井幸一郎さんにご同道いただきました。お忙しい中、現場見学にご対応いただいた三井住友建設の皆さまにあつく御礼申し上げます。大学で実験した成果が実際に使われるのを自分の目で見ることは、わたくしのような研究者だけでなく学生諸君にとっても有益なことだと思います。そのような貴重な機会を設けていただき、とても良かったと思っています。

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 ところで冒頭に久しぶりに海老名に来た、と書きました。実は最初に海老名を訪れたのも現場見学会のときだったのです。それは2004年のことでしたが、鹿島建設技研(当時)の丸田誠さんや永井覚さんと共同研究していたプレキャスト・プレストレスト・コンクリート(PCaPC)構造を実際に使うというので、海老名駅前に建設中だった集合住宅を見に行ったのでした。それが下の写真の中央に建つツイン・タワーの白い建物です。ちなみにこの建物も免震構造でした。

 2004年のこのときには岸田慎司先生はまだ我が社の助手でしたし、丸田さんも永井さんも今ではもう鹿島にはいませんから(でも、この二人は相変わらず一緒にいるっていうのはどういうこと?あははっ)、随分と時が経ったものだなあという感慨を新たにしました。

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 その海老名ですが、小田急線、相鉄線およびJR相模線が交差する結構大きな街のようでした。今回の三井住友建設の現場は駅から歩いて3分という便利な場所ですが、もともとは小田急線の操車場だったそうです。2004年の鹿島と同様に、今回の三井住友建設の建物も完成するときにはツイン・タワーになります(見学した建物のすぐ隣に次の建物の基礎が姿を現していました)。そのときに合わせて小田急ではロマンス・カーを海老名駅に停車させる計画らしく、今回の新規開発に並並ならぬ思い入れを持っていることが読み取れますね。

 東急のニコタマ(二子玉川)や、たまプラ(たまプラーザ)あるいは青葉台に対抗するような一大住宅拠点を小田急沿線にも作ろうっていうことでしょうか。ちなみに小田急の最大拠点は新百合ヶ丘か成城学園あたりかなあ、知らないけど…。ただ、これから益々人口が減ってゆく日本において、どの程度の人たちが集まってくるのか、ちょっと疑問な感じもします。東急田園都市線の沿線が急激に発展したのは、それが日本の高度成長と一緒だったからこそ可能であったと迂生は思っています。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:三井住友建設現場見学_ダブルスターク_海老名20190116:IMG_0304.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:三井住友建設現場見学_ダブルスターク_海老名20190116:IMG_0308.JPG

 そうは言っても、平日の昼間だというのに海老名駅周辺の人出には驚きましたな。右上の写真はJR駅と小田急・相鉄の駅とを結ぶペデストリアン・デッキですが、人がゾロゾロ歩いていて、この人たちはどこから来てどこへ行くんだろうかと訝しいくらいでした。

 海老名の話しはまだ続きます。海老名には「いずみ橋」という銘柄の日本酒の酒蔵があります。自分たち自身で酒米を作ったりしている、結構こだわりのある酒蔵と聞いています。わたくしは飲んだことはないのですが、今回、現場への差し入れにその純米酒の一升瓶を駅前の丸井で購入しました。自分用に300mlの小瓶も買いましたが、辛口のお酒ということであんまり好みじゃないかも…。ちなみに「いずみ橋」は南大沢の大学の目の前にあるスーパー・マーケットで(どういうわけか獺祭なんかと一緒に)売っているので、いつでも買えるわなという感じで、これまで買ったことがありませんでした。

 最後に、海老名は神奈川県中部にある市です。東名高速道路を東京から下ってくると最初にある大きなサービス・エリアが海老名で、ここで休むひとは多いと思います。また、東名道と圏央道とのジャンクションが海老名に設けられたことから、厚木から海老名あたりは渋滞が多いというイメージがありますね。小田急線に乗れば新宿に出られるし、相鉄線に乗れば横浜に出ることができます。それを考えるとここは交通の要衝ということができ、思ったよりも暮らしやすいところかも知れません。ちなみに我が家のあるK市から海老名駅までは約30分の乗車でした。


情けない週末 (2019年1月23日)

 数年ぶりの大風邪を引きまして、数日間臥せっていました。間の悪いときってあるものですね。家内が不在の上に、子供は遠くに模試を受けに行くとかで会場まで連れて行くように言われたのですが、高熱で頭が朦朧としていてとても無理です。子供にテキトーにご飯を食べてって言ったらホントーにそうしたらしく、焦げ付いたフライパンとか油まみれの食器とかが乱雑にシンクに突っ込まれて、小山のようになっていました。おいおい、勘弁してくれよって思いながら、フラフラとしながら洗い物をしていました。

 考えてみると正月休みもその後の連休もなく文章を修正したり、論文を書いたりしてきました。先週後半にはM2胡文靖くんの試験体にパンタグラフ(平行維持装置)を取り付ける作業をしました。前任者がやる実験の様子をよく見ておけとあれだけ言ったにもかかわらず、変位計の設置状況を視察に行った際にパンタグラフを取り付けていないことに気が付きました。あちゃ〜、あなた今まで何を見てたの?って言ったところで後の祭です,,,。

 試験体の高さが前任者とは変更になったので、パンタグラフの位置も上にする必要がありました。こう書くとたったそれだけの作業なのですが、なにせ迂生を始めとして全員が作業初心者なのですから、その作業は難航を極め、結局六時間近くを費やしました。久しぶりに脚立に登って、スパナとかレンチを振って作業をしました。

 その作業をしていて、以前に千葉工業大学の石橋一彦先生(小谷俊介先生の同級生)のところに実験を見に行ったときを思い出しました。そのときの石橋先生は多分、今の迂生くらいのご年齢だったように思いますが、大汗をかきながら御自らボルトを締めたり等の作業をなさっていたのです。「こうやってやるんだよ、って学生に見せないとダメなんだよね〜」って。そんな歳になってまで自分で作業をするのは大変だろうなあとえらく感心したのですが(だって小谷先生がそんな肉体労働をすることは皆無だったので)、まさか自分自身が同じことをするとは思いませんでしたな、あははっ。

 しかし石橋先生のおっしゃるとおりでして、全てが初めての(って、前任者の手伝いを真剣にやっていれば全て身につくはずなのですが,,,)学生諸君には言葉で言っても分からないんですねえ。仕方ないから自分でやることに相成ります。まあ、怪我もなく無事に作業が終わったのは良かったのですが、体中が痛くなりましたな。

 その帰りの南大沢駅でやたらと背筋が寒いし、寝るときも体の節々が痛いなあと思ったのですが、翌朝目覚めると…、なんと風邪をひいていました。熱が高いので、数日間はやたらと気分の悪い夢ばかり見ます。今回は何が書いてあるかわからない文章が脳みそをグチャグチャにかき回して行きましたな。幾ら読んでも何が書いてあるんだか分からない意味不明な文章の羅列…、いやあ気分最悪とはこのことか。ここまでくれば、こりゃもう立派な職業病でっせ、旦那…(って、誰に向かって書いてるんだろう)。

 さてわが学科・学域の卒論・修論の梗概締め切りが週明け早々にセットされていました。その梗概の原稿がポツポツとメール添付で送られてきたのですが、高熱なのでそれらを見る気力も意思も消え失せていました(まあ、人間の生理現象として当然でしょうな)。そういう訳で今回は添削はできなかったのです。でも、それまでは元気だったのにそういう時には誰も原稿を見せに来なかったのだから、まあ仕方ないだろっていう感じでしたけどね,,,。


神戸から24年 (2019年1月17日)

 今日は24年前の午前5時46分に兵庫県南部地震が発生した日です。あの時の悲しかった出来事を忘れることはありません。我が国の建物の耐震性能は、大なり小なり地震による被害の教訓を得て発展してきました。しかしそのなかでも都市直下で発生した阪神・淡路大震災は非常に大きな代償を払わされた地震として特筆されます。

 

 写真は1995年1月27日(金曜日)の阪神・青木(おうぎ)駅から三宮方面へわずかに行ったところの光景です。迂生が神戸の被災地に入って最初に撮影したのがこの写真でした(当時はまだデジタル・カメラはありませんので、これはコンパクト・フィルムカメラで撮ったものです)。阪神電車が傾いたまま停まっています。線路脇を大勢の人たちが歩いています。大阪からの阪神電車は青木駅まで動いていて、その先はまだ不通だったことが分かります。どんよりと曇った寒い日でした…。

 2011年の東北地方太平洋沖地震の際には、わずか震度5弱だった東京で交通機関が麻痺して、わたくしも帰宅難民のひとりになったことは記憶に新しいですが、1995年の神戸のように震度7ともなると、かように甚大な被害が発生するのです。

 寺田寅彦ではありませんが、大地震は忘れたころにやって来ます。24年前の貴重な教訓を忘れることなく、日々の生活のみならず研究も行いたいと思います。それがこのときの震災で命をなくした人たちに対する、われわれの責務であると考えるからです。合掌,,,。


今年は出せた (2019年1月15日)

 ここのところ寒い日が続いてますね、まあ日本の冬なんだから当たり前ですけど,,,。大学のある八王子の気温は、同じように盆地にある甲府(山梨県ですゾ)よりも低いことがありますから、都内としては相当に寒いということになりそうです。実際、朝晩の通勤のときにキャンパスを歩くと、スキー場のような身を切る寒気が沁み渡ります。

 さて今日は日本コンクリート工学会の年次論文の締切り日です。昨年は論文を投稿できずに悔しい気分に浸りました(実働部隊の学生諸君ではなくて迂生が悔しがってどうするんだ、って思うんですけどねえ)。今年度は優秀な(?)M2が三人いるので大いに期待しました。いずれも面白そうな研究をしているので、モノになると良いなあと思ったのです。

 しかし建物の地震応答解析をしている二人は早々に脱落して、結局、李 梦丹さんひとりだけが提出しました。アンボンドPCaPCの柱梁接合部を対象として、接合部降伏破壊の力学モデルに基づいてその終局耐力を求める方法を提案する、という研究です。このテーマは以前の長寿命建築プロジェクトのときに鈴木大貴さんや晋 沂雄さんが取り組んだのですが、その時には結局まとめることはできませんでした。その問題に対してまがりなりにも回答を提示できたので、とても嬉しく思います。

 彼女が論文の第一稿を持ってきたのは年明けの1月8日でした。締切りまで残り一週間というタイミングです。それから頑張ってパラメトリック・スタディをしたりしながら論文をまとめたその頑張りは立派だったと褒めてあげたいですね。もちろんわたくしも今回はこの一編に注力できたので、この連休も登校して付きっ切りで議論したり、文章作成にいそしみました。こんなに頭を使ったのは相当に久しぶりのような気がします、ものすごく疲れましたから…(って、問題かな?)。

 でもこの時期になるといつも思うのですが、修士の二年間ではそれなりの研究成果を挙げられないひとが多いことです。今回投稿できなかった二人も研究内容は面白いし成果も上がりつつあったのですが、如何せん、この一月中旬には間に合いませんでした。もう一年あれば素晴らしい成果が得られるぞって言っても、皆さん既に就職が決まっているので、だ〜れもそうですねって賛成してはくれません、まあ当たり前か…。もったいないなあって思うんですよね。

 その帰結として、彼らが中途半端に残した研究課題を翌年また別の誰かが取り組んだりすることになります。でもそうすると、また一からやり直し(すなわちリセット)となってまたぞろ二年間が過ぎて行くことになります。なんとかならんのかなあ、と切実に思いますねえ。

 ちなみに今回は、明治大学で一家を構えた晋 沂雄先生も我が社で取り組んだ研究テーマで論文を投稿してくれました。こちらも力作なので李 梦丹さんの論文共々採択されることを願っています。とにかく新年早々ホッとできて良かったです。


好きなことして給料 (2019年1月7日)

 大昔の話しですが、わたくしが大学院博士課程を中退して宇都宮大学の助手になった頃のことです(境有紀さんのページを見ていて思い出しました、あははっ)。当時、材料研究室の助手だった橘高義典さんが「いやあ助手っていいと思わない? だって、好きな研究をやりながら給料も貰えるんだからさ〜」って言っていたことを事あるごとに思い出します。

 ええっ、何言ってるんだろう、このひとは…。だって、その当時はそんなことは全く思わなかったのですよ、わたくしは。むしろ大学院生として好き勝手に研究三昧の日々を11号館7階のソファで過ごすことが、どんなに楽しくて充実していたか、そんなことばかり考えてはその当時を羨んでいたものです。知的でモノの分かった先輩や後輩たちと専門分野に関する会話をフツーに交わせることが、どんなに貴重で贅沢な環境なのか思い知らされたのもその頃です。

 その頃は慣れない教育のお仕事に戸惑い、大学運営の諸々の雑用に憤懣やるかたない思いを抱いていました。だって朝方にキャンパスの正門前に立って出勤してくる人たちの車の誘導なんかをさせられていたのですから,,,。それって先端研究をやろうっていう人にやらせる仕事なのか、という怒りさえ覚えました。地方の零細大学ですから助手ながら教授会にも出ないといけません。それがまた、なんだかくだらない(としか当時の迂生には思えない)ことを延々と議論しているんですよ。なんでこんなところに座っているんだろう、おいらは…って思いましたね。

 確かに研究は好きですし、学生諸君と一緒に議論しながら研究を進めるのもわたくしの性に合っていると思っています。実際、教育活動をしなくてよい研究所に勤めることもできたはずですがそうしなかったのは、学生諸君の存在を好ましいものと認めて、共に活動することにやり甲斐を見出していたためと思います。

 でも今となっては、橘高さんの言ったことはその通りかも知れません。大学の教員となって数年後には、大学のお仕事(やりたくない雑用)はそれとして割り切って(要領よく)こなすことを覚えたのだと思いますね。もちろんそういうお仕事に対する諦念は心の奥深くに囲い込んだままに、ね。なによりも、好きな研究で給料を貰っていると思えば、それ以外のお仕事(雑用)も我慢できるようになったのだと思います。

 ちなみに橘高義典さん(コンクリート工学)とはその後、東京都立大学でも一緒になり、今も彼が主査を務める博士論文審査に副査として従事しています。大学に職を得た当座に鮮烈な一言を脳裏に刻みつけてくれたご本人と、いまだに一緒に研究を続けているのも何かの因縁かも知れません、ありがたや〜。


 仕事はじめ (2019年1月4日)

 暦では今日は金曜日なので仕事始めということになります。と言っても、当面のお仕事は原稿の通読と修正なので家でもできるのですが、まあ気分転換にもなるのでタラタラ歩いて登校しました。日差しも温かでしたしね…。

 読んでいるのは日本語の原稿なのですが、ひと様の書いた文章を読めば読むほど日本語って難しいと思いますね。長い文章になると主語と述語とが一致しないということがよく起こります。書いている本人がその時の思考のおもむくままに文章を構築すると、往々にしてそうなります。それでも、執筆者が何度も読み返して推敲してくれれば、そのような不整合は減ります。

 そのような長い文章は、そもそも一文が長すぎるということですので、二つとか三つとかに分割するようにしています。ただ、わたくし自身は長い文章がいけないとは思っていません。小説や論考ではよく練られた長い文章を読まされることがありますが、それは頭の訓練にもなりますし、それを読み解くのも大切なことだと考えるからです。短い文章ばかり読んでいると読解力が落ちて、思考自体が短絡的なものになるとはよく言われる事柄です。

 それに対して、新聞などは簡潔かつ要領の良い文章で構成されていますよね。学術書もそれに近いと思っています。そこでちょっと体裁は悪いですが、ブツブツとぶつ切りにされた文章になってゆくのは、ある程度仕方のないことかなと思います。複数の解釈の余地を無くして、分かりやすく理解できる文章にすること、それを心がけています。

 そんなことを言っても所詮は凡人の為せる業ですから、首尾一貫、徹頭徹尾などということは到底不可能でしょう。そういうわけで、やっぱりおのれの能力の範囲で職責を果たすしかない、といういつもの結論に立ち至ります。まっ、いいか。


お正月2019 (2019年1月3日)

 新しい年にあらたまりました。東京は三が日とも穏やかに晴れた良い日和でした。ただ我が家では元旦に家人が風邪をひいたため、どこかに出かけるでもなく、食材を買いにスーパー・マーケットに行き来しただけの侘しいお正月でした。

 十二月晦日に開けた日本酒(「みむろ杉」という奈良県の無濾過生原酒)ですが、約一年のあいだ床下収納で熟成させたのが仇となったのか、タクアンのような発酵臭がしてあまり気持ちが良くありませんでした。鼻を摘んで飲むってわけにもいきませんし、所詮はそれだけの造りをしていない酒蔵のお酒だったということで諦めましょうか…。

 昨年末から腐心している(建築学会から出版予定の)原稿の通読作業ですが、お正月もそれは続いています。こんなに仕事するお正月って、いつ以来かなあ。まあ自分自身で引き受けたお仕事ですからいいんですけどね…。でも、あの論文を読みたいと思ったら、ネット上を渉猟すればすぐに手に入る便利な世の中になったものだとしみじみ思います。自宅でパソコンの前に座っているだけで、世界と繋がっているのですから。二十年前には想像もしなった学術環境です(ホント、恵まれていると思いますよ)。

 今年も我が家の愚息は箱根駅伝を二日間、テレビの前でずーっと見ていました。赤の他人が走るのを見ていて何が面白いのか、迂生にはさっぱり分かりません。毎年書いていますが、実況中継するアナウンサーが勝手に作った「物語」を絶叫して、独りよがりの感動を生産しようとしていることに気がつかないのかなあ。ひと様の姿を見てぼーっと「感動」を押し付けられるよりも、自身で何かをすることによって何かを得たほうが遥かに有益です。

 昨年は良いことのなかった寂しい年でしたが、今年はなにか良いことがあるといいなと思っています。なんとなく暗い雰囲気で始まった2019年ですが、今年も宜しくお付き合いいただければ幸いでございます。



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