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 このページは北山の日々の雑感などを徒然なるままに綴るコーナーです。相当に勝手なことを書いていますが、どうか笑って許して下さい(あははっ、てな感じで)。今日からは2011年版を掲載します。例によって不定期更新ですが、宜しくご了承下さい(2011年1月4日)。


年の瀬小景 (2011年12月27日)

 明日28日から本学の計算機センターの都合でネットに接続できなくなるため、この更新が今年最後となります。なのでちょっと早いですが、閉めにかかります。

 我が社では明日の午後に研究室会議を予定しており、そこで年明け早々に締め切りが控えているJCI年次論文の草稿を議論する予定です。今年度の修士課程の学生さんは皆それぞれ発表可能な研究テーマを抱えているので(と私は考えていますが、本人たちは自覚しているかな)、なにがしかの成果を上げてくれることを期待しています。

 WPC研究に一緒に取り組んでいる高木研のM2二人(長谷川くんと下錦田くん)の論文草稿も昨日、拝見しました。研究室がどこであろうと、耐震構造に関係する興味深いテーマであれば誰でもWelcomeです。まあ未だに新しい疑問が湧き出たり、今頃どうしてこんなこと言うんだ、というようなこともあったりしますが、基本的には知的欲求をかき立てられて楽しいです。

 この二人に較べると明らかに我が社の学生諸君のほうが遅れているので、ここらで一気に加速して欲しいのですが、、、。こんな感じで年末は、論文作成に向けたホップ・ステップのための雌伏の時期として貴重で、そのために忙しい思いをしています。

 先日の朝、PS三菱の浜田公也部長が突然来訪され、お歳暮の清酒を届けて下さいました。浜田さんの故郷の『まぼろし』という、それこそ幻のようなお酒で、とっても美味しい大吟醸です。どうもありがとうございました。ちなみにこのお酒は青山研究室で同級生だった宇山徹くんもその当時、青研によく持ってきてくれて、ガブガブ飲んだものでした。ちなみに今はそんなことはなく、チビチビ大事に味わっています。

 年末年始にかけてエクストラの仕事をコース長の角田誠先生から依頼されました。今はその内容を書く訳にはいきませんが、そのうち報告できると思います。しかしコース長の仕事は大変ですな。やがてはこの職責が廻って来るかと思うと、ちょっとゾッとします。角田先生、ご苦労様でございます。ときどき書いていますが、私には他人さまを評価したり管理したりする仕事は向いていません。大学のマネジメント等に興味があって、かつ実力と人望とを兼ね備えたひとがそういう仕事はやるべきじゃないでしょうか。

 こんな感じで今年も暮れてゆきそうです。寒さが厳しいので、風邪などひかないように。我が家では大型の石油ファン・ヒーターが故障したまま、さらに寒い正月を迎えることになりました(とほほっ、リビングの今朝の室温は4度でした、これじゃ外と変わらないよーん)。今から春が待ち遠しいです。でも春になれば、私のサバティカルも終わってしまう、、、。痛し痒しですな。

 それでは皆さん、よいお年をお迎え下さい。また来年!


今年の本 ベスト3 (2011年12月26日)

 今年も年末恒例になった、読んだ本ベスト3を書いてみたいと思います。

 第一位は『新三河物語』(宮城谷昌光著、新潮文庫、2011年4月)です。江戸幕府開闢のころに、天下のご意見番といわれた大久保彦左衛門忠教が書いた「三河物語」を下敷きにしているのは言うまでもありません。

 徳川家康とともに歩んだ大久保一族の興亡を彦左衛門を中心として描いているものの、血なまぐさい出来事も著者独特の乾いた筆致によって淡々と綴られるのが印象的です。根っからの悪人、というような人物が登場しないことも特徴だと思います。『風は山河より』を読んだときと同じように、三河に降り注ぐ陽光のなかを爽やかな風が吹いてゆくような読後感を、この本からも得ることができました。

 第二位は『日本海軍400時間の証言 〜軍令部・参謀たちが語った敗戦〜』(NHKスペシャル取材班、新潮社、2011年7月)です。このページでも何度か触れた、「海軍反省会」のテープをNHKが手に入れたことに端を発したもので、彼ら海軍の高級将校たちにとっては組織の保全が最優先であり、天下国家のことは常にその下位に置かれたことが白日のもとになりました。まさに亡国の輩だったわけですが、このような海軍の組織のあり方は、そのまま現代の官僚組織にも当てはまるのが怖いところです。

 敗戦までのこの時代、結局は国民が一丸となって戦争に向かったことは事実でしょう。この当時のひとびとが好戦的な気分をエスカレートさせ、緒戦の戦勝に熱狂したように、国民が皆同じ方を向いてひとつのことに熱狂するのはとても危険なことです。雰囲気に飲まれ易い国民性ということもあるでしょうが、現代にも何となくそんな空気が流れているように思えてなりません。気をつけたいものですな。

 さてここまではすらすらと出てきたのですが、第三位はなかなか決まりません。結局、このページでも以前に触れた『プリンセス・トヨトミ』(万城目学著、文春文庫、2011年4月)と『メタルギアソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット』(伊藤計劃著、角川文庫、2010年3月)とを挙げておきます。両方とも読んで楽しい一大エンターテイメントですね。

 と、ここまで書いたところで、そろそろ飯嶋和一氏の新作が読みたくなってきました。最新作の『出星前夜』(小学館)が世に出たのが2008年8月なので、来年2012年にはそろそろ新作が出てもいい頃かなあなどと思ったりします。期待しています。


映画のはなし (2011年12月22日)

 映画監督・森田芳光さんの訃報が流れました。私は映画ファンという訳ではありませんが、大学生の頃には多少は映画に興味があって、彼の『家族ゲーム』という作品は映画館に見に行きました。松田優作の扮する家庭教師が主人公で、テーブルに横一線になって家族が食事する光景が鮮烈な印象を与えました。今でもよく憶えています。このシーンは相当に有名になったので、横一線になって何かすると、よく「家族ゲームみたいだな」と言ったりしたものです。それで結構通じました。

 何気ない日常の一コマが森田監督の優れた感性によって切り取られて映像化されると、何とも言えないおかしさとかペーソスとかが露わになったんでしょうね。それが彼の映画の特徴だったんだと思います。ご冥福をお祈りします。

 ちなみに今まで見てきた映画のなかで、今でも印象に残っているのはつぎのような作品です。

 ・『ベン・ハー』(チャールトン・ヘストン)
ローマ時代の戦車戦のスペクタクルが凄い。キリストの誕生との関わりが描かれているのもその時代背景ならでは。ウィリアム・ワイラー監督。

 ・『大脱走』(スティーブ・マックイーン)
スティーブ・マックイーンがオートバイで鉄条網を飛び越えてゆくシーンが圧巻。リチャード・アッテンボローらが扮する高級将校たちの末路が悲しい。大脱走のテーマ音楽は子供の頃によく聴いていた。

 ・『シャイニング』(ジャック・ニコルソン)
これでもかという恐怖の連続だが、ラストシーンで完全に凍り付いてしまう。双子の子供のシーンが印象に残っている。ちなみに監督はスタンリー・キューブリックである。

 ・『眼下の敵』(ロバート・ミッチャム/クルト・ユルゲンス)
戦争映画の傑作。ドイツのUボートとアメリカ駆逐艦との息詰まる頭脳戦を描いている。沈没するUボートに残る艦長を、米駆逐艦艦長であるロバート・ミッチャムがロープを投げて助けるシーンは何度見てもじーんと来る。初めて見たのは小学校低学年の頃、父親が見ていたテレビでだったか。

 日本映画ならば、『切腹』が断然トップですな。これは最近リメークされたようですが、そっちは見ていません。白黒ですが、竹光で切腹するシーンは本当に鬼気迫るものでした。復讐の鬼と化した仲代達矢の演技がすごいです。ちなみにこの作品の原作は滝口康彦の『異聞浪人記』という短編小説ですが、彼の時代小説はだいたい読みました。彼の『拝領妻始末』なんかもテレビ時代劇や映画になったと思います。

 大林宣彦監督の作品もたくさん見ましたね。その独特のカメラワークが好きでしたから。一番はやっぱり、若かりし頃の尾美としのりと小林聡美が出演した『転校生』でしょうかね。おっと言い忘れましたが、山田洋次監督の寅さんシリーズは大好きです。底抜けに笑えて、でもとっても悲しいのが寅さんです。

 風間杜夫が主演した『蒲田行進曲』(深作欣二監督)の「池田屋の階段落ちのシーン」もよく憶えています。学生さんのエスキースを見ていると、踊り場のない鉄砲階段をしょっちゅう目にします。そういうときには「こんな階段作ると、『池田屋の階段落ち』になっちゃうぞ」といって注意するのですが、例によって若い学生さんには通じませんな。この映画ももちろん知らないし、況や池田屋が新撰組の「池田屋事件」の現場であることおや、です。おっと、新撰組のはなしになるともう止まりませんから、このへんでやめておきます。


坂のうえ (2011年12月21日)

 NHKで放送されている、司馬遼太郎の『坂の上の雲』がいよいよ佳境に入ってきました。で、それに触発された訳でもないのですが、子供が例によって船を見たいというので、それなら横須賀に行ってみようか、ということになりました。私は横須賀に行ったことはありませんでした。

 で、行ったところ、軍艦『三笠』のなかでは東郷平八郎展をやっていました。いやあ、大きかったですね。1万トンを超える戦艦ですから当たり前でしょうけど。でも、『三笠』の至るところに「勇士戦死のところ」というプレートが貼られており、続けて「黄海海戦のときに、ここで誰某が戦死した」と書かれていました。やっぱりこれは「殺人機械」だったのだということをまざまざと認識しました。そのプレートに向かって、悲しい気持ちで合掌してきました。

Yokosuka01 Yokosuka02

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 そのあと、観音崎に新しくできた横須賀美術館に行ってみました。これは山本理顕さん設計の洒落た感じの建物でした。空間は美術館らしくシンプルで、それを支える白いフレームとガラスが建物の浮遊感を引き立てています。東京湾に面した緩やかな斜面に立地しており、とても眺めがよかったです。なんだか荒井由実の『海を見ていた午後』を彷彿とさせるようなロケーションでした(この曲は横浜の山の手が舞台でしたので、本当は違っていますが)。海の向こうには千葉県の富津まで見えました。最上階の展望台に無料の望遠鏡があって、子供が大喜びでした。

 この道中、ご飯を食べるために横須賀と辻堂に建っている大規模ショッピングモールに立ち寄りました。しかしもうもの凄いひとで、集まるところには集まるんだ、ということを改めて認識した次第です。いろんなお店や子供の遊び場(もちろん有料です。一時間遊ぶだけで千数百円かかりました)がちりばめられていて、いやがうえにも気分は高揚して、購買意欲がそそられるようにできています。これは儲かるでしょうね。

 明治時代の初めの頃に日本人が、坂の上にあると夢想した国家は、150年経ってこんな贅沢三昧の蕩尽の場となったのです。もちろん平和で豊かな、今の世に暮らすことができて、幸せなことは言うまでもありません。苦労された先輩方には感謝の念でいっぱいです。ただ、本当にこれが先人の望んだ未来だったのか、と考えさせられることもまた事実なのです。


研究室の忘年会2011
 (2011年12月19日)

 多分、忘年会のピークと思われる先週末の金曜日、北山研究室の忘年会を久しぶりに都心で開催しました。不景気で飲み屋の入りも悪いと言われているこの頃ですが、さすがに忘年会シーズン真っ盛りということで、賑わっていました。われわれもお時間ぴったりに出て行って下さ〜い、と言われてお店から追い出されました。

 都心での開催ということで、OBも何人か来てくれました。姜柱さん、田島祐之さん、森山健作さん、中沼弘貴さん、矢島龍人さんです。皆さん、それぞれの職場で活躍していることがわかって、私も嬉しかったです。なお、大阪から加藤弘行さんが南大沢まで来ていましたが、残念ながら忘年会には間に合いませんでした。加藤さんのことだから、リクルート活動に熱心に取り組んでいたんでしょうな。

 
 2011KitayamaLab_BonenKai

 今年は大震災があったことから、うちのOB諸氏も誰もが大なり小なり影響を受けたようでした。もちろん被災された方に較べれば大したことはないのでしょうが、生活に影響を与えたという点では同じです。放射能の影響は数十年に渡って続き、今は顕在化していなくてもそのうち大問題になることもあるようなので、重苦しい気分の年末ですね。

 こんな状況ですから、一年の憂さを晴らす忘年の宴、という訳にはいきませんでしたが、皆さん来年も健康に気をつけて是非とも活躍して下さい。


隔世の感2011 (2011年12月16日)

 昨日、英文輪講会のときに担当の鈴木清久くんが「monolithic concrete」の意味が分からない、という。この場合には現場などでコンクリートを一体に施工することを指すのだが、monolithicが分からなくても「monolith」なら分かるでしょ、と聞いてみた。その前提として、スタンリー・キューブリック監督の不朽の名作『2001年宇宙の旅(Space Odyssey)』に登場する一枚ものの無垢の板「モノリス」のことが私の念頭にはあったのである。

 ところが彼は「知りません」というではないか(落合くんは知っていると言っていたが)。当然知っているとこちらが(勝手に)思い込んでいただけでこちらが悪いのだが、「なんだよおいおい、知らないのか。じゃあ、仕方が無いね」ということで終わってしまった。少なくとも我々の世代(あるいは映画好き)であればこの映画の「モノリス」のシーンは知っているはずである。

 という訳で、学生さんは常に新陳代謝して入れ替わるが、こちらはどんどんと年齢を重ねているので、だんだんと話も合わなくなってくるのは当然の理ではある。でも彼らからすれば、彼らの世代にとっては常識みたいなことも私は知らないはずだから、まあどっちもどっち、ってことでしょうね。


歴史のなぞ (2011年12月14日)

 今日は忠臣蔵の日ですね。三百年以上も前の事件が現在も広く知れわたり、市井のひとびとの話題になっている、というのもすごいと思います。私も忠臣蔵についての書籍はたくさん読んでいるのでもういいや、と思っていたのですが、先週末に栃木へ地震被害調査のために赴く車中で、『謎手本忠臣蔵』(加藤廣著、新潮文庫)という本を読み始めました。なかなか面白いです。忠臣蔵にはさまざまな「なぜ」が残っていて、いまだに新説が登場するという新鮮な(?)状況です。

 ところでこの事件はいわゆる仇討ち物ですが、この忠臣蔵だけがなぜ現在まで残ったのか、というのは大いなる疑問です。忠臣蔵の誕生と人口に膾炙するようになるまでの社会的なメカニズムを解明するだけで、大論文が書けそうですね。

 江戸時代にはたくさんの仇討ちがあったはずです。ちょっと思い出すだけで、奥平家中の「浄瑠璃坂の仇討ち」、荒木又右衛門の「鍵屋の辻」などがあります。これらはもちろん現代にまで生き残った「物語」ですが、忠臣蔵ほどの人気はありませんし、一般のひとがそんなに知っているという訳でもありません。

 忠臣蔵にはひとびとの心の琴線に触れるものがあるというだけでなく、上述のようにたくさんの謎がある、というのが人気の秘密だと思います。日本の近現代史に残るこのような謎について、ちょっと挙げてみましょうか。

 1. 本能寺の変 織田信長を討った黒幕は誰なのか
 2. 明智光秀と天海大僧正 日光東照宮に残る明智紋の謎(明智平という地名も残っている)
 3. 真珠湾攻撃 アメリカ大統領は知っていたのか(日本のだまし討ちは本当か)
 4. レイテ沖海戦 なぜ栗田艦隊は反転したのか

これらはいずれも、現在まで多くの論説が発表されていますが、決定版と言われるものはないからこそ、折に触れ話題になるのでしょう。いずれにせよ大昔のことですから、本当の真実は歴史の闇に沈んでいて、容易には浮き上がってこないってことでしょうか。


文化を語り終わる (2011年12月12日)

 今日で都市教養プログラムの授業である『建築文化論』の担当分を終了しました。「耐震構造を考える4回シリーズ」と銘打って話してきましたが、80名から100名の学生さんが出席していました。数年前にこの授業を担当したときにはせいぜい40名程度でしたので、今回は非常に増えたな、という印象です。

 ただ、こちらが熱弁をふるっているときにふっとギャラリーの様子を見ると、毎回、半数以上のひとはスヤスヤとお休みになっていて、ホントになんだかなあ、俺、何してるんだろうなあ、という無力感に襲われました。でも別の見方をすれば、1/3くらいのひとは聞いてくれているんだと気を取り直して、講義しました。

 いつも書いているように、私はどんな講義でも講演でも説明用のパワーポイントは丁寧に作り込んでいますので、分かり易い説明をしていると自負しています。それゆえ、漫談のような楽しい講義とは無縁ですが、今回は「教養」として身につけるべき大切な内容は伝授したつもりです。今日は開口一番、レポートの書き方も説明しましたし。社会人になったら必須のノウハウだぞ、とか言いながら。

 そうは言っても、自分が学生のときのことを考えると、教養の授業をそんなに熱心に聴講した記憶はありませんね。大矢先生の人文地理とか、難波さんの解析学とか、似田貝さんの社会学とか、衛藤先生の国際関係論とか、今思えば一流の先生がたから講義を受けたのですが、そんなこと学生には分かりませんから。

 といことで、自分が講義する側に回ったからといって、あれこれ言える義理もありませんや。因果は巡る糸車、をここでもまた体験したのでした。やれやれ、、、。


那須おろし
 (2011年12月11日)

 週末にまた栃木県内の学校建物の地震被害調査に出かけた。今度の学校は、2011年4月末に岸田慎司さん(芝浦工大)たちが調査したのだが、私自身は見に行っていなかった。この学校では、鉄骨ブレースなどで耐震補強したにもかかわらず大きな被害を受けていたので、詳細な調査をしたいと思っていた。

 北山研・卒論生の柴田瞬くんが、この学校校舎の耐震性能についての検討を卒論として担当することになったので、一度は見とかないとね、という訳で今回の調査行と相なった。でも、どうせ行くんだったらもっと気候のよいときに行きゃよかったな、こんなに寒くなって(この辺りでは、那須連山から吹き下ろす風で厳しい寒さになるそうだ)から行くこともないのになあ、とちょっと反省したりした。

 今回は担当者の柴田くんのほかに、M2の村上友梨さん、卒論生の有賀沙織さん、佐野佳彦くんが参加した。また、芝浦工大の岸田先生と3年生三名も加わって合同調査団を形成した。芝浦工大では来年度の卒論生はまだ決まってないが、建築構造をやりたいという学生さんを募って連れてきたそうである。なかなかやるね、岸田先生は。

 さて朝早くに現地ちかくの駅に集合した。宇都宮から先のローカル列車には乗ったことがなかったのだが、今回初めて乗ることができた。なんと二両編成のディーゼル・カーで、単線であった。ドアも自分で開けるタイプだったが、電動だったので助かった。

 で、われわれの目的地の駅舎はなんと建築家の隈研吾さんが設計したとのことで、駅前のポケットパークのような「ちょっ蔵広場」も彼の設計である。地方のちょっとした施設(でも、それが小さな街にとっては大切なランドマークになったりするのだが、、、)も有名建築家が手がけたりするんだなあ、と思ったりした。

Tochigi2011Dec01 Tochigi2011Dec02

 左の写真はホームから橋上駅舎に上がる階段部分で、屋根面に集成材を組み合わせてデザインしている(私にとってはなんかちょっと気持ちが悪かったが)。右の写真は、「ちょっ蔵広場」から駅舎を望んだところで、右手の平屋建ては地元特産の大谷石をハニカム状に積み上げてユニークな表情を作り出していた。大谷石だけで構造体を形成するのは無理だろうな、と思って近寄ってみると、斜めに切断された大谷石がそれぞれ鉄製のフラット・バーに乗せられていた。ということで、これは鉄骨造だということが分かった。

 今回は調査する建物が二棟あり、一日の調査では厳しいと予想できたので、午前中は全員合同で調査してスキルを覚えてもらい、午後は研究室ごとに分かれて調査を分担した。それでも我が社で予定した調査全てを完了することはできなかった。ひび割れ幅を実測する頃には夕方になっており、真っ暗な室内で懐中電灯の明かりを頼りに測定していた。

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 私は好きに歩き回って調査したので、学生さん達の指導は岸田先生にお任せした(岸田先生、ありがとうございました)。学校の周辺がどんな地形なのかとか、街並みはどんな感じなのか、といったことをひとりで歩いて見た。すると、ここは結構な台地の上にあることがわかった。遠くに鬼怒川の流れが陽の光にキラキラと輝いているのが見えた。また、校庭のはじっこの斜面には地元の方のお墓がいくつかまとまって立っていたが、墓石は倒れ、石碑はせん断でスパッと割れて、そのままになっていた。なかなか由緒のある場所とお見受けした。

 校庭には仮設の2階建てプレハブ校舎を建設中であったが、請負金額を見ると一億数千万円と書いてあった。いつも思うのだが、地震被害によって子供達の教育環境は激変して、本当に気の毒である。学年によっては新校舎に移る前に卒業を迎えるので、かわいそうだなあ。そんなことにならないように、学校建物は十分な耐震性能を保有すべきであるということを強く感じる。

 最後になるが、被害調査にご協力下さった菊地氏をはじめとする地元の教育委員会のかたがたにあつく御礼申し上げる。駅から学校まで車で送迎していただき、暖かい会議室を用意していただいて本当に助かった。この日の調査、しめて18360歩なり、であった。


危うい「閉塞感」 (2011年12月9日)

 このところ、社会の閉塞感ということをよく聞きます。11月末の大阪でのダブル選挙のときにも、当選者の勝因として「閉塞感を打破してくれそうだから」ということが挙げられていました。

 ところで「社会の閉塞感」って一体なんでしょうか。多分、世の中の雰囲気みたいなものなんでしょうが、「閉塞感」と言った途端に、その正体は何であるのか、それは何に起因しているのか、ということを追求することなく、いわば思考停止状態になったまま、分かったような気になってしまう、そんな用語だと思います。そのような曖昧(だがとても便利)な一言を庶民が口にするのは仕方ないとしても、国政に参画する政治家までもが唱え出したのには、ちょっとビックリしました。「閉塞感」などと言っている限り、社会を変革することなどできないだろうと思いますから。

 ひとびとの心理がこのような状態にあるときに昔の政治家はどうしたかというと、海外に領土を求めたり、隣国と戦争を始めたりしたのです。そうすればひとびとの関心はそちらに向かって、国内の状況は顧慮されなくなるからです。第一次世界大戦後のドイツでヒトラー率いるナチスが台頭したのがそのよい例でしょう。

 ところがグローバルな現代では、どんな事柄でも一国の中に留まっていると言うことはあり得ず、海外に目を向けてもそちらのほうがひどい状況だったりするので、はけ口の矛先は見つけられそうもありません。即ち、現代の八方塞がりみたいに言われる世界的状況を変革するためには根本的なパラダイムの変換が必要なのです。それを「閉塞感」などという言葉で説明している限り、従来の枠組みに捕われてそこから脱することなどできないと思います。アメリカのアフガニスタンやイラクへの戦争が、従来の枠組みの中で行われたのは明らかです。

 ですから、国の行く末を見据えて舵取りを任されている政治家諸氏には、是非とも「閉塞感」の正体を見極めて、これからの国づくりを進めて欲しいですね。反対にわれわれ庶民は、何となくなにかしてくれそうだから、という理由で政治家を選ぶべきではないと思料します。「閉塞感」という危ういことばが世の中に蔓延すること自体が、社会にとっては非常な危機なのではないでしょうか。


真珠湾の空 (2011年12月8日)

 今日は70年目の太平洋開戦の日です。日中戦争を含めて太平洋戦争を強引に押し進めたのは帝国陸軍であって、海軍はそれに引きずられただけである、という「海軍善玉説」が一般には信じられています。しかし少なくともニューギニアのような南方の戦域については、海軍が主導的に無制限に戦争領域を拡大していったというのが正しいようです。

 「海軍善玉説」の流れの中で、山本五十六連合艦隊司令長官が最後まで太平洋戦争開戦に反対した、という逸話も語られます。しかし真珠湾攻撃を含めてその後の無謀とも言える数々の作戦の最終責任者は彼であり、結局は日本を亡国に導くことになったのは以前に書いたとおりです。その点において、彼をリベラルな戦争反対論者として信奉する気には全くなりませんね。人間的な魅力とか、本心で何を考えていたか、ということとは別の次元のはなしです。

 戦後も長いこと経ってから、海軍の元士官達が集まって先の大戦のことをあれこれ反芻する、いわゆる「海軍反省会」が密かに開かれていたそうです。その内容がNHKによって明らかにされたことは歓迎すべき事柄ですが、それを読むとどうしようもない脱力感に襲われます。海軍兵学校とか大学校とかを出たエリート軍人たちが、心底には持っていた(と思われる)良心に反していかに戦争へと流されていったかが分かるからです。まさに「海軍あって国家なし」です。そして、結局は自分たちも戦争指導に加担したにもかかわらず、その結果に対して誰も責任を取ろうとはしなかったためです。

 このような過去の過ちを繰り返さないために、半藤一利さんは「熱狂に巻き込まれないこと」が大切であると言っています。そのとおりだと思います。われわれひとりひとりが流されることなく、ときには立止まって冷静に社会情勢を見つめることが必要です。

 真珠湾の空に、今日も鎮魂の鐘の音が響いていることでしょう。


師走2011 (2011年12月1日)

 今日から師走ですね。今年は3・11の地震があったせいか、自然のおそろしさとか人生の無情とかをいつもにも増していっそう強く感じた気がします。地震学を専門とする学者がたのなかには、今回の地震を想定できなかったことを反省する声もあるようですが、そもそも地震の発生なんて予想できないと考えた方が宜しいのではないでしょうか。

 学問の成果に限界があることを認め、それに基づいて学問を進展させて行くことは必要不可欠ですが、その成果を地震防災にどのように役立てるかはまた別の話だと思います。簡単に言えば、研究レベルとそれを社会に対して実践するアプリケーション・レベルとは異なる、ということです。真剣に地震学を研究している方は学問の徒として当然のことをしているだけで、問題となるのはその成果があたかも直ぐに地震防災の役に立つかのように宣伝したり、(半分幻想と知りながら)そのような目的で巨額の研究費を浪費したりする、ということでしょう。

 今日は建築都市コースの卒論発表会(卒業設計を履修するひと)および中間発表会(卒計をとらないで卒論を来年2月までするひと)です。例年そうなのですが、この行事の日はだいたいどんよりとした寒い日になるような気がします。その例に漏れず、今日もとても寒い雨模様です。

 中学生の頃にソルジェニーツィン著『イワン・デニーソビィッチの一日』という小説を読みました。それはシベリアの強制収容所での一日を描いたものですが、そのなかに「マローズ」というロシア語が何度も出てきました。酷寒という意味です。今日はまさに「マローズ」ですね(まあ、シベリアの寒さとは較べるべくもありませんが)。

 今年は研究室の忘年会を企画しています。昨年は実験などでそれどころではなく、忘年会自体を忘念していましたので、今年はOBの皆さんにもおいでいただく会にしたいと思います。ちなみにわが研究室は来年2012年に創立20周年の記念すべき年を迎えます。随分長いこと、ひとつの大学に所属したことになりますね。

 東京都立大学に赴任した当時はまだ若かったせいもあって、そのうちまたどこかに転任するだろうな、と思っていました。しかし苦労して実験装置類を整えて来ると、転任したらまた同じことを繰り返すのかと思うとげんなりするし、その実験装置を使ってガンガン研究したかったので、おいそれと転任はできないな、と思うようになりました。そして現在に至る、です。Professorにもなりましたから、今はもう、ここで最後まで務めようと思っています。日本の大学教員市場は残念ながら未だに流動化していませんから、そうそう転任できないでしょうしね。


お懐かしゅう (2011年11月30日)

 昨日はひさし振りに電気協会の原子力関係の委員会があったので、都心に出掛けた。会議ではいつものように柴田碧先生から、とてもためになるお話を伺えてよかった。柴田先生がご指摘になったのは、今の世の中の風潮は津波の波高を始めとして上限に対して設計しようという「上限主義」になっている、そのようなときに従来からの「確率論的評価」を主張するのであればそれ相応の説明が必要でしょう、というものであった。

 いやあ、まさに仰る通りだと思いましたな。世の中の流れが工学の世界とは少しばかり齟齬をきたしていることを冷静に受け止め、さは然りながら現在において最良の工学的判断に基づいて設計することの重要性を改めてご指摘されたんだと思う。

Mitsubishi01  Mitsubishi02

 この委員会が終わったあと、次の会議までに時間があったので、すぐそばにある三菱一号館に立ち寄ってみた。この建物は言わずと知れたジョサイア・コンドル先生設計のオフィス・ビルを忠実に再現したもので、2009年に竣工した。今から約2年前のことであるが、私は一度も見たことがなかった。なるほど、こんな感じだったのか(うえの写真)。

 構造は煉瓦造であるが、煉瓦と煉瓦とのあいだに鉄板(帯鉄と呼ぶ)を入れて補強してあり、コンドル先生が耐震構造を工夫した跡と言われる。建物の周囲をぐるっと一周して、煉瓦に触れたり、細かいディテールを観察したりしているうちに、コンドル先生お懐かしゅうございます、という気分になってきた。

 しかしながら、コンドル先生の描いた設計図書に従って建て直したとは言え、この建物は「一丁倫敦(ロンドン)」と言われた往時に建っていたものとは別物である。建物の保存の世界でいうところの「authenticity(真正性)」ってヤツでしょうか、これをどういう風に捉えればよいのかは、多分議論のあるところだと思う。

  そうは思うものの、目の前にある建物は材料などは当時のものではないにせよ、明らかにコンドル先生の設計になるもので先生の精神の発露には違いはないと考える。でも、このような土地柄ゆえに高層ビルに取り囲まれて、なんだかちょっと居心地が悪そうにも見えました。

 上右側の写真は内側のポケット・パークから撮ったものだが、こちらはなかなか居心地のよい空間になっていて、陽射しのある暖かい午後などにはここに坐ってボーッとするのもいいなあ、とか思ったりした。今日はあいにく曇り空だったし、このあと建築学会に行かなかればならず余裕がなかったので、そそくさとその場を後にしたのであった。


イヤな予感 (2011年11月28日 その3)

 先週から始まった都市教養プログラムの講義「建築文化論」ですが、今日の講義終了時にレポートを提出したひとは88名でした。ところが講義中に私が実際に出席者の頭数をかぞえたところ81名だったのです。これって、どういうことだと思いますか。何だか、イヤな感じがしてきました、、、。私が配布するレポート用紙を余分にゲットして講義時間内に他人のレポートまで作っているひとはいないと思います(っていうか、いないと信じたいです)が、どういうことなんでしょうか。まさか、ですかね。

 でも、今日のレポートを見直してみると、時間は15分程度確保したのにたった1行しか書いていないような学生さんが複数いたのです。うーん、イヤな感じですね、、、。


教育の主人公 (2011年11月28日 その2)

 大阪でのダブル選挙の結果には暗澹たる思いがしましたな。大阪府知事も大阪市長もともに「維新の会」という組織のひとが当選したということで、それは大阪の皆さんの選択なので私がとやかく言うはなしでないことは弁えています。

 大きな争点はやはり「大阪都」を実現するかどうか、という刺激的な政策の是非だったのでしょうが、その点については何もコメントすることはありません。私が問題にするのは、教育に対する彼らの近視眼的な独善主義です。そのことに対して私は非常な危うさを覚えます。以前にも書きましたが、政治が教育に口を差し挟むことによって過去の日本でどのようなことが起こったのか、そのことを我々は決して忘れるべきではありません(中国との戦争や太平洋戦争のときの「軍国少年」を思い出してみて下さい)。教育は国家の礎(いしずえ)です。日本を背負って立つこれからの青少年に健全で自由な教育を享受してもらい、自分で判断し自分で考える力を身につけてもらうこと、これが教育の最も重要な役割でしょう。

 すなわち教育の主人公はもちろん教員ではないし、いわんや政治でもない。それは教育を受ける子供達自身であるべきです。教育に数値目標はそぐいません。大阪の政治家には、是非ともそのことを忘れないで施策に当たって欲しいと祈るような気持ちでいっぱいです。


ついになくなった (2011年11月28日)

 我が家の冷蔵庫の冷えが悪くなってマーガリンなんかは溶け始めたため、ついにダメになったかってな感じで、止むなく新しい冷蔵庫に交換した。で、よく考えてみると結婚以来使い続けてきた電気機器のなかで最後まで残っていたのが冷蔵庫だった。そのほかの炊飯器とか洗濯機とかは十年くらいで交換したから、冷蔵庫はよく頑張ってくれたほうだろう。もちろん最新式に較べれば電気代がかさんだとは思うが、今まで我が家の食生活を支えてくれたことを思うとき、大いなる感謝の念を抱いたのは当然である。

 台所から運び出された冷蔵庫に、今までありがとう、と心の中でそっとつぶやいたのであった。それに代わって運び込まれた新しい冷蔵庫は今までよりもちょっとだけサイズアップしたため、部屋の扉を外さないと搬入できなかった。サイズがぎりぎりだと10mm、20mmといったわずかな寸法が非常に重要になるということを実感した。


ミクロからマクロへ (2011年11月25日)

 『エネルギー生成系で知る病気の成り立ち』(安保徹著、学士会会報No.891)という小文を読んだら、癌とは「遺伝子の突然変異で起こるのではなく、過酷な生き方に適応するために二十億年前の細胞に先祖返りした現象である」と書いてあった。著者によれば、二十億年前に原核細胞生命体にミトコンドリア生命体が寄生することによって我々の細胞の元が出来上がった。原始の生命体である原核細胞生命体は無酸素でエネルギー生成を行っていたが、ミトコンドリア生命体が安定して原核細胞生命体に寄生できるようになると、両者は合体して真核細胞生命体となって、酸素を利用するミトコンドリアは巨大なエネルギー生成工場の役割を果たすようになったそうだ。

 で、このミトコンドリアの多寡によってそれぞれの細胞の性質が決定付けられ、食生活やストレスによってはミトコンドリアの最も少ない癌細胞(=無酸素でもエネルギーを作れる)を作り出さないと適応できない、という理屈らしい。

 この著者の主張は、人間の健康は全てこの二つのエネルギー生成系(有酸素と無酸素)によって説明できる、というもので非常に原理的で分かり易かった。しかしこれって、細胞というミクロな現象からトータルとしての人間を理解しようという立場であるが、果たしてそんなことは可能なのだろうか、という疑問も湧き起った。

 私の研究対象である鉄筋コンクリート構造でも、コンクリートと鉄筋というたった二つの材料の力学特性を詳細に理解し、それを組み合わせることによって総体としての鉄筋コンクリート構造の力学特性をも説明しようとする試みが常に為されてきた。私も若い頃にはそのような可能性を信じ、考えてもみたが、世界中の研究者が取り組んでも未だにそのような試みは成功していない。

 結局、ミクロなものの集積体としてのマクロは、個々のミクロなものの特性把握だけでは理解できず、それらミクロなものを組み合わせたときに発動される規則(メタ・レベルの構成則みたいなもの)を解明しなければダメなのではないか。たった二つの材料の組み合わせである鉄筋コンクリート構造ですらこうなのだから、複雑で種々雑多な細胞が多数組み合わされて形成される人体をミクロから捉えることは一筋縄では行かないだろう、とは思う。

 ちなみにこの小文は、ストレスによってミトコンドリアが正常に機能しなくなると癌細胞が発生するので、ストレスをなるべく減らすことと食事に注意することが重要であると結ばれている。結論は至極もっとも(すなわち、当たり前)であった。


公募人事 (2011年11月24日)

 以前に大学の人事のことについて書いたが、わが建築都市コースの構造系でも急遽、助教の方を公募することになった(詳細はこちらをどうぞ)。本学の中期計画の関係から、任期は3年で再任はなしという、あまり魅力の無い公募ではある。しかし見方を変えると、実力のあるひとにとっては3年間は給料をもらいながら次への飛躍に向けて準備できる魅力あるポスト、というふうにも捉えることができるだろう。

 なお、ここで求めている方は以前のようにどこそこの研究室に所属する、ということではなく、基本的には独立した研究・教育者として活動してもらうことになる。なので、研究だけでなく構造実験や設計製図のエスキースなどの学部授業もそれなりに担当していただく。多くの方の応募を期待しています。


文化を論じる (2011年11月21日 その2)

 今日から『建築文化論』という名前の講義の私の担当が始まった。教養プログラムの授業である。月曜日の朝1限という、学生さんにとっては(教員にとっても?)最も元気のでない時間帯なので、出席者は少ないかなと思ったのだが、数えてみたら100名近くいた。皆さん、ご苦労なことです。

 で、前任の鳥海基樹さんから幾つか秘伝を伝授して貰ったのだが、そのひとつに定刻10分以降は遅刻を認めずに教室に入れない、というものがあった。初めて聞いたときには、うわっ凄いなあ、と思ったのだが、よくよく考えるとそれもありかな、と思うようになった。

 そこで、今朝は思い切ってこれを実行することにした。9時以降、何人もの学生さんが入ろうとして来たが、その度に「9時以降は入室できません、遅刻は認めません」と4、5回はアナウンスしたと思う。ちょっとうんざりしたが、途中でやめては不公平だし、ここまでの苦労が水泡に帰すので、頑張りました。ただ、来週もまた同じことを繰り返すのか、と思うとちょっとげんなりとしてくるが。

 私がこの講義で何を話すかといえば、いくら何でも自分の知らないことはしゃべれないので、例によって耐震構造について講義することにした。極めて工学的な耐震構造をテーマとして、いかに文化を論じるか。このことには相当に腐心したが、新しい講義ノートを用意して講義に臨んでいる。学生諸氏の反応が楽しみ、ではある。まあ朝いちの講義なので、ゆっくりお休みになっている学生さんも多数いましたけど、、、。


浸透してる? (2011年11月21日)

 朝日新聞の教育欄の「大学サバイバル」コーナーに、我が大学が紹介された(2011年11月18日朝刊)。紙面の中央には、学長先生が大勢の女子学生の真ん中にいる写真がカラーで載っていた。ここにも「多様性」ということばがあったが、人間、男か女しかいないんだから、男女のことを「多様性」と称するのはどうなんでしょうか。

 で、紙面の見出しは「大学名、浸透してますか?」だった。ああ、カッコ悪いっすね。全くもって、痛いところを突かれています。ご指摘の通りですからね。伝統ある「東京都立大学」という名前をあっさりと葬り去って、最も苦労しているのは就活にいそしむ学生諸君ではなかろうか。私だって学会の発表等で所属を名乗るとき、「首都大学東京」って言いにくいこともあるし、皆さん知ってるかなあと心配にもなるので、やっぱり「都立大の北山です」って言ってしまうことも度々なんです。

 こんなことを書くと、お前は自分の大学を愛してないのか、なんて非難されそうだが、そんなことはない。ただ紆余曲折の末に生まれたこの新名称に馴染めないんですね。その経緯を知っている教員たちにとって、その名前は鬼っ子と言ってもいいんじゃないかと、、、(無言)。

 この記事に話を戻すと、しかし我が大学ながらどうにも魅力が感じられない書きっぷりになっています。その理由は多分(憶測ですが)、この記事を書いた方が我が新大学のあり方に大いなる疑念を抱いているからではないかと思う。そのような思いが根底にあるから、どうしても懐疑的になる質問がポンポンと飛び出したんじゃないか。

 東京都立大学を継承した本学は、十分な実力と魅力とを備えていると私は自負している。南大沢キャンパスは東京の田舎だが、自然が残っていて過ごし易い環境にある(横田基地に向かう米軍機が真上を飛び交うのは興醒めだが、、。着陸間近なので車輪が降りているのがよ〜く見えます)。これからの少子化時代を生き残るためには、様々な改革や試みが必要なことは分かるが、大学というものが本来持つべき機能とか役割とかをもう一度考え直して見ることも、ときには大切なんじゃないでしょうか。



また地震被害調査へ行く (2011年11月17日)

 3・11で地震被害を受けた学校建物の被害調査にふたたび出かけた。鉄骨ブレースで耐震補強された学校建物がかなりの被害を受けたことを4月末の調査で把握していた。ちなみに鉄骨ブレースで補強されたRC建物の地震時挙動の把握とか耐震性能評価とかは、北山研における十年来の課題である。

 ちょっと経緯を書くと1995年の兵庫県南部地震以降、既存建物の耐震診断が広く普及し、それによって耐震性能が劣っていると判定された建物を耐震補強しようとする機運が高まり、そのための施策を政府がかなり強力に進めてきた。今回の大地震は、そのようにして耐震補強された建物群が広域に渡って経験した大きな揺れだったのである。

 たまたま栃木県でかなりの被害を受けた補強建物を調査したため、この建物の耐震性能や地震時挙動を検討してそのような被害の生じた原因を究明することを我が研究室の研究テーマのひとつに選定しており、その主担当者をM1・石木健士朗くんにお願いした。で、彼がいろいろと検討するうちに様々な疑問点が出てきた。

 そこでそれらをまとめて調べるために、今回6ヶ月ぶりに再度現地を訪れて調査を行うことにした。今回は北山、石木のほかにM1・落合等くんとM2・村上友梨さんにも調査を手伝ってもらった。

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 さて再調査をして気がついたのは、柱にしても壁にしても(もちろん鉄骨ブレースの両側にあるRC柱も)4月末から明らかに損傷が進行したものが多々あったことである。町役場の方のお話では4月末以降、最大で震度4の地震が2回あったとのこと。それらの余震によって被害がさらに拡大していたのだ。このあいだに耐震性能がさらに15%近くも低下したのだが、その程度の地震によってそんなに低下するとは正直言って予想できなかった。もちろんこの建物は危険と判定されていたので現在は使われていない。

 なおこの日にあわせて役場のほうでは杭基礎の掘削調査を実施した。その結果、杭頭部のせん断破壊とか折損などの重大な被害が発見された。ただ、建物の上部構造がほぼ大破に相当するほどに損傷したのに、その下部(すなわち基礎構造)においても大破していた、というのはあまり聞かない事例ではないか。いずれにせよ、研究すべき事柄がまたひとつ増えた、といった感じである。

 調査にお付き合いいただいた自治体の皆さまにはあつく御礼申し上げる。また、北山研の面々も限られた時間の中で、与えられたタスクをテキパキとこなしてくれた。ご苦労様でした。この成果をうまくまとめて、研究成果を出してくれるとありがたいですな。


大学教授という職業 (2011年11月16日)

 『大学教員 採用・人事のカラクリ』(櫻田大造著、中公新書ラクレ、2011年11月)という、タイトルだけ見ると真面目なんだかそうじゃないのか分からなそうな本を読んだ。結論から言えば、ヒジョーに真面目な内容で、かつ面白かったので一日で読了した。多読ダラダラ型の私としてはヒジョーに珍しいことである。

 この本は大学教員を目指すひとを対象として、新規教員を採用する立場からのアドバイスや分析を記したもので、主として文系が対象ではあったものの、現在の大学の抱える問題点などは共通のものが多いので、大いに共感を感じながら読み進むことができた。著者が私と同い年であることにも親近感を覚えた(大学教員への道は私とは全く異なっていたが)。

 キーワードはやはり「高学歴ワーキング・プア」であったが、この本の基底には、とりあえずどこかの短大・高専・大学のファカルティ・スタッフになることがまず重要、という考え方が流れていると思った。そこからステップ・アップを成し遂げていった事例がたくさん紹介されていることからも、このことは伺える。昔、私が千葉大学の助手のときに村上雅也先生から聞かされた、「ポジションがひとを作る」ということと同じだろう。あまり選り好みせず、与えられたポジションでベストを尽くせば道は自然と開けると私も今は思っている。

 現在の大学教員の採用は公募人事が多くなっているが、少なくとも東大建築学科(准教授以上)ではそんなものは見たことがないし、多くの大学で公募とは名ばかりのいわゆる「出来レース」もままあるように仄聞する。しかしいずれにせよ、大学の教員になりたいと思っているひとが出来ることと言えば、業績を上げ、学問レベルを上げるように自分自身を磨くことだけで、基本的には公募にトライし続けるか、お声がかり(いわゆる、一本釣り)があるまでジッと待つしかない。これは結構つらいことだろうな、とは思う。

 いつか書いたように私自身は地方の小さな国立大学の助手、首都圏の大きな国立大学の助手、公立大学の講師と来て、現在に至っているが、それらのいずれもが公募ではなく一本釣りであった。最初に青山博之先生から助手に行ってはどうか、と言われたときはまだ博士課程の2年生になったばかりだったので、相当に迷った。壁谷澤寿海先生のお宅に相談に行って、そのあと例によって飲みに出たことも憶えている。

 その当時はなんでそんなところに行かなきゃならないの、と(不遜にも)思ったこともあったが、今にして思えば貴重な経験を積むことができたと感謝している。そしてそこで勤務しているあいだに工学博士の学位を取得できたため、未来が開けたのも事実である。次の大学には野口博先生から、そして本学には西川孝夫先生から、それぞれ「釣って」いただいて現在があるわけだ。

 こういう訳なので、私には公募の厳しさとかつらさとかは分からないが、自分の大学で新たに教員を公募で採用することに関わるようになってきて、こりゃあ大変だろうなとひしひしと感じることが多い。

 大学教員の雑用の多さはこの本にもかなりのスペースを割いて紹介されていたが、これは事実である。まあ、ひとによって何を「雑用」と呼ぶかは異なるとは思う(剛のひとになると「教育」自体を雑用と思ったりするからな)。会議や講義で配布する資料の作成とコピー(枚数が多いとコピーでは料金がかさむので、私は8階にあるリソグラフ[輪転機のこと]を使って節約している/ううっ、涙ぐましいなあ)、物品を購入するために必要な諸々の書類の作成と予算管理、高額な備品を購入するときには業者との折衝(競争入札にするときには詳細な仕様書の作成と事務方との折衝が必要)や面倒な書類の作成と大学当局への説明のための委員会出席、ちょっとしたファイルや文房具の購入は大学生協ですることが多いが、そのときには買ったモノを大学の検収センターに持っていって、納品書に検収印を貰うことも自分でやる。出張するときの航空券とか宿の手配も自分でする。そのほかにオブリゲーションとして課される学内の会議にも出席しないといけない。

 甲斐性があって個人秘書を雇えるような先生はこのような雑用の多くから解放されるだろうが、多くの大学教員は中小企業の親父と同じでほとんど全てを自分でやらないといけないので、時間がいくらあっても足りないのだ。体が二つあったらなあ、とは多くの教員の願いである。こんな愚痴を書いても始まらないが、世間からは「大学教授の優雅な生活」と思われているフシもあるので、そんなことはないっすよ、といちおー言っておきたい。雑用のはなしは非生産的なのでもうやめよう。

 この本ではあまり触れられていなかったが、応募しようとする学科なり専攻なりに在籍するスタッフの年齢構成は非常に重要である(少なくとも私はそう考えるし、私の所属するコースでもそのように考える先生は多い)。年齢層がダンゴになっていると定年で辞めるときにごっそり抜けることになるので、組織の連続性とか運営の点で弊害が予想される。

 わが建築都市コースでも近々3人の先生が定年で同時にお辞めになるので、その対策に頭を悩ませないといけないだろう。また年配の教授ばかりだと組織が硬直化する怖れがあるので、若手の導入は欠かせない。まあ本音を言えば、新人が入らないと面倒な雑用をお願いできるひとがいなくなる、という切羽詰まった事情もあったりするのだが、、、(また雑用の話になってしまった/すいません)。

 ちなみに本学の定年は都立大学時代の63歳から65歳へとちょっとだけ延びた。日本人の平均寿命は80歳を超えているので、あんまり早くに職を失って放り出されては、老後を全うできないという恐れがある。それゆえ定年の延長はやむを得ないところがある。しかしこのことは大学に職を得たい若者にとってはそれだけポストが空かずに下住みで苦労しないといけないので、迷惑至極な事柄であろう。私も若い頃はこんな事態を「老害」と言って揶揄していたが、自分自身が半世紀も生きて来るとそうとばかりも言っていられなくなった。なんせこちらにも生活がありますもんで。

 また本学では2005年の法人化にともなう新大学発足によって、教員には基本的に任期が課されるようになった。とくに助教と准教授には再任回数に制限が附されたので、そのあいだに次の職場を見つけるか昇任するかしないと、最悪の場合には任期切れで放り出されることになる。教授も5年任期であるが、再任は何度でも可となっているため、事実上はテニュア獲得と言ってよいだろう。その点が同じファカルティ・メンバーでも准教授と教授とで大きく異なるので、その溝は意外に深いのではないかと忖度(そんたく)する。助教や准教授に対するこのような厳格な任期制が本当にいいのかどうか考え込んでしまうが、この問題はデリケートなのでもう止めておく。

 この本には、「団塊の世代」の大量退職が大学教員の世界でももうじき起こるので、そうすれば大量のポストが発生してチャンス到来ということが書かれていた。一面ではそうなのだが、18歳人口の減少にともなう大学界全体の縮小を考えざるを得ない時代になったことも忘れてはいけない。すなわち、退職した先生の後任を補充できるかどうかは相当に怪しい場合が多々ありそう、ということだ。これはもう個々の大学の将来計画とか人事方針とかに依存するので、私のような「ヒラの教授」がアレコレ言う資格はない。

 しかし自分の所属する組織の将来をどうするか考えることは、教授の大事な努めのようで先輩方もそのことには非常に腐心されたフシがある。もちろんそのときどきの構成員のパワーバランスによって、あっちやこっちに多少ズレることはあっただろうが、多分議論に基づく中庸みたいなものはあったはずである。私の所属する学科(現在はコース)では幸いなことに、そのような方針をめぐる根深い対立はなかったような気がする(まあ、私は楽観主義者なので知らなかっただけかも知れないが、あははっ)。

 ちなみに我が大学では人事権は教授にしかないので(それがよいかどうかは別として)、私も助教授のときにはある意味身勝手に好き勝手にやることができた。多分、地震工学講座(当時)の上司だった西川先生の庇護が大きかったんだと思う(彼は評議員から工学部長にまで昇ったからね)、「あいつには好きなようにやらせておけ」ってな感じで。

 だが教授となるとそうはいかないようだ。なんだか分別臭い老成した感じがして私はイヤであるが(なんせ私の座右の銘は「もの分かりのよい大人にはなりたくない」ですからね)、組織とはそういうものかも知れないな。人事はまさにひとの一生を左右しかねない大切な事柄なので、そのことは常にこころしておきたい。

 学閥については昔は確かにあったような気がするが、今は公募が一般的になったこともあってかなり薄まっていると思う。わが建築学域(大学院の専攻に相当)でも、昔は東大卒が圧倒的に多かったらしいが、今ではファカルティ・メンバー15,6人のうち東大出身は8名(建築6、都市工学2)と半数に過ぎない(半数でも多いですか?)。優秀で業績があれば、出身大学が問われることはますます減る傾向にあると思う。ちなみに母校出身者は4名なので、そんなに優遇されていることもなさそうである。


日記好き (2011年11月11日 その2)

 大岡昇平著『俘虜記』(新潮文庫)を読み終わった。有名な本なので読んだ方も多いと思う。太平洋戦争末期にフィリピンのミンドロ島で米軍の捕虜となった著者自らの体験をつづったものである。旧日本軍では軍人が捕虜となることを想定していなかったため、心ならずも捕虜となった日本人が(しかし実際には自ら投降したひと達もいたらしいが)収容所内でどのように変貌してゆくかが冷徹な眼差しで叙述されている。

 まあ小説の内容はご自身でお読みいただくとして、このなかに日本人の日記好き振りが書かれていた。戦場の兵士達は上官の目を盗んでは日記を付けていた、というのである。そういわれてみると、米軍兵士が戦場で手に入れた日本軍人の日記(手帳)を持ち主の遺族に返還したい、といった新聞記事を時々目にしたりする。

 ああ、やっぱりそうだったんだあ、という感じである。私が書いているこの文章もまあ日記みたいなものだからである。紙に書くか、デジタル・データとしてネット上に置いておくかの違いである。もちろん当時と今とでは、当事者の置かれた環境が全く異なる(一方は明日の命も知れない危険な戦場にいたのに対して、他方は飽食の時代に安穏と暮らしている)ので単純な比較はできないけど。


早期発見 (2011年11月11日)

 昨日、石油ファンヒーターから焦げ臭い風が吹き出した、ということを書いた。で、夕方に帰宅すると家内がまたヒーターのスイッチを入れたので、私が「ちょっと待って。中を調べるから」と言うことで、ネジを回して上蓋を開けてみた。初めての経験である。

 上蓋と思っていたものは実は箱状の物体で、それはフィルターの機能を果たしていたようだったが、それを引き上げるとともにもの凄いほこりが目に飛び込んできた。こりゃたまらん、と言う訳で私はそれを持って外に飛び出した。するとその後から女房と子供の「わあっ!」という叫び声が聞こえてきた。

 「どうしたんだ!」というわけで家の中をのぞくと、子供が「こんなものが出てきたよ」と言って見せてくれたのは20cm四方のレゴの板だったのだ。あちゃあ、こりゃ焦げ臭くなるわけだ。そのほかにも紙で作った時計も出てきた。

 でも早期に発見できてホントによかったです。このまま気にせずにガンガンとヒーターを燃やしたら、早晩レゴが溶けて大変なことになっただろうことは想像に難くない。いやあ、よかったよかった。


冷え込み (2011年11月10日)

 昨晩から今朝にかけては冷え込みましたね。我が家ではリビングにある大型石油ファンヒーターに今シーズンはじめて火を入れました。ところが、ボーッと温風が出て来ると途端にものすごく焦げ臭くなって、慌ててスイッチを切りました。ヒーターの隙間から子供が何か落としたか、いたずらで入れたのか、とにかくパンが焦げるような異臭がたちこめました。

 私が出勤する間際に、子供が問いつめられていましたが、その後どうなったか。今晩帰宅すればことの顛末が分かると思いますが、もしそのような理由でないとするとちょっと心配です。直すといっても古いものなので無理かも知れませんから。


歴史をさわる 〜東京駅改修現場にて〜  (2011年11月9日)

 東京駅の改修現場の見学に行ってきた。2005年の着工直前に現地視察をして以来、約6年ぶりの再訪である。今回は竣工まで一年を切った段階での視察であった。

TokyoSta.1 TokyoSta.2

 東京駅はご存知のように辰野金吾(日本で最初の建築家)の作品である。一説では当初は鉄筋コンクリート構造で作るという案があったらしいが、辰野金吾が「そんなドロドロしたものはイヤだ」と言ったとか、言わないとか。結局、東京駅は鉄骨で補強した煉瓦造で作られて現在の姿になった。どうやら鉄筋コンクリート構造は使われなかったようだが、床スラブには石炭ガラを練り混ぜたコンクリートに鉄骨の小梁と縦使いのフラットバーで補強した構造が使われた。

 今回の改修では、戦災で消失した3階部分を復元して創建当時の姿に戻すことを目指している。ただ今日、説明を受けたところでは、忠実な復元は皇居に面した側だけで、普段はひとの目に触れないホーム側はそうではないらしい。また3階の躯体はSRC壁で構成して、その表面に化粧煉瓦を貼る。

TokyoSta.3  TokyoSta.4

 地下階には新たに免震層を作って、積層ゴムとオイル・ダンバーとが設置された。その現場も見たが、せいが結構小さくて基本的にはしゃがまないと歩けない。まあ、都心の超一等地では地下階といえども創出するのは大変ということだろう。でも、メンテナンスのときには苦労しそうだ。

 復元のための苦労話も伺った。煉瓦造を補強している鉄骨の部材とか接合詳細などを把握するために、建設当時の写真を探し出してそれを拡大して調べ上げたとか、アメリカ・カーネギー社製の鉄骨部材についての情報を得るために、1903年にこの会社から発行された鉄骨部材カタログを米国のオークションで落札して手に入れたとか、である。

 だが、一番の圧巻は南北に再建されたドームの装飾であろう。6年前に見に行ったときには、現状の仕上げ材に隠された、漆喰の彫刻の一部が残っているのを拝見したが、その部分が綺麗に修復・復元されて、ドーム周囲の八面にはそれぞれの方位を表す動物の彫塑や羽ばたく鷲の像が整備されつつあった。

 今回、煉瓦の中の鉄骨部材も随所で見ることができた。私が見たものはI型鋼のようなものや、ラチス状に組み立てたものであった。そうして剥き出しになった煉瓦をそっと指でなでていると、会ったこともない辰野金吾の息づかいが感じられるような不思議な感覚が湧き出てきた。「辰野先生、百年ぶりにお会いしましたね」ってな感じである。

 百年前は帝都の玄関口としての威容を誇るために築かれたこの大建築は、日本の興亡をまざまざと見てきたはずである。関東大震災、太平洋戦争、敗戦、人間天皇、バブル崩壊、、、。そうしてこれからの百年には、一体何を見るのだろうか。幸多かれ、と祈らずにはいられない。

 なお、東京駅の保存・復元工事については例えばこちらのページに載っている。興味のある方はどうぞ。


巡り合わせ (2011年11月8日)

 ここのところ思いもかけないようなところから幾つかのメールを受け取った。先日書いた、中学校のときの同級生からのメールもその一つだが、今度は高校のときの関係者からメールをいただいた。

 何でも今度、本学の文系に教員として赴任したそうで、そのことを高校のときの恩師に報告したところ、同じ大学で私が教員をしているということを教えてもらい、わざわざ着任の挨拶のメールをくださったのである。そのときは、全く接点のないもの同士として、である。

 ところが私が返信メールに卒業年次と担任だった先生の名前を記したところ、なんとその方も同じ卒業年次で同じ担任だったことが判明した。ということは、同級生ってことである。しかしながらそこまで分かっても、私は(多分先方も)相手がどんなひとなのか、全く思い出せなかったのである。

 で、仕方がないので今でも付き合いのある同級生たちにメールして尋ねてみた、このひと知ってますかって。そうすると「知ってるぞ〜」というお返事がどんどんやって来た。どうやら完全に忘れていたのは私だけのようである。そうして彼らからの情報によって、だんだんと思い出してきたのだが、それはそのひととは一言も話したことがないという記憶だった。ちょっと悲しい気分になりましたが、まあ、それも青春の一コマなので仕方がないですな。

 また別のメールは、もう15年近くも前の北山研のある研究についての問い合わせだった。その当時、ガラス繊維をRC柱に巻き立てて耐震補強する研究を某会社からの委託でやっており、それを検索で見つけた新興会社?からのものだった。内容は省略するが、あまりお役には立てなかったようだ。

 ほかにもあるが、こんな感じで思いもかけないメールがここのところ相次いだので、それも巡り合わせかなと思った次第である。


旅の宿2011 (2011年11月4日)

 忙しい合間をぬって、家族と旅に出た。中伊豆のひなびた温泉宿である。温泉好きの子供と一緒に露天風呂につかりながら、青い空の山々や夜空の星々を眺めて一日を過ごした。駿河湾の遊覧船に乗って潮風を浴び、海沿いの漁師宿で地元の魚に舌鼓を打った。麗らかな陽光に輝く海をボーッと見ていると、人間界のあくせくとした営みが本当にちっぽけな、下らないものに思えてくるから不思議である。海の上をすべってきた一羽の海鵜が首を下に向けるやいなや、サッと潜ってまたすぐに浮かび上がった。

 宿でははしゃぎ疲れた子供と一緒に寝についた。こんなに早く寝られるかと不安だったが、布団にもぐると直ぐに眠ってしまった(ただ、まだ夜明け前に目が覚めてしまったのには困ったが)。いろいろと夢を見たのは眠りが浅かったせいだろうか。

 こうして久し振りにリフレッシュできたので、暫くはまた頑張って行けるような気がしてきた。昔のようにガンガン仕事ができるほどもう若くはない。集中力も続かなくなってきた。旅の宿のような無為な時間が大切なんだと、最近は感じるようになった。帰ってきたばかりだが、また出掛けたいと思っている。


生活に必需 (2011年11月1日)

 東京都の小金井市長がゴミ問題の解決のために辞職願いを出しました。小金井市は私が住む多摩東部に位置し、比較的近くにありますが、そこのゴミ処理場が閉鎖されてからは、小金井市のゴミを私の住む自治体を含めた協同組合が引き取って処理していました。

 ところがその市長さんは選挙運動中にゴミ処理の委託費用を無駄使いと発言したために、当選後にはゴミ処理を助けていた周辺自治体から総スカンをくらって、どこも引き受け手がいなくなったそうです。これが本当だとすると、当たり前ですよね。わざわざよその市のゴミを処理してあげているのに、それを無駄使いと言われたら立つ瀬が無いですな。

 私の住む市ではゴミ捨ても有料ですから、極力ゴミは減らすように努力していますが、それでも生ゴミなどは毎日出ます。毎日家庭等から出るゴミを処理することがいかに大変なことなのか、そしてそれがいかに生活に直結しているか、この事件が端的に示しています。



50周年記念
 (2011年10月31日)

 私が通った新宿区立の中学校が統合の果てに廃校になったことは以前に書いた(こちらです)。今年の8月に久し振りに訪れた母校のRC4階建て校舎は耐震補強されていたが、最近になってひょんなことから、その校舎のコンクリートの圧縮強度が非常に低かったことを知った。ああ、恐ろしい(って、今頃言ってどないするねん)。ということは、母校の校舎は既存ストックとしては良質とは言い難いことになる。

 さて約二週間ほど前に、この中学校のときの同級生から突然メールが来た。一年のときに同級だった松本理一郎くんからだった。彼のことはよく憶えていた。とてもユニークだったし、私がこの中学校に入ったときに(知り合いは誰もいなかった)、最初に話したのが彼だったのだ。

 でも卒業以来35年間も音信不通だったのに、どうやって私のことが分かったのだろう。と思って聞いてみると、ネットの検索で調べたらヒットしたとのことで、そこまでして私の所在を探してくれたのかと思うと、本当にありがたい。

 で、彼からのメールは我々の生誕50周年を祝うT山中学校同期会を開くので、是非来てくれ、ということだった。中1のときの担任だった数学のハトケン(羽鳥健一郎先生)もお出でになるのかと思ったら、すでに鬼籍に入ったとのことであった(合掌)。

 ハトケンは中2のときに他校に転出したが、私が高1になったときに再会した。そのとき、ハトケンは私が都立A高校に進んだことをどういう訳かご存知で、そのことをとても喜んで下さった。ハトケンにはよく叱られた。職員室に呼ばれて「おまえはそんなことでいいと思っているのか」と激しく叱声を受けたこともあった。今まで見たこともないくらい顔色を変えて怒る先生に、怖くて泣きべそをかいたなあ。

 だが、励まされもした。彼がT山中学校を去るときにいただいた手紙には「君は必ずその目的を果たせる男、がんばれよ」と書かれていた(このことは実はすっかり忘れていたのだが、先日屋根裏を整理していたときに、その手紙がひょっこり出てきたのである)。私は中1のときには成績が良くなかったからだろうな。そんなふうに激励してくれた彼もまた、私にとっては忘れ得ぬ恩師である。

 という訳で、ホームグラウンドだった新宿で開かれた同期会に出席した。なんと35年ぶりである。ところが案の定、誰が誰だかさっぱり分からない。名札を見て、話してみてもさっぱり思い出さない。それもそのはず、私は中学生になるときに新宿区に転入したので、もともと友人が少なかったせいもあって、三年間で同じクラスになったひと以外はほとんど知らない。直ぐに分かったのは仲が良かった金子と越海くらいで、何人かのひととは話しているうちに思い出した。相手が女性になるともっと分からなかった。

 私は中学校では目立たなかったこともあって、勉強ができるひととも、悪ぶっていたひととも分け隔てなく付き合っていた。その当時、ちょっと怖がられていたひとともフツーに接していたが、そんなひとが社長になっているのを知って、びっくりもした。35年ものあいだ、いろんなことがあって現在に至ったのだろうな。それは誰もみな、同じだろうが、、、。

 こうして同期会は終わった。220人の同窓生のうち、約60名が出席して、恩師の先生も4名がおいで下さった。数学の高橋先生はその当時、大学を卒業したばかりだった。で、おとしを聞いてみるとまだ60歳にもなっておらず、今となっては我々とあまり変わらないのだ、ということをしみじみと実感したのである。ちなみに彼はその当時、あるエピソードの結末として『クソにぎり』というあだ名で呼ばれていたことを、先生のお顔を見ると同時に思い出した(プッと吹き出しそうになったが、やっと堪えた/高橋先生、すいませんです)。


現象の探求 (2011年10月28日)

 今日の午前中には、高木研究室のM2・長谷川くんとの個別ゼミがあった。もともと共同研究だったWPC構造の立体耐震壁実験の担当者が彼であることから、実験結果の検討とか各種限界状態の設定などについて私が相談に乗っている。実験自体は既に2年前のJCI年次論文に速報的に報告しており、今はひび割れ幅とかひずみや変形などの詳細データの検討をやって貰っている。

 この実験で観察された現象は結構複雑で、どうしてかなあと頭をひねることも多いのだが、今日はそのようになった理由の仮説が(珍しく)立てられたので、二人とも大いに満足した。もっともその仮説が正しいかどうかは、長谷川くんによるこれからの検証にかかっているのだが。

 よくこのページで書いているが、得られた実験結果をどう解釈するかを考えることは知的作業としてはとても楽しくて、こうした行為は知的欲求を大いに満足させてくれる。それが設計にはすぐに役に立たなくても、である。自分の目の前にある疑問を解決するということは、たとえそれが(世間にとっては)ちっぽけな疑問であっても当人にとっては非常に重要なことだと思う。そのような経験を積むことによって、縦横無尽の思考法を身につけることができる、と私は考える。

 なので、実験結果の整理とか解釈のときには、設計云々はあまり意識しないでやってよい。これは頭の体操なのだ、真理の探究なのだ、というふうに考えて取り組んで欲しい。


雑感10月 (2011年10月27日 その2)

 この文章を載せるコーナーは「メモランダム」と言うのに、なんで「雑感」なんてタイトルの文章を書くのか、とは言わないで下さい。まさに雑感なんですから。

 今朝は寒くなりましたね。我が家では今シーズン初めてガス・ファンヒーターをつけました。延長コードが見つからなくて、バタバタやりましたが。

 この10月は結構大変でした。私はサヴァティカルを頂いているので講義とか会議出席は免除されているのですが、それにもかかわらず忙しかったです。科研費の申請があったことが一番でしょうが、その他にも社会貢献と称する(学外での)会議がたくさんあったり、私用で結構な労力を要したり、であたふたと過ごしてきました。たった今、民間の研究助成申請書を提出して、ひと段落ついた気分がしています。

 大学からの研究費はどんどん少なくなって来ているので、科研費を始めとする外部資金の導入が不可欠です。企業からの寄付金はこの時代にはもうほとんどないと言っても過言ではありません。この十年近くは、民間の研究助成にアプライしたことはありませんでしたが、もう、いただけるものは何でもいただく、ってな感じです。

 そうでした、今年の6月に買ったばっかりのiMacのHDがクラッシュして全交換になって戻ってきました。せっかくソフトをインストールして使えるようにしたのに、こんなに早く壊れるとは想定外でした。で、その原因がサードパーティ製の増設メモリにある可能性がある、という診断書が付随していました。でも、アップル純正のメモリを付けると4万円近い出費となります。「故障の可能性がある」と言われても、どうすればよいのか分かりません。ちょっと不親切ですよね。まあ、アップルとしてはそうコメントせざるを得ないのも分かりますけど、、、。

 で、その新しくなったiMacで、「iCloudに接続する」というのがあったので試しにつないでみました。でも、私はiPhoneもiPadも持っていないので、あんまり恩恵は無いみたいです。使い方もよく分かりません。こんなおじさんはiCloudにつないじゃいけないんでしょうか。

 いつかの夕刊にサザンの原坊が「トニー・ベネットのデュエットがいいよ」と書いていたので、CD2枚を買ってみました。私は今までトニー・ベネットを聴いたことはありませんし、ジャズにも興味がありませんでした。でも原坊が勧めるんだったら、と思って今聴いています。まあ、ジャズとポップスとの境界は曖昧なので、聴いていても違和感はありません。ちょっとメロウな曲調だなと思うくらいです。

 10月号の『建築雑誌』が、私の所属するソサイエティ(学会内の原子力「村」のことです)にとってはちょっとした(本当は大いなる)問題になっています。原子力建築運営委員会主査の滝口先生もかなり憤慨されています。私も、同じ建築学会員が仲間を詰問する、というのはいただけないなあ、と思いますし、何より他の建築学会員に間違った情報・印象を与えることを危惧します。

 原子力の世界で通常使っている「建屋」という用語が差別用語である、というご説には特に驚きました。本当かなあ、という感じです。ご興味の方は『建築雑誌』2011年10月号の27、28ページをご覧下さい。だんだん腹が立って来たので書きますが、このような言説を掲載した編集委員会の見識も問われると思いますよ。巷間の感情にそのまま乗っかったような論調は、冷静であるべき学会には相応しくないと思います。

 原子力施設が3・11の地震で、どのような震動被害を受けたのかは、まだ明らかになっていません。それらの情報公開を待ち、情報を精査した上で建築学会としての見解を表明する、というのが我々の立場です。それをなぜ待てないのでしょうか。この問題はしばらく続くでしょうから、また書こうと思います。


ある120周年 (2011年10月27日)

 このあいだの朝日新聞の投稿欄に、今年は濃尾地震からちょうど120年めであることが載っていた。あっ、そうだったな、という感じである。不覚にも私はこのことを忘れていた。われわれ地震に関連する学問を研究する者にとって、この直下型地震は忘れてはならない地震のひとつであろう。この地震で多くのひとが亡くなるとともに、建物や土木構造物の被害も多数発生した。

 だが多分この地震は、明治維新とともに近代化が始まった日本において、科学的な被害調査が行われた初めての地震だったと思う。地震学会を創設したジョン・ミルンを始めとして、ジョサイア・コンドルも被害調査に赴いた。帝国大学造家学科の学生だった伊東忠太や遠藤於菟もその調査に参加している。

 この被害調査の結果、煉瓦造の建物がきわめて脆く破壊したことが分かり、これを契機として煉瓦造は衰退し、それに代わって鉄筋コンクリート造などの耐震構造へと発展してゆく。このときにはまだ建築構造学はハッキリとした形を表してはいなかったが、この地震からしばらくして佐野利器が登場する。

 このような地震が120年前にあった地元では、そのときの悲惨さを忘れることなく伝承しているところもあることにビックリもしたし、また嬉しくもあった。災害の経験と教訓とを忘れることなく、次代へと継承してゆくこともまた大切である。投稿してくれた方に感謝したい。


お祝いする (2011年10月25日)

 先日、塩原等先生(東大)の日本建築学会賞受賞をお祝いするパーティが開かれた。青山先生、小谷先生、岡田先生をはじめとして武藤・青山・小谷研究室の蒼々たる顔ぶれが集まった。建築学会などの仕事関係の方にも大勢お集まりいただいた。私は幹事役のひとりだったので、主催者側として御礼を申し上げたい。

Shiohara 2011 October

 で、乾杯の音頭のときに青山博之先生が研究室の面々に対してひとこと苦言を呈されたのがまず注意を惹いた。建築学会の論文集(いわゆる黄表紙—江戸時代の娯楽本のことではない)に青山ファミリーの名前を最近あまり見掛けないのは困ったものだ、もっと論文を書きなさい、という内容である。全くもって耳が痛いですな。われわれ研究者は基本的には論文を書いてナンボの世界に生きているので、青山先生のまさに仰る通りである。塩原さんのお祝いの席でこのようなことをお話されたということは、相当の危機意識がおありだったのだろう。もって肝に銘ずべし、である。

 それからこれは小谷先生と青山先生とが二人して発言されたのだが、塩原さんが柱梁接合部パネルの破壊機構を解明したために、これからあとに続く後輩達はもうやることがなくなって困るだろう、というのである。このことについては私も実はいろいろと考えているのだが、柱梁接合部について全くやることがなくなる、ということはないと思っている。

 確かに今までのように「柱梁接合部のせん断抵抗機構」のような研究はもはや必要ないだろう。だが、柱や梁まで含んだ部分骨組として見ると、まだまだやることはあると思われる。私の研究室でもやっている性能評価などがその例である。そもそも研究テーマは自分で見つけるものであって、なにがしかの問題意識が発生するところには必ず研究テーマが潜んでいる。だから、そのような感受性を磨いておくことが必要なのだ。ということで、お二人の大先生の心配は杞憂であろう。

 私が最近思っているのは、RC構造はローテクにもかかわらず、さらに言えば小谷先生は「もうRC構造にはやることはないから他の研究対象を探しなさい」と言われるが、そんなことはなく、研究しなければならないことは益々増えている。むしろ、分かったような気になっていただけ、とさえ思い始めている(ちょっと不遜かな)。

 これは、性能評価型設計法を策定するに当たって必要になりそうな研究をピックアップしても言えることだし、最近建築学会でやり始めた保有水平耐力計算規準(案)の策定のための諸々の課題を考えても言えることである。そんなわけで私の研究者としての興味は今後もRCとPC(プレストレスト・コンクリート構造)とに向かい続けることだろう。

 さて、私も大学院生だったときから柱梁接合部パネルのせん断伝達機構を研究して来たのは、RC分野の方ならご承知のはずである。もちろん、私以外にも多くの方がこのテーマにトライしてきた。しかし結局のところ、首尾一貫した理論を構築することは出来なかった。もちろん、不完全ながらもそれらの研究成果を使って規準や指針も整備してきた。そうしないと現実の建物を設計することはできないから。多くの先輩方とともにそのような活動に参画できたことを私は誇りに思っている。

 そのようななかで、全く異なる発想でこの問題に切り込み、それをほぼ解決した(だが、細かい点ではまだ問題が残っているように思うが)塩原さんはやはりすごいひとだと思う。まあ、学生のときから彼の天才ぶりは周知の事実であったが、その才能が柱梁接合部に向けられるとは思っていなかった。だが彼も言っていたが、その道のりは決して平坦ではなく、私たちには想像できない苦悩があったようだ。天才は孤独である、ということだろう。ちょっと失礼な物言いをお許しいただければ、青山先生も小谷先生も解決し得なかった問題を、塩原さんは見事に解いたのである。

 だが今だから言うが、塩原理論に対して私は何度も論戦を挑み(JCI年次大会などで塩原さんと私の論戦を面白く見ていた方も多いだろう)、二人だけのメールのやり取りで相当に激しくやり合ったこともあった。多分そんなやり取りが塩原さんにとっても少しは役に立ったんじゃないかと思う。それが、彼のスピーチにあった「北山さんはいつも楽しそうに研究している」という一言に現れたんだと、私は勝手に解釈した。それは私にとっても嬉しいことである。塩原さんは昔も今も私にとっては最も身近な、敬愛すべき兄貴分であるから、これからも協力して研究してゆくことだろう。塩原さん、ほんとうにおめでとうございました。


お金を集める (2011年10月18日)

 研究室で研究費の申請書作りをしていると、見知らぬ学生さんがやって来た。所属と氏名を丁寧に名乗ったところは立派だったが、話を聞いてみると11月初頭に開かれる大学祭の実行委員として教員から寄付を集めている、ということが分かった。参考までに実行委員会全体ではどのくらいの額を扱っているのか聞いてみたら、結構な額である。

 そしてその文書の「大学祭実行委員会」という文字を見るに及んで、私は30年近く前のことを急に思い出した。このページに以前に書いたが、私は五月祭の工学部実行委員会委員をやっていて、いろんな企業を回ってスポンサー取りに精を出していた。それは骨の折れる、根気のいる作業だった。お金をひとから出させることが如何に大変か、そのときに分かったような気がする。それでも自分が実行委員だったときには、学内の先生から寄付をいただこうなどとは露ほども考えたことはなかった。

 そんなことを思い出したので、私のこの大昔の苦労談を現役の実行委員に聞かせてやって、「というわけだから、私は寄付しません」と宣言したのである。こんなことを言う教員は今までにいなかっただろうと思う。それを大人しく聞いていた彼らはキョトンとした顔をしていたが、それでも「ありがとうございました」と言って出て行った。何がありがたかったのか、それは問わなかった。世のなか、そんなに甘くはないことを知って欲しいですな。


耳より目、か (2011年10月17日)

 先週だったかテレビをつけたら、たまたまN響アワーかなにかをやっていて、それがラフマニノフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章のフィナーレ近くだった。この曲はiPodに入れて持ち歩いているのだが、ジャンルにかかわらずランダムにいつも流し聞きしているせいか、正直言ってその良さをあまり認識していなかった。ラフマニノフのピアノ・コンチェルトなら第2番でしょ、という先入観もあっただろう。

 ところがピアニストの様子とか演奏される楽器などを映像として見ながら、この曲を聴いてみると、なかなか良いのである。ピアニストが誰だったかそれさえ分からなかったが、その熱演を見ているだけでもうウットリ、ビックリという感じだった。指の動きなんかはもう、人間ワザとは思えませんでした。

 この曲にどんな楽器が参加しているかも映像を見て始めて分かったようなものもあって(やっぱり素人じゃ、複雑な音のミルフィーユを全て聞き分けることは出来ないでしょうな)、目からの情報と耳からのそれとが渾然一体となることによって、この曲の良さが初めて理解できたような気がする。

 ということで、生で演奏を聴くことも大切なんじゃないかということを、再認識した。ちなみに私のiPodにはスクリャービンのピアノ協奏曲も入っていますが、これもよい曲です(残念ながらまだ、生で聴いたことはありません/ラフマニノフやチャイコフスキーに較べるとマイナーなせいか?)。


交 換 (2011年10月16日)

 久しぶりにいい天気になりましたね。とは言え、私は科研費申請の書類作りで学校に来ています。やっと研究計画のブロック図を仕上げたところで、先日は「研究目的」の部分を芳村学先生に見ていただきました。お忙しいなかをお読みいただき、貴重なご助言を賜りました。いつも書いていますが研究室の先輩って、いつまでたってもありがたいとつくづく思います。芳村先生には心から感謝を申し上げます。

 さて、私はソフトバンクの携帯電話を使っていますが、先日ソフトバンクから手紙が来ました。私の機種は今年の11月から機能の一部が使えなくなるから(先方のシステム変更の都合らしいです)、無償で交換してやる、という案内です。私の携帯はもう6年くらい経ちますが、別に不具合も無く、メールと通話しか使っていないので機能も十分です。ブルートゥースの設定もやり直さないといけないので交換なんかして欲しくありません。でも、仕方が無いからソフトバンクのお店に行きました。

 そうしたら、その不親切なことと言ったらなかったです。もう、タダで交換してやる、という態度がアリアリですな。もちろん言葉使いは丁寧を極めています。しかし、慇懃無礼とはまさにこのことでしょう。根底には、タダでやってやるんだから文句を言うな、という感覚があるために、何でも杓子定規で役人チックでした。交換に必要なものが揃ってないので交換できない、と言うのです。その「必要なもの」というのが、案内文のどこにも書いてないのに、、、。

 という訳で、都合3回もそのお店に行くはめになりました。忙しいのに、いったいひとを何だと思っているんでしょうか。自分たちの勝手な都合で他人に面倒を掛けている、という認識くらい持って欲しいですね。


『土』読了 (2011年10月12日)

 このページで何度か触れて来た長塚節著『土』(新潮文庫)をついに読み終わりました。茨城県の鬼怒川べりの貧しい農村を舞台とした小説ですが、読んでいてホントに気が滅入りました。土にへばりついて生きざるを得なかった貧農を主人公としていて、その希望のない日常を、厳しい自然環境の描写を交えながら淡々と描いているのですが、ラスト近くでは彼の住む陋屋すら火事で燃えてしまって、もうあまりの悲惨さに涙も出ないといった感じでした。

 これに加えて、これといったストーリーがないのもこの小説の特徴で、会話のカギ括弧が出て来るとほっとするくらいです。しかしその会話も著しい方言で綴られており、理解するのに苦労しました。よくこんな小説が朝日新聞に百五十回も掲載できたと思いますね。その当時、どんなひとがどんな感慨を持ってこの新聞小説を読んだのでしょうか。

 この小説の序文を明治45年に書いたのが、あの夏目漱石でした。しかしそれを読むと、この小説をユニークと評する傍ら、この小説は「むしろ苦しい読みものである。決して面白いから読めとは云いにくい。」と言っています。さらには「読みづらい」とか「ただ土を掘り下げて暗い中へ落ちて行くだけである」などとも書いています。じゃあ、なんでこの小説を読むのかと言えば、読むことが「苦しいから読めというのだと告げたい」そうです。うひゃあ、ですな。

 私はこの序文を本編を読み終わってから読んだのですが、この序文を先に読んだひとは、とてもじゃないが『土』を読もうという気が起きないのではないかと危惧します。私は以前にも書いた通り、藤沢周平の『白き瓶 小説長塚節』を読んだから『土』を読んでみようという気になり、病と旅のなかで短歌を作り続けた長塚節の生涯を知っていたからこそ、そのような境遇にあったひとがどのような小説を書いたのか、ということに興味があった訳です。要は長塚節そのひとに感心がなければ、この『土』を読了することは相当程度に難しいと思いますね。

 ちなみに『土』は文庫本で350ページ余ですが、昔の文庫本のように小さくて読みにくい活字が使われていますので、そのことも読み辛さに拍車をかけています。とは言え、平成22年で81刷を数えていますので、それなりに売れ続けているということでしょうか。

 江戸時代の農民はテレビの時代劇で描かれるほど悲惨ではなかった、ということが時々いわれます。しかし明治時代も末になった頃でさえ、この『土』の主人公のような貧農はごろごろいたのだ、ということを知って、現代という豊かな時代のありがたさがいっそう身に沁みました。これも日本の国をここまで発展させてくれた先人たちのお陰です。

 彼ら先人達の苦痛に満ちた生活の果てに得られた豊かさを現代のわれわれは享受しています(そんな苦難な時代のことはすっかり忘れて、です)。その生活を捨てて、『土』のころに戻ろうと言うひとはいないでしょう。そう考えると、現在問題になっているエネルギー不足に対する見方もまた、自ずから変わってくると思います。まあこれ以上書くと誤解を受けそうなのでやめますが、私の言いたいことは理解いただけたと思います。

 さて、私の雑文をここまで読んで下さったあなた、『土』を読んでみようという気になりましたか。それとも止めておこうと、、、。この『土』は私自身にとっては、それはそれで「驚くべき小説」の一冊になったことは紛れもない事実です。


木を伐る (2011年10月6日)

 今、科研費の研究調書を書いていますが、ウンウン唸るばかりで一向に進まないので、こちらに「逃避」してきました。ちょっとした憂さ晴らしです。

 最近、光の塔がある教室棟の中庭の中央にある木が突然、伐採されました。南大沢に移転して以来、そこにあった木です。別に枯れそうだったわけでもありません。おやっと思ったのですが、今日、図書館裏の武蔵野の雑木林を通る小径を歩いていたら、道脇の結構太い木が二本、伐られていました。昨年から始まった建物のメンテナンスのために、建物脇の樹木がバッサリやられましたが、それ以来、木々たちにとっては受難が続いているようです。

 でも、元気な木を伐ってしまうなんて、ちょっと野蛮な気がしますね。人間側の勝手な理由はいろいろとあるのでしょうが、面倒でも移植するとか、ほかに手は無かったのでしょうか。


後期はじまる (2011年10月4日 その2)

 昨日から後期の講義が始まりました。といっても私はサバティカルなので講義は免除されていて、本当に呑気なものです。ただ昨日は建築設計製図2の初回で、構造ガイダンスだけはやってくれと小林克弘先生からご依頼があったので、久しぶりに講義をやりました。

 例によって発声の感覚が鈍っていたため、またもや不必要に大きな声を出してしまい、疲れました。半年のあいだ講義をやらなかった訳ですが、実は講義自体が健康増進にけっこう役立っているような気がしてきました。90分間大声で話し、歩き回り、腕を高く上げて板書し、それを黒板消しでゴシゴシとこすって消す、この一連の動作が健康にはいいんじゃないか、ということです。どうでしょうか。

 夕方には、塩原等先生の建築学会賞受賞記念パーティの幹事会が東大・地震研究所であったため、半年ぶりに本郷を訪れました。あの3・11に本郷で帰宅難民になって以来です。

 本郷に行ったときには、できるだけ正門前の喫茶店『ルオー』でカレーを食べるようにしています。学生時代から馴染みのお店で、マスターも変わらずにおいででした。「久しぶりですね。またのおいでをお待ちしています」とマスターから言われて、とても懐かしい気分に浸りました。

 そのあと地震研で壁谷澤寿海先生を委員長とした幹事会をやって、終わってから永井、石川、伊藤、楠原、高橋、大西の諸君と久しぶりに一献傾けました。と言っても私はお酒は飲めませんので、ほどほどにしましたが。気がつけば私が一番の年長でしたが、同門の後輩たちとの楽しい話は尽きず、久しぶりに大笑いできました。やっぱり、青山・小谷・塩原ファミリーの結束はいいですね。


駒場の時代1980(その5) (2011年10月4日)

 駒場では秋になると駒場祭という名前の学園祭がある。本郷の五月祭は有名だが、東大の教養学部でも学園祭が開かれるのである。そこで駒場のクラスでも何か催し物をしようということになって、いつもの面子(コマンタレブーの仲間たち)でおでん屋か何かをやることになった。そのときのことはほとんど憶えていないが、例によって村上哲くんがリーダーシップを発揮して、取り仕切ってくれたように思う。大相撲の11月場所の頃なので結構寒くて、素人ながらまあ売り上げはあったのだろう。私の母親も見に来てくれたのを覚えている。

 大学に入ったらすぐに自動車の運転免許を取ろうと思っていた。ところが早稲田の祖父の家で木の枝を切っていたときに、誤って自分が持っている枝を切ってしまった。梯子でかなり高くまで登っていたのだが、なかなか切れない枝があったので、左手で思わず強く握って右手でノコギリを挽いたときにスパッと枝が切れたのである。そうなれば、掴んでいた左手の反力が急に無くなるので、そのまま左肩から真っ逆さまにあえなく転落したのであった。道理としては当たり前、である。もの凄く痛かったぞ。

 このお陰で左腕を骨折したため、1年生の夏休みに免許を取ることはできなかった。左腕を包帯で吊った私の姿を見た駒場の級友たちからは「北山も木から落ちる」なんて、猿並みに言われたものであった。

 大学生になって(特に東大生は)皆が必ずやるアルバイトとして、家庭教師がある。東大駒場の学生課の掲示板には家庭教師募集の張り紙がいつもたくさん貼られていた。で、その例に漏れず私も駒場時代に一度だけ家庭教師をやった。都立戸山高校に通う男の子であった。私が高校時代に使った数学の参考書などの問題を解いてもらって説明したが、あまり熱心な子じゃなかったな。私の説明もまずかったのかも知れない。すぐにその子の母親から「もう結構です」と宣告されて首になってしまった。

 アルバイトで思い出したのだが、これは駒場時代ではなくて建築学科に進学してからであったが、岡田新一設計事務所で2ヶ月くらいバイトしたことがあった。といってもその設計事務所に通った訳ではない。当時、本郷の東大病院の改築が計画されていて、それを岡田新一さんが請け負ったらしい。で、東大病院の一室に岡田事務所の分室が置かれて、そこで東大病院の使われ方を調査していた。岡田事務所から常時二、三人が来ていて、そのほかに東大側からも生き字引みたいな方が来ていたと思う。

 そこで何をしたかというと、東大病院内のひと部屋ごとを見て回って、そこの使われ方を使っているひとから逐一ヒアリングして記録する、という仕事であった。そのときに私が心底から驚いたことがある。なんせ古くからある東大病院なので、得体の知れない部屋があるのである。周りの人に聞いても何の部屋か分からず、中に何があるかも分からなかったりした。ヒンヤリとして薄暗いなかに重厚な扉がヒッソリと閉まっているのだ。病院という仕事柄を考えると、想像はどんどんと悪い方へ進んで行く。なのでそこに足を踏み入れるという勇気は湧かなかった。

 そうやっていろんなところを回っていると、ドクターよりも威張っている看護婦さんがいたり、話し好きな技官?の方に捕まっていろんな蘊蓄を聞かされたりした。しかし総じて自分のスペースが如何に少ないかということを聞かされたので、この結果を集積すると膨大なスペースを要することになるから、どうやってケリをつけるんだろうかと非常に訝しかった。こんなことを丁寧に調べても、本当に改築できるのかと思ったりもした。まあ、そこをうまく落ち着かせるのが建築家の仕事なんでしょうけどね。


教育を考える 〜大阪の事例から〜 (2011年10月3日 その2)

 大阪府知事が教育に対して恐るべき施策を打ち出しました。この方は今までにもいろいろと話題を提供してくれましたが、よその自治体のこともあってコメントしませんでした。しかし対象が教育にまで及んだ今、黙っている訳にはいきません。

 いつも書いているように教育の成果は短期的に測れるものではなく、次世代以降にじわっと効いてくるものです。また教育において重要なのは、常に教育を受けるひと(小学生とか中学生です)のことを中心に考えることでしょう。

 しかるにこの知事は近視眼的に教育を捉え、学校の先生たちを締め付けることによって教育の現場がよくなると思っているようです。そんなことをして、そのように抑圧された先生から教えを受ける児童・生徒は幸せでしょうか。今までよりも良い教育が施されるでしょうか。私は疑問ですね。

 この方の唱導することには、教育を受けるひとの視点が決定的に欠落しています。そんなに現場を管理することじゃなくて、もっと健全で生産的な目標を立てられないのでしょうか。このひとは「維新」を名乗っているようですが、彼がやろうとしていることは維新ではありません。彼の施策には恐怖政治の色が濃く滲んでいます。よく書いているように、世間に絶望的な閉塞感が漂っているときには、このような「独裁者」が出現するのは歴史が教えてくれる事実です。一般庶民にはこのことを心して行動して欲しいと切に思います。


駒場の時代1980(その4) (2011年10月3日)

 駒場の頃には、いつの間にか気の合う奴らが集まってノートに好き勝手なことを書いて読み回す、同人誌みたいなものを作るようになった。それはフランス語未修のわれわれらしく『Comment-Allez Vous(コマンタレブー)』という名前であった。そのメンバーは誰だったのか正確には憶えていないが村上哲(JAXA)、茂山俊和(東大天文学科)、関堅(富士通)、田村善明(東洋大学)、西沢敏雄(JAXA)、町田大輔(国際教養大学)、常行真司(東大物理学科)、岡安章夫(東京海洋大学)、北山和宏、といった面々であった。

 しかしそこに何が書かれていたのか、全く憶えていない。きっと今見れば青春のこっぱずかしいひとコマが綴られていることだろう。原本が今どこにあるのか知らないが、見るのが相当程度に怖いです。

 彼らとは東大の寮によく出掛けた。東大にはいろんなところに寮があって、谷川岳の麓、山中湖畔、西伊豆・戸田(へだ)の岬、中伊豆・下賀茂などによく行ったものである。その当時、自宅が東京にあり車を持っていたのが私と岡安だったので、大概はそれらの車で出かけた。戸田寮の話はいろんなところに書いたのでここでは触れない。下賀茂に行ったときには町田の中古車を使ったのだが、確か帰りに車の具合が悪くなって困った記憶がある。その後、どうしたのか忘れたが。

 谷川寮には駒場のクラスの連中のほかに、中学校の同級生だった越海敏裕くんとも一緒に行った。彼の家とうちとは二百メートルほどしか離れておらず、中学の三年間はいつも越海がうちに迎えに来てくれて一緒に登校した。うちはアパートの三階にあったのだが、毎朝ベランダの下から越海が「き・た・や・ま・く〜ん」と大声で呼ぶのである。何だか古き良き時代といった感じでとても懐かしい。

 高校は都立高の学校群制度のせいで別々になったが、大学でまた一緒になった。彼は法学部である。どこかで書いたが彼の兄貴は東大・建築学科の二年先輩で、今は国土交通省のエリート官僚である。珍しい苗字なのでご存知の同業者も多いであろう。こちらの兄貴はエリートなので私なんぞには敷居が高いが、塩原等先生の結婚式のときに(塩原さんは当時は建設省に出向していた)、久し振りにお会いした記憶がある。学生時代にはこの兄貴から不要になった製図板を貰って、大学の製図室に置いて使っていた。


スーパーマン (2011年9月30日 その2)

 暑かった9月も今日でおしまいですね。お彼岸を過ぎたらとたんに涼しくなって、まさに暦通りでした。

 さて、マリナーズのイチローが184安打でシーズンを終了しました。周囲では11年連続の200本安打が途切れた、といって残念がっていますが、そう言っているのは世間だけであって、彼自身はそんな風には思っていないでしょうね。184安打だってもの凄い数字だと思います。メジャーリーグでレギュラー・メンバーとして試合に出続けていること自体が、驚異的な記録だと思いますよ。イチローがどれだけ努力しているのかなんて周囲には分かりませんが、今までの成績はそのことを十分に知らしめています。

 だから、そのような努力の末に得た成績に対して、彼は誇りこそすれ、がっかりしたりなんかはしないでしょう。反省することはあるでしょうが、それは多分次のシーズンに備えるためであって、常に前を向いているはずです。彼はやはりスーパーマンですな。来季の活躍を是非、期待しています。


駒場の時代1980(その3) (2011年9月30日)

 駒場に通うようになって、私はサッカーをやろうと思った。高校生の頃は一年で止めてしまったがサッカー自体は好きだったので、大学に入ったら気楽にやれるかも知れないと思ったのだ。それで同窓会館のさらに奥にあるグランドに行ってみた。だがそこでやっていたのはサッカーではなくて、なんか見たこともないスポーツだった。短い棒みたいなモノを振り回して小さな玉を追いかけている。しばらくボケッと突っ立て見ているとそこからひとがやって来て、やってみないかと誘われた。それはグラウンド・ホッケーであった。

 まあ、サッカーじゃないけどいいかと気楽に考えて、私はホッケー部に入ったのである。高校時代にホッケーなんかやったことがある人間はいないだろうから、まあいっか、くらいに考えたが、それは間違いだった。なんと学芸大学付属高校にはホッケー部があって、そこからきた奴はすでにもうレギュラー級に上手かった。こちらはホッケーのスティックなんか触ったこともなく、ルールも知らない。

 それなのに入った年の5月の連休前くらいに一橋大学との対抗戦があるから、その新人戦に出ろと言われてビックリした。えっ、だってコーナー・スローすらできないんですけど、、、。そして案の定、空振りばかりで役には立たなかった。ただし、昔サッカーをやっていたお陰でポジショニングだけは良かったらしく、一年先輩の羽田野健さんから「お前、いつもいい場所にいるな」なんて褒めてもらったりした。でもその場所で、ひとりでコケたりしていたんですけどね、、、。ちなみに羽田野さんは黒マジックのために一年留年して、私と同級生となって建築学科に進学した。でもクラブの先輩だったので「さん」付けで呼んでいたら、「北山、俺をさん付けで呼ぶことはないぞ、もう同級生なんだから」と言われて、さらに困ってしまった。でもクラブの上下関係って、そんなもんじゃないですからね。今でも「羽田野さん」と(卒業以来会っていないが)呼んでいる。

 ホッケー部では練習が終わるとグラウンドのトラックを走るのであるが、それは「十二分間走」と呼ばれていた。その名のとおり十二分間走るだけだが、私はその合理的でリベラルな考え方にホントに驚いた。それは自分のペースで好きなように走ってよい、というのである。あまつさえ、疲れて走りたくないひとは坐って休んでいてもよい。なんでも東大教育学部の体育理論でそう言うのがあるらしくて、そのほかにも水は飲んでいいし、疲れたら日陰で休んでよいし、とにかく科学的な根拠に裏打ちされた練習法だったのである。さすが東大、運動部の練習にもその成果が取り入れられているんだと思って感心した。高校のときのサッカー部ではとにかく精神第一主義で、先輩から怒鳴られっぱなしであったが、東大ではそんな野蛮なひとは皆無であった。

 キャンパス内の駒場寮にホッケー部の部室があって、そこで先輩方と麻雀をしたりしたが、お酒を飲んで酔っ払うと裸になる先輩がいたりして、びっくりした(なんせこちらは高校出たてのホヤホヤですから)。一晩麻雀して朝方に家に帰ったら、母親が心配していたらしくて、電話くらいしなさいと叱られた。

 ホッケーというスポーツは日本ではとてもマイナーで、その当時の東大ホッケー部(れっきとした運動会所属)は一部と二部とを行ったり来たりする程、結構強いレベルにあったらしい。ただ私はスポーツクラブの夏合宿というのがたまらなくイヤだった。おまけにホッケー部の夏合宿は同窓会館に寝泊まりして練習の合間に授業に出る、という生活らしくてどうにも肌に合わず、その前にホッケー部を辞めてしまった。


駒場の時代1980(その2) (2011年9月29日)

 さて1年生になった春に、オリエンテーションと称して山中湖畔にある大学の寮に1泊2日で出掛けた。よく憶えていないが、この面倒を見るのが同じクラス名称の2年生達で(オリエンテーションなのでオリターと呼ばれていた/和製英語だろうな)、彼らの差配のもとに行動した。オリターのなかに酔っ払ってギターを爪弾くひとがいて、それは建築学科に進んだ越 尉さんだったのだが、高校を卒業したばかりの私にとってはひどく大人びて見えた。

 夜中に7、8人が車座になってトランプをしているときに(多分、大貧民かなんかだったのだろうが)、田村善明くんが「私らのルールでは、、、」と言い出したときの驚きを今でも憶えている。だって、まだ十八になったばかりのひとが「私ら」なんて老人ぽく言うのがどうにも奇異で、私の感覚には馴染まなかったからである。彼はその後航空学科に進んで、今は東洋大学の教授になっている。その持ち前の理屈っぽさで学生たちを煙に巻いていることだろうな。

 900番教室という大教室があって(そこにはパイプオルガンさえあったが)、その裏に同窓会館という木造二階建てのあばら屋が建っていた。今はもうない。その同窓会館で、ある晩、クラスの大勢が集まってすき焼き宴会を開いた。七輪の炭火ですき焼きをいただくのであるが、皆まだお酒に馴れていないために、もう無茶苦茶な宴会になった。突然、中埜が二階の窓から外に向かってブハーっと吐いた(おお、恐ろしい)。私もべろべろになったがお酒に弱いためにすぐに寝てしまった。それを心配した白石知己くんが私の自宅に電話して、そのあと家まで連れ帰ってくれた。白石くんは本郷では都市工学科に進み、卒論ではなんと私の叔父(当時はそこの助教授で綾日出教という)の研究室に配属となって、そこで下水処理かなんかの卒論を書いた。これも奇しき因縁かも知れないな。

 よく遊びに行ったのは村上哲くんの下宿だった。私は当時新大久保に住んでいたので、山手線で数駅のところのその下宿にはよく行った。彼は岩手県二戸の出身だが蛮カラな有名高校の出身だったため、本当は女の子と遊びたいくせに硬派のふりをしていた好青年であった。その木造二階建ての下宿はトイレも電話も共有なので、夜そこで数名で集まったときにはトイレに行くときにも周囲の迷惑にならないように静かにしたものである。

 岩手には電車がなかったらしく、いつも「汽車の時間は、、、」などと汽車汽車と言っていたが、東京には汽車なぞはなくて電車しかなく、しかも山手線なんかは直ぐにやって来るので、あいつ何言ってんだってな感じでよくからかわれていた。村上は酒好きで、よく「昨日は独りで飲んで泥酔しちゃったよ」とか言っていたが、独りで泥酔して楽しいんだろうか、と訝ったものである。


駒場の時代1980(その1)(2011年9月28日)

 注; 以下の文章はここの続きです。

 さて、先輩方の時代から30年後、私は彼らと同じ旧一高正門をくぐって駒場での学生生活をスタートさせた。そして希望どおりフランス語未修のクラスに配属になった。ただ私は高校時代に第二外国語としてフランス語を一年間履修したが、その程度ではフランス語を学習したとは言えないと思ったので「未修」を選んだ。フランス語は加藤晴久先生に習ったが、できたばかりのLL教室でハイテクを駆使して発音とかヒアリングとかを重視した授業を受けた記憶がある。高校で学んだことは大いに役に立った。

 その駒場のクラスだが、全員が男性だったがいったい何人くらいいたのだろうか、全く記憶がない。そこで屋根裏に仕舞った箱を捜すと、すっかり忘れていたその当時の集合写真やスナップ写真、それから藁半紙に手書きの自己紹介文が出てきたのである。で、数えたら42名であった。名簿の名前を見てすぐに思い出せたひと、全く記憶にないひとと様々である。

 このクラスには同じ都立A高校出身者が私を含めて3名いた。その中で高橋道和くんは高校のときからいつも遊んでばかりいるように見えたが、ものすごく頭のイイ奴で大学でも如才なくその天性は発揮されたようだ。その後は文部省のエリート官僚になって、今も活躍しているらしい。さすがミチヤス、たいしたもんだ。

 ちなみに手元にあったクラス新聞を見ると、高橋は私と一緒に生協委員をつとめただけでなく、コンパ委員にも名前があった。コンパ委員(コンパなのになんで“委員”なんだろうか、という疑問は脇に置いて、、、)はさらに厚川、川野、野島というメンツで、今思えばああなるほどな、と頷ける面々である。

 このうち厚川は駒場時代を1年で止めにして、その後慶応義塾大学医学部に進んで医者になった。川野はテニスで真っ黒に日焼けしていたが勉強には熱心でなく、私とは物理実験などでペアを組んでいたのでいつも迷惑を蒙った。今は何をしているのか、駒場のときのクラス会はここのところ開かれていないのでさっぱり分からない。野島はその後、私と一緒に建築学科に進学して今は福井大学教授をしているが、その頃は私のノートをよく写していて、試験前などには黒塗りの自家用車に乗って(彼は東京東部にある地場の建設会社の御曹司だった)私の家まで来てはノートをコピーして行ったな。

 このクラスから建築学科に進んだのは私を含めて4人いた。前述の野島慎二くんのほかに中埜良昭くん、前田昭彦くんで全員が大学の教員になった。特に中埜とは4年生で配属になった卒論の研究室(青山・小谷研究室)も同じになったため、本当に長い付き合いである。しかし駒場の頃の彼は六本木の飲み屋でアルバイトしていたくらいの軟派だったから正直あまり付き合いがなく、日頃たむろするグループも違っていた。

 うえに出てきた生協委員というのは何をする役目かというと、授業で使う教科書をクラスごとに取りまとめて購入するための雑用をする係だった。ただしこの係には役得があった。生協ではレシートを貯めると一年後に割戻金があったので、多額のレシートを貯めると結構な余得が懐に入ったのである。多分、ミチヤスと山分けしたのだろうな、もう忘れたが。


ふとん (2011年9月27日)

 べつに田山花袋の『蒲団』を読んだ訳ではない。愛用してきた冬ふとんがついにダメになった。羽毛のよいものだったから、メンテナンスすれば使い続けられるかと思っていた。ところが女房がふとん屋さんに持っていってリフォームを頼んだところ、ことのほか費用がかかる上に、メンテしても新品同様には戻らないと言われた。

 費用対効果を考えると、最上グレードではないがそこそこの品質のふとんを消耗品として使うのが賢いそうだ。はあ、そういうものか。結局、新しいふとんを購入した。こうして結婚以来昨冬までお世話になったふとんは、そのまま廃棄されてしまった。そんなつもりじゃなかったので、ちょっとお名残惜しい気もした。いままでありがとう、くらいは言いたかったな。

 人間が生きている限り、ふとんは使い続ける。これからどれくらいのふとんを買い回すことになるのだろうか。ふとんから人生にまで話が及んだ。ちょっと飛躍のし過ぎかも。


常識を覆す、か (2011年9月24日)

 今朝の新聞に「光より早い素粒子発見」というニュースが一面に載っていた。本当かなあ、というのが第一印象である。これが本当なら今まで多くの現象を説明できて来た相対性理論(二十世紀初頭にアインシュタインが提唱したもの)は間違い、ということになるのだ。

 物体の移動速度を知るためには移動距離とそれに要した時間を測定する必要がある。この実験では移動距離をGPSによって求めたそうだ。しかしGPSって、そんなに精度が良いものでしょうかね。カーナビを想像してはいけないのかも知れないが、そんな遠くの、しかも高速で移動している物体(GPS衛星のこと)を基準に測定したものの精度はどれくらいなのか。信頼できるのか。この肝心なところの検証がなされないと、にわかには信じられない。

 また、今までの常識を覆すためには、ひとつだけではなく複数の、それも異なる機関による実験によって追試されることが不可欠だ。現代物理学の根底をひっくり返すような発見であればなおさらである。

 この実験結果を公表した研究グループは、実験事実だけを淡々と公開したそうだ。この態度は同じ研究者として評価できる。「私たちの実験ではこうなりましたが、皆さんはどう考えますか」という問題提起自体は重要だし、今までの常識を疑うことによって学問が発展して来たのは周知の事実である。こうやって物理学がまた一歩、進化することを期待している。研究分野は異なるが私もまた実験を重視する研究者のひとりなので、彼らの実験結果にインスパイアされた他の研究者の活躍を注視している。


不向きなこと (2011年9月22日)

 昨日はホントにびっくりしました。あんなに凄い台風は東京では久しぶりだったと思います。結局、台風が去ってから電車が動き出したので夜遅くに帰宅できました。大学に泊まることだけは回避できてよかった、よかった。

 今日は某センターで部会でした。何度かここで書いていますが、社会人のいい大人の方に対して、ここがおかしいですとか何故ですか、とかいちいち確認して聞くことに対して忸怩たる思いがあります。学生さんに対してだったら教育的指導の意味合いがあるので、バンバン言って勉強させますが、向こうが社会人であれば自ずから相手の仕方は変わって来る、ということにだんだん気がつきました。要するに申請者の間違いを(嫌みったらしく)指摘したり、文章を手直ししたりすることが、どれほどの意味を持つのか、ということです。こちらも先方もイヤな思いを共有するだけです。

 公的な審査ですので、申請者の作る書類は理路整然として正しい日本語で書かれていることが必要ですが、そのようなことを私のような工学者が指摘しなければならないのか、甚だ疑問ですね。まあこれも社会貢献のひとつ、と言えば聞こえはいいですが、大いなる違和感を抱きながらやっています。はっきり言えば、私には不向きです。


台風 その2 (2011年9月21日 その3)

 やっぱり電車止まりました。ズブ濡れになりながら南大沢駅まで何とかたどり着いたものの、ちょうど電車がストップしたところでした。台風が過ぎれば動くかなあと思って一時間ほど駅にいましたが、家内から線路に木が倒れたらしいという情報を得るにおよんで、こりゃだめだと思い、またもや研究室に引き返しました。もちろんびしょ濡れです。靴のなかが池のようです。幸い研究室には実験着がありますのでそれに着替えて、いま一息入れているところです。

 いちおう夜食を仕入れて、研究室に泊まる態勢を整えました。研究室に泊まるのはもう十数年ぶりでしょうか。若い頃じゃないと体が持ちませんからね。でも、ガンガン仕事する気もおきません。


ドメイン変更 (2011年9月21日 その2)

 トップページにも記載しましたが、このHPのURLが以下に変更になります。

 http://www.comp.tmu.ac.jp/kitayama-lab/

 現在のURLは10月以降は閲覧できなくなります。これは今まで大学が使っていた「metro-u」が廃止となるためです。このページをお気に入りに登録して下さっている奇特なかたは、すいませんが上記のURLに変更をお願いします。


台風だあ (2011年9月21日)

 今日は午前中、建築学会でPC関連の小委員会があって、今、大学に登校しました。某センターの会議が午後にセットされていましたがそちらはサボりました(すいません)。

 京王線で自分のうちを通過して大学まで来たのですが、結論から言えばやめときゃよかった、でした。南大沢駅を降りたらもの凄い横殴りの雨で、デッキのコリドールも役に立ちませんでした。あちこちにチープなビニール傘が骨になって転がっていました。よく、テレビのリポートで見るような状況ですね。大阪から学会においでになった寒川さんは帰れるでしょうか。ご無事をお祈りします。

 せっかく大学に来たので、少しは仕事して帰ろうと思いますが(といいながら、この文章を打っていますが)、夕方にはどうなっているのでしょうか。研究室の窓を叩くように降る大雨にビクビクしています。


そろそろ (2011年9月20日)

 もうすぐお彼岸です。陽もだいぶ短くなってきました。秋が深まる頃は、来年度以降の科学研究費補助金(科研費)をゲットするための書類を提出する時期にあたります。私が現在、日本学術振興会からいただいている科研費(基盤研究Cです)は今年が最終年度ですので、そろそろ新しい研究テーマを考える時期になりました。

 うーん、どうするか。新しいこととはいっても、科研費申請では今までの実績とか準備状況とかも審査されますので、全く新規の奇抜なものは申請しにくいですね(そういうカテゴリーも準備されてはいますが)。私の研究の流れから言えば、RC部材やPC部材の性能評価関連か、今回の大地震で顕在化した?耐震補強設計法の問題点の抽出と改善手法の提示などが課題候補かとは思います。いずれもこれから研究室で取り組みたいと考えていますが、実験をするにはある程度の予算が不可欠ですので、やはりその観点から科研費申請するテーマを絞り込むつもりです。

 我が大学の申請締め切りは十月中旬ですので、これから1ヶ月くらい、知恵を絞りたいと思います。申請書作成のテクニックは、先輩とか知人とかからいろいろと伝授していただき、それらは大変に役立っています。私自身が考えたこととしては、「研究目的」欄の冒頭の数行に、研究の意義と目的を簡潔に分かり易く明記する、というやり方でした。我ながらこの方法はうまいアイデアだと思っていたのですが、今回三年ぶりに申請調書のフォーマットを見たら、何と冒頭の点線で区切られたスペースに研究の目的をザックリと記述すること、という風に改められていました。まあ、申請書を審査する先生方もこの方がやりやすい、ということだったんでしょうね。

 でもお陰で私の申請調書の特徴のひとつが失われましたので、調書を特化させる別の手法を考えないといけませんね。そんな小細工をするなんて、と思われるかも知れませんが、科研費の審査をするひとは多数の書類を短時間で見ているはずですから、分かり易く、インパクトがある文章や図表を載せることによって、審査者におおっ!てな印象を持って貰うことが不可欠だと私は思っています。以前の申請書では手書きのスケッチみたいなアクソメ図を載せて、それは見事に採択されました(もちろん、採択された理由はそれだけではないでしょうが)。

 要するに審査者にその気になってもらう(=読む気を起こさせる)ように、研究課題のタイトル、研究の目的および手法などの表現を丁寧に作り込むことが必要なのです。この作業は私にとっては毎回、相当の知力と労力とを要するので結構な苦痛を強いられます。しかしそうであるからこそ、翌年4月になって採択内定通知を受け取ったときには、それこそ天にも昇るほどに嬉しくなります。反対に何の知らせも届かない(すなわち不採択だった)ときには、どこがいけなかったのだろうかと、もうホントにガッカリしますね。

 いずれにせよ科研費は私のような弱小研究者にとってはほとんど唯一の研究財源ですので、是非ともゲットしたいと思います。採択に向かってがんばりましょうや、御同輩!


非常識 (2011年9月14日)

 東京電力が電気料金の値上げ(15%程度)を検討しているそうですが、世間の常識からは大きく外れたその考え方には驚きました。電力会社は事実上独占企業なので、居住する場所によって電力を購入する先は一社に制限されます。われわれ消費者は電力会社を選べません。

 さらに電力会社のシステムとして、大方の費用は電気料金に転嫁できるようになっており、とにかく自分たちは損をしないようにできています。今回の原発事故の賠償金さえ、電気料金に負わせることができるそうです。その電気料金の算定根拠も相当に怪しいらしいですよ。

 このような会社ってあるでしょうか。何をやっても最終的には他人様(すなわち、われわれ国民)が費用を負担するような仕組みなら、自助努力など働くわけがありません。ぬるま湯体質どころの騒ぎじゃないですよね。

 結局、一社独占という全国体制を打破しない限り、こりゃダメでしょう。過去に電話事業についてはこのような試みがそれなりに成功しましたから、本気になってやろうとすればできないことはないと思います。そのためには政治の主導が不可欠です。電気事業の場合には電話とは話にならないくらいの巨大な利権が絡むでしょうが、やるなら今をおいて無いと思います。大多数の国民が望めば、大きな奔流となって電気を流し始めることができるはずです。それくらいの見識はまだ保持されていると信じたいですね。

 追伸; 境さん、120年間にわたる気温のデータを見せていただき、ありがとうございました。気温は明らかに上昇していることや、今年がべらぼうに暑かったことも分かりました。データは語る、ですね。


今年の夏は涼しかったよ、私は (2011年9月13日)

 この数日は残暑が厳しいですね。筑波大学の境有紀さんのページを見たら、今年の夏は昨年並みの猛暑だったと書いてありました。世の中が涼しいって言ってるのは本当か、とも。なるほど、そういう人もいるでしょうね。これは個々人の暮らす環境によって大いに異なるでしょう。私自身のことを言えば、昨年に較べれば確実に涼しかったと思います。涼しいというのはちょっと言い過ぎかも知れませんが、少なくとも昨年ほどの猛暑は少なかったと感じます。

 これは私の勤務地である八王子が盆地のような地形のせいもあって、昨年は言語に絶するくらい暑かったからだと愚考します。世間一般にはどうだか分かりませんが、8月のビールの出荷が振るわなかったというニュースは、公約数的には涼しかったことを示しているようにも思います。まあ、どうでもいいですけど。

 ただ電力の問題については疑問が膨らんできました。世間一般の努力によってこの夏の電力不足は乗り切れた、ということになっていますが、そもそも本当に電力不足はあったのでしょうか。毎日提示される最大供給量には、どのくらいの余裕が見込まれていたのでしょうか。電力会社が「不足するぞ、大変だぞ」という危機意識を煽って、「だからやっぱり原発が必要なんだ」というふうに世論を操作しようとしているとしたら、、、。ちょっと考え過ぎでしょうか?


どんぐり (2011年9月12日)

 図書館の裏の雑木林のなかの道を歩くと、どんぐりがひとつ、落ちていました。まだ小さくて青かったけど、秋は確実にやって来ていることが分かりました。とは言え林のなかでは、ミンミンゼミ、アブラゼミ、ツクツクボウシなどのセミたちの蝉しぐれがここぞとばかりに響いていました。もう少しすると彼岸花も咲くでしょう。

 我が家で飼っているカブトムシですが、メスのほうは数日前に落命しました。可哀想ですが、寿命だったんだろうと思ってあきらめます。でもカブトムシって、どれくらい生きるのでしょうか。越冬するのかな?


たしなむ (2011年9月11日)

 今日で東北地方の大震災からちょうど半年です。まだまだ苦しんでいるひとや心の傷の癒えない方が大勢おいでになることに、本当に悲しくなります。そういう方々に対して私のできることはほとんどないのですが、私は建物の耐震構造研究を生業としておりますので、その分野で少しでも世間のお役に立てるように努力することで、その役目を果たせればと思います。

 さて、半世紀生きて来てお酒があまり飲めなくなりました。ビールなら中ジョッキ一杯、日本酒なら小さなおちょこに一杯がちょうどいいですね。もともとアセトアルデヒド分解酵素がないので直ぐに顔や体が赤くなりますが、四半世紀前に青山・小谷研究室というお酒訓練研究室?で修練を積んだために、弱いなりに飲み方を心得てそれなりにお酒を飲めるようになりました。まあ、そこに至るまでには研究室の先輩方に大いに迷惑を掛けたのですが。

 宇都宮大学にいた頃には学生さんにとっては相当に無茶な飲み方のように映ったらしく、当時の構造研究室の紹介のところには北山チーム(RC構造研究担当のこと)は「からだ壊しチーム」と記述されていたくらいです。研究室でのどんちゃん騒ぎはしょっちゅうでしたからね。田中淳夫先生や入江康隆先生がお帰りになったあとの長い夜は、私にとってはそれこそ「天下」でした。年の近い学生さん達との交流は多分にお酒の効果が大きかったと思います。

 しかしそのときの無茶は後年になって、だんだんと祟ってきました。飲めないお酒の習慣は、確実に私の遺伝子を傷つけていたのだと今になって気がつきます。あとの祭り、とはこのことでしょう。という訳で、今更かもしれませんが、お酒はほどほどにしています。やはりモノには中庸というものがあるのですな。というか、あまりお酒を飲みたいとも思わなくなりました。

 でも、美味しいお酒(大概は日本酒ですね)をひとくち、口に含んだときのえも言えぬ快感はやはりいいですね。そういう訳でここのところは品質重視でお酒を飲みたいと思っています。


秋の匂い (2011年9月8日 その2)

 今日はカラッとしたいい天気になりましたね。お昼に外に出ると、陽射しは眩しいもののひと頃の刺すような鋭さはもうなくて、ちょっと弱々しい感じもします。あと二週間もすれば秋分の日ですから、秋本番ももう直ぐでしょう。キャンパスのなかは、秋独特のちょっと乾いたような匂いが漂っていました。なんの匂いなのか私には分かりませんが、多分、日本人にしか感じられない匂いだと思います。

 今年の夏は昨年ほどの猛暑でなくて、本当に助かりました。でも昨年は9月がべらぼうに暑かったのでまだ油断はできませんが。


体 質 (2011年9月8日)

 日本の官僚組織の体質は基本的には太平洋戦争のときの軍部のそれと変わってないらしい。まあ、そのようなことはよく言われて来た。自分の組織の保全に走って、肝心の国民のことはそっちのけになって国を滅ぼした、というくだんのヤツである。戦時中は「海軍(陸軍)あって国家なし」だったが、今では「省庁あって国家なし」ということだ。

 そのことが『官僚の責任』(古賀茂明著、PHP新書、2011年7月)にも書かれていた。著者は経済産業省に勤める現役キャリア官僚だが、国家公務員の改革を叫んだがために干されてしまい、今は大臣官房付という閑職に追われたそうだ。公務員が如何に自分たちの組織のことだけを考えているかが、これでもかという位に書かれていた。分かっていたことではあるが、ホントに暗澹たる気分になった。

 だがそれ以上に、私はなんだかとてもイヤな感じを抱いたのである。これを書いたひとはその渦中の組織に属していながら、なぜそんなに冷静に他人事のように批判できるのか、その精神構造が理解できないからである。内部告発は最近では珍しいことではなく、そのこと自体は勇気ある行為と見なされるだろう。しかしその人自身も彼が批判しているエリート官僚のひとりなのだ。
 そのような立場にいるひとが、「国民のためになる仕事をなんにもしてないエリート官僚が高給を貪っている」と書いても、それはあなた自身もそうなんじゃないの?と言いたくなる。じゃあ、国家公務員に本来の能力を国民のために発揮してもらうためにはどうしたらよいか、という対策については見るべき意見はほとんどなかった。

 このひとの著作は最近話題になっているが、私は斯様にあまり感心しなかったので、もう読むこともないと思う。

 ちょっと滅入ったので、別のことを。うえに「くだん」という言葉がでてきたので思い出したが、漢字では「件」と書く。古い時代の起請文なんかの末尾に「よって件の如し」とある、あれである。この漢字、よく見ると怖くないですか。にんべんにうし(牛)、ですよ。そう、ひとと牛が一緒になってる、、、。このあいだ亡くなった小松左京氏の小説に『件の母』という短編があって、戦時中を舞台として確か「九段の母」とかけ言葉になっていたと思うが(読んだのは中学生の頃なので間違っているかも知れない)、この小説によって「件」が牛面人体の怪物であることを知った。あな恐ろしや〜。


国際化について (2011年9月6日)

 我が大学でも国際化の一環として英語で授業をすることを考え始めたようだ。と言っても、いきなり始めるのは無理なので、まずは少数の授業から、ということらしい。それでも講義を聴くのは日本人ばかりなのに、なぜ英語で授業しなきゃならないの、ってな感じである。

 それに対するひとつの解答が『なぜ、国際教養大学で人材は育つのか』(中嶋嶺雄著、祥伝社黄金文庫、2010年12月)にあった。それによれば結局、世界のグローバル化に対応する人材を生み出すために必要だ、ということで、そうしないと日本は世界の中でガラパゴス化してしまうという。世界の中での日本の地位を高め、グローバルに活躍できるエリートを生み出すためには、大学での英語教育と教養教育とが必須である、というのが著者の主張である。

 ここでいう教養とはリベラル・アーツのことで、これについては私も今の大学生があまりにも幼稚でモノを考えない(もっとも個別の学生さんと話してみると、いろいろ考えていることが分かるときも多いのだが)という危機意識を共有するので、全くもって著者の言うことに賛成である。教養なくして豊かな人生はない、そう思うのである。

 だが、英語で授業、というのはどうだろうか。確かに世界に通用するエリートを育成するためには、英語で議論できるほどの英語力が必要なのは分かる。しかし大学への進学率が50%を超え、大衆化がいわれて久しい今、フツーの大学でエリートを育てると言っても無理ではないか。言いたくはないが、日本の中の一握りの大学がそのようなエリート養成の役割を担えばよくて、それ以外の大学は常識ある教養人を育てることが大切ではないか。

 そのような大多数の大学にとっては、英語で講義をしても誰も理解できないということになりかねず、それでは上述のような目標は達成できないので、母国語で授業をすればよい。日本人よりも優秀な外国人を学生として呼び寄せたい、という志がある大学ならば、英語で授業をすればよい。

 私はこの本の著者である中嶋さんの言うことに、理念としては大いに賛成である。今の学生はあまりにも勉強しない、これではまずいだろう、彼らの将来が心配だ、とは私も思う。ただ、今の若者の全てがエリートになりたいなどとは思っていない、いや、エリートになれるような教育などを望んでいない、という重大な事実に著者は気付いていないような気がする。著者はこのままの教育を続ければ日本は廃れてしまう、と危惧するが、今の若者はそんなことには無頓着のように思える。もっと言えば、何の苦労も無く現在の生活水準を手に入れた彼らにとってはエリートになる必要などサラサラなくて、自分の興味のあるコアなものにだけ気を配って生きていければよいのである。

 その点において、著者は完全に読み誤っていると私は思った。とは言え、どんな時代にも貪欲でアグレッシブな若者は存在するだろうから、そのような気概を持つ人間だけを選び出して、著者の言うような教育を施すことは大いに意味を持つだろうし、そうすべきである。今必要なのは、大勢の鴨の中から素養のある孔雀を見つけ出す、そのようないわば(言葉は悪いが)選別システムを作り出すことではなかろうか。そうした原石を磨いて、世界で活躍できるエリートを育て上げるのである。

 ちなみに著者はかつては東京外国語大学の学長で、いまは国際教養大学の学長である。この大学は秋田県立の公立大学で、かつての東京都立大学と同じように少人数教育を実践している。授業は全て英語で、学生は一年間の海外留学を義務づけられている。これだけでも学長の思い入れが分かろうというものである。このような大学を作ることを了解した秋田県も偉いと思う。余談だが私の駒場のときの同級生だった町田大輔くんがここの副学長になっている。どんな大学なのか全く知らなかったが、今度会ったときにでも詳しく聞いてみたいと思う。


欠除する (2011年9月5日 その2)

 今日は研究室ゼミを一ヶ月ぶりに開いたのですが、出席者は半分しかいませんでした。夏休みとして8月のあいだはゼミを開かなかったので、研究が進展してさぞいろんな報告があるだろうと期待していたのですが、とんだ期待はずれでした。先端研究を行っている、ということをもう少し自覚して欲しいものです。

 これとは直接には関係しませんが(でも深いところではつながっていますが)、どうも最近のひとたちは他人に対する思いやりというものに欠けているような気がします。これを突き詰めれば結局は、想像力が足りない、ということに帰結します。自分のことしか顧慮できないために、自分がこういう行動をとると他人はどのように行動するかとか、どのように感じるだろうか、ということを想像できないのです。

 そのような行動は端(はた)から見れば、無責任なひと、と見られてしまいます。もう少しいろんなことを考えて、周囲との軋轢を生じないように円滑に行動して欲しいですね。でも、こんなことを言わなきゃ分からないこと自体が、すでに危機的状況だと私は思います。


少年時代にたどった道 (2011年9月5日)

1. 早稲田にて

 学会大会で新宿区の早稲田大学に通ったことは既に書いた。実はこの界隈は私にとっては馴染み深い、思い出の地でもある。祖父母の家が早稲田にあり、私自身も少年時代から新大久保駅のそばに住んでいたからである。今回、四半世紀ぶりにこの地を訪ねたので、大会のセッションの合間や帰宅の道すがら、思い出のみちを歩いてみた。という訳でとてもバナキュラーかつマイナーな話題であるが、どうかご容赦を。

 新宿区でも少子化の影響で小中学校が廃校になったり、統合されたりしているが、私の母校の区立中学校も数年前に統合されてしまった。母校がなくなるというのはなんとも寂しいですな。で、今回、西早稲田駅を降りて地上に出ると、真っ先にその統合先の校舎が見えて来た。そこはかつては戸塚第一中学校という名前だったが、いま述べたように私の母校だったT山中学校と統合されて西早稲田中学校になったのだ(写真)。ああ、これかあ、というのが感想である。

Nishi-Waseda_JuniorHighSchool Mizu-Inari
 西早稲田中学校           水稲荷の祭礼の提灯

 そこから細い緩やかな坂をだらだら下って行くと早稲田通りに出る。早稲田通りの歩道には水稲荷の祭礼の提灯がぶら下がっていた(写真)。あとで出て来るが、水稲荷は流鏑馬で有名なお稲荷さんで、堀部安兵衛の高田馬場の仇討ちの場所のすぐそばにある。幼少の頃から水稲荷はよく通ったものである。
(訂正 2011年9月12日; 流鏑馬で有名なのは、早稲田大学のそばにある穴八幡宮でした。)

 しばらく歩くと早稲田大学西門へと続く細い道に行き当たるが、そのわきにグランド坂は昔の通りにあった(写真)。でも、こんなに細い道だったかな。ただし、広々とした新しい坂道が開削されたので、かつてのメイン街道であったグランド坂は脇役に追いやられてなんだか寂しげな佇まいであった。なぜグランド坂というのかというと、安倍球場という名前の早大野球部のグランドがその坂の脇にあったからである。だがそのグランド自体がいまはもうなかった。これじゃ、グランド坂なんて言っても通じないよな。

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 グランド坂の入り口(タクシーのところ)   堀部安兵衛の碑

 仕方が無いので新しくできた無粋な坂道を下って行くと、水稲荷への入り口が見えた。その参道の脇に堀部安兵衛の碑があった(写真)。私がまだ幼児だった頃、この参道の脇に小さな車が廃車になって放置されていて、その運転席に入り込んでは遊んでいたことをまざまざと思い出した。そしてそこには甘泉園(かんせんえん)公園への入り口が昔の通りにひっそりと開いていた(写真)。ああ、懐かしい。

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  甘泉園への入り口          甘泉園のなかの池

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  昔のままの松の木          甘泉園からの眺め

 ここは江戸時代には御三卿のひとつだった徳川・清水家の下屋敷だったところで(江戸時代の切絵図にも載っていた)、明治期に相馬家の所有となったが、その後、紆余曲折のすえに新宿区立の公園になった。という訳で、もとは高貴な方のお屋敷の回遊式庭園だったので、小さいながら二段構えの池が見事である。都心にこんな静かな庭園があるということに、今回再訪してあらためて驚いた。

 ここの池にプラモデルで作った船を浮かべて走らせたり、釣りをしたりした。クチボソとかタナゴとか小さなフナなどが釣れた。凧糸に縛り付けたスルメイカを餌にしてザリガニ釣りもよくやったな。タモを沈めておくと小魚がたくさん採れた。中学生になると友人達と自転車で甘泉園まで走って来て、「ドロケイ」とか「缶蹴り」とかで遊んだものである。今の子供達はやらないんでしょうな。

 さて祖父母の家は甘泉園公園に隣接したところにあった。子供の頃は境界にある塀を乗り越えて、よく公園に遊びにいったものである。何といってもこれが最短の経路だったから。だが、その地には今は中層マンションが建っていた(写真)。

GrandFather1 GrandFather2
祖父母の家があったところ(右側のマンションの地) 細い道の突き当たりに祖父母宅はあった(突き当たりのマンションのところ)

 先ほど書いた新しい無粋な坂道は、以前はとても細い坂道や町家が密集したところを再開発して設置された。そのため甘泉園の東隣にその新坂道が通ることになったようだ。かつての細い坂道の途中には、子供にとってはワンダーランドと言ってもよい駄菓子屋さんがあった。うちの母は「きたならしい」とか言って、そこで何も買ってはくれなかったが、元気だった頃の祖母は何でも買ってくれた。

 昔は甘泉園の隣には富士塚があったと記憶する。江戸時代に富士山まで行けない庶民が身近なところで富士信仰を満足させるために、江戸の町内に作った富士山のミニチュアのことである。そこを上り下りすることで富士山に行ったのと同じご利益があったという。

 そこは金網によって立ち入りが禁止されていたが(その理由は分からない/私有地だったのかも知れない)、例によって子供のころはそんなことにはお構いなしに侵入した。そしてそこには「三合目」とか書かれた石碑が残っていたのを覚えている。だが、新しく拡幅した坂道を通すために、その富士塚自体が削り取られて抹消されたのだろう。そんなことってあるだろうか。文化遺跡を跡形も無く取り去るなんて野蛮なことがこの時代にあるとも思えないので、ということはこれは富士塚じゃなかったのかも知れない。今となっては分からない。

 甘泉園公園の北側には都電が走っている。都内で唯一生き残った都電で、早稲田と荒川車庫(あるいは三ノ輪)とを結んでいる。今は新目白通りという名前の通りの真ん中を軌道が走っているが、私が子供の頃にはこの通り自体がまだなくて、線路沿いに細い通りがあるだけだった。都電が走るガタンガタンという音を聞くと、今はもうない祖父母の面影とかその当時の出来事などがまざまざと思い出されてきて、無性に懐かしい。

 都電の線路のすぐ北側には神田川が流れている。都市型河川の典型で、昔はよく溢れたらしい。子供の頃には、この川の上に染め上げた布を渡して干している光景をよく見たが、今はどうなのだろうか。職人さんの伝統の技が今も継承されているといいのだが、、、。

 甘泉園を出るとすぐに面影橋があり、都電荒川線の停留所もある(写真)。面影橋は江戸時代には姿見橋という名前だったらしく、そこには太田道灌と乙女との逸話が残っていた。実際、水稲荷神社の脇に太田道灌の駒繋松というのがあって、この一帯を山吹の里という、と書いてあった(写真)。

Toden Ohta_Dokan
   都電の面影橋停留所          太田道灌の駒繋松

2. 戸山へ

 さてセンチメンタルな旅はまだまだ続く。地下鉄の西早稲田駅に戻り、諏訪町の交差点を明治通りに沿って新宿方面へと歩いた。すぐに学習院女子大学の古風な正門とそれに隣接する都立戸山高校の正門とが見えて来た。中学生の頃にはこの戸山高校に行く気でいたが、学校群制度という名前のギャンブルによって全く想定していなかった都立A高校に割り振られたことは以前にこのページに書いた。そのときは「なんだよ、戸山高校じゃないのかよ」という失望感で一杯だったが、それでも都立A高校に行くことにしたのは男女共学だから、というのが一番の理由だった気がする。W大学の完全付属のような高校にも受かっていたのだが、そこは男子校だったからなあ。

 余談だが戸山の地には、江戸時代には尾張・徳川家の下屋敷があった。そして元禄時代の藩主・徳川宗春(倹約将軍・吉宗に楯突いて、派手に歌舞音曲を奨励したことで有名な道楽者)はここに豪壮な庭園を造り、箱根山という名前の巨大な築山を築いた。箱根があるくらいだから小田原に相当する場所もあったらしい。その当時の江戸の御府内では最も標高が高かったという。中学生だった頃、その箱根山には何度か自転車で遊びに行って上り下りしたものだが、そのような由緒ある「人口山」であるとは大人になるまで不覚にも知らなかった。いつも書いているが、無知ってああ、恐ろしい。

 はなしを元に戻す。しばらく進んで、かつては新宿区体育館があった角を右折してちょっと歩くと、そこは我が母校の新宿区立T山中学校があったところである。その正面には早稲田大学理工学部があって、安藤勝男さんの設計した市松ブレースのファサードの美しい高層建物が以前のとおりに聳えていた(写真)。このように早大理工学部の正面に我が母校はあったので、大学入試の時期になると必ず「廊下や手洗い場では静かにすること」というお達しがあった。校舎の北面が大学の教室棟に面していたからである。

 母校の校舎はそのまま残っていて、今は新宿区社会福祉協議会事務局として使われているらしい。RC4階建てだが、三階まで耐震補強されていた(写真)。どれどれ、とよく見るとそれは矢作建設のピタコラムであった。耐震補強のデバイスとして普通の鉄骨ブレースを除けば、最もよく利用されているのがこのピタコラムだと思うが、母校にまで使われていたと知ってちょっとビックリである。なんだか妙な緑色に塗られていて、改修設計を請け負った建築事務所のセンスはあまりよくないなと感じた。

Waseda_Univ. T_JuniorHighSchool
 早稲田大学理工学部      T山中学校の校舎(耐震補強されていた)

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かつて低層の公務員宿舎があったところ   戸山公園

3. 百人町まで

 ではここから、かつての通学路をたどって我が家があったところまで歩いてみることにしよう。母校の隣は当時はRC低層の公務員宿舎であったが、それらは跡形も無く取り壊されて、中層の集合住宅が壁の如くに建っていた(写真)。当時、その公務員宿舎の裏には土手状のものが残っていて(その先端は母校のグランドにぶつかって終わっていた)、戦後三十年近く経つにもかかわらず、そこから手榴弾だとか弾丸とかが見つかったという噂話をときどき聞いた。この周辺一帯の戸山が原と言えば旧帝国陸軍と深い縁でつながっていた土地ゆえ、そういうこともあったのだろう。

 この道の突き当たりに都立戸山公園があって、私が子供の頃にはここにゴーカート(足踏み式だったか)のコースがあり、ときどき乗ったものだった。だが今はそれもなく、代わりに子供が自由に遊べるスペースが設けられていた(写真)。ここから3、4分歩くと新宿区立戸山小学校と海城高校がある。海城高校のRC校舎(写真)は、既存建物の上に免震装置を設けて上層に増築したということで有名である。「屋上屋を重ねる」とはまさにこのことであろう。私も知ってはいたがこの目で見たのは初めてである。どうでもよいが設計施工は竹中工務店である。ちなみに海城高校は私が中学生だった頃と較べて躍進が著しいようで、今じゃ東大に何十人も進学するらしい。隔世の感ですな。

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 海城高校の免震・増築された校舎 山手線と西武新宿線のガードをくぐる

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かつて住んでいたアパートがあったところ 細い路地の先には新宿に建つ高層ビルが見えた

 ここから坂を下って山手線と西武新宿線のガード下(写真)をくぐると、かつての我が家は直ぐそこだ。かつて筑波大学光学研究所があったところは今は社会保険中央総合病院になっており、その向かい側に私が住んでいたRC5階建てのアパートがかつてはあった。しかしそこには今は見慣れない会社のビルが建っていた(写真)。

 家からJR大久保駅に通うために使っていた細い道の先には、今では新宿駅西口にあるコクーン・タワーがハッキリと見えて、時代の流れを否応無く感じた(写真)。この道を駅に向かって進み、同級生だった越海敏裕くんの実家(今も変わらずにあった)を通り過ぎると、その先には大昔には建築家・吉阪隆正氏の自邸があった。RC打ち放しの前衛的な住宅でU-houseと呼ばれていたように思う。子供の頃には随分と変わった家だなあ、と思ったものだが、大学に入ってそれがいわゆる「有名建築」の一つであることを知り、さもありなんと感心した。しかしその住宅も吉阪先生が亡くなるとほどなくして取り壊されてしまった。いみじうあわれなり、である。

 ちょっと歩くとすぐに大久保通りに出る。このあたりは今は多国籍街となっているようで、平日の夕方まえだというのに結構な人出であった。中学校の頃の同級生の親父さんが経営していた「マルス百貨店」というのが今でも変わらずに通り沿いに残っていた。ということはあいつが今では社長かな。

 JR新大久保駅のわきに皆中(かいちゅう)稲荷というのがある(写真)。このへんは百人町という由緒正しい地名であるが、これは江戸時代に幕府の組織として鉄砲百人組という足軽組屋敷が置かれていたことに由縁する。鉄砲の玉が皆当たる、ということで「皆中」稲荷と名付けられたと記憶するが違っているかも知れない。

 皆中稲荷の向かい側には、大学生になってからよく通ったビリヤード屋があった。そこは四つ玉かスリー・クッションか何かの日本チャンピオンだった小林さんという方が経営するお店で、キューの選び方とか引き玉などの技はそこで小林さんから直接に教わった。あるとき私は得意の集中力を活かして、手前の玉をかすめて向こうの玉に当てるというセオリー無視の技を決めると、小林さんが大いに褒めてくれたことを今でも憶えている。今から四半世紀も昔の話である。

 で、そのお店はいまでもあるかなあと思ってみると、建物は変わっていたものの「ビリヤード入口」という看板が外に出ていた(写真)ので、多分ここがそれだろう。ああよかった、と別にどうでもいいのにちょっと安心した。

Kaichu_Inari  shin-Okubo
     皆中稲荷           今もあったビリヤード屋さん

 このビリヤード屋さんのはす向かいが新大久保駅である。こうして距離にすればほんのわずか(時間にして一時間半くらい)だが、私にとっては自分の半生をたどるようなセンチメンタル・ジャーニーがこうして終わった。こんなところで過ごしたんだなあという感慨と、でも今は自分とは無縁な場所になってしまったという寂しさとがない交ぜになった複雑な心境であった。


直下型地震 (2011年9月1日)

 昨日の夕方、千葉県北西部を震源とする震度3の地震がありました。私はそのとき外を歩いていたのですが、ドーンというもの凄い音が街路に響きわたり、あまりの恐怖に立ち竦んでしまいました。雲間から差す赤い夕陽が印象に残っています。民家からは驚いたひとが玄関から出てきました。

 これが地震によるものだろうということにすぐに思い当たりましたので、その場で身構えるとともに頭上の電線や電柱、それに路面を注視しました。3月11日の地震のときにはアスファルトの道路が波打ったり、電柱がグラグラ揺れるのを見た、という話を聞いていたからです。しかしそのようなことは起こらず、続いてやって来ると思った強い揺れも(幸いなことに)ありませんでした。あれっ、てな感じです。でも何事もなくてよかった。

 家に帰るとちょうど地震のニュースが流れていて、直下型の地震だったことがわかりました。今思うと、比較的近い地下深くで発生した衝撃波が大音響とともにあっという間に通り過ぎていった、ということでしょうか。いずれにせよ、地震によるこんな音は今まで聞いたことが無かったので、とても不気味でした。これが大地震の前触れじゃなければいいのですが、、、。耐震構造を研究していても、地震はやっぱり怖いです。


おとなしいひと? (2011年8月30日)

 新しい首相に野田さんが選ばれましたが、どんなひとなのかはっきり言って、私には分かりません。テレビなどで視る限りでは言うことはしっかりしていて、やがては増税することは避けられない、ということをハッキリと主張するなど、評価できます。

 でも、やっぱりどんなひと? 私が唯一知っているのは、うちの大学の橘高義典教授が野田さんの高校時代の同級生だってことと、橘高先生曰く「彼はおとなしかったのに、政治家になっちゃったんだよね」という情報だけです。でもそんなところが、なんとなくフツーっぽくていいかも。地味でもなんでも結構ですから、是非とも日本を良い方向に導いて欲しいものです。民主党首相もこれで3人目です。三度目の正直、という言葉もありますから、そろそろ期待を裏切らないようにして欲しいですね。


行き当たりばったり (2011年8月29日)

 夏休み最後の日曜日、久し振りに良い天気になりましたね。この日は前々から勝沼にぶどう狩りに行くことにしていたので、調布から中央高速に乗って出かけました。ところが八王子の先で事故があって、もの凄い渋滞にハマってしまいました。一時間で2キロほどしか進みません。これじゃあ、いつになったらぶどう狩りが出来るのか分かりません。

 そこで車内であれこれ相談して勝沼まで行くことは断念しました。あ〜あ、巨峰を食べたかったのに、、、。では、どこへ行くか?まったくあては無いので、カーナビで情報をサーチして、八王子ジャンクションで圏央道に乗って秋川渓谷にある温泉に行くことに急きょ変更しました。ちなみに秋川渓谷は東京都内です。

 やっとのことで八王子ジャンクションに到達して、圏央道に入るとスキスキで快適になりました。このジャンクションを建設中に丸田誠さんたちと現場見学したことは以前にこのページで紹介しました(こちらです)が、その出来上がった高速道路を走るのは初めてです。へえ〜、こんなのができたんだ、という感じです。

 八王子西ICで降りました。お腹がすいたので途中の武蔵五日市で飛び込んだうどん屋さん(竜胆紋の魚鶴という名前)がとても美味しかったです。そこからだんだんと山へ入っていって、やがて温泉に向かう道にはひとも車も見当たらなくなりました。しばらく走ると秋川渓谷が見えて来て、そこで大勢のひと達がバーベキューをしています。そういえば大昔、池田浩一郎くんたち北山研草創期のメンバーと一緒に、この近くの十里木ランドの河原でバーベキューしたこと(こちらです)を思い出しました。

 で、車で走っていると、「マス釣り」という看板が目に飛び込んできました。すると子供が「釣りしたいよ〜」と言い出しました。そこでまたもや予定を変更して、秋川沿いのマス釣り場に行きました。3000円で入漁券を買い、釣り竿をレンタルして川に下ります。それだけで子供はもう大喜びです。しかし、釣りって結構忍耐が必要ですよね。とても小さい子供向けではありません。すぐに飽きてしまいました。

 それに加えてこちらはズブの素人ですから、全く釣れません。マスの習性って、いったいどんなんでしょうか。結局、約2時間半で小魚一尾が釣れただけでした。親たちは「三千円も出したのに、、、」と言って悔しがりましたが子供は「楽しかったよお」と言うので、まあよかったです。

 釣り場は午後4時までで終わりでしたので、それから秋川渓谷の「瀬音の湯」という日帰り温泉に行きました。もう夕方なのでそんなところに行くひともいないだろうと思っていたら、豈図らんや、ひとがワンサカいて入場待ちです。ここだけ異様に人口密度が高いのです。いやもう、うんざりですな。

 やっと入った温泉は気持ちは良かったですが、芋の子を洗うような混雑ぶりで、残念ながら景色を眺めながらリラックスするという気分からはほど遠かったです。おまけに女房はそこで落とし物をしたらしくて、家に帰ってから大いに落ち込みました。

Seoto_Spa

 ちなみに帰り道もあちこちで渋滞しました(もう書く気もしない)。こうして夏休み最後の休日は過ぎて行きました。誰でも考えることは同じで、こんな日に出かけた私が悪かったと大いに反省している次第です。


どこかの代表選 (2011年8月26日 その3)

 与党の代表選挙の話題一色ですが、永田町じゃ何やってんだかなあ、って気がしませんか。O沢さんと前総理大臣とが相変わらず党を(あるいは国家を)牛耳ろうという姿勢が余りにも見え見えなので、ここまで露骨だと言うこともありません。彼らは日本という国家をどうするかという高邁な理想は捨てたんでしょうか。

 与党内で復権するとか協力するとか、ホントちっちゃなことに拘泥していますが、端から見ていてこれほど奇異なことはありません。地震が引き起こした巨大な災害によって苦しんでいるひとがたくさんいるのに、何をやっているんでしょうか。残念ですが彼らこそ、この日本の国を亡国へと導く亡者であると言わざるを得ません。政権を獲得する前は(少なくとも)そのようには見えませんでしたから、全ては権力に目がくらんだ所作である、ということでしょうか。とても残念です。

 かと言って、M原さんが日本をどのようにしたいのかも不明です。私は「大きな夢」は不要であるという立場ですが、この国難の時期には多少のユートピアを描いて示したほうが、国民の鼓舞のためには役に立つと思います。少なくともそれくらいの心意気は必要でしょう。ポピュリズムはダメですが、国民をその気にさせて上手に導くことはやってよいはずです。


三十周年 (2011年8月26日 その2)

 学会大会の期間中だったが、BSで佐野元春のデビュー30周年記念コンサートの放映が深夜にあった。もちろん何はさておいても視た。出だしの曲は『君をさがしている』(元春初期の曲)だった。「朝が来るまで君をさがしている」というフレーズは当時は非常な高音(でも、ファルセットという訳でもなかったが)で唄っていたが、さすがに五十歳を過ぎた今はつらかったらしくて音程をかなり下げて唄った。そのために私には別の歌のように聞こえた。

 でも、『サムデイ』にしろ『ニューエイジ』にしろ、当時を彷彿とさせる歌いっぷりにとても嬉しくなった。やはりビッグなひとって、ちょっと違いますな。『ロックンロール・ナイト』はレコードでは7分くらいの長い曲だが、ライブで聞くと盛り上がりが凄いことがよく分かった。最後の『アンジェリーナ』は彼のデビュー曲だが、そのスピード感はいまだに健在で「曇ったガラスを指でぬぐい、お前の夜に話しかければ〜」と一緒になって歌ってしまった。ホント、日本語のロックっていいですねえ。


今年の大会2011 (2011年8月26 日)

 建築学会の大会がやっと終わりました。今年は新宿の早稲田大学(大隈講堂のある本部キャンパス)で開催され、三日間通いました。早稲田の地は私にとっては思い出深いところですが、その話はまた別にします。学会大会というとバスの行列が直ぐに思い浮かびますが、今回はさすがに都心の大学だったこともありアクセス経路が複数あったために、私はそのような事態に遭遇せずに済みました。

 というのも、新しくできた副都心線という地下鉄の西早稲田駅で下車してそこから歩いたためです。駅を降りてから早稲田大学の11号館まで15分くらいでしたので、距離にして1.2kmくらいでしょうか。三日間とも往路はこのコースでしたが、遠来のひとにはちょっと遠いと敬遠されたのでしょうか、学会くんには全く会いませんでした。少年時代にはよく歩いた道をひとりで早稲田大学に向かうあいだ、なんだかタイム・スリップしたようなちょっとした眩暈を感じましたな。


  写真 西早稲田駅から出たところ(諏訪町の交差点)/右手の向こうに戸山高校がある

 大会の初日と二日目には研究室のメンバーとか自分自身とかの発表がありました。三十年近くこの商売をやっていると、発表会場にいるのは古くからの知り合いばかりで(もちろん、お若い学生さんのことは存じ上げませんが)、ホント、リラックスします。学生さんにとっては緊張の場なんでしょうが、私にとっては勝手知ったる憩いの場、みたいな感じです。こんな古強者のおっさん、じゃなかった、先生ばかりなので、そういうひとから「いまのところはさあ、どういうことなの?」みたいに質問される若者がちょっと可哀想でした。

 ちなみに発表会場の教室はこじんまりとしていて、アット・ホームさを醸成するにはうってつけでした。しかし黒板の両脇にドアがあるタイプで、これは落ち着かないですね。発表している脇をひとが出入りする訳です。明治大学で非常勤講師をしたときもこのタイプの教室でしたが、ホントいやでした。ドアが閉まるとその衝撃で黒板前のスクリーンが小刻みに振動していました。

 そうそう、会場で北大名誉教授の城攻先生に久しぶりにお会いしました。JICAからシニア・ボランティアとしてタイに派遣されて、今年の3月まで活躍されていました。そのあいだ、日々の活動を面白おかしく伝えてくれる城先生のブログを楽しく拝読していましたので、久し振りという感じはしませんでしたが。

 最終日の三日目が私にとってはハードなDutyでした。というのもPD(パネル・ディスカッションのこと)のパネラーのダブル・ヘッダー(和製英語の連発ですいません)だったからです。さすがに疲れました。自分の発表はたかだか30分くらい(×2)なんですが、そのあとに討論の時間があるので、他人様が何を発表するかよく聞いて把握しておかなければならないし、討論の場ではどんな爆弾質問が飛び出すか、何を聞かれるか分からないので緊張を余儀なくされます。

 私はどんな発表のときでもそうですが、そのための準備は入念にします。ときどき、ぶっつけ本番だあとか仰る剛の先生もお見受けしますが、私にはそのような度胸も無ければ能力もありません。気が弱いので十分に準備して、分かり易く説明することを常に心がけています。特に今回は広範囲な話題を扱ったり、逆に非常に細かい話を精緻にする必要があったりと、説明の仕方にとても苦労しました(聞いてる方には想像もできないでしょうが)。

 ところがいざ発表を始めると、なんだか勝手に言葉が飛び出して来て、思いのほかすらすらと、それこそ口から先に生まれて来たんじゃないかと思えるほど、ある意味饒舌に話していたように(後から思い返すと)思いました。ひとに物事を説明することの重要さとかそのポイントとかは、師匠の小谷俊介先生から学生の頃に非常に厳しく鍛えられました。その当時は発表練習のたびに小谷先生からボロクソに言われたりもしましたが、その鍛錬が今、とても役に立っていると思います。

 私の発表を聞いて下さった方が私の話を理解できたかどうか、それは分かりませんが、私自身はうまく説明できたかなと思っています。ただどうしても早口になってしまうのは、せっかちという私の性格に依拠しているので、ある程度は仕方が無いことと諦めて下さい。

 なお発表用のパワーポイント・コンテンツの作成には、PC部材性能設計法小委員会の岸本一蔵さん、河野進さん、岸田慎司さんおよび菅田昌宏さん、RC梁柱部材WGの石川裕次さんおよび坂下雅信さんにご協力いただきました。とても助かったことをここに記して感謝の念を示します。あれだけのものを私独りで作ることはできませんし、その気力もありません。

 ということで、いつになく充実した大会の三日間でした。この八月は高知に講演に行ったり、大学院入試があったりしましたので、AIJ大会の終了をもってやっと一段落ついた感じです。これでしばらくは気楽にやれそうです。やれやれ、、、。


地震災害調査報告会 後日談 (2011年8月22日 その2)

 8月上旬からお盆にかけて日本各地で開催された、東北地方太平洋沖地震の災害調査報告会の出席者が明らかになった。私が担当した高知では、定員150名のところ出席者は60名であった。少ないですが、不便な土佐山田町(ごめんなさい)で開催した割にはよく集まったな、健闘した、といった感じもする。

 定員を満たしたのは東京だけ(定員700名のところ717名参加)で、あとは軒並み定員を割り込んだ。特に大阪はひどくて、定員500名のところ215名しか参加がなかったそうだ。福岡大学の高山峯夫さんのHPには福岡会場(定員200名のところ160名参加)のことが書かれていたが、高山さんの言う通り、これが世間の無関心を表しているとしたらちょっと大変である。

 あれだけの大災害も発生から5ヶ月を過ぎ、遠く離れた地の人々の記憶からは忘れられつつあるかと思うと悲しいですね。なお、学校建物の被害調査関連については、これから報告書の取りまとめに着手するらしいです。栃木県および埼玉県の調査担当者には、これからまたいろいろとお願いすることになりますので、どうぞよろしく。


亡 国 (2011年8月22日)

 とても涼しくなりましたが、夏はいつでも「前の戦争」について考えるときです。そう言えば、いつぞやの朝日新聞にこの「前の戦争」という言い方はそろそろやめて、ちゃんとした名前をつけませんか、という論評が載っていました(どこぞの大学の先生のご意見でした)。自国民はおろかアジアの民衆にも多大の犠牲を強いたこの戦争(太平洋戦争とか第二次世界大戦とか呼ばれるもの)に、日本では未だにちゃんとした名前が付けられていないということ自体が驚きです。ただ、私自身はそのように指摘されるまで、迂闊にも気がつきませんでしたが。

 さて、電車内読書でいま『山本五十六』(半藤一利著、平凡社ライブラリー、2011年7月)を読んでいます。この人は新潟県の長岡の出身で、この長岡という地が明治維新の頃には逆賊になったところから書かれています。そのときの宰相は河井継之介で、彼の事蹟は司馬遼太郎の『峠』によって有名でしょう。半藤氏は「長岡人は粘り強い」と書いていますが、隠忍自重の末に河井継之介はついに暴発して、長岡の地を荒涼とした廃墟としてしまったとしています。結局彼は長岡の地を武装中立による独立王国にしようとして果たせず、夢破れて民衆の塗炭の苦しみだけが残ったのです。

 この構図は、それから約70年後の太平洋戦争での日本の敗北と見事に重なります。山本五十六は非戦論者であったことはよく知られていますが、その思いは思いとして、結局は日本の戦争を泥沼に引き込んだ張本人と見ることもできるでしょう。山本は戊辰戦争の頃に故郷の地が逆賊となったことを相当に意識していたと言われますが、河井継之介の轍を再び踏んでしまった、ということになります。歴史から学ぶ、ということは標語として唱えるのは簡単ですが、実践することはいかに難しいか、この一事からも伺い知ることができると思いました。

 旧日本軍の「亡国」については、またいずれ書きたいと思います。しかしそれは、何度も書いていますが、彼らを非難することが目的ではなく、今の日本の状況がそのときからあまり変わっていないということを認識し、大いに反省すべきだと思うからです。


元気なひと (2011年8月18日)

 暑いです。ここ八王子は多分、40度近くになったと思います。駅から研究室まで歩いただけで汗だくです。これだけ暑いと、直射日光をまともに浴びると生命の危機を感じますな。日陰のありがたさを実感します。とにかく水分補給に気をつけましょう。

 で、お昼過ぎに登校して冷房を入れた研究室でやれやれと一息ついていると、元気そうな若者が入ってきました。誰かな、こんなヤツいたかな、と思ったら、それはなんと数年前に研究室を卒業した中沼弘貴さんでした。某大手ゼネコンに勤めていますが、今はお盆休みだそうです。真っ黒に日焼けして、今どきこんなに黒いヤツがいるか、みたいな感じでした。一昔前なら小麦色の肌というのは健康の代名詞でしたが、今じゃ健康の大敵と見なされていますから。

 中沼くんは今度の極大地震で問題になった、いわゆる村社会で仕事をしていますが、そのような苦労は微塵も感じさせない、明るい感じでした。しばらく話をしていてその訳は分かりましたが(個人的に“いいこと”があったそうです)。彼に限りませんが、卒業した先輩が元気な姿を見せてくれるのは、私としてもとても嬉しいですね。若者らしい溌剌さを保ちながら、社会で大いに活躍して下さい。楽しみにしています。

 来週は日本建築学会の大会です。このページでも書いたように今年はPDの発表が2件あるので、そのための準備をしているところです。もちろん私ひとりではとてもじゃないが手に負えないので、委員会の皆さんのご協力を仰ぎながら進めています。ほんと、助かります。今も岸本一蔵先生(近畿大学)からパワーポイントのファイルが送られて来たところです。


査読のはなし (2011年8月17日)

 お盆休みも終わって、今日からまた出勤です。今年は調子が良くなかったこともあり、ずっと家で過ごしました。子供の遊ぼうよ〜攻撃からは逃れられませんでしたが、それでも暑い中を出歩くことが無いだけでも助かりました。外に連れて行って走り回らせないとお腹がすかなくてご飯を食べないので困る、と女房からは文句を言われましたが。

 子供にテレビばかり見られても困るので、いろいろと遊びを工夫しました。そのなかで、プラレールのレールを使ってジャンプ台を作り、そのレールにビー玉を転がせてどこまで転がるか、という競争を始めると、もう大喜びです。同じ大きさのビー玉でもいろいろな要因によって到達する距離はまちまちです。そのあたりもさりげなく子供に教えながら遊ぶことができました。

 さて、このお盆の時期に論文の査読依頼がたて続けに二件ありました。しばらく査読が来なかったので、そろそろ来るかなと思っていたところでした。日本建築学会(AIJ)の査読システムは新しくなって、査読依頼のメール内に「承諾」あるいは「拒否」のボタンが設けられました。これはなかなかいいですよ。何故かというと、ああ査読したくないなあ、と思ったら、迷わず「拒否」のボタンを押すだけだからです。その瞬間は少しだけ良心の痛みを感じますが、すぐに忘れます。これで査読を楽に断ることができそうです(って、ちょっとまずいですかね?)。

 そうは言うものの、今回は「承諾」しました。もう一編はAIJではありませんでしたが、こちらも査読しました。しかしどういう訳か、二編とも「掲載不可」という査読結果になりました。詳しくは書けませんが、いったい何が成果なのか分からないものだったり、あまりにも独りよがりで何を書いているのか分からないものだったり、というのがその理由です。

 私も研究者ですから論文を書きますが、査読者からこんな風に言われるといけないな、と自戒の念を込めながらこれを書いています。研究室では何年にも渡って連続してあるテーマを研究する、ということはよくあることです。だからと言って、それらの既発表論文を他人さまがみな読んでくれている、などということはあり得ないでしょう。そのあたりは肝に銘じて、論文を書かなければならないと思いました。


大学院入試おわる (2011年8月11日)

 本学・建築学域の大学院博士前期課程入試が昨日終わりました。猛暑のなか受験された皆さん、ご苦労様でした。今年の受験者数は55名で、昨年のほぼ半分に減少しました。学内からの受験者は28名でこちらも大幅に減りました。本学の今年の4年生は就職を希望する学生さんが多いのが特徴で、それを反映した結果です。他大学でも事情は似たようなものなのでしょうね。でも、いったいなぜなんだろうという疑問は相変わらず残りますが。

 私の研究室の志望者も昨年の6名から半減して3名になりました。まあ、これが通常レベルですけど。学内からの志望者がいなかったのはちょっと残念ですが、学外から受験してくれるのはやはり嬉しいですね。これはHPによる宣伝の効果が大きいと思っています。RC構造の分野では、本学と競合するのは東工大で、多くのひとは両校に合格すると東工大に行ってしまいます。これをなんとか引き寄せるほどの魅力が本学にはまだない、ということでしょう。これは残念ですが、大学のネーム・バリューは一朝一夕には確立しませんので、どうしようもないです。不断の努力あるのみ、といったところでしょう。


あの日の空 〜そして、はるかな雲へ〜 (2011年8月9日 その2)

 今日は長崎の原爆の日ですね。いま、生協でお昼ご飯を食べてきましたが、晴れ渡った空のもと、焼け付くように暑い日です。66年前のあの日も多分こんな日だったのでしょう。原爆の犠牲となった大勢の方に、合掌。

 先日のNHKスペシャルで、米軍・原爆搭載機の発進を日本軍部は捉えていたという事実が明かされていました。それなのになぜ、空襲警報すら発令されなかったのか、疑問と言わざるを得ません。その番組に旧帝国海軍のゼロ・ファイターだった本田稔氏がコメントを寄せていました。

 このひとは海軍航空のエースだったひと(例えばこちら)で、いろんな戦記に登場する有名人なので、まだご存命だったことを知ってビックリしました。映像を見たところではかくしゃくとしてお元気そうでした。

 その本田稔氏が「こんなこと(当時の軍部がおかした過ち)は、また起こるんじゃないだろうか」と仰っていたのがとても印象的です。全くその通りだと思いました。このページでよく書いていますが、過去のことを反省しない日本人全体の体質がいつかまた大いなる矛盾となって噴き出して、この国を窮地に陥れることがないよう、ひとりひとりの日本人が注意しないといけないはずです。そういうことを思い出させることだけでも、「終戦の夏」には意義があると私は思うのです。



高知へ行く
 (2011年8月9日)

 東北地方太平洋沖地震の災害調査速報会が日本建築学会の主催で高知で開かれることになり、その講師をつとめるために高知へ出かけた。高知へ行くのはこれで三度目である。大学生のときには四国半周の旅の途中で高知に立ち寄った。そのときは車で旅したのだが伊予国の大洲(加藤家六万石の城下町である)で、免許を取った翌日という女の子に不運にも車をぶつけられて、後部ドアがベコッと曲がってしまった、という悲しい思い出が先に立つ。

 おっと、はなしが脱線した。高知行きに話を戻すと、今回はたまたま休日をまたいでいたので、電車で高知入りすることにした。一番の目的は、瀬戸内海を跨ぐ本四連絡橋を通ってみたいということと、かつて車で通った大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)の景色をもう一度見たい、ということであった。東京から新幹線で岡山まで行き、そこで特急「南風」に乗って高知まで6時間の道中である。



 特急「南風」(上の写真)はディーゼル・カーでたったの三両編成であった。目当ての本四連絡橋は結構あっという間に渡ってしまい(あっさり、という感じです)、すぐに四国に入った。その先の土讃線はどうやら単線で、特急だというのに高知まで二カ所で対抗列車の通過待ちがあった。

 こうしてけっこうな旅の果てに高知駅に降り立った。そこには土佐勤王党の三人(左から、武市半平太、坂本龍馬および中岡慎太郎)の立像が最近になって作られていた(下左の写真)。うーん、なんだか現代的な顔立ちをしているなあ、という感じである。それにこころなしか太っているようにも見える。昔の志士は痩せていたんじゃないですか? そこから南下して、高知なんだからはりまや橋に行ったが、そこには欄干と親柱みたいなものがあるだけで(下右の写真)、なんだかなあって思ってしまう。



 こうしてブラブラしながらホテルに着くと、そこにはなんと甲斐芳郎さんが私をお待ちになっていた。あちゃあ、先輩を待たせてしまった(どうもすいません)。甲斐さんとは、件の地震のときに帰宅難民として苦行を共にしたのだが(こちらをどうぞ)、お会いするのはそれ以来である。ちなみに甲斐さんはこの四月から高知工科大学の教授になって、高知を拠点とされている。

 その晩、甲斐さんに「ひろめ市場」に連れって行っていただき、美味しい鰹のたたきをいただいた。甲斐さんいわく、高知の人は男も女も昼間からここでお酒を飲んでいて、とても楽しいところだと。確かにまだ夕方だというのに大勢のひとで賑わっていた。そのあと甲斐さん行きつけのお店に行って、ウツボの唐揚げなどを食べながらいろんなことを話した。仕事のことや子育てのことなど、先輩の言うことにはそれなりの重みがあって、大いに役立ったのであった。

 さて、翌日は仕事である(そのために高知に来たのですから)。高知駅からまたもや特急「南風」に乗って、約十分で土佐山田駅に着いた。だが、な〜んにもないところである。ただ、どうやらここは漫画家のやなせたかし氏の故郷らしく、こんなところにアンパンマン・ミュージアムがあって、そこへ行くバスはアンパンマンでデコレーションされていた。何だか狐につままれたような気分であった。このバスに乗って高知工科大学へと向かった。

 「高知工科大学西口」で下車すると、丘の上に結構高層なツイン・タワーがデンと建っているのが見えた。なんだかこれも相当に場違いな気がします。あとで甲斐さんに尋ねてみると、これは学生さんの寄宿舎だという。でも周囲は緑豊かなところで土地が余っているんだから、もっと低層でゆったりとした施設を作ればよいのに、などと建築家でもない私が思ってしまう。





 だが、この大学のキャンパスはとても立派であった。中央の水盤の脇にはこれまたスケール・アウトした巨大な塔が建っている(なんだこれ〜)。同行した楠浩一さん(横浜国大准教授)が「このテッペンから学長がアメでも撒くんじゃないですかあ」なんて言っていたが、ホント、なんなんだろう。でも、わが大学にも「光の塔」というのが正門脇にあるので、あんまり偉そうなことは言えません。そういえば楠さんに「この大学、首都大学に似てませんか」って言われた。私も、なんとなくたたずまいは似ているような気がした。ちなみに高知工科大学のこの塔を構造設計したのは、青山・小谷研究室の先輩で日建設計に勤める木村晋一郎さんだということを甲斐さんから聞いた。

 さて、美しいキャンパスを楽しんだあと、午前10時から地震災害調査報告会がB棟1階の階段教室で始まった。ギャラリーはあまりいないだろうな、と思っていたが、甲斐さんが高知工科大学の学生さんに動員をかけたらしく、聴講者は結構いたようである。数えていないが多分、70人くらいはいただろうか。発表用のプロジェクタが左右に2台あって、それが同時に同じスライドを正面のスクリーンに映すので、どちらを指して説明していいのか、ちょっと迷った。おまけに左右の画面で色合いが異なっていて、左では青色なのに右では緑色だったりして、講師は皆困っていた(下の写真は発表する楠先生)。



 私の持ち時間は60分だった。しかしその時間で、関東地方、東海地方および北陸地方の全部の説明をするのは不可能なので、独断でまず東海・北陸地方は全部カットした(スライドを作って下さった方、申し訳ありません)。それから、関東地方についてもスライドを取捨選択した。それでも結局スライドは125枚にもなった。うーん、一枚30秒は相当に駆け足だ。しかしまあ、やむを得ないので、相当な早口でこの説明をこなしたのであった。参加して下さった四国の皆さん、ご苦労様でした。


かぶと虫 (2011年8月3日)

 今年もまたブルーベリー狩りの時期になりました。先週、今シーズン初日に子供が近所の農園に行ったら、おまけとしてカブトムシのつがいをくれました。ブルーベリーの木にカブトムシが集まるとは知りませんでした。私が子供の頃には、クヌギの木の樹液に集まるクワガタとかカブトムシを早朝に捕りに行ったものでしたが、このごろはデバートで買い求めるもののようです。

 最近は昆虫用にゼリー状のエサが市販されていて、毎日それをやっています。カブトムシは昼間には土にもぐったりしているので、子供の夏休みの生態観察にはうってつけのような気がしますね。まあ、うまく飼えればよいのですが、、、(数年前に貰ったカブトムシは一週間も持たずに成仏してしまったので)。


うち入り (2011年8月1日)

 今日は8月1日です。八朔です(旧暦ですが)。この日が何の日か、歴史好きの方なら多分知っているでしょう。すなわち徳川家康が父祖伝来の地である三河から関東へと移封となって、江戸に打ち入った日です。今からちょうど421年前のことです。ですから八朔の日は江戸幕府にとっては重要な日でした。

 それまで温暖で物なりの豊かな三河で育った松平家中のひとびとは、よく知らない野蛮な東国へと移ることに多大な不安と不満があったと思います。まあ豊臣秀吉には逆らえなかった、ということでしょうが、それでもよく移りましたね。しかしそれが現在の首都・東京の繁栄の基礎を築いたのかと思うと、徳川家康の英断に感謝しないといけないでしょう。

 徳川家康によって江戸の地は切り開かれ、埋め立てられ、水道が引かれ、諸国への街道が整備されました。そういった近世の始まりがスタートしたのが今日だったのです。感慨もひとしおですね(って、私だけかも知れませんが)。


工学教育のはじまり (2011年7月30日)

 電車内読書で『大鳥圭介』(星亮一著、中公新書、2011年4月)を読んだ。著者は東北出身の方で、明治維新での敗者の立場から幕末の会津藩や戊辰戦争について論じた著作が多くある人なので、本書でも薩長新政府に対してはどうしても辛口となり、幕府側への思い入れの感じられる文章が随所にあり、ちょっと鼻につく感じもある。

 大鳥圭介は幕府軍を率いて戊辰戦争を最後まで戦い抜いたことで知られる幕臣である。以前にこのページで紹介した会津藩若年寄・山川大蔵とともに山王峠(栃木県と福島県との境)付近で官軍と戦ったひとでもある。その彼は五稜郭で降伏後、新政府に出仕して、明治10年に工部大学校ができるとその事務方のトップに就任し、明治15(1882)年には工部大学校校長になったそうだ。

 その工部大学校は東京・虎ノ門に居を構えていた。現在の文部科学省と霞ヶ関ビルのあいだであり、今は写真のような煉瓦作りの門柱のようなものがポツンと建っていて、わずかにそのことを後世に伝えている。日本の殖産興業を押し進めて西欧列強に対抗するための工学教育はここから始まったのだと思うと、感慨も湧こうというものだ。

 右奥が文部科学省の建物

 イギリスからお雇い外国人教師J.コンドル先生が工部大学校の教授となるためにやって来たことはご存知の通りである。と言うことは、われわれが現在たずさわっている建築学(当時は造家学と呼んだのだが)を創設することに大鳥圭介も少なからず尽力したことだろう。その点では彼も建築学草創の恩人のひとりかも知れない。

 工部大学校はその後、帝国大学(当時は東京にしか帝国大学はなかった)のなかのひとつの分科大学としての工科大学に改組された。そのときの建物に掲げられていたと思われる扁額が写真である。以前にも書いたが、この額は私が学生の頃には工学部11号館のエントランスの吹き抜けに無造作に放置されていた。そのすぐ脇にネットを張って、青山・小谷研究室の面々と一緒にバトミントンをやったものだ。シャトルがその額にバシッとぶつかるなんてこともたぶんあっただろうな。なんてバチ当たりなことだろうか。無知だった自分がわれながら恥ずかしい。

 工学部11号館吹き抜けにある扁額


 東京・本郷の工科大学(国立国会図書館所蔵写真帳から)

 しかしさすがに現在ではその価値が認められたのか(ホント、よかったです)、同じ11号館に写真のように掲げられていた。ちなみにこの写真であるが、2011年3月11日に東北地方太平洋沖地震が起こった直後に東大にたどり着いた私が、11号館のエレベータが止まっているので仕方なく階段を歩いて登っているときに、踊り場から偶然に見つけて撮った写真である。あれっ、あんなところにあるってな感じだった。11号館の耐震補強と一緒に大規模改修を実施したときに、多分この額も掲げられたのだと思う(未確認です)。

 こうして明治初期の工学教育の始まりから、極大地震による大惨事を経験した現在までがひとつの扁額によって繋がった。と、私は感じたのでこの文章を書いてみた。


プロジェクト演習の講評会 (2011年7月28日)

 大学院科目である「プロジェクト演習1」の講評会が9階のアトリエであった。課題は「持続居住を支えるための地域公共空間の改修設計」というもので、これだけ見ると何をするのか分からないが、廃校になった既存校舎をコンバージョンしなさい、というものである。受講者29名が5つのグループに分かれて、それぞれ敷地(廃校は全部で6校ある)を選び、用途を設定して設計した。

 エスキス(三回行った)のときは大丈夫かな、と正直思ったときもあったが、さすがに修士1年生なので講評会には帳尻を合わせてそれなりのものを出して来たのは偉かった、と思う。ただし、出来のほうはピンからキリまで、といった感じではあった。それでも各チームともコンセプトや発想はとてもよかったと思う。それを具体的な建築としてどのように実現するか、というところで大きな差が生じたのである。

 われわれは具体的にモノを作っているのだから、最後に現物をまとめ上げてこそナンボの世界である。今回は(当たり前だが)具体の統合された建築を提案しろ、という現実に近い課題だった。そのためにいろんな分野の友人とチームを組んで議論し設計した、今回の経験は貴重なものだったはずだ。これを活かして、今後の学修活動を行ってくれたら、私としても嬉しく思う。皆さん、どうもご苦労様でした。

 なお今年のプロジェクト演習は二つのプロジェクト研究コースの教員が担当だったので、教員は全部で6名いた(吉川、市川、上野、角田、須永、北山の各教授)。それにスペシャル・ゲストの青木茂先生、助教の猪熊、雨宮両氏、TAの讃岐君が加わり、とても豪華なメンバーで講評会を行うことができた。これもよかったと思う(自画自賛)。


健康診断2011 (2011年7月27日)

 今年も健康診断の時期がやって来た。「健康診断受診も仕事です」という校内放送が毎日ながれる。例年は朝に行って、ものすごく並んで時間がかかっていた。今年は都合で午後一番に行ったのだが、なんとガラガラで約30分で終わってしまった。あんまりひとがいないので、視力検査のところでは担当のお姉さんにいろいろと質問して、メニューに無い検査までしてもらった。お陰で私はまだ老眼ではない、単なる近眼である、ということが分かった。

 血を抜かれたり、血圧測定で心臓がバクバクいったり、レントゲン撮影で被爆したりするのはイヤだが、まあ年に一回くらいは仕方が無いか、と思って諦めている。なんせこれも「仕事」ですから、、、。


小耳 (2011年7月26日)

 今は試験週間なので、キャンパスは学生さんで溢れている。お昼に生協にご飯を食べにいったときに、そこも大混雑だったのだが、ふと女子学生達の話し声が聞こえて来た。「あの先生なんだろうね。あのオヤジがさあ、、、」と言っていた。もちろんそれは私のことではないが、どこかの先生がやり玉に上がっていたのだろう。ああ、やっぱりそんな風に言われているんだあ、と思うとちょっとイヤな気分がした。

 今年の「建築構造力学1」は東工大の坂田弘安先生にお願いしたのだが、今日その期末試験が無事終了した。坂田先生、この半期のあいだどうもありがとうございました。


たどる (2011年7月25日)

 私は『メタルギア』というシリーズもののゲームを見たこともないし、そのノベライズを読んだこともない。しかしそんな私でも伊藤計劃氏の『メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット』(角川文庫、2010年3月)という小説はべらぼうに面白かった。ストーリーのプロットが非常に複雑な上に登場人物を把握するのがさすがに難しく、ときには相当な飛躍だと思える箇所もいくつかあったが、もともとがゲームなので劇画タッチのシーンの連続にワクワクした。

 だが今までに『虐殺器官』、『ハーモニー』と読んで来てこの『メタルギア〜』を読み終わってしまい、これで著者の遺した3編の長編小説を全て読んでしまったことになる。もうこれで彼の小説を読むことはできないかと思うと、相当に残念な気がする。藤沢周平や司馬遼太郎、山本周五郎の小説はまだまだ(私にとっては)たくさん残っているのでそんな心配は不要だが、伊藤計劃氏は若くして亡くなったのだからどうしようもない。

 で、この小説のなかにテロメアというものが出てくる。これは何かと言うと、ヒトの染色体の末端にある細長い棒のことだそうで、これが次第に短くなると細胞の寿命が尽きてヒトは死に至るらしい。物語の主人公は異様に早く老化が進行するのだが、それはバイオテクノロジーによって彼のテロメアが人為的に短く設定されていたからだ、という筋書きである。

 しかし私はこの小説を読む数日前に、偶然にもこのテロメアのことをほかの文章で読んでいた。それは学士会報No.889(2011-IV)に載った『がんと闘った精神分析の創始者フロイト』(篠田達明著)という一文である(これも偶然だが、数日前の新聞にフロイトの孫だという著名な画家の訃報が載っていた)。それによればテロメアが短くならないように修復する役目の酵素をテロメアーゼと呼び、臨終間近の人はこの酵素がほとんど消失しているそうだ。と言うことは、このテロメアーゼを人為的に与えてやれば老化を防止できるだろう、などという素人考えがすぐに思い浮かぶが、これは最先端の研究マターみたいである。

 話が脇にそれた。伊藤計劃氏の遺作3編を読むことによって、彼の人生の軌跡が凝縮された魂のささやきに触れた思いがする。別の言い方をすればそれらの作品を読むことによって、人間というものの存在に対する彼の思索をたどることができるような気がした。


涼しい (2011年7月21日)

 台風が去って行きつつありますが、昨晩から急に涼しくなりましたね。寒いくらいです。今朝の私の研究室の気温は27度です。冷房いらずで助かりますが、また明日から元に戻るかと思うと体調のことがちょっと心配になります。このままずっと涼しければそれはそれでありがたいですが、そうするとお百姓さんや観光業など困る人たちが続出するので、やはり日本らしい暑い夏は必須でしょう。

 昨日は某センターでの会議を5時間もやっていました。私は人間の集中力が続くのは3時間が限度だと思っているので、会議後半はもう苦痛でしたね。早くやめてくれー、ってな感じでしたが、皆さん熱心に討議しておいででした。なんであんなに会議が好きなんだろう、と異星人でも見ている感覚です。でも、こんな風に思っている私って、結局はワガママなだけなんでしょうね、自分のことしか考えていないのですから。


生き残る (2011年7月18日 その3)

 先週の大阪でのJCI年次大会でのことです。我が社の白井遼くん(現戸田建設)が「1995年兵庫県南部地震で倒壊を免れたRC造建物の耐震性能」というタイトルで論文を発表したのですが、そのときに神戸大学名誉教授の山田稔先生(この方は鉄骨構造の山田哲さん[東工大]のお父上です)から、「こういう生き残った建物の調査検討はあまりないが、とても重要である」というコメントをいただきました。阪大名誉教授の鈴木計夫先生からも同じようなコメントをいただきました。

 いずれも構造界の重鎮と言われる先生がたなので、とても勇気づけられる思いでした。ただちょっと内情を話すと、この論文のタイトルは当初は「1995年兵庫県南部地震で生き残った、、、」というものでした。ところが査読のときに「生き残る」という文言は論文として適切ではない、という修正事項をいただき、論文を通すためにやむなく冒頭のように「倒壊を免れた」と改めたのです。

 私としては「生き残る」のほうが遥かにインパクトがあって、目立つタイトルだと思うし、非科学的だとも思っていません。しかし端(はた)から見れば「生き残る」とはどのような状態を指すのか曖昧である、というのも確かかも知れません。インパクトを取るか、正確さを取るかといった選択の問題のような気もします。


原子力発電の行くえ (2011年7月18日 その2)

 菅総理大臣が脱原発を宣言してから、どうも妙な具合になってきました。民主党の有力者たちもポスト菅を見据えると脱原発を声高に唱えるわけにも行かず、だからといって脱原発を求める圧倒的な民衆の声を無視する訳には行かず、態度を決めかねているといった様子です。

 将来的には原子力発電から脱却して、太陽光などのクリーン・エネルギー依存にシフトすることが望ましいとは思います。そのために科学技術は寄与すべく大いに努力すべきでしょう。ただ、すぐにそのようなシフトが完了するとは誰も思っていないのも事実です。そこで、この移行期間をどのようにやり過ごすかということが関心事となります。日本の国の活力を保持して経済活動を維持するためには、電力の安定供給が欠かせないからです。どうせ日本の人口が減るのだから自然の為すがままにシュリンクすればよい、という考え方もあるでしょうが、私はそうは考えません。必要なインフラは維持した上で次世代へとバトンを渡し、将来どうするかは彼らが判断すればよいことだからです。

 さて、ものづくりの基礎技術とかノウハウとかは、それを作り上げて維持するためには膨大な時間とエネルギーとが必要ですが、それらを次世代に伝承する努力を怠るとあっという間に失われることは過去の歴史が示す通りです。皮肉な話ですがアメリカではスリーマイル島での原発事故以来、原発の新規建設がストップしたため、彼の国では今では原発建設のための技術が失われてしまったのです。

 という訳で、日本の財産であるところのものづくりの技術やノウハウを絶やしてはならないと思います。そしてそのためには国内に拠点を置く製造会社が国内に留まっても、世界市場で競争が出来るような国内環境を整えないといけません。そのためには一段と安全性に留意しながらも、当面は原子力発電を続けざるを得ないと思います。そうすると結局は、今まで進めていた既存原発建屋の耐震安全性評価を当面は継続することになるでしょうし、そうすべきだと考えます。

 福島第一原子力発電所の状況は依然として厳しく、東電の思うようには処理工程が進んでいないと聞こえてきます。そのために東電は持てるマン・パワーを集中投入しているはずです。ただ、私の身の回りを見ると、原発建屋の耐震安全性を評価するために必要な基礎実験とか、原発建屋の構造設計の拠りどころとなるRC-N規準の改定準備など、3月11日以来完全にストップしていた学協会での活動が徐々に動き出して来たように感じます。そういう委員会の多くで東電が幹事会社を勤めていましたが、さすがに今回の事態でそれを続ける余力はなさそうで、関西電力とか中部電力とかが肩代わりしたようです。しかしいずれにせよ、電力各社が今まで描いていた原子力推進策のロードマップは大幅に見直して、将来的には多分縮小せざるを得ないと考えます。

 以下は雑談ですが、宮崎駿監督の『未来少年コナン』という近未来SFアニメをご存知でしょうか。我が家にはそのDVDがあって子供も大好きです。1978年の作で、その冒頭に「2008年、地球は絶滅の危機に瀕していた、、、」というナレーションが入ります。そしてそのお話では太陽光エネルギーの争奪が物語のバックボーンになっています。すなわちこのアニメでは、2008年には人類は太陽光エネルギーを効率的に取り出す技術を既に完成していることになっています。

 宮崎監督は1978年から30年くらい経てば、太陽光エネルギーを自在に駆使できると想像したようですが、現実にはとてもそこまでは到達できませんでした。いつになったら、この技術が確立されるのでしょうか。


大学説明会2011 (2011年7月18日)

 今日は本年度第1回目の大学説明会です。台風が来る前に開催できてよかったですね。朝早くから大勢の高校生たちが正門をくぐって校内に吸い込まれて行きます。最近は親子連れもよく見掛けるようになりました。各コース(学科のこと)の質問ブースにやって来て熱心に質問するのは母親だったりすることも多々あります。

 わが建築都市コースでは例年通り、9号館9階のアトリエで各研究室の紹介パネルや在校生の模型とか設計図面などを展示します。数年前には、駒場のときの同級生だった浅川栄一くん(地球科学総合研究所)がお嬢さんを連れて来てくれたそうです。北山はいなかったじゃないか、と後になって言われましたが、、、(担当じゃないと通常はその場にはいません)。


大阪へ行く (2011年7月15日)

 久しぶりにJCI年次大会の三日間を皆勤しました。できれば三日間参加は避けたかったのですが、研究室メンバーの発表や座長の担当が運悪く三日間にバラまかれたので、斯くなる仕儀と相成りました。うちの研究室からは今年の4月に社会人となった嶋田洋介くんと白井遼くんとが発表しました。二人ともうまくプレゼンできたし、質疑応答もよかったと思います。ただ残念ながら優秀論文賞には届きませんでした。

 しかし一つのセッションが3時間近いというのは、ホントに疲れますね。始めの方に聞いた内容は、セッションが終わる頃にはすっかり忘れている、という状況です。これで午前・午後に二つのセッションに参加すると、もうグッタリです。また座長は担当セッションの全ての論文を読んで採点するとともに、当日の発表や質疑応答についても採点するので、そのあいだの3時間は緊張を強いられて、さらに疲労度は倍増します。座長は参加料を免除されるとは言え、あまりにもつらいのでもう引き受けたくありませんな(と、毎年思いますが、すぐに忘れます)。

 こんな訳で結局、大阪探訪はできませんでした。セッション終了後の夕方に会場周辺の堂島川あたりをブラッと歩いただけでした。ただ大阪は海に近いせいか、夕方には涼しい風も吹いていました。帰りに乗ったタクシーの運転手さんは「ねっとりした暑さはこれからでっせ」と言っていましたから、大阪の夏本番はやはりすさまじいのでしょうね。

 大阪でも節電を心がけているようで、電車の冷房も東京並みでした。年次大会の会場の冷房も例年ほど寒くなくて良かったです。ただ福島第一原発から相当に遠いせいでしょうか、放射能汚染の話題については全く聞きませんでした。同じ日本でも遠く離れるとこんな感じなんだなあ、と思いました。


涼しげ (2011年7月11日)

 梅雨が明けて、暑熱がすごいですね。今日、大学の情報処理施設のところでウグイスの鳴き声を聞きました。もう唄い馴れているようで、とても澄んだ美しい音色でした。少しだけ涼しさを感じました。南大沢キャンパスは武蔵野の雑木林を保全しているので、いろんな生き物が棲んでいるようです。暑いときこそ、気分だけは涼しくいたいものですな。

 さて、村上友梨さん(M2)と佐野仁彦くん(B4)担当のPRC十字形柱梁部分架構実験が先週末に終了しました。怪我があったりして大変だったと思いますが、二人ともよく頑張ったと褒めてあげたいですね。試験体は4体ですが思いのほかそれぞれの挙動が異なっていて(ちょっと想定外の現象もあったりして)、これからの分析によって素晴らしい成果が出ることを期待しています。

 私はこれからJCI年次大会に出席するため、大阪に向けて出発します。なんだか大阪も暑そうで、かないまへんわ〜(また、エセ関西人になりました)。『プリンセス・トヨトミ』で刺激されたので、会場周辺の中之島の建築を見てきたいと思っています。でも、あんまり暑いとそんな気分も萎えてしまうかも、、、。


はしご (2011年7月8日 その2)

 原発の再起動問題で政治が混乱しています。もう、何だか滅茶苦茶な状況ですな。玄海町の町長さんや佐賀県知事さんが怒るのももっともでしょう。経済産業大臣も嫌気がさしたみたいです。原発の安全性について十分に議論し、国民の合意を得ることはもちろん重要で、これからの政治の最優先項目であることは誰もが同意するでしょう。しかし総理大臣の発言があまりにも場当たり的で、それに振り回されるひとがたくさんいる、というのはいただけません。

 一所懸命に努力して根回しして、その挙げ句に「再開はちょっと待て。まだ安全性は確認されていない」なんて言われたら、その当事者にとっては青天の霹靂、まさに梯子を外されるとはこのことです。これでは面目丸つぶれで、立つ瀬がないですよね。

 梯子で思い出しましたが、越後長岡藩・牧野家中の紋所のひとつが、珍しい五段梯子でした。戊辰戦争のときに奥羽越列藩同盟に与した長岡藩は、この紋所を袖に付けて官軍と戦ったそうです。まあ関係ない話でした。

 いずれにせよ、確固たる方針を持って国の行方の舵取りをお願いします。でも大臣がこんな感じで辞めていくって、ちょっと異常です。(総理大臣ご本人を除いて)そして誰もいなくなった、なんてことにならないとよいのですが、、、。


駒場の時代1950 (2011年7月8日)

 先日の法事のときに父親から、面白いものをやる、と言われて一冊の冊子を渡された。表紙を見ると『私の駒場時代』とあり、今年の五月に作ったらしい。なんと昭和29年に東大・建築学科を卒業した先輩方の文集であった。うちの親父は留年したので翌年卒業したくせにちゃんと仲間に入れてもらっており、ありがたいことではある。

 私の卒業のときでも、上の学年にいたが留年して一緒に卒業した方が数名おいでになるが、ほとんどの方とは面識もなく、同窓会にもお声がかからないのではないだろうか。逆に我々より遅れて卒業した仲間にはいつでもお呼びが掛かり、あまつさえその中には東大に在籍しているひとが数名いることもあって彼らがクラス会の幹事を引き受けてくれたりする。

 話を元に戻すとその29年卒業組には有名人が綺羅星の如く集まっている。建築家の磯崎新さんを筆頭として、大手ゼネコンの元社長さんとか大学の先生とか。武藤・梅村研の先輩である狩野芳一先生(明治大学)もこの学年である。

 半分くらい読んだが、先輩方は皆さん面白いことを書いておいでだったな。しかし戦後の新制大学と旧制帝国大学との境目という時代背景は大きく、うちの親父を含めて帝国陸海軍の将校養成学校に籍を置いていたひとが結構いた。また彼らが大学生の頃には、占領・日本からサンフランシスコ講和条約の締結によって日本が独立を回復して国際社会に復帰した時期と重なっており、そのような社会情勢に密接した街頭デモとか試験ボイコットなど今の我々には分からないような話題も多かった。しかし総じて皆さん、楽しくかつ充実した駒場時代をお過ごしになったように見えました。

 で、狩野芳一先生(春の叙勲、おめでとうございます)の一文を拝読すると、駒場時代の出来事としてなんと私と同じようなこと(こちらです)が書かれているではないか。狩野先生のような方でも「東大というところは、上には上がいるものだ」とお感じになったそうだ。うーん、と言うことは、学生時代に同じように感じたひとが意外とたくさんいたのかも知れない。

 ちなみにうちの親父の文章には、お酒とタバコと麻雀のことしか書かれていなかった。勉強熱心な学生とは思っていなかったが、やっぱり、という感じである。ただ、良い友人に恵まれた、とは書いてあったので、そこだけは私と同じだなと思った(私は酒もタバコもやりませんから)。

 ということで、自分自身の駒場時代については、別に著すことにします。


節電のはなし (2011年7月6日 その2)

 暑くなってきましたね。いよいよ電力不足の心配が現実的になって来た感じです。うちの大学でも何だかよく分からないアクション・プランが作成されて、毎日お昼過ぎに館内放送で「使用電力が目標値を上回りそうなので、すみやかにアクション4を実施して下さい」とか流れてきます。アクション4ってなんだんべ?ってな感じで、何だかよく分からないですが、とにかく冷房温度は上げて照明はなるべく消して、扇風機で涼しげにしています。

 ちなみに扇風機は、この夏、コースで取りまとめて購入しました。今まで私の部屋には(というか、どの部屋にも)扇風機などはありませんでした。今はレトロなヤツが首振ってます。また、こちらもレトロな寒暖計がひとり一台渡されました。これ見て温度の管理をせい、とうことかしら? でもその介あってか、何とか後ろ指を指されずに節電できているみたいです。理学部棟の3階を歩いたら、どの部屋も(教授室も学生室も)冷房を切って、ドアを開けて扇風機を回していました。そこまでやるか、とも思います。健康を害したらそれこそ元も子もないと思うのですが、、、。

 なお本学の電力使用状況はこちらで見ることができます。これを見るだけで、皆さんの努力が分かるような気がします。


真意は? (2011年7月6日)

 嵐のようなドタバタで復興担当大臣が交代しましたね。しかし在任1週間余りで辞めてしまった前任者は、いったい何を考えていたのでしょうか。メディアの報道では居座り続ける首相の背中を押すための「自爆テロ」ではないか、などという当てずっぽうまであらわれる始末です。

 でも私は、今回の件はそんな“政治的に高度な寝技”ではないと思っています。問題になったときのテレビ映像を見ていると、問題発言のあった日にご本人の機嫌が悪かったのではないか、という気がします。人間ですから機嫌の悪いときもあるでしょう。そのようなときに宮城県知事が遅れて入室したものだから、さらにブチキレてあのような仕儀と相成ったように私には思えました。あの人は案外、正直なひとなのかもしれません。

 別に彼を擁護するつもりはサラサラなく、一国のトップにいるひとが自身の感情で動いてよいはずもありませんが、彼が何にイラだったかということは何となく分かる気がします。彼は自民党だけでなく民主党も嫌いだと言いました。そこには、自分が政治の場にいながら、かように混乱した政治を糾すこともできず、復興は一向に進まないことに不満や苛立ちを抱いていたのではないかと推察します。

 でもそうだとしたら、政治の渦中にあるひとが自分でそのような状況を是正してもらわなければ、一般国民は困りますね。彼らの仕事はまさにそこにあるのですから。いずれにせよ、辞めてしまったひとのことをあれこれ忖度(そんたく)しても始まりません。新しく復興担当大臣になった方の奮起を期待したいと思います。


節電ダイヤ (2011年7月4日)

 この夏の電力不足の影響で、7月1日から京王線でも節電ダイヤが始まった。新しい(テンタティブの)時刻表を見ると、全体的に電車が間引かれてトータルの本数は減っているようだ。

 ところが私が朝の通勤に利用する各駅停車は、南大沢駅まで直通の上に今まであった急行電車等との待ち合わせがなくなって、今までよりもなんと到着時間が短縮されたのである。時間にして5分から10分は早くなった。こんなことって、あるんですね。ただ今朝は新しく増発された各駅停車に乗ってみたが、こちらは調布駅での待ち合わせ時間が長くて、全然メリットがなかった。おまけに混んでいて坐れなかったし。

 企業では早朝出勤が多くなっているそうだが、私が普段使う時間帯では、私の乗車駅で電車から降りて会社に向かうサラリーマンの数がめっきり減った。6月までは駅からドワーっと出て来て、人津波のように押し寄せて来たので、そこを逆らって歩くのは大変だったのに、、、。多分、皆さん、今までよりも早い時間帯にシフトしたのだろう。


栃木県へ行く(その3) (2011年7月1日)

 また、栃木県の学校建物の地震被害調査に出かけた。今までは全て文科省が建築学会に委託した調査事業であったが、今回はそうではない。耐震補強の途中で地震被害を受けた鉄筋コンクリート造校舎の耐震性能評価と今後の耐震補強の進め方について、建物管理者の教育委員会から文教施設協会あてに評価依頼があり、そのための現地調査に同行した。場所は栃木県北部で、気象庁震度は6弱であった。

 今回の調査には中埜良昭くん(東大生産技研・教授)と久しぶりに一緒に行った。思い起こせば彼と一緒に初めて地震被害調査に行ったのは、ともに博士課程の大学院生だった1987年の岩手県中部の地震のときであった。

 対象建物はなんの変哲も無い一文字形校舎(RC3階建て/杭基礎)で、工期の都合から耐震補強工事を二年に渡って実施する計画で、建物の東半分の補強工事を終えたところで今回の地震に遭遇した。耐震補強のデバイスは主に連層鉄骨ブレースである。

Nasu01 Nasu02 Nasu03

 で、地震被害であるが、鉄骨ブレースで補強したところにはほとんど被害がなかったのだが、その隣の補強をしていない柱から数本に渡ってRC柱(桁行方向1階/上の写真で、パイプでサポートを掛けているところ)がせん断破壊した。見た感じはそんなにひどい損傷ではないが、建物のなかに入ってよく見ると柱両脇のサッシがわずかに外側にはらんでいたので、若干ながら軸方向縮みが生じたように思う。被災度区分は[中破]であったが、耐震補強実施部分と未実施部分とを便宜的にゾーニングすると、未実施部分の被災度区分は[大破]であった(中埜研の人たちが計算してくれました)。

 三層分の連層鉄骨ブレースの3階部分では、鉄骨ブレース両側のRC柱に輪切り状のひび割れが数本生じていたので、地震時には全体曲げのように挙動したと考えられる。また連層ブレースと連層ブレースとのあいだのRC梁には危険断面に曲げひび割れが生じたことから、連層鉄骨ブレースの境界梁は地震時には曲げ降伏したと推定できる。

 総体的には、耐震補強していたお陰でこれくらいの被害で済んだ、ということだろう。なおゲビオン・タイプの鉄骨屋根を持つ鉄骨造屋内運動場では、構面内ブレースを耐震補強していたので、非構造部材の損傷や落下は全く生じなかった。ただし、補強したブレースの斜材にはかなりの塑性化が生じていたので、こちらも耐震補強していてよかったね、ということだろう。


打ち込む (2011年6月26日)

 2010年に大学生が選ぶ本第一位となった『天地明察』(冲方 丁[うぶかた とう]、角川書店、2009年11月)を読みました。ちなみに第二位は伊藤計劃氏の『虐殺器官』です。その評判だけで手に取りましたが、結論から言えば面白かったです。

 江戸時代の四代将軍・家綱から五代将軍・綱吉の時代に、碁打ちとして江戸城に出仕していたひとりの若者が、数学と天文学の知識を身につけながら改暦事業に打ち込み、ついにそれを成し遂げるというお話です。主人公は安井算哲というひとですが、私は全く知りませんでした。

 というわけでジャンルとしては時代小説ですが、読んでいて非常にすがすがしく、時代物を読んでいるという気は全くしませんでした。ひとことで言えば“青春グラフィティ”でしょうか。その理由は、登場する人物がおしなべて一つのことに打ち込んでいて、それに対する努力を惜しまない態度が溢れているからだと思います。ですから、この小説には悪人が出てきません。

 それから主人公のマイナーさ(失礼な物言いかも知れませんが)に較べて、登場する脇役は歴史上の重要人物ばかりである、というのも特徴です。和算の関孝和や、会津藩主の保科正之、水戸光圀、下馬将軍と言われた大老・酒井忠清などです。このあたりのキャスティングの妙は昨年末に紹介した『のぼうの城』(和田竜著)に似ています。

 会津藩祖の保科正之(二代将軍秀忠の脇腹の子で、三代将軍家光の異母弟)は名君と言われています(以前にこのページで紹介した家訓を作ったひとです)が、この本でもそのように描かれています。ただ中村彰彦の小説に登場する模範的な聖人君子といった感じではなく、人間的な苦悩を背負った人物として登場しており共感できます。

 関孝和が本当に改暦事業に参加したかどうかは疑問ですが、お話としてはとてもよく出来ていると思います。何といってもこれは小説ですから、歴史的な事実をおおもとに置きながらも、そこに作者がさまざまなアレンジを加えてワクワクするような物語を作ればよいのです。自分の青春を完全燃焼させて、ひとつのことにひたむきに打ち込んだ姿には快哉を叫びたいですね。


科学の時代 (2011年6月25日)

 締め切りに追われる日々で、今日も大学で原稿づくりに腐心しています。今朝の通勤電車内で『天才たちの科学史 〜発見にかくされた虚像と実像〜』(杉晴夫著、平凡社新書、2011年5月)を読み終わりました。このあいだ円周率の歴史を読んだときにラボアジエの悲惨な運命を知りましたが、そのことがこの本には一章をさいて記述されていたことが、本書を手に取った大きな理由です。ニュートンとフック(バネの「フックの法則」で有名な人です)との確執についても結構触れられていました。

 で、ここで書こうと思ったのは、この本のあとがきに書かれていたことです。現代の大学生が講義で話されることに非常に無関心なのは、「科学ばなれ」が顕著に進行しているせいではないか、と書いてありました。なるほど、と思いました。私もここ数年、学生の無関心さを深く憂いていたからです。

 しかし20世紀から21世紀は明らかに科学の時代なのに、その科学に対して若者が無関心では、世界の将来が思いやられます。私が子供の頃にはテレビもモノクロで、携帯電話もパソコンもありませんでした。そういった「文明の利器」が年とともに出現して、科学と技術の素晴らしさを実感してきました。

 ところが現代の若者にとっては、生まれたときからそういったハイテク製品が身の回りに溢れて、それらのありがたみとか素晴らしさに気がつくことさえないのでしょうね。言ってみれば、空気のようなものでしょうな。かように「科学の時代」にドップリ浸かっている若者たちが、これらの便利な品々の成立原理については全く無関心であるとは、皮肉としか言いようがありません。

 このような状況では残念ながら、人類はこのまま衰退の一歩をたどるのでしょうか。人間の叡智の素晴らしさについては度々ここでも触れていますが、少数の選ばれた若者が科学をさらに進歩させてくれるのでしょうか。しかし頂上があるためには、それを支える広い裾野が必要なはずでしょうから、その裾野が消え去ったとき、科学の頂上はもはや存在できなくなる可能性の方が高いかも知れません。

 なんだか暗澹たる気分になってきましたね。次の世代のために出来る限り役立つ遺産を彼らに渡してあげるのは我々の責務でしょうが、それをどう使いこなすかは彼らに任されています。若い世代の奮起に期待するしか無いのでしょうか。悩みは尽きません。


獣人伝説 (2011年6月24日)

 先日『プリンセス・トヨトミ』のところで半村良の伝奇小説をチラッとあげた。私が彼の小説を初めて読んだのは今でもはっきり憶えているのだが、高校三年生のときであった。当時私はZ会の通信添削を受けていた。まあ、受験勉強の一種である。Z会というのは伊豆の修善寺に本部があったことから、我々のあいだでは修善寺にはZ会という受験教(そんなモンはないのだが)の教祖様が住んでいると言われていた。

 で、その通信添削で私は数学と現代国語(現国と呼ばれる)とを受けていたのである。高校生の頃の私は現国が大の苦手で、学校の期末テストでは赤点をいただいたことすらあり(お恥ずかしい話ですが、、、)、大学受験を考えるとさすがにまずいと思ったのだろう。ちなみに私に赤点を付けて下さったのは小田原栄先生という熱血教師で、非常に熱意ある授業をされたが私にはあまりピンとくるものがなかった。多分波長が合わなかったのであろう(と、私は自分に都合が良いように勝手に解釈している)。

 いや、本当のことを言えば、現国では「著者の考えを述べよ」などと出題されるが、そもそも著者が何を考えていたかなど、第三者である我々に分かる訳は無いではないか、と思っていたからである。

 さて、そのZ会の現国の問題にあるときべらぼうに面白い文章が載ったのである。それが半村良の『獣人伝説』であった。どんな内容だったかもう忘れたが、平凡な日常を送っていたサラリーマンがある日目覚めると非日常の世界で獣人になっていた、ってな話だったかな。いずれにせよその問題を解き終わって、あまりの面白さにすぐに文庫本を買ってきて全文を読んだのであった。半村良を読んだことがあるひとならお分かりだろうが、彼の小説はとても現国の問題になるような類いのものではないので、この問題を作ったZ会の担当者は相当なキレ者だったと思われる。

 ちなみに通信添削には制限時間がないので、じっくりと考えて答案を作ることができた。私にはそれが性にあっていたようで、とことん考え抜いた答案が添削されて帰ってくると、そこに赤字で書かれているコメントを読むのが楽しみだった。多分大学生がアルバイトでやっていたのだろうが、彼らも真剣に見てくれたようで、完全なバツ(すなわち零点)がつくことはあまりなかったような記憶がある。数学でも現国でも私は丁寧に清書して答案を作ったので、それが添削者に好感を与えたのは間違いなかろう。

 脱線するが、学校の教員になって私もたくさんレポートとか答案とかを見るが、書きなぐったものは見る気がしないし(斜めに読んだだけで大きく“ダメ”と書いたりするぞ)、丁寧に書いてあるとそれだけでよしよし、という気になる。

 こうしたお陰で私は現国に対する苦手意識から次第に離脱することができた。Z会の通信添削ではペンネームによるランキングが発表されるのだが、私がトップをとったことすらあったからである。ただそのときの得点は六十数点だったので、トップに私のペンネームが載っているのを見たときにはあれっ?てな感じではあったが。

 ちなみに私のペンネームは「あひみてののちの」という、およそペンネームらしからぬそれであった。これは立原道造が書いた小説のタイトルで、さらに遡れば新古今和歌集に収録された式子内親王の和歌の冒頭の句である。さらに付言すれば立原道造は東大・建築学科出身の詩人で、辰野賞(こちらも『プリンセス・トヨトミ』に出てくる東大教授・辰野金吾の名を冠したもの)を受賞するくらい設計が上手で卒業後に石本喜久治建築事務所に勤めたが、若くして亡くなったのであった。

 立原道造の詩を初めて読んだのは高校一年の現国の授業のときで、渡辺洋三先生が藁半紙に印刷して教材として使用した「はじめてのものに」である。こう見てくると高校の現国の授業が意外にも私にとって重要であったことに、今になって気がついた。

 ペンネームでだんだんと思い出したが、数学でいつもトップとか上位に出てくるひとに「ラグランジュ」という数学者の巨人の名前をそのまま使っているひとがいたりした。もの凄く数学に自信があったんだろうな。またZ会ではないのだが、『大学への数学』という月刊誌の学力コンテスト(やはり通信添削みたいなもの)で常にトップをとっていた○本俊介さんというひとがいて(たしか灘高だったかな/学力コンテストでは本名と出身校が掲載された)、我々のあいだでは会ったこともないのに「伝説の○本くん」なんて呼んでいたが、受験が終わって大学に入ったあとにキャンパスでそのひと本人を見た!という情報が駆け巡ったりした。受験のときのランキングって、それほど斯様に記憶に残っているものだ。

 ここまで書いてきて再認識したのだが、『獣人伝説』にせよ受験にまつわる記憶ってホントに鮮やかに残っているものが多い。暗記中心・条件反射と揶揄されることも多い受験勉強だが、その後の人生に大きな影響を与えるものとの出会いがあったりして、結構有益だったかも知れないなあとか思ったりした(だったらもう一度やってみろ、とか言わないでね)。皆さんは如何でしょうか。


つながる (2011年6月23日)

 先日、田町の建築会館で久し振りに丸田誠さん(島根大学教授)にお会いした。で、開口一番「イノセがさあ、、、」と言われたのでビックリした。どうやら私のHPをご覧になったらしい。イノセとは以前にこのページで紹介した、外苑前にある酒屋のことである(マイナーな話題ですいません)。でもなんで丸田さんが?と訝りながら話を伺うと、なんと彼の縁者がこのイノセのすぐ裏に住んでいらしたとのことで二度ビックリ、さらにはこんな都会に住んでいる人がいたことに三度めのビックリである。今度免震協会に行くときに覗いてみよう。

 最近うちの子供は、川向こうの小学校の屋内温水プールに泳ぎに行くようになった。野川の対岸は調布市で、そこに新しくできた学校だが、公立の小学校とは思えないような立派な施設である。施工は鹿島建設である。丸田さんはこの小学校にも私的に関係していて、このプールのこともよくご存知であった。

 これだけつながるとちょっと恐ろしいくらいである。でもまあ丸田さんとは昔からの付き合いなので(研究上の恩人でもあり飲み友達でもある)、これくらいのことはあるかも知れないね(って、そんなことある訳ぁないだろ、と突っ込んで下さい)。


過ちを知る (2011年6月21日)

 『プリンセス・トヨトミ』の前に電車で読んでいたのが、『最後の戦犯死刑囚 〜西村琢磨中将とある教誨師の記録〜』(中田整一著、平凡社新書、2011年5月)というタイトルの恐ろしげな本である。中田整一さんは昨年取り上げた『トレイシー』の著者でもあり、この人の書くことならば信頼できるし理路整然としているだろうと思ったので、迷わず手に取った。

 この本の主人公(西村中将)はBC級戦犯として昭和26年に死刑になったひとである。この本を読む限り、とても気の毒な事例なような気がするし、冤罪にもかかわらず相手国の政治的な思惑によって死に至らしめられたのかも知れない。人間としても高潔な方だったようだからその感は尚更深い。

 しかしそこには戦後の日本人が一貫して避けて来た問題がやはり横たわっていた。軍隊において上官の命令は絶対で、日本ではそれは天皇陛下の命令であるとされていた。なのでこの体制においては論理上、全ての責任は結局は頂上の唯一人に帰せられることになる。

 だが、そのお方が(ご自分の意志ではなかったとしても)戦争の責任をお取りになることがなかったとしたらどうなるだろうか。それによってこの戦争における犯罪行為の責任の所在は、必然的に曖昧にならざるを得なかっただろう。こうして、上官の命令に従っただけにもかかわらず訴追された、多数のBC級戦犯と呼ばれる犯罪者が産み出されたのである。そのなかには本当に残虐な暴漢もいただろうが、そうではない、内地に帰れば普通の市井のひとも多く含まれていただろう。

 戦争に勝った側が自分たちの論理で敗者を裁いた戦犯裁判には、現代の視点から見れば法学的にもまた一般的な倫理感に照らしても合理性はないように思える。しかし、そのことと戦争に対する責任ということとは別である。ことあるごとに書いているように、結局は皇軍組織という、人智を超えて巨大化してついには内部の人間(高級軍人たちのこと)ですら制御できなくなった化け物の犠牲になったとしか考えようがない。

 現代の我々が出来ることは過去の過ちを認識した上で、そのような道を再びたどることがないように自制することである。その点で、このような過ちを告発する本書のような発信は非常に大切であると思っている。戦争で亡くなった全てのひとびとに、あらためて合掌。

PS もうすぐ、組織的な沖縄戦が終わったと言われる日がやってきます。


エレベータ (2011年6月20日 その2)

 9号館のエレベータがようやく全基運転を再開しました。3月11日の地震発生から実に3ヶ月ぶりのことです。いつまでたってもエレベータを動かさない執行部に対して、業を煮やした深尾精一教授がついに副学長たちに直訴してからも、しばらくの時日を要して、やっとのことといった感じです。

 確かにエレベータを動かさないことは、節電しているというアピールを外部に対して手っとり早く示すことができるのでしょう。しかしいつも書いているように、我々の人的資源は(手前味噌で恐縮ですが)貴重なものです。それを有効に活用せずに、なんの省エネでしょうか。私はエレベータにほとんど乗りませんが、それでもよかったと思います。省エネはもっと別のところでやればいいんですから。

 しかしエレベータも動かなければただの箱に過ぎず、そのくせメインテナンスだけは必要なのだから、やっぱり動かすべきなのです。当たり前のことをここで報告するのもなんだかなあ、と情けなくなりました。


消費税 (2011年6月20日)

 消費税を10%に上げるという話が進んでいますね。昨年の今頃に菅さんが同じ消費増税10%を表明して総スカンを喰らった挙げ句に、参院選で惨敗したことなどはすっかり忘れていました。今思えば、菅総理のケチのツケ始めがこのときだったようです。

 でもそれから一年後の今は、状況が全く変わってしまいました。東北・北関東を中心とした震災復興に向けて、その費用をどのようにして捻出するのか、そうでなくても経済状況は下向きだったのだから、何らかの特別な手段を講じる必要があります。そのための手立ては別に議論されています(復興構想会議は復興財源として臨時増税を明記したそうです)が、緊急事態で国民全体が危機意識を共有している(と思いますが)この時期に消費増税を言い募るのは、何だかちょっとフェアじゃない気もします。

 昨年のこの時期に書きましたが、消費税を上げること自体は避けられないでしょう。ただし消費税の上げ幅は、その使用を福祉目的に限るとしても具体的な試算に基づいて数値を決めて欲しいと思います。しかし無駄なモノは本当にもうないのでしょうか。事業仕分けがいっとき話題になりましたが、たいした効果は上げられなかったと聞いています。でもそのときに暗黙のうちに聖域が設定されていたと私は思っています(これはデリケートな話題なのでこれ以上は触れません)。

 いずれにせよ、我々の子孫に負の遺産を残すことだけは避けて欲しいですね。急激に進む高齢化社会における福祉とはどのようにあるべきなのか、その未来像の提示と合意に向けての議論が絶対に必要なはずですが、それは残念ながらはかどってはいないようです。それがない限り、現役世代の“払い損”に対する危惧は払拭できませんから。


大 阪 (2011年6月17日)

 今年のJCI年次大会は大阪で開かれる。そのせいではないのだが、電車内読書で『プリンセス・トヨトミ』(万城目学)を読み終わった。皆さんはご存知かもしれないが、この著者(まきめ、と読むそうだ/昔、我が社に万造寺学という学生さんがいたが、彼はそのまんま“まんぞうじ”と読む、関係ないですね)の本を読んだのは初めてである。

 いろんな書評で褒められていたので手に取ったのだが、さすがに売れるだけあって面白かった。400年前の大阪落城から続く話なので、分野としては「伝奇小説」なのかもしれないが、例えば半村良の『石の血脈』とか『妖星伝』とかに見られるようなおどろおどろしさは全くなく、むしろそれとは正反対なアッケラカンとした明るさに満ちたお話であった。エンタテイメントというジャンルだろうが、文庫本で530ページもあるのにあっという間に読み終わった。ただ読み終わったあとに何かが残ったか、というと、うーんと首をひねってしまう感じではあるが。

 この小説には、われわれ建築屋にとっては馴染み深い辰野金吾が登場する。正確に言えば彼の設計した建築、ということだが、いずれにせよ日本最初の建築家が登場することに変わりはない。大阪には彼が残した建物が多く残っている、と言うことらしい。

 私は関東モンなので、大阪については全くといってよいほど知らない。大阪城にも一度だけ行ったきりである。しかしこの「万城目ワールド」を満喫したあとには、是非とも水の都大阪を探訪してみたいと思った。今年の7月はちょうど良い機会になりそうで、楽しみである。


親 類 (2011年6月12日)

 今日のお昼に法事があった。いろんな親類が久し振りに集まった。そのとき、小さい子供がいて、私の甥っ子から「あの子はだあれ?」と聞かれたので、私はちゃんと説明するのが面倒だったこともあって「うん、君の親戚だよ」と答えたら、「ふーん、それは僕が知っている範囲の情報だ」と言われてしまった。

 そこで本腰を入れて説明することにした。手のひらに系図を書くふりをしながら係累を辿っていった。甥っ子—母—祖父—祖父の弟(私の叔父)—その子供(私の従兄弟)—さらにその子供、ということで5親等であった。5親等ともなると滅多に会うこともなく、誰だか分からないという関係になることが実感できた。逆に言えば、わずか5親等ですらその関係が不明になってしまい、ヘタをすると赤の他人に成りかねない。

 このことから敷衍すれば、同じ名字を名乗っている人のなかには、知らないだけで実は遠い親類関係にあるひともいるのではなかろうか。母方については名字自体が異なるために、さらにその関係が分からなくなるだろう。ここから人類は皆兄弟と言うまでのハードルは、以外と低いような気がしてきた(ちょっと飛躍のし過ぎ?)。


めぐる因果 (2011年6月10日)

 ここのところずっと締め切りに追われています。これも3月11日の極大地震のせいです。初動的な地震被害調査は一段落ついたような感じですが、その調査報告書の執筆依頼がたくさんやって来ました(当初から想定されていたことですが、何しろその日暮らしなもので)。もちろん同僚、後輩、先輩など多くのひとに協力をお願いしています。ただ、今年は夏の建築学会大会でRC部門とPC部門の二つのPD(Panel Discussionの略)で発表を依頼されており、そのハンド・アウトの原稿締め切りもあと2週間後くらいに迫っています。こりゃ大変だあ。

 で、独りで抱えていると目が回って卒倒しそうなので、PDの原稿も助っ人を頼むことにして、今日、お願いのメールを出したところです。メールが届いた方、ご迷惑でしょうが引き受けていただけると助かります。常日頃、メール一本で仕事を頼むなよ、とか思いながらも、窮すると自分も同じことをしているのでした(反省しろよ)。

 これでまあ何とかなるかとホッと一息ついていたら、なんと私と同じようなひとが他にもいたんですよ(よく考えれば、そりゃ沢山いるでしょうがね/類は友を呼ぶ、ってか)。夜遅くになって東北大学の前田匡樹さん(青研の後輩)から、仙台市の学校建物の地震被害について報告書を書いてくれ、というお願いメールが私に届いたのです。それも締め切りは6月16日ですよ(どうせならもっと早く言えよ)。ありゃあ、困ったなあと最初は思いましたが、つい先ほど同じようなメールをよそ様に送ったばかりでしたので、困ったときはお互いさま、情けは人のためならず、と思って引き受けました。これで仕事がまたひとつ増えました、嬉しいな〜(ヤケクソです)。

 こうしてぐるぐると因果は廻ってもとに戻ってきたのでした。世の中、やはりそんなに甘くない、ということでしょうな。でもお願いされているうちが花かも知れません。私は楽天的な性格なので、そう考えることにしています。


昼と夜 (2011年6月8日 その2)

 下に弾性論についてのティモシェンコ著『Elastic Stability』をあげましたが、学生の頃に聞いた笑い話を思い出しました。確か青研に研究員として在籍していた田中清さんだったと思いますが、弾性論の話をしていたときに田中さんが「おまえこれ知ってるか」と言いました。何かと思えば、「ヒルという学者は『塑性論』という本を書いている。そこでだ、昼(ヒル)の塑性論、夜の「男性」論と称するのだ」。男性と弾性とを掛けたシャレだったのです。あははっ(って、おかしくないですか) 


最強の学者とは? (2011年6月8日)

 今、電車のなかでは円周率πの歴史についての本(P.ベックマン著『πの歴史』、ちくま学芸文庫、2006年)を読んでいる。紀元前2000年頃にすでにπの近似値として25/8が知られていたそうなので、人類の叡智はやはり大したものである。それにひきかえて最近の日本の小学校での学習指導要領ではπは3であると教えていたのだから、古代のひとが聞いたら笑うだろう。

 さて、そのπを求めるために下限値と上限値とで挟み撃ちにしたのがアルキメデスである。彼は円に内接する正多角形と外接するそれとを用いて、正多角形の辺数をどんどん大きくすることによってπの近似値を求めたそうだ。

 しかしその後は、近世に至るまでアルキメデスのこの考え方を超える方法は基本的には発見されなかった。πを求めるために無限級数という全く新しい概念を持ち出したのは例によってニュートン、ライプニッツ、オイラーそしてガウスといった数学史や物理学史にその名を残す巨人たちであった。微分積分がまだ未発達だった頃に、有理数の数列を無限に足したり引いたりすることによって円周率πが求められることを知ったひと達は、さぞ驚いたことだろう。

 ところで円周率の記号として今ではπを使っているが、この記号を世の中に広めたのはオイラーだそうだ。オイラーは我々建築構造学の分野でも有名である。線材の座屈理論である。彼の提唱した理論はオイラー座屈として今でも弾性論で学ばれている。ただ私はオイラーのその論文を読んだことはなく(ラテン語で書かれていただろうから読めるはずもないが)、学部3年のときの秋山宏先生の授業で紹介されたティモシェンコ著『Elastic Stability』で勉強した記憶がある。

 脱線したので元に戻ろう。ニュートンにせよオイラーにせよ、凡人にはうかがい知れない天才である。彼らは一つの分野だけでなくマルチの分野で金字塔的な業績をあげたのだ。彼らの残した理論とか概念とかは300年経った今でも色褪せることはなく、自然界の真実を説明してくれる。

 ひるがえって自分のことを考えると(もちろん、こんな巨人とちと較べているのでは毛頭ない)、狭い分野で十年一日の如く一つのことをウンウン唸りながら研究しているのである。それがもしかしたら社会の幸福の実現にささやかながらも役立つことを期待しながら、である。オイラーたちのように自然界の仕組みを解き明かす普遍的な理論を構築する、などは、それを追い求めることにロマンは感じるしトライしてみたいとも思うが、実現することはとても無理であろう。

 私たちが携わる工学は基本的には経験に基づくものであり、演繹的なものである。経験は人間が生きていく上では重要だが、それを幾ら積み重ねても理論にはならないし、自然界の原理を説明することもできない。とは言え、木から落ちるリンゴを見たニュートンが普遍的な力学法則を打ち立てたという寓話は我々に希望を与えてくれるだろう。リンゴが落ちる、ということは我々が経験的に知っていることである。彼はその経験から深い思考の末に(まあ、天の啓示のごとくにひらめいたのかも知れないが)、その現象を普遍的な自然界の法則にまで昇華させることができた。かくして最強の学者とは、脳内の神経回路をある一線を超えて構築させることのできるひと、と言うことができるのではないか。精進あるのみ、かな。


へそ茶 (2011年6月5日)

 国会での出来事、ホントに驚きましたね。日本の世の中の危機を放ったらかしにして、よくあんなことにうつつを抜かしていられるものだと、ここまで来ると感心したくらいです。ヴィジョンもないのに不信任案を出すほうも出すほうですが、与党のありさまと言ったらもう情けなくて、日本国民として恥ずかしいですな。茶番だと言われていますが、これじゃヘソですら茶も沸きやしませんぜ、旦那。

 しかし今回の一連の騒動を見ていると、政治家という人種がいかに特殊で浮世離れしているかということが再認識できましたね。世界のため、とは言いませんが、日本のことを真剣に考えて将来を見通す眼差しを持った政治家がなんと少ないことか。そういう志のないひとに政治をやって欲しくはない。身の回りのちっぽけな利益追求だけに汲々とした縁故政治をやっていて、やりがいがあるのでしょうか。

 この騒動のなかで、国民がバカだから、と発言した自民党の代議士がいたそうです。もうビックリ、開いた口が塞がらないでアゴがはずれちゃいます。アホな国会議員さまにバカだと言われるわれわれ国民は、一体全体なにモノなんでしょうか。末法ばかりがはびこる世も末ですが、街角でひっそりと暮らす市井のひと達はまだ暖かい人間性を保っていると思います。そういうひと達が安心して暮らせるような社会が一日も早く実現しますように。せめて、雲の上の騒動は異人(痴人?)たちの別世界の話だと思って忘れましょうや。


プロジェクト演習の講義 (2011年6月2日)

 私はサバティカルなので今年度の講義は免除されているが、それでも複数教員によるオムニバスの講義などは引き受けている。で、今日は2011年度になって初めて講義した(先生方、贅沢ですいませんです)。プロジェクト演習という授業で、私は学校建物の耐震化についての話をした。

 パワーポイントで説明したのだが、100枚ほどの説明に2コマ(合計180分)では足りなくて、後半は相当なスピードでおまけに幾つかのスライドはジャンプして講義せざるを得なかった。久しぶりの講義ということもあって、声の出し方などの勘所が鈍っていて、つい必要以上に大きい声を出したために講義が終わったあとは声がかれて、ぜいぜい言い出す始末であった。ああ、疲れた。やっぱり継続的に講義してないとダメだなあ、ということを実感したのである(だからといって、授業したいという訳ではありません、念のため)。

ひまなひと (2011年5月31日)

 久し振りに駒場のときの同級生の集まりがあった。フランス語未修のクラスである。全部で四、五十人いたと思うが、そのうちの十一人が集まった。結構な集団である。このうち私を含めて五人が大学の教員で、それ以外の多くも博士号(工学博士とか理学博士)を持っているという、かなり同質の集団である。類は友を呼ぶ、ということだろう。なかには三十年振りで会ったひともいたが。

 ただそれぞれの進路はさまざまであり、建築学科に進んだ人間は私だけである。なので、同級生という安心感と相まって、好き勝手なことが言えるし(相手をボロクソに言ったり言われたりするが、それもまた楽しい)、異分野のひと達の興味深い話題も聴くことができる。関堅くん(富士通)に、普段は聞けないコンピュータの話を聞いてタメになったぞ。

 で、東大ビッグ・バンの茂山俊和くんは私のこのページを時々見てくれるらしくて(ご愛読、ありがとうございます)、「おい北山、あんなにたくさん書いてるなんて相当にひまだな。読むのに一時間かかるぞ」と言われた。まあ、確かにそうかも知れない。私自身はフツーに忙しいと思っているが、私は忙しいということに何の価値も認めないので「そうだよ、ヒマなんだよ。よく分かったな」と開き直って答えている。でも、このページを読んでいるあなただって、そこそこヒマなんじゃないですかい。まあ、どうでもいいけどね。

 こうして楽しいひとときはあっという間に過ぎ去った。幹事の村上哲くん(JAXA)が東北出身ということもあって、今回の集まりは東北復興支援の一環にもなっており、各自がそれぞれなにがしかの支援を行った。さらに次回は東北復興支援第二弾を村上くんが考えてくれることになった。我々が集まるだけで被災地の復興に役立つならば、こんなに嬉しいことはないな(まあ、集まることの言い訳かも知れないが)。


大学の人事システム (2011年5月29日)

 今年4月に助教として着任した一ノ瀬さん(建築環境・設備学)と帰りの電車で一緒になった。彼は東京都立大学の建築学科出身なので久し振りに母校に戻ってきたことになる。で、大学のファカルティ・スタッフの職を得るのは大変だという話になった。今は助教も含めてほとんどが公募人事なので、幾つもの段階(書類審査、面接、模擬授業など)を勝ち抜かないと職をゲットできない。

 しかし大学全入時代を迎えて18歳人口は減少し、大学自体が縮小せざるを得ない時期に差しかかっているのに、博士課程を修了したひとは文科省の博士倍増計画の結果、多量に輩出されている。すなわち大学教員のポスト数は横ばいか減少傾向にあるのに希望者は増加しているので、かような受難の時代になったのである。若い人にとっては不遇な時期が長く続くことが多いだろうから、本当に気の毒である。

 だが立場をかえて大学側の論理を言えば、これから全体としてはShrinkしていくなかで、自分の学科(本学ではコース)だけはなんとか存続させて、教育・研究の伝統を残してゆかなければならない。わが建築都市コースでも今後の教員定数削減は必至である。そのような流れのなかで、いかにしてコース全体の魅力とActivityとを高めるかは焦眉の急を告げる課題である。生き残るためには必要なのだ。

 そのための有力な手段として、優秀な若手をファカルティ・スタッフとして採用するという戦略がある。どこの誰でも真っ先に考えることである。そのためには、蛸壺化した細かい研究領域にこだわることなく、そのひとの将来性とか活力とかが重視される。このような基本戦略のもとでわがコースでの最近の公募人事では、かなり広い研究領域をぼわーっと掲げて募集を行っている。その結果、大概の場合には相当に広範囲の研究分野からの応募がある。そしてここから先は我々審査する側の将来に対する明確な意志と良識とが必要であるのは言うまでもない。

 幸いなことに私は大学を管理・運営する立場にはない。しかしだからと言って、大学の将来はどうでもいいという無責任なことは言いたくない。自分たちの未来は自分たちで築きたい。その目標を達成するために必要な人材を求めたい。それが結局は学生にとっても研究者にとっても魅力ある大学作りに役立つのだと思う。常に優秀なマン・パワーを集め続けなければ先端研究を進めることはできない。

 より良き研究の場と明日のパンを求めている若手にとっては、今言ったようなことは理念先行の絵空事のように聞こえるかも知れない。しかし大学の中堅研究者になった私から言えば、我々が提示する将来像とか理念とかに賛同してくれるひとにこそ来て欲しいと強く思う。そうであれば、私は公募人事にはこだわらない。優秀でかつ人柄をよく知ったひとがいれば、一本釣りでも構わない。その当りの人事システムは柔軟に考えてもよいのではないか。このことは大学のHead-quarterの方々にも考えて欲しい。

 ここから先は蛇足である。新しい人材として功成り名を遂げたビッグ・ネームを欲する向きもあるようだが、私は前途有望な若手を採用して育ててゆくべきだと思う。教育・研究には十年、二十年と言った長期的な視野と連続性は欠かせない。短期的には即戦力のほうがありがたいかも知れないが、それは理念なきその場凌ぎになりかねない。よくよく考えて自分たちの未来を志向したいものである。


しゃくなげの花 (2011年5月27日)

 ここ数日、雨だったりどんより曇ったりの日が続いている。そんななか、我が大学の8号館の中庭では今年もしゃくなげの真っ赤な大きな花が咲き始めた。この中庭には薄暗いピロティを横切ってアクセスするしかないため、ひとが歩いているのを見たことがない。陽もあまりささないので気持ちのよい中庭とは言いがたいな。

 でも、ほとんど誰も愛でるひとはいなくても、花は自然の営みとしてひっそりと咲いている。よく見れば、その燃えるような紅は結構見応えがあると毎年思っている。

Shakunage_Flower in TMU


知らされない (2011年5月26日)

 このページで報告しているように、この一ヶ月ほどは学校建物等の地震被害調査を行っている。これは文部科学省が日本建築学会に委託した調査事業の一環であるが、もともとは各自治体から文科省への被害調査の依頼が基本となっている。私は末端の委員なのでその辺の詳しい経緯はあずかり知らない。とにかくこの地震で被災した学校建物はこの調査に全て含まれているものと私は思っていた。

 ところが先日開かれた文教施設協会・耐震診断等判定委員会(岡田恒男先生が委員長)に某県のある学校から評定依頼があり、それをみてビックリした。その学校には当協会からすでに耐震診断・補強の判定書を交付してあり、それに従って耐震補強工事を実施中であった。ところが3月11日の地震によって中破程度の地震被害を受けたので、耐震補強計画の妥当性を再度判定して欲しいというのである。それを聞いて、隣に坐っていた中埜良昭くん(大学時代の同級生)と思わず顔を見合わせてしまった。

 なぜなら最初に記した文科省からの調査依頼先に、その学校は含まれていなかったからである。文科省には知らされていなかったことになる。当然ながら、なぜなんだろうかと言うことになった。文科省から改築とか補修とかに対する補助金をもらえそうもない場合には申請しない、ということはありそうだ。だがそうだとするとこのままでは、被災した学校建物の正確なデータは収集できない、ということになる。それは学問的には非常に困る。特に耐震補強した建物が地震被害を受けた場合にはなおさらである。設置者には申し訳ないが、それは貴重な事例だからである。

 このような例が幾つもあるとすると(岡田先生のお話ではありそうだったが)、文科省ではなく学会としても何らかの手を施さないといけないかも知れない。


ある懸念 (2011年5月25日)

 福島第一原発の事故による電力不足の影響で、大学本部からの要請によって4月末まで実施を見合わせていた実験だが、5月の連休明けからやっと再会することができた。しかし今でも校舎内のエレベータの半数が止まったままであるなど、かなり強力な節電モードが続いている。

 さて実験のことである。これから暑い季節に向かい、一層の節電が求められるようになるが、学内での実験についても聖域扱いはされず、輪番実施することを求められるのではないか。具体的には、平日の実験は自粛して土日に実験をするコース・学域のローテーションを自主的に決める、というものである。先日、電気の清水先生に会ったときに節電の話題になったのだが、実験の輪番実施の可能性に言及したところ、当然そうなるでしょ、という返事が返ってきた。

 うーん、困りましたね。ただ世の中の経済活動も相当の制約を受けているのだから、節電に努力するのは大学も例外ではないだろう。そうとなれば、今年は夏休み前に実験を終えないとまずいですな。幸いM2の村上さんの実験は試験体数が4体とそれほど多くないので、順調に行けば6月末までには加力を終えられるだろう。昨年のようなトラブルが突発しないことを祈っている。

 ただ、我が社で言えば大型実験棟での実験がどのくらい電力を消費しているのか、それすら把握していないのだから、節電マインドの徹底のためにはまずそれを知ることから始まるような気もします。


鳥取からの便り (2011年5月24日)

 昨年末に鳥取へ行って病院建物の耐震改修の現場を見たことを報告した。今年3月に極大地震が発生したこともあって、この現場のその後のことについてはすっかり忘れていた。

 ところが先日、この病院の耐震改修設計を担当する設計事務所から、現場作業の途中経過を報告するメールをいただいた。建物外部に取り付ける連層鉄骨ブレースが出来上がったということで、その写真が添付されていた。

Tottori_Hospital_Retrofit(株)伊藤喜三郎建築研究所 撮影

 審査のときからすごいなあ、本当にできるのかなあ、と思っていたが、苦労の末に立ち上がったらしい。でも見てみると、やっぱりごっついです。連層鉄骨ブレースがRC建物の外側にそびえている、という感じで相当に威圧的に見える。鉄骨ブレースによる耐震補強は我が社で長いあいだ研究してきたこともあり、是非とも使って欲しい既存技術であるが、これについて言えばもう少しデザインできなかったものだろうか(まだ施工中なので、これから綺麗にするんだと思いますが)。このあいだの翔太郎ゼミ(以下に記す、プロジェクト研究コースのゼミのこと)のときに、須永先生から鉄骨ブレースは嫌いだよ、と言われちゃったしね。

 わが建築学域のプロジェクト研究コースでは、2011年度から学校建物の耐震改修デザインに関するコースを立ち上げた。担当教員は須永修通(建築環境)、角田誠(建築生産)の両教授と私の三人である。耐震補強について言えば、力学的に合理性があって力の流れをスムーズに伝達できることが最重要事項であるが、建物を安全かつ快適に使うにはそれ以外にも考えるべきことが山ほどある(当然である)。幾つものことを同時に考えて処理するには手間もお金も必要だが、それを進めるための手法や考え方を提示できればと思っている。


読み進まない (2011年5月22日)

 私が何冊もの本を同時並行的に読んでいることは、以前にこのページに書いた。手に取ってすぐに読破してしまう本もあれば、長いあいだかかってやっと読了するものもある。ジャンルもいろいろで、気楽なものから重いものまで様々だ。

 そのなかで未だに読み終わらない本もあって、その最右翼に『皇帝の新しい心 コンピュータ・心・物理法則』(ロジャー・ペンローズ著、林一訳、1995年、みすず書房)という著作がある。この本を購入したのは新刊当時の書評によってであったので、もう十五年以上かかっていることになる。五百ページ以上ある本だが、その半分くらいまで読み進んだ。ただ正直に言えば、継続的に読んでいたということはなくて、数年のあいだ放ったらかしということもあった。

 ロジャー・ペンローズは数学者・物理学者として著名な方なので、ご存知の方も多いであろう。実は我が大学にもこのペンローズ先生が開発した「ペンローズ・タイル」というのがあって、南大沢に大学が移転する当時(1991年)に危うく廃棄されそうになったそうだ。だが、本学の深尾精一教授の尽力によってそれを免れて、本部建物の壁面に今も飾られている(写真を撮ってきましたのでどうぞ)。

Penrose tile in Tokyo Metropolitan University
 写真 本学にあるペンローズ・タイル(東京都の形をしているらしい)

 この本の第1章のタイトルは「コンピュータは心をもちうるか?」という非常に興味深いもので、私がこれを読み始めたのも多分このタイトルに魅かれたからだと思う(もう忘れたが)。そのあとに、アラン・チューリングによる「チューリング・マシン」(電子コンピュータの基本原理の原型となった理論)の詳しい説明があり、それはそれでとても面白かったが、如何せん説明が難しくてサクサク読み進める、というレベルではなかった。

 そんな訳で停滞を余儀なくされた。つい最近になって「シュレディンガーの猫」の話(量子力学の本質を語るときによく使われる思考実験で、生きている猫は同時に死んでいる!という衝撃的なパラドクスのこと)を読んだので、それに刺激されてまた本書を手に取った。で、今読んでいるのは第6章「量子マジックと量子ミステリー」である。だがやはりしばらく読んで頓挫した(2011年3月11日の極大地震のせいもあるが)。

 こういう科学モノもたくさん読んできたが、一番分かり易くてずんずん読めたのはサイエンス・ライターのサイモン・シンが書いたものであろう(『暗号解読』とか『宇宙創成』とか)。彼の著作に較べれば、ロジャー・ペンローズのこの本は“格調が高くて敷居も高い”ということになりそうである。

 さて『皇帝の新しい心』だが、科学の世界の進歩はどんどんと加速しているので、ボヤボヤしているうちに皇帝陛下の「新しい心」もすっかり色褪せて「古典」になってしまうおそれがある。とはいえ、いつになったら読み終えることができるのだろうか。はなはだ心もとない限りではある。

PS 長塚節の小説『土』ですが、こちらも未だに机の上に積まれたまんまです。

声なき肖像 (2011年5月17日)

 源頼朝はどんな顔をしていたのか。私が小学生だった頃の教科書には、公家姿で笏(しゃく)を持ち、髭を生やした人物が源頼朝とされていた。ところが1995年に米倉迪夫さんがその肖像画は源頼朝ではなくて足利直義である、という極めてセンセーショナルな説を発表した(米倉迪夫『源頼朝像 沈黙の肖像画』、平凡社ライブラリー、2006年)。

Minamoto_Yoritomo 伝源頼朝像(神護寺蔵)

 その説を読む限り、緻密な論考と分析とによって引き出された帰結のように私には思えた。歴史的な事実というものを、我々が如何に思い込まされてきたか、ということを端的に物語っている。これは別に誰かが悪意を持ってそのように仕向けたわけではなくて、長い時の流れのなかで、いつしか真実が闇に埋もれてしまい、やがて誰かが「そうに違いない」と言ったことがそのまま検証されることなく信じられるようになった、ということだろう。

 という訳で、足利直義はどのような顔をしていたのかは分かったのだが、それでは本家の源頼朝はどうなのよ、という疑問が続く。この謎に迫った書籍が最近発表された。黒田日出男さんの『源頼朝の真像』(角川選書、2011年4月)である。タイトルにずばり「真像」とあるので、相当の自信作なのであろう。先の米倉さんの著書でも源頼朝像と思われるものを幾つか紹介して説明していたが、これである、という決定的な記述はなかった。

 黒田説では源頼朝の肖像画として伝わるものには「真像」と思われるものはなく、甲斐善光寺に伝わる木造こそが「真像」である、と言う。その謎を解く手がかりは木造の胎内に残された銘文にあり、それを解読するくだりは結構ワクワクした。ただその解読でも読めない文字は幾つか残り、その部分はこうであろう、こうだといいなという黒田さんの信念?に依存していた。その点、異論は残っているだろうから、黒田さんは「真像」であると主張するが、まだまだ論争は続きそうである。しかしそのような学問的な論争は、歴史の真実に光を当てるための重要なプロセスであろう。さらに研究が進んで一歩づつ歴史が明らかになることを期待したい。

 さて、源頼朝はどのような顔をしていたのか。像主が誰だか分からなくなっている肖像画のなかに、実は源頼朝像が人知れず眠っているかも知れない。それは国外にあるかも知れない。いつの日か、誰かが再発見するのをひっそりと待っているのだろうか。

栃木県へ行く(その2) (2011年5月15日)

 先週の金曜日、再び栃木県へ地震被害調査へ行ってきた。メンバーはいつもの岸田慎司さん(芝浦工大)、田島祐之さん(アシス)、それに今回は北山研の三名のM1(石木君、落合君、鈴木清久君)も参加した。なお中村孝也さんは公私ともに多忙のため、今回は声をかけなかった。

 今までは全て学校建物であったが、今回の調査対象建物は文化施設であった。述べ床面積は7500平米を超え、大小のホールや展示室が散りばめられており、全部を詳細に調査したら日が暮れるのではないかという危惧が脳裏をよぎった。伏図などの構造図をコピーして用意してくださいとあらかじめ依頼してあったのに、それも準備されておらず、どうなることかとヤキモキした。

 この敷地もかつては沼地だったということで、地盤の悪さが建物の上部構造の被害に関係したと思われた。それは床スラブのひび割れとか、ちょっとしたデコボコとかを引き起こし、さらに耐震壁には縦方向のひび割れが随所に見られたことから推察される。この辺りは震度5弱程度であっただろうから、この程度の被害で済んだとも思える。

 さてその建物を管理している方に施設内を案内してもらって調査を進めた。しばらく行くと、舞台の上の照明などを吊り下げているところの梁からコンクリート片が落下したということで、そこへ案内された。ところがそこはもの凄く高いところで、舞台脇の裏方にある貧弱な手すりの鉄骨階段を延々と登らされた。どんどん登って行くが、途中で下を見たら結構高い。ああ、下を見なけりゃよかった(あとの祭りです)。急に心拍数が上がった。恐ろしい。やっと頂上に到達すると、そこには鋼板がすのこ状に渡されていて、その隙間からは奈落の底に舞台が見える。ひや〜、高いっす。管理者の方はその上をすたすた歩いて、ここです見て下さい、と言ってしゃがみ込むのだが、もう足がすくんで歩けません。

 階段の手すりにつかまったまま身を乗り出して、分かりました、もういいですから、と私は言うと、早々に撤収を宣言した。安全帯もないのにそんな危険なところに学生を連れてゆけるわけがありません。命がけで見るような被害じゃないですし、、、。

 こうして管理者の方に案内してもらったお陰で、被害のある場所を効率的に見ることができて、当初危惧したほど調査時間はかからなかった。耐震壁にはひび割れが結構入っていたが、なんせ建物の規模が大きいので建物全体としては軽微の被害と判定された。構造自体はとても立派なので、ひび割れを適宜補修することによって十分に安心して使用し続けることができる旨をお伝えした。

 ただ3月11日以降、大きな余震ごとにひび割れが増えている、という管理者の話にはちょっと引っかかった。もしかしたら地盤が少しずつ損傷しているのかも知れない。耐震診断もまだなので、地盤の状況を詳細に検討することが必要であろう。

おおみや市へ行く (2011年5月11日)

 今度は埼玉県おおみや市の学校建物の被害調査に行ってきた。岸田慎司さんは授業があるということで、中村孝也さんを誘った。チーフは地元の香取慶一さん(東洋大学)にお願いしたので、こちらは気楽に参加させて貰った。

 その学校の脇の小高いところには貝塚があって保存されていた。しかし6500年ほど前の貝塚があるということは、この近辺は古くは川とか海とかだったということではないか。そう思ったところ、香取さんが事前に周辺に住むひと達から聞き取り調査をしていて(刑事さんのようですな)、この場所はかつては沼だったということを把握していた。やっぱりそうだったか。そうだとすると地盤が悪いので、そのせいで基礎の沈下と建物の一部の傾斜が生じたのであろう。似たような例として、1995年の兵庫県南部地震のときに調査した西宮市立高校を思い出した(こちらは池を埋め立てた地盤の側方流動の影響で建物の一部が層崩壊したので、見た目は違う)。

 仙台でも栃木でも出会ったが、今回の地震でも地盤の変状によって基礎が沈下したり傾斜したりした被害を受けた建物がかなり見られる。上部構造が健全でも杭が損傷して建物が傾斜すると、その後の復旧はジャッキなどを使って建物全体を建て起こすことによって可能ではあるが、工事はとても大変で費用もかさむ。そんなことを考えると、結局改築したほうがお得になるということもあるだろう。

 われわれは普段は地盤より上の建物だけを対象として研究しているが、当然ではあるが建物を支える足元がすくわれては何にもならない。建物を建てるときには、その地盤がどのような来歴によるものなのか十分に調査しなければならない。そんな当たり前のことの重要性をあらためて認識したのであった。

思い込み (2011年5月10日)

 日曜日の晩、BSテレビのSong to Soulという番組で10ccの『I’m Not in Love』(例えばこちら)という曲が取り上げられていた。私より上の世代ならば、聞けば多分ああ、あの曲か、と分かると思う。1975年の発表だそうだ。その当時、私はポップスとかロックとかには興味がなかったのでこの曲のリリース当時のことは知らないが、大学生くらいになってからはよく耳にした。

 さて、この曲の底流に流れ続けるサーという音についてである。さしずめブルックナーで言えば原初雲といったところか。私は今まで、それはシンセサイザーのような電子楽器によって人工的に作り出された電子音だと思い込んでいた。ところが番組でインタビューに答えていたスタジオ・エンジニアはそれを「アー」という音だと言った。あれ?「アー」ですか。って言うことは、それは人の声ということか、、、。

 その当時にはまだシンセサイザーはなく、その“原初雲”はなんと一オクターブのひとの声を一音ずつ録音し、それらを複雑にミキシングしてアナログ的に作り出されたものだったのである。私にはその原理は理解できなかったが、とにかくアナログ・テープを用いて苦労の末に産み出されたのだという。いやあ、本当にビックリした。『I’m Not in Love』が発表されてからしばらくの間は、その音がどのようにして作られたのか秘密だったらしい。しかし言われてみれば確かにひとの発する「アー」という音のようにも聞こえるし、第一昔からなんて心地よい音だろう、とは思っていた。それもそのはず、その根源は人間、であったのだ。

 ひとが声帯を震わせて発するこえには微妙なゆらぎが含まれていて、それが人間の脳には心地よいと感じられるのだろう。いずれにせよBacking Chorusなどのレベルを超えて、ひとのこえを楽器として(?)使った試みはアバンギャルドとしか言いようがない。その秘密を知ることが出来て、ちょっとばかり感動したのである。人間が考えることって、ホントにすごいですねえ。

深謀遠慮か (2011年5月9日)

 私のマックでも、最近では渋々MSのWordを使っている。このWordくんは皆さんもご存知のように使っていると頻繁にアップデートしませんか、と聞いてくる。そこで4月中旬過ぎだったか、何も考えずにアップデートした。付言すると私が使っているのはMac用のOffice 2011という最新版である。

 ところがアップデートを終えてさあ使おうとしたら、入力したひらがなが漢字に変換できない。キーボードでベタ打ちで打って行く先からひらがなのまま確定されてしまって、どうやっても漢字に変換できない。これじゃワープロとして使えないよう、と思いながら環境設定などをいろいろと触ってみたが直らない。

 もう時間の無駄なのでWordくんのことは放っといて、Mac付属のテキスト・エディタでしばらく過ごした。ただ、ひと様から送られてくる文書はどうしようもなく、それを修正するときにはホントに面倒だった。

 そうこうするうち、連休明けにまたアップデートを要求された。このままじゃつら過ぎるので迷わず成仏、じゃなかった、更新した。その説明書きには私の体験したトラブルは書かれていなかったが、アップデート後には何ごともなかったかのように普通に入力して変換できるように戻っていた。ああ、よかった(でも、複雑な気分です)。

 しかしいつものことながら、MSにはイライラさせられる。これは絶対にMac使いに対するMSの嫌がらせ、いや策謀だと思う。Mac用のソフトに巧妙にバグを忍び込ませて、Windowsに乗り換えさせようとしているとしか思えない。Macintosh用の石もPowerPCからIntelに乗り換えたのだから、そんなことしないで欲しい。

 しかし世界の標準ワープロが事実上、MSのWordになってから久しい。世間ではDiversityが叫ばれているというのに、なんでコンピュータの世界ではそうならないのか。もっと多様性が流布するように、アップルには是非ともがんばって欲しい。ちなみにアップルからはPagesというワープロが出ていて私もインストールしているが、Wordと較べてそれほど軽いという訳でもないので、もっと差別化したソフトにしてくれるといいと思う。

RCの教科書 (2011年5月6日)

 新学期が始まった。先日、近畿大学の教授になった岸本一蔵先生(おめでとうございます)から「北山先生の書いた教科書(こちら)をうちの授業で使っています」という嬉しいお話を伺った。受講者は120名くらいらしいので、売り上げに相当貢献してくれそうだ。ありがたい話である。今度、生ビール大ジョッキで百杯くらいご馳走しますぜ(あははっ)。

 ちなみにアマゾンで検索してみたら、この教科書は「コンクリート工学」分野で50位にランクされていた。上位にもたくさんの教科書が並んでいましたから、まあ、たいしたことありませんな。「建築・土木工学」分野では1901位だから、ここまでくるともう単なる馬の骨、としか言いようがない。

 ところで近畿大学も工学院大学と同様にこの4月から建築学部を立ち上げた。旧帝国大学から関西私学の雄である近畿大学に移った岸本先生はいろいろと戸惑うことも多いだろう。だが、私の些細な経験からもいろんな大学を見ておくことはとても役に立つと思う。どうか新天地でも今まで同様に活躍して下さい。建築学会のPCやRCの委員会活動の方もどうぞお忘れなく(と、営業トークも忘れません)。

運命のサバティカル (2011年5月4日)

 私は今年の4月から一年間のサバティカルに入った。しかし私は普段以上に研究室に入り浸っている。3月11日に東日本大震災が発生し、それから1ヶ月以上を経過してやっと被災地の建物の被害調査に取り掛かれるようになったためである。本来であれば授業や学内の様々なお仕事があって、自分の自由に調査に出かけることなど不可能である。だが、サバティカルのお陰で比較的自由に現地調査に出向くことができるのだ。これは天の為したもうた配剤としか考えられない。

 この極大地震が発生する前には、サバティカルになったら講義における新しい教授法を考えようとか、教養授業向けの講義のネタを集めてパワーポイントを作ろうとか、物事を深く考えるための基礎講座を研究室内で開いてみよう、とかいろいろ考えていた。しかしそのような目論みは、当分のあいだおあずけになってしまった。現在の三重苦(地震、津波、原発事故)とも言える社会状況のなかで、建物の耐震構造の分野だけでなく、広く科学全般(これは自然科学だけではなく社会科学も含む)を見渡して沈思黙考することが必要ではないかと思う。そのためにこそ、このサバティカルを使いたい。

 しかし現実はそのような私のひそやかな希望にはお構いなしに進んでゆく。とりあえずは地震によってどのような被害が生じたのかを綿密に調査して記録として残さなければならない。だが我々建築構造のSocietyって思いのほか狭く、人材も豊富とは言えない。すなわち何をやるにもいつも同じ面子で行動し、考えることが多い。はっきり言えば若手不在の人材不足である。こういう状況なので、私のような四十代、五十代の研究者が中心となって調査研究を引張って行く必要があろう。今まで牽引してくれた先輩方に代わって我々がその役回りを務める時代に入ったのかもしれない。

 ただ、ほんのわずか調査に行って現実をまざまざと観察しただけで、地震被害を受けた建物の地震時挙動や耐震性能評価、既存建物の耐震診断法や耐震補強設計法の妥当性など、今後考えなければならない課題が山積していることを実感した。そんな訳で当分は被害調査に従事しながら考え続ける、という自転車操業が続くことだろう。それはそれでサバティカル、すなわち「特別研究期間」の使い方として当を得ていると言えなくもない。

栃木県へ行く (2011年5月3日)

 4月27日および28日の両日、栃木県の学校建物被害調査に行ってきた。今度は二日間で広域を巡るため、二日めは二チームに分かれて調査することにした。そのため調査人数を増やした。仙台行きのチーム4名(岸田、中村、田島、北山)に、さらに柏崎隆志さん(千葉大学野口研究室助教)、見波進さん(本学助教)および石木健士朗くん(北山研M1)の3名を加えた合計7名である。

 石木君はM1になったばかりで何も分からずに参加したが、調査の現場で田島さんや柏崎先生からOn the Job Training を受けて、とても参考になったと思う。何しろ目の前に生きた教材がころがっているのだから。本当は私が事前にレクチャーをすべきだったのだが、多忙のためそのような時間がとれず、かくなる仕儀と相成った。

 
 調査の詳細についてはそのうち報告するので、ここでは雑感を記したい。私は二十数年前に宇都宮に住んでいたので、今回久しぶりにJR宇都宮駅で下車してとても懐かしかった。駅の東側は当時は何もなかったが、ホテルや餃子屋さんなどが建っており、結構開けた印象を持った。とは言うものの、土地が余っているという状況は変わっておらず、空き地が広がっていた。

 私が住んでいたところ(宇都宮大学工学部のすぐそば)はどうなったかと思って、栃木県教育委員会の方に尋ねたところ、宇都宮市の宿願だった区画整理事業についに着手したとの返事だった。当時は道路は舗装されておらず(雨の日には歩くのに難渋した)、うねうねとした細い道路が続いていて車の離合もできなかった。それを思うと隔世の感がある。

 ただ、宇都宮駅の西側から東側に行くためには、片側一車線のアンダーパスをくぐって線路を越えなければならず、当時ももの凄く渋滞したのだが、その部分は今も変わっていないそうだ。どうやら道路拡幅のための立ち退きを頑なに拒否しているひとがいるそうで、その事業はいっこうに進まないという話だった。都市のインフラを改良するのはホントに大変で時間がかかる。

 宇都宮で一泊したが、その晩には宇都宮大学の入江康隆先生がホテルにおいで下さって、久しぶりに宇都宮で一杯やった。わざわざ出向いて下さった入江先生に感謝申し上げる。でもその後、その日の調査結果をまとめる作業に追われて就寝出来たのは午前1時過ぎであった。ホントに被害調査は疲れます。

 栃木県の耐震診断・耐震補強判定委員会はただひとつ(「ただひとつ」は東大の学生歌です/関係なかったですね)しかなく、その委員長はかつての宇都宮大学教授で私の上司だった田中淳夫先生そのひとである。そのひとのハンコが押された耐震診断概要書などを現地で見せられて、またもやひどく懐かしい気分にひたった。

 宇都宮近郊に「祖母井」というところがある。これは「うばがい」と読むのだが、普通はそうは読めないだろうな(私も初めて見たときには「そぼい」とそのまんま読んで笑われました)。この地名は宇都宮市街の道路の行き先表示板に頻繁に登場するのだが、今回の調査で初めてこの「祖母井」を車で通った。ああ、ここだったんだ!という感慨もひとしおであった。でも、特になあんにもないところでした(あははっ)。


地震被害を見て 〜仙台にて〜
 (2011年4月25日)

 仙台市で学校建物の被害調査を行って、感じたことや考えたことを幾つか書いてみる。一つめは、耐震補強の効果である。仙台市の学校建物の耐震化率は99%を超えているそうで、その効果は如実に現れたように思う。そのなかには東京の文教施設協会で審査した物件もあり、手前味噌だが我々が耐震補強設計時に考えたことが、ある程度正しかったことを実感した。

 私が見た校舎では連層鉄骨ブレース、RC増設壁、下階壁抜け柱のコンクリート増し打ち、などで補強されていた。そのうちRC増設壁には軽度のせん断ひび割れが発生したものが多く、ということはそれだけ地震力に抵抗した訳で、「ひび割れが入ってよかったね」とつい言ってしまう。しかしこのセリフはわれわれ耐震構造の専門家だけに通じる話で、一般のひとはひび割れを見るとギョッとするので、注意が必要である。

 また下階壁抜け柱には輪切り状のひび割れが数本生じており、補強設計時に想定したように下階壁抜け柱にはそれなりの軸引張り力が生じたことになる。その反力としての軸圧縮力も反対側の下階壁抜け柱に作用したので、コンクリート増し打ち補強していてよかったなあ、と思ってしまった。

 二つめは地盤の影響である。これは兵庫県南部地震(1995年)のときにも実見したことだが、いくら上部構造物が頑丈でも(今回の場合には、耐震補強されていても、と置き換えられるが)、足下がぐらついて不同沈下が生じると建物としては使えなくなる、という当たり前の事実を目の当たりにした。特にそのような不同沈下がエクスパンション・ジョイントで隣接した二棟のあいだで生じると、建物同士の衝突によって局部的には大きな被害が生じることになる。地震のときに地盤がどのように動いたのかは、大抵の場合には不明なため、被害の様子だけ見るとなぜそのような(不思議な)被害が生じたのか、首をひねることが度々あった。ホントに自然界の力って、まだまだ人智を超えたものがありますな。

 三つめは屋内運動場(体育館のことです)の耐震補強についてである。ある学校では、水平力に抵抗するための構面ブレースを増設して補強していたが、屋根面ブレースの多くが破断していた。通常は構面ブレースの耐力に見合った水平力を伝えられるように、屋根面ブレースのことも考えて必要があればそちらも補強する。ところがこの屋内運動場では、桁行フレームに接続する屋根面ブレースの半数以上が破断した。このことから、個別の補強設計が不適切だったのか、それとも補強設計で想定していないことが起こったのか、解明することが必要だろう。

 四つめはプレストレスト・コンクリート(PCと略す)構造についてである。今回の調査に現場打ちのPC構造の学校があって(とても珍しいと思います!)、張り間方向の18m近くをワン・スパンで飛ばしていた(ちなみに桁行方向はRC構造でした)。そのこと自体には躯体の耐震構造としては何も問題は無かった(ああ、よかった)。しかしその結果として当然ながら建物内部の桁行方向には柱がないため、桁行方向の小梁(断面サイズが多少小さかった気がする)が地震時には上下にバタバタと振動したらしい。その結果として小梁には曲げひび割れが多数発生し、小梁の真下にあった間仕切り壁などの非構造部材に軽微な被害が発生していた。これは別にPC構造固有の問題という訳ではないが、柱を無くして大スパンを飛ばすときにはいろいろと工夫しないと、地震のときに思わぬ被害が生じる、という教訓を示す実例として記憶したいと思っている。

仙台市学校建物被害調査 北山チーム
写真 調査に参加したメンバー(中村孝也、岸田慎司、北山、田島祐之)

スカッと遊ぶ (2011年4月24日)

 今日は久し振りにカラッと晴れて、気持ちのいい日和となりましたね。気温も上がって、初夏のような陽気でした。そんな陽気に誘われて、午前中には子供と自転車に乗って選挙へ行きました。野川緑地公園を自転車で走ると、新緑やら八重桜やらが見に鮮やかでとても気持ちがよかったです。選挙のほうですが、民主党に入れる気にもなれず、昔は共産党に入れたこともあったのですが、この時代に「共産」もないだろうということで、結局、名もなき新人のひとに投票しました。開票結果が楽しみです。
PS 残念ながら私の投票したひとは落選しました。まあアウト・サイダーってこんなもんでしょうな。

 さて午後には、お爺ちゃんのところへ行って大はしゃぎしました(もちろん子供が、です)。小学生と中学生の甥っ子も来ていて彼らが「麻雀を教えて」というので、お爺ちゃんが大喜びでレクチャーを始めました。久し振りにマージャン牌を手にしましたな。でも、やっぱり本物の牌はいいですねえ。手に持つとずっしりとして、ひんやりとした感触、いやあ高校生の頃を思い出しました。コンピュータ・マージャンとは全然違います。

 こうして休日の一日、子供とともにスカッと遊びました。リフレッシュできたので、また明日から地震被害調査ワークに心機一転、取り組めるような気がします。日々の生活にもメリハリは大切ですね。


学校建物の調査 〜雑壁の声〜 (2011年4月20日)

 昨日から今回の地震で被害を受けた、仙台市の学校建物調査を行っている。昨日は冷たい雨の降る、とても寒い一日で、夜からは雪になった。新幹線で福島まで行き、そこでレンタカーを借りて仙台入りした。メンバーは本学の中村孝也助教、芝浦工大の岸田慎司准教授、それに北山研OBでアシス(株)の田島祐之さんの三人である。

 このチームで二日間調査して分かったことは、皆RC建物の耐震性能や地震時挙動には精通していることから、被害調査でもツーカーで物事が通じて、どんどんはかどることである。ホントに優秀なスタッフと仕事すると楽ですな。1995年の阪神大震災のときの調査では大学院生に手伝って貰って、それはそれなりに助かったのだが、やはり経験と理解力の差は如何ともし難く、かなり大変であった記憶がある。

 仙台市は3月11日の地震では震度6強であったが、阪神大震災のときと較べると学校建物の被災度は今のところ比較的軽いような気がする(よかったです)。4月7日に大きな余震があったが、それによって被害が進んだとか、新たに被害を生じた学校建物もあったそうで、余震の恐ろしさを改めて感じた。

 今回の地震被害調査をしていて感じたのは、雑壁と言われる(って、これは我々研究者や構造設計者が勝手に呼んでいるだけなのだが)RC壁を建物の耐震性能向上のためにもっと有効に設計できないか、ということである。この3月に修士課程を修了した白井遼くんの修論でもRC雑壁の有効性について指摘したが、今回の地震でもRC雑壁がせん断破壊した事例がかなり見られた。ひび割れを生じて、コンクリートが圧壊したということは、それだけエネルギーを吸収してくれた(あるいは耐力向上に寄与した)訳で、ちょっと変な言い方になるが「壊れてくれてよかったね」という感じである。

 これらの雑壁の配筋詳細を工夫して、せん断ひび割れが生じてもそれが大きく開かないようにするとか、コンクリート塊の脱落が生じないように閉鎖型のフープ状の横補強筋を配するとかすればよいのではないか。2010年のRC規準の改定によって、柱形のない耐震壁も設計できるようになったので、それを応用することによって「雑壁」の耐震設計も可能だと私は思う。せん断破壊した雑壁を見ていると、「俺をもっと有益に使ってくれよ」という雑壁からの声が聞こえてきそうだった。

追伸; 被災地の桜はちょうど満開を迎えた時期で、それこそ燃え立つように咲き誇っていた。それは心なごむ風景であった。

不思議なもの (2011年4月18日)

 今朝、不思議なものを見た。Hybrid carのプリウスなのだが、後ろを見ると排気管(エグゾースト・パイプ)がなんと4本も突き出している(いわゆる四本出し)。車高も少し下がっているようだ。もともとプリウスはハイブリッド・システムによって燃費を良くして、環境に優しいことを売り物にしているはずだ。

 それなのにカスタム・チューニングによって排気管を4本も出しているとは、いったいどういう意図だろうか。スポーティさを優先したいなら、プリウスを選ぶべきではない。それともあえてプリウスによってスポーツ走行を楽しみたい、ということか。なんとも理解しがたい、不思議な車であった。


歩けば? (2011年4月15日)

 来週予定している宮城県への地震被害調査の準備も着々と進んでいる。と言っても、一緒に行く中村孝也さん、岸田慎司さんおよび田島祐之さんに諸々の用意をお願いしてやって貰っているので、大いに助かる。1995年の兵庫県南部地震のときに経験済みのタスクだが、もう随分と忘れてしまっているのでその当時のファイル(紙のファイルです)を取り出してきて眺めたりしている。

 さて本学では4月11日の新学期の開始から一部のエレベータが動き始めた。それでも半分は止まったままである。しかし、うちのエレベータの制御アルゴリズムは劣悪な上に動作自体も遅いので、なかなかやって来ないみたいである。そのためにエレベータの前にはいい若いもん(学生さんのこと)がボケーッと口を開けて待っている。でも君たち若いんだから、少しくらい歩いたらどうなのよ、と思ってしまう。階段を歩くという発想がそもそも欠落しているみたいだ。この節電時代に何を考えているのだろうか。多分何も、、、というところかな。

見送る (2011年4月13日)

 地震被害調査関係で忙しくてこのページに報告するのを忘れていたのだが、この三月末をもって伝統ある東京都立大学が廃止となった。もうすでに首都大学東京になっているじゃないか、と言われるかもしれない。だが2005年4月に都立の4大学が統合して首都大学東京となっても、東京都立大学時代に入学した学生は存在する訳で、そのために2011年3月までは両大学が並立していたのだ。

 しかしこうした移行期間が終わって、名実共に東京都立大学は幕を閉じた。4月1日に正門脇の門標を見たら、それまであった東京都立大学の名板には白い板が無造作に打ち付けられていた。本当に悲しいです。これからはもう「東京都立大学の北山です」と名乗ることは公式にはできない(なんていいながらも、今までの習い性からついそう言ってしまう)。

 2005年4月から、建物も研究室のある場所も実験棟も見てくれは何も変わらなかったが、われわれのマインドは大きく変化した。新しいものを取り入れ常に変革するというと聞こえはいいが、大学には古き良き学問の伝統も必要であると私は強く思っている。先輩方が営々として築いてきた知の集積を、大学統合という掛け声のもとに捨て去ったことを私は深く悲しむ。

 こうしてまたひとつ、伝統の残滓が消えていった。大学の死という誰も加わらない弔いの列を静かに見送ったのである。

 薄日させ 八雲が丘の 野辺送り

        (雲隠)

電話のはなし3 (2011年4月12日)

 普段は研究室の電話のコネクタをはずしているのだが、3月11日の極大地震の発生以降、さまざまな急を要する連絡が生起したために、ここ1ヶ月ばかりは電話をつないでいた。幸いなことに何とかファンドとかワンルーム・マンションとかの不快な電話は掛かってこなかった。さすがに日本全国が深い悲しみに沈む状況で、そのような商売をするほうも控えたと見える。

 ところが地震発生からちょうど一ヶ月を経過した4月11日、ついに商売電話が掛かってきた。あちゃあ〜、出なけりゃ良かった(なんて、出るまで分かりませんよね)。その後すぐに、電話のコネクタを切断したのは言うまでもない。世の中の自粛ムードもわずか1ヶ月で終わりかと思うと悲しくなる。これからは必要な電話はスカイプにしようっと(東大の塩原先生からスカイプに登録しろ、と言われましたので)。

新学期2011 (2011年4月11日 その2)

 本学では今日から前期の授業が始まる。4月冒頭の東京フォーラムでの入学式こそ中止になったものの、新学期は当初の学年暦通りのスタートとなった。多くの大学が新学期の開始を遅らせるなかで、我が大学ではこういう決断をしたことになる。これがよいか悪いかの判断はなかなか難しい。ただ暫くのあいだは計画停電が中断になったので、そのあいだに授業を進めておくのは結果として良かったように思う。

 夏になったら冷房無しでの授業や試験はつらいだろう(そうは言うが、昔は冷房なんて教室にはなかったですよね)。そのような状況を少しでも減らせれば、節電にもなるし健康への負荷も軽減できる。ただ、こんな社会状況なので半期15週の授業時間を確保する、という文科省からのお達しをお題目の如くに守る必要があるだろうか。もう少し柔軟に対応してもよいと思う。

東京の民意 (2011年4月11日)

 昨日の都知事選挙の結果には、ホントびっくりしましたね(私だけかも知れませんが)。現職が投票総数の四割以上を獲得したからです。そのまんま東とわたみとを合わせるとやっと互角になるという、呆れた結果でした。まあ、選挙に出た面子を見ればある程度は予想できましたが、これほどの差になるとは。

 しかし現職四選のインタビューでもいったいなにを言ってるのかよく分からないような方に、首都東京のこれからの四年間を任せるのかとおもうと本当に、、、です。選挙の結果は東京都民の民意の反映ですから、これを尊重するのは当然ですが、四期16年というのには首をかしげますな。現在のようないわば有事の際には現職が強みを発揮した、ということかも知れません。

 まあこの方は、我が大学にはすっかり関心が無くなったようですが(でも安心はできませんぜ)、新銀行のこととか東京オリンピックとか、築地市場の移転とか、気になる問題は山積しています。この期に及んでは半分はあきらめ気分ですが、とにかく自分の住んでいるところのことですから、注意深く見ていきたいと思います。

今年の桜 (2011年4月10日)

 今年の春は寒かったせいで、桜は例年よりもかなり遅れたように感じる。大学構内でいつも最も早く開花する、国際交流会館の前の桜も三月末になってやっと満開を迎えた(ここ数年は三月中旬には満開になっていた)。正門脇の桜は4月5日くらいにやっと咲き始めた。春の訪れを告げるツバメも今年はまだやって来ない。でも、ここ数日はやっと春らしく温みのある日々が続いたので、さくらも一気に満開を迎えることだろう。

TMU_Sakura_20110331 2011年3月31日撮影

 話は変わるが、極大地震によって被災した東北地方の復興・再建について、やっと議論が始まり出した。そしてときどき目にするようになったのが、安全な高台に高層の集合住宅を建ててそこから海や畑に出掛ければ、土地もいらないし安全だし効率的である、という類いのいわゆるコンパクト・シティのような意見である。

 私はそれを聞いてあ然とした。だってあり得ないでしょう。今までそこで暮らしてきたひと達は漁業なり農業なりで生計を立ててきた。漁業を生業とするひとは海のそばで暮らして海の息吹を直接感じ、海の様子を観察することがそのまま漁の成否につながっている。そして農家のひとはそれこそ長塚節の『土』じゃないが、土にべったりと這いつくばって生活しているので、地面から離れて暮らすことなど考えられない。

 そんな当然の日常を脇においてコンパクト・シティを唱えたところで、それは単なる机上の空論に過ぎないのである。これを過疎化を解決するための方策と見る向きもあるかもしれない。しかし、ひとが少なくなったからまとめて集住させればいいだろう、などとは暴論もはなはだしい。過疎という社会現象は人口減少のフェーズに突入した日本全国で今後どこでも起こりうることであり、残念ながら自然の摂理と言うしかない。それでもそこに住む高齢の方々は助け合って豊かに暮らしてきたはずである。その証拠に避難所暮らしの誰もが、自分の故郷に帰ってまた生活したいと言っている。

 そのようなひと達を、今住む土地から切り離そうとしてはならないと思う。今までとおり潮風を浴びて磯の香りを嗅ぎ、土の精霊を感じながら暮らせるように、われわれは新たな生活の手法を提起すべきである。地元のひと達が望まない方法を押し付けてはならない。

 誰にでも春は訪れる。被災地でもやがて桜は咲くだろう。そのときに少しでも多くのひとがやさしさのなかでさくらを愛でることができますように。そのために私たちも自分ができることを誠実に実行したいと思う。

PS 今朝の柴崎駅でもホーム両側の桜が満開になっていた。

しばし、お別れ (2011年4月8日 その2)

 北山研で4年間にわたり勉学・研究を続けてきた王磊(わん・れい)さんとの最後の個別ゼミを今日の午前中に行いました。昨年、RC平面十字形柱梁接合部の実験を実施して、その成果を詳細に分析してきました。残念ながらJCI年次論文にはまに合いませんでしたが、先日のAIJ大会梗概には無事投稿することができました。

 王磊さんは中国に帰っても引き続きこの研究を続けたい、と言っています。まあ、仕事をしながらでは難しいとも思いますが、少しづつでも検討を続けて、時々メールで報告してくれると嬉しいですね。

 中国に帰国したら、いままで離ればなれで暮らしてきたご家族と楽しく暮らして欲しいものです。今日までご苦労様でした。中国での益々の活躍とご家族の安寧を祈っています。いつかは中国を訪問したいと思います。そのときはどうぞよろしく。

with Mr. Wang Lai

壊れる (2011年4月8日)

 昨晩、また大きな地震が起こりましたね。3月11日の極大地震の余震ということですが、M7.4で宮城県では震度6強だったので、普通なら大地震といってもよい規模だったと思います。ここのところ体感の余震が減っていたので少しばかり気が緩んでいたので、またもや驚きました。

 3月11日の地震で私の研究室のパソコンが壊れましたが、数日前に今度は車がいかれました。これは地震とは関係ありませんが、購入してからまだ7ヶ月しかたっていないのに、突然アクセルを踏んでもエンジンがブイーンと回転するだけでスピードが出なくなったそうです(家内がつかっていたので伝聞です)。とても怖かったと言ってました。

 それで昨日、ディーラーに出したところ「ターボ・チャージャー」が壊れました、とのこと。はあ? まだ数千キロしか走ってないのに、、、。この車はハイテクの極みで、エンジンの排気量が小さいところをターボで補うことによって低燃費を実現しているのがウリです。ですからターボ・チャージャーといえでもエンジンの心臓部なわけで、それが壊れるっていったいどういうことでしょうか。もう、ガックリです。

 そのうち壁谷澤先生から地震被害調査の指令がくるはずですが、自分の車を使っての調査はできそうもありません。以前にも書きましたが、普段の日常がちょっと崩れるだけで、いろんなところにしわ寄せが来て精神的に疲れます。早いところ(世間一般を含めて)正常に戻って欲しいものです。

夜 空 (2011年4月5日)

 今日は建築学会の大会梗概の締め切り日である。朝一で最後のひとりの論文をチェックして、やっと投稿が終わった。やれやれ、今年は地震が発生したこともあり、予定が大幅に狂ってしまった。反省することが多いので、これからゆっくり検証したいと思う(でも、これから被害調査が始まるのでそんな余裕はないかも?)。

 ここ数日、計画停電は実施されなかったが、社会生活における節電は続いている。そのため、夜になると大学構内はビックリするくらい照明が落とされ、ほとんど真っ暗になる。我が大学は多摩丘陵の尾根筋にあるので周辺よりも高いところにある。なので空は開けている。校舎から出てふっと見上げたところ、夜空に輝く無数の星々が目に飛び込んできた。とても美しかった。東京都内で(まあ、八王子は田舎ですけど)こんなにたくさんの星を見られるなんて、ちょっと考えていなかったな。

 電力不足で不自由な生活が続いているが、晴れた夜の大学構内を歩いているときだけは夜空を楽しむ気持ちになれた。暗いなかで星たちの瞬きを見ていると、太古の昔の人類もこうして夜空を見上げていたんだろうなあと思う。ただし星の正体を知らなかった彼らは多分畏怖の気持ちで眺めていたことだろう。でも、宇宙のなかのちっぽけなわたし、という意味では昔も今も変わりはない。あの極大地震の発生以来、我々人間の存在というものに対してどうもシニカルになってしまう。

新年度 (2011年4月1日)

 やっとこのページを更新できるようになりました。3月11日の地震によって私が使っていたMacintoshのiMacG5の具合が悪くなり、ついに起動できなくなりました。HPの作成にはアドビのGoLiveというソフトを使っていたのですが、これはすでにもう新しいソフトに更新になっていました。そこでしょうがないのでDreamweaver CS5というソフトを今日、生協で買って来て、なんとか使えるようにしました。そのときに山村さんに助けてもらったという案配です。

 しかし地震でパソコンがいかれるとは思っていませんでした。この半年のあいだに二台のMacがこわれました。 そんなことって、あるんですねえ。しかし新しいマシンとかソフトとかを使えるようにするのには、それなりの労力が必要な訳で、新年度早々そんなことに時間を費やしました。大会論文も今年ははかどっていません。何がいけなかったのか、反省しているところです。

血がかよう (2011年3月28日)

 「気分」の続きである。電気協会の耐震設計分科会で、福島第一原発の事故に関する意見交換会が開かれた。主な目的は当該分科会の公式態度を決定して外部に対して表明する、というものである。この分科会には地震、火山、地盤、土木、電気、建築などの様々な分野のひと達が集まっており、私は建屋の耐震設計に関わる部会(久保哲夫先生[東京大学教授]が主査)に属している。

 出席者の主要な関心のひとつは、今回の津波が電気協会の定める耐震設計指針で想定していたものかどうか、という問題であった。しかし現状では津波の波高ひとつとっても確定的な情報はなく、どうやら想定を上回るような津波が来たらしいというような雰囲気ではあるが、それとて定量的な評価ができる段階ではない。

 しかし「気分」でも書いたように実際に被害を受けた人々にとっては、与り知らない指針で「想定」してようがしてまいが、そんなことは大した問題ではないのである。重要なことは、現に重大な事故が起こってしまった今、我々が今まで行ってきた設計行為について誠実に説明して、今後に活かす方策を見出すことであろう。いま求められるのは機械のように厳密で冷酷な理論や説明よりも、人間のための血の通った工学である、と私は考える。

気 分 (2011年3月27日)

 お彼岸が過ぎたと言うのに寒い日が続きますね。子供がボートに乗りたいと言うので、天気もよかったので井の頭恩賜公園に行ってきました。でも行ってみると、節電のために動物園も遊園地も休園でした(まあ考えてみれば当然でしょう)。池沿いの桜はまだ蕾みが固そうで、咲くには今しばらく時間がかかりそうでした。ただ、白いモクレンやコブシの花はかなり咲き始めていて、春らしさを感じました。

 先週末に研究室の追いコンがありました。でも私はお酒を飲んで楽しむという気分にはとてもなれなくて、追いコンには出ませんでした。追いコンに出席しなかったのは研究室を構えるようになってから初めてのことだと思います。東北関東大震災の全貌は未だに見えてこない程の大災害となり、地震工学に携わるもののひとりとしてホントに脱力感を感じています。

 原発の設計にしても同じです。最近では、諸々の事象の発生を確率的に評価して原発の設計に取り入れることを考えるようになりました。でも今回の福島原発では確率的にはとても小さいと思われていた最悪の事故が発生しました。地震による津波が防波堤を超える確率、浸水によって第一のポンプが止まる確率、続いて予備ポンプが故障する確率、、、と起こりうる事象の確率をどんどん掛け合わせてゆくと、多分今回のような事故が生じる確率は極めて小さな数値であると想定されたと思います。

 しかしながら今回の事故は現実に起こってしまいました。私は科学を信奉する人間ですが、このような厳然たる事実を目の前にすると、確率的評価とは人間にとって一体いかなる意味を持つのか、考え込んでしまいます。原発の事故によって大勢の方が避難を余儀なくされ、空気や土壌や水の汚染も始まっています。農家や酪農家の人々が困っています。そのような被害を受けたひと達に、いやあ今回の事故は確率としては大変に小さいものだったんですがねえ、と説明したところで何の意味があるでしょうか。当事者にとっては1か0か、どちらかしかないんですよ。そういうひと達にとって、そのあいだの無限にある数値、すなわち確率は無意味だと断言できます。

 このようなセンチメンタルなことを言っていては、構造物など設計できないと言われるでしょう。しかし時として情念が理性を超えるのが、人間ではないでしょうか。血の通った人間が大自然を相手として構造物を構築するとき、そこには原初の人類が抱いたのと同質の畏怖や尊崇を忘れてはいけない、そんなふうに私には思えます。今回の出来事によって私のなかでは、科学的な理性を土台とした学問に対する空しさがわき上がっています。

 私は別に数学とか物理学とかを否定している訳では毛頭ありません。今回のような悲しい出来事に遭遇したとき、それらの理屈と人間の心理とが乖離し始めます。このような事態を経験したわれわれ工学者はその両者の擦り合わせをどのように成し遂げてゆけるのか、未来の工学ではそんなことを考えなければいけない、と強く思います。人間のための工学が今までのようなものでよい、とは少なくとも言えないでしょう。

 

いっぱい (2011年3月24日 その2)

 昨日から急にメールが受信できなくなった。いや、正確に言うとときどき思い出したように受信できた。しかしこれでは急ぎの仕事に対応できないし、第一大変なストレスである。メールソフトをあれこれ触ったが直らない。山村一繁さんに見てもらったが分からない。

 そこで本学の情報処理室のHPを見ていたら、ホスト・コンピュータのメールボックスの容量を超えるとそういうことが起こる、と書いてあった。そう言えば今回の大震災以降、被害調査関連の多量のメールが飛び交い、場合によっては同じメールが二つも三つも来るし、大容量の添付ファイルも送られて来た。もしかしたらこれが原因かも知れない。

 でも自分ではどうして良いか分からなかったので、やむなくシステム管理室に電話した。SEの方に調べていただくと、案の定、いっぱいになっているとのこと。やっぱりそうだったんだ。で、SEの石川さんが仰るには、すでに500MBを超えているが、ここ三日間でも200MBを超えて受信しているので、今後も同じことが起こる可能性がある、とのこと。あちゃあ、どうすりゃいいんだ、全くもう。大容量のメールを送るな、と言いたいが、じゃあいったい誰に?

 という訳で、非常事態にはいろんなことが出来します。でも、このトラブルのおかげで丸一日はロスしたと思う。帰宅難民のときには電車の有り難さを痛感したが、普段普通に使っているものが動かなくなることって、ほんとに骨身に沁みますな。ご面倒をおかけした石川さん、本当にありがとうございました。助かりました。


プレ・さくら (2011年3月24日)

 極大地震のせいで騒然とした世情なので、桜をめでるという気分でもないが、今年はお彼岸をすぎても寒さが厳しいためか、例年3月中旬には咲く大学校内の桜もまだ咲いていない。この分だと、大会論文を書き終わる頃に咲き出すかな。

 我が家では灯油で暖房を使っている。御用達の業者の石油価格は以前はリッターあたり81円だったのだが(我が家はお得意様なので安くしてもらっている)、今週は「100円です。それがいやなら結構です」と言われてしまい、石油タンクも半分ほどなくなっていたので背に腹は代えられずに補充した。でも、お米も石油も十分にあると政府では言っているのに市場には少ないというのは、どう考えても一部の業者が売り惜しみしているとしか思えない。今は個人の利益を云々するような事態ではないのにねえ。

 同じことはプロ野球セ・リーグの開幕騒動でも言える。某球団のオーナーは「開幕日はお上が決めることではない」と言ったらしいが、社会の雰囲気を知らないひとのたわごととしか思えない。安否も不明で、ご飯も食べられず、暖もとれないひと達が無数にいるというのに、貴重な電力を浪費して野球をやろう、という神経は理解できないですな。プロ野球の選手たちも被災者救援のための活動を行っているのに、いったいお偉いさん達は何を考えているんだろうか。このひとは多分東京23区内に住んでいるのだろう。そのエリア以外では計画停電が起こっていて、そのために人々が苦労していることも知らないと見える。


あり方論議 (2011年3月22日)

 今日は朝一番で狛江市役所に今回の大地震による被害状況をヒアリングしに行った。最近は一般市民に対するお役所の対応はとても丁寧になった。東電による計画停電が実施されているため、役所のなかはほとんど点灯されておらず、私が訪れた安心安全課でも薄暗いなかで皆さん執務中であった。窓からさす間接光だけが頼りといった感じで、ここまでやるかという感慨を抱いた。でもお役所が率先して節電しているという気概をひしひしと感じることができた。

 さて3月22日は本来であれば卒業式・修了式のはずであったが、このような世情のため本学では中止になった。我が社のM2・嶋田洋介くんはせっかく建築学域総代に選ばれていたのに、その晴れ舞台を見ることができずに残念であった。皆さん、卒業・修了おめでとう。騒然たる事態のなか、社会へと出てゆく皆さんには同情を禁じ得ないが、逆風のなかでも持てる力を十分に発揮して社会のお役に立つことを期待している。

 7階にあるメールボックスを見ると、「研究のあり方PT最終報告案」という学内文書が配布されていた。PTって何だ、という疑問は置いておくとして、研究のあり方って議論するようなものなのでしょうか。研究は我々研究者の存在意義そのものであり、そのあり方を議論しなければならないほど、我々研究者は意志薄弱に堕してしまったのだろうか。何だか私にはよく分からない。

 この文書のなかには「異なる分野の研究者が気軽に集い、日常的に情報交換のできる場の設置」という項目もあった。欧米の大学では、お茶の時間に異なる分野の研究者が集まって雑談するなかから新しい発想や研究の種が生まれるという。東大の村山斉先生が長を務める研究機関(IPMUだったかな)でも同様の試みを実践しているそうだ。確かにこれは魅力的である。しかし今まで話したこともないような他学部の先生がたと一堂に会しても、私などは誰に何を話したら良いのかさっぱり分からない。

 そしてこの文書の最後には、丸囲みで「一流研究大学の構築に向けて」というスローガン(?)が掲げられていた。そうだったのか! このページでも以前にわが建築都市コースは研究指向大学なのか教育志向大学なのか、どっちだろうかということを書いたが、首都大学東京としては研究大学を目指す、ということに意思統一したことがやっと分かった。ただここに書かれているようなことを実践すると、一流研究大学の仲間に入れるのかどうかはやはり私には分からない。

 という訳で、何だか分からないことばかりが書かれていたが、最後の「一流研究大学の構築」という目標だけは理解できた。しかし大学の要路の方々がお知恵を出し合ってまとめた(であろう)最終報告案をほとんど理解できない私って、いったい何モノなんでしょうか。私自身は至極まともな大学人だと思っているんですが、、、(まあ知らないうちに執行部が決まっているような塩梅ですから、そこいら辺はワンダーランドなんでしょうが)。


地震の震源 (2011年3月20日)

 今日は日曜日ですが、またもや教室会議と教授会とがあるため登校しました。比較的暖かな日和なので暖房もつけなくてよくて、節電上は助かります。本学では後期試験は予定の二時間遅れで実施しましたが、追試験は結局中止しました。

 ここ数日、建築学会の関東支部における地震災害調査連絡会での活動として、東京地区の地震被害概要を収集し始めました。連絡会副代表の塩原等先生が関東支部内全体についてのリーダーシップを取っておいでで、私は塩原さんからの依頼で東京地区の取りまとめ担当者になっています。

 私独りでは何もできませんから、大勢の会員の皆様にご協力をお願いして、とりあえず各自治体へのヒアリングから始めていただいています。東京23区を二つに分けて東地区を楠原文雄さん(東大建築学科)、西地区を高橋典之さん(東大生産技研)にそれぞれ地区担当者をお願いしてあります。こういう非常時にはやはり先輩・後輩という繋がりが大いに役立ちますな。

 東電による計画停電が実施されているので、お役所はその対応で相当に忙しいようです。電話で被害状況を尋ねても「いま忙しいから」と言って相手にされない場合もありました(まあ当然でしょうが、、、)。

 今のところ、東京東部の地盤が悪いところでの被害が目立ちますが、東京西部や多摩地区では大きな被害は幸いにもないようです。ただ多摩境のスーパー・マーケットの斜路の崩壊(お二人が亡くなり、多数の方が負傷されました)は、周辺地域にほとんど被害が見られないことから、ちょっと心配な感じです。

 ところで福岡大学の高山峯夫さんのHPを見ていたら、今回の地震の本震や余震の震源やマグニチュードを日本地図上に時系列で図示したサイトが紹介されていました。

http://www.japanquakemap.com/

 これを見ると太平洋での地震の震源の多くが、日本海溝近傍で発生したことがよくわかります。特に3月11日の本震発生以降は余震が多発して、画面の上に多数の花火が開いたように見えました(ちょっと不謹慎な表現ですが)。そんななか、長野県とか静岡県とかで震度6強を観測した地震は日本列島内部でそれぞれ発生しており、今回の東北地方太平洋沖地震とは直接の関係はない、という説明はそれなりに頷けます。でもまあ、地面はみんなつながっているので(科学的な表現でなくてすいませんが)、太平洋沖での地震が契機となっていろんなところの地盤破壊が引き起こされる、というのもいかにもありそうなシナリオです。


多 発 (2011年3月16日 その2)

 ひっきりなしに地震が起こりますね。今までは東北地方太平洋沖地震の余震かと思っていましたが、昨晩(3/15)午後10時31分の地震(最大で震度6強)は富士宮市直下を震源とする地震でした。私はちょうどテレビのニュースを見ていたのですが、その直前に福島県沖の余震があって、アナウンサーがその情報を読み上げているとき、突然画面に赤字で「緊急地震情報(?)」というのが表れて、あれっと思った直後にぐらぐら揺れ始めました。木造2階の我が家も結構揺れました。主要動がおさまった後もしばらくは長周期でゆっくりと揺れていました(5分間くらいかな)。

 で、今朝登校してみると、研究室の執務机の引き出しがまたもや皆、飛び出していました。多分本棚の本もかなりの数が落下したと思います。でも、私は3月11日の地震のときの被害をほとんど片付けることなく今日まで仕事していますので、ああ片付けなくてよかった、なんて感じです(洒落になっていませんが)。

 今日も朝から午後1時までに大きな地震が2回もありました。研究棟の7階はそうとう揺れて怖いです。なので、研究室のドアを開けっ放しにしています。今日は午後3時20分から計画停電の予定で、ネットは午後2時にはシャットダウンされるので、こうしてネットに接続できるのもあとわずかです。いやあ、ホント不便ですね。


余 裕 (2011年3月16日)

 極大地震の発生から4日経ったが、福島原発での事故は収まるどころかどんどんと悪いほうへと向かっている。放射線漏出に対して幾重もの防御策が為されていたが、それらは何らかの理由によって機能しなかったり、破壊されたりしたようだ。最悪の事態に対して安全を確保するための十分な設計がされていたはずだが、今回の地震はその設計時の被害想定シナリオを超える事象を引き起こしたと言わざるを得ない。

 1号機と3号機において水素爆発によって吹き飛んだのは、原子炉格納容器を包んでいる鉄筋コンクリート造(RC)建屋の上にある鉄骨部分だろうと思われる。で、吹き飛んだ部分の下にあるRC建屋は分厚い耐震壁によって構成されており、その耐震設計は相当な余裕を持って為されてきた。このことは中越沖地震(2007)のときに東電・柏崎刈羽原発でのRC建屋自体の被害はほとんど生じなかったことでも証明されたと思う。ただし2007年の経験から、RC建屋の保有する耐震性能はどの程度のものなのか、定量的に評価する必要性が叫ばれるようになり、現在はそのための検討が進行中である。今回の東北地方太平洋沖地震でRC建屋が重大な被害を受けたか、無事だったかは今後の調査を待つしかない(とても知りたいことである)。

 しかしこのようなRC建屋の耐震設計においても、想定する外力(地震動による振動とか、内部の圧力とか)は確定論的に決定せざるを得ず、逆に言えばその想定を上回るような自然現象が発生した場合には、どうなるか分からないということになる。そのような想定外のことが起こったときの最後の砦が「余裕(Redundancy)」である。性能評価設計法の確立に向けてここ十年以上研究してきた我々研究者は、この余裕の中味を科学的に分析・評価して、曖昧な部分を減らそうと努力してきた。誤解されそうだが、曖昧な余裕は排除したい、というマインドが多くあったように思う。

 しかし現在の状況を見るとき、曖昧でよく分からないけれどもとにかく余裕があるということは、工学としてやはり必要な気がする。今回の事故は地震動そのものによって引き起こされたものではないとは言え、安全性の確保のためにはいかに余裕が重要であるか、を我々に訴えているのではなかろうか。人間は所詮は自然に対して愚かな存在である。何か重大な事柄が起こって初めて気がつく。それにしても何と大きな代償を払わねばならないのか。泣けてきますね。


生活と仕事 (2011年3月14日)

 今日から輪番停電になるとのことで、通勤の足となる京王線は停電時間帯には調布から西が全面運休になった。そのため、今日は朝早く出勤した。調布まではノロノロ運転だったが、相模原線に入るとスイスイ走った。また途中の南武線が運休だったせいか、そんなに混んでもいなかった。

 南大沢駅に着いてパン屋でお昼ご飯を買おうとしたが、既に商品の数は少なくてちょっと慌てた。店頭からどんどん商品が姿を消してゆくのがわかって、こわいっす。電気が来るあいだはパソコンを使った仕事をしようと思ったため、研究室の片付けは後回しにして、被災した散乱物のあいだでこの文章を打っている。幸い、午前9時20分からの停電は回避されたようで、仕事を継続できている。でも、相変わらず余震が頻発して、お昼前には相当な揺れを経験した。こんなようでは、しばらく本は元の本棚にしまえないんじゃないか、とも思う。

 先ほど大学本部からメールが届いて、「4月いっぱいまで実験機器等の停止」を言い渡されてしまった。とほほ、今加力中の試験体はかわいそうにそのまま新年度を迎えるのかと思うと、もう暗澹たる気持ちになった。そのうち女房からメールで、調布駅では電車に乗れない人が駅舎から溢れ出ているという知らせがあった。まずい、また帰宅難民になることは避けたい。また家のほうでは断水も始まるらしい。

 こんな状況では仕事も落ち着いてできないし、生活も大変な制約を受けて、困惑の極みである。でも現地で被災した方々のことを思えば、私たちには雨露を凌ぐ家があって、暖かい布団で寝られるのだから、これくらいのことを我慢するのは当然だ。

 しかし電力供給の一端を担う原発がこんなことになって、これからどうなるのだろう。原発に対する風当たりがいっそう強くなるのは目に見えている。私は運命論者ではないが、この試練はもしかしたら人間の社会活動をもっと縮減しろと言う、天の声なんじゃなかろうか。原子力がダメならば、それに変わる新たな自然エネルギーを発明・改良しないといけない。今回の大災害では日本人だけでなく、人類全体の英知が試されている。

 という訳で、帰れなくなる前に大学から退去しようと思います。


研究室の被害 (2011年3月13日 その2)

 今度の東北地方太平洋沖地震は悲しいけれど、極めて激甚な災害を引き起こした。津波による一町壊滅(なんてイヤな言葉なんだろうか)や福島県の原子力発電所のMelt-downなど、まだまだ被害の様相として分からないことが多い。今後のライフラインの復旧とともにさらに報告される事実は増大し、それに伴って被害は拡大するだろう。恐ろしいことである。ひとびとの安寧を祈ることしかできないのが歯がゆい。

 そのようななかでも、我々は日々の生活を過ごしてゆく。今日は入試関係の業務があって地震後初めて大学に登校した。私の研究室がある校舎は9階建てのSRC建物(耐震壁付きフレーム構造/1991年竣工)でプランの中央にアトリウムがあることが特徴である。この校舎は緩やかに傾斜した地盤に立っている。少しばかり柱とか耐震壁を見て回ったが、1階柱脚に曲げひび割れが発生し、その柱からスラブにひび割れが伸びていた。また外部に露出している地下1階の耐震壁にはせん断ひび割れが数本発生したのを発見した。地震力に抵抗してくれた証しである。

 で、私の研究室は7階にあるのだが写真のようなあり様で、予想よりもひどかった。でも大きな本棚は転倒することがなくて助かった。本は桁行方向(主としてフレーム構造)の振動で落下したものが多かったが、張間方向(耐震壁付きフレーム構造)でも落下したものがあったから、建物の構造とはあまり関係がないようだ。両袖付きの執務机が南北方向(張間方向)に30mm移動していた。だが書籍類があまりに散乱していて片付ける意欲を失った。明日以降、学生さんに手伝ってもらいながら整理しようと思う。この際だから、なるべくいらないものは捨てよう。

 

  写真 北山研究室の様子

 他の研究室ではフレーム式の本棚がばんばん倒れており、怪我人がいなかったのが不思議なくらいである。8階にある小泉研究室では、本棚が倒れたかプロッターが移動したかしたらしくドア自体を開けることができない。私も行ってドアをガンガン押してみたが、びくともしない。こういうときはどうすりゃいいんだろうか。

 

  写真 7階の研究室(桁行方向に転倒)     8階の研究室(張間方向に転倒)

 いずれにせよ、室内の調度類の移動や転倒に対する対策はほとんど為されていなかった(と思われる)。これは分かっていたこととは言え、大いなる教訓を残してくれた。まず身近なところから、できることを実施するのが防災の鉄則だろうから、、、。


はじめての帰宅難民 〜二万五千歩の顛末〜 (2011年3月13日)

1. 小川町駅にて

 2011年3月11日の午後2時40分過ぎ、私はその地震に遭遇した。のちに東北地方太平洋沖地震と呼ばれることになるマグニチュード8.8の極大地震である。この日は、梅村・青山・小谷研究室の先輩方が一堂に会する青山耐震フォーラムを総本山の東大工学部11号館7階で開くことになっており、私は幹事だったこともあり少し早めに本郷に向かっていた。

 都営地下鉄新宿線の小川町駅で下車して、上りのエスカレーターに乗っているときに猛烈な揺れがやってきた。エスカレーターは登ってゆくのだが左右の振動が激しくて立っているのが難しい。もしもエスカレーターが脱落したら死ぬだろうと思ったので、猛烈にダッシュして駆け上がったが、大変な恐怖を感じた。その後もしばらく地下の駅構内にとどまった。地下のほうが安全だと思ったからである。しかしすぐに大きな余震がやって来て、再び怖い思いをした。頭上の非構造部材の落下が頭をよぎったので、できるだけそのような場所を避けて太い柱の脇にはりついた。

 それから地上に出るとすでに道路は大渋滞で、緊急車両がいたるところでサイレンを響かせている。歩道には大勢のひとが歩いている。さあ、どうするか。携帯電話は通じないし、メールを打っても返事は来ない。家族は大丈夫か、研究室の皆は無事だろうか、もう心配である。余震がひっきりなしにくるので、しばらくは歩き回らないほうがよいと判断して、その場に留まった。しかし電車が復旧する見込みもなさそうなので、これなら東大に行って情報を収集したほうがよいだろうと判断した。あそこならソファに座ってテレビも見られるだろうから。

2. 東大へ

 そこで小川町から40分ほど歩いて東大本郷キャンパスに到着した。道すがらの世情は騒然としていた。キャンパス内には前期試験の合格発表掲示板が立っていた(写真)。とても懐かしい。で、掲示板をよく見ると、現在の合格発表では合格最高点と最低点、および平均点が貼ってあった(写真)。へえ、そういう時代なんですな。こういう事態のなかでも、冷静な東大観察は怠らない。

 
 写真 東大理Iの合格発表と合格点数の表示

 そして工学部1号館前のコンドル先生の銅像にご挨拶して(コンドル先生、また関東大震災級の地震がありましたよ)、やっと工学部11号館に辿り着いた。案の定、エレベータは動いてないので階段を上ってゆく。そして久保・塩原研究室の会議室に入ると、小谷俊介先生がお一人でパソコンを触っている。そこを通り抜けてソファがあるスペースに行くと、青山博之先生とか芳村学先生とか8、9人の先輩方が座ってテレビを見ていた。そのなかに同じ町内に住む河村壮一さん(元大成建設技研所長)のお姿を見つけ、ああこれで帰るときは一緒に行動できるな、とちょっぴり安心する。テレビ画面を見ると何かが燃えている。とにかく大変な事態に至ったことは確かである。このとき、午後4時半くらいであった。

 塩原等先生のお部屋を覗くと、写真のように書籍類が散乱して大変なことになっていた。秘書さんのお話によるとキャビネットの上の本棚が落下して、机の下に避難した、とのこと。怖かったでしょうねえ、と言って見ると、もう涙目である。8階はもっと大変ですよ、とのことだったので、ひとつ上の松村・藤田研究室に行ってみた。すると藤田香織先生にバッタリ出会った。彼女の話では、東京駅で角田誠先生(本学教授)と別れた直後だと言う。階数がひとつ上がっただけで、被害状況がこんなに違うものかと思った。写真は泣きながら(?)散乱した本を片付ける(ふりをする)藤田先生である。

 

 写真 塩原研究室の様子

 

 写真 ひとつ上の8階の様子(写っているのは藤田香織先生)

 家になかなか連絡が取れずに不安だったが、塩原研の有線電話を掛けてみるとうまく繋がって、皆無事なことが分かりホッとした。多摩東部の揺れはそれ程でもなかったようだ。そのうち我が社の学生からのメールも届いて彼らの無事を確認した。ただ、研究室の本は全て落ちて散乱したそうで、ということは私の部屋も大惨事になっている可能性があって、暗澹たる気持ちになった。

3. 青山フォーラム始まる

 これで差し当たっての懸念事項はひとまず解消したので、さあそれでは歩いて帰るかと思ったが、なんと先輩方は折角集まったからフォーラムを始めようと言い出したではないか。えっ、ホンマでっか。まだ余震でゆらゆら揺れているなかで、他国の地震の話をしようっていう、その感覚が私には理解できなかった。だってお膝元が大変なことになっているのに、ニュージーランドのクライストチャーチでは、、、なんて言われても、お尻がそわそわして落ち着いて話を聞いてなんかいられないでしょう? でもやはり、偉いひとは心構えが違うと思いましたな。私みたいな小物には、そんな太っ腹な肝っ玉などありませんやね。

 

 写真 青山フォーラム(11号館7階の輪講室では、なんの被害もなかった)

 小谷俊介先生がニュージーランドの耐震規準の変遷について解説して下さった。その間にも余震があって、小谷先生は「今、だいぶ揺れていますけれど、、、」などと仰りながら平然とパワーポイントの説明を続けてゆく。小谷先生が要領よく説明してゆくのだが、こちらはそわそわしながら周囲の本棚に気を取られている上に、小谷先生の説明によってなんの苦労もなく知識を得るので身に付こうはずもない(小谷先生、すいませんです)。

 やがて塩原等先生が東大構内の安全点検を終えて戻って来た。そしておもむろにノートパソコンを広げて液晶プロジェクタに接続すると、今度は本題のE-Defense(兵庫県三木市にある)でのRC建物の振動台実験について、淡々と説明を始めるではないか。ああ、ほんとにエライ!、東大のお歴々は。でも大変に興味深い実験結果を拝聴している途中で、西川孝夫御大が帰るとのたまったので、それではということで本郷通りまでお見送りした。でも、通りには車が渋滞していてその脇を大勢のひとが黙々と歩き過ぎてゆき、タクシーなんか捕まらないと思った。

 そして予想通りしばらくすると西川先生は「だめだよこりゃ」と言いながら7階に戻って来た。こうして午後5時過ぎから7時前まで、久し振りの耐震フォーラムを満喫した(?)先輩方は、そろそろ帰るという気持ちに(やっと)なったみたいで、でもお腹がすいたね、ということで、ここまできたらジタバタしても始まらないので、電話でキャンセルした「浅瀬川」(赤門前にあるちゃんこ料理屋で青研御用達のお店)に行くことになった。

4. 浅瀬川にて

 ところがここらから先輩方はそれぞれの判断に従って、てんでにバラバラの行動に移ることになる。当たり前のことではあるが、結局は自分で判断して、自分の力(足)で何とかするしかないのである。今井弘先生は「いやあ、勉強になりました」との一言を残して去っていった。彼は筑波大学名誉教授である。まさにグッドラック!である。

 「浅瀬川」の前まで来たとき、小谷先生がやっぱり歩いて帰る、とか言い出し、それに西川先生と北川先生とが同調して、結局お店に入ったのは9人となった(その後、塩原先生ほか1名が加わって11名となった)。フォーラムには15人くらいは参加していたので、櫛の歯が抜けるように皆、自分の道を歩んで行ったのである。ときに午後7時頃であった。

 腹が減っては何とやら、なので、かねて予約のちゃんこ鍋を囲んで(こんな時期なのに)表面的には楽しい?ひとときを過ごした。でも誰もが交通機関の復旧状況に敏感になっており、お店のテレビを見たり、携帯からの情報などの収集に余念がない。でも動いている電車は全くない。河村さんは今年の東京マラソンに出場して、見事に42.195キロを完走したそうで、その勢いで「走って帰るかあ〜?」みたいに皆さんから言われていた。

 私は多摩東部の自宅まで歩いて帰る決心を固めていたので、お酒は一口景気づけにいただいただけだが、さすがに酒豪の先輩方はビール、日本酒をどんどん消費していった(もう腹が据わった感じでしたな)。

 

 写真 浅瀬川でのスナップ

5. 帰宅難民の列へ

 そして午後9時過ぎ、そろそろ行きますか(ってどこへ?)という青山先生の一言で、暖かく居心地のよい「浅瀬川」をあとにして、大勢のひと達が黙々と歩くエマージェンシー本郷通りへと歩を乗り出したのである。かくして私は生まれて初めて帰宅難民となった。

 まず本郷三丁目の駅で青山先生、中田慎介先生(高知工科大学教授)、芳村先生そして河村さんと袂を分かつことになった。駅に行っても電車は動いていないので、どうするつもりなんだろうか。歩く決心を固めた私と甲斐芳郎さん(同じ高校出身の先輩で、E-Defense勤務)とは本郷通りを南進することにした。ものすごい人出で、歩くのも大変である。本郷近辺では東に向かう人並みが卓越していて、その流れに棹さして歩いたのである。

 お茶の水駅に着くとシャッターが降ろされていて、取りつく島もない。甲斐さんとあれこれ話しながら歩いたので気が紛れたのは良かった。やがて神田橋を過ぎ、皇居へ辿り着いた。ここは東京の中心にある真空地帯なのでひっそりと闇に沈んでいた。車列は相変わらず続いていて、警察官がたくさん出ていた(写真は祝田橋付近の様子)。

 

 写真 祝田橋付近の様子

 二時間ほど歩いた午後11時前、永田町付近に来たとき、人並みが途切れていることに甲斐さんが気がつき、もしかしたら電車が動き出したのではないか、と彼が言った。しかし既に決意を固めた私は「甲斐さん、往生際が悪いですよ、とっとと歩きましょう」と言ったが、「北さん、そんなことないと思うよ」と言うと彼は地下へとスタスタ下りていった。ほどなく彼は手招きして、にんまりしながら半蔵門線が動き出したことを教えてくれた。

 こうしてそれほど混雑していない半蔵門線に乗った。甲斐さんは用賀駅で下車して歩く、とのことであった。ちょうど女房から京王線が動き始めたというメールが届いたので、私は渋谷駅で下車して、井の頭線に乗ることを決意した。このとき、私は知らないうちに実はかなりのOptimistに変身していたのである。これが糠喜びであったことは、このあと直ぐに分かる。

6. そして、ひとり道行き

 しかしこの判断は結果として誤っていた。渋谷駅に着くと、すっかり戦友となった甲斐さんとお互いの健闘を称えあって別れの言葉を交わした。「十年経ったら、今日のことも笑い話になるんですかねえ」なんて言いながら。

 ところが渋谷駅でエスカレーターを駆け上がって京王・井の頭線のターミナルに行くと、もうもの凄い人並みで身動きすることさえままならぬ気配である。井の頭線は動いているようだが、これではいつになったら乗れるのか分からない。なにより、こんな混雑したところで大きな余震に遭遇したらパニックになった群衆に押しつぶされるぞ、という恐怖で一杯になった。

 そこでここでもまた人波に逆らって駅から脱出すると、先ほど下車した田園都市線(地下鉄半蔵門線は渋谷駅から南は東急田園都市線と名前を変える)に沿って国道246号線を歩いて下り始めた。このとき午後11時20分くらいである。三軒茶屋まで行って世田谷通りに入り、どんどん南下する作戦である。246は昔車をぶっ飛ばしていたので勝手が分かっている。しかし歩いてみると、ほんとに辛い。一度電車に乗ってしまったので、疲労感が倍増した。やっと池尻大橋に達したときには、(このあたりにお住まいの)市川憲良先生はもう寝たかなあ、なんて思いながら通過した。このあたりで日付が変わった。

 途中、東急線、京王線の運転再開を知らせる画用紙を持った女性お二人が246沿いに静かに立っていた。また、トイレを解放し、携帯電話の充電可能と表示した飲み屋もあった。こんなちょっとしたことで、他人の優しさを感じた。深夜にも関わらず、私のように黙々と歩いて南下するひと達が無数にいた。皆、自分の足だけが頼りだった。私の妹も池尻大橋から横浜市青葉区まで4時間かけて歩いて帰宅したことを、女房からのメールで知っていた。

 やっと三軒茶屋(略称さんちゃ)に着くと右に折れて世田谷通りに入ったが、東急・世田谷線が動いているかもしれないと思って、近くに立っていたお巡りさんに尋ねると動いていると言う。彼はご苦労様です、とも言ってくれたな。丁寧にお礼を言って駅に向かった。そしてやったあ、ってな感じで世田谷線に乗ったのが午前零時25分くらいであった。

 世田谷線は旧玉電の唯一の生き残りで、路面電車のような二両編成で私は初めて乗車した。電車はゆっくりと進んで零時45分くらいに下高井戸駅に着く。すると京王線が動いているのが見えて、もう天の助けか、ってな気持ちである。電車の灯りに後光が差して見えましたぜ。それで改札口でパスモをかざそうとすると、そんなことはいいから早くホームへ入れと駅員さんが言う。ええっ、タダでいいんですか?地獄で仏とはまさにこのことである。こうして私は若葉台行きの各駅停車に乗った。そんなに混んではいなかった。

 ゆっくりとであるがだんだんと我が家に近づいてゆく。電車のありがたみをこんなに感じたことは今までなかった。そして午前1時15分、ついに柴崎駅に到着した、やったあ。でも世田谷線に乗るときにはパスモを通したことを思い出したので、やはりちゃんと清算すべきと考えた私は、駅員さんに「三軒茶屋で世田谷線に乗って、、、」と言いながら清算をお願いした。するとここでも「いいんですよ」と言いながらロハの処理をしてくれたのである。でも普段だったら終電を過ぎた真夜中に電車を動かしていて、それで無料ってのは、結局ボランティア活動ということでしょうね。ほんと、感謝の言葉も無かったです。

 柴崎駅から歩いて我が家に帰着したのは時に午前1時25分であった。こうして私の四時間半におよぶ帰宅難民体験は幕を閉じたのであった。歩くこと実に二万五千歩である。日常的に一万歩くらいは歩いているのだが、さすがにこの日は疲れました。

7. おわりに

 東京都心での震度は5強であったが、建物とか構築物とかの被害は幸いに少なかったと思う(まだ情報が錯綜していて不明なところも多いが)。そのため道路自体の変状とか落下物の散乱とかは見かけなかった。それにも関わらず電車が全て止まり、道路は大渋滞で車は動かず、大都市東京は完全なる機能不全に陥った。なんと脆弱だったことか。

 この貴重な経験は絶対に今後の対策に活かさなければならぬ。やがて来る東海地震や東南海地震では、こんな被害では済まないはずである。そのためには、今回如何なる事態が出来してその結果何が起こったのか、を克明に記録することが大切である。そのような記録を作り、丁寧に分析することが我々地震工学に携わるものの務めであろう。(完)


天から降る (2011年3月11日)

 天から降ってくるものにもいろいろある(構造特性係数Dsとか、某大学の管理職とか、アハハッ)が、私にはサバティカルが降ってきた。今年の4月1日から一年間、授業をしなくてよいし学内の委員会等のお仕事も原則免除される。1月末に、このサバティカル取得を許可する(正式には「特別研究期間」と言うそうだ)旨の書類を学長先生名でいただき、正式に決定した(のだと思う)。

 で、ここに至る顛末を簡単に書いておくと、この制度は数年前から始まったもので、年の巡りによって本来であれば我が建築学域(大学院の専攻に相当するもの)には割当は来ないはずであった。それでも手を挙げておけば、今後何かの役に立つかもしれない、ということで、じゃあ誰か手を挙げませんか、ということに教室会議でなった。ところが誰も手を挙げない。しかしそもそもサバティカルとは、ある条件を満たしたファカルティ・スタッフの権利であるので、誰もいないのならとりあえず私が、と名乗りを上げたのである。ほとんどなんの考えもなく、である。それが認められる確率は限りなく低いはずであった。

 ところがいざフタを開けてみると、なんと他の幾つかの学域では希望者がいなかったために空席ができて、そのお鉢が私に回ってきたのである。ホントにもう青天の霹靂、棚からぼた餅、瓢?からコマ、とはまさにこのことである。しかしなぜ、他の学域では手を挙げる先生がいなかったのか、こんなに不思議なことはない。皆さん、充電(知識の補充のことです)したくないんでしょうか。

 先日開かれた非常勤講師懇親会で、私がサバティカルを取得したことを川口健一先生(東大生研教授)に話すと、サバティカル(sabbatical year)とはそもそも欧米では7年に一度、教員に与えられる権利である、ということを教えてくれた。さすがに博識であると感心したが、7年に一度とはずいぶんと恵まれている。ちなみに私は、東京都立大学?首都大学東京に勤めて約二十年、である。

 そんなわけで4月からの一年間は廻りの皆さんにはご迷惑をお掛けすることになった。学内の委員等を免除していただくということはその分のしわ寄せが他の先生がたに行く、ということなので大変に申し訳ないことである。また私が担当している学部授業のうち、「建築構造力学1」は東工大の坂田弘安先生に、「鉄筋コンクリート構造」は東大生研の高橋典之さん(中埜研究室助教)に、それぞれ非常勤講師をお願いした。お二方には本当に感謝している。皆さま、どうぞよろしくお願いします。


しばらくお休み (2011年3月10日)

 昨日は一日中、建築学会だった。午前中はRC規準実用化対応WG(市之瀬敏勝主査)で、2010年に改定したRC規準に対する質問や指摘に対する回答を審議した。改定から1年が過ぎて、寄せられる質問は設計行為に直接関わる内容のものが増えてきて、そんなことは構造設計者が自分で考えて判断してよ、というものが多くなってきた。いっぽう、回答に窮するような質問もあって、それに対して軽々に返答すると設計業務とか適合性判定業務などにも多大な影響を与える可能性があるため、じゃあHPで公開するのは止めておこう、ということになる場合もあった。

 午後からは、RC構造運営委員会(壁谷澤寿海主査)である。学会の各運営委員会の委員の任期は3期6年まで、というのが一応の決まりである。私はこの三月でその6年が過ぎる。まあ正直にいえば、そんなに活発に運営活動に参加していた訳でもなかったから(すいません)、いつの間にか6年が過ぎていた、という感じである。そこでルールに則って、この3月をもってめでたく(?)退任ということになった。というわけで、RC構造運営委員会はしばらくお休みと相成った。まあ、また数年経ったら、市之瀬先生とか倉本洋さん(阪大教授)とかと一緒に復帰するんだろうけど。

 ところでこの日は上記の二つの委員会の時間帯に、新PC規準小委員会(深井主査)も開かれていたのだが、私はメンバーではないため(建築学会のルールに、小委員会の委員はひとり3委員会まで、というのがあるため)失礼した。メンバーではないが、下記のようにこれに関連する小委員会の主査を務めているため、時間があればオブザーバーとして参加して来た。

 ちなみに私が参加している小委員会は、
  PC部材性能設計法小委員会(PC構造運営委員会傘下/北山主査)
  RC部材性能評価小委員会(RC構造運営委員会傘下/田才晃主査)
  耐震構造評価小委員会(原子力建築運営委員会傘下/北山主査)
の三つである。こうして並べてみると、どれも皆なんだか似た名前だなあ。でもコンクリート系構造建物の耐震性能評価を研究してきたお陰で、かようにお座敷の声がかかるのでよかったね、ということでもあろう。なお日本建築学会では、委員会やWGのヘッドのことを委員長とは呼ばずに主査と呼ぶ。長い伝統の為せる技、か。

 こうして見ると、ローテクの極致と思われてきたRC耐震構造についても、まだまだやることはたくさんあって、研究テーマに困るなんて事態には多分今後も遭遇せずに済むような気がする。十年一日の如くに同じことをやっているとも揶揄されそうだが、同業者の皆さん、如何でしょうか?


学生さんの就活 (2011年3月8日)

 社会全体の経済活動が停滞している上に、「コンクリートからひとへ」といった誤解を招くようなスローガンが唱導されているので建設業には非常な逆風が吹いているなか、学生諸君の就職活動(就活と呼ぶらしい)が山場に差しかかっている(ように見える)。だが、ここのところスーパー・ゼネコン二社の担当者から、たて続けに「残念でした」という報告をいただいた。知らせて下さったのは東京都立大学のOBであったり、青山・小谷研究室の後輩であったりした。それによれば厳しい選抜が為されているようで(まあ、どの会社も生き残りに必死なので当然でしょうが)、今の学生さんはホント大変である。

 だが就職前線が厳しさを増すほど、大学での研究活動は停滞を余儀なくされる。いつも書いているように我が社(私の研究室のこと)では、学生さんひとり一人に研究テーマを割り振っており、彼らのActivityがそのまま研究室の研究成果に直結している。彼らにとっては就職は一生の大事であるから全力を尽くして天命を待って欲しいとは思うが、その期間は研究が進まないのは如何せん、どうしようもない。という風に達観している積もりだが、建築学会大会の梗概締め切りが一ヶ月後に迫った今、彼らからの吉報が待ち遠しい今日この頃である。若者たちよ、君たちの持っている全知全能を相手にぶつけて栄冠(ってわけでもないかもしれないが,,,)を勝ち取ってくれ。


悪意2 (2011年3月7日 その2)

 入試問題のリアルタイム・ネット投稿事件の続きです。それが、まさか大学に入学することを真剣に考えていた一受験生の所業とは想像できませんでした。今朝の新聞を見るとその受験生の試験会場での座席位置が「図解」されていました。

 窓際の席で、脇の通路は狭いため通常はそこを歩いて見回ることはしないでしょうね。監督員が無理に歩こうとすれば多分机にぶつかったり、ブラインドに体が触れて音をたてたりして、いずれにせよ受験生に取っては迷惑なことでしょうから。でもこんなことがあったのだから、教室内の机の配置とか、受験生の座る位置とかの見直しと精査とが必要になるはずです。そしてその結果として監督者たる教員の労度は確実に増えることになるので、ホント迷惑な話です。

 しかし、その無邪気さというか、悪いことをしているという感覚の希薄さというか、いずれにせよやったことの重大さと本人の認識とのずれが大きすぎて、再度ビックリしました。その動機が「どうしても大学に入りたかったから」というのはあまりにも直接的で、ある意味、純情の極みですよね。悪意よりは憐れみを感じさせます。思い詰めて、よいことと悪いこととの区別もつかなくなったのでしょうか。まさに「幼い」としか言いようがありません。学力を云々する以前に社会的なルールとかモラルとかを懇切丁寧に教えないといけない世の中になったと、残念ながら思います。


春の雪 (2011年3月7日)

 雪である。朝、家を出るときは土砂降りに近い雨だったが、京王線に乗って西へ進むに従って気温が下がって来たのだろう、稲城あたりからしんしんと降る雪になった。そして南大沢駅に降り立つとそこはもう一面の雪景色である。春だというのに本当に寒い。つぼみが大きく膨らんでそろそろ咲こうかといった風情のハクモクレンの木が、ひっそりと立ちすくんでいた。


知識の切り売り (2011年3月3日)

 われわれ大学の教員は自分の専門に関してはそれなりの知識と見識とを持っているので、それらに関する問題や話題についてメディアから原稿を求められることがときどきある。しかし私は原則としてお断りしている。なぜならメディア界に属する人たちの基本的な属性として、大学の先生の知識をひどく安っぽく考え、その知識が安易に手に入るものという認識を有している、というふうに私には思えるからである。たいがいの場合には、原稿執筆に二、三週間の余裕しかなく、それに対する対価はごくわずかであるか、場合によっては対価額が示されないことさえある。

 多分、メディア側の認識としては、原稿とかコメントとかを要求された大学の先生はよろこんでホイホイ乗ってくる、と思っているんだろう。しかしそれは大きな間違いである。筑波大学の境有紀さんのページにも書かれていたが、知識の開陳に対して、それなりの対価を要求しない先生は確かに多い。大学の先生はお金なんかに頓着してはならないし不浄である、と思っているのかもしれない。

 しかし私は、それは妥当ではないと思う。そもそもわれわれが今までの知見を得るまでには、膨大な時間と努力とさらにお金がかかっているのである。それをメールや電話一本で得ようというのは、どう見ても礼を失しているし、考え方として間違っている。

 同じことは、私のかつての上司だった田中淳夫先生も言っていた。なので一度、田中先生に頼まれて宇都宮市で講演を行ったときには、今までいただいたことのないくらいの謝礼をいただいて、「本当にいいんですか」と田中先生に聞いたら、「それは当然の対価だから貰っていいんだ」と強くおっしゃったことをよく覚えている。

 われわれが得た知見を社会に還元するのは当然のことと思う。だから学会などの冊子執筆には応諾し、シンポジウムや講演会などには呼ばれればボランティアとして参加する。しかし一般メディアは、それを出版したり放映したりすることを商売として、日銭を稼いでいるのだ。彼らの商売のために自分の知見を安っぽく切り売りすることはご免蒙りたい。

 なんでこんなことを書いたかと言うと、某雑誌に(本当はイヤだったのだが、やむを得ない事情で)記事を書いたのだが、予想通り今日に至るまで原稿料の提示どころかお礼状さえ送られて来ないからである。メディアの傲慢さにはホントかなわんぜよ。なので、境さんの言葉を借りれば「向こうの世界」に行って貰っている訳だ。


お年寄りの楽園、か (2011年3月2日)

 先日、私が住んでいる市の広報誌を見ていると、K市とC市とを合わせたC布警察署管内におけるオレオレ詐欺の被害件数が全国2位、被害総額はなんと全国1位であるという、不名誉な?事実が紹介されていた。この両市の人口を合わせると約30万人である。詐欺については以前にこのページでも書いたが、私の身の回りでそんなに発生しているとは思わなかった。そう言えば、うちのそばの電柱にも「詐欺に注意」と大書した看板が立っていることを思い出した。

 しかしこの事実は、逆に言えば(それなりにお金を持った)ご老人方がたくさん居住しているということを物語ってはいないだろうか。高齢者にとってもそれなりに住み易い、ということであれば、それはそれで結構なことではある。


悪 意 (2011年3月1日)

 京大での入試問題のリアルタイム漏洩には本当にびっくりしました。これだけテクノロジーが発達した時代ですから、いつかはこのようなことが起きるかもしれないとは思っていました。でも現実に起こってみると、その衝撃は大きいですね。いろいろなメディアによれば、複数人のグループによる犯行とか、こんなこともできるんだぞといった愉快犯とか、さまざまに報じられています。テレビ朝日では中国製のカンニング・グッヅまで紹介していました。スパイも顔無し、といった装備の類いです。

 大学入試の試験監督に従事している人間の経験として、定員が100人程度の比較的小さい教室では、携帯電話を出して問題を撮影し、送られて来た回答を見ながらそれに返事をする、などという芸当はほとんど不可能に近いと思います。ですから私の予想は、まず200人程度以上の大教室だと思います。しかしそれでも携帯で問題を撮影するというのは大胆すぎますから、多分マイクロ・レンズみたいな超小型のカメラをシャーペンなどに仕込んで撮って、外部に送信したのでしょう。その画像データを受信する人間は別に存在して、その人間がネットに投稿したのだと思います。

 いずれにせよ、その行為は大学入試に対する悪意に満ちた挑戦と言えます。ここでもまた「性悪説」に立たざるを得ない、という状況に追い込まれそうです。このほんのわずかな不心得者による悪意のせいで、大多数の善良なる受験生は大いなる迷惑を蒙ることになりました。しかし大学当局として、この悪意ある挑戦に対処する方法を見いだして実行しなければ、それこそ彼らの思う壷です。その行為はさらにエスカレートするでしょう。ですから、我々大学人は断固とした対応を取るべきなのです。テレビでやっていましたが、ある空間を携帯電話の「圏外」とするマシンが販売されているそうです。そのようなものを使うとか、電波探知装置のようなものを設置して抑止効果を狙うとか、いずれにせよハイテクに対してはハイテクで対抗するしかありません。

 しかしいつも書いていますが人間が人間を信じられないなんて、ほんとにイヤな時代になりましたね。こんな世の中だから「伊達直人」みたいな小さな善意が、人びとをホッとさせるのだろうと思います。


ゆくえ (2011年2月28日)

 このところ民主党のゴタゴタが目に余りますね。政権を自民党から奪った頃の理念はどうなったんでしょうか。社会には、我々の頭をおさえつけるかのように閉塞感が漂ったままというのに、国民のことなどそっちのけで内紛にうつつを抜かしているとしか思えませんな。首相もO沢系といわれる議員さんたちも、自分たちの行動や言動は「国民のためになるのだ」と叫んで正当化しようとしていますが、本人達に真剣なやる気が見えないせいもあって、どうにも薄っぺらに響くだけです。

 それにしても「権力」というものの魔力って本当に凄いですね。もともと民主党はいろんな思想を持ったひと達の寄せ集めであることは分かっていましたが、いざ政権を掌中におさめるや、かつて自民党がやっていたことと同じことを(こんなに早く)始めるとは、正直思いませんでした。ただ、O沢氏を親分と仰ぐ一派のやり方には感心しませんね。結局は自分たちが権力の中枢にいたいだけのように見えますから。権力を取るという一点で集まっていたひと達ですから、それを達成した時点ですでに同床異夢のくされ縁、てな状態になってしまったんでしょうね。

 以前にも書きましたが何につけ性急な世の中になって、短期的に成果を求められ続けることは確かに気の毒です。でもそれは政治の世界だけではなく、世間一般がそういう風潮なので、どうにもならないところもあります。余裕がないというのか、一度こけたら踏みつけられてもう立ち上がれないというのか、そういう恐怖感(あるいは実感)が世間に蔓延しているように思います。そしてそういう「余裕のなさ」が、他人に対する思いやりとか優しさとかを奪ってゆきます。

 世界が小さくなってグローバリズムが広がっています。しかしそれは、どうもアングロサクソンのひと達の論理のような気がします。先進的と言われる(でも本当か?)彼らの論理が世界を席巻しているのです。しかしもともと日本にはそのような文化はなく、文化の土壌自体が彼の国々とは異なっています。端的に言えば、日本人は物事を断定的に明らかにしないというマインドを持っています。今話題になっている大相撲の八百長問題だって、そりゃお相撲さんにも生活があるのだから少しくらいはそういうこともあるだろう、と皆思っていたはずです。逆に言えば、そういうことを灰色のままに詮索せずにそっとしておく、という国民心理だった訳です。大相撲についていえば、そういうことを分かった上で、皆さんそれなりに楽しんでいたのではないでしょうか。

 しかしそういう日本人の心性は、厳格な契約社会の欧米諸国から見ると甚だ曖昧でやりにくいということになります。宇宙船「地球号」の一員としてやってゆくためには、そういう“悪弊”は改めてくれ、というのが欧米の主張でしょう。でも我々のアイデンティティというものは、良きにつけ悪しきにつけ日本という風土(あるいは地域・地縁と言ってもよいですが)を抜きにしては成り立ちません。すなわちある程度は万国公法を尊重するのは勿論ですが、メインは地域主体のヴァナキュラーな思想であるべきと私は思います。自分が豊かな気分でなければ、他人のことを心配するゆとりは生まれません。そのゆとりを再度取り戻すためにもう一度、「日本人の知恵」を思い出してみるのもよいのではないでしょうか。

 それにしても「時の流れ」はいったいどこまで早くなるのでしょう。さらに早くなれば、生身の人間の身も心もボロボロに擦り切れてしまうのは明らかです。自分たちが導いた文明の進歩が自分たちの首を絞めるとは、何とも皮肉なことです。しかしそれは考えるという能力を身に付けた人類だけが持つ、宿命なのかもしれません。われわれの文明には、荒涼とした廃墟がつねにひっそりと付き添っているのです。


好奇心 (2011年2月25日)

 今日は大学の入学試験です。昨年は試験監督を担当しましたが、気温が異常に高くなって換気や空調に気を使った記憶があります。今年も昨年同様に暖かになりました。つつがなく試験が終わることを祈ります。

 昨晩、建築学域の客員教授をお願いしていたお三方にご足労いただき、大学に期待することや問題点などを率直に語っていただく会を開催しました(音頭をとった山田幸正先生、ご苦労様でした)。金箱温春さん(金箱構造設計事務所)、高橋紀行さん(竹中工務店執行役員)、那珂正さん(ベターリビング理事長)の三人です。いずれのお話も示唆に富んでおり、学生さんを教育する我々教員にとっては耳の痛いことも多かったのですが、そのなかで異口同音に言われたのが、学生諸君の自立性が足りないとか好奇心が見られないとか、意欲がない、といったことでした。

 これはなにも本学固有の問題ではないと思いますが、今まで多数の若者を受け入れてきた、いずれも建築界を背負って立つような方々の言ですから、非常に重いご指摘であると受け止めました。社会に出て活躍する人材としては、いささか物足りないということでしょうね。

 学生さんを総体として見ると確かにご指摘の通りなのですが、個々の学生さんと話してみると、彼らなりの興味とか疑問とか問題意識などを抱きながら勉強していることが分かります。そのことは例年、三年後期の「先端研究ゼミナール」という科目で少人数ゼミを行うとよく見えてきます。ただ、なんにつけ彼らの心情は非常に淡白な印象を受けます(淡白がいいか悪いかは脇に置いておきます)。興味や疑問はあるんですが、それに対する探究心とか、とことん知りたいという欲求は薄弱な感じを受けますね。ですから、それらのことをひっくるめて「好奇心がない」と言えば、そう言えるかもしれません。

 私の研究室の学生諸君を見ていると、与えられた研究テーマに取り組むうちに、それなりに疑問を持ち始めて自分で考えるようになり、検討を続けて行って小さなことでも自分自身でその疑問を解決できたときの喜び、という体験を積み重ねることによって、だんだんと成長していくように見えます。そのような経験を積めるように、こちらは誘導して指導するわけです。

 彼らも始めは言われたことをやる、というスタンスですが、卒論を提出する頃にはそれなりに問題解決能力が養成されていると感じます。折に触れ書いていますが、もちろんその程度はひとによって様々なので、期待以上に成長著しいひともいれば、期待倒れでもう少し頑張れば良かったのにね、というひともいます。いずれにせよ、私の研究室ではそれなりに好奇心を膨らませた学生さんを社会に送り出せている、と勝手に思っていますが、どうですかね。一度、彼らに聞いてみたいものです。

 追伸; 本日、春一番が吹いたそうです。ということは、2月18日は違った、ということですかね。単に暖かい風だった、ということでしょうか。


クライストチャーチの地震 (2011年2月23日 その2)

 2月22日にニュージーランドのクライストチャーチで大きな地震がありました。マグニチュードは6.3と日本人の感覚からすればさほど大きくありませんが、震源がクライストチャーチのごく近傍で、かつ震源深さが5kmときわめて浅いことから、甚大な被害が生じたと思われます。

 テレビの映像やネット上の写真を見ると、古い煉瓦造建物の倒壊が目に入りますが、よく見ると鉄筋コンクリート(RC)と思われる建物でも、パンケーキ状に崩壊したものもあるようです。ニュージーランドは南半球の小さな国ですが、耐震設計については今まで世界をリードしてきた最先進国のひとつです。われわれ地震工学の研究に携わるものにとっては、Park先生とPaulay先生 によって主導されたCapacity Design(耐力設計法)で知られています。

  
 カンタベリー大学の実験棟にて 右からPark先生、Paulay先生、青山博之先生(1987)
 ニュージーランドの両巨頭とも、今はもう亡い

 そのことを思うと、今回被害を受けたRC建物は耐力設計法以前に建てられた、いわゆる「既存不適格建物」かも知れません。断片的にしか分かりませんが、柱は随分と細いように見えました。日本でも1995年の兵庫県南部地震(阪神大震災)において、1981年の新耐震設計法施行以前に建てられた建物の被害が多発しました。

 ニュージーランドは私が初めて行った“外国”です。以前にも書きましたが、1987年にリゾート地のワイラケイであった国際会議に出席するため、青山博之先生と小谷俊介先生とに連れて行っていただきました。その後にクライストチャーチのカンタベリー大学で柱梁接合部に関する三国セミナーが開かれ、そこでは発表もしました。当時は博士課程の大学院生でした。連れて行っていただけたのは、まさに柱梁接合部を研究していたお陰と言えるでしょう。

 そのときに撮った大聖堂とカンタベリー大学の校舎を載せておきます。大聖堂は地震で頂部が崩落してしまったようで残念です。校舎の方はRCのようですが、こちらの柱は相当に華奢に見えますので被害がなければよいのですが、、、。

   大聖堂(1987)

   カンタベリー大学の校舎(1987)


花粉2011 (2011年2月23日)

 ついに昨日のお昼から、花粉が飛び散り始めました。朝は大丈夫だったのですが、お昼ご飯を食べている頃からくしゃみが出始め、すぐにグズグズになってしまいました。アッというまです。これから四月の初めまで、憂鬱な季節が続きます。春は待ち遠しいですが花粉はイヤなんて、贅沢ですかね。

 今朝は予防のために目薬をさして、マスクをして登校しました。マスクは着けているとやはり鬱陶しいので、できればしたくありませんね。


「クイズで授業」に反論する (2011年2月22日)

 学生さんにクイズのような問題を出し、学生は手元の端末を操作して○×で答えて、瞬時に集計された結果をスクリーンに映し出して教員が説明する、という授業形態が朝日新聞に紹介されていた。この形式だと学生さんの興味を引くことができるし、いわゆる双方向の授業が成立する、という。また、学生さんの成績も上がったとあった。この授業形式のメリットについて、大学の先生のコメントも載っていた。

 しかし私は首をかしげざるを得ない。確かに、問題を出題してすぐに「正解は○○です!」などとやれば、その刹那は学生さん達もざわめいて場は盛り上がったように見えるだろう。しかしそれによって「考える力」が本当に養成されるだろうか。多分、答えは否であろう。そのときに学生さんが得たものと言えば断片的な知識だけであって、それが当該学問の中でどのような位置づけにあるか黙考するとか、それを契機としてさらに奥深い思考へと沈潜するとか、といったことをしなければ、それは教室での単なる「クイズ」に終わってしまう。それではまるで、テレビの中で芸能人たちが内輪受けしながら楽しんでいるクイズ番組のようであり、大学の教室までそんな軽薄なことになるのかと思うと、もうげんなりする。

 また新聞記事では、現代の学生諸君は大勢のなかで手を挙げて自分の意見を言うことは苦手なので、手元の端末をこっそり操作して意思表示するやり方が現代若人気質にあっている、とある。確かにこれもそうかも知れないが、何だか情けない話である。ちょっと過保護な考え方ではないか。

 私は、そのような「クイズ授業」を楽しみたいと思っている学生さん達ばかりだとは思わない。大学で学ぶということについて、このページにも時々書いているが、本質的には個々の学生が自分の知的好奇心に従って自律的に学ぶことが大切である。そのような知識欲に餓えている学生諸君に対して、知の修得のための種を蒔いたり手助けしたりすることこそが、我々大学教員の務めではなかろうか。「クイズ」を楽しみたければ、テレビを見ればよいだけの話である。


真っ赤なさぎ (2011年2月21日)

 実家の父のもとへ詐欺の電話がかかってきた。その電話の主は「僕だけど、電車の中に鞄を忘れちゃってさあ。そのなかに名簿が入っていて、、、。そのうち、鉄道会社からそちらに電話があるはずだから」ということを話して、電話は切れたらしい。電話の相手をすっかり私だと思い込んだ父は、しばらくその相手と話していたそうだ。全く、自分の息子の声もわからなくなったのか、と思うとちょっとビックリである。

 で、そのあとしばらくして、今度は「警察から依頼されたビーウィズという団体のものですが、最近詐欺の電話がこのご近所で多いので注意して下さい。お金を請求された場合にはすぐに警察に連絡して下さい」という電話があった。しかし今度はお金が話題になったことから、これはおかしいと感じた父は、その会社がどんな団体なのか根掘り葉掘り聞いたらしい。さすがにどうも怪しい。その「ビーウィズ」もグルに違いない。それにしても手のこんだ詐欺だこと。二段、三段に構えて信用させてお金を毟り取ろうという、その作戦には恐れ入る。ただ、今のところその後に電話は掛かってきていないそうだ。

 こんな話を父から聞いているうちに妹が「これは全部怪しいので警察に電話しよう」ということで110番した。そうしたら怪しいと思った「ビーウィズ」はなんと本当に警察関係の団体だったことが判明して、家族一同、いったい何が本当で何が嘘なのか、疑い出したらキリがないね、ということでお開きになった。しかしイヤな世の中になったものだ。電話一本で他人からお金を騙し取ろうとは、なんと卑劣なやり方だろう。やはり電話という文明の利器はろくなもんじゃないですな。父には「留守電にしておいて、電話には直ぐにでないように」と言っておいた。自戒の念も込めているが、皆さんもお気をつけ下さい。どんなに理性的な人間でも、ひょんな拍子で騙されてしまうんですからね。


春一番? (2011年2月18日 その2)

 お昼に外に出たらもの凄い風が吹いています。結構暖かいのでこれって、もしかして春一番でしょうか。明け方は猛烈な雨降りで、朝10時くらいには晴れましたが、また曇ってきました。それでも時折、強い陽光も降り注ぎます。木々の枝にもほんのり小さな若芽が見えたりして、春はもうすぐそこ、といった風情ですな。


学会のある委員会で (2011年2月18日)

 ある晩学会で、RC建物の保有耐力計算に関する設計規準(案)を作るための合同幹事会が開かれた。千葉大学の和泉信之先生、清水建設の黒瀬行信さん、PS三菱の浜田公也さんがそれぞれ主査を務める小委員会やWGの主査・幹事が集まって討議する場である。この場には、全体のボス(RC構造運営委員会主査)である壁谷澤寿海先生も参加する。で、私はこの三つのWGのいずれにも属していないにも関わらず、どうしても参加しないといけなかった。

 その理由はこうである。現行の建築基準法令では建物の構造特性係数Dsを定めるためには、建物を構成する梁・柱部材の部材ランクを決める必要がある。これが構造設計者にとっては結構な足かせとなっているので、部材ランクを何とかしたい。そこで法令上はFAランクとはならない部材でも、何らかの検討を行って「必要な構造性能」(これがまたくせ者で、到底コンセンサスを得ることなど不可能なのだが)を有していることが確認できた場合には、その部材はFAランク相当であると見なすことにしましょう。ついては、そのための判定法を作成せよというミッションが、私が主査をやっているRC梁柱部材WGに命じられたのであった。

 そこでRC梁柱部材WGでは竹中工務店の石川裕次さんが中心となって(というか、ほとんど石川さんが独力で)そのための原案を作り、それを説明して議論することになっていたのである。

 しかしこの「みなしAランク判定法」を討議する前に、黒瀬さんが提出した保有耐力設計のルートを巡って大変に白熱した議論が沸き起こった。主として壁先生と黒瀬さんとの激しい応酬であったが、1981年に改正された建築基準法令(いわゆる新耐震設計法)で保有耐力計算が導入されてから約三十年も経っているのに、具体的な保有耐力設計をどのようにするのがよいか、といった設計の考え方とか設計法の骨格とかについては多種多様な意見があって、まさに同床異夢の様相を呈しており、ひとつの成案に落ち着いて合意を得ることは今のところ難しそうな気がした。

 これに関連する小委員会とかWGとかではいつも議論が百出して、せっかく頭を絞って作った原案がミソ糞に言われて否定されることもしばしばであった。学会活動は基本的にボランティアなのに、どうしてそこまで言われないといけないのか、と相当に頭に来ることもある。こんなに意見や考え方が食い違う学会活動は今まで経験したことがない。

 しかしこのような状況に至った原因をたどってゆけば、結局は「新耐震設計法」の内包する問題に行き着くのである。相手は国家の建築行政の根本をなす法体系である。それに立ち向かうことはちっぽけな個人ではほとんど不可能なように思える。事実われわれのあいだでは、構造特性係数Dsについては天から降ってきたものとして触れることは断念する、というのが暗黙の了解事項である。

 そうしたことを割り引いても「新耐震設計法」のもたらした恩恵は非常に大きく、1995年の兵庫県南部地震においてその有効性が実証された。だが、こうしてその光輝がいや増すほどに、陰となった部分の闇も一段と濃くなるのである。

 さて話をある晩の合同幹事会に戻そう。この日は結局午後6時から始まって終わったのは10時過ぎであった。夕飯も食べずにえんえん4時間も議論し、知恵を絞ったのであった(壁先生、ありがとうございます)。しかしその結果として、わがWGの出した原案にはまたしてもダメ出しされ(それはそれで御もっともであるのだが)大きな宿題が残されたのである。ホント、つらいっす。

授業のやり方 (2011年2月16日)

 ここで紹介した高橋昌一郎さんの本だが、もともとは東大教養学部での論理学の授業での出来事が下敷きになっている。東大では一・二年生は全員が駒場の教養学部に通って、理科一類とか理科二類の学生は二年生後期に進学振り分け(進振りと呼んでいる)によって建築学科とかの進学先の学部・学科が決定する。著者の高橋先生はこのような学生たちを対象として講義を行い、現代の東大生たちの生態を生き生きと描いた。そして彼は非常に好意的に彼らの挙動を評価している。

 その本によれば受講した学生数は二百人近かったそうだが、講義終了後のレポートとか学生個々人との質疑応答などを通して学生諸氏が考えていることや悩み等を把握したそうである。高橋先生の教育者としての苦労には大変なものがあったと思う。二百人もの人数を相手にして、彼らとの双方向の授業を行ってそれを成功させたのだから。

 私自身も『建築文化論』という教養の授業(わが大学では「都市教養プログラム」と呼ばれる)を担当したことがあり、高橋先生と同様に毎回の授業の最後に簡単なレポートを提出して貰っていた。しかし記述するための時間は十分から十五分程度しか確保できなかったせいもあって、目を引くようなコメントとか質問は残念ながらあまり見られなかった。それらに目を通して、翌週の授業の始めに幾つかの質問等に対する回答をスライドにして説明したりもしたが、やはり目立った反応は返ってこなかった。受講者数は四十名程度と少なかったにもかかわらず、我ながらどう考えても、双方向の授業が成立したとは思えない。学生諸君の知的好奇心をかき立てることが出来なかったのかも知れない。

 そうだとすれば、それは私の講義の内容とかやり方に原因がある。高橋先生の講義を受けたことはないが、私の授業とのあいだには教授法とか話法とかに違いがあることは多分確実なことだと認めざるを得ない。いったいそれは何なのか。知りたいものである。今年の十月からまた『建築文化論』を小林克弘先生(建築家)、鳥海基樹さん(パリの都市計画学者)とで担当するので、それまでに知恵を絞ろうと思う。


岸田研合同ゼミ (2011年2月15日)

 昨日の午後、芝浦工大豊洲校舎で建築学科岸田慎司研究室と合同のゼミを開催した。豊洲の校舎を訪れるのは二回目で、おまけに受付のお姉さんにちゃんと岸田研の場所を聞いたにもかかわらず、乗ったエレベータが間違っていたために結局たどり着けず、SOS電話をかけて岸田先生に迎えに来て貰うという体たらくであった(面目ありません)。

 で、合同ゼミのほうだが午後2時から始まって午後6時半まで、双方の研究室での成果を発表し合った。岸田研からはM1および学部4年の学生さんが計7名参加し、北山研からはM2が3名、B4が2名の計5名が参加した。岸田研とはいろんなテーマで今まで共同で研究を行ってきたこともあって、馴染みのある課題では質疑が活発になったが、各研究室独自のテーマの発表では学生さん同士の質疑はやはり難しく、岸田先生と私とがもっぱら質問したりコメントしたりした(まあ、しょうがないでしょうね)。


 しかしいずれにせよ双方の学生さんともに刺激を受けただろうし、何よりもお互いに知己となったことにより、今後の「建築人生」に大いに役立つだろうと思う。我々教員にとってもとても興味深く、楽しい時間であった。また機会があれば、合同ゼミをやりたいですな。


 写真は岸田先生に撮っていただいた。どうもありがとう。


雪のあさ (2011年2月11日)

 朝から雪が降り出した。外の気温は1度だった。M1の平林くん達が実験すると言うので、大学に出勤した。南大沢ではちょうど雪が積もり始めたところである。さらさらとした雪が降り続いているので、きょうは積もりそうな気がする(やだなー)。


 この写真は、私が居る9号館の7階から撮ったもので、中央奥にグラウンド、その左に学生用の寄宿舎群がある。左下のタッパの高い建物が我々の実験している大型実験棟である。薄っぺらなスレート壁の粗末な建屋で、空調機器などは全くない。鉄筋コンクリート製の分厚い反力壁と反力床によって囲まれているため、冷蔵庫の中にいるようでとても寒い。わずかに二台のストーブで暖を取りながらの実験である。

 あまり雪が激しくなると京王線が止まってしまうので、ほどほどで降り止んでくれることを祈っている。


英語教育を考える 2 (2011年2月10日)

 このページで何度か書いてきた「英語教育を考える」シリーズである。昨年に書いたが、後期の大学院の授業で英文教科書の輪読を行った。テキストはT. Paulay and M.J.N Priestleyの『Seismic Design of Reinforced Concrete and Masonry Buildings』(鉄筋コンクリート造および組石造の建物の耐震設計)を用いた。学生さんに一文一文全訳してもらうのだが、例によってなんとなーくとか感覚で、といった訳し方が多い。それは英語の文法をちゃんと理解していないために起こる。構文を把握できないことなど日常茶飯事といったところである。

 数年前のことだが、この授業を履修した大学院生のなかに、アメリカかどこかから帰国したというひとがいた。英語を読ませると、なかなか流暢に発音する。さすがであった。ところがいざ日本語に訳してもらうと、もう滅茶苦茶なのである。それではこの文章の構文を説明しろと言うと、帰国子女なので分かりません、と言うではないか。はあ〜?ってな感じである。そこで私はアメリカ(あるいは英語圏の某国)では英語の文法などあまり教えないことを初めて知った。

 最近、『英語と日本語のあいだ』(菅原克也著、講談社現代新書、2011年1月)という本を読んだがそのなかに、日本人が英文を理解しようとして分からないことをネイティブ(英語を母語として使用するひと)に尋ねても、明瞭な説明が返ってこないことが多い、ということが書かれていた。なるほど、そうかもしれない。翻って我々が日本語を習い始めた頃のことを思い出すとき、日本語の文法を教わった記憶はない(私が忘れただけかも?皆さん、いかがですか)。だから英語のネイティブが文法など意識せずに英文を理解するのも案外普通のことなのかもしれない。

 私は常々英語教育には、従来日本で行われて来た文法と英文読解とがやはり必要であると考えている。そしてこの本の筆者も図らずも私と同意見であった。ただ、著者の菅原先生は私と違って長年大学で英語を教えているプロの教員であるので、そのようなひとが言うことの重みは格別だと思う。菅原先生の危機意識の原点は、学習指導要領の改定によって2013年度から高校の英語の授業は英語で行う、ということにある。この改定には、いくら英文法を知っていても英語によるコミュニケーションが出来なければこれからの国際化社会では役に立たない、という意見が色濃く反映されている。

 しかし英会話重視といっても、相手が言っていることを聞き取れないときには、どうしても紙(とか画面とか)に書いた英語を見ることになる。そのときに英文法を知らなければ、その文章の意味するところが分からないではないか。また、仕事だと契約書、研究だと論文、という具合に、相手にしなければならない英語の文書は必ず存在する。そのときに文法を知らなければ厳密な意味を知ることができずに、その結果として不利益を蒙ったり、間違った理解をすることになる。結局、損をするのは自分(あなた)である。

 こんなことを言うと、英語の文章は日本語などに変換せずに英語のままに理解すればよいのだ、というひとが必ずいる。そのように言えるほどの英語力があれば羨ましい限りだが、残念ながら私のように日本で暮らし滅多に英語を使わないひとにとっては、英語を一度日本語に置き換えてからその意味するところを理解する、というプロセスを踏まざるを得ない。そしてそれに当てはまるのが大多数の日本人なのである。

 菅原先生も述べているように、コミュニケーション英語(英会話)そのものは大いに推進すればよい。しかしそれに気を取られる余り、英文法とか英文読解とかをおろそかにするのは非常にまずいやり方である、と言っているのだ。日本語とは構造もモノの考え方も大いに異なる英語を理解するには、日本語を媒介とするのが効率的なやり方である。そしてそのためには、文法によって厳密に英文を理解することが結局は有効なのだ。この新しい学習指導要領は、どう見ても近視眼的、短絡的としか言いようがない。


山川大蔵の著書 (2011年2月9日)

 昨日の続きである。私の手もとに山川大蔵が著した『京都守護職始末』という本がある。明治44年(1911)発行とあるので、なんと百年前の著作である。この本は、ひょんなことから私に譲られた。表紙はこんな感じで、表題が金文字になっている。


 中を見ると、会津藩祖の保科正之が作ったという「会津家訓」を明治維新の頃の藩主・松平容保が写したものとおもわれる書の写真が載っている。その左端に、この本の著者である山川浩(男爵という肩書きがついている)の写真が小さく掲載されていた。

 家訓(かきん)の冒頭には「大君の義、一心大切に存ずべし,,,」とあり、自分の子孫に対して徳川将軍に二つとない忠誠を誓うことを求めている。幕末の藩主・松平容保はこの家訓に忠実に従ったのである。最後の将軍・徳川慶喜がそのような忠誠の対象として相応しかったかどうかは、のちの歴史が証明した通りである。松平容保の赤心は残念ながら慶喜には通じなかったのである。


敗れし者の悲哀 (2011年2月8日)

 明治維新の際の戊辰戦争で破れた会津藩・庄内藩がプロシアに援助を求めたという書簡がドイツで発見された。そのような記録は日本国内には全く残されていなかったらしく、よく言われるように敗者の歴史は闇に葬られたのであろう。同時に武器売買のエージェント(いわゆる「死の商人」)であったシュネル兄弟が何者であったか、ということも解明されたらしい。

 薩長両藩が岩倉具視の策謀によって錦の御旗を奉じ、それによって唐突に官軍となったため、それに対抗した会津藩をはじめとする東北諸藩はあっという間に賊軍となってしまった。特に長州藩は逆恨みにも等しい私怨を会津藩に対して持ち続け、そのことが戊辰戦争という日本人同士の戦いを一層凄惨なものにした。会津藩では梶原平馬、山川大蔵(維新後に帝国陸軍中佐となり西南の役に従軍した。東京帝大総長で物理学者だった山川健次郎の兄)、佐川官兵衛(維新後に明治新政府の警部となり、西南の役で戦死した)といった家老や若年寄が活躍して、シュネルの運んで来た武器弾薬を新潟港から積み出して戦った。

 しかし雪だるま式に膨らんだ官軍の勢いには抗しきれず、ついに会津・鶴が岡城は開城の憂き目を見た。その後も会津藩は苦難の歴史を歩んだことから、未だに長州と会津との和解は成っていない。このあたりの「敗者の歴史」は早乙女貢や中村彰彦の小説に詳しく描かれている。会津藩を盟主とする奥羽越列藩同盟にのちに加わった長岡藩の家老・河井継之介は、司馬遼太郎の小説『峠』で一般にも知られるようになった。河井は日本に初めて機関銃(ガットリング砲)を輸入したことでも知られ、維新に際して当初は長岡藩を薩長にも会津にも与しない独立王国にしようとしたのだが、長岡の地に悲哀を味わわせたということで今なお評価の分かれる人らしい。

 いずれにせよ明治維新で賊となり敗れたひと達の苦難はやがて忘れ去られ、日本の近代化の夜明けといわれる明治維新の功罪のうち、日のあたる功績のみが歴史となって残ったのである。しかし考えてみれば歴史とは、そもそも時の権力者が都合の良いように編纂するのが常であり、その陰となって涙した民衆はいつの世にも多数存在したはずである。これを思うと、負けるとはつくづく悲しいものだと感じるのである。


卒論発表会2011 (2011年2月7日)

 今、階段型の大教室で卒論発表会が開かれています。2010年度には卒業設計を選択した学生が40名近くいましたので、今日の発表会には二十数名が参加します。それでも朝から始めて、午後4時前までかかる予定です。ちなみに建築都市コースでは、卒業設計を履修するひとは年末に卒論を終えるか、卒論は書かずに卒業設計のみを履修するかの二コースがあります。

 今日の発表を聞いていて、皆さん年末の中間発表を既に経験していることもあってか、とても分かり易い発表が続いています。その努力のあとが忍ばれますね。でも、やはりパワーポイントに代表されるように発表用コンピュータ・ツールの進歩によるところが大きいと思います。しかしその反面、これらのプレゼンツールをいかに使いこなすか、ということに振り回されて、いたずらにゴテゴテとしたシートを作ってしまう、ということもありそうです。その辺りのバランスにも気を配って欲しいですね。

 我が社の発表はこれからです。皆さん、平常心で臨んで下さい(って今、ここに書いても分かりっこないですけど)。発表の場に立って上がってしまって頭が真っ白になりそうだったら、私はいつも「聴衆はみんなカボチャだと思え」と言っています。そう思うとトタンに気が楽になりますよ。

追伸; 我が社の三人とも、練習の介あってか立派な発表でした。質疑応答も的確にこなして、よかったです。ご苦労様でした。


卒業設計の採点 (2011年2月4日)

 今日の午前中は卒業設計のポスター発表が9階の製図室であった。四年生諸君、ご苦労様でした。で、我々教員は彼らの作品を採点して回った。今年は例年にも増して卒業設計の履修者が多くて38名もいたため、採点するのもひと苦労であった。朝9時から始めて飲まず食わずでトイレにも行かずに、ひとりひとりの学生さんの説明を聞きながら採点して、終わったのは午後1時過ぎである。もうぐったり、である。他の先生方も一様に疲れきった、生気のない顔をしていた。

 まあ、卒業設計した学生さんのほうの苦労・疲労を思えば、採点する側の苦労など大したことはないだろう。しかしいつも思うのだが、図面を見ただけでは何が何だか分からず、説明と模型とでやっと内容がわかる、というプレゼンテーションはいかがなものだろうか。また、断面図にスラブとか梁形などの建築的な実際の断面を描かずに、そこだけベターっと塗りつぶすのは非常に良くない。建築のプロになろうというのだから、プロの実見に耐えられる図面を描いて欲しいと強く思う。


思い出のみち (2011年2月3日)

 先日書いたような経緯から、西川孝夫先生にお会いするために渋谷区神宮前にある免震構造協会の事務所を訪ねた。地下鉄銀座線の外苑前駅で下車して、徒歩十分くらいであるが、懐かしい土地なのでゆっくりと歩いて行った。ここは三十年以上前に私が通った都立A高校があるところなのだ。

 外苑前の駅から地上に出て百メートルくらいのところに「猪瀬酒店」があった。私が高校生の頃には部活のあとなどにそこでジュースを飲んだりした。その当時は木造二階建てくらいの質素な家屋だったのに、今日来てみるとなんと立派なビルになっているではないか(下の写真左)。看板もINOSEとローマ字になっている。しかし私はその昔のことを知っているので、どうにも笑ってしまった(猪瀬さん、すいません)。


  正面のヒョロッとしたビルが猪瀬酒店         槙文彦先生の「テピア」

 「猪瀬酒店」をこえて少し行くと秩父宮ラグビー場があって、その隣には当時は「東京ボーリングセンター」(TBCと略して呼んでいた)があった。私はTBCにはあまり出入りしなかったが、友人の中には当時流行り始めたテレビ・ゲーム(インベーダー・ゲームのこと)にハマった奴もいたな。通りに面して「モンパン」という喫茶店?があって、そこには放課後とか文化祭の準備のあととかによく行ったものである。しかしTBCも今は取り壊されて、小綺麗な低層ビルになっていた(上の写真右)。調べたらこれは槙文彦先生設計の「テピア」という建物だった。


「さみどりにおう 神宮の もりにそびゆる学び舎よ」 この小道の奥にかつては正門があった

 「東京ボーリングセンター」の向かい側にわが母校はあった。しかし三階建てくらいだった校舎も取り壊されて、RC中層の立派な建物に代わっていた。当時は大通りから細い道に入って、部室として使われていた二階建てのバラックの脇を通って学校にアクセスしたが、今は大通りに面してでーんと正門が構えられている(写真)。うわー、随分と変わったものだ。このあいだ出前講義に行った都立新宿高校も立派な校舎だったが、都立高校も立派になったものである。

 私が高校生の頃には校舎の裏は墓地だったのだが、今日敷地の裏を歩いた範囲では見当たらなかったな。どうなったのだろうか。

 ちなみに免震構造協会の入っている「JIA館」は「キラー通り」に面して建っているが、その向かい側には確かマリオ・ボッタの設計だったと思うが、ちょっと変わったRCの建物が建っている(下の写真左)。すいません、違っていました。調べたらこれは竹山聖さんの「テラッツァ」という建物でした。竹山さんは本学の建築家・小林克弘先生の同級生で、アモルフという設計集団を以前に組んでいた方です。


キラー通りを見たところ/左側の打放しがテラッツァ       明治公園

 さて西川先生との打ち合わせが終わったあと、今度はJR千駄ヶ谷駅に向かって歩いて行った。高校生の頃にはJR大久保駅から総武線各駅停車に乗って千駄ヶ谷駅で下車して登校していたのである。途中に明治公園がある(写真)。ここでは学校の校庭が使えないときによく部活の練習をしたものである。また、メイ・デーの集会が毎年開かれていたが今はどうなのだろうか。

 そのとなりの日本青年館の向かいに旧帝国陸軍・近衛聯隊の跡地があって、当時はコンクリートで敷き固められた無粋な広場だった記憶がある。ところが今日行くと、こちらも小ぎれいなポケット・パークになっていた(下の写真左)。いやあ三十年も経つと私だけでなく、インフラストラクチュアも随分と変貌を遂げるものなんですね(当たり前か)。昔もあったラーメン屋の「ホープ軒」も立派なビルになっていた(下の写真右)。相変わらずはやっているようでよかったね。


 近衛聯隊跡地の小さな公園            ラーメン「ホープ軒」

正義のはなし (2011年2月2日)

 ここのところ、正義という言葉をよく聞く。アメリカの著名な教授による、正義に関する講義が日本でも話題になっているという。でもなぜか、私は違和感を抱いている。正義というものを深く思索することはもちろん必要で、とことん考えてみることを大切だとは思う。

 しかし正義というものは、そもそも人間が社会を形成して集団として生きていくための規定を為す根本だと思う。すなわちその根本が存在しなければ、人間が人間らしく生活することは不可能になるのである。そのような根本原則について、ことさら左様に声高に議論することを、現代の多くのひとが望んでいるということは、それだけ社会通念としての正義が揺らいでいるということを物語ってはいないだろうか。

 そのような社会状況が好ましくないのは言うまでもない。不安定で将来を見通すことの難しい現代において正義というものを再確認することによって、自分たちの立つ位置に意義を見出したいという願望がそこにはある。

 突き詰めていけば、正義の概念はひとりひとりで異なるだろう。だが、個人が自分だけの正義を好き勝手に主張し始めれば、人間関係に軋轢が生じてついには社会の崩壊は避けられない。正義とは結局相対的なもので、社会の構成員によって最大公約数的に了解されるものではないか。例えば「殺すなかれ」というのは絶対的な正義のようにも思えるが、江戸時代の日本では「敵討ち」のように社会的に許容される殺人があった。すなわち、多くの人々が「これは正義だよね」と認め合う事象が、時代によっても社会によっても変化していたと考えられる。

 そうだとすれば現代は、新しい正義を模索してそれを再確立しようとする転換点に位置しているのかも知れない。冒頭に述べた私の違和感の根源は、自分探しではないが「正義探し」をしなければならない、不安定で迷走する社会情勢にあるような気がする。


新年会2011 (2011年2月1日)

 昨日、かろうじて一月ちゅうに研究室の新年会を開きました。昨年末は忙しくて忘年会を開くこと自体を忘れてしまい、一月になってからもJCI論文とか卒論・修論の梗概とか、実験の加力とかで時間がとれず、やっとけじめの新年会?を開くことができました。場所はまた、南大沢のお好み焼き屋でした。学生諸君はお好み焼きが好きみたいですな。でも、私は自分が作るお好み焼きのほうが美味しいぜ、と内心では思っているんですがね。


 でも卒論提出間際ということもあって、卒論生の石木くんは卒論を書きたいということで(学生のかがみですな!)参加しませんでした。なんだか悪いことをしてしまったようです。また鈴木清久くんはインフルエンザで休みでした。そんな訳で卒論生は落合くんだけでしたが、その貫禄はもう大学院生でしたな。

 まだまだ実験も続きますし、これから卒論・修論の発表もありますので、ひとときの息抜きになったのであれば幸いです。では、頑張って下さい。


電話のはなし2 (2011年1月31日)

 私が研究室の電話をコネクタからはずしていることは、ちょうど二年前のこのページ(2009年02月17日)に書いた。そのことによる実害はないと思っており、くだらない電話によって気分を害したり思索を中断されたり、ということを防げるのでメリットの方がはるかに大きい。

 ところが先日、大ボスの西川孝夫先生(本学名誉教授で、かつて西川教授の主宰する地震工学講座が存在したときには私はそこの助教授だった)が「いくら電話をかけても北山が捕まらない、怪しからん、あいつはそんな大物か」と言って怒っている、ということを山村一繁さん(西川研の元助手)から伝え聞いて、こりゃ困ったわいという経験をした。

 こちらとしてはメールで連絡してくれればいいのに、とは思うのだが、西川先生にとってはメールを打つよりは口頭で話した方がはるかに楽だろうから、かくなる仕儀と相成ったようだ。それに年輩の方には、メールよりも口頭で話す方がフォーマルで礼儀正しいとお考えになるひとが多いみたいである。

 そこでこりゃまずい、という訳で、私のほうから西川先生にお電話した。お話ししてみて、西川先生は昨年末から私に電話し続けて下さったことが分かった。なんと足掛け2年に渡って電話して下さったことになる(あちゃ〜)。「何度も電話したんですがねえ」と電話口で語っておられる。ありゃりゃ、これはさらにまずい!相当に気分を害しておいでになる。そこで恐る恐る「いえいえ、私は小物でして、毎日研究室には出勤しているのですが、電話に出ないだけなのです」と答えると、「なに? 北山は電話にでんは?」なんて、シャレになっちゃいましたな。

 こうしてひとしきり弁解とか言い訳とかをしたのだが、電話のコネクタをぶち切っているという私の行為を西川先生が認めて下さったかどうかは定かではない。西川先生からは、免震協会(西川先生が会長を務めておいでになる)に設置するある委員会の委員長をやってくれという依頼であった。私は免震構造なんて研究してないし、正直言ってよく知らないんですが、それでもいいんですか、と言うと、それでもよいとおっしゃるので、このような経緯だったこともあって謹んでお引き受けした。

 電話線を切っていて困ったのは、現在までにこれくらいである。もっとも西川先生のことだから、がははっと笑ってお許しくださったことだと思います。


ライオンのうた Young Bloods讃歌 (2011年1月28日)

 NHKテレビの『SONGS』で佐野元春をやっていた。デビュー三十周年だそうだ。セルフカバー・アルバム『月と専制君主』(すごいタイトルだな)を今月に出したそうで、始めに『Young Bloods』が演奏された。この曲は私の記憶では1985年の世界青年年のときのテーマ・ソングに選定されていて、NHKでよく放送された。だが聞き慣れたアップ・テンポのイントロではなくて、何となく気だるいボサノヴァ風にアレンジが代わっていた。まあ歌うひとが五十代になったのだから、歌い方やアレンジが代わってもある意味当然かもしれない。二十代の頃のような飛び跳ね、弾けたパフォーマンスはさすがにもう無理なんだろうな。

 鋼鉄(はがね)のようなWisdom
 輝きつづけるFreedom
 願いを込めて ここに分け合いたい
 Let's stay together (佐野元春『Young Bloods』より)

 私が佐野元春を知ったのは、大瀧詠一プロデュースのアルバム『Niagara Triangle Vol.2』(1982年だったか)である。佐野くんが歌っていたのは『彼女はデリケート』、『マンハッタンブリッヂにたたずんで』とか『週末の恋人たち』などである。これらの曲で彼は都会で暮らす若者の孤独とか憂鬱とか、あるいはささやかな幸せなどを歌っていて、当時大学生だった私は大いに共感を覚えたものである。

 そのアルバムで彼はMoto “Lion” Sanoとクレジットに書いていた。その当時、彼はライオンと自称していたわけだが、昨日久し振りにテレビで見た佐野くんは、相変わらずたてがみのような髪をしていた(ずいぶん白くなっていたが)。そして三十年前と変わらずにライオンのように、ただ少しばかりもの静かにシャウトしたのだった。さすがだな、ロックンロールのちからだぜ。

 さて冒頭の『Young Bloods』だが、私は二十数年前のオリジナル・ヴァージョンのほうが好きである。ただ、彼のデビュー曲の『アンジェリーナ』をリアレンジしたスロー・ヴァージョンは全く別の曲のように聞こえるので、五十代の『Young Bloods』も聞き込むうちにそれなりに味わえるようになるかもしれない。多分彼は死ぬまで曲を作って歌い続けてくれるだろうし、私も死ぬまで彼の曲を聴き続けるだろう。そして彼の『ガラスのジェネレーション』に唄われている「つまらない大人にはなりたくない」という歌詞に共鳴する私は、これを実践するように常にとんがっていたいものである。


梅の花 (2011年1月27日)

 昨日は午前中に後期最後の授業を行って、あわただしく大学を出た。そして久し振りに文教施設協会の耐震判定委員会に出席した。岡田恒男先生が委員長、壁谷澤寿海先生が副委員長の会議である。ここの協会は文部科学省の外郭団体(会長は元文部大臣・東大総長の有馬さん)なので、学校建物の耐震診断・補強計画の審査依頼は日本全国からやって来る。ただ最近は耐震診断業務のほうはかなり進んできて、耐震補強のほうに重心が移動したらしい。耐震補強には相当な予算を必要とするため、このような審査物件の数は以前と較べると少なくなっているそうだ(岡田先生がおっしゃっていた)。

 で、この日は壁先生と私が担当した、秩父市の学校校舎の耐震補強計画を説明して委員会の了解を得た。このお墨付きによって、めでたく国庫補助金を得て当該建物の耐震補強工事を実施することが可能になるのだ。ちなみにこの制度は、1995年の兵庫県南部地震後に施行された耐震改修促進法という法律に基づいている。

 さて、会議が終わって駅に向かう道すがら坂本町公園の脇を通ったとき、壁先生が「あっ、梅の花が咲いている」とおっしゃった。見上げると、梅の花がちらほらとほころび始めて紅い可憐な花弁がのぞいていた。今年の冬はここ数年よりは寒いなあと思っていたのだが、それでも季節は確実に進んで、春はもうそこまで来ていることを実感したのである。


理性と神秘 (2011年1月25日)

 高橋昌一郎さんの『東大生の論理 --「理性」をめぐる教室』(ちくま新書、2010年12月)を読んだ。この中に、バートランド・ラッセルによる「理性主義」と「神秘主義」とが紹介されている。全てを「理性」によって解明しようとする立場と、理性を超えた何らかの「神秘」を認める立場、ということだそうだ。

 普通に考えれば自然科学だろうと人文科学だろうと、およそ科学者と呼ばれるひとはおしなべて理性主義者であるはずだ。墓場で見かけるという人魂(ひとだま)など存在するはずはないし、イギリスの麦畑で発見されたミステリー・サークルだってある条件のもとで自然現象によって作られたものだと推論する。そのように考えて、あらゆるものの原因を解明するのが科学者たるものの務めであるようにも思う。

 ところがバリバリの科学者のように思えたマイクル・クライトン(SF作家で『ジュラシック・パーク』や『ターミナル・マン』を執筆したひと)はその著『トラヴェルズ --旅、心の軌跡』(早川書房、2000年11月)のなかで、さまざまな超常現象とか心霊現象というものを紹介し、それらは自然の摂理を超えたまさに神秘的なものであると彼自身が考えていることを表明した。現代の科学技術の粋を集めたようなSFを書いていたひとが、実はその反面で神秘主義者でもあったことを知って、私は相当程度に驚いた。

 しかしまあよく考えれば、現代の科学で解明できていないことなど日常にごろごろ転がっているのだから、先端的な科学者が神秘主義を内面では奉じていてもそんなにおかしくはないかも知れない。むしろ自然に対して謙虚であり畏れを抱いているひとほど、そのような性向にあるとも考えられる。クライトンも、人間が理解できることなんてたかが知れてるってことを言いたかったのかもしれない。

 私が常々不思議に思っているのは、例えば20世紀に発明された電子コンピュータは何故20世紀に発明されねばならなかったのか、千年前にはなぜ発明されなかったのか、という類いの疑問である。何が言いたいのかというと、人間の脳とか理性とか知性は、千年前のひとと現代人のそれとはそんなにレベルが違っていたのだろうか、という問いである。人類が文明といわれるものを興してから五千年以上の歴史があるだろうが、そのあいだに人間は種として進化したのだろうか。多分、そんなことはないだろう。古代ギリシアのひと達が残した哲学書とか数学書を見れば分かることで、彼らの思考・思索は現代人に劣るものではない。

 電子コンピュータを発明するためには科学技術の発展が不可欠だった、そのためには延々と続く人類の英知の蓄積が必要だったのだ、と言われるかもしれない。だが、それだったら千年前でも、それ以前に千年も二千年もの営々とした知識の集積があったはずである。なに変なこと言ってんだと思われるかもしれないが、こんなことを考えると高度に発達した現代というものが現出したこと自体、私には神秘に思えてくる。

 『猿の惑星』という映画のラスト・シーンでは、猿の支配する惑星に漂着したチャールトン・ヘストンが地中に埋もれた自由の女神像を発見して、そこが地球であったことを知って驚愕する。彼は実はタイム・トラベルして遥か未来の地球に辿り着いていたのだ。これと同じことが現実の地球で起きていないとも限らない。もちろん猿が支配していたというのではなくて、我々よりも高度の文明がはるか以前の人類によって築かれたが何らかの原因によって滅亡した、というシナリオである(それを築いたのが宇宙人だった、なんてことをいうと『2001年宇宙の旅』[アーサー・C・クラーク]になっちまうな)。こんなこと考えるなんて「理性的」じゃないですかね、わたし。


人間の成長 (2011年1月24日)

 こどもの成長を見ていると本当に不思議である。最近ではちょっと難しい言葉も話すようになり、ついにお金というものの意味が分かり始めたらしく、「お金ちょーだい」を連発するようになった。お手伝いするから、その見返りとしてお金をくれ、というのである。でもまだお金の単位を一個、二個と言っているので安心だが。

 言葉を話すようになる過程を振り返ってみると、明らかに両親の話す言葉を聞いて、それを模倣するところから始まる。しかし日本語の文法を教えた訳でもないのに、今ではかなり難しい構文もそれなりに話せるようになっている。テレビの影響は大きいだろうが、それでもいったいどこで覚えたんだというようなことを言って、ビックリさせるのだ。

 人間の脳が言葉を修得して、聞いたことを理解し自分の考えていることや欲求を話せるようになるメカニズムはいったいどのようなものなのだろうか。この問題は多分最新の科学でも解明されていないと思う。本学の芳村学先生も昔同じようなことを考えたらしく、「僕はねえ、人間が二足歩行するようになる発達の過程に興味があって、うちのこどもをじっくり観察したことがあってね」とおっしゃっていた。そのときは私には子供がいなかったため、そんなもんかと思ったが、確かにハイハイから伝い歩きができるようになって、やがて手放しで歩けるようになるのを見ると、自然の神秘としか思えなかった。脳が発達したんでしょ、と言ってしまえばそれでお終いではあるが。

 冬になると去年は黙ってストーブの前に坐っていたが、今年は「寒い、寒い」と言いながらコタツに入って暖まっている。寒いという感覚は多分、昨年くらいから感じるようになったのだろうが、暑いという言葉は聞いた記憶がないので、まだ夏の暑さは感じないのだろうか。子供の新陳代謝は大人よりも活発だろうから、それにともなって温熱感覚も大人とは異なると思うが、その発達の過程についてもさっぱり分からない。

 そんな訳で、日々のこどもの成長を見ているととても驚くことが多く、また、何でそんなBehaviorをするのか理解できないことも多々あるので、我が家では宇宙人と呼んでいるのだ。「なんであんなことするんだろうね」と言うと、「だって宇宙人だからしょうがないじゃない」というふうに使っている。


キラキラする曲 (2011年1月21日 その2)

 そろそろ春が待ち遠しくなった訳でもないが、昼休みにストラヴィンスキーの『春の祭典』を聞いている(今日は卒論・修論の梗概の締切日で、午後1時の提出ぎりぎりまで学生さんの梗概をチェックしていたので、もの凄く疲れた)。かれの曲は『ペトルーシュカ』なんかもそうだが、とてもキラキラときらめいている。逆に言えば騒々しい、とも言えるが。レスピーギの交響詩である『ローマ三部作』と相通じるキラめかしさである。

 ただ『ローマ』のほうは明るい陽光に満ちた地中海の輝きをすぐに連想できるが、ストラヴィンスキーはロシアなのでどちらかという薄暗くて重々しい感じを持つ。逆にそのような風土だからこそ、輝きに満ちた春を待ち望んでこのような曲になったのかもしれない。


うちの大学って,,, (2011年1月21日)

 ここで書いた本を読んでいて、我が大学のミッション(社会的な役割)って何だろうと考えてみた。昔は学生数も少なくて、言い方は悪いかもしれないがミニ東大みたいな感じであった。だが都立の大学の統合によって学生数が1.5倍以上増えた現在、学生さんの平均的な学力は世の多くの大学の大勢通りに低下したことは否めない。

 それでも首都大学東京という名称の知名度は置いとくとして、大学のレベルとしては一流の中位くらいには位置しているのではないだろうか(親の僻目かもしれないが)。二流じゃないだろう、とは思うので。でもそれは学部やコースによって相当事情が異なるだろうから、とりあえずは自分の所属する建築系ということにしておこう。

 さてそれでは、わが建築都市コースは研究大学なのか、それともリベラルアーツを主体とした教養大学なのか。正直なところ、これにはなかなか答えられないですな。私の自意識としては研究大学であって欲しいと思っている。実際我が社では、卒論や修論では独創的で先端的であると自負した研究に学生諸君は取り組んでいる。博士課程の学生さんも数人だが在籍したことがある。

 それならやはり研究主体の大学でしょうと言いたいのだが、それは先端研究者であり続けたいと願っている私が願望として思っていることで、現在はそれに学生さんが何とかついて来てくれているようだが、学部の学生諸君がどう思っているかはまた別であろう。そして彼らのBehaviorを見ていると専門的な研究を率先してガンガンやりたいと思っているようには、残念ながら思えないのである。そこに私という一教員と学生諸君とのズレとかミス・マッチとかがあるような気がする。

 このことが将来、抜き差しのならない問題として顕在化することを私は秘かに恐れている。否、本当は私が現実を直視せずに、こうあって欲しいと(信仰のように)思い込んでいるだけかも知れない。そうだとすれば私の目を曇らせている、目の前の霧が晴れるのはどのようなときだろうか。そしてそのような時は訪れるのだろうか。

 しかしその一方で、これだけ複雑になった社会を生きてゆくためには、教養が非常に重要であることも大いに理解できる。だが、だからと言って教養主体の大学にしましょう、というのもちょっとどうかな。結局、専門の研究を主体としたいが、必要な教養も身につけて欲しい、という欲張りなミッションになってしまいそうだ。そのような「欲張り」は今後の社会情勢から言えば、多くの大学において不可能になるだろう(というか、既に不可能になっている)。わが建築都市コースでそれが可能かどうかは今は何とも言えない。


卒論生の配属 (2011年1月20日)

 トップページに書いたように、来年度の卒論生3名が内定した。今年は例年にも増して構造系の人気がなかったようだが、そのような向かい風のなかで三人の学生さんが我が社を志望してくれたことは本当にありがたい。これも、ここに書いたように日頃の鍛錬(?)の賜物だろう。あるいはこのHPでいろいろな情報を発信し始めたことが、功を奏したのかもしれない。もっとも、どれくらいの学生さんがこのページを見ているかは定かではないが,,,。


今日の授業 (2011年1月19日 その2)

 今日の2限の鉄筋コンクリート構造は学期末ということもあって、ギャラリーが多かった。講義の後に授業評価をやったので、そのときに撮った写真です。十数人、出席していた。いつもこれくらいだと、張り合いがあるんだがなあ。


国語の力 (2011年1月19日)

 今、『大学破綻』(諸星裕著、角川書店、2010年10月)という本を読んでいる(この本は電車内での読書用)。そこに、大学で国語を教えないのは日本だけ、と書かれていた。アメリカや英国の大学ではちゃんと英語を教えていて、それが出来ない学生はWritingやReadingを専門とする教員のところへ行ってトレーニングするそうだ(私は不覚にも知りませんでした)。うーん、やはり大学の歴史が長い国は違いますな。

 私も常々学生さんが正しい日本語の文章を書けないことを憂いており、そのような国語力向上のための教育が必要であることを痛感している。しかしそれは高校までの国語の勉強では、どうやら鍛えられないものらしい。受験勉強のための国語に成ってしまっているのだ。他人の言っていることを的確に把握して、自分の考えをちゃんと話すことができる、そしてそれを文書にして簡潔明瞭に表現できる、という「実践国語」は残念ながらどこでも教えていないようだ。

 しかしそのような授業を大学において体系的に構築して提供することは、すぐにはできないし非常に困難でもある。それは大学のカリキュラム全体に波及するし、そのための人的資源を配分しなければならない。ただでさえ予算不足なので、結局のところ大学再編にまで踏み込まざるを得ないことになる。限られた資源を選択的に集中する、ということだ。ただ、それを待っていたらこちらが定年退職になってしまいそうなので、出来ることからやるしかないだろう。

 じゃあ、どうするか。自分の担当する講義でミニ・レポートを書かせるとか、卒論や修論に関する梗概・発表論文を丁寧に添削するとか、であろう。それらは今まで自分なりに力を尽くしてきたつもりである。でも私は「実践国語」の専門家ではないので、適切な指導ができているかどうかはあまり自信がない。私のやり方は私固有の経験に根ざした、きわめて個人的なものかも知れないからだ。

 本当のことを言えば、学生さんにたくさん本を読んで欲しい。いろいろな主張を読むことによって、生きていく上で必要な国語力を自分自身で身に付けてくれると良い。そうすれば教員たる私が苦労することもないだろう、という虫のよい話かもしれない。それができない学生さんが多いので、これだけ問題になっているのだろう。でも、大学に入ったらこの本を読むべし、みたいな推薦図書を全教員が一冊ずつあげて紹介するだけで、知識を吸収したがっている(?)若い頭脳には助けになるのではなかろうか。

 と、ここまで書いてきて、来年度の我が社のゼミで例えば課題図書を選定して読ませたあとにいろいろ議論するとか、課題を与えてレポートを書かせて添削するとか、やってみようかなと思い至った。いわば「生き抜くための国語力養成ゼミ」である。幸い(?)私は来年度は授業をしなくてよい(サバティカルが天から降ってきました/これについてはいずれまた書きます)ので、こういった新しい試みに挑戦するよい機会かもしれない。これからしばらく考えてみよう。


『土』読書中 (2011年1月18日)

 昨日は16度めの「阪神大震災の日」だった。あの時のことを思い出すと、ほんとに悲しくなってくる。その当時私も少しばかり被害調査をしたり、ボランティア活動をしたりした。このときのことはこちらに書いておいた。現在我が社のM2の白井遼くんが、この地震で震度7を経験したが生き残ったRC中層建物について、耐震診断や地震応答解析をやってその建物の耐震性能を調べるという研究を行っている。16年が過ぎても、この地震から学ぶことや調べることはまだまだある、ということだろう。

 さて、このページでも何度か触れた長塚節の小説『土』だが、やっと取りかかって八十ページくらい読み進んだ。で、その感想であるが、地方の貧しい小作農の日常を描いているせいだろうが、全体としては薄暗いトーンで覆われている。残念ながら、読んでいて楽しいという類いの小説ではないな(長塚さん、すいません)。土にしがみついて生きるしかなかった当時の貧農の厳しさとか悲哀とかがよく分かる。

 この小説は当時、朝日新聞に連載されたのだが、新聞の読者も同様の感想を持ったことだろう。都会のひとにとっては地方の農村の日々とはこんなものかといった新鮮な驚きがあったかもしれないが、大多数の地方人にとっては面白くもなんともなかっただろう(だって、自分たちの苦しい日常が再生産されているだけなんだから)。藤沢周平の小説『白き瓶』に書かれていたように、夏目漱石の推薦があったとは言え、よく最後まで連載できたものだと思った。しかしその反面、こんな小説を書いた長塚節というひとのまじめさやひたむきさには少なからず感心もするのであった。


研究室選び2011 (2011年1月17日)

 来年度の卒論の研究室選びだが、ことしは私のところに話を聞きに来た学生さんの数が昨年の半分程度だった。昨年が特に多かったということかも知れないが、その理由は考えても分からないので、考えないことにする。

 例によって芳村学先生が「憂鬱な季節がまたやって来たな」とおっしゃっていたが、ここ数年は私はあまり気にならなくなっている。ワクワクすることは勿論ないが、憂鬱でもないということだ。三十代の若い頃には、こんなに一所懸命に授業もやって学生さんの面倒も見ている(つもり)なのに、どうして私の研究室にひとが来ないんだ、と苛立ち悩んだこともあった。でも最近は(年をとったせいかも知れないが)来たいひとはくればいいし、そうでないひとは来なくてよいというような、ある意味達観というか諦観というか、そういう気分に到達した。

 こういう気分になったのは、ここ数年は幸いにも優秀な学生諸君が私の研究室を志望してくれた、ということによるかもしれない。彼らが北山研のドアを叩いたのは、極言すれば運命だったとしか私には思えない。私があれこれ言ったからここに来た、ということはまずないだろう。すなわち私という人間がどうあろうと、来る人はくる、ということなのだ。何だか禅問答じみてきたが、私自身のことを思い出してみても(このページによく書いているように)、授業すら受けたことがない小谷先生の研究室に入室したのは、運命だったとしか言いようがない。なんだかだんだん、神がかってきたな。

 結局、果報は寝て待て、待てば海路の日和あり、ということだろう。あれこれ思い悩んでも自分の力ではどうすることもできないのだ。もちろんそれまでに自分の出来ることは全力をかけて努力している、ということは言うまでもないが。さて、今年はどんな学生さんが来るだろうか。


ひとが残すもの (2011年1月14日)

 死して虎は皮を残し、ひとは名を残す、と言う。そのことを実感した出来事があった。ちょっと迂遠だが、私の祖父の話をしよう。母方の祖父は東京教育大学(現在は筑波大学に改組されている)で教鞭をとった地理学者であった。祖父は8年間ほど殆ど無給の副手を務めたが、直接の上司であった助教授は人間的に難のあるひとだったようで(こんな風に言われないように気をつけたいものですな)、ファカルティ・スタッフになるまで大変に苦労したという。それを思えば、私などは先輩・上司に非常に恵まれたことを感謝しなければなるまい。

 地理学教室で研究室を構えるようになってからは、多くの弟子を育てた。何しろ教育大学なので、そこを卒業するひとの多くは小・中・高・大いずれかの学校の先生になる。私が成長する過程でも、祖父の弟子という先生に何人も出会っている。まず、小学校の校長先生が弟子であった。なぜ分かったかというと、我が家に貼ってあった何かの賞状に校長先生の名前が書いてあったのだが、それを偶々見た祖父が「こりゃ、わしの弟子じゃ」と言ったことから発覚した。高校の地理とか地学の先生も祖父の弟子であった。従兄弟のケンちゃんも同じ経験をしていて、彼の学校の校長先生も弟子だったので相当にやりにくそうだった。

 このように人材を育てただけでなく、日本地理学会の会長を務めるなど研究面でも活躍したらしい。そして自分の学問に相当の自負も持っていた。祖父は東京大学から理学博士の学位を授与されたが、東大には非常な対抗心を持っていたと思う。少なくとも地理学について言えば東京教育大学の方が東大よりも上である、と言うのを私は高校三年生のときに聞いている。へえ、そんなもんかと思った。しかしその祖父も今から四半世紀の昔に鬼籍に入ってこの世のひとではなくなった。

 さて、現代に戻ろう。本学内の委員会で、たまたま地理の先生とお話しした時に、その方が筑波大学のご出身であることが分かり、では祖父をご存知かもしれないと思って聞いてみた。するとその方はこう言われたのである、「よく知っています。○○先生(祖父のこと)を知らなければ地理ではもぐりですよ」と。その方は地理学の分野で言えば祖父とはほとんど関係がないらしいが、それでもご存知であったのだ。こうして、祖父が未だに斯界では多くの方々の記憶に残っていることが分かった。私は少しばかり嬉しかった。

 翻って自分のことを考えてみる。どうみても私には祖父のような人望はないし、毎年の卒論生も2、3名なので直弟子も数えるほどである。このままでは死してのち残るのは、文字通り骨だけであろう。祖父のように苦労もせずに自分の好きなことをやっている私には、それが分相応ということかもしれない。しかしそれではちょっと寂しい気もする。できれば、ひとの記憶に残るような仕事ができればとは思うが、それも結局は本人次第である。だが、そんなことを考えて日々の研究・教育活動に従事できるわけもない。結局、そのひとが持っている器量というもので決まってしまうのではなかろうか。

 学者のはしくれになった私を祖父が見たら、何というだろうか。「和宏、まだまだ甘いのう」とか言われそうだな。


Power of Rock'n'Roll (2011年1月12日)

 昨日の新聞に浜田省吾のコンサート・ツアーが一面全面を使ってデカデカと広告されていた。足掛け7ヶ月に渡って日本全国を旅して三十数回のコンサートをこなすらしい。いやあ、すごいパワーですね。彼(ハマショーと呼ばれている)は私が大学生の頃に「30以上の大人は信用するな」とシャウトしていたので、多分今は50代半ばを超えたくらいだと思う。すなわちもう結構な年齢なのに、一週間に一度以上のペースで歌いまくるのだ。並大抵の体力では出来ることではないし、超人的な精神力が必要だろう。

 そのあいだは作曲とかレコーディングとかはできないだろうから、ツアー活動に没頭するという意思表示にも見える。ハマショーはテレビには出ないので、多分一般のひとはよく知らないだろうが、日本のロックン・ローラーとしては多分一、二を争うひとである(これは私が勝手に思っていることだが)。一方の旗頭である佐野元春がストイックなロックの伝道者(エバンジェリスト)だとすると、もう一方のハマショーは完全なるアウト・ローといったところか。

 若い頃のハマショーの歌には、人生に敷かれたレールの上を歩むことを強制する大人たちへの反感と抑圧された若さを歌ったものが多かったが、それは相当程度に尾崎豊と相通じるものがあったような気がする。『ラスト・ショー』という曲の「親父の車、夜更けに盗み出し、遠くへ、遠くへ,,,」なんて歌詞を聴いていると、尾崎の「盗んだバイクで走り出す,,,」という『Seventeen's Map』をありありと思い出してしまう。

 すでに30代は遥か昔に過ぎてしまい、今や人生の黄昏どきへと差しかかった(?)ハマショーは、そんな古いうたをどのような感慨を持って歌うんだろうか。でも私が思うには、そんなうたを歌うときには“永遠の若者”として何の違和感もなく歌えるんだろう。それがロックン・ロールのパワーってもんでしょう。頑張ってくれ、ハマショー!


寒い朝 (2011年1月11日 その2)

 今朝は寒かったですね。あばら屋の我が家では朝起きると4度しかありませんでした。室内ですよ、これで。暖房をつけても出勤する頃にやっと10度を超えたあたりでした。今日は車で通勤したのですが、外気温は我が家の駐車場では0.5度でしたが、稲城の米軍キャンプあたりでジャスト0度となり、南大沢ではついに氷点下0.5度になりました。やっぱり多摩西部に行くに従って気温は下がりますな。


いつか来た道、ふたたび (2011年1月11日)

 最近また北方領土に注目が集まり始めた。ロシアの現役大統領が北方領土を訪問したことが直接の契機であろう。1月10日の朝日新聞で報道されていたが、日本の曖昧な二元外交に翻弄されたロシアがついにしびれを切らしてカンフル剤を打ったということらしい。すなわち、場合によっては柔軟に二島返還を目指すという鳩山・鈴木(これは最近刑務所に収監されたひと)ラインと四島一括返還という原則論を主張する岡田・前原ラインとの二つの考え方が交互にロシア側に伝えられたため、ロシアは困惑した、というのである。

 結局、日本の外務省も首相官邸も定見を持ってロシアとの北方領土交渉を行ってはいない、ということになる。これは非常に残念かつ危機的な事柄である。日本の外交が目指すべき目標を定めることができずに、場当たり的に出たとこ勝負の博打のように進んでいるのだ。

 と、ここまで書いたところで、またもやこれはいつか来た道ではないか、ということに気がついた。昭和初期に西欧列強に対して日本陸軍と外務省とが全く別々に(それぞれの思惑のもとで楽観的な)外交を展開して、それが結局は世界における日本の孤立を招き、世界大戦という破局へと導いたのである。これは極端な例かも知れないが、いずれにせよ定まらない外交が国を危うくすることは確実である。もう二度と「国破れて山河あり」ということにだけはしないで欲しい。

 この「いつか来た道」を反省するために(と私は勝手に思っているが)、NHKで『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』というシリーズ番組が始まった。新たな証言に基づいて歴史を再度検証するということらしいので、どんな新事実が明かされるのか、期待している。


古い雑誌 (2011年1月10日)

 自宅にストックしていた『建築雑誌』とか『コンクリート工学』会誌などがあまりにもスペースを占めて納まらなくなったので、古いものから捨てることにした。以前に書いたように『建築雑誌』のほうは何も考えずにガンガン捨てたが、『コンクリート工学』のほうは解説とか総説といった有益な記事があるため、目次を改めながら一冊ずつ取捨選択していった(これにはことのほか、時間がかかった)。

 するとふと一冊の表紙の写真に目が止まった。あれ、どこかで見たことがあるぞ。という訳で『コンクリート工学』1991年9月号(もう二十年も昔である)の表紙をご覧いただきたい。これは何と本学の校舎なのである。手前の池に面しているのが教室棟で、その奥の中層建物が工学部棟である(私はこの7階に棲息している/ちなみに最上層の9階は製図室である)。


 コメントを読むと1991年3月に竣工して、都下のキャンパスからここ南大沢への移転が完了した、とあった。ちなみにこのとき私はまだ千葉大学野口研の助手で、この写真にも多分人ごとのような感慨しか持たなかったであろう。しかし会誌の目次を見てびっくりした。そこには私が書いたリポートが載っていたからである。それはJCI文献調査委員会(当時の委員長は野口博先生であった)での仕事で、「高強度コンクリートを用いたRC部材の力学特性に関するアメリカでの研究」(こちらをどうぞ)というタイトルであった。

 会誌のコメントにはさらに「広場や各施設間に設けられた多くの空間によってキャンパス全体に『人間的ゆとり』をもたせることに成功」とあった。確かに始めはそうだったかも知れないが、2005年の大学統合によって新しい研究棟や教室棟が多数建設され、「人間的ゆとり」の源であった「多くの空間」は残念ながら消失した。それどころか学生数の激増によって、厚生施設のキャパシティをはるかに超えてしまい、人間的なゆとりさえ確保できなくなった。

 しかしそこまではさすがに1991年当時に想像できたひとはいないだろうな。大学が統合するとか独法化するとか、そんなことを考えたひとはその時にはいなかったはずである。建設当時は高尚なデザイン・コンセプトがあったようだが、現実にキャンパスを使うのも人間なので、そのような思想には無頓着に変貌を遂げていったのである。この写真には、そんな未来が待ち受けていることとは無縁な、底抜けの明るさが感じられる。裏を返せば、このときはそういう時代だったのであろう。常に変遷する、ひとの世の無情を感じた。


RC規準改定異聞 (2011年1月7日)

 日本建築学会の『鉄筋コンクリート構造計算規準・同解説』(通称RC規準)を昨年2月に改定してから約一年が経過した。このときに改定を担当したチーム(小委員会のこと)は既に解散してもうないが、新たにRC規準実用化対応WG(主査は市之瀬敏勝先生)というのが作られて現在も活動している。

 これは何をするWGかと言うと、改定後もしばらくのあいだは間違いとか不適切なところとかがあるだろうからそれに対する訂正等を行うとともに、RC規準の使用者から学会に寄せられる種々の質問や指摘に対して回答を検討して、必要があればそれをWGのHP上(こちらをどうぞ)に掲載して広く告知することに務める、というものである。

 で、多くの方からすでに70件近い質問とか提案とか指摘とかをいただいた(HPでの回答は40件程度だが、まだ回答案審議中であったり、HPでの回答を不要と判断したものがあったりするため)。それ自体は大変にありがたいことで、RC規準に対する関心の深さが伺われるというものだ。それによって間違いの幾つかは訂正されたし、言葉足らずの文章が修正されたりもした。また建設的なご意見もあって、なるほどと感心したりすることもある。ただRC規準は、低層建物から高層建物までをその守備範囲としているため、ある程度は最大公約数的な規定であったり表現となることはやむを得ないこととも思っている。

 しかしその反面で、そんなことは設計者が自分で判断し考えて欲しい、と思うような質問も多い。すなわち設計行為に踏み込むような質問である。全ての事柄をRC規準内に記載することなど始めから不可能なのだから、RC規準に書いてないようなことは設計者が個別に判断して設計することになる。RC規準を使う方には、ここのところは是非とも理解していただきたい。我々WGのメンバーは皆まじめなので、いただいた質問に対してもの凄い労力と時間をかけて回答を考えている。回答案に対してメールで質疑応答が飛び交うこともしょっちゅうである。そんなときに「これって、設計者が判断して自分で決めればよいことだよね」ということになると、もうガックリきてしまう。

 RC規準が社会的に果たす役割の大きさは十分に認識しているので、それをさらに良いものにするために努力することは当然であるし、苦にならない。だが、それを支えているのが純粋なボランティアであることも知っていただきたい。改定から一年を経過して、その作業にだんだん疲れてきたのも事実である。そろそろRC規準には独り立ちしてもらって、手の掛からない「大人」へと成長してもらいたいと思っているのは私だけだろうか。RC規準の歴代の改定に従事されてきた先輩方の苦労が少しだけ分かった気がする。そういう点からも、今回RC規準の改定に携われたことはよい経験だったと思うが、正直言ってもうやりたくない、というのも本音である。

 なお今回の改定のポイントを解説した特集を『建築技術』という雑誌の2011年3月号に掲載することになった。私は付着に関する改定のポイントを執筆した(これを書くのに昨年末はウンウンと唸って過ごすことになった)。よかったらお読みください。


研究者という仕事 (2011年1月6日)

 研究という仕事は楽しい。(基本的には)自分の好きなことをして、少しばかり社会のお役にも立てて、それでいて食べてゆけるということには常々感謝している(誰に? やはり世間さまか、あるいはここまでのキャリアとスキルを身に付けさせてくれた両親とか恩師とかかな)。大学での授業は多少ルーチン化していて弛緩気味のときもあるが、若いひと達と一緒に研究しているときはとても楽しい。彼らはときどき頓珍漢なことも言ったりするが、脳内のシナプスが一所懸命に連結回路を作って成長している最中だろうと思えば笑っていられる。

 研究室での研究テーマは、私が描いている研究ロードマップ(頭の中にあるだけだが、常に更新されている)に従って勿論私が決めるのだが、個々の研究は担当する学生諸君に牽引して貰うことになる。核となるアイディアとか目指すべき成果のイメージなどはこちらから提示するが、そこから先の具体的な研究の進め方は担当学生の器量に大いによる。それはひとによって千差万別で、こちらの要求したものをさっさと終えてその先へとずんずん成長するひともいるし、期待した通りにならずに低迷したままのひともいる。そのひとがどのくらいの潜在能力を持っているかとか、どのくらい成長できるかなどは多分当人にも分からない事柄だろうから、私に分かるはずもない。どのテーマを誰が担当するかは正しく「運」以外の何者でもないだろう。研究室を主宰する私にとっては賭けみたいなものである。

 で、いま『院生・ポスドクのための研究人生サバイバルガイド』(菊地俊郎著、講談社ブルーバックス、2010年12月)という刺激的なタイトルの本を読んでいるのだが、それを読むと現代の博士たちはホント大変である。日本の社会には今、定職に就けない博士たちが溢れているらしい。それでもこんなハウ・ツー本が出るところを見ると、若者たちにとって研究者という職業は依然として魅力的に映っていると思われる。「将来は教授」を夢見て大学院に進むひともいるらしい。

 そのような青雲の志を持った若人と較べて私はどうだっただろうか。大学院のM2になったときにも、就職のことを考えた記憶はない。『武研ワルツ』(青山研の前身である武藤研に伝わっていた替え歌)にある「朝寝できないサラリーマン」になった自分をどうしても想像できなかった。就職活動もせずに毎日研究室に坐って研究していた私に、当時助教授だった小谷俊介先生から「博士課程に進んだらどうだい?」くらいは言っていただいたかも知れない。

 といって、大学院博士課程で研究を続けるということもあまり想像できなかった。身近な先輩だった加藤大介さんとか塩原等さんとかを見ていて(彼らはいずれも私にとってはとてつもなく偉大だったので)、とてもあんな風にはなれないな、と思っていたせいもあろう。ただ、同級生で東大生産技術研究所・岡田研のM2だった中埜良昭くんが博士課程に進学するつもりらしい、ということを聞いたときに、自分にもできるかな、とは思った。中埜くんとはそれまでも切磋琢磨して共に学んできたので、そういう意味でも感謝している。

 かように、さしたる定見もなく博士課程に進学する道を選んだのだが、小谷先生のご了承を得たあとに、11号館7階の隅にあった教授室(今はそこに塩原さんが座っている)に行って青山博之先生にその決意を申し上げたとき、青山先生は「ああ、そうですか。それでは研究の方はお願いしますね」とひとこと言われたのであった。当時、青山・小谷研究室では博士課程最上級の大学院生は「院長」と呼ばれており、研究を具体的に進めるためのヘッドと見なされていた。当時D3だった塩原さんが翌年には出て行くことが決まっていたので、青山先生は私にそのような役目を果たすことを期待されて、またこいつならできるだろうと目算を立てられて、仰ったに違いない。そのお言葉は私にとって千金の重みを持ち、自信になったし、励みにもなった。

 というわけで、研究が好きだった(あるいは、青研の居心地が良かった)ことは確かとしても、修士課程からずるずると進んで研究者になったような気がする。今の「博士余り」のひと達が聞いたらこう言って怒りそうである、あんたはいい時代に生まれたよ、恵まれてるよ、と。でもこのセリフって、大学教員の職を得た我々が、かつての大先生に対して常々に思っていることと全く同じである。てことは、やはり時代は巡る、ということでしょうか。

 その当時は、研究室のボスは多分絶大な力を持っていて、博士課程まで進んだ院生をどこかの大学に助手として送り込むとか、大手ゼネコンの技研に潜り込ませるなどは日常的に行われていたことと思う。しかし現在では、大学のポストはほとんどが公募になっていて、かつてのようなコネによる就職は姿を消したと見てよい。どこの大学でも最近は自校の存続の命運がかかっているため、細かい分野などにはこだわらずに心底優秀なひとを採用しようと腐心している。

 すなわちたとえ優秀な学生さんがいても、将来の定職を保証できないがために、博士課程への進学を勧めることはとてもできない。この『サバイバルガイド』に述べられているように、それでも構わずに博士課程に進学したり、研究者のいばらの道をあえて選んで進んで行こうとする若者がかなりいる、ということには勇気づけられるし、将来の日本を担うという意味でもありがたいことである。そういう前途有望な若者たちを少しでも支援したいし、彼らの未来をバラ色とまでは言わないまでも明るいものとするためにお役に立ちたい、と思う。

 そのためにまずは自分の研究室の学生さんを鍛える、ということになろう。これで話が元に戻った。彼らに論理的な思考を習慣付け、研究遂行の方法論を教え、問題解決に必要な段取りを踏ませる、という研究に必要な“いろは”を修得してもらうこと、これが私の仕事である。とにかく自分で考えて行動する、という当たり前のことを実践できるようにして欲しい。


過ぎ行く新春(2011年1月3日)

 今年は日の並びのせいで、お正月があっという間に終わりましたな。私も明日から出勤なので、今日はみんなで家具屋さんに行って子供の収納棚を買ってきました(組み立て式で作るのに一時間半くらいかかりました、もう大変)。港北インターチェンジのすぐ脇にあるイケアという大型店です。家から第三京浜経由で45分です。

 ところが正月だというのにもうものすごい人出で、誰がこんな正月から家具なんか買うんだろうか(自分たちのことは棚においといて)、というくらいの混雑振りでした。車が列になって駐車場に吸い込まれていました。私は初めて行きましたが、展示場で目当ての商品の型番号とか棚番号などをメモっておいて、その後に広大なストック・ヤードに行って、自分で棚から卸してきてレジで会計し、梱包なども全部セルフ・サービスです。いやあ、驚きました。こういう風にすると人件費も節約できて、安く売ることができるんですね。

 この頃はモノが売れないとよく言われますが、行くところに行けばバンバン売れている訳です。要は如何に安く合理的に商売するかということで、そこにはやはり人智を尽くした工夫と発想とが必要なことは言うまでもないでしょう。

 京王多摩境にあるコストコもこんな雰囲気だったと女房が言ってましたが、こういう外国チックな広大な敷地と物量にモノをいわせる小売り形態が日本でもトレンドになりつつあるのでしょうか。そこいらのおっちゃん・おばちゃんのやっている個人商店が商売にならずに店を閉じざるを得ない、という悲しい現実の裏返しです。


年に一度の凧揚げ(2011年1月2日)

 今日もよい天気だったので、喜多見ふれ合い広場(小田急線の喜多見車両基地の上に作った人工地盤上の公園で野川沿いにある。野川を渡って国分寺崖線の急坂を登ればすぐに成城である。富士山が綺麗に見えた)へ自転車で行って、子供と一緒に凧揚げした。昨年と同じビニール製の凧である。しかし、風がなかったせいか全く上がらなかった。でも、その脇で空高く悠々と凧をあげているひともいたので、やっぱり腕なんでしょうね。

 子供が猛スピードで自転車を漕ぐので、それについて行けずにもうバテバテでした。日頃の運動不足がたたりました。


賀正2011 (2011年1月1日)

 新年、明けましておめでとうございます。東京は寒いながらも時折日が射して、まあいいお正月ですね。昼からは実家に行って、甥っ子たちにお年玉をあげてきました。私は車の運転があるのでノン・アルコールビールってヤツを初めて飲みましたが、それでも何だか酔っ払った感じがしました。で夕方、家に帰ってから、さあそれではおせち料理を食べるかということで、年末にクール宅急便で届いた三段重ねのお重を開けました。じゃーん、ご馳走だぞ〜。

 しかし予想したことではありましたが、子供が喜んで食べられるようなものはほとんどありませんでした。自分が子供だった頃を思い出してみても、大人が食べていた和食の正月料理を、あまり美味しいとは思いませんでしたからね。そんな訳で結局子供は、お爺ちゃんが作った梅干しをご飯に乗せて、おお酸っぱいとか言いながら食べたのでした。正月早々貧しい食卓でした。

 じゃあ何が食べたいのと子供に聞くと、鳥カラ、と言うのです。ところがそんな油っこいものを正月からこちとらは食べたくもありません。まったくもう、アリャリャの世界ですぜ。こんな感じで新年一日めが暮れて行きました。

 それでは、今年もどうぞよろしくお付き合いのほど、お願い申し上げまする。


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