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 このページは北山の日々の雑感を徒然なるまま、なすがままに独白するコーナーです。このコーナーは十三年めとなりました。相変わらずお付き合いいただけることをとても嬉しく思い、感謝いたしております。

 なお、ここに記すことは全て個人的な見解であることを申し添えます。皆さまのご意見等には謙虚に耳を傾けるつもりですので、その点は誤解のないようにあらかじめお願いしておきます。

 一月も半ばになりましたが、今日からは2021年版を掲載します。COVID-19の感染拡大のせいで登校すらままならないご時世ですので、更新は滞りがちとなりそうです(2021年1月16日)。



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歳末暮景 (2021年12月24日/25日/26日/28日)

[研究室1]
 今年も残すところあと一週間ほどと相成りました(12月24日に書いています)。研究室の研究活動は科学研究費・基盤研究Cによるものが動いているだけでして、全体的な衰退傾向には歯止めがかかりませんでした。おまけに来年度には新四年生および新大学院生は我が社には配属なしということが決まり、暗雲がさらに広がることは確実です。定年まであと○年(境有紀さんの真似です)とはいえまだしばらく研究室ライフは続きますので、少しは立て直して有意義に過ごしたいと思っています。

 とはいえ、やる気のないひとに来てもらうと双方ともに不幸になるのは明らかです。それゆえ数年前から三年生に研究室紹介をするときに「協調性のない人、他者と議論できない人、言われたことをきっちりできない人、約束を守れない人」は我が社では受け入れない旨を文書に明記して、口頭でも明言しました。こう宣言すれば、迂生の意図を汲み取った志ある学生さんが意気に感じて来てくれるだろうと考えたんですね〜。しかしそれは彼女ら/彼らを過大評価していたというか(わたくし自身が)浅はかだったというか、わたくしの読み間違いだったようです。

 結果としてそれは我が社への忌避感を高めることにしか作用しなかったみたいです。学生諸君から見れば明らかな老人でしょうから、物分かりのよさそうな好々爺然とした先生の振りをすればいいのでしょうね。しかしそんな気は全くしないのですから我ながら不思議ですな、あははっ。

 以前のこのページで書いた「虚学の論理」(2015年6月11日)じゃないですけれども、誰も来なくても鉄筋コンクリート構造学という学問の扉がそこに常に開いていることが重要なのかも知れません。それこそがCenter of Excellenceたる大学のあるべき姿なんだ!と言って自分自身を納得させることにいたしましょう…。もっとも鉄筋コンクリート構造学は実学の最たるものであって、印度哲学のような虚学とは異なりますけどね。

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[研究室2]
 昨日、明治大学・晋 沂雄研究室との共同研究で使用する鉄筋コンクリート部分骨組試験体の作製についての打ち合わせを(久しぶりに対面で)本学で実施し、アシス株式会社の村上社長と村上研さんにも来校いただきました。例のごとくに予算が少なくて村上社長には迷惑をかけっ放しなのですが、今回もまたそういう事態に立ち至りました。

 多分、アシス方はそんな金額じゃ作れるわけないだろって怒っていらっしゃるだろうとは推察しますが、無い袖は振れませんからそこをいろいろと相談してご納得いただき、試験体作製をなんとか依頼できそうなことが分かって少しばかりホッとしました。もちろん大学当局との折衝も必要なので今後どうなるか予断を許さないのですが…。まあ、数年ぶりに村上社長にお会いでき、いつものように話しの花が咲いたのは嬉しかったです。まだしばらくは社長業をお続けになるそうなので、少なくとも迂生が定年退職するまでは引き続きお付き合いをお願いいたします。

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[大学1:入試]
 本学の入学試験のことです。これは大学運営の機微にかなり触れる内容なのであまり詳しくは書けませんが(と言いつつ書こうとしているんですけど)、2025年度以降の第二次入学試験に再び英語を課すかどうかが議論になっています。第一次入学試験はそれまでのセンター試験が本年度から大学共通テストへと変革されましたが、以前に書いたようにそれにともなって本学では第二次入試の英語試験を全て廃止してしまいました。それが本当に正しい選択だったのかという反省が全学で沸き起こったわけです。グローバルな時代に英語は重要と言っておきながら、受験生へのメッセージとして最も重要な個別入試に英語がないなんて自己矛盾しているのでは?

 しかしながら本学の英語を専門とする先生方の意見は、英語の個別試験は今後は無くなる方向に進むはずであって(すなわち共通テストおよび外部英語試験の利用)、二次試験に英語を課し続けるのは東大・京大クラスのごく一部のトップ大学にとどまるだろうというものでした。個別の英語試験を続けるとかえって受験者数を減らすことになるだろうとも予言しています。相当に衝撃的な内容ですよね。これを初めて聞いたときには正直、腰を抜かしましたな、迂生は。しかし、この見立てが国内で広くコンセンサスを得たものかどうか分かりませんし、今後の入学試験のあり方としてそれが妥当なのかどうかも不明なわけです。

 すなわち英語の個別試験をどうすべきかについて適切に判断できる資料があまりない(あるのかも知れませんが、我々には開示されていない)という状況のなかで、どうすりゃいいのよっていう立ち往生が現在地なんですね。ただ少なくともこの数年のあいだは有力大学は英語を二次試験に課し続けると思われますので、そういった大勢に順応して受験生諸君からスポイルされないようにするしかなさそうです。どうにも主体性のないあり様で情けない限りです。知の拠点たる大学においてこんなことでいいのだろうか、忸怩たる思いに苛まれながら年を越すことになりました。

 大学の大衆化にともなって入学してくる学生諸君の学力が低下しているということはしばしば論じられる事柄ですけど、受け入れる側の当の大学にしたってこんなんじゃ大したことないじゃんっていう感じがします(自虐的…)。

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[大学2:認証評価]
 大学の話題が続きますが、本学は七年に一度の大学認証評価を来年度に受けることになっています。そのためには膨大な書類を誰かが準備しないといけないのですが、都市環境学部では二人の教授がその担当に任命されました。もうお分かりでしょうが、その貧乏くじが迂生のところに来たわけです。今年の学科長である角田誠教授が「誰にもやってもらえそうもないので引き受けてくれませんか」と頼みに来て、仕方ないので受諾しました(角田さん自身もやりたくもない学科長を請け負ってくれたわけですから、彼のせいではありません)。その実質的な作業が今年の九月から始まったのですが、具体の作業内容を聞いてそれが予想以上に大変なことが分かりました。っていうか、要求されているモノの全貌を理解するのに一ヶ月以上必要だったのです。

 もうお一人の担当の教授先生と「こりゃたまりませんなあ、なんでこんなことを研究者たる大学教授ががん首揃えてやっているんでしょうか、資源の大いなる無駄ですね」などと愚痴を言いながら進めております。しかしこの大学認証評価って幾らかかるか知っていますか? 先日、その資料を見たらいくつかの認証評価機関がありますがいずれも一千万円を軽く超える金額なんですよ。大学の規模によってもちろん料金は異なりますが、中規模の総合大学たる本学の場合にはそのくらいの金額になるようです。しかし正直なところそれだけの価値や意義はあるのでしょうか…???。

 こんなに大変な思いをして資料を揃えても、それで悪い評価でも出された日には全く何やってんだかっていう徒労感に苛まれそうですな。このような制度を作った文科省って、どうしていつもろくなことを考えないんだろうか、日本の大学を潰す気かって思いますよ、ホント。こんなことをやっているから日本の研究力は低下の一途をたどるのではないでしょうか。研究者に事務仕事ばっかりさせて研究させないとは、どういう了簡なんだ…。

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[世間1:アベノマスク]
 アベノマスクの顛末には最後まで驚かされましたね。まだ八千万枚残っていてその保管費用が六億円というだけでも税金の壮大な無駄です。それに対する批判が高まったことから、この暮れに岸田首相がその廃棄を決定したのはよかったのですが(元首相に対する気がねが相当あったらしい、捨てるのも大変!)、今度はその廃棄費用に六千万円かかるっていうのですから、もう何をか言わんや状態ですよ。

 我が家にも配布されたアベノマスクですが、結局使われることなく未だに保管されているようです(捨てた記憶はないが、どこにあるのかも分からない)。2020年春のマスク不足の時期にお役人さまの発案で布マスクの配布が決まったそうですがもうちょっとマシな税金の使い道を思いつかないっていうのも、日本の高級官僚の質の低下はこんな場面でも露呈したということでしょうか。日本の行く末に暗雲が立ち込めているようで不安ですなあ(今に始まったことじゃないけどね)。

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[世間2:オミクロン株]
 さてCOVID-19ですが、日本では今のところ感染者数が少なくなっていて小康状態を保っていますが、変異株(オミクロン)がついに日本でも市中で見つかるようになってきました。報道によればこの変異株が日本で初めて見つかってから約三週間だそうです。マスク着用とか手洗いとか、ワクチン接種とかこの二年間の経験でCOVID-19に対するリテラシーはかなり高まったと思うのですが、それでも新たな変異株については不明な点が多いため、今後日本でも感染拡大へと局面が動く可能性が大きそうです。ということでいままで通りに不必要に出歩かず飲食店にも行かず、逼塞した生活を続けてゆくだけですな。

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 こんな感じで今年も暮れてゆきそうです。御用納めの28日はとても寒いですがよく晴れたよいお天気になりました。ひと気のないキャンパスを歩くと清々しい気分がいたしました。せっかくなので普段行かない体育館とか運動会部室棟あたりまで足を伸ばしてみました。運動会の部室棟なんかには学生諸君がたむろしているときには行きたくないですが、今朝は誰もいませんでしたので初めてしげしげと探検することができました。下の写真のようにコンクリート打ち放しで円弧を描くプランになっています。バブルの頃の建築なので随所に凝ったデザインが施されていて、お金が潤沢だった東京都の往時が偲ばれましたな、あははっ。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU御用納めのキャンパス20211228体育館_運動会部室もあり:IMG_1378.JPG

 それでは皆さまもお体に気をつけてよい新年をお迎えください。お餅の食べ過ぎには注意してね、なんちゃって。来年もこのページでお会いできたら幸いでございます。


耳ネタ2021 December (2021年12月25日)

 世間はクリスマスなのでしょうが、わが家はもうそういった行事にはほぼ無縁となりました。でも今晩は鳥もも肉を焼くって女房どのは言っていますけど。塩を振ってオーブンで焼いてパリパリにした皮にレモンをしこたまかけて食すと美味しいんですよね〜、これが。

 さて今日はアラン・パーソンズ・プロジェクト(The Alan Parsons Project)の「Time」を紹介します。このグループですがアラン・パーソンズが核となって、ヴォーカルやバンドのメンバーは時に応じて入れ替わるのでプロジェクトと名付けられたようです。「Time」は多分1970年代末頃の発表で、彼らのアルバム『The Turn Of A Friendly Card』に入っています。

 

 この曲を知ったのはネット上で洋楽の歌詞を和訳して紹介するというページに載っていたからです。このページは迂生の知らない多様なポップスを紹介してくれていたのでとても気に入っていたのですが、英語の歌詞をそのまま掲載していたことが(多分)著作権法上の問題に抵触したらしくて閉鎖されてしまいました。

 「Time」は日本で言えば美空ひばりの「川の流れのように」に該当するような楽曲でして、時は川のように海に向かって永遠に流れて行く、わたし達が再会しなければならいことを誰が知っていようか、という歌詞です。曲はまさしく大河のごとくゆったりと流れてゆき、聴いていてとてもリラックスした気分で気持ちよくなれます。寝る前に聴くのに最適です。

 唄っているのはエリック・ウルフソン(Eric Woolfson)ですが、その高音の囁くようなファルセットを聴いているとアルファ波が脳内に充溢するのか(?)とても気持ちがゆったりとして楽になるんですね〜、不思議です。しかし残念なことにウルフソンはすでに故人となってしまいました、R.I.P.。

 
アラン・パーソンズ(左)とエリック・ウルフソン(右)

 この「Time」の音源はネット上にたくさんありますので、ぜひ聴いてみてください。迂生もこの曲を聴きたくなるとネットに接続してその都度聴いていましたが、それがだんだんと面倒になったこともあって上述のアルバムCDを購入しました。アルバムのなかに他にもGood Vibrationがあることを期待したのですが、残念ながらわたくしが気にいるような曲はこの「Time」以外にはありませんでした、がっかり…。


ことしの本 ベスト3 (2021年12月22日)

 吹く風の寒さが身に沁みる年末になりました。この冬は昨年よりは大学へ登校していますが、実験等がないときには在宅勤務がとても便利ということを知ってしまった今、授業や会議がない日には大体のところ家で仕事をしております。先日の都立青山高校の模擬講義も書斎のパソコンからオンラインに載せて行いました。

 さて、このまま行くと次に登校するのはいつになるか分かりませんので、年末恒例の(って誰も知らないだろうけど…)「ことしの本」をそろそろ選定しようと思います。この一年のあいだに読んだ本は58冊で、その内訳は大学図書館から借りた本が54冊、昔の読書(以前の蔵書を再読すること)が4冊で、新規購入は今年はついに0になりました、やったあ〜。蔵書は場所をとりますので増やさないに越したことはありません。なお図書館で借りた本のうち3冊は面白くなくて途中で読むのをやめました。

 昨年度は音楽ものが圧倒的に多かったのですが今年はそれがもとに戻って、小説、評論、科学もの、歴史もの、音楽ものなど幅広くいろいろなものを(手当たり次第に)読んだ気がいたします。この年齢になって初めて読んだ小説家もいました。野口冨士男と永井荷風です。永井荷風は有名でしょうが、野口冨士男という方は(わたくしの勉強不足ゆえですが)その小説はおろかお名前すら知りませんでした。その小説をどうして手に取ったのかと言えば、それは図書館の書棚にあった『風の系譜』という題名に惹かれたからです。全くの気紛れですがこういう出会いが図書館にはあって、その偶然が人生を豊かにしてくれることは強調したいと思いますね。

 今年のベスト本ですが、期せずして全て小説になりました。野口冨士男の『風の系譜』は講談社文芸文庫に収められていましたが、うちの大学図書館の開架にはこの文庫のシリーズがズラッと並んでいて、実のところそこからいろいろな小説を読んで、ベスト3にはそのなかの2冊が入りました。

 第一位は吉村 昭の『高熱隧道』(新潮文庫、原本は昭和42年)です。吉村 昭は緻密な取材に基づいて人間の営みをきめ細かく多面的に把握して、それらを淡々とした筆致で描く小説家で迂生にとってはお気に入りのひとりです。『高熱隧道』は戦前期の黒部第三ダムの建設にともなう軌道および水路のためのトンネル建設における苦難のお話しです。われわれ以上の世代にとっては黒四ダムが有名でしょうが、それは戦後になってからの施工です。それに対してこのお話しは昭和11年から15年という日本が戦争の坂道を転がり出し、日中戦争が泥沼化した時期に重なっています。

 黒部第三ダムの建設工事では完工までになんと300人以上の犠牲者を出したといいます。温泉地帯にトンネルを穿とうとしたために、トンネルを掘り進めるとともに岩盤の温度が上昇し、それは40度から最後は166度にまで達しました。そんな高温下で生身の人間が作業したということ自体が驚きです。しかしこの頃は人命のなんと軽視された時代であったことでしょうか。工事を指揮し監督する技師や技手と劣悪な環境で作業をする人夫たちとは全く別の世界に住む異なった人種と見なされていたのです。

 われわれ建築屋には馴染みがありませんが、ダイナマイトの使用を許可された温度は40度以下であり、100度近くになると自然発火して爆発するそうです。この現場では、岩盤の高熱化に伴ってダイナマイトの設置作業中にそれが暴発して多数の人夫が亡くなりました。被害者がダイナマイトの爆発によってどのようになるかは容易に想像できますが、著者の吉村はその事実をまるで自身で見たかのようにリアルにしかし淡々と描写するので、読んでいてかなり気持ちが悪くなります。

 しかし、さらに恐ろしいのはこの黒部峡谷の自然環境そのものであったことが明かされます。ここは日本有数の豪雪地帯です。この建設現場で泡(ホウ)雪崩という自然現象が発生しました。それによって鉄筋コンクリート造(RC)5階建て宿舎の2階より上を吹き飛ばされて580メートルも空中を飛ばされ、奥鐘山の巨大な岩壁に激突して84名もの作業者が亡くなったのです。

 本書によると泡(ホウ)雪崩とは「異常に発達した雪庇の傾斜に新雪が降った折に発生するが、一般の底雪崩のように雪塊の落下ではなく、雪崩れる際に、新雪の雪の粒と粒の間の空気を異常なほど圧縮して落下するものである。そして、突然障害物に激突すると、その圧縮された空気が大爆発を起こし、爆風は音速の三倍毎秒1000メートル以上の速さをもつ可能性も生まれる…」という現象だそうです。

 泡(ホウ)雪崩という現象を初めて聞きましたが、通常の台風だとその風速は最大でも毎秒70メートル程度なので、この圧縮空気の大爆発がいかに巨大なエネルギーを発するかが想像できます(と書いても、本当は理解できないですけど…)。しかし、それでも5階建てのRC建物を空中に吹き飛ばすなど聞いたこともなかったので本当に驚愕しました。崩壊した建物の破片や遺体がなかなか発見されずに気味悪がっていた現場の人たちは、それを遥か遠くの岩壁の根元の岩棚に発見したときには心底腰を抜かして驚いたことだと思います(もちろん吉村 昭の小説にもそのシーンは印象的に描かれています)。

 このような過酷な自然環境下で、かくも多数の犠牲者を出しても工事を完遂しようとした人間の執念には驚かされます。これには戦争の激化にともない、兵器等の製造のために電力を必要とした国家の事情が大きく関係したことを吉村は指摘します。この時期はある意味人々が思考停止に陥っていた時代だったからこそ、そのような人命軽視の工事が完遂されたのでしょう。異常な時代だったのだとつくづく思います。

 

 第二位は奥泉 光の『石の来歴』(講談社文芸文庫、原本は1997年)です。この小説については以前にこのページ(2021年6月27日)でとてつもなく面白いことをちょっとだけ紹介しました。太平洋戦争で南方に送られて生死の境をさまよった挙句に復員した主人公が、戦地で聞き知った石の収集を趣味とするようになったことから物語が進んでゆきます。

 結婚して生まれた息子にも石の収集を教えるのですが、その息子がある日、石の収集のためにひとりで入った洞窟で何者かによって殺されたことから、物語は暗転します。そして現在と過去とが自在に絡み合い、行き来することによって夢ともうつつともつかない不思議な世界が現出するのです。現在と過去とを結びつける装置が息子の殺された洞窟でした…。しかしその展開は衝撃的であり、複雑で四次元的な様相を呈してゆきます。そのストーリー運びはこの著者の独特なスタイルであり、魅力でもあると感じました。

 戦場の洞窟で主人公の真名瀬に対して石の来歴を語った陸軍上等兵は、実は真名瀬によって斬り殺されたのではなくて、彼に背負われて洞窟から脱出し明るい陽の光を浴びながらこと切れたことがラストの場面で明かされます。それによって主人公の原罪みたいなものも浄化され、小説としてもひと筋の光がさしたところで終わることになりました。

 全編に渡って人間が生きてゆくことのやり切れなさや人生の不条理が淡々と語られ、暗いトーンに満ちていましたが、最後に至ってわずかながら希望というか明るさの兆しが見えたことに安堵の気持ちを抱きました。

 第三位は加賀乙彦の『錨のない船 上・下』(講談社文芸文庫、原本は1982年)です。加賀乙彦は陸軍幼年学校(陸軍将校を育てるためのエリート養成学校で、ここを卒業すると陸軍士官学校に進める)在籍中に敗戦を迎え、その後東大医学部を出て作家になった方です。『錨のない船』は戦前の外交官だった来栖三郎の一家をモデルとして、戦前から敗戦を経て高度成長期へと至る日本を背景に日米両国を祖国とする一家の生々流転を描いた小説です。主人公のひとりである来栖三郎の妻アリスは米国人で三人の子供(二人の娘と一人の息子)がいました。

 来栖三郎(小説中では来島平三郎)は駐ドイツ全権大使として日独伊三国同盟の調印を行いましたが、彼は親英米派だったので心ならずも調印しなければならなかったようです。その後、1941年の日米開戦直前に和平工作のため全権大使としてアメリカに派遣され、野村駐米大使とともに開戦阻止に尽力しましたが、それは残念ながら不調に終わって真珠湾奇襲が勃発します。その後、日米の交換船に乗って失意の中で帰国しました。

 来栖三郎の息子の良(小説中では来島 健という名前)は陸軍の航空技術将校としてパイロットの訓練を受け、その後、東京の福生基地で中島飛行機が開発していたキ84(のちの四式戦闘機・疾風)の改良などの業務に当たりました。上巻はここまでですが、日米両国を祖国とする一家の苦悩が描かれていて、とても読み応えがあって面白いです。

 陸軍の航空技術者でパイロットでもあった来島 健は1945年2月に四式戦闘機・疾風に乗って出撃してB29を体当たり撃破し、墜落する自機から脱出して落下傘で降下しました。しかし地上に降りると、その容貌(彼は日本人とアメリカ人とのハーフで、見た目は西洋人のようだった)のせいで敵のパイロットと間違えられて地元民の竹槍で刺殺されてしまいます。とても悲しいストーリーです。なおこの場面は史実とは異なっていたようで(実際は、飛行場から離陸しようとして飛び出した一式戦闘機・隼のプロペラが、歩いていた来島 健に接触して斬殺したらしい)、この小説が発表された当時はかなりの議論が巻き起こったそうです。

 亡くなった健とマーガレットとのあいだに生まれた忘れ形見の一人息子は同じ名前の健と名付けられて、彼の姉(安奈)と彼の同期の軍医で親友だった山田とによって育てられました。戦後、来島平三郎が公職追放になって失意のうちに死去したあとの妻・アリスの生き様が淡々と描かれます。アメリカで生まれ、日本人の夫ともに日本で暮らして日本人となったひとりの女性としての、また祖国アメリカと戦わざるを得ず、その戦争で息子を失った母親としての、矜持と苦悩とがそこにはありました。小説のラストは涙なしには読めません。心温まるとても読み応えのある小説ですので、是非お読みいただければと思います。

 

 第三位はもう一つありまして、それは平松 剛の『磯崎新の「都庁」 戦後日本最大のコンペ』(文芸春秋、2008年)です。著者の平松 剛は早稲田大学建築学科を卒業して木村俊彦さん(建築構造設計の大家、故人)の構造設計事務所に勤めていたひとで、2001年に『光の教会 安藤忠雄の現場』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。

 東京都庁舎は今でこそ新宿にそのノートルダム寺院のような外観で鎮座していますがそれは1991年に新築されたものでして、今の新宿副都心に移転する前には有楽町にありました(その後、取り壊されて今はそこに東京フォーラムが建っています)。この有楽町の庁舎は丹下健三(故人)の設計で、端正なモダニズム建築として呼び声が高かったようですが、如何せん使い勝手が悪く、増え続ける都庁職員を収容することもできずに行き詰まりました。

 そこで新宿副都心において1980年代にまだ空いていた三区画を新しい敷地として、新都庁舎の設計コンペティション(以下、コンペと略称)が設計事務所9社を指名して1986年に実施されました。その結果、再び丹下健三が設計者として選ばれたのです。

 
  写真 夜の東京都庁舎(2018年撮影)

 本書はこのコンペを巡って、磯崎 新[いそざき・あらた]を主人公としつつ丹下健三を絡めて展開する悲喜こもごもを面白おかしく描いています(ちなみに磯崎 新は丹下健三の弟子という関係です)。どこまでが事実でどこから先がフィクションなのかはよく分からないのですが、迂生のような建築関係者にはとても面白いです。ただ、日本近現代の建築史に興味のないひとにとっては面白くも何ともないかも…。半分斜に構えた記述が全体の基調をなしていて、丹下にせよ磯崎にせよちょっとコミカルな感じに描かれています。本当は両人ともにとても怖いひとみたいですが(本作中でそれぞれの設計事務所の所員がそう語っています)、愛すべき人物のように感じてしまう筆致なんですね〜。なので両者の人間性はかなりデフォルメされているような気もします。

 丹下健三の師である岸田日出刀(きしだ・ひでと、大昔の東大建築学科教授です)が丹下にとってのパトロンであり、岸田の死によってその庇護を失った丹下は日本国内での仕事が減っていったといいます。そんな中での都庁舎コンペは丹下にとっての起死回生の渾身の作品になったと著者は書きます。

 孫弟子の磯崎(当初は丹下事務所に籍を置いていた)に対しても岸田は重要な役割を果たしたらしく、「作為に陥らぬように」という岸田の助言は磯崎にとって重い意味を持つに至ったそうです。大分県出身の磯崎 新のパトロンは彼の父の友人たち(実業家や医者などの文化人)でしたが、大分県立中央図書館(事実上の磯崎のデビュー作)の設計者になるときには実作のほとんどない磯崎に対して岸田が後ろ盾になってくれたそうです。こんなところからも大きな建築を実作するには結局のところ人間同士の信頼関係が大切なんだということに気付かされます。

 今年は磯崎 新が書いた本を二冊読んだこともあって彼に対する興味からこの本を読んだのですが、丹下健三についてももっと知りたいという気分にさせてくれました。ということで年が明けたら丹下についての本も読んでみることにしましょうか。

 最後は番外として冒頭に記した野口冨士男の『風の系譜』(講談社文芸文庫、原本は昭和15年)をあげておきましょう。『風の系譜』というタイトルに惹かれて借りてきた本でしたが、そしてこの小説は戦前に書かれたものだったのですが、読んでみると結構面白かったのです。

 この小説は東京の花柳界における芸者の半生を描いた私小説と言われます。その芸者の息子が野口冨士男ということですがその家系はとても複雑でして、登場人物の人間関係を理解するために常に巻頭の人物紹介を見る必要があります。明治から大正にかけての時代に女性がひとりで暮らしてゆくのは大変なことで、芸者をしながら子供を育て、離婚しながらも離れられないダメダメな亭主(筆者の父)を励ましたり、その失敗の尻拭いをしたりという、現代で言えばキャリア・ウーマンのはしりといえそうです(と、解説に書いてあった)。

 その当時の東京の風俗や市井の様子が垣間見られるのも興味深かったですね。野口冨士男という小説家自体を知らなかったし、芸者の世界も全く知りませんが、小説としては楽しむことができました。ただ、ラストは関東大地震(1923年です)の半年前に主人公の娘(すなわち筆者の姉)もまた自ら芸者への道を歩み始めるところで終わっているのが、なんだか唐突な終わりかただなという印象を受けました。

 


達成感のない講義 (2021年12月20日)

 よく晴れましたが寒い年末、今年もまた東京都立青山高校から大学模擬講義を依頼されて授業をやりました。昨年に引き続いてオンライン授業です。1、2年生の27名と先生1名が迂生の話しを聴いてくれました。

 今年は「建築耐震構造・温故知新」というタイトルで、明治維新以降の日本での耐震構造発展の歴史を講義しました。今回の講義は数年前に本学の大学説明会の際の模擬講義で用意したコンテンツをもとにして組み立てました。そのときは60分の持ち時間でしたが今回は90分とかなり長いので、楽勝でコンテンツを説明できると思ったのですが…、やっぱりダメでした。

 佐野利器先生が1915年に「家屋耐震構造論」を発表して世界で最初の耐震設計法を提案したという説明をしたところでちょうど一時間が経過しました。でも説明すべきスライドはまだ半分近く残っています。タブレットなどで聴講している生徒さんの疲労度を考えてここで五分の休憩を入れましたから、その後の現代へと続く説明は相当の駆け足になってしまいました。

 昨年も書きましたが、自宅のパソコンに向かって見ず知らずの生徒さんに授業をしても何の達成感も得られないのは本当に残念に思います(ひとりでひたすら喋りまくっていたねって家内から言われました)。相手は母校の生徒さん達ですからこちらとしてはそれなりの愛着(のようなもの)を抱いてやっていますが、聴いている高校生たちはどう思っているのかを含めて全くレスポンスがないので徒労感はいや増します。

 今回の授業内容は文系としても理系としても中途半端な内容といえばそうも言えるので(数式はニュートンの法則F=maただ一つしか出てきません)、彼女ら/彼らが何を感じ、何を考えたのか知りたいと思いましたね。以前は青山高校の教室で授業していましたが、その際には授業の最後に五分間ペーパーを書いてもらっていましたので、それを読むことで手応えが得られました。やっぱり一回こっきりの模擬授業は対面で行いたいものですなあ…。


都心に出ると… (2021年12月19日)

 この週末、愚息の学校の保護者会が初めて対面で開催されたので行ってきました。COVID-19の市中感染は続いていますので、各家庭からおひとり様まで出席可能ということでした。その学校に行くにはどうしても都心に出る必要があって、しようがないので京王線に乗って新宿駅に出ました。年末のせいでしょうか、週末にもかかわらず西口地下の混雑は平日並みでして、久しぶりに人波に揉まれてかなり疲弊しました。でもフツーのサラリーマンにとってはそんなことは日常茶飯事なんですよねえ、全くもって頭が下がりますな。

 そこからJR山手線に乗ろうとしたのですが、新宿駅西口地下のJRの改札口が随分と移動していてまたもやびっくり仰天しました。新宿駅は常に改装工事をしているのでそんなことは当たり前なのでしょうが、いつもの場所に自動改札機が無くなっていて人びとが自由に往来しています、ありゃどうなってんの…ってもう、完全に浦島太郎、おのぼりさん状態ですよ、あははっ。ものすごい人波に抗って進むうちにやっと新しい改札口を発見しました、ああよかった。

 さてお目当の保護者会ですが、クラスごとに子供の席に座らされて、なんとその場でひとりずつ二学期の成績表を渡されたのです、これにもまたびっくり仰天です。自分の成績ならいざ知らず、愚息の成績ですからどんな顔をして受け取ったらよいのかしばらく思案しましたな。だって愚息とはいえ迂生とは別人格の人間ですから、その学業の成績は完全に彼個人の努力に帰結します。悪い成績だったらイヤだなあとか思うものの、自分ではどうすることもできないもどかしさ、とでも言うのでしょうか。成績配布のあと、担任の先生がクラスや学年全体の状況等を懇々とお話しくださいまして、愚息が“Theフツーのひと”であることが分かってひと安心しましたけど…。

 保護者会が終わっての帰路、久しぶりに高田馬場駅で下車してみました。駅前のビッグボックス(西武系の商業ビルの名称です)に三十数年ぶりに立ち寄りましたが、わたくしが若い頃とはすっかり様変わりしていてなんの感慨も抱きませんでした。せっかくなのでそこから山手線の線路に沿って新大久保駅に向かって歩き始めると、喫茶店のルノアールがまだあることに気がついて(場所は少し移動していましたが)それだけがわたくしの記憶と一致して嬉しかったです。

 そこから諏訪通りの交差点に出て、迂生が昔住んでいた新宿区百人町[ひゃくにんちょう]に向かうには山手線と西武線の線路の下をくぐるのですが、その通りが相当に拡幅されて様子が変わっていました。そのアンダーパスをくぐってすぐ左折したところから撮ったのが下の写真です。わたくしが大学生の頃に車で大学にゆくときにはこの通りを右折してアンダーパスをくぐったのですが、現在では「左折のみ」という看板がデカデカとあるように右折できないじゃないですか…。昔はこの看板のあるところを通り越して直進すると、迂生の師匠である青山博之先生のお宅に行けたのですが、今はその経路も不可になっていました。このような道路の拡幅が便利なのかどうか、大いなる疑問を感じました。


写真 諏訪通りの線路をくぐるアンダーパス 左折して進むと小滝橋[おたきばし]に至る

 このアンダーパスを(向こうから来て)くぐって左折すると線路沿いの道になりますが、そこにあった職業安定所(通称:職安)の事務所がどこかに移転していて(?)昔のようなごちゃごちゃとした感じは無くなっていました。都営アパートもなくなってちょっとスッキリしたようにも思えますが、季節柄寒々しさをさらに増幅するようなお寒い公園が広がっていて(ここは昔にもあった)、夕暮れどきも手伝って一抹のうら寂しさをおぼえました。このまま新大久保駅まで歩いて電車に乗って帰りましたが、とても寒かったことや久しぶりに一万歩以上歩いたためにとても疲れた一日でした。


片付けの季節 (2021年12月18日)

 寒い週末を迎えました。冬らしいといえばまさにその通りなのですが、冬至に向かう頃はやっぱりなんか物悲しい気分にひたります(わたくしだけかな…)。昨晩は雨降りを伴う暴風が吹き荒れてちょっとした嵐のようでした。

 さて、年末なので大掃除をして片付けをっていう話しではありません。本学での火事の出来については既に書きました。それが火事のレベルとしては極めて重大ということが判明して、年末に消防当局の全室査察を受けることになっています。そのために各研究室では片付けを始めたようです。ところがその片付けの最中に実験室等に保管してあった試薬をこぼしたりしたらしくて、9号館や8号館で立て続けに異臭騒ぎが発生しました。その臭いが都市ガスのそれと似ていたらしくて、当初はガス漏れを疑って東京ガスが点検に来たそうです。全く何やってんだかなあって思いますが、逆にいえば迂生のいる9号館にも危険物がたくさんあるということが白日の下に晒されたわけでして、それを思うと少しうそ寒く感じますな。

 このように他人さまのことばかり言っていますが、自身の研究室にも実は危険物がありました。それは、鉄筋にひずみゲージを貼るときに鉄筋表面を清拭するのですが、そのときに使用するアセトンです。准教授の多幾山法子先生が調べてくれて分かりましたが、アセトンは国が指定する危険物でした。迂生が学生の頃にはアセトンを肌に浸すと冷たくて気持ちいいなんて喜んでいましたが、アセトンは発がん性物質であることが分かってそのときにもうそ寒さを感じました。

 ということで壁谷澤寿一先生、多幾山先生、TAのM1諸君と一緒に片付け作業を行い、建築構造系で使っていたアセトンの瓶を一箇所に集めて実験室の鍵のかかる棚に保管するようにいたしました。これでひと安心ですが、点検書類の整備とか鍵の管理等がちょっと面倒なのは仕方ないのでしょうか…。


十二月もなかば (2021年12月14日)

 あっという間に十二月も半ばに来て、赤穂浪士討ち入りの日になってしまいました。COVID-19は日本では幸いにも感染者数が少なく推移していて嬉しいですが、新たな変異(オミクロン)株の今後の動静が気になるところです。ワクチン接種で日本よりも半年程度先を行っていた英国などの諸国でその感染が広がりつつあるので、やがては日本でも…というのが怖いです。とにかく出歩かず、マスクをしっかり着けて手洗いを励行するだけです。

 某センターの会議を久しぶりに現地対面で実施するとの連絡がありました。しかしこれだけオンラインの会議に慣れてしまっていては、そして前述のようにCOVID-19の脅威が去ったわけでもないので、都心の会議室まで行くのは怖いし億劫です。ということで熟考しましたが結局、この会議は欠席することにいたしました(軟弱です)。

 いずれはCOVID-19もフツーのインフルエンザ並みに格落ちすると予想します(し、そうあって欲しいと願います)が、そうなっても今さら対面会議に戻るっていうのはどうなんでしょうか。面と向かって話しあったほうが話しが早いときもあるでしょうし、以心伝心、阿吽の呼吸みたいな日本人の心性をくすぐる事象もあるのでしょう。しかし日本全国からかなりの移動時間をかけて一箇所に集まるというのは、今となっては相当のエネルギーの無駄という気がいたします。対面とオンラインとの併用というのが現実的な解だと認識しますが、会議を運営する側としては技術的な問題と手間ひまの問題とがあるでしょうから、なかなかそうなりそうもありません。しばらくは世の中の様子を見ようと思います。

 来年度の卒論の研究室選びですが、我が社を希望する三年生は(予想通りでしたが)ひとりもいませんでした。まあ、彼ら/彼女らにとっては面白くも何ともない構造力学だけを教えている(おっかなそうな)教員の研究室は魅力無しっていうことなんでしょうな、やっぱり。残念ですがこれも身から出た錆びということでいた仕方ありません…。

 これで来年度は新規に入学する大学院生もいないし卒論をとる四年生もいないということになりそうです。でもこれって三十年ほど前に都立大学に赴任した当初に戻るっていうことですから、研究室を畳んで行く過程としてはそれもまた良きかなと言った感じもします。大学の将来計画などもそろそろ若手の先生がたにお願いすべき頃合いです。それにしても、あとは若い人たちでお願いしますなんてセリフを吐く時代が来るとは思わなかったな、あははっ。


ある一件の始末 (2021年12月9日)

 先週土曜日に発生した本学八号館(旧理学部棟)の火災についての続報です。その後の経過が断片的に流れて来ますが、想像以上に大変なことになっているようです。幸いなことにけが人はいなかったのですが、消防庁による現場検証および実況見分が12月8日まで長引きました。そのあいだは建物を使うことができなかったみたいで(実況見分終了後に建物が大学側に“引き渡される”と通達メールには書いてありました)、なおかつ今後に保険会社による現場調査が入るので、それまでは火災や漏水などの被害状態の現況維持を要請されています。すなわち、あと片づけさえも手をつけてはならぬということらしいです。

 この被害を受けたのは八号館の半分近いエリアに及んでいて、研究室や実験室が当分のあいだは使用できないままに止め置かれます。これでは研究の実施は言うに及ばず、実験などの授業にも多大な困難をきたすと思われます。昨日発出された学長通達には「今回の火災は…非常に大規模なもの」との一文があり、消防当局および大学執行部による危機意識は非常に高いことが窺えます。これを受けて12月下旬に急きょ八号館および九号館(旧工学部棟、迂生の研究室がある建物です)の全室査察が消防庁によって実施されることになりました。全くもって大変な事態に立ち至りました…。

 殺伐とした話題なのでせめて写真だけでものどかな雪景色にしてみました。2012年1月の大雪の朝に撮影した写真です。左のベージュ色の建物が八号館で、この五階から出火したのでした。


   写真 雪景色の八号館(2012年1月撮影)


開戦から八十年におもふ (2021年12月8日)

 1941年12月8日に日本海軍が真珠湾を奇襲して対米英開戦に至ってからことしで八十年になります。1941年後半には日米のあいだで戦争回避に向けたぎりぎりの折衝がなされました。日本からは来栖三郎氏が特命全権大使としてアメリカに派遣され、現地の野村駐米大使とともにアメリカ側のルーズベルト大統領やハル国務長官との交渉に当たりましたが、その労は報われることなく開戦を迎えました。

 日本軍部はそもそも避戦などはなから考えてなかったようですが(戦争したくてうずうずしていた高級軍人がたくさんいた)、アメリカ側もそれは同じだったのではないかと想像します。なぜならハル国務長官は日本が到底飲めないような無茶苦茶な要求を突きつけて来たからです(ハル・ノートと言われる文書です)。外交では相手を追い詰めることなく話し合いを継続することで双方が歩み寄って解決を模索することが絶対的に必要です。ハルはそれを意図的に放棄して、日本側に抜刀させたとも考えられるでしょう…? 真珠湾攻撃は日本側のだまし討ちであるという言説が人口に膾炙していますが、それが真実かどうかはかなり疑わしいと迂生は思っています(なおこれは、日本軍部を擁護しているのでは全くないことをお忘れなく)。

 この八十年のあいだ日本が戦争を起こすことなく、また他国の戦争に(おおっぴらに)巻き込まれることもなく日月を過ごすことができたのは、大いなる僥倖であったと申せましょう。しかし最近ではグローバル化の行き着いた先の格差社会の出現にともなって世界の大国のあいだできな臭い雰囲気が強まっています。日本は多国間の紛争解決の手段として軍備を用いることは永久に放棄しました(憲法の定めるところです)が、自民党の政策によって他国の戦争に巻き込まれる危険性は高まっているように思えます。

 このような状況で、いくら分断されているからと言って対話を放棄しては八十年前の日米開戦の二の舞です。同じ誤った轍を踏むことなく、人類の叡智を結集して問題解決の手段としての戦争を根絶することが自由を尊ぶわれわれの債務であると考えます。


年末にいち大事 (2021年12月7日)

 先週の卒論中間発表会は夕方六時前のポスターセッションをもって終了しました。構造系および環境系の学生諸君に質問したり意見したりしてけむに巻いて来ました、あははっ。終わって会場をあとにすると外はもう真っ暗で、年末のうら寂しさが募って参りました。国際交流会館を出て八号館に向かって歩いているときに振り返って撮った写真を載せておきましょう。ガラスブロックのファサードと螺旋状のガラスの階段室が内部のライトによって浮き出ていて結構綺麗に写っています。



 さてこの週末の土曜日に八号館の五階で火事があって大変な騒ぎになったそうです(わたくしの研究室はその隣の九号館にあるので被害は受けなかった)。登校していて現場を目撃した同僚によれば、消防車や救急車だけでなくヘリコプターまで来たそうです。化学の実験室から出火したとのことで、想像ですが学生さんが何かの実験をしていたのでしょう。大学当局からは詳しいことは何も発表されていないので詳細は分かりませんが、新聞報道によれば約30平米が焼けたものの幸いなことにけが人はいなかったようです(12月6日に大学のHPに簡単な報告とお詫びが掲載)。

 現場は立ち入りが制限されているので分かりませんが、消火の際の放水によって上下の階は水浸しになったのではないでしょうか。そんなことになれば、その部屋の先生がたはあと片付けに追われるし、もしかしたら貴重な備品や蔵書がダメになったかも知れません。年末にそんなショッキングな事態に遭遇したら、おつらいことではないでしょうか…。

 しかし火事は怖いですね。本学は東京都の設置する公立大学ですが、同じ東京都の消防庁からしょっちゅう指導を受けていたみたいです。今回の一件によって、その査察や指導がさらに厳しくなるのではないかと怖れております。


言わなくなった (2021年12月2日)

 きょうはわが建築学科の卒論中間発表会が終日開かれます。卒業設計をやらない人たちはポスターで研究の途中経過を報告します。昨年はCOVID-19の蔓延のせいでポスター発表は中止されましたので、二年ぶりの開催です。

 そこで発表会場の国際交流会館に行ってみましたが熱心な先生がた(?)が集まっていて、ものすごい熱気でした。これって明らかな「三密」なんですけど…。でも、この「三密」って言葉、最近聞かなくなりましたよね、なぜなんだろうか。病院の待合室では一つおきの座席に座るような運用が相変わらずなされていましたから、人々が密集するのは感染防止対策上よくないことに変わりはないと思います。

 ということで、迂生は早々に会場を退散してきて今、これを書いています。このあと、午後は卒業設計をとる人たちの卒論最終発表会を対面でやって、そのあと夕方までポスターセッションの二回戦が実施されます。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:国際交流会館と9号館中庭20211202:IMG_1272.JPG


学習できないひと (2021年12月1日)

 師走です。早朝の外気温は年末とは思えないほど高くて16度もありました。今朝は日の出くらいまで土砂降りの豪雨でした。これじゃ駅まで歩くのも大変なので愚息を車で送ってやろうとしましたが、ヤツときたらこんな雨なのに傘も持たずに玄関に現れやがりました、アホか、おまえ…。まったく近ごろの若いモンは何を考えているのか分かりませんな。

 さて、札幌市が2030年の冬季五輪開催地として名乗りを上げるそうです。二千億円だか三千億円だかの見積もり額のようですが、2020+1の東京五輪のあり様を見てきた人びとはその金額を全く信用していません。IOCの強欲な守銭奴たちの独善ぶりをイヤというほど見たはずなのに、そして開催地には何もいいことがないことがはっきりと分かったのに、なぜ五輪をやりたがるのか。日本のようにある程度豊かになって成熟した高齢化社会に到達した国家においては従来の開発・発展型の五輪は不向きであることは明白でしょう。でも、多分それを分かった上で立候補しようとしているのですから、ホント胡散臭いですね〜。

 前回の札幌冬季五輪は1972年に開催されました。その頃の我が家はまだ貧しくて、木造平屋の社宅で暮らしていました。畳のうえに置いた石油ストーブに手をかざしながら白黒テレビから流れてくる「虹と雪のバラード」(札幌五輪のテーマソング)を聴いていた記憶があります。トワ・エ・モアという男女のデュオが歌っていましたが、女性の方(白鳥英美子さん)の口がやたらと大きいなあというイメージが脳裏に残っています。もちろんメロディも♪…君の名を呼ぶ オリンピックと〜♪という歌詞も憶えていますぜ、あははっ。

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 この頃は貧乏でしたし、そもそも両親とも車の免許を持っていませんでしたから自家用車なんぞあるはずもありません。わたくしが中学生になる直前に新宿区百人町の鉄筋コンクリート造五階建てのアパートに引越しました。一階には物置きだけがあるピロティ建物で車を数台置けるスペースがありましたが、都心のせいか車を持っている住人は皆無でした。それから数年経って高校生になり、ある日、学校から帰宅するとそのピロティに見慣れない車が停まっていました。そんなことはこれまでなかったので物珍しかったこともあって母にそのことを報告しました。

 すると母は「あっそれ、うちの車よ」って言うじゃないですか。もうびっくり仰天です、だって誰も免許を持っていないんですから。しかし、どうやら父がこっそりと車の免許を取って、いきなり新車を買ったらしいということがわかって二度びっくり! だって五十歳直前で車の免許をとるってフツーは考えられないじゃないですか。どうしてそんな気になったのか、今もって不思議です。

 忽然として我が家に来たその車ですが、日産の1600ccの大衆車でしたが(でも、サニーのような有名車ではなかった)、父の会社のそばのディーラーで格安で買ったらしくてなんだかヘンテコな色で(多分ベージュなんだろうが、それは明らかな肌色だった)、どう見てもステキじゃないんですよ、これがまた。センスないなあって感じなんですが、その頃も多分お金がそんなに無かったので仕方なかったんでしょうね。

 そんな(言っちゃ悪いけど大したことない)車でしたが我が家ではとても活躍してくれました。九州・鹿児島の指宿から四国、本州そして北海道の稚内まで、文字通りに日本国中を走り回りましたから。素敵じゃない車だったのでその外観写真は残っていないみたいですが(可哀想な車くん…)、1986年に同級生の中埜良昭や後輩の坂本成弘くんたちと北海道一周旅行に行ったときに撮影した車内の様子を載せておきます。運転しているのはわたくしですが、ハンドルが細いわりには大きくて、かつT形のスポーク部分にスイッチ類がなにも付いていませんね。今の車はその部分にゴチャゴチャとスイッチ類が搭載されていますので、やっぱり時代を感じさせてくれます。ドア脇に取り付けたドリンク・ホルダー(ポカリの青缶が載っている)が泣かせます…、今じゃそんなモンないだろうからな、あははっ。

 


十一月晦日 (2021年11月30日)

 十一月も晦日となりました。ここのところ体調がすぐれず、幾つか病院をたずねたりしたのですがよく分からないとか何ともないとか言われて、はあ〜でも具合が悪いんですけど…っていう状態です。思い返すと二十代の若い頃からそういう傾向はあって、精密検査をしても何ともないですねえってず〜っと言われ続けて来た人生なんですねえ、困るよホント。でも人間の体はこれだけ複雑なのですから、ホメオスターシスのちょっとしたバランスが崩れただけでも(多分)体調は悪くなるのでしょう。バイオリズムを自覚しながら、このように体調の悪いときには無理せずに静養するようにしようと思います。

 そんなこんなで基本は“自然治癒”でここまで生きてきたのですが、年齢を重ねたこともあってそろそろお薬の力も借りたほうがよいのかどうか、ちょっと気になり出した今日この頃でございます。

 さて、日本ではどういうわけかCOVID-19の感染者数が激減していて、その事実は嬉しいのですがその根本要因は分かっていません。これだけ科学が進歩しても分からないことだらけだということに気付かされます。人間の叡智などと偉そうに言ったところで所詮はその程度のモンだと思えば別に驚くこともありませんけど。事態が改善傾向にあるので忘年会をやるって人たちもいるようですが、わたくしはそんな気はしませんし、相変わらず都心に出ることも避けています。

 最新の変異株(オミクロン株と命名されたヤツ)が急に脚光を浴びて、こいつが悪そうだというので急きょ日本も鎖国を実施することになりました。わが国としては素早い決断で良かったと思うのですが、そうすると来日を予定していた外国人は原則として入国できなくなり、海外の指揮者とかバレエ団も当然ながら入国できません。それを楽しみにしていた人たちにとっては止むを得ない仕儀とは言え、かなり残念がっていることだろうとお慰め申し上げます。願わくばこの未知の変異株が日本国内に広がりませんように…。


Spilt milkをおもう (2021年11月24日)

 11月も下旬になると随分と肌寒く感じるようになるものですね。毎年経験しているのに季節の移ろいってどうしてこんなに新鮮なのでしょうか。四季それぞれが美しい日本に生まれ育ったためなのでしょうか、そのあたりはよく分かりませんけど…。

 さて、高校時代の担任だった英語の内藤尤二先生が教えてくれた英文に以下がありました。

 It is no use crying over spilt milk.

直訳すると「溢れたミルクを嘆いても役には立たない」ですが、これは日本語の「覆水盆に返らず」に該当します。で、昨日の晩御飯のときにまさにこれを地で行く事態が出来いたしました。わたくしがオーブンからグラタン皿を取り出して木製の下皿に載せようとしたときに、グラタン皿がキッチン手袋からスルリとすり抜けて落下してしまい、熱々の美味しそうなグラタンを床一面にぶちまけてしまったのです、あ〜あ、やっちゃった…。

 がちゃーんという大きな音がして家族が集まってきましたが、それを見ると皆、唖然としてしまってしばらくは静寂が支配しました。せっかくのご馳走がおじゃんになってしまったのだから当然です。このとき迂生の脳裏をよぎったのが前掲の”spilt milk” だったわけです、まあ今回は牛乳じゃなくてメイン料理だったんですけどね。

 年齢を経ると身動きもぎこちなくなってきて、今までは敏捷に動けたのにそれができなくなって参ります。今回は自分が置こうと思った位置の目測がちょっとだけずれて、お皿が滑り落ちたのだと思われますが、そんなことはこれまでなかったことでした。先日、オンライン会議で雑談した田中仁先生(かつて京大防災研)が年をとるってイヤなことだよねってしみじみ仰っていたのですが、そのことを身にしみて感じた出来事でした。これからはもっと注意深く行動しないといけないなと思った次第です。晩御飯はどうなったかって?…それはご想像にお任せします、あははっ。


耳ネタ2021 November(2021年11月23日)

 きょうは勤労感謝の日ですがわが大学は授業日になっていて、さらには一般推薦入試が行われるので登校しました。南大沢の駅前は通学する学生さんと三井アウトレットモールに来るお客さんとで普段以上に混雑していてちょっと驚きました。

 さて以前に書いたようにこの二年近くはずーっとクラシック音楽を(もっと言えばブルックナーの交響曲ばっかりを)聴いているのですが、ときおり若い頃に聞いた日本のポップスを想い出して無性に聴きたくなったりします。そんなある日、タワーレコードのウェブ・サイトをブラブラと見ていたら懐かしいアルバムにバッタリと行き会いました。

 それはREICO(レイコと読むみたいです)の『OFF LIMITS』という1985年にLPレコードとして発売されたアルバムでして、まだ大学院生の頃に当時住んでいた新大久保駅近くの貸レコード屋から借りてカセットテープにダビングして聴いていたものです。学生の頃はお金がありませんからLPレコードはなかなか買えません。近所に貸レコード屋ができたのを幸いにして、夜遅くに大学から帰る道すがらそこに寄って、なんだか知らないけれど良さそうなLPを片っ端から借りてカセットに録音するという生活を送っていたのです。安部恭弘、伊藤銀次、浜田金吾、大澤誉志幸などはこのような中から“発掘”した人びとでした。

 

 このREICOも一度も聴いたことがなかったけれどもちょっと気になって借りたアルバムでした。REICOは田口俊と堀口和男という男性二人のグループでしたがこの『OFF LIMITS』を出したあとすぐに消えてしまい、そのあとどうなったのかも分かりません。堀口和男さんというのはどういう人なのか今以て知らないのですが、もう一人の田口俊さんはハイファイセットや杉真理さんの曲の作詞をしていたことを知っていたので、その縁でこのアルバムを手に取ったのかも知れません。そのときのカセットテープはやがてどこかに行ってしまい、どんな曲があったのかも忘れてしまいました。

 しかし『OFF LIMITS』にはとてもいい曲があったことだけは憶えていました。このLPはその後にCD化されることもなく忘れ去られたようですが、どういうわけか今年になってビクターがリマスタリングしてCDとして発売していたのです(お値段は税込1980円)。こういうマイナーなアルバムって出たときに買わないとすぐに廃盤になってしまうので(だって売れないですから、あははっ)、これをサイト上で見つけたときには迷わずポチッとして買ってしまいました。

 こうして三十数年ぶりに聴いた『OFF LIMITS』でしたが記憶のとおりに迂生の琴線に触れる曲がいくつかあって嬉しかったです。その当時の流行にもれずこのアルバムでも打ち込みによる電子音が音楽のベースにありますが、それらがとげとげしく耳底に突き刺さるようなことはなく、なんか不思議なモヤっとした感じとか湿度感が全体を覆っているのが特徴かな。とても懐かしい感じがします。A面の最後の曲では車のワイパーの音がずっと流れているのですが、それが当時のオンボロ車のカーステレオを思い出させてくれました。

 アルバムラストの「ある日どこかで」は、10ccの「I’m not in love」のように人間の声を多数重ねたような響きになっていて、それが重畳的なコーラスと合わさることによって飛び切り心地よくさせてくれます。その歌詞は松任谷由実の「Reincarnation」を思わせるもので、前世で恋人だった二人が輪廻天生の末にまた巡り会えるかというちょっと不思議な内容です。この曲を知っているひとは多分ほとんどいないでしょうが(『OFF LIMITS』を買ったひとはどれくらいいるのかな…?)、ホントに名曲だとわたくしは思います。いやあ、このアルバムをもう一度聴くことができてよかったなあ〜。


手ぶくろの出番 (2021年11月18日)

 今頃は少しずつですが寒くなって参ります。今朝はこの秋ではじめて手ぶくろをつけて登校しました。ここのところ薄手のコートのポケットに手をつっこんで歩くということを続けていましたので、そろそろ手ぶくろの出番かなと思ったわけですが、ちょうどよかったです。

 さて十月初めから続いた設計製図の担当がやっと終わりました。終わりのほうの二回のエスキスは構造計画について相談したいひとは個別に研究室に来てもらうシステムに変えました。授業日の午後1時から6時くらいまで自由に出入りしてよいというやり方を初めて取り入れました。わたくし自身の拘束時間は長いのですが自分の研究室に座っていればよくて、学生さんが来ないときにはほかの仕事もできますので、結構効率よくエスキスできて良かったなと思っています。

 この構造エスキスによって二年生の半分くらいの学生さんと個別にお話しすることができました。今まではレポートなどで名前は憶えていてもどんな顔をしたどんな人なのかはほとんど分かりませんでしたからとても新鮮な気分に浸れました、なかなかよかったです。

 二年生は建築的には全く経験がないのでものすごい初歩から説明しないといけなくて、それをたくさんのひとに何度も言わないといけないのは苦痛でしたけどね、あははっ。


新しいコンテンツで授業する (2021年11月14日)

 先週水曜日の夕方、新しく作ったコンテンツで一コマの授業をやって来ました。ランダムに割り当てられた教員の授業を受けるということで学生諸君の食指が動かなかったのか、教室に現れない学生さんが数名いました。でも、ちゃんと来てくれた人たちが八名いたのでよかったです。こちらとしてはギャラリーが独りでも百人でもやることは一緒なので気分よく授業をすることができました。

   
写真 アートプラザ(磯崎新設計、1997年改修) 市川望さん2017年撮影

 授業では磯崎新さん設計の大分県立図書館が取り壊しの危機を乗り超えて保存されることになり大分市立のアートプラザとして再生するまでを物語しました。構造設計を村上雅也先生(千葉大学名誉教授)が担当した建物です。授業ですから折に触れて学生諸君の意見や感想を聞きながら進めましたので、時間はどんどんと過ぎて行きます。

 スライドは九十枚近く準備しました。これじゃ九十分の授業時間では足りないだろうなと思いましたが、案の定その通りでした。1966年に竣工した大分図書館のユニークで特異な構造を説明してから26mスパンの大梁の配筋図を見せて考えさせたり、建築計画上の問題点を指摘させたりしているうちに一時間以上が過ぎて、美術館として改修されたアートプラザの耐震補強について語ろうと思ったときには残りは五分しかありませんでした。ありゃ〜、これじゃ全然時間が足りません。スライドはまだ三十枚近く残っています。

 初めてやる授業ですし、学生諸君と双方向のやり取りをしながらですからまあ仕方ないのですが、それでも本筋はこの建物をいかに耐震補強して再生したかを説明することでしたから、いわばイントロダクションだけで授業が終わることになってしまいました。これじゃオードブルだけ食べてメインディッシュは食べられないというお預け?状態ですが、授業時間は有限ですからやむなく耐震補強の要点だけを説明して終えました。本当は学生諸君の感想や考えたことを聞きたかったのですが残念でした。

 なおこのコンテンツを作成するにあたっては、2017年度のプロジェクト研究コース(山田・角田・北山・青木・松本・猪熊の六教員による共同指導)に所属した市川望さんの修論が大いに参考になりました。その基本的な資料となった磯崎新編著『建物が残った 近代建築の保存と転生』も今回初めて通読しましたが、昔の磯崎さんの文章は今よりは読み易かったことに気がつきました。ここに記して御礼を申し上げます。

 多大な時間をかけてせっかく作った講義コンテンツですので、今後も手を加えながら何かの折に利用したいと思っています。そうだ、来年度から三年生対象の「鉄筋コンクリート構造」の授業を再度担当するのでそのなかで使ってもいいかな。そういう風にあれこれと構想を練るのが一番楽しいんですけどね。

 さてこの日は朝から夕方まで予定がぎっしりで、この授業を終えた頃には声がかすれて疲労困憊だったのですが、研究室に戻ると部屋の前に四名の学生さんが待っていました。そうでした、卒論配属のための二回めの研究室説明会をセットしていたのでした。最初の説明会には誰も来ませんでしたので、こんな夕方によく来てくれたっていう感じです。来てくれるひとは誰でもWelcomeですし、去るものは追わず、です。なんのこっちゃ、あははっ。


新しいコンテンツを作る (2021年11月10日)

 11月になって最初の教室会議の際に、来年度の卒論配属の研究室定員が議題になりました。随分と前からなるべく均一な人数になるように配分するというのが建築学科の大方針になっていて、今回もそれが踏襲されました。そうすると今回は一研究室あたり四名が標準なのですが、一名に限って増減を認めると学科長の角田先生が宣いました。

 実はその前に角田先生が雑談しに来たときに、我が社を希望するひとは多分いないだろうから研究室配属は二名にしてくれって頼んでみました。それはちょっとと難色を示されましたが、譲歩して一名減の三名は認めることにしてくれたみたいでした。でも、もう何でもいいやっていう破れかぶれ的な気分で会議の場で迂生はすぐには何も言いませんでした。

 ところが、しばらく間を置いてから寿一さん(壁谷澤准教授です)がおもむろに手を上げて配属は三名にして欲しい旨をその理由とともに明晰に発言しました。なるほどそう来たか〜、それなら我が社だって十分に減らしてよかろうと思って(他人頼みですけど、ガハハっ)、うちも三名にして下さいとお願いしました。幸い、その代わりに吉川先生(都市計画専門の学部長)が五名を引き受けるとおっしゃって下さいましたので、めでたく認可されました。吉川先生、ありがとうございます!

 ということで来年度の卒論生定員は三名となりましたが、実際に三年生諸君が来るかどうかは甚だ疑わしいことだと思っています。ここ数年の経験から、第一次選考にあぶれたひとが(気の毒な話しですけど)行くところがなくなってやむなく我が社に来ても、結局、卒論執筆のモチベーションが湧かずに何も成し遂げずに卒業して行くことが多かったので、それくらいなら我が社に来て貰わない方がお互いに幸せかなあと思っています。

 で、この研究室選びと密接に関わっているのが「特別研究ゼミナール1」という授業なのですが、今年度の角田・伊藤執行部の方針で1コマを使って十名程度の学生に研究室体験をさせるようにということに相成りました。そうは言っても我が社では最近は研究室ゼミも開いていないし、実験もしていないのでどうしようかな…。ちなみに受講者の十名はランダムに執行部が選んだ学生さんたちです。

 仕方ないので建築計画系のひとも理解できるように、でも迂生は耐震構造を専門としているので建築構造的な内容も含めた題材を用意して説明しながら、適宜、質問を投げかけて考えさせるというコンテンツを新規に作ることにいたしました。そういう風に思いついたのが一週間ほど前で、(自分で決めておきながら)仕方ないので過去の研究とか計算書とか図書館で探した書籍とかから写真や図面をスキャンしたりして、やっとの思いでそのスライドを完成したのが昨晩です。

 そのお初のコンテンツを今日の夕方、説明して参ります。一回こっきりの講義になりそうな予感もしますが(そうだとするとコスト・パフォーマンスが悪すぎるけど)、それでも初めての試みなのでどうなるかなあとちょっとワクワクしているただ今でございます。


早起きは… (2021年11月7日)

 秋が深まって気温が下がり、夜明けも遅くなってきましたので朝起きるのがつらい季節になって参りました。ただでさえそうなのに我が家では、愚息の学校の時間割がやっとCOVID-19対応を脱して入学以来初めて通常モードになったために起床時間が一時間以上早まりました。ということで朝の五時台に起きると外はまだ真っ暗なんですね〜。テレビの番組も見たことないっていう感じでしばらくは新鮮です、あははっ。

 でも慣れない早起きなので調子がつかめず、体も戸惑っているという感触がありありです。ただ、朝早く起きると清々しい気分のせいか頭がクリアな状態で仕事ができますし、一日が有効に使えるように思います。その代わりに夕食のあとは猛烈に眠くなって早々に床に入るようになってきました(なんだかジジくさいな)。いっぽう若者は元気なせいか遅くまでゴソゴソと起きているみたいですが、朝はちゃんと定時に起きてくるのでその点は偉いと思いますな。

 これって多分習慣の問題なのでしょうが、早起きがいいのか遅起きがいいのか、どうなんでしょうか…。昔から早起きは三文の得って言います。これは電気などなくてお天道様の運行に従って生活していた時代の箴言ですから現代にそのまま当てはまるとはとても思えませんが、皆さまいかがお考えでしょうか。


京王線の事件から (2021年11月3日)

 今朝は文化の日らしくよく晴れて気分がいいです。野川の岸辺ではすすきが銀色の穂先を伸ばし始めました。

 さて、十月末日に衆議院選挙があって午後八時の開票速報をテレビで見ていると「今、入ってきたニュースです」とアナウンサーが告げ、選挙とは無関係の傷害事件が速報されました。京王線車内で刃物を持った男が人を刺して放火した事件で、既に報道等で皆さんもご存知でしょう。そのうちヘリコプターの騒音がブンブンと唸り出して、その晩は結局深夜までずっとそれが続きました。事件の現場となった京王線国領駅は我が家の直ぐそばだったためです。


写真1 国領駅まえ(2021年3月撮影)
ガラス張りの建物は高松伸(元京大教授)の設計、チープな感じで結構驚く…

 大学に通勤するときには京王線の国領、柴崎およびつつじヶ丘の三駅のどれかを利用しています。国領駅前のコンプレックス(公共サービス、スーパーなどの複合施設)、病院、銀行等の施設にもよく行きます。そういう身近な場所が無差別テロの現場になったことにとても驚きました。走行中の車内を逃げ走る人たちの映像がニュースで流れましたが、その現場に自分がいたらやっぱり同じように逃げただろうと思います。車内では火の手が燃え上がっていましたので、その場にいたらどんなに怖かっただろうかと…。通り魔にたまたま遭遇して刺された方は大変に気の毒でお見舞いを申し上げます。

 上り特急は(通常は通過する)国領駅に臨時停車しましたが、ホームドアと電車のドアとの位置が合わなかったためドアが開かず、乗客たちが窓を開けて脱出する映像も流れました。京王電鉄の発表では両者がずれていてそのままドアを開けると乗客が転落する危険があったため、ドアを開けなかったということでした。確かに窓から出たひとがホームドア(下の写真の赤く塗られた扉)に足をかけたりしていたので、その状況でドアを開けたら危ないですね。


写真2 国領駅に停車した電車の窓から脱出する乗客たち(朝日新聞より)

 でも本当にそうだったのか…。ここから先はわたくしの想像です。普段から京王線は停車したときのドアの位置に敏感で、ホームドアと電車のドアの中心がちょっとずれただけでドアを開けずに、一、二分も停車したのちに電車を数十センチくらい動かしてやっとドアを開ける、ということがしょっちゅう起こっていました。でも車中の乗客もホームで待っている人もなんでそんな挙動をするのか分からずに、ポカーンと突っ立っていたり、イライラしたりすることが多いようです。だって、目の前にドアはちゃんとあるのですからね。

 このことから、今回の事件のようにホームドアと電車のドアの両方が明らかにずれているのは論外で、そうではなくて両者の中心がちょっとずれているだけでもドアは開けない、というのが京王線の運用プロトコルであったように思えます。ですから今回の事件でもそのプロトコルを厳格に適用して車掌はドアを開けなかったのだろうと推察します。しかし車内はそれどころじゃないわけですよね、刃物を持った暴漢が襲ってくるかも知れないし、火が燃え広がるかも知れないのですから。

 結局、停車してからも(京王電鉄の社内プロトコルに盲目的に従った)車掌がドアを開けないので焦った乗客たちが委細構わずに窓から脱出を開始した、というのが真相だと迂生はにらんでいます。以上は普段の京王線の運行状況に基づくわたくしの推量です。

 乗客が車両内の非常停止装置を作動させたために電車を動かせなくなったというのは想定外だったでしょうが、それでもやっぱり危機対応ができていなかったと言わざるを得ないと思いますね。安全確保を謳いながら今回の事件では車内の乗客の安全を確保できなかったわけですから、臨機応変の対応がやっぱり必要だったと考えます。

 京王線にホームドアが設置されたのは実は比較的新しくて、調布区間が地下化されたときの調布駅、布田駅および国領駅がその最初でした。そんなこともあってホームドアの運用が他社に較べてぎこちなかったのかも知れません。また国領駅のホームドアは写真のように上部開放型なので今回の事件のように電車の窓を開けてホームへと脱出することが可能でした。しかしその一つ手前の布田駅は全面ガラス張りの完全密閉型のホームドア(東京では地下鉄南北線のものと同じ)なので、電車の窓から出てもホームには脱出できない構造です。ですから、電車が臨時停車したのが布田駅ではなくて国領駅だったことは不幸中の幸いだったのではないかと思います。

 それとも、そこまで考えて特急の運転手が国領駅で停めたのかな、ってそんなことはないですよね、多分…。調布駅から柴崎駅までのあいだは江戸時代には布田五宿と言われたように甲州街道沿いに五つの宿場町が隣接して置かれていましたが、その駅間は非常に短いのです。新宿に向かって調布駅を出発した特急は一気に加速しながら通常は布田、国領などはあっという間に通過します。ですから今回の事件では加速中の布田駅では停まれなくて次の国領駅でやっと停車できた、というのが実態だと思います。

 ということで、事件の現場となった京王線の区間を日常的に使っている人間の視点から今回の京王電鉄の対応をみてみました。この事件の教訓を活かして電車の運用状態が改善されることを切に願います。


国民のこえ (2021年11月1日)

 11月になって薄陽の射す穏やかな朝になりました。一夜明けて昨日の衆議院議員選挙の結果が出ましたが、予想以上に自民党が議席を獲得したのとは裏腹に立憲民主党は十以上も議席を減らしました(正確には13議席減)。今回初めて全国的に野党共闘(といっても実質的には立憲と共産党との連携ですけど)が実現したので野党勢が躍進することを期待したのですが、世の中そんなに甘くないということが分かった選挙でした。国民の多くが、主義主張の異なる政党が団結したことに胡散臭さを嗅ぎとったのだろうと思いますが(そりゃそうだろうな)、それよりも共産主義という名目に対する根強い忌避感がその根底にあることを再認識いたしました。

 自民党と立憲民主党とが減らした議席はどこに行ったかと言えばそれは日本維新の会でした。大阪発のこの政党は主義主張としては自民党と同質であるとわたくしは考えていますが市井の人びとは必ずしもそうは考えなかったらしく、前回の四倍近い41議席を獲得して第三党に躍進したということです。自民党が絶対安定多数(261議席)を獲得したことと合わせてどうにも不思議ですが、これが国民多数のこえであって現実なのです。現在の与党が行ってきた政治の帰結としてもたらされた社会の分断を許容する、ということではないと思いたいですが、実際のところは分かりません…。

 わたくし自身が投票したひとは自民党の候補者に競り負けて、比例代表でも復活できずに落選の憂き目に遭いました(毎度のことですけど、あははっ)。きのうは小雨の降る肌寒い日でしたが投票所に来るひとは少なく、これでは自民党に有利だろうなあとは思いましたが、予想以上の顛末になったので結構驚きました。


十月末におもう (2021年10月28日)

 今日はこの季節らしくちょっと暖かで過ごしやすい陽気になりましたね。きょうは在宅勤務の積もりだったのですが、いろいろあって登校しました。研究室の学生さんとの個別ゼミが二つ入っていたのですが、今朝になって資料ができないので延期してくれって言われたり、大学で午後に相談したいって言われたり、もう学生さんの言いなりなんですから、ちょっとイヤになりますなあ。でもやっと研究しようという気になった?のでしょうから、そういうやる気に水を差すのもどうかと思い直して登校したという次第です。教育者の鑑じゃないですか、あははっ。

 この十月半ばに駒場のときの同級生が亡くなりました(悲しい話しですけど)。昨年初頭のCOVID-19が顕在化する直前に村上がクラス会を開いてくれて、そのときに会ったのが最後でした。駒場の頃の同級生で付き合いがあるのは十人くらいですが、そのなかで冥界に旅立ったのは彼が最初です。六十歳定年を迎えて再雇用されたりしているひともいますので、われわれもそういう年代に差し掛かったことを実感して寂しくなりましたな。

 で、お葬式の供花を常行くん(東大物理学科の教授)が駒場の友人一同という名前で出してくれました。その分担のお代を銀行で振り込み、せっかく銀行に来たのだからと(我が家の懸案になっていた)愚息の学校への寄付金もついでに払おうとしました。

 ところがその振込用紙に不備があったらしくて、このままでは受け付けられないと銀行窓口の方に言われてしまいました、せっかく清水の舞台から飛び降りる気分で(って大げさですけど)かなりの大金を払おうと思ったのに…。実は以前に家内がこれを払おうとしたのですが、寄付金を振り込むには本人(すなわち迂生です)じゃなけりゃダメって言われて退散してきた前歴がありました。おまけに本人確認のための証明書も提示しろって言うんですよ。

 こんなんじゃ学校への寄付金を払おうと思っても、ハードルが高過ぎて払えないじゃないですか。こりゃもう払うなっていう神の啓示としか思えんな、あははっ。そもそもわたくしは自慢じゃないけど自分が通った学校やこれまでに勤務した学校に寄付したことはありません(ただし使用目的を在校生への奨学金に限定した寄付は最近始めました)。それを払おうっていうのは、やっぱり自分の子供がかわいいからでしょうかね。これからしばらくお世話になるのだから寄付金は払ったほうがいいかなと思案した結果です。私立の学校に通う子供を持つ親御さんはどう考えているのか、知りたいところです。


秋のシーズン終わる (2021年10月25日)

 一気に秋が進んでしまい、もう冬が来たのかという寒さを感じるようになりました。週末の天声人語にオフコースの「僕の贈りもの」という曲が取り上げられていて(“夏と冬のあいだに秋を置きました…っていう歌詞です)筆者は迂生と同年代のひとだということが分かりました。1970年代始めころの歌ですからちょっと古すぎでは?って思いましたけど。

 さて東京六大学野球の秋のシーズンですが、東大は一足先に全日程を終了いたしました。昨日の最終戦をネット・テレビで観戦しましたが、法政大学相手に0-0で引き分けて惜しいことをしました。先発の奥野さん(四年、開成高校)が調子のよいときにはこのように「野球になる」のであとは打線の奮起だけでしたが、わずか4安打で得点できませんでした(三塁までランナーを進めたことはありましたが)。ただ、六回からリリーフした井澤さん(三年、札幌南高校)も相手打線を無安打に抑え、終わってみると法政大学も結局2安打しか打てませんでしたから、惜しかったと言えるわけです。

 これで今季の東大は一勝一分八敗という成績で終わりました。東大らしく?大敗した試合も多かったですが、一勝できたのはよかったです。いつも書いていますがやっぱりピッチャーが踏ん張らないと試合を作れません。今の東大の投手陣を見ると、上記の二人を除くと残念ながら勝てそうなピッチャーはいません。秋のシーズンなので本当は二年生投手が出てこないといけないのですが、何人か投げたひとはいるのですがことごとく打たれて全く通用しないように見えました。来期のことを考えると井澤さん独りではさらに厳しくなりそうです…。

 捕手は松岡さん(三年、東京都市大学付属高校)が一年生のときから神宮に出ていて、今季はものすごい強肩ぶりを発揮して二盗をバシバシ刺して活躍しました(昨日は二つ刺したがピンポイントの送球がすごい)。打撃もよくなって来て昨日は五番を打っていました。でも彼が不動の正捕手ということでそれはよいのですが、そのあとのキャッチャーが育っているのかどうか心配になります。まあ井出監督のことですから、そのあたりは抜かりなく手配りしているだろうと思いますけど。

 ということで来年はもっと勝ってほしいと無責任かつ勝手に思っています、はい。


今季初めて (2021年10月21日)

 急に秋が深まって気温が下がってまいりました。朝方あまりに寒かったせいか今朝起きると家内が暖房を入れていました。空調機のハードの設定を暖房モードに動かし、天井で回っている大型扇風機の羽の向きを変えたりといったセットも既にやってくれていました。室温は22度でした。そんなに寒いかなあと思いましたが、まあ文明の利器は活用したらよいですからその結果として快適になるのであれば結構なことかと思います。でも、暖房を初めて入れる時期としては例年よりもちょっと早いように感じます。

 いつもは早起きの愚息が起きてこないので起こしに行ったら、今日は学校の創立記念日で休みだって言います。ホントかあ〜って思って年間予定表を見ると確かに休校になっていました。随分と妙な時期に創立記念日があるなあと家内と首を傾げましたが、まあいいか。でも、それならそうと早く言えよな、あははっ。


成長と分配 (2021年10月20日)

 四年ぶりに衆議院議員選挙が公示されてその選挙戦が始まりました。今回は共産党の大幅な譲歩によって野党四党による選挙協力が実現したのが今までとの大きな違いですね。どこでもかしこでも見境なく候補者を擁立する共産党にはこれまで辟易としていましたので、大局を見た大人の判断ができるようになった共産党をちょっとだけ見直しました。

 それにともなって野党の盟主としての振る舞いをこれまで以上に求められる立憲民主党ですが、どうもそんな感じはなくて未だに“枝野商店”から脱皮できない党派のようにお見受けします。大丈夫なんですかね…、過去の民主党の無残な失敗が未だに脳裏に浮かんで参ります。それを払拭するための人心一新が必要なんじゃないかと人ごとながらに思います。

 さてその選挙戦での公約ですが、与党も野党もこぞって成長と分配を叫んでいます。成長と分配とをくるくると回してゆけば経済もよくなるって言うのですが、これまで三十年かけてできなかったことをどうやって実現するのでしょうか。その具体の方策をちゃんと唱えられるひとは多分いないのでしょうが、それでも耳触りのよいことばかりを何の根拠もなく叫ぶとは国民も甘く見られたものだとつくづく感じます。分配するためには原資が必要ですが、岸田首相なんか現状では赤字国債で賄うしかないなんて言っているのですよ。借金のツケは未来の日本人が払ってねってことですから、かなりまずい政策だと思わないのかな。

 年収が増えていないのは先進国のなかで日本だけとか言われますが、そもそもそうやって常に先進国とやらのお仲間に入らないといけないのでしょうか。世界を見渡すと、別に先進的ではなくても人々が幸福に暮らしている地域はいくらでもあるのではないでしょうか。常に成長し続けて世界のなかのトップランナーで居続けるみたいな目標自体が妥当なのか、そしてそのことが本当に人々の幸福を増進できるのか、よくよく考えるべきだと思いますけどね。

 結局のところ与野党が主張する、分配されて懐が温かくなって経済発展することが幸福なのだという幸福感のステレオタイプ化に人々がどれくらい賛同するのかという問題に帰結するように思います。これだけ多様性が叫ばれる時代にどうして幸福はひとつしかないのかという疑問を政治家たちは抱かないのでしょうか。どうにも不思議なんですけど、皆さんはいかがお考えでしょうか。


虫がこわい (2021年10月18日)

 今朝は一気に冷え込みましたね。我が家では家内の差配で数日前に布団の衣替えをしていたので助かりました。それでも寒かったくらいですけど…。

 で、明け方になって愚息が部屋から飛び出してきて、虫がいる!って大騒ぎになりました。どうやら小さな蛾がいたらしいのですが、大きな図体してなんでそんなに虫がこわいのか、分かりません。もちろん蛾は気持ちのいいものじゃないですけど、そんなに怖がるほどのものかと思います。でもお陰で家じゅうが起こされてしまって、寝不足気味で出勤しました。

 COVID-19が少し落ち着いたからでしょうか、二年ぶりにリクルータの先輩が研究室を訪問してくれました。某大手ゼネコンに勤める片江拡さんです。彼は三方向地震力を受けるRC隅柱梁接合部の降伏破壊について研究した我が社のパイオニアなので、後輩たちには(その執筆した論文によって)有名なはずです。元気で構造設計のお仕事に励んでいるようでよかったです。ただ、大学院で研究したことはあまり実務には役立っていない?ようでしたが…。まあ、これからも上手くやってください。後輩の面倒もよろしくお願いします。


オンラインで同窓会 (2021年10月17日)

 肌寒い雨の降る週末、高校の同窓会総会と懇親会がオンラインで開催されました。同窓会総会も懇親会も今まで一度も参加したことはありませんでしたが、時節柄、今回は初めてのオンライン開催ということで、例によって自宅に座っていて参加できるのでZoomにアクセスしてみました。楽チンです。

 総会なのであらゆる年代の卒業生たちが集まっていて、1950年初頭に卒業した方から最近の卒業生まで約400名がアクセスしていました。オンラインだとホント、ハードルが低くて参加するには便利ですな。でも幹事の学年の人たちはオンラインの運営やコンテンツ作りが大変だったようでそのご苦労と情熱には頭が下がりました。

 懇親会といってもZoomじゃだれかれと個別に話しができるわけじゃありませんから、一時間半くらいのあいだ幹事諸氏が作ってくれたインタビュー動画を見たり、同窓生から集めた思い出とかを紹介してくれました。OB・OGの筆頭が石田純一さん(俳優)っていうのもちょっとどうかな?とは思いますが(だって若いひと達は多分知らないでしょ)、落語研究会出身の日銀副総裁のひとは最近亡くなった柳家小三治さん(同じくOB)のことも話していました。そのほかジャズピアニストの女性とか料理作家の方とかいろいろのOB・OGの動画があってそれなりに面白かったです。多彩な人材を輩出していることの一端を垣間見ることができてよかったです。

 リアルの同窓会だと多分、恩師の先生がたの紹介やスピーチがあるのでしょうが(行ったことはないので知らないけど)、オンラインではどの先生が参加されているのか把握できなかったようでそういうことはありませんでした。ただ、恩師の先生たちについて語るチャットが飛び交っていて、あれ、この人迂生と同じ担任の先生じゃんと思ってその人の卒業年を見るとちょうど三年後の卒業でした。高校は三年で卒業するので当然そういうこともあるわけです。

 COVID-19の蔓延のせいで母校での模擬授業は昨年はオンラインでしたし、今年もオンラインで実施する予定らしいです。そういうこともあってしばらくは神宮外苑には行っていません。東京オリンピックが終わって神宮外苑の地はひっそりとしていることでしょう。今年の冬には二年ぶりに外苑前の地を踏むことができればなあと思っていたのですが、さてどうなるかな…。


憂鬱な季節 (2021年10月13日)

 今日は雨降りですが急激に気温が下がって肌寒いくらいです。予想通りに秋は一気に進みました。でも、これくらいだと気持ちよくてちょうどよいと感じています。

 このように秋は本来、気持ちよく過ごせる嬉しい季節なのですが、憂鬱なこともあります。それは来年度の卒論生の研究室配属の問題です。毎年、教室会議においてそのプロセスが議論されて多かれ少なかれ変更されます。今年度の執行部(角田教授・伊藤准教授)は研究室配属のプロセスをできるだけ透明化するという方針で、三年生諸君には第二希望まで書いて12月初頭に提出するように改められました。教員がフライングしてこっそり内定を出したりしてはいけない、ということになりました。もっとも、ここのところ数年は我が社を希望する学生さんはほとんどいないので、そういう制度の改変があってもあまり期待はしていません。というか多分、我が社には無関係でしょうな。

 先ほど、同じ構造系の高木次郎先生がフラッと研究室にお出でになり、今年の構造系の志望者は例年に増して少なそうだという憂鬱度を加速させるような情報をもたらしました。高木先生と迂生とが一緒に担当する「構造設計演習」(三年後期)という科目の履修者が七名しかいないそうです(例年は二十名くらいはいる)。そのあと壁谷澤寿一さんに聞いたら「建築構造実験」(三年後期)の履修者も十二名と少ないそうです。うーん、暗い話題が続きますな…。

 でも学生諸君の希望はこちらがどうこうすることもできませんので、来てくれるひとがいればいいなとは思います。ただ、こんな感じで研究室のActivityはどんどん低下しつつありますから、どうしようもないという諦観に今は支配されています、はい。実際のところアラ還の年齢に達した今、ガツガツと研究することもないように思っています。そうまでしなくても、今までの知識と経験とによって十分にやっていけるからです。そういう風に考えて見かけ上はのんびりしている先生って、学生さんからはどう見えるのかな?(まあ、どうでもいいけどね)


オンラインで文化祭 (2021年10月12日)

 ここのところ市中でのCOVID-19感染者数が減っていてよいのですが、その理由はなんなのでしょうか。変異株にはワクチンはあまり有効ではないと言われていましたので、もちろんワクチンは有力な武器だとは思いますが、それが主因なのかどうか。しかし今後の感染者数増大の再来を予測するならば、科学的な分析に基づいてさらなる対策を立ててほしいところです。

 ということで感染者数の減少を手放しでは喜べないなか、我が家の愚息の学校では文化祭がオンラインで開かれました。文化祭というとクラス単位で出し物をするのがフツーと迂生は思っていたので子供に何やるのって聞いたら、何もしないって言うんですよ、はあ〜?

 そもそも文化祭の前の約一ヶ月間はオンライン授業だったので学校に登校しておらず、出し物の相談などもそんなにできなかったみたいです。すごく自由な校風のようなので、学校行事に対して先生がたはあれこれ言うこともなく、生徒たちの自主性に任せているみたいでした。文化祭のパンフレットは立派なものができていて、それを見ると文化祭の担い手は主として実行委員会の有志諸君とクラブ活動のようでした。一部の熱心な生徒たちが盛り上がって、それ以外の一般大衆?はそっぽを向いているっていう感じでしょうか…。

 結局のところ愚息は自分の学校の文化祭には全く関心がないようでした(愛校心ってものはないのか、こらっ)。そこでせっかくなので迂生がそのサイトにアクセスしてみたら、何人かの先生たちが模擬講義を公開しておいででした。ある授業を覗いたら見たひとは少ないらしく迂生が四十八番目の聴講者でした、あははっ。

 ちなみにわたくしが都立高校一年生だったときには、クラスを二つに分けて「ジュリアス・シーザー」と「謎かけ鬼」という演劇をやりました。誰が脚本を書いたのかすっかり忘れましたが、わら半紙に刷った台本があったことは憶えています。わたくしは「ジュリアス・シーザー」のほうでしたが、(もちろんながら)主役ではなくてほとんどセリフのない市民Bみたいな端役でした。せっかくですからそのときの写真を下に載せておきます。舞台は自分たちの教室でしたから、後ろの窓には暗幕が、右側の黒板にも幕をかけてありますな。右端がわたくしで、中央は坂東くん(銀行員だったが独立したらしい)、左端は矢田部くん(広島の大学教員)です。


写真 高校一年生のときの文化祭(ジュリアス・シーザー)


苦行がはじまる (2021年10月11日)

 十月に入っても暑い日が続いています。早くしのぎやすくなって欲しいですが、秋は急に深まりますから、そうなればなったで暑い日々を懐かしむのでしょうな、きっと。

 さて今日から設計製図のエスキスが始まりました。二年生にとっては最初の本格的な設計課題になります。昨年までは猪熊純さんと一緒のチームでエスキスを見たのですが、彼は今年の四月に芝浦工業大学に栄転しましたので、今年はルーキー准教授の能作文徳さんと一緒です。課題は昨年と引き続きコミュニティー・センターですが、教員団の主要メンバーが変わったせいでしょうか、施設に要求される機能が大幅に変わり、さらには敷地も変更になりました。

 敷地は計画系の先生たちで相談して決めたようですが、それは調布市深大寺の国分寺崖線の南側の田園地帯でして、我が家の子供が小さい頃には自転車に乗せてよく連れて行った公園のすぐそばでした。奇遇だなあ、でも勝手知ったる場所のお陰で敷地を見にゆく必要もなく助かりましたけど、あははっ。

 ということでエスキスですが、最初ですからなんだか訳のわからんアイディアがたくさん出て参ります(その昔、芳村学先生は「星雲状のモノ」っておっしゃってました)。エスキスの回数が進んで設計案が固まってくるとストラクチャーについての議論もできるようになるのですが、この段階では迂生のようなデザインのアウトサイダーが出る幕はほとんどなく、エスキスの場にいなくてもいいんじゃないかと思うのですが…。とにかくしばらくはひっそりと椅子に座って学生諸君の設計案を眺めることになりますが、それはかなり苦痛です。そろそろこのお役目は免除して欲しいなあと思っています。


ナンバースリー (2021年10月7日)

 ナンバー・スリーっていったら、やっぱり3番サード長嶋かなあ(古すぎて若いひとは知らんだろうが…)。子供のころは中目黒に住んでいて神宮球場が近かったため、同級生たちはヤクルト・スワローズのファンが多かったみたいですが、東京ではプロ野球といえばやっぱり巨人と相場が決まっていました。

 迂生もそのころはジャイアンツしか知らず、目黒銀座のスポーツ店で巨人の柴田選手(確か背番号7?)と高田選手(背番号8?)のサイン会があったときには嬉々として出かけて行って、サインをもらったことを憶えています。ただ、ジャイアンツのファンだったかといえばそんなことはなく、長ずるに従ってプロ野球全体に対する興味を失って行ったように思います。そんなことより自分の周りのものに興味津々というような感じでしょうか。

 おっと本題は野球ではなくて、ここのところ聴き続けているクラシック音楽です。今日のナンバー・スリーはセルゲイ・ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番になります。ラフマニノフはピアニストとしても卓抜したヴィルトゥオーゾだったそうで、手が大きかったことでも有名です。広範囲の和音を一度に弾くにはそれはとても有利なことで、例えばピアノ協奏曲第二番の冒頭にピアノが奏でる和音(ロシア正教の鐘の音と言われる有名なヤツです)は手の大きな人じゃないと弾けないそうです(手の小さな人はその和音を一度に弾けないのでアルペジオにするらしい)。

 彼の作品には耽美にして叙情的なメロディーが多く、わたくしはそのような曲たちを好んで聴いています。代表的なものとしては、パガニーニの主題による狂詩曲のなかのアンダンテ・カンタービレ、チェロ・ソナタの第三楽章、交響曲第二番の第三楽章(アダージョ)、交響的舞曲の第一楽章出だしにあるサクソフォン・ソロの部分、ピアノ協奏曲第二番(全体)、ヴォカリーズそしてピアノ協奏曲第三番の第三楽章です。

 ラフマニノフのピアノ協奏曲は全部で四つあってどれもそれぞれに味わい深いのですが、やっぱりピアノ協奏曲第二番が一番有名でしょうね。わたくしも中学生のときに初めて聴いたラフマニノフがこれでして、全編にわたって漂う甘く切ない香りに驚いたものです、こんなクラシック音楽があるのかって。それは父親が買ったレコードでして、指揮者とピアニストは忘れたのですがオーケストラがアムステルダム・コンセルトヘボウ(昔も今もオランダのトップ・オケ)だったことを憶えています。

 ということでラフマニノフの入門はピアノ協奏曲第二番というのがお決まりのルートでしょうが、そこから先にはなかなか進まないものです。わたくしがラフマニノフのピアノ協奏曲第三番を聴いたのは第二番から約二十年後のことで、結婚して家内のCDコレクションにその一枚(末尾のCDリストの1番)を見つけたときです(このことは以前に書きました)。でもそのときには、ずいぶんと長い演奏だな(約45分)と思ったくらいで、まだその美しさには気がついていませんでした。

 ピアノ協奏曲第三番はピアニストにとっての難曲と言われていて、第一楽章の後半にあるカデンツァが聴かせどころです。このカデンツァをラフマニノフは二種類作曲しており、そのどちらを選ぶかも含めてピアニストの腕の見せどころということらしいです。ただ、迂生はそれにはあんまり興味がなくて(だってメロディとしては面白みがないんだもの…)、おおっすごいな〜とか、これはちょっとなあ、とかの感想を抱くくらいかな、あははっ。

 第二楽章は間奏曲(Intermezzo)という位置付けですが、感覚としてはアダージョ楽章に当たります。ここにも甘美なフレーズが配されていて、ちょこっと盛り上がります。第三楽章は第二楽章の終末から連続して(アタッカで)演奏されますが、そのつなぎの部分が演奏者によってかなり異なっていて、聴いていて興味深いです。第三楽章冒頭から約二分後に最初の甘美なフレーズがピアノによって奏でられ、ここで熱く歌うように訴えかけられるとボルテージが急上昇します。その主題は後半にもう一度ピアノによって演奏され、ピアノの連打音に弦のコル・レーニョ(弓をひっくり返して木の部分で弦を叩いて演奏する奏法のこと、ホルスト『惑星』の「火星」冒頭部が有名)が重なるとクライマックスはもうすぐそこです。最後にオーケストラ全体(トゥッティ)でこれでもかっていうくらいに切なく泣かせるように奏せられて(このあたりが指揮者によっていろいろあって面白い)ラフマニノフ流に盛大に沸き立って曲が終わります。

 ピアノ協奏曲第三番はこれまでに11枚のCDを聴きました。生の音楽と録音されたそれとは全く異なるもので、CDなどに録音された音楽(岡田暁生先生は「録楽」と呼んでいます)では演奏の出来だけでなくて録音の技術やミキシングなどを経た総体を聴いていることになります。ですからいくら演奏が上手くても、録音がよくなければ(ホールの残響や各楽器の出力レベルのバランス[聞こえ具合]なども含まれます)それは高評価には至りません。

 その録音を再生する装置や空間等も本当は重要になってきますが、コアなオーディオ・ファンでなければそこはかなり難しい問題でしょう。わたくしは通常はパソコンに取り込んだデジタル・ファイルをイヤフォンで聴いています。CDのデジタル・データをパソコンに取り込む際に離散的に周波数帯域が間引かれるのが通常でしょうから、その時点で音質は劣化します。そもそもパソコンは音楽を聴くように作られていませんから音響に関する電子回路はプアなはずで、それもマイナス点です。

 もう一つ重要なのが外からのバイアスでして、これは専門家による批評によって名盤(あるいは駄演)とされたものが該当します。しかし迂生自身の些細な経験からしても、その妥当性に疑問を感じることはよくあります。彼らはその道の専門家として知識が豊富で、長年の経験からそれなりの鑑識眼(耳?)はあると思いますが、その分野に属しているからこその偏見もまたあるのです。それを生業にしているためにその業界と癒着しているとは度々言われることです。ですから、それらの批評は参考にはいたしますが、結局のところは自分の耳で聴いて判断するしかありません。

 サイバー空間にはクラシック音楽愛好家による名盤評論のサイトが結構あって(なかにはYouTubeチャンネルを持っているひともいます)、それらを見るのは結構楽しいです。でも、それらも話し半分という感じで受け止めます。ただし、わたくし自身の感性と合致するかたを偶然にも見つけましたので、その批評はかなり信用しています。

 ということで前書きが長くなりましたが、ピアノ協奏曲第三番のわたくしの名盤は(現在のところは)デニス・マツーエフ(ピアノ)、ヴァレリー・ゲルギエフ(指揮)、マリインスキー劇場管弦楽団(演奏)のディスク(録音は2009年、末尾のリストの8番)です。ちなみにこの演奏を名盤として取り上げている方は(一般人、評論家ともに)見たことがありません。演奏のスピードは早い方ですが、録音が良くて音場が粒立っており、ストリングスがマットに響いてとても気持ちがよいです。

 マツーエフのピアノは力強いですが、歌うところは大いに歌っていてロマンチックな気分に浸れます。ピアノとオーケストラとの一体感も十分で(当たり前のことのようですが、才気走ったピアノがオケを置き去りにするような演奏もあります)、そのあたりはゲルギエフの指揮の賜物でしょう。これは何となくですが、ラフマニノフを演奏するロシアのオーケストラはティンパニ(あるいは大太鼓)の鳴らし方に違いがあるように感じていて、マリインスキー劇場管弦楽団もロシアのオケですから同前です。



 ちなみにこれまで聴いたラフマニノフのピアノ協奏曲第三番は以下の通りで、ピアニスト;指揮者:オーケストラ、録音年の順に記しました。 このなかでわたくしの高得点盤は1番、4番、5番そして8番かな。5番のサンクト・ペテルブルク管弦楽団と8番のマリインスキー劇場管弦楽団がロシアのオーケストラですね。

 2番のアルゲリッチ盤は世間では名盤と言われているみたいですが、当時のお若いアルゲリッチはオーケストラ(シャイー指揮のベルリン放送響)に合わせようという気がないみたいで、縦の線があっていないように聞こえるところが多々あります。ライブのせいか録音もあまりよくなく、ピアノが前面に出すぎてオケがかなり奥まった音場になっています(特に弦の音色がボワっとしていてよくない)。なぜこれが名盤なのか、迂生は首をかしげますな。ライブで聴いていればその熱狂が伝わってきて名演となるのでしょうが、録音で聴くとそうはいかないという典型だと思います。ついでですが、これと併録されたチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番ではアルゲリッチがオケ(コンドラシン指揮のバイエルン放送響)を置き去りにして超絶スピードで行ってしまって迂生は唖然としました。

 3番のホルヘ・ボレット盤は演奏スピードがかなり遅くてそれが(わたくしの感性として)この曲に合っていないと思うこと、それからボレットのピアノ自体に覇気が感じられないことが大きなマイナス点でして、聴いていて陶酔感に浸れません。

 9番のカティア・ブニアティシヴィリは若手の有名株で、指揮は円熟期に入ったパーヴォ・ヤルヴィ、演奏は(わたくしの大好きな)チェコ・フィルなのでもう大いに期待しましたが、結論から言えば期待倒れでした。ブニアティシヴィリのピアノは上手なのですがなにか単調な感じで、迂生にはただ鍵盤を弾いているという風にしか聴こえず、そこにラフマニノフが込めた情熱や喜びを感じることができないのが残念です。7番のルガンスキー盤も同様な感想ですが、それ以前にこのひとはラフマニノフが好きでもなんでもないんじゃないかと思わせるような演奏でして、もう一度聞こうという気にはなりません。

 10番のトリフォノフ盤はなかなかいいのですが、第三楽章のラストの聴かせどころがもうお涙頂戴と言わんばかりの(指揮者のネゼ=セガンが急にテンポを落としたり間を伸ばしたりする)思わせぶりな歌わせぶりで、日本でいえば浪花節っていうんでしょうか。好きなひとはそれがたまらんのでしょうが、わたくしにはそれがあまりにやり過ぎてかえってあざとく感じるところが玉に瑕かな。この部分に差し掛かるとドサ回りの売れない演歌歌手を思い出して(誰だそりゃ?)、迂生はどうにも笑ってしまうのですよ。

 11番のベフゾド・アブドゥライモフは弱冠三十歳の若手ピアニストでゲルギエフ指揮、オケはコンセルトヘボウということでこれもなかなかいいのですが、第三楽章の最後の聴かせどころでピアニストが若干のタメを作るのですが、それが迂生は気に入りませんでした。でも、第一楽章のカデンツァを含めてレベルは高いので一般的には良盤と言えるように思います。

1 タマス・ヴァーシャリ;ユーリ・アーロノビッチ:ロンドン交響楽団 1976
2 マルタ・アルゲリッチ;リッカルド・シャイー:ベルリン放送交響楽団 1982
3 ホルヘ・ボレット;イヴァン・フィッシャー:ロンドン交響楽団 1982
4 ウラジーミル・アシュケナージ;ベルナルト・ハイティンク:アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 1985
5 ミハイル・ルディ;マリス・ヤンソンス:サンクト・ペテルブルク管弦楽団 1992
6 ベルント・グラムザ;アントニ・ヴィト:ポーランド国立放送交響楽団 1996
7 ニコライ・ルガンスキー;サカリ・オラモ:バーミンガム市交響楽団 2003
8 デニス・マツーエフ;ヴァレリー・ゲルギエフ:マリインスキー劇場管弦楽団 2009
9 カティア・ブニアティシヴィリ;パーヴォ・ヤルヴィ:チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 2016
10 ダニール・トリフォノフ;ヤニック・ネゼ=セガン:フィラデルフィア管弦楽団 2016
11 ベフゾド・アブドゥライモフ;ヴァレリー・ゲルギエフ:ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 2017


二回め (2021年10月4日)

 台風一過でスッキリと晴れたこの週末に、COVID-19用ワクチンの二回めを接種しました。わたくしの住む市では予約なしのワクチン接種が始まったせいでしょうか、1回めのときよりもかなり混んでいました。ちょっと暑くなったせいでしょうか、注射のあとにポカリスエットをくれました。

 さて副作用ですが、その日の夕方くらいから頭痛、倦怠感、節々の痛みなどが出てきました。風邪を引いたときとそっくりそのまま同じ症状でして、気分が悪くて眠れませんでした。翌日になると37度台半ばの発熱とともにそれがひどくなってきました。結局、接種後二日めは終日横になって過ごしました。感染の予防に必要だと分かってはいますが、こんなに具合が悪くなるとなんだかなあって思いますな。

 ちまたのCOVID-19感染者数は減少しているようでそれはよかったのですが、ここに来てなぜ減ったのかはよく分からないらしいです。そのうちに第六波がやってくるのは確実でしょうから、ワクチンを打ってそれに備えることができたのはまあよかったのでしょう(と、思うことにする)。

 今朝は久しぶりに電車で登校しました。今日から後期の授業が始まります。前半は設計製図の担当で、今年も構造設計ガイダンスを依頼されましたのでそれからスタートです。図書館に『査読の技法』という書籍の購入をリクエストしていたのですが、それがめでたく認可されて購入してくれたので、図書館に取りに行きました。でも開館時間がCOVID-19対応のせいで遅くなっていてまだ開いていませんでした。しばらく門の前で待っているあいだに撮ったのが下の写真です。

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秋から春へ (2021年9月30日)

 昨春、COVID-19の猛威によって小学校から高校までが軒並み休校になったときに、この際大学は秋入学へ移行すべきであるとの議論が突如として沸き起こりました。当時の安倍首相もそれに大いに乗り気になったけれども経済界をはじめとする世間の激しいNon表示によってあっという間に下火となり忘れ去られました。

 さて迂生の本棚にあった『東京大学の歴史』(寺崎昌男著、講談社学術文庫)という本をパラパラと見ていたら四月入学や九月入学についての歴史が書かれているのに気がつきました。それによると日本最初の大学である東京大学ではもともと九月が学期の始まりであり、これがその後、大正時代の半ばまで帝国大学や東京帝国大学にも引き継がれていました。しかし1890年代の初めに小学校や中学校が四月始まりに変わりました(政府の会計制度と徴兵制度とが主因らしいです)。さらに1905年に文部省が今後新設の学校では四月一日を始まりとするという決定を行いました。

 このように世間からじわじわと圧力を受けたことから、大学でもやむなく1921年から四月開始になりました。すなわち入学時期が当初の秋から春へと変わったのが、今からちょうど百年前だったのです。外圧によってやむなく春入学へ移行したわけですが、その一番の理由は高等教育修了までの修業年限をできるだけ短縮したいという政府側の意向だった、と同書には書かれています。

 ここで『帝国大学』(天野郁夫著、中公新書)を読むと、学校制度が複雑かつ複線的だった当時において大学入学の平均年齢は22歳から26歳くらいで大学を修了する頃には30歳くらいになってしまう、当時は人生五十年の時代だったから日本を担うエリートの活躍年数が減ってしまって国家の損失だ、というのが修業年限短縮の理屈とあります。

 なるほどその頃の大学生はその数は少なく日本における真のエリートだったので、その活躍が日本国を支えていたというのは理解できます。ところが現在では大学進学率は50%を超えて大学は大衆化し、人生は八十年を超えるほどに高齢化しています。幸いなことに徴兵制も現代にはありません。なによりもその頃と較べると現代は格段に豊かになりました。それらを思うとき、現状ではもっとのんびりゆっくり勉強しても困ることはないでしょうから百年前の九月入学に戻してもよかろうとも思うのですが、どうでしょうかね?


丁寧で寛容 (2021年9月29日)

 自民党の総裁選挙が終わりました。大方の予想を覆して岸田さんが第一回目の投票から一位になって、河野さんとの決選投票ではシナリオ通り?に当選して総裁の座を勝ち取りました。最後は周到な根回しと派閥の論理とによって自分たちの顔を決めたのは従来の自民党らしいです。大きな地殻変動を嫌う、まさに保守的な性向が正面に出た選択だったと思いますね。それまでの選挙戦で国民に対して最も優しげに誠実に対応しようとした野田聖子さんをわたくしは密かに支持しましたが、政治はそんな甘っちょろい世界であるはずもなく彼女が国会議員票を30票以上獲得したのは善戦だったと思います。

 で、自民党の総裁となった岸田さんが最初の会見で言ったのが「丁寧で寛容な政治」でした。この方がどういうひとなのかよく存じませんが、世評では誠実であるということなので「丁寧で寛容な政治」という標語も本心から発したものと信じたいですが、どうでしょうか。「ひとの話しをよく聞くのが特技」とも言ってましたので、是非ともその初心を忘れずに丁寧に説明し、国民のあいだの溝を埋めるような寛容な政治を実行して欲しいと切に願います。


一勝のおもみ (2021年9月26日)

 九月になって東京六大学野球の秋季リーグ戦が始まりました。そして今日の東大―立教大二回戦で東大が7-4で勝利しました。最近の立教大学は強かったのでとても勝てる気はしませんでしたね。実際、前日の一回戦では一時は5点差をつけて東大がリードしていたので(見たことのない展開でしたが…)これは勝つかなとウェブ・テレビを見ていたのですが、7回以降に投手陣が自壊して大量失点して終わってみれば6-15の(いつものような)大敗でした。野球はやっぱりピッチャーですな。



 そんな感じでしたので今日、ちょっとスコアをのぞいたら先発の奥野さん(四年生、開成高校)が不調だったらしく1回に四球連発で2失点していて、こりゃあ今日もダメそうだなと思いました(ちなみに彼は今春にはものすごくよいピッチングをして勝利投手になったので、今季の東大の二枚看板に成長したようです)。

 ところが7回過ぎにスコアを見るとなんと東大が5-4で逆転しているじゃないですか。あわててウェブ・テレビを見ると前日の負け投手だった井澤さん(三年生、札幌南高)がリリーフで投げていました。9回表には二死からフォアボールと死球で出た二者を松岡さん(三年生、東京都市大学付属高)がタイムリー二塁打で返してさらに2点を加え、9回裏を井澤さんが立教打線を三人で仕留めて勝ち投手となりました。いやあ、嬉しかったですね〜。昨日の逆転負けがあったので一勝をあげることの大変さやその重みがひしひしと伝わってきました。試合終了のあとに球場から流れてきた「ただ一つ」を久しぶりに歌いました。

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 今日は大相撲秋場所の千秋楽で、新横綱の照ノ富士が13勝2敗で見事に優勝を果たしました。テレビ解説の北の富士さんが、一度めの大関の頃には彼は乱暴者だったが序二段まで転落してから大関に戻ってくるあいだに人柄が全く変わって立派になったと言っていました。土俵での態度などを見ていてもそれは感じられますよね。ただテレビで見ていても彼の両膝のサポーターは痛々しく、これからそんなに長くは相撲を取れないように感じます。

 今場所は横綱・白鵬が残念ながら休場だった(部屋からCOVID-19感染者が出たためで、彼のせいではない)ので横綱対決は見られませんでした。今後、彼らの対戦に期待したいと思います。

追伸(2021年9月27日) と思っていたら、白鵬引退というニュースが流れました。先場所久しぶりに優勝してその際立つ強さをあらためて知らしめましたが、体はもう言うことをきかない状態だったのでしょうね…。強い印象を残してやめて行くのもまたよいかなと思います。長いあいだご苦労さまでしたと労いたいと思います。

 白鵬にはその取り口が横綱らしくないとか土俵内外での態度が悪いとか常に批判があります。確かに見ていてそのように感じることもありました。しかしそれを置いても、十年くらい前に八百長や不祥事で大相撲全体が危機にあるときにそれを支えたのは横綱・白鵬だったことを忘れてはいけないと思うんですよね。また、あまりにも強くて憎らしいせいでしょうか、横綱は日本人じゃなけりゃみたいな間違った純血主義のようなものが時々の場所で観客達から発せられて、そのことが彼をどんなに悲しくさせたのか想像にかたくありません。彼の態度はそういう雰囲気に対する抗議の気持ちの表れであり、それは日本社会に残る偏狭さを映し出す鏡だったのではないか…。45回の優勝といい彼の功績はもっと強調され認識されるべきだと迂生は常々思っています。

 しかしこれで照ノ富士は孤高のひとり横綱になって茨の道が続くことになったのは気の毒です。もっとも最高位の横綱はいつだって孤独なのでしょうから、周囲のことなど気にかけてはいないのかも知れません。


一分200億円 (2021年9月23日)

 お彼岸です。日の出の時間がだいぶ遅くなってきました。秋の到来によって猛暑から解放され、カラッとした凌ぎやすい日々がやって来るのは嬉しいです。でも、これから秋の深まりとともに日の入りがどんどんと早くなって物悲しい気分にさせられるのはあまり好きではありません…。

 さて表題の一分200億円ですが、東京都心に新たに地下鉄を建設する計画が動き出したとの報道がありました。そのうちの一つに白金高輪駅から品川駅まで地下鉄南北線を延伸するというものがあって、それは約四分の乗車時間ですが建設費は800億円とありました。すなわち一分あたり200億円です、あまりの高額にギョッとしませんか。

 人口は確実に減少し、ヒトやモノの流動をともなう経済活動も確実に縮退します。品川駅を始発とするリニア中央新幹線は静岡県の反対によって想定通りの開業は不可能になりました。このような状況においてわずか四分間のために多額の予算をかけて地下鉄を建設する価値はあるのでしょうか。自民党の支持基盤のひとつである建設業を潤すためだろうことは想像にかたくありません。

 税金を投入するのであれば、もっと有益な使い途を考えて欲しいと思いますな。科学技術や研究への投資でもいいですし、COVID-19に効く新薬の開発でもいいですが、旧態依然としたバラマキ式の発想からそろそろ卒業して欲しいと願います。

 ところで来週には自民党の総裁選挙があって事実上の総理大臣が決まります。新聞・テレビとも四人の候補者(岸田、高市、河野、野田聖子)の動向をかなり頻繁に報道していますが(それはそれで興味深いが)、よく考えたら投票できるのは自民党員だけなので、われわれ市井の一般市民は無縁なんですよね。なんだかなあって思いますな。自国のトップが決まる選挙なので勝手にやってろ!とはさすがに言いませんが、でも勝手にやってもらうしかないというのが事実でございます、はい。


風のかたみ (2021年9月19日)

 フォークデュオの風(伊勢正三と大久保一久)は迂生が高校生の頃によく聞いていて、高校二年生か三年生のときに発売されたベスト・アルバム『古暦(Old Calendar)』はLP二枚組で4千円もしたのですが購入して今でも手元にあります。当時としても結構なお値段でしたが、お小遣いを貯めて買ったんでしょうね。そのアルバムでは伊勢正三と大久保一久との作品がLPレコード一枚ずつに納められていました。

 「22才の別れ」をはじめとして「ささやかなこの人生」、「海岸通」などのヒット曲は全て伊勢正三の作品ですが、大久保さんの作品にもとてもよいものがあって、わたくしのお気に入りは「あとがき」と「トパーズ色の街」でした。いずれも1970年代後半の作品です。「あとがき」は切ない歌詞と美しいメロディ(特に間奏のコーラスがすてき)とがとても好きですし、「トパーズ色の街」はひと夏のちょっとした出会いを秋口になってちょっぴりの悔恨を持って思い出すというノリノリのポップ・チューンです。


写真 大久保一久さん(伊勢正三Live BEST 〜風が聴こえる〜 より)

 なので風がまた復活して二人揃って歌い出してくれたら嬉しいなと常々思っていましたが、大久保さんの体調がよくないことは伊勢さんの時々の発信によって知っていました(彼はいつも大久保さんのことをクボヤンと呼んでいました)。そうして残念ながらこの九月中旬に大久保一久さんの訃報に接しました。彼のやさしげで温かな歌声はもう聞けないのかと思うと寂しさがつのって参ります。

 いつも書いていますが、若い頃から馴れ親しみ口ずさんで来た曲たちを作ってくれた人びとがポツンポツンと冥府へ旅たってゆきます。自身が歳をとればひと様も同様に一つずつ歳をとることは当然の理であって頭では分かるのですが、こうして一人ずつ去って行くのを知ると本当に寂しさに耐えません。

 素晴らしい曲たちを遺してくれた大久保一久さんに感謝して彼を偲びながら、もうふたりで唄われることは二度とない風の歌々を聴くことにいたしましょう…合掌。

 それは過ぎた二人の終わりに書いた
 “あとがき”にも似て淋しくなるだけ
 今も振り返ればあの頃は
 僕のうしろで暮らしていたのさ君は…… (「あとがき」作詞作曲:大久保一久)

追伸; ここまで書いて、先日たまたま聞いたFMラジオを思い出しました。そこではアルフィーの坂崎さんと高見沢さんとがオフコースのことを話していて、オフコースのもともとのふたり(小田和正と鈴木康博)によるオフコースの再結成はあるのかということを語っていました。坂崎さんによるとふたりともその気はあるみたいで、あとは何かのきっかけさえあればふたりで一緒に唄うこともあり得そうだ、ということでした。お二人が元気なうちに(バンド・サウンドになる前の)オフコースの素晴らしいハーモニーをもう一度聞きたいと思います。


オンライン会議で困ること (2021年9月18日)

 会議でも講義でもオンラインだと楽ちんなのでとてもよいのですが、困ることもあることに気が付きました。評価・評定などの委員会活動をやっていると、主催団体の方針によっては紙版の資料が送られてきます。それがファイル一冊くらいならばよいのですが、場合によっては大きなダンボール一箱がマルッと自宅宛に送られてきたりします。そのあと処理が結構面倒くさいんですねえ。

 たいていは宅急便の着払いの伝票が同封されますので、それを使って主催団体に送り返せばいいのです。ところが大きなダンボール箱だとそれを近くのコンビニまで持って行くこと自体が重くて大変です。その作業が面倒かつ億劫なので放って置くと室内にそれが溜まってスペースを圧迫します。ということで今朝、意を決してダンボール箱を車のトランクに積んで(重くてつらいので愚息に運んでもらいました、そういうときには役立ちますな)、登校する道すがらコンビニに立ち寄って返送したってわけです。

 資料はPDFとして送ってもらってパソコンの画面で見てもいいのですが、多量の資料をパラパラとめくってザッと見るときにはやっぱり紙版のほうが便利ですから、短時間で審議するときには紙版に軍配が上がるように思います。こんなことを言っているのは結局、贅沢でわがままな奴(=わたくし)ってことになりますな、あははっ。


このコーナーを更新する (2021年9月16日)

 カラッとして秋らしいよいお天気になりました。久しぶりに登校しましたので、このページを更新しました。オンラインでの開催となった日本建築学会大会とワクチン接種にまつわることどもを書きました。 皆さんの学会はどのような形式で開催されているのでしょうか、いろいろなアイディアを知りたいと思います。


ワクワクしないもの (2021年9月13日)

 非常事態宣言は相変わらず発令中です。東京について言えばほとんど年がら年中、出ているわけですから、これはもはや「非常」ではなくてフツーの「日常」に成り下がっていますよね。COVID-19の全国的な感染者数はやっと減少し始めて、その事実にはホッとしますが、医療機関の逼迫度は改善されていないので危機感は解消されず、潜在意識下においては不安な日々だと思います。

 さて、我が家ではCOVID-19に対するワクチンをわたくし以外は既に接種済みです。でも変異株の脅威や医療機関の危機的状況から、家の中でのわたくしへの圧力が日増しに高まりました。家族内にワクチン未接種の人間がいると結局のところ安心できずに不安だ…というのです。何度も書いているように新型のmRNAタイプのワクチンの安全性を迂生は信用しておりません。ですから今まで頑なにワクチン接種を拒んできましたが、身の回りの状況を考えるとそうも言っていられないようになって参りました、イヤだなあ…。わたくしの血を受け継いだ愚息には二回の接種で通常言われる以上の副反応はなかったみたいなので、まあ大丈夫かなあ、とも思います(子供を実験台にしているみたいでイヤな親父ですな、あははっ)。

 もちろん長いスパンでの副作用については誰も知らないことなのでなんとも言えませんが、もうそれは仕方ないかとも考えて年貢をおろすことにいたしました。ということでオンラインでの建築学会大会が終わったあとに、市の防災センターに設置された会場に行ってワクチンを打ってきました。わたくしは長いあいだ注射はおろか薬も極力飲まないようにしてきましたが、この非常事態!?ではやむを得ません。

 会場には係の人たちが驚くほど潤沢に配置されていて、この事業の手厚さに驚きました。国が音頭をとってワクチン打て打て言っているのですから、まあ当然かもしれませんね。予約は15分単位で割り振られていましたが、人波は途切れることがありませんでした。会場のいたるところの壁には写真撮影禁止っていう張り紙が貼ってあります。会場の様子を撮影して何か不都合があったのでしょうか、よく分かりませんけど…。

 すでにワクチンを接種した同年代の方々の体験を聞いていると一回めの接種のあとには腕が痛くなるくらいで特段の変調はなかったひとが多いみたいでした。ところが迂生の場合には腕の痛みは当然として接種したその日にものすごくだるくなり(倦怠感っていうヤツでしょうか)、気分も悪いし頭痛や関節痛も出てきました。おまけに無性に眠いのです。これが翌日まで続きました。こんな感じじゃ二回めの接種のあとはどうなるんだろうかと結構不安な気分に浸っているところでございます。


オンライン学会おわる (2021年9月10日)

 この日はオンラインの建築学会大会の最終日です。午後のセッションで自身の発表がありましたので、午後はずっとZoomに接続していました。一分間のショート・プレゼンは案の定、一分をかなり超えてしまいましたが、北山研と明治大学・晋研とで合わせて四編あったので全体では二十分のお時間をいただけたのでなんとか納まりました、よかったです。このセッションでは六十名くらいの方がアクセスしていましたが、大学の教室でやっていたリアルの発表とだいたい同じくらいの感じでした。

 初めてのオンライン学会でしたが、やっぱり質疑応答は低調だったように感じました。まあ、従来の現地に集まっての発表でもそれは同前なのですが、それに輪をかけて質問がなく、仕方ないので司会者だけが頑張って質問しているようなセッションが多かったですな。忙しい人にとっては事前に梗概を読んだり五分動画を視聴するのはやっぱり大変でしょう。これまで、研究の最先端を知りたくて現地の発表会場に赴いてそこでの発表を聞いて情報を収集するというbehaviorだった人たちにとっては、今回のオンラインの発表形式ではそれはほとんど不可能になったと思います。すなわち少なくとも(今回の形式の)オンラインの学会大会では情報収集の場というこれまでの機能は消滅したということでしょう。

 来年以降、建築学会大会がどのような形式で行われるのか知りませんが、オンラインでやるならばその意義や目的をあらためて議論する必要があるのではないでしょうか。しかし移動の必要がなく、ギャラリーが多くて部屋に入れないということも当然ながらなくて、わたくしにとってはとても快適でGoodな大会でしたぞ、あははっ。

 いっぽうで初めて専門家の前で発表する大学院生諸君にとっては、今回の形式のオンライン学会ではプレゼンテーションの重要性をあまり認識できないのでよくないように思いました。現地でのリアルの発表であれば、登壇してスクリーンを指しながら説明することが求められますし、質疑応答では周囲の反応が手に取るように分かります。そういう経験はやっぱり重要だと思いますよ。ですから若手にはリアルの大会で場数を踏んで経験を積むことがやっぱり必要でしょう。


オンラインで学会 (2021年9月7日)

 年に一度の建築学会大会が今日から名古屋工業大学で始まりました。とは言っても全てはオンラインでの実施でもちろん初めての経験です。初日は朝8時半から最初のセッションに参加しました。共同研究者の晋 沂雄さんたちの発表があったためです。これが例年の現地での開催であれば、満員電車やバスなどを乗り継ぐという苦行の末に会場に到着したときには疲れ果てているわけで、それが嫌なので朝一番のセッションには間に合わないことが多いのですが(すみません…)、オンラインなので書斎のパソコンの前に座ればすぐに参加できます。いやあ、これは楽です、いいですよ!(そんなものぐさ太郎はいないのかな…)。

 ただし個別の発表はあらかじめ公開された五分動画なので、それを事前に見ておく必要があってハードルは上がりました。オンライン・セッションでは一分のショート・プレゼンのあとで四分の質疑応答です。一分じゃほとんど何も分かりませんし、おまけに画面共有でモタモタするとすぐにタイム・アウトになってしまって、こりゃ心臓によくなさそうです。質疑だって会場にいれば周囲の様子がわかってその場の雰囲気みたいなものを体感できますが、オンラインではそんなことはできないのでその点ではやりにくいかな。

 でも結局のところ質疑応答は一対一のやりとりですから、Zoomでも十分にその機能は果たせると感じましたね。質問するのも(勝手知ったる)いつもの人たちでして、それは現地開催だろうとオンラインだろうと変わらない、ということみたいでした。

 そのあとはZoomのURLを変えて鉄筋コンクリート構造のパネル・ディスカッション(PD)に参加しました。これも移動の時間が不要だし座席を探してうろうろすることもなく、とっても快適です。ヘッドセットをワイアレスでパソコンに接続すれば、途中で台所にお茶を取りに行ったりトイレに行っても音声は途切れませんから、これまた楽ちんこの上ないですぞ。

 お昼過ぎにこのPDが終わってお昼ご飯を食べたあと、今度はプレストレスト・コンクリート構造のPDにアクセスしました。それが夕方まで続きましたが、朝一から夕方までこんなに熱心に学会に参加したのは久しぶりのように思います。これもオンラインになって自宅に居ながらにして学会活動ができることの賜物です。長丁場だったPDの最後のまとめで岸本一蔵さん(近畿大学教授)が「このPDが終わって飲みに繰り出すわけでもないので、もう皆さん元気が出ないでしょうが…」なんて言っていて、ちょっと笑いました。酒飲みにとっては学会のあとの“アフター・ファイブ”が生きがいなんだということを思い出しました。

 確かに現地での実施であれば、いろいろな人とリアルに出会って言葉を交わすことができます。自分の専門分野とは全く異なる知人にばったり出会って懐かしく思ったりすることもよくあります。そういう刹那的な邂逅はオンラインでは望めません。でも迂生の場合には年齢を重ねるごとにリアルでの活動が億劫になって参りましたので、このようなオンラインでの学会は大歓迎というのが正直なところでございます。

 こうしてそれぞれの発表ではパソコンの画面上でパワーポイントをみることになったわけですが、そこで気がついたことがあります。通常の現地開催だと前方のスクリーンに投影されたコンテンツを見るので字が小さいと見えませんが、自分の手元のパソコンであれば小さい字でも結構見えるのです。もちろん、一枚のスライドの情報量を厳選して少なくし、字もできるだけ大きくするのが分かりやすいプレゼンの大原則であることに変わりはありません。ただ、手元の画面を見ることが分かっている場合には、多少字を小さくしても大丈夫かなと思いました。


久しぶりに登校する (2021年9月2日)

 冷たい雨降りになりました。肌寒くて長袖のシャツに上着姿で出かけ、ほとんど1ヶ月ぶりに登校しました。 研究室がちゃんと存在していてよかったです、あははっ。このあいだに書きためていた雑文を以下にアップしました。おひまなときにでもお読みください。


ほぼ百年 (2021年9月1日)

 涼しいというかちょっと肌寒いくらいの九月の幕開けになりました。今日は防災の日ですが、もとをたどればこの日に関東大地震が発生したのでした。関東大地震は1923年のことですからほぼ百年が過ぎたことになります。

 わたくしが子供だった時代は関東大地震から約半世紀が経った頃でして、その当時には関東地震は約五十年間隔で発生すると言われていて、そろそろ大地震が来るぞという危機意識が社会全体で共有されていたように思います。そうやって来るぞ来るぞと言われているうちに1995年の阪神淡路大震災や2011年の東日本大震災が起こってしまい、結局のところ戦後の高度成長期に巨大化した東京圏は大地震動の洗礼を受けることなく現在に至っています。

 しかし現在の地震学の知見でも関東大地震はそろそろ来ると言われていて、経験的にもその可能性は高まっているように感じます。その決定的なイヴェントが到来したとき、自宅や大学にいれば多分生き残れると推量しますが、それ以外の場所にいた場合にはどうでしょうか…。生き残れるかどうかは結局、公共建物や人々の集まる建物あるいはインフラ・ストラクチャーの保有する耐震性能次第ということでしょう(海や川のそばにいた場合にはもちろん津波の危険にも晒されますね)。それはもう神のみぞ知る、の世界でして、自助努力ではどうにもならない領域でしょう。

 旧耐震基準で設計された民間集客建物の耐震補強は遅々として進みませんが、そのような古い建物では経済的な観点から建て替えが比較的行われやすいので、そうした既存不適格な建物群は総体としては減りつつあると思います(新宿駅前では富士重工の建物はすでに解体されたそうですし、小田急デパートの取り壊しと新築とが決まっています)。

 そうであれば、あとは個人の住宅と民間の集合住宅が問題となります。個人の所有物に対しては公権力は介入しないのが原則でしょうが、耐震性能の劣った建物が地震によって倒壊した場合には道路を塞ぐとか火災の発生源になるなど公共の福祉に反する事態を引き起こします。ですからこういった個々人の所有する建物の耐震性能を向上させることに税金を投入することは大きな意味では公共の役に立つことになります。このような筋書きは以前もこのページに書きましたが、そうした方向に公共政策の舵を切らない限り、大地震が発生したときに自分が生き残れるかどうかは大いなる偶然性の産物とならざるを得ないわけです。そんな“神頼み”でいいんでしょうか…。


八月晦日におもう (2021年8月31日)

 昨日まではかなりの猛暑でしたが今日はそれもおさまって、だんだんと秋に近づいているのかなと思わせます、新聞を見ると今日は二百十日でした…。ということで八月もこれでおしまいです。今月は結局、ほとんど登校せずに在宅で仕事をしました。今月後半からは大型構造物実験棟で岸田研究室主導の実験研究が始まりましたが、迂生が行ってもすることもなく役にも立ちませんので現場には行っていません。ケガや事故のないように安全に作業するようにお願いするだけです。

 ゴリ押しで有無を言わせず開催した東京五輪2020+1が八月にはいって終わり、そのあと甲子園での高校野球が二年ぶりに開かれたのはよかったのですが、お盆の頃の悪天候で中断や延期が繰り返されたのは高校球児の皆さんにとっては気の毒でした。あまつさえその待機中にCOVID-19の感染者がでた二校は出場を辞退して甲子園の土を踏むことなく去って行きました。東京での感染者数が五千人を超えるような頃でしたから、こんな時期に野球をやらなくても…という意見もあったでしょう。野球ができることに感謝すると言った選手も多かったみたいですが、結局これも(根っこは五輪と同じように)大人たちの事情で開幕に至ったというのが実情でしょうから、選手の皆さんは堂々と野球をしていればよいのです。高校生にこのように言わせた大人がよくないと思いますよ、やっぱり。

 有耶無耶のうちに五輪が終わって、COVID-19の猛威が続くなかで八月下旬には自民党の総裁選挙の詳細が決まりました。現職総裁は首相としての支持率はジリ貧で下がっているのに自身の再選に向けて諸事画策しているみたいですが、どうなんでしょうねえ…。フツーなら自民党にお灸を据えるために野党に投票するという気分がみなぎってもおかしくない世情なのでしょうが、なんせ野党のほうがからっきしだらしがなくて、ゴタゴタする自民党に付け入って政権を奪取するのだという気概が全く見えません。いやあ困った政治状況ですな…。K産党も野党の大連立によって本気で政権に加わる意思があるならば、まずはその党名を変えないと一般大衆からの大きな支持には至らないと思います。

 我が社の研究室活動ですが、今年三月に前倒しで今年度の研究室会議を三回開きましたが、それ以降はメンバーが集まらなかったこともあって研究室会議を開いていません。降伏破壊したRC柱梁接合部の軸崩壊の研究は科研費をゲットしたこともあって進める必要があるので担当学生を呼んで個別ゼミを開いていますが、M1も卒論生も経験がないためになかなか先に進みません。

 先日、同じテーマで共同研究している明治大学・晋 沂雄研究室と初めての合同ゼミをオンラインで開いたのですが、経験者の豊富な晋研究室の研究のほうが遥かに先に進んでいてびっくりして喜んだのですが、我が社の相対的に遅れた状況も明々白々になってがっかりしました。そのほかの大学院生諸氏に至っては何もコンタクトがなく研究しているのかどうかも分かりません(多分なにもしてないのだろうと思いますが…)。研究室としてはもう半ば崩壊状態といった体たらくでありまして、柱梁接合部の軸崩壊の防止法を考えるよりもまず自身の研究室の崩壊を食い止めるためになんとかしたらっていう感じですな…。

 結局のところ研究室メンバーの能力と素養およびやる気が重要であって、それらを具備した学生が何人かいないと研究室は回って行かないということを思い知らされました。そんなこと言わずに、そういうやる気のなさそうな学生さんになんとかやる気を出させて研究するように仕向けるのが大学教員の仕事でしょ、と言われるかもしれません。確かに若い頃にはそんな風に考えたこともあったでしょうが(あまり自信はないが…)、アラカンの今となってはそりゃ無理だわっていうのが正直なところです。


若手の論文を読む (2021年8月24日/26日)

 COVID-19の猖獗は納まる気配が見えず、ワクチン未接種のわたくしは外出を極力控えております。8月初旬のような激暑ではなくなりましたが、それでも外に出るとムワッとして蒸し暑いですな。

 さて今年の建築学会大会はオンライン開催になりましたが、そのような新しい試みの中でも若手の優秀講演の採点は実施されます。この実務を取り仕切るWGの主査は高橋典之さん(東北大学准教授)が務めてくれていますが、行きがかり上わたくしもそのWG委員に名を連ねています。そういうわけで、若手の発表をきいて採点する作業を割り当てられました。

 ひとり五分の発表動画のコンテンツはまだ配信されていないので採点できませんが、A4二枚の梗概は既にCD-Romで配布されたので、担当の梗概を読んで採点する作業を始めました。迂生の担当分には大学院生や大学院を修了したばかりという方の発表が多く、そういうお若い方々の梗概を分野を問わずにしっかりと(気合を入れて)精読したのは久しぶりなような気がします。高度専門家としてファミリアじゃない分野の研究もありましたので、適宜参考となる研究なども参照しながらの評価作業となり、結構な時間がかかりました。

 そうやって多くの梗概を精読した感想として、自身の研究に関連する(類似した)既往の研究をあまり調べていないようなものが多いように感じました。調べていないのか、あるいは知らないのか分かりませんが、このような研究は以前に見たような気がするぞ、というものが結構あるわけです。

 そのため、研究を始めてから四十年になろうとする迂生のような老?研究者から見るとどうしても不十分な研究のように思えてしまい、必然的にその評価は低くなってしまいます。でも、それって若手にとっては気の毒なようにも思います。研究経験がそれほどない比較的若いひとが採点者となった場合には、そのようなことに気がつかないかも知れませんから。

 鉄筋コンクリート構造分野には300編以上の投稿があってそのうちの200編近くを審査しないといけないので、採点者数も多く確保する必要があります。しかしながらそうはいっても上述のような若手にとっての評価の不公平?を減らすためには、採点者の年齢範囲とか研究年数とかを限定したほうがよいのかも知れません。

 結局は例によって他人さまを公平に評価するなどということが果たして可能なのかという問題に帰結します。こういう根本的な疑問を抱えながらも評価作業は粛々と行われて、表彰されるひととそうでないひととが選別されます。表彰制度が若手のやる気を引き出すことに寄与するというのはある程度は正しいのでしょうが、そうではない弊害もあるでしょう。なかなかに難しい問題だと思いながら、この作業に携わっているわたくしでした…。

 この文章を書いていて思い出したのですが、二十年くらい前に連層鉄骨ブレースで耐震補強したRC建物の耐震性能を評価する研究を我が社でやっていたとき、その研究をJCIで発表した加藤弘行さん(当時の大学院生)が「なんで今頃そんな研究しているの?」という質問を司会者から受けたと言って怒っていました。それまでの研究の経緯などの詳細をそれほど知らずに研究に邁進していた若者にとっては、そんな質問をされるとギョッとするんでしょうな、やっぱり。

 ただ、そういう質問をされた司会者の方は耐震補強についてのその道のエキスパートでしたから、迂生が上に書いたような感想を単純に抱いたに過ぎなかったのでしょう。この年齢になってそのときの司会者の気持ちが分かったようにも思えて面白味を感じました。


もうすぐお盆 (2021年8月14日)

 ここのところ日本中が梅雨どきのような激しい雨降りに見舞われています。かなり涼しくなっているのは体にはありがたいですが、大雨には難渋します。日本が熱帯雨林気候に近づいているとは最近よく言われますが、どうなんでしょうか。地球環境の変動は長い目で見ないと判断できないのが、過去からの観察結果のように思いますけど…。

 さてお盆のころは例年、大学院のレポートを採点して成績をつけることに当てられますが、今年もこの例に漏れず、ということになりました。今年度は構造系のM1の人数が多くて合計18名の履修者がありました(過去最多だと思います)。これだけのレポートを見るのはもうとても大変です。計算や数値のチェックだけではなく、途中経過の確認も必要だし、考察はもっとも重要なものとして採点で重視していますので、学生諸君が書いた内容を自身の脳をフル回転させて考えます。ごく稀に、こちらが想定しないような検討をしてくれる学生さんがいて、そういうときだけは脳内が非常に活性化し、もやが晴れたようなクリアな状況に至ります。

 これがアメリカの大学院であれば、こういうレポートの採点は博士課程レベルの優秀なTA(Teaching Assistant)に任せられるので(もちろんボスがTAを雇えるだけの研究費をゲットすることは必要ですが)、羨ましいなあなんて妄想しちゃうこともありますな。

 今まではかなり難しい課題をいくつか与えて、それを厳格に採点して1(不可)から5までの成績をつけています。出席して感想くらいを書いて出せばみんな「5」という授業はかつては多かったでしょうから、迂生の授業は学生諸氏にとってはコスパの悪い科目っていうことになるんでしょうな、やっぱり。でも齢を重ねて学生から見たらおじいさんのような立場になりつつありますので、そろそろ好々爺然とした成績評価に移行してもよいかななどと(柄にもなく)思うようになってきました。「仏の北山」ってやつですよ…自分自身でイメージできませんが…。もちろん上述のように採点が大変だというのがその根底にはあって、年齢を言い訳にして自分自身を納得させようっていうさもしい根性なんですけどね、あははっ。

 以前にこのページに書いた「建築構造力学3」のことですが、多分、このページを読んでくれたのだと思いますが壁谷澤寿一さん(准教授)が研究室にやってきて「鉄筋コンクリート構造」との授業交換を快く承諾してくれました。そのときに、芳村学先生が退職前に「授業ではもう教えないでロマンを語るんだ」と仰っていたという故事?を寿一さんが教えてくれました。ということでわたくしも芳村先生に倣って「鉄筋コンクリート構造」の授業ではロマンを語ることにいたしましょう。でも、それはそれで結構大変なような気もします、なんせ授業は半期15回もありますからね。


大学院の入試始まる (2021年8月11日)

 外に出ると猛烈な熱波が体中を包んできます、こりゃたまらん。生存の危機を感じるくらいの暑さですね。東京・八王子では昨日は39度まで気温が上がったそうです。この感じだと今日の南大沢(八王子の南に位置する盆地状の地形)では40度くらいになりそうだな…。

 こんなに暑いのに本学では今日から大学院入試が始まりました。いくら冷房が効いた教室で試験をするとはいえ日本各地から南大沢まで旅しないといけないので、受験者にとっては肉体的にきついと思います(若いから大丈夫なのかな…)。

 いつものことですが、日本の入試ってどうしてこんなに暑いときとか、真冬の極寒で雪もドカドカ降るときとかにやるのでしょうか。それが日本の伝統だ!みたいに言うひとがいますがそもそもそれは間違いだし、そうだとしても伝統に縛られては進歩は望めないでしょう。こういう不合理があっても仕方ないかという感じで日本の社会全体が思考停止になっていることがそら恐ろしくも感じます…。


宴のあとは… (2021年8月8日)

 八月八日って末広がりの八の字が二つ重なっていておめでたい感じがします。でも日本文化の導入元であった中国にはこの日を特段に祝うような風習があるとは聞いたことがありません。なぜでしょうかね。

 さて一年遅れで始まった東京オリンピックが今日、終わりました。メディアでは勇気と感動をありがとう!なんてせりふを連呼していますが、そうなんでしょうか。素晴らしい演技や驚異的な記録などを見れば、すごいなとか人間業とも思えないとかの感想は抱きますが、それをみて勇気をもらうっていうのはあるのでしょうかねえ。そうやって民意を煽って五輪への興味をかき立てようということでしょうが、いっぽうではCOVID-19の感染者数が過去最多を更新したなどという(こちらも戦慄的な)ニュースが流れているのですから、そのちぐはぐ感というか世情との乖離をどのように考えているのか、不思議です。

 そんなこと言わずに素直にスポーツの祭典を楽しめばよいというひともいるでしょう。でも、このような時勢で心のなかにおりのようなものを抱え込んだ状態では、他人さまがスポーツに励んでいる様子を見てそれを楽しめって言われてもねえ、っていうのが迂生の感想でございます。思考停止でなし崩し的に五輪を勝手に開催されたのに、終わってみたら開催してよかったっていう感想もどうかと思いますけど。

 八月六日は広島の原爆の日でしたが、五輪競技では公式には黙祷するなどの特段の動きはなかったそうです。上っ面なゼスチャーだけならしないほうがましですが、そもそもこの日が広島に原爆が投下された日だということを知らないアスリートや世界中の人々は多いと思います。そういうひと達に原爆の非道さを思い起こしてもらうためにも何かやったほうがよかったのではないでしょうか。少なくともIOCの会長をはじめとする商業主義に毒された五輪貴族たちにはそのような配慮の気持ちはなかったということですから、さもありなんとは思いますけどね。

 こうして宴のあとの日本には何が残るのか。それが人々のあいだの分断を加速したり、社会に空洞をもたらすようなことがなければよいのですが…。


都電の思ひ出 (2021年8月5日)

 八月になっても東京五輪2020+1は続いております。日本の蒸し暑い気候は外国の選手がたにとっても不評のようですが、そんなことは初めから分かりきったことだったのに今更何を言ってんでしょうねえ。

 さて前回の東京五輪1964ではその開催が決まった1959年を契機として東京の戦災復興施策が大きく転換されます。首都高速道路を河川や運河の上に架け、一般道路上に網の目のように敷設されていた都電を撤去して自動車交通の便益をあげることになりました。その当時も都電の廃止には賛成・反対の意見が拮抗していたようですが、アメリカ流のモータリゼーションの波には抗えずに1970年くらいまでには大方の都電が消えてゆきました。

 このように都電がだんだんと消えてゆく頃、迂生は幼稚園児から小学生でした。市井では都電のことをチンチン電車と呼んでいて、庶民の気軽な足として利用されていたと思います。わたくしが幼稚園くらいだったころ、我が家は中目黒の社宅に引っ越しましたが、その近くには既に都電は走っていなかったように記憶します。その代わり(かどうか知りませんが)トロリーバスにはよく乗っていました。

 わたくしの祖父母の家は大塚(文京区)と早稲田(新宿区)にありましたので、そこを結ぶ都電にはよく乗っていたと思います。お正月には最初に大塚の家に行き、そのあと夕方くらいに都電に乗って早稲田の家に行くというのが幼かった頃のルーチン・コースでした。都電荒川線はその大部分が専用軌道上を走っていたために廃止の対象から外れて現在も生き延びていますが、早稲田の祖父母の家はその専用軌道のすぐ脇に建っていました。停留所でいえば早稲田と面影橋[おもかげばし]とのちょうど中間です。下の図は当時の都電の路線図で、早稲田から出て面影橋で右に折れる赤線が現在の荒川線に相当します。

 

 ですから早稲田の家に行くと線路を走る都電の音や近くの踏切で鳴るカンカンという音を常に聞いていたわけですが、どういうわけかそれをうるさいとは感じませんでした。むしろ都電の音を聞くとそれだけで祖父母の家に来たことが実感されて安心したように思います。いつの世でもそうですが祖父母は孫をかわいがってくれますから、孫のこちらとしては祖父母の家に行くのはいつでも楽しみでした。

 早稲田の家に着くと、当時まだ元気だった祖母が「かず坊、よく来たな」と言っては近くの駄菓子屋などに連れて行ってくれます。大学教授だった祖父の書斎にはペン、文鎮、ハサミなどの文房具が大きな机の上にずらっと並び、ガラス戸のついた本棚には分厚い本たちが厳しく鎮座して小さかったわたくしを見下ろしておりました。それらを使って遊び、ふかふかのソファの上を飛び跳ねては怒られたものです。そしてお泊まりの晩には、都電の音を子守唄に聞きながら眠るのでした…。

 その家の南側は甘泉園[かんせんえん]公園に接しており、公園は小高い山になっていてそこ一面に木々が植えられていましたから(子供のイメージとしては森です)、陽当たりは良くなかったと記憶します。朝、目覚めたときにはなんとなく薄暗い印象だけが残っていますから。そうして目覚めと同時にまた都電の音が戻ってくるのでした。

 迂生が大学生の頃に早稲田近辺の都電の専用軌道は少しだけ北側に移され、線路だったところには新しい道路(片側二車線で、新目白通りと呼ばれる)が作られました。下に最近の様子を載せておきます。早稲田の停留所は終点なので、写真1の線路はここから画面奥に伸びています。写真2は早稲田からひと駅先の面影橋停留所に都電が停まっているところです。この写真は十年前のものですから、いまは新しいタイプの電車が走っているかも。


 写真1 都電の早稲田終着所(2017年撮影)


 写真2 都電の面影橋停留所(2011年撮影)

 わたくしが大学院生の頃に祖父が亡くなり、それを契機としてその家屋・敷地は人手に渡り、今はそこに縁もゆかりもないマンションが建っています。グランド坂上から新目白通りを結ぶ新道が開削されたことも手伝って子供の頃の面影はきれいさっぱりと消え失せ、今も残る甘泉園公園や水稲荷神社にわずかな名残をとどめるばかりとなりました。

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 大塚の方の家には、地下鉄丸ノ内線の茗荷谷[みょうがだに]駅あるいは新大塚駅から歩いて行きますが、いずれからも子供の足では結構遠かったと認識しています。1974年に地下鉄有楽町線が開業すると護国寺駅が最も近い駅となり、歩くのも楽になりました。迂生が中学生のときに中目黒から新宿区百人町の社宅に引っ越したので、新大久保駅から山手線に乗って池袋駅までゆき、そこで有楽町線に乗り換えるというのが経路です。

 春日通りの大塚仲町の交差点を護国寺に向かう道は下り坂になっていて、その途中の材木屋の角を左折して細い道に入ってゆくとやがて今度は急な上り坂となり、その道の行き止まりに祖父母の家は建っていました。

 今思えばその地は入り組んだ谷筋に飛び出した台地の端っこだったのでしょう。敷地の二面はお茶の水女子大学やその付属校の校庭に接していて、それらはいずれも崖上という位置関係でした。すなわち、お茶大のほうがコンクリート製の擁壁の上にありました。すぐ脇にあったテニスコートから軟式のテニスボールが時折飛んできて、小さかったわたくしはそのボールでよく遊んだものでした…。ちなみに祖父母の家が建っていた小台地の脇の崖下に高校時代の同級生だった山谷くんの家がありました。

 春日通りに都電が走っていて、仲町から上野広小路まで簡単に行くことができました。ある夏の夜、不忍池[しのばずのいけ]あたりで開かれていたほおずき市に祖父母が連れて行ってくれましたが、そのときに乗った都電をよく覚えています。当時の車内灯は今のような蛍光灯(最近はLED?)ではないので、ほんのりオレンジ色をした薄暗い車内とモスグリーンの座席とが脳裏にぼんやりと残っています。

 そのときかどうか定かではないのですが、祖母が気象庁かどこかに電話をしてその夜の天候を聞いていて、雨は降らないみたいだから出かけようということになったのを覚えています。今みたいになんでもネットを見りゃ分かるという時代ではなく、すべてアナログで処理されるのどかな時代だったのだと今は思いますね。

 このように迂生の思い出のなかに深く静かに沈潜していた都電ですが、21世紀になって地球環境に優しいとか省エネルギーに貢献できるとかの理由で路面電車の良さが見直されています。もっとも現在では路面電車などとは呼ばないでトラムとか称するみたいですが…(横文字にすりゃいいってもんでもないだろ)。それにともなって約半世紀前に都電をあっさりと撤廃したことを非難するような論調も聞こえます。首都高速道路についても同前でして、日本橋の上空を覆った首都高速道路を撤去して地下化するという難工事がついに始まりました。

 都電の廃止や首都高速道路の建設を今になって非難するのは簡単です。しかし高度経済成長の真っ只中にあり、戦災からの復興も叫ばれていた当時にあっては日本人の総意としての上昇志向は圧倒的に強くて(豊かになりたい!贅沢したい!という気分)、現在のような視点は全くなかったわけです(もちろん景観の保全とか自然保護を主張していた人たちはいたと思いますが)。

 首都高建設や都電の廃止によって当時の日本全体が得た恩恵は多分とても大きくて、その後の日本の経済発展に多大な貢献を果たしてきたと思います。その余沢に浴しておきながら、このような事実を忘れてそのことを非難するという精神性が迂生には理解できません。そこには原子力発電に対する毀誉褒貶と同じ構造を看取することができるわけでして、日本人の心性の偏狭なところ(行き当たりバッタリで、それまでの経緯をきれいさっぱり忘れてしまう)がよく表れていると思います。


やっぱりへん… (2021年8月3日 その2)

 久しぶりに登校して、やらなあかん仕事をバリバリやってます、あははっ。

 さて今年の建築構造力学3(二年生対象の不静定構造)の期末試験は一昨年同様に対面で実施しましたが、その平均点は32点でした(もちろん100点満点です)。一昨年は25点でしたので、それよりちょっといいかなというくらいのレベルですね。

 ところが去年の期末試験(COVID-19のせいでオンライン試験となった)では平均点がなんと59点だったのですよ。去年もこれはどうもおかしいなあとこのページに書いたのですが、今年度の対面試験の結果が例年と同様になったことからやっぱりどう考えても去年の試験結果は変であることが明白となりました。

 まあオンライン試験では実質的には何でもありですから、友人たちと分担したり相談したり、あるいは構造力学の問題を解いてくれるサイトを使って(そんなものがあるのかどうか知らんが…)解いたということがほぼ明瞭になったと考えます。いま、すごくイヤな気分に浸っております。

 でも、まあ仕方ないかと思います。学生諸君は単位が欲しいわけだし、試験の現場に誰もいなければ教科書を見たりノートを見たりすることを抑止するものは何もないのですから。自分自身が学生だった頃を考えても、そりゃまあ当然かなあと思いますよ。

 ということで公平な試験をするにはやっぱりオンラインは無理であるという昨年から言われていた事実を再確認しただけということでしょうか。それでもやっぱり何だかなあっていう脱力感でいっぱいでございます。かと言って試験の代わりにレポートにするというのは構造力学という学問の性格上、あまりよろしくないかと思います。

 三年前に壁谷澤寿一さんと相談して、教える科目を鉄筋コンクリート構造から建築構造力学3へと交換してもらったのですが、なんか建築構造力学3はもういいかなっていう気分になって参りました。定年退職までまだHalf-decadeほどあるのですが、もう一度、鉄筋コンクリート構造の担当にカムバックするのもありかなと思い始めています。もちろん寿一さんがうんって言ってくれないとダメなんですけど、まあ何とかなるか…。


久しぶりに登校する (2021年8月3日)

 お暑うございますが、皆さまお元気でお過ごしでしょうか。

 さてわたくしは東京五輪開幕直前に期末試験が終わってから、久しぶりに登校しました。猖獗を極めるCOVID-19がホント怖くて電車に乗るのに躊躇しております。ワクチン未接種なので気軽に出歩かないほうがよいと家族も言います。でもStay Homeでこなせる仕事にも限りがあるので、仕方ないので車で登校しました。年齢とともに動体視力が劣化しつつあるようでして、車の運転には結構注意しています。

 そういうわけでこのページをしばらく更新できませんでした。おうちで書き溜めた文章も日付順にアップいたしましたので、お暇なときにでもご覧ください。


七月晦日 (2021年7月31日)

 暑い日が続いております。世間ではCOVID-19の感染者数が東京で三千人を超え、日本全国では一万人を超えるという今までになかった状況にあります。東京五輪2020+1を実施しながら国民には自粛生活を強いる政治の不備は明らかです。ウィルスの変異株の出現がこの状況を加速させているのは事実でしょうが、現在のある意味異様な社会の雰囲気が感染者数の急増につながっているのは今となっては明白だと思います。

 東京五輪は八月上旬で終わりますが、開催中の八月六日は広島の原爆の日です。来日している五輪貴族たちがこのときにどのようなBehaviorを示すのか、今から注目したいと思います。IOC会長は広島を訪問してかえって顰蹙を買いましたが、それは日本の市井に澱のようによどむ五輪反対の通奏低音を払拭しようという下心が見え見えだったからでしょう。そのような自己の利益に基づく行動ではなく、ひとりの人間としての真情を見せてくれさえすればよいのですが…。

 この世情ですので外出は極力避けております。期末試験が終わってからは在宅勤務にしていますので、冷房の効いた室内で快適に過ごしています。家のなかでゴタゴタがあって研究室の個別ゼミを延期していましたが、これをオンラインで再開しようと思っています。そろそろ、実験研究の試験体を設計して作製に取り掛からないと、卒論に間に合わなくなりますから…。


東京オリンピック2020+1 (2021年7月28日)

 先週からついに(というか、ほんとに?っていうか…)東京オリンピック2020+1が始まりました。COVID-19の東京都内での感染者数は三千人を超えるのも時間の問題というくらいに急増しているのに、東京の東の方では世界中から集まった選手の皆さんが自身の競技に専心しているわけでして、このアンビバレントというか中途半端というかマッチポンプというか、とにかく何か常軌を逸しているような気がしてなりませんな。

 一所懸命に競技している選手の皆さんには罪はないのでしょうし、メダルを獲得したと聞けばすごいねおめでとうとは思いますが、それもなんか手放しで喜べるような気分には到底なれません。不安のおりを心の底に抱きながら鬱々として楽しめず、祝祭にもほど遠い五輪にどのような意味があるのか。この、ある意味、画期的な五輪は将来に歴史となったときにどのように総括されるのでしょうか…。

 それにしてもIOC貴族たちの振る舞いがいちいち癪に触って鼻につきます。彼らは日本国民の健康などには興味がないことは明白で自分たちの利益だけが核心のくせに、自分たちの利益をグローバル化とか平等博愛とかのオブラートにくるんで、あからさまに隠そうとするのでたちが悪いですよねえ。でも、そういう本心はちょっとしたときにポロっと表に現れますのですぐに分かります。彼らこそが、本来は一般大衆のものだったスポーツを商業主義に乗せた悪のエージェントと言ったら言い過ぎでしょうか…。


おやじはつらいよ (2021年7月27日)

 いやあ〜ホント、おやじはつらいですな…。またまた愚息がやってくれました。この週末の猛暑の日に、彼は友人たちとサイクリングに出かけました。甲州街道と青梅街道を西進して奥多摩に向かったそうです。24段変速のツーリングタイプの自転車の性能を試してみたかったようで、でもそのわりにはどうみても素人そのままの格好で出てゆきました。大丈夫かなあ〜…。

 で、お昼過ぎにラインに連絡があって、足がもう限界で帰れなさそうだから青梅駅まで車で迎えに来てって言うんですよ。え〜っ、そりゃないだろう…、そんなに気安く頼むんじゃないぞ、コラ。青梅駅なんて行ったことないし、そもそも連休最終日で道路は激混みだろうからそんなところに行きたくなんかないよ〜。迎えに行ったとしても自転車はどうするんだと聞くと、そこだけは抜かりなかったみたいで分解して後部座席を倒せば積めるから大丈夫などと言います。

 もうホントいやだったのですが女房からも懇願されて仕方がないので、久しぶりに車を運転して出発しました。ナビで調べると我が家から43kmとありました、遠いのか近いのかよく分からん…。調布インターから中央フリーウェイに乗って“調布基地を追い越し、右手に見える競馬場、この道はまるで滑走路…”ってな具合で、幸い下りの高速は空いていてスイスイと進みました。途中から圏央道に入って日の出インターで下りて滝山街道に入ります。そこからはほとんど一本道ですが、途中の道すがら東海大学菅生高校がありました(甲子園の常連校で結構有名です)。そうか、ここはまだ東京都内なんだなっていう感慨もひとしおでございます、東京都は東西には長いですからね。

 予想以上に快適なドライブで安堵しつつジャスト一時間でJR青梅駅前に到着しました。このあたりでは多分大きな駅なんだろうと思いますが、駅前こそ結構大きなロータリーがありましたが、商店は軒並みシャッターが閉じていてコンビニさえ一軒もありません。わずかにモスバーガーだけがポツンと営業していました。真夏の気だるい昼下がりなので人出が少ないのはしょうがないでしょうが、それにしても寂しげで寂れた駅前風情です。

 さてと駅前観察はこれくらいにして、愚息はどこにいるのかなと思ってロータリーを見渡してもどこにもいません。あれっ、どうなってるの…。ラインすると「まだ奥多摩にいる」って言うんですよ。はあ?足が痛くて自転車漕げないヤツがどうやって奥多摩まで行けるのか。さらに問いかけると、今、多摩川で遊んでいていい調子って言うじゃありませんか!おいおい、こっちはおっとり刀でDrive My Carして青梅くんだりまで(青梅の皆さんごめんなさい)出張っているっていうのに、愚息ときたらおやじを待たせて遊んでいるんですぜ、全くなに考えているんだか…。

 早く戻って来いって言っても、ヤツは糸の切れた凧で鉄砲玉状態ですから屁の河童っていう風情でして、やっと青梅駅前に姿を現したのはそれからナント二時間後ですぞ、ご同輩。ヤツは自転車なんだから当然街道筋からやってくると迂生は思ってそちらを見てずーっと立っていたのですが、「よう」って声を掛けられてそちらを向くと彼が立っているではありませんか。

 なんと野郎は(だんだん言葉が悪くなってきたな)わたくしの背後にある青梅駅の改札から徒歩で出てきたのです。お前、自転車はどうしたんだって聞くと、体力が限界で漕げないので駅前の駐輪場に止めて電車に乗って奥多摩まで行ってきたって言うんですぞ、これがまた。え〜っ、体力が限界でレスキューを頼んだヤツが多摩川まで行って川遊びするっていうのが、もう迂生の常識の外に行っちゃってますな、ホント。呆れ果てて言葉もないとはこのことか。日射病になったんじゃないのかとか母親が心配するので迂生も慌ててやって来たのにホント損したな…。でも、たいしたことなくてよかったです。

 こんなわけで帰りは夕方になって行楽帰りの渋滞にはまることを覚悟しました。ところがナビが渋滞を回避する道路を選んだみたいで(最近のナビはそんなに賢いのか?)、うまいこと渋滞ゾーンを避けて八王子から中央道に乗って一時間ちょっとで帰宅できました。半日を無為に過ごしたという徒労感でいっぱいでしたが、往復の道行きだけは快適でよかったです。

 ということで愚息の自転車ピックアップ事件の顛末でした。ところでこの事件が、わたくしの小学校高学年だった頃に起こったことを思い出させたのです。それにはわたくしは関係していませんでしたが、同級生数人が中目黒から担任の五嶋先生の住む稲田堤まで自転車で出かけて先生の自宅を訪問したのはいいものの、帰りは夕方になってしまい、道中を案じた先生がやむなく知人に頼んで軽トラックを出してもらい、その荷台に自転車数台を積んで目黒まで送り届けたという出来事でした。

 先生のご自宅に遊びに行くという発想がわたくしにはありませんでしたが、彼らの話しを聞くととても楽しそうでした。そこでわたくし達も(自転車はやめにして、東急東横線と南武線とを乗り継いで)先生のお宅に遊びに行きました。休日にまで小学校の児童にまとわりつかれて先生も内心は迷惑だったことと思いますが、ご家族ともども歓待してくださってうどんを振舞っていただいたのを憶えています。そのあと先生と一緒に近くのよみうりランドあたりの丘陵を散策したりして楽しい一日を過ごしました。愚息の事件をきっかけにして少年時代の懐かしい思い出に浸りました。

 その当時、稲田堤(神奈川県川崎市です)は迂生にとっては圏外の遠いところでした。しかしその後、多摩ニュータウンの開発にともなって京王相模原線が通るようになり、今ではそこを通過して南大沢の大学まで通っているのです。小学生の頃を思うと隔世の感がありますなあ。


焦熱のもとで (2021年7月21日)

 ものすごい熱波が地上をうごめいています。八王子は盆地ですから37度以上あるのではあるまいか。この焦熱のもとで学期末試験が行われています。COVID-19への感染対策をしながらの対面試験は大変ですが、ドアを全開、冷房も全開で乗り切ろうという作戦みたいです。東京での感染者数はどんどん増えていて恐ろしいですが、とにかく期末試験をなんとか乗り切れれば、というところでしょうか。これから教室に向かいます…。

 …無事、建築構造力学3の試験が終了しました。蝉の鳴き声がうるさかったですが、冷房がガンガンに動いていて思ったほど暑くありませんでした、助かります。これであとは東京五輪2020+1に突入するだけっていう感覚ですが、それが特段に楽しみとか高揚するとかいう気持ちはこれっポッチもありませんやな。日本国民の大多数からソッポを向かれ、これほど祝祭気分の漂わない五輪も珍しいのではないでしょうか。

 そのうえに我が家では思いもよらぬ一大事が出来しまして(COVID-19とは無関係です、念のため)、さらに悲壮感に輪がかかった状況に陥っております、はい。とにかく健康で楽しく過ごせる平凡な日常がどれだけ大切なことなのかを身にしみて噛みしめているところでございます。


梅雨明け2021 (2021年7月17日)

 東京の梅雨が明けました。7月15日の午前中は大学の大きな会議室で(三密回避のためにひとつおきの席に座り、結構ナイーブな議論をしているのに扉は全開!)教室会議に出席していましたが、急に物凄い音とともに豪雨がやって来て、ひとしきり降ったあとに雲が流れて陽光が射し始めました。そして、その日の午後には夏本番のような青空が広がり、これこそ最も分かりやすい梅雨明けだなと感じました。こんなメリハリのある?梅雨明けって最近では珍しいのではないでしょうか。

 そういえば最近は「三密」っていう単語を聞かなくなりましたね。皆さんの日常の行動律として完全に刷り込まれて定着し、わざわざ三密などと言わなくてもよくなったと言うことでしょうか。ワクチン接種が進んでいるのはご同慶の至りですが、それに反比例するかのようにマスクを着用しない人を街角で見かけるようになって来ました。ひとそれぞれに主義主張があるでしょうからそのことにあれこれ言いたくはないですが、マスクの効用は大きいと思いますので他人に安心感を与えるという意味で今しばらくは我慢して着けてくれるといいのにな、とは思います。

 東京都におけるCOVID-19の感染者数は(残念ながら)予想通りに増え続けていて、ここのところは一日当たり千人を超えています。このような世相なのに、五輪に参加する選手たちや報道陣が世界中からぞくぞくと日本に流入しています。これって世界中の変異株が一堂に会する場を提供していることに他なりません。日本国政府は水際対策を十分にしていると言いますが、個々人の行動を完全に制御することなどできるわけもなく、現実にどうなるかは不安だらけじゃないですかね。

 東京には緊急事態宣言が出ていますが、来週からは期末試験を対面で実施する予定です。期末試験は不要不急なのでやむを得ないという認識ですが、ウィルスは人間のそんな身勝手を斟酌してくれませんから、ひとつの教室に大勢の人間が長時間集まることに不安は感じます(これは昨年の夏も同様でしたが…)。期末試験が終われば五輪が開幕します。そのあいだはどこにも出かけずに逼塞生活を送ろうと考えております、はい。


ダブルで 機種更新編 (2021年7月14日)

 昨晩、わたくしがソファで寛いでいると女房と愚息とが嬉々として帰ってきました。ちょうど一年前に愚息にスマートフォンを買い与えたのですが、機種更新してくれないと勉強しないとまたもや言い出して(このセリフはいつまで続くのか、いい加減にして欲しいのですが…)ゴネだしました。ちょうど高校での初めての期末試験に差し掛かる頃でしたから、勉強しないで赤点をとると困るので(赤点!懐かしいですなあ)、じゃあ期末試験が終わったら更新してやるということになり、昨日がその期末試験最終日でした。

 ちなみに愚息の高校では、期末試験は一日あたり二科目となっていて、なんと一週間以上に渡って延々と続きます。毎日、違う科目を泥縄とはいえ勉強しないといけなくて、結構青息吐息になっていましたぞ、あははっ。でも家では全然勉強しないんだから試験期間中くらいは勉強してもバチは当たらないと思いますけど…。

 ということで最新式のでっかいiPhoneをゲットして(カメラのレンズがなんと三個もついているヤツ)ご満悦でした、よかったな。今まで奴が使っていたスマホケースがいらなくなったので、それはオヤジにやるよって言って手渡されましたが、全然嬉しくありません。高いお金を払って機種更新して、オヤジは息子のお古ですかい、あ〜嫌だ嫌だ、まったく…。

 それだけでも極めて渋面の迂生でしたが、なんと女房殿まで今までのアンドロイドから愚息と同じ機種に更新してきたのですぞ、ご同輩。いったい幾らかかったのかと聞いても、うーん、今までよりちょっとだけ高くなるだけだから大丈夫よっなんて宣います。何言ってるんだろうか、十万円を超えるブツを買って…、もう携帯会社の思う壺とはこのことか。月々の支払いの形になっているので一見、それほど高くないと思うのでしょうが、それをこれから未来永劫?ずーっと払い続けるのですから、そりゃもう途方も無い金額になりますな。その罠に気がついているのかいないのか分からんですが、もうホント稼いでいる方としてはどうすりゃいいのよっていう感じです。

 いやあ、世の中、あくどい商売を考えてそれがまた図に当たってほくそ笑んでいるヤカラがいるかと思うと、ほんと胸糞(汚くてごめんなさい)が悪くなります。いつか必ず吠え面かかせてやるからなって(でも、どうやって?)いつもながらに不機嫌なわたくしなのでした。ただ、これも家庭内の平穏を維持するための必要経費だと考えて自分自身を強引に納得させております、はい。


おかど違いでは (2021年7月13日)

 四度目の緊急事態宣言が発出されて、飲み屋ではお酒の提供がまたもやできなくなりました。昨日から再び休業というお店もちらほら見かけました。でも、どうしてお酒を飲ませてはいけないのか、やっぱり疑問に思いますな。お酒が悪いわけではなくて、結局はお酒に酔って理性を失う人間が悪いわけです(って、若い頃の自分を思い出すと赤面いたしますが…)。

 でも、こういう時世なのでお酒を呑むひともそのことを頭に入れれば自分の行動を律することができるのではないか。結局はお酒を嗜む個々人の問題に帰結するわけでして、お酒を提供する飲み屋のせいでCOVID-19の感染が拡大しているというのは(結果的には回りまわってそうなっているのかも知れませんが)おかど違いの伝八郎だと考えます。そういう風に決めつけて東京都が頭ごなしに「酒出すな」と言っているのを聞いて、飲み屋がかわいそうだなと思いました。

 もちろん、迂生のように自分の好きなお酒をチビチビと家飲みすればよいのでしょう。でも、そういう嗜好じゃない方も大勢いるわけで、そういう個人の好みはそれぞれ尊重されてしかるべきなんでしょうね。お上からつけ込まれないためにも、お酒を飲む人々がちょっとだけ注意すればいいのになあって思いますよ、ホント(酔っ払いになにを言っても無駄っていうのも分かりますが…)。


五度目の… (2021年7月11日)

 この週末はピカッと晴れたと思うと雷鳴とともにものすごい土砂降りになるなど猫の目のように目まぐるしく変動する天候でした。気温も真夏のように高くなり、そろそろ梅雨明けを思わせる感じですね。

 さて、東京都ではCOVID-19の患者数が増え続けており、五度目の感染拡大局面に入ったと思われます。思い返せば六月下旬に非常事態宣言を解除した頃に感染者数の底を打っており、それからじわじわとしかし確実に増え続けてきました。明日からはまたもや非常事態宣言が発動されますので、こんなことならずーっとそのままにしときゃよかったのにって思いますが、そんなことは逼塞させられて不満の蓄積した世間さまがお許しにならなかったんでしょうね。

 こうした増減の振幅がだんだんと小さくなってやがては終息へと向かうのでしょうが、じゃあそれっていつなのよっていう疑問はついて回ります。以前にも書いたように人類総体としては生き残るわけですが、運悪く(?)その犠牲となったひと達は全くもって浮ばれません。それゆえ我が身に災難が及ばないように自分自身で気をつけるしかありません。

 こういうとき、政府はおろか他人さまは結局のところ何の役にも立たないことが明白となります。にもかかわらず人間はなぜ集団を作って生活するのか。それはもちろん太古の昔からホモ・サピエンスとして集団で暮らすことに利益があったからですが、時としてそれがパンデミックのように人類に対して牙を向くことになります。COVID-19の全世界への拡大もそのような歴史を繰り返したに過ぎませんから、これって結局は人間の哀しい性(さが)に起因するとしか言いようがありません。

 でも、こんな人類の宿命を論じて分かったふりをしても仕方ありません。わが建築学科では体調不良の学生がどういうわけか二年生にたて続けに発生しており、その対策に角田誠学科長が追われています(対応、ご苦労さまでございます)。9階の製図室で設計のエスキスをやっていたということなので、もしもCOVID-19による発熱だとすると看過できません。7月19日(月)から学期末試験が始まりますし、八月のオリンピック明けには大学院の入学試験も控えています。とにかく大学での感染者数が増えないことを祈るしかありませんなあ。


もうすぐ学期末 (2021年7月8日)

 七夕も過ぎましたが、相変わらずの梅雨模様で蒸し暑く、鬱陶しいですね。来週から第四回めの緊急事態宣言が東京都に発出されることになりました。予想されたことではありましたが、COVID-19への根本的な対策をとることなく常に場当たり的に対処してきた政府の責任は重大です。

 このような状況でも五輪は開催するというのですから、アクセルとブレーキとを同時に踏んでいることになります。もう、やることが滅茶苦茶ですな。日本国の首脳陣には理性というものが消え失せたとしか思えません。五輪には膨大な利権が絡んでいて、国民の生命財産よりもそっちの方が重要というわけです。おそれ入谷の鬼子母神とはまさにこのことか。

 さて、東京都の開設する本学では東京オリンピック2020+1の開幕日から夏休みに入るという(御念の入った)学年暦になっておりますので、そろそろ学期末を迎えます。学期末には期末試験を行わないといけませんので、ここのところはその問題作りに頭を悩ませています。

 構造力学の問題はまず作ってから自身で解いてみて、それが適切な問題か、計算量は妥当かなど種々考えないといけません。作っては解き、解いてはまた作り直す、という過程を繰り返すと、結構なストックが溜まってゆきます。試験問題として採用できなかった、ある意味、ゴミ箱行きの問題でも苦労の結晶ですから、そんなに簡単に廃棄できないんだなあ、これが。

 このように根気と集中力とを要する作業ですが、例年やっていることとはいえ、だんだんと億劫になってきました。大学の教員がそんなことを言ってはいけませんが、アラカンともなるとそんな気分になるんだなあということに気がつきました。でも二十年ほど前までは六十歳定年でしたから、人間がフツーに活動できるのはそもそもそれくらいの年齢なのかも知れませんね。

 働き方改革とか高齢者の人材活用とかと称して六十歳を過ぎた人たちを働かせるっていうのもどうなんでしょうか。健康だからこそ働けるのですから、もちろん(経済的にも)ありがたいことなのですが、一番心配なのは若いひと達へのしわ寄せです。人口が減りつつあるので、それでも大丈夫なのでしょうか。


発表を録画する (2021年7月6日)

 日本建築学会大会が今年はオンラインでの開催になりました。発表者は五分の発表動画を作って学会のサイトにアップすることになっています。まあ、現場で発表するのとパソコンの前でひとりっきりで発表するだけの違いであって、やる事に本質的な差異はないと思っていました。

 ところがいざ、その作業に取りかかるとゆうに半日はかかってしまいました。もちろんパワーポイント・コンテンツはあらかじめ作ってありますので、発表を収録する作業に純然と要した時間です。結局、撮っては消しての作業を十回近くも繰り返しました。

 最初はZoomで録画しましたが、それよりはパワーポイント内蔵のやり方で録画した方が良いかなと思って数回やってみました。でも画面を指すポインターがどういうわけか映らず(そういうものか?)、これじゃ聴いているひとがわからんだろうということでボツにして、またZoomに戻しました。



 一番大変だったのは発表を五分以内に終えることでした。最初は八分以上かかったのでこりゃコンテンツが多すぎだなということで少しずつ内容を削って行きましたが、どうやっても五分三十秒くらいまでにしか縮まりません。もちろん早口で喋れば納まるでしょうが、録画の発表を早口でやったらそのあと自己嫌悪に陥りそうだったので、それは禁じ手です。仕方ないのでさらにスライドを削ってなんとか五分ちょいオーバーくらいで納まって、自分でも上手くいったなと思いながらそのビデオを見てみると…。

 なんと冒頭に家内の叫び声!?が録音されているではないですか、静かにしてって言ったのに、あ〜あ…。その声は思いのほか明瞭に記録されていて結構驚きました。パソコンのマイクってそんなに高性能なのだろうか(あるいは家内の声がたまたまマイクの得意な周波数帯域だったのか知らん)。とにかくこれじゃさすがに所帯染みてカッコ悪いのであえなくボツになって、それからまた数回のやり直しです。

 やっと四分五十六秒に納まったので、ちょっとトチったり説明し忘れたモノもありましたが、もうすっかり疲れ果てたこともあって、もういいや、これでよしっていうことにいたしました。

 これが現場での発表であれば、時間をみながら適当にはしょったり、少しだけ時間をオーバーさせてもらったりもできます。また、発表中につっかえたり言い直したりするのも日常茶飯事で、そういうこと全てが虚空に消えていって(皆さんすぐに忘れて)くれるわけです。まさに一期一会とはこのことか…。ところが録画された発表では全てが厳然として記録されていますから、間違ったことを言っていたらこいつ間違ってらあと笑われ、何度も言い直したりすればなんだよコイツってまた笑われ、もう針の筵とはこのことか。こうして時間厳守の発表の録画の怖ろしさをまざまざと感じた体験でした。願わくば、もうやりたくありませんなあ。


切れるx2 と都議選 (2021年7月4日)

 激しい雨の降り続く週末になりました。梅雨だからしょうがありませんが、一度にダバダバ降らないでコンスタントにちょっとずつ降ってくれればお百姓さんを含めて皆さん喜ぶんですけど、自然は人間の身勝手などには頓着してくれません。とはいえ、熱海では大規模な土石流が発生して多くの家屋が破壊されました。行方不明の人たちが多いそうなのでとても心配です。

 さて普段、PCに差して音楽を聴いているイヤホンですが、左側の音の出が悪くなっていることに気がつきました。五年ほど前に一万数千円で買ったZero Audio製でまずまず気に入っていたのですが、二つのドライバーを重ねているのが特徴らしく、どうやらそのうちの一つが壊れたか断線したかしたようです。音は聴こえるのですがその音圧が右側と較べるとはるかに低く、左右のバランスが相当に崩れてしまい聴いていると気持ち悪くなります。このイヤホンは外には持ち出さずに書斎で大事に使っていたのですが、それでも断線する(or 壊れる)のかとちょっと驚きました。

 こりゃダメだなと思い、三年ほど前に七、八千円で買ったFinal製のイヤホンに付け替えてみました。これは外出時のiPodに接続して使っていたものですが、iPodでは和洋のポップスを聴いていたのでクラシックにはちょっと向かないような感じです。そこでとりあえずイヤーチップでも取り替えるかと思い立ち、ゴム製のチップを引っ張ったら…

 力の加減が悪かったのかイヤーチップは取り外せずに、代わりになんとドライバー本体がステンレス筐体から抜け出ちゃったんですね〜。その瞬間、ハンダ付けされていた細い線がプチって切れてしまいました。ありゃりゃっ、こりゃ大変だ! こうしてわずか一日で二つのイヤホンがお釈迦になったのです。これはこれで珍しいなあって思いますけど…。

 うーん、こう来たか…。仕方ないので六年前に四千五百円で買ったSONY製のイヤホンを机の引き出しから発掘してつないでみました。しばらく使っていませんでしたが音は出たのですが、ドライバーが小さいせいか(?)金管の咆哮があまり綺麗に聴こえず、どうもクラシック音楽(特にブルックナーの交響曲)には向きそうもありません。

 ちなみにわたくしが使っているイヤホンは全て有線です。それゆえコードが断線して使えなくなるということを繰り返してきました。イヤホンは消耗品だと思えば諦めもつきます。断線がイヤならBluetooth接続のワイアレスにすればいいとお思いかも知れません。我が家の愚息などはアップル製のお高いのを含めてワイアレスのイヤホンを二つも持っていますが、迂生は全く魅力を感じません。ワイアレスなんかでいい音が聴けるわけないだろうというのが偽らざる感想です。

 ということで新しい有線のイヤホンを物色しようと思っているところです。せっかくですから、パソコンとイヤホンとの間にポータブル・アンプを挟んで音質をよくしようかと画策中です。

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 今日は東京都議会議員選挙の日です。小池都知事は結局、表には出てきませんでした(ご病気で静養中だったとの報道ですが…)。都民ファーストは小池都知事の人気に便乗した集団に過ぎませんから(だって都知事のいうことに唯々諾々と従っているだけ)、多分、この選挙で埋没するだろうと迂生は予想しています。

 雨が降っているのでやんだら投票に行こうと思っていましたが、結局降り止まず、仕方ないので夕方になってから傘をさして投票へ行きました。投票所になっている地域センターのすぐ脇に青山研究室の先輩のK村さん(元大成建設 技研 所長)のお宅があって、お元気かなあとか思いました。

 夕方の投票所は空いていました。入り口で消毒液を両手に塗って、平たいプラスチックの板の先に鉛筆の芯だけがついている使い捨ての筆記用具を渡されました(迂生は自分のペンを持参したので、それは辞退しました)。投票用紙を記入するブースは一つおきに使うようになっていました。COVID-19の対策をちゃんとやっていますよ、ということでしょうな。

 わたくしの選挙区では定員三名に対して五名が立候補しています。例のごとく政権与党は排除して、都民ファーストは論外で、K産党も胡散臭いのでパスすると、残ったのは一人です。その方は国政野党から立っている選挙区最年少のかたでしたが、もうこのひとしかおりません。新顔の若いひとなのでそれだけでもOKって気がしましたから、迷わずに投票できました、よかった〜。でもこのひとの掲げる政策はなんだろうっていうレベルですけど。

追伸(2021年7月5日); 一夜明けて結果を見ると…、わたくしが投票したかたは得票数は二万票以上ありましたがなんと最下位で落選していました! K産党のひとも惜しいところまで行きましたが四位で落選しました。都民ファーストのかたがトップ当選でしたので、わが選挙区ではそれなりの支持を得たということでしょう、不思議だなあ…。

 東京都全体では都民ファーストは45議席から31議席へと大きく議席を減らしましたが、わたくしの予想したような「壊滅」ではありませんでしたから、それなりに頑張ったということでしょうか、不思議だなあ…。選挙戦の最終日に小池都知事が都民ファーストの応援に現れたらしいので、それだけでも相当の効果があったということですかね?分からんけど…。まあ、いつの選挙でも迂生には分からないことだらけで、おまけにわたくしの投票したかたは大抵は落選していますので、落胆はしていませんけどね、あははっ。


赤門閉鎖 (2021年7月1日)

 今朝は大雨で登校には難渋しました。皆さまは大丈夫だったでしょうか。

 さて、東大の本郷キャンパスの象徴の一つである赤門(正式には旧加賀屋敷御守殿門)ですが、なんと耐震性に疑問ありということになって通行が禁止になっているそうです。これから本格的な耐震診断を行ない、必要に応じて耐震性能向上のための造作等を実施したうえで開門に至る、というストーリーです。今までフツーの通用門として皆さん出入りしていたと思いますが、危険!と言われるとかなりギョッとしますな。

 それに付随して東大建築学科の先生がたが赤門を調査したそうで、その動画がこちらにアップされています。東大の藤田香織先生が全体司会をされていて、赤門の構造についての解説もしてくれます。赤門の屋根裏に潜り込んだ解説もありとても面白かったです。歴史やキャンパス計画についての解説もありますが、それらの先生がたはわたくしの存じ上げない方たちでした…。まあ、時代が変われば先生も代わってゆくという当たり前のことに過ぎませんけど。

 屋根瓦の落下対策くらいならなんとかなりそうですが、構造本体を耐震補強しないといけなくなるとちょっと大変そうな気がします。赤門の美しさはそれがシンプルであることにもありますので、ゴテゴテと補強するなんてことはできないでしょう。赤門を潜れる日が早く戻ってくることを期待しています。


六月晦日 (2021年6月30日)

 六月も晦日となりました。ということは一年の半分が過ぎたことになります。2021年になってもCOVID-19の猛威は止まず、あまつさえ変異株などという迷惑な進化形も現出してもう世間は大変です。オリンピック2020+1は開催か否かという議論はいつのまにか抹殺されて、今じゃ観客を入れるかどうかを議論していて、「開催するのは当然」という世間不在の勝手な思い込みによって物事が進んでいます。なんだかなあっていう感じです。誰も祝福しない祝祭なんて、参加している人たちは楽しいのでしょうか。それがつくづく不思議に思います。

 新聞報道等によると現在もオンライン授業を行なっている大学があるように仄聞しますが、本学ではたびたび書いているように「新しい対面授業」という名前の(少なくとも迂生にとっては)フツーの講義がスタンダードになっております。

 とはいえ、昨年度一所懸命に作ったパワーポイント・コンテンツを活かさない手はないわけで、今年は教室にパソコンを持って行ってそれらのコンテンツをさらに改良したスライドを学生諸君に見せながら説明しています。スライドは全て大学のクラウド上にアップして受講生諸君に配布していますので、学生諸氏は基本的にはノートをとる必要がありません。こちらも従来の板書を一切やめたので時間が短縮できてサクサクと講義は進んでゆきます。

 ノートを取らずに手を動かすことのない授業だと知識の定着に不安がありましたが、今までのところそれは杞憂だったようです。演習をしっかりやることとその回答を配布して解説することが有効なような気がします。七月中旬以降に期末試験がありますので、その結果を見るとだいたい分かるはずです。それによって一昨年度以前の「対面+板書」、昨年度の「オンラインのみ」、今年の「対面+板書なしでスライド配布」のどの形式が有効か、あるいはどの方法も同等なのかが判断できると考えています。それはそれで結構な楽しみです。

 ただ、大学院講義は今はオンラインで行なっています。授業中に随時小演習を行いますが、10分程度の時間を与えて解かせて、画面上で指名したひとに答えを開示してもらうことで十分に事足りています(とわたくし自身は考えていますが、大学院生諸君はどうなんでしょうかね…)。

 今年度の建築学会大会は名古屋工業大学が主催地ですがオンライン開催になりましたので、発表用のコンテンツを動画にしてアップする必要があります。わずか五分の発表ですがなんだか億劫でまだ録画していません。コンテンツは今年三月に大学院を修了した石川巧真さんに作ってもらいましたので、それを適宜改良して発表すればよいのですが、どうもやる気がでんなあ〜。ぐずぐずしているうちにだんだんと締め切りが近づいて参ります。まあ、お尻に火がついたらやるんでしょうな、あははっ。

 でも、これって本人が発表しなくても画面上に顔出ししなければ分からないのではないでしょうか。若手の発表は審査されて優秀発表賞が授与されるのですが、どうやって本人確認するのでしょうか…。あっ、そういうことを言っちゃいけないんですね、やっぱり性善説かな。

追伸; 今、「建築構造力学3」(不静定構造)の授業から戻って来ました。上記のように授業ではパワーポイント・ライフを満喫していたのに、教室に行ってパソコンをセットしてもプロジェクタに投影できません。十分ほどいろいろやったけどダメで、結局、この日は久しぶりに全てを板書で授業しました。とても疲れました、とほほっ。


フラッと読書 (2021年6月27日)

 梅雨らしく鬱陶しい日々が続いています。皆さんはもうワクチンを打ちましたでしょうか。我が家では迂生に続いて女房と愚息にもクーポン券が送られてきました。女房どのは嬉々としてさっそくワクチン接種の予約をしております。早く打たないとファイザー製はなくなっちゃうよってしきりに注射を勧めるのに辟易としております、はい。

 さて昨年のCOVID-19による初期騒動を経て大学の図書館が再び恒常的に使用できるようになって以来、暇を見つけてはフラッと図書館に行っては本棚のあいだをあてどなく彷徨うようになりました。書籍の分類の原則をさっぱり知らないので、なんでこんな本がこの書棚にあるのかと思うこともしょっちゅうです。見知らぬ本たちにひとり静かに囲まれていると妙に落ち着くのですよ。そこに未だに知らない知識とか卓見とかが眠っていて、わたくしが手に取るのを待っているかと思うと不思議な高揚感さえ覚えるほどです。そんな風に本たちを抜き差ししてパラパラと頁をめくったり、ある部分を読み耽ったりしているうちに時間はどんどんと過ぎ、気がつくと窓の外に夕闇が迫っていることもありました。

 そんな感じで手にとって面白そうだと思った本は借りてきてゆっくりと読んでいます。先ほどは奥泉 光さんの『石の来歴』(講談社文芸文庫、原版は1997年)を読み終わりました。これは1994年の芥川賞受賞作とのことで、そのようなよそ様の評価など迂生にとってはほとんど役には立たないとはいえ、結論を言えばこの中編小説はとてつもなく面白かったです。戦争で南方に送られて生死の境をさまよった挙句に復員した主人公が、戦地で聞き知った石の収集を趣味とするようになったことから物語が進んでゆきます。そして現在と過去とが自在に絡み合い、行き来することによって夢ともうつつともつかない不思議な世界が現出するのです。

 しかしその展開は衝撃的であり、複雑で四次元的な様相を呈してきます。そのあたりはこの著者の独特なスタイルだと感じました。2014年の「ことしの本 ベスト3」で奥泉 光さんの『グランド・ミステリー』を第一位に取り上げましたが、『石の来歴』を読んでその不思議なストーリーを思い出しました。

 フラッと立ち寄った図書館でこんな感じで面白い本に出会えるとホントに嬉しく思います。研究もいいのですが、こういう趣味の時間をだんだんと増やして行きたいと最近は思っています。ただ大学図書館には最近の文芸作品(=小説のこと)があまりないのが残念ですけど…。


沖縄の日  (2021年6月23日)

 きょうは沖縄戦の慰霊の日です。先の戦争で日本国内が戦場となったのは沖縄のほかにも千島列島や硫黄島などがありますが、帝国軍人のほかに一般人が多数巻き込まれて犠牲になったのが沖縄戦の悲劇だと思います。皇軍は本来は守るべき一般大衆を救うことなく戦闘に突入したわけで、まさに「軍隊あって国民なし」という状況が現出いたしました。それは沖縄の市井の人たちにとっては驚き以外の何ものでもなかったと推察します。

 願わくば戦争が二度と起きませんように。先の戦争で亡くなった全ての人たちに合掌…。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:北山家沖縄旅行2004:IMG_0034.JPG
  写真 沖縄県摩文仁の丘にある平和の礎[いしじ]2004年撮影


大学入試の改革 (2021年6月22日)

 大学の入学試験を従来から変革する場合には、「二年前ルール」と俗称される(って、正式名称は知らないんですけどね…)合意事項に従って、その実施の二年前までに変更点等を公示することを文科省から求められています。まあ大学を卒業しちゃった(あるいは在学中の)皆さんにとってはどうでもよいことでしょうが、大学を目指す若者たちにとっては大変に重要な事項です。

 さて今年から始まった大学入学共通テストですが、2025年度には科目等が大きく再編されることが決まっています。具体的には今までは6教科30科目だったものが2025年度入試からは7教科21科目に変更されます。教科数が一つ増えるのですが、これは「情報」でして、同名の科目も一つ設定されています。

 ということでわが大学でも入学共通テストを使用するので、この「情報」をどうするかが議論となります。ところがこれがどのような教科なのか(迂生はその教科書?を見たことはありません)、日本全国の高校の先生たちがこの教科を教えることができるのか、など様々な疑問が湧き上がってまいります。しかしもっと根本的に言うと、そもそも情報処理のためのアルゴリズムとかプログラミングさらにはデータ・サイエンス(って何だろう…)を日本全国の高校生に遍く教える必要があるのかという疑問に行き着くわけですね。急速に発展するであろう情報化社会で生活し、グローバルな視点で情報を扱うことは未来の大人には必須の素養であるということなのでしょうが、それって本当でしょうか。

 これらの内容を知っていれば有益な場面もあるでしょうが、たとえ知らなくても生活に支障はないのではなかろうかって思うわけですよ。スマートフォンがどうして動くのかなんて仕組みを知らなくてもそれを使いこなせるのと同じことでしょう。ちょっと脱線しました。その「情報」の試行問題(がもしあれば、ですが)を見ないと分かりませんが、そのようなよく分からんものを受験科目に加えてよいものなのかどうか…。

 この「情報」は関連する全ての大学に関係しますが、わが大学に固有の問題として「英語」があります。本学ではこの春に実施した二次試験から「英語」を廃止したのですが、これが本当に適切なのかという問題です。ちゃんとした大学の入試に独自出題の「英語」がないなんて、皆さん聞いたことがありますか? 大学入試の問題を作問するためにはそれなりのマン・パワーが必要ですが、本学ではそれが著しく減退しているようです。本学は医学部こそないものの公立の総合大学の雄ということに一応はなっているので、なぜこんなことになったのかと訝しい思いを抱いております。その理由は分かってはいるのですが、ちょっと恥ずかし過ぎてここには書けません。

 さて冒頭の「二年前ルール」に戻ると2025年度の入試を変革するためには、改正内容を2023年春までに公開しないといけません。ということは、もう二年を切っていますね。う〜ん、大学全体で議論して落としどころを見出すまでにどれくらい時間がかかるのか分かりませんが、二年じゃ短いような気もします。いくら理想を高く掲げても無理なものは無理ですから(詳しくは書けませんが)、なんだか結論は見えているような気もしますが…。


夏至のころ (2021年6月21日)

 今日は夏至でした、一年で一番陽の長い一日ですね。日中はちょっと蒸し暑かったですが、夕方には気温も下がってしのぎやすくなっていました。

 さてCOVID-19の感染拡大防止のための緊急事態宣言が昨日で終わり、飲食店での飲酒が(制限付きですが)解禁になったようで、わが街でも夕方には居酒屋や食べ物屋が一斉に再開していました。でも緊急事態は終わったとはいえ、それより格下のまん延防止っていうのが相変わらず出ていることは市井の皆さん、もう意識の外側に行っちゃっている感じですね。

 オリンピックに参加するために外国の選手団が入国し始めたということですし、こんな感じで誰も何も決めず、なんにも語らず、責任も取らずの三「ず」のままでオリンピックの開会式へと突入するのでしょうか…。世界中でCOVID-19感染拡大が収束しないけれどもオリンピックくらいできるだろうって世界の首脳陣?は考えていて、一般市民もまあそうかもしれないなあと思考停止になっているとしか思えません。

 それにしても日本の総理大臣の存在感の希薄さといったらないですね〜。質問には答えない、自分の考えを言わない、何か言っても同じことしか言わない、って、もう大丈夫なんでしょうか。彼をかつぐ人たちがいるわけですが、自分勝手で手前味噌な思惑でそうしている人たちですからその神輿は早晩瓦解して、見放されそうな気配が濃厚に漂っているように思います。そうなったらきっとあっという間にトップが交代するのでしょうな。もっとも政権交代までには至らないと予想します。野党の皆さんには残念ですがそれだけの気迫を感じませんし、そのような人材も乏しいと判断できるからです。

 夏至が来るとそろそろ(先の戦争における)沖縄戦での組織的な戦闘が終結したとされる日がやってきます。あの夏の敗戦から76年が経過して、戦争の惨禍を経験したひとたちはわずかとなり、大部分の日本人はかつて戦争があったことなど忘れ果てているように思えます。しかしどんな人でも自身の係累をちょっと辿れば戦場で戦死したり、空襲の犠牲になったりした祖先がいることに気が付くはずです。すなわち戦争は無縁でもなければ遠い過去の出来事でもないのです。日本の現在の繁栄はそういう無名の人びとの犠牲の上に成り立っている、貴重で文字通りありがたい(有り難い)賜物であることに時には想いを馳せてみるのもよろしいかと存じます。


打つ打たない (2021年6月17日)

 「飲む、買う、打つ」といったら昔は無法者の代名詞でしたが、今回はそんな話題じゃありません(あたり前か…)。わたくしの住む自治体からCOVID-19に対するワクチン接種のクーポン券が送付されてきたのです。家族の中で届いたのは迂生だけでした(すなわち高齢者に近い、ということですかね)。ついに来たかっていう感じなのですが、人類史上初となるメッセンジャーRNAワクチンの人体に対する安全性についてはわたくしは信用しておりません。もちろん短期間の治験によってファイザー製ワクチンの効果はそれなりに確認されているのでしょうが、接種後の健康に対する長期的な影響については未知な領域です。その問題については、はっきり言えば誰も答えを知らないわけですね。

 正常な感覚からすればそんな“危険”なものを自分の体内に注入できるか、ということになりそうです。しかし世間ではそう考えない人たちのほうが多数派のようで、ワクチン打て打ての大合唱です。それだけで世間様からの同調圧力をひしひしと感じますなあ。で、俺は打たないよって家庭内で言ってみたんですが…。

 家内も愚息もなんでワクチン打たないんだって宣います。息子に至ってはコロナで死ぬのはイヤだろ、アンタはジジイなんだからさっさとワクチンを打て、なんて生意気なことを言いやがります。周囲でワクチン接種が進めば早晩、マスクをせずに歩き回る人たちが街なかにはびこりますから、非接種者の感染リスクが高まることは容易に予想できます。もちろんそういうところに出向かなければよいのですが、自身の注意だけではなんともならない場合もあるでしょう。

 アメリカの例を見れば分かるように、わたくしと同じように考えてワクチンを打たない市民はたくさんいるようです。まあ、他人は他人ですからどうでもよいのですが、COVID-19は人間社会が生み出したも同然なので、社会全体の動向はやっぱり気になります。ということで今しばらく様子を見るかな、というのがただ今の心境です。


梅雨いり2021 (2021年6月15日)

 昨日、東京もやっと梅雨入りしました。じめじめと蒸し暑く、夏の初めといった感じになってまいりました。例年、この時期になると若い頃から頭痛がしたり、お腹が痛くなったりと不調なことが多く、憂鬱な時季のひとつです。

 さて東京オリンピックですが、開幕予定日まで一ヶ月ちょっとになって、世の風潮はなし崩し的に開催する方向に進んでいます。今までメディアへの露出度が高かった小池都知事はどういうわけかこの件については沈黙を守り、表にも出て参りません。この方の真意は計りかねますが、ひとつ言えるのは七月初めに東京都議会議員選挙があることです。

 この選挙ではCOVID-19の感染対策および生活・経済の復興が大きな争点になるはずですが、そのなかにオリンピック開催の是非が含まれるのは論理的にいって当然でしょう。ですから、都議選公示の直前くらいに小池さんが何をいうかは東京都民にとって大いなる関心ごとであると思われます。その発言によっては天地がひっくり返るような政局が出現するかもしれず、彼女としては自身の影響力を最大限に行使する方策を模索中なのではないでしょうか。

 その結論が都民・国民の利益に合致することであれば嬉しく思いますが、この方のこれまでの生き方、やり方を思い出せばそんなに単純でなまやさしいものでもなさそうです。人類の歴史を辿れば分かるように、歴史上の折々に出現したパンデミックもやがては終焉を迎えます。そのときに多数の死者が出て人口が激減したこともありましたが、それでもホモ・サピエンスとしては生き残って現在に至ります。ですから、ひとの命はその当事者にとっては唯一無二、かけがえのないものですが、為政者にとってはそれがちょっと減ったくらいなんでもないのかも知れません。あな、怖ろしや〜。


置き去りの競技場 それは黙って泣いている(2021年6月10日)

 COVID-19の感染拡大はかなりおさまってきた感触がありますが、それでも東京ではいまだに一日で400名以上の感染者が出ています。このような状況でもお上はオリンピック東京大会を開催しようとしていますが本気なんですかね。本気だとすると正気の沙汰とも思えませんけど…。

 そのオリンピックの主要会場となる新国立競技場ですが、すっかり影が薄くなって忘れ去られたかのようになっているのは、なんだか可哀想だなあって思います。隈研吾さんのあのデザインは好きじゃないし、あのような巨大な建物を神宮外苑に建てるべきではないと今でも考えますが、既に建ってしまった建物には罪はないでしょう。思えば今から約六年前に当時の安倍晋三首相のひと声でザハ・ハディド案が廃され、そのあと再度コンペが実施されて隈研吾案が採択されました。

 このときの出来ごとを同じ建築家の立場から論じた『偶有性操縦法 何が新国立競技場問題を迷走させたのか?』(2016年4月、青土社)を先日読みました。著者は磯崎新さんです。国際コンペに対しては応募側としても審査側としても経験豊富な著者ですから、なかなかユニークな視点で語られていてそれなりに楽しめました(ただ、ひとつのセンテンスがとても長くて、どの語句がどれを修飾するのか直ぐには分からず、読みにくいです)。ザハ・ハディドは「魔女狩り」にあって生贄にされたとか、隈研吾さんは「負ける建築」を標榜しているがこの競技場では本当に「負けてしまった建物」を建ててしまって失望した、とか。

 そして磯崎新さんはつまらない隈研吾案はやめてこの敷地を更地のまま空き地として残して、そこを祝祭空間としたらよいと提案していました。なるほど…、暴論のようですがこの神宮外苑のコンテクストに想いを馳せるとき、それはそれで一つの見識であると迂生は思いました。

 

 上の写真は旧・国立競技場が2015年3月から取り壊され始め、それから約九カ月後の2015年12月にわたくしが撮影した“空き地”です。新築工事が始まる前のエア・ポケットみたいな時期で、かなり広々としていて気持ちがよいしその奥の景観もけっこう素敵です。これだったら磯崎新さんの言うように空き地のままでもよかったように思います。

 国立競技場はJR千駄ヶ谷駅から歩いてゆくと谷底にある外苑西通り沿いに建っているのですが、その新しい建物は道路ぎわから立ち上がっているために非常な圧迫感があるわけです。下の写真は約一年半前に撮ったもので、トラックが走っているのが外苑西通りです。競技場が壁のようにそそり立っている(高さは約47メートル)のがよくわかると思います。写真の右側にちょこっと写っているガラスの建物は竹中工務店のインクスです。昔よく、ここにある竹中の社員用保養所で定本照正君や大学院同期たちとシャブシャブ食べたなあ、あははっ。

 

 

 この新しい競技場がいかに巨大であるかは、取り壊された旧競技場をみると分かります。同じ角度から旧競技場を撮った写真はありませんが、解体直前の2015年3月にほぼ同じ場所を撮ったのが上の写真です(東京体育館のデッキの上から撮影)。手前の通りが外苑西通りですが歩道わきに白い仮囲いがあり、そこからかなりセットバックして階段状の基壇があってその奥に本体が建っています。その高さは約23メートルで新競技場の半分でした。千駄ヶ谷駅から坂道を下ってゆくアプローチを考えれば、このような構えになるのは自然なことだったと思います。新競技場は神宮球場わきにあった日本青年館も潰して建てられましたから、フットプリントとしてもやっぱり大き過ぎたと言えるでしょうね。

 このような都市の文脈に対する配慮すらできなかった新競技場はやっぱり不幸な存在だと考えます。思うにそれは隈研吾さんのせいではなく、そのようなプログラムを設定した主催者に責任の所在があると言えるでしょう。じゃあそれって誰なのよ、ということになりますが、それがうやむやになって不明なのが日本という国の悲しい特質なんだと思います。


本を読んで卒論が書けるか (2021年6月8日)

 今年度、久しぶりに耐震設計の歴史についての卒論に取り組んでみたい、という卒論生が現れました。そこで当該学生が興味があると言った事柄に関連する書籍や論文をいくつか見繕って、とりあえずこれ読んでみてねと渡しました。基礎的な事項を読み取って知識を得るとともに、そこからさらに興味や疑問を膨らませて研究の方向性を決めて行ければと考えたからです。

 そこまでやって、はたと気がついたことがあります。わたくしが四年生になって卒論の研究室を選ぶときに、最初に西洋建築史の鈴木博之先生の門をたたき、19世紀の修復建築家ヴィオレ・ル・デュクにかんする英語やフランス語の書籍を数冊渡されたことは既に何度か書きました。そのとき博之先生はとりあえず読んでみて、といった感じでその本を渡してくれたのだと思います。しかしそれらの本を読み始めると、こんな本だけを読んで卒論が書けるのかという疑問が湧き上がって参りました。もちろん歴史で飯が食えるかという根本的な疑念もありましたが、そのときは本だけ読んでいても新しい知見なんか得られないだろうと考えたようです(詳しい思考経路はもう忘却の彼方ですが…)。

 結局、それらの本を博之先生にお返しして、やっぱり先生のところで卒論を書くのはやめます、ということになって、RC構造の研究室に入って…そして現在に至ります。つまり、わたくし自身がかつて体験したのと同じことを今度はわたくしが指導教員として学生さんに課したことに気がついたわけです。

 うーん、どうなんでしょうね。かつての博之先生が何をお考えになって迂生に本を渡したのかは今となっては知る由もありません。それらの本を読んだあとにこういうことを調べさせよう、とお考えになったのかも知れません。あるいは原書を読む訓練だったのかも知れません。でも今なら、そういった書籍を読むことで研究の入り口に立ち、新しい知の地平を見渡せ、誰も知らなかったことに気がつく可能性があることを知っています。ですから、そのような見通しを適切なタイミングで学生さんには伝えたほうがよいということに思い至りました。


オンラインのハプニング (2021年6月6日)

 愚息の学校はオンライン授業が終わって、明日からやっと対面授業に戻ります。この間、我が家では1階では子供がオンライン授業を受けて、2階では迂生がオンライン授業を開講するという事態に至りました。そうするとさすがに家のなかがうるさいらしくて、女房から叶わんわ〜って言われちゃいましたが、まあ仕方ないですな。それもとりあえず終わりますのでよかったです。

 先日は子供の授業で思わぬハプニングがあったそうです。授業開始直前に先生のパソコンが勝手に自動更新(?)し始めて15分くらい授業の開始が遅れました。よく知りませんがWindowsのパソコンっていろいろとお節介なシステムになっているみたいで、所有者が知らないうちにそんなプログラムがオンになっていて、TPOもわきまえずに勝手に発動されちゃう、ということでしょうか。子供の学校ではCOVID-19対応としてひとコマが40分の授業になっているので、そのうちの15分が使えなかった先生はちょっと気の毒な気がしました。授業の終わりに先生がしきりに謝っているお声が子供のパソコンから流れてきましたが、悪いのはパソコンであって先生ではないのでさらに気の毒になりました。

 オンライン授業は便利なのですがハード面で常にこのような不具合のリスクを抱えていることに改めて気がつきました。こういうときのためにサブのパソコンを常に傍に置いておく必要がありそうで、実際にそうしている先生もいるみたいです。


Zoomにしますか 教室での失望 (2021年6月3日)

 昨日の「建築構造力学3」(学部二年生向け)の授業で中間試験の答案を返却してざっと解説をしました。そのあと毎週出題する演習問題についても解答を開示して説明しました。では、皆さん何か質問はありますかと聴いても、教室内はいつものように無言です。じゃあ演習問題はやりましたかと聞いてもやっぱり無言です。

 どういうわけか世間では対面授業がよいということになっています。でも、昨年の今頃はオンライン授業のためのコンテンツを必死になって作らされて、どこもかしこもオンライン授業が奨励されましたよね。COVID-19の現在の状況はほとんどなにも変わらず、それどころか発症者や死者数は昨年同期に較べれば明らかに増えています。それだったら、今こそオンライン授業にして大学生諸氏の移動量を縮減したらよいのにって迂生は思いますけど…。

 対面授業では学生諸君と教員とが教室に一同に会することによって活発にやり取りを行い、さらに学生同士の教え合いによって理解を深めることができるっていう触れ込みなのですが、わたくしのこの授業ではそんなことはなくて明らかに一方通行の講義になっています。だったらZoomによるオンライン授業でもなんの不都合もないじゃないですか。

 そう思ってここで書いたようなことを目の前にいる学生諸君に問いかけてみました、オンライン授業にしましょうかって。またもやしばらくは無言でしたが、そのうちにある方が「先生の授業の前の2限、3限は対面でやっているので、この授業だけオンラインになっても結局この教室に来てパソコンを開いてオンライン授業を受けることになるので、それよりは対面授業がよい」というようなことを言いました。そのひと以外に意見を表明したひとはいませんでした。全くもってなんだかなあっていう徒労感に苛まれましたな。その程度の理由で教室に足を運んでいるのかと思うといっぺんにやる気が失せました。それならこちらは淡々と知識を伝達するだけかなっていう感じです。

 構造力学は単なる道具に過ぎません。でも、その道具を使えないと鉄筋コンクリート構造の原理とか耐震構造を理解することはできません。すなわち構造的に安全な建物を設計したりその手法を考えたりできるようになるためには膨大な基礎知識を必要とするわけです。そこまで至れば色々と楽しいことも味わえるし、創意工夫の余地も生まれるのですが、具体の建築を扱わない構造力学ってやっぱり魅力に乏しいと言わざるを得ないかな…。以前はそんな構造力学をどうやったら楽しくて魅力的な学問にできるか腐心したこともありましたが、この年齢に至ってもできなかったわけですから、自分の非力さにもいささか呆れつつ、もういいかっていう諦めの境地に到達した次第でございます、はい。


あんず2021 (2021年6月2日)

 学内の牧野標本館新館の前に植わっている木に今年もまたあんずの実が稔りました。昨年はCOVID-19のせいで大学に登校できないうちにシーズンが過ぎてしまい、あんずの実を見ることができませんでしたので二年ぶりの再会です。今年もたくさんの実が生っていますが、高いところにあるのでもぎ取ることはできません。その実が欲しければ自然落下を待つだけです。



 午後の授業が終わってから所用で生協に行った帰りに、落ちたばかりと思われる新鮮そうなあんずを二個持ち帰りました。そういえば数年前にあんずの実を拾ってきたときには、たまたま研究室にやってきた角田誠先生(建築生産)に無理やり食べさせたなあ、なんて思いながらこの写真を撮ってしばらく悦に入っていると、研究室のドアをノックするひとがいます。誰だろう、あれえ、もしかしてと思ってそちらを振り向くと…

 そこにはなんと角田誠先生が立っているではありませんか! いやあ、偶然とはいえ末怖ろしいタイミングでお出ましになりましたなあ。飛んで火にいるなんとやらとはこのことか(失礼!)。思わず吹き出しそうになりましたが、なんだか深刻そうなお顔をしていましたので、なんとか踏み止まることができました、ああよかった。で、しばらく彼の話すこと(まあ、愚痴ですけど)を聞いてから、口元を少しばかり緩ませながら手元にあるあんずの実を角田先生に見せると、あっ!と言うではありませんか。どうやら彼も数年前の“悪夢”を思い出したらしく、今日は食べないぞ、なんておっしゃいます。

 まあそう言わずに食べてってよ、というわけで、大きいほうの皮をナイフで剥き始めたのですが、食べ頃にはまだちょっと早かったようです。実は少し硬くて、さすがにこれを建築学科長の角田先生に食べさせるのはかわいそうかと思い直し、端っこをちょっとだけ自身で齧ってみたらもうものすごい酸っぱさで悶絶した次第です。ということで今年はあんずの実を食べないで済んだ角田先生でした。でも、二度あることは三度あるって言いますから、来年以降には是非またあんずを食して帰っていただこうと考えております、はい。


ナンバー・シックス (2021年6月1日)

 六月になりましたが非常事態宣言は終結することもなく当然の如くに延長されました。考えてみると東京では2021年は正月からほとんどず〜っと非常事態宣言が出ています。これじゃ地と図とが逆転しちゃって平常時のほうが非常時よりも珍しくて希少価値があるというおかしな状況に陥っております。非常事態宣言が延長されてもこの日から制約されていたことが解除されたりして、全くもってなんのための非常事態宣言なんだかよく分かりませんね。ただ、東京の感染者数はだんだんと減ってきているのも事実ですから、やっぱりお上の宣うことは下々にはそれなりに効力を発揮することが実証されています。

 六月になったので六の話しでもしましょうか。って、おまえがロクでなしだろってのは言いっこ無しでお願いしますぜ、あははっ。さて表題のナンバー・シックスですが、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。これまでのわたくしだったら秋田県の新政(あらまさ)酒造が醸す日本酒「No.6」(新政酒造発祥の六号酵母で醸造した純米吟醸酒)だったでしょうが、今は違います。最近はまっているのはブルックナー(Anton Bruckner)の交響曲を聴くことですが、そのなかでも特に交響曲第六番イ長調に病みつきになっており、毎日必ず聴かないと落ち着かなくて眠れないんですね〜、もうほとんど中毒って感じです。いろいろな指揮者&オーケストラの演奏を取っ替え引っ替えて聴いていますが、どの演奏もだいたい一時間はかかりますので結構な時間をとられます。

 ブルックナーは全部で11曲の交響曲を遺しましたが、それらの多くは何度も改訂がなされていて同一番号の交響曲に複数の楽譜が存在します。ところが交響曲第六番は全く改訂がなされなかった彼の唯一の作品なのです。ブルックナー自身は気の毒なことにこの交響曲第六番が全曲通して演奏されるのを聴くことなくこの世を去りましたが、彼にとってはどうやら自信作だったように思えます。それまでの作風からの変化が見られ、新しい試みに挑戦しようとしたとも捉えられのではないでしょうか。

 しかし残念なことに交響曲第六番は彼の死後も評判は良くなかったみたいで、音楽評論家たちの評価も低いようです。専門家はブルックナーの最高傑作として交響曲第八番か第九番(未完で第三楽章までしかない)をあげることが多いようです。また、ブルックナーの交響曲のうちで一般受けするのは交響曲第四番か第七番ということになっていて、愛好家のなかでも第六番なんて話題にも登りません。

 しかし迂生にとっての交響曲第六番はおそろしいほどに深遠で、雄壮でかつ天上の音楽の如くに美しいのです。自分の好きな音楽は、他人に教えてもらうものではなくて自身の感性に頼って探すものですから、いい音楽に巡り会えてよかったなあとしみじみ噛み締めながら聴いています。

 ちなみにわたくしが最初に聴いたブルックナーは中学生くらいの頃の交響曲第九番(カラヤン指揮ベルリン・フィルのLPレコードで今でも手元にあります)でしたが、その記憶は全くなくて、一年ほど前にクラシック音楽を再度聴き始めたときに家内のCD棚から見つけたブルックナーが交響曲第六番でした。ブルックナーはお嫌いらしい家内ですが(ヴァイオリンのパートでは16分音符や32分音符の怒涛の繰り返しが延々と続くので、腕が疲れてイヤだって言ってました、へえ〜)、どういうわけか第六番だけCDを持っていました(総譜(スコア)は交響曲第七番だけがありました)。ですから迂生にとってのブルックナー体験はこの第六番から始まったと言ってもよさそうです。

 このCDはヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮でバイエルン州立交響楽団が演奏するものでしたが、演奏・録音ともに素晴らしいものだったことも幸運なことだったと思います。前述のように異稿のない交響曲第六番ですが、演奏する指揮者&オーケストラによって演奏時間のみならず聞こえて来る楽器やデュナーミクなどが異なり、そこから受ける印象は千差万別です。そのあたりのことはまたそのうちに書こうと思っています。




ことり (2021年5月31日)

 五月の晦日になりました。五月中旬くらいにははや梅雨入りかと思わされましたが、その後すっきりしない天気は続いたものの持ちこたえたらしくて、東京はまだ梅雨入りしていません。今日はちょっと暑くなって日が差しています。

 さて春は小鳥たちにとっても子育ての季節です。南大沢駅の改札の上に、今年もツバメが来て巣作りをしています。この週末、巣立ちよりもちょっと前くらいのことりちゃんが我が家の前に落ちていて、飛び立てずにバタバタとしているのを見つけました。スズメじゃなくて、うぐいす色の羽毛だったのでウグイスの雛かもしれません。

 よく見ると足に怪我をしているようで、立ち上がることができなくて羽をバタバタするのですが、ひっくり返ったりするだけでうまく動けないようです。つぶらな瞳で助けてって言っているようでした。かわいそうでうろうろとしていると、そのうちに通りかかった人たちが寄って来て、野生の雛は触っちゃダメと言います。親鳥が見ているはずだからそれに任せるしかない、ということでした。薄情なような気もしますが自然界の掟には従わざるを得ません。

 しばらくして外に出て見ると、ことりちゃんはいなくなっていました。うまく親鳥にレスキューされたのならよいのですが…。でも自然の中で生きてゆくのは大変なことなんだなと実感した次第です。

追伸(2021年6月1日);ことりちゃんはお向かいのご婦人が保護して育てようとしていることが分かりました。そうだよな、やっぱり…。


この情勢でやる五輪とは (2021年5月26日)

 東京でのCOVID-19の感染者数は減少傾向にあるとはいえ、全国的には未だに多数の発症者が出ている状況は続いています。緊急事態宣言も延長されるような雲行きです。このような情勢のなかで相変わらず五輪を実施すると言っているひと達はなにを考えているのでしょうか。

 菅首相もさすがに「人類がコロナに打ち勝ったあかしとして五輪を実施する」とは面と向かっては言わなくなりましたし、「皆さんに勇気と希望とを与えたい」などと宣うアスリート氏もここのところは見かけなくなりました。皆さん多分、世間の反応を慮っているのだと思いますが、医療の状況や困っている人たちの雰囲気を考えれば、五輪を無理矢理に実施することのメリットはなにもないと愚考します。

 あまつさえ米国は日本への渡航を自粛するようにとの勧告を発出いたしました。それって、わがジャパンが感染を抑え込めないダメな国だと認定されたわけですよね。そんな危険な?地域に渡航して(何の役にも立たない自己発揚としての)スポーツをしようと考える外国選手なんているのでしょうか。疑問と不安とが交互に湧き上がって参ります。

 本学での感染者数は大学のホームページで逐一報告されていますが、幸いなことにクラスターのような形にはなっておりません。大学を構成する諸氏が節度を持って行動しているおかげだと思います。ところで我が家の愚息の学校では、急に感染者数が増えたそうでまたもや学校閉鎖になってしまいました。突然だったせいかすぐにオンライン授業に転換するというわけにもゆかないらしく、うちの女房などは勉強はどうなるのって心配しています。身の回りの小さな世界の出来事ですが、これが日本の現状の縮図なのだと思いますよ。そろそろ政治的決断のときであると考えます。


会議に出る (2021年5月25日)

 今日の「情報リテラシー実践」(1年生対象の必修)の授業はマイクロソフト・ワードの使い方の第二回目でした。ワードプロセッサーの世界標準という比類ない地位を実質的に獲得したマイクロソフト・ワードですが、その使い方を大学で教えるっていうのも一体全体いかがなものかと思ったりしながらも、教材は準備されていますし、それとは違ったコンテンツを自身で作るのはもっと面倒なので、疑問は抱きながらも教材通りに説明をしてきました。

 でもわたくし自身、ワードの使い方なんてよく知りませんので、授業前にその教材のインストラクションに従って文書の書式を整えたり、表を作って挿入したりしてみました。やったことのない操作も結構あって、こんな素人が学生諸君に説明してよいものなのかとまたもや疑問を抱きましたが、まっ、いいか。

 この授業は専用のパソコン教室で行うのですが、教室に行ってみると白板にデカデカと「この教室では会話は禁止」と書いてありました。それだけCOVID-19の感染拡大に配慮しているということでしょうが、それだったらいっそのことオンライン授業にしたらよいのになあと思いました。授業の内容としてはオンラインでも十分でしょう。

 このあと夕方からオンラインの委員会があったので、昔の習慣のように学会に出向くように下校して、そして…帰宅したんですねえ。オンラインなのでどこにいても会議には出られますが、どこにいようがやがては帰宅しますから(当たり前ですな)、それだったら書斎に座って会議に出たほうがあとが楽ですからね。ただ、学校で対面の授業をして、家に帰ってオンライン会議に出るっていうのもなんだか無駄なような気がしませんか。それだったら全てをオンラインでやれば通勤の時間は不要だし、電車に乗ったり街中を出歩いたりしないので感染のリスクも減らせるので都知事の要請に完全に合致するわけです。

 ということで、とりあえず今週の大学院授業はオンラインにすることにいたしました。M1の諸君は面食らうかもしれませんが、昨年の経験があって皆さんも慣れているでしょうから、まっ、いいか。


最後に勝つ (2021年5月23日)

 久しぶりに晴れて気持ちよいお日和となりました。まだ梅雨入りしていませんが、梅雨のなか休みといった感じです。この好機を逃さず、我が家では布団を干しております。

 さて東京六大学野球の春のリーグ戦ですが、COVID-19のせいで最初は無観客で、その後は観客数を制限して二回戦総当りの勝ち点制で行われています。通常のように先に二勝した方に勝ち点1が付く方式ではなくて一勝一敗でも三回戦はない、というやり方です。

 この日、わが東大は法政大学との二回戦で今季の最終戦を迎えました。ここまで一分け八敗でしたが、ついに念願の勝利をゲットいたしました。2017年秋以来の勝利ということですから、宮台さん(今は確かヤクルトにいるはずだが…)がエースで活躍していた頃のことですね。いやあ、素晴らしい!感激しました。



 ネットテレビで見ていたのですが、奥野さん(文学部四年)、西山さん(工学部三年)および井澤さん(農学部三年)の継投で法政大学に得点を許さずに二対零で完封しました。二回裏にフォアボールで出たランナーが盗塁して二塁に進み、そこで捕手・松岡さん(教育学部三年)のヒットが出て一点を先制した場面なんかは東大らしからぬ流れるような鮮やかな攻撃でした。東大の投手陣もこの日はフォアボールなんかで自壊することなく、丁寧な投球で相手を抑えました。いっぽうの法政大学はこの日はどうもおかしくて、随所で凡ミスが多発していつもとは立場が逆転したみたいに見えましたね。

 先発して五回を投げて勝ち投手になった奥野さんですが、失礼ながらこれほどよい投球をしたことはなかったんじゃないかな、先発自体が初めてだったように思いますし…。昨年から監督となった井出 峻さん(元中日ドラゴンズ)も初勝利をプレゼントしてもらってやっと安心したかも知れません。余談ですが迂生が小学生の頃、後楽園か神宮に野球を見に行ったときに中日のライトを守っていたのが井出選手で、結構な声援を受けていたことを今でも憶えています。

 折に触れて書いていますが、東京六大学野球のレギュラー選手は東大を除けばほとんどが甲子園で活躍してきた野球エリート達です。そんな集団を相手に素人同然(なんて言ったら東大の選手には失礼ですけど)のチームが一矢を報いたわけですから、スカッとします。実際、日本人の判官贔屓の気性のせいでしょうか、九回表の法政大学の攻撃のときには明らかに球場全体が東大の応援に回ったかのような雰囲気になっていました。負けた法政大学の選手たちは帰ったら監督からこっぴどく怒られるのでしょうか…、それはそれで気の毒な気がしますなあ。

 素人同然なんて書きましたが東大野球部も部員数が百名を超える多所帯ですから、そこで頭角を表して神宮球場の土を踏むことは彼らにとっても容易ではないはずです。東大の練習は科学的な知見に基づいていますから、頭脳を使って活路を開いて行ければさらに勝利を重ねることも可能だと考えます。実際、今季は三年生が結構活躍したので、秋以降のシーズンが楽しみです。東大野球部の皆さんの健闘を期待します。


ギガが足りない (2021年5月19日)

 どんよりとした冴えない朝です。数日前まで暑かったのに、きょうは梅雨でもないのに梅雨寒です。これじゃ調子が悪くなるのも当たり前か…。

 さて、掲題の「ギガが足りない」ってなんのことか分かりますか。今のひとはピンとくるのでしょうが、我が家の愚息がこう言って騒ぎ始めたときには何言ってんだろうっていう感じでした。昔、子供が小さい頃に宮崎駿アニメの「未来少年コナン」というのが我が家のブームでして、地球が滅亡するときに空を覆っていた超大型爆撃機(B52みたいなヤツ)の名前がギガントでしたから、最初はこのギガントかと思いました。でもさすがに高校生にもなって「未来少年コナン」もないだろうということで愚息に聞いてみました。

 すると、電車通学するようになって携帯電話を常にいじくるので、契約した通信容量の上限にすぐに到達してしまって超不便っていうことでした。え〜っ、そんなことないだろ、オトーサンはなにも困ってないぞって言ってやったら、あんたとは使い方が違うんだ!って逆ギレされる始末です。お〜こわっ。全くもって面倒臭いことを言うヤツだなとは思いましたが、ぎゃあぎゃあ言われるのも嫌だし、必要な通信ができなくなっても困るので、仕方ないので約一年前に行った携帯ショップに出向いて、プランを変更してやった次第です。

 ということで、またもや大手通信会社の言いなりのままにお金を支払わされ、とっても不快な思いをしてきました。孫正義さんは先日の会見で俺は10兆円でも満足できない男だって言ってましたが、こんなあこぎなビジネスをやっているとやがて思わぬことで足をすくわれて転んじゃうと思いますよ(単なる負け惜しみです、あははっ)。鹿ケ谷の陰謀じゃないですけど奢れる平家は久しからず、というのが歴史の教えるところですから。


ちょっとした発見 (2021年5月18日)

 きょうは学部1年生の『情報リテラシー実践』の授業日です。1号館まで六、七分歩いてゆき、Windowsマシンが並んだ情報処理教室で演習を行いました。テーマは「ワードによる文書編集」です。でも迂生はMac使いなのでWindowsのワードの使い方はトンと知らないんですね〜。同じワードでもMacとWindowsとではテクスチャー(画面上のインターフェースのこと)が随分異なるのですよ。そうすると自分のパソコンでできたことが途端にできなくなったりします。仕方ないのでチューターの大学院生くんに聞いたりしながら(あははっ)資料を説明しました。

 さて先日、他大学の知人に頼まれてオンライン講演会の講師を務めました。建築学のうちの歴史系、構造系および計画系のそれぞれの分野から数名づつが自分の専門とする先端研究について説明するというものでした。わたくしは現在研究中の「接合部降伏破壊した鉄筋コンクリート柱梁接合部の軸崩壊」についてお話ししました。それはいいのですが、他分野の第一線の先生がたの講演を拝聴していてちょっとした発見がありました。

 それはプレゼンテーションの方法についてです。このページでときどき学生諸君の修論とか卒論とかの発表に対して辛口の感想を書いていますが、それに類する話題でございます(って書くと、だいたい中身は分かるんじゃないでしょうか…)。計画系の学生諸君のスライドって字は小さいし、一枚のスライドにたくさんの写真や図面を小さくしてやたらと貼り込んだりして見にくいし、何を言いたいのか分からないことが多々あります。そのことに対して常々迂生は批判的な記述をしてきました。個々の研究室での発表練習の際になぜそれが修正されないのか不思議に思っていたんですね。

 ところがこの日、建築計画系の先生がたのプレゼンテーションを拝見して結構驚きました。というのも、第一線の研究者である先生がたのスライドも上述したものと本質的には同じだったからです。やたらに細かい図面・表が掲載され、画面の下の方には10ポイントくらいの小さな字で参考文献リストまで書かれていたりするのですが、お話しになっている先生はそんなものを指したりすることもなく、滔々と持論が流れてゆくのです。わたくしのようにその分野の素人が聞いていると、一体この画面は何のためにあるのか分かりません。仕方がないのでその画面の内容を詳しく見ようとすると、すぐに次のスライドに移ったりしてしまいます。

 なるほど…、先生たちがこういう発表の仕方でよいと考えるのであれば、その研究室の学生諸氏もそれを真似ることになるのは道理ですな。わたくしの推量ですが、これらの先生方は画面の図や文章がなくても口頭だけで説明できるとお考えなので(なんせプロですから)、多分このような(画面に映っているものをいちいち指したりして説明することなしの)発表になるのだと思います。そうであれば、それはそれで発表の方法としては有りでしょう。

 ただ門外漢に説明するときにホントにそれでよいのだろうかという疑問は残りますなあ。図、写真や文章を載せたスライドを聴衆に見せるのであれば、それを分かるように説明するのは洋の東西を問わずプレゼンテーションの鉄則です。少なくとも学生諸君にはやっぱり適切なプレゼンテーション技術を教えた方がよいと迂生は考えますが、皆さまいかがでしょうか。


今年は早い (2021年5月17日)

 このあいだ花粉に苦しんでいたのに、もう梅雨がやって来たようです。昨日、東海地方が三週間も早く梅雨入りして、東京もどんよりとした曇り空です。強い風が吹いていますが、じっとりと蒸し暑く不快です。日本には四季折々があり、それはそれで風情があってよいのですが、季節の変わり目はどうも調子がよくありません。ずっと授業があるので休むわけにもゆかず(本当はオンラインで講義したいのですが…)、足を引きずりながらとぼとぼと登校しました。

 こういう気候の変調とCOVID-19の変異株拡大とは何か関係があるのでしょうか。両者とも全地球規模での事象ですから、無関係ということは多分ないと思量しますがどうですかね。朝日新聞の土曜版の調査では、この夏のオリンピックを中止すべきという意見が80%以上でした。まあ反体制寄り?の同新聞のことですからその辺りは割り引いて考える必要があるでしょうが、それでも過半数の国民はオリンピック開催に懐疑的だと思いますね。疫病退散の舞なんかやってる場合じゃなくて、我が国の現状を直視してそろそろ開催か否かの決断を下す時期でしょう。

 ちなみに愚息の学校でもCOVID-19の感染者が出て休校になっていましたが、学校閉鎖が今日から解除されて登校して行きました。最寄りの保健所と対策等を協議したとのことなので大丈夫なのでしょう。まあ、よかったです。


みなぎるやる気? (2021年5月12日)

 今朝、南大沢駅を降りると、アウトレット・モール(感染拡大防止のために休業中)から大学へと続くペデストリアン・デッキの両側に東京オリンピック2020の幟旗がずら〜っとはためいていました。さらに、大学正門へと続く階段の側面にも日の丸の一部と「TOKYO2020」の文字が貼り付けられていました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:南大沢20210512オリンピックの装飾:IMG_1232.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:南大沢20210512オリンピックの装飾:IMG_1240.JPG

 今年は2021年ですが東京オリンピックの名称には2020がそのまま使われるのですね(まあ、ポスター等を2021に作り直すだけで膨大な費用がかかるでしょうから、これでよいと思いますけど…)。でも、本当にオリンピックを開催するのでしょうか。COVID-19が変異株に置き換わってこれだけ感染が拡大しているのに、オリンピックをやろうと考えるひとの真意を図りかねますな。感染に怯え、医療の崩壊を怖れながら実施するオリンピックにどれだけの意義があるのか、外国の選手はこのような日本に来ることに躊躇はないのか、疑問だらけです。

 結局のところオリンピックに絡む莫大な利権がこのような事態を産んでいるのでしょうが、反対を叫ぶ日本の世論に耳も貸さずにそれでもオリンピックをやるなんて言っているのはバッハじゃなかろうか、なんちゃって。だんだん毒舌になってきたのでもうやめます…。


耳ネタ 2021May 突然聴きたくなるひと (2021年5月9日)

 大型連休も終わって大学の活動もこれから本腰を入れようかという時季になりました。一週間、ほぼ毎日授業がありますので大学に通っています。でも混雑した電車に乗るのはイヤなので、少し遅めに出かけたり早めに下校したりして、その続きの仕事は家でやるというスタイルが固まりつつあります。

 さてこの一年以上はクラシック音楽ばかり聴き続けています。これについてはいずれ詳しく書きたいと思っていますが、主に19世紀から20世紀前半くらいの作品です。特にブルックナー、マーラー、ラフマニノフがいつのまにかわたくしのライブラリーの三本柱になっていました。それにときどきスメタナ、リヒャルト・シュトラウス、ホルスト(って言ったら『惑星』しかないけどな、あははっ)などを加えて、彼らの曲のどれかを聴き回すような日々なのですが、昨晩、突然にどういうわけか無性に稲垣潤一が聴きたくなりました。

 迂生が大学生の頃、深夜のFMラジオから流れてきたのが稲垣潤一の「雨のリグレット」でした。ということでこの曲を聴いてみました…、声がちょっと湿っていて曲とマッチしています。電話ボックスから電話をかけると“…乾いた交換の声が優しげに、使われてませんと告げれば、忍び雨…”という歌詞が時代を感じさせます。今じゃ街角の電話ボックスはほとんど見かけませんし、固定電話で電話しても交換手なんかが出ることはありませんから。

 「雨のリグレット」が彼を聴いた最初でしたが、とにかく上手じゃないのに(ヘタうまというのともちょっと違う)なんだか味があってまた聴きたくなるという類のヴォーカルでしたね。世間では彼のことをハイトーン・ヴォイスって言うみたいです。でもわたくしにとってはハイトーンっていうと透き通っているイメージがあって、それは例えばハイファイセットの山本俊彦(故人)とか崎谷健次郎なんかを指します。しかし稲垣潤一はそういうのとは違うんだなあ…。彼のは高音だけどちょっと変わった声質で、洋楽でいうとフランキー・ヴァリみたいな感じかな(って、どの例も古すぎて分からないかも、あははっ)。

 で、その稲垣潤一ですがパソコンのiTunes(最新のMacOSではMusicっていうソフトになっているみたいです)内を検索したら、1990年代前半を中心にアルバムが13枚ありました。彼がデビューしたのは1982年でしたが、その頃は学生でお金がなかったのでアルバムは買えず、その時代の楽曲のわずかは彼のベスト盤で聞けるだけです。

 21世紀になると稲垣潤一は様々な女性歌手とポップスの名曲を一曲ずつデュエットした『男と女 Two Hearts Two Voices』というシリーズもののアルバムを5枚出しています。いろいろな名曲を様々なテイストで聴けるので、これらは結構いけると思います。ただ男女の声のキーが異なると男声パートと女声パートとのつなぎ目が転調するのですが(当たり前)、アレンジによってはそこがとってつけたように(露骨に)転調することがあって、そりゃないだろうと気になるときがあります。元歌を歌っている歌手と一緒にその曲ズバリをデュエットしている曲はないのですが、唯一、「木綿のハンカチーフ」を太田裕美と歌っていて、これはとてもGoodです(というか、やっぱり本家本元は味があってうまいっていうことかも)。

追伸(2021年5月13日) 上記に「転調」と書いてあるところは、正しい音楽用語では「移調」でした。訂正いたします。素人なのでお許しを。

 


世の中の不思議な風潮 (2021年5月7日)

 東京都などに出されている非常事態宣言は五月末くらいまで延長されるような風向きになって来ました。日本国の首相はその決断に当たって、東京都知事の言うなりに成り下がってしまったように見えるところがどうにも悲しく感じます。その場しのぎの場当たり的な対応のように思えてなりません。お上に言われなくても個々人が自覚を持って行動すればよいのになあなどと迂生は思いますが、上からのお達しには比較的従順なわが国民性を考えると、これでいいのかも知れません…。

 COVID-19の対策に限らず、世の中にはなんにせよ不思議な風潮があります。例えば原子力発電所の建物には想定外を許さないほどの厳しい耐震・耐津波基準を要求する一方で、自分の住んでいる住宅や普段買い物などで使う建物のそれに対しては怖ろしいくらいに無頓着です。わたくしはこのことを常々不思議に思って来ました。自分の家なんだから好きにしてよいと考える方もいるでしょうが、地震によってそれが倒壊して道路を塞いだり火災を起こしたりするとその事象は公益に反することになり、その影響は重大です。このような“個別の事情”が蓄積することで社会が大きなダメージを受け、それによる不利益は膨大になることを忘れてはなりません。

 原発で言えば福島第一原発でのメルトダウンが決定的に重大な悪影響の根源で、その被害の大きさと悲劇性とが人々の原発への忌避感を高めました。そのこと自体は大いに反省し、被災された人たちへは誠実に手を差しのべるべきであるのは当然です。でも、その原発によって作られた電気を使って高度成長期を乗り切ったことで現在の日本があることを忘れていませんか。そういう大いなる恩恵に浴しながら、2011年以降に手のひらを返したように「原発が使った電気は使わない」みたいな偏屈な理屈を言い立てるのは、いったいどういう了見なのか、にわかには解しがたいです。

 迂生は原子力発電所建物の耐震性能評価にかかわる仕事もしていますが、これは原子力発電に興味があるからとかの理由ではなく、既に建っている建物やこれから設計される建物の耐震安全性の向上に役立つと純然として考えるからです。その観点からは、原発建物だろうと個人の住宅だろうと役所の庁舎だろうとわたくしにとっては等しく重要な建物である、と言うことができます。もちろん建物の重要度はそれぞれ異なることは厳然たる事実であり、設計の際にそのことは十分に配慮すべきと考えますが、原発は重要だけど住宅はそうじゃないみたいな考え方には与しません。


五月になって (2021年5月5日)

 今日は端午の節句ですが、あいにくの空模様であまつさえ突風が吹いたり、大振りの雨が降ったりしました。COVID-19による災厄退散には、兜を飾ったり鯉のぼりを泳がせたりすることがこの上なく有効なのでしょうが(って本当かよ…)、こんな日に泳がされる鯉のぼりの身にもなってちょうだい、なんちゃって。ということで、昨年に続いて今年も何もしませんでした。そういや、家内が買ってきた柏餅はいただいたな、これでよしとしましょう。

 今年のゴールデン・ウィークも我が家はどこにも行かずに過ごしました。もちろん食物などの必需品は買いに出かけますが、そのほかはお家で過ごしました。迂生はそれで別段なにも困らないのですが、風薫る陽気だと家人は漂泊の思いやまず、やっぱりどこかに出かけたくなるようですが、そこをグッと堪えてStay Homeしてもらいました。そんなことを言うとなんだかとってもひどい父親みたいで、それはそれで嫌な気分でした…。

 例年、この連休中に溜まった雑用とか仕事とかを片付けようと思うのですが、今年もまたほとんどやらず仕舞いでした。今さらそんなに一所懸命に仕事しても仕方ないでしょうから、まあそれはそれでいいかなと(なんの切迫感もなく)思います。昨年の今ごろはオンライン授業のためのパワーポイント・コンテンツ作りに追われて大変でしたが、今年はそれをちょっとリファインするくらいで使えますので、のんびりしたもんです。

 ということで普段と変わらずに、読書をしたり音楽を聴いたり、新聞を読んだりして過ごしました。家内が庭木の剪定をするというので、わたくしも南側に植えてあるレモンの木をかなりたくさん切りました。そうしたら、枝ぶりの中のほうに白い花がたくさん咲いていましたので、それらの花々を切らないように慎重に作業しました。これでレモンの実がたくさん成るかも知れません。そうしたら自家製レモンを絞ってレモネードにでもするかと今から楽しみにしています。もっとも野生のレモンですから、その実の皮は厚くて果汁は少なく絞って飲むととっても苦いんですけどね、あははっ。

 しかしながらCOVID-19に対する我が国の無策ぶりには今さらながら驚きますな。結局のところ国家としての長期的なヴィジョンがなかったということです。国民一人当たり十万円を配るとか、マスクを配るとかに使った税金を、ワクチンの開発や新薬の開発(あるいは既にある薬の効果の確認)に集中的に投資すれば今ごろ状況は変わっていた、ということはないのでしょうか…。

 その場しのぎの対処療法を繰り返すだけで、画期的な状況打開策は今に至るまで何もなかったということです。政治家がそういう長期的な視野を持てないというのは今に始まったことではないですが、それでは日本の優秀だった官僚はどこに行ってしまったのでしょうか。自民党の政治家の顔色ばかり伺っているうちにすっかり去勢されて、天下国家を論じるような気概がエリート官僚たちから失われたことこそがこの国の本当の危機の始まりなのかも知れません。それは日本の崩壊につながる怖ろしいことです。


論文の査読を考える (2021年4月29日)

 今日からゴールデン・ウィークが始まりました。といっても昨年同様に小池都知事からStay home を要請されたさなかですから、自由にどこかに出かけるというわけにはいきません。個々人が自分自身を律して生活するよりほかに有効な手立てがない、というところがつらいところでしょうな。なんと言っても人間はひ弱な存在ですから…。

 さて、このページで論文の査読について時々書いていますが、またもやその話題です。日本建築学会や日本コンクリート工学会などのまともな学術団体に論文を投稿すると、その分野のエキスパートが査読して採否を決定し、採択の場合にも査読意見に基づいた修正等が施された上で出版されますので、その学術誌における掲載論文の質が担保されます。そしてそのような査読システムが学術誌の格付け(インパクト・ファクターなど)にもつながっています。ですから、その論文集や学術誌の信頼性の獲得には一流の専門家による適切な査読が不可欠ということになります。

 しかしながら現在の学術誌の多くでは、ピア・レビューと称して学会の仲間うちでのボランティアとして査読がなされています。狭い斯界ですから、論文の査読者が明日は投稿者になったりするので、そのような相互扶助は学会の発展と維持のためには望ましいとは思います。しかし、前述のように査読という行為が非常に重要であることを勘案したとき、それを今のようなボランティア制度に基づいて為すことは果たして適切なことでしょうか。

 論文の査読は匿名でなされるのが一般的ですから、自分の学説と異なる論文には批判的な評価になったり、掲載否にしたりすることもあり得ます。対価のないボランティアなので、ザッと読んで”Accept”とだけ書く査読者もいるかも知れません。もちろん論文の査読は複数名によって為されるのが通常でしょうから、そのような不埒な輩ばかりではないだろうという前提に立っているのでしょうね。でも、そのような非常に危ない(性善説に基づくと言ってもよい)システムに依存して学術誌の正統性が保持されているということはもっと理解されてもよい事柄でしょう。

 白楽ロックビル先生のページに捕食学術誌についての記事があり、論文の査読についての短いコメントがありました。そこには出版される論文には査読者の氏名を掲載するとか、査読を有料にして査読者もABC等のランク付けを行ってその分野の著名な教授の査読料は高額にする、などの提案が載っていました。また、査読作業を業績として適正に評価すべきとも書かれていて、大いに首肯いたしました。わたくし個人としては、査読を依頼されるのは自身が関わる学会なので結局は自分自身のためというスタンスで査読を行なっています。もちろん引き受けたからには自身の能力をフルに発揮して論文を査読するのは当然です。

 ところで先日、わたくしは全く与り知らない国内の学会から論文の査読を頼まれました。その学会は(名前を出せば誰もが知っているような)ちゃんとした学術団体です。ところがどういうわけかその学会に建築構造学に関する論文が投稿されて受理されたらしく(そのこと自体が根源的な疑問なのですが…)、その査読をやってくれというメールが突然に舞い込みました。どうして迂生のところにたどり着いたのか不明ですが、投稿された論文はちゃんとした内容の研究でした。

 そこで「この査読はボランティアですか」と尋ねてみました。非会員のわたくしに依頼するのだから、なにがしかの謝礼をするのがフツーに考えて世間における人の道だと思いませんか。しかし回答はボランティアでお願いします、というものでした。自分の関係する学会でもない赤の他人さま(学会)になぜ奉仕しないといけないのか、という狭量な思いが去来したことをここに告白いたします(って、キリスト者ではありません、念のため)。でもここで迂生が断ったら、見ず知らずの依頼者が困るだろうなあと思いましたし(ただ、見知らぬ人間にメール一本で面倒な頼みごとをするっていうのもどうなのよって思うけどな)、結局は“情けは人の為ならず”ということでお引き受けした次第です。

 こんなことがあったのでもう一度、論文の査読についてつらつらと考えてみました。査読者は黒子ですからおもてには現れにくい存在です。しかし、論文を投稿する人だけではなく査読者も論文集の成立および信頼性の保持に大いなる役割を果たしている、ということを再認識したいと思ってこれを書きました。実際、査読者から思いもよらない指摘や疑問を受けて、自身の論文を深く見直し、その結果として論文がさらに改善できたという経験は何度もありました。皆さま、いかがお考えでしょうか。


宣言が出て (2021年4月28日)

 COVID-19の感染拡大を防止するための非常事態宣言が発出されて数日経ちました。でも、わたくしの身の廻りでは特段の変化はありません。そもそも非常事態宣言ってそんなに頻繁に出すものなのか…疑問ですね。これじゃだんだんと狼少年化するんじゃないかと心配になって参ります。

 今、小松左京の『日本沈没』を電車内読書しているのですが、これがべらぼうに面白いです(このお話しはいずれまた書きましょう)。そこでは、日本が沈没することが確実になったところで政府は非常事態宣言を発令しました。戦前の戒厳令以来、戦後では初めての非常事態宣言である、と書かれていました、そうなんだ〜。なんせ日本の国土が沈没すると一億一千万人(当時)の国民が路頭に迷うわけですから、これこそまさに“非常事態”ですよね。非常事態って、これくらいのレベルなのかも…。

 現状は一年前とは基本的に何も変わらないと以前に書きましたが、高校の同級生たちとメール議論したときにマスクは潤沢に出回っている、という指摘がありました。確かにそうですね。ワクチンもやっと接種が始まりましたから、ゆっくりとではありますが事態は改善に向かっているのでしょう。でも、諸外国に較べると明らかに遅れています。どうも日本という国では、政治家やお役人さまだけでなく一般民衆さえも危機意識が希薄なように感じます。四周を海に囲まれた小さな国土に逼塞していると、大いなる自然に抱かれて自分たちだけは大丈夫だ、みたいに思うのでしょうか。

 そんな感じで日々が流れてゆくのですが、わが大学ではこの宣言期間中も「新しい対面授業」を基本的に続けるようにとの通達が昨日ありました。そろそろZoomで授業かなと思っていたので、この決定はかなり意外でしたね。その代わり(なのかどうかは知らんが)小池都知事から大学生(わが大学だけではなくて、都内の全大学生です)あての動画メッセージが公開になりました。四分くらいの短いビデオ・メッセージですが、さすがに以前テレビ・キャスターだった方ですから、立て板に水のようにすらすらとお話しになっていました。しかしながら、人の流れを抑制するという観点からはやっぱりオンライン授業をメインにしたほうがよいと迂生は思っています。

 我が家の愚息は副都心を経由して通学していますが、朝のラッシュを避けるために始業時間が10時になり、帰りの時間が夕方のラッシュにかからないように一コマの授業時間が40分になっているそうです。小学校から高校まで結局のところ登校して勉強しているのだから、まあ大学生もそうすることで仕方ないかなんて、長いものには巻かれろ式に思ったりもしました、あははっ。


これから (2021年4月23日 その2)

 今朝、角田誠先生(教授、建築生産)がプラっと研究室にやってきて、オラはこれからオンライン授業にする、って言うんですよ。ええっ、もうですかい!?旦那あ〜って感じで、もう晴天の霹靂です。多分、来週になったら早晩、オンライン授業になると予想していましたが、それに先んじて自らオンライン授業にするとは、角田さんも潔いなあ。

 そうは言われても、迂生はこれから授業を対面でするために登校したので、今日は淡々と対面で授業をしようと思っています。まあ、いいかなあ…。ただ今期の大学院の授業は受講者数が過去にないほど多いので、講義室がちょっと密っぽくなっているのが気になります、はい。


また出る宣言 (2021年4月23日)

 変異株が国内でも優勢になりつつあるCOVID-19の感染拡大が加速してきたので、東京都でも非常事態宣言がまたもや出るようです。わたくしの勤務先は東京都が設置する公立大学ですから、大学はオンライン授業にせよと小池都知事が宣えば、率先して実践しなければならないようです。4月21日に学長(この四月から物理学者の大橋隆哉氏)名の文書が発出されて、オンライン授業に突然切り替わっても対応できるように粛々と準備せよ、とのことでした。

 いつも書いているようにわたくしの担当する授業はオンラインでも十分な学習効果を望めると考えますし、パワーポイント・コンテンツは既に用意して(現在は教室でそれを投影して)いますので何の困難もありません。ただ、講義のあとの演習の時間に、学生諸君のあいだを見回ってその理解度合いをチェックしたり、助言することができなくなるのは痛手ではありますけど…。

 それにしてもCOVID-19に対するワクチンの接種は日本国内では遅々として進みませんねえ。イスラエルのように全国民がほぼ打ち終わってマスクもせずにフツーの生活に戻った国もあるのに、なぜでしょうか。医療従事者ですら未だにワクチンを接種していないというのですから何をかいわんや、です。でも、今回の(RNAを利用した)新しいタイプのワクチンを率先して打ちたいかと問われると、迂生はやっぱり首をかしげるんですよね。もちろん現在の知見でそれは安全であるということでしょうが、それが人間の体のなかでどのように変質したり反応したりするかは実は分かっていないのではないかと密かに思うわけです。

 ただそんなことを言っていると、ワクチン接種が進んだ段階でいろいろな不利益(それは健康面と社会面との二つあるでしょうが…)を蒙る危険性もあります。もっとも、どんなものにもベネフィット(光)とリスク(蔭)とがあるのですから、今回のワクチン接種もその一つに過ぎないとも言えます。幸か不幸かわたくしの住む自治体では当面、ワクチンは接種できそうもありませんので、今しばらくゆっくりと考える時間があるのはありがたいですね、時が経てば情報も増えるでしょうから。


英語を理解する (2021年4月21日)

 今頃のわが大学では、前年度の研究成果を和文と英文とで取りまとめるアニュアル・レポート(Annual Report)を作成する時期に当たっています(これは毎年、建築学科のHPで公開されています)。このレポートの作文を面倒くさがる先生が多いみたいで、なかには英文を作成しない先生も結構いるみたいです。

 でも迂生は、以前にも書きましたが大昔に石野久彌先生(建築環境学)からいただいた箴言を守って、このレポートを和文・英文ともに丁寧に作成することを心がけています。これを書いているときは実際、面倒臭いなあと思うのですが、あとあとになってその苦労は自身を助けてくれることになるからです(今まで何度もこれが役立ちました)。ということでここ最近は英作文しているので、頭がかなり英語モードになっています。

 いつも書いていますが、高校時代の恩師・内藤尤二先生の英語指導の賜物によって英語の読解および作文には不自由しません。もちろん、日本語のようにスラスラと英語で作文できるということはなくて、今までに書き溜めた例文とか、使うべき動詞の構文とかをいちいち調べながらの作文になります。でもそのお陰で、英語としてはある程度おかしくない作文ができていると思います(ただし、定冠詞や不定冠詞の使い方は除きます、こいつはNativeじゃないと厳密には分からないから…)。

 そんななか、ふら〜っと立ち寄った図書館の新刊コーナーにあった『英文法再入門 10のハードルの飛び越え方』(澤井康佑著、中公新書、2021年1月)を借りて読んでみました。この著者(予備校の英語の先生)は英語を理解するためには英文法を重視すべきという方のようで、わたくしが高校時代に内藤先生から習ったことが書かれていて、その意味ではあまり参考にはなりませんでした。そのなかに、haveとかgetとかのSVOC文型としての使い方が説明されていました。両方とも「…させる」とか「…してもらう」という意味ですが、C(補語)のところがhaveは原形動詞、getはto不定詞ということを忘れていました。勉強になりました。

 I had my mother clean my room. 私は母に部屋を掃除してもらった。

 I got my father to repair my watch. 私は父に時計を修理してもらった。

 ところで日本の現在の英語教育では、英語は英語として理解し、あるがままに英語を知るという教え方がかなり幅を利かせているそうです。このやり方では、日本語を英語に訳す、あるいはその逆に英語を日本語に訳す、という手法はよくないとされています。そのためこの英語学習法では英文法も重視されません。でも、この本の著者も書いていましたが、英文の構造(すなわち英文法)を知らずして正しく英語を理解できるはずはないと迂生も思います。このことは度々このページで主張してきました。しかし、愚息の英語の教科書を見ても、目的語(Object)とか補語(Complement)とかの用語を見たことがありません。そのようなやり方で英語を理解するには、わたくしとはまた別の脳回路(新しい英語脳?)でも作っているのでしょうか。脳科学を駆使してそのあたりを理論的に解き明かしてくれると良いのにな、って思いますね。


「蔓延防止」の発令 (2021年4月15日 その2)

 蔓延防止等重点措置が東京都に発令されたことから大学宛にも都知事の通達があったそうですが、東京都の設置する本学では基本的には「新しい対面授業」(が、何のこっちゃってお話しは以前に書いた)を継続するそうです。ただ都心を経由した通学時間が90分程度以上の学生諸君からオンライン授業の要請があった場合には可能な限り対応するように、とのことらしいです(かなり意訳しました)。そんな面倒なことを言わずに一年前と同じように原則オンライン授業にしたらよいのに、って迂生はあいも変わらずに思っています。

 一年間、我が家で仕事を続けて来て、そのお気楽さや快適さにすっかり慣れてしまったせいでしょうか、大学の研究室では落ち着いて仕事ができないカラダ?になってしまいました。そもそも往復二時間の通勤時間がとてつもなく無駄に思えるし、苦痛です。家にいればその二時間を有益に使えますし、疲れたらソファにもたれて好きな飲み物を飲んだりもできます。

 もちろん研究室に行けば、そこにストックしている様々な書籍を見ることができますし、同僚と雑談したり情報交換することができます。でも研究が劇的に進むかと問われると、今のところ首を傾げざるを得ませんね。そもそも研究の担い手たる学生諸君がほとんど登校しません(何をしているんだろうな…)。研究室のメンバー諸氏に研究テーマを開示して随分と経ちますが、自分が何をしたいのかの意思も表明せず、テーマが何となく決まったひとも相談に来ることもなく、現在に至っています。なんだかなあって感じです。


トリチウム水の放出と風評被害 (2021年4月15日)

 東京電力福島第一発電所で大量に貯蔵している処理水を海洋放出する方針を政府が公にいたしました。それに対して朝日新聞は、原発事故の被災者を顧みない非人道的で横暴なやり方だ、という主旨の激しい非難の弁を掲載していました。でも、じゃあ溜まりに溜まった処理水をどうしたらよいのか、という新規の対案については全く無関心のようです。日本の大新聞がそんなことでいいんでしょうかね…。

 処理水に含まれるトリチウムは自然界に存在する物質でそれ自体は無害と言われています。そういう科学的な知見はなぜ重要視されないのでしょうか。また、現在でも世界中の原子力発電所から希釈したトリチウム水が海に放出されていて、それによって魚類の汚染や奇形が発生したというような報告は聞いたことがありません。そういう既成の事実はなぜ経験として活かされないのでしょうか。理性的に考えれば不思議なことだらけでしょ、ホント。

 トリチウム水の海洋放出によって風評被害が起きるというのが漁業に従事する方々の抱く危惧であり、そのことはよく分かります。そうであれば、そのような風評被害を起こさせないような手立てを講じるのが社会の務めではないでしょうか。絶えざる検査によって魚類が汚染されていないことを数値で示すというような科学的なエビデンスを積み上げるのはもちろんです。その上で、安全なお魚を皆が産地の偏見なく食するというふうにどうしてできないのか。大新聞は文句ばかり言い立てないで、それくらいの生きる知恵も載せるべきじゃないでしょうか。水からトリチウムを安価に分離できる技術が開発されればよいのでしょうが、それを待っていたら早晩、水は溢れます。そちらのほうがよっぽど重大だと思いますけど、どうでしょうか。


電車で通学/科研費の応募の時期 (2021年4月13日)

 暖かだったり寒かったりでどうも調子の悪い日々が続いております。皆さま、いかがお過ごしでしょうか。

 我が家の愚息は初めて電車で通学するようになりましたが、今朝、自転車で出かけた最寄りの駅から電話があって、教科書を忘れたから持ってきてって言うんですよ。だから前の晩に時間割を確認して教科書、ノートをカバンに入れて置けって言ってるのに、こちらの言うことを聞かないからこうなるんだ、ブツブツ…。もうそろそろ中学生気分から抜け出て欲しいなあって思います。

 さて昨日通達があって、来年度の科研費の応募は今までから約二ヶ月の前倒しで実施されることになりました。まあ迂生は今年度に採択していただいたばかりですので、次の応募は(多分)三年後になりますからしばらくは関係ありません。科研費の公募のスケジュールはもう数十年前から九月スタートだったそうですが、それを変更しようって言うのですから、相当に思い切ったものだと思いますね。とにかく変革を嫌うお役所にしてはかなりの英断だなあ。その最大の理由は、科研費で雇っている研究スタッフの継続雇用を考えると、例年の四月一日の交付内定では遅すぎて、困っている研究者が続出していたっていうことらしいです。

 わたくしのように基盤研究Cをいただいている零細研究者は科研費で研究協力者を雇ったりできるほど裕福ではないので無関係ですが、何千万円とか数億円の研究費を補助されているセレブ?な研究者たちにとっては重要な問題だった、ということでしょうか、よく分かりませんけど…。

 この改革によって二月末には交付内定が示される予定だそうです。採択かどうかの結果が早めに分かれば次年度の研究計画は立てやすくなるので、基本的には歓迎です。

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 今日から新一年生対象の「情報リテラシー実践1」が始まりました。建築学科では教員持ち回りの授業でして、ついに迂生の番が回ってきたっていうところです。経験者の讃岐亮助教(都市計画)が一緒にやってくれるので心強いです。また、理系の大学院生がチューターとして補佐してくれます。教室は正門脇の光の塔がある一号館の3階でして、久しぶりに光の塔を通過動線として利用しました(壁にかかっている大きな振り子時計は止まっていました)。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU光の塔内部_大谷幸夫先生キャンパス計画模型20210413:IMG_1212.JPG

 情報処理を教える授業ですので、パソコン教室で実施します。で行ってみると、さすがに五十人以上の学生諸君が入るとキチキチっていう感じで、かなりな混雑具合でした。うーん、大丈夫かなあ…、かなり心配です。教員のパソコン画面を共有して授業するので、それだったらオンライン授業でもいいんじゃないかな、と思いました。もちろん学生諸君のパソコン等の機器の保有状況やネット接続具合が分かりませんので、何とも言えませんけど…。


立ってする授業 (2021年4月9日)

 一年ぶりくらいにフルに90分間の授業を大学の教室で、しかも立ちっ放しでやりました。いつもよりは大きい教室で、五十数名の学生諸君が間隔を置いて座っていました。そこで、彼女ら/彼らのほうを見て授業をしたのですが、四限(午後2時40分スタート)だったせいか皆さんお疲れのようで教室全体がどろんと弛緩しきった雰囲気でして、あまり反応も帰ってきません。簡単な例題をやってもらって、皆さん分かりましたかと問うたときに質問してくれた学生さんがただ一人いて、とても嬉しかったです、あははっ。

 パワーポイントを使うとは言え、画面の前をウロウロしながら説明するので、いつもと同様に二千歩くらい歩いていました。教室での授業が久しぶりっていうのもあって、とても疲れたというのが一番の感想かな。でも、こんな様子ならば教室に集って授業する必要なんかないんじゃないの、っていうのが偽らざる迂生の想ひです。極論すれば構造力学なり鉄筋コンクリート構造なり、学生諸君が自分で勉強して知識を自家薬籠中のものにしてくれて、期末試験をクリアしてくれさえすればよいわけです。懇切丁寧なパワーポイント・コンテンツを配布していますから、やる気さえあれば自分で十分に自習できると思いますけど…。あっそうか、自主的にやる気は起きないってことでしょうかね、やっぱり。

 教員の職務ですから授業は丁寧かつ分かりやすくするのは当然です。でも、こちらも人間です。ですから、対面で授業するからには学生諸君が教室内に巻き起こすダイナミックな空気の流れ(って、なんのこっちゃ?)みたいなものを大いに期待しちゃうんですよね。まあ、無い物ねだりかも知れませんけど…。


新しい対面授業とは (2021年4月7日)

 例年になく暖かな日が続いているせいか、街かどではつつじやハナミズキが咲き始めました。いつもよりも二週間くらい早いような気がします。入学式の頃は桜吹雪っていうのが定番でしたが、桜はすっかり散ってしまったという感じですね。

 さて、本学では今日から授業が始まります。何度も書きましたが教室での対面授業です。それに関連して、大学当局からは昨年度の経験を踏まえて「新しい対面授業」を実施するように要請されています。でも、「新しい対面授業」っていうのが何を指すのかよく分かりません…。知識教授の一部はオンデマンド授業にしたり、授業外学習にして、反転授業のようなことも推奨しているようです。ところがフツーの教員である迂生には、そんなこと言われても今まで経験して実践して来たことしかできないんですけど…。

 今朝、登校するときに土木の上野敦准教授に出会って開口一番がこの話題でした。そのあと隣室の多幾山法子准教授も「授業ってどうやるんですかあ?」ていうのが最初のセリフでした。皆さん、このように戸惑っているんだと思いますよ。で、わたくしはどうするのかって言うと、今日これから建築構造力学の授業がありますが、昨年度作ったパワーポイント・コンテンツを教室でもそのまま投影して講義する予定です。資料の現物配布も全てやめて大学が用意したクラウドにアップして、学生個々人にゲットさせる方式です。でも、これだったらオンライン授業でも十分なんですよね、あははっ。

 オンラインと違うのは、学生諸君の反応を見ながら授業できることと、講義のあとの残り時間は演習問題を解く時間に当てるのですが、それを教室で皆さんに一斉にやってもらえる、っていうことくらいでしょうか。さて、どうなるでしょうか、これから楽しみです。

 相変わらずアクティブ・ラーニングが喧伝されています。わたくしもどうすれば学生諸君が自主的に勉強するようになるのか腐心して、様々な工夫をしてみたりもしました。でも結局は、学生個々の学びたいという意欲に帰結する問題であると悟るに至りました。やる気のないひとをやる気にさせるなんてことは迂生の仕事じゃありません。それゆえわたくしの授業は原点回帰じゃありませんが、大学教員になった当時やっていたスタイルを続けることにした次第です。ただ、ともすれば構造力学をやっていると具体の建築を忘れがちになりますので、わたくしが今までに訪問した名建築を写真や図面で紹介するコーナーは続けようと考えています。


入学式 (2021年4月6日)

 出勤の途中で国領小学校の前を通ったら入学式の看板が出ていました。この歳になると、(赤の他人の子供でも)小学校一年生くらいの小さい子どもはみんな可愛く思えるようになりました。先日、卒業式の話しを書きましたが春の進むのは早く、もう入学式の季節なんですね。

 我が家の愚息の入学式ももう直ぐありますが、こういう時節柄、父母は会場に入ることはできなくて、オンライン中継するのでそれを見るように、ということでした。入学式なら前途洋々、意気高らかな若者たちを間近で見られるし、その会場はわたくしが子どもの頃からよく知っている場所だったので、迂生も行ってみようかなと思ったのですが残念でした。諦めきれない女房は会場まで行ってみる、なんて言っていますが…。

 自分自身のことを思い出すと、入学式って、新たな出発で清々しいのは確かですが、そこに集まる新たな同級生達もほとんど全て見知らぬ人たちですし、学校の先生も誰ひとりとして知らないので、本来高揚感があるべき場のわりには、なんだか居心地があまりよくない気がしていました。

 都立A高校の入学式は鉄骨造の体育館で行われました。クラスごとに一列に並ばされ、ひとりずつ氏名を呼ばれたことを憶えています。このとき同じ中学校出身の伊東正明くん(現・弁護士)と同じクラスになりましたが彼とは中学校時代には面識がなく、事実上、お初ですって感じでした。また、小学校で同じクラスだった小出誠くんとも(クラスは違いましたが)ここで再会いたしました。そういうことはおぼえているのですが、式自体は全くもって忘却の彼方ですな。

 大学の入学式は確か四月中旬くらいに九段下の武道館(山田守設計の“玉ねぎ”)でありました。学生一人あたり父兄は二人まで同伴できるということで、我が家では父は単身赴任中で家にいませんでしたから、代わって父方の祖父が来てくれました。祖父は自分の子ども(すなわちわたくしの父のこと)の入学式には出席できなかったので、同じ大学に進んだ孫の入学式に参列できてとても喜んでいたことを憶えています。でも、こちらも入学式で何があったのかはさっぱり…です、あははっ。学生歌の『ただひとつ』でも歌ったのかなあ。


思ひ出のなかの父 (2021年4月4日)

 境有紀さん(京大防災研)のページに「父の遺言」というお話しが載っていました。それを拝見しながら我が家の場合はどうだったかなあと思い出そうとしたのですが、亡き父は特段の遺言みたいなものは残さなかったように記憶します。父のことは時々書いてきましたが、とにかく若い頃は夜遅くまで(遊んでいたらしくて)家に帰って来ず、母は「うちは母子家庭だから」ってよく自嘲気味に言っていました。何をしていたのかよく知りませんが、ものすごい酒豪だったので(迂生はその遺伝子は全く受け継いでいません、あははっ)呑んだくれて麻雀、パチンコをしたり、賭け碁をしたりしていたようです。ときどき社宅だった我が家に酔っ払って同僚たちを連れてきては碁などをしていましたが、そのときにお金が左右に動いているのを小さかったわたくしは見ています。当時は何をやっているのかさっぱり分かりませんでしたけど。

 小さかった頃のわたくしは泣き虫で弱っちかったので、多分父はそれを苦々しく思っていたのではないかと想像します。田舎で生まれ育った父は子供の頃から日本酒を飲んでは庭で寝込んでいたなんて伝説の持ち主ですし、陸軍将校を養成する学校では寮生活をしながら厳しい全人教育を受けたひとだったので、自分の子どもがひ弱に育つことに我慢がならなかったのかもしれません。その陸軍の学校では食事を残すことが許されず、魚の骨まで食べたという話しを我が家の食卓ではよく聞かされました。戦中・戦後の食べ物のない時代を生き抜いた父にとっては、そろそろ飽食の時代になりつつあって(でも我が家はまだ貧しかったが)出されたものを残すような軟弱な息子は許せなかったみたいで、食べ残したものをよく口の中に押し込まれては、ぎゃあぎゃあ泣き喚いたものでした…。

 そんな遊び人風の父ですが、自分の両親(すなわち迂生の祖父母)は学校の先生でした。また女房(すなわち迂生の母)の父も学校の先生でした。そんな環境にいたために「学校の先生」一般は嫌いだったような気がしてなりません。そのせいでしょうか、父から何か教訓めいたことを言われた記憶はありません。ただ小学校五年生くらいのときに勉強もせずに遊びまわっていたわたくしに「勉強もしないで、お前は○○○にでもなるつもりか!」って物凄い剣幕で怒られました(○の部分は今では蔑称かも知れないので伏せ字にしました)。○○○が何か知らなかった迂生はただその語調に怯えるだけで、びえぃびえぃ泣いたのは言うまでもありません。

 その当時の父は建築現場の監督でしたが、そういう現場で使っている職人さんを社宅に派遣して家の修繕や塀の建て替えなどの仕事をさせることがありました。子どもだったわたくしはそういう作業を物珍しく眺めていましたが、それらの職人さんたちが口々にお前の親父はとっても怖いんだぞって言うんですよ。家のなかでも父は怖かったですが、そう口にする職人さん達にとっては心底おっかないひとだったみたいでした…。

 そんな父でしたが、迂生が建築学科に進んで青山博之先生の研究室で勉強することにしたときには嬉しかったみたいでした。そして大学院に進学したときもなにも言わずに学費を出してくれましたし、わたくしが(父の嫌いだった)学校の先生になったときも何も言われなかったと思います。父にとって学校といえば前述の陸軍の学校のことであって、終戦によってその学校がなくなると、その後に進んだ旧制高校や大学などにはほとんど思い入れはなかったのではなかったか。大学で学んだのはタバコと麻雀と言って憚らないひとでしたから。

 でも、天皇陛下ただ一人を尊崇してその名を奉じて行動するような規範が敗戦によって一夜にしてひっくり返ってしまうという未曾有の社会変革は、父にはどのように映ったのでしょうか…。敗戦がもたらした価値観のコペルニクス的転回は父たちの世代にとっては重くのしかかるテーマだったらしく(そりゃそうだろうとは容易に想像できますが)、高橋和巳の小説も多くがこのことを取り上げて書かれました。

 父は陸軍将校になる前にあの戦争が終わってよかったという趣旨のことをどこかに書いていました。それは、旧日本陸軍のビルマの戦いで無数の日本兵の屍を残して退却した作戦(なんてものではないが)を指揮した牟田口廉也将軍のあまりの独善・自分勝手ぶりにさすがに唖然としたかららしいです。戦争が終わらずに将校になっていたら、自分もああなっていただろうという自戒の念がそこには込められていました。


新鮮な気持ちになる? (2021年4月1日)

 朝方は曇っていましたが、だんだんと晴れてきて気温も上がって参りました。四月の朔日です、つまり新しい年度がスタートしました。この天候のように晴れ晴れとした、新鮮な気持ちになったかどうかはどうも自信がありませんけど…。新年度になってCOVID-19も退散だ〜っていう非科学的なマインド・コントロールのもと、大学に登校しました。都心から田舎に向かう電車とはいえ、多摩センターに職場がある人たちが多いためにかなり混んでいました。こりゃ朝からまずいなあ、というのが偽らざる感想ですな。

 それで、新年度第一日めから教室会議がありまして、これも一年ぶりに対面で開かれました。今年度は角田誠教授が通算三回目の学科長をお勤めになられます。お話しをうかがうと10年ぶりの出馬ということで、ホントに頭が下がる思いでいっぱいでございます、はい。七十歳定年ということがあるとすると、迂生にも三回めっていうヤツが回って来るかもしれません、あな怖ろしや〜。

 さてJSPSの科研費補助金ですが、昨年十月に提出した書類の審査が終わってその結果が今日公表されました(JSPSのHPにそう書いてありました)が、わたくし個人のサイトにはまだ『採択』っていう文字は見えません。ただ「交付内定時の手続き」のページを見たら、すでに新しい課題番号が割り振られていましたので、多分、採択されたのだろうと思います。ここから先は本学の担当者マターなので、交付通知の作業が停滞しているのかなと推量します。いずれにせよ嬉しいです。

 いつも書いていますが、申請調書を作っているときには絶対ゲットするぞーっていう強い気持ちで書いています。でもそれから半年もすると、大丈夫かなあって不安になって参ります。そんなことの繰り返しがずっと続いてきたという印象ですね。まあ、とにかくこれで三年間の研究費は確保できたということでひと安心です。明治大学の晋 沂雄先生(准教授昇任、おめでとうございます!)には引き続き実験等の研究を一緒に進めていただくことになりますので、どうぞ宜しくお願いします。


何を要求されているのか (2021年3月30日)

 初夏のような陽気の年度末になりました。以前から書いているように四月(って言ってももう明後日!)からは基本的には登校して授業をしたり会議に出たりすることになるので、裁量労働制の利点を最大限に発揮した(ある意味、お気楽な)生活ともお別れってことになります。しかし大丈夫かなあ、定時に電車に乗るという生活を一年間もしなかったし、ほとんど出歩いていないので足腰が耐えられるのか、不安は尽きません…。定年で仕事を辞めたあと、一年してまたストリクトな仕事を依頼されたら多分、こうなるんだろうな、あははっ。

 さて先日、公募人事による面接がありました。一時間近い時間で、業績を説明したり模擬授業をしたりしてもらいます。そのあとは質疑応答になりますが、それも審査の一つなので気が抜けないだろうなと思うとホント気の毒に思います。受け答えのやりとりでそのひとの能力の高さが垣間見えると、質問した方としては嬉しくなってポイントがアップしたりもします(もちろんその逆もある)。ときどき書いていますが、大学のファカルティ・スタッフとして職を得るのは大変だなあとつくづく思います。

 その面接でわれわれ審査者は何を見ているのか、それはひとによって違いはあるでしょう。もちろん能力が最優先で、人柄や分野マッチングも重要です。でも書類審査を勝ち抜いて面接まで進むかたは、能力は十分にあるとみて呼ばれています。ですからそのひとの人柄がよければ、あとは自身の同僚として楽しく、気分よく一緒に仕事をすることのできる人物かどうか、ということをわたくしは一番気にかけています。

 だって同じ学科のスタッフになったら、大学にいっぱいある諸事雑事(入試業務も含む)を分担してもらうことが必須で、設計製図などではエスキスを一緒にするかも知れません。卒論や修論の発表会では互いの研究室の学生たちに質問したりコメントしたりすることを求められます。それらを気持ちよく引き受けてくれないと何のために採用したのか、と迂生は思うわけですよ。研究するのは大学なので当たり前、そんなのはご自分の好きな研究を好き勝手にやってくれりゃあ、いいんです。その能力があるのも(大学で研究しようとするのですから)ある意味、当たり前です。いくら研究をガンガンやって賞をたくさんとったとしても、学科のお仕事はやらないよっていうひとは、わたくしはNo, thank youですな。

 ただ、今まで多くの人たちを面接してきましたが、このことに気が付いている応募者は少なかったように思います。皆さん、自分自身がどれだけ素晴らしいかというアピールに余念がなくて、学科の同僚としての適格性を明示することまでは気が回らないようにお見受けします。でも、彼ら/彼女らもテニュアの職をゲットしようと必死ですから、そこまで望むのは酷なのかも知れませんね…。


春のうらら (2021年3月27日)

 暖かなよい週末になりました。ところが三月には土曜日出勤が三回もあって、今日がその三回めなんです。建築学科の人事に関する会議があるため登校しましたが、よいお日和に誘われて調布まで散歩がてら歩きました。桜の花はもう直ぐ満開というところまで来ている樹々が多く、目を楽しませてくれます。我が家のそばの野川沿いの桜はこんな感じです。

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 この先に進むと、甲州街道と品川通りとを結ぶ新しい都道の普請が行われているのですが、全くもって開通の兆しが見られません。で、その言い訳なのかどうか知りませんが、工事の看板には「週休二日制確保試行工事」って銘打ってありました、なんだかな〜って感じだな。税金を使って工事しているのですから早く完成させてそのベネフィットに浴させてほしいと願います。

 下の写真は国領駅前にある、調布市の子育てスペース「すこやか」とかスーパー・マルエツなどが入る複合施設の前の桜です。ここは駅前の裏側の細い道が十字に交差する角地です。信号のない十字路なので一旦停止の道路標識がありますがそれを無視する車が多いらしく、その違反を取り締まるお巡りさんがしょっちゅう見張っています。写真の奥に建っているのは鉄筋コンクリート造の超高層マンションで久米設計の設計です(以前に研究室の後輩の伊藤央さんに聞いたら、知っているって言ってました)。駅前の一等地に建っているのは確かですが、なんでこんな田舎にこんな超高層ビルを建てにゃいかんのか、理解の外にありますな、あははっ。

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 ここからは調布駅までかつて京王線が地上を走っていた線路跡地を歩きます。線路は撤去されていますが、その跡地は上の写真のように線形がそのままの空疎な空き地になっています。緑豊かな緑地公園にしてせせらぎを流すとか、もう少しなんとか都市計画して欲しいものだと思うのですが、どうですか。

 南大沢まで来るとその寒さのせいか桜は七分咲きくらいでした。それでも大学脇の遊歩道はピンクの回廊のようにほんのりと華やかに染まりつつあって、これからしばらくは楽しめそうです。

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春の嵐の卒業式 (2021年3月21日)

 今日は本学の卒業式・修了式でした。皆さん、おめでとうございます。式自体が中止になった昨年度とはかわって、(通例どおりに)有楽町の東京フォーラムで全学のセレモニーが開かれたあと、八王子市の南大沢キャンパスに戻って学科ごとの式が開かれました。当初は鳥海学科長・松本補佐だけが出席して証書等を渡す予定でしたが、建築学科の先生たちからこの日ぐらいはみんなで集まって祝ってあげたい、と声があがって教員は参加可能となりました。ただ、COVID-19の状況が何も変っていない世上に対するわたくしのスタンスは先日書いたとおりですので現地には行かずに、ひっそりと自宅でお祝いしました…。

 しかしこの日はまさに春の嵐でしたね。こんな日に晴れの日を迎えた学生諸君はホント気の毒だったと思います。これじゃ世相が今のようでなくても出歩きたくないですから迂生はきっと欠席しただろうなと思いました。

 さて卒業に関係する唄ですが、すぐに思い出すのはハイファイセット(本家は荒井由実)の「卒業写真」です。この曲はわたくしよりも上の世代にとっては馴染み深い、多分定番だろうと思いますがいかがでしょうか。次に迂生にとっては尾崎豊の「卒業」やさだまさしの「つゆのあとさき」、風の「暦の上では」が来て、ちょっとマイナーなところでは松田聖子の「制服」があります。これって歌詞もいいですが、マイナーの混じったメロディがなんとも心地よいんですね〜。隠れた?名曲だと思いますよ。ちなみに家内に聞いたら彼女は斉藤由貴の「卒業」を挙げていました(年齢が分かりますね、あははっ/わたしゃ知りませんでしたが、曲を聞いたら聴いたことはありました、当時の斉藤由貴がかわいいです)。

 伊勢正三の歌う「暦の上では」に“卒業なんて言葉はきらいだ”という歌詞があります。これには密かに共感を抱きますね。わたくし自身も卒業式が(さすがに嫌いとは言いませんが)苦手な部類です。卒業する当の若者たちにとっては前途洋々たる未来への門出なのですが、送り出す教員からすれば立派になったなという喜びと同時に、もう会うことはないんだという一抹の寂しさを感じ、そこに湿っぽい浪花節的なセンチメンタル感性を感じるからです。卒業式に横溢するウルっとするような少しばかりジメッとした雰囲気にも馴染めません…。そんなわけで愚息の卒業式にも迂生は行きませんでした(お上さまからはどこのお宅もオトーサンが来ていたよってなじられましたけど、あははっ)。


変わったものは (2021年3月20日)

 このところ暖かなよいお日和が続きながら、お彼岸に至りました。皆さま、いかがお過ごしでしょうか。わたくしは相変わらず自宅で仕事をしています(家人は分かりませんがわたくしは快適です、あははっ)。先日は、まだ四月には間があるのですが、新年度第一回の研究室会議をオンラインで開催しました。予め配布した研究室ライフの注意を説明したあと、久しぶりに研究内容についてのレクチャーを行いました。どれくらい理解してもらえたのか不明ですが、何もしないよりはマシかなと思って講義した次第です。

 今日はお仕事があって久しぶりに登校しました。冬は寒い南大沢ですが、桜の花はちらほら咲き始めていました。いよいよ春本番っていうところでしょうか。それはそれでやっぱりちょっとしたワクワク感を誘いますね。

 さて、COVID-19の感染状況ですが、この週末に非常事態宣言が解除されます。しかし東京都内の感染者数はかなり減ったとはいえ、まだまだ多いですし、変異株の侵食は密かに、でも確実に拡大しているようで、それに対する恐怖感は相変わらず緩和されることはない、というのが迂生の認識です。思い返すと一年前の三月末に志村けんさんが亡くなって世間が驚愕したわけですが、その頃と現在とで何が変ったというのでしょうか。ワクチンの接種は日本でも一部で始まったようですが、わたくしどものような一般市民にあまねく行き渡るには、多分、一年近くかかると予想します。突貫作業で開発されたワクチン自体にも不明な点は多く、その実情が明らかになるまでは接種自体を躊躇させるものがあります。

 
写真 京王線・調布駅の広場に建設中のワクチン接種会場用プレファブ建物

 しかるに、われわれ下々のものにとっては一年前と本質的には何も変っていないにもかかわらず、世間さまの様子はすっかり変容してしまいました。前のめりと言うのか、新型コロナ・ウィルスなんてあたかも存在しないものかのようにフツーの生活に戻りつつあります(そもそもウィルスなんか小さ過ぎて目に見えないのは事実ですけど…)。わが大学でも四月からは対面授業を基本にせよとのお達しがあり、必要に応じて教室の授業をオンラインで同時配信するための手法の講習会も開かれました(とても面倒臭いです)。

 でも、そんなことをして本当に大丈夫なのか? 一年前にはダメと言われたことが、なぜ今は許容されるのか。もちろんこの一年の経験によって、教室で注意しながら授業をする分には感染リスクは低いという知見が得られたのかもしれません。しかし多数の大学生が授業を受けるために大学に通うようになれば公共交通の混雑を促進することは確かです。逼塞した生活なんかもう我慢できないって感じで人々が大きな塊となって動き出したように見えますが、それって何の根拠もないんだよって迂生は言いたいですね。

 ですからわたくしは今まで通り、自宅からオンラインで授業をしたいと考えます。でも、そのためには学部長に申請して(その理由を説明して?)許可を得るという手続きが必要みたいです。それも面倒かつ億劫だなあとは思います。結局、世の潮流に流されながら四月からは大学に登校するようになるのか、かなり憂鬱な日々を過ごしているわたくしでございます…。


もうすぐ春が来るひと (2021年3月6日)

 首都圏の緊急事態宣言は結局、二週間延長されて3月21日までになりました。COVID-19のほうも静かに進化を続けているらしくて、その変異株の拡大には怖ろしさを感じます。この新しい感染症については不明な点が多いうえに変異して性状が(人類にとって)さらに凶悪化したらたまらん、というところでしょう。とは言え一年以上の逼塞生活に飽いた人たちは状況は全く変わらないのにフツーの生活をしようとしています。そんなのに巻き込まれてはかないませんので、そういうところには近づかないにこしたことはありません。結局のところ緊急事態宣言の有無にかかわらず自分の身は自身で守るしかない、という自明の理に行き当たるわけです。

 さて今日は土曜日で、働き方改革が喧伝されるようになったこの頃ですが、大学でお仕事があって登校しました。まあ春を迎えるにあたっては必須で日程に余裕のない行事、と言えば大学関係者にはだいたいお分かりだと思いますけど…。

 それにしても今年の受験生諸氏はホント、気の毒だったなあとご同情申し上げます。新しい大学入試共通テストで記述式問題が土壇場でキャンセルされたうえに、このCOVID-19拡大騒動で高校や中学校にも通えず、授業や学校行事が停滞したのですからね。都立高校の合格発表は既に3月2日にあり、国公立大学のそれも多分、来週早々にはあるだろうと思います。そうなれば長い鬱屈した日々から解放されて、やっと春の到来を喜べる人たちも多々いるでしょう。

 四月からの大学生活がどうなるかは個々の大学によって異なるでしょうが、わが東京都立大学では新入生ガイダンスから通常通りに対面で行う予定らしいです。前述のような試練を超えて入学してきた新入生諸氏には大学のキャンパスで大学生らしい生活を謳歌してほしいと、人情としてはやっぱり思います。ただ、そのようなフツーの生活とCOVID-19感染防止とをどのようにすれば両立できるのか、実際のところ迂生にはかなり不安なところがあります。安心してこころ穏やかに春を迎えられるのはいつなんでしょうか…。


見える見えない (2021年3月3日)

 風は強いのですが暖かな日差しのあるひな祭りになりました。

 人間は目に見えるものは実存として認識できますが、目に見えないものでも想像したり「心眼」で見たりして脳内に虚構を構築することによって豊かな創造力を発揮してきました。でも、やっぱりこの眼で見てみたいし、目に見えないものは容易に信じられないということもあるかと思います。

 わたくしは建物の耐震構造を専門にする研究者なので、主要なツールは構造力学です。構造力学の基礎は主として数学では微分積分、理科ではニュートン力学です。ということで力学(といっても初等力学ですけど)は今でこそフツーに使っています。しかし大学に入学するまでは物理学は超苦手な科目でした。そこで扱う力、電気、磁気などはどれも目に見えず、どのように想像すればよいのかさっぱり理解できませんでした。昔、スターウォーズで「Forceを信じるのだ!」などといっていましたが、新興宗教じゃあるまいし「力」を信じたくらいで物理学ができるようになるわけもありませんやな。

 高校の物理では、例えば斜面を滑り落ちる物体を題材とした問題は頻出されますが、その様子は想定できても、そこに力が作用しているなどと言われてもにわかには信じられません。林檎が木から落ちるのを見てニュートンが万有引力を発見したという伝説はよく知られていますが、凡人にはそんなことは思いつかないのと同様です。万事がこんな調子で、物理ってイヤだなあ、詰まらないなあっていうのが当時抱いていた想念でした。勉強していても日本史や世界史のほうがはるかに興味深く、また楽しさを感じていました。

 それなのに大学に入って建築学科では建築構造学をやろうと思ったのはなぜだったのか、今でもよく分かりません。ただ先輩たちが実施する鉄筋コンクリート部材の実験に参加して、ひび割れが入ったりたわんだりする様子をこの眼で見たことが大きな転機になったように思います。すなわち力は目に見えませんが、力が作用した物体が変形した様子なら見えるわけです。あまつさえ引張り力を受けるコンクリートにはひび割れが発生しますから、とても分かり易いっていう感じです。

 こんな具合に目に見えない力を想像できるようになって、今じゃ学生諸君を相手に「建物のなかを流れる力は…」とか「スムーズに力を流せるような構造を設計しよう」などと講義をしています。思えばずいぶん遠くに来たもんだって思いますな、あははっ。


ビートルズの遺したもの (2021年3月1日)

 三月になりました。野川と京王線とが交差する街角では、梅じゃない桜みたいなピンク色の綺麗な花々が満開になっています。COVID-19による緊急事態宣言はいまだに発令中ですが、そんな人間界の騒動にはお構いなく季節はめぐってまた春がやって来ました。ありがたいことです。

 さてNHK-FMで昨春から放送されてきた「Discover Beatles」という番組もそろそろ終わりを迎えます。杉 真理[すぎ・まさみち]さんのビートルズ愛に溢れた蘊蓄を楽しみながら、ビートルズの遺したアルバム全曲を含む曲たちを聞いて来ました。そうして四人のメンバーが当時だけでなく現在でもすごいってことが、よく分かったような気がします。若い頃はビートルズなんて何がいいのだろう、昔のバンドじゃないかって思っていて、ほとんど聞きませんでした。手元にある彼らのCDだって六枚だけですし…。でも今になると、彼らも既に伝説というか立派なオールディーズになっていて、半世紀以上も前の楽曲がかえって新鮮だったりするのだから不思議です。ただ、ロックやポップスの世界でビートルズがその当時いかに革新的で先端を走っていたのかということは、やっぱり彼らと同業たる杉さんの説明を聞かないと素人には分からないですね。

 ビートルズが解散したのは1970年です。でも迂生が中学生だった70年代半ばにはビートルズはもう「不良の音楽」ではなく、教科書にも載るようなスタンダードになっていました。中学校の音楽の授業で「Yesterday」を先生のピアノ伴奏でみんなで歌ったことをよく憶えています、マイナーな感じでちょっと暗いけどいい曲だなあって思いながら。でも、だからと言ってビートルズに興味を持つなんてことはなかった訳ですから、まあその程度の出会いだったんだと思います、あははっ。

 ということでこの歳になってビートルズを再発見するっていうのもどうなのよって思いますけど、杉さんの放送を一年間聞いてきてこりゃあGoodだねって思う迂生のベスト3を紹介いたしましょう。

 第1位は1963年録音の「Till there was you」です(こちら)。この曲は彼らのオリジナルではなく、メレディス・ウィルソンというひとの曲(1957年)のカヴァーだそうです。やっぱりいい曲って多くの歌手たちに歌い継がれて行くものなんですね。このビートルズのカヴァーはポール・マッカートニーがヴォーカルをとっています。インテルメッツォ(間奏)でジョージ・ハリスンのつま弾くギターがこれまたよいです。歌詞も素晴らしくて夜明けの草原のかぐわしい香りが漂ってきそうで、聞いていてうっとり幸せな気分にさせてくれること請け合いです。

 曲名のTill there was youだけだと意味がよく分かりません(till は接続詞ですから)。でも歌詞にある ”No, I never heard them at all till there was you.” をみると、これは仮定法的な使い方であることが分かります。あなたがそこにいなければそれらは全く聞こえなかった、という意味でしょう。米米クラブの「君がいるだけで」という曲がありましたが、まあそんな意味と同じだと思います。

 第2位は1967年録音の「She’s leaving home」です(こちら)。これもポールの曲ですが、コーラスが秀逸です。この曲は弦楽とハープしか使われていませんので、ドラムスのリンゴ・スターは出番がなかったことになります。サビのShe’s leaving home の掛け合いはポールたちのファルセットが心地よく、脳内にアルファ波が横溢します(って、本当か)。安部恭弘さんの曲に「彼の消息」という同じように家を出てゆくひとの曲があるのですが、こちらは He’s leaving home…と歌っているので、ビートルズのこの曲からとったんだなということを知りました。

 第3位は「Something」です。この曲はジョージ・ハリスンが作曲して歌ったもので、ビートルズの最終期である1969年に録音されました。この曲だけは迂生のライブラリーにありましたが全く憶えておらず印象にもありませんでした。でも改めて聞いてみると(バラードって言われているようですけど、そんな感じはしなくて)なんとも気だるいところがいいんですね〜。

 ところでわたくしの手元にはビートルズが1970年に出した最後のアルバム「Let it be」のLPレコードがどういうわけかあります。妹のコレクションだと思うのですが、数奇な紆余曲折?の末にここに来たみたいです。でも、わたくし自身は一度もそのレコードに針を落としたことはありません、今度、聞いてみるかな…。


来年度を考える (2021年2月19日)

 Good day だったので二週間ぶりに登校しました。やっぱり大学の研究室に入るとシャキッとしてやる気がみなぎるような気がするのだから不思議だな、まあ気のせいだろうけど、あははっ。ただ校内にはほとんど学生さんの姿は見えず、卒論・修論等の一大行事が終わった後とはいえ、ちょっと寂しい気分もいたします。

 先ほど全学教務委員長の角田誠教授にお会いして聞いたら、来年度の授業は対面で実施するがその様子をオンラインで同時配信するという形態をデフォルトにすると伺いました。ええっ、そんな面倒臭いことができるのか、と思って聞いてみると、そのための方法を説明する講習会が近々オンラインで開かれるということでした。いろいろな学生さんがいるので、そうせざるを得ないのでしょう。でも、還暦間近のおじいさん先生(わたくしのことです)に今からそんなめんどくさいことをさせないで欲しいなと(ちょっとばかり)思ったりもするんだな…。

 前にも書きましたが、この四月からの研究内容についても考え始めました。研究テーマはいくらでも思いつきますが、それを研究室に入ってきたNew Comer たちに説明するのはとても大変です。なんせ長い研究歴のなかで課題が相互に複雑に絡み合っていることも多いからです。迂生ひとりが面白がっても、彼女/彼らには通じないわけでして、独りよがりにならないように気をつける必要があります。その説明をどうしようかなあと考えています。


春の足おと
 (2021年2月17日)

 二月半ばを迎えてそろそろ花粉の気配を感じるようになりました。陽射しにも少しずつ力強さがよみがえり、街かどには梅の花が咲いています。COVID-19の市中感染も二年目に入って、それでもそれへの有効な対策は未だ見出せず(ワクチンはやっと日本国内に輸入されたそうですが)、外出せず・人と会わず・自宅に逼塞という生活を続けています。

 我が大学は四月からは対面授業を主とするようですが、十分な対策をするとは言っても教室が広くなるわけじゃないので、基本的には密集は避けられません。それはなんだか気持ちが悪いし、そもそも朝のラッシュの電車には乗りたくないというのが迂生の現在の心境です。さらに言えば、この一年間のオンライン授業の経験を活用しないというのではいかにももったいないと思うわけです。ですから、実験や実習を除けばオンライン授業を基本として、ときどき登校して演習やテストを実施する、という手法がいいなと考えています。まあ、どうなるのか不明ですけど…。

 この四月からは全学共通の「情報リテラシー実践1」という新入生必修科目を受け持ちます。と言っても建築学科ではこの科目を一年ごとの回り持ちで各教員が分担するので、ついにその順番が回ってきたってだけの話しですけどね。ただそうすると前期の担当授業はこれを含めて4コマになるので、ちょっとつらいなあとは思います。前任の橘高義典先生から紙版の資料をどっさり引き継ぎましたので、まあ何とかなるんでしょうな。ただ、そういう代々引き継がれてきた資料というのは往々にしてあまり役立たないので(ごめんなさい)、ザッと見てから取捨選択してバッサリ捨てようかと思案しております、あははっ。

 卒論・修論の発表会が終わり、今年度の一年間を振り返ると達成感はほとんどありません。それでも科研費の実験研究を担当したM2・石川巧真さんおよびB4・富澤良介さんのお二人が気を吐いてくれたことはとても良かったし、感謝しています。総じてCOVID-19感染拡大のせいで(わたくしも学生諸君も)大学にほとんど登校できなかったため、研究指導は大いに制約を受け残念ながら低調でした。

 この反省から、来年度の研究室活動はやっぱり対面を基本にしたいと考えます。来年度の卒論生は既に決まっていますから、この三月から新体制での研究をスタートさせ、わたくし自身が研究室メンバーに講義する時間を復活させようと思います。そうやって彼女ら/彼らに刺激を与えるとともに、ひとりずつ個別に丁寧に対応することがやっぱり大事だなと再認識いたしました。

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 さて我が家にはひと足早く春がやってきました。愚息の高校入試は先週で全て終わりました。そこに至るまでにはいろいろあって、本人だけでなく家じゅうが大変でした。特に先週は一週間にわたって試験が続いたため体力的にもきついはずで、予定通りに受験できるかさえ危惧したほどです。幸い病気になることなく、元気に受験できたので良かったです。

 入試の倍率にこんなに気を揉んだのも初めてでした。今いる大学の入試では、わが建築学科では9倍とかの結構な数字になるのですが、大変そうだなあという他人ごとの感想でした。しかしよくよく考えてみると、9倍なんかだったらまず合格は無理だろうってフツーは思いますよね。ただ私立高校では(学校にもよりますが)定員の何倍もの合格者を出すところもあるので、実質倍率が今年はどのくらいになるかは読めないところもあります。

 わたくしは東京育ちなので東京の高校事情はある程度分かっていましたが、家内は東京出身ではないのでどうもよく分かっていないようでした。もちろんわたくしの頃とは時代が違うので入試制度も大きく変わり、例えば併願優遇という制度については理解するまでにかなりかかりましたね。中学校の先生がたのご負担も増えているように思いました。

 電話帳のように分厚い高校案内書も今回、はじめて真剣にリサーチしました、どこだったら受かりそうかなあ〜とか思いながら…。迂生の中学校時代を思い出すと教室の教卓にはそのような案内書が常に置かれて、皆が見ていましたが、わたくし自身はそれを真剣に見た記憶はありません。しかし今回、東京には実にたくさんの高校があるんだなあという(よく考えれば当たり前の)ことを改めて実感いたしました。

 入学試験は人生の一大イベントであり、その結果によって人生が大きく影響を受けることは間違いありません。日本が学歴社会であることは疑いようのない事実ですが、進学した先で出会うであろう先生がたや友人たちは一生の宝となるに相違ありません。そのような新しい出会いは人生を必ずや豊かにしてくれるはずです。翻って大学教員たる我が身を思うと、わたくしが果たして入学して来る彼ら/彼女らに対して人生の行方を示す灯台になれるのだろうか、甚だ心もとない限りでございます。


卒業設計の採点2021 (2021年2月8日)

 朝方はどんよりした気分の滅入る天気でしたが、だんだんと晴れてきて暖かな陽気になって参りました、よかったです。先週金曜日からわが建築学科では修論、卒論等の発表会が大学にて対面で始まりました。学科長の鳥海基樹さん(パリのフランス人?)が発表会くらいは対面でやらせてあげたいと主張して、このような仕儀と相成りましたが、迂生はやっぱりオンラインのほうがいいんですけど…。

 さて、きょうは卒業設計の採点および発表会です。ことしは国際交流会館のロビーでの展示になりました。午前中の採点では、密集を避けるために先生がたを二つのグループに分けて時間差を設けて見るようになりました。さて卒業設計の内容ですが今年度はいつにも増して、ビビッとくるような、これだ!というような共感溢れる作品がありませんでした、残念ですけど…。図面の枚数が少ないのは例年通りですが、若者なんだからもっと溌剌とした、発展性のある主義・主張を展開して欲しかったなあと切に思いましたな。

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エリーザベトの物語 (2021年2月7日)

 仕事に疲れたときや音楽に聞き飽きたときなど、気分転換に自身の本棚をのぞき見ることがあります。そしてすっかり忘れていた本などに気がつくと、パラパラとめくってみたりするわけです。あるとき気まぐれに引張り出したのはテオドール・シュトルム(Theodor Storm)の『みずうみ』(岩波文庫、関 泰祐訳)でした。1979年11月に改版が発行された第29刷で、140ページほどの短編集です。厚さは5,6mmほどで、いくら薄いからって、また、今から四十年以上も前とはいえ150円は安すぎるでしょう。

 この文庫本には当時、高田馬場駅前にあった芳林堂書店のブックカバーがついていたので、これを購入したのは高校生か大学入学当初くらいだと思います。芳林堂書店は中学生以来、わたくしが出入りしていた、身の回りでは一番大きい本屋でした。ここで最初に買った文庫本が井上ひさしの『ブンとフン』だったように記憶します。この本が読書の楽しさを教えてくれたことは以前にこのページのどこかに書きました(調べたら2010年4月でした)。この本屋の向かいにはビッグボックスBIGBOXという商業ビルがあって(黒川紀章の設計です)そこにもしょっちゅう出入りして、友人たちとレーザー・シューティングやビリヤードに興じたものでした…。

 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:北山家旅行・松本城_上高地_諏訪湖_女神湖2016夏:DSC_0474.JPG
    信州・蓼科の女神湖(2016年夏 撮影)

 さてシュトルムの『みずうみ』ですが、表題作の「みずうみ」を含めて読んだ記憶が全くないので、今回初めて読んだのだと思います。もともと「みずうみ」は立原道造(1914-1939)の詩を読むうちに知るようになりましたが、どうしてそれを読まなかったのかは分かりません。しかし読み始めると、たちまちにして立原道造のロマンティックで甘美な世界が脳裏に蘇ったのには驚きました。なによりこの小説の女性主人公の名前がエリーザベトだったのです。ちなみに、立原道造の最初の詩集『萱草(わすれぐさ)に寄す』の冒頭にあるソネット「はじめてのものに」のラストに登場する名前がエリーザベトです。ソネットとは全14行からなる詩のことで、四行、四行、三行、三行の四連から構成されます。「はじめてのものに」の最後の三行は以下のようでした。

  いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
 火の山の物語と‥‥また幾夜さかは 果して夢に
 その夜習つたエリーザベトの物語を織つた

 「火の山」とは信州・浅間山のことで、そこからの火山灰が降り積もる軽井沢・追分がこのソネットの舞台です。そして最終行の「エリーザベトの物語」とはまさしくシュトルムの「みずうみ」と思われます。立原道造は追分の油屋旅館に投宿しているときにシュトルムの小説を訳していると手紙に書いていました。

 「みずうみ」はラインハルトとエリーザベトとの物語ですが、年老いたラインハルトが若かった頃のエリーザベトとの実らなかった愛をそこはかとない悔恨とともに思い出す、という形式で書かれました。シュトルムのこの物語は19世紀の半ばくらいに作られましたので、立原道造がこれを読んだのはそれから約八十年のちのことでしょう。彼の手紙には「『みづうみ』は高等学校一年の日、秋ふかいころ、竹山先生に習った」(昭和12年1月18日、田中一三宛て)とあります。当時の旧制高校では教養としてドイツのロマン的な文芸が好まれ、シュトルムの小説も教材として使われていたようです。

 「みずうみ」はラインハルトの若き頃を淡々と綴ることでストイックな愛のあり方を描きましたが、それに立原道造が大きな影響を受けたことは間違いありません。当時の学生たちは今と較べればはるかに禁欲的でしたから、女性に対する憧れや恋愛に対する期待が胸中で美化されて肥大しており、そのような感性に対して「みずうみ」はヴィヴィッドに共鳴したのだろうと想像します。

 ラインハルトが成人したあとの「みずうみ」の舞台になったのはイムメン湖畔でした。そもそも「みずうみ」の原題は「Immensee」(イムメン・ゼー)で、このドイツ語を直訳すると「ミツバチ・湖」です。この湖はどうやらシュトルムの仮想らしく実在しないようですが、なぜ「ミツバチ湖」と名付けたのかは分かりません。また、この湖に浮かぶ白い蓮の花がこの小説では重要な地位を占めているようなのですが、わたくしの見立てでは白い蓮の花はエリーザベトを表しており、身近に見えるのにどうしても手に届かないもの、そして年老いてからはそのことをわずかな胸の疼きとともに懐かしむための幻像だったように思いました。

 その才能ゆえに将来を嘱望された立原道造は、詩歌だけではなく小説などへの展開も考えていただろうと思いますが、わずか二十四歳でこの世を去ったことから、その未来は見果てぬ夢としてはかなく潰え去りました。建築設計の面でも東大・建築学科での設計作品によって辰野賞を授与されたほどでしたから、石本建築事務所に就職してからも大いに期待されたと思います。しかし結局、実作は一点も残すことはありませんでした。

 ただし立原道造が自身の週末住宅として埼玉県浦和に計画した「ヒアシンス・ハウス(風信子荘)」の図面やスケッチが遺っています。片流れの屋根を持つ約15平米の小さな小屋で、トイレはありますが台所やお風呂はありません。それらの図面等を元にして2004年にヒアシンス・ハウスがさいたま市の公園に建設されました。WWWで見つけた写真を下に貼っておきます。いつの日にかここを訪ね、気持ち良さげな部屋に座って緑鮮やかな樹々を眺めてみたいものだと思っています。


http://silverado8228.hatenablog.com/entry/haushyazinth_house より


百年の系譜
 (2021年2月4日)

 東京帝国大学の建築学科を卒業したばかりの六人の若者たちが分離派建築会を創設したのが1920年でしたから、昨年がちょうど百年めでした。そのことを記念した展覧会が開かれていて新聞でも報道されたのでご存知のかたもおいででしょう。でも「分離派建築」なんていっても、現在、建築学科に籍を置く学生諸君でさえ知らないでしょうから、その言葉にビビッとくるのは日本の近代建築の歴史に興味があるごく一部の人たちなのだろうなと想像します。

 
   分離派の六人(1920,朝日新聞より)

 分離派建築会を結成したのは石本喜久治、滝澤真弓、堀口捨己、森田慶一、山田守、矢田茂の六人でした。その結成にあたった宣言文は以下のような若々しい使命感と情熱とに溢れた文言で始まります。

 我々は起つ。
 過去建築圏より分離し、総ての建築をして真に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために。

 それまでの日本では、明治維新以降に西洋流の建築を学び始め、それを国家の様式へと咀嚼するための努力を営々と続けていました。そのひとつの到達点が例えば片山東熊の東宮御所(現・赤坂迎賓館)でしょう。しかしそのあとには装飾的な様式美の追求に対する反省から建築非芸術論(野田俊彦の東大卒論)のような問題提起がなされ、また日本の新しい建築様式は如何にあるべきかという討論が行われていました。

 そのような建築界を「過去建築圏」と評して、そこから分離してわが国の新しい建築の創造を目指すことを大学卒業したての若造たちが先輩たちに向かって宣言したわけです。当時の大学生は現在のそれとは全く異なり、教養豊かで思慮に満ちた俊秀達でしたが、それでもそのような大胆な行動に出たことは当時も瞠目すべき出来事だったと思います。それだけ建築について真摯に考え、日本建築の現状を憂えたのでしょう。その頃、鉄筋コンクリート構造や鉄骨造といった西洋の新しい技術を日本で如何に活用するかという点に注目が集まり始めており、そのことが彼らに刺激を与えたのは確実です。

 そのような理想と情熱に燃えた分離派建築会のメンバーたちも、卒業して建築の実務に携わるようになるとそれまでの絵物語ではなく実際の建物を相手にしないといけなくなります。そのような経験はメンバー個々の思索をさらに深め、目指す方向や理想が変化するのは当然でしょう。結局、分離派建築会の活動は八年続いてやがて消えてゆきました。しかし彼らが遺した建築や著作たちはモダニズム建築の発展や日本美の再発見(例えば堀口捨己の茶室)など、その後の日本における建築思潮に大きな影響を与えました。

 さて分離派建築会のメンバーだった石本喜久治(上の写真の右端)はその後に設計事務所を設立します。この事務所は今も存続しており、かなりの大規模に成長しています。その石本建築事務所に昭和初期に籍を置いたのが立原道造でした。彼は東京帝国大学・建築学科を卒業した若き俊英でしたが、建築設計の仕事と詩作とを共存させようとしていました。というわけで立原道造が出てきたので、この続きはまた今度にいたしましょう。


一月の終わりにおもう
 (2021年1月31日/2月1日)

 一月末日になりました。よく晴れて気持ちのよいお日柄です。今年になって共通テストの業務で登校しただけで、そのほかは結局、自宅で仕事をして過ごしました。授業や会議どころか同僚との雑談すらも全てZoom(オンライン)でこなせるという、全くもって便利な世の中になりました。

 さて、COVID-19の感染拡大防止のための緊急事態宣言が出て市井の人びとが少しは危機感を持ったのか、東京での感染者数はここのところ千人未満になって減少傾向にあるようです。なんだか感覚が麻痺したところがあって(感染者数が)三桁だと少ないね、なんて感じるところが空恐ろしいのですが、まだまだ多いことに変わりはありません。本学でも学生諸君を中心に感染者数が増えているようで、先日、いっそう注意するようにという通達が本学当局から配信されました。

 マスクをして手洗いを励行し、第三者との会食は控えるなどすれば感染リスクは低減できると分かっていても、このような世上では電車に乗って登校する気がどうしても起こりません。じゃあ車で行けばってことになるのですが、普段は家内が車を使っているため、そのための調整が必須です。しかしそれよりも、最近は車を運転することが昔のように楽しくは無くなってきて、単に億劫なだけっていう感覚なんですね〜。でもこれじゃ世捨て人同然になっちまうので、なんとか社会復帰したいと考えております、はい。

 この一月にフィル・スペクターが亡くなりました。どんな人だったのかとんと存じ上げませんが、そのWall of Soundによって大瀧詠一師匠に大きな影響を与えたプロデューサーということは知っています。ビートルズのアルバム『Let it be』を手がけたことでも有名ですね。大瀧詠一の作品のなかでWall of Soundを最も如実に体感できるのは、彼のアルバム『A Long Vacation』に収録された「スピーチ・バルーン」の間奏部分だとわたくしは思っています。

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 二月になると、いよいよ愚息の入試が本番を迎えます。一月なかばから我が家はもうピリピリとした気分が漂っていて安住できません、なんちゃって。自分自身は四十数年も前の経験ですっかり忘れ果てていますから、高校入試ってこんなに大変だったかなあと思うわけです。時代が違えば入試の様相も変わるってことでしょうね…。

 自身のことを顧みれば、第一志望がどこの学校だったのかさえ今となっては定かではありません。以前に書きましたが、わが一族は東京教育大学の付属校ファミリーだったため、迂生もその付属高校を受験しましたが東京の最難関校ですから(まあ、当然の如くに)落ちました。「付属」好きな母は多分がっかりしたでしょうが、わたくしとしては落ちて当たり前と思っていましたからショックもありませんでしたね。結局のところ迂生の戦績としては、四校受験したうちで合格したのは二校でした。

 都立高校入試は当時は学校群制度で、わたくしが住んでいた新宿区は第二学区でした。自分の行きたい学校に行けないというのが学校群制度の最たる特徴でしたが、そのおかげで日比谷高校の凋落は激しく、都立高校全体の地盤沈下も始まった頃でした。わたくしはそのなかの22群(戸山高校および青山高校)を志望しましたが、中学校の内申書はそれなりによかったのでまず大丈夫と思っていました。青山高校は都立で伝統校といわれるナンバー・スクール(旧制府立一中とか)ではありませんが、22群で戸山高校と一緒になったことから大学進学実績がぐんぐんと上向き、いっときは東大に四十人近くが進学していたと記憶します。それでも知名度は圧倒的に戸山高校のほうが上でしたし、わたくし自身、青山高校に進学することなど考えたこともありませんでした。

 入学試験をどこで受けて、合格発表がどこに掲示されたのかも憶えていませんが、とにかく徒歩で通うつもりだった戸山高校に行けなかったことが大いなるショックで、そのことだけが今もはっきりと頭に残っています。でも高校進学を果たして通い始めたらもちろん、そんなことはすっかり忘れて三年間の高校生活を謳歌したのは言うまでもありませんけどね、あははっ。


ことし初めて登校する
 (2021年1月16日)

 新型コロナウイルスの感染拡大防止のための非常事態宣言が再び出されましたが、大学入試の幕開けとなる最初の行事は粛々と(?)始まりました。こんな状況では外出する気がしませんので、ずっと自宅勤務を続けています。しかし大学入試共通テストはサボるわけにも参りませんので、仕方なく(というと怒られそうですが…)登校したという次第です。でもこのような状況では、受験生諸氏も試験業務の従事者もホント安心できませんよね。共通テストに集まってくる受験者は試験会場の近辺に居住する方が多いでしょうからまだしも、個別の二次試験では日本全土から受験者が集まりますので、感染の不安が相当に増幅されます。

 わが建築学科では、来週月曜日が卒論および修論の梗概の提出日です。そこで、我が社の学生諸君からポツポツと添削の依頼がメールで来始めました。修論は石川巧真さんだけですが、彼はとても優秀なので立派な梗概がすでに出来上がりました。彼と未知の問題について議論するときは(たいていは長くなるのですが)いつも楽しくていいんですよね〜。

 でも卒論生諸君の梗概を見ると、もう唖然としました。論文の作法って言うんでしょうか、そういった形式が守られておらず、梗概に何を記載すべきかといった基本も理解されていません。三年生後期の特別研究ゼミナールで一度、このような梗概を書いたはずですが、そこで得た知識や経験が全く活かされていないことに驚きますし、大いに落胆しました、何やってんだろうなあって感じです。

 卒論というものは、学生諸君が自身でアクションを起こして自分でやるというのが基本だと迂生は思っています。彼らが今までサボっていたのかどうかは知りませんが、そんなことを言い訳にしてよいわけがないですよね。まあ結局のところは指導教官たるわたくしの指導がよろしくない、ということになるのでしょう。でも、やらないひと・やりたくないひとに手取り足取りして卒論を書いてもらおうとは金輪際思いませんし、それは大学教員の仕事ではないと考えます。もちろんしっかりと執筆できているひともいますから、そうでないひととの差が大きいということかも知れません。

 ただここ数年は梗概の添削を受けずに提出する輩[やから]もいましたから、それに較べれば添削を受けているひとは相当に立派?ということになるのでしょうか、なんだかおかしいけどな…。

 こんな感じで一月も半ばまできて、今年になってやっと初めて登校したのでこのページを更新できました。学部三年生の建築構造実験の発表会もオンラインに変更になりました。二月早々には卒論、卒業設計および修論の発表会や採点が待っていますが、大学に行って対面でやるんでしょうかね…。


研究を展望する (2020年1月3日)

 明日は月曜日ですので、お正月はきょうで終わりです。風はなく、よく晴れました。早朝に外に出ると気温はちょうど零度でした。まあ我が家では(昨年末に書いたように)今年はお正月という気分ではないので、正月があっさり終わろうと別段、感慨もありません、あははっ。

 とはいえせっかく新年を迎えたので、自身の研究について展望でもしてみようかと思い立ちました。昨年前半はCOVID-19のせいでほとんど登校できず、研究室の活動は実質的に停止しました。またそのような生活環境のせいか心身の不調を訴えるメンバーが続出して研究を進められなくなったことも残念な事態でした。結局のところ昨年、研究を進めることができたのは、鉄筋コンクリート隅柱梁接合部の軸崩壊過程に関する研究だけでした。M2・石川巧真さんをチーフとする新規の実験を実施してその結果を分析するとともに、昨年度の藤間淳さんの実験結果をM1・佐野由宇さん(明治大学・晋 沂雄研究室)に深掘りしてもらっています。

 この研究は我が社のフラッグシップ研究であり、科研費基盤研究Cの補助を受けていることもあって、予定通りに進めることができたのはとてもよかったと思います。担当する石川さんや佐野さんが常に新しい検討成果を示してくれて(Zoomによるオンライン・ゼミはしばしば4時間を超える熱中したものになりました)、それについて丁寧に議論できたことも知的好奇心を大いに満足させてくれました。

 しかしプレストレスト・コンクリート構造に関する研究、耐震補強や建物の地震応答に関する研究などの継続的なテーマは完全にストップした(というか、それを担ってくれるメンバ―がいなかった)のはとても残念でした。研究室での研究はいつも書いているように、それを担当してくれる学生諸君の奮起にかかっています。わたくし一人では結局のところ、何もできないのです。しかしここ数年の卒論学生の志望状況や大学院進学の様子を見ると、2010年代半ばのように優秀で活気に満ちた学生たちが集まることはもはや望めなくなったと感じています。それは残念なことですが、そうであるならば、研究室での研究テーマを縮小して行かざるを得ません。それゆえ「選択と集中」(イヤな語句!)じゃありませんが、現在実施しているフラッグシップ研究をさらに進めてゆくのが最善であろうと考えます。

 結局のところ、65歳定年に向かって(まだ、しばらくありますが)研究室を縮小してゆく時期に来たのかも知れません。科研費をいつまでいただけるかも分かりません。一緒に研究してくれる少数の学生諸君とともに自分の興味に従って研究を続けてゆければ、これほどの幸せもないだろうと思います。

 考えてみると迂生の研究者人生は青山・小谷研究室でM1になったときに小谷俊介先生から「北山くん、RC柱梁接合部の研究なんかはどう?ってゆうかさ〜」と言われたときに始まりました。その後、いろいろなものを研究して来ましたが、塩原等兄貴が柱梁接合部の降伏破壊という独創的なアイディアを提示してそれが実証されて以降はもう柱梁接合部について研究するものはないなと(チラッと)思いました。しかし研究者人生の終盤にきて、再び柱梁接合部の研究に戻ってきたのです。まさに原点回帰とはこのことです。これって研究者人生のストーリーとしては、なかなかよくできているのではないですかね、どうだか知らんけど…。

 研究を展望するっていうタイトルで書き始めましたが、建設的な展望は特段なく、どうやって研究室を畳んでゆくかみたいな文章になってしまいました。冷静に自身を見つめ直した結果ですので、それはそれでいいんじゃないでしょうか、がははっ。

 追伸; 箱根駅伝を例年のごとく家人が見ていましたが、今年のラストはすごかったですね。最後の10区まで独走していた創価大学ですが、ラスト2kmくらいのところで追いついた駒澤大学があっという間に抜き去り、そのままゴールに達して総合優勝を果たしました。二位でゴールした創価大学のアンカーは気の毒でしたが、二位でも立派な成績ですから胸を張ってよいのですよ。いつも思うのですが、200km以上を走ってきたにもかかわらず、あのように競り合っているのですから(10位以内では団子状態でゴールにもつれ込んだ大学たちもありました)、トップ・レベルの学生諸氏の能力が紙一重だということがよく分かります。


賀正2021 (2021年1月2日)

 2021年を迎えました。穏やかでよいお正月だとフツーなら思うのでしょうが、一年近く経っても人間世界に蔓延することを止める兆しのないCOVID-19に、もううんざりっていうひとが(わたくしを含めて)世間では大多数なんでしょうな。しかしジャレド・ダイアモンドの著作を紐解くまでもなく、人類の歴史は病原菌との戦いであったことを思い出すならば、自然界の所作には所詮は人智など及ぶべくもないということに気がつきます。

 さてお正月だというのに医療機関も政府・地方自治体も休むことはできません。本当にありがたいことですし、こころから労いの言葉と感謝とを表したいと思います。正月二日には東京都知事などが非常事態宣言の発出を政府に要請したそうです。このままではCOVID-19の感染拡大を抑制できないということですが、ちょっと不思議な気もします。個々人が会食しないとか、外出を減らすとかの対策をとれば、事態は沈静化へと向かうはずです。市井の人びとがそのことを自覚して実行すれば、それでよいと思うのです。

 しかし実際は、お上による強権の発動を欲している、ということなのか、誰かから「こうしなさい」と強制されないと実行に移せないのか、とにかく他人頼みでどこ吹く風っていう感じが社会全体に濃厚に漂っているんですよね〜。もしそうだとすると、日本人の民度もたいしたことなかったということでしょうが、それはそれで残念な気もします。とにかく日本人は「右へ倣え」が大好きな民族ですから、お上の号令一下じゃないと行動したくないっていう貧乏根性が染み込んでいるのでしょう。結局は我が身に迫ってくる(場合によっては生死にかかわる)事柄なのだから、自分自身で考えて行動するっていうのが分別のある大人のすることだよな、やっぱり…、などと思いながら新年を過ごしております。

 こんな世相では、一月中旬から始まる入学試験が平穏無事に実施できるだろうかという不安が一層募って参ります。受験生諸君が安心して受験会場に集まり、日頃の努力の成果を存分に発揮できることを切に祈っています(って、もう神頼みの世界に入りつつあるんですけど…、新年早々どうしましょう)。

 
  2020年12月に撮影した「知の拠点」(東京都立大学 本部エリア)


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