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 このページは北山の日々の雑感などを徒然なるままに綴るコーナーです。年月を経て、もう自分勝手さ全開といった様相を呈しておりますが、この場は中年の主張を展開するところと心得ておりますのでどうぞご容赦下さい。
 今日からは2015年版を掲載します。例によって不定期更新ですが、そもそもそういう類いのコンテンツなので宜しくご了承下さい(2015年1月5日)。


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告知 学会の講習会 (2015年12月28日 その2)

 日本建築学会で作成中の「鉄筋コンクリート構造保有水平耐力計算規準(案)・同解説」ですが、年が明けて2016年4月に刊行される予定です。それにともなって東京を含めて五箇所で講習会を開催することになりました(こちらをどうぞ)。すでに受付が始まっていますので、ご興味のある方はどうぞご予定くださいますようにお願いします。

 わたくしは東京、名古屋および福岡で講師を務めることになっています。その際にはそれぞれの会場でお声掛けいただけるとありがたく存じます。


歳末叙景 (2015年12月28日)

 御用納めである今日12月28日は月曜日ですから、この年末年始のお休みは短いですな。やっと真冬らしい寒い日になって、ぶるぶる震える歳末です。こういう晩には御燗したお酒が美味しいでしょうねえ〜。でも、残念ながらお酒はほとんど飲めなくなりましたので想像して我慢することにします、とほほっ…。

 日本酒はほどほどにたしなむ分には健康によいと言われます。発酵作用によって微生物が産み出す様々なアミノ酸がそのモトでしょう。ということは米麹によってつくられる甘さけでも同様の栄養素が含まれるんじゃないかと思って調べました。

 酒粕から作る甘さけではアルコール分が残りますし、なにより砂糖をじゃんじゃん加えるので健康的ではありません。でも清酒と同じように米と米麹とでつくる甘さけならばアルコールも発生しませんし、砂糖も入っていない天然の甘さです。うーん、これなら健康にいいでしょうし、日本古来の飲み物ですから日本酒ほど美味しくはないかもしれませんがそれなりに楽しめるんじゃないでしょうか。

 そういうことで最近は甘さけを探索しています。最初に試したのは新潟の「八海山」が作っている甘さけです。東京では入手が困難ですが、たまたま調布パルコで売っていたので(すぐに売り切れちゃいましたが)飲んでみました。

 でも、やっぱり日本酒のほうが旨いですね〜(当たり前か)。米がブツブツとしていて喉越しもよくないです(って、これも当たり前でしょうな)。そういうときにはジューサーで滑らかにするとよいということですが、それも面倒くさいしな〜。ヤクルトよりもちょっと大きいくらいのプラスチック・ボトル一本が二百円以上ですから、コスト・パフォーマンスもあんまりよくないです。

 日本酒好きなので酒蔵の甘さけがよいだろうと思いましたが、このように結構お値段が張ります。そこで、それなら味噌とかお醤油を作っているメーカーのものでもよいかなと思います。長野の善光寺あたりで作っている、ビニール袋に入っている甘さけをいまは飲んでいます。ヨーグルトに入れて食べたり、牛乳で割って飲むとそれなりに美味しいということを知りました。こんなわけで、しばらくは甘さけに凝ってみようかと思う年末です。

 結局のところ日本人だからでしょうか、日本酒に限らずお米に興味があるんですね。いまは山形県の「つや姫」という特A米を食べています。現代はいろいろなブランド米が売られていて、どれも美味しいですよね。でも家内から「お米替えたんだけど分かった?」とときどき聞かれても、その違いはぜ〜んぜん分かりません。なのでお米そのものに凝っても、達成感はないような気がします。それよりもお米を炊く炊飯器の性能のほうが重要なんじゃないかと思うこの頃です。

 さて、きょうは今年最後の研究室会議があるほか、M2・石塚裕彬くんとのゼミ、M1・苗思雨くんとB4・今村俊介くんとのゼミがあって、さらにそのあとにプロジェクト研究室のゼミ(M2が二人)がセットされています。いやあ、御用納めの日も疲弊しそうな予感がひしひしと漂いますなあ。まあせいぜい研究生活を炎上、じゃなかったエンジョイしたいと思います。

 それでは皆さん、また来年お会いしましょう。お餅の食べ過ぎには注意してね(なんちゃって…)。

追伸: 案の定、やっぱりヘトヘトに疲れ切りました。途中で宋性勳さんの論文チェックが入ったので予定が大幅にくるいました。結局、プロジェクト研究室のゼミには出席できませんでした。M2のお二方(高柳くんと本橋くん)および角田、吉川および竹宮の各教授にはお詫び申し上げます。


サンタ騒動 (2015年12月26日)

 クリスマスへの長かったみちがやっと終わりました。キリスト教を信奉するわけでもないのに、なんだってクリスマス、クリスマスと大騒ぎするのか、金儲けしたいひと達の思惑に踊らされているだけなのにホントおめでたいですね、日本人って。そういう我が家でもクリスマス・ツリーを飾り、イブの晩には骨付き鳥モモ肉をグリルして食べ、そのあとケーキをいただきましたけど、あははっ(全くもって説得力に欠けますな、われながら…)。

 で、わが家では子どもがまだ小さいこともあってサンタさんがやって来ます。それが待ち遠しい子どもは晩ご飯を食べる頃からそわそわし始めて、日頃はダラダラしてなかなか寝ないくせにこの日だけはサッと寝てしまいます。

 そして真夜中にサンタさんが来たみたいですが、わたくしはもちろん知りません。さて、草木も眠る丑三つどきに子どもの部屋からガサゴソと音が聞こえてきて目が覚めました。なんだろうと思って見に行くと、さっそくクリスマス・プレゼントを見つけた子どもが、部屋の灯りをつけてなんとそのプレゼントで貰ったレゴを一心不乱に作っているじゃありませんか。こらっ、なにやってんだ!って言っても、ん?ってな顔で作り続けています。

 いやあ、驚きましたな、まさかいきなり作り始めるとは思いませんでした。明日学校から帰ってから作りなさい、と言って灯りを消すのですが、しばらくするとまたコソコソと作り始めます。やむなくまた注意して…と、そんなイタチごっこを何度も繰り返しました。おかげで両親とも寝不足になっちゃいました。

 うーん、ひと騒がせなサンタさんですな(って、本当は子どもがいけないのですが)。そんなことじゃサンタさんに怒られるゾと言っても、もうプレゼントは貰ったのでサンタさんには用がないみたいで、全然へっちゃらな風情です。これでは来年のクリスマスにはサンタさんは来ないんじゃないかと思うのですが…。皆さんのお宅ではいかがでしたでしょうか(って、サンタさんなんかとっくに卒業したよって方が多いでしょうけど)。


ことしの本ベスト3 (2015年12月25日)

 この冬は暖冬らしいという予想ですが、そう言われると確かにそれほど寒くはないという気がいたします。年末になってそろそろ『ことしの本』を書こうかと思いますが、昨年来の「昔の読書」(若い頃に読んだ本を発掘して再読することを指しています)を続けているせいもあってか、印象に残った本はあまり思い出せませんな。

 話題になった本としては例えば伊藤計劃×円城塔の『屍者の帝国』(河出文庫、2014年)や益川敏英先生の『科学者は戦争で何をしたか』(集英社新書、2015年)、浅田次郎の『一路』(中公文庫上・下、2015年)などを読みました。どれもそれなりに面白かったり、ためになったりしましたが、なにか少し物足りない気がします。

 「昔の読書」では半村良、吉村昭、福永武彦や北杜夫を読みました。とくに北杜夫の『牧神の午後』(中公文庫、1981年)や『幽霊』(新潮文庫、1980年)といった彼の初期の作品では(内容は全く忘れていましたが)、全編に渡って通奏低音のように漂っている暗い気分にあらためて驚きました。少なくとも読んでいて楽しいという類いの小説ではありませんね。読み進むうちに彼が躁鬱病だったことや蝶マニアだったことなどを思い出しました。北杜夫ならやっぱり剽軽な感じの「どくとるマンボウ」シリーズをまず読むことをお勧めします(って、今どき誰も読まないでしょうけど‥‥)。あれっ、前置きが長くなりました。

 第一位は迷うことなく飯嶋和一の『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』(小学館、2015年2月)で決定です。この小説を読み始めたのは今年の四月ですが読み終わったのはつい最近ですから、かなり長いあいだ楽しんだことになります(ことしの夏は大変だったので、ゆっくり読書を楽しむヒマはなかったこともあります)。

 その内容ですがひと言でいうと、大塩平八郎の乱に父が加わったことに連座して隠岐の島に流された少年がそこで成長して医者となり、明治維新によって赦免されて島を去るまでの出来事が淡々と描かれます。こう書くと味も素っ気もないのですが、そういった日常を味わい深く読ませるのが筆者の腕なんでしょうね。この主人公の少年が「狗賓童子」のひとりとなるのですが、じゃあ「狗賓童子」って何なの?というのはこの小説を読んで下さい。

 この本の後半では徳川幕府の滅亡から明治維新に至るあいだの隠岐・島後(どうご)での混乱が描かれます。お上の体制が変わってそれが“維新”などと呼ばれても、その恩恵は下々の民草に及ぶことはなく、一般民衆にとっては結局は何も変わらないという絶望が強調されます。

 江戸時代には農民たちはその地の領主(それは幕府だったり、大名や旗本だったりしたわけです)に年貢を納めてきたのですが、明治新政府になってそういった徴税システムがどのような過程を経てどのように変遷して現在の税制度に至ったのか、この本を読んでいて知りたくなりました。確かに相当な混乱があっただろうとは思いますが、その実体はどうだったのでしょうか。

 ここまで書いてきて、じゃあ現代はどうなのよ、ということに思い至ります。実は現代の一般大衆もお上から言われるがままに税金をむしり取られている点では江戸時代のお百姓たちと変わらないのではないか、特にサラリーマン諸氏は。著者は歴史小説の体をとりながらも現代における支配層の無策ぶりを暗に糾弾しているような感じもします。

 飯嶋和一の小説では支配階級である武士はろくなものではなくて、常に下々の目線からその悲哀や苦しみが描かれるのが特徴でした。今回の『狗賓童子の島』でもその立場は首尾一貫していましたので、安心して読むことができました。

Guhin-Doji  Goza

 第二位は呉座勇一氏の『戦争の日本中世史 —「下克上」は本当にあったのか』(新潮選書、2014年)です。この本の特徴はなんといっても「階級闘争史観」に対する異議申し立てが全編にみなぎっていることでしょうか。わたくしのようなしろうとには分かりませんでしたが、民衆が権力に対して立ち向かうという視点で描かれる歴史をマルクス主義的な「階級闘争史観」というそうです。

 現代の感覚では一般大衆が主人公という見方は肯定的に受容されます。しかしそのような民衆による権力への抵抗によって歴史が展開したかどうかはまた別の話しです。そのことを分かり易く説いてくれたのが本書の一番の価値だとわたくしは思いました。

 鎌倉時代末期から室町時代にかけてのいわゆる南北朝時代は戦乱に明け暮れた時代でした。その時代に地方の領主や豪族たちが好んで戦争をしたのかというとそんなことはないだろうという説明は、言われてみれば当たり前です。でもこれまでの通説ではその当たり前のことを隠蔽して「階級闘争史観」で説明してきた、ということらしいです。

 そうだとすれば歴史を理解したり解釈することがいかに難しいことなのかがあらためてよく分かります。その意味で本書は「目からウロコ」の良書であると考えます。著者があとがきで書いていますが、自分の頭で歴史を思索することが重要なんですね。本書はそういったことを再認識させてくれました。

 第三位は山本周五郎の『明和絵暦』(新潮文庫、2015年復刊)です。この小説は戦前の昭和16年12月に刊行されたそうですから、今からなんと七十年以上も前の作品ということになります。山本周五郎の小説としては『樅ノ木は残った』や『ながい坂』が有名で、今回読んだ『明和絵暦』は文芸評論家のなかでは全然評価されていないようです。

 でもわたくしは読んでいて面白かったです。時代活劇として主人公がとても活き活きと描かれていますし、テンポよくワクワクしながら読み進むことができて(電車内読書にもかかわらず)あっというまに読了しました。山県大弐のような実在の人物を下敷きにしていますがこの作品を娯楽小説だと割り切ってしまえば、よくできたお話しだとわたくしは思いますね。

YamamotoS

 このページを読み返して思い出しましたが、今年は天皇・皇后両陛下が太平洋の激戦地・ペリリュー島を訪問されました。それに刺激されたわけでもありませんが、『ペリリュー島玉砕戦』(舩坂弘著)と『ペリリュー戦いまだ終わらず』(久山忍著)を読みました(いずれも光人社NF文庫)。悲惨な戦争のことを忘れないためにも、太平洋戦記は読み続けてゆこうと思っています。

 この一年を思い返してみると、スカッとしてストンと腑に落ちるようなサイエンスものは読まなかったなあ。来年は是非ともそういった類いの科学啓蒙書も読めたらいいなと思います。


年忘れの会 (2015年12月24日)

 先日、調布で研究室の忘年会を開きました。昨年に引き続き、南大沢と新宿との中間として調布を選びました(まあ、わたくしにとっては帰るのにも便利ですし助かります)。ことしは研究室の現役全員(わたくしを含めて12名)とOB8名が参加してくださって盛況となりました。

 お忙しいなかわざわざお出でいただいたOBは以下の皆さんです;岸田慎司先生、深海謙一郎さん、福島智祐さん、田島祐之さん、白山貴志さん、島哲也さん、栗本健多さん、および鈴木拓也さん、です。久しぶりに参加してくれた福島くんだけが建設業ではないものの、こうみるとほとんどは大手ゼネコンで施工、構造設計あるいは原子力関係に携わっています。皆さんから近況を伺いましたが、それぞれ自分の持ち場で精力的に活躍しているようでわたくしも嬉しく思いました。

BonenKai2015

 例年、この時期にリクルータとして来校する加藤弘行さんですが、ことしから担当をはずれたそうで残念ながら上京しませんでした。忘年会直前にメールが来て近況を知らせてくれました。構造設計のお仕事が充実しているみたいでよかったです。

 OBの皆さんには体に気をつけて益々ご活躍いただくことを願っています。卒業・修了以来まったく音沙汰の無いひともいますが、今ごろどうしているのかなあと時々思い出しますので、たまには(メールでもよいので)近況を報告してくれると嬉しいですね。

 以下は研究室の近況報告です。我が社ではいま、大学院生の諸君が黄表紙やJCI年次論文の執筆に励んでいます。ことしのM2は四名いますが、いずれもモノになりそうなテーマに取り組んでいて大いに有望です。ぜひ我が社での研究の集大成として査読付き論文をものにするように努力して欲しいと願っています。忘年会も終わりましたのでギアを入れ直して年末年始を有効に使って下さい。

 三年生四名の研究室配属が決まりましたので、彼らには先端研究ゼミナールの課題として我が社では今年もミニ研究に取り組んでもらうことにしました。皆さん忙しい時期ではありますが、三年生の面倒はM2諸君に見てもらうことに決めました(石塚くんには伝えましたが…)。A4二枚の梗概のチェックなどを分担してお願いします。

 ということで瞬間的には研究室メンバーが15名に膨れ上がりました。でも来年3月末に主要メンバーがごっそり抜けて、4月からは大学院生が三名に卒論生が四名と激減します。なんだか我が社の最盛期が終焉を迎え、減退期に入ったような感じを受けてちょっと寂しい気もします。そうならないようにメンバー諸君の奮起を期待します。

 2017年1月にチリで開催される世界地震工学会議(16WCEE)ですが、アブストラクト審査の結果が送られて来て、我が社から投稿した三編はめでたくAcceptされました。ただ提出されたアブストラクトの数が膨大だったみたいで、芳村学先生から査読のヘルプをするように依頼されて、先週末にsteering committeeから査読が割り振られてきました。一部の査読結果は既に伝えられている一方で、まだ査読活動が続いているっていうのはどういうシステムなんでしょうか、不思議に思いますけど…。


母校の教壇に立つ (2015年12月21日)

 先週、久しぶりに母校である都立A高校の門をくぐりました。本学あてに分野別模擬講義の依頼がありまして、指定された分野がたまたま建築学だったのです。これはもうOBであるわたくしが行くしかないですよね。

 全学の教務担当者から建築都市コースにこの依頼が回ってきたのは11月下旬になってからでしたが、わたくしの予定が運良く空いていてホントよかったです。でもA高校から本学にこの依頼があったのは10月早々だったのですから、事務方にはもう少しスピード感を持って仕事をして欲しいと思います。

 さて当日は高校生のときと同じようにJR千駄ヶ谷駅から歩きました。槙文彦先生設計の東京体育館の脇を抜けると国立競技場の跡地が目の前に広がります(左下の写真)。なんだかそこだけガラ〜ンとしていて、宴のあと(前?)のような空虚さを感じます。新国立競技場の設計公募は結局二案しか応募がなかったそうですが、この後どうなるんでしょうか。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:都立青山高校模擬講義20151218:P1010377.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:都立青山高校模擬講義20151218:P1010387.JPG

 神宮第二球場のまえにあった日本青年館は既に取り壊され、その向かいのテニスコートだったところ(国学院高校の北隣、旧近衛師団駐屯地跡を記念したポケットパークの南隣)には日本スポーツ振興センターが建つらしく、その工事が始まっていました(右上の写真)。ちなみに設計者は久米設計、施工者はゼネコンの安藤・間でした。

 でも、都立A高校や国学院高校の生徒さんたちはその工事現場の脇を通って通学することになるので、ちょっと危ないなあと思いました。また工事の騒音も相当気になるんじゃないでしょうか。これから新国立競技場の建設が本格化すると、この辺り一体の喧噪はいかばかりかと案じられます。勉学に支障がでないとよいのですが…。

 こうしてタラタラ歩いて千駄ヶ谷駅から約二十分かけて母校に到達しました。校舎は1999年に鉄筋コンクリート6階建てに替わっていますし、正門の位置も変わりました。あとでA高の生徒さんに聞いたら最上階にはプールがあるそうです。いやあビンボーだった都立高校も立派になったもんですな。

 でも校庭の様子は以前のままでした(右下の写真)。都心の学校(なんてったって渋谷区神宮前ですゾ)ですからホント、猫のひたいのような狭さです。ここでサッカーや野球、ラグビーなんかの練習をするんですよ、ちょっと信じられませんね。A高と道路を挟んだ向かい側にある神宮球場が正面に見えています。ヤクルト・スワローズの本拠地ですので、わたくしが高校生の頃には若松選手(懐かしい!)なんかをよく見かけたものです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:都立青山高校模擬講義20151218:P1010390.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:都立青山高校模擬講義20151218:P1010397.JPG

 で、校舎に入って講師控え室に行くあいだ、建物こそ建て替わったとはいえ懐かしい気分でいっぱいになりました。ここで三年間を過ごし、その後の全ての基礎を築いた場所です。受験勉強はもちろん大変でしたし、今は亡き母にはとても苦労をかけたとは思いますが、思い出すのは楽しかった思い出ばかりです。

 三年生になる直前にあった母同伴の面談のときに担任の内藤尤二先生が「センセーの経験から言えば、おまえは東大に受かると思うよ」とおっしゃったことが昨日のように思い出されます。あまりにもサラッといわれたので、ホントーかなとも思いましたが、内藤先生が「センセーのいうことはいつだって正しいんだ」とおっしゃるに及んで、大学入試ってそんなモンかなあとも思いましたね。まあ実際、内藤先生の予想の通りになりましたけど…。

 模擬講義にはなしを戻しましょう。控え室に行ってこの日の全容が分かりました。全部で17の講義がセットされていて、呼ばれたのは東大、一橋大、筑波大、東京学芸大、東京外国語大、千葉大、電気通信大、東京農業大、早稲田大(2講義)、慶応義塾大、昭和大、東京薬科大、武蔵野美大、明治大、上智大そして首都大学東京です。工学では情報工学、機械工学それに建築学が呼ばれていました。どういう基準で大学とか分野を選んでいるのかは分かりません。

 対象は1、2年生約600名で各講義の希望者を募ったようですが、わたくしの講義には普通教室いっぱいの39名が来てくれました。講師ひとりひとりに担当の生徒さんが指名されていて、教室へと案内してくれました。ただ、高校の授業はいまでも板書が中心なようなので、プロジェクターは教室の天井に設置されていましたがスクリーンはなく、黒板に白い紙が貼ってあってその大きさも60インチくらいの小型のものだったのはちょっと残念でしたね。

 模擬講義の時間は大学と同じ90分を指定されましたが、これは高校生にとっては長かったみたいです、寝ている生徒さんもいましたから。いくら興味があっても90分間集中を続けるのは大変です。大学生だって60分を過ぎるとザワザワしてきますからね。

 わたくしの講義ではコンクリートがなぜ固まるのかという説明では水和反応をあらわす化学式を、地震動を受ける建物の力学では運動方程式をあらわす微分方程式をそれぞれ説明しました。しかし、化学を履修していない生徒さんや、1年生はそもそも微積分はまだ習っていませんから、これらの説明が理解できるひとは限られたみたいでした。高校生諸君を相手にする模擬講義のときには、コンテンツ選びに注意を払わないといけないなあとちょっとばかり反省した次第です。

 講義中にいろいろと問いかけてもほとんど反応がなかったこともガッカリでした。このこと自体は大学の授業でも同じですので十分に予測できた事柄でしたが、進学校の母校ですらこうなんだと現実を思い知らされました。もっとも未知の学問の話しを見知らぬひとから聞いて、すぐに反応しろっていうのがそもそも高校生には無理な注文かも知れませんね。

 ということで手応えは今一歩でしたが、母校の後輩諸君に親しくお話しをすることができて嬉しかったですね。講義のなかで生徒諸君に話したのですが、わたくしの講義は建築学の楽しさとか間口の広さとかを知って欲しいという意図で組み立てられており、首都大学東京の建築都市コースを宣伝するようなものではありません。この講義を聴いた彼女/彼らが建築や都市に興味を持ってくれたらこんなに嬉しいことはありません。

 この日の模擬講義の講師のなかでA高のOBだったのはわたくしだけだったようで、校長の小山利一先生がわざわざご挨拶に来て下さいました。A高は東京都の進学指導重点校に指定されており、それなりの進学実績をあげることを要請されています。校内には先輩たちの進学状況が張り出されていますし、小山校長のお話しでは教室には東大等の進学者の名前も掲示されているということでした。校長先生の指導のもとに学校全体が一丸となって大学進学に向かっている印象を持ちました。先生方のプレッシャーは相当なものだと推察します(ご苦労さまでございます)。

 わたくしが高校生だった頃には学校群制度のもとで戸山高校と組んでいたことから、A高の大学進学実績も(戸山高校につられて)上がって東大には毎年三十人以上が進学しました。その頃のことがやはり意識にはおありのようで、もう一度そのような高みに到達することを目指して努力されているようです。

 まあ、東大を目指すのはある意味当然でしょうが、大学はそのほかにもたくさんあるわけでして、わたくしの首都大学東京にも生徒諸君を送り出して下さいと小山校長にお願いしておきました。ただ東京都教育委員会が進学実績としてカウントする「大学」には、首都大学東京は入っていないんですね〜。同じ東京都が設置する大学なのにつれない仕打ちですな、まったく。なんだかなあ…。

 そうそう二年ほど前に、わたくしと同学年だった高橋道和くんも特別講義に呼ばれて全校生徒のまえで講演したそうです。彼は文科省のエリート官僚ですから講演でも鮮烈な印象を残したのでしょうか、小山校長はそのことをよく覚えてお出ででした。なおこのときは国交省官僚の海堀くんと二人で講演したそうです。意外と気が弱いんだなミチヤスも、あははっ。


ひといき 〜鬼の高笑い〜 (2015年12月17日)

 暖かい日が続いていますね。きょうの午前中に年末恒例の某T建設のOB交流会が開かれました。当然ながら学生諸君の就職を見越した活動ですが、またそんな時期が来たのかと感慨を新たにします。

 さて来年度のコース長ですが先週の教室会議で(無事に?)わたくしに決まりました(別に嬉しくないですけど…)。そこで次は来年度の執行担当の布陣を決めないといけません。教室幹事は准教授にお願いするのが通例で、わたくしも過去に二回務めましたが、来年度はそれまでの経験とか現在担当している役職とか諸々を考慮すると該当者が見当たりませんでした。これがここ一週間の頭痛のタネだったんですね〜。

 そこで角田学部長補佐、吉川学長補佐、須永コース長や山田幸正教授のお知恵を拝借してウルトラCをひねり出しました。それは現職の教授に教室幹事をお願いする、というものです。異例ではありますが前例がなかったわけではありません(昔、市川先生がコース長のときに山田先生が幹事を務めました)。白羽の矢がたった方にはまことに申し訳なかったのですが、その方も今までの経緯からうすうすは気がついていたみたいで、気持ちよく承諾していただきました。

 いやあ、嬉しかったですね〜。これで安心して年を越せそうな気分になってきました。すでにもう来年度の諸行事の日程を決めるようにという催促が事務方から舞い込んでいます。来年のことをいうと鬼が笑うといいますけど、今なんかまさに“大笑い”といった状況ですね。せいぜい笑われすぎないように自重して過ごしたいと思います、あははっ(あら、また笑っちまったぜ)。


教科書のはなし (2015年12月16日)

 師走も半ばまで過ぎて、そろそろ来年度のことが気になるのでしょうか、出版社の方がここのところたて続けにやって来ました。いずれも自分の会社で出している教科書を授業で使って欲しい、というものです。ある会社などは頼みもしないのに構造力学の教科書を送ってきました。

 でも、わたくしは構造力学も鉄筋コンクリート構造も自分(たち)で執筆した教科書を使っていますから、他人さまの書いた教科書を使う必要はありません。ところが、そういう勧誘に来る方々は、わたくしが朝倉書店や市ヶ谷出版社から教科書を出していることを十分に承知したうえでやって来るのですから、全くもって不思議です。よそには自分で書いた教科書を使わずに、他人のものを使う先生もいるのでしょうか。う〜ん、そんなひといるかなあ…。

 ちなみにわたくし達が執筆した教科書『初めて学ぶ鉄筋コンクリート構造』(市ヶ谷出版社)はこの一年で七百冊ほど売れたそうです。ありがたいことです。

 ということで、最近は教科書というものを買わなくなりました。ところが、です。ひょんなことから駒場のときの同級生だったサイトウくんが書いた『微積分』(東京大学出版会、2013年)という、大学の初学者(?)向けの教科書を見つけたのです。サイトウくんなんていったら怒られますね、東大教授の斉藤毅先生、と言い直しましょう。その斉藤毅先生が書いた文章(イプシロン・デルタって懐かしいですな)のなかに「微積分を勉強していたときの自分に勧めたくなる」本を書いた、とありました。

 これだっ!、天下の秀才のサイトウくんがそう銘打って書いたのだから、きっと難しいことも誰でも分かるように平易に説かれているんだろうなと想像しました。そうして、なんだか教養学部の頃の自分に戻ったようにその教科書を手に入れたのです。本の帯には「ほんものの数学を学ぼう」とあります。なんだかワクワクしますね。

 ということで久しぶりに数学の教科書を開いたのですが、はじめのほうに「読むだけですらすらわかるとは考えにくい。」と書いてあって、おやっ?と思いました。そうして第1章の「連続関数と微分」というところを読み始めましたが、しょっぱなからこりゃダメだっていう白旗モードに立ち至りました。

 ところどころオモロそうなことも書いてあります。例えば「0を自然数と考えるかどうかは趣味の問題ともいえるが…」とか。はあ?、趣味、でっか…。自然数って、わたくしが中学か高校で習ったときには1以上の整数だったような気がしますけど…。

 まあこんな調子で、いまやっと8ページ目に入りました。でも、この本はサイトウくんが「自分に勧めたくなる」っていうくらいですから、サイトウくんと同等のレベルにあるひとを対象として書かれている、ということにおそまきながら気がつきました。ということで、わたくしはお呼びじゃなかった、ということらしいです。興味があるひとは是非、読んでみて下さいね(あなたなら分かるかも知れませんヨ)。


E-Defenseへ行く (2015年12月14日)

 久しぶりに兵庫県三木市にある兵庫耐震工学研究所センターへ行きました。そこには世界でも有数の三軸震動台があって、通称E-Defenseと呼ばれています。この震動台はアクチュエータによって水平二方向および鉛直方向の三方向に自由に動き、最大1000 tonfの重量物を載せて揺らすことができるというお化けのような実験施設です。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:E-Defense_RC実大10層建物振動台実験_20151211:P1010341.JPG

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:E-Defense_RC実大10層建物振動台実験_20151211:P1010323.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:E-Defense_RC実大10層建物振動台実験_20151211:P1010328.JPG

 この日は、実大10階建ての鉄筋コンクリート建物に兵庫県南部地震(1995年)のときの実測地震波(気象庁神戸気象台で観測された波、通称:JMA神戸)を入力する加振実験が行われ、実験は報道陣だけでなく一般にも公開されました。文部科学大臣も来る予定だったそうですが結局キャンセルになったようです。アメリカからもJack Moehle先生をはじめとして何人もの方が見えてました。

 チームリーダーは壁谷澤寿海先生で、塩原等兄貴なんかもチームに加わっています。わたくしなんかはこの日だけやって来て実験を見て、こりゃすごいなあ、なんて度肝を抜かれただけでお気楽なもんですが、やっている当事者の方々のご苦労とか心労とかは並大抵なものではないと推察します。

 実験研究を企画して予算を獲得することから始まり、試験体の設計と作製、実験における測定計画や加振計画、震動台の調整と整備など、やることはいくらでもあるでしょうね。とくに地震動を入力する震動台実験では、我が社でやっているような静的な実験とは異なり、一度震動台が揺れ出すとそのあとの試験体(この場合は実大10階建ての建物ですゾ!)の動的な挙動は全く制御不能になります。

 もちろん加振する前に建物の挙動を綿密に予測はしますが、一度動き始めたらそのあとは神のみぞ知る、という領域に突入するのです。そのことを考えると、カウントダウンして加振システムのスイッチをオンにする担当者のドキドキ感は容易に想像できようというものです。

 で、午後2時ちょうどに震動台実験がスタートしました。実大10階建てですよ(くどくてすみません)、ものすごい迫力でした。鉄骨造の実験と違って音はほとんどしません。でも鉄筋コンクリートの建物が文字通りグニャグニャと揺れるんです。三方向の地震動を入力しているので、今にも建物が自分のいるほうに倒れてくるのではないかという恐怖感すら抱きました。ただ遠くから見ていることもあってコンクリートの剥落なんかは分かりませんでした。

 目で見て中間層が明らかに水平にスウェイしているのが分かりました。柱頭・柱脚に塑性ヒンジができたか、それとも塩原兄貴の危惧する柱梁接合部の曲げ降伏破壊が上下で発生してそうなったか、のどちらかでしょうか(これからじっくり分析されて、やがて論文として世にでるはずです)。最大の層間変形角は3%(高さ1mあたり水平に3cm動いた、ということ)だったそうですから、相当に揺れたことが分かります。

 こうして公開実験は(あっという間に)終わりました。わたくしは壁谷澤先生のご好意でスタッフ並みに居残ることをお許しいただき、その数時間後に実施された非公開の加振実験も拝見しました。内柱梁接合部に多数の斜めひび割れが発生し、かぶりコンクリートが剥落していました。梁にも曲げひび割れやせん断ひび割れが発生し、よく見ると柱にも曲げひび割れが結構生じていました。ただ張り間方向の連層耐震壁の脚部にはほとんど損傷が生じていなかったのが印象的です。

 なんども書きますが、ホントすごい実験でした。塩原兄貴はもっと壊すまで実験したかったみたいでご不満のご様子でした。でも、やり過ぎて不測の事態が起こるとあとが大変でしょうからもう十分だとわたくしは思いましたけど…。写真のように桁行方向は耐震壁のない純フレーム構造でしたので、グニャグニャと揺れたわけです。やっぱり耐震壁がないとダメだねという、内藤多仲先生の時代から言われていたことを塩原兄貴と再認識したのでした。自分の目で見て体験するということがいかに重要か、このことからもよく分かりますね。

 柱梁接合部(わたくしの研究対象のひとつです)の損傷が激しく生じたので、帰り際に壁谷澤御大から「お楽しみいただけたと思いますが…」とお声掛けいただきました。貴重な実験にお呼びいただいた壁谷澤御大にはあらためて御礼を申し上げます。後述するように行き帰りは大変でしたが、得るものの多かった見学でした。

 追加(2015年12月16日): ネットの朝日新聞に動画が掲載されています。こちらです。

 さて以降は蛇足です。でも人間ですから仕事だけでなく生活しないといけません(当たり前です)。この日の東京は朝から大雨でした。余裕を持って家を出たつもりでしたが、京王線が三十分も遅れたこととあまりの混雑で途中気分が悪くなって降りたりしたこともあって(いつまで経っても、通勤電車は苦痛です)、指定券をとっていた新幹線に乗れませんでした。

 で、当初の予定から一時間おくれの午後1時前に新神戸駅に着き、そこから市営地下鉄に乗って終点の西神(せいしん)中央駅に行きました。地下鉄には約30分の乗車ですが結構遠いですな。終着駅の西神中央駅ですが、すごい田舎かと思っていましたが、さにあらず。わたくしの身近でいえば多摩センターのようなベッドタウンの立派なターミナル駅でした。いやあ、知らないってホント恐ろしいです。

 そこからはタクシーです。目的地までの道のりは結構な田舎道でしたが、小高い山々の中腹には住宅がびっしり建っていました。そういう点でも多摩ニュータウンに似ています。こうして約二十分(運賃は約3300円)で目指す三木のE-Defenseに到着しました。

 前述したように実験は午後2時ジャストに始まりましたから、もうギリギリセーフっていう感じでした。受付の方に、急いで直接実験棟に行って下さいって言われたくらいです。これでもし間に合わなかったりしたら、もう何のためにこんなに苦労してここまで来たのか、目も当てられないっていうことになっちゃいますからね。ああ、よかった。

 さて実験を拝見したあとの復路です。現地で会った楠原文雄さんから帰りの新幹線の時間は聞いていましたが、実際のところあんまり現実的には捉えていませんでした、神戸から東京までは遠いということを。最短でも三時間はかかりますからね。また金曜日の夜の新幹線の混雑のことはすっかり失念していました。

 午後8時前に新神戸駅に着いて切符を買おうとすると、その自動販売機は長蛇の列です。指定券は売り切れだったので自由席の切符を買い、ちょうど停まっていたのぞみ号に飛び乗りましたが、もう満員で通路までひとが溢れています。新大阪駅で坐れましたが、夕食の弁当を買うひまもなく結局この日は晩ご飯抜きになりました、とほほ…。

 おまけに忘年会シーズンの金曜夜ですから、東京駅からの電車も軒なみ朝並みのラッシュで、ものすごく疲弊しました。こうして我が家にたどり着いたときには日付がかわっていたのでした。


ひとの道 (2015年12月10日)

 わが大学の話題です。ここのところ降って湧いたような将来計画に関して、建築都市コースの教員たちが右往左往しています。もちろんわたくしもそのひとりでして、この数日はそのための相談とか資料作りとかでご飯を食べる暇もないようなありさまです。

 で、それとは直接関係しないのですが(でも根っこではつながっているのですが)、コース長の須永修通先生がわたくしの部屋にやってきて、来年度のコース長を引き受けるように頼まれました。その瞬間は息を飲みました、だって二年前にコース長はやったばかりだったからです。

 でも須永先生の心底困ったようなお顔を拝見して、だいたいの事情は飲み込めたんですね。ああ、当たってみたひと(教授)には全て断られたんだなと。わたくしもちょうど二年前、わたくしの後任のコース長を決めるときにほとほと困惑したことを思い出しました。そのときは山田幸正先生にお引き受けいただきホントに助かりました。

 ただ正直なところ、コース長の要職をまだ一度も経験したことの無い教授が何人もいるというのに、なぜわたくしが中二年で再登板しないといけないのだろうか、とは思いました。しかしそのことを了解した上での要請ですから、これはもう断れませんなあ、ひととして。ということで来年度のコース長を引き受ける腹は固めました。それに、そういうふうに言ってくれるうちが花かもしれませんし‥‥。

 わたくしをご存知のかたならお分かりでしょうが、リーダーシップなんかとはおよそ無縁の人間ですから、リーダーシップを発揮しろなんて言われると、そりゃ無理です、わたくしには。日本社会に不可欠な根回しも苦手です。それでもお引き受けしようと思ったのは、これはもうこの大学にお世話になっている人間として、ひとの道を踏み外してはいけないという倫理感しかありません。

 しかし、いったいどういうことでしょうかね。二年前によく書いたように大学の自治を保つためには教授たちの不断の努力が必要である、ということを理解していないとしか思えませんな。そのためには汗をかくひとが必要であって、それを順番に務めるのは大学人のたしなみなんじゃなかろうかと迂生は愚考します。

 でもこれから自分たちの将来について大学執行部とやり取りしないといけないかと思うと気が重いです。なんといってもわたくしは腹芸とか寝技とかは全くできない人間です。論文だったら、書いてないことは分からない、それを書かなかったアンタが悪いと言えばそれで済みます。でもそういう交渉事においては、言葉に出さなくても言外の事柄を忖度して(あうんの呼吸で)、それを踏まえた上で行動することが求められます。そうしないと、なんだお前、そんなことも分からないのか、といって呆れられるのがオチです。

 そんなことになったら建築都市コースの同僚諸氏に申し訳ないなあ、どうしたもんかなあと思っています。結局のところ誠心誠意、正直に(愚直に)ことに当たるしかないんだろうと今は考えています。まあ仕方ないですね、なるようにしかならないんだから人生は。でもこれで、先日書いた「漂泊の思い」を実現するのは先送りになりそうなのが残念ではあります。


選択と集中 〜人生編〜 (2015年12月8日)

 選択と集中というと今や大学の生き残りをかけたスローガンとなった感があります。文科省が文系学科にイチャモンをつけたり、すぐに役に立つ学問ばかりを奨励するのもその一種です。

 でも今回はそのお話しではありません。ひとがその人生において使える時間は有限である、という当たり前の事実からそれは始まります。でも、全くもって当たり前にもかかわらず、少なくとも四十代の頃にはその事実について考えることはありませんでした。

 ところが五十代になって人生の折り返し地点を過ぎると、自分の健康に不安を持つようになったこともあり、その事実の重みがわたくしの前に立ちはだかったように感じます。

 中原中也だったでしょうか、お前の人生は何だったのかと吹き来る風がお前に言う、みたいな詩があったように記憶します。今まで自分のやりたいように(好きなように)生きてきましたし、それでよかったと思います。でも有限の時間のなかで、結局はこれはする、あれはしない、という判断を(知らず知らずのうちかもしれませんが)常に下しながら今まで来たというのが正しいでしょう。

 わたくしにとってそれまで最も重要だったのは全身全霊をかけて研究する、ということでした。ですからそれに役立たないものは惜しげも無く切り捨ててやって来ました。以前に書いたことがありますが、駆け出しの研究者だった(大学院生や助手の)頃には電車内ですら読書せずに、その代わりに論文を読んでいました(まあ、ときどきマンガは読んでいましたけど、あははっ)。

 すなわち、人生における選択と集中を今まで実践してきたわけです。それは自分自身の意思に基づいていますのでなんら悔やむことはありません。むしろ、自由人として平穏に暮らすことができたことに感謝すべきでしょうね。でもこれから先、シュリンクしてゆく人生において、このままでよいのかどうか、そのことを考えるようになった、ということです。

 具体的にいえば研究一本やりの(ような生き方の)ままでよいか、ということです。もちろん既に散々書いてきたように学内のさまざまなお仕事とか社会貢献とか学会活動とかいろいろあって、若い頃のように自分自身でガンガン研究できる訳ではありません。でも意識として研究は(相変わらず)わたくしの人生の最上位に位置しています。それでよいのか、という意味です。

 もし可能ならば、有限の時間を切り分けていまは研究、だけどそのほかの時間はまた別のこと、みたいにスカッとできればGoodだと思います。これは時間のマネジメントとでも呼ぶのでしょうか。でもフツーの生活を送っていてはそれは難しいように感じます。そのためには周囲の空気みたいなものが変わることが重要だと思います。

 すなわち旅をするということではないか、と愚考します。松尾芭蕉が「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」と奥の細道で言っています。人生の知恵として、芭蕉は旅することによってTime Management できることを知っていたのかも知れません。

 そうしてあらためて考えてみると、わたくしはこの美しい祖国の山河をほとんど見ていない、という事実に思い当たります。芭蕉の時代には自身の二本の足で歩くしか旅する方法はありませんでした。その結果、「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」(芭蕉)ということにもなったのでしょう。

 それに対して現代では、電車や自動車もあれば飛行機もあって格段に旅しやすくなっていますよね。見知らぬ土地を訪ね、その風土を肌で感じ、そこに暮らす人々と交わることが人生を豊かにするのではないでしょうか。こんな風に考えるようになったこと自体が、齢を重ねて人生の年輪を増してきたことの証左かも知れませんが‥。

 こんな感じでわたくしも「漂泊の思いやまず‥‥」という気分になってきました。残りの人生をこれからどう生きるか、生きるべきか、ゆっくり考えるためにもどこか旅の空に出たいものだという今日この頃でございます。でもこのままじゃ寅さんになっちまうなあ、それはちょっとまずいよなあ、などとも思います。


実験終わる (2015年12月4日)

 昨日の夕方、2015年度の実験の載荷が終了しました。担当のM1・苗思雨(ミャオ・シユ)くん、B4・今村俊介くんを始めとして我が社の諸君の活躍によって無事、載荷を終えることができました。かろうじて寒さの本番を迎える前に終えることができたのもよかったですね。

 この研究は三年計画の初年度ですので苗思雨くんには修論の一部として、今村くんには卒論としてデータ分析や検討を精力的にお願いします。皆さん、ご苦労さまでした。これでとりあえず年は越せるかな? でも、来年早々にいろいろな論文の締め切りが控えていますので、そうもいかないかも知れませんけど‥‥。

  説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:PCaPCアンボンド科研_苗思雨2015:PCJ15_三体目:DSC_5101.JPG


卒論中間発表会 (2015年12月3日)

 きょうは終日、卒論の中間発表会および最終発表会です。卒業設計を履修するひとは今日が最終発表、そうでないひとは中間発表になります。例年、この日は暗くて寒い印象がありますが、きょうも雨こそあがりましたがとても寒い曇り空が広がっています。どうして毎年こうなんでしょうか(天候のことだから“どうして”もないんでしょうけど‥‥)。

 さて我が社の卒論生三名は練習の介あって上手に発表できましたが、いずれも質疑応答がよくなかったですね。あれほど研究の意義とか目論みについて答えられるように指示しておいたのに、そして予想通り高木次郎先生からそういう質問をいただいたのに、上手に答えられないというのはどうしたものでしょうか。まあ来年二月に最終発表がありますので、そのときにきっちり説明するようにして下さい。自分の研究のウリを強調して、ひとさまに理解してもらえるような発表&質疑応答をお願いします。


きょうから師走2015 (2015年12月1日)

 師走になりました。後期は授業が多くて大変です。昨日、設計製図の課題の美術館の講評が終わりました。履修者は60名以上いますので全員の講評はもはや不可能です。そのため、あらかじめセレクトした約半数に図面を貼り出してもらい、模型をながめながら講評しました。それでも例年通り、やっぱり時間がかかって午後一杯費やして夕方に終わりました。ああ疲れた〜。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:設計製図_美術館_講評2015_9Fロビー:P1010304.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:設計製図_美術館_講評2015_9Fロビー:P1010307.JPG

 毎年のことですが、学年によって出来・不出来が如実に現れるのはどうしてでしょうか。そういう目で見るとことしの二年生は「豊作」の学年でしたね。敷地を代えたことと、完成模型としてスケール1/200の敷地模型にはめられる全体模型のほかにスケール1/100の模型(ウリの空間の一部分でもよい)も要求したことが今までと異なる点です。1/100の模型になるとそれなりに作り込まないと建築らしくならないため、学生諸君は大変だったと思います。でも空間の構成がよく分かってよかったです。

 で、やっと設計製図の担当が終わったと思ったら、きょうから三年生の『構造設計演習』の担当が始まります。午後から夕方にかけての4限と5限の二コマ続きの授業です。けさ1限は『鉄筋コンクリート構造』がありましたので、火曜日は三コマも授業があることになります。いや〜、つらいっすねえ。これって小学校並みじゃありませんか? でもそんなことを言うと近畿大学教授の岸本一蔵先生から「あまいっすねえ、私学はそんなもんじゃありまへん」とおしかりを受けそうですけど、あははっ。

 もっとも、つらいのは学生さんも一緒のようでして、火曜日は1限から5限までびっしり構造系の授業があります。ただ、今日は2限の芳村先生(振動論)、3限の高木先生(鉄骨構造)ともにどういうわけか休講だったそうで、朝いちに来ていた学生諸君から「きょうは午後2時40分まで授業がありません(それなのに、北山先生の1限にわざわざ来たんですよ)」って恨みがましく言われちゃいました。いやはや出席してくれた学生諸君に感謝せずばなりますまい。

 こうしてことしの師走が始まりました。寒くなってきましたので風邪など引かないように皆さんお気をつけてお過ごし下さい。


美術館の課題 (2015年11月30日)

 いま、二年生の設計製図の課題で美術館を扱っています(今日の午後が講評会です)。昨年まではよく知った青山が敷地でしたが、今年から六本木に変更になりました。学生諸君には敷地を見に行くように言いましたが、わたくしにはそんな時間はありませんでした。でも今はネット上のグーグルでまちの様子を知ることができますので便利なこと、このうえありませんな。ちなみに六十人以上いる学生さんを5グループに分けてエスキスを見ていて、わたくしは若手建築家の猪熊純さんと組んでいます。

 現代では皆さんスマホを持っていますので、エスキスのときに猪熊さんが「○○っていう美術館では‥‥‥」とコメントすると、みな一斉にスマホを操作してその写真を見るんですね〜。いやあ、便利な世の中になったものです。エスキスの様子も時代とともにさま変わりするということですね。

 さてこの秋、静岡県三島に行ったときに「クレマチスの丘」というところに建っているヴァンジ彫刻庭園美術館を訪ねました。そんなに期待はしていませんでしたが、これがなかなかよかったんですよ(もっとも展示されている彫刻群はあんまり好きになれませんでしたが)。

 起伏に富んだ地形をうまく活かして、建築家が存分に腕をふるったことがよく分かりました。丘のうえに築かれたペントハウス状の建屋から美術館内へアプローチするのですが、そこから展示室へと降りてゆく階段が下の写真です。エレベータも付いていますが、ここはやっぱりこの階段を降りるのが正解でしょうね。左上のスリットから自然光をうまくとり入れていて、階段を下りた突き当たりからは下の展示がチョコッと見えるようになっています。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:北山家旅行・伊豆長岡温泉2015:DSC01471.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:北山家旅行・伊豆長岡温泉2015:DSC01480.JPG
説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:北山家旅行・伊豆長岡温泉2015:DSC01475.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:北山家旅行・伊豆長岡温泉2015:DSC01487.JPG

 常設展示室の空間はザックリとしていて、厚さ400mmの鉄筋コンクリート壁(わたくしがもたれている壁)で大きく二分されていました。その広い空間に彫刻たちがポツポツと展示されています。ちなみにこの大空間はコンクリート系のジョイスト・スラブで支持されているようです。

 設計したのは誰かなと思いましたが、美術館の案内には何も書かれていません。そこでネットで調べてみてビックリ仰天!、それは建築学科の同級生だった柴原利紀くんだったのです(正確には宗本順三先生との共作みたいですが)。

 思わぬところで同級生の作品に出会うことができて、さらにそれがGoodときていたのですからこんな嬉しいことはありません。柴原〜いい仕事してるじゃないか、と見直したのでした。ちなみに昨年の卒業三十年会のときには柴原は来なかったので、しばらく会っていないことになります。

 こんな感じでまたひとつ美術館体験が増えました。ちなみにわたくしが今までに体験したなかで一番すばらしいと思っているのは、谷口吉生さん設計の土門拳美術館でしょうか。二十世紀末に行ったときに撮ったのがしたの写真です(当時のコンパクト・フィルムカメラで撮ったので写りが悪いですけど)。これはわたくしの『鉄筋コンクリート構造』の授業のときに最初に見せているスライドですので、学生諸君のなかには覚えているひとがいるかも知れません。

説明: 土門挙記念館 のコピー.jpg


虹を見たかい Can You See the Rainbow ? (2015年11月26日)

 昨日から冷たい雨が降り続き、暗くて寒い気候なので沈んだ気分で過ごしていますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。今朝は電車が遅れていたせいか混雑して坐れませんでしたので、ぼーっとして窓のそとを見ていました。

 すると永山駅と多摩センター駅とのあいだくらいでしょうか、雲がちょこっと切れたところからお日様がさしてきました。そして中央大学があるあたりの多摩丘陵の北側から虹が立ち上がったのです。わたくしはそれに気がつきました。久しぶりに見た、綺麗な虹でした。

 でも車内のひとは皆さん、携帯をさわっていたり寝ていたりして、その虹に気がついたひとはほとんどいなかったと思います。わたくしだって、普段は坐って本を読んでいますからね。また、反対側の上り線のホームにいるひとたちは線路のほうを向いて立っていますから、虹には背を向ける格好です。皆さん残念ですね〜って感じでしたが、ホームのおひとりだけ携帯で電話しながら駅舎背面の窓を見ている方がいました。そのひとだけは多分、虹に気がついたと思います。

 暗い気分のときに虹を見ましたので、すこし元気が出た感じがしました。もっと見ていたいなあと思ったのですが、電車は移動するし、すぐに雲が空をおおって太陽を隠しましたので、つかのまの虹もすぐに見えなくなってしまいました。でも、“希望”ってそんなもんかも知れないですね。ちなみにこのときiPodにつながったイヤホンから流れていたのは、スターダスト・レビューの曲でした。


下りの小田急線 (2015年11月19日)

 きょうは小田急線のはなしです。東京近郊の方しか分からないようなローカルな話題ですみません。河野進先生(東工大教授)からのご依頼で、朝に東工大のすずかけ台キャンパスに出かけました。我が家からだと小田急線の下り電車に乗って中央林間駅までゆき、そこから東急田園都市線の上り電車(始発です)に乗り換えてすずかけ台駅で下車するという経路です。

 今まで朝の通勤時間帯に新宿に向かう上りの小田急線には乗ったことがありますが、箱根とか江ノ島に向かう下り電車に乗ったことはありませんでした。平日の朝にロマンスカー以外でそんな観光地に行くひとは少ないでしょうから、下り電車は空いているかなとちらっと考えました。

 でも、京王線でも朝は下りといえども結構混んでいますから、同じくらいかなとも思いました。しかし実際に乗ってみるとそれ以上の混雑でホントびっくりしました。中学生や高校生らしき制服姿の生徒さんが多かったですから、沿線にきっと学校が多いのかも知れません。

 とくに相模大野駅で江ノ島方面に向かって乗り換えた電車(各駅停車)はギュウギュウ詰めといってよいくらいの混み方でした。わたくしは二駅先の中央林間駅で降りましたが、みなさんどこまで行くのでしょうか(って、余計なお世話でしょうけど‥‥)。これなら小田急は儲かっているんだろうなと思いました。


あるジュークボックス (2015年11月18日)

 また東京都瑞穂町へ行ってきました。新庁舎建設のための基本設計のプロポーザル選定委員会です。この日はいよいよ大詰めで、第一次審査を通った四者に来てもらってプレゼンテーションと質疑応答を行いました。委員会ではそれらをもとにしてあれこれ審議し、優秀案を決定しました。その結果はやがて瑞穂町のホームページに開示される予定です。

 ちなみにわたくしは今まで幾つかの地方公共団体のプロポーザル審査に呼んでいただきましたが、申請者が複数あったのは今回が初めてです。幸か不幸かオリンピック景気が続いているようなので、建設業者も仕事を選べるということでしょうか。

 さてせっかく瑞穂町まで行くので、少し早い電車に乗って瑞穂町の「けやき館」という郷土資料館へと足を伸ばしました。というのも、この日から「ゴー!ゴー!ナイアガラ 大瀧詠一の世界」が開かれていて、是非ともそれを拝見したいと思ったからです。ちなみに大滝さんは1973年に瑞穂町に移住したそうです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:P1010297.JPG

 展示室内の写真撮影は禁止でしたが、入り口から中をこっそり撮ったのが上の写真です。中央奥に写っているのが、大滝詠一師匠が自宅に置いて聴いていたというジュークボックスです。アメリカのAMI製ということでした。まあジュークボックス自体は昔はよくありましたから懐かしいねっていう感じでした。

 で、わたくしが注目したのは、そのジュークボックスで大滝詠一師匠が何を聴いていたのか、ということです。曲目選択ボタンのところには手書きの曲名と歌手(グループ)名が幾つか貼ってあって、それに気がついたからです。ちなみにわたくしが手書きで写してきたのは(撮影禁止なので)、以下のような曲たちです。

Teddy Randazzo : One More Chance / Don't Cry(?) Away
The Velvets : Tonight / Spring Fever
The Ronettes : Be My Baby
The Honeycombs : Is It because / Nice While It Lasted
Herman's Hermits : I' m Into Something Good / Your Hand In Phone / Can't You Hear My Heartbeat
Dave Clark Five : Any Way (You) Want It / Everybody Knows
Dean Martin : Everybody Loves Somebody (Sometime)

 調べてみるといずれも1960年代の曲たちのようで、残念ながらわたくしはほとんど知りませんでした。ロネッツのBe My Babyくらいかな、この曲は有名で多くのひとがカヴァーしていますからね。この頃の曲はビッグバンドをバックに歌っているものが多く、ストリングスが美しかったりします。

 大滝さんはこういった曲たちのレコードをこつこつと集めて聴いていたわけですが、現代のわれわれは上記の曲のかなりはネットで聴くことができます。ホント便利な世の中になりましたが、便利過ぎて集める楽しみがなくなっちまったというふうに言うこともできますな。

 ジュークボックスには以下のような日本の歌たちもありましたよ。大滝さん自身に関係する曲や自分たちの曲のほかに、コメディアンの植木等の歌もあるところが彼の面目躍如といったところでしょうか。「幸せにさよなら」は伊藤銀次が、「Dreaming Day」は山下達郎がそれぞれ歌っています。

Sugar Babe : Down Town / いつも通り
Niagara Triangle (Vol.1) : 幸せにさよなら / Dreaming Day
植木 等 : スーダラ節 / こりゃシャクだった / ゴマスリ行進曲 / 悲しきわが心

 ちなみに町役場のかたのお話しでは、このような展示ができるのも大滝未亡人のご尽力が大きいそうです。大滝家は四十年以上も瑞穂町にお住みなのだから、大滝師匠のご存命中にもっと宣伝すればよかったのに、と思いますけど‥‥。


レンジのけむり (2015年11月17日)

 我が家の電子レンジを新しくしたことは以前(2015年9月)に書きました。予想とおり、温めと解凍くらいにしか使っていません。まあ、そのくらいのモノだということでしょうな。

 さて、先日帰宅したら、電子レンジがブーンと唸っていました。家内がなにか温めているんだろう、くらいに思っていたのですが、そのうち急に白い煙がとびらの隙間からもれ出してきました。今までに経験したことの無い事象です(って、そのときはそんなに冷静じゃありませんでしたけど)。

 あれ〜?、何だろうと思ってとびらを開けると、べらぼうに臭い黄色い煙が噴き出してきたのです。ゲホゲホしたのですぐにとびらを閉めちゃいました、臭いものにはフタ、ですな。でもこれはどう見ても異常事態です。で、なんだこりゃ〜!って慌てたわたくしが庫内をみると、よく分からないブツが黒くなって、そこから煙が勢いよく噴き上がっていました。

 そのうちにキッチンの上に付いていた火災報知器がものすごい音量で「火事です、火事です」と叫び始めました。なるほどこりゃ火事か、と一瞬思いましたが、それどころではありません。キッチンの換気扇を最強に回し、家中の窓を開けて換気するとともに、庫内のブツを慎重に取り出して水を張ったボウルに沈めました。ジューという音とともにさらに煙と悪臭とが湧き上がって辟易としましたけど。また、火災報知器のけたたましい音声を止める方法が分からずに右往左往しました。

 結局、それは火事寸前の状態だったということらしいです。黒焦げになったブツは袋に入った肉まんであることが判明しました。なにを勘違いしたのか、家内は一分半くらいでよいところを十五分、電子レンジを回し続けたそうです。ふーん、そうかあ。電子レンジの温めもやり過ぎると火事に至るのか、ということを認識した次第です。

 我が家のキッチンはオール電化なのでガス等で炎が上がることはありません。それゆえ火事とは無縁だとばかり思っていましたが、こういう発火源もある、ということを理解したのは不幸中の幸いだったかも知れません。火事寸前で気が付くことができて本当によかったです。皆さんもお気をつけ下さいませ。

 でもそのあとしばらくは家中が臭くてたまりませんでした。また、新調したばかりの電子レンジの庫内にはものすごい悪臭と燃えカスとがこびりついていて、それを綺麗にお掃除するのが大変でした。火災報知器がちゃんと作動することが分かったのも良かったかもね。


先立つもの考 (2015年11月13日)

 近ごろ、STAP細胞の研究に約五千万円、その実在性の検証に約一億円かかったという報道がありました。とくにSTAP細胞事件の実質的な後始末として、突然に降って湧いたような研究に対して一億円をポンっと拠出できる、その太っ腹さに迂生は驚きましたな。でも、いまこれを「研究」と書きましたが、実質的にはSTAP細胞が存在しないことを「証明」するという、なんの生産性もない「事業」だということは理化学研究所の多くの研究者は分かっていたはずです。

 そういう「事業」に対してさえ、国費から気前よく(?)一億円が支出されたのです。いったいなんだろうねこれは、といった一種の脱力感が湧き出すのを禁じ得ません。というのも、真面目に研究している大多数の研究者は常に研究費の手当に汲々としているからです。もちろんかく言うわたくしもその例に漏れません。

 頭脳一本で勝負する研究者はお金のことなんか言うな、紙と鉛筆さえあればどこでだって研究はできるんだ!というお叱りを受けそうです。心意気としてはまさにその通りでしょうし、純粋数学みたいな分野では可能かもしれません。しかし実際に研究を進めようとすると、少なくともわたくしの従事する工学分野ではそうはいきません。このページでもときどき書いていますが、実験するにはそれなりの経費(先立つもの)が必要になるからです。

 ではわれわれ研究者が研究に要する経費をどうやって工面するかというと、それは外部資金に頼っています。本学でいえば、大学からいただける費用はわずか数十万円です。それはコピー(プリンタのトナー代はばかになりませんゾ)、書籍、パソコン、出張費等々の研究室を運営するのに必要なモノ達に費やされますから、研究本体にまで回すことは不可能です。もちろん実験に必要なひずみゲージを購入したりするのに使うことはありますけど‥‥。

 ということで文科省・日本学術振興会の科学研究費補助金(科研費)や各種省庁のプロジェクトから出る研究費、あるいは諸財団の研究助成をゲットしないと実質的な研究はできないんですね〜。そこでこれらの外部資金をゲットするために知恵の限りを尽くし、膨大な時間を費やして申請書類を作成するわけです。もちろん、うまくゆけば書類一本で研究費をいただけるわけですから、恵まれていると言えばその通りです。

 で、その結果としてどれくらいの研究費をいただけるかということですが、たとえば科研費では申請種別によって上限金額が決まっています。高額になるほど狭き門となり倍率も高くなりますので、わたくしは最高額500万円の部門(基盤研究C)にアプライしています。幸いなことに申請した研究が今年度も採択されて科研費をいただけることになりました。でも申請した満額をいただけることは稀です(っていうか、わたくしは満額をいただいたことはありません)。

 前置きはそれくらいにして研究費はいったいいくらなんだ、ということですが、今年度わたくしがいただいた金額は210万円でした(これは日本学術振興会のサイトに公開されているので、ここに書いても問題ない)。さらに別途、大学の事務経費としてこの金額の30%が大学当局に支払われます(事務経費なので、わたくしは使えません)。このお陰として、現在、我が社の苗思雨くんが実験できているわけです。税金から研究費をいただいているのですから国民の皆さまに感謝、です。

 さて、ここで冒頭に戻ります。冒頭に書いたようにポンと出た(ように見える)一億円とものすごい努力の結晶としていただけた210万円、それらの金額をこうやって並べて書くとみもふたもないですな。一億円に較べれば210万円なんてはした金ですよ、誰がどう見たって。でも少なくとも我が社ではこの援助の賜物としてなにがしかの研究を進めることができ、(上手くゆけば)世間さまのお役に立つような成果をあげることもできるかも知れません。

 新聞を見れば、ノーベル賞受賞者の梶田隆章先生のKAGRAプロジェクトは300億円とか、国内のトップ研究者に数億円の研究費を賦与するとか、景気のよい話しが出ています。そういったビッグな研究プロジェクトでは人手もいるでしょうし、大掛かりな実験装置や研究スペースも必要ですから、それなりのお金が必要なのは理解できます。

 しかし日本の科学研究を支えてきたのは、少額の研究費でコツコツと地道に自分の研究を進めている大多数の真面目な研究者だとわたくしは思いますね。それは日本の研究レベルの底上げに大いに寄与したでしょうし、その結果として日本はここまで発展できたと考えます。このことが昨今の日本人のノーベル賞受賞にもつながったと見ることもできるでしょう。

 と、まあ、負け惜しみのようなことを書きましたが、自分の興味のおもむくままに好きなことを研究しているわたくしにとっては、これくらいの研究費が分相応ということかも知れません。好きなことを研究できて、大学からお給料もいただけるのですから、この身の上に感謝せずばなりますまい。

 ただ、ゲットした研究費の多寡でその研究者のレベルを判断したり、ランク付けしたりすることだけはやめて欲しいと思います。現代では大学においてさえ、ともすればそのような風潮を感じることがありますから。


ことしの実験 進行中 (2015年11月12日)

 今年度唯一の実験が進んでいます。実験ではなにがあるか分かりません。昨年の教訓をもとに実験前のチェックを厳しく行ったつもりでしたが、今回もやっぱりトラブルに見舞われています。梁端の治具(ロック・システム付きのジャッキの上下にピンを取り付け、ローラーの役目を負わせるもの)を昨年導入したのですが、その不具合があって実験の途中にいったん加力を中断して、正常に機能するものと交換しました。

 実験のチーフであるM1・苗思雨くんはことしから我が社に加わったので、実験をやったことはありませんでしたが、先輩方の指導もあってよくやっていると思います。実験を見ながら、大丈夫かなあとM2・石塚裕彬くんに漏らしたところ、「僕も昨年は同じ状況でしたが、ちゃんとできました。だから彼も大丈夫です」とあっさり言われました。それを聞いて安心しましたね。やっぱり研究室内のノウハウの伝承は大切だと思います。

 試験体はまだ二体残っています。予定では来月まで実験は続くことになっていますがこれからどんどん寒くなりますので、集中して注意深く実験を進めて下さい。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:PCaPCアンボンド科研_苗思雨2015:PCJ14_一体目:DSC_4959.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:PCaPCアンボンド科研_苗思雨2015:PCJ14_一体目:DSC_4928.JPG


アインシュタインと佐野利器 (2015年11月11日)

 ことしはアインシュタインが一般相対性理論を発表してから百年ということです。アインシュタインも一般相対性理論もともに有名ですが、それが発表されたのが1915年11月だったとは知りませんでした。宇宙がどのようにして誕生し、その将来はどうなるかといった壮大なテーマはフツーの生活にはなんら関係ありませんが、純粋に知的な好奇心に基づいて知りたいと思います。

Eeinstein Sano Riki Profile

 ところでことしは建築学者・佐野利器が世界で最初の耐震設計法を提案してから百年であることは、2015年1月のこのページで書きました(こちらです)。まあ正確に言うと佐野利器が耐震設計法を提案したのは1914年から1916年のあいだのどこか、ということになりそうですが、まあいいでしょう。

 日本のような地震国において建物の耐震設計は全ての国民にとってすべからく重要であり、社会のお役に立っていることは論を待ちません。それにもかかわらず、わたくしの他には誰も佐野利器先生のこの業績に言及しない、というのはどうしてでしょうかね。

 いつも書いているように、研究の成果が社会の役に立つかどうかは研究者にとっては必ずしも最優先事項ではありません。しかし佐野利器先生のこの業績は明らかに世間さまの健康と福祉とに大いに貢献しています。そのことは大いに評価してもよいのではないでしょうか。

 世紀の大天才・アインシュタインと世界の片隅の日本の建築学者とを比較するなとお叱りを受けそうですが、研究に卑賤なし、です。それに片や自然現象の解明に向かって重要な一歩を築き、宇宙創成のロマンをかき立てたとすれば、もう一方は世界の人びとの物理的な安寧に寄与したのですから、人類に対する貢献度は(少なくともわたくしにとっては)同等だと思いますけど、いかがでしょうか。


『建築雑誌』雑感 (2015年11月10日)

 もう随分前から思っていることだが『建築雑誌』が面白くない。『建築雑誌』とは一般名詞のようなネーミングだが、日本建築学会が会員向けに毎月発行している会誌のことである。かなりの人数の編集委員の諸氏が苦労して企画しているはずであるが、毎回組まれている特集にどうにも共感できないことが多いのである。

 なんと言ったらいいんだろうか。仲良しクラブの仲間達が内輪の話題を面白がって取り上げて、自分たちだけで楽しんでいる、と言ったら言い過ぎだろうか。テレビでも芸能人たちが身内のことをダラダラしゃべって自分たちだけで盛り上がっている番組があるが、そんな感じである。

 ちなみに2015年11月号の特集は「生きるための家1」というタイトルだった。もうそのタイトルを見ただけで、計画系とは縁のない私はなんだこれ?っていう反応なのだが(だって、そもそも家ってひとが生きるためのモノでしょ)、試しに巻頭の主旨を読んでみた。

 やっぱり予想した通りのひとりよがりな感じの文章で、その当然の帰結として私には何も伝わって来なかった。いつも書いているように建築学はとても幅広い学問領域を擁している。すなわち文系から理系までの広大な領域を網羅しているので、建築学会に所属する会員の興味もまた多岐に渡ることは容易に想像できる。そうであれば、ある学問分野に偏ることなく、あらゆる専門の会員が興味を持てるようなコンテンツを万遍なく掲載したほうがよいと思う。

 あるいは特集の方針は一本すじを通して、それにいろいろな分野が縦横に有機的に関連するような編集とすべきではないか。実際、以前にはそのような特集が多々あったように思う。毎回特集を組むのは大変で骨の折れる作業ではあろう。でも編集委員は数多いる学会員から選ばれた俊秀たちなのだから、あえてお願いする次第である。『建築雑誌』を面白く読めるようにして欲しいものだ。


ついにここまで 鉄骨ブレースによる耐震補強 (2015年11月9日 その2)

 我が社では既存建物の鉄骨ブレースによる耐震補強について長年、研究しています。その力学挙動の追求などはいまはひと休みしていますが、鉄骨ブレースで耐震補強したにもかかわらず2011年の地震で被害を受けた鉄筋コンクリート校舎の解析は現在も進めています(M2の新井昂くんが担当です)。

 鉄骨ブレース補強についてはその無骨さからか、計画系のひと達の評判は相当に悪いのですが、そんなことには構わずこれからも推進すべきというのが持論です。でも、きょう届いた「UR Press」(UR都市機構のPR誌?)を見ていて、おいおい本気か〜っていう事例に行き当たりました。それが下の写真です。

UR Press Steel-brace

 これは大阪市にある団地だそうですが、室内にでーんと鉄骨ブレースが鎮座ましましています。玄関から直進すると鉄骨ブレースにぶち当たる、というプランになっているんですねえ。この記事には「鉄骨ブレースが個性になる」とか「逆転の発想が若者に人気」とか出ていますが、本当かな〜。いくらなんでもやり過ぎでは、というふうにわたくしですら思いますけど。

 こういう部屋がこの団地には四戸あってその全てが入居済みとのことでした。推察するに耐震補強するためにはこれしか方法がなくて、べらぼうに安い賃料で貸し出したのではないでしょうか。確かにこれは強烈な“個性”には違いないでしょうが、酔っ払って帰ってきたら、この鉄骨ブレースに頭をぶつけるのは必定なような気がします。住んでいる方のホントーの声を聞いてみたいものですな。


東京六大学野球 2015年・秋 (2015年11月9日)

 東京六大学野球の秋のリーグ戦は早稲田大学の優勝で終わりました。東大は1勝10敗で勝ち点なしという結果です。まあ1勝できてよかった、というところでしょうか。このシーズンでは二年生や三年生が活躍したようですから、来年以降を楽しみにしています。もっとも一・二年生だけが出場する新人戦では大負けして一回戦敗退というのは、今までの東大に逆戻りしたみたいでいただけませんね。

 ということでシーズンは終わったのですが、「ファンが選ぶMVP」というのがあってそれになんと東大の宮台康平投手(湘南高校出身)が選ばれました。宮台投手は今シーズンは1勝1敗、防御率2.17でリーグ四位の成績でした。現在の東大野球部ではエース格ということでしょうな。

 浜田監督が彼のことを東大には納まらない逸材と言っていました。今シーズンは肩の調子の関係で5、6回までしか投げられなかったようですが、それを克服して完投できるようになれば、東大に複数勝利をもたらすことも可能でしょう。まだ2年生(文科I類だそうです、ということは来年度は法学部?)ですから、来年以降の活躍を大いに期待しています。


我が身にも及ぶ 〜杭データ偽装事件の余波〜 (2015年11月2日 その2)

 旭化成建材による杭のデータの偽装事件についてです。地面の下のことなのでバレないだろうということでやったのでしょうが、ホントひどい話しです。免震ゴムのデータ偽装といい、建設業におけるモノづくりの危機を感じます。でもこれらは経済至上主義のせいで何事にせよ余裕のなくなったいまの社会が必然としてもたらした鬼っ子であると思いますね。いずれにせよ暗澹たる気持ちです。

 で、この杭データの偽装事件は(申し訳ありませんが)今まではひと事でした。ところがいま、お昼休みにネットの朝日新聞を見ると「杭データ偽装、東京の大学・高校でも確認」という見出しがあって、記事を見るとその大学って本学じゃないですか!

 それによると本学の6号館教室棟の杭132本のうち8本のデータが偽装されていたそうです。うーん、ビックリですね。この6号館はいつ頃だったか、とにかく教室不足を解消するために十年くらい前に建てられました。このページでもときどき報告している「基礎ゼミナール」の授業はこの6号館でやっています。偽装されたのは杭全体の6%程度ですが偽装の内容までは不明ですので、建物の安全性云々を議論したり検証したりといった作業はこれからになるのでしょうな。でも、そうなるとそのような作業に駆り出される可能性は高いので、こりゃ大変だあ〜。

追伸; 大学のホームページに6号館の安全性を確認したという以下の告知が掲載されました。まあ、ひと安心でしょうか‥‥。
「東京都では財務局建築保全部により確認のための調査(書類及び現地調査)を実施しました。その結果、データの転用が認められたものの、設計図書や施工記録から、くいが必要な支持地盤に到達しており、適正に施工されていることが確認されているとの連絡を受けました。」


十一月のこえ (2015年11月2日)

 十一月になりました。冷たい雨がじゃんじゃん降っている、真冬の日のような天候です。どんどんと陽は短くなり木々の葉は散って、なんだかうら寂しい気分になって来るのはわたくしだけでしょうか。もっともそのときの気分に大いに依存するのでしょうけど‥‥。

 十一月になると卒論や修論がそろそろ気になりだす頃です。まあ、わたくしが自分で書くわけではないので気にしたって仕方は無いのですが、大丈夫かなあとふと思ったりするわけですね。M2諸君は当然として卒論生諸君もやるべきことはもう分かっているので、あとはどこまで真実に迫れるか、追究できるかという強い思いにかかっています。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:31fm9lAuraL.jpg

 十一月がタイトルに入っている曲はあまり思い出せません。すぐに思い浮かべたのはHi-Fi Setの「November Rain」だけです。そこでパソコンのiPodのなかを検索したところ、池田聡のそのものズバリ「十一月」という曲がありました。『至上の愛』という1992年のアルバムに入っています。全く忘れていたので聴いてみると、ちょっと気怠いJazzyなデュエット曲で、作曲はなんと、かまやつひろしでした。作詞は小西康陽で、その頃には確かピチカート・ファイブというユニットを組んでいたと記憶します。

 ピチカート・ファイブとかいっても既に四半世紀も前のユニットですから、知らないでしょうねえ。「東京は夜の七時」なんて曲がその当時はちょっとばかり有名だったように思います。そうそう、その当時のわたくしは東京都立大学に赴任したばかりで、たったひとりの卒論生だった池田浩一郎くんにピチカート・ファイブのCDを貸してあげたことがありました。

 それを聴いた池田くんが「先生〜、これすげえっすね!」といってぶったまげていたことを今思い出しました(池田くんはいま、どうしているのでしょうか)。その当時としてはきっと先端をゆくポップなサウンドだったんでしょうね。まあ今きいても、なんだか滅茶苦茶な感じのサウンドですけど。で、ネットを探したらYouTubeにありましたのでこちらをどうぞ。ところで肝心の池田聡の「十一月」ですが、こんなマニアな曲はネットにもありませんでしたのでご容赦を。


日野にて 〜桑ハウスへ行く〜 (2015年10月28日)

 東京都日野市本庁舎の改修工事プロポザール選定委員会が終わったあと、以前に本学の山田幸正教授(建築史)から伺っていたお話しをひょっこり思い出しました。それは日野市に桑ハウスという養蚕のための建物が昭和初期に建てられていて、それを保存活用するプロジェクトのお話しでした。わたくしは歴史好きが高じて、鉄筋コンクリート構造や耐震構造の歴史を研究するようになっていますので、そのことをご存知の山田先生が仲間に誘って下さったという次第です。

 そこで所掌が違っていて甚だ申し訳なかったのですが、庁舎改修担当の川本泉さんにお願いしてみると快諾していただき、桑ハウスへ連れて行って下さいました。お忙しいところ、それも突然のお願いにもかかわらずお時間をさいて案内してくださった川本さんにはとても感謝しています。

 で、この桑ハウスですが、その昔、日野でも養蚕業が盛んだったころに蚕室として使われていたそうです。昭和3(1928)年頃に建設された二階建てですが、一階が鉄筋コンクリート構造、二階は木造というハイブリッド構造です。配筋図や伏図が残っていてそれを見ると(パネル仕様にしたものが建物周囲の金網にぶら下がっていました)、桁行方向の外構面の柱には立派な袖壁がついていて、コンクリート強度さえ確保されていれば、かなりの耐震性能を保有しているように思いました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:日野市_桑ハウス2015:P1010287.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:日野市_桑ハウス2015:P1010277.JPG
説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:日野市_桑ハウス2015:P1010276.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:日野市_桑ハウス2015:P1010274.JPG

 柱の断面サイズは500mm×400mm と小さいような気がしますが、平屋建て(上階の木造は軽いので無視しました)だとすれば十分でしょうね。主筋も直径22mmの丸鋼が10本から16本も入っていました。柱のフープの間隔は図面上では14cmとなっていましたが、なぜこんな中途半端な値にしたのか不思議です。

 内部に入りましたが電灯がつかなくて真っ暗だったので、二階には上がりませんでした。写真には二階に上がる木造の階段が写っています。ちょっと変わっていたのが室内側の仕上げで漆喰塗りでした。そのため内側は白っぽく写っています。

 約九十年前の建物ですが、鉄筋コンクリート造の部分はかなりしっかりと残っているように見えました。ただ外側の一部では鉄筋が露出して相当に錆ていましたので、早いところ維持保全の手だてを講じたほうがよさそうです。

 その昔、上州(群馬県)、武州(埼玉県、東京都)そして信州(長野県)とは絹によってつながっていました。日野やわが大学のある八王子もその中間に位置していたのです。このような絹による歴史的なつながりを踏まえて桑ハウスの歴史的な価値を再認識し、近代産業にかかわる産業遺産として保存・再生できるといいなと思います。もっともそのためには地元の人びとや行政(日野市役所)との共同作業が欠かせないのはもちろんです。同じようなことをここでも書いていました。

 ところで日野といえばやっぱり新撰組でしょうね。土方歳三の義兄となった佐藤彦五郎の家は日野宿本陣でしたがそれが残っていて、今では日野市の資料館となっているそうです。いつかは行って見たいですな。毎年五月には新撰組祭りが日野市内で行われていて、日野市役所の方々も参加するそうです。

追伸; 山田幸正教授から資料を送っていただきました。それによると「蚕業試験場日野桑園」がこの地に開設されたのが昭和3年で、この建物(桑ハウス)が竣工したのは昭和7年3月とのことでした。


後期の授業 in 2015 (2015年10月27日)

 後期の授業が始まってからほぼひと月が経ちました。今朝なんかは随分と寒くなりましたね。これからどんどん寒くなってゆくかと思うと、朝1限の講義はホント大変です。

 さて、その朝1限にあるわたくしの「鉄筋コンクリート構造」の授業ですが、例年、履修登録者は二十名から四十名はいたのですが、今年はどういうわけか12名しかいませんでした。「構造実験」や「構造設計演習」では三十名近い履修者がいるので、いったいどうしてこんなに少ないのか、やっぱり鉄筋コンクリート構造は魅力がないのか、どうなんでしょうか。ちなみに今朝の出席者は8名でした。この分だと真冬には数名しかいない、という事態に立ち至りそうです。数年前に鈴木清久くんが三年生のときに3名しか出席者がいなかったことを思い出させてくれますな。

 ただ、この「鉄筋コンクリート構造」の授業はカリキュラム改変にともなって2016年度からは前期に移動しますので、来年4月からは暖かい(後半は暑い)時候に授業をすることになります。そうすれば朝1限もそんなに苦ではなくなると期待しているのですが、どうでしょうかね。これまでは後期に授業負担が片寄っていましたが来年度からは、「基礎ゼミナール」が継続して担当ということもあって前期に授業が集中することになりそうです。なかなか上手くゆかないものです。


大学のプレゼンスとは (2015年10月22日)

 ずいぶんと肌寒く感じられるような頃合いになって参りました。我が社では、今年度唯一の実験がそろそろ始まります。うまくゆけば寒さが本番となる前に加力を終えられそうです。苗思雨くんや今村俊介くんを始め我が社の皆さんには怪我や事故の無いように気をつけて作業をお願いします。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:秋のキャンパスTMU2004:IMG_0010.JPG

 さて今どきの大学ですが、18歳人口の減少にともなって現代の大学はおしなべて特色作りに追われています。そういうシーンで、自校のプレゼンスを高めることが至上命題のように言われることが多くなりました。たいていの場合には自校の生き残り戦略とセットで論じられると思います。

 では、そういう自校のプレゼンスを高めるためにわれわれ教員には具体的に何を要求されているのか。迂生にはトンとピンと来ませんが、いろいろ聞いてみると例えば教員が新聞やテレビ等のメディアに頻繁に登場するとか、ベストセラーになるような著書を発刊するとか、あるいはノーベル賞のように一般に広く知られている賞を受賞するとか、とにかく“有名人”になるということみたいです。テレビでインタビューされる先生の背景に大学名やそのロゴが入ったパネルが置かれることが最近多くなりました。これなんかは自校のプレゼンスを高めるのに大いに寄与していると評価されるのでしょうね。

 でもメディアに取り上げてもらうことがそんなに重要なのか、わたくしには甚だ疑問です。情報が氾濫する現代において、そういう話題は一瞬にして消費されてそのあとは虚空に消えてゆくだけの儚いモノだと思います。

 そんなことよりも、たとえ世間からは世の中の役に立たないと言われようとも地道に研究を続けて真理を探究し、自分で考えて生きてゆけるような教育を学生諸君に施すことが重要であるとわたくしは考えます。個々の教員がそういった活動を大学で実践すれば、大学のプレゼンスは自ずと上昇すると思うのですがいかがでしょうか。

 自分のいる大学のプレゼンスを高めるために行動しなさいと言われるとすれば、そんなのはご免蒙りたいですね。わたくしは確かに大学の一員ではありますが、大学のためになにか活動をしていると考えたことはありません。チャラチャラとした安っぽいもので大学を飾るのではなく、もっと大学の本質に根ざしたところでその真価を発揮させるように努めることこそが重要なのだと迂生は考えます。


耳ネタ October, 2015 (2015年10月19日)

 なんだか元気がでないときにはサザン(オールスターズ)を聞くに限りますな。手元には古くてお蔵入りになっていたアルバム(CD)が数枚ありましたので、じゃあこれでも聴くかということで引張り出したのが『Young Love』です。1996年のリリースなので約二十年前に買ったわけですが、どんな曲が入っているのかはおろかこんなタイトルのアルバムがあったことさえ憶えていません。ですから、いまのわたくしにとってはニュー・アルバムとなんら変わりありません、お得ですね。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:Young Love.jpg

 で、聴いてみるとなかなかの名盤じゃないですか〜(って桑田さんに失礼か)。「愛の言霊(ことだま)」、「あなただけを」、「太陽は罪な奴」などの有名曲?が入っていました。でもわたくしは「ドラマで始まる恋なのに」っていうミディアム・スローなラブ・ソングが気に入りました、いいんじゃないでしょうか。

 ところでこのアルバム・ジャケットですが、なぜかヒンデンブルグのような飛行船が炎上しているというすごい絵柄です。若者の恋(Young Loveっていうタイトルのことです)はこれくらい燃え上がるっていうことでしょうかね。

 その飛行船のしたには古めかしい洋館が写っています。屋根上には「Young Love」という看板がありますから、どこかのホテルのつもりでしょうか。でも二階建てのその建物を見て、迂生はこれが日本の名建築であることにすぐ気が付きました。それは、我が社で卒論のテーマにもなったジョサイア・コンドル先生が設計した綱町三井倶楽部です。田町の建築会館から歩いて慶応義塾大学の脇を抜けて綱坂を登った尾根上に今も建っています。煉瓦造二階建てで1913年(大正2年)の竣工ですから、百年以上前の建物ということになります。

 三井倶楽部はその名の通り、財閥の三井グループの倶楽部として使われていますので一般のひとは通常は立ち入ることはできません。十年ほど前に行ってみたとき正門の門扉が開いていましたので、こっそりちょっとだけ入らせてもらって撮ったのが下の写真です。屋根には美しいメダイヨンが取り付けられているのが分かります。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:綱町三井倶楽部・コンドル:IMG_0166.JPG

 サザンのアルバム・ジャケットはこの写真とは反対側のお庭に面したほうのファサードです。さすがに庭のほうまで入ることは一般人たるわたくしには不可能でしたな。こんな由緒ある建物のお庭で写真を撮るとはサザンオールスターズもお目が高いですね。ちなみにこの建物はさすがにこのままでは耐震性に不安があるので、免震補強されて現在に至っています。


ダブルで その2(2015年10月15日)

 それじゃバーボンをダブルで、なんて頼みながら飲んでいた頃が懐かしいですね。でもそういった話しではありません。ある意味、殺伐とした現代社会を如実にあらわす出来事です(同じような話しは今年の3月下旬にも書いていました)。

 昨日は午前中に学会で原子力建築運営委員会があって、午後は大学で授業だったので戻りました。でも新宿駅まで来ると京王線が事故で止まっていました。仕方が無いのでとりあえず小田急線で多摩センター駅まで行きました。

 そこから先は結局は京王線に乗らないといけないのですが、移動するあいだに京王線が復旧することを期待したのでした。でもやっぱりダメで、しばらく多摩センター駅で待っていました。結局、田町から二時間半かかってやっと大学にたどりつきました。もう疲れたなあ〜ってな感じです。

 で、そのあと授業をして暗くなってからさあ帰るか、もう電車の遅れも解消した頃だろうから大丈夫だろう、でもいちおう確認するか、ということでネットで調べました。

 そうしたら、なんとまたもや「運転見合わせ」になっているじゃありませんか。よく見ると午後6時前にこの日二件めの人身事故が発生していました。しかたがないので、研究室で仕事をしながら電車が動き始めるまで待ったのでした。こんな訳で、この日はほんとツイていませんでした。でも自らを線路に投げ出さなければならなかった方の無念に思い至れば、そんなことを言ってはいけないのだろうとも思いました。


レコードを聴く (2015年10月13日)

 以前にレコード・プレイヤーを実家から持ち帰ったのですが、そのまま放置していました。ソニー製のターン・テーブルで、わたくしが高校生になったくらいのときに両親から買ってもらったものですから、約四十年前のシロモノということになりますな。アンプ、チューナー、カセット・デッキそれにスピーカもありましたが結構サイズが大きかったこともあって、それらは廃棄してしまいもうありません。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:レコードプレイヤー2015:DSC01341.JPG

 さて、秋になってせっかくですから久方ぶりにレコードを聴いてみるかと一念発起して、ミニコンポにケーブルをつないでみました、鳴るといいなあとか思いながら。プラスチックのケースを開けて、レコードをターン・テーブルの上に載せます。写真右下のレバーを一段だけ手前に引くとテーブルが回り始めますので、回転数の微調整を左側の銀色ボタンを回して行います。ターン・テーブルのエッジには回転数・周波数ごとに合計四つのパターンが刻まれていて、所定の回転数・周波数に調整されるとオレンジ色の光(ストロボ・スコープ)に照らされた部分がそこだけ静止した縞模様に見えるんですね〜。う〜ん、アナログだな〜。

 それが終わるとトーンアームをレコードの最外縁部分までそーっと手で持って行きます。その際に狙いを定めることが大切です。そこで右下のレバーをさらに引くとトーンアームを支えているオイルダンパー方式のアームリフターがゆっくり下がって、レコード針がレコード面に静かにタッチして音溝に滑り込むという仕掛けです。さあ、久しぶりにレコードを聴くぞ〜っという期待感が高まりますな。

 でも、あれっ?てな感じでした。スピーカーから音は出たのですが、とても小さな音でやむなくボリュームをそれまで上げたことがないほどあげて(もうフル・パワーっていう感じ)、やっと聞こえます。しかもその音は昔聞いていたほどよくありません。あれ〜?、どうしたんだろう。アンプのパワーが足りないのかとも思いましたがCDやiPodの音はフツーに聞こえますのでそんなことはありませんね。

 ということでネットで調べてみました(毎度ですがホント便利な世の中になりました)。そうすると同じトラブルに遭遇した方はゴマンといたようで、その原因はアッサリと分かったのです。わたくしはレコード・プレイヤーの出力ケーブルをミニコンポのライン入力端子につないだのですが、これがいけなかったのでした。

 昔のアンプはレコードを聴くことを前提としていましたので、そのなかにはフォノ・イコライザーというレコードの溝から拾った音の周波数成分を適宜調整するためのアンプが内蔵されていました。そのためPHONOという名前の専用の端子がついていたんですね。そういえばわたくしが昔使っていたアンプのセレクタにもPHONOと書かれた位置があったことを思い出しました。

 ところが最近ではCDしか聞きませんので、わたくしのミニコンポにもPHONO端子はついてなくて、それを知らずにLINE端子につないじゃったのでした。まったくもって、ありゃりゃですぜ、ご同輩。

 というわけで、いい音でレコードを聴くためには別途、フォノ・イコライザーを購入してミニコンポとのあいだにかませないといけない、ということが判明したのです。ああ〜、こんなことなら年代物のソニーのアンプを捨てなきゃよかった、と思ってもあとの祭りとはこのことです。

 ここまで分かってから、はたと気がつきました。家内が結婚前から使っていたオーディオ・セットが屋根裏に死蔵されていたのです。こいつはCDデッキもカセット・デッキも壊れてしまってもう使えない、でも家電製品は捨てるのも大変、ということで放置されていました。しかしながらそのアンプだけはまだ生きているんじゃないか、ということに思い当たったんです。そしてそのアンプ(Victor製でした)の裏面をよく見ると、古いものだけあって案の定付いていました、PHONO端子が。

 ということで、くだんのレコード・プレーヤーを屋根裏に運んで、そこでスピーカとともにそのアンプに接続しました。そうすると今度こそホントーにいい音が聞こえてきました。嬉しかったので屋根裏でひっそりとオフコースの『フェアウェイ』という1978年産のアルバムを聴いたのでした。レコード針が拾うプチプチという音がときどきスピーカーから流れてきたりして、それはもう懐かしかったです。A面が終わると前述の手順を逆にしてターンテーブルを止めます。そしてレコードを両手で持ってクルッと回してB面をかけます。そういう一連の手続きも久しぶりに味わいました。

 しかし屋根裏はリスニング環境としては劣悪で、音楽を楽しむ雰囲気ではないですね。かといって古いオーディオ・セットを新しいミニコンポにとって換えるわけにもゆきません。これからときどきレコードを楽しむためには、前述のフォノ・イコライザーをやっぱり買う必要がありそうです。どうしようかな〜、しばらく悩んでみますか。


ひとのため (2015年10月7日)

 随分と肌寒くなってきましたね。とは言え今日の日中はすがすがしい気候で、とってもGood day といった感じで気持ちがよいです。

 さて今年もノーベル賞の季節がやってきて、医学生理学賞および物理学賞で日本人の活躍に脚光が当たっています。新聞等で拝見するといずれも素晴らしい業績で、やっぱりそういった業績をあげる方は違うなあと感心させられます。

 で、医学生理学賞を受賞された大村智先生が「世のため、ひとのために研究してきた」と仰っているのを聞いて、本当かなといっときは考えましたが、その功績を知るにあたって、それはまさにその通りなんだろうなと思うに至りました。ご自身が発明された薬等で世界中の人びとを苦痛から解き放ったことが数字によって明瞭に示されているのですからね。まさに人類(だけでなく動物も含まれるようですけど)の幸福の増進に寄与されたわけですから、顕彰されて当然のお方なんだと思います。わたくしは存じ上げませんでしたが、ご経歴をよく見ると文化功労者にも選ばれていましたから。

 このページで時々書いているように、わたくし自身は自分の知的欲求を満たすために研究しているというのが偽らざるところです(極論すれば、目の前に存在するひび割れがなぜ生じたのか理解できれば、わたくしは満足するでしょう)。人間が自分自身の意志によって作りあげた建物の、地震時の挙動とか破壊過程とかが未だに詳らかには解明されていないということに対して、不思議の念を抱いていることがその根底には横たわっています。自然界が作り上げたものならいざ知らず、人間が自分で作ったモノなのにその性状を理解できないっていうのは、一体どういうことなのよっていう感覚ですね。

 わたくしはこのような動機から研究活動を続けているわけですが、その成果が新しい耐震設計法の策定や、建物の耐震性能の向上などに役立つのであれば、それは世のためひとのためになることですから結果として人類の健康と幸福とに貢献できると思います。それはそれで素直に嬉しいです。でもそれは、少なくともわたくしにとっては研究成果の副産物であって、研究の推進力ではありません。「世のためひとのため」それ自体を研究の主目的としていることとは大きな隔絶が存在するように思っています。

 そういう点から見ると、研究分野によっては確かに研究成果がそのまま人命救助や健康回復につながるという(ある意味でとっても幸運な)研究もあるのだなということを再認識した次第です。そのことはとても羨ましいことだと思いますし、そういった成果をあげられた方には満腔の敬意を表します。でも、だからと言って上述のようなわたくし自身の研究のスタンスは変わることはありませんけどね。


時機を逸したバーベキュー (2015年10月5日)

 先週末、研究室のバーベキューをやっと実施しました。というのも通常は建築学会大会の期間中に研究室のご苦労さん会をやるのですが、今年は近場の東海大学だったので開きませんでした。

 そこで大会が終わったあとに実験棟ヤードでバーベキューをやろうということになって日時も設定したのですが、あいにくの雨で二回も延期になりました。三度めの正直のこの日も爆弾低気圧のせいで雨降りでしたが、それもなんとか上がってやっとの開催にこぎつけました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:北山研BBQ20151002:DSC_4891.JPG

 でもそのような経緯でしたので大会終了から既に一ヶ月近くを過ぎており、趣旨が何であるのか甚だ曖昧なバーベキューとなりましたが、まあいいか。その間に苗思雨くんと今村俊介くんの試験体のコンクリートが打設されましたし、大学院の入試が終わって上首尾だったひともいますので、それらの慰労もかねての親睦会ということでいいんじゃないでしょうか。

 今週からは本格的に授業も始まりますし、二ヶ月後には卒論の中間発表を迎えます。研究室での研究もいよいよ本腰を入れて取り組んで欲しいと切に希望いたします。我が社の皆さんの益々の奮闘を期待しています。

 ちなみに上の写真は、焼き肉やら焼きそばやらお魚のフォイル焼きやらをたらふくいただいたあとに(皆さんもう相当に満腹なのに)、どういうわけだか焼いたジャガイモを溶かしたチーズにつけて食するというチーズ・フォンデュをやっているところです。鉄板が酷使されたためススが付着したせいでジャガイモが黒くなっていて、白いチーズが汚らしくなっちゃったのが誤算だったみたいですけど‥‥。毎回、学生諸君のアイディアが発揮されて面白いですね。


南大沢だより 〜2015年9月〜 (2015年9月30日)

 今朝は秋らしいさわやかな晴天となりました。カラッとしていてちょっと肌寒くて気持ちがいいですね。校内のイチョウの木を見上げたら黄色く色づいた銀杏が鈴なりに生っていました。そのうちわらわらと落下してそのあたりに匂いをまき散らすのでしょう。

 さて、9月も今日でおしまいです。我が大学では明日から後期の授業が始まります。三年生を対象に来年度の卒論の研究室を決めるためのショッピング活動も「先端研究ゼミナール」の開講とともにスタートします。昨年度から卒論の研究室の配属が三年生の12月に前倒しされました。で、研究室配属を早くした結果としてなにかいいことがあったかと言えば、少なくとも我が社では特段のメリットはなかったですね。

 その時期には研究室での研究は既に佳境に入っていて、そのなかに新たに三年生が食い込む余地(あるいは、三年生を組み込むためのわたくしの余力)はない、というのが実状でした。我が社を希望して配属された三年生には「先端研究ゼミナール」の授業時間内に論文の作法とかをひと通り伝授したつもりですが、四年生になって卒論に取り組んでいる彼らはそのことをきれいさっぱり忘れてしまったようで、張り合いがありません。なんだかな〜っていうガックリきた気分でした。

 今年度は河野進教授に頼まれて東工大の客員教授になりました。一年間の任期です。河野さんからは何度かすずかけ台キャンパスに来るように要請があったのですが、なんせ弱小大学に勤務するわたくしは本務が忙しくてまだ一度も行っていません。そういうわけで、後期になったら特別講義をするようにと言われました。

 東工大では大学院の講義は英語でするらしく、河野さんから特別講義も英語でやってくれと頼まれました。でも、一回こっきりの講義のためにわざわざ英語を準備するのは大変ですし、なによりわたくしは英語を話すのが苦手なので、それは勘弁してくれと押し切りました。それに講義は日本語ですが、図とか写真とかを見れば外国の学生諸君にも分かると思いますから。

 東京都瑞穂町のお手伝いをことしも頼まれました。新庁舎建設にかかわるお仕事ですが、今までの経緯もあって乗りかかった船ですからお引き受けいたしました。学識経験者はわたくしを含めて三名で、本学の同僚である須永修通教授(建築環境学)と立川断層での強振動を研究されている東工大のY中教授が選任されました。

 以前にも書きましたが、東京西郊に位置する瑞穂町はとてもよいところなのですが、唯一の電車であるJR八高線が一時間に二本しか走っていないのがとても不便です。都区内の通勤電車のノリでなにも考えずに駅にゆくと、最大三十分以上も待たなければならず大変なことになります。ということで、近々また瑞穂町役場に行くことになりました。


リバイバル (2015年9月25日)

 この連休はお天気に恵まれてよかったですね(きょうは冷たい雨、ですけど)。我が家ではお墓参りに行ったほかは、エアコンのフィルター類の掃除を久しぶりにしたりして過ぎていきました。ひと夏のほこりが層をなしていて掃除のしがいがありましたぜ(汚くてすみません)。

 さて子どもと一緒にテレビを見ていたら「サンダーバード」の再放送をやっていました。わたくしが幼稚園から小学校にあがる頃に放送していた記憶がありますが、とっても好きでした。「ハイ、パパ!」っていうセリフをどういうわけかよく憶えています。父親に頼んで映画館(多分、渋谷だった)へ見に行ったこともよい思い出です。その映画に出てくる巨大な宇宙船?のプラモデルも持っていました。

 その「サンダーバード」はアメリカ製のよくできた人形劇です。登場する乗り物としてサンダーバード1号から5号まであって、そういった連番ものって男の子は大好きですよね。仮面ライダー1号・2号とか、ウルトラマン・ウルトラセブンとか、サイボーグ009とか、サブマリン707とか、当時の連番ものをあげたらキリがないくらいです。

 いま見ても、なかなか面白いです。人形はどれも頭でっかちで眉毛が太いのが特徴ですが、わざとそうしたデザインにしたのでしょうね。わたしが特に好きだったのはサンダーバード2号で、ミッションに応じて腹部に格納するコンテナを選べるところなんか最高でした。もちろんそのプラモデルも持っていました。

 当時の人形劇である「サンダーバード」をなぜ放送していたのか、その理由があとで分かりました。半世紀を経過してアニメ版の新「サンダーバード」が製作されたからでした。で、子どもが見ていたのをチラッと見たのですが、はっきり言って当時の人形劇のほうがずっとよかったです。そのアニメ版のタッチは、スター・ウォーズのアニメ版である「クローン・ウォーズ」とソックリで、その焼き直しじゃないのかと思うくらいでした。

 たった一話ちょっと見ただけですから、ずっと見て行くと面白さに気が付くのかもしれません。でも、わたくし自身はアニメ版を見る気をもう無くしていました(子どもはテレビにかじりついて見ていますけど‥‥)。


重なる (2015年9月24日)

 お彼岸になってやっと晴れの日が続くようになりましたね。お昼には30度近くまで気温が上がりますが、朝晩は肌寒く感じます。ことしは五連休でこれをシルバー・ウイークと呼ぶそうですが、“ゴールデン”に較べるとずいぶんと格下の感じがします。敬老の日が真ん中にありますので、そのせいで“シルバー”などと呼ぶのかと思ったりもします。

 さて先日イヤホンが切れたはなしを書きましたが、ここのところ身近で使っているモノが立て続けに壊れました。昨日は電子レンジが動かなくなりました。お茶を温めようとしてスイッチを入れたら、パシッというイヤな音がしてそれっきり動きません。アースがはずれかかっていたので、そのせいかと思って付け直しましたが、やっぱりダメでした。調べるとこの電子レンジはすでに十三年も使っていたことが分かりましたので、まあよく頑張ったほうかなということであきらめもつきました。

 ただ電子レンジは日々使うものですから、新しいモノをすぐに買わないといけません。そこで価格ドットコムで売れ筋とか口コミとかを調べて、東芝の「石窯ドーム」シリーズに当たりをつけました。我が家の壊れたレンジは三菱製だったのですが、いまでは三菱は電子レンジをほとんど作っていないようです。

 うちではご飯やおかずの温め機能と鶏肉などをグリルするオーブン機能とがあればよいので、高機能でお高いレンジは必要ありません。でも十三年のあいだに電子レンジもそれなりに進歩していました。まず、最近のレンジはターンテーブルがくるくる回ったりしないんですね。というか、ターンテーブルなどは存在せずに、庫内に直か置きできて、とびらも金庫のように左右に開くタイプではなくて上部の取っ手を引き倒す方式が主流になっていました。そのおかげで庫内の掃除は楽にできそうです。それからサイズも重要でして、我が家の台所の狭い家電スペースに無理なく納まらなくてはなりません。

 ということで、東八道路沿いにある何軒かの電器屋をのぞいて見て、結局、型落ちになったばかりで半額になっていた製品をジョーシン電器のアウトレット店で税込み約24,000円で購入しました。電子レンジの世界も入れ替わりが激しいようで、わずか一年ばかりで型番がちょっとだけ違う新製品が出てくるようでした。でも上に書いたように我が家は単純な機能だけあればよいので、一年前の型だろうと全く問題ないわけです。

 電子レンジは重たいのでお持ち帰りできないかと危惧しましたが、購入した製品がコンパクトなこともあり(約15kg)、車のトランクにギリギリ納まってひと安心しました。使い勝手についてはまだ分かりませんが、ボタンとかダイヤルなどは結局は慣れですから、よく使う機能を覚えてしまえばあとはそれを猿のように押すだけ、ということかと思います。

 もうひとつ壊れたものがあります。わたくしのポケットにいつも入っているiPod nano(16GB)です。こちらはハードディスクとしてはちゃんと機能して、音楽も聴けるのですが、ボリュームのボタンが効かなくなってしまって、かなりな音量で鳴り続けるんですね。電車のなかのように騒音が激しいところではそれでも大丈夫でしたが、イヤホンを新しくしたらパッドの外耳への密着度が上がったらしくて、もううるさくて耳が悪くなりそうでした。我慢の限界を超えちまった、という感じです。

 ボリューム・ボタンがいかれたiPodはとても小さくて気に入っていたのですが、画面が小さ過ぎるせいだと思いますがボリュームの操作は画面上ではできないことが致命傷となりました。で、このページを調べてみるとこのiPodは2010年10月に購入していました。ほぼ五年でハードが壊れた、ということになります。

 新しいiPod nanoも容量は同じ16GBでその点は不満です。サイズも大きくなりました。画面を広くして動画なども見れるようにしたためでしょうが、わたくしにはそんな機能は無用ですから、無駄にデカいだけという印象です。値段も高くなりました。

iPod2015

 もっとも世の中はiPhoneが全盛の時代ですから、わざわざ音楽を聴くためだけにこういう電子機器を買うひとは減っているのかも知れません。ただ新しいiPodのよい点は、画面が広くなったために画面上にもボリューム・コントローラが表示されるようになったことです。今まで同様に万歩計もついていますしラジオも聞けます。

 色は本当はグリーンが欲しかったのですが、新型のiPod nanoにグリーンはありませんでしたので、今回は鮮やかなピンクにしました。光の加減によってはワイン・レッドのようにも見える、かなり綺麗ないろだと思います。

 わたくしにとっては四台めのiPodとなりますが、初代のiPod nano(こちらもピンクでした)とほぼ同じサイズのような気がしてきました。でも初代と較べると格段に薄くなったので重さは気になりませんね。長持ちしてくれることを祈っています。


武田神社にて 〜武田三代の夢のあと〜 (2015年9月18日)

 西川孝夫・御大に依頼された甲府市役所のお仕事も今回が最後になりました。半年に渡ったお仕事でしたが気がつけば涼しい時候と相成り、ときの移ろいを感じます。無事改修なった市役所で工事経過の報告を受け、そのあとに現場を視察してきました。いろいろとお世話になった田邊さんや穐山さんをはじめとする市役所の皆さまがたに御礼申し上げます。

 かように半年のあいだ足繁く甲府に通ったわけですが、わたくしが訪れたところといえば甲府駅の脇にある舞鶴城(甲府城のこと)だけでした。それではあまりにも残念ですし、せっかくの甲府ですから最後の記念に武田神社に寄ってきました。それもありがたいことに市役所で文化財保護のお仕事に就いておいでの望月さんが案内をして下さいました。以下はこの望月さんから伺ったお話です。

 武田神社は戦国の時代、武田信玄の本拠だった躑躅ヶ崎館(つつじがさき・やかた)の跡地に建っています。そうするとこの神社は古いものだろうとフツーは思うわけですが、実際には大正八年に創建されたものです。この神社の社殿が左下の写真ですが、これを設計したのはなんと大江新太郎だということです。大江は明治神宮の宝物殿を設計したことで有名ですが、舞鶴城跡地に建っている謝恩の塔の設計にも伊東忠太とともにその名を残しています。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:甲府_武田神社2015:P1010204.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:甲府_武田神社2015:P1010209.JPG

 ということで武田神社の社殿は近代木造建物の文化財として貴重なものだとわたくしは思うのですが、まだそのような指定はされていないそうです。大江の設計図も神社に残っていて調査されているとのことですので、是非、設計図ともども文化遺産に登録して一般に公開して欲しいですね。

 ただ望月さんが言うには、この地は武田神社としてだけでなく、武田氏の躑躅ヶ崎館の跡地としても広く認知して欲しいので、今後、そのような方針でこの地域を整備してゆく予定とのことでした。そのためには予算が必要だし、市民の方々の理解も必要なので、大変な事業であると思いました。

 この地に館を築いたのは武田信虎(信玄の父)でそれは1519年のことでした。それまでは府中と呼ばれていましたが、館の建設を機に甲府(甲斐の府中)と呼ばれるようになりました。そうすると2019年は甲府開府500年の節目の年となるので、甲府市ではそれを大々的にアピールするとともに、この地を躑躅ヶ崎館跡として整備する計画だそうです。躑躅ヶ崎館の建物こそ残ってはいませんが、土塁や堀、馬出し、虎口、石積みなどの土木構造物はよく残っていて貴重な遺構ですので、甲府市の計画がつつがなく進捗することを願っています。

 右上の写真の中央のこんもりとした緑の丘が躑躅ヶ崎です。平地に半島状に突き出した丘状の地形を「崎」と呼ぶのですが(中沢新一著『アース・ダイバー』をお読み下さい)、その様子がよく分かります。ただ最近、県の工事によって躑躅ヶ崎の先端の垂直に近い面がコンクリートで固められてしまったのは(写真中央に白く見えている部分)、なんとも無粋で景観保護の観点からもいただけませんな。なお手前に緑の法面がありますが、これは江戸時代初期の土塁だそうです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:甲府_武田神社2015:P1010214.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:甲府_武田神社2015:P1010216.JPG

 左上は西曲輪(にし・くるわ)の枡形の写真です。出入り口(虎口)があったところの石垣がよく残っています。右上の写真は空堀です。相当に深く掘られており、この地は館とは言うものの、規模としては平城と同等だと思いました。

 この西曲輪の一帯はまだ整備があまり進んでおらず、左下の写真のように土塁(中央の緑のこんもりした部分)のすぐ左には民家が建っています。そこの住民の方から土塁の草刈りをしてくれって陳情されるそうです。右下はここから北を望んだ写真で、中央の低めのお椀を伏せたような山が有名な要害山です(有名なのはまあ歴史好きのあいだだけでしょうけど、あははっ)。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:甲府_武田神社2015:P1010222.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:甲府_武田神社2015:P1010218.JPG

 ここまでいかにも知ったように書いてきましたが、ほとんどはその道のプロ・望月さんの解説です。望月さんはそれはもうなんでもご存知でして、わたくしの質問にはことごとく答えて下さいました。そういうプロのお話しを伺いながら見る遺構や景色はまた格別でして、心底から感激しました。こんな素晴らしい体験をさせて下さった甲府市役所の皆さんにはとても感謝しております。

 さて躑躅ヶ崎館跡の南側には梅翁曲輪(ばいおう・くるわ)というところがあって、これはどうも武田氏が滅亡したあとに徳川家康が甲斐に入ってきてから造られたものらしいです。すなわち1582年(天正十年、信長が本能寺で倒れた年です)から1600年くらいまでのあいだです。平岩親吉の家臣の井上梅雲斎(間違っているかも)が代官としてこの曲輪に居を構えた、とのことです。この一帯は現在も甲府市教育委員会によって発掘調査が続けられていて、その貴重な現場を拝見できました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:甲府_武田神社2015:P1010233.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:甲府_武田神社2015:P1010232.JPG

 この梅翁曲輪は明治になってからは畑や宅地になっていたそうですが、そのような土地を山梨県や甲府市が地道に少しづつ買い上げて来て、やっとこれだけの土地を手に入れることができたそうです。左上の写真には、右奥の土塁のあたりにまだ住宅が建っているのがわかります。文化財の保護って、そういう息の長い活動が求められるのですね、いやホントに大変だと思いました。

 でもそういった苦労なことどもを説明して下さる望月さんの表情は明るく生き生きとしていて、それはもう楽しそうに話してくださったことが非常に印象に残りました。どんなことでも同じですが、自分の仕事に誇りを持ち、日々楽しく取り組めることほど幸せなことはありません。

 お忙しいなかをご説明いただいた望月さんに改めて御礼申し上げます。2019年には是非また武田神社・躑躅ヶ崎館跡を訪れたいものと思っております。それまでお元気でご活躍下さい。


この国のゆくえ (2015年9月17日)

 安全保障関連法案がいよいよ参議院で大詰めを迎えていますね。A倍首相の暴走を止められるものはもはや誰もいない、ということのようです。しかしこれでは完全な“はだかの王様”です。ただ、自民党内の良識派が絶滅してしまったのは致し方ないとしても、野党のなかからこの法案に賛成する政党が出てくるとはいったいどうしたことでしょうか。そこには権力にすり寄って多数派に所属したいという思惑が露骨に透けて見えますね。でも国会議員は一般民衆の代表ですから、その民意をないがしろにしてよろしいはずがありません。

 いま、ノーベル賞を受賞された益川敏英先生の書いた『科学者は戦争で何をしたか』(集英社新書、2015年8月)を読んでいます。益川先生のおっしゃることには概ね賛成ですが、外に出て集団をなして政治活動をすることには、わたくしは抵抗があります。どんなに高邁な思想に基づいていても、ひとが群れて集団となった瞬間に派閥ができ上がって、そのあいだで醜い争いが生じることは歴史の示すところです。わたくしはそれがイヤなんですね。

 わたくしも日本が戦争をする国に舞い戻ることは絶対に反対ですから、益川先生に共感します。そうではあるのですが、国会前に行って群れを作ってデモ活動をしようとは思いません。じゃあお前はなにをするのかと問われたとすれば、それへの返答はこのページにかようにわたくし自身の信念を記述することによって現政権に反対を表明する、ということになります。

 いつも書いているように、戦争をしようと画策するひとたちは総じて老齢の方が多くて、自分自身は戦場に行くことの無いひとたちです。そういった方々は、自身の子や孫が戦場に向かい、そこで体験するであろう悲惨な出来事を想像できないのでしょうか。七十年前の「あの戦争」は知らないとしても、現在中東で起こっている出来事は日々聞き、目にしているはずです。ですからこの愚劣な戦争法案を通そうと画策する方には、そういう想像力を駆使してご自身の良識に恥じない判断をしていただきたい、と強く念じます。


一瞬のゆれ (2015年9月14日)

 この週末の早朝(9月12日 午前5時49分)、かなり強い地震がありました。いきなり激しく揺れ出したので震源は近いなと分かりましたが、その揺れは小刻みで非常な短周期でしたので、建物の構造体に大きな被害をもたらすようなものではないだろうなとも。ただ、家の中のガタガタいう音は結構すごかったです。というわけで飛び起きました。脇にあるたんすが倒れたらイヤだなと思ったからです。地震動の継続時間はとても短くて15秒程度でした、よかったですね。

 で、テレビをつけると震源は東京湾(深さは約60km)でしたが、どういうわけか調布市だけが震度5弱と最も大きい気象庁震度階でした。我が家は道路一本隔てたところが調布市という立地ですので、そうか今のが震度5弱か、というのが感想です。我が家では子どもがたんすの上に飾っていたレゴの人形が落ちたくらいでした。

 それからガスのマイコン・メーターが地震動を検知したらしくてガスが出なくなりました。家内がお湯が出ないと言ったので、外のガス・メーターをよくよく見たらそうだった(小さなLEDランプが赤色に点滅する)ということですが、LEDランプが小さいために分かりにくいので皆さん戸惑ったのではないでしょうか。

 さてテレビを見ているうちにヘリコプターの爆音が聞こえてきて、周囲が騒々しくなってきました。テレビ局の報道ヘリがやって来たのです。ご苦労なことです。この地震では(幸いなことですが)被害などなかろうとは思うのですが、メディアはそんな風には考えないのでしょうね。「調布駅のあたりには普通にバスが動いていて、人びとも歩いています」などというへんてこな(?)レポートを送っていました。

 というわけで調布が脚光を浴びるという不思議な地震でした。なお京王線・調布駅は数年前に地下化されて駅周辺は再開発途上のため、上空から見てもどこが駅なのか分かりません。不思議なまちだと思ったかたも多かったのではないでしょうか。

 ここのところ地震がなかなったので油断していましたが、やっぱり地震は怖いですね。これから起こるであろう震度6超の地震を想像すると身の毛がよだちます。そのとき在宅していればよいのですが、外出時ではまさに運を天に任せるほかありません。もちろんとっさの非難行動などできる範囲のことはするでしょうが、その建物の耐震性能が十分かどうかなどは分かりません。

 そういう“運だめし”の状況を少しでも減らすために、公共による都市の耐震化がお上によって推進されています。しかしそれは建物の個々のオーナーの努力に頼っていますので、遅々として進まないというのが現状です。でもそんなことを言っていては、どこにも行けません。結局、自分でそういうリスクを引き受けて生活する、ということになるわけです。みなさん、ちゃんと認識していましたか?


切れる (2015年9月11日)

 切れるって、別にわたくしが日常生活でぶち切れたわけじゃございません。iPodにつないで日々持ち歩くイヤホンの右側が断線したらしく聞こえなくなったのです。前日まではよく鳴っていたのですが、翌日耳につけたら切れていたんです。以前に使っていたイヤホンも断線したので、今度はリード線の太いものを意図的に選んだつもりでした。それなのに随分と早く切れちゃったなあというのが感想です。

 で調べたら、ちょうど二年半前に購入したものでした。7000円くらいで買いましたので、まあ消耗品だとすればこれくらいのモノでしょうか。毎日引張ったり、イヤホンの先にあるiPodをヌンチャクのように振り回したりといった(ウソですけど)ハードな使い方のせいか、いくら太いリード線でも保たなかったということかな?

 iPodには独特な形の白いイヤホンが付属しているのですが、それはわたくしの耳にはとても大きくてフィットしません。すぐに耳からはずれて落っこちてしまうのです。そのため、イヤーパッドを調節できて付け心地のよい密閉型のイヤホンを好みます。いろいろ調べた結果、今回もソニーの製品を選びました。今まではよい音を求めてそれなりの金額の製品にしましたが、断線がこのように続くと持ち歩くイヤホンに高額を費やすのはもったいなかろうということに気がつきました。

 ということでイヤホンを買うごとにその価格は下がってきて、今回はビックカメラで4500円で売っていたモノにしました。ドライバーとしてバランスド・アーマチェアっていうのを使っているエセ高級機を選びました。色がグリーンっていうのも気に入りました。よい音がするかどうかはまだ分かりません。しばらく鳴らして、馴染ませる必要があるからです。でも今のところ低音はあまり鳴りませんね。ボーカルはそこそこですが、たまたまiPodから流れてきたスクリャービンの交響曲は貧弱なオーケストラになっていました(ムーティがかわいそう‥‥)。


それでどうなるの? (2015年9月8日)

 朝日新聞に連載されていた漱石の「それから」が昨日終わりました。その前の「三四郎」は読んだことがあったので読みませんでしたが、「こころ」で肩透かしを食らったので「それから」はどうしようかなあと迷いましたが、読んだことがなかったこともあって結局完読しました。

 長井代助という、またもや高等遊民が主人公でした。日々なんにもせずに、月に一度だけ実業家の父から生活費等一切を受け取るという(現代においてすら信じられない)生活です。高等遊民らしく頭はよくて理屈はたつのですが、結局は親から自立できていないわけで、とても一人前の大人とはいえませんね。現代ではパラサイト・シングルに区分される人種のような感じをわたくしは受けました。

 で、最後まで読んでみて、そのあまりにも唐突な終わりかたにまたもやあぜんとしました。親兄弟から勘当されて、そのあとどうするのでしょうか。職業を探しに出かけるところで終わっていますが、それまでのらりくらりとへ理屈をつけて仕事しなかったひとが、いくら三千代と暮らすためとはいえ、それまでの信条を完全に放棄するなど高等遊民にあるまじき行為ですし、できるとも思えません。

 もちろんひとりの人間の揺れ動く心理を適格に描写したという点では、その当時(なんといっても百年前!)として画期的な小説だったのでしょうね。当時の生活習慣や都内の交通事情なども知ることができて、それなりに面白いところもありました。江戸川橋とか大曲(おおまがり)とかは、かつて新宿区に暮らしていたわたくしにとっては懐かしい地でもありますから。

 そうではあるのですが、少なくともわたくしにとって精神的に得られるものはなにもなかったと断言できます。「こころ」のときと同様ですが、主人公の代助に共感することは全くありませんでした。好きな女性と暮らすためには高等遊民としてのそれまでのポリシーを完全に破棄して、以降はパンのために生きるのだと代助が決意したとしたら、高等遊民ってそんな行き当りばったりの薄っぺらなものだったのか、ということになります。

 結局、「それから」には(少なくとも主人公を見ているだけでは)生きる希望のようなものが湧き出ないんですね。そのことがこの小説を読んだあとに徒労感を抱かせるようにわたくしには思えました。

 ところで「それから」には、“その時代助は‥‥”という文章が毎回と言ってよいくらい出て来るのですが(ちょっと大げさです)、最後までこの言い回しに慣れませんでした。読むたびに“その時代[じだい]、助は‥‥”という風に読めちゃうんですね〜。まあ、漱石とは相性が悪いということがよく分かりました。


ことしの大会2015 (2015年9月7日)

 建築学会の大会が終わりました。ことしは八月下旬から続くどんよりとした天候のせいで涼しかったので助かりました。例年の大会はだいたい暑く、さらに会場が遠かったりしてだいたい苦行になりますが、ことしはそれが緩和されてよかったなあと思います。ただ、スカッとした晴天には恵まれませんでしたから(二日めのお昼頃には陽がさしていましたが)、爽やかな気分というわけにはいきませんでした。

 今年の開催場所は東海大学湘南キャンパスでした。小田急線の「東海大学前」駅で下車します。わたくしにとっては小田急線一本で通うことができましたのでその点では楽でしたが、電車の前にバスに乗る必要があったためDoor-to-Door では二時間近くかかり、やっぱり遠いなあというのが感想です。

 東海大学湘南キャンパスには初めて行きました。事前の案内では駅からキャンパスまで徒歩で20分くらいとなっていましたが、実際に歩くと10分ちょっとでした。歩数も1200歩くらいでしたから大したことはありませんでした(ああ、よかった〜)。ただキャンパスは尾根の上にあるようなので、駅からはかなりな坂を登ってゆかねばなりません。駅のすぐそばから大学のランドマークであるタワーがよく見えました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ大会2015東海大学湘南キャンパス:P1010173.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ大会2015東海大学湘南キャンパス:P1010159.JPG

 そのタワーですが、キャンパスの1号館の真ん中から立ち上がっています(右の写真)。今回の大会で一番楽しみだったのは、建築家・山田守の設計した校舎等をこの目で見ることでした。彼の残した建物で最も有名なのは京都タワーと武道館(大きなタマネギ)でしょうか。山田守の設計した長沢浄水場(川崎市)を以前にこのページで紹介しました(こちら)が、山田守は逓信省(現在の郵政省)のお抱えだった最後の建築家として世に知られています。

 その1号館(1963年竣工)はY字状の平面を持つ鉄筋コンクリート(RC)校舎です。建物の各階の外周にぐるりと跳ね出したベランダが曲面を為すファサードと相まって水平のラインを強調しており、スッキリとしたモダン・デザインを現出しています。屋上には螺旋状のRC構造物が載っていて、さらにその上に赤い鉄骨の塔がそびえています。この塔の用途が何であるのか、わたくしは知りません。

 次の3号館(1966年竣工)では螺旋状のRC構造物に度肝を抜かれます(下左の写真)。水平線が強調されているものの、全体としてはキューブとシリンダーとで構成されるマッシブな建物だとわたくしは思います。10階建ての螺旋には外周をグルグル回るスロープとその内側には階段、エレベータそしてトイレが組み込まれていました。
説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ大会2015東海大学湘南キャンパス:P1010164.JPG   説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ大会2015東海大学湘南キャンパス:P1010177.JPG

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ大会2015東海大学湘南キャンパス:P1010187.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ大会2015東海大学湘南キャンパス:P1010191.JPG

 中心のエレベータは写真のような円筒形で、近未来的なイメージを醸し出しています。現在でも見かけないような形ですな。外周のスロープですが一層分を降りるのにちょうど60歩を要しました。わたくしは一番上までエレベータで昇り、それからこのスロープを歩いて降りてきましたので、しめて600歩です。結構な歩数だと思いませんか?(そんな物好きはいないでしょうけど、あははっ)

 さて、このスロープは現在では何の役目も果たしていません(竣工当時は屋上まで車で上がれたそうです)。そこには「スケートボード禁止!」という貼り紙がありましたが、てっぺんから滑り降りた剛の学生でもいたのでしょうか。もしそうだとしたらそのひとは相当な腕前、いや足さばき?だったんでしょうね。

 もうひとつ、松前会館(1966年竣工)という教職員用の宿泊施設も山田守の設計です。こちらは2階建ての小振りな建物ですが、やはり水平線が強調されていてコルビュジェのサボワ邸をちょっと彷彿とさせます。1階の一部がピロティになっていて、さらに2階はガラスのファサードになっているせいで2階が浮いているように見える秀逸なデザインです。

 ここで述べた建物はいずれも竣工後半世紀近く経っていますが、綺麗に手入れされて場合によっては耐震補強されて大事に使われていました。そういう姿を見ると、ここの大学のひとびとがこれらの建物に大いなる愛着をもって接しているのだろうということがよく分かります。幸せな建物たちだなと思いました。

 ながながと山田守の建築を見てきましたが、ちゃんと仕事もしてきました(当たり前です)。ことしはRC部門のパネル・ディスカッション(PD)でパネリストを務めました。会場はそんなに広くなかったこともあって、おおむね盛況だったように思います。討論のときにパネリストは壇上に坐るのですが、そのときにこっそり?撮ったものが下の写真です。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ大会2015東海大学湘南キャンパス:P1010172.JPG

 ことしのPDは千葉大学の和泉信之先生が企画して差配して下さいましたので、例年になく緻密で丁寧に仕込まれたPDとなりました。そもそもPDとは、パネリスト同士があるお題について討論するのが本来のあり方でしょうから、今回はその基本に回帰したと言えるでしょう。ただ、そのためフロアからの質問にはほとんどお答えすることができませんでした。質問を考えて下さった方には申し訳なかったと思います。主催者(って誰なんだろう?)になりかわってお詫びいたします。

 個別の発表では相変わらず質疑応答が低調なことが気になりました。特に若い研究者の皆さんにはどしどし質問して(場合によっては異議申し立てをして)自身の頭脳的な血肉になるよう、学会大会という先端研究者が一堂に会する場を有効に活用して欲しいものだと思います。

 ちなみに来年度の大会は8月24日から26日まで、福岡大学で開かれる予定です。


九月のこえ (2015年9月2日)

 九月になりました。八月末から涼しい日が続いており、ときにはうす暗くて肌寒いくらいの天候だったこともありました。この夏はいろいろなことがあってストレスが蓄積したせいか、とても調子が悪くてつらいです。この週末には建築学会大会がありますので、それまで静養したいと思っています。幸い夏休みはまだ三日取れますので。

 毎年のことですが九月になると、ことしも三分の二が終わったんだという感慨にひたります。これまで何をしてきたわけでもないのですが、卒論や修論の仕上げに向かった助走期間と捉えることができるでしょうね。我が社の学生諸君にはこれまでの蓄積を活かせるようにねじを巻き直して欲しいと思います。実りの秋が充実した季節となることを期待します。

 なお今年度はわたくしの科研費による実験が一シリーズ動いており、現在アシスで試験体を製作しているところです。主担当者はM1の苗思雨くんと卒論生の今村俊介くんです。我が社のM1は苗思雨くんひとりですので、実験担当者は自動的に彼に決まったようなものですが、研究の意義や目的をよく理解して試験体の設計に取り組んでくれたのでよかったです。面白い成果が得られるといいですね。

 それにしても2020年の東京オリンピックのエンブレム騒動にも驚きました。全くもってこんなにケチばかりついているオリンピックも珍しいのではないでしょうか。新国立競技場のことにしてもこのエンブレムにしても、物事を真剣に考えて進めるためのヘッド・クオーターの不在を強く感じます。誰かが考えてくれるだろうという前提であやふやなまま物事が進行した結果がこれでしょうな。

 いつも書いているように、これって戦前の日本軍部の体質と全く同じです。脈々と受け継がれてきた日本人のDNAが折に触れて浮かび上がってくるのですね。そのこと自体は日本人の特質でもあるのでどうしようもないのでしょうが、それを自ら認識してうまい方向にコトが進むように制御することは可能なはずですし、それが成熟した国民というものだと思います(まあ、まだまだ未熟という見方も否定しませんけど)。

 で、2020年東京オリンピックのエンブレムですが、テレビのニュースを見ていたら「1964年のときのものを使ったらどうか」というまちの声がありました。なるほど、こうなったらもうそれもあるんじゃないですかね。1964というところだけ2020に替えればいいんじゃないですか? スッキリしていて美しいですから。

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トンボ (2015年8月24日)

 今日はちょっと涼しくなってしのぎ易いですね、曇り空だし。お昼に大学のキャンパスを歩いていたら赤トンボが三頭飛んで行くのに出会いました。最近はトンボを見ることも減っているように感じます。蝉の鳴き声はまだ聞こえますが、それに混じって秋の虫たちの声も聞こえて来るようになりました。季節は確実に移ろっていることを実感します。

 来週末には建築学会の大会があります。ことしはパネル・ディスカッション(PD)の担当がありますので、そこで発表するスライド作りに腐心しています。原稿は既にありますからそれに則って作ればよいのですが、ライブの発表とペーパーに書いたものとは全く違いますからね。どうすればその場にいる聴衆の皆さまに分かっていただけるか、いかに分かり易い発表にするか、そういうことをうなりながら考えています。

 こうして発表用のコンテンツ作りには多大な時間を費やしますので、できれば学会のPDのパネリストは遠慮したいと思ったりもします。発表用のスライドは電車や飛行機の中で作ってきた、みたいなことをおっしゃる方がときどきおいでですが、すごいひとだなあとは思いますが、わたくし自身はとてもそんな真似はできません。

 でも、学会のPDで講演したいと思っても回りの方々がそれをお認め下さらないとできないわけでして、それを考えればご指名をいただいた私は果報者であるとも言えるんでしょうね。ありがたや〜ありがたや〜と思いながら、発表用のコンテンツを作ってゆくことにいたします。


ブルーベリー狩り2015 (2015年8月23日)

 ことしもブルーベリー狩りに行きました。と言っても歩いて七、八分のところにある富永農園ですけど、あははっ。でもその農園の前はよく通り過ぎるんですけど、わたくしがブルーベリー狩りに参加するのは実は初めてです。ブルーベリー狩りは木曜日と日曜日だけなので平日は行けませんし、朝早くいかないと入園できないので日曜日はいつも寝ていて家内と子どもだけが行っていたのです。ひとりにひとつづつバケツが手渡されてこれに摘んだブルーベリーを入れるのですが、そのバケツの個数で入場者数を管理しているんですね。

 ことしの夏休みはほとんど家族サービスできていないので、じゃあみんなで行くかということになったのでした。しかしこんなに身近でブルーベリー狩りできるなんて結構なことですな。フツーなら信州とか甲州とかにわざわざ出向かないといけないのですからね。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:ブルーベリー狩り2015:DSC01336.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:ブルーベリー狩り2015:DSC01327.JPG

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:ブルーベリー狩り2015:DSC01332.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:ブルーベリー狩り2015:DSC01317.JPG

 で、行ってみると既にたくさんの人たちが自転車や自家用車で続々と農園に吸い込まれているのが見えました。わざわざ遠くからもここを目当てに来るようです。富永さんは近在の大地主ですから土地だってた〜くさん持っておいでのようで、臨時の駐車場にも事欠かないのでした。

 さていよいよブルーベリー摘みのはじまりです。ブルーベリーにもいろいろと種類があるようですがこの日は家内の指示で「ノビリス」という樹種に向かいました。で、ブルーベリーの実ですが、ひとの背丈くらいの木に鈴なりに生っているんですねえ。ブドウのように鈴なりの一群のなかで、一番大きい実をひとつ摘むのが“お作法”らしいです。他人が摘んだ木には美味しい実は残っていない、とも言われました。

 最初は要領がよく分からずに小さい実ばかりを摘んじゃったようで子どもにしかられました。うちの子どもは大きい実を見つけるプロらしくて、富永農園の園主さんから褒められるくらいです。やっているうちにだんだん慣れてきて、しまいのほうではかなり大きな実をゲットできるようになりました。結構、夢中になって楽しめるものだということが分かりました。

 結局一時間ほどかけて三人で1.5キロほどゲットしました。摘みながら食べるのは御法度で、摘んだ分を買い取ります。100グラムあたり210円で、この日の摘果(って、こんな言葉ないかも?)は約3000円でした。家内によればそこで採れる蜂蜜も美味しいらしく、ことしの5月8日に採集された蜂蜜を一瓶買いました。スーパーで売っている蜂蜜よりもず〜っと美味しいですが、お値段もそれなりにはります。

 こうして自分で採ったブルーベリーをヨーグルトに入れて食べました。いやあ、労働のあとのブルーベリーって、またひとしおですなあ。味はまあまあかなと(正直なところ)思いますが、まあ家族みんなで楽しんだ成果ですので良しとしましょう。


やっぱり来た (2015年8月18日)

 きょうから大学院博士前期課程入試が始まりました。ことしは我が社を希望する方は激減してほとんどいないようなので、来年度以降の研究室の体制には不安を感じます。十年くらい前と同じレベルに戻りそうです。ここのところ就職戦線が好調なので大学院進学希望者が減るのも分かりますが、大学院でもっと勉強しよう、研究しようという意欲のある学生さんが減っているのはやっぱりちょっと残念ですね。

 さて先日、学会論文の査読のお話しを書いて、査読の依頼はできるだけ断らないと宣言しましたが、そろそろ来るんじゃないかと恐れていたアメリカの某学会からの査読依頼が舞い込みました。ここ数回は例によって「Declined」のボタンを押していたのですが、今回は我が社の論文を投稿していることもあって、そう無碍に査読を拒否できないと思って(渋々ながら)引き受けました。

 でもこの学会に投稿される論文の原稿は長いことが多くて、それに怯えていたのですが、案の定印刷してみるとなんと44ページもありました。英文がシングル・スペースで打ち出され、図表も各々一ページに印刷されることもありますが、それでも長いです。へんな英語だとイヤだなあとか思いながら、これからその論文を査読するんでしょうねえ。まあGive & Take ですから、いたしかたありません。


表明しない (2015年8月15日)

 七十年前「あの戦争」に敗れた日がやって参りました。あの日と同じ(って、勿論直接に知るわけはありませんけど..)、かんかん照りの陽射しです。土曜日ですので自宅で正午を迎えました。市の街頭スピーカーからアナウンスがあったので正午になったことを知りました。ちょうど子どもと一緒に夏休みの宿題をやっていたので(余談ですが、夏休みの宿題ってこんなに大変でしたっけ?)、その手を休めて子どもと一緒に黙祷をいたしました。ただ小学生の子どもにはその意義を理解するのはまだ難しいようです。

 さてA倍首相の「首相談話」が出ました。ネットの録画で二十五分に近い談話表明を全て見ましたが、まず抱いたのは相当に情緒的だなという印象です。そういう部分が相当に長いので談話自体が長くなったと思いました。次に、この談話は百年前の歴史から説き起こされていますが、それがどうにもひと事のように聞こえてしまい、当時の日本が少なくとも一方の当事者であったという認識は感じられませんでしたね。

 侵略やおわびの表明については既に多くの方が論評している通り、それらの単語は発せられましたがそれらは一般論であったり過去形であったりして、A倍首相自身の考えは明らかにされませんでした。侵略はいけないことだし、歴代内閣のおわびの姿勢は「今後も揺るぎない」と発言しているのに、なぜ首相本人もそう考えると明言しなかったのでしょうか。そのことが残念ですがうがった見方をすれば、公にはそう言わざるを得ないがA倍首相自身はそう考えていないと解釈されても仕方がないでしょう。

 中途半端だし、先に情緒的と書いたようにそういう修飾的な文言が散りばめられたのが目立って、結局誰に向かってなにを言いたかったのか、けむに巻かれてあいまいなままに終わってしまったというのがわたくしの感想です。

 ただ、中国の人びと等の寛容さに対して感謝の念を明瞭に述べたことは良かったと思います。そうした認識がベースにあれば近隣諸国との関係ももっと上手くゆくはずだと考えますので、政府にはそうなるように具体に行動して欲しいものです。


発表されるものは‥ (2015年8月14日 その2)

 終戦記念日の前日である今夕、A倍首相の「首相談話」が発表されるそうです。アジア諸国に対する侵略の事実を直視して、率直なおわびの言葉を発するかどうかを世界が注目しています。平和を指向し成熟した日本の最高責任者として、個人的な思いに基づくことなくコスモポリタンとしての談話を表明されることを期待します。


割り振る 〜論文集委員会のお仕事〜(2015年8月14日)

 学会のお仕事のはなしです。ことしの六月から論文集委員会の委員を仰せつかりました。構造本委員会で委員の選定をするのですが、幹事の塩原等先生が「RC部門からは北山さんにお願いします」と言われたのです。わたくしはその場には原子力建築運営委員会の代表として出ているのですが、RC構造運営委員会にも所属していますので塩原兄貴の指令に抗うわけにもゆかず、その場でハイハイとお引き受けしました。

 で、そのお仕事ですが(研究者のかたはご承知でしょうが)、学会の論文集(いわゆる黄表紙と呼ばれるもの)に投稿された論文の査読者を決定して査読を依頼し、その結果を取りまとめて採否案を作成する、というのが主要なものです。建築学会の場合には論文一編につき二名の査読者を割り振り、その結果によっては第三の査読者に依頼するといった手続きに従って作業を進めます。

 そういった作業は基本的にはネット上で進めることができます。昔のように紙の論文を査読者宛に郵送することはないし、査読結果を用紙に記入して返送してもらうこともありません。そういう点では格段に進歩して便利になりました。

 でも委員になってみて分かったのですが、ネット・ベースだと二十四時間いつでも仕事できるし(べつに仕事したいわけではありませんよ)、いろいろな通知や案内が電子メールで届くのですが、それらも時を選ばずに四六時中来るんですねえ。これにはちょっと辟易となります。

 皆さんご承知のように査読論文を執筆して掲載してもらうというのは研究者の主要なお仕事です。また博士の学位を取得するためには、建築学会の論文集に○編以上の論文を採択されていること、のような条件を課す大学が多いので、大袈裟にいえば投稿者の人生がかかっている場合もあるでしょう。

 そのため、電子メールを通してやってくる通知を放ったらかしておくと、そのせいで論文の採否の通知が遅れて投稿者の不利益につながる、ということが起こりかねません。それは非常にまずいことなので、(いつ来るか分からない通知メールに対して)かなりのストレスを常に与えられているような気がします。なんせわたくしは気が弱いですから、あははっ。

 もうひとつ、査読者を決定するためには投稿された論文をザッと見て、相応しい査読者を二人以上選定する必要がありますが、それはほぼ委員の裁量に任されている、ということが分かりました。この内容ならあのひとだなあ、とかすぐに思い浮かべばVery Good なのですが、いつもそうとは限りません。それに同じひとに何編も査読を依頼することは避けなければなりません。さらに言うとファミリアな分野ならいざ知らず、不案内の分野の論文の担当になったりすると、査読者を選ぶのに四苦八苦します。すなわち査読者選びは相当苦労する仕事だったのです。

 そうやって苦労して選定した査読者ですから、そのかたから査読はやだよというお返事をいただいたときには相当にガックリきます。現在のシステムでは査読の諾否はメール上のボタンを押すだけで簡単に返答できるようになっています。査読したくないときには、あれこれ悩まずに「今回は辞退」と書かれたマイルドなボタンを押しゃいいんです、こりゃ便利だとか言いながら‥。

 しかしながらかく言うわたくし自身、以前は査読辞退のボタンを気軽にポチッと押しまくっていたのでした、その陰には泣いているひと(論文集委員のことです)がいるということに気づくこともなく。そういうわけで、今後は査読の辞退はよくよくの場合に限ろうと自省した次第でございます(本当かあという声が聞こえてきますが、はいホントです)。

 最後に査読してくださる皆さまにお願いがあります。それは査読のルールをよく理解して頂きたいということです。例えば再査読になって修正された論文をもう一度査読した際の判定は、「採用」か「不採用」の二種類だけです。ところがここでさらに「再査読」という判定をされる方が少なからずいるということに最近気がつきました。それは建築学会ではルール違反です。それを認めると、何度修正しても「再査読」が続いていつまでたっても論文集に掲載されない、という(恐ろしい)事態が惹起するためだと愚考します。

 こんなわけで日夜、査読に関する何らかの仕事をしている今日この頃です。これを読んだ建築学会員のあなた、もう査読の依頼を断るなんてことは当然ながらないですよね?(って、半分冗談で半分は本気ですけど‥)。じゃあ、皆さまのご協力をよろしくお願いします。ちなみにこんなことを書いていいのかとお思いかも知れませんが、論文集委員会の委員氏名は黄表紙の一枚めのうら側にちゃんと明記されています。


侵略の系譜 (2015年8月13日)

 今朝は雨降りということもあってちょっと涼しい空気を感じます。蝉の声も心なしか控えめなような気がします。

 もうすぐ「あの戦争」が終わった日がやって来ます。ことしは戦後70年の節目の年と言われていますが、単にキリのいい数字というだけでたいした意味はないと思います。また時々口の端にのぼる「もはや戦後ではない」という言説は誤った認識で、「あの戦争」の結果としてこの国を覆った不条理が今でも拭い難く存在し続けていることは折に触れてこのページで述べている通りです。

 さて「あの戦争」に対する認識ですが、それは明確な侵略であったと中曽根元首相が明言したと報道されました。この方は主計畑とはいえ帝国海軍の将校だったひとですし、自民党の生き字引みたいな方ですから、そのひとが侵略であると明言した事実は(政権の要路にあるひとびとにとっては)重いでしょうね。

 でも、それってフツーの感覚をもった日本人ならば誰でも認識している事柄ではないでしょうか。日本帝国による朝鮮半島の併合と満州国の設立が侵略でないとするならば、なんでもアリの無法な世界が現出してしまいますな。そんな当たり前の事実すら認識しようとしない、あるいはくどくど言わないと分からないわが国の政治家とはいったい何者なのか。

 自己がかつて為したことを率直に認めようとしないのは、将来それと同じ道をひと無き野を行くが如く再び歩まんと目論んでいるためではないのか、と思われても仕方がありません。原発を維持しようとするのも、いつの日にか日本において核武装を実現せんとするための準備であると邪推したくもなろうというものです(そんなふうに原発のことを思いたくはありませんけど,,,)。痛くもない腹を世界中からさぐられることはわが国の国益にも反すると思います。

 結局、残念ながらこの国には侵略の系譜が脈々と生き続けてきたと考えざるを得ません。個々の人びとがどのように考えて行動しようとそれは自由ですが、市井のひとびとを巻き込んで誤った方向に国を引張ることはご免蒙ります。それこそ我々の父祖がかつてたどった悲しい歴史だったのですから。


リスクの再認識 (2015年8月12日)

 鹿児島にある川内原発が再稼働しました。最新の技術と知見とに基づいて安全であると判断された結果でしょう。放射能漏れさえなければクリーンなエネルギーなわけですから、安全に運転されれば問題はないわけです。想定外の事象に備えたり、万一の際の避難計画を万全のものにするなどはもちろん重要なことがらであり、それらに対してはこれからも不断の努力を継続しなければなりません。

 朝日新聞は例によって原発再稼働に対して否定的な論調で、「事故が起こりうるリスクを抱えた社会に戻ることを意味する」と書いています。それはまさにその通りであって異論はありません。安全神話によりかかることなく「社会が事故のリスクを直視し続ける」というのも首肯します。

 しかしその論調にはある重大な事実を故意に無視しているような“匂い”を感じてしまいます。それは科学技術の進歩にともなってこれだけ複雑になった現代にはリスクのない社会など存在し得ないということです。人間が産み出した自動車や飛行機、機械などどれをとっても事故を起こす確率をゼロにすることは不可能です。人間が居住する建物も想定した以上の地震動を受ければやがては破壊されることになります。すなわち人間が現代文明の恩恵を享受する限りにおいて、なにがしかのリスクもまた引き受けざるを得ないのです。

 このように事故や災害が生じるリスクは多かれ少なかれ現代社会には存在していることを直視しなければなりません。それが嫌ならば電気も水道もない原始的な生活に戻らざるを得ません。しかしながら原始時代の人間だって平原を歩いていてライオンに襲われるとか、木の実を採ろうとして木から落ちるとか、生命を維持するための活動にはそれなりのリスクが伴っていたはずです。

 すなわち人間が生きていくということ自体がリスクを伴うわけですから、そのことは正しく認識する必要があると思いますね。そのうえでそれらのリスクをできるだけ軽減して、事故や災害の発生する確率を小さくするように人智を重ねる。それが現代の文明に生きるわれわれ人間に必要なことではないでしょうか。自然エネルギーを効率よく安定的にかつそれなりの価格で供給できるようになるまでは、「禁断の火」である原子力といえども上手に使いこなしてゆくことが人間の叡智というものだと考えます。


今年のお盆2015 (2015年8月11日)

 先週に較べれば暑さがやわらいだような気がしますが、それでも暑いことに変わりはありません。京王線・南大沢駅を降りて研究室まで歩くあいだに蝉の屍骸をそこかしこに見かけるようになりました。長い雌伏の暮らしを終えて世に出て、お役目を終えた蝉たち‥‥。それらの屍骸をみると夏が確実に過ぎてゆくことをわたくしは実感します。皆さんはいかがでしょうか。

 さて毎年お盆のこの時期に大学院の『鉄筋コンクリート構造特論』のレポートを採点していますが、ことしもその例に漏れずたったいま、その採点が終わったところです。この授業はM1対象ですが、今年度は我が社の社員は一名だけでおまけに芳村研にはM1はいません。そういうせいもあって、せっかく鉄筋コンクリート構造の構成原理を説明しても、そのようなプリミティブかつ研究オリエンティッドな内容に興味がある学生はほとんどいなかった、というのがレポートの出来を見て再確認できました。昨年度と比較して明らかにレベルは落ちていましたから。

 今年度の大学院の授業では例題を格段に増やすなど、学生諸君の理解度を高めるための工夫をこらしたつもりですが、前述したような基礎的な話題は面白味がなかったということでしょうな。構造系の他の研究室の学生諸君にとっては構造設計オリエンティッドな内容のほうがいいのかも知れません。でもそういう内容は『耐震構造特論』で用意していますから、どうしたもんかなあと思ってしまいます。

 来年度以降のことですが、『鉄筋コンクリート構造特論』で教授する内容をもっと少なくして、その分、演習や例題説明の時間に当てることも考えています。わたくしが学生諸君に課したレポートでは計算結果と実験結果とを比較して自分自身で考察することを促したのですが、そういう思考を披瀝できたひとはほとんどいませんでした。自分で考えなさいと言ってもできないのか、それともサボっているのか分かりませんが、とにかく手応えのないレポートを見ることほど味気ないものはありませんからね。

 いつも書いているようにレポートの採点は大変ですから、いっそのこともっと簡単な計算問題くらいの出題にして機械的に採点できるようにしようかなあとも思います。でもそれって(世の潮流である)アクティブ・ラーニングとは正反対の方向性ですから、さすがに躊躇しますなあ。もっとも荒川式を計算できないひとは例年いますから、構造設計の実務を考えれば計算問題でも十分なのかも知れません。それじゃあ、なんのための大学なのか分かりませんけど‥‥。


夏休みの宿題 〜釘をうつ〜 (2015年8月10日)

 夏の盛りですが、子どもの夏休みもあと二週間ちょっとになりました。昨年に続いてことしも自由工作をなんとかするのが父親の勤めと女房殿から言われて(本当なんでしょうか?)、どうしたものかとあれこれ悩んだり調べたりしました。昨年はゲルマニウム・ラジオを作ったものの残念な顛末で、憂鬱を満喫した(使い方が間違っていますな)ので、ことしは胸を張って学校(って、もちろん子どもの小学校のことですゾ)に持って行けるものでなければなりません。

 結論として今年は木工作にトライしてみることにしました。これなら先が見えているし、わたくしにとっては昔取った杵づかで与し易しと考えたからです。最初は定番の本棚にしようと思ったのですが、子どもに聞くとプラモデルを飾る棚がいいというので、それを作ることにしました。

 まず設計図を作ります(単なるフリー・ハンドで描いたものですけど)。子どもがプラモデルの寸法を測ってきて、それをもとにサイズを決めました。部材数はたったの五枚です(下板、天板、側板二枚および背板)。う〜ん、簡単そうでGoodですな。

 それを持って近所のユニディに行ってファルカタ集成材の板一枚(厚さ13mm)、水性ニス、ハケ、釘、紙ヤスリ、それに子どもが握りやすい小さなノコギリを買ってきました。どれもたいしたものではないのですが、それでも三千円ほどの出費です。ファルカタ集成材というのはネットに載っていたのですが、比較的切り易い木材だそうです。

 さて、いよいよ作製開始です。始めに一枚の板から必要な部材を切り出すのですが、ここでわたくしが見積もりをミスしたことが発覚しました。どうしたわけか部材の一枚をカウントするのを忘れたのです(暑くてボーッとしていたのでしょうか)。あちゃ〜って感じでショックでしたが、子どもと相談すると棚の寸法を少し小さくしても大丈夫ということでしたので、事なきを得てホッと一安心です。

 で、板上に書いた線に沿ってノコギリを挽いてゆきました。最初は屋外で作業したのですがものすごい暑さにやられて、すぐに屋内作業に切り替えました。さて、自分の手でノコギリを引くとどうしても切り口は多少でこぼこします。おまけに40cmを切ろうとするとかなりな時間を要します。結局、全工程のなかでノコギリ挽きが一番大変でした。もちろん子どももやりましたが、だんだんと慣れてうまく挽けるようになりました。

 次は紙ヤスリ掛けです。初めは120番で粗磨きして、そのあと400番で仕上げ磨きです。わたくしも経験があるのですが、紙ヤスリを丁寧にかけると木材の表面がツルツルになって気持ちがいいんですね。そのことは子どもも知っていて、このヤスリがけが一番楽しいって言って、からだじゅう削りカスだらけにしてやっていました。

 それが終わると今度はニス塗りです。油性にすると扱いが面倒なので水性のニスを選びました。木材の白い地肌はそのままにしたかったので(って、全てわたくしの好みですけど)、透明のニスにしました。二度塗りしたのですが、乾かすのに一時間かかりますので、そのあいだはテレビで高校野球を見ていました。ムラのないように塗るのが小学生にはまだ難しかったようでした。

 ここまでで既に夕方です。でも子どもは早く完成させたくて“作ろうよ”攻撃です。最後は釘を打って組み立てるのですが、釘を打つ位置は慎重にマークする必要がありますので、その部分はわたくしがやりました。また、キリで下穴を開けてあげました。そうすれば釘がズレたり斜めになったりすることをかなり防げます。金槌で釘を打つ作業は子どもにとっては初めてだったそうですが、ゆっくりやらせたこともあり上手にできました。

Homework_in2015

 こうして丸一日かけて夏休みの工作が終わりました。ことしは子どもも大喜びで楽しかったと言っています。これなら学校に持って行けるということみたいです。わたくしも久しぶりに工作して楽しめましたがなに事も準備は面倒なので、早いところ子どもが自分でやれるようになって欲しいなあ、などと思うオトーサンなのでした。


照りつける (2015年8月7日)

 とても暑い日々が続いています。焼けるような太陽がネットリとした油のような感触の空気をもたらしていて、外に出るだけで汗が噴き出してきますね。わたくしなどは普段は冷房の効いた涼しい室内で仕事しているので恵まれているでしょう。その反動かどうか分かりませんが、学外に出かけるために炎天下をちょっと歩くだけで体力を相当に消耗するのが分かります。そんな屋外にいるだけで、ボーッとして思考力が鈍ることを実感しますのでちょっと怖いです。

 テレビ等の報道では日本のどこかで連日38度超えとか40度直前の気温に達したことを伝えています。そんな日々が一週間も続けば確かに異常なような気もします。それでも、それくらい暑い日は昔にも時々はあったのではないでしょうか。

 現代では科学技術の進歩によって気温の測定の精度も上がったでしょうし、国内の測定ポイントの箇所数自体が飛躍的に増大していると思います。すなわち昔はああ、暑い日だなと思ってもそれはその地域の人びとが体感するだけで、全国ネットで気温情報が集約されるようなことはなかったので、報道されることもなかっただけ、ということです。どうでしょうか。

 などと妄想(?)したところで自分のいる場所が涼しくなるわけでもなく、やっぱり夏は暑いモノなんだと思って、ここしばらくは遣り過ごすしかないのでしょうね。来週はお盆ですのでお休みの方も多いでしょう。熱中症には注意してこの夏を乗り切りましょうや、ご同輩。



釜山より来る (2015年8月3日)

 八朔の土曜日に本学・国際交流会館でアジア高度研究のワークショップが開かれ、ゲスト・クリティークとして釜山大学校工科大学教授・李 祥浩[イ・サンホ]先生にお願いして来日していただきました。一年で最も暑い時期に僻遠の八王子までお出でいただき、誠にありがとうございます。

 このページをご覧の方なら既にご承知でしょうが、李祥浩先生は小職の研究室の初代助手として二十年前に本学の前身である東京都立大学に着任されました。李祥浩さんとは彼が大学院生の頃から一緒に実験をしたりしてよく知っていましたし、1994年末に発生した三陸はるか沖地震の際には年が明けた正月早々、八戸での地震被害調査をともに実施したこともよく憶えています。

 そういうご縁があって1995年に本学に来ていただきましたが、幸運にも母校で教職を得て母国に帰ってゆかれました。近年になって彼のお弟子さんの宋性勳[ソン・スンフン]さんに本学の大学院博士後期課程への進学を勧めていただき、宋さんの本学での約二年間の研究成果を発表するこの日のワークショップに至りました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:アジア高度研究ワークショップTMU2015:P1010133.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:アジア高度研究ワークショップTMU2015:P1010134.JPG

 左の写真は発表する宋性勳さん、右はその研究発表に対してコメントする李祥浩先生です。宋性勳さんは上手に発表できました。それに対する李祥浩先生のコメントはかなり厳しいものもありましたが、そこには愛弟子に対する愛情がこもっていましたね。李祥浩先生からは的確な指摘をいただき、これからの研究の方向性を示していただきました。宋性勳さんにとってもとても有益な時間だったと思います。

 慌ただしいスケジュールで申し訳なかったのですが、久しぶりに再会できてとても嬉しかったです。釜山では大規模振動台の維持やそれを用いた実験等にご苦労されていることを伺いました。実験することの大変さは韓国も日本も同じであることを認識いたしました。そういうなかで今後も大いに活躍して欲しいと思っています。いつかはわたくしが今度は釜山を訪ねようと思いますので、その際はどうぞよろしく。

 大型構造物実験棟での記念写真を載せておきます。これは特任助教の晋沂雄[ジン・キウン]さんに撮ってもらいました。思えば李祥浩さんから数えて五代めの助教をまた韓国の方に務めていただいているのもなにかの縁かも知れません。晋沂雄さんもいまでは我が社にすっかり馴染んで、本学での研究・教育活動に重要な役割を果たしてもらっています。さらなる活躍を期待しています。

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写真 李祥浩先生来学記念(左から北山、李祥浩先生、宋性勳さん)

 なおこのワークショップは学長補佐である吉川徹教授(都市計画学)が全てを差配してくださり、発表会から懇親会まで彼のお陰で滞りなく実施することができました。吉川徹先生からいただいた様々なご配慮(宋さんの発表に対して質問もいただきました)には本当に感謝しています。学内運営等で忙しいなか大変だったと思います。この場を借りてあつく御礼申し上げます。


立て直す 〜裏方 新国立競技場〜(2015年7月31日)

 新国立競技場を巡る混乱ですが、新国立競技場整備の担当部署である文科省のスポーツ・青少年局の局長が辞任することになったそうです。その方にとっては大いに不本意でしょうが、組織を守るためにはやむを得ないという判断があったのでしょうか。でもお役人様は裏方ですから、そのトップの詰め腹を切って済む話しでもないような気がします。今までの諸々の決定をなしてきた政治家とか関係する団体のトップとかにはなんの責任もないのかと言えば、とてもそうは思えません。

 で、文科省のその部署の後任局長は火中の栗を拾うような損な役回りで気の毒だなあとか思いつつ、新たに発令されたひとの名前を見て驚きました。日本ではありふれた姓なのですが、そのしたの名前にはフリガナが振ってあって思い出しました。それは同じ高校出身で、大学の教養学部では同じクラスだったミチヤスだったのです。これはファースト・ネームですが、高校でも大学でも大方はこの名前で呼ばれていました。

 ミチヤスとは高校では接点はありませんでしたが、如才ないというか頭がすごくよかったのでしょうが、ひと当たりもよくて学内では結構な有名人でした。で、駒場では偶然にも同じクラス(55SI5Dというフランス語未修クラス)になったので一緒に生協委員をやったりしたことを憶えています。ただ彼はその後、文系の学部に進学した(?違っているかも知れません)せいもあって以降は疎遠になりました。大学を卒業してから町田大輔くんの結婚式の司会をミチヤスがやったときに会っただけです。

 そのひとの名前を思いがけないところで見かけたという次第です。火中の栗とか貧乏くじとか思いましたが、ミチヤスならうまくドライブして立て直せるかも知れません。もともと優秀だったわけですし、頭の良さと人当たりの柔らかさとが当時のままだとすれば、ちょっとした政治家だったらうまく御せるのではないか、とも思います。新国立競技場の問題で事務方がおもてに出ることはまずないでしょうが、裏方として活躍してくれることを期待しています。


避難する (2015年7月28日)

 昨日、電力のピークカットによって冷房の効きが悪くなったと書きましたが、さすがにたまらなくなって避難(避暑?)することにしました。たまたま学校の健康診断が始まっていましたので、その会場である本部棟なら冷房が効いているだろうと考えたのです(何といってもそこには学長先生が鎮座ましましているのですからね)。

 ちなみに本部棟までは結構遠いです。同じキャンパス内といっても多摩の尾根筋に広がる校内は広くて、歩いて七、八分はかかります。で、午後3時前に健康診断の会場に入ったのですが、誰もいませんでした。貸し切り状態です。担当のひと達が手持ち無沙汰で待っていて、わたくしはそれこそベルト・コンベアに載せられたように右から左へと流れてゆきました。

 ちなみに冷房の効きはまあまあでしたが、わたくしの研究室よりはよかったです。健康診断では心電図の測定で嬉しくないコメントをいただいて、ちょっとイヤ〜な感じを受けました。人間、半世紀以上生きていればそりゃいろいろあるだろうなと思いますが、自分で対処できないことを言われてもちょっと困りますね。


本末転倒では? (2015年7月27日)

 猛暑のせいで、お昼過ぎに本学(南大沢キャンパス)の使用電力が規定の上限値を超えたそうで、冷房の効きが悪くなってきました。東京電力との契約上、仕方が無いのかも知れませんが、そんなに消費エネルギー量を節約することが大切なのでしょうか。

 冷房は人間の健康を損なわないためにこそ使われるべき文明の利器です(毎夏、同じことを書いていて恐縮です)。そういう本来の使用目的よりもエネルギー節約が優先されるべきとは到底思えませんけど,,,。節電の目標を設定するのは結構ですし、そのために不要不急の電気機器を動かさないことには賛同できます。でも、人間の健康に関わる冷房は別格ではないでしょうか。

 最近ではテレビ等の報道でも冷房を上手に使いましょう、と言うようになってきました。それが当然のことなのですが、2011年の東北地方太平洋沖地震での原発事故以来、節電行為が間違った方向に進み過ぎたように思います。必要な電気を使うことに後ろめたさを感じる必要はないし、正々堂々と使えばよいのです。

 こう言うと一部のひとからは痛烈に批判されそうですがそれ自体がおかしいのであって、自分の健康を犠牲にするなど愚の骨頂であると強く言いたいですね。自分の身は自分で守るように行動しましょう(とは言え、この状況の大学内でできることはあまりありませんけど,,,。暑いよ〜)。


夏雲ひろがる (2015年7月24日 その2)

 今日は補講日なので学生さんが少ないかなと思って、生協にお昼ご飯を食べに行きました。予想通り空いていてよかったです。久しぶりに生協食堂に行ったのですがレイアウトが変わっていました。いろいろと試してみるのはよいことでしょう。

 キャンパス内はものすごい暑さで、熱風が道路からたち昇って来るような感じでした。ふと、天を見上げると夏の雲がモクモクと立ち上がっていて、その下を米軍の輸送機が一機、横田基地に向かって飛んで行きました。

 基礎ゼミナールは終わりましたが、構造力学1の期末テストは来週です。そのためキャンパスは七月末までは学生さんで賑わうことでしょうね。暑いなか、皆さんご苦労なことです。


15億円 〜仰天 新国立競技場〜(2015年7月24日)

 新国立競技場の話題はまだまだ続きます。振り出しに戻った設計ですが見直される対象のザハ・ハディド案に対して、今までに約15億円が支払われたと報道されています。それを聞いて、建築設計の実務に携わったことのないわたくしは結構驚きましたな。だって、最高権力者の元首相が手のひらを返すように「生ガキみたいなデザインで好きじゃない」と言った、あのパース(完成予想図のこと)しか実際のブツとして一般に提示されたものはなかったことを思い出して下さいよ。あれだけで15億円なのか、と。

 もともとの国際コンペでどの程度の図面が要求されたのか、わたくしは存じません。いくらなんでも世間に流布したあのパースだけ、ということはないと思いますが、構造設計や詳細な検討が為されたとは思えません(そういうことをしていればこれだけの騒動にはなりませんから)。いずれにせよ基本的なデザインだけが提示されたというレベルだと想定すると、それに対して15億円はあまりにも高額だと思いませんか。少なくとも市井の人びとが聞いたら仰天するんじゃないでしょうか。

 で、昨日建築都市コースの会議があったときにお隣にいらした小林克弘先生(建築家で教授です)に15億円って高くありませんかと単刀直入に聞いてみました。その問いには直接お答えにはなられませんでしたが、当初の建設費が1300億円だったとするとその1%が報酬だとしても13億円になりますね、とおっしゃったのです。

 そうでした、建築家に設計を依頼したときの報酬の常識的な数値を忘れていました。通常の建物で設計から監理まで請け負うと総工費の約7%から15%程度が建築家への報酬として支払われます(それはもちろん契約によって決定されます)。今回のザハ・ハディドの場合にはその提案がアイディア・レベルに留まっていたので、上記の7%という数値よりもかなり低くなると考えられます。そう考えると15億円は総工費の1%ちょっとということなので、建築業界では抵抗なく受け入れられる(あるいは安過ぎる?)と評価される金額なのかも知れません。

 今度の問題があまりにも人口に膾炙したので15億円は高額だと感じられるのでしょうが、建築業界では必ずしもそうではないとすると、それはそれで一般的な通念からあまりにも逸脱していると批判されそうな気がします。建築設計がきわめて知的な作業であって、それに見合った報酬が決められているということをもっとちゃんと世間に対して説明したほうがよろしいかと思いますが、いかがでしょうか。少なくともそんな非難が湧き起こらないうちに手を打っておくべきだと思いますけどね(大きなお世話かも?)。

 いずれにしてもずさんな計画と責任者不在のツケが既にして数十億円のムダとなって噴出しているのです。結局は国民の血肉たる税金でまかなわざるを得ないのでしょうが、容易に納得できるしろものではありません。


基礎ゼミナール2015 ファイナル (2015年7月23日)

 暑さの厳しい夕方の教室で(って、もちろん冷房は入っていますが)、わたくしの裁量するある前期科目が終わりました。いやあ、嬉しかったですね〜。その科目こそ、四月から折に触れて報告してきた一年生必修科目の『基礎ゼミナール』です。学生諸君にとっては読書から始まって調査の実施からレポート作成、そしてプレゼンテーション&議論と息つく間もないハードな授業だったと思います(もっともそれは教師たるわたくしも同前ですけどね)。お疲れさまでした。

 自己の論理的な思考を他人に正確に伝えて理解してもらうために、プレゼンテーションや討論が重要であることを身をもって体験し、これからの学究生活に役立て欲しいというのが大学教師たるわれわれの意図でした。彼女ら/彼らにはそのことを少しは肌で感じて貰えたのではないかと、授業が終わった今、多少の安息感にひたりながら思い返しています。

 今年度は22名の学生諸君が履修してくれました。先週と今週に最終発表を行いましたが、脱落者を出すことなくここまでこれたことを喜びたいと思います(昨年度は残念ながら数名の脱落者がありましたから)。

 その最終発表ですが皆さんそれぞれに工夫を凝らして、全体的に高いレベルの発表が続きました。で、ことしも教師であるわたくしと学生諸君とがそれぞれBest Presentation Award を選びましたが、わたくしの採点は(昨年度とはうって変わって)上位レベルに団子状態になっていて、ひとりだけ選ぶのは難しいと感じたのが実情でした。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:基礎ゼミナール2015:20150722最終回:P1010109.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:基礎ゼミナール2015:20150722最終回:P1010104.JPG

 それでもせっかく賞品も準備して来たので、三名の学生さんに優秀発表賞を差し上げました。ちなみに今年度はわたくしの選んだ一位のひとと学生諸君が選んだそれとが一致しませんでした。ただその三名がいずれも女性だったことはちょっと驚きでしたね。履修者数は女性のほうが多かったのは事実ですが、それでも男性陣にもうちょっと頑張って欲しかったな。

 この半年を振り返ると今年度は討論もそれなりに成り立ちましたし、教室内の雰囲気も(感覚的な表現で申し訳ありませんが)こなれた感じで、スムーズに授業を進めることができたと思います。これはひとえに学生諸君の受講態度のお陰ですので、学生の皆さんには大いに感謝しています。もちろんそうなるようにこちらも工夫を凝らしましたが、笛吹けど踊らずというのは昨年度に体験していましたから、“踊って”くれた皆さんにはホント助けてもらったと感じています。

 こんな感じでわたくし自身は達成感にひたっていますが、受講した皆さんはどうだったでしょうか。願わくばこのゼミナールで学んだことをこれからの大学での学習や研究に役立ててほしいものです。

 ちなみにこの日は11名の発表のあとに授業評価をやってもらい、そのあいだにこちらは学生諸君の採点結果をパソコンに打ち込んで集計し、表彰するという盛りだくさんの内容でした。そのため午後4時10分の講義時間内には終わらずに結局午後5時過ぎまでかかってしまいました。これだけ延長したのでご迷惑をおかけした学生さんもいたようです、ごめんなさい。そのせいで最後の記念撮影に写っていないひとが数名います(相当に残念でしたが、しかたありませんね)。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:基礎ゼミナール2015:20150722最終回:P1010113.JPG

 そうそう、この授業は教師にとってもハードですので大学当局がティーチング・アシスタント(TA)をつけてくれます。で、昨年と今年は我が社の大学院生の星野和也くんにお願いしました。特に今年度は二年めということもあって様子が分かった星野くんにかなりの部分を任せることができて、わたくしも気分的に楽に授業ができました。そういう訳で星野くんにも感謝しています。

 ただ、残念というべきかどうか、彼は来年三月には大学院を修了して就職しちゃいますので、来年度のTAをどうするかは今から悩ましい問題です。星野くんには就職先から派遣してもらって来年もTAをやってくれよと頼んでいますが、どうですかね(って冗談ですよ、あははっ)。

 ではこれでことしの『基礎ゼミナール』通信を終わります。学生諸君による授業評価の結果が出たらそれを参考にしながら、来年度の授業内容を再度検討しようと思っています。なにごとも修練あるのみ、ですな。


夏きたる (2015年7月22日)

 台風が去った途端に梅雨があけ、夏がやって来ました。この週末はもう典型的な夏空が広がってほんとうに暑かったですね。子どもの学校も1学期が終わって、ながい夏休みに入りました。あれがしたい、あそこに行きたいといろいろと計画を練っているようですが、家でテレビ・ゲームばかりやっているのではないかと家内は危惧しています。

 終業式の日には通信簿をもらって帰ってきます。子どもに見せてみろといっても、なかなか見せようとしません。うちの学校は三段階評価ですが、見てみると多くは中間のグレードにマークされていました。子ども心にもまずいと思ったのかな?

 でも通信欄には担任の先生からのコメントがきれいなワープロ打ちでびっしり書かれていました。おおかたは褒めてくれていました。ありがたいことではあります。いつも思いますが、ホントに小学校の先生は大変です。無理矢理にでもよいところを見つけて褒めてくれるのですから。自然と頭が下がりました。

 高校野球の東東京大会ですが、わが母校は三回戦の都立雪谷高校戦で2−3で惜しくも敗れました。スコアでは接戦ですが、安打数を見ると大きく水をあけられていて、まあ実力相応の結果だったのだと納得しました。選手の皆さんの奮闘に拍手を送りたいですね。

 かように夏本番に至ったのですが大学はといえば、まだ授業があって七月末には期末試験が待っています。なんだかそんな気分ではないのですが、現代の大学では必要な講義時間数をきっちり決められているため、こうするしかないということです。おまけにお盆明けには大学院の入試が実施されます。そうこうするうちに八月下旬には子どもの夏休みが終わって二学期が始まるのです。

 大学の先生は夏休みのあいだはヒマでいいですねと世間では思われているようですが、それは幻想に過ぎません。授業がないのは事実ですが、オブリゲーションを含めてやること(あるいは、やりたいこと)はいっぱいあるんですよ。

 ところで衆議院を強引に通過した安全保障関連法案ですが、この夏は参議院での審議に費やされることになります。政府自体が憲法を逸脱した法案を提起しているのですから、たちの悪さは筋金入りです。いつのときでも自国の国民ではなくアメリカのほうを向いているA倍首相にはホント驚かされます。いずれにせよ戦争のない平和な日本を維持し続けるために、わたくしたち市民が声をあげ続けることが大切でしょう。


ふり出し 〜新説 新国立競技場〜 (2015年7月19日)

 新国立競技場のその後ですが急転直下、A倍首相の鶴のひと声で計画が白紙に戻されましたね。遅きに失したとは言え、そのこと自体は歓迎するべき事柄ですから大いに評価したいと思います。ただ、フツーの市民の常識が政治家達に理解されるまでになぜこれほどの時間が必要だったのか(もちろんそれよりもずっと優先する論理があったことは明白ですが)、理解に苦しみます。また、安全保障関連法案の衆議院強行採決に対する世論の反発をすこしでも緩和するためのパフォーマンスという見方もあってその通りだと思いますが、この際それは置いておきます。

 最大権力者の元総理大臣さえも「ハディド案はもともと嫌いだった」と言い出す始末です。設計者のザハ・ハディドは、建設費高騰はデザインのせいではなくて日本の施工・技術の問題(みたいな)ことを言っています。「世界のAndo」を始めとして結局のところみ〜んな他人任せ、という総無責任社会をまさに体現した顛末でした。こんなことで本当に心から楽しめるオリンピックを実現できるのでしょうか。これがケチの着き始め、みたいなことにならないとよいのですが,,,。

 こうやってババをグルグルと回したせいで、誰が誰のハシゴをはずしたのか全く分からなくなりましたね。もしかすると基本設計を請け負った日本の設計事務所や、施工を請け負ったスーパー・ゼネコン(大成建設と竹中工務店)がハシゴをはずされた最たる者になるのかも知れません。

 さて新国立競技場の今後の進め方ですが、今のところなにも発表されていません。A倍首相はゼロ・ベースで見直すと言っていますが、ザハ・ハディド案を廃棄するとは言っていません。常識的に考えればこれほどもめたデザインをさらにひきずることは普通はありませんが、どんな隠し球があるのか分からないのが政治の世界ですからねえ。

 いずれにせよ、誰もが祝福するような施設になって欲しいものです。わが建築界も一握りのひとの意見にひれ伏すことなく、多くの叡智を結集して神宮外苑の歴史と伝統とに裏打ちされた、文化の香り高い設計案を提示することを求められています。そうして、それだけの人材と技術とは揃っているとわたくしは思います。


新国立競技場 異聞 (2015年7月16日 その2)

 台風のせいでもの凄い雨降りですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。わたくしは幸いにも出勤の途上はやんわりした降りぶりでしたので、濡れることも少なくて助かりました。

 さて新国立競技場の話しですが、ついに大御所の安藤忠雄さんが出てきましたね。今までなにも言っていなかったので何をいうのかと固唾を飲みましたが、会見の動画を見る範囲ではフツーの市民の感覚を強調しておいででしたね。配布された文書も(お昼ご飯を食べながら)読みましたが、多分、2520億円になった理由は本当にご存じないんだと思います。

 でもそれなら、これだけの騒ぎになる前にかなりの時間があったにもかかわらず、なぜ自身のご意見を表明しなかったのでしょうか。なんせ「世界のAndo」ですから、彼の言うことにはそれなりの重みがあるのは事実です。槙文彦先生を始めとする多くの建築家からも批判があったのに、それに答えようともしませんでした。

 文部科学大臣が「安藤さん、堂々と発言して」と援護射撃を期待するかのように言ったことから考えると、安藤さんが当初はこの案の建設を強く勧めていて、そのことを政府側にも伝えていたのだろうと推察します。ところが市井の人びとの反発があまりにも激しくなってきたことから、「世界のAndo」といえども(言葉は悪いですが)日和ったというのが実状ではないでしょうか。すなわち2500億円くらいかかっても建てるべきだというのが彼の当初の真意だったのではないか。

 でもこの期に及んで「2520億円の理由は知らない、それは俺も高いと思う」なんて言われても、嬉しくもないですよね。設計をどうするべきかとか、この案に固執する最高権力者(元首相のことです)を説得するような言辞を呈するとか、そういう建設的な発言をするべきだったと思います。いずれにせよ「世界のAndo」の株もこれでがた落ちであることは間違いありません。有名人であるほどその出処進退を自身で適正に判断することが大切だということでしょう。


白球を追う (2015年7月16日)

 高校野球の地方大会が始まっています。わが母校の都立A高校は一回戦をからくも1点差で勝って、15日は二回戦でした。相手は進学校の開成高校です(大学の時の同級生ですぐに思い出すのが川野と田村かな)。スコアを見ると乱打戦だったみたいで9回フルに戦って、結局13対11というラグビー並みのスコアで勝ちました。

 ただ6回までは6対10で負けていて、戦っている選手たちも気があせったことだろうと思います。幸いにもラッキー・セブンに一挙にラッキー・ナンバー7点をあげて逆転して、9回の相手の反撃を1点に抑えてこの試合もからくも逃げ切ったというのが実情だったみたいです。

 しかし経過などはどうでもよろしい、勝てばいいんですから(などということを高校野球では決して口にしませんけど)。これで数年ぶりの三回戦進出です。これは慶賀すべき快挙ですぞ。で、三回戦の相手は同じ都立の雪谷高校ですが、前の試合では都立駒場高校に10対0の五回コールドで勝ちましたし、なんといっても雪谷は甲子園出場経験がある強豪です。でもそれも昔の話しですから、現代の選手諸君はそんなことは気にしないでしょうな。とにかくベストを尽くして奮戦してください。


幕張へ行く (2015年7月15日)

 きのうはべらぼうに暑かったですが、皆さん大丈夫でしたか。昨日から日本コンクリート工学会の年次大会が始まりました。今年の会場は千葉県の海岸べりにある幕張メッセです。午前中は大学で講義をしてそれから出かけたのですが、もううだるような暑さで茹でタコ状態でした。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:幕張メッセ2015:P1010091.JPG

 それにしても八王子から幕張までは遠いですね〜。特に東京駅で中央線から京葉線のホームへの乗り継ぎがこれまた遠い(もちろんこのことは知っていて覚悟はしていましたが、やっぱりうんざり)。京葉線のホームはその昔、幻の成田新幹線のために準備されたということで確かに立派ですが、そんなに遠いところに作らざるを得なかったというところにそもそも無理があったのだと思います。

 こうしてやっと幕張に着きました。幕張には行ったことはあるんだと思うのですが、全然憶えてなくて、ああこんなところなんだという感じです。上の写真が幕張メッセの国際会議場からイベントホールにかけての全景です。一番遠いところ(写真の右側)に大きな体育館状のイベントホールが写っています。これは新国立競技場の設計案に異議を唱え続けている槙文彦先生の作品です。こんなにだだっ広いところでもこの程度のスケール感なのですから、都会のなかにある神宮外苑にあのスケール(ザハ・ハディド案のこと)は無いだろう、と改めて思いましたね。

 あれ?何の話しでしたっけ。そうそう、コンクリート工学会の年次大会でした。この大会は例年火曜日から木曜日に開かれるので、わたくしは講義があって参加できません。ことしは千葉で開かれたので(日帰りできますので)たまたま参加できたに過ぎません。そういう久しぶりの大会でしたが、以前に書いたのと同じで質疑討論は低調でした。

 そんななかで度肝を抜かれたのは、倉本洋さん(大阪大学教授)が発した痛烈なコメントです。あるお若い研究者が鉄筋コンクリート柱部材のせん断終局耐力に関する研究を発表したのですが、その発表に対して「あなたがやっていることの意義が分からない。せん断終局耐力を算定するためのトラス・アーチ理論の依ってたつところをもっと勉強するべきだ。」と一喝したのです。このときだけは会場内が引き締まりましたね。

 まさに倉本先生の仰るとおりです。1970年代後半から1990年頃にかけて、鉄筋コンクリート部材のせん断抵抗機構に関する研究が多くの研究者によって精力的に行われたことを、倉本さんやわたくしはよく知っています。それどころか倉本さんはいわゆるB法の提唱者としてつとに有名です。そういう実績のある方から見ると、若い研究者のやっていることに危機感を憶えたんでしょうね。それが上述の苦言になったのだと思います。

 ちなみにそのあと今度はわたくしがコンクリート圧縮強度の低減係数について、その物理的意味をちゃんと考えて欲しいというコメントをしておきました。これも倉本さんのコメントと結局は同種のものなんですけどね。なんだか年寄りじみてイヤですけれど、そういう苦言を呈するのもじじいになりつつあるわたくし達の務めかもしれません。ちなみに倉本洋さんとわたくしとは同学年で、修士課程の大学院生の頃から(大学は異なりましたが)お互いによく知っています。

 この日は我が社の星野くんの発表もありました。練習を重ねた甲斐があって10分の発表時間ぴったりに納まりましたし、質疑応答も立派にこなしていました。ただ、彼の研究の意義を聴衆のみなさんにはあまり理解して貰えなかったようで、そのことは残念でした(なんだか的はずれな質問ばかりでしたから)。

 星野くんの研究は、柱部材の力学挙動を表現するためのMS(Multi-Spring)モデルがどれだけ真実を再現できるのか検証するために行ったもので、そもそもは構造設計の現場の要望から始まったという経緯がありました。星野くんはそういう研究の経緯まで述べられればよかったのですが、さすがに10分間の発表ではそこまで言及するのは無理だったみたいです。発表会場に先端の構造設計者の方がいなかったのは残念でした。

追伸; トップページに書きましたように、星野くんはこの研究発表で年次論文奨励賞を受賞しました。我が社からの受賞者は一昨年の石木健士朗さん以来です。この研究が評価されたということはそれなりに嬉しいことです。発表するからには奨励賞を目指せと彼には言ってきましたので、その通りになってよかったです。


その頃の実験 (2015年7月13日)

 わたくしが学生の頃の実験の思い出を先に記しましたが、その当時(特に卒論や修士課程の頃のもの)の写真はわたくしの手元にはほとんど残っていません。それらはファイリングして青山・小谷研究室の本棚に格納してありましたが、研究室も代替わりして研究室内の模様替えや整理によってその所在は(少なくともわたくしにとっては)不明です。

 その数少ない手持ちの写真のなかから、わたくしがM1の頃に主担当者として実施した平面柱梁接合部実験の写真を載せておきます。三十年以上前のことです。場所は11号館地下2階の実験室です。まんなかにあるのが測定制御用のパソコンで、NECのPC-9801のようです。それにデータ・ロガー(TDS-301)、プロッターおよびドット・プリンタがつながっていますね。当時の記録媒体はフロッピー・ディスクだったことがわかります。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:青山研Cシリーズ実験1984_1.jpg

 CRTの画面には実験で測定しているものが適宜出力されて、代表的な復元力特性をプロッターで描きました。データ・ロガーの制御、データの取り込みと格納、プロッターの操作などは全てパソコン内のN88-BASICで組まれたプログラムによって行いました。そのプログラムは当時博士課程の大学院生だった塩原等さんが作ったものです。まさに栴檀は双葉より芳し、のとおりです。この当時から塩原さんはわたくしにとっては兄貴分だったということですね。

 それからプリンタですが、この当時は全てのデータを打ち出して出力していたことを思い出しました。その印刷用紙はバインダーに綴じて保管しました(ノートに貼る、なんてことはしませんでしたけど)。ただ大概の場合には、それは結果的に不要なものでした。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:青山研Cシリーズ実験1984_2.jpg

 うえの写真は鉄筋コンクリート十字形柱梁部分架構試験体の加力風景です。基本的には現在の我が社の加力方法と同じですが、まだ三軸一点クレビスは存在しなかったので、柱頭の加力治具はかなり複雑です。かなりの大変形時の写真ですが、梁に多数の曲げひび割れが発生して、下端コンクリートの一部が剥落しています。典型的な梁曲げ破壊タイプでした。

 白熱灯の投光器で照らしているので画面が赤っぽく見えます。白熱灯は相当の熱を発しますので、真冬の寒い時にはそこに手をかざして暖をとったものでした。現在ではLED製の投光器を使っていますので白っぽい光ですし、熱くもありません。まったく技術の進歩のお陰でして、隔世の感がありますね。でも、やっていることは基本的には同じでありまして、そういう意味では進歩がない(?)ともいえるわけです。


新国立競技場 外伝 (2015年7月10日)

 新国立競技場の建設について誰も責任を負わない、あるいはその問題に真摯に向き合うことから誰もが逃げるという、日本人特有の現象が顕著になってきました。この期に及んでは、誰が悪いのかという犯人探しをしても全く役には立たないでしょう。なんとなれば、ザサ・ハディドの当初のアイディア通りになることを望んだ面々が多数におよんだというだけの話しですから。

 そのことは、建築界だけでなく市井のひとびとからもこれだけのブーイングが噴出しつつあるのに、先日開かれた有識者会議で委員のほとんど誰も反対しなかったということからも分かります。しかし、あれだけ押していた安藤忠雄さんすら逃げ始めたのに、その建設をこれだけ強力に押し進めようとする“有識者”っていうのは、一体何者なんでしょうか。

 民意からかけ離れた“裸の王様”が集まっている会議というのは悲惨ですな。財源は未だ定まらず、竣工後の保守費用なども多額になると予想されているのに(すなわち完成後は負の遺産に転落する可能性が高いのに)、屈託なく賛成〜!って表明するひと達の精神構造はどうなっているんでしょうか。自分が払うわけじゃないので誰かが何とかするだろうという気分なんでしょうね〜。

 ところで建設に予定されている金額の2520億円ですが、それだけあればいろんなことができるっていう話しです。例えば海上自衛隊の護衛艦一隻のお値段が700億円から800億円程度なので、軽く三隻は建造できる勘定になります(これは例えでして、わたくしは軍備増強主義者ではありません)。最新鋭の護衛艦が三隻もあれば艦隊をひとつ増設できるくらいになります。

 建設費がこれだけの巨費になった一因として、スパン400メートルの巨大なアーチの構築があげられています。建築構造学の研究者であるわたくしはその図面を見たわけではありませんのでなんとも言えませんが、建築業界の通常の感覚からいってもそれは異様な構造であると思います。建物を建てるときには常に費用対効果を考えます。それだけの巨費を投じる価値があるのか、それだけのメリットがあるのかということですが、今回は残念ながらこの一般通念はあっさり無視されたようです。

 そのための論理として、このデザインを世界に約束したからとか国家の威信がかかっているとかの理由が発せられていますが、そこには文化の臭いが全く感じられません。最先端の技術を使ってひとの目を引く建物を作りましょうというやり方は、四十年以上前の高度経済成長期の箱モノ重視主義となんら変わるところがありません。

 何度も書きましたが神宮外苑という歴史ある地区にザサ・ハディドのそのデザインがなぜ必要なのか、ということです。かような街なみのコンテクストについての議論は寡聞にして一度も聞いたことがありません。成熟した社会を名乗るからにはそれくらいの文化的な配慮は為されて当然なはずですが、今のところそうではないということは、残念ながら日本の文化はまだまだ発展途上と言わざるを得ないでしょう。


実験いろいろ (2015年7月8日)

 きのうは七夕でした。あいにく雨が降っていて星空を眺めることはできませんでしたが,,,。でも旧暦だと一ヶ月以上遅いので、昔はカンカン照りで暑さの厳しい時候に七夕を迎えたことになりますね。それゆえ夜空もよく晴れていたことでしょう。

 さて先日、『理系のための研究ルールガイド』(講談社ブルーバックス、2015年6月)を電車内読書で読み終わりました(短いのですぐに読めます)。著者は慶応義塾大学医学部眼科教室の教授で坪田一男先生というかたです。この方はドライアイの研究では第一人者だそうで、研究面でもバリバリやっているようです。この坪田先生が書いた『理系のための研究生活ガイド』(講談社ブルーバックス、2010年2月)が面白かったので、この“二匹めの泥鰌”も期待して読んだのですが、結論からいえばそれほどではありませんでした。

 新刊の『理系のための研究ルールガイド』は皆さんご想像の通り、STAP細胞事件が引き金になっています。新聞でも度々報道された実験ノートについても丁寧に記述されていましたが、それを見ると生命科学や化学の実験とわたくしのような建物の部材を用いた構造実験とは全く違うしろものだということが分かりました。

 この本によれば実験のデータは全てプリント・アウトして実験ノートに貼り付けるべし、とあります。実験結果がデジタル・データとしてパソコンに入っていても、それを紙に出力して貼り付けないと実験として認められないということです。逆に言うと得られるデータはノートに貼り付けられるくらいの分量ということでしょうな。実際、実験ノートの見本が掲載されていますが、それを見ると実験の時間は4時間から6時間くらいでした。実験の方法も決まりきった方法(プロトコル)があるらしくて、その記述はわずかに10行から20行くらいでした。

 それに対してわたくしの研究室でやる実験では、鉄筋コンクリート製の1体の試験体を短くても一週間くらい、長いと十日くらいは載荷しています(でも、ほかの研究者に聞いたりすると、我が社の実験はとりわけて時間を要しているようなので例外かもしれません)。じわじわと力を加えてどこがどのように破壊するか、じっくり観察して(楽しみながら?)実験を進めるためです。

 測定点数も100点から多いと200点を超えます。もちろん全てのセンサーはデータ・ロガーにつながっていて、取得されたデジタル・データはそこから瞬時にパソコンに格納されます。そこで測定するときには、「じゃ測定しま〜す」と言ってキーボードのリターン・キーをポチッと押せば測定はそれですんじゃいますから簡単です。

 でもその測定回数が非常に多いんですね。わたくしが学生の頃には400回から多くて1000回くらいでしたが、パソコンの性能が進んだ現在では2000回から3000回くらいじゃないでしょうか。例えば、測定点数が150点、測定回数が2000回とすれば、得られるデータの個数は150×2000=300000個になります。三十万ですぞ、これを紙に印刷したらいったいどのくらいの分量になるのか、気が遠くなりますね。

 というわけで、我が社の実験では生データをとてもじゃないが実験ノートに貼り付けることはできません。と、ここまで書いてきてわたくしが学生だった頃のことを思い出しました。当時のデータ・ロガーは東京測器のTDS-301だったと思いますが、それに幅5cmくらいのロール紙を含むプリンタが内蔵されていて、測定データは全てにそれに印字して出力されていました。そして、わたくしのような下っ端がそのロール紙を適当な長さに切断してスクラップ・ブックに糊付けする、という作業が実験が終わるごとに夜な夜な待っていたのです。その当時は測定点数も測定回数もそれほど多くなかったから、こんなことができたのでしょうな。

 話しを元に戻して、坪田先生のような実験ノートは我が社の研究には向きませんが、それでも実験中に観察したことをメモ書きしたノートやひび割れ図(試験体のコンクリート表面に発生したひび割れをスケッチして残したもの、それなりの絵心が問われます)などはとても重要です。実験が終わったあとに、あのとき何が起こっていたか、ということはたびたび問題となります。そのときにこれらのエビデンスがすごく役に立つわけです。もちろん写真も重要ですので、我が社ではなるべくたくさんの写真を撮るようにしています。

 ただ、ひび割れ図の作成や写真撮影にはそれなりに時間がかかります。このことが1体あたりの実験時間を非常になが〜いものにしていることは確実です。それは分かっているのですが、やはり後々のことを考えるとデータは多いほうが良いわけでして、実験時間ばかりはなかなか短くできません。

 ということでひと口に実験といっても、いろいろあるんだなあということがこの本を読んでよく分かりました。ということは、わたくしの分野における実験のやり方とか記録の仕方みたいなことを詳細に説明する専門書があってもいいんじゃないかと思います。でも、あんまり売れそうにないですけどね。


ハードな学会活動 (2015年7月2日)

 きょうの研究室会議では多くの学生諸君が発表してくれたので、久しぶりに三時間にわたって濃密な議論ができました。四人いるM2諸君はそれぞれに見どころがあって面白い研究を進めているとわたくしは思いますので、立派な成果を得られるだろうと期待しています。博士課程の宋性勳さんは釜山大学校・李祥浩教授が推薦してくれたとおり、とても優秀です。こんな感じですので、今は我が社の長い歴史のなかでも研究が大いに進展する絶頂期だろうと思っています。

 ただ、今のM1は苗思雨くんひとりですし大学院受験者もほとんどいなさそうですので、来年度の陣容は今よりはだいぶ縮小しそうです。もっとも以前の我が社に戻るだけ、というふうにも言えますけど、あははっ。

 さてこの一ヶ月のあいだ、学会の仕事が結構大変です。ひとつはことしの建築学会大会でのパネル・ディスカッションのパネリストを塩原兄貴から依頼されていて、その原稿書きに四苦八苦しています。お題は、1995年の兵庫県南部地震以降のRC柱梁接合部研究の進展と課題、というものです。このテーマだったら塩原等先生がそのものズバリ、うってつけですからご自分が担当されればよいと思ったのですが、どういうわけかわたくしにお鉢を回してきました。

 これって、自分のことは書きにくいから北さんが書いてね、ということだろうなと忖度(そんたく)してお引き受けしました。ところがいざ書き始めてみると、塩原さんや東大・塩原研の研究成果の紹介ばかりになって、あまりにも嫌味な感じになってきました。ほかの研究者は何もやっていないのか、というとそんなことはありません。でも、わたくし自身のことを思い出しても分かりますが、大抵の場合には塩原理論に対する反論が多かったことも事実です。

 まあ研究ですから、個々人の研究者が自身の信念と思念とに従って取り組めばそれでよいわけです。でもそういうことを並列的に記述するとストーリー展開が乱れるので、書くほうとしては書きにくくなりますな。そこでそういった「抵抗勢力」の研究をどうやって組み込むか、そんなところに苦心しています。

 もうひとつは和泉信之先生をヘッドとする「RC構造保有水平耐力計算規準(案)」の原稿作りです。いよいよ大詰めにさしかかり、A先生の再度の査読意見に対する回答と修正とを考えています。でも時間がほとんどないこともあって、一部についてはこの規準を発刊したあと、(案)の字をはずすときまでに考えようと思って、そういう回答案を作りました。

 ところが今度は壁谷澤御大からそうは言ってもやっぱりちゃんと考えたらどうかというご提案があって、先の週末は壁先生と和泉先生との三人でメールが飛び交った次第です。全くもってご指摘の通りなんですが、どうせ言うならもっと早く言ってほしかったなあというのが偽らざる気持ちです(壁先生、ごめんなさい)。

 学会活動はほとんどはボランティアなのですが、忙しい時期が重なるとなんでこんなことやってるんだろうなあ、とぼやきたくなることもあるんですね〜。おっと、この文章を打っている時間に早く作業しろよ、という声が聞こえてきましたのでもうやめます。


一年の半分 (2015年6月29日)

 梅雨の時期ですから雨が降ったり、どんよりと曇ったりの日々が続いています。気がつけば六月もそろそろ終わりで、一年の半分が過ぎ去ったことになりますな。六月はわたくし自身の調子が悪かった上に、家族にいろいろとあってとても大変でした(もっともその状況は今も続いていますけど‥‥)。

 不順な時期ですから、六月は誰にとっても多かれ少なかれ調子を落とす時候のようです。たまに太陽が顔を出すと夏のはしりのような蒸し暑さが出来します。そうかと思うと梅雨寒の肌寒いときもあります。そういう日々の繰り返しは体にこたえます。そのうえに電車に乗れば冷房が強かったりして、またぞろ具合が悪くなったりします。

 若いときにはこんなことを気にしたことはなかったように思います。年齢を重ねるとそれなりに知恵は蓄積されますが、それに反比例して体力は落ちるわけでして、その低下した体力とどうやって折り合いを付けるか、そろそろ真剣に考えたほうが良さそうです。

 折に触れて書いていますが、体力の低下は集中力を持続できる時間を確実に奪ってゆきます。朝から晩まで机にかじりついて一心不乱に研究する、という若い頃には苦もなくできたことが、今はもうできません。ただ幸いなことに、ある程度の時間であれば研究に集中することはできますし、アイディアもそれなりに浮かんできます。ですから、そうした活動と蓄積された経験とを組み合わせて相乗的に反応させることによって、いまでも創造的な研究を続けられるのだと思っています。

 その意味では脳の使い方が若い頃とはだんだん異なってきた、と言うこともできそうです(同じことを以前にも書いたような気がします)。もしそうだとすれば、人間の脳ってなんて柔軟にできているんだろうか、という驚きを禁じ得ません。これも大学という知の拠点で日々、若い学生諸君と頭脳の刺激を交換し合っているお陰だという気がしますね。


「の」の重みとは (2015年6月25日)

 今年の夏に発表を予定されているA倍首相の談話ですが、閣議決定せずに個人として発表することになったそうです。閣議決定すると政府の公式見解となって「首相談話」と言われますが、閣議決定しないと個人の「首相の談話」と呼ぶのだそうです。

 うーん、これって何なのでしょうか。両者の相違は助詞である「の」があるかないかだけの差にすぎません。紛らわしいことこのうえないですな。閣議で決定すればそれは日本国の事実上の公式見解となります。しかし首相個人の見解としてなにを言っても構わない、ということにはならないはずです。なんとなれば、公人である首相が言い出すことですから市井の一市民が発する言葉とは自ずから異なり、相当な重みを持って世界を駆け巡ることになるからです。

 アジア諸国はA倍首相がなにを語るのか注視しています。個人的な見解とことわったうえで、それらの国々から反発を受けるようなこと(彼の持論)を言いたいのかもしれません。しかしそうすることにどのような意味があるのか、わたくしには理解できません。政府の公式見解と首相の個人的な見解とは形式としては大きく異なりますが、世界が受け止める際には両者は実質的には同等のものと理解されると思います。

 そういったことを承知の上で「首相の談話」を発するというのであれば、それはもう完全な確信犯ですな。なぜ近隣の諸国とのあいだに軋轢を引き起こすような事柄をわざわざ言おうというのでしょうか。そのことがわが国の国益に利するとは到底思えないんですけどねえ、わたくしには。


長い戦後 (2015年6月23日)

 今日は沖縄での日本軍の組織的な戦闘が終結したとされる日です。それはちょうど七十年前のことでした。沖縄の多くのひとたちの血が流れ、やがて日本は敗戦を迎えました。日本は占領されてGHQの支配下におかれ、軍隊は解体されて民主主義を基本とする新しい国づくりが始まりました。

 やがて日本は独立を回復しますが、それとともに日米安保条約が締結されて、日本はアメリカの核の傘の下に入ります。それにともなって自衛隊が創設されました。それは明らかに新しい平和憲法に抵触すると思われますが、そのことの議論は延々と現在まで続いていることはご承知の通りです。

 この七十年前の敗戦を起点として、日本の国土にアメリカの軍隊が駐留することになったのです。その基地が沖縄に偏在しているというのは事実ですが、東京にも横田基地がありますし、首都圏には横須賀基地、キャンプ座間、キャンプ相模原などがあります。わたくしの身近なところでは稲城市にも米軍の施設が残っています。私はその脇の道を車で通るだけですが、お馬さんが見えますので乗馬ができるみたいです。ちなみにこの場所は浅田次郎著『日輪の遺産』の舞台となったところと記憶します。

 はなしを沖縄に戻しますが、沖縄県知事の翁長さんがアメリカを訪問したり駐日大使と面会したりと孤軍奮闘しているのを聞くと、本当に気の毒に思います。日本の政府が頼りにならないのでそこをすっ飛ばしてアメリカと交渉しようというのですから悲愴です。同じ日本国民として、沖縄をそこまで追い込んだことに忸怩たる思いを抱きますし、こんな情けないことはないでしょう。

 しかしなによりも翁長さんの孤独な戦いには今のところ出口(落としどころ)が見えないということに一層の悲惨さを感じます。沖縄の人々の苦労を(東京で暮らしている)わたくしには分かろうはずもありませんが、戦後七十年のあいだに醸成されたその心情は理解しているつもりです。大多数の日本国民も同じであると信じたいです。

 ここでもまた良識ある市井の人びとの支援が不可欠ですし、そうした声を重ねることによって岩をも動かすことが可能になるのが民主主義ではないでしょうか。それともこれは感情的なきれいごとに過ぎないのでしょうか。

 先の戦争によって悲運に倒れた全ての人びとに合掌‥‥

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:北山家沖縄旅行2004:IMG_0031.JPG
       写真 沖縄県摩文仁にある平和の礎


また、漢字の話し (2015年6月22日)

 以前に漢字の間違いを子どもに指摘された話しを書きました。きょうはその続きになります。この週末に子どもの学校公開に出かけたのですが、そこでまた衝撃の事実に気がついたのです。

 四時間めは算数の授業でした。そこで先生が黒板(小学校はまだ黒板にチョークです)に72÷3を計算しよう、と書いたのです。このページに折に触れて書いていますが、小学校の先生はすごく丁寧にかつゆっくりと黒板に字をお書きになります。書き順を含めて字の一画一画に精神を集中している漢字、じゃなかった感じがありありと伝わります。

 その「算」の字を見て、おやっと思ったんですね〜。どうもわたくしがいつも白板(大学では白板に黒マジックです)に書いているその字と感じがちがうのです。最初は書き順のせいかなと思ったのですが、何度か「算」の字を見ているうちにもしかしたら漢字字体が違うんじゃないのかと気がつきました。

 わたくしも職業柄、算定とか計算とか算出とかの字を白板によく書きます。そのときに「算」の字をどう書いていたかというと、竹かんむりに「目」を書いて、その下に「升」を書いていたのです。皆さん、気がつきましたか?

 なんだよ小学校の先生のくせに「算」の字が間違っているじゃないか、と最初は思ったのですが、教室のなかにある時間割に書いてあった「算数」の字を見るに至って、先生は正しくて(当たり前ですな)わたくしが間違っていたことに気がついたのです。「目」のしたは「升」ではなくて「サ」のような三画の文字だったんですね。

 しかしこの事実に気がついたときには正直言って驚愕しました。あんまりうろたえたので、脇にいる家内に「今まで算っていう漢字を間違えて書いていたよ」とカミング・アウトしたくらいです(これでわたくしの株がさらにまた下がったのは言うまでもありません)。いったいいつから間違えて書いていたのでしょうか、自分では分かりません。

 でも、大学の講義で白板に書いていた「算」の字の間違いに学生諸君の誰一人として気がつかなかったのか、それが不思議です。あるいは気がついていたけど誰も指摘しなかったということでしょうか。いずれにせよ、小学校の公開授業に出かけるといつも何かしらの発見があります。いやあ、有益ですね〜。


地球のうら側 (2015年6月19日)

 先だってのことですが、大学の教務課からメールがありました。それは中米のある国の学生(?)から大使館推薦で日本国・文部科学省の国費留学生にアプライしたいので、わたくしに受け入れ教員になって欲しいという連絡が本学宛に来たけれどどうしますか、というものでした。それを聞いてとても驚きました。その中米の国がどこにあるのかも正直なところ知りませんでしたが、なによりもそのひとがどうやって私を知ったのだろうか、というのが最大の不思議です。

 わたくしのこのページは日本語オンリーですから少なくともここではないですな。そうだとすると本学の英語のページからサーチしたのかも知れませんが、それを見てもたいしたことは分からないと思います。私が執筆した英語の論文を見てくれたのならば嬉しいですけど、どうかな?

 縁もゆかりもない地球のうら側の中米から、はるばる日本に行こうと考えたのはなぜなのか、耐震構造を研究したいのかどうかなど、分からないことは多々ありますのでどうなるか分かりません。ご本人からの連絡を待っているところです。ただ国費留学生は留学を希望する大学を第三志望まで記入できるそうです。またその選抜は結構厳しいみたいでそれを通過したとしても配置先は文科省が決めるそうなので、わたくしのところで受け入れる可能性は低いような気もします。

 ところで、うえに地球のうら側と書いたところで迂生の頭にはビビッと連想が走りました。それはオリジナル・ラブの『月のうらで会いましょう』という曲です(たとえばこちら)。地球も月もこの無限に広い(っていうのは物理的には正しくありませんが,,,)宇宙のなかではほとんど同じようなものですからね、いいんじゃないですか。田島貴男のボーカルがいいんですけどその真骨頂は、単調な感じがなんともいえず心地よい『サンシャイン・ロマンス』(こちら)だとわたくしは思います。

 ということで今度は月と太陽になりましたが、やっぱりいいんじゃないですか〜、広大な宇宙のなかでは月も太陽も同じようなものですから。宇宙のなかのちっぽけな太陽系のなかのさらにちっぽけなわたし、という虚無的な感覚が浮かび上がってきますね(なんのこっちゃ?)。


基礎ゼミナール通信2 (2015年6月18日)

 かなり間が空きましたので、一年生必修科目の『基礎ゼミナール』について書いておきます。これは今年度の基礎ゼミの記録として載せています。それがなんの役に立つかと言うと、それは来年度以降にこのゼミナールを履修しようかどうか迷っている新入生への参考になるだろうと考えるからです。あるいは現在履修している学生諸君に教員たるわたくしのちょっとした“ささやき”を知って欲しいなあとも思うからです。

 さて今年度の基礎ゼミですが、昨年度と比較すると明らかにクラスのActivityが高いので、わたくしも授業をやっていて楽しいですし、気分的に相当楽です。昨年度は“お通夜”の連続で、わたくし自身が相当にへこたれました。それに対してことしはそれなりに討論が成り立つし、積極的に参加しようという態度の学生さんが多いのでとても嬉しいですね。

 昨年度の反省があってカリキュラムを少しづつ更新しているのも(手前味噌ですが)今のところ上手くいっているようです。グループでの作業は権藤准教授から聞いた通り、学生諸君が楽しく作業できたみたいなので、取り入れてよかったです。やっぱり、他人さまの試みって聞いてみるもんですね〜。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:基礎ゼミナール2015:20150603:P1010078.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:基礎ゼミナール2015:20150617:P1010088.JPG

 左の写真はグループで発表しているところ、右の写真は個別の発表の様子です。発表用のスライドの枚数は指定して、スライドを作る際の注意はこと細かに説明しましたが、それを割り引いても皆さん結構上手にスライドを作って来ることには驚かされます。高校時代でそういうプレゼンテーションを体験してきているような印象を受けますね(もちろん、高校によって千差万別でしょうが‥‥)。

 グループ毎に坐ってもらうのも意外といいみたいです。そこで今回からグループ替えを行って、ほかのひととも仲良くなってもらおうと考えました(これはTAの星野和也くんからの提案です)。写真のように5グループがそれぞれの島に固まって坐っています。

 こんなふうにわたくし達もいろいろと考えながら授業を進めていますので、受講生諸君も引き続き、楽しい授業になるように積極的に関与してください。若い諸君の斬新であっと驚くような発想を楽しみに待っていますよ。


結びつく(2015年6月16日)

 先日、大学のあるべき姿を論じるなかで白石良夫さんの「虚学の論理」という卓論を紹介いたしました。これが発表された1997年当時、著者である白石良夫さんは確か文部省のお役人だったと記憶します。へえ〜、お役人でもこんなに大学に理解があってリベラルなひともいるのかと感心したことを憶えていたからです。

 さてこの週末にわたくしの書斎の本棚を見るともなく見回しているときに、なんとその白石氏の著作が(一冊だけですが)並んでいることに気がついたのです。本棚にはジャンルごとに分けて本を並べているのですが、その本は幕末時代もののコーナーに分類されていました。あれっ?このひとって「虚学の論理」を書いたひとと同じひとなんじゃないのかな、というのが最初に抱いた感じです。

 で、その本は『最後の江戸留守居役』(ちくま新書、1996年)というタイトルで、幕末の佐倉藩(堀田家十一万石)の江戸留守居役を務めた依田学海というのちの文学者を主人公とした読み物でした(内容は全くおぼえていませんけど‥‥)。著者の専門を見ると国文学とありますから文部省のお役人とはいえ、もともとは学者である方だったのですね。道理で文部省の“論理”に毒されていない論調だったわけです(これはもちろん褒め言葉です)。

 この江戸留守居役で思い出したのが、東大史料編纂所教授の山本博文さんが執筆した『江戸お留守居役の日記 寛永期の萩藩邸』(講談社学術文庫、2003年)という著作でした。山本博文さんは歴史モノを庶民に分かり易く説明してくれることで有名な方ですが、こちらの萩藩・毛利家の“お留守居役”は彼の出世作だったと思います。原本は1991年に刊行されていますから、白石良夫さんはこの本のタイトルを参考にしたのかも知れません。


ふたたび、虚学の論理 (2015年6月11日)

 文部科学省が全ての国立大学にあてて、既存の文系学部・大学院を見直すよう通知したことが報道されました。生命科学や工学の一部などのように、短期間で成果が目に見えて社会への貢献に直結するような学問〜いわゆる実学〜を大学において奨励する、ということでしょうか。国立大学は国立大学法人になったとはいえ、実質的には文部科学省の干渉から逃れられません。この通知も各大学へ交付される補助金に直接関係付けられる内容だと考えられ、まさに国立大学の生殺与奪の権を握っていると言えるでしょう。

 しかしそのような要請がCenter of Excellenceたるべき大学のあるべき姿を現出するものであるとは到底思えません。現代の大学においてそのような偏った指向を実践すれば、何千年にも渡って集積され、尊重された人類の叡智〜そのなかには今すぐ役にはたたないような、いわゆる虚学が含まれます〜が急激に廃れて忘れ去られてしまうことは必定です(このことは大学のあるべき姿として、これまで何度も書いて来ました)。それは人類にとっては大いなる不幸であって、悲しむべき事柄です。

 日本の教育行政を統括する文部科学省が短期的な経済原理のみに目を奪われて、大学のあるべき姿を理解していないとするならば、われわれ大学人のみならず良識ある市民はいったいどうすればよいのでしょうか。

 大学の危機を目前にして、わたくしのこのページとしては異例ですが、大学のあるべき姿を論じた卓見として白石良夫さんの「虚学の論理」(学士会会報、No.817号、1997年10月)を抜粋して以下に掲載いたします。

-------- 以下、白石良夫著「虚学の論理」より抜粋 --------

 学んだ知識が社会生活に直接役にたつ学問を、実学という。この伝で行くなら、文学・哲学の研究などは、さしずめ〈虚学〉ということになる。  〜中略〜

 社会の要求というものは性急である。とくに、めまぐるしく変化する現代社会にあっては、社会は、いますぐ役にたつものを要請する。学問にも、それを求める。即戦力になる学問を期待するのである。

 だが、いささかなりとも学問の世界に足をふみ入れたことのある人なら、本当の学問・研究がそんな即効薬みたいなものでないことはじゅうぶん知っている。即効薬をつくるには、まずその前に地道な基礎研究の時間がなければならず、だが、基礎研究そのものは、じつは現実社会でほとんど直接の役にはたたないのである。社会生活に直接役にたつかどうかは、だから、その学問が社会に貢献しているかどうかの指標にはならない。そもそも、学問や研究というものは、俗世間のいとなみとは縁が薄いものなのだ。

 基礎研究は、たしかに現実の社会には直接の役にはたたない。だが、間接的にかならず社会との接点がある。即効薬の場合のように。だが、それは、目に見えて顕著ではない。せっかちな人間はそれを、「役にたたない」というのである。

 学問には、その成果が見えるようになるまでに長い時間を要する分野がある。そのような長い時間がたつと、成果が見えるようになっても、社会と学問との接点はどうしても見えづらい。当の研究者でさえ、往々にしてその接点を捜しあぐねている。しかし、くりかえして言うが、学問は即効薬ではない。即効薬ではないが、それなくして即効薬はつくれないのである。

 成果結果のあらわれるまでに長い時間を要し、社会との接点が理解されにくい学問、それが〈虚学〉であり、文学部はその〈虚学〉の巣窟である。  〜中略〜

 こういった〈虚学〉を長い目で継続させうる機関を日本という国で捜すとすれば、それは、大学以外にない。

 日本ではこんにち、若く優秀な人材は、例外なく大学へ行く。大学には、二十歳前後の日本人の優秀な層のほとんどが集まっているのである。しかも、常時。大学も一つの社会であると考えたとき、これだけの人材を独占している社会が、ほかにあるだろうか。

 これら優秀な才能は、その可能性において多彩である。その多彩な可能性をいつでも満たせる、そういう環境が、だから、大学には求められる。大学が開かれるとは、多彩な才能をいつでも受け入れることができるという状態をいうのである。印度哲学を学びたいという学生がいれば、それがたとえ一人であろうとも、印度哲学という学問の扉がそこに用意されていなければならないのである。まにあわせの借り物ではなく、そこで蓄積された自前の学問が、いつでもその可能性を秘めた学生を待っている。そして、その学生たちが蓄積の担い手となる。それこそが本当の開かれた大学というものであり、将来において(百年後、千年後に)真に「役にたつ」学問の府なのである。

 そこでは、実学であるか虚学であるかの議論は意味をもたない。というより、大学における学問は百年、千年というスパンで考えられねばならない。つまり、すべての学問は、まずは〈虚学〉である、と言えるのである。

-------- 抜粋おわり --------


あの頃、建築を巡る旅 (2015年6月8日)

 寺山修司の「書を捨てよ、街へ出よう」は有名ですが、最近の学生諸君は実地に建築を見に行くということが少なくなっているように感じます。例えばわたくしが担当している美術館の課題(二年生後期)で彼らのエスキスを見ていると、実際の美術館を見に行っていないのでおかしなプランを作ってきたりします。東京には建築的に素晴らしい美術館がたくさんありますのでよいお手本には困らないはずなのですが、見に行かないみたいなんですね〜。

 そこで例によって思い出話です。したの写真は、わたくしが大学三年生の頃に建築学科の友人達と行った群馬県立近代美術館(1974年竣工)です。設計は磯崎新さんで、1975年度の日本建築学会賞を受賞しています。パブリックな階段部分での傍若無人な振る舞いですので褒められたものではありませんが、そのときは平日だったせいかほとんど来館者がいなかった記憶があります。だからこそ、このような写真を撮れたんでしょうね(現代の学生諸君は、現地の周辺状況をよく見て判断して下さい)。

 このときは友人達と車を連ねて群馬県近辺の建築を見に出かけました。当時の若者は車好きが多くて、建築を見に行くという口実でドライブに出かけていたようなところもありましたね。わたくしは高橋秀通くんのポンコツ・ワーゲンに乗せてもらったような気がします。あるいは後藤治くんの車だったかも知れません。

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     写真 群馬県立近代美術館にて(約三十年前)

 さて、この写真には12人が写っていますが、そのうちの8人は大学の教員になっています。それを思うと今更ながら驚きます。フロント・ローは建築家の福濱嘉宏くんです。その後ろに寝そべっているのが、左から野嶋慎二、中埜良昭、それにわたくし(白い服)の駒場同級トリオで、三人ともに大学の教授です。

 その後ろが橋本律雄と高橋秀通、さらに黒野弘靖、長谷部完司、柴原利紀とつづきます。昨年あった三十年会のときに長谷部は関電のPWR(原子力発電所の建屋)のコンクリートを打設したといっていました。結構ビックリです。

 最後列中央で横向きにそっくり返っているのは野口貴文くんで、彼は東大コンクリート研究室の教授になりました。女優の菊川怜さんが彼の研究室で卒論を書いた(?)ことは有名な話しでしょうな、野口はなんにも言いませんけど‥。最後列左端は日色真帆、右端は後藤治です。この二人も大学の教授です。

 それにしても皆、楽しそうな顔をして写っています。その当時の前途洋々たる気概が鮮やかに蘇って来るようです。この写真は三脚を立てて撮影したようで、誰もいないカットと対にすると面白さが際立ちますので、わたくしとしてはとても気に入っているとっておきの一枚です。


季節の変わりめ (2015年6月2日)

 六月になっていよいよ夏になりました。五月の末くらいから急に暑くなったせいか、からだがしんどいです。季節の変わり目は(どなたもそうでしょうが)どうも体調がすぐれず、すっきりしない日々が続いてイヤですね。

 さてきょうは一年生を対象とする『建築構造力学1』があって、きょうから応力図の作成を講義し始めました。例年だと小一時間で説明を終わって、残りの三十分を演習にするのですが、きょうは例題を説明しているときに質問が続出して、ついに授業時間の90分を使い果たしてしまいました。そのため出欠をとる時間さえとれませんでした。

 いやあ、ビックリしました。昨年度から『建築構造力学1』を一年生の科目に移したのですが、一年生に対する専門科目がほとんどないことから、希望に燃えた?新入生たちが一所懸命に取り組んでいることがよく分かります。構造系のカリキュラムの改革はこの点ではうまくいったような気がしますね。


久しぶりのゼミ (2015年5月29日)

 トップページに記したように、大学院を昨年修了した島哲也さんが研究室にやってきました。いまは大手ゼネコンのO組で原子力関連の仕事をしています。彼は修士論文ではプレストレスト鉄筋コンクリート構造のスラブ付き柱梁部分架構実験を行って、各種限界状態などについて調べました。

 さて、きょうは、大学院を修了したあとにコツコツと考えて整理した資料を持って来て、その後の研究の進捗状況(?)を報告してくれたのです。大学院生だった彼にわたくしがいろいろと言っていた内容を憶えていてくれて、それに対するひとつのアイディアを携えて来た、というわけです。そこで期せずして島くんとの個人ゼミが久しぶりに復活しました。いやあ、嬉しかったですね。ただ彼の話しを聞きながら議論するうちに、つい昔のように学生相手に話すような感じになってしまいました(まあ、ご容赦下さい)。

 会社の仕事をやりながら研究を継続するのはとても大変だと思います。特に原子力の分野では、原発の再起動に向けた評価業務が多忙を極めていると仄聞します。そのような状況でも修士論文の研究を忘れずに進めてくれたのですから、とても感激しましたし、なかなかできることではないと思いました。

 で、せっかくここまでやったのだから、この成果は学会の大会かなにかで発表したらどうかと言っておきました。もちろんお仕事優先ですし会社の方針もあるでしょうから難しいことは重々承知の上です。でも有望な若者には、常に刺激を与え続けることが必要ですし、そうやって社会に嘱望される人材に育つとわたくしは思っています。ですから、できる範囲でトライしてみて下さい。さて、次のゼミはいつになるかな?


基礎ゼミと飲み会 (2015年5月28日)

 昨日は『基礎ゼミナール』がありました。今回はグループで調査した内容をまとめて、パワーポイントのコンテンツを作るというのが課題です。グループごとに楽しそうに作業していたのはよかったのですが、90分の授業時間のあいだにスライド作成に着手していないチームがかなり見られました。来週は発表会なのですが、大丈夫かな〜という一抹の不安を抱きました。でも、もう大学生なのですから、来週までには帳尻をあわせて発表会に臨んで下さいね。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:基礎ゼミナール2015:20150527:P1010073.JPG

 基礎ゼミが終わったあとは、我が社の新歓コンパを南大沢のお店で開きました。今年度の卒論生は昨年12月冒頭には決まっていましたが、それから半年も経って“歓迎”というのもなんだかなあとは思いつつ、楽しい時間を過ごしました。そのときの写真を撮ろうと思っていたのですが、時間がたつうちに忘れてしまいました。そのため写真はありません。

 若い学生諸君の日頃の生態がどのようなものなのか、さすがにわたくしは知りませんので、そういう話しを聞いて面白かったですね。なにより驚いたのは、自身の健康維持のために体を鍛えているひと達がいたことです。わたくし自身が若い頃にはそういう発想は全くなくて、日々研究室のソファーにどっかりと座ってお酒を飲んだり、テレビを見たり、漫画を読んだりして、時々研究室対抗の野球をやったり、テニスをしたりするくらいでしたね。

 飲み屋での懇談会でしたが、わたくしは具合が悪いのでお酒は飲みません。しかたがないのでお茶とかジュースとかを飲むのですが、やっぱり味気ない気分ですな。はやく美味しい日本酒を飲めるようになりたいものです。


発掘したフィルム写真 その4 (2015年5月26日)

 わたくしが卒論生のときには、助手だった田才晃さん(現・横浜国大教授)の研究をお手伝いして卒論を書きました(その詳細はこちらにあります)。エポキシ樹脂を用いて鉄筋コンクリート部材を補修するというのがそのテーマでして、いろいろな実験をやりました。

Test in 1983

 そういう実験群のなかに、鉄筋のひずみ時効(Strain Aging)を検証するというものがありました。細長い鉄筋に引張り力と圧縮力とを交互に繰り返し与えるという実験です。圧縮力を与えるためには、鉄筋両端のチャックが圧縮力に対しても有効に機能しないといけないので、普通のクサビ式チャックの試験機では実験できません。

 そこで田才さんが目を付けたのが、当時浅野キャンパスにあった大型構造物試験室でした。ここには2000tonf試験機という、ガンダムのような巨大な試験機が置かれていましたが、その脇に小さな試験機があって、それがわれわれの実験の条件に合致したのです。

 上の写真は(あまり憶えていないのですが)そのときのひとコマだと思います。田才さんが撮ってくれたのでしょうか。操作盤のダイヤルをいじくっていますね。その脇に東京測器のデータ・ロガー301とHPのプロッターの一部が写っています。

 ところで実験のときの服装ですが、作業着ではなくてスポーツをするような格好をしていますね。アディダスのウインド・ブレーカーにジャージというサッカー・スタイルですな。現在では建設現場にいるひとと同じような作業着を着て実験していますが、当時は服装に無頓着だったように思います。だいいちヘルメットもかぶっていませんから、今思えば相当に危ないです(現代の学生諸君は真似しないで下さい)。


はためく淡青旗 (2015年5月25日)

 初夏の汗ばむ陽射しのなかで子どもの運動会があった土曜日、東京六大学野球の春のリーグ戦で東大がついに勝利しました。対法政大学1回戦です。4−4で延長戦に入って、十回表に2点をあげてそのまま逃げ切りました。神宮の杜にはためく淡青の旗が目に浮かぶようです。そのスタンドで五年ぶりに『ただひとつ』を歌えた東大生たちは果報者ですなあ、“ここなる丘に東大の旗立てり”。

 不名誉な連敗記録は94で止まりました。いやあ、めでたいです。いつも書いているように相手はセミ・プロみたいな選手ばかりですから、よくやったとしか言いようがありません。

 この日、法政大学は22選手を費やす文字通りの総力戦を展開したようですが、東大側が投入したのは13選手でした。まあ選手層が薄いと言ったらそれまでですけど‥。ただスコアシートをよくよく見ると、7安打で4点となっていますから、残り2点は相手方のミスによって転がり込んだ、ということみたいです。三振も10個ですから、相変わらず打てないという状況には変わりなさそうですね。でも結果としては勝ったのですからそれでいいんだあ〜、っていうことにしましょう。

 ところで法政大学の選手ですが、1年生が6人も出場しています。先発投手からして1年生でした(東大も随分と嘗められたものですけど)。強豪の法政大学に入学してすぐに一軍でプレーできるというのは、高校野球で活躍していたということの証左でしょうね。それに対して東大には1年生は一人もいませんでした。

 夜七時のNHKニュースで東大勝利を報じていましたが、その映像を見ると十回裏の法政大学最後のバッターは空振り三振でした。どうみても高めのボール球で速球でもなさそうでしたが、気合いで三振をもぎとったという感じです(非科学的ですみません)。いやあ、素晴らしいです!努力すれば願いはいつかかなう、という絶好の実例じゃありませんか。

追伸; 日曜日の二回戦ではホームランが二本出たものの失策も四つあって、2−6で敗れました。やっぱり連勝は大変だし、勝ち点をあげるのは容易じゃないですね。

追伸2; 月曜日の三回戦は0−6で敗れました。ヒットは結構打ったのですが残塁が多かったようです。責めが続かなかったということでしょうな。う〜ん、残念でした。これで東大の今期は終了しました。秋のシーズンでのさらなる活躍を期待しています。


甲府で出会う (2015年5月22日)

 西川御大に頼まれた仕事でまた甲府へ赴きました。せっかく山梨県まで行くので、今回は一本早い特急に乗ってちょっとだけ市内を歩いてみました。甲府駅のすぐ脇に甲府城跡があって、現在では舞鶴城公園と呼ばれています。当時の建物こそ残っていませんが、結構立派な縄張りで往時が偲ばれます。

 武田信玄は「ひとは石垣、ひとは城」と言ったとおり、お城を築かなかったことで有名です。この甲府城は武田家滅亡後に豊臣秀吉によって築城が始められ、徳川家康の天下になってからは徳川一門が城主になったようです(三代将軍・家光の弟の忠長も城主でした)。五代将軍・綱吉の御代に側用人に成り上がった柳沢吉保が甲府城主となったことはよく知られています。その後は幕府直轄となって明治を迎えました。戊辰戦争直前に近藤勇率いる新撰組が甲陽鎮撫隊として甲府城まで出向き、鎮撫するどころか板垣退助率いる新政府軍にこてんぱんにやられたりしています。

 ということで城跡には石垣があるだけで基本的には何もないので、写真のような尖塔がひときわ目を引きます。これは本丸に建っている謝恩碑というものです。明治末期に明治天皇が皇室の持つ山林を山梨県にさげ渡すという出来事がありました。この塔はそのことを顕彰するための記念碑だそうで、花崗岩でできています。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:甲府城跡2015(舞鶴城公園):P1010034.JPG

 見ての通りオベリスクのような何とも不思議なモノで、場違いなところに建っているような違和感を抱きます。この場所にこの謝恩碑を建てた由来は分かりませんでしたが、これを設計したひとが誰かは分かりました。それは驚くことに(あるいは、こんな不思議なモノをこの当時に建てるのはこのひとをおいていなさそうなのですが)、建築史学者の伊東忠太だったのです。それと建築家・大江新太郎の名前もあがっていました。

 伊東忠太はArchitectureという英語に「建築」という日本語を造語したひととして、わたくしのような建築学に携わる人間にとっては有名です。また彼の作品としては築地本願寺や両国の震災慰霊堂がよく知られています。そのような“有名人”の足跡を甲府の中心地で見い出したことをうれしく思いましたので、この一文を記しました。

 ついでですが本丸から富士山が見えましたので、したに載せておきます。雲がかかっていて分かり難いですが、筋状の雪が残る富士山が無粋な東急インの看板の真上に頭を出しています。新幹線などから見る富士山の裏側になりますので、ちょっと珍しいんじゃないかな。もっとも甲府のひとびとにとってはこちらが“表”ということでしょうけどね、あははっ。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:甲府城跡2015(舞鶴城公園):P1010027.JPG


規準をつくる 承前 (2015年5月20日)

 以前(2015年2月9日)のこのページに、建築学会で作成中の『鉄筋コンクリート構造保有水平耐力計算規準(案)・同解説』のことを書きました。そこでは今年の三月の構造本委員会で了承を得て、出版に向けた事務作業に入る予定であると記しました。そのときは、そうなる予定と勝手に思い込んでいました。

 ところがその後、これが単なる願望に過ぎなかったことが明らかとなりました。構造本委員会では二名の先生に査読をお願いするのですが、そのうちのおひとり(以下、A先生と呼びます)からかなり厳しい査読意見をいただいたのです。A先生はRC構造運営委員会にも所属されていますので、RC建物の保有水平耐力計算については熟知されています。その意味では査読者としてうってつけだったと言えます。

 この規準(案)についてはRC構造運営委員会での議論を積み重ね、規準(案)策定の手続きとしては初めて投票を行ってその是非を問い、出版に向けた手続きを進めてよい旨、了承を得ていました。しかし今思い返せば、その投票の際にA先生は判断を保留され、その理由の説明のなかで持論を展開されてかなりの注文を付けていたのです。

 そのご意見の趣旨は理解できました。ただ、何度も書いているように法律に定める保有水平耐力計算には、現在の性能評価という視点から見れば不明な部分が多々あります。そのためA先生のご意見に明確に回答することは相当に難しいと思われました。このように現時点で分からないことはありますが、そのことを明記した上で工学的な判断に基づく保有水平耐力計算規準を建築学会から世に問うことに意義があると考えたのです。このことはRC構造運営委員会でも了解されたとわたくしは思っていました。

 このような経緯でしたので、A先生がRC構造運営委員会で披瀝した持論を構造本委員会の査読意見として再度持ち出すとは、正直考えていませんでした。個人の信念に基づいて意見を開陳することは当然ですし、学会という場においてそれは求められる事柄でもあります。ですからA先生の行為は非難されることではありませんし、むしろ予想されてしかるべきことだったんでしょうな。

 ただ、そのような事態を予想しなかったことは事実です。A先生もRC界の身内ですから、RC構造運営委員会でのそれまでの議論を了とされ、あまり困難な意見を付すことはないだろうと勝手に思っていたのです。

 こうして和泉信之主査(千葉大学教授)を始めとする執筆者一同が頭を抱えることになりました。A先生の要求に厳格に答えようとすれば、新たな実験や解析的な研究等を積み重ねなければ不可能です。そうするとこの規準(案)の出版は明らかに数年は遅れます。しかしそれはわたくし達の本意ではない‥‥。結局、A先生のご指摘の趣旨になるべく沿うように解説を充実させてご理解を仰ぐという方針でゆくことになりました。

 でも正直にいうと釈然としないものが残ります。正論とは言え、返答不可能と分かっているようなことを何度も持ち出すことにどのような意義があるというのでしょうか。言い方は不適切かも知れませんが、指導も度が過ぎればそれは嫌がらせやいじめと捉えられるじゃないですか。

 A先生は純然たるボランティアとして査読してくださいましたが、規準(案)を作っているわたくしどももそれは同前なのです。建築学会が出版する規準としてのレベルに達していない、というのならば仕方がありませんが、そのようなことはないと(手前味噌ですが)自負しています。十分に議論は尽くしたと思います。ですから、現在検討中の修正案(これからA先生に送付する予定)を認めていただけるとありがたいと存じます。


遠方より来る (2015年5月19日)

 二十年以上の歴史を誇る(?)我が社ですが、その第三番めの卒論生だった香山恆毅さん(こうやま・こうき、1995年3月卒業)が久しぶりに研究室を訪ねてくれました。香山くんはわたくしが東京都立大学に赴任したときに既に在校していて、1994年度にただひとりの卒論生として我が社に加わりました。卒業して某スーパー・ゼネコンの施工部隊に就職しましたが、縁あってタイに渡り現在は日本語教師などをしながら暮らしているそうです。残念ながら建築とは縁が切れたみたいですが、なかなかスリリングな人生を送っていますな。

 で、本学がバンコクに開設したサテライト・オフィスに勤務することになったそうで、その打ち合わせにはるばる海を越えて母校にやって来たとのことでした。さっそくにミッションを言い付けられたそうですが、それはなんとバンコクでの宴会のセッティングだそうで、やっぱり楽な仕事はない(?)ということですね。

 香山くんの卒論は、姜柱さん(当時、西川研の博士課程院生)と一緒に鉄筋コンクリート造サ形骨組の載荷実験をすることでしたが、論文執筆の追い込みのさなかの1995年1月17日に阪神淡路大震災が起こりました。さすがに卒論発表会までは卒論執筆に注力してもらいましたが、そのあと西宮などでの被害調査に同行してもらったことをよく憶えています。したの写真は県立御影高校で柱スパンを実測しているところです(左が香山くん、右は姜柱さん)。

 Mikage_HighShool1995

 この日は香山くんとタイのことや原発の廃炉のことなど、多岐に渡るおはなしをすることができて楽しかったです。特にタイの風土と文化や国民性との関係についての考察はなかなか的を射ていて、さもありなんと思いました。タイでの生活にはやはり苦労はあるみたいでしたが、持ち前の明るさとガッツとで頑張ってください。

 帰り間際にスーツ・ケース(なんとこの日、タイから羽田に着いてそのまま本学に直行したそうです)からお菓子の箱を取り出してお土産に置いていってくれました。それが下の写真です。グリコのプリッツですが、カタカナでトムヤムクン味と書いてあるところがタイっぽいですね。これはタイで作ってタイで売っているモノだそうで、右側がタイ語だそうです。日本語が書いてあると向こうではオシャレらしいです(って、ホントか〜?)。

Pretz


是が非でも (2015年5月18日)

 日本のA倍首相は自衛隊をどうしても“軍隊”にしたいみたいですね。自衛隊を実質的に世界中のどこにでも派遣できるような道を開こうとしています。今までにも何度か書いてきましたが、これは憲法の平和主義を運用によって剥ぎとろうとする、歴代の自民党総裁ですらとらなかった手法です。それだけにA倍首相のなり振り構わない突進には驚くばかりです。

 今は閣議決定ですが、国会で審議されても両院ともに自民党が圧倒的多数を占めていますから、数の力を押し通されたら可決されることは目に見えています。A倍首相は自衛隊が抑止力となって日本の平和が維持されると詭弁を弄していますが、その姿勢は基本的には目には目をという敵対勢力への真っ向勝負です。軍隊の力によって自国の安全を保持できるという考え方自体が20世紀の遺物だというのに、です。

 地域間の局所的な争いにせよ、宗教にせよ、さらに言えば中国の行動にせよ、衝突の根幹には自他のあいだの多様性を認めようとしない周辺に対する反発があると考えます。しかし相手も人間であるならば(人間の仮面をかぶった悪魔だったらダメですけど)、話し合って相互に横たわる問題を整理して、それを解決することによってお互いを理解することは可能なはずです。

 少なくとも日本とアジア諸国とのあいだの軋轢の一因は、太平洋戦争において日本がアジア諸国に対してしたことを正しく認識して謙虚に反省するという態度が欠けていることにあります。わが国の市井の人びとの多くはこのことを理解していると思いますが、一国の首相がそのことをはっきりと発言しないのは、国益に反すると言っても過言ではありません。

 自衛隊も現在は災害救助などで国民からある程度理解されていますが、世界の紛争にかかわって敵味方の双方に死者が出たりすれば、どう豹変するか分かりません。そうなったとき、その“軍隊”は政府の言うことなど聞くことは無く、自律的に行動を始めるのです。それはまさに昭和初期から昭和20年までの日本国軍の歩んだ姿—それは結局は自分たちだけでなく国民全てを破滅に追い込んだのです—を思い出させます。その二の舞だけはご免蒙りたいと強く思います。


基礎ゼミナール通信1 (2015年5月13日 その2)

 全1年生対象の必修科目である『基礎ゼミナール』がありました。教室は正門の近くにある6号館ですが、わたくしの居住する9号館からはかなり遠くて、このまま駅に行っちゃいそうです。おまけに情報ギャラリーから6号館まではものすごい数の学生さんが歩いていて、新宿駅のラッシュ・アワーじゃなかろうかという眩暈を覚えますな(相変らず大げさですみません)。

 さて、五月の連休のせいで二週間あいだが空いたのですが、その間に最初の課題(課題図書を読んで、その内容をA4用紙2枚にまとめる)をやってもらって、今日は初めての発表会となりました。初めてなので学生諸君からの質問等は全くありませんでしたが、まあ仕方ないかという感じです。ただ、今後は学生同士で議論するようにくぎを刺しておいたのはもちろんです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:基礎ゼミナール2015:20150513:P1010011.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:基礎ゼミナール2015:20150513:P1010014.JPG

 一人当たりたった二分の発表でしたが、何人かの学生さんは論点を明確にしてはなす内容を絞ったり、自分の考えを優先して話すなど、工夫してくれたことはとてもよかったと思います。受講生諸君が自分で考えて議論できるように、今後の自己研鑽を期待しています。

 この発表で授業時間の90分は使い果たしてしまいました。でも、次の課題を出題しないといけないので、わたくしにしては非常にレアなのですが、授業時間を延長させてもらいました(受講生の皆さん、ごめんなさい)。

 次の課題はグループ調査です。同僚の権藤准教授からグループ学習をやると思いのほか盛り上がるというお話しを伺ったので、取り入れてみた次第です。お通夜のような授業はコリゴリですから、藁をもすがる心境でトライしました。でもこれでわたくしの基礎ゼミナールは昨年度とは異なる未体験のゾーンに入りました。かなり不安ですけど、この試みがどうなるか今後の展開が楽しみなところもあります。

 右上の写真は授業終了後に各グループの顔合わせをしているところです。ちなみにグループ分けはわたくしが行いました。みなさんのユニークな調査を期待していますよ。


耳ネタ May 2015 (2015年5月13日)

 いまお気に入りの音楽は伊豆田洋之の「ハロー・ユア・スマイル」というご機嫌なポップ・チューンです(こちらのサイトをスクロールするとPVがあります)。はじけるようなピアノのイントロとか、“どんな日も、ニコっニコっ、冒険しようよ”という歌詞とか、子ども達の合唱とか、もう素敵なエッセンスが散りばめられている人生の応援歌です。この曲をきくと元気がモクモクと湧き上がってくるような気がします。ですからここのところ毎日、学校への行き帰りに聞いています。

 伊豆田洋之というひとはそれまで全く知りませんでした。プロフィールを見るとわたくしよりも年上ですから、相当なキャリアがある方のようです。その伊豆田洋之さんをどうして知ったかというと、先日、伊藤銀次のネット・ラジオにゲストとして出ていて、スタジオ・ライブでビートルズ時代のポール・マッカートニーの曲を歌いました。それがとっても上手(なんて歌手に向かって失礼ですけど,,,)だったんですね〜。そうして出会ったのがこの「ハロー・ユア・スマイル」でした。

Izuta_Hello

 それにしても世の中には、ひとに知られていないGood Vibrationがたくさんあるということを再認識させられます。言っちゃ悪いですけど、こんな曲のどこがいいのかなあ、などという安っぽい音楽が流行るのは(って、ファンにとっては大きなお世話でしょうけど)、やはり資本主義の為せる技なんでしょうね。

 日々暮らしていると、イヤなこともあればつらいこともあります。半世紀以上生きてきて、体もあちこちにガタが来ています。それでも、この「ハロー・ユア・スマイル」のように常に笑顔を絶やさない、前向きなおとなでいたいなあと切に思います。せめて気持ちだけはエバー・グリーン、ってことで頑張りましょうか、ご同輩。


噛みしめる (2015年5月12日)

 五月の連休も終わってしまいました。家族からはイヤな顔をされながらも、連休後半は家でのんびりと過ごしました。たまっていた學士會会報(March, No.911, 2015-II)を読んでいると、博物館明治村の記述に出くわしました(『博物館明治村』、中野裕子著)。それによると明治村は建築家・谷口吉郎によって設立されたとのことです。

 谷口は日比谷にあった鹿鳴館(J.コンドル設計)が1940年(日米開戦の前年)に取り壊されたことを残念に思い、それが契機となって明治村を開設することになったそうです。明治初期の外国崇拝の所産である鹿鳴館は、非常時においては国民思想を毒するものであるという社会の一般的な認識に対して、谷口はこう言っています。

 「歴史は曲げたり、抹殺することはできない。むしろ、時の流れを凝視することが大切である。」

 含蓄の深い至言ではあります。これはまさに現在の政治状況にもそのまま当てはまりますな。何事につけても熱し易く冷め易いのがわが国の国民性ですが、太平洋戦争直前にもそういうことがあったということです。過去にあった事柄は消し去ることはできませんし、無かったことにもできません。そういう当たり前のことを当たり前に認識できる常識的なおとなでありたいものです。


カレーを堪能する (2015年5月11日)

 よく晴れてちょっと暑いくらいに感じる週末、横須賀の三笠公園で開かれたカレー・フェスティバルに出かけました。以前に何度か行ったことのある、軍艦・三笠が保存されているところです。もともと横須賀は海軍カレーで売り出していますから、そのPRの一環なんでしょうな。そんな催し物があることは今まで知りませんでした。

 三笠公園の駐車場は狭くて収容台数が少ないことを知っていましたので、我が家としては早い時間に出発しました。それにもかかわらず、朝九時過ぎに着いたときには既に満車でした。それでもすぐ近くのタイムズの駐車場に停められましたので、ああよかったねと、懸案が解決してひと安心しました。すぐに軍艦・三笠に乗って撮ったのが左下の写真です。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:横須賀カレーフェスティバル2015:DSC01090.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:横須賀カレーフェスティバル2015:DSC01098.JPG

 昼近くになるとものすごい人出になりました(右上の写真です)。メインの屋台通りはそれこそ立錐の余地もないくらいですね。日陰はほとんどないし、坐るところも限られていてこりゃたまらんと思いました。でも軍艦・三笠の甲板に上がるとテント付きのベンチがあって(そこでカレーを食べるのは御法度でした)、海風が心地よく吹いていて助かりました。

 肝心のカレーですが、どれも結構美味しかったですよ。わたくしが一番おいしかったのは愛媛県の松山水軍カレーというやつで、みかんジュースを混ぜて炊いたご飯にフルーツがとろけている甘めのカレーでした。屋台のあいだを歩きながら買い食いをしているような感じの一日でした。


憲法を考える2015 (2015年5月4日)

 憲法記念日を迎えて今年もいろいろな立場のひと達や団体がそれぞれの主張を展開したそうです。我が国が自分の考えていることを率直に表明できる国家であることにまず感謝したいですね。自分たちの憲法なのですから、それについて大いに議論することは望ましいことだし、そうすべきであると考えます。

 そういう前提でわたくしの意見を開陳すれば、それは現行の憲法に特段の不都合はないし、平和の維持に関しては大いに寄与してきたというものです。日本国が世界のなかでそれなりの地位を保っていられるのも、この平和憲法によるところが相当程度に大きいと想像します。経済成長がいくら目ざましくてもそれで尊敬されることは全くなく、エコノミック・アニマルと揶揄されたのはご承知の通りです。

 現行憲法の最大(?)の欠点として、敗戦後の占領軍によって天から与えられたものであることを指摘する声をよく聞きます。国民の総意でもなんでもない、それは強制的に与えられた恥辱の結果である、という意見です。でも実はそれって、明治以来の日本人の特質だったのではないでしょうか。西洋文化を取り入れて、それを日本の風土に適合するようにアレンジして使いこなしていったという先人達の知恵のことです。

 平和維持に関する9条は日本人の発意によるものではないのか知れません(そのあたりの歴史的な経緯についてわたくしは承知しておりません)。でも結果として、新しい憲法としてのユニークで高邁な精神の発露を達成できたのだから、それはそれで良かったというのがわたくしの考えです。その証拠に憲法発布から既に六十八年が経過していますが、その前文や9条は未だに色あせることなくわれわれの指針としてそびえています。

 ただ自分たちの手で新しい憲法を作りたいという気持ちは、分からないでもありません。現行の憲法よりもさらに進歩的で地球上の平和の保持に役立つような条文であれば、それを加えてもよいと考えます。しかしそれには日本国民による総括的な議論を経る必要がありますし、個人的ななにがしかの思惑に基づいて為されるものでは決してありません。また運用で処理できる問題は、わざわざ憲法を変えなくても運用で済ませればよいだけの話しです。

 そんなことどもを考えるとき、国家の指針足るべき憲法を直ちに変えなければならないという意見には与することはできませんし、その必要性も差し当たっては思い至りません。太平洋戦争に敗れたのち、まがりになりにも他国の戦争に巻き込まれることなく平和な生活を享受できたのは、現行憲法の平和主義が防波堤の役割を果たしたところが大きかったということを忘れるべきではないと思います。


ボートの渋滞 (2015年5月3日)

 穏やかなゴールデン・ウィークの一日、遠出すると車の渋滞や人波にはまってイヤなので近場に出かけることにしました。車で約三十分の井の頭恩賜公園です。我が家のつねとして出発は遅くなったので、お昼に着いた頃には駐車場はどこも満車でしばらくはさまよえるオランダ人となって付近をウロウロしました。

 で、ぐるぐる回っていると恩賜公園の駐車場から偶然にも車が一台出てきて、そこに駐車できました。いやあ、ラッキーでしたな。例によって子どもがボートに乗りたいというので女房とふたりで乗ってもらいました。でも井の頭公園もものすごい人出でして、池の中のボートが渋滞しているではありませんか。池がボートで埋まっているのを迂生は初めて見ましたな。その必然の帰結として、あちこちでボート同士がぶつかったり、池の縁に引っかかって動けなくなったりしていました。

 そのあいだ、わたくしはプラプラと歩いていましたが、ありゃりゃ〜、ふと見ると向こうから見知った方が歩いてきます。それは某センターの審査委員会で一緒に部会委員を務めた梅野岳さんでした。ちょうどワンちゃんを連れてお散歩中とのことで、お互いその奇遇に驚きました。

 そのあと公園のベンチでお弁当を食べてから、せっかくここまで来たのだから吉祥寺にまで足を伸ばそうということになりました。何を隠そうわたくしは吉祥寺というところには行ったことがありませんでした。なんでも今一番住みたいまちと言われているそうじゃありませんか。

 そうしてのんびりと散歩しようと思ったのですが、その目論みはあっさりくずれました。井の頭恩賜公園から吉祥寺までの道はそれこそ新宿駅なみのものすごい人波だったのです。ひとびとに揉まれてなかなか歩けません。やっぱりGWはどこに出かけてもダメだということを再認識した一日でした。

 で、ちょっと歩いた吉祥寺ですが、駅周辺は細い道が入り組みごちゃごちゃとしてひとが群がっているというのがわたくしの印象です。集客能力は調布なんかよりは格段に上でしょうけど、そんなに住みたいとは思いませんでしたな。もちろん住宅街には立派なお家を多々見かけましたから、いいところなんでしょうけど(住めば都ってことでしょうか)。


孤独なふたり? (2015年5月1日)

 風薫る五月になりました。このところ暑いくらいの陽気が続いて、新緑が匂いたつような気持ちのよい時候です。

 さて世界中が注目していた(?)安倍首相のアメリカ議会での演説についてです。わたくしはテレビをほとんど見ないので米国議会での様子は分かりません。幸いなことに演説の全文が新聞に載っていたので最初から最後まで読んでみました。紙面は珍しいことに英語と日本語との全文併記でした。最初は英語を読んでいたのですが、だんだん面倒くさくなって日本語にしました。紙に書かれた字面を読んだので、演説の雰囲気やその場の空気等は把握していないことをまずお断りしておきます。

 その演説全文を通読した第一の感想は、こんなにアメリカべったりで大丈夫かなということです。アメリカ議会で演説しているので、アメリカに対するそれなりのリップ・サービスはたしなみとして必要でしょうが、それを割り引いても全面的に我が身(日本国のこと)を任せているようで相当に不安を感じました。

 そして次に驚いたのが、太平洋戦争で倒れた米国人に対しては哀悼の意をかなり強く示したのに対して、アジア諸国に対する同種のコメントはほとんどなかったことです。新聞の見出しには「先の大戦に痛切な反省」という語句が第一に載っていました。首相は確かにそう言っています。でも、字面を見る限りその部分はサラッと通り過ぎていってしまいます。アメリカに対する哀悼の言及では幾つかの例を挙げて滔々と語っていますから、その対比からすればアジアへの軽視ぶりは際立ちます。

 なぜにかくも米国一辺倒なのか、演説している場所がアメリカだからと言ってしまえばそれまでですが、これでは沖縄県民でなくても疑問を感じるでしょうな。多様であることが重要だし、そのことを尊重して受け入れようというのが現代の指向でしょう。それなのに両国が同盟すれば世界が良くなるみたいな、世界の中心はわれわれ二国みたいな、時代錯誤の一種の願望を発信してどうするのでしょうか。

 世界のなかでのアメリカのパワーが相対的に低下しつつある現在、アメリカに対して忠実であろうとすればするほど、日本も世界のなかで孤立するのではないかと畏れます。まさに世界のなかの孤独なふたりといった感じです。まず身近なところから相互の信頼を確立し、その実績を世界にアピールすることこそ、日本国が先にやるべきことではないでしょうか。


鯉のぼり2015 (2015年4月30日)

 「昭和の日」のうららかな陽気に誘われて(っていうのは嘘で、家内に出せっていわれたからですけど)、鯉のぼりを出してベランダに据え付けました。例年、ひとりで大汗かきながらやっていたのですが、今年は鯉のぼりの主役である子どもが手伝ってくれました。小学生も中学年にもなるとかなり使えるようになってきますね。細かい作業もだんだんと上手になってきて、父親としては嬉しいです。

 ベランダからキャンチで飛び出した竿の先で鯉のぼりがヒラヒラと泳ぐさまを見ていると、こちらまで気持ちよくなってくるから不思議です。ついでに兜も出そうということになって、梱包してある紙箱を久しぶりに開けました。一年ぶりのご無沙汰でした、っていう感じです。鯉のぼりも兜も両方の祖父母からのお祝いとして貰ったもので大切に扱っています。

 この日は子どもがプラモデルに色を塗りたいというので、筆の使い方とかシンナーの扱いとかを初めて教えました。ご承知のようにシンナーは臭くて頭にもよくありませんから、今まではダメと言ってきたのですが、自分自身のことを思い出してそろそろいいかなと判断しました。プラモデルは塗装を施すととたんにリアルになりますから、その楽しさを知ればしばらくは夢中になるのではないかと想像します。

 わたくしが子どもの頃には軍艦とか戦車とかのプラモデルを作りましたが、今どきの子どもはアニメ(我が家では「宇宙戦艦ヤマト2199」です)に出てくる宇宙船などを作っています。なにが面白いのかとオヤジは思ったりしますが、ひとそれぞれっていうことでしょうな。ちなみにわたくしが小学生の頃に作ったタイガー重戦車はしばらく子どものお気に入りになっていましたがほどなくして飽きたらしく、もういらないから片づけて、って言われちゃいました。


大学院でも双方向? (2015年4月28日 その2)

 先ほど大学院の講義がありました。付着とせん断という鉄筋コンクリート構造の構成原理に関わるプリミティブな内容です。そのイントロダクションとして付着作用とか曲げ付着とかを説明しました。

 でも座学だけだと眠くなるし、パワーポイントでは講義がどんどん進んで学生諸君の理解度が不安でもあったので、昨年からちょこちょこと簡単な演習問題を入れることにしました。

 きょうも梁部材を与えて、その付着応力度を計算させるとっても簡単な問題を出しました。せん断力Qを鉄筋周長fと応力中心間距離jで除すだけです。でもそれでは余りにも簡単すぎるので、梁の応力状態を逆対称曲げとして両端が曲げ降伏しているという条件を付けました。それくらいは分かるだろうと思ってのことです。

 しばらくしてひとりづつ指名して答えてもらおうとしたのですが、まず梁断面の降伏モーメントMyをだれも計算できませんでした。この段階であれっと思ったのですが、次に「じゃあ、逆対称曲げは分かっているんだろうね?」と聞いてみたところ、だ〜れも知らなかったのです。これじゃあ基礎が分かっていないので、付着応力度を計算するどころではないですよね。

 あんまり唖然としたので、講義を進める気力が失せました(教師にあるまじき態度かも知れませんが、本当に驚いたのです)。そうしてそこから先は自分たちで調べて解くように言い付けて、わたくしは教室を後にしたのでした。教師が答えを言うのは簡単ですが、それでは彼らのためにならないと考えたからです。

 学部の授業では双方向ということが言われていて、わたくしもできるだけそうするように努力しています。でも大学院でもそうしないといけないのかと思うと、正直なところうんざりします。とりあえず、昨年よりもさらに例題演習を増やして、学生諸君に考えさせる授業をしようかなと思っています。なんだかな〜っていうGW直前でした。


埋めぐさより (2015年4月28日)

 わたくしが子どもの頃にウォーターライン・シリーズ(スケールが1/700で喫水線より上だけがモデル化されたもの)の軍艦のプラモデルを作っていたことは以前に書きました。その“作品群”はずっと実家においてあったのですが、我が家の子どもがそれを見たいというので持ち帰ってきました。

 軍艦たちは大きな紙箱にしまってあったのですが、そのままだとガサガサと移動したりぶつかったりするので、埋め草として柔らかいはな紙とか藁半紙とかを丸めて突っ込んでありました。そういった埋め草を取り出すとその下からプラモデルが姿を現しました。うわ〜っすごい、お父さんよくこんなに作ったね、と子どもが感心して見ています。これ全部、お前と同じくらいのときに作ったんだぞ、とちょっと得意げに教えてあげました。

 で、数えてみると航空母艦1隻(「飛龍」です。本当は「赤城」もあったのですが、紛失していました)、戦艦2隻、巡洋艦7隻、駆逐艦14隻、潜水艦9隻、そのほかタグ・ボートとか砂利舟など小艦艇が数隻ありました。これだけあればちょっとした機動部隊を構成できますな。駆逐艦や潜水艦が多かったことから、当時の指向としてはあるいは水雷戦隊を作りたかったのかなとも思います。でも空母とか戦艦とかは単価が高くて小学生にはなかなか買えなかったというのが実情のような気もします。

 さてそれらの軍艦たちのあいだに埋め草となっていた藁半紙ですが、くしゃくしゃになっていたのを子どもと一緒に丁寧に伸ばして見てみました。するとそれはなんと高校時代の期末テスト等の問題とか答案だったのです。懐かしくてしばらく見やってしまいました。英語、化学、現代国語、日本史や倫理社会なんていうのもありました。

 一方、子どもが驚いていたのは試験問題などの用紙が黄ばんだ紙(藁半紙のことです)だったことでした。子どもが今使っているのはカラー刷りのしっかりした白い紙ですからね。今からみると三十数年前はやはり貧しかったということでしょうか。あるいは技術が未だ進歩していなかったということかも知れません、当時はガリ版刷りでしたから。

 そのなかに二年生のときの数IIBの答案がありました。得点を見ると57点でした(もちろ100点満点です)。そのときの数学は確か非常勤講師の後藤先生(男性)で、試験問題はべらぼうに難しかったことを憶えています。だから57点でも健闘したほうだったんでしょうな(って、どうなんだか?)。例えば以下のような問題です。

[問題3] nを正の整数とするとき、次の不等式を証明せよ。(配点15点)
Eq.1
 現在のわたくしではさっぱり分かりませんが、当時の私は数学的帰納法で解いていました。途中の計算を間違えたらしいですが12点が与えられていました。

 でも次の問題は全く手つかずの白紙だったのです。

[問題4] 1, 2, 3, ‥‥, 100 の100個の自然数のなかから奇数全部をとりだし任意の順にならべたものをa1, a2, ‥‥, a50, 偶数全部をとりだし任意の順にならべたものをb1, b2, ‥‥, b50, とするとき、Eq.2 の値の最大値を求めよ。(最大値になる理由を必ずつけること。)(配点15点)

 これどうやって解くのでしょうか。大きいもの同士を乗じて(例えば99×100、97×98、‥‥、1×2)、その和をとったら良さそうな気が直感的にはしますが、それを証明する方法はすぐには思いつきませんな。

 ちなみに数学の後藤先生は東大の数学科を出たあと、仏文かなにかの大学院に通いながら、アルバイトとして数学の非常勤講師をやっていた方だったと記憶します。その風貌がなんとなく浮世離れしていて独特の雰囲気を醸し出していました。とにかく頭の良さそうな方でした。だんだん思い出してきましたが、後藤先生は休日のこの日は自分の下宿に遊びに来てもいいですよと授業中にアナウンスしていて、誰が行くんだろうかと訝しんだものですが、クラスの数人の女子たちが遊びにいったという話しを聞いてビックリ仰天したものです。

 また授業時間の最後の頃に用紙1枚を渡されて、きょうはなんでも好きなことを書いて提出して下さい、ということもありました。今思えばこれは生徒とのコミニュケーションをはかりたいという試みだったのでしょうか。本当のところは今となっては永遠の謎ですけど。そういうことが何度かあったような気がしますが、あるとき、最近とっても疲れるんです、っていう(書くことに窮して、どうでもよい)ことを書いたら、生真面目な後藤先生からお返事があって「疲れはとれましたか」って書いてあったことを思い出しました。

 とにかく学校群時代の都立進学校にはユニークな先生が多かったですね〜。今と違って先生方がお役人のように数年で転勤するということはなくて、その学校に何十年も勤めていることが多くて、そういう先生が名物教師になっていったんだと思います。プラモデルの埋め草から古き良き時代をほのぼのと思い出した週末の午後でした。


統一地方選挙 (2015年4月27日)

 この週末は統一地方選挙があって、わたくしの住む小さい市でも市議会議員選挙がありました。午前中に地区センターに投票に行ったのですが、それほど混んではいませんでした。それでも絶えず人々が訪れていましたから、それなりの投票率になったのではないかと推察します。

 市議会ともなるとどんなひとがどんな活動をしているのか全く知りませんから、選挙公報を頼りに選びました。例によって消去法です。わたくしの地元は前市長が共産党員だったこともあって共産党に根強い人気があるようです。しかしながら共産主義はその壮大な実験の果てに、人々を幸福にするどころか膨大な血を流して失敗に終わったことは歴史の教えるところです。そのような現実があるにもかかわらず、未だにその主義を党名に掲げているということがわたくしには理解できません。

 そんなわけで政党から出ている候補者達には早々に見切りをつけて、結局は無所属のひとに投票しました。今までの数多の選挙でわたくしが投票した候補者はだいたい落選していますが(自慢することじゃありませんけど,,,)、この方はどうでしょうか。開票結果が楽しみです。

追伸: わたくしが投票した方はなんと2000票近くを得てトップ当選していました。いやあ、驚きましたな。二位の方も無所属の新人でした。既存の政党に対する失望があらわになったということでしょうか。ちなみに共産党は立候補した五名全てが当選しました。1000票が当落ラインだったようです。


発掘したフィルム写真 その3 (2015年4月24日)

 宇都宮大学の助手になって二年目の1989年5月に、RC柱梁接合部に関する三国セミナーの最終回がハワイで開かれました。この年には日本、アメリカ、ニュージーランドの三国に中国が加わって四国セミナーになったと記憶します(調べたら間違っていました。1987年から中国が加わっていましたので、このときは四国セミナーだったわけです)。

 わたくしは1987年に青山博之先生と小谷俊介先生とにニュージーランドに連れて行っていただいて以来の外国で、ハワイはおろかアメリカになど行ったことはありませんでした。それゆえ普通なら心細い洋行だったはずですが、日本から大挙して出かけましたので楽しくセミナーに参加することができました。ちなみにこのときも青山先生に連れて行っていただきました。

 日本から参加したのは青山先生、小谷先生のほかに森田司郎先生(京大、故人)、角徹三[かく・てつぞう]先生(豊橋技科大)、野口博先生(千葉大)、城攻[じょう・おさむ]先生(北大)、市之瀬敏勝先生(名工大)、長嶋さん(竹中工務店)、黒瀬行信さん(清水建設)、吉岡研三さん(大林組)、小林淳さん(大成建設/当時)、畑本斉さん(鹿島建設/当時)など、当時柱梁接合部を研究されていた蒼々たるメンバーでした。そのような偉大な先輩方の末席に加えていただいたことはとてもよい勉強になりましたし、その後の研究の進展にも大いに役立ちました。

JointSeminar1989_1

 うえの写真(竹中工務店の長嶋さんが撮影して送って下さったもの)は多分ディナーか何かのスナップだと思いますが、わたくしと同じテーブルにおいでの二人の外国の方はどなたなのか思い出せません。後ろで横を向いている方はテキサス大学のJ.O.Jirsa(イルサ)先生です。Jirsa先生は1985年に東京でお会いした、わたくしにとっては初めての海外のBig Nameの先生ですから忘れるはずはありません。

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 この写真は日本人研究者の懇親(セミナー後の飲み会?)の風景です(これも竹中工務店・長嶋さんが撮影したものです)。左から森田司郎先生、わたくし、市之瀬先生、黒瀬さんで、かなりリラックスした様子がにじみ出ています。皆さん、お若いですね。わたくしなんか当時の青山・小谷研で作成したえんじ色のTシャツ姿ですゾ、あははっ。大御所の森田先生の隣にしっかり坐っていますので、生意気だった自分自身を“再発見”した気分ですね。

 森田先生には大学院生のときからとてもかわいがっていただきました。角先生もそうですが、京都大学の先生方はみなさんとても愉快で、学生にとっては非常に親しみ易い先生方でした。しかしひとたび学会に出れば最先端を走るトップ・ランナー研究者として著名でしたから、そういう他大学の先生方の薫陶を受けることができて、とても幸運でした。

JointSeminar1989_3

 四国セミナーにしっかり参加していたことが分かる写真も載せておきます。上の写真はセミナーの会場となったハワイ大学East-West Center の会議室のスナップです(小林淳さんが撮影して送って下さったものです)。左端にわたくしが写っていて、どうやら原稿でも見ながら発表の準備をしているようです。皆さんご存知のようにわたくしは英会話は苦手ですから、発表の練習は相当にやっています。なおこの写真の中央には、NZ・カンタベリー大学のRobert Park先生(故人)が写っています。

 冒頭にも書きましたが、初めて行ったハワイが楽園のように感じました。こんな気候の温暖なところで暮らしたら、のんびりできてよいだろうなあと思ったものです。そういうところにハワイ大学はあるのですが、これじゃあ勉強する気がおきないだろうなと、ひとごとながら心配になったくらいでした。


やっててよかった (2015年4月23日)

 昨日の『基礎ゼミナール』とか、以前に担当した『建築文化論』のようないわゆる教養の授業を担当していてつくづく思うことがあります。それは自分自身が大学生の頃にかなり幅広くリベラル・アーツを勉強し、いろいろな分野の書籍を読んでいて、良かったなあということです。また建築学科に進んでからも、当初は建築構造学を専門にしようとは思いもしなかったこともあって、建築学や都市工学のかなりの分野の勉強もしました。とくに建築の歴史や思想については多くの書籍を乱読することによって精神的な血肉となったものが多く、そうやって獲得した知識は忘れることはありません。

 それらのなかには当時の流行だったものも含まれますが(例えば、浅田彰さんの『構造と力』に代表されるような新しい哲学に注目が集まったネオ・アカデミズムとか)、時代を経ても色あせることのない普遍的な真理もまた多くあったのです。そういうものは今の時代にも有力なツールとして役立てることが可能で、若い学生諸君にとっても有益なはずです。

 もともと建築学には文系から理系までの学問領域が幅広くひろがっています。ですから種々雑多な事柄で建築とは一見関係がなさそうなことでも、深いところでは繋がっているというのはよくあることです。そういう多領域の知に基づいて授業をすることができて、今更ながらよかったと思うわけです。もちろん個々の知識はそんなに深いものではありません。でも、いろいろな話題を学生諸君に提供することによって、彼らの脳内シナプスがどのようにつながって、なにを発想するかは分からないですよね。すなわち若い頭脳への刺激として、わたくしの知識のフラグメントを彼らに提供しているようなところもあります。

 これはわたくし自身の自己満足かもしれません。しかし少なくとも『基礎ゼミナール』にはいろいろな学科・コースの学生さんが集合していますので、幅広い話題提供にはそれなりの意味があるだろうとも考えています。鉄は熱いうちに打てといいますが、若い頃に一所懸命勉強したことは人生において大いに役立つということですな。


キャンパスお散歩 (2015年4月22日)

 きょうは『基礎ゼミナール』の二回目でした。昨年に引き続いて南大沢キャンパス内の散策を行いました。今年はお散歩をする前に教室で、本学のキャンパスのキーワードと登場する人物とをあらかじめ説明しておきました。そうすることで種々雑多な説明を興味深く聞けるだろうし、そのあとで各自が調べるときにも容易だろうと考えたからです。

 きょうは気候はよかったのですが、お散歩をする頃から雲行きが怪しくなって来て、風が強くなってポツポツと雨が降ったりしたのは残念でしたね。誰か普段の行いの悪いひとがいたのでしょうか。今年は正門前から南大沢駅へ向かってペデストリアン・デッキの説明も追加したので、ちょっと時間をオーバーしましたけど、わたくしとしては気分よく説明できました。

 だいたいの説明は建築デザインだったり都市計画だったり、あるいはペンローズ・タイル(下の左の写真)だったりして、わたくしの専門である建築構造についてはほとんど出番はありません。でもそれではちょっと悔しいし自分の研究の宣伝くらいやってもよいだろうということで、大型実験棟の説明も加えました(これは昨年度と同じです)。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:基礎ゼミナール2015:20150422:P1000962.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:基礎ゼミナール2015:20150422:P1000970.JPG

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:基礎ゼミナール2015:20150422:P1000986.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:基礎ゼミナール2015:20150422:P1000997.JPG

 しかし説明することが年々増えて行くっていうのは、どういうことなんでしょうかね。何も知らない(だろう)若者にこちらの知識を伝授したい、それをきっかけとして自分自身で考えて欲しい、というふうに指向するようになったのは、自分自身が年をとったからだと感じます。若い頃には、そんなことは自分で考えればいいだろうとか、そんなことは私が言うことじゃないよな、とか思ったものですが、最近ではいろいろ伝えたいと思うんですね〜。これこそまさに老婆(わたくしだったら老爺?)心の発露ということでしょうか。こんな風に自己分析するとイヤになっちゃいますけど。


読んで至福 (2015年4月20日)

 我が家のトキワマンサクの赤い花々が強い風に散っています。チューリップは盛りを過ぎて散り始めました。ただホンコンヤマボウシだけはまだ、縮こまった蕾(植物学的にはガクと言うらしいですけど)のままです。

 さて飯嶋和一氏の新作がついに出版されました。『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』(小学館、2015年2月)というタイトルです。思い返せば足かけ七年前の『出星前夜』以来ですから、随分と長いあいだ彼の小説を読んでいなかったことになります。前作では島原の乱が舞台でしたが、今作では大塩平八郎の反乱から説き起こされています。読み始めたばかりですので、どうなるのかは知りませんけど。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:717caTkawDL.jpg

 最初のページに目を落とすと、その文体といい書きっぷりといい、ああこれが飯嶋和一なんだよなあとすぐに思い出しました。彼の小説の特徴は善人と悪人とが明確に区別されていて、でもその筆致はあくまでも淡々としていることでしょうか。善人はどこまでも善人で気の迷いとか心のためらいとかが一切ないので、安心して読むことができます。もっとも、人間の心理的な葛藤とか優柔不断さとかが描かれることはほとんどありませんから、そういう人間ドラマが好きなひとには面白くないかも知れません。

 わたくしにとっては、読み進むうちに心のなかにじわ〜っと湧き上がってくるものがあって、気持ちを暖かくさせてくれます。まだ九十頁ほどしか読んでいませんが、これから読み進めることが楽しみで仕方ありません。彼の素晴らしい小説をふたたび読むことのできる幸せを味わい深く噛みしめながら、読んでゆきたいと思います。こんなふうに感じる小説家はほかにいませんねえ。


研究室で初めて (2015年4月17日 その2)

 トップページに掲載しましたが、片江拡さんを第一著者とする論文が日本建築学会構造系論文集に採用となりました。これは片江くん(現在はピーエス三菱)が我が社において修士論文の研究として実施したもので、RC立体隅柱梁接合部の挙動を三方向加力実験によって検証しました。スポンサーは塩原等・東大教授の科研費基盤研究Bですので、塩原兄貴にはここにあらためて御礼申し上げます。タイトルは『3方向加力される鉄筋コンクリート立体隅柱梁接合部の耐震性能に関する実験研究』です。

 我が社で今までに黄表紙(日本建築学会論文集のことです)を執筆したのはいずれも博士後期課程に在学した人びとでした。博士前期課程(修士課程のこと)に在籍中に黄表紙を書いた社員はひとりもいませんでしたので、片江くんは我が社にとっては初の快挙ということになります。

 片江くんがM2になる前くらいから、これは貴重な実験研究なので是非、黄表紙に投稿しようねと言っておいたのですが、昨年の十月中旬くらいに草稿を持って来て、いよいよ本格的に取り組むことになりました。片江くんの努力は大したもので、わたくしと共にうんうん唸りながらも2015年早々には建築学会に投稿することができました。本当に立派だと思います。掲載決定の通知をいただいて、片江くんだけでなくわたくしもとても嬉しく思います。

 なお、二名の査読者から貴重なご意見・ご質問をいただき、論文を改善することができました。査読者は覆面なのでどなたか分かりませんが、その好意的な査読に対してこの場を借りてあつく御礼を申し上げます(もちろん、このページをご覧になっていることはないと思いますけど)。

 片江くんの実績によって、博士前期課程に在籍する学生諸君もやる気と実力さえあれば黄表紙に論文を載せることも可能である、ということが我が社のなかで明白になった事実は大きいですね(もちろん、他の研究室やよその大学ではそのような事例は多いと思いますので、これはあくまで我が社の実情です)。研究室に在籍するメンバーがこれに刺激を受けて、あとに続いてくれることを期待しています。


勧められても‥‥ (2015年4月17日)

 朝日新聞の紙面に編集委員のひとが書いた、よくある「節電の勧め」的な文章が載っていました。冷蔵庫の電源を抜いて仏の境地に思い到った、という内容でした。冷蔵庫から仏へ、という発想はなかなか奇抜でそうかもねと思わされました。でも、前提である冷蔵庫のアンプラグドというのはどうなんでしょうか。原発を憎むあまりの節電、という空気があたりに濃密に漂っているのが鼻につきましたな。

 いつも書いていますが現代文明の所産である便利さは素直に享受したらよい、というのがわたくしの意見です。冷蔵庫はわれわれの生活を格段に便利にしてくれる利器ですから、それを賢く使ったらよいでしょう。無駄に電気を使うことは避けるべきですが、生活を豊かにする電気は使ったら良い、いや、使うべきであると考えます。節電によって健康を害するようなことがあれば、それはもう論外です。

 冷蔵庫を使わない生活というのを面白おかしく紹介したい、という気持ちもまあ分かります。でも何度も書きますが、その基盤に明確な思想が隠されているとしたら、それは気楽に読める読み物とは言えないでしょう。公器たる大新聞には、そこまで考えて記事を掲載してほしいと思いました。


基礎ゼミナール始まる (2015年4月15日)

 新入生対象の『基礎ゼミナール』がきょうから始まりました。今年は全部で22名の学生諸君が履修してくれて、女性がその過半数を占めました。ただでさえ女性のほうが男性よりも元気なので、男性陣の奮起を期待しています。

 はじめに皆さんに自己紹介してもらったのですが、昨年と較べて(どういうわけか)ことしは盛り上がりました。特に建築都市コースの学生諸君はなぜ建築を選んだのかということを語ってくれましたので、とても面白かったです。昨日の『構造力学1』の授業の最後に、予めこの自己紹介の内容を考えて来るようにアナウンスしたのが功を奏したのかも知れません。

 ことしは東京近辺のひとが多いというのも特徴です(単なる偶然に過ぎないのでしょうけど,,,)。昨年度の学生諸君による授業評価を参考にして、今年度はグループ学習も新たに加えてみました。どうなるか分かりませんが、このゼミナールを受講する学生諸君の積極的な参加を期待します。


しばしお別れ2015 (2015年4月14日 その2)

 久しぶりの講義が終わって一服していると、この三月末に大学院を修了した楊森くんがやってきました。いよいよ生まれ故郷に帰国するというので、お別れを言いに来てくれたのです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:楊森くん201501414_2.JPG

 楊森くんは研究生を含めて三年半ほど我が社に在籍したわけですが、思い返すといくつかの偶然が重なってわたくしのところにたどり着いたのでした。人生は一期一会と言いますが、出会いも別れも時の偶然の賜物であるというのがわたくしの認識です。ですから別れは少しばかり悲しいですが、それは新しい出会いの始まりでもあるわけで、将来の再会を楽しみにしています。故国に戻っても我が社で学んだことをよき糧として活躍することを願っていますよ。


絹でつながる (2015年4月14日)

 この春休みに富岡製糸場に行ってみました。世界文化遺産に登録されて人気が急増したそうですが、わたくしもご多分にもれず初めての訪問でした。製糸場の敷地内には建物がたくさん建っていますが、なかに入れるのはごくわずかです。工場や住宅などが主要な施設なので、なかを見てもあまり面白くないのかも知れません。このように富岡製糸場だけを見学しても、そこがなぜ世界遺産なのか理解できないような気がしました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:伊香保温泉2015年4月:DSC01025.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:伊香保温泉2015年4月:DSC01036.JPG

 で、ここで主人公となる生糸とか養蚕ですが、ちょっと目を転じると横浜から八王子には江戸から明治にかけて絹の道がありました。JRの横浜線も元々は八王子の生糸を横浜に運ぶために敷設されたと聞いています。遠藤於菟が大正時代の末に設計した生糸検査所も横浜に建っています。

 このように多摩地方でも養蚕が行われていたようです。ここのところ時々出かける日野市にもそのための施設があったということをつい最近、山田幸正先生(本学教授、東洋建築史)から伺いました。蚕糸試験場日野桑園という名称で昭和7年に建設された2階建ての建物がわずかに一棟だけ、まだ残っているということです。これは1階が鉄筋コンクリート(RC)構造、2階が木造というハイブリッド構造です。わたくしはRC構造の歴史とか発展とかに興味があるので、山田先生が教えて下さったわけです。

 さらに群馬県富岡と長野県岡谷とが同じ養蚕でつながっていて、その岡谷市の旧市庁舎が昭和11年竣工のRC構造らしく、これからの活用(あるいはコンバージョン)を模索しているというお話しも山田先生からうかがいました。来年度の大学院プロジェクト研究コースのテーマをどうするかというスタッフ打ち合わせのなかで、そういうお話しが出てきたのです。

 このように絹(あるいは桑)でつながった文化的な施設群の活用やそれを活かした町づくりというのも、プロジェクト研究コースの活動として面白そうだなと思いました。もちろんわたくしの興味の所在はRC建物の保存と再生、そして当時のRC建物がどのように設計されていたかということにあります。当時の断面リストとか配筋図を見るのも楽しいですね。


春のシーズン開幕 (2015年4月13日)

 春の東京六大学野球がいつもの神宮球場で開幕しました。開幕試合は東大対明大でしたが、0−2で惜しくも東大は敗れました。スコアを見ると野球になっていて、ひと安心です。投手が失点を2点に抑えたのは立派だと思います。いつも書いているように、相手はずうたいが二回りも大きいような甲子園経験者をズラ〜っと揃えていますから。そんなスーパーな選手達を相手にたったの2点に抑えたんですから、凄いんじゃないんでしょうか。

 かような投手陣の踏ん張りに打線が奮起しないといけないのでしょうが、如何せん3安打ではどうしようもありません。昨年秋にはかなりの打線だったのに、半年経って戦力が入れ替わったらまたぞろ元に戻った、ということでしょうか。

 不名誉な連敗記録を更新中ですから今シーズンには是非とも一勝をあげてもらい、神宮の杜に『ただひとつ』の歌声を高らかに轟かせて欲しいと思います。選手の皆さんの奮闘を期待します。

 ちなみに東大野球部の歴代投手の中で最多勝利をあげたのは岡村甫先生で、確か十数勝だったと思います(調べたら通算17勝でした、すごいですね〜)。岡村先生はかつては東大・土木のコンクリート研究室を主宰されていました。わたくしが博士論文を青山博之先生に提出したとき(大昔のことです)、その副査をお引き受け下さいました。工学部1号館の岡村先生の研究室を訪ねて、わたくしの博士論文に対するご指導を賜りました。そのとき岡村先生は鉄筋とコンクリートとの間の付着作用について研究した大先輩として、大いに論じて下さったことをよく憶えています。

追伸; 日曜日の第二戦は0−7で今度は大敗しました。う〜ん、残念です。


基礎ゼミナールの受講者2015 (2015年4月10日)

 トップページにも記しましたが、4月15日からスタートする『基礎ゼミナール』の受講者が決まりました。その発表が本日だったのですが、受講者数の上限である22名がWebのわたくしのページに記載されていました。ということは、もしかしたら受講者数が多くて抽選になったのかも知れません。昨年度の『基礎ゼミナール』の様子をこのページに載せていたので、それを見た学生さんも多かったように感じます。宣伝の効果があった、ということでしょうか。

 でも昨年の経験からすると、22名はちょっと多いような気がします。ゼミナールの内容は既にほぼ決めましたので、これからそれを変更するのも辛いので予定通りにやってみようと思っています。なお22名のうち建築都市コースの学生諸君は過半を超えて13名でした。昨年度は文系の学生さんはひとりもいませんでしたが、今年はありがたいことにお一人いました(ぜひ、頑張って下さい!)。

 昨年度の反省から、ことしは学生諸君をグループ分けして実地調査もやってもらうことにしました。ただ、メインである最終発表は昨年同様に個別の調査結果を個々に発表してもらうことにしています。『基礎ゼミナール』は教員だけの努力ではどうにもなりません。そのことは昨年度の授業でいや〜っというほど思い知らされました。ですから、受講者諸君の授業への積極的なコミットを期待します。それと同時に、楽しいゼミナールにしたいとも思っています。なおこのゼミのティーチング・アシスタント(TA)には、昨年に引き続きM2・星野和也くんにお願いしました。


甲府へ行く (2015年4月9日)

 先週末に甲府へ行ってきました。山梨県には縁の深い西川孝夫御大から甲府市役所でのある仕事を頼まれました。ひとりじゃ寂しいので(って嘘ですけど)岸田慎司さんも誘って三人打ち揃って出かけた次第です。これって十年以上前の東京都立大学での教授—助教授—助手のラインでして、とても懐かしいチームが復活しました。ちなみに甲府へは十数年前に建築学会関東支部のRC講習会のときに講師として日帰りして以来です。

 ちょうど桜や桃の花が見頃だったことに加えて、甲府市では年に一度の信玄公祭りという催し物が開かれていまして、駅前のメイン・ストリートは結構な人出でした。山梨県の防災センターの前には武田武士の一団が陣取っていました。真田六文銭が目立ちますが、左の幟旗には“武田典厩信繁(てんきゅう・のぶしげ)”と書かれていて、以前に新田次郎の「武田信玄」(文春文庫)を読んだことを懐かしく思い出しました。ちなみに典厩信繁は信玄の弟です。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:甲府市役所2015:P1000938.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:甲府市役所2015:P1000941.JPG

 甲府駅からちょっと歩いて甲府市役所に着きましたが、この建物は二年ほど前に新築された免震庁舎です。ちなみに設計・施工はプロポーザルによって決定したそうです。ちょうど東洋ゴムの免震ゴム偽装事件が世間を賑わせていますが、ここはブリヂストン製の装置だそうでひと安心していました。

 甲府市の人口は約二十万人ということですが、人口に比例して庁舎も立派になるような気がしますね。ここは市なので「市役所」と呼びますが、これが町だと「町役場」となります。わたくしはここのところ幾つかの町を訪れていましたので、ここのことをつい「役場」と言ったところ(それも数回)、西川御大からここは役場じゃなくて役所だろ、ってお小言を頂戴いたしました。地方公務員にも序列ってやっぱりあるんでしょうか、村よりも町、町よりも市、というような。

 ということで西川御大を委員長とする会議に出席してきました。これからしばらく甲府通いが続きそうです。八王子から特急に乗ってジャスト一時間ですから、まあ近いと言えばその通りです。せっかくですから、おいおい甲府の名所も訪ねたいと思っています。


再びきたる (2015年4月8日)

 三月末のある夕方、南大沢駅の脇で空を見上げているひと達がいて、つられて目をやりました。そこには高くさえずりながら群れて飛び回るツバメ達の姿がありました。ああ、今年はツバメが来たのだなという感慨に浸りました。

 正確には憶えていませんが、少なくとも2011年の大地震の春にはツバメはやって来なくて、それ以来ず〜っと見かけませんでしたから、四年ぶりの到来ということになります。日本での天変地異とか放射能汚染とかをツバメは敏感に感じとって東京への飛来を本能的に避けてきたのでしょうか。いずれにせよ自然の力は偉大だと感じますね。

 でもツバメが戻ってきたということは、少なくとも彼らにとっては安全な自然が戻ってきたということでしょう。それはわれわれ人間にとっても歓迎すべきことがらです。皆さんの住む町ではいかがでしょうか。ときには空を見上げてツバメの姿を探してみて下さい。


大イベントの終わり (2015年4月7日 その2)

 今年も建築学会大会の梗概締め切り日がやって参りました。本日の正午が締め切りですが、残すところあと二時間となって我が社ではやっと終わりが見えてきました。学生諸君にとっては一年間の研究成果の集大成といっても過言ではありませんから、それなりに頑張ってくれたのだと思います。結局わたくしを含めて合計八編を投稿する予定です。

 それにつけても、ことしの我が社は久しぶりに大変でした。RC柱梁接合部の水平二方向加力実験を担当したM2の石塚裕彬くんにわたくしの分も含めて二編執筆してもらったのですが、彼がむずかしいことばかり書くので議論と修文とを今まで繰り返しました。とは言うものの、四人いる新M2は皆さんそれなりに優秀だと評価していますので、期待通りの成果をまとめてくれたと思っています。

 それに対して、今年の三月末に大学院を終了した旧M2は四人のうち二人しか大会梗概を執筆しなかったのは残念でした。優秀な頭脳を持っているはずなのに、それを発揮しないなんてもったいないとは思います。しかし梗概を書きたくないひとは仕方がないねと数年前から達観できるようになりましたので、何も言いませんでした。今は良識ある社会人として活躍してくれることを祈るばかりです。

 我が社では二年続けて卒論生全員が就職するという状況で、それ自体は結構なことなのですが、大学院に進学するひとがいなかったので大学院は学外からの進学者を待つしかありません。研究室の人数があまりに多くても目が届かないので困りますが、人数がだんだんと減ってくると(って、昔に戻っただけですけど)、やっぱり寂しい感じがします。今年も学外の多くの方に大学院入試を受験して欲しいと思っています。お待ちしておりま〜す。


鬼哭の島 (2015年4月7日)

 今週、平成の天皇・皇后両陛下がペリリュー島を訪れるそうです。パラオ諸島のひとつであるペリリュー島は太平洋戦争中の激戦地で、一万人以上の日本陸海軍の将兵が非命に倒れた鬼哭の島として今にその名が伝わっています。もちろん米軍にも多大な犠牲が出たわけで、両軍が狂気の戦いを繰り広げた戦場だったということです。

 戦後七十年を経過してそのような地獄だった島も緑豊かな南海の楽園に戻り、今は平穏な時間がゆっくりと過ぎているのでしょう。しかし島内に残る洞窟の奥深くには未だに日本兵の遺骨や遺品が残されていると聞きます。

 そのような恐ろしげな島に現代の天皇陛下が慰霊に訪れるというのです。あまつさえ泊まるところがないので巡視船のなかに宿泊されるということです。ご高齢にもかかわらずそのような情熱と使命感を抱かれていることには感服します。日本国とパラオ共和国とが総力を挙げてサポートする国家事業とはいえ、なかなかできることではありませんから。

 七十年前にはそういう狂気が支配する島があったという事実を、現代のひとたちはもっと知るべきであると思いますね。日本が悪いとかアメリカが悪いということではなくて、戦争という行為が理性的な人間を野獣に変えてしまいます。そのことを戦後七十年の平和を謳歌してきた現代の我々は再度認識すべきではないでしょうか。そうして平和の尊さを噛みしめなければ、戦場に倒れた先祖たちに顔向けできないと思います。

 現代の天皇は政治には口出ししないことになっています。しかし天皇陛下のペリリュー島訪問は、戦争へと踏み出しつつある現在の日本の危うい状況に一石を投じる役割を意識されておいでなのではないか、そんなふうにわたくしには思えるのです。


対面する (2015年4月6日 その2)

 今日は本学・都市環境学部の新入生を対象としたガイダンスがありました。わたくしは昨年度の教務委員長でしたので、その最後のお仕事として履修ガイダンスを担当しました。大学に入ったばかりで希望に燃えているはずの(?)若者たちに、カンニングの処罰のはなしとか、四年後に卒業するときの必要要件とかの話しをしてもピンと来ないのだろうな、とは思いながら、それでも重要なことは言っておかなければなりませんので、話してきました。

 大教室で大人数が相手ですので、手応えは全くありませんでした。まあ仕方ないのでしょうが、新入生が大人として振る舞ってくれて、大学での学業に身を入れてくれるといいかなと思いました。来週からは講義も始まります。今年はどんな学生諸君が入って来たのか楽しみです。


吉報きたる (2015年4月6日)

 果報は寝て待てとか、待てば海路の日和あり、といった諺がありますが、新年度初日の四月一日に吉報がもたらされました。昨年十月に申請した科研費(正確には日本学術振興会[JSPS]・科学研究費補助金のことです)の研究課題が採択されたという通知です。精魂かけて作成した申請書でしたし、書いたときにはこれで絶対に科研費をゲットできるぞ〜という気概がありましたが、やっぱりこの日が待ち遠しかったですね。この前日に一足早く科研費が採択されてヤッタあっていう夢まで見ましたから、推して知るべしです。

 上記に採択通知と書きましたが、そういうお知らせがJSPSから来るわけではなくて、実際には研究者個人に割り当てられたサイト上のページにひっそりと表記されるだけです。「交付内定時の手続き」というページにアクセスしないとダメで、そこに採択課題名と課題番号とが記載されていることにしばらく気がつかなかったくらいです。

 ちなみに採択課題名は「アンボンドPC鋼材で圧着接合したプレストレストコンクリート骨組の復元力特性評価法」というもので、我が社の二枚看板(鉄筋コンクリート[RC]構造とプレストレスト・コンクリート[PC]構造)のうちのひとつをテーマとして掲げました。我が社のように大規模な実験を行う研究者にとっては、先立つモノがないと実験自体を実施できません。科研費のお陰で今年度も実験ができることになり、嬉しいことこの上もありません(と言っても、実験自体は我が社の社員に担当してもらうことになりますけど)。

 ただ、折に触れて書いていますが構造実験はとても手間ひまがかかりますし、それなりに危険も伴いますので、精神的な負担が結構のしかかってきます。実験での安全確保をくどいくらい学生諸君に言い聞かせるのもその所為です。そういう心労がありますので、実験をいつまでやるんだろうかということは正直なところ、いつも考えます。定年まであと十年ちょっとになりましたから、実験打ち止めの時期が近づいているような気がします。

 幸いなことに、プレストレスト・コンクリート構造の部分架構実験はこの十数年でかなりの試験体数をこなしました(それもこれもPC研究へと背中を押して下さった大阪大学・中塚佶先生と鹿島技研・丸田誠さんのお陰です[所属はいずれも当時のものです])。今後はそれらの実験データを総合的に検討し、場合によっては統計的に処理するような時間を取りたいとも考えています。有限要素解析やマクロ・モデル解析、あるいは建物の地震応答解析といったように解析研究もたくさんできますので、コンピュータを使った研究にシフトしてゆくのかなあとも思います。

 でもやっぱりわたくしの真骨頂はオリジナリティ溢れる実験にありますので、その旗を降ろすのは残念だし、そうしたら実際のところ研究が詰まらないものになってしまうような気もします。いずれにせよこれから三年間の研究費はいただけることになりましたので、そのあいだにじっくり考えようと思います。


ジャンケンはきびしい! (2015年4月1日 その2)

 以下は研究室のスペース問題の顛末です。本年度のコース長である須永修通先生がいろいろと調整を試みて下さったみたいですが結局、不調に終わりました。7階にある第二会議室を学生共通部屋にしたらよいと思っていたのですが、8階の先生方の賛同が得られなかったのでしょう。その代わり8階の一室を間借りさせていただけることになりました。これで一つの研究室が三分割されるという事態だけは避けられることになりました。それはそれでありがたいご配慮ですね。

 ところで、スペースを探している三研究室はいずれも7階にありますので、できれば8階には行きたくありません。もう策も極まったので、かくなる上はジャンケンで決めるしかないということになったんですね〜。でも、大学の教授達がまなじりを決してジャンケンするなんて、考えるだに恐ろしいじゃないですか。

 そこでわたくしは、我が社は学生代表にジャンケンをしてもらおうと思う、と言ったところ、ほかの二名の先生もそれに賛同してくれました。そうして三研究室から学生代表が打ち揃ってわたくしの部屋に集まりました。先生が三人、学生も三人です。ちなみに我が社の代表はM2の石塚裕彬くんでした。

 で、その責任重大な世紀の(大げさですけど)ジャンケンが先生方の注視する前で行われました。ジャンケン、ぽん! すると何ということでしょうか、石塚くんだけがパーを出して、あとの二人はチョキを出したのです。ええっ、まさかの初戦敗退、すなわちどん尻があっさりと決まったのです。そのとき迂生はわが目を疑いましたな。確率は1/3ですが、まさかのドベを我が社が引くとは想定外だったのです(って、この言葉は禁句か)。

 いやあ、思い返すだけで恐ろしい光景でした。頭を抱える石塚くん、勝って狂喜乱舞するふたり。こうして我が社の8階への進出が決定したのでした。いやあ、ついに8階に行けるんだ〜、嬉しいな〜、眺めがいいだろうなあ〜、ってもうやけくそ気味です。

 でもよく考えるとわたくしは、長い都立大学(今は首都大学東京ですけど)ライフのあいだに一度も8階に居を構えたことはありませんでした。というか、8階からの景色をじっくり見たことすらありません。もしかしたらこれはよい機会なのかも知れない、と考え直しました。8階(計画系の拠点です)のひと達の生態は未知ですから、いろんな発見があって楽しいかも知れませんし。いずれにせよ公正なジャンケンによって下された審判ですから、粛々とそれに従うしかありません。ということで我が社の社員の皆さんには引越しの準備をお願いしま〜す。

追伸; この顛末を聞いた星野和也くんが不機嫌そうな顔をして、最初にパーを出すかよ‥‥と弱々しくつぶやいていたのが印象的でした。多分ショックだったんでしょうね。ジャンケンでは「最初はグー」ってよく言うので、パーを出したんでしょうか,,,もう、どうでもいいですけど。


桜2015
 (2015年4月1日)

 南大沢の桜もいよいよ本番を迎えました。満開ではないですが八割から九割かた花開いたといった感じですね。正門脇の桜とインフォメーション・ギャラリーの先のブリッジから見た桜並木を載せておきます(撮影は前日の2015年3月31日)。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:野川_南大沢の桜20150331:P1000917.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:野川_南大沢の桜20150331:P1000924.JPG

 今日から新年度です。心機一転、新しい仲間も迎えます。我が社にはM1一名、卒論生三名、研究生一名の合計五名が新たに加わります。皆さんの今後の活躍を大いに期待しています。


ある離任 (2015年3月31日 その2)

 春本番はまた別離の季節でもあります。三月末は年度の大晦ということになりますが、この日、建築都市コース助教の遠藤俊貴さんがその任を離れます。三年という短い期間でしたが、建築都市コースの一員として授業やコース運営に尽力されるとともに、我が社の共同研究者として実験や解析研究において学生諸君を指導してくださいました。とくにわたくしがコース長になったときにはその補佐を勤めてもらいましたが、遠藤さんにとっては運が悪かったような感じで気の毒なことをしました。

 年々、学生諸君との年齢が離れてゆくため、昔のように気安く彼らと付き合うことが難しくなってきたように感じます。そういうときに彼らと年齢の近い遠藤さんには、学生さんのよき兄貴分として公私ともに彼らの面倒を見てもらいました。とくに最近はメンタル面で弱さを感じる学生諸氏が多いようです。そういうときにわたくしがガーガー言うと逆効果でしょうから、遠藤さんにそれとなく様子を探るように頼んだりしました。そういう緩衝材の役割を果たせるひとがいなくなるのは、正直なところ相当な損失ですね。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:遠藤さんと20150331_2.JPG

 遠藤さんは西の方の最高学府の出身者らしく頭のよいクレバーな方ですから、四月以降もきっと大いに活躍されることと思います。これからは構造設計の実務の仕事をメインにされるということですが、我が社で培ったRC構造やPC構造に対する知識が役立つことを祈っています。いま学会で作っているRC保有水平耐力計算規準(案)や等価線形化法設計指針(案)などが出版された暁には、第一線の構造設計者としてそれらの使い勝手や欠点等についてレポートしてくれるとありがたいですけどね、あははっ。まあ、これからもどうぞよろしく、元気で活躍して下さい。


厄介もの (2015年3月31日)

 世の中にはいわゆる厄介施設と言われるようなものがあります。ゴミ処理施設などがその代表的なものでしょうが、昨日の新聞によると昨今の保育所もそのカテゴリーに含まれることになりそうです。

 保育所を作ろうにも近隣の住民からの理解が得られずに立ち往生している、ということらしいです。我が家も昔は子どもを保育園に通わせていましたので、近隣の方々のご不満はよく知っています。住民の方から直接注意されたこともありましたが、それは送迎のときの車のドアの開け閉めがうるさい、というものでした。普段は自転車で送迎していましたが、雨の日など悪天候の日にはやはり車で、ということになります。自分勝手と言われれば、やはりそれはその通りですが。

 またあるときには保育園の前で子どもを自転車に載せて帰ろうとして、知らないおじさんに足で蹴られたこともありました。そのときにはさすがに頭に来たので(だって危ないじゃないですか)、そのひとの前で猛然と講義(職業病です)、じゃなかった抗議しましたけど。

 でも、子どもがいないひととか子どもが嫌いなひとにとっては、なんで自分がそういう“迷惑”を我慢しなくちゃならんのか、という気持ちは分からないでもないですね。わたくしも千葉大学時代には幼稚園の向かいのアパートに住んでいました。普段は朝早く登校して、夜遅く寝るために帰るだけなので全く気になりません。でも土曜日なんかに朝寝しようと思っても、うるさくて寝てられませんでした。

 他人さまの子どもなんて可愛いわけがありませんよね。保育所は基本的には両親が働く家庭のためにありますから、他人の金儲けのためになんで自分が犠牲にならにゃならんのか、というのもある意味正論です。

 でもちょっと考えてみて下さい。子どもは国の宝(って、いつの時代のプロパガンダ?)ですから、大きくなればわれわれの老後を支える貴重な働き手になってくれること請け合いです。すなわち自分自身の老後のために投資していると思っていただけると良いのですが,,,。

 もっともこれは若い世代には通用するかも知れませんが、高齢者の方々にはちょっと厳しいロジックかな。周辺に高齢の方が多い場合には、保育園児と高齢者との交流ができれば少しは理解が得られるような気がします。ご老人方だって幼児のお遊戯などを見ればかわいいなあということで心癒されると思いますから(それとも他人の孫はやっぱりかわいくない?)。でもそのためには双方の歩み寄りと努力とが必要ですから、やっぱり口で言うほど簡単じゃありませんね。


花が咲く 2015 (2015年3月30日)

 三月末になって近所のソメイヨシノも咲き始めました。暖かな春本番を思わせる陽気が続きましたので、我が家のチューリップの一番手が花開きました。昨年の終わりに近所の子ども達が二十個ほどのチューリップの球根を狭い敷地に植えてくれました。

 きれいに整列して植えてくれたらよかったのですが、さすがにそれは無理だったみたいで、写真の一番手は煉瓦ブロックにへばりつくように伸びています。日当りも悪いせいか、ちょっとヒネた感じですな。でも待ち望んでいた春がやっと来たようで素直に嬉しいです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:我が家_春2015:DSC00888.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:我が家_春2015:DSC00890.JPG

 もうひとつ、玄関脇にあったムスカリも(放ったらかしていたのですが)、小さいながらもツクシのような花芽が出てきて、薄紫色の花が咲きました。下草のタイムに負けているような感じですな。肥料はやっていたのですがムスカリにはあまり効果がなかったようです。

 目隠しにしているトキワマンサクの赤い花芽も大きく膨らんでいますので、それが咲き始めると我が家も春たけなわに彩られます。もうちょっとです。


光さす (2015年3月26日)

 光さす、というとなんか明るい話題のような気がしますが、残念ながらそうではありません。年度末でひとが少ないのを幸い、雨漏りで天井が破損しかかっていた会議室(9号館7階です)の修理が行われました。ああ、やっと修理してくれるのかと思っていましたが、通りかかったときに須永修通先生がおいでおいでというので作業をやっているところに入ってみました。

 腐りかけた天井材は落下寸前だったらしいですが、須永先生が気がついたのは窓上の天井材をはずした外壁の向こうから光がさして来ていたことでした。これってどういうことなのよ。建築の基本である、雨風を防ぐための雨仕舞いが出来ていなかった、ということになりますな。これじゃあ雨水が入ってくるわけです。天井の工事をしていたひと達もこれはひどいね、と言っていましたが、それを直すのは彼らのお仕事ではありません。

 思えばこの校舎は1980年代の終わりから1990年代初頭のバブル真っ盛りの頃に建てられましたから、随所に不具合が見つかっていました。そのような負の遺産がまたひとつ、われわれの目に触れたということでしょう。しかし外装材の取り付け方に問題があったとすればそれは建物全体に波及しますから、簡単に直せる代物ではなさそうです。とりあえず見なかったことにして,,,ということかな?

 でも、それよりもわたくしの目を引いたものが実はあったのです。それは天井裏に隠れていた鉄筋コンクリート梁です。その桁行方向の大梁に曲げひび割れが入っているのがくっきりと見えたのです。この感じだとひび割れ幅は5mmくらいはあるようでした。いやあ、恐ろしいですね〜。一カ所をパッと見ただけですが、この分だと同様のひび割れが随所に発生しているように考えられます。

 これらのひび割れは2011年の大地震によるものと思われます。それらは放置されていますから、建物の剛性は相当程度に低下していると考えるべきでしょう。小さな地震でも結構揺れるのは、建物が9階建てと少しばかり高いことのせいばかりではなさそうです。


静かな日々 (2015年3月25日)

 先週末に卒業式・修了式が終わり、23日に我が社の追い出しコンパも無事、終了したはずです。わたくしはちょっと具合が悪くて両方とも欠席しましたけど。そんなわけで、これから四月までの一週間ほどは大学にとって最も静かな時期になります。ちょっとしたエア・ポケットみたいな感じですね。

 しかしながら来年度に向けて、コース内ではいろいろと準備が進んでいます。そのひとつが物理的な研究室の割り振りをどうするか、というスペース問題です。我が社の来年度の陣容は特任助教の晋沂雄さんを含めて11名です。ひと部屋には納まらないので、エクストラのもうひと部屋をお願いしています。

 同じような研究室があと二つ(すなわち合計三研究室)あったのですが、あいにく7階の空き部屋は二部屋しかありません。そうなると一つの研究室は三分割しないと入り切らなくなります。いくらなんでもそれでは学生諸君が可哀想だ、ということになって、来年度のコース長である須永修通教授が中心となって調整が続いてます。

 もともと本学では1991年に目黒から南大沢に移転した際、実験系の研究室は実験室のスペースをいただいたので、その代わりとして居室スペースは計画系よりも少ない、という事実がありました。でもそんな二十年以上も前の“約束事”は現在の若い教員や学生諸君のあずかり知ったことではありません。

 実際のところ、計画系が使っている8階では比較的ゆったりとしたスペースが確保されているみたいで、それに対する不満の声が7階にはあるという話しです、何で自分たちだけ狭苦しいんだと。上述のような経緯なので8階の人びとにはまたそれなりの主張がおありだと思っています。学生定員が増大した分、明らかにスペースは足りなくなっていますが、このような根深いスペース問題を解決するのは容易ではないと考えています。

 ということで最悪の場合、我が社の研究室は三つに分かれることになります、例えば6名、3名および2名のように。これってどうでしょうか。やっぱり気の毒な感じはしますねえ。だからといってわたくしのいる教授室に同居するのはもっとイヤでしょうけどね、あははっ。


ダブルで,,がっかり (2015年3月23日)

 先日、朝から建築学会で会議があった日のことです。京王線に乗って都心に向かったのですが、途中の八幡山駅で停まってしまいました。新宿よりの下高井戸駅で事故があったとのことでした。三十分ほど待っていると二駅先の桜上水まで運転するとのことでしたので、そこまで進みました。

 学会の会議の時間が迫ってきますので、そこから一駅分歩いて下高井戸駅まで行きました。そこが始発の東急世田谷線に乗って三軒茶屋まで行き、田園都市線に乗り換えて渋谷に出ようと思ったのです。桜上水から下高井戸までは意外と近くて十分で着いたのはよかったです。で、久しぶりに東急世田谷線に乗りました。思い返すと2011年3月11日の地震のときに帰宅難民となって三軒茶屋まで歩き、そこから無料で世田谷線に乗って以来です。

 その世田谷線の速度の遅いことといったらありません。まあ路面電車に毛の生えたような二両編成の小さな鉄道ですから、遅いのはしかたないでしょうけど。ただ会議開始の時間は既に過ぎていましたので、はやる気持ちはどうにも抑えられません、早くしてくれ〜っていう気分です。

 そうして約二十分で三軒茶屋駅に着いて、そこから田園都市線に乗り換えました。ところがなんと田園都市線でも車両点検だか故障だとかでダイヤが大幅に乱れているじゃありませんか! 電車はなかなか来ないし、乗った電車はわずか二駅先の渋谷駅までノロノロでおまけにすぐに停まってしまって進みません。ああ〜もう、どうしてくれるのよ。

 気ばかりあせっても電車が進まないのでどうしようもありません。この日の会議は、RC保有水平耐力計算規準(案)の再度の査読対応をどうするかという非常に重要な集まりでしたので、どうしても出席する必要があったのです。そうじゃなかったら多分、八幡山駅で停まったときに三田までゆくことはあっさり諦めて(すなわち会議はすっぽかして)、下り電車に乗り換えて大学に向かったでしょうね。

 悪戦苦闘の末にやっと建築会館にたどり着いたときには、会議開始から一時間半を経過して既にお昼になっていました。主査の和泉信之先生は、ちょうど北山さんの担当部分を読んでいたところです、とおっしゃって下さいましたが、本当のところは九割り方会議は終わっていたのです。全く何やってんだかな〜という徒労感はどうしようもありませんでしたが、わたくしを待っていて下さった委員の方々にはお詫びとともに御礼を申し上げたいです。

 なんのために都心に出たのか分からないまま、でもものすごく疲弊しましたので塩原さんとお昼ご飯を食べて、大学へと向かいました。京王線のダイヤはほぼ元に戻っていましたが、南大沢駅で降りるときにPASMOが認識してもらえずに改札口で立ち往生してしまい、最後までケチの着き通しのこの日の電車ライフでした、とほほ,,,。


木を伐るはなし2015 (2015年3月17日)

 木を伐るのはなんとなく野蛮な感じがすること、そうは言っても自分自身がはからずも庭木を伐るハメになって悲しかったことなどを今まで書いてきました。その場所に昔から立っている木には風格というか、その街の来し方行く末を見守っているというか、なんとなく霊力のようなものさえ感じるから不思議です。実際、日本人には太古の昔から鎮守の森やご神木を大切に祭ってきたという歴史があります。

 そのような木々ですが、伐られるのが桜だとさらに思い入れが深まるようです。わたくしがいつも利用する京王線のS駅には、そのホームの両側に少なくとも六十年以上は経過しているという桜の木々が植えられていて、毎年春になるとサラリーマン達の目を楽しませてくれたものです。したの写真は2010年4月の桜です。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:桜さくら2010:CIMG0545.JPG

 そのように毎春を楽しみにしていた桜たちですが、今年の三月に綺麗さっぱりなくなっているのに気がつきました。で、調べてみると二月中旬から一本づつ伐られていったようですが、毎日利用しているの全く気がつきませんでした。ボーッとしていたのでしょうか。ですから桜が全くなくなったことを認識したときには愕然としましたね、ありゃあ〜っていう感じです。

 京王電鉄の言い分は、桜の古木は台風や突風でいつ倒れるか分からないので電車の安全運行のために伐採したということです。確かにこれだけの木々が倒れたら相当程度に危険なことは分かります。事故があってからでは遅いということも同前です。それでも、あとひと月伐採を待ってくれたら綺麗な桜花を楽しめたのになあ、と思うのは勝手な人間のエゴイズムそのものということでしょうなあ。

 残念だけど仕方がない、といって諦めましょうか。最近ソメイヨシノの最初の原木(の一本)が上野の森で見つかったというニュースが流れました。遺伝的にはソメイヨシノは一本の木からのクローンであるとも言われます。そうであれば、また別のソメイヨシノの若木を植えてくれれば(どうなるのか知りませんが)復活の日を迎えることもできましょう。いつの日かまたホーム脇で桜花を楽しめることを夢見ながら、今日もまた電車に乗ることにいたします。


耳ネタ March 2015 (2015年3月16日)

 過日、都心で会議があったあとに高校のときの同級生との会合が久しぶりにありました。そのときに自営業の飯田浩一くんが、この年になると事業を発展させようとするよりもどうやってたたもうか考えるよな〜、って言っていました。全く同感ですね。半世紀以上生きてきて、さすがに先が見えてきたという感じです。しかし、会社の経営者と大学の研究者とでは背負っている苦労はやはり異なるようです(って、まあ当たり前ですけど)。

 少なくとも研究はお金がなくても頭脳とそれにパソコンくらいあれば、いくらでもできます(ただし実験するには先立つモノが無いとダメ)。ですからこと研究に関しては、まだまだ先に進めて行けると思っていますし、そのような指向のもとに毎年の研究を進めています。

 しかしながら世間の荒波に揉まれているサラリーマンや弁護士などにはやはり大学人の苦労は理解されないようで、お前(私のことです)はなんの悩みもなくていいよなあ、って言われる始末です。確かに基本的には好きなことをやっているわたくしですから、それもそうだなとも思います。自分一人の研究室としてかなりのスペースをいただいていますが、それも会社でいえば重役級でしょうね(ただし秘書はいませんよ、念のため)。それでもそれなりに苦悩があることはこのページに事あるごとに書いている通りでございます(そう言うと、そんなのちっちゃい!って言われそうなのでもうやめます)。

 さてその会合が始まるまでにちょっと時間があったので、タワー・レコードに行ってブラブラとCDなどを見てきました。世の中ではネット配信による音楽購入が増えていて、店舗でのCD販売は先細りになっていると言われますが、少なくともそのお店にはたくさんお客が来ていました。品揃えが豊富な巨大店舗にはそれなりにひとが集まるということでしょうか。

 で、そこで既に廃盤になっていて手に入らないと思っていたアルバムを見つけたのです。それは須藤薫の『More Than Yesterday』(Sony Music Direct)でもとは1988年発表の作品です。嬉しくて思わず買っちゃいました。そのアルバムのなかの「In the Moon Light」という曲が聴きたかったんですね〜。唄声の絶妙の揺らぎが心地好い薫ちゃんですが、そのなかでもこの曲はピカイチだとわたくしは思っていたからです(以前に伊藤銀次のネット・ラジオでチラッと聴いていました)。そのとおりの、フワフワとして捉えどころのないGood Vibrationでした。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:515aNvjkDdL.jpg 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:アルバムカバー:556.jpg

 さらについでと言っちゃなんですが、セルゲイ・ラフマニノフのピアノ協奏曲が全て入っているCD(二枚組)も買いました。ラフマニノフのピアノ協奏曲は全部で四曲ありますが、第二番が最もポピュラーだと思います(その昔、映画音楽にもなりましたから)。わたくしは中学生の頃にLPレコードで聴いて、そのうっとりするような旋律にしばらくはとりこになったくらいです。そのピアノ協奏曲ですが、手元には第一番から第三番まであるのですが、第四番だけは聴いたことがありませんでした。

 そのお店でアシュケナージが全四曲を弾いているCD(指揮はハイティンク)を見つけたので、こいつはいいやと思いました、コスト・パフォーマンスもなかなかよかったですから。第四番の演奏時間はちょっと短いですが、聴いてみるとよい曲でしたから、何度も聴いてゆけばその良さをしみじみかみしめられるような気がします。

 第三番をちょうど今聴き終わったのですが、第三楽章のフィナーレのところが情感たっぷりな、思わせぶりな間合いで聴かせてくれました。それまで聴いていた第三番はTamas Vasary っていうひとが弾いて、Yuri Ahronovitchっていうひとが指揮をしている輸入版(家内の持ちモノです)だったのですが、ずいぶんと印象が異なっていてビックリしました。どちらがよいかは好きずきでしょうが、少なくとも最後のフィナーレはアシュケナージのほうがわたくしにとっては好みですね。

 なぜそのCDを買ったのか家内に聞いたところ、う〜んジャケットの絵(下のジャケットです)が綺麗だったから、という返事に拍子抜けしました。プロの音楽家がそんないい加減なことでよろしいのでしょうか。まあホントのところはよくわかりませんけど,,,。

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教務関係のお仕事 (2015年3月13日)

 ことし一年間、山田幸正先生とのバーター取引き(?)で大学内の教務関係のお仕事を引き受けました。今週、全学の教務委員会および学部の教務委員会が相次いで開かれ、無事に終了しました。これで一年間のお勤めが終わったことになります。

 学部の教務委員長として都市環境学部の総意や主張を全学に対してお伝えする役目を果たしたわけですが、様々な主義主張の方々の意見をまとめて全学に上げてゆく作業は(予想通りではありましたが)結構大変で気疲れしますね。自分自身の考え方とは相容れなくても、そこは黙って調整役に徹しないといけませんから、やっぱりわたくしには向いていないことを痛感しました。

 そうやって全学に対して主張したからには、都市環境学部の利益代表者としてその線で踏ん張らないといけませんが、そもそもそれが自分の考えとは合致しない提案だったりするときには相当の努力を要する仕事となります。代議員制民主主義ってホントに難しいなあとつくづく思いました。

 でもまあこれでこの四月からはヒラの教授に戻れますので、正直なところとても嬉しいです。いつも書いている大学の自治という視点は常に持って大切にしていますので、そんなにお気楽に過ごしてばかりもいられないことは承知しています。とはいえ、これからの数年間(?)はのんびりさせて貰おうと勝手に決めていますので、どうかご容赦をお願いします。


次善の策 〜もう一度、工学を考える〜 (2015年3月12日)

 ここのところ春らしい日が続きましたが、昨日はまた寒さがぶり返してからだにはこたえましたね。大学のキャンパスには久しぶりに霜柱が立っていました。もっとも、八王子は都内でも寒いところですから3月中旬はまだまだ冬といった感じです。

 さてきのうは東北地方太平洋沖地震から四年目の日でした。午後2時46分には学内の委員会に出ていましたが、どなたもそのことに気がつくことなく(あるいは気がついていたのかも知れませんが)、静かな会議室のなかで議事が淡々と進んでいました。

 福島第一原発のメルトダウン事故があったせいもあって、よく分からない事象に対しては最も厳しい対策を講じようというのが昨今の風潮です。一番分かり易い事例は活断層です。活断層の真上には建物を建ててはいけません、というのが最も安全だとされているようです。しかし活断層の活動の程度によっては工学的な対策によって建物の安全性を確保できる場合もありそうです。そもそも日本のような地震国では、地中に隠れて活断層だと認識されていない“古傷”は無数にあると言われますから、極言すればどこでも活断層の真上になる可能性があるのです。

 このように想定事象がよく分からないので建物を建てるのはやめましょうと言い出すと、何も建てられないということになってしまいます。縄文時代の社会ならいざ知らず、文明が発達して快適で便利な社会を構築した現代においてそのようなことは不可能です。

 鉄筋コンクリート(RC)建物の設計においても、例えば柱や梁といった部材のせん断破壊(これは悪い壊れかたの代表選手です)が生じるときの強度を完全に理論的に求めることは未だにできません。そのように破壊のメカニズムを完璧には理解できないのでRC建物を建てるのはやめましょう、ということにはなりません。分からないけれども、連綿と続くあまたの経験によって得られた知識を総動員して、現時点では最良と思われる方法によってせん断強度を推定して建物を設計しているわけです。それが現代社会を支えている工学の役割です。

 そういうお役に立つ工学を全く使わずに極論に走ることは、長い目で見ればわれわれ人類にとって不利益となると考えます。思考停止状態が常態化すれば、それまで培われた技術はやがては廃れ、知識は忘れ去られてしまうからです。最良ではないかも知れませんが、次善の策を与えるところに工学の価値があるといってもよいでしょう。

 このあたりで少し冷静になってもう一度、工学を見つめ直すべきではないかと愚考します。役に立つものがあるのにそれを使わないのはもったいないですからね。


ついに解体 (2015年3月10日)

 三月になってまた免震構造協会に出かけました。西川孝夫御大が会長を退かれたので、なんだか敷居が高くなった気分ですな。なんてったってわたくしは免震構造とは縁遠いですから、西川先生がいなくなったらわたくしなんて単なる馬の骨、というのが(多少、自虐的ですが)正直な感想です。

 これと同様に政治にも縁遠いですから原子力発電所の再起動を巡る情勢にも疎いので、この日の幹事会で斯界の風向きが変わったことを知りました。そうなると今まで免震構造の導入に熱心だった電力会社が急にソッポを向くという様子を目の当たりにしたのです。

 なんだかなあ、というのが偽りのない感想です。電力会社は規制側の意向に従わざるを得ないという実情は理解できます、いわば生殺与奪の権を握られているのですから。しかしながらもう少し長い目で見て戦略を立てて、工学的に判断するということが大切なのではないでしょうか。そういう朝令暮改的な体質が原子力の分野の特質である、そのことを認識してお付き合いすることが必要であることに改めて気がつきました。ほどほどにしないとハシゴをはずされる、なんてことになりかねませんから。

 書こうと思ったのはこれではありません。JR千駄ヶ谷駅を降りて東京体育館を抜けると、仮囲いした国立競技場が見えてきたのです。新国立競技場の建設に多くのひとびとがあれほど異議を唱えていたのに、それがまるで無かったかのように解体がひっそりと始まっていたのでした。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:国立競技場の解体2015:P1000910.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:国立競技場の解体2015:P1000902.JPG

 何度も書きましたが東京の中では例外的に気持ちのよい場所に、歴史的な都市のコンテクストを無視してアウト・スケールの新競技場を建設することにどのような意義があるのでしょうか。2020年の東京オリンピックが終わって21世紀後半になったときに、この施設がどのように評価されるのか、それをわたくし自身が知ることはないと思います。もっとも、知らない方がよいということかもしれませんが,,,。


ビミョーなはなしのときは‥ (2015年3月6日)

 最近、身の回りで生起した出来事なんですが(現在進行中ですけど,,)、非常に重大な、かつ微妙な内容の話しをメールで済まそうとしたがために、感情的な行き違いもあったりしてトラブルになったそうです(わたくしは当事者ではなく、カーボン・コピー(c/c)のメールが届いたことや一方の当事者からお話を伺って、そのことを知った次第です)。

 それは学内のとてもデリケートな問題だったのでここに書くわけにはいきませんが、とにかくそのメールを発した方が一方的な要求を相手方に強要したのみならず、そのメールを多勢の(無関係とも思われるような)方々にもc/cで配信したことがまずかったみたいです。そのようなメールを受け取った相手方は、そりゃあ怒りますよね。

 ここでしみじみ実感したのは、重要かつ微妙な内容の話しはやっぱり直接会って当事者同士で話さなければダメということです(無関係のひとを巻き込むのは論外です)。メールの怖いところは一度書いて発信すると、それは形になって残り続けますので、いわばそれが証拠となって問題がこじれるということでしょう。さらには文章だけでは微妙なニュアンスが伝えられないことはままありますから、その点でも相談ごとの中身によっては適切でない、ということになります。

 このようなことは当たり前の事柄です。でもメールは非常に便利であることは事実ですから、そういった機微のようなものをつい忘れてしまって自己の要望を書き連ねる、ということになりかねません。いやあ、ホントおそろしいですね〜。

 わたくしもメールで済まそうとする傾向が強いようですから、気をつけなければいけないと強く思います。メールを送信することによってどのような事態が出来する可能性があるか、少しでも考えれば大丈夫でしょうし、そうしているつもりです。しかし世の中、やっぱり自分がかわいいんでしょうね、自分のことしか考えないひとが多いことに改めて驚きます。


ついに出たあ〜 (2015年3月5日)

 ついに出たあ〜って、オバケじゃありませんぜ。建築学会のPC構造運営委員会で長〜い年月をかけて執筆に取り組んできた「プレストレストコンクリート造建築物の性能評価型設計施工指針(案)・同解説」が今年の二月、(満を持して?)ついに刊行されました。昨日、その書籍がわたくしの手元に(やっと)届きました。

AIJ_PCguideLine2015

 この指針(案)はPC構造運営委員会の文字通り総力を挙げた力作(?)でして「材料編」、「常時荷重編」、「耐震設計編」、「部材構造性能評価編」および「施工編」の五編で構成されています。それにしても本当に長かったなあというのが偽らざる感想です。

 思い返すとわたくしが日大の浜原正行先生から主査を引き継いだのが2007年4月でした。そのときにわたくし達が担当する「部材構造性能評価編」(っていう名前自体が当時はありませんでしたけど)の大枠は決まっていましたので、発刊までそれから約八年も要するとは思いもしませんでした。実際、2007年5月の「PC部材性能設計法小委員会」にわたくしが用意した議題を見ると、新PC規準(と当時は呼んでいました)の出版予定は2009年3月と明記されていました。

 主査としてわたくしはその予定を実現すべく委員の皆さんと努力しました。しかしわれわれの担当部分は大体でき上がっても、ほかの編が遅々として進まなかったというのが実際のところでした。各編担当の小委員会やWGの原案を持ち寄って新PC規準の取りまとめを担当する小委員会では、いつ果てるとも知れない議論が延々と続いていました。でも当時のわたくしは、その議論が本当に必要なものなのかどうか正直なところ首をひねっていたものです。さっと決めて、どんどん進めたらいいのになあと思うことが再三ならずありましたね(このあたりのことは、2012年12月14日の「言葉をうしなう」にも書いてあります)。

 でも先日のRC保有水平耐力計算規準(案)のところで書いたように指針作りはチームワークの所産です。ですから、わたくしひとりがチームの和を乱すようなことは慎むべきと思っていつも黙っていました。そういう長い年月がありましたが、約二年ほど前に「部材構造性能評価編」は満足のゆく体裁が整ったと判断して主査を退きました。指針作成請負人としての職責を全うし、中塚佶先生との約束を果たせたと考えたためでもあります。

 今年の二月に東京および大阪での講習会が開かれて、この新PC指針(案)が名実ともに船出を遂げました。大阪会場での講習会にご参加くださった中塚佶先生からメールをいただきましたが、そのなかで「5年で小改訂、10年で大改訂のペースに耐える立派な指針」とのお誉めの言葉をいただきました。ただ、これまでのようなスロー・ペースだと5年後の小改訂のためには今日から作業を開始しないと間に合わない、ってなことになりかねませんな。どうなんでしょうか。

 ところでこの指針(案)にはDVDが付属しています。それは用意した原稿を全て紙版の書籍に掲載するとページ数が膨大になってしまうため、付録等はDVDに回したためです。やむを得ない措置だったわけですが、実際のところそのDVDをパソコンにセットして,,,というのは相当に面倒ですな。かようにDVDが付属する指針・規準類はわたくしにとってはこれが最初のものです。


発掘したフィルム写真 その2 (2015年3月4日)

 机の引出しから出てきた写真の第二段です。1990年11月1日に工学部11号館7階の輪講室で開かれた青山・小谷研究室の宴会のときの写真です。どうやら研究室の秘書を勤めた神田さんの送別会のときのもののようです。

Aoken1990_1

 右端は挨拶されている青山博之先生(教授)です。真ん中は小谷俊介先生(助教授)、その左は宇都宮大学建設学科建築学コース4年生の藤田崇くん、さらにわたくし(宇都宮大学助手)がいてその左隣は田才晃先生(助手)、さらに左は字大4年生の福岡誠くんです。

 この当時わたくしは字大構造研の4年生ふたりを連れて11号館地下二階で実験をやっていたんですね〜。RC柱梁接合部の実験は小谷先生の科研費によって実施したもので、わたくしは共同研究者としてその研究に参加することを許されていました。しかしもうひとつのわたくし自身の科研費による実験は、青山先生と小谷先生とのご好意によって地下二階の実験場所と測定機器とをお借りして実施できたものでした。

 何度も書いてきましたが、青山・小谷研究室のメンバーの皆さんは宇都宮大学から来たわたくし達を仲間として暖かく迎えてくれました。そのことは今思い出しても、わたくしを感激させます。我が社の藤田くんは青研の前田匡樹さん(現・東北大学)からスキー板を貰ったと言ってましたし、青研の遠藤芳雄さん(現・清水建設)は我が社の小嶋千洋くんのことを憶えていて、つい先日も遠藤さんから小嶋君の消息を教えてもらったくらいです。二年ほど前に遠藤さんが来学された際、そういえば小嶋君に会ったんですよ、と言われたときにはものすごくビックリしました。ちゃんと憶えていてくれたんですね。本当にありがたいことです。

Aoken1990_2

 上の写真は国際色豊かなショットです(もっとも公用語は日本語ですけど、あははっ)。中央にわたくしがいますが、左は韓国から来た李祥浩[い さんほ]さんで右はメキシコから来たオスカル・ロペスさんです。お二人とも大学院博士課程を修了して、それぞれ母国の大学教員になりました。

 特に李祥浩さんは1995年に東京都立大学の助手としてわたくしを助けてくれましたし、現在も彼のお弟子の宋性勳さんを首都大学東京の博士後期課程に送ってくれるなど交流があります。オスカルさんには国際会議での英文発表の練習に付き合ってもらって、そこの英語はヘンとか批評してもらったものです。

 ちなみに宴会をやっている輪講室ですが、普段は大学院の講義に使われるのですが、管理は青山研究室だったので、本棚には青山先生や小谷先生が集めた論文類が写真のようにしこたま並べられていました。わたくし達の頭の上にある一連の青い論文はUniversity of California at Berkeley のレポートです。大学院生の頃にはお世話になったものです。最近は見かけませんから、電子出版になったのでしょうか。


花まつり (2015年3月3日 その2)

 今日はお雛祭りの日ですね。ここのところ暖かかったり、寒かったりの日が続いていて、なんとなく春の香りを感じます。今日は薄曇りでちょっと風も吹いていますが、真冬のような冷たさではなくて、芯にほんのりと暖かみのようなものを感じるので不思議です。学内のハクモレンの白いつぼみも随分と大きくなってきました。

 三月一日からいよいよ学生諸君の就職戦線が本格的にスタートします。と、世間ではなっていますが実際にはそんなことはないようで、実質的に前倒しで学生選抜を始めている企業が多いようです。実際、内々定を貰ったというような声が春風に乗って聞こえてきたりもしますから。なんだかなあとは思いますが、自由主義経済の名のもとで生き馬の目を抜くような世界で生き残るためには手段を選ばず、ということでしょうかね。学生諸君の吉報を待っています。


魔性のひと (2015年3月3日)

 福永武彦の『海市』(「かいし」と読みます。新潮文庫、昭和56年10月)を読み終わりました。最初に読んだのは大学の教養学部の頃ですから、内容はもちろん全く忘れています。読んでいてその小説の構成とか、出てくる人物が実は知人の知り合いであったとかのプロットが、長編小説として構想されたものの未完に終わった福永の『独身者』によく似ていることに気がつきました。またある挿話には、やはり自身の短編小説をリファインしたようなところも見受けました。

 福永の小説らしく重要な舞台として伊豆の海辺が選ばれていて、主人公は例によって画家です。主人公は戦争(太平洋戦争のことです)で一度は死を決意したという過去を持つ設定が、ちょっと高橋和巳チックでした。この画家が海辺で出会った女性に恋をするのですが、その女は実は親友の妻であったというところから、画家の苦悩がいや増します。また、その相手の女性ももう一方の主人公として設定されていて愛の苦悩が描かれます。

 この女性がものすごく魅力的に設定されているのですが、とにかく何を考えているのか分からない、そんなところに四十代の中年男である主人公はメロメロになってしまうんですね。とにかくいい大人が若い女性に振り回されるさまがなんとも哀れに感じました(恋は盲目って、よく言ったものです)。でも実際にそういう女性っていかにもいそうです、魔性の女とでも言うのでしょうか。そういうひとって自分が男にとって魅力的だということをしっかりと意識していて、吸い寄せられる男たちを手玉に取っちゃうんですよ、怖いですね〜。

 ただこの小説を最後まで読んで少し分かったような気がしたのですが、そういう“魔性”はこの女性の人生観(あるいは恋愛観)からにじみ出た必然だったのでしょうね。それはひと言でいえば、なんでも決めるのは自分でひとの指図は受けない、ひとから愛されるよりも自分が愛することのほうが重要である、ということだと思いました。

 ちなみにタイトルにある海市とは海上に忽然と姿をあらわす楼閣をさしているようで、いわゆる蜃気楼のことだと思われます。なぜ海市をタイトルにしたのかよく分かりませんが、少なくともこの女性は主人公の前に忽然と姿をあらわし、やがて(その死を暗示しながら)消えていったというところが蜃気楼のように思えなくもありません。もっともわたくしは蜃気楼を見たことはありませんけど。


疑うということ (2015年2月27日)

 2020年度から大学入試が大きく変わろうとしています。そこでは総合的な思考能力を試そうということが言われます。例えばいろいろなデータを提示して、そこから読み取れる事柄を考えさせる、というようにです。確かにそういう問題を工夫して出せば、受験者の立論能力とか論理的な思考力とかを判断できるかも知れません。

 ただそこには非常に重要なことが置き去りにされている、そのことをわたくしは危惧します。そこには大きな陥穽が口をあけていると言ってもよいでしょう。それは提示されたデータが正しいものなのか、妥当なものなのかを丁寧に吟味するという、科学において最も重要な手続きが脱落しているということです。

 わたくしの研究でいうと、実験のときに鉄筋やコンクリートにひずみゲージを貼ってひずみを測定します。ひずみゲージを測定器につなぐとそれ固有の数値が出力されますが、その値自体には意味がなくて、鉄筋等に力が加わって伸びたり縮んだりしたときの出力の差が重要になります(加力前にイニシャルを採ることがこれに相当します)。でももし実験者がこのイニシャルを採り忘れていたらどうなるでしょうか。そうすると得られた数値は無意味なものになります(そういう間違った操作をした場合でもデジタルな数値は得られるので、そうしたミスに気がつかないことはときとして起こり得ます)。

 あるいは鉄筋に貼ったひずみゲージは鉄筋の伸び縮みにともなって剥がれたり、剥がれかかったりします。そうなると当たり前ですが、得られた出力は正しいひずみではありません。すなわち、測定されたデータがどの範囲までが妥当で、どこからは怪しいかということを実験者が判断することを要求されるのです。

 科学者は目の前にあるデータを見たときに、それらがそういう基礎的な(でも、とても重要な)作業を経て得られたデータなのかどうか、充分に吟味して確認することが必要なのです。盲目的に目の前にあるデータを過信することは厳に慎まなければなりません。

 またある場合には、なにがしかの仮定に基づいてその数値が得られたかも知れません。例えば建物の基礎を固定と仮定して、その地震応答を計算することがあります。しかし地盤が弱くて建物の基礎が回転したり、水平に移動したりすればその仮定はあっさり崩れます。ですから、データの基盤を為す仮定が妥当なものなのかどうか、自分が考えようとするフィールドにおいてその仮定は成立するのかどうか、常に判断を求められるわけです。

 このようにデータが得られた出自とかそもそもの妥当性とかを疑うことを理解させることなく、冒頭のような問題を解かせても果たして意味があるのかどうか。今までの大学入試が受験者の能力の一面しか見ていなかったという反省から、新しい入試方法が模索されているのでしょう。しかし科学の根幹をすっ飛ばして壮大な砂上の楼閣を築くとすれば、それは重大な欠陥をはらんでいると言わざるを得ないとわたくしは考えます。大丈夫なんでしょうか。

 ところで最新の学士會会報(第910号、2015年1月)に載った伊東光晴氏の「経済学は社会的文脈の変化に左右されてよいか」という論考を読むと、経済理論における仮定の重要性が改めて指摘されています。経済理論の前提として設定する仮定が普遍的なものなのかどうか検証することが重要である、とのことでした。ノーベル賞を受賞するような経済理論に対してさえもそのような指摘がされるのですから、いかに仮定を検証することが重要であるかが分かると思います。


ガイドブックの策定 (2015年2月26日)

 どんよりと曇った寒い日になりました。今日は前期日程入試の二日目です。南大沢駅を降りると大勢の受験生が正門に向かって黙々と歩いています。親御さんと一緒の生徒さんも多く見かけました。皆さんの健闘をお祈ります。四月に桜の舞うキャンパスでお会いできることを楽しみにしていますよ。

 さて先日、建築学会で原子力関係の耐震構造評価小委員会が開かれました。わたくしが主査を引き受け、幹事を梅木芳人さん(中部電力)にお願いしています。ときどき書いていますが、建築学会の委員会のなかで原子力関係だけは(わたくしの感覚では)他のところとは違っています。先日、RC関係の規準つくりに非常に苦労していることを書きました。通常の学会活動ではとにかく自分で汗をかいて、手を動かさないと先に進みません。

 ところが原子力関係では、指針や規準の作成を基本的には電力会社とスーパー・ゼネコン5社の皆さんが担ってくださいます。この小委員会に参加しているのは各社のエース級ですから、梅木幹事の号令一下、それこそブルドーザーのような勢いで仕事がはかどります(もちろん担当者の方々は相当にご苦労されていることと思います、どうもありがとうございます)。

 このような状況ですので、わたくしは委員会に提示される完成度の高い資料に対して気がついたことをコメント等するのがお仕事になります。でも原子力発電所の建物の設計や建設については彼らが本職ですから、その方面について指摘することはほとんどありません。そうではなくて、一般的な耐震構造や性能評価の観点から、あるいは市井の一般人の目線で見るとどうだろうといった視点から発言することが多いですね。そういう視点はやはり「村」と揶揄されるソサィエティに対しては必要なんだと考えます。

 さてこの小委員会のここ数年のタスクは、新しいガイドブックをつくろうというものです。建築学会には規準、指針、ガイドラインというヒエラルキーがあるそうで、それよりも下位レベルの出版物を想定して「ガイドブック」と仮称しています。内容ですが、いま建っている(あるいは新築される?)原子力発電建屋の耐震性能を評価するための一連の手法を提案しようという意欲作(自画自賛ですけど,,,)です。

 一般建物と事情は同じですが、原発建屋の真の耐震性能については誰も知らないのが実情です(っていうと、一般の方々は驚くかも知れませんが事実です)。一般建物よりも格段に安全性を要求される原発建屋ですから、それではやはりまずいだろうということを2011年以降の世情もあって関係者の皆さんが認識された、ということでしょうか。

 そのような公開された手法によって原子力施設の耐震安全性を評価して社会に対して発信すれば、原子力発電に対する信頼性の獲得と向上とに大いに役立つと思っています。このように有益(だと自分たちは思っているよう)な「ガイドブック」ですが、この日の梅木幹事のタイム・テーブルでは4年後には出版されるという予定になっていました。わたくしの今までの規準・指針作成経験からいうと正直言って相当にタイトかつハードなスケジューリングです。でも前述のようにここは“エース”の集まりですから、多分できるんでしょうな。ということで、皆さん頑張りましょう!


シーズン到来2015 (2015年2月25日)

 今日から前期の大学入試が始まりました。雪も降らないまずまずのお天気になってよかったです。今朝は瑞穂町の町民協議会に出席して来ました。朝起きたときに目が痒いなあと思ったのですが、外に出て電車に乗って町役場での会議に出ているあいだに状況はどんどん悪化して、とうとう鼻ズルズルになってしまいました。ついに本格的な花粉シーズンに突入したかと思うと真底、憂鬱です。

 さて瑞穂町の町民協議会ですが、7ヶ月の短期間に9回も開催したことに気がつきました。なかなかの強行軍でしたが、町民の皆さんをはじめとして役場の職員の方々のご尽力の介あって、町長さんへの新庁舎建設に関する提言書がいちおうでき上がりました。よかったなあというのが今の心境ですね。

 でも2020年の東京五輪に向かって建設業は一時的な活況を呈していますから、予定通りに建設に着手できるか、費用の高騰に対応できるかなど、問題山積だと思います。自分たちの努力ではどうにもならない要素が多いので、これからも大変そうな気がしますね。

 この町民協議会のことですが、まちづくりや建築設計の専門家ならいざしらず、わたくしのような耐震構造の専門家が呼ばれることは滅多にないことだと思います。これは瑞穂町役場の直近に立川断層が走っているという特殊な事情に起因しています。そのため新庁舎の耐震対策をどうするかがとりわけ重要な要素と考えられたのでしょう。確かにその通りなのですが立川断層については分からないことも多々あって、そういうものを相手にすることの難しさは(いつもながらに)感じました。


齢かさねて (2015年2月24日)

 半世紀以上生きてきて、脳力のキレがだんだんとにぶってきたように感じることがあります。机にかじりついてウンウン唸っていると、天啓の如くひらめいてスルスルと先に進める、ということが若い頃には何度かあったように思います。ところが最近では頭のなかにどろ〜んとした靄(もや)が広がったかのようで、な〜んにも閃かないんですねえ(寂しいはなしでどうもすみません)。

 その代わり若い頃には知識の総量は今とは較べようもなく貧弱でした。しかし年齢を重ねるにつれて知識と経験とは格段に増大しますから、それらを総動員した集合知みたいなものによって思考を押し進めることは可能だと思います。実際、今日も学生諸君とのゼミをトータルで5時間もやったのですが、彼らの話しを聞きながらいろいろなアイディアが湧き出して来て、それと関連する事柄を組み合わせるとなにか分かるんじゃないの、みたいな考える道筋や方向性を示すことはできました。そこから先は若い頭脳で考えてね、という具合です。

 ですから齢を経るにしたがって思考のスタイルがかつての“ひらめき一点突破型”から“全方位じわじわ型”に変化しつつあるのだとこの頃は感じます。年相応ということなのかも知れません。このように研究を進めるに当たっての思考のスタイルひとつとっても年齢とともに変わるものである、ということに気づかされます。そのようなことは実は先人達によって語り尽くされていたのでしょうが、若い頃にはそんなことに耳を傾けないというか、老人の戯言みたいにしか思っていなかったのだと今にして思いますな。

 さらに言えば、人生の折り返し地点を過ぎて、やがて定年をむかえた後にどのように生きていくべきなのか、あるいは生きていけるのかというのは、わたくしのような世代にとっては考えないではいられない、そういう類いの重大事です。そのことを真剣に考えて今後の人生のあり方を沈思黙考することは大切ですが、いくら考えても結論のでないこともまたたくさんあります(それが人生というものの本質なのかも知れませんが,,,)。

 そういうときには自分たちよりも年上の先輩諸氏の処世訓に耳を傾けてみるというのも、ときには必要でかつ有益なのではないでしょうか。そういうつもりで昨日の「短い人生」という短文を書きました。わたくしのこの意を汲んでくださった方がいたとしたら(どうやらおいでだったみたいですが)、それはとても嬉しいことです。まあ、せいぜい悩みましょうや、ご同輩。


短い人生 (2015年2月23日)

 医者で作家の加賀乙彦氏の「私の一生で出来ること。」という短い随筆を読みました。その末尾にこうあったのです。

「八十歳を過ぎると、余生に何をしたらいいかという悩みが生まれる。私は若い人々に向けて戦争と平和の時代の差異を、さらに書き続けようと決心した。人生は短い。しかし、それがどんなに短くなっても、私は戦争と平和の時代の差異を書き続けるであろう。そして若者よ私の本を読めと叫びつづけるであろう。」(学士會会報、第910号、2015年1月、より)

 いやあ、素晴らしいではありませんか。八十歳を過ぎて初めて余生だというその認識にまず驚きますが、まだまだ自己の為すべきことを追及しようというその意欲の源泉はなんなのでしょうか。「戦争と平和の時代の差異を書き続ける」という宣言から考えて、戦争の悲惨さと平和の貴重さということを(平和ボケした現代の)若者に認識させたい、という強い使命感がそうさせるのだろうと想像します。あるいは今の日本の状況が、昭和十年代前半の世相や雰囲気と驚くほどよく似ているのではないかという危機感を募らせたのかも知れません。

 加賀氏は旧陸軍の将校養成学校だった陸軍幼年学校在学中に終戦を迎え、価値観の百八十度の転換を身を持って経験した方です。その体験が平和の尊さを若者に知らしめたいという欲求になっているのではないでしょうか。

 ちなみにわたくしが読んだ加賀氏の小説は『帰らざる夏』と『高山右近』の二編だけですが、いずれも面白くて一気に読んだ記憶があります。前者は陸軍幼年学校での生活と終戦を描いたもので、なかなか衝撃的な(言ってみれば最悪の)結末でした。後者はよく知られたキリシタン大名を描いたものです。自分の家族や領国を捨て、大名という地位を投げうっても悔いのない人生とはどのようなものだったのか、興味があって読みました。そこには人間は信仰だけで生きてゆけるのかという根源的な問いが横たわっていて、それを知りたくて読んだような気がします(その答えがどのようなものであったかは、すでに忘却の河を流れ去ってしまいましたが,,,)。


発掘したフィルム写真 その1 (2015年2月20日)

 研究室の机の抽き出しが乱雑で溢れてきたので、いらないものはこの際捨てようという気になりました。で、そのなかにB5サイズくらいの封筒があって「机右上引き出し」と表書きがありました。なんだろうと思ってなかを見ると、宇都宮や千葉の頃の手紙とか写真とかがたくさん出てきたのです。どうやら宇都宮大学で助手をやっていた頃のモノが封筒にしまわれていて、千葉大学を経由して都立大学の執務机の奥深くに蔵されていた、ということみたいです。

 あんまり懐かしかったので、このページに載せておこうと思い立ちました。初回は(って、続きものか?)宇都宮大学一年目の頃です。下の写真は写っている人々から判断して1988年頃と思われます。わたくしがご厄介になっていたのは鉄骨構造を専門とする田中淳夫先生が主宰される構造研究室でした。田中先生が某鉄鋼メーカーと共同でデッキプレートを耐震壁として利用しようという研究を立ち上げていました。その実験を宇都宮大学構造実験棟で実施したのですが、そのときのスナップ写真だと思います。

Utsunomiya1988_1

 ご覧のように写真がセピア色にいい〜具合に変色していて、過ぎ去った年月の多さを感じさせますな。パソコンやプリンタも懐かしい代物です。机のうえにグラフ用紙がありますので、復元力特性のグラフは手で書いていたようです。パソコンが普通に使われるようになったとはいえ、まだまだアナログな時代だったんだなと今にして思います。

 後列の右から三番目が田中先生で、その右隣が北山助手、田中先生の左が当時M1の宮木聡くん、その左が同・植田静喜くん、前列左端(画面中央)がM2の井伏克則くん、右端が技官・野俣善則さんです。背景のデッキプレートには斜めの面外座屈のシワが綺麗に写っています。これは終局の最終状態ですから座屈のシワが目に見えますが、加力中は田中先生がデッキプレートの表面を手でなぜなぜしながら、まだ座屈してないなとか仰っていたことを思い出しました。

 ところで後列右端のひとですが、白木宏くんだと思うのですが、これが1988年だとするとそのとき彼はまだ三年生でしたから、研究室には配属されていません。勘定が合わないので首を傾げるのですが、アルバイトかなにかで手伝って貰ったのかも知れません。ちなみに白木君は翌年、構造研究室に入ってRCを卒論テーマとして選択して、わたくしと一緒に東大で柱梁接合部の実験をすることになります。また前列の井伏くんと野俣さんとのあいだの方も誰だか分かりません。

 ちなみにこのデッキプレートの載荷実験ですが、わたくしはほとんどお客さん状態でして、このときたまたま実験棟に居合わせただけ、だったと思います。実験の準備等は技官の野俣さんと学生さん達が担当していました。今さらながらホント使えない助手(って、わたくしのことです)と思われていただろうことは想像に難くありません。わたくし自身は卒論生の小嶋くんを連れて東大でRC柱梁接合部の実験をやっていましたから、かろうじてお許し下さったんだと思います。

 次の写真は1989年3月24日のタイム・スタンプがあって紅白の幕がバックにありますので、建築工学科棟での卒業式のときのものでしょう。後列左端からM1・植田くん、卒論生・小嶋千洋くん、M2・井伏克則くん、野俣さんです。小嶋くんはわたくしが面倒を見た最初の卒論生です。彼の活躍については「北山研ヒストリー」の「宇都宮時代 一年め」のページに詳述したのでそちらをご覧下さい。前列は左端から北山助手、田中淳夫教授、入江康隆助教授です。いま見ると先生がた(自分も含めて)もお若いですね。

Utsunomiya1988_2

Utsunomiya1988_3

 最後の写真はその翌日らしいですが、どこかの飲み屋での風景でしょうか。若かりし頃のわたくしがご機嫌な様子で写っていますね。わたくしの後ろに顔半分写っているのは多分、山田裕巳くん(当時、設備研究室のM1です。ちなみに当時の設備研は石福教授—岡助教授-郡助手のラインでした)ではないかと思います。彼は大学院を修了したのち某ハウスメーカーに勤めていましたが、数年前に松江工業高等専門学校の教員に赴任して、いまはそこの教授をやっているようです。しばらく会っていないので分かりませんが,,,。


役職を決める (2015年2月19日)

 きょうはいい天気になり、暖かくて助かりますね。きのうは冷たい雨の降るとても寒い日でしたから、暖かさが余計にありがたく感じます。

 さてきょうの教室会議で来年度の主要な役職がほぼ決まりました。わたくしは昨年度はコース長・学域長を務めて雑用一手引き受け人となって汗をかき、今年度は山田幸正・現コース長への一年前のコース長就任の見返り(?)として教務委員長を引き受けたため、やはり激務をこなしてきました。

 そのことは山田先生も認識して下さっていたようで、来年度は比較的楽そうな仕事を割り振って下さいました。ああ、よかったというのが偽らざる感想です。そうしてほっと安堵の息を吐いたのですが、会議が終わってから次期コース長の須永修通先生(建築環境学)がつかつかとやってきて、「忘れていたんだけど、全学の学生委員をやってくれないかなあ」と。

 うーん、困りました。2014年度の学生委員はほかならぬ須永先生なんですね。彼とは瑞穂町の庁舎新築に関する町民協議会にともに出席しているので、行き帰りの電車の中などでこの全学・学生委員会の大変さをツラツラと伺っていました。そんな大変な委員会はイヤだなあというのが私の感想でした。

 で、今まで(学内のお仕事で)頼まれた役職は断ったことはないのですが今回だけはお断りしました、頼むから少し休ませて下さいと。須永先生はあまり納得されていなかったようですが、他のひとに当たってダメだったらもう一度来るよといって、いちおうは納まりました。ちょっと後味が悪いですけど、ほかの先生方とのバランスみたいなものもあるでしょうから、わたくしひとりで何でも引き受ける必要もないだろうって思います。役職リストにお名前のない先生だっているんですから。


忘れじのシャララ (2015年2月18日)

 若かった頃に聴いた懐かしの曲シリーズです(って、そんなシリーズあったのか、まあいいけど)。高校を卒業して大学に入った頃、自室の窓に結露するような寒い年末に聴いていた記憶がある曲に、サザンオールスターズのそれがあります。その当時はRC造アパートの3階の北向きの部屋に住んでいましたので、冬の寒さもひとしおでした。そういう思い出とともにある曲です。

 で、その曲の歌詞の中に「今年もなにゆえさかのぼれば夢、二人でいて楽しけりゃなおのこと‥‥」というのがあって、これがずっと記憶に残っています、年末になると思い出すんですねえ。当時はFM放送から録音してカセットに入れて聴いていましたが、それも今はありません。その曲のタイトルは「忘れじのレイド・バック」だと思っていました。

 さてずいぶん前の週末に子どもが福山雅治の「生きてる生きてく」(注)という曲を聴きたいというので、女房殿御用達のツタヤに行きました。そこでサザンのことを思い出して、「忘れじのレイド・バック」が入っている『バラッド ’77〜’82』という二枚組のアルバムを借りてきたのです。

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 そして三十数年ぶりにその曲を聴いてみました、そうそう、この曲だったなあとか思い出にひたりながら。ところがよくよく聴いてみるとわたくしが記憶していた歌詞が出て来ないんですよ。あれ?ってな感じで肩すかしをくらった感じです。ということは違う曲だったのか。

 そのアルバムが二枚組だったことが幸いでしたね。全部聴いてみて「今年もなにゆえ‥」が出てくる曲が「シャ・ラ・ラ」であることが分かりました。記憶違いも甚だしいというか、思い過ごしも恋のうちというか(関係なかったです)、わたくしの記憶も当てにならんなあというか、曲がごっちゃになっていたようです。でもとにかくその「シャ・ラ・ラ」が聴けて、よかったなあ。

 ちなみに「シャ・ラ・ラ」の歌詞に「横浜じゃトラディショナルな彼の名‥」というのがあるのですが、横浜でトラディショナルな名前ってどんな名前なんでしょうか。もしかしてジョニーみたいなアメリカ人の名前でしょうか。今度はそれが気になって寝られそうもありません。

注: 福山雅治の「生きてる生きてく」ですが、2012年に公開された映画版『ドラえもん』の主題歌だそうです。この映画も多分見に行ったんでしょうな、母親と。


横浜で原子力 (2015年2月17日)

 今朝は寒さが戻ってきましたね。家を出るときに降り出した雪は南大沢に着くころには本降りとなりました。7階の研究室から見る景色は真っ白で、舞い落ちる牡丹雪が視界を閉ざしています。

 さて穏やかに晴れたこのまえの日曜日、横浜にある「三菱みなとみらい技術館」というところに子どもが行きたいというので、久しぶりに家族で出かけました。ランドマーク・タワーの隣です(それまで、そんな施設があるとは気がつきませんでした)。そこには三菱が開発したリージョナル・ジェットのフライト・シミュレータやヘリコプターのフライト・シミュレータがあってそれを体験したいということでした。

 で、行ってみると確かに子どもが喜びそうなモノがたくさんありました。専用のソフトウエアを使って火星探査機?の3Dプリンタ用データを作製して、後日でき上がった作品を送ってくれるというアトラクションは2500円もしましたが、せっかく来たので子どもにやらせました(甘ちゃんの親ですな)。

 ヘリコプターのフライト・シミュレータは一日限定20組ということで、朝10時過ぎに行ったときには既に半分以上埋まっていてヒヤッとしましたが、なんとか午後一の番を予約できました。それはシミュレータ自体が三次元に動く優れものです。しかし以前に調布のJAXA(駒場の同級生・村上哲くんのところです)で同種の飛行シミュレータを体験したときにあまりにグリグリ動くので気分が悪くなったことを思い出し、お父さんは遠慮するよといって家内と子どもだけで乗ってもらいました(軟弱です)。

 さて本題ですが、三菱の技術といえば軍艦(戦艦「武蔵」が有名です)もあれば戦車も戦闘機(零戦とか)もあります。そしてやはりアレもあったんですね〜。アレとは原子力発電のことです。写真のようにPWR(加圧水型原子炉)のどでかい切断モデルが展示してあって、ボタンを押すと光ったりするので無邪気な子ども達が結構見入っていました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:三菱みなとみらい技術館20150215:DSC00869.JPG

 それを見ていてふと思いました。最近はご当地発電とか称するようですが、自分のところで使う電気はその地域で(水力、地熱、風力などによって)少量発電してまかないましょう、みたいなことを言うようになってきました。いわば電気の地産地消ですね。じゃあ横浜や東京に小さな原子力発電所を造ったらどうなんだろうか、と。原子力潜水艦を見れば分かりますが、小さな原子炉を建造する技術は十分にあるでしょうから。

 もしもそうなったとすると、どこか遠いところで作られた電気を消費するだけの首都圏の人々は、自分の身近なところに原発が建設されようとしたときにどのように行動するんでしょうか。福井県とか新潟県ならよくて、東京や横浜じゃダメという論理は通じないでしょうね。

 最新の知見に基づいて安全性が確認された原発は再起動するという方針は、技術の観点から言えば間違っていないと思います。ただし絶対に安全ということはあり得ないのも事実です。ですから、昔から議論がありましたが、原子力発電所の立地についてこの機会にもう一度、国民的な議論をすべきであると考えますがいかがでしょうか。


大変な一週間 (2015年2月16日)

 この週末、朝起きると目に明らかなかゆみを感じました。ついに花粉の季節の到来です。これから春の半ばまでつらい時期を過ごさねばならないかと思うとうんざりしますが、さりとて春は待ち遠しいですし、この矛盾をなんとかしてくれえと叫びたい気分です。

 さて先日の非常勤講師懇親会をもって、一年で一番大変な一週間が終わりました。卒業設計の発表会から始まって卒論、修論、修士設計の発表会を経て、卒論・修論の成績判定を行い、最後の締めがこの懇親会です。四年生や修士二年生の諸君にとっては学究生活の成果の集大成を発表し終わって、充実感に浸っているひとも後悔しているひともあるいはなにも感じずにボーッと過ぎちゃったひともいるでしょう。

 斯様な学生諸君と同様に、わたくしのような大学教員にとってもこれらはとても感慨深いイベントです。それらを無事終えることができて、この週末は久しぶりにリラックスして過ごせました。

 ただ、この一年間の研究室活動を振り返って反省することも多々あります。以前に書きましたが今年は実験を多数実施したこともあって、卒論・修論を執筆した八名のうち七名は実験研究がメインの論文で、純粋に解析的な研究はB4・松田くんひとりでした。我が社の実験は大規模で、試験体を設計して作製し、加力するだけで大変な労力を要します。それだけでも十分な価値があるとわたくしは思っているくらいです。

 でも、実験をやったらこんな結果になりましたというだけでは、それは報告であって論文にはなりません。なぜそのような現象が生じたのか、その現象をどのように解釈するのか、実験から得られた成果は今後なににどのように活かすことができるのか等の考察が要求されるのです。我が社の論文にはそういった考察が不足したものが多かったと言わざるを得ないでしょう。そのことをわたくしは非常に残念に思います。

 皆さんそれなりに優秀な頭脳を持っていることは確かですから、その能力を十分に発揮して欲しかった。もう少し自己に厳しくしてもよかったのではないかと(老婆心ながら)思いました。論理的な思考の帰結としてある現象を説明できることが分かったときの達成感とか(わたくしと一緒に議論したときに、なるほど〜そうだったんだ!って思ったひとは大丈夫)、真理を探究する過程で感じるワクワクするような高揚とか、真摯に研究に取り組んだひとだけが感じることのできる喜び、そういったものを体験して得ることなしに大学を出て行くとすると、それはとても不幸なことだと残念に思います。

 こういったことはゼミのときなどに折に触れ、学生諸君には話してきたつもりです。ただ今年度は人数が多かったこともあって、個別に話しをする機会が少なかったかも知れません。もっとしつこく(嫌がられるくらいに)彼らに負荷を与えて鍛えるべきであったとも思います。

 ただ、水を飲みたがらない馬にこちらから水を飲ませるようなことはしない、というのがわたくしの性向です。すなわち学生諸君にとってわたくしは鏡のような存在なのですよ、分かるかな〜。わたくしはレールは敷きます。でも、そのレールの上を走るかどうか決めるのは学生諸君です。

 この一年間はわたくしにとって貴重な経験でした。反省すべき事がらはもう一度よく見つめ直し、さりとて自分自身の信念は揺らぐことなく、指導方針を再検討しようと思っています。大昔、高校時代の恩師である内藤尤二先生は「今度はどうやってお前たちを鍛えてやろうか、楽しみだ」と仰っていましたが、半世紀以上生きてきてわたくしもその境地に到達したような気がします。伊達に年くってきたわけじゃないぜ、ってところかな。


あたためる (2015年2月12日)

 正月に開封した「獺祭」の純米大吟醸・磨き三割九分ですが、わたくしとしてはあまり気に入らなかったので冷蔵庫に放っておきました。で、二月になって、冷酒では美味しくなくてもお燗にしたらまた変わるかもしれないと思い立ちました。

 本当は湯煎してお燗するのがその道の正しいやり方でしょうが、そこまでするのも面倒なので家庭の常道である電子レンジでチンしました。利き酒用の小さいお猪口を使いました。温度計はないので分かりませんが熱燗ほどではなく、さりとて人肌よりは熱かったので多分45度くらいでしょうか、とにかくお燗ができ上がりました。

 で、お燗で飲んで見ると、冷酒ではほとんど感じなかった酸が相当に主張するように表に出てきました。これはいい感じですね。また甘みも少し強くなり、飲み干すと辛みもあって、かなり美味しくなった気がします。といっても、フツーの燗酒という気もしましたね。ただ、ちょっと鼻につく人工的なアルコール臭が立ったことが気に入りません。なにか添加物が入っているとは思いませんけど、やっぱり工場生産品だからでしょうか。

 純米の大吟醸ですが、お燗のほうが美味しく感じることもあるのですね。常識にとらわれずにいろいろな飲み方を試みるのも楽しくていいかも知れません。日本酒はいろんな温度帯で楽しめるのが世界の中でも珍しいお酒ですから。次は冷凍庫でジャリジャリに凍らせて飲んでみるかな。


発表会おわる (2015年2月11日)

 きょうは紀元節、じゃなかった建国記念の日ですね。やっと少し暖かくなって穏やかな日和となりました。こういう祝日ですが、きょうは修士設計の発表会と教室会議とがセットされているため普段のように登校しました。昨年は学域長だったので修士設計の発表会もフルに参加しましたが、ことしはヒラの教授ですから、あんまり出なくてもまあいいか、っていう具合です。

 さて、先週末から続いた一連の発表会が今日で終わります。毎年書いていますが、この一週間は学生諸君のみならずわたくし達教員にとっても大変なイベントなんですね。入れ替わり登場する学生さんの様々な発表を終日聞くのは相当な鍛錬と忍耐とを要しますから。ボーッと坐っているだけなら楽ですけど、せっかくですから少しはこちらも何かを得ようと考えます。それが結構な負荷を脳に与えるのです(まあ、脳力は使わないと衰えますから、そのための貴重な機会を与えてくれていると考えれば、ありがたいことではありますけど)。

 さて今年度の我が社は卒論生四名、修論生四名がそれぞれ発表しました(北山研史上、最多の人数だと思います)。皆さん、パワーポイントのプレゼンテーションは練習の介もあって上手にできました。ところが先生方との質疑応答になって、しどろもどろだったり、的外れな回答をしてそうじゃないと言われたり、立ち往生したり、というひとが続出したのには少なからずガッカリしましたね〜。一方的に自己の主張を展開するだけで、双方向のコミュニケーションをとることができないというのでは、社会に出てから不安を感じます、大丈夫かな〜。

 だいたいが研究の前提となるような基本的な事がらを聞かれているのに、それに返答できないというのはどういうことか。そのことははからずも、わたくしや先輩の言うことを聞くだけで自分自身では考えていないということを明瞭に語っていると思えます。皆さんはそれなりに優秀な頭脳と能力とを持っているはずなのに、それを鍛錬しないのは自分にとって損だということに気がついて欲しいものです。

 でも、このようなことは他人から言われるものじゃないですよね。自分自身の人生ですから、学生時代の四年間なり六年間をどう過ごすかはそのひとの勝手です。ただ学校を卒業したら、それがユートピアのような時期であったことに気がつくはずです。一生のなかで一番伸びる時期であると、わたくしは思っています。あのときこうしておけば良かったなあ、という後悔を味わわないで欲しいと祈るだけです。

 ちなみに紀元節ですが、紀元2600年は西暦に直すと1940(昭和15)年でした。日中戦争が泥沼化して、英米等との太平洋戦争に突入する直前です。そのような経緯のある2月11日ですが、1967(昭和42)年から「建国記念の日」と名前を替えて国民の祝日として復活したそうです。太平洋戦争終結から22年後ということですね。それくらい経過したら戦争の惨禍の記憶も薄らいだということでしょうか。さてでは、今年は紀元何年でしょうか?(あとは自分で計算して下さい)


耳ネタ Feb.2015 (2015年2月10日)

 昨年、久しぶりに竹内まりやがアルバム『TRAD』を出して話題になりました。そのなかに「リユニオン」という曲があって(元々は松たか子に提供した曲[こちら]だそうですが)、メロディ・ラインや山下達郎のアレンジはとてもGoodなのですが、歌詞がとってもイヤなんですねえ。かつて書いた「けんかをやめて」と同質の嫌悪感といえると思います。

 以前に振られた男性と再会して今度は友だちとしてRe-unionという内容なんですが、そんなことがあり得るのでしょうか。自分を振った相手と再び会うというシチュエーションからして理解できませんが、あまつさえその相手に向かって「会いたかったの」と(まりやが)甘ったるく唄うんです。ええっ?て、もうドン引きですよ。

 そんなことを言う女性の心情がbeyond understanding なんですけど、一度振ったひととまた会おうという男性の真意もさっぱり分かりません。男と女とが二人っきりでリストランテ(この曲の歌詞のままです)で会う、っていうのはどう見ても友情ではなく愛情がベースになっていると思うんですけど、どうでしょうか。

 ちなみにわたくしが初めて買った竹内まりやの作品は『ラブ・ソングス』というサード・アルバムで1980年春のことでした。この頃はもちろんLPレコードです。「不思議なピーチパイ」という曲が某化粧品の春のキャンペーン・ソングとしてテレビに流れていたことをよく憶えています。また彼女の代表曲である「September」も入っています。まりや作詞、山下達郎作曲という曲もありました。また浜田金吾作曲というのも、今となっては懐かしいですな。

 さらにいえば、わたくし一押しの竹内まりやのアルバムは『Variety』(1984年)かな。アルバム冒頭の「もう一度」がいいですね。もう三十年も前のことかと思うと感慨もひとしおです。

Takeuchi_Mariya_Love_Songs

 ところで「リユニオン」というタイトルを見てすぐに思い出すのが「Reunited」(1978年、例えばこちら)という洋楽ではないでしょうか。アメリカのビルボード・ホット100のチャートで1979年に1位を獲得しています。Peaches & Herbの二人のデュエットですが、その甘いメロディがとってもいいラブ・ソングです。まあこちらは英語なのでなんて言っているのかはよく分かりませんけど、あははっ。


規準をつくる (2015年2月9日)

 先日このページに書いた『鉄筋コンクリート構造保有水平耐力計算規準(案)・同解説』ですが、17条から19条までの分担部分をなんとか形にして提出して、ひと安心したところで週末を過ごしています。

 以前にも書きましたが、現行法規の保有水平耐力計算は変形を陽なかたちでは表現していません。しかし部材種別や構造特性係数Dsによって暗に(でも明瞭に)部材や建物の変形性能を考慮している、という二面性を有する複雑な法体系になっています。そのことがわたくし達担当の梁および柱部材の条においては最後まで鬼門となりました。

 新耐震設計法が1981年に施行されてから研究も進み、RC部材や建物の変形性能の評価もかなりの精度でできるようになってきました。しかし現行法規の保有水平耐力計算では変形の具体的な数値をいっさい明示していませんから、“靭性能に富んだ”という抽象的な表現で意味するところは、それを解釈するひとびとによって異なることになりますが、それはそれで当然の理でしょう。

 そのような状況で部材種別FAの部材の限界変形を具体的に明示せよと言われても、そもそも誰も知らないのですからわたくし達が示せるはずもありません。ここまで読んで下さったかたは、同じようなことを何をグダグダ言ってるの、なんて思うでしょうけど、わたくし達が置かれたのはまさにそういう状況だったんですね〜。

 すなわち、天から降ってきた部材種別や構造特性係数Dsといったものの「おとしまえ」をお門違いの伝八郎のわたくし達につけろと言われたようなもんですな。その結果、木に竹を接ぐというか、もどかしい思いをしながらも筋の通ったストーリーを作ることに最後まで腐心したわけです。わたくし達は限られた時間内でベストを尽くしたつもりですから、これが上手くいったかどうかはこの規準(案)が世に出たあとに世間様に判断していただくことになります。

 しかし規準を作るって大変な作業だということがよく分かりました。以前にRC構造計算規準の改訂には携わりましたが、こちらは1933年に発刊されて以来、連綿として続いてきた規準ですから、根幹はしっかりと根を張って存在しています。それに対して今回は何もないところからの規準作りですから、その根幹づくりには膨大な作業と果てしない議論とが必要だったことを思い出します。全体を統轄したのは千葉大学教授の和泉信之先生ですが、辛抱強く、でも堅固な意志によって新規準をまとめ上げたことにあらためて深甚なる敬意を表したいと思います。

 そういう大変な作業ではありましたが、今回の規準やこれから作業が本格化する等価線形化法指針(案)の作成に加わることができたのは、よい経験になったと今にして思いますね。やりたいと思っても自分だけでできることではありませんから、ここでもまた多くの先輩方のご厚情に感謝せずばなりますまい(ちなみに梁・柱部材の性能評価に関する総括的な作業を差配するようにわたくしに依頼したのは、当時RC構造運営委員会主査であった壁谷澤寿海先生でした)。また、わたくしとともに作業して下さった石川裕次幹事をはじめとするWGの委員諸氏にも御礼を申し上げたいと思います。

 規準作成という気の遠くなるような作業を面白くないと思うことも(正直にいえば)ありました。しかし委員会で優秀な研究者や設計者と議論しているなかで、研究のネタとなる核をいくつも得ることができたのも事実です。先日のRCシンポジウムのときにも書きましたが、まだまだ研究することはたくさんあって(とはいうものの、マッチポンプのように自分たちで研究ネタを作っているような気もしますが,,,)、ご同業の皆さん、よかったじゃないですかね〜、あははっ。

 さて、この新しい規準(案)ですが、2015年3月の構造本委員会で了承されればいよいよ出版に向けた実務作業に入り、今年末頃には出版されて講習会を開く予定です。そうなることを切に願っています。


卒業設計の採点 (2015年2月6日)

 今日は卒業設計の発表会です。今年度は21名の学生諸君がエントリーしました。午前中はポスター形式で全員の作品を採点して、その結果の上位10名程度が第二次発表会に進出するという二段階選抜方式で行われます。第一次審査では原則として全ての教員がひとりづつ採点して、その合計によって卒業設計賞の受賞者が決まりますので、わたくしの責任も重大です。デザイン系の教員だけでなく、構造や環境等のエンジニアリング系の教員の採点も同等に扱われますので、建築トータルとしての評価が可能になります。その点でこの評価方式はなかなかいいとわたくしは思っています。

 で、その採点ですが、今年も結局三時間近く立ちっぱなしで学生諸君の話しを聞きました。飲まず食わずですから、相当に疲弊しますな。そんなわけですから、採点表を提出してほっとひと息入れているところでございます。

 こんな状況なんですが、実はいま、建築学会でこれから出そうとしている『RC構造保有水平耐力計算規準(案)・同解説』の原稿の最終修正をやっていて、べらぼうに忙しいところです。WGの皆さんのご意見を伺いながらとりまとめて最終案を作成するというのが迂生のタスクなんですけど、委員の皆さんは一廉の人物揃いですから、いろいろとご意見をお持ちです。

 そういった様々なご意見を伺って、最大公約数みたいなものを抽出して原稿を直さないといけないので、正直言ってとても疲れます。もう、なんでもいいから修正文章を作って渡してくれ〜、って感じになるときも往々にしてあります。和泉信之主査からは本日を提出日とするように言い渡されましたから、もうあとがありません。

 こんな文章を打っているヒマがあるなら、そっちの作業をやれよと言われるでしょうね。でも上記のようにいまは脱力している状況ですので、とてもその元気が出ないわけでして,,,とまあ、こんな具合です。

 おっと、これから大学院博士後期課程の入試が始まります。こうしてはいられないので、この続きはまた、いずれ。


力学小咄 (2015年2月5日)

 ご承知のようにわたくしは建物の耐震構造を研究しています。そのためには主として数学と物理学とを使いますが、そのなかでもとくに微分・積分と力学とを利用します。両者ともニュートンによって産み出された学問です(微分・積分についてはライプニッツが元祖かもしれません)。すなわち力学といっても使うのは古典的なニュートン力学なわけです。

 先日、宇宙の誕生についてのお話しを書きました(こちらです)が、その解明に重要な役割を果たすのは最先端の量子力学だそうです。量子力学はミクロな世界で成立する力学です。すなわちミクロな世界ではニュートン力学が成立せず、異なる原理によって支配されているそうです。同じ「力」なのに、対象物が大きいか小さいかによって構成則が異なるというのです。そこで、大きさにかかわらず全ての物体に適用できる統一的な力学を構築することが現代の物理学者の夢なんだそうですね。

 (ところで余談ですが、量子力学が成り立つ領域とニュートン力学が成り立つ領域との境界はどうなっているのでしょうか。そこに不連続帯があるのか、それとも両者はなめらかにつながっているのか。そのあたりを説明する一般書には今までお目にかかった記憶はありませんから、分かっていないのかな。あるいはそんなことは考える必要がない?)

 しかしではなぜ、自然界はそのような原理によって支配されているのか、考えると不思議です。もちろん人間は自然のことを未だほとんど理解できていませんから、そんなの分からなくて当たり前といえば、その通りかも知れません。宇宙の誕生について、現在のところでの定説はあるわけですが、それも人間の知識量の増大とともに変わって行くものなのでしょう。

 ニュートンから始まってアインシュタイン、シュレディンガー、ハイゼンベルクと続いてきた力学ですが、今後どのように進化してゆくのでしょうか。わたくしのように古典的なニュートン力学だけで事足りる世界の住人には無縁ではありますが、純粋に知的な好奇心をかき立てられます。

 それよりなにより、わたくし達のこの体自身が、それらの力学の結果としてこの世界に存在しているのです。無数の偶然が太陽系を産み出し、地球が形づくられ、果てしないプロセスの末に人類が誕生し,,,という連鎖、この事実が最も深遠な神秘ではないでしょうか。

 かくも不可思議な自然ですが、その構成原理を統一的に解釈できたとき、全ての謎はパラパラと解きほぐされて一本のヒモのようになるのでしょうか。そのときには目の前にある複雑な(!)鉄筋コンクリート建物の地震時の非線形挙動を完璧に予測できるんでしょうな、やっぱり。でもそうなったらわたくしはやる事がなくなって商売あがったりで失業しちゃうな〜(もっともその暁には全ての科学者は失業するんでしょうけどね、あははっ)。


同門の活躍 (2015年2月3日)

 先週、建築学会において『RC部材における性能評価の現状と将来(その1)』と題するシンポジウムが開かれて、120名を超える方々に参加していただきました。東工大の河野進さんを主査とする小委員会と、竹中工務店技研の石川裕次さんを主査とするWGとが計画したものですが、もともとの言い出しっぺというか総元締はRC構造運営委員会主査である塩原等さんでした。

 わたくしは河野主査からまとめをするように言われましたが、講演の内容は聞いていれば分かりますので、好き勝手なことをなかば漫談のようにお話しいたしました。先日このページに書いた佐野利器先生の「耐震構造百年」を最後のシメに使いました。いやあ、このページも役に立っています、わたくしにとっては、あははっ。

 内容が盛りだくさんのわりには半日(4時間)のプログラムだったので、引き締まって充実したシンポジウムになりました。ただ個別の発表を見てみると、時間が足りなくてちょっと気の毒な感じもしましたね。はじめて聞く聴衆の皆さんにとっては目まぐるしく講演者が替わるので、ついてゆくのが大変だったかも知れません。

 そのことはフロアからの質疑が一件しかなかったことからも窺えます。このシンポジウムでは質疑応答の時間をトータルで1時間もとってありました。1時間の討論はそれなりに面白かったのですが、結局は講演者同士のディスカッションとなりました。広く公開された委員会と思えば、これはこれで意義があったかなと思います。

 このシンポジウムではベテランだけでなく若手の研究者や構造設計者が発表したのも特徴でしょう。RC部門での若手の台頭を期待し、またスムーズに世代交替を進めるためにもこのような機会を今後も設定したいと思います。このシンポジウムのタイトルに(その1)とあるように、これから(その2)、(その3)と続けてゆく予定のようですから、皆さんの積極的な参加を期待しています(まあ、どうなるかは分かりませんけど,,,)。

 ところで今回発表した講演者の半数以上の十名が同門でした。具体的にいうと梅村・青山研、青山・小谷研および小谷・塩原研の出身者で、田才晃先生(横浜国立大学教授)が最年長で、高橋典之さん(東北大学准教授)が最年少だったみたいです。

 これだけ多くが一堂に会したのも珍しいし、上述のように広範囲の年齢層に渡っていたのも滅多にないことと思います。卒業年次で見るとわたくしはちょうど五番目でした。半世紀以上生きてきてまだ中堅なのかとも思いますが、まだまだ若手とも言えるわけで、もうしばらくは頑張っていいのかなとも思います。

 同門ばっかりというと聞こえはよくありませんし、多様性を重んじる昨今の風潮から言えばなおさら批判されるかも知れません。しかしながらシンポジウムに参加された方はお分かりになったと思いますが、皆さんそれぞれ独立した研究者・設計者として一廉の信念やご意見をお持ちの方ばかりですから、特段問題はないんじゃないかと思います。言わずもがなですが、まずテーマがあってそれから講演者が決まりましたから、今回同門が揃ったというのは偶然に過ぎません(もちろん、結果的にそういう人選になったことを批判的に見られる方もおいでかもしれません)。

 ただわたくしにとっては同門の先輩や後輩がたの活躍は素直に嬉しかった、というだけのはなしです。なによりも自分自身がそのような列に加わることができてよかったなあと、しみじみ思います。いつも書いているように研究室の縦のつながりが非常に堅固なことが我々の特徴でしょうし、また強みでもありますから。


戦慄の会議 (2015年1月29日)

 このあいだ土木分野と建築分野のひと達が集まる学会の会議があって、そこで久々に緊張する議論が展開されました。建築の分野は比較的リベラルであることは皆さんご承知だと思いますが、それに較べて土木分野は上意下達のヒエラルキーがしっかりと構築された厳しいソサエティのようにお見受けします。すなわちご年配でボスといわれるような先生方が君臨して斯界をたばねている(牛耳っている?)というのが端(はた)から見た印象ですね。

 で、この日はそのような大ボスの先生(某大学名誉教授)が御自ら委員長となって新しい委員会を立ち上げたい、というご提案がありました。しかしかなり長々としたご説明を聞いたあとも、会場はし〜んとなって黙り込んでいます。いいとも悪いとも言わないんですね、誰も。こういうとき上意下達の世界では、音頭取りのヒトが異議なし!と一声発して、それでシャンシャンとなって終わるもんです。

 ところがこの日はそうではありませんでした。やがて委員長のN先生(現役バリバリの土木教授です)が重そうに口を開いて、誠に失礼なことを申し上げますが,,,と前置きして、もっと若い教授等に委員長をやってもらったほうがよいのではないか、人材も豊富なことだし先生が御自らおやりになるのはどうだろうか、というようなことを発言されました。

 その場にさっと緊張が走りました。多分ほかの委員の方も内心では同じようなことを思っていたんでしょうが、それでも誰も援護射撃をしません。当の大ボスのほうをこっそり伺うと冷静を装っておいででしたが、頬のあたりがピクピクとしているのが分かりました。

 そのうち副委員長格のU先生(この方も現役バリバリの土木教授)がヒジョーにまどろっこしい長々とした演説をやり始めましたが、それを要約すると結論としては委員長と同じことを言っていることが分かりました。大ボスにものすごく気を遣っていることがありありと分かりましたので、もうなんだか気の毒になりましたね。

 このようなご意見とさらには無言のあと押しとがあったにもかかわらず、大ボス先生はとうとう自説をまげることはありませんでした。委員長のN先生もそれ以上言うことはお控えになったようで、結局、大ボス先生を委員長とするその委員会の設立が承認されたのでした。

 ちなみにわたくしの意見は委員長のN先生と同じです。あまりご年配の方がいいおとなの現役諸氏のあたまを抑えるのもどうかと思いますから(もちろん、大ボス先生のご熱意は多としますが)。ほんとうはN先生の援護射撃をしたかったのですがわたくしは新参者だし、土木の大ボス先生の気迫が恐ろしくて下を向いて黙っているしかありませんでした。気の弱いわたくしをどうかお許し下さいませ。

 ひるがえって委員長のN先生の勇気と見識とには本当に頭が下がります。また、ただおひとり明瞭に委員長を援護した副委員長格のU先生も立派だと思います。ただフツーの会議であれば、複数のヘッドが(やんわりとではありますけど)反対している案件は通らないのが通常ではありますが、フツーではない上意下達の世界ではそうではないという事実をまざまざと見せつけられた会議でした。


都心のアース・ダイヴィング (2015年1月28日)

 昨晩、溜池山王で原子力関係の委員会があって出かけました。前の会議が早く終わったので、溜池山王のオフィスで仕事をさせて貰おうと思ったら、会議開催の定刻にならないと建物内に入れることはできない、と受付嬢から言われてしまいました。都心のオフィスはどうしてこうも融通が利かないんでしょうかね(まあ、わたくしが我が儘なだけでしょうけど,,,)。セキュリティーのレベルを厳しくしたいのは分かりますが、身元がはっきりしている人を入館させても問題ないと思いますけど。

 で、どこかの喫茶店でコーヒーなんか飲みたくないので、仕方なく付近をブラブラと歩いてみることにしました。ちょうど暖かい日和でしたので散歩には好都合でした。建物を出るとすぐ脇に小高い場所があって、そこは山王日枝神社でした。このあたり一体は「溜池」という地名が残っているように、江戸時代までは実際に大きな溜池があったところで、谷状の地形です。その低地に突き出した半島状の小丘のうえに日枝神社は建っていたわけです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:山王日枝神社2015:P1000892.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:山王日枝神社2015:P1000897.JPG

 そこで迂生はすぐにピンときましたな。ここはまさに中沢新一さんの著書『アースダイバー』で述べられている縄文時代の神聖なる場所だったということでしょう。左の写真が神社境内から見下ろした俯瞰ですが、高層ビルが建て混んでいて眺めはそんなに良くはありませんが、周囲よりは相当に高いことがよく分かります。右の写真の大鳥居は外堀通りに面して立っていますので、タクシーに乗っているとよく見かけますね。

 ところで山王神社から下山してその回りを歩くと、警察の装甲車やら警察官をやたらと見かけました。なぜかと思ってよくよく地図を見ると、すぐ隣に首相官邸や総理大臣公邸があったんですね〜。すなわちこの場所は日本国の枢要の地だったというわけです。時節柄、プラプラ歩きながらそっちのほうを注視しているとどんな難クセをつけられるか分かったものではありません。早々に退散いたしました。


研究室の伝統 (2015年1月27日)

 わたくしが学生の頃所属していた研究室は、ベラボーにお酒を飲む人たちの集団であった。少なくとも青山・小谷研究室の身近な人たちに大酒飲みが多いのは事実である。梅村魁先生のお話し(注1)は時々書いたが、その前の武藤清先生の時代には「武研(むけん、と読みます)ワルツ」という替え歌があって、そこには酒飲みの先輩方の姿が謳われていた(注2)。

 そのような事実からこの研究室は伝統的に酒飲みなんだなあと(勝手に)思っていた。ところが、である。岸田日出刀先生(大昔の東大教授で建築家)の『佐野利器先生のことども』という小文に「先生は酒をたしなまれなかった」という記述があるのをこのあいだ見つけたのである。

 いやあ、そうだったのか。耐震設計法の産みの親はお酒を飲まなかったのだ。しかしよく考えてみれば、研究室に所属する人たちによって時代々々の気風が築かれるのだから、伝統などというものもきわめて曖昧なモノだったんだなあと思った次第である。

注1:梅村先生はいくらでもお酒が飲めるように見えました。わたくしが大学院の博士課程の学生だった頃、わたくしは梅村先生のお供をする、いわゆる「梅村番」でした。当時すでに名誉教授でしたが、お宅が大学のそばにあるので時々ふら〜っと研究室にお見えになりました。そういうときに梅村先生に付き従って、先生のお世話をするわけです、っていうか、梅村先生の馴染みのお店にお供するだけですけど。

 その当時、本郷界隈にあった料亭の「松好」とか「百万石」、寿司屋の「梅寿司」とか「き寿司」なんかをハシゴするわけです(バーもありましたが名前は忘れました)。そうすると梅村先生はニコニコしながら必ずお店のひとに「このひとはね〜(わたくしのことです)、いいひとなんですよ〜、だから美味しいお酒を飲ませてあげて下さいね」などとおっしゃいました。

 それはそれでとても嬉しいんですが、わたくしはお酒は弱かったのでかなり大変でしたね。なんせ先生とわたくしとの二人きり、いわゆる“さし”です。梅村先生のお酒を断るわけにもいかないし、どうしたもんだろうか、と。その頃はまだ若くてお酒の味もわかりませんでしたが、そんな青二才の相手をよくして下さったもんだなあと今になって思います。わたくしにとっては宝物の思い出のひとつですね。

注2:歌詞は三番くらいまであったが、その一番は以下のようであった、「武研に入ったその嬉しさに、飲んだわ、酔ったわ、唄ったわ。せめて今夜は懐抱してね、どうせ女はできないところ〜」。これを初めて聞いたときには慄然としましたな。どうりで先輩方には未婚のひとが多いわけだと妙に納得したのを憶えています。


漢字奇譚 (2015年1月26日)

 小学生の子どもと一緒に漢字の本を見ながらいろいろな漢字を書いていると、書き順の間違いを指摘されました。ええっ、違うのか〜?って思いましたが、まあ書き順くらいなら大勢に影響ない(って、小学生にとっては重要ですけど)からまあいいか。でもつぎに「有」や「青」を書くに及んで、その字は間違っているとダメ出しされてしまいました。

 おとーさんのどこが間違っているんだよとちょっと気色ばんで言うと、「有」や「青」のなかにある「月」の左の棒が間違っているというのです。わたくしはこの左の棒を左にはらって書いていましたが、そうではなくて縦に伸ばして留めるのが正しい、ということで、本を見ると確かにその通りでした。

 これには結構ショックを受けましたね〜。だってわたくしにとっては「青山」は人生の節目ごとに現れる大事なキーワードだったからです。その「青」の漢字を(見た目はそんなにおかしくはありませんけど)間違えて書いていたとは!(青山先生、申し訳ありません,,,)

 それを知ったうちの子どもは鬼の首でもとったようにはしゃぎながら、じゃあパパ〜、「かい」っていう漢字を書いてみて、とテストされてしまいました。わたくし達建築屋にとって1階、2階の「階」は普段書いている漢字ですから、ハイハイとスラスラ書いたところ、は〜い間違っていま〜す、とまたもやダメ出しされました。ええっ!いったいどこが違うのよ。

 まず、こざと偏の右の部分(3のようにカーブしている部位)を続けて書いてはダメ、次につくりの上の「比」の左の書き順が違っていたのと、左の縦棒の下にわたくしは横棒を書いていたのですが、それは間違いで正しくは左の縦棒の下端をハネ上げなければいけないのでした。

 いやあ、これには驚きましたな。書き順はともかく、字の形が決定的に間違っていたのですから、今まで大学の講義でわたくしが白板に書いていた漢字は一体なんだったのでしょうか。学生諸君は気がついていたのかな?

 こうして子どもからひとしきり注意を受けて(って、フツーは逆だろ)、おまけにおとーさんの漢字の失態を母親に言いつけられて、もう散々な目にあったのでした。老いては子に従えっていうけど、まだちょっと早過ぎです。でも子どもが漢字にだけは興味を持っていることがよく分かって少しばかり安心もしました。これから成長するにつれて、もっといろいろな間違いを指摘してくれるのでしょうか、嬉しいような怖いような複雑な心境の一日でした。


自分ですること (2015年1月23日)

 1月17日の阪神大震災の日はすでに過ぎ去ってしまいました。この震災を教訓としてわが国ではいわゆる耐震改修促進法が制定され、既存不適格建物の耐震診断および耐震補強が国家施策として強力に推進されてきたことはいつも書いています。

 で、今年の「先端研究ゼミナール」のミニ研究として、ある三年生が住宅の耐震改修の現状と課題を調べているのですが、住宅の耐震改修が進まないのは地方自治体の財政難による支援不足が一因みたいなことを言いました。

 確かに公的な支援はないよりはあったほうがよいでしょうけど、個々人の住宅の耐震改修は基本的にはそこに住むひとが自分の責任において為すべきものでしょう。ですから、何でもかんでもお上が悪いから進まないんだというロジックはおかしいよ、とコメントしておきました。

 もちろん道路に面した住宅が倒壊して道路を塞いだり、倒壊した家屋から出火して近隣に燃え広がったりすると、それは個人の問題を超えますから、個人財産とはいえ対処して欲しいと強く思います。まちづくり上の特に重要な地域においては、公的補助を手厚くすることが公共の利益に合致するかも知れません。

 しかし住宅の耐震改修についてのお上の施策は基本的には自助努力を促すためのインセンティブとして存在意義がある、というふうに理解すべきじゃないでしょうか。なんでもかんでもお上にやってもらおう、というのではとても成熟した近代市民とは言えないと思います。

 ちなみにわたくしは、二年以上の期間をかけて慎重かつ有効な対処を講じることによって自宅の耐震化を完遂しました。それはそれでとても大変だったし費用もかかりましたが、具体的な計画の立案とか施工状況とか職業柄とても勉強になりました。なによりも地震の際に以前のようにフラフラと建物が揺れなくなったのはとても安心感がありますね。


ちょっとびっくりしたこと (2015年1月22日)

 先日の「構造設計演習」(三年生対象)で、柱の曲げ終局強度の略算式を使った計算をやってもらったのですが、軸力比(N/[bDFc])を計算するときに分母に“6”と書いているひとが複数いることに気がつきました。きみ〜なんで“6”なんだよ、ここは部材断面の幅でしょ、といって注意したのですが、彼らがなぜ“6”と書いて計算していたのか、始めは不思議でした。

 でもよくよく考えたら、私の板書した字が綺麗(?)すぎたのでしょうか、アルファベットの“b”をアラビア数字の“6”と書き写していたようなのです。その事実に気がついたときには(大学の情報漏洩と同じではありませんけれども)、やっぱり少なからず驚きましたね(というか唖然というか、あるいは笑い話?)。

 だって軸力比については、柱軸力(N)を柱の断面積(bD)とコンクリート圧縮強度(Fc)とで除したもの、ということを何度も説明していましたからね。そういう説明が耳に入らずに、わたくしの板書をひたすらに写していたということが計らずも明らかになりました。

 う〜ん、どうしたもんでしょうか? まあ、ここまで来るともう、どうしようもないんじゃないの、というのが率直な感想です。それでもそんなことを言うと、今どきの大学教育はなっとらん、などと批判されたりするのでしょうか。

 いつも書いているように、わたくしの授業は学部生対象のものは全て板書で講義します。パワーポイントで講義すると授業は早く進みますが、学生諸君が手を動かすことはほとんどなくなるので、講義内容の定着度は下がると思っています。それよりは自分の手を動かすことによって,少しでも頭に入れてもらえればというのが狙いです。

 ただ板書にすると、上述のようにそればかりに気を取られて、わたくしの話しは聞いていない(聞く余裕がない?)ということも多々ありそうです。そのあたりの授業のやり方については工夫の余地があるかも知れません。ということで、いつまでたっても授業の王道は見つからない、ということみたいです。最後は自分自身の精進あるのみ、といういつもの結論に至りました。


流れていた (2015年1月21日)

 そのニュースを知ったのは朝日新聞デジタル版の見出しでした(ちなみに自分の大学から連絡が来たのはその翌日です)。なんと本学・教務課にあるコンピュータ内の個人データが公開状態のまま約四ヶ月間も放置されていた、というのです(こちら)。学生諸君や教員の個人データが誰でも見られる状態で垂れ流しになっていたということです。もう本当に驚きました。

 原因は外部からのFTP接続を不可とするフラッグを立てていなかったから、という発表ですが、そんな基本的なことを忘れるだろうかという不信感は拭えませんね。外部から丸見えのあいだ、千件を超えるアクセスがあったそうです。それによる悪用は確認されていない、とも書いてありました。そりゃそうでしょうな、なにが“悪用”かはなかなか判断がつきませんからね。

 でもよくよく考えるとネット社会の底知れぬ怖さが湧き上がってきます。LANのケーブルを介してワールド・ワイド・ウェッブに接続している限り、自分の知らないあいだに自分のパソコンの情報が流れ出ているかも知れないからです。それは、今回の件のようにソフトウエア使用上の簡単なミスによって引き起こされるかもしれませんし、ウイルス・ソフトによって本人の知らないあいだに情報が盗み取られるかもしれません。

 こんなことを書いているわたくしだって、いつそのような当事者になるか、分かったものではありません。それを考えると心底、恐ろしくなります。現代社会ではネットの便利さによって様々な利益を享受していて、それがわたくし達の生活を格段に快適にしてくれました。しかしそのような利便性の裏には文字通り目に見えない陥穽が多々潜んでいるということです。光あるところに影がある、まさにその通りだと思いました。

 このような情報漏洩から身を守るためには、自分のパソコンからLANのケーブルを引き抜いてスタンド・アローンにするしかありません。それでも、お上とかクレジット会社とかに保存されている個人データまではどうしようもありません。もう地球規模で一蓮托生、あるいは人類はみな兄弟(?、使い方が間違っているようですけど)、といった状況を呈しているということでしょうか。とにかく恐ろしいことです。


佐野利器と耐震構造百年 (2015年1月16日)

 2020年に東京でオリンピックが開催されることになり、それにともなって国立競技場の改築問題が人口に膾炙していることは周知の通りです。そのせいでしょうか、明治神宮外苑という一帯についても再び注目されています。よく書いているようにわたくしの母校は神宮球場の目の前にあり、高校時代は絵画館の回り(一周約1キロメートル)を1500メートル走なんかで走らされましたので、よく知っている訳です。青山通りから絵画館前の緑地へと続く道は、両側に立派な銀杏並木が続くことで有名で、その整然とした公園街区は東京都内の誇るべき歴史遺産だと思います。

 また国立競技場と日本青年館とのあいだにある明治公園では(アスファルト敷きなんですが)サッカーの練習をよくやったし、母校とJR千駄ヶ谷駅とを結ぶショート・カットとして朝晩、そのなかを突っ切ったものでした。

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 その明治神宮外苑の成立に佐野利器[さの としかた]先生が大いにかかわっていたことは、今では忘れ去られているようですが、2015年1月のコンクリート工学会誌と建築雑誌とに(偶然だとは思いますが)佐野先生と明治神宮外苑(あるいは国立競技場)との関係が論じられていて驚きました。しかしなによりも佐野先生ご自身が、百年後にその「作品」が再び論議を呼ぶことになろうとは思いもしなかったことでしょうな。

 そこで佐野利器自身の述懐をひも解いてみたところ、明治神宮外苑にどんな施設を造るかでもめたが結局佐野の案が採用されたとか、佐野がデザインしたとおりになったとかの記述がありました。まあご本人の思い出談議ですから多少は脚色されていると思ったほうが良いでしょうが、いずれにせよ、わたくし達にとっては構造学の泰斗として今もなお有名な佐野利器が、現在の東京にとって非常に重要となる地を計画していたことを知って、彼のマルチ・タレントぶりに改めて気づかされますね。ちなみに佐野先生はこのとき40歳前後だったそうです。いやあ、お若いですね〜。

 さて、その佐野利器と耐震構造ですが、耐震構造史上名高い「家屋耐震構造論」が佐野によって震災予防調査会報告に発表されたのは1916年でした。ただしこの論文には1914年12月作成と記述されているそうで(大橋雄二さんの著作より)、なおかつ、この論文によって佐野は1915年に工学博士の学位を得ています。このことから、近代的な耐震設計法が佐野によって提唱されて今年がほぼ百年目といってよいでしょう。

 建物の耐震構造に携わるわれわれにとってかように節目となる時期に、オリンピック問題において佐野利器が再び脚光を浴びることになるとは、不思議な縁(えにし)を感じます。泉下の佐野先生は下界での騒動をどのようにご覧になっているのでしょうか。俺のつくった景観を台無しにしないでくれ〜っていうところかなあ。

おことわり; 佐野利器先生のお名前を呼び捨てにしたり、“先生”と付けたりしていますが他意はありません。その時々の気分にすぎません。我々の偉大なる先輩と思ったときには“先生”がつき、はるか昔の歴史上の人物みたいな気分のときには敬称略になっています。

佐野利器の記事 : こちら(2012年2月7日)にもあります


研究室にて (2015年1月14日)

 新年も半月が過ぎて、きょうはJCI年次論文の提出締め切り日です。我が社では昨年に引き続き1編のみの投稿にとどまりました。とても残念なことではあります。研究室のメンバー諸君はいろいろと実験や解析に取り組んでいるのでその成果をまとめて欲しいとは思いましたが、如何せんご本人がその気にならなければどうしようもありません。そういう点からも、我が社内は先端研究推進チームと人生鍛錬チームとに明確に分かれつつあるように思いますね。

 というわけで、新年早々にM2・片江拡くんが査読付き論文に投稿したのを手始めとして、今日はM1・星野和也くんがJCI年次論文に投稿しました。二人ともよくやったし、立派だと思います。片江くんのときには約三ヶ月かけて十分に吟味して満を持して投稿できました。星野くんは大丈夫かなあとは思いましたが、年末から年始に懸けて大いに頑張って最後にきっちり帳尻を合わせました。今回はこの二編ともわたくし自身がパソコンに向かってワードのファイルに赤字を入れたり、文章を考えたりしました。こんなことはここ数年無かったことです。思うに執筆した論文の編数が少なかったからこそ、できたのだと思いますね。

 で、ほっと一息つきながら卒論生・松田卓也くんとの個人ゼミに臨みました。ある建物の耐震診断を実施して、さらに多質点系の地震応答解析までやろうという目論みです。耐震診断は主としてソフトウエアを用いて計算するのですが、形状指標SDの値がどうもおかしくて、手計算等による検証をずっとやってもらっていました。

 その結果について彼の話をいくら聞いても腑に落ちません。しかしついに衝撃の事実が明らかになりました。この建物は4階建てなのですが、一部にペントハウスが付属しています。そのために松田くんはこの建物を5階建てとして入力データを作成して、計算機を走らせていたのです。でもそうすると水平外力のAi分布とか剛重比を求めるときとかに明らかな不都合が生じます。こうして耐震診断をやり直さないといけないことが判明しました。

 結構、衝撃を受けましたね、わたくしは(松田くんはどうだか知りませんが)。そんな基本的なところで間違っていたとは思いませんでした。でも、耐震判定委員会などで個別の物件を審査していたときにそういうこともあったことを思い出しました。プロでもそういうことがあるのだからいわんや学生おや、ということでしょうか。卒論梗概提出まであと二週間を切っていますから、相当にスピードアップしないと大変だと思います。まあ、なんとかなるでしょうけど,,,。


あさの授業 (2015年1月13日 その2)

 今年度から学部三年生の『鉄筋コンクリート構造』の授業は朝1限スタートとなりました。これは学部カリキュラム大改定にともなう移行期間での措置ですが、1限は学生のみならず先生方にも人気がありませんので、数年経って移行が完了しても1限のままかも知れないなあ。でもそのときには開講時期が前期に移っているはずなので、寒い朝ほどの苦痛はないだろうと予想しています。

 で、今朝は教室に行ってみると室温は9度しかありませんでした、先に来た学生くんが暖房のスイッチは入れてくれていましたけど。教室が冷えきっていますので、白板に手を当てるともうベラボーに冷たくてスキー場のような感覚です。ということで講義をスタートしてしばらくは、板書する手が凍傷にかかるんじゃなかろうかと思うくらいです(って、ちょっと大げさ)。

 かように寒い朝ですから学生諸君にとっても大変なんだろうとご同情申し上げます。実際、午前8時50分に授業が始まってからも、学生さんがバラバラと教室に入ってきます。毎週出席人数をかぞえていますが、だいたい十人から十五人くらいです。少ないなあとは思いますが、数年前の落合くんとか鈴木清久くんの学年では出席者が三人だけということもありました(そういう“悪夢”はなかなか忘れない)。十五人もいれば御の字で、ありがたいことだと感謝しないといけないんでしょうな。

 このようなRC構造の授業ですが、講義はあと二回で終わります。皆さん(およびわたくし自身)、もうしばらくの辛抱ですので、お付き合いのほどよろしくお願いします。


無というもの (2015年1月13日)

 年末年始に読む読み物として『宇宙が始まる前には何があったのか?』(ローレンス・クラウス著、青木薫訳、文芸春秋、2013年11月)を大学の図書館から借りてきました。それによれば、宇宙は「無(Nothing)」から生じたことになるというのが最新の物理学の導く結論である、ということでした。その結論に至る説明はサイモン・シンなどと較べるとはるかに分かり易くなくて、わたくしには到底理解できませんでした。

 そもそも「無」から何かが生じるなどということがあり得るのか、それはわれわれの常識(もちろん、常識って曖昧なものですけど,,,)に反するのではないか、とフツーは思いますよね。でもどうやら著者のクラウス氏が説くには「無」の厳密な定義があるようでして、それに基づけば「無」から宇宙が生まれてもおかしくない、というか、それが当然の帰結であるというのです。

 そのあたりの物理学的な説明はわたくしにはさっぱり理解できません。でも、例えば「-1」と「+1」とが存在するときに、その二つを足し合わせると「-1+1=0」となって「無」になります。このアナロジーが正しければ(って、どうだかな?)、少しはそういうこともあるのかなあ、なんて思ったりもしますね。

 そもそも宇宙っていうとわたくしたちが住んでいるこの「宇宙」というふうに思っています。宇宙は英語ではUniverse でして、”uni-“は単一のという意味の接頭辞ですから、宇宙といえばただひとつしかない、というのが暗黙の了解でしょう。でも、そのこと自体が間違っていて、実は宇宙はたくさんあるとしたらどうなるのか。すなわちMulti-verse です。そうするとそれぞれの宇宙を支配する物理法則は、それぞれで異なっている可能性もあるとクラウス氏は言っています。

 また彼ははるか未来(二兆年先ということです)の宇宙は無に戻っているだろう、とも言っています。こんなことを真剣に考えると、もう頭を抱えてしまって夜も寝られないということになりそうです。

 何度も書きますけど、言うに事欠いて「無」から宇宙が生じたとは、そんな非科学的(!?)なことをよくも言ったもんだと思いますよ。さらにはそれが最新科学の成果だというんだからもう驚きます。

 しかし物理学が「無」について真剣に考えていることを知って勉強にはなりました。「無」を考えるのは哲学で、究極的には仏教の「色即是空」みたいに宗教にたどり着くと思っていましたから。

 宇宙のなかのちっぽけな存在である我々も、無から生じて人生を生き、やがて死んで無に帰ります。そこから敷衍すれば宇宙のスケールのあらゆる相はフラクタル図形のような構成になっているのかもしれません。どこを取り出してみても同じように無から生じて無に戻る、ということです。どうなんでしょうか、いくら考えても分からないのでもうやめますが、たまにはそんなことを考えるのも悪くはないかもしれませんね。


耳ネタDec.2014/Jan.2015 (2015年1月7日)

 年賀状も早めに出して、この年末はのんびりと過ごすことができました。2014年の暮れにはハイファイ・セットの古いアルバム(『Sweet Locomotion』など)がリマスタリングされて再発売されました。もとは1980年代にソニーから出たアルバムですが、エンジニアの吉田保さん(歌手・吉田美奈子の兄君です)がミキシング等をやり直して生き返ったという触れ込みでしたから、新しくなった音を聞いてみたくて買ってみました。店頭ではタワー・レコードのみの限定販売なので久しぶりにCDショップに出向きました。

 それから杉真理の『This is Pop』という杉ファミリー総出といった感じのアルバムも出ました。安部恭弘、EPO、野田幹子,伊藤銀次といった面々です。そのなかには既に亡き須藤薫の「I’m sorry」という曲も入っています。ラジオ放送のスタジオ・ライブで残っていた音源に、杉さんのコーラスを新しく重ねて作ったということで、音さえあればいろいろと工夫できるということでしょうか。

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 さてここのところ、我が家の棚に眠っているCDをぽつぽつと掘り出しては聞いています。特に洋モノはほとんどiPodに入れていないため、四半世紀ぶりに聞くようなものがたくさんあります。

 そんななかでリック・アストリー(Rick Astley)の『Free』(1991年)は思いのほか良かったです。もっともリック・アストリーっていっても若い人は知らないでしょうね。でも同年代の方々には非常に懐かしいはずです。わたくしが二十代だった頃、「Never Goona Give You Up」(こちらです)とか「Together forever」といったディスコ・ナンバーがものすごく流行りました。ストック・エイトキン・ウォーターマンという三人のプロデューサーが一世を風靡したころで、おなじ三人がプロデュースしたドナ・サマーやバナナラマ(懐かしい〜!)のナンバーもヒットしていました。

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 リック・アストリーの1988年のセカンド・アルバム『Hold me in your arms』も手元にありますが、「Never Goona Give You Up」といったダンス・ナンバーの印象が鮮烈で、その後続を期待して買ったのがサード・アルバムの『Free』でした。

 ところが当時の印象では、それらのポップ・チューンとはうって変わって作風が全く違っていたことに驚いたことを憶えています。期待を完全に裏切っていたので一回聞いたきりでその後は完全にお蔵入りしました。

 でも今回久しぶりに聞いたところとてもいいグルーブ感でした。古い言葉でいえば上質なAORといった感じで、もともと歌は上手いこともあってバラードなんか非常に聞かせます。わたくし自身、若かった頃にはこの『Free』の良さがわからなかったということでしょうかね。

 で、このアルバムに付いていたライナー・ノーツを読むと、ストック・エイトキン・ウォーターマンのもとを離れて心機一転つくったのがこの『Free』だったとのこと。タイトルのとおりにこの三人から自由になって、自分のやりたい音楽に取り組んだということでした。調べてみるとリック・アストリーは今でも活躍しているようでなによりです。


仕事はじめ (2015年1月5日)

 お正月が終わって月曜日が仕事はじめとなりました。こりゃあ一週間が長く感じられそうだな、なんて思いながら登校しました。まだ松の内だというのに、わが大学では今日から授業が始まっています(ほかの大学はどうなんでしょうか)。お昼に生協にご飯を食べに行ったら通常よりも混んでいたくらいです。フツーの生活に戻ったんだなという感慨が湧き起こりましたな。

 で、正月早々の仕事はM2・片江拡くんとM1・星野和也くんの論文原稿を読んだり、論文のコンテンツを議論したりすることでして、いきなり研究モード全開でことしの仕事をスタートさせました。う〜ん、なかなかよいのではないでしょうか。

 そのあと、原子力施設関連の維持管理指針(日本建築学会)の改訂版の原稿を査読するように頼まれていたのを思い出し、邪魔されることもなく集中して読み進めることができました。ということで一年の仕事始めはかなり充実したものになりました。う〜ん、なかなかよい‥、って先ほど言ったばかりでした(ので、もうやめます)。


三が日の終了 (2015年1月4日)

 今年のお正月もどこにも行かず、ゴロゴロと過ごしました。家人が風邪を引いていて出歩けなかったというのもありますし、とっても寒いので外に出たくないというのもあります。まあ正月くらい、チンタラと気が向いたときにお酒を飲む生活であっても良かろうと勝手に思っています。

 さて今年の箱根駅伝ですが、青山学院大学のぶっちぎりの総合優勝でしたね。全てのランナーが素晴らしい成績を残したということでご同慶の至りです。でも無責任な観客としては復路は面白みに欠けると感じました(もちろん走っている当人たちにとってはいい迷惑でしょうけど)。

 しかしテレビ中継の作り手連中が、彼ら学生達の走りを放映しながらこれでもかというくらいに“感動”を押し付けようとするのに、迂生はもう辟易としましたな。走っている本人達はそんなことは多分考えていないだろうというようなことをグダグダと連呼したり、場合によっては絶叫したりするのはホント聞くに堪えません。箱根駅伝をひとつの伝説に仕立て上げようという魂胆がもう見え見えです。

 テレビ局ですから視聴率を上げてスポンサーからガッツリ儲けようというのは仕方ないでしょう。ですけれども、純粋な動機からスポーツの一つである“長距離走”に打ち込む若者たちを世間の大人たちが利用しているようで、気持ちの良いものではないと感じるのはわたくしだけでしょうか。

 ということで箱根駅伝が終わってから、子どもの塾があるので家族揃って出かけました。正月なのに塾がやっているということに驚きましたが、よく考えれば受験生は今が正念場でしょうから、正月なんか関係ないんでしょうね。我が家は別に受験生でも何でもないので皆さんご苦労さんってな感じですが、当事者の親御さんにとってはもう大変なんだろうとご同情申し上げます。

 子どもが勉強しているあいだ、親はといえばミスドでコーヒーを飲みながら(わたくしはお酒売り場で地酒を眺めたりしながら)、まったりと待っている訳です。そんな時間があったら論文でも読めばよいとチラッと思ったりしましたが、まあいいか。そのあとおせち料理にも飽きたねということで、トンカツを食べて帰ったのでした。こうして今年のお正月も過ぎて行きました。


お正月2015 (2015年1月1日)

 明けましておめでとうございます。朝起きたときには青空が広がっていて、いいお正月を迎えました。でもだんだん曇ってきて、子どもと一緒にトンボ池公園に凧揚げに行ったときにはどんよりとした天候にかわっていました。ことしも凧はうまく上がりませんでしたが、あまりにも寒いので早々に退散しました。

 そしてお昼過ぎにはなんと雪が降ってきました。それはわずかの時間でしたが、寒々とした空気が室内にまで入り込んできたような気がしましたな。平穏で無事な一年でありますように、とお祈りしたい気分です。

 さて新年を迎えておめでたいお酒としてなにを飲もうかと少し考えてから、「獺祭 純米大吟醸 磨き三割九分」(旭酒造)を開けました。これは昨年暮れに大学の目の前にあるスーパー(グランルパ南大沢店)でたまたま見かけて購入したものです。「獺祭(だっさい)」と言えば精米歩合が23%のお酒がフラッグシップですが、この39%のものでも十分に美味しかろうと思い、味見のつもりで300mlの小瓶を買いました。約千円でした、量の割りには高いですな(まあ少量だから仕方ないか)。

Sake01_Dassai

 「獺祭」は非常に人気のあるお酒だそうで、なかなか手に入らないようです。それでもこちらのスーパーでは冬になってから何度か入荷しました。ただ入荷するとすぐに売れてしまうらしく、お昼にお弁当を買いに行ったときにはたくさん積まれていたのに、夕方下校して駅に行く道すがら立ち寄ってみると「磨き三割九分」の四合瓶はすでに売り切れていて、「磨き二割三分」も数本残っているのみになっていました。

 かような人気酒なので世間では定価の倍くらいのプレミア付きで売買されているそうです。でもわたくしはそこまでして飲みたいとは思いません。だって日本酒って、一万円も出して飲むものではありませんからね。幸いこちらのスーパーや、時々買いに行く「籠屋」ではちゃんとフツーの定価で売っています。そういうお店で買うのが常識あるおとなっていうモンじゃないでしょうか(と、正月早々、軽薄な風潮に苦言を呈してみたりする)。

 ただ「獺祭」を造っている旭酒造のやり方にも問題があるとわたくしは考えています。こちらの会社は廃業寸前から蘇った酒蔵としてビジネス・モデルとしても注目されて海外にも積極的に打って出ているそうです。今ではどのくらいお酒を造っているのか知りませんが、とにかく造ったはなから売れて行くような状況で品薄状態のようです。酒米の山田錦が足りないというニュースも流れましたね。

 それはそれで結構なことですが、こちらの会社ではビンテージ・ワインのような高価値を付加できる日本酒を売り出すことを目指しているそうです(彼らのHPに明記されています)。酒造りも商売ですからいろいろな試みがあってよいと思います。でも世間での幻に踊らされて特に美味しくもないお酒に何万円も払うような、そういうソサイェティに加わりたいとは全く思いませんな。それって一握りの高額所得者のためのいわゆるバブルそのものではないでしょうか。おいしいお酒を地元のひとが買える価格で提供するのが、日本の酒蔵の使命だと思いますけどいかがでしょうか。

 と、前書きが長くなりましたが、その「獺祭」の精米歩合39%の純米大吟醸を少し冷やしていただきました。栓を開けるとほんのりとした香りがあります。淡麗な飲み口で、飲み干すとわずかに甘味、酸味や米の旨味が感じられます。よくできたお酒という感じでそれなりに美味しいのですが、総じて印象は薄いですね。精米歩合が50%以下であれば、これくらいのお酒はゴロゴロあるというのがわたくしの感想です。先日書いた「屋守(おくのかみ)」は四合瓶で約千五百円ですがはるかに特徴があって、いろんな料理に合うおいしいお酒です。

Sake02_Okunokami

 やっぱり前評判とか他人のコメントとかを信じ切ってはいけないということでしょうね。もちろん一人として同じ舌をもつひとはいませんから、わたくしが甘いといってもそれを辛いと感じるひともまたいるはずです。ですから自分の感性や好みにあったお酒に偶然出会えることを、今後も楽しみにしたいと思います。

 ところで「獺祭」の300mlの小瓶のフタのことですが、獺祭と浮き彫りされた王冠のしたにプラスチック製の栓をとりつけた押し込み式でした。四合瓶以下はねじ切り式のスクリュー・キャップのことがほとんどですから、これは珍しいと思いました。このタイプの酒フタを見たのは今のところ「真澄」(宮坂醸造、長野県)だけです。


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