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 このページは北山の日々の雑感などを徒然なるままに綴るコーナーです。お読みくださるかたは先刻ご承知かと思いますが、ここに記すことは全て個人的な見解であることを明記しておきます。すなわちこの場は、中年の主張を展開するところと心得ておりますのでどうぞご容赦下さい。

 今日からは2016年版を掲載します。例によって不定期更新ですが、そもそもそういう類いのコンテンツなので宜しくお付き合い下さい(2016年1月4日)。



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年の瀬点景 (2016年12月28日 その2)

 今年の御用納め(28日)は水曜日ですので、年末年始のお休みはまたしても短いですね。ことしは建築都市コース長・建築学域長として公僕のお務めを果たしてきましたが、三年前にも増して雑用が多くなったと感じます(このページでも折に触れて書いてきました)。非常勤職員の雇用の件で先日、事務方の管理職の方々と相談をしたのですが、彼らとしてはそのような認識を持っていないことが判明して、少なからず驚き、かつ、がっくり来ました。

 彼らも中間管理職として職責を果たそうとしていることは分かりましたが、結局のところ上位の管理者から命じられたことを粛々と実行するしかないわけで、そのしわ寄せがさらに下の職員がたと教員とに回っているように思いました。ここは大学という知の最高拠点であるべき場所ですが、フツーの営利企業みたいなことに成り下がっているような気がして暗澹たる気持ちがいたします。

 でも彼らの(自分本位の)言うことを聞いているうちにだんだん腹がたってきて、そんなに他人ごとのように言わないで下さい、研究・教育に専心すべき教員に本来、事務方がするべき仕事まで回さないで下さい、ということを語気を荒げて言ってしまいました。先方がわたくしの言うことに納得したかどうかは分かりませんでしたが、言ったあとに気分が悪かったことはこの上ありませんでした。でも、しかたないですよね、言わなきゃならないこともありますから,,,。

 このように不愉快な気分を味わいながら、また事務方からは(多分)イヤな奴だと思われながらも、学科のためにわたくしが汗をかいていることを多くの同僚たちは知らないのです。まったく何やってんだかな〜、とぼやきたくもなりますよ、ホント。

 しかしながら、わたくしの座右の名は「物わかりのいいおとなにはなりたくない」ですから、頭にきたら怒ったっていいんです! 本来が我が儘で自分勝手なわたくしですから、コース長だからってこのモットーを抛擲することは全くないわけでして、迂生の思うようにやったらいいんだ、っていうふうに開き直りました。そう思うと途端に気が楽になって、来年の教室運営はわたくしの初心?に帰って、ガンガンやったろうじゃないかいと思い直した次第です、あははっ。

 ありゃ?頭にキノコがはえちゃいましたね、もう止めます。この年末の三連休には珍しく年賀状を書き終えて、来年元旦の配送には間に合いそうです。ご高齢の先輩のなかには年賀状はもうやめる、という方がおいでになりますが、わたくしもそろそろ年賀状はやめたいなあというのが偽らざる心境です。

 わたくしの師匠のように正月元旦に年賀メールをポチッと送信すれば効率的だし、(このページのように)書きたいことをたくさん書いて送れますし、読みたくないひとはさっさと捨てればいいんですからね。合理的ですよ、これは。でも、お雑煮を食しながら年賀状を一通ずつ拝見し、その送り主のことを思い出しつつ過ごすという、正月恒例の風情が失われることも事実です。日本のうるわしい習俗をとるか合理性をとるか、このように考えると拙速に年賀状を止めるというのもどうだかな〜って、思ったりもするんですね。いやあ、悩みは尽きませんな、まったく,,,。

 こんな感じでことしも暮れてゆくようです。それでは皆さん、よいお年をお迎え下さい。お酒の飲み過ぎには気をつけてね(わたくしは甘さけで我慢します、はい)。また来年、お会いしましょう。

追伸; 甘さけですが、紆余曲折の末に我が家の定番は酒蔵・八海山が作っているプラスティック・ボトルの甘さけになっています。ところが先日、イヌHKのあさイチという番組でこれが取り上げられたそうで、それ以来どのお店でも品薄状態になっています。メディアの影響ってホント恐ろしいです。全くもっていい迷惑です。


木を伐るはなし2016 (2016年12月28日)

 ことしの最後は木を伐るはなしです。本学の情報処理施設のうらに大きなイチョウの木が植わっています。この木は東京都立大学が目黒から八王子市南大沢に移転した際に、旧キャンパスから移植されたものということです。大きく育った立派なイチョウでして、これまた立派なサポート材三本で支えられています。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU情報処理施設うらのイチョウ20161228:P1020190.JPG

 ところがこの場所に牧野標本館の新館を建設することになったため、このイチョウは伐採されることになりました。何度か書きましたが、その場所に根着いている木を伐るってとても野蛮な感じがいたします。今回のイチョウは四半世紀前に一度、多分数百万円のお金をかけて移植してせっかく生き残ったにもかかわらず、今回はあっさり伐ってしまうという決定に釈然としないものを抱きますな。

 でも大学移転当時はバブルの時代で、多分、湯水のようにお金が使えたのだと思います。それに較べれば現在はお金がありませんので、それもいたし方ありますまい。しかし牧野標本館の新館もいいですが、それよりも学生諸君のための福利厚生施設(食堂や学生会館など)の整備のほうが先ではないでしょうか。少子化の時代に受験生諸君にとって魅力ある施設を整えないと、彼らにソッポを向かれて学生が集まらない、などという事態になりかねません。そのような状況に立ち至る前に対策を講じて欲しいと思いますね。


ことしの本ベスト3 (2016年12月27日)

 なんだかナマ暖かい雨の降る、年の暮れですね。

 さて、年末になって恒例の『ことしの本』をまとめないと落ち着かない気分になって参りました。さてでは、今年はどんな本を読んだっけ?っていう感じが正直なところで、あまり印象に残った本がないような気がします。

 「むかしの読書」(以前に一度読んだ本をもう一度読むこと)は相変わらず続けています。また、今年から大学の図書館で本を借りるようになり、乱読ではありませんが少し読んでオモローない本はすぐに見切りをつけて返却ボックス行きにするようにしています(そうじゃないと時間がもったいないですから)。インターネットやデジタル・ネイティブについての本をたて続けに“却下”したばかりです。

 では、あれこれ迷った末のことしの第一位ですが、星野博美さんの『みんな彗星を見ていた ―私的キリシタン探訪記―』(文芸春秋、2015年10月)といたしました。ちなみに星野博美さんの著作は他に読んだことはありません(どういう方なんでしょうかね…)。副題のとおりにこれも(わたくしの興味ど真ん中の)キリシタンものです。江戸時代初期の殉教の地であった長崎、有馬あるいは大村の地を巡り、そのときに殉教したひとりの宣教師をたどってスペインまで巡礼の旅に出た、というお話しです。

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 約四百年も前にはるか遠い異国である日本の地において殉教した若き宣教師、そのひとのことをスペインの生誕地ではまだ覚えていて、その事蹟を偲んでミサがいまだに行われていることを知ったときには、著者のみならずわたくしもやっぱりちょっとばかり感動しました。

 でもわたくしの印象に残ったのは長崎県大村の放虎原(ほうこばる、と読みます)という場所のことでした。徳川幕府はこの地で二十人の宣教師たちを火あぶりによって処刑した、そういう殉教の地です。その地名がもつ勇ましげな響きに、その場所がどんなところだろうかという興味が湧きました。そこで行ってみたのです、グーグル・アースを使って(いやあ、便利な世の中になりましたな)。そしてそれ—放虎原殉教地というそうです—は住宅地のなかにありました(下の写真です)。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:スクリーンショット 2016-12-17 16.18.44.png

 さすがに現代のこの世の中ですから虎が走り回るような野っ原は想像しませんでしたが、それでもなんだか隔世の感ありあり、っていうのが正直な感想です。石碑のようなものと小さい事蹟板とがありましたが、なんだか駐車場のような場所で、回りは住宅で囲まれていました。現代の市井の人びとにとっては普段の暮らしや生活が重要なわけで、江戸時代のキリシタン殉教などにかまってはいられない、そりゃそうでしょう。そういうことは理屈としては分かっていても、わたくしはひどく寂しい気持ちがいたしました。

 ちなみにこのお話しより少しばかり早い時期にヨーロッパに派遣された四人の少年たち(クアトロ・ラガッツィ)を題材にした、若桑みどり先生の『クアトロ・ラガッツィ ―天正遣欧使節と世界帝国―』(集英社文庫、2008年3月)も二回目の通読を終えました。何度も書きますがこの本は名著だと思いますよ。文体は堅いですけど、歴史に翻弄された四少年に対する深い哀惜の情が溢れていて、専門の歴史研究者や小説家が描く天正遣欧使節とは大いに趣きを異としています。本当はこの本を第一位にしたいくらいですが、この本については2008年末の「ベスト3」で第二位にしたのでやめておきます。

 ことしの第二位には英国外交官だったアーネスト・サトウが著した『一外交官の見た明治維新(上・下)』(坂田精一訳、岩波文庫、1993年1月)をあげておきます。幕末から明治にかけての明治維新に興味のあるひとは必ず読む“古典”だと思います。この文庫本は義父の書斎にあったものですが、二十世紀末からわたくしの手元にありました。上巻を少しだけ読んで長いこと放ったらかしていたのですが、ついに今年の夏、読み終えたのです(いやあ永過ぎ、か,,,)。

 内容については皆さんご存知でしょうから触れませんが、アーネスト・サトウが当時の日本をどのように見ていたのかや、どのような人たちと会っていたのかなどは興味深かったですね。明治の世の開始とともに朝敵になった会津藩の家老の梶原平馬などとも会っていて、その人脈の広さには驚きました。

 英国には地震がありませんから、日本に来た英国人は誰もが地震に驚きます。サトウもこの著作のなかで初めて地震を体験したときのことを次のように書き残しました。

「だれか、ひじょうに重い人間が、縁地(へりじ)の上靴(うわぐつ)で縁側や廊下を歩いてでもいるように、家がひどく揺れた。強震が数秒つづいて、次第に弱くなって行ったが、私は少々気持が悪くなった。[中略]この現象をどんなに経験しても平気にはなれず、それどころか、最も長く日本に住んでいる者の方が地震の危険には最も神経質だと言われる。」

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 ことしの第三位は村松秀さんの『論文捏造』(中公新書ラクレ、2006年9月)です。この本は、日本のフランス人である(なんじゃそりゃ?)鳥海基樹さん(本学准教授、パリの都市計画学者)が紹介してくれました。その内容ですが、物理学の高温超伝導の研究において、超伝導を引き起こす限界温度を次々と引き上げることに成功したとしてヘンドリック・シェーンが脚光を浴び、しかしそれが途方もないデータ捏造(やってもいない実験をやったとしていた)の産物であることが明らかになるまでの過程を詳細に追跡し、なぜそのような捏造が可能だったのかということを関係者の証言をもとに検証したドキュメンタリーです。

 日本では、小保方さんによるSTAP細胞という論文捏造事件が記憶に新しいですが、シェーンによるこの捏造事件はそれより十数年以上も前に起こっていたということに驚きます。小保方さんのときには彼女の実験が正しく実施されたのかどうかが問題になりましたが、シェーンの場合には彼が実験している現場を誰も見たことがなかったにもかかわらず、彼の論文は世界中で信用されたのです。なぜそんなことが可能だったのか、世界中の先端研究者たちがだまされるに至るメカニズムを著者は丁寧に検証して明らかにしました。このことがこの著作の価値を高めているとわたくしは思います。

 わたくしも(分野は異なりますが)実験をしますので分かるのですが、それを論文として世に出すときには、他人さまから後ろ指を指されないように(すなわち、その実験の再現性や信頼性について疑義を提示されないように)最新の注意を払いますし、我が社の学生諸君にもそのことはしつこく注意します。ですからフツーならば、まさか実験もせずに勝手にデータを創造して論文を創作していた、などということは到底思いも寄らないわけですよ。

 でも現実にそういう事件はあとを断ちません。人間の本性というのか、あるいは科学者の道義というのでしょうか、そういう人間存在にかかわる心の奥底に巣食った闇のようなものを感じないわけにはゆきません。当然ですが科学者はデータを捏造するようなことは絶対にやってはいけません。そのことをあらためて強く認識させてくれたのが本書です。

 つぎは番外ですが、小川和佑さんの『立原道造の世界』(講談社文庫、昭和53年10月)をあげておきます。発行年を見れば分かるようにこの本は今から約四十年前のものでして、当時高校生だったわたくしが460円で買ったものでした(全440ページの結構ぶ厚い文庫本ですが、今に較べれば随分とお安いですな)。

 これこそ大昔の本ですが、当時読みかけたまま、そのままいつのまにか死蔵されていて、今年実家に行ったときに“発掘”されたわけです。表紙のカバーには高校生のわたくしが紫色の色鉛筆で手書きで書いた「さまよふように ながれるやうに かへりゆけ!風よ ながれるやうに さまよふやうに」という立原道造の詩の一節が残っていました。それを見て、高校生の頃の自分に出会ったようで、なんだか気恥ずかしい思いがいたしました。

 立原道造は夭折した詩人ですが、東大建築学科を出て建築家を志したひとでもあります。設計が上手だったらしく辰野賞を受賞していて、浅間山山麓の芸術家のコロニー群という卒業設計が残されました。卒業して石本喜久治(堀口捨巳などとともに分離派建築運動の先導者となった建築家)の設計事務所に勤めましたが、若くして亡くなったので建物の実作は知られていません。わずかにウィークエンド・ハウスのような木造の小さな小屋(風信子[ヒヤシンス]ハウスと呼ばれています)のスケッチだけが残っています。

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 高校生の頃に現代国語の授業で、立原道造の「はじめてのものに」というソネット形式(4行、4行、3行、3行の合計14行で書かれた形式をそう呼びます)の詩を読んで以来、彼の詩に一時期傾倒したことがあり、そのときにこの評論本も買ったのでした。「はじめてのものに」は信州の浅間山を背景として詠まれましたが、小学生の頃の林間学校が浅間山麓で、浅間山の噴煙や夜には稲光のような紅い光を見たことがありましたので、親しみを覚えたのかもしれません。そして、

 「果たして夢に その夜習ったエリーザベトの物語を織った」

というラストに、別荘地に暮らす当時の上流階級の香りをかぎ取ってあこがれを抱いたものです。軽井沢の別荘地や信濃追分に行ってみたいなあ、という感じです。

 さて、この本を最後まで読んで感じたのは、この著者が立原道造のことをかなり聖人視していた、ということです。若者ならば誰でも持っているような欲望とは無縁であるかのように書かれていますし、生活者としての視点が全く欠落していると思いました。いくらロマンチックな詩を書いたからといって、立原を聖人君子のごとく記述するのはどうでしょうか(って、既に半世紀くらい前に書かれた著作ですけど…)。

 さらに立原とかかわりのあった女性たちをひとしく「少女」と書いているのも気になりました。うら若き乙女であることは確かでしょうが、二十歳を過ぎた女性はもう立派な大人であって「少女」ではないでしょう。まあ半世紀前にはかような論調が許容されたのでしょうが、現代では人間「立原道造」を論じたほうがよいと思います。彼に対する最新の研究成果などは寡聞にして知りませんので、これを機会にこれから少しづつサーチしたいと思います。

 余談ですが、大学に入学して一時期(まだ建築学科に進学する前の教養学部の頃です)、グラウンド・ホッケー部にいたことがあります。その部の総会かなにかの案内をOBの皆さまに電話で案内することになったとき、わたくしが担当になったのが小場晴夫さん(故人)でした。

 小場さんは立原道造と非常に親しかった方で、木葉会の名簿の昭和12年卒業の項に二人の名前が載っています。立原の全集に残された書簡には小場さん宛に書かれた手紙が多数あることを知っていましたので、その奇遇に大変驚いた記憶があります。でも結局、小場さんにお会いすることはありませんでした。ちなみに立原の一年後輩が丹下健三でした…。

 ありゃ、番外のほうが長くなっちゃいましたかね。でも立原道造はわたくしにとっては思い入れの深い詩人ですし、同じ建築学科の先輩にもあたりますから、それも致し方ありますまい。立原は建築学科の第57回の卒業生でしたが、その同じ名簿の約半世紀後にわたくしの名前も載っています。


偏見を持たずに聴け (2016年12月26日 その3)

 きのうはクリスマスでしたから、久しぶりにワム!の「Last Christmas」を聴きました。キャッチーなメロディで誰でも口ずさみ易い、よい曲だと思います。

 この歌を唄っていたジョージ・マイケルの訃報が今朝飛び込んで来て、驚いています。53歳だったそうですから、わたくしと同世代ということになります。学生の頃、ワム!の「クラブ・トロピカーナ」が流行っていて、7階の研究室で聴きまくっていたことを懐かしく思い出します。

 ジョージ・マイケルが1990年に発表したアルバム『Listen without prejudice Vol.1』(写真はそのCDジャケット)はわたくしも持っていますが、そのタイトル通りに偏見を持たないで聴くことの大切さを痛感した名アルバムだと思っています。一ヶ月ほど前、このアルバムをパソコンのiTunesに格納して久しぶりに聴いたばかりでした。

 まだお若いのに本当に残念です。ご冥福を心からお祈りします。

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また母校で講義をする (2016年12月26日 その2)

 昨年に引き続いてことしもまた、母校の都立A高校に呼ばれて模擬講義をしてきました。ことしはわたくしをピンポイントで指名して本学学長宛に依頼がありました。昨年度の講義が好評だったのか(どうだか?)、あるいはOBなので頼み易かったのか、きっとその両方でしょうね。でも模擬講義の日時は指定されていますので、わたくしの予定がたまたま空いていたからよかったですが、自分の大学で授業があれば当然行けません。そういう観点からも運がよかったと言えると思います。

 講義のタイトルは「大学の建築学科でなにを学ぶか」で、内容は昨年とほぼ同じです。しかしこれだけアクティブ・ラーニングが喧伝されていますので、大学でもそういう授業をしていることを伝える意味で、ことしは受講生の皆さんにミニ・レポートを課しました。講義を聴くまえに予め課題を提示して、ちゃんとノートを採ってそれをもとに理路整然とした日本語で記述するように促しました。

 また明治神宮外苑には多くの名建築が建っていますので、今回はそのいくつかを紹介しました。とくに新国立競技場の建設問題で異議を唱え続けた槇文彦先生の作品が結構あることに気がつきました。千駄ヶ谷駅前には津田塾大学(津田ホール、下左)と東京体育館(下右)とがあります。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:都立青山高校模擬講義20161221:P1020184.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:都立青山高校模擬講義20161221:P1020181.JPG
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 また都立A高校の真向かい、秩父宮ラグビー場と神宮球場とのあいだにはテピアというコンプレックス(展示施設、会議場、レストランなど)が建っています(上の写真)。表参道にはスパイラルがあるし、ちょっと足を伸ばした代官山にはヒルサイドテラスがあります。テピアのファサード(表層のことです)は金属パネルとガラスとで仕上げられていて、矩形、三角形、円弧(この写真には写っていません)などの幾何形状が随所に使われているのが槇先生らしく、それでいておとなしめで抑制の利いたデザインだと思います。

 このテピアの場所にはわたくしが高校生の頃には東京ボウリング・センターという日本最初のボウリング場があってゲーム・センターとかレストランが併設されていました。「モンパン」というパン屋兼カフェみたいなレストラン?があって、そこで500円のサラダを頼むとパンが食べ放題だったので、学校帰りなどに友人たちとよく行ったものです。インベーダー・ゲームがちょうど流行り始めた頃だったので、一時期、ゲーセンにもよく行きました(悪い高校生ですな〜、あははっ)。そういう訳でテピアの敷地の片隅にボウリング場の記念碑がひっそりと建っていましたが(左下の写真)、そのことに今回初めて気がつきました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:都立青山高校模擬講義20161221:P1020151.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:都立青山高校模擬講義20161221:P1020118.JPG

 外苑西通り(昔はキラー・ストリートと呼んでいましたが今はどうなのかな?)沿いにも見るべき建物がたくさんあります。青山通りと外苑西通りとの交差点の角地にはベルコモンズ(黒川記章設計)、ちょっと行くとワタリウム美術館(マリオ・ボッタ設計)や塔の家(東孝光設計)があります。さらに坂を下ってゆくとテラッツァ(右上)があります。また表参道に行けば、もう数え上げられないくらいたくさんの名建築があります。

 今回はテラッツァだけを載せておきます。竹山聖さんの設計です。この方は京大・建築学科から東大大学院へ進まれた方で、現在は京都大学教授をつとめておいでです。以前にはアモルフという設計組織をわが大学の小林克弘先生等と一緒にやっていた方です。ご覧のようにコンクリート打ち放しで多様な建築言語を駆使した、典型的なポスト・モダン建築だと思います。マッシブな形態操作にやっぱり非凡なものを感じます。1991年の竣工ですからバブル絶頂期のお金が湯水のように使われた時期の産物でしょうな、やっぱり。ちなみに一階にはジャガーなどの高級英国車のディーラーが入っています、目に毒、です。

 ついでに新国立競技場の辺りもレポートしておきましょう。国学院高校の隣に建設中の日本青年館(設計:久米設計/施工:安藤・間)は左下の写真のように鉄骨造の躯体ができ上がって、下のほうから仕上げが施されている段階まで来ています。

 国立競技場のほうはまだ敷地整備の段階みたいですが、あちこちにクレーンが林立してきました。ということで巨大な空き地の向こうには、旧国立競技場があるときには見えなかった東京体育館の銀屋根が見えています(右下の写真)。そこでこの眺めは2018年くらいまでの期間限定、ということになりますな。

 新国立競技場の敷地の仮構いには、設計・工事監理が梓設計と隈研吾建築都市設計事務所、設計・施工が大成建設、というパネルが貼ってありました。壮大なムダであるとした昨年の騒動はすっかり忘却されて、そのことが嘘のように淡々と工事が進んでいるという印象です。これを見るとその頃の熱狂がなんだったのか、何だかな〜という虚脱感は否めません、わたくしは。まあ、残された時間を考えると建設側としてはそんなことは過ぎ去ったこととして突貫しないといけないんでしょうけど,,,。

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 建築談議が長くなりました。本題の模擬講義に戻りましょう。この日は一年生16名、二年生18名の合計34名の生徒さんが聴いてくれました。講義は1年4組の教室で行いましたが、これはわたくしが高校に入ったときと同じクラスだったので、ちょっとばかりセンチメンタルな懐かしさに浸りました。もちろん校舎は改築されたので物理的には違う空間ですから、心情的に懐かしかったということです。この日、この教室でわたくしの講義を聴いて下さったK島先生もA高OBということでしたので(聞くとわたくしの一年後輩でした)、期せずしてOBふたりが同じ教室に会することになりました。

 先述のようにことしは課題を出しましたので、寝ている生徒さんは昨年と較べて少なかったように思います。A高校界隈の名建築をたくさん紹介したのもよかったみたいでした。やっぱり自分の身近なモノを説明してもらうと興味を持てますからね。

 例によって文系から理系までの多様なことがらを説明したので、生徒諸君の興味のどこかしらには引っかかったようです。書いてもらったミニ・レポートを読むとそのことがよく分かりました。広く浅くというのが今回の講義ですが、つぎは耐震構造や鉄筋コンクリート構造といったわたくしの専門を分かり易く解説する、という授業をやってもよいかなとチラッと考えました。

 ただ、わたくしが何気なく言ったことや、サラッと聞き流して欲しいことなどに反応した生徒さんが結構いたことに驚きました。そんなことに気をとられたのか、という感じです。若い頭脳に建築に関する刺激を与えたいというのがわたくしの講義の意図ですから、どんなことがらであれ、何かを感じとってくれたのであればそれでよいのですが、教師が口にする言葉の重みを改めて実感した次第です。

 生徒諸君は丁寧にミニ・レポートを書いてくれました。大学1年生を対象に『建築文化論』をやっていた頃と同じ形式のレポートですが、そのときの大学生と較べて遜色のない、いやそれ以上のレポートが多かったのは嬉しかったですね(大学生がだらしない、ということかも知れませんが…)。そうは言うものの、たった一行しか書いていない生徒さんもいましたから、やっぱり個々のひとによるのでしょうな。

 ことしの模擬講義には15講座が開かれ、13大学から講師が来ていました。早稲田大学(二講座)、慶応義塾大学、一橋大学、上智大学(二講座)、東京外国語大学、千葉大学、宮城教育大学、東京農工大学、東京大学、東北大学、筑波大学、北里大学、そして首都大学東京です。このうち工学系は情報分野(東北大)、建築分野(わたくし)、機械分野(筑波大)の三講座が開かれました。今回は遠方の大学も呼ばれていたのが目を引きます。そのせいかどうか分かりませんが、今回は交通費を渡してくれました(昨年はありませんでした)。

 授業のコンテンツを増やしたせいか、あるいは饒舌?に話し過ぎたせいか、スライドを40枚ほど説明するまでに一時間十五分を費やし、残りが十五分になっていました。高校の授業は50分だそうですから、K島先生とは途中で休みを入れましょうとか話したのですが、そんな余裕はなくなりました。スライドはまだ20枚近く残っていましたが、これでは終えられないので用意した建築構造学の運動方程式の説明と環境建築の話題は割愛せざるを得ませんでした。この点は時間が余った昨年とは違ったところです。

 そろそろまとめましょう(長過ぎか?)。正直に書くと年末の忙しい時期に準備をして高校に出向いて講義をするのはやっぱり大変です。でも母校の後輩諸君に親しくお話しできることはOBとしては楽しいしやりがいを感じます。ですから機会がある限り、行って後輩諸君にお話ししたいと思います。年が明ければすぐに大学受験が始まります。A高校の後輩諸君の健闘をお祈りします。


耳ネタ 2016 December (2016年12月26日)

 寒いながらも陽射しのあった週末、年賀状を投函しがてら、野川沿いを散歩しました。すると、カワセミのピッピがホバリングして小魚をゲットするところに行き当たりました。カワセミが狩りをするところはよく見かけますが、小魚を採れることはめったにありません。その場面を目撃できてラッキーでした。そこからわずか数十メートル歩くとまた別のカワセミ君が小枝にとまっていました。彼らは明瞭な縄張りを持っているはずなので、これは珍しいです。

 さて一年の最後、12月の曲ですが、そのものズバリのタイトル「December, 1963 (Oh, What a Night!)」をフランキー・ヴァリが率いたフォーシーズンズが唄っています。荒井由実の「12月の雨」もあったな。でもすぐに思い出すのはこれくらいで、意外と12月を冠した曲は少ないのかも?

 クリスマスに関係する曲となると途端に増えて、それこそ外国には無数の楽曲があると思います(ジョン・レノン、ワム!、マライア・キャリーとか…)。日本人の歌で最も有名なのはなんでしょうかね? 山下達郎の「クリスマス・イブ」かな、やっぱり。JRのTVコマーシャルで使われましたから。牧瀬里穂の可愛らしさを今でも憶えています。松任谷由実の「恋人がサンタクロース」はバブルの頃のゲレンデでよく流れていました。その頃のスキー人気が懐かしいですな。


年を忘れる2016 (2016年12月22日)

 きのうは冬至でしたが、穏やかで暖かな日和で助かりましたね。さて昨晩、我が社の年忘れの会を催しました。例によって調布での開催です(幹事はM1・鄒珊珊さんにお願いしました)。ことしはスペシャル・ゲストとして金本清臣さん(清水建設技研)をお招きしました。金本さんには長寿命建築のアンボンドPCaPCプロジェクトでお世話になって以来、ことしもいろいろとご助力をいただき、誠にありがとうございます。いつもながら感謝いたしております、はい。

 さて、今年は現役の欠席者が続発しましたが、OBの集まりも昨年と打って変わって少なく、結局、深海謙一郎さんお一人の参加にとどまったのは少しばかり残念でした。年に一度、OBの皆さんの活躍談や仕事の苦労をお聞きするのがわたくしの楽しみでしたから…。でも、各社のリクルータとして個々に来校したOBも多いので、まあ、いいか。

 ことしもいろいろあって特に後期からはメンバーの減少によって我が社のポテンシャルは下がる一方でしたが、年末の最後になってそれが如実にあらわれた感は否めませんな。ただ、(昨年度の遺産によって)査読付き論文を多数発表できたことと、コンクリート工学会の年次論文優秀賞を三つも受賞できたこと、宋性勳さんに博士の学位を授与できたこと、これらはわたくしの記憶に長く残る快挙だったと思います。また10月から我が社に加わった胡文靖さんの日本語が随分と上手になって来たことは嬉しいことです。これから研究面でも活躍して欲しいと思っています。

 こんな感じで年が暮れようとしています。来年も現役諸君のいっそうの活躍(と、その前にまず奮起と)を期待しております。じゃ、頑張ってね。

BohnenKai2016


テニスをする (2016年12月19日)

 この週末はよい天気でしたね。やっと風邪が直った我が家の息子がテニスをしたいので一緒に行こうと言い出しました。つつじヶ丘にある団地のなかにちょっとした公園があって、そこにはテニスをやったりミニ・サッカーをしたりできる小スペースが設置されています(でもネットやラインがあるわけではありません)。そこに行こうというわけです。

 わたくしは大学院生の時代に青山・小谷研究室の先輩・後輩を相手に我流でラケットを振ったことがあるくらいで、テニスはファミリアなスポーツではありません。でも愚息は近所のインドア・テニス・スクールでレッスンを受けていますので、わたくしよりもテニス理論(って、そんなもんがあるのかどうかすら知りませんが)には習熟しているんでしょうな、やっぱり。

 で、その公園に出かけるとひとつのスペースでは小学生がサッカーに興じていて付け入る隙はありませんでしたが、もうひとつのスペースには誰もいなくて二人でひろびろとテニスをすることができました、ラッキー。

 そこで一時間半ほどテニスをしましたが、なんせ二人ともへたっぴーですから、ボールがすぐにコートの外に飛び出してしまい、それを拾っている時間のほうが長いくらいでした、あははっ。でも子供は日頃練習しているかいがあって、わたくしよりも上達していることを実感しました。とくにサーブは上手になっていました。サーブするときにはラケットの持ち方をこうするんだとか、いろいろとご指導を受けましたぞ(わたくしったら、そんな基本も知らずにテニスをしていたんですな)。

 でもそういえば、大学院生の頃にテニスを教えてくれた小池真実さん(岡田研究室の秘書さんでした)がそんなことを言っていたような、おぼろげな記憶が蘇ってきました。その当時は本郷の十一号館のわきのコートとか、六本木にあった生産技術研究所の中庭のコートとかで、楽しく(軟弱な)テニスを楽しんだものでした。


忙中、グッド・タイミング (2016年12月16日)

 きょうは陽が燦々と降り注ぐよい日和となりましたね。さて、昨日は一日中会議の日でして、夕方に全てのタスクを終えて研究室に戻って来たときにはもう疲れ果ててグッタリでした。学部長補佐の角田誠先生から、まだ相談したいことがあるからあと十分くれ、と言われましたが、そんな気力は残っていなかったので(わたくしとしては非常に珍しいのですが)もう勘弁してくれと言って、お引き取り願いました。

 でもつらつら考えるに、本来事務方がするべき雑務までコース長・学域長に押し付けているんじゃないかと思うんですよね。ゴミ捨ての差配は以前に書きましたが、先日は入学試験の監督者のお弁当費用の徴収をするように言われました。現金で集めて持って来いって言うんですよ。また、事務方の非常勤職員の雇用についてもコース長とコース幹事(竹宮健司教授です)とが考えないといけないって、どう見てもおかしいじゃないですか。

 事務方のすべき仕事まで教員に投げているとしか思えません。それはただでさえ数の少ない人員の能力の有効活用という観点から大いなる資源の無駄ですし、そもそも事務方の仕事を自分からうっちゃっているということは長い目で見れば自分の首を絞めていることにもなると思いますよ。研究者に研究させないで、そのような事務作業ばかりさせては(折に触れて書いていますが)日本の将来に未来はないと、そこまで考えますがどう思いますか、みなさん。

 こんな感じで多忙なのですが、その合間のわずかな時間を見計らって大型実験棟に駆け込みました。するとものすごくタイミングのよいことに、ちょうど実験終了直前の大変形ピーク時だったのです。いやあよかったなあ〜、試験体の最終破壊モードを見ることができて。このときだけは嬉しかったです。いろいろあった実験(って、試験体は二体だけですが,,,)ですが、一応無事に終えることができた、という安堵感もありました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:PCaPCアンボンド科研_鄒珊珊2016:試験体PCJ17_スラブ付き:DSC_5432.JPG

 ということで恒例の記念写真を撮影しました(その余裕はまだありました)。でも昨年までは助っ人が大勢いたのですが、ことしはご覧のように担当者の二人だけという寂しさでした。ほかの卒論生や大学院生もたまにはお手伝いしてくれたようですが、いずれにせよ関心の低さにはあらためてガッカリします。

 実験では(写真でチラッと分かるように)柱梁接合部とそれにつらなる下柱の付け根が破壊して最大耐力に達しました。これがPCaPC構造の柱梁接合部の曲げ降伏破壊なのかどうかは精査が必要ですが、いずれにせよ少なくともわたくしは今まで見たことのなかった破壊モードです。わたくしが見たことがないということは多分、世界中の誰も見たことがない、ということだと思いますね、やっぱり。これからの研究の進展が楽しみですな。鄒珊珊さんと岩田歩くん、今後の検討、じゃなかった健闘を期待しています。


実験進行中2016 (2016年12月14日 その2)

 我が社で今年度唯一の実験が進んでいます。科学研究費・基盤研究Cによる研究で、M1・鄒珊珊さんとB4・岩田歩くんが担当者です。昨晩から雨が降ったせいで、大型実験棟のなかは雨漏りしてビショビショになっていました。安普請とはいえ、ちょっとひどいなあとは思いますね。ノーベル賞候補者と言われる方のための研究棟は(気前よく)新築しても、ローテクの建築構造のための実験棟なんかにはメンテナンスの予算さえ付けてくれないんですから…。

 さて(気を取り直して)我が社の実験ですが、アンボンドのプレキャストPC構造の外柱梁部分架構をことしは対象としています。下の写真(これは、ひび割れ幅をデジタル・マイクロスコープで測定しているところ)のようにスラブのみを取り付けた試験体です。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:PCaPCアンボンド科研_鄒珊珊2016:試験体PCJ17_スラブ付き:DSC_5352.JPG

 この構造形式の骨組では今まで柱梁接合部パネルの曲げ降伏破壊を実験で再現した研究はありません。しかし鉄筋コンクリート(RC)構造の分野では塩原兄貴がRC柱梁接合部の曲げ降伏破壊の条件を提案していますので、それをアンボンドPC構造に拡張して接合部の曲げ降伏破壊が生じるかどうか見てみよう、という設定に今回はいたしました。すなわち、この実験では柱梁接合部を曲げ降伏破壊させるように試験体を設計した、ということです。そのための検討や計算は鄒珊珊さんが一所懸命にしてくれました。

 ということで、この試験体がどのように破壊するか、その過程が楽しみです。外気よりも寒く感じる大型実験棟ですから十分に寒さ対策をして、気をつけて実験して下さい。よい成果を期待していますよ。


教育の悩み (2016年12月14日)

 きょうは忠臣蔵の日です。当時の江戸っ子は大石内蔵助ら忠臣の活躍に快哉を叫びましたが、その結果として今日までその事蹟が伝わっています。でもこの事件ってバカな殿様がたの諍いの結果として吉良方、浅野方双方に大人数の死者を出した気の毒な事件だったわけで、それぞれの家来だった武士たちにとってみればこれにすぐる迷惑もなかったでしょうね。

 さて昨晩、わたくしが研究室で建築防災協会の耐震診断基準の改訂原稿の査読をしているところに、同僚の角田誠先生(学部長補佐)がフラフラとやってきて、ああもうイヤだ、ちょっと休ませてくれ、といって入ってきました。おいおい、どうしたんだい、っていうことでお話しを伺うと、先日やった中間テストを採点しているのだが、その出来がものすごく悪くてガッカリした、というのです(なんだ、そんなことか…)。

 角田さんの担当の講義は一年生の『建築物のしくみ』という入門科目で、鉄骨造とか鉄筋コンクリート構造とかで作られた梁部材の特徴を書けという記述式の出題に対して、ぜ〜んぜん、書けていなかったそうです。ちゃんと教えているのに、ヤツらはなにを聞いているんだ、っていうわけです。

 聞けば聞くほどおっしゃる通りであって、全くもって同情を禁じ得ませんな。でも、そんなことはしょっちゅうですよね(と、これは同業の皆さまに向けて書いています)。わたくしだって似たようなことをこのサイトによく書いていますから。ああ、そうか、角田さんはわたくしみたいにサイトに書く代わりに生身の人間に向かって愚痴をこぼしに来たんだな、きっと。

 少子化にともなって18歳人口が減少するくせに大学進学率は上昇していますから、大学に入学する学生諸氏の学力レベルは(残念ながら)低下の一途をたどっている、というのが偽らざる認識です。わたくしの授業でも教える内容量が毎年、少しずつ減っています。

 また昔と較べて建築そのものに対する興味が薄い学生も増えているように思います。さらに言うと、モノづくりに携わるという意識が希薄なひとも多いように感じますね。かような基本認識の学生諸君ですから、建物をどのように構成して作り上げるかということに興味がないとしても、それはある意味当然なのかも知れません。

 とか書くと悲壮感が漂い出しますが、ここでひるんではいけませんぞ、ご同輩。なんせわれわれのやっていることは「教育」です。かように関心の低い学生諸君をいかにおだてて建築に対する興味をかきたてるのか、そこにプロとしての創意工夫が求められるし、やりがいもあるわけです(教育者として立派な意見だな〜/自画自賛)。スライドや動画で建物をいっぱい見せるのもいいですが、やっぱり実物を見るのが一番でしょう。建築はその場に赴いて街なみのコンテクストを味わい(地霊の声に耳を傾けると言ってもよいでしょう)、その空間を体験することが大切です。

 ということで、角田先生、建築を見るために学生たちを街に連れて行ってください。彼らに建物を見て来いと言っても自分たちじゃ行かないから、連れて行くんですよ、先生が。それじゃ、ひとつよろしく(あとは任せた!/無責任男の典型ですな、あははっ)。


滞留する (2016年12月13日)

 ことしも残すところあと三週間ほどとなりました(などと言うほどのこともないか)。研究について思いついたことがらやアイディアの断片、学生諸君との研究打ち合わせの記録など、気ままに記している研究ノートがあります。A4版のノートですが、ここ数年は一年に二冊程度のスピードでした。ところが、いま使っているノートは既に一年が経過しようとしているのに、まだかなり残余があることに昨日気がつきました。

 今年度は建築都市コース長を務めていることもあって公僕としてのお仕事(まあ雑用ですが,,,)が多いために、このノートを開くことが目立って減っていたことは事実です。ただ、そういう要因を除いても、研究室の学生諸君との個別の相談とか打ち合わせが激減したことが響いていることは疑い得ない、これまた真実だと思います。

 このページでここのところ時おり書いてきましたが、研究室の屋台骨が危機的なほどに揺らいでいることを実感します。研究の方針とかアイディアはいくらでも湧いてきますが、それを実行するにはわたくしひとりでは無理であって、共同研究者としての学生諸君の存在が不可欠です。そのためには、やる気があって有能な若者たちに来てもらうことが先決です。

 そのためには魅力ある旗を掲げて、若者たちを引きつけないといけませんが、鉄筋コンクリート構造の構成律を追究しようなどと“真理の探究”のようなことを言って誘っても、彼らには通じないかも知れませんね。いわんや、耐震構造・鉄筋コンクリート構造の歴史の探訪などは大学院での研究マターにはならないのでしょうな、やっぱり。そうすると制振構造とかスペース・ストラクチャーのように面白げで夢のありそうな新しい構造形態を研究対象としたほうが良いのかもしれません(でも、さすがにそれは今さら難しそうですけど,,,)。

 二十年ほど前にプレストレスト・コンクリート構造の研究に乗り出して、それはいまでは我が社の研究の大きな柱に成長しました。大学での研究生活は残すところ十年となりましたので、この十年の新たな重点テーマを捜すのも悪くないかなと思います。それが何なのか、これから時間をかけて考えようという気分になりました。

 その候補として有力なのが、建物の地盤—基礎—上部構造連成系の地震時挙動の分析かなと思っています。我が社では新井昂くんがその魁となる研究に取り組んでくれましたが、そのあとを引き継いでくれる学生はまだいません。この問題には多勢の研究者がチャレンジしていますがまだまだ発展途上であるし、わたくしのような後発の研究者がコミットする余地は十分にあると考えています。

 こんな感じで、滞留感ありありの我が社を今一度、高みに持ち上げるべく努力しようと思い立ちました。幸い来年度には出身がそれぞれに異なる三名の学生諸君が我が社の修士課程に加わる予定です。これに新卒論生四名をあわせれば、それなりの戦力に育てることも可能でしょう。研究室内の英文輪講会もいつのまにか開かれなくなってしまいましたが、これを復活させることもあわせて、研究室に入ってくる学生諸君のオリエンテーションを今までになく充実させるべきかなと思います。なに事も最初が肝心って言いますからね。

 このページにこんなことを書くことによって自分自身を鼓舞することができるんだと、あらためて実感いたしました。ということで、ここのところのブルーな心象が少しばかり緩和されて気分が楽になったわたくしでございます(ああ、よかった〜)。


研究室配属決まる (2016年12月9日 その2)

 昨日の教室会議で来年度の特別研究(卒論のことです)の研究室配属が決まりました。ことしはわたくしのところにショッピングに来た学生諸君が多かったので定員が埋まるだろうと(勝手に)予想していましたが、定員四名に対して第一志望が二名だけで予想がはずれました。

 ルーキー准教授の壁谷澤寿一さんのところには定員一杯の五名がエントリーしましたので、それはとてもよかったです。でも、わたくしのほうは構造力学や設計製図などの多くの科目で彼らに教えてきたのに配属を希望する学生が少ないというのは正直言って少しばかり悲しい気分ですな、って、もう毎度のことですけどね、あははっ(弱々しい笑いです)。こういう毎年の悲哀のこもったルーチンから解放された芳村学先生が羨ましいです、ホント。

 ということでまだ二名分の余裕がありましたが、昨日の二次配属手続きの説明会のあと、まだ研究室の決まっていなかった五名の学生諸君がその場で話し合ったようで、すぐにその二席も埋まりました(正式決定は来週ですが)。そのふたりはともに八階の研究室(計画系です)を第一志望にしていたそうですが、残念ながらそちらがダメで七階(わたくしの研究室があるフロアです)に落ちて来た学生でした。

 まあ気の毒だったわけですが、いつも彼らに言っていますが、どこに行っても建築に関することは勉強・研究できるわけですから、がっかりせずに与えられた場所で努力して欲しいと思います。わたくしの研究室では今までもそういう先輩は多々いたわけですが、彼ら/彼女らはそれなりに活躍してくれました(って、慰めにもなっていないかな,,,?)。

 こんな感じですが、新卒論生諸君のこれからの活躍を期待しています。昨夕、上述の落下傘組のひとりであるFくんとちょっと話したのですが、興味を持っていることや研究したいことがあるということが分かりましたので、さっそく参考文献を渡しました。ちょっと手応えを感じて、そのことがほんわか嬉しい気持ちにさせてくれました、よかったです。


実験中に反省する (2016年12月4日 記/12月9日 掲載)

 十一月初めに試験体を搬入したときには寒くなる前に実験を終えられるかなあとチラッと思いましたが、結局、寒さ本番となった今の時期に加力をしています(寒いなか、ご苦労さまです)。昨年度までは晋沂雄さんや多数の大学院生が在籍していて分厚い布陣を敷くことができましたので、わたくしがほとんど関与せずとも実験が進んで行きました。安心して彼らに任せることができました。

 でもこの秋には晋沂雄さんと宋性勳さんとが抜けて、これから大丈夫かなあと心配していました。そして残念ながらその怖れは現実となりました。このあいだ大型実験棟での加力に立ち合ったときに、我が社の実験のノウハウの伝承が既に途切れてしまったことに気がついたのです。わたくしとしてはそんなことは基本中の基本であって、わざわざ言うまでもないと思っていたことです。あるいは今までの先輩方の実験のやり方を見ていれば、分かっている(自分自身で学習している)はずだと思っていました。STAP細胞の小保方事件のときにも話題になったので、科学者にとっては本当に基本的なことがらです。

 その当たり前のことが実行されていないことを知ったとき、わたくしは心底驚きました。同時に、そんな基本を知らずに科学的実験をしていることに悲しくなったのです(一所懸命に真面目に実験している学生諸君の労は多としますし、実験自体は興味深い内容ですが、この際、看過し得ない事項だったのです)。

 しかしそれは結局のところ、そのような実験実施におけるプロトコルのひとつを明瞭に指示しなかったわたくしが悪かったということでしょうね、きっと,,,。数年前に加力直前のチェック・リストを作って実験担当者に確認させたうえで、わたくしが全項目を実地で確認するようにいたしました。しかしそれ以外にも、加力中のさまざまな注意事項や実施手順をまとめたマニュアルを作る必要がありそうです。

 こうして今回またひとつ反省事項が増えましたので、これを教訓として安全かつスムーズに、さらに他人さまから後ろ指をさされないように実験するための方策を考えたいと思います。いやあ、いくつになっても反省することしきりですなあ、でもこれが人生ですからね。

追伸; と言いながらも、なにからなにまで指示して、ああしろこうしろというのもどうなんでしょうか。そこまでしないといけないのかという一抹の寂しさを禁じ得ません。


開戦の日に (2016年12月8日)

 七十五回目の開戦の日がやって来ました。真珠湾攻撃からすでに四分の三世紀が過ぎたことになります。わたくしが生まれた頃はまだ「戦後」の雰囲気がかなり色濃く残っていて、片足や片腕がなかったりしたひと達(戦地で負傷した傷痍軍人だったのだと思います)が白い服を着て、アコーディオンとかラッパ、鉦などを駅前で奏でていた風景を小さい頃の記憶として持っています。

 わたくしの親族にも従軍したひとや戦死されたかたがいて、先の戦争が絵空事という感覚は持っていません。しかし現在の日本社会一般から言えば、すでに遠い昔の過去のひとつの出来事みたいな感じに捉えられているように思えますね。そのことが歴史の深層に埋もれてしまったからこそ(あるいはあえて忘れたフリをして)、いまのA倍政権の独善的な政策が生み出されたのです。

 先頃、そのA倍首相が年末に真珠湾を訪問するというニュースが流れました。オバマ大統領がこの五月に広島を訪問したことに対する答礼の意味合いが強いと思いますが、このこと自体は慶賀すべきことがらでしょうね。でも、上述のようなA倍政権の振る舞いを見ていると、これがA倍政権の戦争容認方針をカモフラージュするための目くらましというふうに思えて来くるのは、ちょっと穿ち過ぎな見方でしょうか。いずれにせよ、平和な日本が続くことを祈りたいと思います。


探究する (2016年12月7日)

 久々に真理を探究するっていう話しです。本は今もたくさん読んでいますが、最近はなるべく買わないようにしています。買った本は基本的には家のなかに所蔵されますが、そのためにスペースがどんどんと喰われてゆきます。小さな我が家なのでわずかなスペースの捻出もバカになりません。じゃあ捨てればいいでしょっていうことになりますが、貧乏性のたちなので本は捨てられません、わたくしは。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:基礎ゼミナール2016:20160427:P1010453.JPG
写真 首都大学東京図書館(南大沢キャンパス)[2016年4月 「基礎ゼミナール」の授業時に撮影]

 そこで本学の大学図書館を利用することを思い立ちました。さすがに時代小説などは蔵されていませんので、そういうのはやっぱり自分で買いますが、歴史モノとか科学モノなどは結構な品揃えになっていることに気が付きました。

 で、いまは『オンライン・バカ』(マイケル・ハリス著、松浦俊輔訳、青土社、2015年9月)と『エニグマ アラン・チューリング伝(上)』(アンドルー・ホッジズ著、土屋俊・土屋希和子訳、勁草書房、2015年2月)を読んでいます。『オンライン・バカ』はその衝撃的なタイトルにつられて1/3ほど読み進みましたが(日本語訳がこなれていないこともあって)、あまり面白くないのでもう止めようと思っています。

 もう一冊の『エニグマ アラン・チューリング伝』は面白いです。アラン・チューリングはチューリング・マシンで有名ですね。コンピュータの父とも言われます。彼のことは『皇帝の新しい心 〜コンピュータ・心・物理法則』(ロジャー・ペンローズ著、林一訳、みすず書房)に書いてありましたので、チューリング・マシンの初歩的な原理等については見た記憶があります。エニグマは第二次世界大戦以前にナチスドイツが使っていた暗号システムの名称で、英国人のチューリングはその解読に大きく貢献した人物でもあったのです。

 数学は物理学とともに自然界の構成原理を根本的に解明しようとするきわめて魅力的な学問だと思います。それは超ミクロの量子の世界から超マクロの宇宙全体までを統一的に理解しようとする試みと言ってもよいでしょう(専門的な数学者・物理学者のご意見はまた異なるかも知れませんが…)。そのような最先端の知的な活動についてはわたくしごときが理解できることがらではありませんが、その一端を知ると楽しいし、わくわくします。わたくしが鉄筋コンクリート(RC)構造を研究するのも、結局はRC構造の構成律を究めたいということに尽きるのでしょうな、きっと。

 しかし「シュレディンガーの猫」じゃありませんが、なにが本当の真理なのか、真理は論理的には複数存在するのではないかという(人間自身が産み出した)問いに答えることは容易ではなさそうです。すなわち自然界の真理を探究するとそれは必然的に哲学へと続いて行くのです。そしてそのことから、人間とはなんだろうかという問いは容易に引き出されます。

 でも自然界の真理なんてものはそもそもが人間の思念が生んだ幻想にすぎないのかも知れません。そうすると、宇宙のなかのちっぽけなわたくし、という存在自体があやふやなものと化し、そこから、人生は夢のごとしという達観まではひとっ飛び、という気もしますな。飛躍のし過ぎですか?、皆さん、いかがお考えでしょうか。


おそい健康診断 (2016年12月6日)

 わが大学の健康診断は毎年七月末にあるのですが、今年はその時期に体調が激悪だったので結局、健康診断には行けずじまいでした。この大学に赴任してから健康診断に行かなかったのはこれが初めてです。そうしたら秋になってから大学から連絡があって、指定の医療機関に行って健康診断を受けて来いと言われました。

 そこで先週、高戸橋にあるクリニックに行ってきました。高戸橋は高田馬場と戸塚(新宿区にある“戸塚”です)とのあいだにあるので、その両者の頭の文字をとってこのように名乗っているわけです。そうなんです、ここはわたくしが中学生から大人になるまでを過ごした第二の故郷だったのです。昔は電車の駅から遠くて不便なところでしたが、地下鉄副都心線の西早稲田駅ができたのでとっても便利になりました。

 この健康診断ですが朝九時前に病院に入ったこともあって一番乗りで、おかげで二十分ほどであっさり終わりました。そこで天気が良かったこともあって、久しぶりに母校の中学校があったところに向かってブラブラと足を運んでみたのです。(以前にも書きましたが)わが母校は人口減少によって既に廃校になっていますが、その校舎は今は新宿区立中央図書館として使われ続けています。つまり既存建物のコンヴァージョンということです。

 左下の写真は明治通りから西に入る小さな通りに入ったところです。わたくしが中学生だった頃にはこの通りには名前などありませんでしたが、いまでは「新宿コズミック通り」という何だかよく分からない名前が付いてました。左端は新宿区体育館(今はスポーツセンターと呼ぶそうですが,,,)、右手は早稲田大学理工学部です。中央奥の四角い四階建ての建物がわが母校です。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:戸山・百人町20161129:P1010977.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:戸山・百人町20161129:P1010986.JPG

 かつての正門をくぐって校庭(だったところ)から校舎を見たのが右上の写真です。ご覧のように外付け鉄筋コンクリート・ブレース(矢作建設工業のピタコラムです)でガンガンに耐震補強されています。この校舎のコンクリート圧縮強度はかなりプアだったことは以前のこのページに書いたので省きます。また左端には背後に建つ、早大理工学部の二十九階建て校舎が見えています。市松状に鉄筋コンクリート・ブレースが配された独特のファサードをしています。安東勝男さんの設計です。

 内部は図書館として使われているので教室と廊下との仕切り壁は全て撤去され、教室境の(張り間方向の)耐震壁もかなり撤去されていました。ただ、張り間方向の耐震壁を撤去するとその上か下かの大梁が垂れ下がる可能性があるので、左下の写真のように二本の角形鋼管で鉛直力を支持していました。かつて手洗い場があった北面のアルコーブはいまではパソコン・コーナーになっていました(右下の写真)。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:戸山・百人町20161129:P1010999.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:戸山・百人町20161129:P1010998.JPG

 このように様変わりした校舎の内部ですが、階段室にはかつて中学校時代にあった卒業記念の鏡がそのまま残っていたりして、ほんのりとした懐かしさを感じました。でもこんな感じで旧校庭や建物内部をウロウロしている迂生は相当に怪しげに見えたらしく、警備の方や職員さんに二回も誰何されました、どういう御用でしょうかっていう感じで,,,。こっちはただ単に少年時代のほろ苦い感傷にひたっていただけなのに、全くもって無粋なひとたちと言ったらないですな。もっともそんなことは他人さまの知ったこっちゃないわけですから、決して怪しいもんじゃございやせん、とか言いながら静かに退散したのでした。


大学入試改革 記述式問題の是非を問う (2016年12月5日)

 2020年度からの開始を予定している国立大学の入試改革について、国語での記述式解答を必須とする方針が示されました。字数は80字以下の短文とそれよりも多い中文との二種類のようですが、文系・理系を問わず全ての受験生に解かせるというのが特徴です。しかしこれには試験実施に際して解決すべき問題が山積しており、また本当に有益なのかどうかも未知で、疑問噴出の改革方針であるとわたくしは思います。

 記述式の国語の問題を文系・理系に関係なく課すという方針が今回新たに示されましたが、これには大いなる疑問を抱きます。現在の大学入試センター試験における受験科目や二次試験の科目は各大学が独自に決めています。理系の学部・学科では国語を全く受けなくてもよいところは結構あると思います。わたくし自身は国語くらいは勉強すべきと思っていますが、各大学はそれぞれで定めたアドミッション・ポリシー等で学生に求める能力や理想像を独自に決めていますから、国語の能力は問わないというならば、そういう判断は尊重されるべきでしょう。

 ところが今回の方針では、そのような大学独自の判断に無関係に国語の記述式問題を解くことを求めていて、そのことは大学教育に関する明確な干渉であるとわたくしは思います。独自性の発揮とか個性の尊重とかを謳いながら、横並びかつ画一的に入試問題を押し付けるのはいったいどういう了見なのか、理解に苦しみますな〜。

 そもそも大学が本気で記述式問題が必要であると考えるならば、現在でも二次試験において独自に出題すればよいだけの話しです。わたくしの大学の建築学科では二十年以上前から小論文を課す受験コースを設けています。各大学が求める学生像に従って入試の科目および問題が入念に設定・作成されているわけですから、それに口出しする必要はないと迂生は考えます。

 つぎは採点の体制についてです。民間業者に委託する、あるいは大学側が採点する、という案が出ています。記述式問題を採点する際の危惧については以前に書きましたが、能力も拠って立つバックグラウンドもまちまちな多数の採点者がかかわったときに公平な採点が担保されるとはとても思えません。

 ひとりの人間が全ての答案を採点できれば、かなり厳密な相対評価は可能です。ただしそれは具体の答案を見ながら判断を微調整しつつ、折に触れて前に戻って採点を見直すという複雑な過程をともなうことが前提です。そのような採点には相当の集中力と時間とを要しますので、ひとりの採点者が採点できるのはおよそ百枚ほどの答案が限界であると思います。

 数十万人規模の大人数が受験する新共通テストにおいて、このような採点が可能であるとはとても思えませんよね。あまつさえ民間業者に採点を委託したりしたら、どのような採点が為されるのか非常な不安を覚えます。採点基準を厳格にしてマニュアル化します、というふうに言うかもしれません。しかしそもそも記述式答案に書かれたことをそういうマニュアルに沿って判断(採点)できると考えること自体がナンセンスだと思いませんか。

 以前にも書きましたが、結局のところわずか一日、二日のペーパー・テストで個々の人間の能力を測定して選別しようとする(あるいは、そうすることができると考える)こと自体がそもそも無理なわけです。意識していたかどうかは別として、ペーパー・テストの限界と利点とを認識した上で今までの大学入試は成立していた、ということなのです。

 このやり方ではまずいと本気で主張するのであれば、現状の入試方式に記述式問題必修化を追加するなどという付け焼き刃で対処することは本質的に間違っています。受験生の全人的な評価が必要であるというのであれば、それこそ昔の中国の科挙の試験のように何ヶ月も問題に取り組ませるか、あるいはアメリカに見られるように入試専門の部局の人間がひとりひとりの受験生の日常に接しながら判断するか、いずれにせよ膨大な手間ひまをかけた選抜方法に移行するしかないと思います。でも、本当にそうする必要があるのか、わたくしは大いなる疑問を感じますけどね。


十二月の雨 (2016年12月2日)

 師走の入りの朝は冷たい雨降りで始まりました(今朝は快晴のよい天気です)。昨日は建築都市コースの卒論発表会(卒論と卒業設計との両方をとる学生)・卒論中間発表会(卒業設計をとらない学生、あるいは卒論はとらずに卒業設計だけやる学生)がありました。例年書いているのですが、この発表会の当日はどういうわけかものすごく寒い曇天か雨降りのことが多くて、ピーカンになることはほとんどありません。天気のことですから法則性などないとは思いますが、十二月上旬に特異な気象というのがあるのかも知れません。

 さてこの発表会は例年は研究室棟の隣にある教室棟で開きますが、今年はその大教室がとれなくて、正門脇の小講堂で行いました。研究室から小講堂までは歩いて七、八分はかかりますので、その点は不便です。ただし設備は整っていますので、発表する学生諸君にとってはやり易かったのではないかと思います。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU卒論・中間発表会20161201:CIMG0889.JPG

 建築都市コース長(わたくしです)は朝いちの開会および夕方の閉会の挨拶をしないといけません。もちろんず〜っと坐って学生諸君の発表を聞いて、質問したりします。そのあいだに代議員会(学部長、学部長補佐とコース長・学域長が集まる会議)も開かれたので、もう多忙を極めました。西に発表するひとがいれば行ってなにをやっているのかと問い、東に会議するというひとがいれば駆け付けてこれはこういうことだと説明し…、とまあこんな感じです(雨ニモマケズ調です、わかりました?)。

 話しは変わって来期のことですが、次期コース長がやっとのことで決まりました。先日教授の会を開いて、来年度のコース長をどうしましょうかとわたくしが発議したのですが、だ〜れもな〜んにも発しません。その場に先送り感が漂いかけたのでそれはまずいと思ったわたくしが、(言いたくはなかったのですが)まだ一度もコース長をやったことのない教授三名を名指しして、このうちのどなたかにお願いしたい、というふうに引導を渡しました。そのあと、その三名の方が相談して、やっとある先生が(渋々感がアリアリでしたが)引き受けて下さいました。

 これで来年度の舵取り役が決まりましたので、その点は安堵いたしました。ただ、決まり方がこんな感じだったので、正直言って“晴れやか”というにはほど遠い気分でした。いな、暗澹たる気分を抱いたほどでした。

 一方で今回もまたご自分の意思を貫徹した方がいたわけで、一体どうしたものかとほとほと困り果てました。なぜそんなに自分のことばかり持ち出すのか、組織の一員としては理解不能です。いつも書いていますが、学科の責任者を教授職の持ち回りで分担するのは大学人の嗜みです。基本と言ってもよいでしょう。つまりそれは大学自治の根本を支える肝心かなめです。大学人である限りその“常識”には思いを致し、尊重してほしいというのが偽らざる心境です。もっとも、ご本人の覚醒を待つしかありませんが…。


十一月もそろそろ末 (2016年11月29日)

 十一月も終わりに近づきました。今年の十一月は例年よりもかなり寒かったような気がします。実際、我が家のこの十一月の暖房用燃料の消費量は昨年同月の約2倍(一昨年と較べても約1.5倍)だったことからもこのことは裏付けられるでしょう、雪も降りましたしね。

 さて昨日、二年生の設計製図の課題である美術館の講評を終えました。二ヶ月のお務めだった設計製図の担当からやっと解放されて、正直言って嬉しいです。まあ建築学科でひと通りの建築教育を体得したひとであれば、二年生の課題くらいならどなたでも対応できるとは思います。だからこそ、わたくしのように意匠設計とか建築計画とは無縁の徒でも務まっているようなあんばいです。

 この課題では六十数名の学生に対して十名の教員団(非常勤講師やTAを含みます)が文字どおり手取り足取り指導します。そのうち四名は現役の建築家という分厚い布陣です。少人数教育が売りの本学にしても、これは結構手厚いほうではないでしょうか。以前に何度も書いた『基礎ゼミナール』だって、わたくしのクラスでは22名もいましたから,,,。

 講評会では、これらの教員団がそれぞれの見地からあれこれ批評やら意見等をくれるわけですから、学生諸君にとってはとても役立つしありがたいことだと思いますが、彼ら/彼女らはそのことをちゃんと認識しているでしょうか。多分に怪しいように思えますね〜。

 このように丁寧に親切に指導することはよいことですが、わたくしのことを言えば、年齢を重ねて来てだいぶつらくなってきたのも事実です。今年はルーキーの壁谷澤寿一さんもこの課題の担当に加わりましたので、中年(もう初老か?、わたくしのことです)の負担をもう少し減らしていただけるとありがたいですな。まあ労度の公平性ということが常に言われるので、なかなかそうもいかないでしょうけど…。


少年時代へつづくもの (2016年11月28日)

 11月24日はフレディー・マーキュリーの命日だったそうです。彼が亡くなったのはちょうど四半世紀前のこと(1991年)でした。フレディー・マーキュリーはクイーンのボーカルですが、クイーンと言えばわたくしにとっては「キラー・クイーン」が真っ先に頭に浮かんで参ります。この曲は1975年にヒットしましたが、その当時、わたくしは中学生でした。

 (皆さんも経験したと思いますが)中学生になると夜更かしするようになって、深夜ラジオを聞くようになりました。余談ですがこのころBCL(注)が流行っていて、わたくしもどうしても短波ラジオが聴きたくて、父親にソニーのスカイセンサー5800という最新鋭受信機を買ってもらいました。「ロケット」という電器屋(今も秋葉原にあります)の倉庫が住んでいたアパートの目の前にあって、父親がそこに行って現金を渡して買ってくれたことをよく憶えています。きっと、買ってくれ〜ってギャーギャーいう息子が鬱陶しくて、親父は突発的に目の前の倉庫に飛び込んで掛け合ったんでしょうな、今にして思えば。だって倉庫で小売りなんかしていませんからね。

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 当時のわたくしは洋楽にも日本のフォークやロックにも興味がありませんでした。中学校の教室で女の子たちのカバンにデカデカと貼られた「TULIP」というシールを憶えていますが、これが財津和夫をリーダーとするフォーク・グループの名前ということさえ当時は知りませんでした(というか、興味がなかった)。

 でも、その頃のヒット曲は何度となくラジオから流れてきたので、そのうちのいくつかは記憶にとどまっているようです。例えば、カーペンターズの「プリーズ・Mr.ポストマン」(ビートルズのカバーということは後年知りました)とかリンゴ・スターの「オンリー・ユー」(ザ・プラターズのカバー)などですが、クイーンの「キラー・クイーン」もそのような一曲だったわけです。しかしながらこれらの曲たちはその後すっかり忘却して、CDを買うこともありませんでした。

 久しぶりにその「キラー・クイーン」を聴きましたが、ものすごく複雑なメロディであることに気がつきました。歌詞も意味深長な感じで、こんな曲を唄っていたフレディー・マーキュリーってやっぱりそれなりの歌い手だったんだろうと感じました。

 こんな感じで「キラー・クイーン」はわたくしに少年時代を思い出させてくれるスイッチのひとつなんですね。その頃のわたくしが何を考えていたか、多分ろくでもないことだろうと思います(あははっ)。でも無限の未来が開いていた、そんなちょっぴり甘酸っぱい時代だったことは確かでしょう。

注; BCLはBroad-Cast Listening の略です。海外の短波放送を聴いて、その聴取レポートをその放送局に送ると、ベリ・カードという受診確認証を送り返してくれます。そのベリ・カードを集めるというのが流行りました。まあ、仮面ライダーカードとか酒ブタとかのコレクションと同じでしょうな。

 インターネットによって世界中とつながっている現代では考えられませんが、その当時は異国から微かに流れてくる放送をラジオにかじりついて聴き取ろうと熱中したものです。BCLやベリ・カードの話しはそのうち書きたいと思っています。


十一月の雪 (2016年11月24日)

 朝起きたときにはまだ雨でしたが、六時半頃には雪に変わりました。東京で十一月に雪が降るのは54年ぶりということで、やっぱり驚きますね。家を出たときにはまだ積もってはいませんでしたが京王線は予想通り遅れていて、下り電車だというのに相当な混雑でした。

 南大沢に着くとすでにかなり積もり始めていました。シャーベット状の雪のせいで足元がべちゃべちゃとして歩きにくかったです。でも今日は会議の日なので、無事、大学に到達できてよかったです。そうそう、卒論中間発表の梗概が今日のお昼に締め切りになりますが、まだ見ていないひともいます。大丈夫なんでしょうか、心配です。でも、もう“おとな”なのだから自分で何とかしてもらうよりほかありませんな。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:11月の雪_南大沢20161124:P1010961.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:11月の雪_南大沢20161124:P1010968.JPG


足音が… (2016年11月21日)

 新たに「駆け付け警護」という名称の任務を賦与された自衛隊の部隊が南スーダンに派遣されたというニュースが流れました。この名称だけ見てもよく分からないですが(それが政府の狙いでしょうけど…)、実体は戦地(これも政府は絶対に使わない用語です)に限りなく近い危険な紛争地域への派遣です。派遣される隊員諸氏の家族の心配は今までとは次元が異なって、とにかく無事に帰国して欲しいというのが切実な願いでしょうし、わたくしもそう願います。

 国際貢献の名の下に日本の軍隊(自衛隊のことです)を派遣する。このことが憲法の精神を無視してなし崩し的に進められることに背筋の凍るような危惧を抱きます。日本の自衛隊とは、まさにその名の通り祖国・日本を自衛するための組織のはずです。その組織を南スーダンという遠い異国に武装して送ることが、どうして日本の防衛に資するというのでしょうか。もちろん「風が吹けば桶屋が儲かる」のように、このことに対して如何様にも理由は付けられるでしょうし、実際、政府はそのように理論武装して軍隊を海外に派遣し続けているわけです。

 こうして日本は再び戦争に向かって少しずつ近づいているような気がしてなりません。もうすぐ“先のあの戦争”が始まった12月8日を迎えます(真珠湾開戦の日です)。その無謀な戦争によって倒れた悲運の人びとの声なき声に耳をすますとき、あのときと同じ運命を享受することは到底許されません。亡国への足音を押しとどめ、押し返すことがいま、われわれ市井の民衆に求められているし、そうすることがわれわれの務めであると思います。


初モノ好き (2016年11月18日)

 ワインのボジョレー・ヌーボーが解禁になったというニュースがありました。ワイン好きには待ちに待ったイベント、ということでしょうか(わたくしは自慢じゃありませんがワインの味は分かりません)。他の国の人びとのことは知りませんが、日本人は何につけ初モノが好きですから、春の初鰹と同じように初ワインを楽しむということかも知れません。

 でも、それなら秋に新米がとれたときとか、日本酒の初しぼりが出荷になったときなども同じようにニュースになってよいと思いますが、現実はそうではありません。それらにかかわる日本古来の風習として新嘗祭(にいなめさい)や神嘗祭(かんなめさい)などがありますが、それらが報じられることはほとんどないし、市井の人びとが「もうすぐ新嘗祭だね、待ち遠しいな〜」などと言うのを聞いたこともありません。

 そうするとワインのお祭り騒ぎもクリスマスとかハロウィンとかの西洋の習俗を喜んで真似するわが国特有の体質の発露なのかと思います。ワイン好きの方々にとっては大きなお世話でしょうが、このイベントを盛り上げることによってお金儲けできるひとは大勢いるはずですから、そういう「神の見えざる手」によって踊らされているだけ、とも受け取れますな(ちょっと辛辣すぎか,,,)。

 おしなべてグローバル化の時代ですから、初ワインも飛行機であっという間に日本に届きます。でも、もう少し地に足をつけて、風土に根ざした習慣を大切にしてもよろしいのではないでしょうか。世界に目を向けることは大切ですが、いつも書いているように自分の生まれ育った風土から切り離されては根なし草に成り果ててしまって確固たるアイデンティティを確立することは望めません。もちろん日本でも美味しいワインを作っているでしょうから、そういう地所で初ワインを楽しむというのは大いに結構かと思います。


耳ネタ 2016 November (2016年11月16日)

 音楽ネタのときにこのタイトルを使っていますが、今回は本当に耳ネタです。外出中はいつでもiPod nano で音楽を聴いていますが、そのときにはカナル・タイプのイヤホンを使っています。どうせ聴くならいい音で、と思って、これまでイヤホンをいろいろと物色して、それなりに値のはるイヤホンを買ったりしてきました。でも外に持って行くとどうしても断線しやすくなり、事実、何度も断線してそのたびに買い替えました。そうした経験から高額のイヤホンを持ち歩くとコストパフォーマンスがよくない、ということに(遅まきながら)気が付いたのです。

 そこで実売価格が四、五千円程度のイヤホンをできるだけよい音で聴くにはどうしたらよいか、という命題を追究しました。そして耳に直接当たるイヤホン・チップを工夫したらどうか、ということに行き当たりました。

 そういうわけで調べてみると、そういう目的のために作られたイヤホン・チップがたくさん売られていることが分かりました。わたくしと同じような目的のひとが世の中にはたくさんいた、ということでしょうね。

 いい音のほかにもうひとつ目的がありました。それは今年の九月初めにニュージーランドに行ったのですが、飛行機内の騒音(ジェット・エンジンの音です)をできるだけ緩和できる、遮音性能のよいイヤホン・チップが欲しかったのです。既に書きましたがNZまで十時間以上も飛行機に乗っていないといけないので、その間の快適性の保持はわたくしにとってはきわめて重要な事柄だったんですね〜。

 ということでネットの消費者情報を検討して、コンプライという会社の「アイソレーションPlus」というチップを選びました。ビックカメラで購入しましたが、イヤホン・チップ三組がセットになって3000円でした。ということは一組1000円です。耐久性は約四ヶ月という情報でしたので、一ヶ月にすると250円です。イヤホンの音がよくなって遮音性能も期待できるのならば、これくらいの出費は安いもんだなと判断したわけです。でも四千円のイヤホン本体に千円のチップというと、そんなの勿体ない!っていうひともいるでしょうね、きっと。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:コンプライ_イヤホンチップ2016:DSC01696imp.JPG

 それが上の写真です。ほぼ黒色をしていますが、低反発ウレタン・フォームでできているそうです。使うときにはチップをクチャクチャにつぶして耳穴に入れると耳のなかでだんだん膨張してきて耳穴に密着してフィットする、ということらしいです。

 使うと確かにそんな感じで、耳穴に密着するので音はよくなったような気がします(それまで聞き分けられなかった微細な音を感じられるようになりました)。遮音性能は期待したほどではありませんでしたが(電車内のアナウンスは普通に聞こえます)、飛行機内の騒音は確かにかなり軽減されたのでよかったです。

 ただし誤算だったのは耐久性でして、約二ヶ月使ったところで上の写真のようにチップにひび割れが入って裂けてしまいました。つまり想定した四ヶ月の半分しか保たなかったことになります。わたくしは毎日朝晩の通勤時には必ずiPodを使っているヘビー・ユーザーなので仕方ないのかも知れませんが、ちょっと早いんじゃなかろうかとも思います。

 ところで所持しているCDの電子化ですが、最近はGeorge Benson、Grover Washington Jr.、George Michael、Janet Kay などの洋モノや伊勢正三(『風』以降のソロ活動のもの)などをiTunesに格納いたしました。いずれも1990年代前半の作品です。George Bensonなどはその存在さえ忘れていましたが、聴いてみるとなかなか渋くて味わい深い曲が多いことに驚きましたね。若い時分にはその良さが分からずにお蔵入りされていた、という気がします。秋の夜長にひとり寛ぎながらゆっくりしたいときなどにうってつけです。

 ということで相変わらず自分自身の“遺産”を活用していて、新しいCDはここのところ購入していません。古い時代のGood vibration(例えばOrleansとかAlan Parsons Projectとか)をそのうち仕入れたいなあとか思っています。


決断の孤独 (2016年11月11日)

 冷たい雨の降る寒い朝になりました。二日連続で京王線が遅れていて、大学まで一時間半近くを要しました。京王線の遅延は常体化しているのでなんとかして欲しいと思いますね、以前から同じことを言っていますけど,,,。

 さて、そろそろ来年度のことを考えないといけない時期に来ていますが、わたくしの所属する建築都市コース(平成30年度からは建築学科に改変される予定)ではそれよりもかなり先の自分たちの学科の将来をどうすべきか決めて態度を表明しないといけない、という立場に置かれそうな状況にあります。わたくしは今年度の責任教授ですから、そのような将来計画について熟慮して道筋をつけることを要請されています。しかしこの状況は、なかなかにつらいです。

 さすがにひとりでは決め切ることができません。そこで学部長補佐の角田誠教授と一緒にウンウンと唸りながら、ああでもない、こうでもないとウダウダと議論が続きます。その果てに名案が産み出されればハッピーですが、なかなかそうも行きません。そもそも、わたくしが決めたことを構成員の先生方が納得して受け入れるという保証もありません。

 このような立場に置かれて、組織を切り盛りするひと達が抱いたであろう、決断するときのプレッシャーとか孤独について、少しばかり思い至るようになりました。その決断によって自分たちの将来が決まってしまうかと思うと空恐ろしく思います。あまつさえそれが自分がいなくなった後々まで影響を与えるかと思うと、その責任の重さに圧壊(こりゃ専門用語?)するような息苦しさを覚えます。

 でもそういう決断は孤独のなかで為さざるを得ない、ということかとも思います。民主主義の世の中ではありますが、重要なことを大勢のなかで議論していては凡庸な結論しか得ることができないのは周知の通りです。結局のところは少数のなかで決断したことを、熟考の末にこのような結論に至りましたので、これで行きましょう、という形で提示するしか道はないように考えます。

 そうではあるのですが、多分ダメでしょうね。大学の教室というところは何にせよ議論の好きなところですので(それは一面では好ましいことでもあるのですが)、果てしない議論の末になにも決まらないということを怖れるわけです。決断のできない組織ほど手に負えないモノはないですな。

 こうして今日もまた頭を抱えて呻吟するのかと思うと、ちょっとばかり憂鬱なわたくしでございます。



試験体の搬入2016 (2016年11月9日)

 めっきり寒くなって、今朝は木枯らし一号が吹いたらしいです。手袋が欲しくなりました。十一月初旬って、こんなに寒かったですかね。

 さてトップページに記したように、柱梁部分架構試験体を大型実験棟に搬入しました。JSPSの科研費による研究の二年目でアンボンドPCaPC構造を対象としています。今年度は写真のように外柱梁接合部試験体を作製しました。そのうち一体にはスラブを付加しています。担当者はM1の鄒珊珊さんと卒論生の岩田歩くんです。

 大学構内はかなり紅葉が進んで来ました。大型実験棟の回りのモミジは写真のようにきれいな赤や黄色に染まっています。これから冬に向かってどんどん寒くなって来ますが、安全に配慮して慎重に実験に取り組んで欲しいと思います。想定した成果が得られることを期待しています。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:PCaPCアンボンド科研_鄒珊珊2016:試験体の搬入20161109:DSC_5124.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:PCaPCアンボンド科研_鄒珊珊2016:試験体の搬入20161109:DSC_5129.JPG


小説とは (2016年11月7日)

 わたくし達の回りには小説と呼ばれる読み物が溢れています。そして、それを書くひと達は小説家と呼ばれます。かように小説という言葉はフツーに使われますが、なぜ小説というのか、その語源はなにかということを考えたことは不覚にして今までありませんでした。

 なぜこんなことを言うのかというと、ある日、電車のなかで読んでいた『人間にとって』(高橋和巳著)のなかに次のような一節を見出したからです。

 …私は都会生れであり、大阪人でありながら、はなはだ野暮ったくて硬直しており、小説家でありながら〈大説〉が妙にすきであり、…

 小説に対して〈大説〉という用語が対比されていることが分かりますね。ここではたと考えたわけです、あれっ?小説ってなんだろうか、と。小があるなら大もあるだろうというのは、世の中の、あるいは自然界の理です。では〈大説〉とは何か。これは聞き慣れない用語ですね(わたくしだけでしょうか…)。

 〈大説〉とは(よく分かりませんが)高橋和巳が好きな硬派なテーマ〜人間とは何かとか、人生をどう生きるべきか、というような大上段に振りかぶった真っ向勝負の思索のこと〜をどこまでも深く掘り下げるようなものを指すとすると、小説とはその対極にあるもの、ということになりますな。う〜ん、分かったようで分からんか,,,。

 「小説」のような漢字の用語は明治維新以降に新しく日本に導入された用語だと思われます。「健康」しかり「建築」しかりです。漢字の本家である中国でも「小説」という用語はあったようですが、Novelという英語に「小説」という用語を当てたのは坪内逍遥(“小説家”ですね)である、とネットに書いてありました。これは多分本当でしょう。

 ただ高橋和巳は小説家であるとともに大学で中国文学を講ずる研究者でもありました。中国において〈大説〉という言葉がどのように使われていたのかは分かりませんが、彼が専門的な何かを知っていた可能性は大いにあります。それが上述したような“ご高説”のことであるとするならば、その対極にある「小説」を書く自分を「小説家」と呼んだのは、ちょっとばかり自身を卑下した彼一流の照れ隠しだったのかもしれません。


成田で現場見学 (2016年11月4日)

 先日、成田にある現場の見学に我が社の学生諸君とともに行ってきました。ピーエス三菱の大迫一徳部長のご好意で、国際医療福祉大学医学部の新築工事現場を見学いたしました。現場ではお忙しいなか説明と案内とをして下さった所長の恩田豊さんやピーエス三菱の社員の皆さまにあつく御礼申し上げます。我が社のOBの片江拡さんも来てくれました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:ピーエス三菱現場見学_国際医療福祉大学/成田山新勝寺と参道2016:P1010938.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:ピーエス三菱現場見学_国際医療福祉大学/成田山新勝寺と参道2016:P1010944.JPG

 この現場ではプレキャスト・プレストレスト・コンクリート(PCaPC)造の純フレーム建物(耐震壁がなくて、柱と梁だけの構造躯体)を建設しています。我が社ではここ数年、この構造を研究のメイン・ターゲットにしていることもあって、格好の現物学習となりました。この構造を研究している学生も多いので、学生諸君にとっても大いに勉強になったことと思います。

 この工法では工場で作製したプレキャスト柱・梁部材を現場で組み立てるので、現場でのコンクリート打設はスラブ・トッピングを除いてほとんどありません。そのために現場が驚くほどきれいですし、静かです。建設現場というよりは工場といった感覚を抱きました。ゴミの量も在来工法に較べて半減しているそうで、地球環境に優しい工法としてアピールしているそうです。いま話題の『特定天井』についても、その実例の前で恩田所長が丁寧に説明してくださいました。

 最近はどこでもマスコット(キャラクター)が流行っていますが、ピーエス三菱でも一年ほど前に「まもる君」というのを考案したそうで、現場の足場にでかでかと掲げられていました。二丁がけの安全帯を両手に持っています(恩田所長ご自身も二丁がけの安全帯を使っておいででした)ので、これは安全を「まもる」ということでしょうか。

 ところでこの現場は京成本線の「公津の杜(こうづのもり)」駅の目の前にあります。この駅はこの付近の京成線の駅としては格段に立派です。また駅前にはイトーヨーカ堂と大学とがありますので、なんとなく本学のある南大沢駅に似た印象を持ちました。ただお昼の時間帯の電車は一時間に三本しかなく、その点は南大沢駅とは違いますね。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:ピーエス三菱現場見学_国際医療福祉大学/成田山新勝寺と参道2016:P1010958.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:ピーエス三菱現場見学_国際医療福祉大学/成田山新勝寺と参道2016:P1010850.JPG

 この「公津の杜」駅の一つ先はもう成田駅です。ここは成田山新勝寺の表玄関になります。せっかくここまで行くのだからと思って少し早めに出て、成田まで行ってきました。駅前からお不動さままでの参道に「長命泉」という成田銘酒の蔵元があって、そこで純米吟醸酒の一升瓶を買い求めて現場に差し入れました。この地酒についてはネットで調べたのですが、わたくし自身は飲んだことはありません。というか、千葉県の地酒自体を飲んだ記憶がありません。美味しいお酒だとよいのですが,,,。

 さて、成田の名物ってなにかご存知でしょうか。落花生、鉄砲漬け、それに鰻だそうです。実際、成田山新勝寺へと続く表参道沿いには鰻屋さんが軒を連ねていて、それはもういい匂いが漂ってきます。ちょうどお昼どきだったので、これはたまりません。せっかくですから、「駿河屋」という老舗でうな重(3600円)をいただきました。関東のうなぎは蒸しているのでふっくら柔らかで美味しかったです。

 ちなみにこの日は見学会の直前に折悪しく京成線が人身事故で止まってしまい、学生諸君の到着は一時間ほど遅れてしまいました(この点でも現場の皆さまにはご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ありません)。ただわたくしは既に成田に着いていたので、定刻通りに現場に到着できました。ああよかった、という感じです。

 なおこの日は京王線——都営地下鉄新宿線——(本八幡、京成八幡乗り換え)——京成線と片道二時間以上の長旅でした。でも往復ともに坐ることができましたので、車内で英文論文の査読を完遂することができたのは思わぬ収穫でした。ただその論文は(言っちゃ悪いですが)おもろ〜ない論文でして、わたくし自身にとっては何の役にもたたなかったのが残念でした。


いつから (2016年11月1日)

 十一月になりました、それらしく寒いですね。「いつから」なんてタイトルをつけましたが、漱石先生の『それから』みたいでちょっといいんじゃないでしょうか(悦に入っているわたくしでございます、あははっ)。

 さて昨日はハロウィーンという西洋の風習の日だったそうです。わが国に縁もゆかりもないその習慣を声高に口に出すようになったのはいったいいつからでしょうか。テレビ等でもしきりに報道されますが、仮装して繁華街に繰り出してなにが楽しいのでしょうか(余計なお世話でしょうけど)、わたくしには理解できません。

 そんなファミリアじゃない風習はわたくしには無縁と思っていましたが、昨晩、そうではないということを知りました。設計製図の講評を終えて帰宅すると、我が家の愚息が家にいません。どうしたんだい?と家内に聞くと、ハロウィーンなので出かけたと言うじゃありませんか。おいおい、外は真っ暗だぞ、いいんでしょうか,,,。

 そのうち愚息を含む子供の一群がピンポ〜ンとやってきて、西洋の呪文のような文句(トリック・オア何とかっていうヤツ)をブツブツ言いながら、お菓子を分捕って行きました。家内も予め大量のお菓子を買って待っていたようで、それを子供達に渡していました。そのあと愚息の友だちの別のグループがまたピンポ〜ンってやってきて、お菓子をせしめて去って行きました。

 そうして午後八時近くになってやっと愚息が帰って来ました。小学生の子供達がそんな夜遅くまで街なかをふらふらと歩き回っていてよいのでしょうか。夜分に個人のお宅に夜討ちをかけるように押し掛けて、そのうちトラブルが出来するようなことがなければよいのですが…。いずれにせよ、なんかイヤな習慣が神国・ニッポンに入って来たなあ、というのが偽らざる感想でございます。

注; ときどき書いていますが、わたくしは国粋主義者ではありません。上述の「神国・ニッポン」というのは西洋の風習に対する言葉のアヤに過ぎません、念のため。


エックスの概念 (2016年10月31日 その2)

 週末に子供の勉強を見ていてつらつら考えました。小学生ですが、塾で習った算数に未知数x(エックス)が登場しました。19-3x=10 のxを求めなさい、というような問題です。子供はこれに答えることができなくて、わたくしがそれを説明しようとしたのです。でも、x(エックス)の登場はちょっと早いんじゃないの、というのが感想です。

 わたくし自身が子供の頃の記憶では、x(エックス)が出てくるのは中学生になってからだったように思います。実際、小学生の頃に鶴亀算というのがありました。これは変数x(鶴の数)およびy(亀の数)を用いれば連立二元方程式になって簡単に解けるのですが、小学校ではそういう変数記号を用いることができないので、面倒くさいことになるわけです。わたくしはこの鶴亀算が超苦手で、これが出てくると分からないよ〜っていいながら泣いたものです。

 さて、現代の子供に戻って、こういう変数x(エックス)の概念を小学生にはどのように教えればよいのか、わたくしには正直言って分からなくて困惑して泣きたくなりました。解き方を塾で習ったというのですが、子供に説明させても論理的なそれにはなっていませんでした(まあ、当然か…)。等式における移項を(わかり易く)説明するのですが、受け付けてくれません。我が家の子供も数十年前のわたくし同様に分からないよ〜ってわめき散らすので、条理を尽くしてこんこんと説明するのですが、全く受け入れられません。分からないよ〜、びや〜っ、てな具合なんですね。

 だからこそ塾に行って教わっているんだろ、って思うのですが、どうすりゃいいのよっ、まったく,,,。ということで大学で構造力学などを教えていても、小学生にエックスの概念すら上手に教えることのできない自分の無力さをまたもや思い知らされました。塾の先生!、助けてくれ〜!!


十月もおわり (2016年10月31日)

 十月も末になって随分寒くなってきましたね。我が家では(家内が耐えられなくなって)ついに暖房を入れました、まあ基本的に贅沢なんですけど,,,。

 この週末、わたくしの住む自治体で小型家電の回収実験というのがあって、不要になったDVDレコーダーとファックス付き電話機とを市役所に行って捨ててきました。なぜ実験という名称なのか分からないのですが、とにかく電気製品を廃棄するのには苦労しますので、ありがたいことです。市役所は回収と言っていますから、これらの家電を資源として認識しているのでしょうね。それに対してわたくしは廃棄だと思っていますから、そのあたりの認識のズレがいとおかし、といった感じです。

 きょうは午後一杯、設計製図の講評です。六十数名の学生さんの作品全てをボードに貼り出して説明を聞き、先生方が講評するので、時間がかかるのは当たり前ですな。学生諸君は自分の発表のとき以外は寝たりできますが(ホント羨ましいです)、こちらは一所懸命に図面を見て批評して、場合によっては採点もする必要がありますから、もう大変です。

 ところでノーベル文学賞をあげるよといわれたボブ・ディランというひとですが、これまでなんの反応もないのでノーベル賞なんかいらないよというのかと思ったら、嬉しくて言葉を失っていた、というじゃありませんか。もうビックリしました。嬉しい、ありがとう、なんて何も考えなくても口に出せると思いますけど,,,。

 あらゆる権威に対して反骨精神を発揮するひとなのかと一瞬思ったり(期待したりも)しましたけど、そうじゃなかったんですね。ビックリのあとはガッカリ、です。これじゃ単なる人騒がせな変人っていうだけのような気がしました(どうでもいいですけどね)。ちなみにわたくしはボブ・ディランの唄は聴いたことはありませんし、特段の興味もありません(音楽は個々人の嗜好の最たるものですから…)。


われながら、落胆 (2016年10月28日)

 いま必要に迫られて耐震補強済み建物の地震被害についての文書を作っています。そのために過去に自身で作った文書とかパワーポイント・ファイルなどを(パソコン内で)渉猟しています。そこで、約十年前の2005年にJCI(日本コンクリート工学協会)のシンポジウムで発表したスライドを見ていたら、以下のようなコンテンツを見つけました。

JCI_slide2005

 ここには耐震補強した建物の性能評価についての検討課題が抽出されていて、その冒頭に「基礎構造の損傷の予測と補強設計法の整備」ということが記されていました。建物によっては上部構造の補強にともなって基礎構造を補強せざるを得ない場合が生じる、ともあります。

 2011年の東北地方太平洋沖地震では上部構造を耐震補強した建物が、基礎構造の破壊によって泣く泣く改築になった事例が複数ありました。この教訓を受けて我が社では、上部構造と基礎構造および地盤との相互作用について研究を始めて現在に至っています。でも、このようなことが生じ得ることは約十年前に既に自分自身で指摘していたのです。ありゃ〜ってな感じです。

 これを見つけて結構、がっくり来ましたね。自分で課題を提示しておきながら、そのまますっかり忘れ果てて、あまつさえこのことが現実に生じたという事実を突きつけられたからです。なんだか無力な自分自身の不甲斐なさに言葉を失った、というところでしょうか。どうにも滅入った(参った?)な〜こりゃ,,,。


固定電話 (2016年10月27日)

 突然ですが、これだけ携帯電話が普及してひとり一台以上持っているような日本において今後、固定電話は必要なのでしょうかね。我が家では(大学と同様に迷惑電話が多いので)常に留守電にしていますが、掛かってくる重要電話といえば家内の実家からと子供のPTAだけと言ってもよい状況です。そんな状況なのに家内が電話機を買い替えてくれ、と言い出しました。

 今ある電話機は十数年前のファックス付きのものですが、子機は壊れて廃棄したので文字通り“固定電話”です。ただどこかの線が切れかかっているらしくて、ファックスを紙に印刷できなくなっていました。仕事でファックスが必要なので買い替えたい、というのが家内の言い分です。でも、いまどき楽譜だってネット上で送れるはずですよね…。

 でも我が家のお上さまがそう言うのだから、本当に必要なの?とかブツブツ言いながらも先日、東八道路沿いのディスカウント・ショップに行ってファックス付き電話機を購入しました。パナソニック製の白色筐体で子機が一台付属して二万数千円の出費でした。でも、ここでも技術の進歩は確実に見られて、筐体のサイズが二回りくらい小さくなっていたのには驚きました。おかげで省スペースになってよかったですけど,,,。配線や初期セッティングなどは全て子供がやってくれて、やっぱり男の子はメカに強いなと思いましたね。だんだん役立つようになってきて少しばかり嬉しいです、まあ勉強はしませんけど、あははっ。


十月下旬 (2016年10月26日)

 十月も下旬になって、ずいぶんと寒さを感じるようになってきました。我が家ではそろそろ暖房を入れるとか家内が言い始めましたが、室温を見るとまだ二十度以上あります。そこでわたくしは、まだいいんじゃない?って言っています。

 そうかと思うと暑い日がぶり返したりします(今日がそうですね)。おかげで体調は激悪でして、学校を一日休みました。例年のことですが、十月になって後期が始まり、そろそろ一ヶ月くらい経ったときに調子が悪くなります。慣れないこと(?)を再開したために疲れが蓄積し、その影響が出てくるのと不順な季節とが重なるためでしょうか。とにかく今週は外での会議等もたくさんありますので、体調がさらに悪化しないように気をつけながら仕事しようと思います。

 コース長の仕事は相変らずで、予期せぬ突発事項が頻出します。まあ突発事項は予期できないので、そんなのは仕方がないのは当然ですが、とにかく精神的に疲労します。そろそろ来年度のコース長をどなたにお願いするか考えるべき時期に来ていますが、こんな激務をお願いするのは正直言って気が重いです。でもいつも書いているようにコース長は教授持ち回りの職責ですから、どなたかに引き受けていただくほかありません(これがまた、ストレスだったりします、とほほ,,,)。


楽しむ (2016年10月21日)

 現代の日本社会は余裕がないせいでしょうか、ホントぎすぎすしてとげとげしい雰囲気に溢れていますな。いまは沖縄に派遣された警察官が地元のひとに「土人」と言ったとかで批判などが渦巻いています。わたくしはその場面を写したというビデオも映像も見ていませんが、ある一場面だけを切り取ったような報道だけではことの真偽や真意は分かりませんよね。

 抗議活動をしているひとたち、それを警戒している警察官たち、それぞれに職分(抗議しているひと達には主張)があって、それに応じた言い分があるはずです。警察官は日本全国から派遣されているようですから、なんで俺がわざわざ沖縄まで行かなきゃならんのか、という不満だってあるでしょう。

 結局、双方ともに余裕がないから突発的に暴言が出たのではないかと推量します。抗議するひと達ももしかしたら警護側に心ない言葉を浴びせたかも知れないじゃないですか。大阪府の松井知事が「出張ご苦労さま」と言ったらしいですが(それがまた批判されてもいますが…)、そのこともわたくしは理解できます。狭い国土に住む同胞なのですから、もうちょっと思いやりと余裕とを持って生活できないものかと思います。

 今週から二年生の設計製図のエスキスが始まりました。課題は2500平米程度のコミュニティ・センターで、規模としては小さくて手頃だと思います。でも、彼らにとっては初めての本格的な設計ですから、いろいろと戸惑うことや分からないことが多いみたいです(まあ、当然でしょうけど)。

 で、ある学生さんの図面を見たら、もうどうしてよいか分からないというそのあり様が如実に現れていました、苦悩がありあり、と言ってもよいでしょう。そのオーラが凄まじく感じられたので「きみ〜、設計やっていて楽しくないだろ。もっと楽しんで設計しようよ」と思わず言ってしまいました。そうするとその学生さんは「その通りなんです、全然楽しくありません」と正直に答えました。

 そうなんですよね、なに事も楽しんでやったほうがよいに決まっています。だからその学生さんには、なんでもいいからこの設計で君自身がやりたいことを見つけて、それを実現できるように考えると楽しくなるよ、と伝えました。そして、楽しむためには全体としての余裕が大切なんですね。アンテナを四方八方に伸ばしながら間口を大きく広げて…、というような感覚でしょうか。このことは普段の生活にもそのまま当てはまるなあ、と自分自身で思い至ったのでした。


いつの世も (2016年10月20日)

 十月も半ばを過ぎたというのに、なんだか暑いですね。ここのところ書いていることも含めて学内外でいろいろなことが起こっていて、それに対応しているだけで一日が過ぎてゆく感じです。昨日も学部長補佐の角田誠先生(建築生産)が「もうダメだ〜」とか言いながら、わたくしの部屋に倒れ込んできました(ちょっと大げさです、まあ毎度のことか…)。学部長補佐は学部全体のことを見ないといけませんから、コース長よりも職掌が広くてやっぱり大変でしょうね。

 さて本題に入って、まずは以下の文章をお読み下さい。

「現代のように情報が過多で、かつ社会的事象が目まぐるしく進展する時代には、ひとつの事件は次の事件に覆われ重ねあわされるようにして忘れられ、埋もれていく。私たちの感覚も鈍磨して、昨日の衝撃は今日の不感症となりがちである。」

 ああそうか、今の世の中のあり様を端的に記述した文章だな、と思いますよね。でも、違います。この文章は高橋和巳の『人間にとって』(新潮文庫、昭和54年9月)のなかにあった一文で、それが書かれたのは今からほぼ46年前のことだったのです(三島由紀夫の割腹事件[1970年11月25日]の二日後にこの文章を執筆した、と本人が書いています)。

 いやあ、驚きです。21世紀の電脳社会に生きるわたくし達と全く同じことを約半世紀前の文学者も感じていたのです。世の流れが早くてついていけないよ〜っていう感覚は現代人だけのものではなかった、ということですね。いつの世も、ひとびとは自分の生きる時代をこのように捉えるものなのかも知れません。

 ちなみに高橋和巳のこの文章のあとは「けれども、自分にとって痛切な事柄には固執し続けたいというのが私の態度であり、…」とあって、三島由紀夫の衝撃的な死へと続いていました。この事件のとき、わたくしは小学校の中学年でした。新聞を読むという習慣はまだありませんでしたが、市ヶ谷の自衛隊で起こった惨劇を撮影したピンぼけの写真が夕刊の一面に大きく載っていたことをうっすらと覚えていて(そんな気がしているだけかも知れません)、そら恐ろしく感じたものでした。


過渡期 (2016年10月19日)

 後期の授業が始まって、今がちょうど履修申請期間ということもあり、いろんな突発事態が出来します。昨日の夕方には、この十月から教務委員を引き継いだ多幾山法子准教授(木質構造)が「ちょっと困ったことが起こったんですが〜」と言いながらやって来ました。

 都市環境学部の教務委員は二年任期ですが、本来の委員だった鳥海基樹准教授(パリの都市計画)がこの十月から(イレギュラーな)サバティカルを行使したため、やむなくその後任を多幾山さんにお願いしたところでした。年度をまたぐサバティカルはルール違反ではありませんが、学科運営とか卒論の指導とかいろいろと面倒なことがありますので、できればやめて欲しかったなあ、とは思います。もっともご本人は今はパリで自由を満喫していることでしょうけど,,,。

 さて、その「困ったこと」ですが、それはこの数年の間が授業カリキュラムの移行を進行させる過渡期に当たっていることに起因していました。例えば、わたくしが担当する「建築構造力学1」は二年生から一年生に移し、「鉄筋コンクリート構造」は三年後期から三年前期に移しました。これくらいだったら履修手続きとかそれに伴う事務処理とかの混乱はほとんどありません。

 ところがある授業を廃講にしたり新規に起こしたりすると、コトは厄介になります。過年度の学生の権利として、彼らは廃講になった授業を受ける権利がありますので、そのための処置を適切に施しておくことが必要です。それは履修登録のための電算システムの改変にまで類を及ぼします。今回のトラブルは教員の気がそこまで回らなかったために生じました。いやあ、驚きましたな。わたくしは鳥海さんの前の教務委員だったので、そのようなミスがないように十分に注意し、鳥海さんにも言っていたつもりですが、やっぱりミスは起こったのです。人為的なミスって、必ずあるものだということを思い知りました、反省〜です。

 ということで解決策等を多幾山さんと相談して、事務方との調整もお願いしました。実際にこのトラブルに直面した学生さんの数は多分少ないでしょうが、それでも迷惑をかけていることに変わりはありません。この混乱が無事に収束することを祈るばかりです。それにしてもコース長って、気が休まることがありません。その他にも突発事項があってそちらへの対応は現在ペンディングです(とほほ…)。


連綿と続くもの (2016年10月17日)

 建築学会の委員会活動では、来年度の新規委員会等の態勢を10月に決めることになっています。そこで先週の鉄筋コンクリート構造運営委員会でこのことを審議しましたが、塩原主査から大会発表での若手優秀発表賞のWGの主査を仰せつかりました。昨年、今年と楠浩一さんが主査として苦労して道筋を付けてくれましたので、その路線に乗って進めてゆけばよいでしょう。もちろん、実務的にはいろいろとクリアすべき問題はありますけど…。

 本当を言えば、楠さんよりも年下の方が新しい主査を務めてくれればよいと思っていました。でも、そのあたりはあうんの呼吸もあるのでしょうが、塩原兄貴から頼まれてはイヤとは言えませんな。まさかわたくしにお鉢が回ってくるとは思いませんでしたが、これも天の配剤でしょうか、青山・小谷研究室の後輩としてお引き受けいたしました。

 こうしてWGの来年度以降の体制を整える必要に迫られました。幸い楠浩一さんが行きがかりから幹事を務めて下さることになりました(持つべきものは後輩ですね)。今まで主査だったひとが幹事になる、というのは聞いたことがありませんが、これは楠さんの武士の情けだと思ってありがたくお願いしました。

 もうひとりの幹事には東北大学准教授の高橋典之さんを指名しました。わたくしがサバティカルのときに、当時は東大生研助教だった彼に本学の非常勤講師として「鉄筋コンクリート構造」の授業を担当してもらったことがあります。そんな縁もありますし、同門の後輩である高橋さんには建築学会で中核として活躍して欲しいという思いもあって、彼に幹事をお願いしたのです。こうやって徐々に世代間の引き継ぎができるとよいなあと最近は考えるようになりました(じじいになってきた、ということかな?)。

 でも、それにも増して最近意識するようになったのは、佐野利器先生から連綿と続く研究室に連なる者として、学会や社会においてはそれなりの責任を果たさねばならない、あるいはそのことを期待されている、ということです。自分が好きなことを好きなように研究することは研究者の本性ですが、中堅以上の年代になると若手を引き上げてその活躍を手助けするのも重要な使命だと思います。ときどき書いてきましたが、今まで先輩がたからお受けしたご恩を後輩諸氏にお返しする、ということです。

 ただ、以前に本学の深尾精一先生(現在は名誉教授)から、工学部11号館7階の系列(すなわち佐野、武藤、梅村…と続く系譜)に対しては斯界にそれなりの批判もあるということを漏れ承りました。世間の広い深尾先生がそう仰るのだから本当なのでしょう。中央で活躍する人びとに対しては毀誉褒貶あい半ばするのはよくあることですが、そういう見方があるということは意識の片隅に置いたほうがよいというのも確かでしょう。これからも奢ることなく謙虚に活動してゆこうと思います。もちろん、わたくしにはひと様の上に立とうという気概もなければ能力もありませんから、杞憂に過ぎませんけどね、あははっ。


マルチなタスク (2016年10月12日)

 コース長をやっているといろいろな仕事をマルチにこなさないといけません。建築都市コースの教員による会議は二週間に一回の割合で開催しますが、その議題や海外出張の申請等は当該教員から随時、メールで送られてきます。それらは議事次第に載せる必要がありますから、わたくしのデスクトップには直近の会議の議事次第がつねに置かれていて、そういった要請があるとすぐに記載するようにしています。そうしないとすぐに忘れちゃうんですね〜。メールが来たら何をやっていても、すぐに議事次第に打ち込むのです。

 で、このような教室会議の準備をしながら自分の仕事をしたり、学生の面倒をみたりするわけです。昨日は、そういったお仕事のあい間(?)に建築防災協会の耐震診断基準の改訂のための作業をしながら、いっぽうでは『建築構造の力学』(朝倉書店)という教科書を書き直すタスクが始まっていてそのための根回しをしたり…。この教科書の新版の執筆にあたっては確実に売れるように執筆陣を工夫してほしい、というようなことを出版元から言われて、正直言って困惑しているんですが,,,。

 と思うと、建築都市コースの四年生が飛び込んで来て、後期の履修申請を忘れちゃったのだが卒業がかかっているので何とかならないかと泣きついてきたり…。その科目を履修して単位を取らないと卒業できない、というのです。(フツーはなんともならないのですが、今回は結構シビアな案件なので)仕方がないので本人には始末書を書かせ、建築都市コース長としてのお詫びとお願いとを認めた添え状をわたくしが作文して当該学生に持たせました。もっともどうなるかは分かりませんけど…。

 とまあ、こんな感じで一日が過ぎてゆきました。ものすごく忙しくてそれなりに疲れるのですが達成感がないところがなんともはや、つらいところです。まさに「男はつらいよ」の寅さんの世界だなあ〜。

 (ここで話題が転換します)そういえばこの一ヶ月ほど、NHK・BSで寅さんシリーズを四、五回に渡って放映していました。我が家では地上波がデジタル放送になって使えなくなったビデオ・レコーダーをつい最近やっとのことで買い替えたので、テレビ番組を録画できるようになりました(こどもは大喜びです)。文明から取り残された我が家、といった風情でしょう? でもいいんです、テレビは見ないから、わたくしは…。

 寅さんは大好きで、むかしはテレビでよく見ていました。でも映画館で寅さんを見たことはありませんでした(その頃はこどもだったしなあ)。今回録画したノーカットの寅さんを見たのですが、地上波放送では適当にカットされた映画を見ていたことに遅まきながら気が付きました。山田洋次監督の作ったままの寅さんを見て、あらためてよく出来た映画だなあと感心しましたね。皆さん、寅さんはお好きですか?(我が家ではわたくし以外には不評ですけど…)


おもてなし 〜ニュージーランド紀行(その4)〜 (2016年10月11日)

 おもてなしというと、このところは日本の専売特許みたいに言われることが多いように感じます。でも異国からの訪問者に対して心ばかりの歓迎の意を表そうという、よく来たねという心持ちは世界中どこに行っても多かれ少なかれあるのではないかと思います。

 先月訪れたニュージーランドでも、東洋の小国から来たわれわれを歓待しようというニュージーランダーの心映えはひしひしとわたくし共に伝わりました。NZ側の代表者のケン先生(オークランド大学/UA)には、ワークショップの発表会場や宿泊場所の手配、ワイヘケ島へのフェリーや移動のためのバスの手配など現地での滞在に当たって全てに渡って面倒を見ていただきました。

 また、ケン先生のご自宅でウエルカム・パーティを開いていただき、奥様手作りのおいしい料理と素晴らしい風景とを堪能しました。ワークショップでの研究発表の際にもケン先生からはいろいろと細やかな気配りをいただきました。そこには暖かなホスピタリティが溢れていて、とてもありがたかったです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2016_Auckland:P1010774.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2016_Auckland:P1010721.JPG
    写真 Ken Elwood 先生(UA)          Rick Henry 先生(UA

 オークランド大学の若手教員(Lecturerということでした)であるリックさんはわれわれ日本人の世話係に任命されたようで(ケン先生の研究室の番頭といったところでしょうか)、NZ滞在中の諸事に渡って面倒を見てくれました。夜のパーティが終わってから楠浩一さんたちはリックさんの部屋で冷蔵庫に詰まったビールをたらふくご馳走になったと言っていました。こんな感じで朝早くから夜遅くまで、大変だったと思います。ワークショップの会場でわたくしはたまたま彼の隣に坐ったので、NZの工学系の大学事情などを聞くこともできました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2016_Auckland:P1010718.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2016_Auckland:P1010719.JPG
 写真 ワークショップの発表会場(Venue)        会場での朝食

 われわれが泊まったところはホテルというよりは自炊して滞在するタイプのコンドミニアムのようなところでした。そのため朝食は出ません。朝起きると十分くらい歩いてワークショップの会場(Venueという一般名詞のような名前でした)に行き、そこでパンとフルーツにコーヒーといったブレクファストをいただきました。このような準備も全てケン先生がやって下さり、Venueの担当者とやり取りしていました。

 こんな感じで万事につけてNZの人々にお世話になったわけで、彼らはとても大変だったことと推察します。この二国間ワークショップは来年度は日本で開催されることになっているそうです。英語で苦労するのは正直に言うとイヤですが、今回の恩義に対してはお返しをしないと日本人の品性が疑われますな。ワークショップを国内のどこで開催するのかまだ分かりませんが、つぎはわたくし達が彼らをおもてなしする番だということはしっかりと認識しています。


南大沢通信 〜後期はじまる〜 (2016年10月6日)

 今週の月曜日から後期の授業が始まりました。え〜っ、九月末まで“夏休み”かよ、と世間さまからは言われそうですが、まあそういうことでございます。もう秋真っ盛りというのが通常の感覚ですが、十月の始めはまだ暑い日が多くて、月曜日も汗だくでした。この日から二年生の「設計製図2」が始まり、わたくしは今年も構造ガイダンスを担当しました。チーム・リーダーの小林克弘先生からの指令です。

 九階のアトリエは冷房もなくうだるような暑さで、学生諸君を見ると皆さん腐った魚のような、トロ〜ンとした目でわたくしの講義を見ています。何か質問ある?って聞いても、シーンとしていて無関心を装っています。これからワクワクするような楽しい設計が始まるという風には思わないのでしょうか。なんだかな〜っていうのが偽らざる気持ちです。

 三年生の「建築構造実験」では例年の二倍近い五十名以上の学生が出席しました。この授業では構造系の教員が総出で当たりますが、満員の教室を見た先生方は皆、唖然、です。用意した資料が足りず、TAの苗思雨くんがあわててコピーに走りました。この授業では学生諸君に鉄筋コンクリートの梁を作って、加力して、壊してもらいます。ですから、あまり人数が多いと具合がよくないんですね。受講者が多いのは嬉しいですが、例年とはかけ離れたそのbehavior に、いったい何があったんだろうかと首をひねっております。

 さてコース長としてのお仕事もやっと半分が終わりました。今年は教室幹事として教授の竹宮健司先生(建築計画学)がその任に就いてくれましたので、諸事スムーズに進んでいます。その点はとてもありがたいと思っています。

 でも、まだ半分も残っているのかと思うとちょっとゲンナリです。今日の代議員会でもさまざまな雑用を言い付けられました。もう雑用一手引き受け&処理マシーンに成り果てているのが実情です。でも学部長やその補佐の先生がたのほうがもっと大変でしょうから、こんなことを言ったら「贅沢言うな」と怒られそうです…。

 このような日々ですので、もう研究するなどというそれこそ贅沢はできません、ホントに。研究者としては忸怩たる思いですが、雑用にこき使われていると頭をフル回転させる研究に没頭しようという気力が失せてしまいます。でも、これって資源の無駄の最たるものではないでしょうか。つまり研究者に研究させないでどうするのよ、っていうことです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU牧野標本館新館建設予定地2016:P1010834.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU牧野標本館新館建設予定地2016:P1010840.JPG

 さて、情報処理施設の東隣に牧野標本館の新館が建設されることになりました。ここには六月頃に話題にしたあんずの木が植わっています。そのほかにもたくさん木がありますが、それらを移植するには多額の費用がかかるということで、全て伐採されることになりました。あのあんずを味わうことはもうないのかと思うと残念です(あんずの木は建設予定地のちょっと脇なので、もしかしたら生き残るかもしれませんが…)。


つきもの (2016年10月3日)

 先週、東京都立大学工学部のOB教授の親睦会(鴎工会と呼びます)を南大沢キャンパス内のレストラン(ルベ・ソン・ヴェール南大沢)で開きました。幹事であるわたくしとしては、どれくらいの方が参加して下さるか不安でしたが、結局、OB九名、現役十二名とまずまずの参加者を得ることができました。企画者としてはホッと安堵したところです。

説明: KITALAB:DCIM:101_PANA:P1010829.JPG

 さてその鴎工会ですが、宴会にサプライズはつきものですが、この日もその例にもれず、ぶったまげるようなハプニングがありました。宴の中ほどでOBの皆さんに近況等を報告いただきました。その最後に登場した渡辺T先生(電気工学)が「会員の皆さんに提案があります」と仰りながら、ご自分で用意したペーパーを配布しました。

 そこには、この鴎工会を来年度をもって終わりにしよう、ということが書かれていたのです。渡辺T先生曰く、「この会は現役教員の世話によって成り立っていておんぶにだっこである。単なる飲み会になっているが、多忙な現役教員にそのようなことをやらせるべきではない。OB教員はもっと現役をサポートするような活動をこそするべきだ」ということでした。

 いやあ、驚きましたな。でもそう言えば、渡辺T先生は現役教授の頃から工学部教授会で時たま驚くような発言をされて、教授達の目を覚ましてくださったものです。今回もこの場に居合わせた先生方は皆、絶句、です。

 するとやにわに渡辺K先生(機械工学)が「同じ渡辺から一言。なんでそんなこと言うんだ、皆んなで楽しく飲めればいいじゃないか、イヤなら来るな」とのたまいました。それに呼応するように岩楯先生(土木)が「そんなことをひとりで決めるな、誰がやめたいって言っているんだ!」と呼応されました。

 ありゃ〜、険悪な雰囲気になってきました。司会はわたくしですので「ご提案の主旨はよく分かりましたが、そのように大切なことはOB教授たる会員の皆さま(現役教員は厳密には鴎工会の会員ではない)でよくご議論下さい(って、どこで誰が議論するんだろうか、とはチラッと思いましたが…)」とか何とか言って、その場は取り繕って歓談の場に戻しました。でも、座がしらけたことは明瞭でした。

 これがサプライズの概略ですが、今回の提案をされた渡辺T先生に対して、わたくしは心のなかでは感謝していたのです。わたくしは幹事なので、渡辺T先生にエールを送ったりしたらそれこそ宴会がぶち壊しになって収拾がつきませんので、それは避けました。でも、鴎工会をやるならOB自らの手で、ということには全くもって賛成です。

 実はこのサプライズには伏線がありました。この夏、渡辺T先生からわたくし宛にメールがありました。それはOB教授達の近況を集めてそれらをまとめて宴会の当日に資料として配布して欲しい、という要望でした。

 これには正直なところ困惑しました。このときはちょうどNZでの発表準備で忙しく、それ以外にコース長としての雑用も山積していたので、なんでそんなことまで現役バリバリの教授がやらなきゃいかんのか、というわけです(心が狭い人間ですみません,,,)。

 渡辺T先生は昔からリベラルな方で、教授会の場で骨のある正論を堂々と述べられることに感心しましたし、共感も抱いていました。そのような方からの依頼を無碍にお断りすることはいかにも心苦しく、やむを得ず上述のような理由を縷々記してご容赦をお願いしたのでした。その後、渡辺T先生からは配慮が足りずに申し訳ない、という趣旨のお返事をいただきました。

 という訳でして、名誉教授である渡辺T先生も鴎工会についていろいろと考えるところはあったでしょうが、今回のわたくしとのやり取りが「鴎工会終了」という提案に至るひとつの契機になったことは確かなように思います。

 多分、渡辺T先生の根回しのないやり方とか、直裁的な物言いとかがOB教授たちの反発を買う一因になったとは思います。しかしそれにしても、現役教員に全ての世話をさせていることに対して、それは気の毒だよねという風に考えるOBが(渡辺T先生を除いて表面的には)いなかったことにわたくしは正直、ガッカリしました。

 このあと岩楯先生(土木)に「鴎工会の準備が大変だと言ったのは、実はわたくしなんです」と告白したら、「ええっそうかあ〜、宴会するだけなんだから大変なことないだろ」と言われてしまいました。まあ、それがフツーのOBの感覚なんでしょうね。自分たちが現役のときにそうして来たのだから、後輩たちに同じことをしてもらうのは当然だ、ということでしょうか。

 わたくしにとってはちょっと後味の悪い幹事役になってしまいました。とはいえ、無事に(って、本当かな〜?)宴会を終えることができて、そのこと自体にはホッと一息ついてます。お忙しいなか参加して下さった先生方には感謝しております。ただ、来年度の鴎工会の幹事の方(応用化学の予定)がやりにくいんじゃないか、ちょっと気の毒だなとは思いますが、まあ、いいか、わたくしがやる訳じゃないんだし…(無責任男の典型です、あははっ)。


しばしお別れ2016 (2016年9月30日 その2)

 博士後期課程を本日修了する宋性勳さんが、製本した博士論文と学位記とを持ってやって来ました。学位記には上野淳学長(建築計画学)のサインが入っていました。二十五年にわたる我が社の長い歴史の中で博士号を取得したのは姜柱氏(彼は西川研ですが、まあいいか)、森田真司氏、田島祐之氏に続いて宋性勳さんが四人めということになります。まあ多くはありませんが、それなりの人数かなとは思います。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:宋性勳さん学位記01.JPG

 宋性勳さんは母国に帰って、そこで公務員としての仕事を既にスタートさせました。我が社で研究したこととは直接には関係しないみたいですが、物事の考え方やプロジェクトの進め方など、我が社で培った能力は必ず役に立つはずです。新しい職場でも大いに活躍して下さい。しばらくお別れですが、そのうちわたくしが韓国を訪れることもあると思います。その際にはどうぞよろしく。


任を終える (2016年9月30日)

 九月も晦日になりました。いよいよ来週から後期が始まります。我が社では東京都のアジア高度人材育成プログラムによって学位を取得した宋性勳[ソン・スンフン]さんが九月末をもって大学院・博士後期課程を修了します。それにともなって特任助教として宋性勳さんをサポートしてきた晋沂雄[ジン・キウン]さんもその任を終えることになりました。

 思い返せばちょうど三年前に両人を我が社に迎えてから、研究室での研究は大いに進展しました。とくにアンボンド・プレキャスト・プレストレスト・コンクリート構造建物の耐震性能評価に関する研究は格段に進捗したと考えます。もちろんそれにともなって新たな課題や今後、煮詰めるべき問題も明らかになりましたので、やることはまだまだたくさんありますけど。

 このように活躍してくれた晋沂雄さんが退任することはわたくしにとっては大いなる痛手ですが、十月以降は東北の地で新たな任に着いてさらに活躍してくれることと期待しています。いろいろな経験を積みながら研究の幅をさらに広げて知識を養い、将来は自身の研究室を主宰されることを祈っています。

 ということで先日、晋沂雄さんご夫妻をお招きして多摩センターの韓国料理のお店で送別会を開きました。今回は我が社の大学院生(苗 思雨くんと鄒 珊珊さん)とともに壁谷澤寿一先生が参加して下さいました。若先生と晋さんとはお互いに学生の頃からの知り合いだそうですし、今年の熊本地震の被害調査も同道しましたので勝手知ったる間柄でしょう。

 わたくしは韓国に行ったことはありませんし、韓国料理もほとんど食べたことがありませんので、物珍しかったですね。想像通り唐辛子が基本でからかったですが、日本人向けにマイルドに味付けされているみたいなので美味しくいただけました。マッコリも少しだけ嘗めてみましたが、日本酒のような感じでおいしかったです。

Dr. Jin Kiwoong2016


ミトコンドリア・イフ… (2016年9月29日)

 三人の遺伝子を持つ赤ちゃんが誕生した、というニュースがありました。母親がミトコンドリアの病気を持っていたそうです(そのことは気の毒なことだと思います)。そこで自身のミトコンドリアからDNAを取り除き、ほかの女性のミトコンドリア(mt)DNAを移植した卵子を使った、ということでした。そうすると子供には父親、母親およびmt-DNA提供者の合計三名の遺伝子が伝わることになります。

 ミトコンドリアは独自のDNAを持っています。通常の細胞では母親と父親とから双方のDNAがその子供に伝わりますが、ミトコンドリアのDNAは母親だけから子供に伝えられます。その特性によって母系の遺伝的なつながりを追跡することが可能になるので、mt-DNAの遺伝子解析を行うことによって人類の進化の系統を調べたりできます。そうやって辿ってゆくと結局はひとりの女性に行き着きます。その人類最初の女性のことを「ミトコンドリア・イヴ」と呼んでいます。

 もうお分かりでしょうが、この「三人の遺伝子を持つヒト」のmt-DNAは母親とは別のひとのものです。将来、このような人類が増えたとするとmt-DNAを用いた解析によってその出自を追うことは不可能になる、ということです。すなわち遺伝的な断絶がここで生じます。そうするとこれは、新しい「人類」の誕生、ということになるんじゃないでしょうか。もしかしたらこの赤ちゃんは遠い将来「ミトコンドリア・イフ(if)」と呼ばれたりするのかも…(ただしこれは赤ちゃんが女性でかつ子孫を残したときの話しです、念のため)。

 そもそも「三人の遺伝子」を与えられたヒトが、生物学的にも精神的にも知的能力的にもどのようなヒトになるのか、誰にも分かりません。それは自然の営みを超えた禁断の操作〜神の領域〜と言ってもよいでしょう、すなわちこんなことをして本当によいのだろうかという大いなる疑問が湧いてくるのです。人類の歴史においてこの出来事が将来どのように位置付けられるのかとても不安を感じます。映画のなかの話しだと思っていたことがいつのまにか現実となる、このことに底知れない恐怖を覚えるのはわたくしだけでしょうか。


時代のもつエネルギー (2016年9月28日)

 先日の朝日新聞の文芸欄(2016年9月26日朝刊)に高橋和巳が取り上げられていました。大学生の頃のいっとき熱に浮かされるように読み耽り、また最近、彼を再読しているわたくしとしてはとても嬉しく思います。彼が没してから既に四十五年が経ったそうです。このページでも何度か書いてきましたが、彼の小説や論考には、人生を豊かにして意義深く過ごすためのヒントが散りばめられていて、それは今なお色褪せることはないとわたくしは思っています。

Takahashi_Kazumi
  写真 高橋和巳(朝日新聞より)

 さてその新聞記事のなかで評論家の方が「彼の作品を政治運動や時代の文学に置き換えてはいけない。」と論じていました。確かに高橋和巳の小説が政治運動に直結していたとはさすがに考えませんが、しかしながらその時代の社会情勢や政治のあり方が彼の小説に如実に反映されていたのは事実だと思います。

 彼の生きた時代が持っていたエネルギー(あるいは熱気)のようなものが、彼に『憂鬱なる党派』や『我が心は石にあらず』などの一群の小説を書かせたといってもよいのではないでしょうか。五十年代から六十年代の若者たち〜それは敗戦によって様々な精神的な断絶を余儀なくされた世代でした〜は日米安保に代表される日本の政治状況に危機を抱き、自分たちの将来に不安を感じて行動を起こしました。そのような時代によって醸成されたもののひとつが彼の苦悩だったのではないか。まさに時代の要請に従って必然的に産み出された作品群だったとわたくしは思います。

 それに対して現代の若者たちは生まれたときからなに不自由なく恵まれた物質環境を享受でき、日米安保などに気を配ることもなく、政治に対して無関心そのものです。そのような状況下では高橋和巳のような小説は生まれないだろうし、実際、生まれていない(と思います)。このような現代のあり様と比較するとき、高橋和巳の小説の時代性や政治性がよりくっきりと浮かび上がるとわたくしは考えます。しかしまあ、専門家ほどに深読みはしていないのであくまで一読者の愚考、ということでひとつよろしく。


国立競技場のいま —2016年9月末— (2016年9月27日)

 免震構造協会での会議があって久しぶりに神宮前に行きました。先日書いた、原子力施設に免震構造を使うことを目的とした委員会が開かれたからです。例によって千駄ヶ谷駅から歩きます。協会へは地下鉄銀座線の外苑前駅からのほうが近いです。でも千駄ヶ谷駅から渋谷区神宮前に至るコースはわたくしにとっては高校生のときに通学路としていた思い出深い縁地です。それゆえ、必ずここを通ることにしています。

 千駄ヶ谷駅を出て東京体育館を通り抜けると目の前に国立競技場があったのですが、今では更地になって新しい競技場を建設するための準備が進んでいました。ただ単にだだっ広い、土がむき出しになった更地が広がっていて、そこはかとない侘しさを感じますな。東側のトラック出入り口から敷地内を撮った写真が右下にありますが、正面奥に聖徳記念絵画館のドームがはっきり写っています。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:国立競技場跡地20160926:P1010816.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:国立競技場跡地20160926:P1010823.JPG

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:国立競技場跡地20160926:P1010820.JPG
 
 すぐ脇にある都営霞ヶ丘アパート(RC壁式構造の5階建て)も取り壊し作業に着手していました。上の写真は仙寿院の交差点から撮った取り壊しアパートの様子です。写真の左側が国立競技場の敷地ですが、ここにあった明治公園も跡形もなく更地になっていました。もうしばらくするとこの辺りはわたくしの記憶とは様変わりするのかと思うと一抹の寂しさを感じます。でもそれが時の流れ、世の進歩、ということなのでしょうか…。

 わたくしが小学校中学年のころ、旧・国立競技場のなかにあった霞ヶ丘プール(屋内プールでした)に水泳を習いに行っていたことがあります。その当時は目黒区に住んでいて、この霞ヶ丘の地までは都営バスで通いました。それまで全く泳げなかったので、母が心配したのだと思います。

 ここの水泳教室では最初に背泳ぎから入りました。想像するに顔に水が掛からないので水への恐怖心がやわらぐためかと推察します。それができるようになるとクロール、平泳ぎと進みました。結局、バタフライ以外はどれもそれなりに泳げるようになりました。この仙寿院の交差点に立つと、そういう数々の記憶が蘇ってきます。


みなとみらいホールで (2016年9月25日)

 この週末、横浜みなとみらいホールに出かけました。「横浜音祭り2016」というイベントの開幕に、渡辺美里がオーケストラをバックに唄うというコンサートがあって、それを聞きに行きました。オーケストラは東フィルですがそれにうちの家内が乗っていて、招待券が出たので子供と二人で二階席に坐りました。

Yokohama_OtoMatsuri2016

 まあお分かりでしょうが、関係者への招待券はチケットが思うように売れないときに席を埋めるために出るものです。ですからその座席はいいところではないのがフツーですが、今回は二階席の中央で結構よい席でした。プロといえどもオーディエンスは多い方が気持ちが良いのでしょうね、やっぱり。一階席はほぼ満席でしたが、二階はガラガラでちょっと気の毒な感じでした。

 うちの子供がオーケストラを聞くのは今回が初めてで、自分の母親がプロとして演奏する姿を見るのももちろん初めてです。わたくし自身、家内のコンサートに出かけるのは随分と久しぶりでした。大ホールの正面にはパイプ・オルガンがで〜んと設置されていて、子供はそれにまず驚いていました、これはなにって…。

 ヴァイオリンは前の方に陣取ります。また今回の家内のポジションはコンサート・マスターの後ろでしたので、二階席からもよく見えて子供は大喜びでした。ただ、基本はポップスとはいえ知らない曲ばかりですし、オーケストラのコンサートは子供にはまだちょっと早かったみたいで退屈し切っていました。シンバルの音がうるさいと言って耳を押さえる始末です、あははっ。

 さてこの日の主演の渡辺美里ですが、今の若いひとはたぶん知らないでしょうね、デビュー三十周年って言っていたくらいですから。わたくしは大学院生の頃に何枚かのアルバムをカセット・テープに録音してよく聞いていました。「My Revolution」が最も有名でしょうな、やっぱり。でも、テープを捨ててからは全く聞いていませんでしたし、(残念ながら)CDは一枚も持っていませんでしたので、そのほかの曲はすっかり忘れました。この日のお客さんもコアなファンを除けば多分そんなものだったと思います。

 ですから自分の曲をガンガン歌われても困るなあと正直なところ思いました。幸い前半はバーブラ・ストライサンドの「追憶」とか映画音楽も歌ってくれたのでよかったです。幕開けにはオーケストラのみの演奏で組曲風にアレンジされた壮大な「My Revolution」が流れて、それに「エーデルワイス」が組み込まれていました。

 ただ、休憩を挟んで後半の冒頭にはチャイコフスキーの「エフゲニイ・オネーギン」の一部が演奏されました。家内がいうにはこの曲は結構難しいそうで、ポップスの伴奏なのになんでこんな面倒な曲を弾かなくちゃいけないの、って終わってからこぼしてました。まあ渡辺美里かプロデューサーが考えたんでしょうけど…。

 でもやっぱりフル・オーケストラをバックに歌うのは気持ちいい(酔える?)らしく、渡辺美里も嬉しそうに歌っていました。オケの人数は(数えたら)60名くらいで、クラシックのちょっとした交響曲なんかを演奏するときに較べれば少ないですが、ポップスの伴奏には十分すぎる人数だと思います。それに編成としてはハープやピアノが加わっていたのでそれなりに大規模でした。

 おもしろかったのは一番後ろの打楽器のパートには四名も配置されていたことです。木琴、グロッケンシュピール、カスタネット、小太鼓、大太鼓、シンバル、ハイハット、ティンパニなど多数の楽器をめまぐるしく取り替えながら演奏していて、大変そうでした(ただし、ティンパニだけは専従でした)。これがポップスのバンドであれば、ドラマーひとりでやることが多いでしょうし、ピコピコ打ち込みの電子楽器で済ませることも多々あるでしょうから、それら全てを人間が演奏するとなるとこれくらいは必要ということでしょうな。

 「My Revolution」ももちろん歌いましたが、セット・リストには「My Revolution 第2章」と書いてありました。オーケストラ・アレンジなので壮大に聞こえますが、歌い方はなんだか演歌歌手のように“こぶし”を回していたのが、あんまり気に入りませんでした。昔のままにフツーに歌って欲しかったな。

 ということでこの日はアンコールを含めて18曲を歌ってくれました。もともと歌は上手なのでよかったです。でも前述のようにコアなファン以外は渡辺美里の歌を口ずさむこともできず、会場の皆さんご一緒にって言われてもどう歌ってよいのかよく分からず(もう少し丁寧にインストラクションして欲しかったですが…)、それなりに楽しかったですけど、彼女の通常のコンサートに較べれば(多分)盛り上がりに欠けたように感じました。

 さて「横浜音祭り2016」ですが、そのオープニングは玉置浩二のシンフォニック・コンサートで、渡辺美里は二番手でした。うちの女房は両方の演奏に参加しましたが、玉置浩二のときには招待券は出ず(それだけ人気がある、ということ)、曲の途中でおしゃべりすることは全くなく、淡々と二十曲ほどを歌い上げて帰って行ったそうです。わたくし自身、玉置浩二の曲のほうをたくさん知っていますし、CD(安全地帯のヤツ)も持っています。ということで、彼と比較したら渡辺美里がかわいそうでしょうね。


技術の限界 (2016年9月23日)

 高速増殖原型炉「もんじゅ」を廃炉にする方向で動き出したというニュースが流れました。これまでに一兆円以上を費やしたにもかかわらず、得るところは何もなく廃炉になるわけです。日本国政府は核燃料サイクルの円環を閉じさせることを国是としています。ですから、そのワン・ピースを構成する「もんじゅ」を廃することには非常な抵抗があったでしょうが、無尽蔵にお金を食い尽くすそのあり様に、さすがに考え直さざるを得なかったというのが実情だと思います。

 技術を発展させて“夢”を実現させることは重要なことです。技術の発展に支えられてわたくし達は現在の幸福を享受できるのも事実です。「もんじゅ」もそのような“夢”のひとつとして取り組んだのでしょうが、その技術を成熟させるには残念ながらまだ時期が早かったのでしょう。その基礎となる理論と要素技術とを一つずつ積み重ねて、これにかわる新たな旗を掲げて欲しいと思います。

 「もんじゅ」の場合にはそれを動かす組織にも大きな問題があったことが指摘されています。技術を産み出してそれを適正に利用するのは人間です。その集合体である組織がうまく機能しなかったということは、結局は技術として未熟だったということを物語っていると考えます。

 ところで今週、原子力関係の会議や打ち合わせが立て続けにありました。それらは免震構造を原子力発電施設に利用するにはどうしたらよいか、という随分前からの課題に関係しています。原子力規制委員会による原発再起動審査の風向きによって電力事業者の皆さんは振り回されていて、一時は膨らんだ緊急対策棟の免震化の機運があっという間にしぼんでから一年以上経つでしょうか。

 そういう状況なのにこのタイミングでなぜ再度、免震構造を持ち出してきたのか、その真意ははっきり言ってわたくしには分かりませんでした。いろいろな組織の思惑に振り回されることは避けたいですね。でも免震構造が原発施設にも有用であることは、2011年の福島第一原発の事故の際に実証されています。さすがに原子炉格納容器に免震構造を今すぐ使うのは無理としても、用途によっては免震構造が十分に役に立つものもあるはずです。

 その技術の限界を知り、建物に要求される性能を定量的に明示できれば、それなりの対応の仕方はあるはずだと考えます。ですから、免震構造という技術の特徴を活かして原発施設に適用することを考えるのは、長い目で見れば役に立つのだろうとも思います。技術は人々の生活を豊かにするためにこそ使われるべきものです。この視座のもとで今後も活動して行こうと思います。


島へ渡る 〜ニュージーランド紀行(その3)〜
 (2016年9月20日)

 九月初旬にニュージーランドで開かれたNZ-Japan Workshopに参加したときの見聞を綴っています。オークランド大学での熊本地震セミナーを終えて、翌日からのワークショップが開かれる場所へと移動しました。それはワイヘケという名前の島でした。

NZ2016

 ワイヘケ島は地元のオークランドのひと達にとっても身近なリゾートという位置付けの場所のようでした。オークランドの中心地から出ているフェリーに乗って約40分で到着します。日本でいうと熱海から大島くらいの距離でしょうか(って、いい加減ですけど…)。それくらいの距離なので、はなしを聞いてみるとワイヘケ島に住んでオークランドまで仕事に通う、というひともおいでとのことでした。

 この島には小規模なワイン醸造所がかなりあって、そのワインを目当てに来る方も多いそうです。もちろん海に囲まれていますので海水浴、カヤックやヨット乗り、バーベキューなどのアウトドア・レジャーを楽しむひとも多いでしょう。まあ言ってみればハワイのようなところでしょうか。そういう場所ですが、われわれはワークショップのために来ていて朝から晩まで発表および討論に明け暮れましたから、残念ながらそういうアクティビティを楽しむことはできませんでした(当たり前ですけど…)。

 下の写真はワイヘケ島の北側にあるオネタンギ・ビーチです。朝、ワークショップの会場に歩いて向かう道すがら撮ったもので、潮が大きく引いているのが分かります。この浜沿いの道路の奥には右下の写真のように住宅が点々と建っています。日本でいえば別荘といった位置付けでしょうが、こちらでは普通に住んでいるようでした。ここでもやっぱりハワイを思い出しますが、こんないいところに住んでいたら仕事なんかしたくなくなりますねえ。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2016_Auckland:P1010713.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2016_Auckland:P1010714.JPG

 ワークショップのあとは、パッセージ・ロックというワイナリーにバスで移動してディナーがありました。会議の場所は島の北、ワイナリーは島の南だったので、クネクネと続くかなりの山道をたどりました。途中、山の斜面で羊や牛たちが静かに草をはんでいるのを見かけました。ニュージーランドには人間よりも羊の数が多いと言われますが、今回のNZ行きで羊を見たのはこのときだけでした。

 ワイナリーではウエルカムのワイン一杯が振る舞われましたが、それ以降の飲み物は(水やジンジャーエール等のノンアルコール・ドリンクも含めて)各自がいちいちお代を払って購入する、というシステムだったのでとても驚きました。それも自席でお店のひとに注文するのではなく、飲みたいひとは各自カウンターに行ってお金を払ってグラスを受け取る、という日本ではあり得ないやり方です。面倒ですし、いちいちお金をやり取りするのが日本人から見ると無粋なことこの上ないように思えます。

 オークランド大学やカンタベリー大学のポスドクや大学院生たちも結構な数がディナーに連なりましたが、彼らの誰もワイン等の飲み物を飲んでいませんでした。見ていてだんだんと分かったのですが、それはお酒が嫌いなのではなくて、ただ単にお金を節約したいからなんだろうということです。その証拠に壁先生がワインのボトルを差し入れて下さったら、皆が喜んで飲んだからです。彼らは遠い異国から耐震構造を研究するために来たひとが多く、懐がそれほど裕福ではないのだろうなと推察しました。

 まあ、学生なんだからお金がないのは当たり前かも知れません。でも日本だったら学生でも飲み放題というプランで宴会することが多いので、そういう利便性というか痒いところに手が届くというか、日本人って細かいところによく気がつくということをあらためて認識した次第です。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2016_Auckland:P1010779.JPG

 このワイヘケ島で水陸両用の自家用ボート(車)を見かけたので載せておきます。海から海岸に上がってきてどうするのかと見ていると、タイヤが付いていてそのまま砂浜を横断して道路を走り出しました。もちろん自走しています。こんな乗り物を見たのは初めてです。

 さらに操縦しているのが小学校中学年くらいの男の子なのを見て、またもや仰天しました。となりでおじいさんが監督していましたが、その男の子が得意そうに車(船)を走らせているのがほほ笑ましかったです。でも、公道をこんなモノが走ってよいのでしょうか。それとも耕運機みたいなもので特別に公道を走ってよいのか、とにかく不思議だったので書いておきます。


UAのNC 〜ニュージーランド紀行(その2)〜 (2016年9月15日)

 タイトルだけでは何のことか分かりませんね。UAはUniversity of Auckland、NCはNewmarket Campus のことです。オークランド大学はオークランド市内のあちこちにキャンパスを所有しているらしく、中心地からはちょっと離れた新興(?)のニューマーケット地区のキャンパスを訪問したのでした。

 今回のワークショップは日本の学術振興会(JSPS)とニュージーランド王立協会(Royal Society of NZ)とのあいだの二国間交流事業共同研究の一環として実施されました。日本側の代表者は壁谷澤寿海先生、NZ側はKen Elwood 先生(UA)です。このKen先生のオフィスと実験棟とがこのキャンパスにあるので、最初にここを訪問して実験棟を見学したあと、熊本地震(2016年)に関するセミナーが三時間ほど開催されました。したの写真を見ると雲行きが怪しいことが分かりますが、このあとすぐに雨が降ってきて、それがみぞれ状に変わったのでした。もう、真冬です。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2016_Auckland:P1010656.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2016_Auckland:P1010657.JPG
   写真 オークランド大学 ニューマーケット・キャンパス

 キャンパスはまだ工事中といった様相でした。建物は(見た感じですが)そんなにお金をかけていないように見えました。でも実験棟はとても立派でした。お金を費やすべきところは十分に心得ている、ということでしょうな。実験棟内では写真のように蛍光ストライプ付きのヤッケみたいな羽織を着せられました(ヘルメットは当然です)。ここで耐震壁や鉄骨ブレースなど複数の実験が同時並行的に進められていて、そのActivityの高さには驚きましたね。実験棟専属のテクニシャンも結構たくさんいて、実験の準備等に携わっていました。日本では昔は技官の方がいるところもありましたが、人員削減が進んでほとんどいなくなりましたので、羨ましい限りです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2016_Auckland:P1010663.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2016_Auckland:P1010676.JPG
    写真 QuakeCoREの実験棟

 この実験フロアの脇には鉄および木材の加工室が備えられていて、実験のためのちょっとした治具などを作るのに便利そうでした。でも、わたくしがさらにいいなあと思ったのは、右上の写真のような細々としたモノを整頓するための棚です。これくらいのものだったら、我が社の大型実験棟にも置けるだろうし、あったら便利だろうなと思いました。

 さて、熊本地震のセミナーが終わったあと、オークランド中心街に移動するために鉄道を利用しました。ここのキャンパスのすぐ脇にグラフトン駅があって、そこから十数分の乗車でフェリー乗り場のあるブリトマート地区へ行くことができます。ちなみにこの鉄道はわたくしが最初にNZを訪問したときにはなくて、数年前に開通したようです。

 まだ真新しい駅でしたが、改札口はなくてホームで切符を買うようになっていました。でもその自販機はたったの一台しかありません。そんなんじゃ大勢の人間が切符を買うのは大変で、とてもじゃないけどさばき切れません。仕方がないので河野進さん(東工大)に代表して全員の切符をまとめて買ってもらいました(左下の写真)。駅員さんは見かけませんでしたし、詰め所のようなものもありませんでしたから、この駅は無人駅なのかも…。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2016_Auckland:P1010685.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2016_Auckland:P1010686.JPG
    写真 グラフトン駅のホームとそこにある切符の自販機

 しかしこの駅の佇まいといい、電車(?)は二十分に一本しかないことといい、どう考えても日本の都会のように大勢が利用する電車とは趣きを異にしていると思いました。日本の駅舎のように冷暖房完備の待合室もありませんでした。(その1)で書いたようにこの日はものすごく寒かったので、このホームの上での十数分間が堪え難かったです。

 電車に乗ると車両は日本のそれとほぼ同じでした。ただ一駅先のニューマーケット駅でしばらく停車して、次に動き出すとなんと前・後ろが逆になって発車したのには驚きました。日本でいうとスイッチ・バックってやつですが、もちろんここは山のなかではなくて平坦地です。どういう線路設計をしているのでしょうか、不思議です。

 終点はフェリー乗り場のすぐ脇にあるブリトマート駅です。下の写真(壁谷澤寿一さんからいただきました)のように内観は近代的ですが外観は古い建物ですから、いわゆるコンヴァージョンによって再生されたように思われます。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2016_Auckland:壁谷澤寿一撮影:P1020944.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2016_Auckland:NZ_Japan_Workshop2016_Auckland_北山撮影:P1010799.JPG
写真 ブリトマート駅構内(撮影:壁谷澤寿一氏)    ブリトマート駅外観


浦島か… (2016年9月13日)

 ニュージーランド(NZ)から日本に帰ってみると、大相撲秋場所が始まっていて横綱・白鵬が休場しているし、東京六大学野球の秋のリーグ戦が開幕して、東大は早々に二連敗していました。エースの宮台くんが投げていないのが気になります、どこか具合が悪いのでしょうか。

 さらに驚いたのが豊洲市場移転問題についての事態の急変です。土壌の汚染はもともと問題になっていましたが、その対策として実行されているべきはずの盛り土が実際には施工されていなかった、ということみたいです(帰国してから、まだ新聞を精読していないのでよく分からないのが実状ですが…)。そのことを都庁の歴代の幹部(って、どのくらいのランクの方々なのでしょうか)も知っていた、という報道が今朝は流れています。でも、それって本当でしょうか。

 メディアの報道を鵜呑みにはできないことは今までの経験から分かっていますので、慎重にならざるを得ません。でも、報道のベクトルは明らかに都庁の役人叩きに向いているように見えますね。それが本当なら、その当事者たる役人の認識の甘さにあぜんとする訳ですが、都庁のエリート官僚がそんな馬鹿げた判断をするものでしょうか。同じ東京都に務める一員として、そんなはずはないと思いたいですね。食べ物を扱う市場の基礎が有毒物質で汚染されているなんて、考えただけでゾッとしますから。

 それにしても、NZでは日本のニュースを見るような余裕がなく、わずか数日留守にしただけでこのような「浦島太郎」状態に陥るとはわれながら驚いています。それだけ情報量が多く、一時は奔流の如く流通しますがその多くはすぐに忘れ去られ、人びとの脳裏には残りません。ということで情報の“賞味期限”も明らかに短くなっていますな。


さかさま 〜ニュージーランド紀行(その1)〜 (2016年9月12日)

 このページの更新がしばらく滞りました。これは先週、ニュージーランド(以下、NZと略します)に出かけたためです。NZは赤道を挟んで日本のほぼ真南にあり、ということは季節は日本とはさかさまでして、向こうは冬から春へと進む季節です。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:NZ_Japan_Workshop2016_Auckland:NZ_Japan_Workshop2016_Auckland_北山撮影:P1010798.JPG
 写真1 オークランドのフェリー乗り場(クィーンズ・ワーフ、2016年)

 そういうことは知識として頭のなかでは理解しています。また、出かける前には予め天気予報を調べてオークランドの気温が最高13度くらい、最低が6度くらいということは知っていました。でも、連日の気温が30度を超えるような日本にいると、13度や6度がどの程度のものなのか実感としては把握していなかったというのが実状でしょうね。とはいえ、それなりの防寒用の服は準備して出かけました。

 ところが朝、オークランド空港に着いて外に出ると、もうそれは真冬のような寒さです。そのまま大型バン・タイプのタクシーに乗って(そのうち詳述しますが一行は十名を超える結構な大所帯だったので)、オークランド大学ニューマーケット・キャンパスに直行しました。その道すがら、紫モクレンやスモモや桃と思われる赤やピンクの花々が咲いているのを見かけました。ですから、日本で言えば二月末から三月中旬くらいの季節だということがこれでやっと分かったのです。

 そうしてオークランド大学に着いたあと、降り出した雨はほとんどみぞれに変わりました。もう日本からの参加者はブルブルふるえてしまいました。わたくしも寒さにはめっぽう弱いので体の芯の震えがとまらずに、これじゃあセミナーどころじゃないってな感じでしたね。

 ところが向こうのひと(ニュージーランド人のことです)は結構な軽装なんですよ、これが。春がやって来たということで浮かれているのか、寒さに強いのか、わたくしには分かりませんでした。でも後刻、NZに留学している中国の大学院生に聞いたら、彼らはCold-resistance(寒さに対する耐性)がある、と言っていましたので、東洋人よりも寒さに強いのかもしれません。わたくしはハーフコートを来ているのに、向こうのひとは半袖だったりするので、もうビックリです。

 日本とNZとの時差は三時間しかありませんから最初は楽勝!って思っていました。でも三時間の差って、思っていたほど楽ではありませんでしたね。例えば朝6時には起きるのですが、それは日本でいうと午前3時に相当します。日本にいたら午前3時って、起きる時間じゃなくて下手をすると寝る時間ですよね。おまけに帰国する日は飛行機のチェックインの関係で朝5時前には起床しないといけなくて、もうつらかったです。つまりそういうことです。

 ところでわたくしがNZを訪れるのはこれが二度目でした。最初の訪問は今から約三十年前の1987年8月でした。このときはPCEE(地震工学に関する太平洋会議)が北島の観光地・ワイラケイで開かれ、それが終わったあとに柱梁接合部に関する三国セミナーが南島のクライストチャーチでありましたので、青山博之先生と小谷俊介先生との鞄持ちとして連れて行っていただきました。

 PCEEにはわたくしは論文は投稿したものの発表はしませんでした。青山先生、小谷先生、それにこのとき一緒にNZに行った野口博先生や壁谷澤寿海先生はご発表されていますので、今思うとどういうひとが発表したのか分かりません。

 このときも最初はオークランドに着いて、多分その辺りに泊まったんだと推測します。したの写真2はうえの写真と同じフェリー乗り場を反対側から撮ったものです。写っているのはもちろんわたくしでして、このとき二十代半ばでした。

NZ 1987
写真2 オークランドにて(1987年、右手の茶色のビル[フェリービルディング]は今もある)

 その約三十年前のPCEEですが、ワイラケイの立派なリゾート・ホテルで開催されました。そのときの写真を数葉、載せておきます。写真3は発表会場でのスナップで、最前列左から青山先生、パーク先生(R. Park、NZカンタベリー大学)、イルサ先生(J. O. Jirsa、テキサス大学)、それに壁谷澤寿海先生(当時、横浜国立大学)です。さすがの壁先生もこの当時の三大巨頭とはちょっと離れて坐っていますな。その後ろでヘラヘラ笑っているのがわたくし(大学院博士課程二年生)と倉本洋さん(当時、鴻池組技研)です。壁先生はご発表があった(写真4)せいでしょうか、さすがにわたくし達のようにバカ笑いはしていませんね、あははっ。

 ちなみに壁先生の発表画面を見ると現在のパワーポイントによる発表と同じように見えますが、もちろんそんな便利なものはその当時はありません。これは作成したグラフ等をカメラで接写してスライドにして、それをプロジェクターで投影しているのです。すなわちこの当時の国際会議ではスライド(幅35mmのフィルムをスライド・ケースにマウントしたもの)を使うのが通常だったのです。でも、以前にも書きましたがこの作業はとても面倒かつ繊細な作業でして、コンテンツをいかに綺麗につくるかということと、これをいかに上手に撮影するかということに相当気を遣いました。その作業は大部分はわれわれ大学院生の仕事として割り振られたように記憶します。

NZ 1987 NZ 1987
   写真3 PCEEの会場にて(1987)       写真4 発表する壁谷澤寿海先生(1987)

NZ 1987 NZ 1987
  写真5 ホテルの部屋にて(1987)        写真6 タウポ湖畔にて(1987)

 わたくしがワイラケイで泊まった部屋は結構立派だったことを今も覚えています。写真5は多分、野口博先生(千葉大学)が撮って下さったのだと思います。左から青山先生、わたくし、壁先生です。わたくしも青山先生の余慶にあずかって同じホテルに泊めていただきましたが、発表会場とつながっていたため、多くの先輩方がわたくしの部屋に休みに来ておいででした。野口先生、壁先生、倉本くんのほかにも城攻先生(北大)、森田司郎先生(京大)などが写った写真が手元に残っています。

 会議の合間にはモーターボートに乗って、近くのタウポ湖にマス釣りに行きました(写真6)。今思えば結構リラックスしているように見えますね〜。そんな余裕があったのかな? ここには田守伸一郎先生(信州大学)、北川さん(建研?)、わたくし(右端の帽子)、それに壁先生(真ん中でしゃがんでいる)が写っています。

 ということで多くの写真に壁谷澤寿海先生が写っていますが、そういう写真をわざと選んだのには理由があります。それはこの約三十年後の今回のNZ行きは、その壁谷澤寿海先生(現・東大地震研究所教授)が企画して下さったからなんです。

NZ 1987 NZ 1987
写真7 クライストチャーチにて(1987)      写真8 発表するわたくし(1987)

 さてワイラケイでのPCEEが終わって、次はクライストチャーチでの三国セミナーです。写真7は会議参加者が朝食か昼食をとっているところでしょうか、この写真は青山博之先生が撮って下さいました。写っているのは野口先生、小谷先生、パーク先生、それにわたくしです。ろくに英会話もできないのにパーク先生の横に坐っているわたくしって、結構ずうずうしかった(生意気だった)ということでしょうか。

 最後の写真はOHP(なんて言っても若いかたは知らないでしょうが…)を使って発表しているわたくしです。これは多分、小谷俊介先生が撮ってくれたんでしょうね。わたくしの隣に坐っているのはポーレー先生(T. Paulay、NZカンタベリー大学)ですね。このとき上手に発表できたのかどうかはまったく憶えていませんが、手に原稿の紙を持っているようですから、それを読んでいたんでしょうな。

 ということで約三十年前のNZ行を回想してみました。これから今回のNZ紀行をおいおい綴りたいと思っています。


風立ちぬ (2016年9月5日)

 九月です。今日は久しぶりに晴れ上がってよい天気になりました。青空でお天道さまが出ていますが、湿気がないせいでしょうが吹く風は爽やかで秋の訪れを感じさせる気候です。

 我が社では先週、宋性勳さんの博士論文公聴会が終わってホッとした雰囲気が漂っています。M1の鄒珊珊さんが担当するアンボンド・プレキャスト・プレストレスト・コンクリート柱梁部分架構試験体の製作もいよいよ始まりました。また、きょうから研究室会議を再開します。すなわち我が社の夏休みは終わった、という位置付けです。

 ということで、いよいよ実りの秋を迎えます。学生諸君にとっては一番伸びる時期ですので、心して事に当たって欲しいと願います。わたくし自身はある発表の準備に明け暮れていて、それによって相当なストレスを受けているのですが、そのことはまたそのうち書こうと思っています。

 いつも書いていますが、わかり易い発表をするためにはそれなりの時間と努力とが必要なわけでして、その原則は幾つになっても変わることはありません。ひと様のことはどうでもいいのですが、分かりにくい(独りよがりの)発表を聴くと、小谷俊介先生のような厳しい指導者の指導を仰がなかったんだなあ、かわいそうだなあ、なんて思ったりします(余計なお世話ですが…)。


公聴会おわる (2016年9月2日)

 先日、我が社の博士後期課程の大学院生である宋性勳さんの博士論文公聴会が行われました。この日はちょうど「Uターン台風」が千葉県沖の太平洋を突進しているときでして、時おり雨が激しく降るような劣悪なコンディションでした。それにもかかわらず学外から十一名もの方々にお出でいただきました。

 これらの参加者はいずれもプレストレスト・コンクリート(PC)構造を精力的に研究されているトップ・ランナーばかりですので、本当にありがたいことです。(お名前を記すことは控えますが)ご出席いただいた皆さまにはあらためて御礼を申し上げます。

 宋性勳さんの発表では、耐力・変形評価用のマクロ・モデルの説明が特に分かりにくかったのでそれは相当に残念でした。しかし日本語は非常に難しい言語ですから、それを使って一所懸命に説明してくれたことは皆さんに伝わったと思います。ご苦労さまでした。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:宋性勳さん_博士論文公聴会2016:IMGP3674.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:宋性勳さん_博士論文公聴会2016:IMGP3649.JPG

 発表のあと質疑応答に移りましたが、冒頭からかなり厳しいご意見を是永健好さん(大成建設技研)からいただきました。いきなりの「わたしだったらそういう風には考えない」というコメントは会場の度肝を抜くに十分でしたね。言葉の問題があるので是永さんのご意見が正確に宋性勳さんに伝わったかは多少疑問ですが、ただ端で聞いているととても面白い討論だったことは間違いありません。副査を務めて下さった高木次郎先生が「いやあ、稀にみる白熱した公聴会でしたね〜」って笑いながら仰っていたくらいです。

 そのあと、今度は河野進先生(東工大)からマクロ・モデルはさっぱり分からなかったが、試しに弾性のFEM解析をするとその結果と宋性勳モデルの結果とは一致するかどうか、というやはり難しい(けれど本質的な)質問をいただきました。このご質問に答えるのも相当に難しいですね〜(だってFEM解析はやっていませんから…)。

 ということで宋性勳さんにとっては多分試練の時間だったと思います。でも冒頭に書いたようにPC構造の先端研究者たちがいろいろとご意見やコメントを下さったわけですから、そのことに対しては大いに感謝すべきでしょうし、わたくしもとても勉強になりました。ひとつのテーマに関してこれだけディープに議論することは通常はできませんので、そのための貴重な機会を宋性勳さんが与えてくれた、ということにもなりますね。

 これで宋性勳さんの本学での勉学はおおむね終わったことになります。めでたく博士の学位を取得したあかつきには母国に戻ってお仕事に就くことになっています。三年間はやっぱり長かったでしょうね。一所懸命に研究活動に当たってくれたことには大いに感謝しています。

 なお宋性勳さんの研究テーマは、もともとは長寿命建築プロジェクトにおける研究の一環として我が社にお声掛けいただいたことが契機となっています。それゆえ、最初にお声掛けいただいた丸田誠先生(島根大学)にはとても感謝しております(口には出して言いませんが本当ですよ、あははっ)。このプロジェクトのチーム・リーダーを務められた岡安隆史さん(鹿島技研)、柱梁部分架構実験を計画して取りまとめいただいた金本清臣さん(清水建設技研)にも大いに感謝しております。このような皆さまのご協力とご配慮があったからこそ、宋性勳さんの研究が成就したと思っています。


そして紙がのこる (2016年9月1日)

 わたくしが毎朝楽しみにしていた新聞の連載小説が昨日終わりました。朝日新聞の朝刊に掲載された『春に散る』(沢木耕太郎著)というボクシング小説です。この著者の小説を読んだことはありませんでしたし、ボクシングに興味もありません。ただ、他にひとつだけボクシング小説を読んだことがあって、それは(このページでも時々紹介している)飯嶋和一さんが執筆した『汝ふたたび故郷へ帰れず』(小学館文庫、2003年)でした。

 さて沢木さんの『春に散る』ですが、約一年半前に連載が始まって結構長く続きました。この小説にどういうわけか入り込むことができたのですが、それは多分に著者の文体〜非常に簡潔かつ必要最小限まで削られ抑制された筆致〜がわたくしの感性に合致したせいではなかろうか、と今は思っています。

 で、タイトル通りにことしの春に連載が終了するかと予想したのですが、それははずれました。一年半前、主人公が海越しにキューバを見るためにフロリダの展望台に登るところから物語はスタートしたことを今でも憶えています。その情景がリアルに想像できたせいです。

 そしてきょうの最終回、元ボクサーだった主人公の死を暗示させるシーンで幕を閉じました。真夏の暑さのなかで桜の散る並木道を想像するのはちょっとつらかったですが、まあいいでしょう。これで朝の楽しみが減ったかと思うと、正直なところ結構がっかりしています。

 この一年半のあいだに、わたくしの身の回りの親族が二人亡くなりました。その法要を先日行ったのですが、我が家では位牌の代わりに過去帳をお祀りしています。それを久しぶりにしげしげと眺めました(普段は実家にありますので)。手のひらに乗るくらいの小さなサイズの和紙でできた小冊子です。そこに我が家の先祖たちの名前と命日とが記されているのです。

 そうかあ、わたくしも死ねばこの小さな紙片に刻まれた名前だけで、かろうじてその生きた痕跡がうっすらと現世に残るんだなあ、とそのときふと思いました。それはひどく寂しい感情でしたが、人生の無常そのものであるとも言えるでしょう。

 Man is mortal. ひとは死すべき運命にある、という意味ですが、その当たり前のことを当たり前だと思えるほど、まだわたくしは悟っていないということでしょうか…。まあ、言わずと知れた凡人たるわたくしですから、それも当然でしょうけどね。


百三十年 (2016年8月30日)

 Uターン台風が通過中です。このようなBehaviourの台風はどうやら初めてらしいですが、いずれにせよ迷惑な話しですな。今日の夕方には宋性勳さんの博士論文公聴会が予定されています。学外からの参加者が台風に邪魔されることなく来学できることを祈るだけです…。

 さて、ことしの日本建築学会大会の話しを書きましたが、そのプログラムの表紙に「創立130周年記念大会」と書かれていました。そうか百三十年かあ、歴史を感じますね〜。明治十年にジョサイア・コンドル先生が英国から来日して日本に伝えた近代建築学、それがここまで発展したことを思うと感慨もひとしおです。

 ということで、創立百年は今から三十年前だったということになりますが、そのときわたくしは博士課程の大学院生でした。創立百周年記念大会は北海道大学で開かれ、そのとき発売された記念Tシャツを買ってしばらく着ていた記憶があります。

 このときは東京から車で札幌まで行きました。東北自動車道をひたすら北上して、青森から青函連絡船に乗って函館に渡り、途中昭和新山を見物しながら定山渓を通って札幌に至りました。同級生の中埜良昭くん、後輩の坂本成弘くん(現・大成建設技研)と交替で運転しながら、です。若かったのでこんな無謀なこともできたんでしょうね。当時の青山・小谷研究室では両先生からM1の学生まで同じ宿舎に泊まることになっていました。その宿舎の前に練馬ナンバーの車が止まっていたので皆さんビックリしたと思います。

 学会大会が終わってからは同級生や後輩たちと北海道一周旅行に出かけました。泊まるところも決めず、行き当たりばったりで見つけたところに泊まるという、まさに学生らしい放浪の旅でした。この旅行では写真をたくさん撮ったこともあって、このときのことはよく覚えています。とりあえず一枚だけ写真を載せておきましょう。

Mozuna_Monta_Ainukotan

 この建物は弟子屈町屈斜路コタンにある「アイヌ民族資料館」(1982年)で、設計は毛綱モン太さん(故人)です。このひとはわたくしが学生の頃にはちょっとした有名人でしたが、今ではすっかり忘れ去られているようで寂しいですね。

 この建築家の作品(博物館、資料館や学校など)は北海道に結構あってそれらの建物も見て回りました。「アイヌ民族資料館」は小振りな資料館ですが、写真で分かるようにかなりインパクトのある形態をしています。ちなみに写っているのは北海道一周旅行の全メンバーで左から山上敬くん(生研・半谷研)、境有紀くん、わたくし(赤の短パン)、中埜良昭くん(生研・岡田研)、全大幹さんおよび坂本成弘くんです。

 大学院の博士課程に進学して研究者として本格的な道を歩み始めた、まさにその原点にこの写真があるわけです。よく飲み、よく遊び、そしてよく学んだ(?)青春の日々がここにはありました。とても懐かしいです…。


福岡の日々 (2016年8月29日)

 福岡大学七隈キャンパスでの建築学会大会が終わりました。教室の冷房はおおむね効いていて助かりましたが如何せん、気温がべらぼうに高くて疲弊しましたね〜。地下鉄の駅を降りて目当ての会場にたどり着くだけで汗だくになりました。また大会のときには昼食に苦労するのが通例ですが、今回はそれに輪をかけて困りました。

 学食は長蛇の列で四十分並んでも食事にありつけず、我が社の発表の時間になってしまったので諦めました。それが終わって、もう大丈夫だろうと思って食堂に行ってみるとほとんどのメニューが食べ尽くされていて、食べたくもない揚げ物を食するハメに立ち至りました。食堂のおばちゃん達もあまりの人数の多さをさばき切れずに、右往左往している場面にも出くわしました。

 自分の大学の学食でも揚げ物は避けています。学生さん向けなので基本的に脂こってりでお腹にもたれて気分が悪くなるからです。で、今回も案の定そうなって、そのあと研究発表を聞いているときは辛かったです。大会のときには食堂が非常な混雑になることは分かっているのに、今回はそういった情報が適切に伝達されていたのかどうか大いに疑問を抱きました。

 でもご当地の九州支部の皆さんは大会の運営に苦労されてきたのですから、そんな些細なことで文句を言ったりしたらバチが当たりますよね。実際、福岡大学教授の高山峯夫さん(大学院時代の同級生)は毎朝、受け付けのところに立ってお出ででしたし、熊本地震の災害調査報告会の取りまとめ役も務められていたのでなおのこと大変だったと推察します。本当にご苦労さまでした。

 ことしの大会では台湾地震および熊本地震の災害調査報告会があって、災害委員会幹事のわたくしが司会を務めました。ただ初日の午前中には原子力建築運営委員会主催のパネル・ディスカッションもあってバッティングしていました。わたくしはこの運営委員会の主査を務めていますので本来はサボれません。そこで朝一番に原子力建築の会場に行って、そこで主旨説明をこなしてからすぐに熊本地震の会場に移動しました。こちらの司会は黒木正幸さんにお願いしておいて、途中から交替しました。

 幸いにも両会場は同じ建物の二階と四階でしたので移動は楽でした。また両会場のキャパシティは同じ450名でしたが、原子力建築の参加者が約70名(最大で約100名だったということは後ほど、幹事の中電・梅木芳人さんから伺いました)だったのに対して、熊本地震のほうは立ち見のひとが会場から溢れるほどの盛況で、たぶん500名くらいの参加者があったのではないでしょうか。

 最終日の午前中には台湾地震の災害調査報告会がありましたが、こちらは(まあ予想していたことですが)参加者が少なくて、終了間際にわたくしが数えたときには40名程度しかいませんでした。会場も普通の教室だったし、スクリーンもとても小さくて講演者の皆さんが気の毒でしたね。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ大会2016福岡大学七隈キャンパス:P1010651.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ大会2016福岡大学七隈キャンパス:P1010650.JPG
写真 左 台湾地震・災害調査報告会の会場   右 福岡大学のキャンパス

 こんな感じでことしは両報告会にべったり参加していたこともあって、他の分野の知人にはほとんど出会いませんでした。同級生では久しぶりに福濱嘉宏くん(11号館8階の内田・坂本研究室出身)にばったり出会いました。彼は数年前、中国地方の某公立大学の教授に着任したのですが、さも常識人のように(あははっ)教育は大変だと言っていました。でも昔の福濱節は相変わらず健在でしたので、それは嬉しかったですね。

 ことしの大会では研究室OBの発表が多かったのですが、皆さん社会人なのでほとんどのひとが一泊ほどの滞在で、発表が終わると足早に帰ってゆきました。今村俊介くんには結局、会えず仕舞いでした(研究室の発表が同じ時間帯に重なったため、プレストレスト・コンクリート構造の会場に行けなかったせいです、体はひとつしかありませんから…)。

 また現役の学生はD3・宋性勳さんとM2・苗思雨くんとのふたりだけでしたのでちょっと寂しかったですね。研究室の飲み会のときにはOBは誰も参加しませんでしたが(って、田島祐之さんはOBでした、あははっ)、岸田慎司先生が来て下さいました。福岡と言えば田島さんですから、お店は彼にセットしてもらいました(下の写真です)。その翌日はOBの石塚裕彬くんと特任助教の晋沂雄さんとで美味しいお魚を食べながら濃密な時間を過ごしました。

Fukuoka2016
  写真 研究室の飲み会 岸田慎司先生と田島祐之さんも一緒

 この大会の最中、イタリアとミャンマーで大地震が発生しました。すると翌早朝には災害委員会委員長の壁谷澤寿海御大から、必要に応じてこれらの地震に対応するようにとの指令メールがありました。さすがに大会期間中は身動きできませんから、この月曜日以降に情報を集めながらどうすべきかを考えようと思います。

 以上を総括すると暑くて疲れて大変だったことしの大会です。来年の大会は広島工業大学が会場で、おまけに久しぶりに四日間の開催になるそうです(四日間の開催となるのは、わたくしの記憶では1993年に我が都立大学で大会を開催したとき以来ではないでしょうか、そのときもえらく不評でした…)。今からグッタリしている自分が想像できて、それだけでもうゲンナリしているわたくしでございます。


静謐の日々 (2016年8月22日)

 台風が東京付近に上陸しそうで、京王相模原線も止まっています。学校に行けないのでうちで仕事しています。午後にはBELCAの会議が予定されていました。こりゃとても行けないなあと思っていたら、延期にするという連絡があって安堵しました。

 さて高校野球が終わったと思ったら、リオデジャネイロのオリンピックも終わったそうです。気の早いメディアは次は四年後の東京だあ、みたいに(勝手にひとりで)盛り上がっているみたいですが、とにかくオリンピックが終わってよかったです。

 四年前のときと同じですが、我が家ではオリンピックは不評です。テレビ好きなうちの家族(わたくしは除きます)はオリンピックの期間にはどのチャンネルもオリンピックばかりで楽しくない、というのがその理由です。

 わたくしとしては日頃なじみのない各種競技の結果を聞かされても、よしんば日本人がメダルを取ってその苦心潭を涙ながらにお話しされようとも、はあ〜、そうなんですか、それはようござんした、という感想以外に持ちようがありません。そんなわたくしでも体操の内村さんや男子四百メートル・リレーはすごいと思いましたよ、あははっ。

 これでやっとメディアのお祭り騒ぎがひと段落して、静謐の日々が戻ってくるかと思うと正直、ホッとしております。まだまだ暑いですが、夕方になるとちょっとした涼気をわずかながら感じたりするような時期になりました。とはいえ、建築学会大会が開催される福岡は猛暑らしいので覚悟して出かけましょうか…。


大学説明会 二回め (2016年8月21日)

 日本近海には三つの台風が存在するという珍しい気象状況ですが、さいわいにもピーカンに晴れ渡って暑い日になりました。わが校では第二回目の大学説明会が開かれていて、大勢の高校生および父兄の皆さまにお出でいただいております。ありがたいことです。

 わたくし自身のタスクは7月の一回目のときと同じです。ただ、今回の学部全体説明会ではどういう訳かわたくしのパワーポイントが三枚ほど欠落していて、考えていたストーリーで説明することができないという(わたくしだけにとっての)アクシデントがありました。

 各コースの説明ファイルを事務方のほうで一つにまとめたと言っていましたので、そのときに不具合が発生したのでしょうが、あとの祭りとはこのことです。わたくしがMacintoshを使ってコンテンツを作成していることも原因かもしれません。事務方のパソコンはウインドウズですからね。というわけで気分よく説明することができずに、欲求不満気味に最初の説明を終えました。その分、そのあとの建築都市コース説明会では力を入れて説明したのは言うまでもありません。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU大学説明会_二回目20160821:P1010600.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU大学説明会_二回目20160821:P1010621.JPG

 こうやって高校生の皆さんを対象として大学説明会を開いていますが、現代では多分全ての大学がこうした説明会を開いていると推察します。高校生諸君にとっては情報を集め易いというメリットがあるでしょうが、一方であまたある大学の中から行きたい大学を選んで、わざわざ出向いて行くという行為自体が大変なんじゃなかろうかと思いますね。

 でもネット空間上の情報だけでは分からない、ナマの空間を体験することはやっぱり大切です。その意味では、暑いなか大変でしょうが個別のキャンパスを訪れることには大いなる意義があると思います。ぜひ、この機会を最大限に活かして大学選びの一助にしてください。


もうすぐ大会 (2016年8月18日)

 夏の恒例の苦行といったら建築学会大会と相場は決まっていますが、ことしも来週なかばから開催されます。ことしは九州の番でして、前回と同じく福岡大学七隈キャンパスが会場です。

 で、そのための出張の申請書を大学の事務方に提出したのですが、そのときにええっ!と驚くことが出来いたしました。わたくしは飛行機が嫌いですし、仕事が何時に終わるか分からなかったので、サッと飛び乗ることのできる新幹線で往復すると言ったところ、理由書の提出を求められたのです。

 行き先が博多だと、どうやらフツーのひとは飛行機を利用する距離らしいですし、いろいろな割引を駆使したときの運賃最安値は新幹線ではなくて飛行機らしいんですね〜。そういう場合に最安値の交通手段を利用しないときには、なぜ安くないほうを選ぶかの理由を書いて提出する必要がある、というのが事務方のロジックみたいでした(よく分かりませんが…)。

 でも、そんな拘束だらけの最安値の交通手段を選んでも、ストレスばかり増えるし、仕事の効率上もよくないのは明らかです。わたくしはこんな風に考えて反発心がムクムクと湧き上がりましたが、そんなことを事務方相手に言っても突破できるはずもありません。それこそ時間の無駄でしょうから、A4用紙一枚に理由を縷々書き綴る作文をしました。でも、これだって作るのに二十分くらいはかかりましたから、なにやってんだかなあ〜という徒労感で一杯になりました。


虫のはなし (2016年8月17日)

 台風が過ぎ去って、灼熱の太陽が戻ってきました。お盆の時期らしい暑さが復活しましたね。ああ、うんざりという気分とともに、やっぱり日本の夏はこうでなくちゃね、という感慨もまた涌き起りますので日本人の感覚って不思議ですな(わたくしだけ?)。

 さてこの夏、ご近所の方々が捕まえたムシをわざわざうちの子供に届けてくれる、という出来事がありました。七月末の夕方にはお隣のおばさまが羽化直前のセミの幼虫をもってきて下さいました。でもそのときはあいにく子供は林間学校に行っていて不在でしたので、その幼虫を我が家のホンコンヤマボウシの木にくっつけてお帰りになりました。翌日、セミの抜け殻は見当たらず、どこかで脱皮したのでしょうか。

 次に別のお隣のおじさまが朝早く、今度はオスのカブトムシを手づかみで持ってきて下さいました。お宅の玄関の前に坐っていた(?)そうで、結構大きくて立派なヤツでした。小さな虫かごとエサのゼリーや止まり木を買ってきてそこに入れましたが、数日でお亡くなりになってしまいました。もう八月も後半ですから寿命だったのかとも思いますが、可哀想なことをしました。

 こんなふうに子供はムシが好き、というふうに普通は思われているのでしょうね。ご近所の皆さまも我が家の悪ガキを思い出して、わざわざ昆虫を届けて下さったのかと思うと感謝の念が涌き起って参ります。ありがたいことでございます。

 ところが実は我が家の子供はムシが好きじゃないんですね〜。カブトムシすら、怖がって(?)触ろうとしません。まあ、ムシに対する耐性や好みはきわめて個人的なものですから、好きじゃないというのならば、ああそうか、と納得するだけです。

 わたくし自身は子供の頃はカナブンとかセミ、カブトムシやクワガタなどを一所懸命に採集した時期がありました。夜明け前に起きて、ご近所にこれらのムシを取りに行ったことは以前に書いた記憶があります。それでも大した獲物は捕れませんでしたから、カブトムシをいただいたりすればきっと狂喜乱舞して喜んだことと思いますね。


お盆の入り (2016年8月12日)

 お盆に入りました。今週前半は休みましたし、昨日は今年から「山の日」というなんだかよく分からない名称の祝日になったので、(休んでよいというのですから)お休みしました。もう面倒だからお盆までず〜っと休んでもよかったのですが、例によってたまった仕事を片付けるために登校しています。

 大学院のレポートをやっと採点して、これですべての科目の成績をサイトにアップし終わりました。これが終わるとやっと前期が終わったなあという“プチ幸せ”にひたれるんですね〜。ところで今年度の後期には隔年開講の『耐震構造特論』という大学院授業があります。その内容について、先日、中塚佶先生からいただいたメールを拝読していてビビッとひらめきました。

 この授業では鉄筋コンクリート建物の終局強度設計についての講義をわたくしが行ったあと、英文論文の輪講を学生諸君にやってもらいます。しかし彼らの英語力があまりにもpoorなので授業がなかなか進みません。さらにはこの時期から学生諸君の就活が始まるので、授業自体に出てこなくなったりします。なにやってんだかなあ〜っていう徒労感が全開なんですね。

 それならいっそのこと、わたくし自身が話したいことを(好き勝手に)語ったらどうだろうか、というのが中塚先生のメールからひらめいたことがらでした。すなわち我が社が専門とするプレストレスト・コンクリート(PC)建物の耐震性能評価をテーマにすれば、今まで一度も講義していなかったPC構造について説明できますし、なによりも我が社の大学院生諸君にとってはとても有益でしょう。でも、そのためには相当な準備が必要ですから、今年度すぐには無理かも知れませんけどね、あははっ。

 それから日本建築学会で作成中の「鉄筋コンクリート造建物の等価線形化法に基づく耐震性能評価型設計指針(案)」の修正案を拝見して、コメントを入れたり修正したりするのにほぼ一日を費やしました。勅使川原正臣先生(名古屋大学教授)を主査とする小委員会が担当です。

 そのなかで、わたくしのWGは主として梁柱部材に関する事項を担当していますが、原案の作成・整理や更新等は主として坂下雅信さん(建築研究所)にご苦労をおかけしてやってもらっています。彼のおかげで(われわれの担当部分は)かなり出来上がってきたように思います。もちろん全体を通して用語を統一することや、内容のすり合せを行うこと等はこれからの作業でしょうが、いずれにせよ進んでいる(ように見える)ことは素直に嬉しく思います。まあ、完成までにはまだだいぶかかるとは思いますけど…。


ネットいらず (2016年8月10日)

 体調が少しよくなって今日は登校しました。ここ数日は夏休みを取って休んでいましたが、そのあいだ一度もネットに接続しないで過ごしました。普段は大学でも家でもネットに接続してメールに対応したり、パソコンに向かって仕事をしていますが、それらが相当なストレスになっているような気がします。

 そこで夏休みの数日くらいはネットにつながらずにのんびり過ごそうと思い立ちました(このわがままのためにご迷惑をおかけした方もいましたので、ここでお詫びしておきます)。そんなことできるかなと初めは危惧しましたが、やってみると大したこともなく実践できました。そうして、わたくしが直ぐに対応しなくてもなにごとにつけ、なんとか回って行くものであることを(予想通りでしたが)実感できて、気が楽になった休暇でしたね。

 ただ今日、登校してメール・ソフトを開くと多量のメールがどっさり受信箱に詰まっていて、その処理は(これまた予想通りに)大変でした。これがイヤなので、チマチマと常にメールに対応してきた、というのも事実です。

 さて、世の中はオリンピック・ムード一色のように見えますね。四年に一度のお祭りだから仕方ないのでしょうが、高校野球の影がうすく見えるのはわたくしのひがみでしょうか。なんだか熱闘する高校球児が気の毒に見えるんですもの…。

 世界中を見渡せばオリンピックなど無関係に日々の暮らしすらままならない、という境遇のひとたちがたくさんいるはずです。スポーツの祭典に異を唱えるわけではありませんが、われわれが平和を享受できて、オリンピックを純粋に楽しめる環境にあるということはもっと意識して、そのことに感謝すべきではないかと愚考します。そうであれば、オリンピックに費やす巨額の資金の幾ばくかは、そういった劣悪な環境に暮らすひとびとのために使ってもよいと思いますよ。

 わたくし自身はオリンピックにはあまり興味はありません(こんなことを言うと“非国民”みたいに思われるかな?)。前回の五輪のときにも書きましたが、国の威信をかけて、みたいに国同士の争いの形態になっている現在の五輪には共感できないからです。

 純粋にスポーツを愛する個人が、その全身全霊をかけて競い合うという本来の姿に立ち返るべきだと考えます。逆にいえば個人が尊重される現代にあって、真のコスモポリタンになるにはまだまだハードルは高い、ということでしょうか。



PCの孤独 (2016年8月4日 その2)

 以下はプレストレストコンクリート工学会の会誌「プレストレスト コンクリート」に寄稿した巻頭言です。
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 本工学会においてPCといえばプレストレスト・コンクリートのことである、当たり前である。しかし世間一般ではこの略称は通用しない。PCといえば通常はパソコンのことであろう。では建築の世界ではどうだろうか。残念ながらこれも多分に怪しいというのが筆者の長年の経験から得た結論である。

 以前に著名な建築家からあるプロジェクトへの参加を打診されたとき、彼はPC建物を対象とすると言った。建築作品によって日本建築学会賞を受賞したほどの建築家がプレストレスト・コンクリート建物についてのプロジェクトを立ち上げることに感激した筆者は、即座に参加を表明した。しかしその後に詳細を聞いて分かったのだが、その建築家はプレキャスト・コンクリートのつもりでPCという用語を使っていたのである。

 わたくしのようなコンクリート系構造の専門家はプレキャスト・コンクリートはPCaと表記して厳密に区別することが多い。しかし普通の建築設計者にとってはPCaという表現に馴染みはなく、PCといえばプレキャスト・コンクリートのことをさすのが通常なのであろう。

 プレストレスト・コンクリート構造では、プレキャストの鉄筋コンクリート部材(柱や梁)をPC鋼材によって緊結して一体化した骨組を構築する工法がある。このように書くのは煩雑なのでこれをPCaPCと表記することが多く、わたくしも愛用している。本誌の読者であればああ、あれかと思われることだろう。さらに、シース管へのグラウト注入を行わずにアンボンドのPC鋼材を使う場合には、これをアンボンドPCaPCと表記することもある。しかしながらここまで来るとこれを理解できるのは一部のマニアックな専門者だけであって、そのほかの大多数のひとには通じないのだと思う。

 プレストレスト・コンクリート構造にかかわるこれらの略号が市井のひとびとに理解されないのは、まあ仕方のないことと諦めよう。しかし建築専門者の多数にとっても未知であるというのは問題ではないだろうか。

 本工学会で建築に携わる方が異口同音に指摘されているが、プレストレスト・コンクリート構造そのものが建築家たちのあいだにそもそも認知されていない。よほど建築構造に詳しい、ある意味珍しい建築家がこれを使うくらいであろう。そのような貴重な建築家のひとりとして内藤廣さんがいる。

 七年前のことになるがJCIの「プレストレス技術の有効利用研究委員会」(委員長:西山峰広・京大教授)の報告会で内藤廣さんに特別講演をお願いした。そのなかで彼は、プレストレスのような優れた技術をそろそろ文化にまで高めるべき時代に入ったとか、プレストレス技術をもっと建築家にアピールする努力をするべきである、と指摘された。

 このようにプレストレスト・コンクリート構造を理解して、これに対してエールを送ってくれる建築家を大事にすべきであるし、そういう建築家を増やすようにわれわれ専門家集団が尽力すべきである、ということを自戒を込めて強く感じる。

 一流の建築家に知ってもらうためには、まず建築専門者全般に対する教育が大切である。プレストレスト・コンクリート構造に関する大学教育については、本工学会内に設置された「PC構造関連授業の実態に関する研究委員会」(委員長:岸本一蔵・阪大准教授[当時])において詳細に調査された。それによるとプレストレスト・コンクリート構造を半期以上教えている建築系学科はほとんどなく、RC構造の授業のなかで教えているところもわずかであった記憶がある。残念な現状であるが、かく言うわたくし自身もRC構造の講義を担当しているが、プレストレスト・コンクリート構造については学部でも大学院でも全く教えていない。カリキュラムがすでに一杯で身動きできないというのが正直なところである。

 かように問題は多岐にわたるし、その根は深いと言わざるを得ない。わたくしのような大学人のできることと言えば、設計製図のエスキスなどで学生に対してプレストレスト・コンクリート構造の利点を説明して、それを導入することによって解決できる諸問題を個別に丁寧に説明することくらいだろう。プレストレスト・コンクリート構造の周知に向けてこれからもできるところで努力しようと思う。


来年度へのステップ (2016年8月4日)

 昨日、大学院の入学試験が終わりました。わが社の志望者は今までで最多の九名で、約半分は中国出身の方でした。なぜこんなに多くなったのか、同僚の先生方からも質問されましたが、その理由はわたくしが聞きたいくらいです。ただ皆さん、わたくしのこのサイトをご覧になって興味を持って下さったことは確かなようです。その点でこのサイトも役立っていると言ってよいでしょうね。

 受験者が増えれば、優秀なひとが入ってくる確率も増します。このことは研究室の主宰者として慶賀すべきことがらです(もちろん、志望者にとっては迷惑なことでしょうけど)。この二年は大学院進学者が各々一名しかいなかったので、来年度は多少は盛り返せるかなと(ちょっとばかり)期待しています。

 ところで文科省の学習指導要領の改正が報道されましたが、そのなかにアクティブ・ラーニング(Active Learning)の導入が謳われていました。今まで自分なりに(大学での)アクティブ・ラーニングの実践を試行錯誤してきました。このページでも折に触れて書いてきたとおりです。それはなかなかに困難であること、またその効果も(今のところは)計り知れないというのがこれまで得た総括です。

 文科省ではアクティブ・ラーニングの具体的な実践例を示すと言っていますが、それにしても小・中・高校の全ての教員がこれを教育の現場で成功裏に実践できるとは、残念ながらわたくしには思えません。算数や国語のような基幹科目の全てをアクティブ・ラーニングだけで教育することは多分不可能だと考えます。

 自分で考える能力を磨くことが大切である、ということは論を待ちませんが、場面に応じて教育の手法を選ぶことは重要だと思料します。そのあたりは是非とも柔軟に対応していただきたいと思いますね。



我が社で二番め (2016年8月1日)

 八月になりました。八月一日は八朔[はっさく]と呼ばれ、約四百年前に徳川家康が三河から江戸に移ったことから(江戸討ち入りと言われます)目出たい日となったようです。きょうは夏本番にしてはそれほど暑くなくて、まあ助かります。体の具合は悪いですが、そんなに休むわけにもゆかないので登校して仕事をしています。

 さてトップページに記載しましたが、石塚裕彬さんを筆頭著者とする論文が日本建築学会構造系論文集に採用となりました。博士前期課程に在籍中に黄表紙論文を執筆して採用になったのは、昨年の片江拡さんに続いて我が社では二人めの快挙です。論文のテーマも片江さんと同じく、二方向水平力を受ける立体隅柱梁接合部の曲げ降伏破壊を扱ったものですが、片江くんの残した課題である立体破壊モデルの構築に石塚くんは取り組んでくれました。

 立体破壊面を絵を描きながら想像するのは難しいので(頭のいいひとなら可能でしょうが、われわれ凡人には難しい、という意味です)、石塚くんがスタイロ・フォームをいろいろ切り刻んでスタディして、妥当そうな立体破壊モデルを提案してもらいました。その写真を下に載せておきますが、これが出てきたのが昨年の十一月早々でした。梁を付けると分かりにくくなるので、梁のない裸の柱梁接合部のモデルです。写真の右奥には金属製のボールに突っ込まれたスタイロ模型の残骸が写っています。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:立体隅柱梁接合部_二軸の曲げ破壊面_スタイロ模型2015石塚:P1010292.JPG

 この立体破壊モデルをもとにしていろいろと制約はありますが、隅柱梁接合部が二方向水平力を受けて曲げ降伏破壊するときの曲げ耐力をとりあえず計算できるようにしたのがこの論文の大きな成果です。

 この論文を提出したのは今年の二月早々でしたから、採用までちょうど半年かかったことになります。しかしながら査読者の方々からは大変に好意的なコメントや本質的な質問をいただき、それをもとに論文をさらによいものにすることができたと考えております。(いつもながら)査読者の方にはとても感謝しております。

 ここまで到達できたのも石塚くんのたゆまぬ努力の賜物です。特にわたくしと議論することによって、疑問点や曖昧なところをひとつづつつぶしてゆき、論文を磨き上げる過程で石塚くんは大いに成長したと褒めてあげたい気分です。

 なおこの研究のスポンサーは東大の塩原等兄貴です。塩原さんの科学研究費補助金から援助をいただき、この一連の研究をやり遂げることができました。また黄表紙に論文を執筆するように叱咤激励してくださったのも塩原さんでした。

 その観点から言えば、片江さんおよび石塚くんの論文が世に出ることができたのも、ひとえに塩原さんのお陰ということができるでしょう。塩原兄貴にはここに改めて御礼を申し上げます。

 石塚くんの論文が採用されて、これで2016年度に採用されたビッグな査読付き論文は三編になりました。宋性勳さんと石塚くんの黄表紙、それに晋沂雄さんのACI Structural Journal です。これらは全て昨年度の成果が元になっていますので、やっぱり昨年度の我が社のアクティビティは高かったということがこの事実からも分かります。我が社の構成員の皆さんの活躍はホント嬉しい限りです。


八月になる (2016年7月31日)

 七月下旬はすごく体調が悪くて大学の健康診断にも行けませんでした。健康診断に行こうと思うのですが、体がだるくて採血されるとさらに気分が悪化しそうで躊躇しているうちに、学校自体に行けなくなって七月が過ぎてゆきました。体調がすぐれないとこのページに何かを書こうという気力も失せてしまうことに気がつきました。

 ということでこのページをしばらく更新しないうちに梅雨が明けて、八月の声を聞いて夏本番を迎えました。夏休みになって我が家では子供が林間学校に出かけました。子供がお泊まりでいなくなるのは、幼稚園のときのお泊まり保育で一泊したとき以来でしょうか。その間、家の中はうそのように静かになって、家内と二人で静かだね〜って驚いていました。将来、老夫婦二人だけになったらこうなるのかと思うとちょっとゾッとしましたね。

 日曜日には東京都知事選挙があって投票してきました。さんざん迷いましたが、いわゆる野党統一候補と呼ばれる元キャスターの男性に投票しました。そのひとがニュース・キャスターをしていた当時にその番組を見たことはありませんでしたし、そのひと自身が都知事として何をやりたいのかよく分かりませんでした。また、その方の公約には賛同できないものもあり、何よりも年齢が高いために四年間を全うできるだろうかという疑念が拭えませんでした。でも、自民党のひと達を都知事の座につけるわけにもゆかないと考え、小異を捨てて大同についたというのが偽らざるところです。

 しかしこの都知事選のあいだ、どの候補者も財源の裏付けもなく耳障りのよい「政策」ばかりを掲げて声高に叫んでいたことには、強烈な違和感を抱きました。例えば耐震化100%の実現とか待機児童ゼロとか、です。そうやって叫ぶのは勝手ですが、(万が一)当選したらその公約をどうやって実現するというのでしょうか。そういう無責任なことをいうひと達に政治を任せてよいのか、本当のところは大いに疑問です。

 文句ばかり言っても仕方ありませんから、そうした候補者の中からまともで誠実そうなひとを選ぶしかありません。しかしながら、そういうひとしか立候補しないというのが昨今の(あらゆる)選挙になっているのは非常に残念な気がします。

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 午後八時、早々と当選確実が出ました。まあそれまでの世論調査からだいたい分かってはいましたが、やっぱりそうなるか、という感じです。K池さんが新しい都知事に就任するということですので、今後の都政の刷新を期待いたします。


むかしの名前で (2016年7月22日)

 数日前は梅雨明けかと思いましたが、今朝は肌寒くて本格的な雨の降る天気です。

 第一回の大学説明会のときに、大学再編(2018年4月からの予定)についてどこまで伝えるかということが大いに議論になりました。2005年4月に首都大学東京が発展的に開学して既に十年以上が経過して、そのときの種々のしがらみや拘束も徐々に緩まってきたという印象があります。最大のポイントは、新大学の実質的な産みの親だった石原慎太郎さんが都知事をやめて数年が経ったことと、都立大学生え抜きの上野淳先生(建築計画学)が学長に就任した、ということでしょうか。

 そういう“周辺環境”がようやく整ってきて、大学再編を堂々と議論できるようになり、設置者である東京都もその話しを聞いてくれるようになったことは慶賀すべき状況の変化と言えるでしょう。

 首都大学東京では「都市教養学部」と「都市環境学部」とが大都市・東京が設置する公立大学としての二枚看板でした。このうち「都市環境」はともかくとして「都市教養」って一体なんなのよ、という世間からの疑問の眼差しは止むことなく現在に至っています。じゃあ「都市教養学部」にはどんな学科があるかというと、文系、理系および工学系が寄り集まっているんですね〜。これじゃあ、受験生が迷うのも無理はありません。

 ということでこの「都市教養学部」を解体して文系の人文社会学部や法学部などと理学部とを再構築するのが主要な再編のなかみです。で、わが「都市環境学部」はそれに較べれば大きな変更はありませんが、大都市が抱える多様な問題を解決する、という掛け声のもとに文理融合系の都市システム科学と文系の都市政策コースとが合併して新たな学科を作る、というのが比較的大きな改革になります。

 そのため、今までの「建築都市コース」から都市システム科学域の先生方が抜けることになりました。そしてわたくしの新たな所属は「建築学科」となる予定です。建築学科…ああ、なんと心地よい響きでしょうか。この伝統ある名前を再度名乗ることができて、本当に嬉しく思います。わたくしが卒業したのも建築学科ですから。

 でも、これは2005年度以前の東京都立大学のときに名乗っていた、それこそ“昔の名前”なわけです。すなわちわが「建築学科」について有り体に言えば、教員構成も教育内容も昔に戻る、ということです。これって最近のご時世では希有な“英断”じゃないですか?(自画自賛、です)。ただし教員定数は大幅に削減され、それに伴って学部定数も一学年60名から50名に削減されます。今後十年くらいのあいだに定年を迎える先生方の後任はほとんど採用できないと思われます。

 そのような“苦しみ”を甘受することによって達成できる改革ですから、教育内容も含めてさらに一層のパワーアップと効率とを追究する予定でいます。名前は旧に復しますが、中身は新生・建築学科に相応しいものになるように今後も精進しようと考えます。

 なお本学の再編(あくまで予定、ですが)の概要はここのページで公開されています。



基礎ゼミナール2016 ファイナル
 (2016年7月20日 その2)

 四月から続けて来た一年生の『基礎ゼミナール』ですが、本日をもって実質的に終了しました。今年も22名の受講者全員が無事、わたくしの設定したカリキュラムを修了してくれて嬉しい限りです。

 昨年度までに学生諸君からいただいた授業評価のコメントを参考に、今年度は授業延長を避けるように努力しました。そのため、最終課題の発表を三週に分けて実施するように変更しました。その結果としてわたくしおよび学生諸君が選ぶBest Presentation Award の顕彰は取り止めにしました。

 わたくし自身としてはこれはちょっと残念でしたが、三週にわたって発表が続くと公平なジャッジが難しくなることと、Award の顕彰をすると時間が不足することが懸念されましたので、やむを得ないと思っています。

   説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:基礎ゼミナール2016:20160720:P1010596.JPG

 今年の学生諸君のActivity は昨年度と較べるといま一歩でしたし、質問を発するひとが固定化される傾向にあったのは残念でしたね。でも皆さん、一所懸命に授業に参加してくれたことはよく分かりましたから、わたくしとしては所期の目的は達成できたと自負しております。頑張ってついて来てくれた学生諸君にはやっぱり感謝したいと思います。

 三年間にわたって苦労してきたActive Learning ですが、なかなかに難しいということを再認識いたしました。いかに学生諸君を踊らせるかということに腐心した三年間だったとも言えます。少しづつですが(わたくしの教授法も)進歩したかな、というのが実感でしょうか。この経験を活かして今後の教育活動に当たりたいと考えます。


そろそろ梅雨あけ? (2016年7月20日)

 きょうは昨日ほど暑くはありませんが、それでも入道雲が見られますし、蝉の声も聞こえ始めましたから、八王子はそろそろ梅雨明けじゃないかと思います。皆さんのところではいかがでしょうか。

 さて、大橋巨泉さんの訃報が流れました。彼といったらやっぱりクイズ・ダービーでしょうね。この番組は毎週見ていた記憶があります。なんといっても高校三年生のときの文化祭(わが出身高校では『外苑祭』と呼びます)で、わがクラスはこのクイズ・ダービー(のコピー)を出し物としたことが思い出されます。

 三択の問題を皆で考えて、わたくしは当時のタバコ「セブンスター」のパッケージにある金色の星の数、という問題を作り出しました。回答者は同級生だったり、先生だったりで、すごく盛り上がったように記憶します。まあ、大昔のはなしですから、相当にバラ色に脚色されているでしょうけど…。

 いずれにせよ、当時の人気者がまたひとり冥界のひととなったことに寂しさを感じます。


第一回の大学説明会およびオープンクラス、はじまる (2016年7月17日 その2)

 この夏、第一回目の大学説明会および建築都市コースのオープン・クラスが始まりました。薄曇りの天気ですが、陽が照りつけないので気温がほどほどに収まってくれているのが救いですね。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU大学説明会20160717:P1010586.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU大学説明会20160717:P1010589.JPG

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 午前中は都市環境学部の全体ガイダンスと建築都市コースの個別ガイダンスがあって、わたくしはコース長なのでそれぞれの会場で概要説明などのお仕事をこなして来ました。ものすごい人手で、大教室が満員で来校者の皆さんがあふれていました。ありがたいことですが、例年、建築都市コースのガイダンスはこのような状況なので、開催教室を代えてくれたらよいのになあ、と思います(全学の行事なので、そうもいかないことは理解できますが…)。

 午後からは9階の製図室で模型や研究紹介のパネルが展示されているスペースで、個別相談会が開かれます。コース長はその相談員も務めないといけませんので、お昼休みもあわただしく過ごしています。午後の模擬授業では、ルーキー准教授の壁谷澤寿一さんが津波被害と津波避難ビルについて講義してくれることになっています。


進歩、か? (2016年7月17日)

 二週間に一回、都市環境学部の代議員会が開かれます。その資料が先日から電子化されました。今まで膨大な紙数だったものがPDFで事前に配布されました。でも人事等の機密書類や教授会の資料は紙版で提供されるので、中途半端な感は否めません。

 学会の委員会資料はだいぶ前に電子化されたので、その当時のような違和感は抱かずにすみました。ただ、紙だとパラパラっとめくってザッと目を通すということができますけど、PDFだとそれは無理なような気がします。それとも使い方によっては紙と同じようにできるのかな?

 その電子版ですが、紙の書類を事務方がスキャンしてPDF化したものでした(手間としてはコピーと変わりませんので、事務方は大変なまま、ということでしょうか…)。すなわち文字情報にもかかわらずそれらは画像データなんですね〜。そうするとそこから必要な文字情報を抜き出すとしたら、結局、自分の手でキーボードを叩いてワープロに打ち込まないといけません。代議員会での議論の要点をわたくしがメモして、建築都市コースの先生方にメールで配信します。その手間が軽減されるんじゃないかと期待したのですがぬか喜びでした、残念〜!。

 しかしどうしてこんなに雑用が多いのでしょうか。この日も午後半日がこのような会議で過ぎて行きました。いろいろと宿題も出ますし、それらの処理で気の休まるときがありません。その合間には学科内の運営について目配りしたり準備したりしないといけません。でもこちらが諸事抜かりなく差配し(たつもりになっ)ても、そうやってスムーズに流れてゆくのは当たり前というふうに皆さん思っていますから、やりがいのない損な役回りです、とほほっ。オラは空気じゃね〜ってか。

 なんだか知らないけれど、降って湧いたようにガーガーとあれこれ言ってくるひともいます。そんなに自分のことばっかりじゃなくて、少しは回りに気を使って欲しいなあ…と思うととても悲しくなります。わたくしは基本的には楽観主義者です。ですから、何とかなるだろうと思っていますが、それでもときにはかように気弱になったりします、やっぱり歳でしょうか。


トリオで (2016年7月12日)

 ここのトップ・ページでもお知らせしましたが、今回のコンクリート工学会(JCI)年次大会において我が社の特任助教・晋沂雄さん、昨年度M2だった新井昂さんおよび鈴木大貴さんの三人が奨励賞を受賞しました。お三方、おめでとうございます!

 わたくしとしても我が社の研究が評価され、さらには彼ら三人の優秀さが学会において認められたということをとても嬉しく思います。ことしのJCI年次論文には我が社からは四編が採択されて、そのうちの三編が奨励賞を受賞するという(自画自賛ですが)快挙です。

 こうなると今回受賞を逃した星野和也くんの論文が気になります。ただ、彼の発表は新井くんと同じセッションでしたので、同じ研究室同士で争うことになったのは残念でしたね。星野くんの研究はオーソドックスで玄人受けするよい論文だと思いますが、インパクトという点からは新井くんのほうに多少分があったのかな、とは思います。でも星野くんは昨年に年次論文奨励賞を受賞しているので、まあいいか、という気もします。

 今年早々のこのページに書きましたが、この三月までの我が社のM2四人はいずれも優秀で将来を嘱望される若者です。そのうちの三人が奨励賞をとったということは、わたくしのこの見立てが正しかったということを期せずして証明したくれたと言ってよいでしょう。残るひとりの石塚裕彬くんですが、彼の投稿した論文は現在査読中です。力作ですし、わたくしとの深い議論の末にまとめたものですから、結果がともなうことを期待しています。

 こんな感じで我が社の研究はここ数年で大いに発展したと思っています。ただ、わたくし自身は既に半分以上“あがり”の状態にあります。ですから、わたくしのアイディアや助言を咀嚼して自分自身の思考とミックスさせながら具体的なかたちにできる優秀な若者が、これからも我が社の門をたたいてくれることを期待しています。我が社のこの高みを持続できるといいなというのが今の願いです。


参院選おわる (2016年7月10日)

 午後八時過ぎに(参院選の開票が始まる前から)当選確実が発表されるような時代ですが、これっていつ頃からでしょうか。報道各社による出口調査の結果に基づいているのでしょうが、それってそれほど信頼度の高い情報なのか、多少疑問に思いながら開票速報を見ています。

 しかしその調査結果を見ても、与党の優位は揺らがないように見えますね。与党に力を与えるほど、憲法改正や格差社会の促進に向かうのは明らかだというのに、なぜこのような結果になるのか理解できませんな。戦争をやってガッポリ儲けたい老人たちに政治を任せてよいとはとても思えません。

 そういう身勝手な老人たちを下支えしている若者たちこそが、声を上げて自分たちの未来を変えるべきなのに(知らないうちに借金まみれにされちゃうぞ)、彼ら自身がそのようなbehavior をとったのかどうか、はなはだ疑問です。

 わたくしは朝早めに投票に行きましたが、結構並んでいましたから(でも、中年以上の方が多いようでしたが)有権者の関心はそれなりに高いように感じましたね。さんざん迷いましたが、東京選挙区はM進党の“鬼検事”を自称する方に入れ、比例区はK大学名誉教授の憲法学者に投票しました。いずれも護憲を唱える候補者です。この際ですから、原発についての(わたくしとの)主張の違いには目をつぶりました。
(追伸[2016年7月11日];選挙区のひとは六番目に滑り込んで当選しましたが、比例区のひとは落選でした。選挙って、やっぱり情熱だけじゃダメなんですね。)

 で、投票を終えて、お昼から都心で高校のクラス会があったので出かけました。一年生と二年生との二年間を一緒に過ごした内藤ファミリーです。今回は(お昼の開催だったせいか)参加者は今までよりも少なく十数人にとどまりました。みんなと話しをしているとわたくしほど子供が小さいひとは皆無で、まだまだ子育てが続くわたくしに向かってお前大変だなあと同情される始末です。

 投票日に開かれたクラス会ですが、現役の衆議院議員が参加してくれたのには相当ビックリしました。(本人の利益になるだろうから)名前を書きますが、尾身朝子さんという自民党の二世議員です。先の衆院選で安倍・自民党が大勝したときに比例区から当選したひとで、いわゆる安倍チルドレンのひとりでしょうな。

 尾身さんいわく、選挙戦は終わったのできょうは時間があるっていうことでした。ただ午後八時過ぎからは選挙区(予定地)のボスから集合がかかっているので、これから新幹線で移動すると言って去って行きました。SP付きの車で行くんじゃないの?って聞いたら、そんなの一年生議員にあるわけないでしょって言われました、確かにそうだな。

 彼女から議員バッジという代物を初めて手に取って見せてもらいました。これを手に入れるために様々な人生劇場が繰り広げられているかと思うと、その重みを感じないではいられませんでしたね、やっぱり。

 一般には国会議員の質が低下しているように思いますが、彼女に関して言えば優秀だし今でもすごく勉強しているようなので、これから活躍してくれるんじゃないかと期待しています(改憲はやめて欲しいですけど…)。主義主張は異なってもひとびとの生活を守ろうという気概があれば、それはそれでよいかと思いますから。


ひととの出会い (2016年7月7日)

 七夕ですね。よわいを重ねると何につけ感動が薄くなってきますので、七夕って聞いても別にああそうか、っていうくらいの感じです。子供が小さい頃は短冊に願いを書いて…ということもありましたが、その時期も過ぎ去って我が家では特に何事もないようです。

 さて以下のお話しは、冒頭のとしをとると…ということと関係します。見知らぬ人との出会いにワクワクするという人がよくいますよね。そこから新しい関係が始まって、もしかしたらすごくいいことがあるかもしれない、みたいな。わたくしも若い頃にはそのように思ったときもあって、出来るだけ多くのひとと知り合って刺激を受けようとしたこともあったでしょう(って、多分に推察ですけど)。

 でも最近は、見知らぬ人との出会いはむしろ億劫になってきました。勝手知ったる気心のよく分かった知己といると安穏とできるし、そこに心地よさをおぼえるんですね〜。なんと保守的な人間なんだろうか、と我ながら感じます。

 気付いていた方もおいでかも知れませんが、わたくしはもともとそんなに社交的な性格ではありません。見知らぬ人と会うときには、どんな人だろうかとか話しが合うといいなあとか、あれこれ心配しないといけないのが重荷なのです。すなわち出会いがストレスっていうわけです。

 こうして年齢とともにわたくしの“世間”は固定化して、かなり同質で均一な小集団のなかに閉じこもってゆくのでしょうな。なんにつけ多様性は重要ですから、こんなことでは進歩や発展はないぞとは思います。でも人間、安直で心地よいほうに流れてゆくのは本能でしょうから、まあいっか、といって自己正当化しているわたくしでございます。ただ、わたくしの研究室に来たいというひとはWelcomeで、いくらでもお会いしますのでご心配なく。


もうすぐ選挙 (2016年7月6日)

 梅雨らしい鬱陶しい日々ですがその割には雨が降らないので、関東地方では水不足が懸念されています。大学では先日、ことし初めて電力のピークカットが実施されて冷房が効かなくなりました。これからどんどん暑くなって、冷房を強制的に止められる日が続くかと思うともうゲンナリです。安全な原発は早く起動して、電気料金を安くしてもらってケチケチせずに電気を使えるようにして欲しいと切に願います。

 もうすぐ参議院議員選挙の投票日ですが、誰/どの党に入れようか、まだ決めていません。わたくし自身の主張は、原子力発電施設のさらなる安全・安心を実現できるような新しい設計体系を構築した上での原発起動容認および現行憲法の堅持が大きな柱です。

 でも、わたくしのこの二大主張と合致する候補者や政党は残念ながらありません。護憲の方はどういうわけか脱原発がセットでついています。そして原発利用派は大方が憲法改正を主張します。いったいどうしてなんでしょうか。

 わたくしの頭のなかでは、2011年の教訓を踏まえた上で原発のさらに合理的な設計体系や危機管理態勢を構築すれば、原発の利用は工学的には容認できると考えます。もちろん核のゴミ問題は解決すべく努力が必要でしょう。でも費用対効果や環境保全の観点から考えたらそれは有力な選択肢になる、ということをどうして議論の俎上に載せようとしないのか、それが不思議です。

 2011年に大きな被害が発生して、その苦痛は現在進行形ですから情緒的にはよく理解できます。ですから、そこから一歩踏み出すためのなにかが足りないのでしょうね。その“一歩”のためには、われわれ技術者も大いに貢献できるはずだし、そうする責任の一端を担っているとも思っています。

 さて選挙に戻りますが、かようにわたくし自身の考えと完全に合致する選択肢はないので、次善の候補者/政党を選ばないといけません。せっかく投票するからには死票は避けたいので、できれば当選しそうなひとがいいですな。そうした観点からすれば野党第一党が有力になります。とはいえ、党名こそ変わりましたがその実質は民主党の頃からあまり変わってないように見えるのは気になりますね。う〜ん、どうしましょうか、まだしばらくあるので悩んでみます。


ビートルズ (2016年7月5日)

 ちょっと前ですが、ビートルズが羽田に来てからちょうど五十年、という話題がありました。その頃、わたくしはまだ小さかったのでその記憶はありません。またリアルタイムで彼らの唄を聞いた記憶もありません。でも小学校低学年の頃に年長の従兄弟がビートルズのアルバムを持っていて、いろいろと話しを聞いたことは憶えています。

 わたくしが初めて聴いた彼らの唄は、中学校のお昼休みに校内放送で流れてきた「She loves you」だったように思います。教室のなかで、ちょっとワルぶった奴らがイェ〜イェ〜言いながらシャウトしていたっていう思い出です。また中学校の音楽の教科書には彼らの「Yesterday」が載っていて、皆んなで歌ったような気がします。ですから1970年代の半ばにはすでにビートルズは“まともなひと達”として認識されるようになっていたと思われます。

 でも、村田和人さんの「ビートルズを聴いてはいけません」という唄にもあるように、彼らが来日した当時、彼らは不良だと世間の大人たちからは眉をひそめられていたんですね。その不良の音楽が教科書にも載せられるようになるのに十年とかかっていないのは、どういうメカニズムだったのでしょうか。いい音楽は文句なくいいんだ、ということなんでしょうな、やっぱり。

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 そういう彼らが残した曲たちは今やロックやポップスのクラシックのような位置付けで、ビートルズから影響を受けたひとは音楽関係者のみならず大勢いることは周知の事実です。ただ、わたくし自身はどうかと言うと、ひととおり彼らの曲は聴いたつもりですが、グループ末期のビッグ・バンド風の「The long and winding road」なんかには惹かれましたけど、サラッと通り過ぎたっていう感じでした。彼らと同じ風、同じ空気を共有したことがなかった、というのが大きいのかも知れませんね、わかりませんけど…。


文化財で講評会 (2016年7月3日)

 この週末、また岡谷に行ってきました。先日書きましたが、大学院授業の「プロジェクト特別演習」で、国登録有形文化財の旧市庁舎を保存・再生するための具体案を学生諸君に考えてもらい、その成果をこの建物の二階の旧議場において岡谷市民の皆さんにも公開して講評する、という試みです。

 この日はどんよりと曇った日和で時おり陽が射すと暑く感じました。でも、日陰で風が吹くとちょうどよい心地でした。この古い建物には空調がありませんから講評会場が蒸し暑いとイヤだなあとか思いながらやって来ましたが、風通しよく窓が開いていて杞憂でした。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:岡谷市旧市庁舎_TMUプロ研演習20160702講評会:DSC01627.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:岡谷市旧市庁舎_TMUプロ研演習20160702講評会:DSC01624.JPG
    写真 二階の旧議場での講評会(左:会場の様子、右:挨拶する小口明則副市長)

 この日は岡谷市の市制施行80周年の記念事業の一環として旧市庁舎が一般公開されていて、われわれの講評会もそのなかに組み入れていただきました。そこまでには山田幸正教授(このプロジェクト研究のリーダー)のご苦労が多々あったことでしょうから山田先生には感謝しております。

 岡谷市からは小口明則副市長をはじめ、建設水道部の河西部長、岩垂さんや地元の建築家の片倉隆幸さんにお出でいただき、ご意見や講評をいただきました。最後には岡谷市長さんもおいでになって、山田先生が恐縮がっておいででした。

 学生諸君の発表ですが、前回の桑ハウスのときは散々だったのでどうなるかと思いましたが、今回はなかなかしっかりとしたプレゼンテーションをやってくれたので、一般公開に恥ずかしくない内容でした。岡谷市の現状の分析が(地元の方にとっては周知でしょうが)しっかりなされていて、わたくしも同感な部分も多々あり、その分析にもどついて設計提案がいろいろとなされたのはよかったと思います。

 また、あるチームが岡谷市の諸施設の分布をプロットした地図を張り出してくれましたが、(わたくしはそのすぐ脇に坐っていたこともあって)それを見ながら学生諸君の発表を聞けたので、とても役立ちました。ナイスなアイディアだと褒めてあげたいです。

 ただ、総評のときに申し上げましたが、この建物の特徴である階高の高さをどう活かすかとか、二階の鉄骨トラスがかかっている旧議場をどのように使うかなどの具体な提案が少なかったのは残念でした。もっともわずか一ヶ月の課題ですから、そこまでやれというのが無理なのかも知れませんね。

 ということで、岡谷まで行ったかいがあったというものです。会場の準備をしていただいた岡谷市役所の方々、講評会でご意見をいただいた岡谷市民の皆さん、そして大いに楽しませてくれた学生諸君に御礼申し上げます。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:岡谷市旧市庁舎_TMUプロ研演習20160702講評会:DSC01637imp.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:岡谷市旧市庁舎_TMUプロ研演習20160702講評会:DSC01616.JPG

 さて蛇足です(って、この文章自体がそもそも“蛇足”みたいなものですけど…)。それにしても(学生諸君が現状分析で指摘していましたが)岡谷にはお土産屋や飲食店がありません。岡谷のお土産として「諏訪の月」というくるみを素材としたお菓子を作っているお店があって、そこでそのお菓子を買っただけでした。「高天」という地酒を醸す酒蔵が旧市庁舎からすぐのところにあるので行ってみましたが、休みらしくてしまっていました。

 岡谷駅から旧市庁舎までの道すがら(岡谷市のメイン・ストリートだと思いますが)にはコンビニが一件もありませんでした。また、観光マップはありますが、道々の案内標識は整備されておらず、途中で休めるようなベンチもほとんど見かけませんでした。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:岡谷市旧市庁舎_TMUプロ研演習20160702講評会:DSC01602.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:岡谷市旧市庁舎_TMUプロ研演習20160702講評会:DSC01614.JPG
写真 左:近代化遺産の丸山タンク(現地の案内表示がプアで、なかなかたどり着けなかった) 右:地酒「高天」の醸造元(せっかく行ったのに休業だった)

 そんな現状を知るにつけ、岡谷というまちは観光よりもやっぱり精密機器の工業都市としてのあり方に注力しているのではなかろうか、というふうに思いました。岡谷のことは岡谷のひと達が考えてお決めになればよいので、よそ者のわたくしがとやかく言う必要はありませんけど。

 帰りはスーパーあずさに乗ったので、岡谷駅から二時間四十五分で我が家に帰り着きました。この日の歩数は14,275歩で、あ〜あ疲れたという一日でした。


一発め (2016年7月1日 その2)

 もわっとして湿気が肌にまとわりつくような、夏の始まりを感じさせる日よりとなりました。本学では今日、編入学試験が実施されています。高専から大学三年生に編入するルートの入試のことです。高専は五年制で専門に関する卒論もありますから、一般的には学生諸君のレベルは高く、問題意識もそれなりに持った学生さんが入ってきます。わたくしの研究室にも高専からの進学者が何人かおりますが、そのひと達はみな優秀でした。

 ということで、来年三月まで続く来年度入試の長〜いロードの一発めが今日始まったということになります。入試は大変ですから、関係する皆さんに感謝です。建築都市コースの志願者は近年になく多いようです。なぜなのか今ひとつ分かりませんが、いずれにせよ、感謝すべきことではありますな。


Non-Engineeredな建物 (2016年7月1日)

 タイトルが分かりにくいですか? Non-Engineeredというのは「工学的な配慮をされていない」というような意味です。例えば1999年にトルコ・コジャエリ地震の被害調査に行ったときに、鉄筋コンクリートの住宅を技術者が設計することなく施主が自分自身で建てる、という慣習を目にしましたが、このような建物は工学的に配慮されていないので「Non-Engineeredな建物」と呼ばれます。Non-Engineeredな建物は発展途上の地域ではごく普通なことであると思います。

 で、日本のような先進国ではこのような「Non-Engineeredな建物」などないだろう、と考えていました。でも日本の木造住宅って、実は「Non-Engineeredな建物」じゃなかろうかと先ほど思うようになったのです。

 諸般の事情からわたくしの実家が今、改修工事をやっています(まあ、リフォームです)。築三十年の木造二階建ての住宅で在来軸組工法です。部屋の使い勝手を変えるために1階の管柱(“くだばしら”と読みます/2階まで通っていない柱のこと)を抜こうとしています。もちろん補強を入れますが、その安全性を計算によって示して下さい、と設計施工一括請け負いの建設会社に頼みました。地場では結構手広くやっていて、それなりに有名な会社(らしい)です。

 われわれはEngineer(技術者)ですから、Demand(作用する応力)とCapacity(その部材等が持つ耐力)とを比較することによって安全性を合理的に判断します。それが設計という知的行為ですから、木造住宅であろうとそうするのが当たり前だと思っただけです。

 ところが業界の慣習はそうではないらしい、ということが分かって驚嘆しました。え〜っ!本当かっていう感じです。木造二階建てくらいでいちいち応力を計算することはなく、今までの経験から判断している、ということでした。いやあ、迂生は心底驚きましたな。これじゃ(例えで出して申し訳ありませんが)トルコでコンクリートを練っていた街のおっちゃんとおんなじじゃないか、と。工学ですから経験は重要ですが、それを科学によって裏打ちするのが現代の知恵というものだと思います。

 この家はわたくしの父(一級建築士です)が基本設計をして、折に触れて工事のチェックもしていたらしいですから、天井を剥がしてみると大事な梁には二丁合わせの鉄骨C形チャンネルが使われており、その鉄骨梁と木造の梁との接合部には特注の鉄骨受け材を使用するなど、構造体はしっかりしていました。さらに(仕方がないので)当該箇所に生じる応力を(いくつかの仮定のもとではありますが)わたくし自身で概算して、柱を抜いても大丈夫だろうという感触は得ることができました。

 しかしながらこういう安全確認は本来、設計者がやるべき作業なんじゃないのかと釈然としません。建物の設計について法律で決められたことには皆、唯々諾々と従うが、法律に書かれていないことは誰もしない、ということをよく聞きます。今回、わたくしが遭遇した一例もまさにそういうことに思えます。でも、そんなことでよいのか、はなはだ疑問に思いましたので、ここに書いてみた次第でございます。


六月のおわり (2016年6月30日)

 梅雨らしく、どんよりして蒸し暑く感じる日々が続いています。きょうは六月のみそかですね。今年ももう半分が過ぎたのかという感慨を抱きます(まあ、毎年同じことを書いていますが…)。12月31日が大晦日(おおみそか)ですから、そのちょうど半分の6月30日は小晦日ってことでいかがでしょうか(くだらないですね〜)。

 参議院議員選挙戦の最中ですから、なりを潜めた感のある東京都知事選挙ですが皆さん様子見なのか、めぼしい候補者が上がってきませんね。もちろん、何人かの有力?とおぼしき方のお名前は上がってきますが、それ以上は進まないようです。

 でも都知事があんなことでお辞めになったのですから、今度こそは清廉でしっかり仕事をしてくれて、本学の状況にも注意を払ってくれる、そういう方に都知事になって欲しいと切に願います。まあ、同じことは猪瀬さんが辞めたときに既に書きました。あのときから大学の状況はあまり前進していない、というのが正直なところです。

 さて参議院議員選挙ですが、今回はM進党とK産党とが一人区で共闘を張っていることが話題になっています。でも、M進党は保守を標榜しているのに対して、K産党はバリバリの革新ですよね。フツーに見れば180度異なる政党が、J民党をぶっつぶすという一点だけで寄り集まるっていうのはどうなんでしょうか。

 もちろんJ民党の改憲・戦争推進路線には断固反対です。でも主義主張が異なる政党が寄り集まっても、それは結局は烏合の衆に過ぎないのではないでしょうか(この点は残念ながらJ民党の批判が当たっていると思います)。K産党が今回、公認候補の数を減らしたことは評価に値しますし、M進党に相当譲歩したと聞くと時代は変わったなとも思います。

 でもそうであればなおのこと、K産党にはもっと現実的な政策を標榜して欲しいと思いますね。実際に政権をとって一国を運営することができるぞ、という責任政党としてのあるべき姿を是非とも具現化していただきたいと、かように思うのです。そうすれば一皮むけて、一層の支持を集めるようになるんじゃないでしょうか(これって、K産党へのエールですかね?)。


ゆり戻し (2016年6月27日)

 英国のEUからの離脱というニュース、驚きましたね。イギリスのひと達の選択ですから、他人がとやかく言うべき事柄ではありません。しかし経済活動は既に全世界規模で連動していますから、その影響は多方面におよぶことでしょう。

 報道によればEU離脱派のひとびとは「イギリスを取り戻す」と言っているそうですが、これが本当だとすればいよいよグローバリズムの揺り戻しが来たか、というのがわたくしの感想です。

 彼らは英語という事実上の世界標準語の本家本元ですから、意思の疎通に関してはなにも困らない(ある意味、傲慢でのうてんきな)人々でしょう。世界のどこでも英語でしゃべって意思疎通できる、という恵まれたひと達です。でも、経済活動が一国の思惑だけで決められないとなると、それは自分たちの生活を直撃します。そのことに対する危機感が今回のEU離脱になった、ということらしいです。でもそれは、彼ら自身が欧州はひとつという理念のもとに自分たちで築き上げた制度だったはずです。

 すなわち世の中はおしなべてグローバリズムを唱え、その方向に進んできましたが、グローバリズムの抱える問題や矛盾もまた醸成されてきたのです。そのことに対する異議申し立てが今回の英国の決定である、ということでしょう。

 でも歴史的に見れば、行き過ぎた国際主義に対する揺り戻しは建築の世界では三十年以上前に既に起こっていました。ル・コルビュジエに代表されるモダニズム建築は二十世紀中葉には全世界を覆うことになります。世界中どこでも同じような白い四角い箱を建てるようになったわけです。でも、それに対して地域ごとの風土とか慣習、伝統などを考慮することの重要性が叫ばれるようになり、ヴァナキュラーな建築が復権しました(いわゆる「建築の多様性」です)。

 物事がある方向に進み過ぎると必ず揺り戻しが起こります。それは人類が潜在的に持つ、危機回避のための知恵だろうと思います。本当にこれでよいのかどうか、少し立ち止まって考えようや、ということでしょう。大きな流れのベクトルはある方向を向いているのでしょうが、そこに到達するまでに紆余曲折を経るのはある意味で至極健全なbehavior であると思うわけです。

 結局のところ、われわれは地球上の住人ですから全世界のことを考えるのは当然です。だからといって四六時中世界のことを考えることはできません。普段は身の回りのごく狭い範囲(地域や社会)のなかで生活しているのですから。普段は地域、ときどき世界、くらいがちょうどよいのではないでしょうか。そうしないと息が詰まって窒息しちゃいますから。



延長しない (2016年6月23日)

 学部一年生の『基礎ゼミナール』ですが、授業の延長ができるように教室を変更してもらいました。でも、いままでの授業評価から授業延長の評判はきわめて悪かったので、延長はなるべくやらないように方針を変更しました。

 昨日は個別発表が残っていた1チーム(四名)のプレゼンテーションを行ってもらったあと(これも延長をやめたせいで次週送りとなった課題でした)、当初の予定とおりに全22名の最終課題の内容をマッピングするグループ作業をやってもらいました。これは各自2枚のスライドを発表する、という予定でいましたが、時間が足りそうもなかったので(延長しない、という強い意志?のあらわれですゾ)それはやめにし、口頭で課題名やキーワードを発表してもらうにとどめました。

 それでも結果としては時間内に納まり切らず、五分間延長してしまいました。まあ、これくらいならお許しいただけるかなと…(A倍首相は一分の超過にも色をなして怒ったということですけど)。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:基礎ゼミナール2016:20160622:P1010543.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:基礎ゼミナール2016:20160622:P1010548.JPG

 このマッピングの作業はなかなか楽しいです(学生諸君はどうか分かりませんが)。マッピングの縦軸と横軸との設定を各グループで考えてもらいますが、これがそのあとの考察のよしあしを握っています。それが上手でないとマップの端っこばかりとか中心ばかりにプロットが集中して、その後の傾向分析がつまらなくなります。

 ということで右側の写真は5チームのマッピングの成果を貼り出して、それぞれ説明してもらっているところです。まあちょっとこじつけのような解釈もあって思わず笑っちゃったりしました。でも、そういう臨機応変な対応も現場では必要でしょうから、よい経験になったのではないかと思いますよ。

 このように楽しいマッピング作業ですが、このための小道具の準備は結構、面倒です。白板に貼るためのマグネットとか、付箋紙とかペンとか紙とか…のことです。そんなことまで自分でやらないといけないのですから正直なところ相当に気疲れします。昨年TAをお願いした星野和也くんだったらそこまで気が回ったでしょうが、今年のTAは初めてのひとですからまあ無理でしょうね。


夏至のころ (2016年6月22日)

 きのうは夏至だったんですね。随分と日が長くなって、午後七時を過ぎてもまだ明るいのでちょっと驚きます。朝一限の講義があるときは午前五時半くらいに起床しますが、もう結構な明るさになっていて助かります。これが冬だと真っ暗だし寒いしで、気が滅入ることこの上ありませんから…。

 毎年この時期になると書いていますが、この頃になるとどうして毎年調子が悪くなるのか不思議です。梅雨の時期で不順な天候というのが大きな要因であることは間違いないと思いますが、それでもお腹の具合が悪くなったり、頭が痛くなったりする物理的な原因はなんなのでしょうか。

 さて、今年度から前期の授業数が四コマに倍増して、それが火曜日と水曜日とに二コマずつになりました。二コマというとなんだそれだけかって思うでしょう? わたくしも実は始めはそう思っていました、そんなのチョロいもんだぜ、みたいに。

 でも二コマっていえば180分です。その時間は基本的には立ちっぱなしで、声を張り上げてしゃべっています。途中にインターバルがあるとはいえ、これがけっこうな疲労を産み出すということにやっているうちに気がつきました。そして今ではそれがボディ・ブローのように効いてきて、水曜日が終わるともうヘトヘトというのがここ数週間のわたくしの様態でございます(情けなや〜)。

 正直言って、この時間割は失敗でした。来年度は『基礎ゼミナール』の担当ははずれる予定です(って、どうなるか分かりません、実は来年度以降五年間の基礎ゼミ担当者を明日の教室会議で決めることになっていますが、果たしてやってくれる先生がいるかどうか…)から、週に三コマになります。それだったらなんとか凌げそうな気がします。

 ただ、大学院の講義はことしは授業中に例題をやってもらうのをバッサリとカットしたため、授業が想定以上にサクサク進んでいます(それが学生諸君にとって本当によいことかどうかは今でも疑問ですが…)。そのため、あと数回授業すればカリキュラム修了となりそうです。ですから、この“難行苦行”もあと数週間かなと思って自分自身を奮い立たせている、この頃でございます。


紅い月 (2016年6月20日)

 どんよりと曇っていた天気が夕方にはうっすらと晴れて来て、東の空から登ってくるお月さまが見えました。ほぼ満月でしたが、地平線に近かったせいでしょうか、紅い月でした。そのときiPodで聴いていたのが佐野元春のアルバム『Blood Moon』だったんです、なんという偶然でしょうか(どうでもいいか…)。

 さて、電車内読書で『日本建築入門 —近代と伝統』(五十嵐太郎著、ちくま新書、2016年4月)をちょうど読了しました。著者の五十嵐太郎さん(東北大学教授)とは面識はありませんが気鋭の建築史家という評判ですので、その著作を一度読んでみたいとおもっていました。

 この本は一般向けに書かれたのでしょうが、結論からいうと期待倒れでした。オリンピック、万博、メタボリズム、原爆など十個のキーワードを抽出して、それぞれの歴史的経緯を説明しながら論評を加えるという形式です。選ばれたキーワード自体にはなるほどと思わせるようなものもありました。しかし全体として様々な言説や建物の羅列の感が強く、著者自身の見解や意見あるいはモノの見方がほとんど記述されていないことに失望しましたね。

 なによりも文体に格調がありません。平易に書きたかったのかも知れませんが、格調高く、なおかつ分かり易く記述するのが文筆家の腕ってもんじゃないでしょうか。「ベタ」なんて流行語みたいな(?)ことばを連発するとお品がはなはだよろしくありませんな。

 こんな感じだったのですが、唯一「あとがき」に著者の非凡な視点を感じました。それは明治時代初期に大工の棟梁が見よう真似で建てた建物は「擬洋風」と呼ばれ、正規の大学教育を受けた最初の建築家たち(辰野金吾ら)が設計した建物は「近代建築」と呼ばれることに対して疑義を提示したところです。両者とも広い意味で「擬洋風」といってよいだろうと。なるほど…、わたくしはそんなことは考えたことがありませんでした。

 こういうキラリと光るところが本文にも散りばめられているとよかったと思うのはわたくしだけでしょうかね。本書をわたくしが主宰する学部授業の『基礎ゼミナール』で取り上げる書籍に加えようと思って読んだのですが、残念ながら没になりました。もっとも藤森照信さんの『日本の近代建築』(岩波新書、1993年)なんかと較べたらかわいそうかも知れません。


ちいさな民意 (2016年6月19日)

 わたくしの住む小さな市の市長選挙が行われて、保守系の現職が再選されました。保守(自民・民進)/革新(共産)の一騎打ちになりまして、どちらに投票しようか相当に悩みましたが、やっぱり現実を直視して(無い袖は振れませんから)堅実路線の現職に投票しました。いいことばかり言っていても、それを実行するための先立つモノがなければ絵に描いた餅に終わってしまいます。それはやっぱり避けるべきと考えました。ちなみに投票率は47%だったそうです。

 しかしこの前に書いたように、結果としては自民党を喜ばせる(相乗りした民進党も、ですが…)ことになったわけで、そのことには忸怩たる思いがあります。ですから前回の市長選挙と同様に、自分が投票した方が当選しても嬉しくないという状況は残念ながら持続してしまいました。

 しかし革新系の方って、どうして財源の手当もなく夢ばっかり語るのでしょうか。税金は払いたくないけど福祉は手厚くしてね、なんてどうやったら実現できるのか考えないのでしょうか。たとえ一時は凌ぐことができてもそのツケは未来の世代に回されるだけですから、結局は国民のためになっていない、ということに気がつかないのが不思議ですね〜。

 まあいずれにせよ、(福祉政策等に不満を持つ方はおいででしょうが)堅実に市政を進めて欲しいというのが今回の市長選挙の結果だろうと思います。わたくしも年齢を重ねて現状をそんなに大きく変更したくないという、それこそ“保守本流”(ここでいう保守とは自民党とは全く異なる、語の本来の意味で使っています/誤解のないように)にだんだんと乗りはじめたのかも知れません。こう書くと自分でもちょっとビックリですけど。


ゴタゴタする (2016年6月16日)

 ついにM添都知事が辞職すると自ら発しました。猪瀬さんに続いて、この方も任期を全うすることなく都庁を去るのかと思うと、情けなさもひとしおでございます。都議会では連日、この問題にかかりっきりでしたから、都政の停滞は非常なものがあると推察します。

 わが大学も東京都が設置する公立大学ですから、都議会の動向は重要です。また大学の幹部職員の多くは(よくは知りませんが)都庁から派遣されて数年の任期で出向していますので、そういう方はやっぱり都庁の方を向いているんだろうと思います。

 そういうわけですから都庁内でゴタゴタが続くと、それに一喜一憂する方もおいでになるでしょうし、本学の将来にとって見過ごせないこともあるはずです。そのような“顔色”を伺わないといけないというのも何だかなあ〜って思いますね。もっとも国立大学なら文科省に頭が上がらないのと同じと言えばその通りですけど。

 しかし急に都知事が辞めることになって(もちろん、このことあるを予期してしっかり活動していた方もいるのでしょうが…)、次の都知事はいったい誰が務めるのでしょうか。わが大学のチェアマン、じゃなかった理事長ももしかしたら候補者のひとりなのかも知れませんね。しかし自民党の政治家のどなたかが言っていましたが、人気取りだけで都知事を選ぶようなことでよろしいのでしょうか。そんなことでいい訳はありませんよね。

 でも、劇場型政治とか言われていますが、印象とかフィーリングだけで政治家を選ぶような国民にそもそもの問題があることは明らかです。分かり易い、と言えば聞こえはよいですが、自分でしっかり考えて判断するような有権者が減っているということです。そして、政治家も人々が判断を下すのに必要な具体の政策とかビジョンを提示しない、あるいはできない、ということに問題の根の深さがあると思いますね。

 はなしは変わりますが、わたくしの住むK市ではこの週末に市長選挙があります。保守系(ここでいう保守とは自民党寄りという意味です)の現職と革新系(ここでいう革新とは共産党寄りという意味です)の新人との一騎打ちになりました。このK市では二十年程前にバカラ賭博問題で市長が辞職してから、共産党員の市長が四期勤め、このひとが引退した前回の選挙で保守系の元都職員の方が市長になっています。

 まあわたくしの心情からいえば“革新”なんですが、この新人候補の方は手厚い福祉を標榜するわりには、その財源については口を閉ざしているんですね〜。財源もないのにそんなことをしたら市の財政が逼迫するのは明らかです。そうすると、今までそれなりに財政を立て直してきた現職かなあとか思うのですが、心情として“自民党寄り”はイヤなんですね。これじゃ誰にも投票できないぞ!っていうことになりそうです。週末まで考えないといけませんな、こりゃ。


岡谷というところ (2016年6月13日)

 先週末、大学院授業の「プロジェクト特別演習」の一環として、履修する大学院生諸君とともに岡谷市の旧市庁舎を訪問しました。大学院のプロジェクト研究コースNo.14の代表は山田幸正教授(東洋建築史)です。これに角田誠教授(建築生産)、青木茂特任教授(建築再生、建築家)、松本真澄助教(住居学)とわたくしとが加わります。自分でいうのもなんですが、建築プロジェクトに臨むチームとしてはかなり強力な布陣です。

 中央線の岡谷駅で特急あずさを下車して、旧市庁舎まで徒歩15分くらいです。でも駅を出て、なにもないことを知って(まあ、予想されたことではありますが)愕然としましたね。土曜日の昼どきなのに駅のそばにひと気が全くないんですから。お土産屋なども捜しましたが見つかりませんでした。

 せっかく信州に来たのだから蕎麦でも食べようと思いましたが、蕎麦屋すらありません。岡谷は諏訪湖のほとりなのでうなぎが名産ということで、駅前の「ララおかや」というショッピングセンタ(?)にあった鰻屋でお昼を食べました。まあ美味しかったですが、東京のうなぎのように蒸していないので、脂がものすごくて途中からもういいやっていう気分になりましたね。

 さて、そこから旧市庁舎までほぼ真っすぐに伸びる中央通りという目抜き通り(のはずですが…)を歩きました。が、そこにも人っ子一人いませんし、両側のお店の多くはシャッターを下ろし、あまつさえスプロール化の象徴であるかのように空き地が点在しています。ここは街の中心のはずですが、その衰退ぶりに目をみはりました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:岡谷市旧市庁舎_™Uプロ研ゼミ20160611:DSC01519.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:岡谷市旧市庁舎_™Uプロ研ゼミ20160611:DSC01520.JPG

 日本中を飛び回っている青木茂先生の言によれば、こんなのは地方ではフツーの風景だということでした。しかしじゃあ、地元の人は一体どこにいるのでしょうか。実はこの中央通りから少し入ったところに岡谷唯一のシネマ・コンプレックスがあって、この見学会のあとに角田さんと一緒に立ち寄ってみたのですが、そこには大人もこどもも結構のひとが集まっていました。ですから、いるところには人はいるんだという、当たり前のことを認識したのです。

 そんな日本の地方の風景を堪能?しながら、目的の旧市庁舎に着きました。これは昭和11(1936)年2月に竣工した鉄筋コンクリート2階建ての国登録有形文化財で、市役所が新築されたあともちょっと前まで消防署として使われていました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:岡谷市旧市庁舎_™Uプロ研ゼミ20160611:DSC01523.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:岡谷市旧市庁舎_™Uプロ研ゼミ20160611:DSC01525.JPG

 ファサードは完全な左右対称で、屋根には瓦が葺かれています。この屋根を支えるのは鉄骨造のトラス(耐震診断した方の説明ではL-65x65二丁合わせ)です。表面にはスクラッチ・タイルが貼られていますが、これは昭和初期にはやったもので本郷・東大の校舎や両国にある東京都復興記念館(関東大震災後、両国・被服廠跡に伊東忠太・佐野利器設計で建てられたRC二階建て建物、1931年4月竣工)でも使われています。東京都復興記念館の写真を以下に載せますが、見た感じなんだかとても似ているように思いました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ関東支部東京を歩く会2009:CIMG0378.JPG
写真(2009年撮影) 東京都復興記念館(1931年4月竣工)

 なかに入ると一階は事務スペースですが、階高が5.4 mとかなり高く、調度類がなにも置かれていないこともあって広々と感じます。なによりも造りが丁寧なことに気がつきました。鉄筋コンクリート部材の表面には漆喰による繰り型が施されており、当時の市役所に対する市民の皆さんの思いを感じることができます。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:岡谷市旧市庁舎_™Uプロ研ゼミ20160611:DSC01548.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:岡谷市旧市庁舎_™Uプロ研ゼミ20160611:DSC01538.JPG

 一階は写真のように柱と大梁とによるフレーム構造ですが、それらがしっかり組まれているので耐震性能はそんなに悪くないと思われます(耐震診断の結果、Is値は0.55程度ということでした)。ただコンクリート強度はあまりよくなくて、コア抜きの結果は14〜17 MPaということでした。

 二階は議場などの議員さん達のためのスペースですが、使われているうちに天井が貼られたらしく、鉄骨トラスの小屋組は見えません。張り間方向は13.5 mのかなり大きな1スパンです。当時の鉄骨屋根では剛床は多分期待できませんから、二階の耐震診断はゾーニングで解く必要があります。

 それを考えると、この建物は一階よりもむしろ二階が危ないのではないかとわたくしは感じました。すなわち二階が倒壊することはないでしょうが、片持ちのRC柱が面外に大きく変形してガラスが割れたり、鉄骨の小屋組トラスが場合によっては落下したりする危険性があるように思いました。実際にこの建物を保存・活用する際には、十分な検討と調査とが必要でしょう。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:岡谷市旧市庁舎_™Uプロ研ゼミ20160611:DSC01568.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:岡谷市旧市庁舎_™Uプロ研ゼミ20160611:DSC01570.JPG
説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:岡谷市旧市庁舎_™Uプロ研ゼミ20160611:DSC01576.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:岡谷市旧市庁舎_™Uプロ研ゼミ20160611:DSC01577.JPG

 ところでこの旧市庁舎の隣には新しいホールが建ち、またすぐそばに新しい市庁舎が建っています(右上の写真)。すごく立派ですよね。岡谷市の人口は今は五万人ちょっとらしいですが、それにしては立派だと思いませんか。少なくともわたくしが暮らす東京・K市の人口は八万人ですが、もっとずっとみみっちい市庁舎を使っています(単なるひがみ根性か、あははっ)。もっとも岡谷市は工業都市を謳っていますから、わたくしのところのベッド・タウンとは異なって税収が豊富なのかも知れません、調べていないので分かりませんけど。

 さて大学院授業の課題はこの建物を保存・再生するためのプログラムを考えて提案しなさい、というものです。冒頭に書いたようにひと気のないところにどうやって人々を集めるのか考えないといけませんし、建築的な操作によってプログラムを解くことも求められます。建物の規模がかなり大きいこともあって、正直なところ学生諸君にとっては少々荷が重いのではないかと思います。でも、若くて柔軟な頭脳でキラリと光るところのある解決案を示してくれるかも知れません。

 最後の講評会は七月上旬にこの建物の二階で、岡谷市の市井の皆さんにも公開して行うことになっています。実務ではないので多少実現可能性に疑問符がついても構わないと思います。地元のひと達になるほどねとか、東京の若者もやるじゃないかと思わせるような提案を期待しています。ただ角田さんがポロッと言っていましたが、エスキスを一回くらいはやったほうがよいかも知れませんね…。


大学院入試説明会2016 (2016年6月10日 その2)

 きょうの午後、本学・建築学域主催の大学院入試説明会が開かれていて、わたくしは建築学域長なので挨拶と学域の概要説明とをして来ました。学内外から約60名のかたが集まって下さいました。ありがたいことです。

 わが大学院・博士前期課程のウリはプロジェクト研究コースを設置していることで、そのことを強調して説明しておきました。個別の研究室に所属するスタイルは基盤研究コースと呼んでいて、それはフツーのタイプですので特段の説明はしませんでした。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU大学院入試説明会20160610:P1010538.JPG

 うえの写真は来年度のプロジェクト研究コースを担当する多幾山法子准教授(木質構造)がその説明をしているところです。右端には大学院入試担当委員の小林克弘教授(建築デザイン、建築家)が写っています。皆さん、ご苦労さまでございます(と、学域の責任者なので言っておきます)。


あんず (2016年6月10日)

 ここのところコースや学部のお仕事が山積して、もう辟易としています。ひとつの案件を処理しても、すぐにまた新たな懸案がメールで送られてきたり、口頭で伝達されたりするのです。これじゃ賽の河原の石積みと同じじゃないかって思います。

 のんびり、のほほんと研究室ライフをエンジョイしたい、というのではもちろんありません。少し落ち着いて研究したり、学生諸君の話しを聞いたりしたいというだけなのですが、それが全くできません。若い頃はお金はありませんでしたが、時間だけはあってガンガン研究できた頃が今思えば至福の時間だった、ということでしょうな。

 きのうは旧都立大学工学部の退職教授OB懇親会の幹事の引き継ぎがありました。旧工学部の学科(現在では南大沢と日野とに分割されている)に対応する各コースのコース長が持ち回りで担当するらしく、今年は運悪く旧建築学科に幹事が回ってきました。すなわち、わたくしです。余計な仕事ですよ、まったくもう…。秘書さんでもいれば頼めることもあるのですが、そんな便利なものはいませんから、案内の往復はがきを自分で書いたりしないといけないんでしょうな、やっぱり。現役バリバリで多忙なコース長がなんでこんな(どうでもいい、といっては申し訳ありませんが)雑用までやらないといけないのか、理解不能です。

 さて、このまえ校内で拾った淡いオレンジ色の実ですが、その後いろいろ調べてみました。その結果、実の色や大きさ、実の表面に柔毛があること、食べると非常にすっぱいこと、葉っぱが丸みを帯びていること、などからこれはあんずであると結論付けられました。校内ですから誰かが植えたのでしょうが、肥料をやっているわけでもありませんから、ほぼ野生の状態と言ってよいでしょう。

 ということでまたまた興味が湧いてきて、落ちていた(きれいそうな)実を拾ってきました。基礎ゼミのTAの岩田歩くんに食べてみるか?って聞いたりしましたが、やっぱりフツーのひとは興味はないみたいです(当然か)。うちに持って帰って、家族で食べようかなとか思っているところです(嫌がられるかも?)。


けむる駅 (2016年6月7日)

 早朝にいえを出るときには薄曇りでしたが、南大沢駅に近づくに連れて雨にけむり始めました。まさに『雨のステーション』(ユーミンの曲です)の風情ですな。あるいは霧雨、あるいはこぬか雨(君は来ぬかの小糠雨)といった感じで、それぞれにまつわる曲も思い出しました(ハイファイセットとか伊藤銀次とか)。

 さて、昨日学校内で拾ったスモモのような実ですが、今朝も道ばたに落ちていましたので写真を撮って来ました(さすがにもう食べませんけど、あははっ)。熟した順に自分の重さに耐えられずに落ちてくるんでしょうね。こう書くと、なんだか葉っぱのフレディを思い出しますな。もっともこれからは夏に向かう季節なので、物悲しさは全く感じませんけどね。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:情報処理棟わきのスモモのような実2016:P1010532.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:情報処理棟わきのスモモのような実2016:P1010534.JPG


ひろって食べる (2016年6月6日)

 関東地方も梅雨入りしましたね。今年もそういうシーズンになったということで感慨もひとしおです。きょうは朝からコース長・学域長のお仕事に没頭して半日以上が経過しました。これを“雑用”と言ったら身もふたもありませんが、研究活動に較べたらやっぱり雑用そのもののような気がします。何やっているんだろうね…というぼやきに至るのは、どうしようもないことかと思います。

 ところで皆さんは落ちているものを拾って食べたことはありますか。落っことしたおにぎりを(三秒ルールとか言いながら)食べる、ということではありません。実はきょう、学内の情報処理棟のわきに淡いオレンジ色の実が落ちているのに気がつきました。梅よりは大きくて、プラムよりはちょっと小さいというサイズです。春には桜か桃のような花が咲くことは知っていましたが、今まで不注意にも実が生るということには気がつきませんでした。

 で、その実を拾って匂いをかいでみるとなんとなく甘酸っぱそうな、よい香りがします。もしかしたらこれはアンズやスモモの一種ではないか、と思って拾って研究室に持ってゆきました。ただ、ひとりで食べる勇気はありませんでした。

 そこに学部長補佐の角田誠先生が通りかかったんですね〜。もう、飛んで火にいる夏の虫、とはこのことでしょう(って、角田先生ごめんなさい)。どうだ、美味しそうだろう、そうだね美味そうだね、じゃあ食ってみてちょ〜だい!、ええっ、なんで俺があ〜、ということで角田先生に一切れ食べていただきました。

 でもそれじゃあ、あんまり可哀想なので(これじゃ悪人だよね)、わたくしもお相伴にあづかりました。食べてみると、もうこの世のものとは思えないほど酸っぱくて二人で悶絶しました。でもちょっと熟したところはほんのり甘くて、まあ毒じゃないな、ということになったのでした。角田さんがいうには果実酒にしたらいいんじゃないの、ということでした。そうかも知れませんね。でもまあ、もう食べないと思いますけど、あははっ(今のところ、お腹が痛くなったりしていないので大丈夫だと思います)。


講習会おわる (2016年6月3日)

 この四月初めから始まった、建築学会の「鉄筋コンクリート構造保有水平耐力計算規準」講習会ですが、6月3日に開かれた東京・砂防会館別館での追加講習会をもって終了しました。この日は400名以上の方が聞きに来て下さいました。これだけ大勢の方に聴いていただけると、やっているこちらとしてもやりがいがありますね。

 講習会は東京で合計三回、仙台、名古屋、大阪および福岡で一回づつ開きましたが、トータルの聴講者は1600名余ということでした。砂防会館でのこの日の講習会では全体の1/4が集まったということになります。50人だろうが400人だろうがしゃべる方としては何ら変わりありません。でも主催者側の効率ということを考えると、一度に多数の方に聴いていただいたほうがよいのは明らかです。

 この規準(案)に対する構造設計者の関心は極めて高く、それがこれだけ大勢の方が聞きに来て下さった主要因でしょうね。でも学会で取りまとめたこの規準(案)はあくまでも民間規定です。これをお上がエンドースするかどうかは今後、国交省が決めるのでしょうが…。

 ですから、この規準(案)に書かれていることが絶対的なモノだとは考えないでいただきたい。ここに書かれていることが妥当かどうかを判断するのはこれをお使いになる設計者の皆さんですし、この規準(案)が今後よりよいものになるかどうかも設計者の皆さんにかかっています。このことはこの日のわたくしの講演の最後に強調しておきました。

 それから講習会を続けるあいだに、初版にはいくつかの間違いや誤記があることが分かっています。まあ、よくあることでしょうが、既に第二版を刷り始めたということですから、そちらには正しいものが載ると思います。正誤表もそのうち公開される予定です。



延長できない (2016年6月1日)

 六月に入りました。そろそろ入梅でしょうか。でも、きょうは曇り空ながらもサラッとした気候で過ごし易かったですね。いつの間にか街角にはアジサイの花も咲き出しました。我が家ではヤマボウシの白い花(植物学的には“花”ではなくて“ガク”らしいですけど)が盛りを過ぎたあたりです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:基礎ゼミナール2016:20160601:P1010525.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:基礎ゼミナール2016:20160601:P1010527.JPG

 さて一年生対象の『基礎ゼミナール』ですが、今日からいよいよ学生さん達のプレゼンテーションおよび討論が始まりました。この日はグループによる調査結果と考察の発表です。5グループあり、各グループ12分の持ち時間(質疑応答を含みます)としましたが、コンピュータの入れ替えに時間がかかり、また討論もスムーズには行かず、4グループの発表が終わったところで85分が経過して、授業終了刻限の5分前になりました。

 こういうときには昨年までは(学生諸君には悪いですけど)授業時間を延長して、とにかく設定したカリキュラムが終了するまで授業をやっていました。ところが今年は教室が変わったせいでしょうか、わたくしの基礎ゼミのあとの5限に別の授業が入っていて、延長授業ができなくなったのです。

 というわけで、残りの1グループのプレゼンは来週に回さざるを得なくなりました。でも、これはものすごく困ります。来週からは個別のプレゼン&討論を予定していて、今度はその時間がとれなくなるからです。これでは全員が均等に発表することができなくなってしまいます。

 これには困りました。綱渡りのような繊細なカリキュラム(って、自分で作ったんですけど、あははっ)がそんな些細な理由で破綻してしまうのは、どうにも釈然としません(授業延長を当たり前としているわたくしが悪いのかも?<—自覚なし)。

 そこでハタと気がつきました、教室を替えればよろしいのではないかと。でも、この時間は多数の基礎ゼミナールが同時に開講されていて、余剰教室がそんなにあるとも思えません。しか〜し、そんなことに構ってはいられません、自分よければ全てよし、です。そこで大学本部の教務担当者に「代替教室を是が非でも捜してください」っていうお願いメールを出しておきました。今はただ、無事に適切な教室が見つかることを祈るばかりです。

 でも、現在の6号館でも遠いのに、もっと遠くの教室になったらそれはそれでイヤなんですね(我が儘か?)。わたくしの研究室から6号館に行くには7、8分はかかります。東大の本郷キャンパスで言えば、工学部11号館から龍岡門まで構内を歩く感じでしょうか(ね、遠いでしょう?)。おまけに3限と4限とのあいだの休み時間には多数の学生諸君が移動するので、その雑踏の中をひとをかき分けるようにして歩かないといけないのです。

 もっとも学生諸君にとってもキャンパス内の移動は大変で、わたくし以上に苦労しているみたいです(授業開始時にゼーゼーいっているひと[遠くの教室から走って来たひと]が結構います)。ということで、あまり贅沢はいえませんね。

追伸(2016年6月6日); 事務方にお願いした教室変更ですが、迅速にご対応いただき、同じ6号館の3階に教室を変更していただきました。いやあ、助かりました。本部の教務課の皆さんに御礼申し上げます。


東京横断 (2016年5月31日)

 昨日は久しぶりに東京を西から東へと横断しました。朝、研究室で二週間に一回の会議がありました。何度も書いていますが、研究室のActivityの低下はいかんともし難く、この日も資料を出したのは新M1の鄒珊珊さんだけで、低調な議論でした。残念ですが、こればかりはわたくしがドライビングできる範囲は限られますのでどうしようもありませんな。

 さて、研究室会議が(残念ですが)あっさり終わり、久しぶりに東京都・瑞穂町に出かけました。この二年くらい瑞穂町の新庁舎建設のお手伝いをしていますが、今回もそれです。で、町の職員の方に聞いたのですが、今回の熊本地震の応援として瑞穂町からも職員を派遣したそうです。東京都の町村会というのがあるそうで、そこに依頼があったとのことでした。

 応援に行った方のお話しでは、一週間くらいの期間だったそうですが、そのあいだは大勢の応援職員が何とかセンターで寝泊まりしたそうです。寝袋に雑魚寝と言っていました。いやあ、自治体の皆さんがいかに献身的に努力されているかがよく分かりました。ホント地震災害は大変です。

 この瑞穂町の会議を途中で抜け出して、今度は東大地震研究所に行きました。拝島から四ッ谷まで中央線で約一時間かかります。地震研で開催される災害科学系研究部門研究会に芳村学・本学名誉教授が講演されるので、聴講に伺ったのです。そのあと、畳の部屋(そもそもそのような畳の部屋があることに驚きましたが…)で懇親会があって午後九時過ぎにお開きになりました。

 そのあと楠浩一さんから、学会で作成中の等価線形化法指針(案)について報告があって、いろいろと懸案事項を聞かされてブルーな気分になりました。楠さんは「北山先生に話したのでスッキリした〜。あとはお願いしますね」とか言って喜んでいましたけど、その分こちらが沈んじゃったというバランス?でしょうか。

 さてじゃあ帰るかということで都営新宿線に乗ったら、ちょうどその頃に発生した京王線内の人身事故のせいで電車のダイヤが乱れ始めたところでした。あちゃ〜っていう感じです。ひと足さきにお帰りになった芳村先生はちゃんとお家にたどり着けたかどうか心配です。こんな多忙な一日でした。


五月のおわり (2016年5月28日)

 そろそろ五月も終わりに近づき、梅雨のはしりのような気候になってきましたね。きょうは大学のお仕事があって登校しています。自分だけじゃなくて、きょうは明治大学の小山明男教授にも来校いただき、重要なお手伝いをいただきました。お忙しいなかご協力を賜りまして、どうもありがとうございます。

 このページで折に触れ書いておりますが、我が社の歴代助手の皆さんにはいつもホント助けていただいています。皆さんそれぞれの場所で教授職を務めておいでです。このように優秀で立派なひとたちを知己に持つことができて、わたくしは果報者だと思っています。これからもまた面倒を見ていただくことがあるでしょうが、可能な範囲で是非よろしくお願いします。

 さてトップページに記したように、久しぶりに研究室ヒストリーを追加しました。2006年度のヒストリーは二年ほど前から停滞していて、そのことは気になっていたのですが、どうしても書き進めなくて、それならいっそ2007年度に飛んでしまえ、ということにしました。

 2006年度には実験シリーズがいくつかあったのですが、そのひとつで油圧ジャッキのシリンダー・ヘッドがせん断力によって破断するという、(いま思い出しても)恐ろしい事故がありました。このことを書こうとするのですがどうしても筆が進まない、というか書きたくなくなってしまうのですよ。

 このとき、けが人がなかったことは不幸中の幸いでしたが、この貴重な教訓を残すことは必要だろうと思っています。そうは思うのですが、やっぱり筆は止まってしまいます。こんな状況で二年が経過しました。

 いつまでウダウダしていても仕方ないので、2007年度を書いてみるかなという気分になりました。ちなみにこの「メモランダム」のコーナーを立ち上げたのは2007年度末ですから、北山研ヒストリーをこういう形でまとめるのは2007年度を最後にしようと思っています。2008年以降はこのページのバックナンバーを見てね、ということです。と〜っても長くて見たくないでしょうけどね、あははっ。


運動会と三勝め (2016年5月21日/23日)

 汗ばむような陽射しでしたが、風が吹くと爽やかさを運んでくれるような週末でした。我が家では子供の運動会があって、朝早くから校庭の場所取りに並んだりして充実した(?)一日を過ごしました。

 この小学校では、お昼のお弁当は子供と父兄とが校庭で一緒にとるという規則になっています。そのため、陸上トラックの外周の限られたスペースにそれぞれのご家庭が敷物を置いて、そこに携帯椅子なども並べてお弁当を広げることになります。でも、この季節ですから太陽に照らされると干上がってつらいですから、木々の下が特等スペースになります。そこを目指して父兄が血道をあげるって寸法です。

 我が家では、そういう“特等席”をゲットできたことは今まで一度もありませんでした。今年こそ、と思って開門前から並んでみましたが、やっぱりダメでした。もうガックリです。仕方ないから太陽の真下に敷物を広げて、持参した携帯椅子に坐って新聞を読みながら運動会が始まるのを待ちました。

 おっと、書きたかったのはこれではありません。東京六大学野球で東大が今シーズン三勝めをあげました。対法政大学一回戦で、エースの宮台くんが完投して4−1で勝ちました。いやあ素晴らしい、感動した!

 勝ち点は難しいでしょうが(って、はなから諦めモードですけど…)、三校から一勝ずつあげるのだって今までの東大を思えば大変な快挙です。また打線もかなりよさそうで、三割打者が三人もいるのがモノを言っているようです。かように投打がうまくかみ合って三勝できたのでしょうね。野球部の皆さんの活躍にこころから喝采を送ります。

追伸; 二回戦は残念ながら(というか予想通り)4-10で敗れました。大敗ですが、4点取ったのが救いでしょうか。

追伸2; 月曜日の三回戦も4-11で負けました。途中までは4-6で、もうちょっと頑張ればっていう感じでしたが、その後踏ん張れずに5点も取られてしまったのは余計でしたね。これで春のシーズンは終了ですが、とにかく久しぶりに三勝したので秋のシーズンに期待をつないだと思います。選手の皆さん、お疲れさまでした。


熊本地震の被害調査 (2016年5月20日)

 熊本地震が発生してから一ヶ月以上が過ぎましたが、復旧にはほど遠く、避難されている方も多勢おいでのことだと思います。熊本・大分の皆さまにはあらためてお見舞い申し上げます。

 さて、文科省から建築学会に委託された文教施設の被害調査および被災度判定ですが、壁谷澤寿海先生をヘッドとした幹事の方々の猛烈なご尽力のお陰で、いよいよこの週末から始まることになりました。わたくしも委員の一員に加えていただきましたが、今回は若手の研究者に鉄筋コンクリート建物の被害調査のノウハウを伝授するというのが大きな目的のひとつになっておりまして、わたくし自身は(もうロートルなので)お目付役みたいな位置づけらしいです。

 ただ、いつも書いているようにわたくしはコース長で学内のお仕事が山積している上に授業数も多いので、平日に調査できる日はほとんどありません。土曜日も大学の仕事があったりしますので、結局、今回は熊本へは行きません(というか、行けない)。

 そこで我が社の特任助教の晋沂雄さんとM2の苗思雨くんの二人に調査に参加してもらうことにしました。ヘッドは壁谷澤寿一准教授です。さらに壁谷澤御大も同道して下さることになっています。かように手厚い布陣なので、安心して彼らを送り出せます。

 でもわたくしの今までの経験から言って、地震の被害調査は短い期間に多くの案件を見ないといけませんからどうしてもオーバー・ワークになり勝ちです。2011年の東北地方太平洋沖地震の被害調査の際にも、夜、宿に戻ってチビチビ飲みながら晩ご飯を食べたあとに、その日の調査結果をパソコン上でまとめる作業を夜遅くまでやっていました。

 熊本での調査もこんな感じでしょうから大変だと思いますが、怪我や事故の無いように注意して作業に当たって下さい。そうして学術的に実りのある調査であることを祈っています。


ある肖像画 〜四百年ぶりの眼差し〜(2016年5月19日)

 またキリシタンものです。先日の新聞に、天正遣欧使節の正使だった伊東マンショの肖像画が2014年にイタリアで見つかった、という小さな記事がありました。ネット版にはその肖像画も載っていました。この伊東マンショは、若桑みどり先生の『クアトロ・ラガッツィ』によれば日向(ひゅうが、現在の宮崎県のあたり)の国主・伊東義祐の孫ということです。肖像を拝見すると確かに品の良さそうな顔をしています。ただ戦国時代の武士の子供といった猛々しさはなくて、優しそうな印象を持ちますね(キリスト者の肖像だから当たり前か?)。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:スクリーンショット 2016-05-18 21.31.54.png

 この肖像は目鼻立ちがクッキリとした、優男ふうに描かれています。現代の日本であればこんな感じの若者って街にウヨウヨいそうな感じです。でも前述の『クアトロ・ラガッツィ』のなかでは、フィレンツェの年代記作者セッティマーニの1585年の記述として「この四人の少年は髭がなく、…彼らは扁平な顔、扁平な鼻、小さな頭をもつ。」というふうに紹介されていました。この記述は西欧人からみた東洋人の典型的な印象ですな。いずれにせよ、この肖像画とはかなり異なっていたように思います。

 この絵とセッティマーニの記述とのどちらが正しいのか、今となっては分かりません。でもこの肖像画のほうが怪しい気がしますね。画家がヨーロッパでの受けを良くするように脚色したような感じを受けます。なんといっても当時のヨーロッパの一般大衆にとっては、日本は世界の果ての野蛮人が住む国であると思われていましたから。

 四百年振りに故国・日本のひとびとに向けられた、伊東マンショの優しげで憂いを含んだような眼差し、これはいったい何を物語っているのでしょうか。それが気になります。


福岡にて (2016年5月17日)

 先週の金曜日、建築学会の「鉄筋コンクリート構造保有水平耐力計算規準」の講習会が福岡であったので、その講師として出かけました。飛行機は億劫だったので往復ともに新幹線にしましたが、片道5時間はやっぱり少しつらかったですね。基本的には本を読むか、iPodでお気に入りの音楽を聴くか、あるいは寝るわけですけど(仕事はしません)、坐っているだけでも疲れるのはいかんともし難いですな。

 さてその講習会ですが、熊本地震があって九州の人たちには大変な方も多くおいでだと思いますが、そのような中で160名以上のかたが聴講に来て下さいました。ありがたいことでございます。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ_RC保有水平耐力計算規準_講習会2016_アクロス福岡:P1010486.JPG
写真 講習会の様子(講演しているのは加藤大介・新潟大学教授)

 わたくしの担当は梁、柱および柱梁接合部(17条から20条まで)の合計一時間半でした。このうち柱梁接合部は今までの設計法とは全く異なる新しい提案ですので、その考え方の根本を理解していただけるように工夫しました。特に「接合部降伏」という聞き慣れない物理現象がいったいどのようなものなのかを始めに丁寧に説明して、これだけで20分を費やしました。

 柱梁接合部(20条)の発表用スライドは塩原等兄貴が作って下さいましたので、それを使わせていただきながら適宜写真を追加したり、スライドの順番を替えたりしました(発表時間の関係で割愛したスライドもたくさんありましたけど…)。

 さてこの講習会が開かれた場所ですが、天神にある「アクロス福岡」という中層ビルの大会議室でした。「アクロス福岡」は薬院新川という河川の脇に建っていますが、下の写真のように屋上が全面に緑化されていることで有名です。昔、環境系(石野研だったかな?)の卒論などでこの建物を対象とした研究があったことを思い出しました。エントランスからなかに入るとすぐに大きなアトリウムがあって、太陽の光が結構溢れていてそれなりに気持ちがよかったです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ_RC保有水平耐力計算規準_講習会2016_アクロス福岡:P1010473.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ_RC保有水平耐力計算規準_講習会2016_アクロス福岡:P1010479.JPG
        写真 アクロス福岡(外観と内部のアトリウム)


どうする? アクティブ・ラーニング (2016年5月16日)

 ことしの大学院の授業(RC構造特論第二)なんですが、昨年の反省からことしは授業内の演習問題をさらに増やして(新たに問題を作ったりして)臨んでいます。パワーポイントを使った講義はサクサクと進んで行くので、教える側としては楽なんですが、教わる側としては何だか分からないうちに講義が先に進んで消化不良が蓄積してしまう、という欠点(だとわたくしは思うのです)があります。

 しかしながら、この認識に異議?を唱えるようなでき事が先日ありました。説明を40分くらいして話しが一段落したところで、演習問題を出題して学生諸君(といっても三人だけですが)にやってもらいました。ところがいつまでたっても解けません。簡単な計算をするだけなのですが、結局残りの50分かかって、それもわたくしがところどころ誘導してやっと解くことができたのです。正直なところ驚きましたし、ガックリきました(わたくしの言っていることが理解されていない、ということですから)。

 うーん、どうしましょうか。毎回こんな状況では授業が進まないし、そもそも講義内容を理解しようとする気力を感じないんですね〜。鉄筋コンクリートの付着やせん断というテーマは鉄筋コンクリート構造の根幹を為す重要な基礎なのですが、そのことを深く理解していなくても(表面上は)鉄筋コンクリート造建物の構造設計は可能です。学生諸君はそんなふうに考えているのでしょうか…、よく分かりませんけど。

 学生諸君に考えさせる授業をしようというのが今の世の風潮です。いわゆるアクティブ・ラーニングです。それは確かに必要なことでしょう。そこで、説明—>演習—>説明—>演習…というような授業形式に変えようとしたのですが、彼らにとっては望むところではなかったようです(本当のところは分かりませんが…)。学部の授業では有効な方法も大学院ではそうとは限らない,ということかも知れません。

 十年以上前のこの講義では授業内の演習は全くやっていませんでした。その形式に戻すか、それとも授業内に解いてもらうことをやめて一週間の宿題とするか、あるいは全く別の方法を考えるか、いまとても悩んでいるところです。ただ、教授する内容は減らしたほうがよさそうだなとは感じています。


訪ねる (2016年5月12日)

 今朝はさわやかないいお天気になりましたね。ここ数日の強風で我が家の鯉のぼりが完全に溺れていたので(ロープが緩み、台座がへんなところに移動していました),もう一度セットし直してあげてから登校しました。

 さて、米国の現職大統領が広島の平和祈念公園を訪問することになったそうです。とてもよいことだと思います。ただ、報道では全世界的な核兵器の廃絶に向けてはずみがつく、というような期待や評価があるようですが、わたくしはそんな風には思いません。核兵器を減らすことはできるでしょうが、(皆さんご承知の)無法な国家もあるし、そもそもPower Politicsの総本山たる米国がそれを諾えるわけがありません。

 わたくしがその訪問をよかったと思うのは、戦争と無関係の市民を多数殺戮したその非道さに思いを致して、犠牲者の無念を慰めて欲しいという、ひととしての情念からです。米国の現職大統領としては「謝罪」など口にできるはずはありません。でも心のなかではきっと泪を流してくれるはずだ、そう信じたいですね。ですから、そこを訪れてくれること自体が日本人として嬉しい、そう思うわけです。

 米国大統領には是非、平和記念資料館にも足を運んでもらって、原爆の悲惨さを体感して欲しいと思います。あれをみて心を動かされない人はいないと思いますから…。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:広島2012:CIMG2356.JPG
  写真 2012年7月撮影


掃除機を掃除する (2016年5月10日)

 空うららかな五月の休日、家内が掃除機が壊れたから買い替えてくれという。え〜っ、だって新調してからまだ二年も経ってないじゃないか、と思いながら話しを聞く。吸い取り力が弱くなってすぐにウィーンと音が小さくなってしまう、という。

 ああ、それはカートリッジに溜まったゴミを捨ててないからだなと思ったので、じゃあ掃除機の掃除をすれば大丈夫だよ、と言って実行した。ところがそれでも吸い取り力は全く回復しないし、弱々しい。その様子から判断して、どこかに何かが詰まっているように感じた。

 そこでホースを取り外し、ホースの中を端から端まで覗いてみたり、ホースと本体とのコネクタをコネクリ回したりしたが、なにも異常はない。おかしい、明らかにおかしい。ふと、ゴミが溜まるカートリッジを取りはずしたあとの本体を見ると、今まで気がつかなかったスイッチがついているではないか。なんだろう、これは。オープン・クローズと書いてある。触ってみたがどこも開かない…。

 仕方がないのでマニュアルを捜し出してきて調べた。するとそのスイッチはフィルターを取り出すためのものであることが判明した。そうだったのか!そうしてマニュアルに従ってお尻の部分を開けてみると…、なんと圧接されてゴワゴワになったほこりがフィルターにこびりついているのを発見したのである(汚い話しでご免なさい)。

 いやあ驚きましたな。それまでのほぼ二年のあいだ、一度も掃除していなかったせいでゴミが文字通り圧縮されて詰まっていたのである。そのため、その圧接ゴミを取り除くのがひと苦労であった。

 掃除機ネタは以前にも書いたが、掃除機に関してはとにかくいろいろなことが出来する。でも、それらはだいたいが掃除機の掃除に関するモノであることが分かる。結局、知らなかったとはいえ今回も掃除機の掃除を怠っていたための性能低下であった。

 でも世の中のひとって、そんなにしょっちゅう(かつ、丁寧に)掃除機の掃除をしているものなんでしょうか。カートリッジのゴミをポイするくらいはやりましょうが、そのほかの例えばフィルターの掃除などやらないですむようなテクノロジーはないものか。ものぐさなヤツと言われればそれまでですが、日本の技術ってそういうかゆいところに手が届くというのがお家芸だったはずです…。

 世界の市場のなかで斜陽気味の日本の家電製品だが、それが再び脚光を浴びるためには、こういう“お家芸”を復活させることが大事なんではなかろうか。などと、テメエが掃除機の掃除をしたくないことを棚に上げて、日本の家電製造業の活路を説いたりするなんて論外だろ、なんちゃって。


ふたたびの春 (2016年5月7日)

 春の東京六大学野球リーグ戦で東大野球部が今シーズン二勝目をあげました、素晴らしいじゃないですか! この日の対立教大学一回戦で4−0のスコアで完勝しました(大袈裟ですみません)。エースの宮台くんが被安打5で完投・完封して勝ち投手となりました。これまで好投しながらも打線の援護がなく不運が続きましたが、きょうは4点とってくれましたので、やっと好投が報われてホントよかったと思います。

 東大で完投・完封の勝利は誰以来なのでしょうか、記憶にないですね〜。それくらい珍しいということかな(ちょっと複雑な心境ですが…/その後の報道で2005年秋の松岡投手[残念ながら記憶にありません]以来ということでした)。

 実はわたしくの手元には自身が大学生だった頃の野球部の活躍を掲載した新聞の切り抜きが残っています。昨年、実家から持ち帰った書籍や書類のなかに混じっていて、捨てようと思いましたが家内から折角だから保管しておけばという鶴の一声(?)が出て、廃棄を免れたものです。

 で、そこにはなんと「東大、早大を完封」という写真入りの大きな記事があったのですよ。1981年4月19日(日曜日)、とあります。今から35年前のその日、東大は1−0で完封勝利を挙げ、大山投手が完投したのです。快進撃は続き、翌日も2−0で完封勝ちして勝ち点をあげたのでした。その日の完投投手は国友さんでした。

 だんだん思い出してきましたが、国友投手が完投して勝ち点をゲットしたこの試合、わたくしも神宮球場に応援に行ったのです(多分、同級生の村上哲くんも一緒だったのでは?)。なぜ憶えているのか、それはラッキー7のエールの交換中に打席に立った国友投手がホームランを放ったからでした。エールの交換中は不要な声をたてないのが応援団同士の不文律です。ですから鳴り物がやんでシーンと静かになった球場に、彼のバットから放たれたカーンという音がよく響いたんですね。その打球はわれわれの目の前を飛んで行って、あっという間に右翼スタンドに吸い込まれました。懐かしき、栄光の時代の記憶でございます…。

 翌1982年の秋のリーグ戦では、立教大学一回戦で大小田投手が4−0で、その翌日の二回戦では大越投手(数年前NHKのニュース・キャスターだったひと)が3−0でそれぞれ完投・完封勝利をあげました。1982年10月10日(日曜日)と11日(月曜日)のことでした。そんなこともあったのですなあ(遠い眼差し…)。

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 さて、現代に戻って、この勢いで明日の二回戦も勝って是非とも勝ち点をゲットして欲しいと思います。あすは宮台くんは投げませんから、二番手以降の投手の出来が鍵を握っています。いずれにせよ東大ナインの奮起を期待しています。

追伸; 立教大学二回戦は、今シーズン最初の一勝をあげたときと同じ柴田—有坂の継投でしたが、残念ながら今回は打たれて0—15で完膚なきまでに敗れました。でも、15点はとられ過ぎじゃないのかな…。やっぱり連勝は難しいですね。

追伸2; 月曜日の立教大学三回戦では、2−8でまたしても完敗しました。勝ち点はやはり遠いです…。残すは法政大学戦だけとなりました。今週末の奮起を期待しています。


延長する (2016年5月6日)

 ゴールデン・ウィークが終わりました(関係ないか…)。さて今朝、ことしの三月末に大学院を修了した新井昂くんが研究室にやって来ました。四月になって社会人になっても土日に研究室に来て作業を続けていたらしく、その後の研究の進捗状況を報告してくれました。聞けば新井くんの会社は十連休だそうです、すごいですね〜。でもその貴重なお休み中に大学に来て研究を続けてくれるとは、ホント泪が出るほどありがたいことではあります。

 今年度の我が社では大学院生の数が半減したこともあって、研究に期待できる戦力は正直なところ大幅にダウンしました。このことは前もって分かっていたことではありますが、実際に四月を迎えて新年度になったら、やっぱりその通りになったわけです(うまい具合の“想定外”が起こったりはしなかったというだけの話しです)。

 そんな状況ですので、新井くんには地盤−杭−建物連成系の解析研究をしばらくは続けてもらって、一定の成果が出たところで論文として公表し、後輩に引き継いでもらえるとわたくしとしてはとても嬉しいです。これまでの研究から、かなりいい線まで行っていると思っています(親の欲目かな)ので、是非、結果を出して欲しいと願っています。

 石塚裕彬くん(こちらも2016年大学院修了)が筆頭著者の論文の査読結果も五月になって戻って来ました。予想していたような酷評?ではなかったことはよかったです。石塚くんには査読意見への対応と論文の修正をお願いしてありますので、こちらもしばらくは“研究継続状態”ということでしょうね。

 このように優秀なメンバーを抱えることができてホント嬉しい限りです。だって、社会人になってもしばらくはわたくしと一緒に研究を続けてもらえるのですから。二足の草鞋は大変でしょうが、いましばらくお付き合いのほど、よろしくお願いします。


五月のはじめ (2016年5月4日)

 ゴールデン・ウィークも後半に入りました。どこにも出かけないで、家でウダウダしています。そろそろたまった仕事をやらなきゃな〜とか思うのですが、なかなかエンジンがかかりません。いまは16WCEEの英文論文を推敲しています(Deadlineが五月中旬に延びたので助かります)。

 今度の世界地震工学会議(WCEE)は日本の裏側のチリで来年1月早々に開催されます。その時期は(多分)JCIの年次論文の締め切りの頃ですし、そもそも新年早々ですから大学での管理業務がたくさんあってコース長であるわたくしはとても出かけられそうもありません。でもなにより、そんな遠いところに一日かけて飛行機で出かける気力が全く湧いて来ないんですね〜。

 ていうか、飛行機に乗ること自体が嫌いになってきました。空港に早めに行くとか、チェック・インのための検査とか、飛行機が離着陸するときにシート・ベルトに締め付けられて拘束されること等を我慢できない、という感じです。やっぱり地道に地面の上を移動するのが性にあっています。

 さて、きょう、やっと鯉のぼりと兜とを出しました。例年通り、女房からそろそろ出せと言われたので子どもと一緒に箱から取り出してセットしました。これもいつものことですが、それらのグッズを出すと子どもが健やかに成長するようお祈りする気分になってきます(日本古来の風習として正しい感覚ですな)。ですから五月五日の端午の節句の日には、こちらも定番の柏餅を食べたりするんでしょうな、やっぱり…(追伸;やっぱりいただきました、こし餡で美味しかったです)。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:北山家の写真:鯉のぼりと兜2016年5月:DSC_0184.JPG

 憲法記念日は過ぎましたが、ことしも憲法についてちょっと考えるか。今年は参議院議員選挙がありますが、A倍首相が消費増税の中止の民意を問うとか言って衆議院も解散するのではないかとの説が巷間に流布しています。熊本地震が起こったのでA倍首相は衆議院の解散を否定していますが、それが本心かどうかは相当に怪しいと思いますね。

 なんといっても自民党は改憲を党是とする政党ですから、国会議員の2/3以上を獲得しようと狙っています。野党が相変わらず弱小である今がその好機であると見ているのは明らかです。しかし彼らの言うがままに改憲されると、戦争ができる国になってしまいます。それはご免蒙りたい。戦争をせず、あらゆる紛争は平和的な手段でこれを解決するという現憲法の高邁な精神こそ、現代において全地球的に叫ばれてよいテーゼだと考えます。

 自衛隊は今回の地震でも災害救助や復旧活動に大いに活躍しています。そのこと自体はとてもありがたいですし、心強くも思います。しかし彼らの本分は武器を取って戦うことにありますから、その組織としての方向性とか意識には十分な注意が必要でしょう。なんとなれば、戦前に旧軍部が暴走して日本を破滅に導いたこと(そしてアジアの諸国に多大な迷惑をかけたこと)を忘れてはなりますまい。


横浜リフレッシュ (2016年5月1日)

 世のなかはゴールデン・ウィークですが皆さま、いかがお過ごしでしょうか。わたくしは“年度始めの一ヶ月”の疲弊を癒すために家でダラダラしていましたが、メーデーのこの日は家族と久しぶりに横浜に出かけました。お昼くらいまでは晴れていて、そのあとは薄曇りでしたが気温は26度くらいあって、ちょっと暑いお日和でしたね。でも、海沿いの街を駆け抜ける風が心地よかったです。

 みなとみらいの日本丸から山下公園へと向かいました。で、そこに係留されている氷川丸に初めて乗船しました。立派な船で、子どもはエンジン室の巨大さに度肝を抜かれていました。でも、こんないい陽気なのに船のデッキは午後4時まででおしまいで、船の見学自体も午後5時までという親方日の丸ぶりで、今どき珍しいなあと思いました。サービス精神のかけらもありませんが、主体が日本郵政なのでまあ、仕方ないか。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:北山家の写真:横浜氷川丸_山下公園20160501:DSC_0163.JPG

 さて横浜の地ですが、たびたびこのページにも書いていますが、日本の鉄筋コンクリート造建物の誕生および発展にとっても横浜は枢要の地です。この日も遠藤於菟の旧・横浜生糸検査所の事務所棟や倉庫、林豪蔵の横浜銀行協会の脇を走り抜けました。うえの写真は氷川丸から撮ったみなとみらい地区です。正面右が大桟橋で、その奥にランドマーク・タワーやパシフィコ横浜、赤レンガ倉庫などが写っています。また左手の海沿いが山下公園です。

 この日は五月の連休ということもあって人出はすごかったですが、それほど苦労せずに駐車できたのはよかったです(って、もちろん駐車料金はそれなりにお高いですけどね、あははっ)。横浜でリフレッシュできましたので、これから待っているであろう“五月の激務”もなんとか乗り切れるといいなあっていう感じですかね。


年度始めの一ヶ月 (2016年4月28日)

 四月ももうすぐ終わりで、風薫るゴールデン・ウィークがやって来ます(GWは別にどうでもいいんですけどネ)。きょうは冴えない雨降りですけど…。まだ、鯉のぼりを出してないなあとか思う四月末です。

 さて、コース長のお仕事ですが、予想通りのものもあれば想定外の出来事もありましたが、三年前の一度目のときに較べれば精神的には楽でした。教室幹事には、異例ですが教授(これまで幹事は准教授にお願いしてきました)である竹宮健司先生にお願いしましたが、聞いてみると彼の幹事は三回目(って、気の毒ですな)だということで、こちらも手際がよいので安心できます。

 でも、隔週木曜日はものすごく疲弊します。朝に教室会議、午後一番から代議員会、そのあと教授会という流れで、午後五時くらいに教授会が終わるともう疲れ切ってハアハア言っちゃいます。学部長補佐の角田誠先生はわたくしよりももっと大変でしょうから、ふたりでいたわり合っています(誰もねぎらってくれませんから…)。

 代議員会というのは学部長、学部長補佐(2名)、各コース・学域の代表者(6名)および事務方の課長さんたちが参加する会議です。学部で審議すべき事柄は実質的にはこの代議員会で議論されて承認されます。ということは教授会はいらないんじゃないか、というのがわたくしの感想です。

 新大学の発足(2005年)によって学部教授会の役割は実質的に大幅に縮小されましたから、形式的にやるくらいなら(新大学発足当初に戻って)教授会はやめたらいいのになあと思います。それとも「大学自治」の象徴としての役割のみを期待されて教授会は存在しているのかな。そのあたりの“真意”(って、誰の真意だろうか)はわたくしのような末端管理職にはさっぱり分かりません。

 あるいは代議員会メンバーではない先生方にとっては教授会は重要なのかな。でも代議員会での報告は逐一コースのメンバー全員に流しています(これもコース長のお仕事のひとつです)。それを見れば大切なことは全て把握できますから、教授会に出る必要はないんですけど…。

 授業ですが、以前にも書きましたがカリキュラムの変更で今年からわたくしにとっては前期のコマ数が増えました。火曜日と水曜日に二コマづつです。そのため火曜日、水曜日ときて上述のような木曜日を迎えるともう相当程度に疲れます。唯一よかったのは、これから季節がよくなって早起きが苦じゃなくなるくらいでしょうか。

 大学院授業の『鉄筋コンクリート構造特論第二』ですが、ことしは受講者がたった三名しかいません。構造系の大学院1年生はその倍くらいはいるはずですから、どうしたのかなというのが感想です。わたくしの講義は演習が難しくて大変だということかもしれませんが、構造設計者になろうというひとが鉄筋コンクリート構造を知らないでどうするつもりでしょうか。まあ、大きなお世話でしょうが…。いずれにせよ、四半世紀近く大学院の講義をやっていますが、受講者がこんなに少なかったのは始めてです。

 昨年のこの時期の文章を見ていたら、この大学院講義で教える内容を減らしてでも演習の時間をとったほうがよい、というようなことが書いてありました。すっかり忘れていましたが、(今年度も残念ながら)確かにその通りみたいですので、カリキュラムを再考しようと思います。



キャンパスお散歩 2016 (2016年4月27日)

 学部1年生の必修授業である『基礎ゼミナール』はきょうが二回めです。わたくしの授業では恒例のキャンパス内の散策を行いました。天気は下り坂でしたが、始めのうちは心地よい風も吹いていて、気持ちのよいお散歩になりました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:基礎ゼミナール2016:P1010446.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:基礎ゼミナール2016:P1010447.JPG

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:基礎ゼミナール2016:P1010450.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:基礎ゼミナール2016:P1010456.JPG

 このお散歩ではキャンパス内を歩くことによって、都市の成り立ちとか建築の見どころや設計者の意図を学生諸君に考えてもらうように心がけています。わがキャンパスには幸いなことに、そのような題材にはことかきません。身近なモノで居ながらにして勉強できるので、皆さん恵まれていると思いますね。

 なおことしのティーチング・アシスタント(TA)は学部4年生の岩田歩くんに頼んでいます。この写真も岩田くんが撮ってくれました。今までの星野和也くんが撮った写真とはかなり違っていることに気がつきます。構図とかアングルがいいなあと思いました(岩田くんのほうが写真のセンスは上だと思います、って星野くんご免なさい、あははっ)。


九州の地理 (2016年4月26日)

 熊本地震では九州を横断するように多数の震源が分布しており、残念ながら広域災害の様相を呈するに至ってしまいました。多くの方々が不自由な生活を余儀なくされており、本当に大変なこととお見舞いを申し上げたいです。

 この地震をきっかけにして九州の地図をよく目にします。はじめは熊本周辺だけだったのですが、だんだんと九州北部全体が視野に入るようになりました。そうしてしげしげと九州の地図を眺めるにつれ、わたくしがいかに九州を知らないかということに気がつきました。なにぶん坂東太郎であるわたくしにとっては西国ははるか遠くの異国の地という印象なんですね〜。でも逆にいうと、西国のひとたちは例えば栃木県とか群馬県などの地理については詳しくなかろうと拝察します。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:スクリーンショット 2016-04-24 22.09.01.png

 さて、上の地図を見てみましょう。わたくしだって有明海、大村湾や天草の存在はもちろん知っています。でもそれらの位置関係については残念ながらあやふやでした。有明海を挟んで熊本の対岸に島原があるのですね。また熊本より西にはやたらに大小多数の島があることにも気がつきます。江戸初期のキリシタン受難の地であった長崎と大村との位置関係も分かりました。

 でも地図を見てわたくしが一番驚いたのは長崎県のかたち(上の地図の赤く塗られた部分)そのものです。例えば東京都であればシーラカンスが横たわったようなかたちであり、群馬県は大鳥がはばたいたかたちと言われます。それに較べると長崎県の形はいったいどのように表現したらよいのでしょうか。五島列島、平戸島や壱岐島などの多くの島を除いても(この地図の外にある対馬も長崎県ですゾ!)、とても言葉では表せない不思議な形をしていますね。島原だけだとソラマメみたいにも見えます。

 さらによく見ると大村湾はほとんど湖のようです。北側にある針尾島という島が湾の栓のようなかたちで横たわっていて、これじゃ船が通るのは大変だろうと推察します。なによりもその昔、丸田誠さんたちと遊びに行ったハウステンボスが、この針尾島の一画にあるということを知って仰天しました。

 わたくし自身の無知を開陳しているだけでお恥ずかしい限りです。日本人として日本の地に半世紀以上暮らしているのにこの程度の認識なのかと思うと、われながら愕然とします。世はグローバルが花盛りですが、まずは足元からDiscover Japan(なにかの標語みたいですが…)じゃなかろうかと思ったりするわたくしでした。以前に書きましたが、松尾芭蕉のように“日々旅を住処とす”るような生活をたまには送ってみたいものですなあ。


人のたち (2016年4月25日)

 先日、建築学教室の新人歓迎会を開きました。「壁谷澤」という姓はやはり珍しいらしく、新しく同僚になった先生方はしばらくその話題で盛り上がっていました。こじんまりとした集まりでしたから、久しぶりに教室の皆さんと楽しく語らうことができました。今回は着席だったので、立食と違ってゆっくり寛げたというのもよかったです。差配して下さった幹事の竹宮健司先生に感謝、です。

 今回はイタリア・レストランだったので皆さんはワインなどをお飲みでしたが、わたくしは例によってお茶です。さてその席で、東洋建築史の山田幸正先生からわたくしについての興味深い分析をうかがいました。古くからの同僚の方々は、わたくしがあるときを境に人間が変わったと見ているそうです。それまでのわたくしは制御不能のわがままな高慢野郎だったみたいですが、あるときからそうではなくなったと思われているようです。

 で、なぜそういう変化が生じたのか、ということの原因分析を山田先生は語ってくださったのです。わたくし自身のことを他人さまから分析されるという経験は今までありませんでしたから、とても興味深かったですね〜。どうやら大方の先生方はわたくしが三年前にコース長を務めたことがその主因であろうと考えているそうですが、山田先生はそうじゃない、と断言されました。

 では、わたくしのひとがかわった(?)原因は何かと言うと、それはお酒をやめたことにある、というのが山田先生の見立てでした。その根底には、お酒をきっぱりやめるには強靭な意思の力が必要であるという山田先生のお考えがあり、あなた(わたくしのことです)はそれを経験してやり遂げたからだ、と言われました(ただ、お酒をやめたことによってひと付き合いは悪くなったね、とも言われましたが)。

 なるほど〜、自分では全く気づきませんでしたが、言われてみるとそうかも知れないなあと思うようなフシもありますな。うちにはお酒をやめる前に備蓄していたお酒がまだ何本もありますが、別段飲みたいとも思わなくなりました。わたくしにとっては健康上の理由が大きいのですが、それでも多くのひとにとってやめられないのがお酒というものらしいです。

 でも、ひとのたち(性質とか本性のことです)ってそう簡単に変わるものでしょうか。わたくし自身でいえば、短気なところとかすぐ頭に血が上るところなどは変わっていないように思います。しかし(よく書いているように)研究中心の生活がよい人生とは思わなくなった、というところは大いなる変化だと考えますね。それは価値観の転倒が生じたということですから…。

 こういう価値観の転変などは、人生を経てさまざまな経験を積むことによって脳内に自然と醸成されるもののように思います。そのことを“ひとが変わった”というのであれば、まさしくわたくしは“変わった”と言ってよいでしょうな。

 しかしながら脳の活動も科学的に突き詰めれば化学物質と電荷の流れによって引き起こされることを考えると、ひとが変わるというきわめて情緒的かつ本質的な事柄も唯物論で解釈できるわけで、すごく不思議な気がします。ただし脳自身は脳のことを考えることはできない、というのがわたくしの持論です。ですから、これ以上論じても無意味なのでもうやめます。

 はなしを元に戻すと、山田先生から思いがけずうかがった「北山変化論」は本人にとっても思いもよらないもので、とても参考に?なりました。でもわたくしが一番嬉しかったのは、人生の先輩である山田幸正先生がご自身の経験に即してそういうことを率直に語って下さったことです(まあご本人は酒の席の余興くらいにお思いかも知れませんけど/なんせこちらはシラフですから、あははっ)。いつも思うのですが、どこに行ってもよい先輩・同僚・後輩に恵まれたのがわたくしの人生の一番の財産です。山田先生を含めて皆さんには大いに感謝しております、ハイ。


資源の有効活用 (2016年4月20日)

 このページで個人的な雑感をいろいろと書いています。それらは日々の暮らしや仕事のなかでちょっとだけ現れる嘆きだったりひらめきだったりして、お読みくださる皆さまにとってはどうでもよいような類いのものだと思います。

 でも、わたくしにとっては日々考えたことが切り取られて短文化された「成果」なので、とても役に立つことがあります。もちろん何を書いたかなんて自分でも大方は忘れていますので、必要に応じてキーワードを設定して検索します。

 この四月からコース長に再登板しましたが、建築都市コースのページに「主任の挨拶」というのがあって、先日拙文を掲載いたしました(こちらです)。「大学での教育を考える 〜学生さんお客様論から〜」というタイトルです。このコーナーに書き溜めた文章から「大学」「教育」などをキーワードとして検索して、探し出した文章を適宜、切り貼りして再構成したものです。すなわちこのコーナーの資源を有効に活用しているわけですね。いやあ、我ながらホント役に立っています。

 これとは別に某学会の会誌の巻頭言を依頼されているのですが、さすがにこのページからの再生産で済ませることはテーマ柄難しそうなので、コツコツと書いています。それでもちょっとしたエピソードなどはここから抜き取ることができたりして、やっぱり重宝しております。過去の自分自身に感謝、という感じでございます。

 ところで「主任の挨拶」ですが、昔は学科の責任教授を主任と呼んでいたのですが、現在は「コース長」とか「学域長」と呼称が変わっています。いいかげんホームページのそういう“遺産”を修正したらいいのになあとは思うのですが、それってやっぱり「コース長」の仕事ですかね? だったら、まあいいか(なんてね、あははっ)。


お釈迦さま (2016年4月19日)

 『鉄筋コンクリート構造』の授業から戻ってきました。きょうは二回めですが、前回は46名いたギャラリーがきょうは32名に減っていました。まあ予想通りのBehaviorですかね。1限だし、だんだんと減って定常化すると思われます。

 さて、ことしの3月3日の雛祭りの日、このページに「花まつりですね」と書いたのですが、これが大いなる誤解(っていうか大間違い)であったことが判明しました(気がついた方がいらっしゃったかも知れませんが…)。この週末の朝日新聞土曜版を見ていたら、歴史学者の呉座勇一さんのコラムに4月8日はお釈迦様の誕生日でこの日は「花まつり」と呼ばれる、とありました。

 それを読むと、綺麗に飾り付けしたお釈迦様に甘茶をかける(これを灌仏[かんぶつ]というそうです)行事が紹介されていて、これってまさにわたくしが幼稚園児のときに体験したそのモノずばり、でした。

 まあ幼児の頃の記憶ですから間違っていても仕方がないでしょうけど(開き直ってますね)、4月8日がお釈迦様の誕生日であることはすっかり失念しておりました。そうだったとは全くもって“お釈迦さまでもご存知あるめ〜”でしょうね、あははっ。


制する (2016年4月18日)

 先週から東京六大学野球リーグ戦が始まって、東大はエース・宮台くんの力投も及ばず、彼が先発・完投した試合はいずれも0−1で惜敗しました。投手がこれだけ頑張っているのだから、打線がなんとかしてあげないと…。

 しかし、本日の明治大学二回戦で東大がサヨナラで勝ちを制したことが報道されました。スコアは3−2です。いやあ“野球”になっていて素晴らしいじゃないですか、無失策だったし。エースではなく二人(3年・柴田—2年・有坂)の継投で勝利した、というところも大いに意義があると思いますね。

 これで(おとなの)明治大学相手に一勝一敗に持ち込みましたから、明日は勝ち点をかけて三回戦に挑むことになります。でも、やっぱり投手の持ち駒が足りませんね〜。三年生になった宮台くんが完投できる体力を獲得したのは大きいですが、さすがに彼に投げさせるのは無理だと思います。う〜ん、明日は大敗するパターンでしょうか、頑張って欲しいとは思いますけど…。

追記(2016年4月19日); この日の三回戦は残念ながら予想が当たって3−12で敗れました。ただ先発は予想外の宮台くんでしたが、やっぱり体力的に厳しかったようで3失点で降板したようです。残念でしたが、次回の奮起を期待しましょう。


日常と非日常 (2016年4月16日)

 熊本県で4月14日以来、大地震が起こっています(16日現在、進行中です)。大勢の方が死傷し、避難を余儀なくされている膨大な数の方々がいます。そういう皆さんにまずはお悔やみとお見舞いとを申し上げます。

 建物の耐震構造を研究する研究者にとっても、これは大変な状況ではあります。居ても立ってもいられないという方は既に現地に入って調査を開始したりしています。かような非日常の状況の一方で、わたくしはと言うと大学のコース長としてさまざまな雑用をこなさないといけないんですね〜。その一例が下記の小事件です。

 研究室がある7階に小さな流し台が設置されているアルコーブがあります。そこに包丁、まな板、食器などが汚れたまま放置されているのでなんとかしてくれ、という苦情がありました。いやあ、ホント驚きます。小学生でも自分たちが使ったものは片づけるというのに、大学生や大学院生がそれをできない、というのですからね…。完全なるモラルの崩壊ですよ。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:9号館7階流し場20160414.JPG

 仕方がないので、現場の写真を撮って「犯人」は名乗り出て片づけるように、というメールを建築都市コースのメーリング・リストに送ったわけです。なんでこんなことオレやってるんだろうねえ、とか思いながら…(さすがに実際のメール送信は補佐の方に頼みましたけど)。幸い翌日には「犯人」が判明して一件落着したのですが、これが15日の金曜日です。

 こうして片一方では非日常の重大事態が出来しているのに、もう片一方ではこのような(他人さまにとってはホントにくだらない)瑣事にかまけた日常を過ごしています。なんだかとても申し訳ない気がします。

 でもよく考えるとこのような日常こそが日々の生活であって、かようなくだらないコトも含めて平穏な生活をおくれるということ自体が幸せなことなんですね。そういう当たり前のことを再認識させられるこの数日でした。


異人の骨 あるいは列聖へのみち (2016年4月13日)

 なんだか恐ろしげな表題ですけど、怖いお話ではありませんので大丈夫です。江戸・東京の切支丹屋敷跡から人骨が出土して、それが江戸中期に日本に潜入した司祭であるヨハン・バッティスタ・シドッチらしいという小さな記事が先日の新聞に載っていました。

 この切支丹屋敷はいまの文京区小日向(こひなた)というところにあります(したの地図の赤丸のところです)。神田川が東西に流れるところは谷となっていて新目白通りがとおっています(その上に首都高速道路が走っています/地図では濃いオレンジ色)。そこから北に行くと急な坂道があって台地上の春日通りに達します。切支丹屋敷跡に行ったことはありませんが、多分その台地の端か坂道の途中に建っていたのだと思います。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:スクリーンショット 2016-04-10 10.05.35.png

 学生の頃はよく車で大学へ通っていました。朝、新目白通りはとても渋滞するので途中から左折して並行する小さな通り(小日向通りだったかな?)に入って、そこを抜け道として使ったものでした。そこから牛天神下を通って後楽園に至る、という経路です。

 横道にそれますが、学生がマイカーで通学することは当時でも原則、認められていませんでした。しかしわたくしが夜中まで実験していることをご存知だったのでしょうか、恩師の青山博之先生が特別に駐車許可証をとって渡して下さいました。ホント、ありがたいことです。

 はなしをもとに戻して、小日向ですがここは地下鉄丸の内線の茗荷谷(みょうがだに)駅に近く、北西には護国寺もあります。わたくしが小さい頃には祖父母の家へ行くのに茗荷谷駅から歩いていましたので、とても懐かしい地です。その後、地下鉄有楽町線が開通してからは護国寺駅を使うようになりましたが…。

 子どもの頃、春日通りには都電が走っていました。夏休みに祖父母の家に泊まったときに、上野のほおずき市に都電に乗って連れて行ってもらったことがあります。夜店で回り灯籠(まんなかに置いたロウソクの気流によって、障子でつくった灯籠がクルクル回るという飾り物)を買ってもらい、それを縁側に吊るして眺めながら眠ったことを思い出しました。懐かしき幼年時代ですが、もう半世紀近くも前の昔のはなしです。

 またまた脱線してしまいました。さて、見つかったという司祭のシドッチですが、その当時の江戸幕府は六代将軍・徳川家宣の治世でした。新井白石が御用学者として活躍した時代です。新井白石はこのシドッチを切支丹屋敷で尋問したようで(このことは史実です)、そのことが藤沢周平の『市塵』という小説に描かれています。シドッチとはなしをした新井白石は、その学識と人柄とを惜しんで助命しようとした、という内容でした。しかし、シドッチが切支丹屋敷の使用人に洗礼を授けたことが発覚したため、死へと追いやられたそうです。すなわち殉教です。

 戦国から江戸期のきりしたんについてはときどきこのページで書いていますが、シドッチもまた殉教するために日本へやってきたのでしょうか。『みんな彗星を見ていた —私的キリシタン探訪記—』(星野博美著)のなかに記述されていますが、殉教したひとが使ったもの、触ったものやその肉体自体が聖遺物としてキリスト教では珍重されます。偶像崇拝を禁ずるキリスト教のありかたと明らかに矛盾していると思いますが、そのあたりのロジックはわたくしには分かりません。

 今回、殉教したシドッチの骨が見つかった訳ですが、それはわれわれにとっては昔のひとの骨に過ぎません。ところがキリスト者にとっては、それは貴重な聖遺物なのです。ですから、その行方がどうなったのか興味のあるところです。遺骨は埋蔵文化財でしょうから、そのままキリスト教会に渡されるということはないような気がしますが、どうでしょうか。


授業が始まる (2016年4月12日)

 きょうから前期の授業が始まりました。朝1限です。昨年度まで三年生後期にあった『鉄筋コンクリート構造』が今年度から三年生前期に移りました。数年を要した構造系カリキュラムの組み替えがこれでほぼ終わったことになります。ですから今年2月に終わったばかりの講義をすぐにやる、というちょっと変な感じを味わっています。

 このように開講時期を半期ずらしたのですが、構造系内の調整はとれているのは当然として、他の科目との開講時期のズレについては意識していませんでした。ところが今朝、履修者諸君に聞いてみたところ、橘高義典先生の『材料実験』は三年生前期の開講なので、三年生はまだコンクリートを自分で練ったことがない、ということに気がついたんですね〜。

 う〜ん、まあ仕方ないですね。コンクリートはアルカリ性だよと言っても、コンクリートを触ったことがないのだから実感は湧かないでしょうが…。鉄筋の降伏という現象も知らないわけなので、コンクリートや鉄筋といった材料の特性をちゃんと説明することが必要ということを認識した次第です。

 かように開講時期を三年生前期に移動したせいでしょうか、きょうの出席者は46名もいて面食らいました。昨年度(三年生後期)の初日の出席者はわずかに10名でしたので、これっていったいどういうことなのよ?っていう感じです。最初の授業ですから様子見のひともいたでしょう。これから淘汰されてだんだんと減って行くんだろうとは思います。

 このあと4限には従来とおりに『構造力学1』(こちらは一年生科目)が待っています。一日二コマは大変だなあとか思うのですが、そんなことを言うと私学の先生達から壮絶なバッシングにあいそうなので、もうやめま〜す。


基礎ゼミナール 履修者決まる (2016年4月11日)

 わたくしにとって三年目を迎えた『基礎ゼミナール』(1年生の必修科目)ですが、大学設定のわたくしの専用ページにアクセスしたら、履修者22名が既に決まっていました。最終決定日以前ですし、この人数は履修者数の上限ですので、ことしも多分抽選になったんだと思います。

 ありがたいことですが、昨年度の経験から言うとゼミナール形式の授業として22名は多過ぎます。もっと減らして欲しいと思うのですが、そうすると担当教員を増員しないといけないので、それも大変ですな。昨年は授業時間の延長が多くて、履修者諸君からはやめてくれと言われていました。ですから今年度はなるべく延長がないように、カリキュラムを変更しないといけないなあ、と思っています。

 そのためにはひとり当たりの発表時間を減らして、わたくしのコメントもちょっとにする必要がありますが、それではこの授業の目的達成からは離れてしまわないかと心配ですね。じゃあ、どうするか。あまり時間はありませんが、これから知恵を絞ろうと思います。

 ちなみにことしの履修者は今までで一番多様な学生諸君が集まったと思います。人文系から2名、理工系から1名、システムデザインから1名、健康福祉から1名、都市環境から17名です。とは言え建築都市コースからは15名でしたので、彼らがMajority になることは昨年度と同じです。ことしも楽しく授業ができるといいなあと思っています。なお本年度のティーチング・アシスタント(TA)は学部4年生の岩田歩くんに頼みました。


世に出る 〜「RC構造保有水平耐力計算規準(案)・同解説」〜(2016年4月7日)

 建築学会で出版の準備をしていた「RC構造保有水平耐力計算規準(案)・同解説」の講習会がきのうから始まって、わたくし達の汗の結晶をやっと世に出すことができました。建築会館の大ホールは満員で、240名の方にお出でいただきました。保有水平耐力計算に対する世の中(って、建築構造設計の世界のことですけど…)の関心はまだまだ高い、ということを物語っていますね。年度始めの忙しいなか、お出でいただいた皆さんには感謝しております(我が社のOBでは嶋田洋介さんに会いました)。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:RC保有水平耐力計算規準2016カヴァー.jpg

 さてこの規準(案)ですが、主責任者の和泉信之先生のお話しを聞いていて、ここに至るまで足掛け八年の歳月を要したことを改めて思い出しました。そのあいだには二度、三度の方針の転換があって、そのたびに「今までと話しが違うじゃないか」と言ってはWGのなかで皆で憤激したこともありました。でもとにかく船出ができて、ホッとしたというのが偽らざる心情ですなあ。

 わたくしの講習担当は17条から19条までの45分間でしたが、マイクを使っているにもかかわらず最後のほうは声がかすれてしまって困窮しました。大学ではまだ講義が始まっておらず、例によって不要な大声を出していたのかも知れません。そのうちリハビリできるでしょうけど、あははっ。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ_RC保有水平耐力計算規準講習会_東京:P1010440.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ_RC保有水平耐力計算規準講習会_東京:P1010442.JPG
    写真 (左)ご説明中の和泉信之先生        (右)満員のホール


耳ネタApril 2016 (2016年4月4日)

 この週末、都内の桜は見頃だったみたいですね。我が家の近くの多摩川沿いの土手の桜は綺麗に満開でした。サクラ吹雪になっていましたので、あと数日で散ってしまうのでしょう…。いつもながら儚さを感じます。

 このところ耳ネタがご無沙汰だったので書いておきます。この三月に大滝詠一師匠の『Debut Again』が出ました。他人に提供した自身の楽曲を自分で歌っている、といういわゆるセルフ・カバーというヤツですね。これらの音源の多くは彼の死後に見つかったものだそうで、いわゆる“蔵出し”という部類です(お酒みたいですな)。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:アルバムカバー:91xrSFrZV7L._SL1500_.jpg 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:アルバムカバー:150210_3.jpg

 大滝さんのことですからそれらの多くは、世に出すとしたらいろいろと細工しようと考えていたはずです。また、デモみたいなモノもありましたから、仕上がりから言えば極上とはさすがに言えませんね〜(申し訳ありませんが)。

 「熱き心に」や「夏のリヴィエラ」(「冬のリヴィエラ」の英語ヴァージョン)は小林旭や森進一, respectively, の独特の歌唱が耳にこびりついているので、違和感はどうしようもありませんでした(聞いているうちに慣れるのでしょうが…)。でも名曲「夢で逢えたら」はやっぱり素敵でした。亡くなってもまだ新しい?歌声を聞くことができるのは嬉しいような、でもご本人はそれを望んでいなかっただろうとも思えますので、ちょっと複雑ですな。

 つぎは角松敏生です。彼のCDはたくさん持っているのですが、1984年の『After 5 Clash』は手元にありませんでした(例によってカセット・テープは廃棄しちゃったので)。そのなかにある「あいらびゅ音頭(Heart Dancing)」という曲を無性に聞きたくなって先日CDを買いました。夜の都会に林立する高層ビル群というジャケットで、その当時City Pops と呼ばれていたことを思い出します。

 角松さんは一流のメロディ・メーカーで、ダンサブルなナンバーも聞かせるバラードも珠玉の名品がそろっています。そんななかで、この「あいらびゅ音頭」にはポップなメロディのなかに(タイトルからも伺えるように)コミカルな部分が混じっていて、彼の別の一面をのぞかせる佳曲だと思いますね。YouTubeにありましたのでヒマな方はご覧下さい(こちらです/「タモリ倶楽部」の1分30秒あたりにあります)。

 最後は鈴木雅之の『Discover Japan II』(2014年)です。タイトルからも想像できるように日本のポップスの名曲を歌っています(もっともわたくしの知らない曲もありますけど…)。原田真二の「タイムトラベル」、オリジナルラブの「接吻」などに混じって、大滝詠一の「幸せな結末」は松たか子とのデュエットです。そのほかの曲も含めて、やっぱり歌がうまいひとのうたはいいですね。聴かせてくれる一枚に仕上がっています。

 彼の曲にはデュエットがチラホラあって、例えばお姉さん(鈴木聖美)と歌った「ロンリー・チャップリン」が有名でしょう。この曲は20世紀の飲み屋のカラオケではデュエットの定番でしたが、いまの若い人は知らないかな?(年寄りくさいな〜)。でもわたくしが一番好きなのは、菊池桃子と歌った「渋谷で5時」です(こちら)。デートのまえのワクワクするような高揚(って、いつの話しだろうか…)を感じさせるイントロが秀逸でっせ。

 「渋谷で5時」は1993年のアルバム『Perfume』に収録されていましたから、既に二十年以上前の曲ということになりますが、今聴いても渋谷の街のキラキラした様子が脳裏に蘇ってくる名曲だと思います。ちなみに角松敏生にも渋谷を歌った曲(その名も「SHIBUYA」/1999年のアルバム『Time Tunnel』に収録)があり、こちらもなかなかGoodですよ。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:アルバムカバー:143633__220_220_0.jpg


フレッシュ (2016年4月1日)

 花曇りの新年度初日を迎えました。本学ではきょうの午前中、大学院入学者のためのガイダンスがさっそく開かれて、わたくしのコース長・学域長としてのお仕事が始まりました。都市環境科学研究科全体のガイダンスのあと、建築学域のガイダンスを竹宮健司・教室幹事(教授)および熊倉永子・助教とともに行いました。大学院での履修全般については橘高義典教授、一級建築士試験受験にかかわる実務認定については角田誠教授にそれぞれ説明していただきました。どうもありがとうございます。

 いっぽう学部入学者に対しては本日、英語クラス編成試験が行われており、入学式もまだなのに新入生が大挙して登校しています。お昼に生協食堂に行ったのですが、そういったフレッシュなひとたちであふれていて入れませんでした。わたくしも記憶にありますが、混雑する駒場の生協で列に並んでお昼ご飯を食べたものです。学生にとってはそれが当たり前のように思っていました。きょうの彼女/彼らもそのノリでなにも考えずに?生協に来たのでしょうね。

 そうそう、わが建築都市コースにもフレッシュ・マンを迎えました。芳村学先生が昨日退職されましたが、その翌日には壁谷澤寿一さんが准教授として着任しました。公募の激戦をくぐり抜けて採用されましたので、本学でのさらなる活躍を期待しています。建築防災分野の研究・教育に力を注いでくれるとありがたいですね。


2015年度もおしまい (2016年3月31日)

 三月晦日となりました、年度末ですね。南大沢の桜は三分咲きといったところでしょうか。暖かさと比例するように花粉の猛威が荒れ狂っていて、もうたまりませんわ。明け方には鼻が詰まって息苦しくて目が覚めてしまい、“春眠暁を覚えず”の正反対の生活でございます。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:南大沢20160331_桜は三部咲き:P1010428.JPG

 さて、きのう我が社ではM2の諸君がJCI年次論文の査読対応後の修正版を投稿したり、AIJ大会梗概を仕上げたりしました。また新井昂くんとは最後の個人ゼミナールを行い、余韻?を楽しみました。でもこの期におよんでもまだ既往の研究を見直して、今後の課題を提示してくれたのですが、これってどういうことなのよ?(わたくしとしては嬉しいことこの上ないですけど)。ここまでやったんだから、もう少し自分でやってくれよな、とは言っておきましたが…。

 ということで2015年度が終わります。出てゆくひとがいれば、入ってくるひともいます。それがわずか一日を境に行われるというのも、なんだか不思議な感じがします。わたくしだけが何も変わらずに十年一日のごとく大学に鎮座していて、流転する世の中から隔絶した仙人であるかのような、そんな錯覚を抱きますねえ。もっともそれが大学人の本質だったりするかもしれませんけどね、あははっ。


いい日旅立ち (2016年3月25日)

 どこかで聞いたことがあるようなタイトルですが、まあいいか。きのうはわが大学の卒業式・修了式でした。コース長・学域長はその式に参加するのが義務ですが、ヒラの教授は自由ですのでわたくしは参列しませんでした。どうせ来年度はコース長として卒業者のまえで“訓示”を垂れないといけませんから、ことしはまあいいかっていう気分でした。

 さて我が社では2015年度は修士課程四名、学部三名の計七名が旅立ちます。とても嬉しいですし喜ばしいですが、例年やっぱり寂しさも感じますね。皆さん社会に出てもそれぞれの持ち場で力を尽くして欲しいと思います。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:卒業・修了20160324北山研にて:DSC_5102.JPG
 写真 北山研究室にて

 ということで三月末までのエア・ポケットのような状態に入りました。もっともJCI年次論文の査読対応が残っているひともいますので、しばらくはあたふたしそうな気もしますけど…。M2・石塚裕彬くんの論文の査読結果はまだ戻ってきません。あんまり難しすぎて(?)査読者の査読が進まないのかも知れませんね(なんちゃって)。

 いまは第16回世界地震工学会議(16WCEE)の英文論文を書いています。四月になったら雑用および授業(前期は四コマもあります)で多忙になりますから、できるだけ今の時期に稼いでおかないとね、という危機感からです。

 で、自分で英文を書いていると、つくづく小谷俊介先生の英文の素晴らしさが分かりますね〜。今も小谷先生が関係した柱の二軸曲げの論文(S. S. Lai氏が筆頭著者の有名なヤツです)を見ているのですが、読んでいてスラスラと頭のなかに入ってくる分かり易い英語で書かれています。日本語の論文もそうですけど、やっぱり論文はこうでなくっちゃね、というお手本です。ということでまたしばらくは英作文に悩まされることでしょう。


追いコン2016 (2016年3月23日)

 今朝登校すると、南大沢駅わきのソメイヨシノが開花していました。わたくしの通学路の野川沿いの桜も昨日開花しました。また南大沢駅の空がピーピー賑やかなので見上げてみると、ツバメが二十羽ほど飛び回っていることに気がつきました。いずれも例年に較べて早いように思いますね。春本番が駆け足で近づいて来たようです。

 さて昨晩、調布駅前の飲み屋で研究室の追いコンを開きました。そのお店は初めて行きましたが、実はその場所には二十年ほど前にはチェーンの洋食屋があって、調布に住んでいる頃にはよく食べに行きました。「魔女風グリル」というメニューがあって、それが我が家のお気に入りでした。ただそのお店でクレジット・カードのスキミングの被害を蒙ったので、それ以来足が遠のきました。そういうちょっとよくない思い出のある場所でしたが、追いコンとはなんの関係もありませんな。

 今年もあまり調子はよくありませんでしたが、昨年は追いコンに出席すること自体ができませんでしたので、今年はそれに較べるとまだ良いということでしょうか。お酒は飲みませんが、この日はお茶とトマト・ジュースでしのぎました。でも、ソフト・ドリンクで四時間を過ごすのはやっぱりつらかったです。

 で、追いコンですが、今年は数名のOBも参加して下さいました。遠藤俊貴さん(元助教)、片江拡さん、鈴木拓也さん、松田卓也さんの四名です。忙しいなか、調布までお出でいただきありがとうございます。皆さんから構造設計や施工管理などで活躍している様子を伺いました。だいたいのひとがそうなのですが、社会人になると(学生の頃と違って)シャキッとするのが不思議ですね〜。もっともスーツを着ているからそう見えるだけかもしれませんけど、あははっ。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:北山研追いコン2016at調布:P1010425.JPG

 今年度はM2四名、卒論生三名の合計七名が旅立ちます。もっともM2の諸君はまだ研究途上という感じのひとも多いので、昨日の追いコンの場でこの四月以降も彼らの席を用意しておく、ということで話しがまとまりました(もっとも四席は無理ですから、一席ということでご勘弁下さいね)。まだしばらくは彼らと一緒に研究ができるかと思うと、いやあ、嬉しいですね〜。とりあえず成果がでるまでお願いします。

 ということで、OBも巣立ってゆくひともこれから研究に邁進するひともそれぞれの目標を持って有意義な人生をおくって欲しいと思います。皆さんの活躍を期待しています。


合格発表2016 (2016年3月22日)

 後期日程入試の合格発表が昨日(21日)にありました。これで2016年度の入試は全て終了したことになります。昨年7月の編入学試験から始まって推薦入試、学士入試、前期日程入試、私費留学生・帰国子女等試験、そして3月12日の後期日程入試まで、考えてみれば本当に長〜い入試日程です。毎年これをやっているかと思うとあらためて大変さが分かろうというものです。

 さて、建築都市コースでは後期定員10名のところ、諸般の事情によって14名の合格者を出しました。これは定員割れになることを避けるためですが、そうかといって入学者が多くなるとその後の教育に差し障ります。そのあたりのさじ加減は毎年悩むところです。入学手続きは3月27日までですので、それ以降に入学者が確定します。そしてすぐに新年度を迎える、という慌ただしさは例年通りですね。


ひとを評価する (2016年3月20日)

 いいお日和になりましたね。今日は春分の日ですが例によって教室会議と教授会とがセットされているため登校しました。校内では(ソメイヨシノではない)桜がちらほら咲き始め、スイセンも黄色い可憐な花を咲かせています。調子がどん底になって数日休みましたが、少しずつ復活してきたように感じます。花粉は相変らずつらいですけど…。

 さて、いま電車内読書で『2020年の大学入試問題』(石川一郎著、講談社現代新書、2016年2月)を読んでいます。いろいろと勉強にはなりますが、どうしても好きになれないのが欧米に対する過剰ともいえる追従の姿勢です。確かに教育や大学入試に対して日本よりも優れたやり方とかシステムが欧米にあることは事実でしょう。

 しかしそれを盲目的とも取れるかのようにもろ手をあげて推奨するような姿勢はどうかと思いますね。いつも書いていますが、アングロ・サクソン一辺倒主義が(自分たちが声高に主張する)文化の多様性を阻害しうる大きな要因となることにどうして気がつかないのでしょうか。

 同様に文科省が進めようとしている大学入試改革についても、(今まで読んだ範囲では)100%肯定的な記述に終始していて、そこに内在する様々な問題(そのいくつかについては既にわたくしもこのページで記述しましたが)など存在しないかのようにバラ色の大学入試改革として捉えられています。

 さらに本書には小論文課題などを解くときに、「コンペア・コントラスト」を駆使して「コーズ・エフェクト」を抽出し、「クリティカル・シンキング」を発動すればよい、みたいな記述にしばしば出くわします。このカタカナ用語はどうやらアメリカの教育学(もっと具体的にはアクティブ・ラーニング実践)から出ている専門用語のようですが、そんなお題目だけで問題が解けるわけありません。

 ひと様が書いた本に対して文句ばかり書いてすみません。でもまだあります。今までのペーパーテストが一点刻みだったのを、新しい大学入試ではそれをやめて(優良可みたいな?)グレード表示にすることを良いことのように書いていますが、それも本当でしょうか。

 わたくしの経験では、まず評価すべき事項を抽出してそれぞれに対して100点満点等で点数付けして、それらを適宜重みづけしながら合計して、その得点範囲に応じて「優」とか「可」とかの評価を下しています。もちろん評価すべきモノによってはそのような点数化ができない場合もありますが、それは非常にレアなケースです。

 ですから成績をグレード表示する場合も大方はまずディスクリート(離散的)な得点を付与して、成績を開示するときにはそれに応じて適宜グレーディングする、ということになると想像します。それだったら、素点である一点刻みの得点を用いても別になんの不都合もありません。実際、成績が「良」であったときにそれが「優」に近いのか「可」に近いのかは分かりませんが、点数であればそれが厳然として分かるわけです。

 極論すると(これを言っちゃおしめ〜よ、って寅さんなら言うでしょうが)ひとが他人さまを評価することなんてできるわけがありません。どんなことをしたって、その評価はその評価軸に従って出てきたもの以上ではあり得ません。ひと様を全人的に評価する、みたいなことを宣う方がときどきおりますが、そんなこと不可能ですよね。

 ですからペーパー試験による一点刻みの評価が悪くて、小論文などによるグレード表示がよい、などと主張することはそもそもがおかしいと迂生は考えるわけです。それぞれに一長一短があってそれを理解したうえで採用されてきた長い歴史がありますから、一方的にダメというのはそれこそ短絡的だと思います。

 もちろん、大学入試(だけでなく高校以下の教育を含めて)をどのように改革すれば若者の考える力を伸びさせることができるか、という視点は重要であるという認識には同意します。でも、ひとがひとを評価することの困難さは常に認識して議論したほうが建設的だよ、と申し上げたいだけです。


春先の調子 (2016年3月15日)

 真冬のような寒い日が続きましたが、きょうはやっと春らしい陽射しのさす天気になりましたね。例年のことなのですが、春先は天候が不順なせいでしょうか、三月中旬くらいから調子が悪くなることが多く、今年は大丈夫かなとちょっと期待していたのですが、やっぱりダメで調子が下り坂になってきました。花粉なのか風邪なのか全く区別不能、というのも調子が悪い方向に転がるのを助長しているような気がします。

 この三月末をもって芳村学先生が定年退職されるので、学部やコースの送別会がこれからあります。また研究室の追いコンも来週に予定されています。お酒は飲まなくなったとは言え、疲れ易いこの時期なので大丈夫かなあと心配です。

 さらにはもう直ぐJCI年次論文の査読結果が帰って来るはずです。条件付き採用とかになると査読対応のために、またまた頭を悩ますことになります。それだけの元気とやる気とが残っているかどうか、これまた心配の種は尽きませんね〜。まあ毎年、なんとか遣り過ごせていますから今年も大丈夫なんだろうと思うしかありません(根拠のない楽観ですけど…)。


あれから五年 (2016年3月11日)

 2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)から五年が経ちました。そうそう、あの日もきょうと同じ金曜日でしたね。津波やそれにともなう原発事故についてはきょうは触れません。この地震による建物の被害でわたくしが注目したのは、耐震補強した鉄筋コンクリート(RC)建物の挙動でした。既存RC建物の耐震補強は有効に機能した(すなわち被害を軽減できた)というのが総体的な印象ですが、中破程度の被害を受けた建物もありました。

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 そのような建物を個々に丁寧に調べると、その理由はだいたい理解できるのだろうと思います。実際、わたくしの研究室で検討した事例では補強RC建物のPush-over解析や地震応答解析によって被害の原因をおおむね説明できました。しかしこの2011年の地震で最も気になったのは、このように上部構造を耐震補強したRC建物の杭基礎の被害です。せっかく耐震補強したのに杭基礎が激しく損傷した結果、建物を使い続けることができなくなり取り壊しになった事例にいくつか行き当たりました。

 地震による上部構造の被害を軽減できれば、人命の保全という大目標は達成できます。しかしそのあとの建物の継続使用という観点からは、杭基礎の被害を看過することはできません。社会の成熟にともなって人々の要求は多様化し、欲望はいや増します。このような社会では、ひとの命さえ守れればそれでよいという考え方だけでは対応できなくなっています。

 すなわち、上部構造を耐震補強したのに杭基礎が壊れたので建物の資産価値がなくなった、ということを現代社会は受容しないということです。これは建物のオーナーにしてみれば当たり前の事柄ですが、耐震補強する技術者が今まで持っていた「命が助かったのだからそれでいいだろ」的な感覚とは相当に乖離しているわけです。これはやっぱり成熟社会の工学としてはまずいでしょうね。

 ここで研究テーマが浮上します。耐震補強した建物の上部構造と杭基礎との被害の相関についての検討です。もっと言えば、上部構造を耐震補強した結果、地震時に杭基礎に入力される力が増大して、そのことが杭の損傷を加速させたという仮説の妥当性を検証することです。

 そこでこの五年のあいだ、このことを検証するための研究を進めています。しかし(自慢にもなりませんが)わたくしは基礎より下の杭とか地盤とかについては今まで研究したことはありません。そこで、我が社の大学院生諸君に杭や土質の勉強から始めてもらいました。そして当座の目的は、地盤—杭—建物連成系のモデルを用いた解析を行うことですが、これはこの二年間でM2の新井昂くんがなんとか道筋をつけてくれました(新井くんがこの三月末で大学院を卒業しちゃうのは痛手ですが…)。

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   作図:新井昂くん

 地震が起こるたびにそこから教訓を得て、耐震設計法が進歩するというのが今までの日本の耐震構造学の歴史でした。本当のことを言えば地震が来る前にそういう被害を予測して対応できればよいのですが、残念ながらそうはなりません。これは、現状に満足し勝ちであるという人間の本性に起因するのか、あるいは単に人智が及ばなかったのか、多分この両方のせいなんだろうと考えます。

 2011年の地震でも幸か不幸か、わたくしは(例えば)上述のような教訓を得ましたので、それを無駄にしないようにこれからも研究を続けてゆこうと思います。もちろん具体的な研究は我が社の学生諸君にやってもらいますので、そういう気概のある若者に来てもらい(これは大学院生大募集!ということです)、ともに研鑽してゆきたいと願っています。


台湾地震の速報会 (2016年3月10日)

 この数日、寒い冬に逆戻りした感じで冷え冷えしますね。先週末は暖かかったこともあって大学構内のハクモクレンのつぼみが膨らんで、ちらほら咲き始めました。わたくしにとってはこの木の開花が春到来の合図になっています。でも、やっぱりまだ寒い…。

 さて冷たい雨の降った昨日、日本建築学会・災害委員会が主催する台湾地震被害調査速報会が東大地震研究所で開かれました。勅使川原正臣先生(名古屋大学教授)を団長とする調査団に参加された先生方がほぼ全員お揃いで多様な報告をして下さいました。また最後に塩原等先生および河野進先生から、今回の教訓と今後の課題や台湾との共同研究の可能性等について示唆に富むお話しを伺いました。とても有益な速報会だったと思います。

 この速報会には九十名くらいの方が参加してくれました。日本に近い先進国である台湾に対して関心を持ってお出での方が多いということを物語ると思いますね。そのなかに小谷俊介先生を見つけました。久しぶりにお会いしましたが、この日の午前中はボランティア活動をしてきたと仰っていました。相変らずせかせかとした話し方で、学生の頃にしょっちゅう怒られていたことが沸々と湧き上りましたね。でも、お元気そうでしたのでそれはよかったです。

 で、速報会では司会をするように壁谷澤御大から仰せつかりました。時間は十分にあるから気楽に(?)やっていたのですが、終了予定の午後五時を大幅に超過してしまいました。どこで時間の計算を間違えたのかちょっと不思議でしたが、大勢の方にお話しいただいたので、少しづつ時間が超過して塵も積もれば何とやら、ということだったのかも知れません。

 いずれにせよTime Management が下手くそでまずかったなと(今は)反省しております。でも、前述のように得るものが多かったのでまあいいか、とも思いますね。あるいはプログラムに書く終了時刻をさばを読んで午後5時半とかにしておけばよかったなあ、とも思います。


最終講義2016 (2016年3月6日)

 この週末、芳村学先生の最終講義が行われました。これは建築都市コースの正式行事ですので、コース長の須永修通教授(建築環境学)がとても丁寧に芳村先生を紹介して下さいました。それから約一時間半の講義がありました。またその後、生協食堂に場所を移して懇親会が開かれました。

 このページで既に書いたように、わたくしは大学4年生の夏に遊びに行った建設省建築研究所で芳村先生と出会いました(こちらです)。芳村先生とはそれ以来のお付き合いですから、わたくしの研究者人生の冒頭から登場する主要な人物ということになります。

 でも、まさか同じ職場の“同僚”となるとは思いませんでしたね。これは果たして天の配剤かとも思いますが、実際は西川孝夫先生の深謀遠慮のなせる技だったんでしょうね…。1990年代の半ば過ぎまでは芳村先生もまだ助教授でわたくしと同じ職位でしたから、「北山と今じゃ同僚だよ」ってその当時よくおっしゃっていたのを思い出します(やっぱりちょっと苦々しかったのかも?)。

 さてその最終講義ですが、芳村先生ご自身が熟考されたと仰っていましたが、その通りによく練られた分かり易いお話でした。最終講義というと自分の恩師とかお世話になった方などが網羅的に登場することが多いように記憶しますが、芳村先生のスライドに現れたのは渡部丹先生(故人)の写真が唯一でした。その点でも芳村先生のクールさがあらわれていたと思いますね。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:芳村学先生最終講義_懇親会_20160305:P1010406.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:芳村学先生最終講義_懇親会_20160305:P1010408.JPG

 建研時代の実大7層建物実験は芳村先生の代表作のひとつでしょうが、それをあまり面白くないなと思いつつも7編の論文を書いたのは収穫で満足感はあった、というようなことを言っておいででした。なるほど、やはり頭のよい方は違うなあと思いましたね。冷静に自分の立ち位置を判断し、国家プロジェクトの目的を的確に理解されていたからこそ、そのようにお考えになったのでしょうから。

 ここから先はこのような最終講義一般について記します。わたくし自身は実は最終講義はやりたくないと思っています。好きなことを好きなようにしゃべって他人さまに聞いていただく、ということはそうそう機会があることではありません。でも、それだったらこのページで研究のこと、大学のこと、生活のこと等既にもう好き勝手に論じていますので、これで十分だと思うのですね〜。

 さらに言えば、自分が何をどのように研究してきたか、何を考えてきたかということをわざわざ時間と場所とを設定したうえで他人さまに聞いていただくことはあまりにも申し訳ないし、そもそも気恥ずかしいということを感じます。実際、最終講義をやらなかった先生もおいでになります(例えば、寺田貞一先生とか)。ですからわたくしは最終講義はできればやらずに、ひっそりと人知れず退場したいと考える次第です。もっとも、そのときになったら最終講義ヤルぞ〜ってことになっているかもしれませんけど、あははっ。


人とのつながり (2016年3月5日)

 きょうは土曜日ですが教室会議および教授会があるので登校しました。そのあと夕方からはついに芳村学先生の最終講義です。西川孝夫先生が退職されてから既に十年が過ぎ、今また芳村先生がおやめになるとついにわたくしが構造系の先任教員になります。研究室の先輩であるお二人には今まで大いに助けていただきましたから、そのご恩を今度はわたくしが後輩たちに返す番が回ってきた、という思いを新たにいたしました(もちろん、このことはいつも自覚しております)。

 さて、先日このページにコース長のお仕事ってホント達成感がないんですって書いたら、人生を考えることの達人である境有紀さんからいろいろと貴重なご示唆をいただきました。どうもありがとうございます。

 確かにどんなお仕事でも、そこに価値を見出して(自分自身に無理矢理そういうふうに思わせるってこともあるでしょうが)やる気を奮い立たせる、ということは重要でしょうね。どうせやるんだったら前向きに気持ちよくやったほうが能率も上がるし、気分も明るくなるでしょうから、精神衛生面のみならず健康のうえからもそうあるべきだと考えます。

 そのときに「人との繋がり」が大切であるというのが境さんのご指摘で、そういう視点はわたくしは持ち合わせていなかったので、なるほどと思いました。実際のところ、建築都市コースの構成員諸氏がコース長に感謝の念を抱いているかどうかは分かりません(相当程度、怪しいですけど…)。でも、彼らのお役に立っていることは事実でしょうから、それで十分かも知れません。

 人間は社会的な動物で、善かれ悪しかれ他人の目から逃れることはできません。アイツは仕事ができる、と思われると(境さんのように)そのひとに仕事が集中してハッピーにはなれませんし、結局は疲弊してつぶれてしまうでしょう。でも逆に無能なヤツというレッテルを貼られても、それはそれで腹立たしいっていうこともあります(もちろんわざと無能のフリをする、という高等テクニックもないではありません)。

 その辺りの微妙なバランスが難しいですな、ホント。でもこんなことをウダウダ言っていること自体が、結局は自分勝手でわがままな人間ってことなんだろうと思いますね、あははっ。


足の役割分担 (2016年3月3日 その2)

 車のはなしです。ブレーキとアクセルとを踏み間違えた結果、悲惨な結果を生む事故があとを断ちません。とくにある程度高齢の運転者に多いようです。なぜそのようなペダルの踏み間違えが起こるかを考えると、それは右足一本でブレーキ操作とアクセル操作とを行っているからではないでしょうか。

 わたくしは右足はアクセル、左足はブレーキと決めてから既に三十年近く経ちます。これはマニュアル車からオートマ車に乗り換えてからですが、左足を常にブレーキに載せて運転するととっさの危機回避には非常に有効だからです。わずかコンマ数秒の違いですが、右足をアクセルからブレーキに踏み替えるには時間差が生じます。それを避けるためで、左足ブレーキのお陰で危機一髪追突を回避できたこともありました。

 最近ではマニュアル車を運転するひとは非常に少ないと思います。昔は左足をペダル操作に使うことは嫌われていたこともあるようですが、テクノロジーの進歩とともに車の運転操作も変わって当然でしょう。このような足の役割分担はとっさの危機回避だけでなく、上述の踏み間違えによる不慮の事故を防ぐにも大いに役立つと思います。皆さんはいかがお考えでしょうか。

 なお左足では微妙なペダル操作ができないとお考えの方もいるでしょう。でもそれは左足でクラッチを踏んでいたときの記憶です。慣れれば左足でも十分に微妙な操作をできるようになりますよ。


つかの間の真空地帯 (2016年3月3日)

 花祭りですね。大昔ですが、通った幼稚園はお寺の付属だったせいか「のの様」(観音様のことです)に甘茶をかけてお祝いしたことをいまでも憶えています。その当時もらった漫画には、仏さまがピンクの雲にのってやって来る絵が描かれていて、仏さまってすごいなあって思ったものです。幼児って純真なんですね、あははっ。

 例によって花粉ちゃんがすごくて頭ボーっが続いています、つらいっす…。さてここのところ、研究室の学生部屋は閑散としています。M2も卒論生もほとんど見かけません。皆さん就職を目前にして旅行に行ったり諸々楽しんでいることでしょう。

 というわけでここしばらくはエア・ポケットというか、つかの間の真空地帯を過ごしています。外でのお仕事を減らしてきた介あって、研究室のなかで充実した時間をおくることができて我ながら満足です。ほとんど誰もやって来ませんし、静かな日々もいいものです。

 でもこの4月から建築都市コースの“公僕”としてのコース長のお役目が待っていますから、そのための準備はしないといけません。まあ二年前にやったばかりのお仕事ですから、そのときの文書ファイルとかメモとかが結構役に立っています。ですから二年前よりは緊張せずに4月を迎えられそうな気がします。

 それにしてもこの“公僕”のお仕事って、筑波大学の境有紀さんじゃないけどホント達成感を感じられないお役目ですなあ。回りからは一年間それを勤めるのが当たり前みたいに思われて、なにかあれば教室の皆さんに頭を下げてお願いしないといけないし、根回しをちょっと怠ると聞いていないと反発され…、とまあこんな感じでいいことないです。

 これではあまりにも滅私奉公みたいで情けなく思います。それが大学人としての嗜みだと分かっていても、このように気が滅入るのはいかんともしがたいです。コース長にも少しくらいメリットがあってもよいのではないでしょうか、その一年間は秘書を付けてくれるとか、翌年は全ての役職を免除してくれるとか…。そんな他力本願みたいなことは無理でしょうから、自分自身でなんとかそれを見つけ出したい(ひねり出したい?)と思う今日この頃でございます[愚痴モードになってしまってすみません]。


研究倫理教育を履修する (2016年3月1日)

 三月になりました。春、爛漫です。きょうの気温は低いですが、陽射しには力強さを感じます。こんな天候なので花粉ちゃんが大はしゃぎです、いやあ困ったもんですね〜。先日の同窓会で会った伊東正明くん(東京弁護士会の弁護士です)は花粉症なんて縁がないって言っていました、羨ましいです。

 さて二月末に壁谷澤寿海御大から、ある研究事業に加わるようにお誘いいただきました。いつもながらありがたいことです。でも、それには条件が付されていました。JSPS(日本学術振興会)が指定する研究倫理教育を履修すること、というのがそれです(こちらにあります)。

 このテキストは120ページもある、結構大部な資料です。まあ、せっかくの機会だから研究倫理をここらでしっかり復習しておくか、という感じですが、お陰で貴重なお休みを大方費やすことになりました(お上の言うことには逆らえませんから…)。

 で、そのテキストを読んでいると、これはやっぱりO保方さんの“事件”が大きく影響していることが端々に感じられるんですね。全くもって迷惑な話しですよ。わたくし自身はまともな良識ある研究者であると自任しています。ですから新しく得るようなものはあまりありませんでした。むしろ若い駆け出しの研究者の皆さんにこそ通読することをお勧めします。

 ただ、その論調はいつもながらのアングロ・サクソン文明の通念に則っていることが、読み進むうちに分かりました。確かにそれは便利なときもありますし、納得できる事柄もあります。でも、文化・文明ってそれだけじゃないでしょう? こういう重要なテキストだからこそ、多様な思考方法があることを示しながら、社会通念としてあるいは人間としてことの良否を判断することの大切さを示すべきなんじゃないかと、(余計なことながら)思いました。


中学校のとき (2016年2月29日)

 ことしは閏年なので29日までありますからちょっと得した気分ですが、皆さんいかがでしょうか。まだまだ寒い日もありますが、少しずつ暖かくなっているような気がします。

 さて、この週末に中学校のときの同窓会が久しぶりにありました。新宿区立のT山中学校です。当時は六クラスあり、約八十人が集まりました。恩師の先生も理科の小林先生(当時はとても怖かった思い出があります)や、わたくしが二年生のときの担任だった石塚先生(国語)、三條先生(理科)および高橋晋先生(数学)の四名がお出でくださいました。

 その同窓会ですが、四十年ぶりに会う人もいて(いつもながら)誰が誰だかほとんど分かりませんでした(特に女性はそうですね)。それでも話しているうちに当時の面影を思い出したひともいましたけど…、まあそれは少なかったです。こちらは相手を憶えていても、向こうは憶えていない(あるいはその逆)ということはよくありますが、そうすると会話が続かなくて間の悪い思いをします。そういうときはどうすりゃいいんでしょうか。

 で、恩師の先生方のお話しを聞いていて気がついたのですが、当時のわがT山中学校は公立にもかかわらず都区内では優秀な中学校として有名だったそうです。現代の感覚ではそんなことが本当にあるかどうか疑わしいですが、当時は都内の「公立御三家」って呼ばれていた、と仰っていました(じゃあ、残りの二校はどこ?)。

 でもそう言われてみれば、学校のそばには公務員宿舎や国鉄アパートが林立していましたから、子どもの教育に対する意識の高い家庭が多かったのは事実だと思いますね。わたくしは目黒区立の小学校から、転居にともなって新宿区立のこの中学校に進みましたが、当時の小学校の担任の先生が「北山くんの行く中学校はレベルが高いよ」って言われたことを思い出しました。

 というわけで、あまり意識したことはなかったのですが、恵まれた環境で中学校時代を過ごすことができたということみたいです。ただそのときの同級生で今もなお付き合いが続いているのは、わずかに三人だけです。我ながら少ないな〜と思いますが、腹をわって話せる友人がいるというのはありがたいことですし、それくらいいれば十分だろうとも思います。


二・二六事件 (2016年2月26日)

 帝国陸軍の青年将校たちが雪の降る東京都下で反乱を起こしてから、今年でちょうど八十年です。現代の日本には軍隊はなく(自衛隊はありますが…)基本的には平和な時代ですから、二・二六事件のことを知っているひとは減っているのではないでしょうか。

 その時代に決起した若手軍人たちの思想や主張をここで論じることが目的ではありません。そうではなく、天皇の軍隊であった旧軍部の暴走を誰も止められなくなった、そのアクセルを踏んだのがこの事件だったとわたくしは思います。このページで何度も書いてきたように、制御がきかなくなった旧軍部が日本国民を破滅へと導き、その結果として昭和二十年の終戦を迎えた事実は決して忘れてはなりません。

 歴史は群像としてのひとびとによって作られますので、個々の登場人物たちをないがしろにすることはもちろん適切ではありません。しかし上述の歴史の流れのターニング・ポイントのひとつとして二・二六事件を記憶することは大切だと思いますね。ちょっと情緒的な物言いですが、わたくしは歴史家ではないのでロジカルには説明しかねます。その点はどうかご容赦ください。


少年サイダー (2016年2月25日)

 突然ですが子どもって、サイダーが好きですよね。きょうも学校から帰ってみると、子どもが飲んだ三ツ矢サイダーの缶が台所に置いてありました。よく冷えたラムネなんかもよく買ってもらっています。ビー玉がカラカラ音をたてるのを聞きながら飲むと風情があっていいですよ。もっともわたくしは炭酸がそんなに好きではないのでサイダーはほとんど飲みませんけど、あははっ。

 タイトルの「少年サイダー」というのは、実は村田和人さんの『ずーーっと夏。』(2009年)というアルバムに納められた曲です。わたくしの手元には『ひとかけらの夏』(1983年)から『ずーーっと夏。』までの七枚のアルバムがあります。その村田和人さんの訃報に昨日接しました。62歳だったそうです。昨年末に聴いた伊藤銀次のネットラジオでは元気そうな声だったし、お正月の「杉祭り」でもライブに出演したというので驚いています。いつもながら人生の無情を感じます。

 彼の楽曲というとまず始めに「一本の音楽」が出てきます。確かに代表曲のひとつではあるでしょうが、そのイメージがついて回ったのは彼にとっては本意ではなかっただろうと思います。だってその他にも素敵な曲がたくさんあるのですからね。

 でも結局そのイメージは最後まで変わらず、亡くなったあとの訃報でも「一本の音楽」だけが記されていました。残念だったんじゃないでしょうか。もっともご本人はそんなことは気にしていなかったかも知れません。やりたくない仕事はせずに好きなことだけやっています、ってネットラジオでは言ってたから本人は満足だったかな?

 わたくしが一番好きなのはだいぶ前に紹介した『Boy’s Life』(1987年)というアルバムです。これが出たのは今から約三十年前ですから、彼もまだ若かった。それを割り引いても、このタイトルの通り少年の心を忘れなかった彼の生き様が偲ばれます。これを聴いていた頃、わたくしは大学院博士課程の学生でした…。彼の新しい歌をもう聴くことはないと思うととても寂しいです。

MurataKazuhito:Boy's Life

 サイダー 僕のアルバムの中に
 サイダー 思い出が増えてゆくよ
 無邪気な少年の日々と
 いつから かわいい君とサイダー
(「少年サイダー」より、作詞:田口 俊/作曲:村田和人)

 永遠の夏男だった村田和人さんのご冥福を衷心よりお祈りします。


花粉2016 (2016年2月19日)

 修論・卒論等の発表会が終わって大学のなかは森閑としています。きょうは陽射しが強く再び暖かな陽気となって気分も少しばかり晴れやかに感じます。でも、そう喜んでばかりもいられません。ついにアイツ(花粉ちゃんです)がやって来たからです。

 今週のはじめにものすごく暖かい日があったせいか、今週半ばからわたくしのセンサー(鼻のことです)が花粉を感じるようになってきました。そして昨日あたりからいきなり目がカユカユで鼻ズルズルの花粉全開モードに到達してしまいました。あまりのつらさに堪らず、良く効くという目薬を朝登校する途中で衝動買いしたくらいです。花粉症じゃないひとがしんそこ羨ましいです。

 ホント、これが学事ウイーク後のことでよかったですよ。花粉のおかげで頭がボーッとするため、集中して物事を考えようという気概が完全に消失します。こんな状態が基本的には四月初め頃まで続くかと思うと憂鬱になりますなあ。

 こんな状態ですから、無理せず少しのんびりしたいと思っています。四月からは学科の“公僕”としてお仕事させられるんですからね。大学再編もどうなるのか(下々にとっては)流動的で気を緩められません。どうせガンガン研究するなんてことはもうできませんから、年齢相応にゆっくりやってゆくべきなんだろうと考えます。

 きのうから、四月から始まる「RC構造保有水平耐力計算規準」講習会のスライド作りに取りかかりました。コンテンツはきまっているものの、どういう構成で発表しようかと思案しています。しばらくはあれこれ悩まないといけないんでしょうな、やっぱり…。この作業は結構つらいです。

 研究室の先輩である芳村学先生の最終講義(三月五日午後五時スタート)も迫って参りました。芳村先生はもうスライド作り等の準備は終わったのでしょうか、いまは研究室を畳むための片付けをされていますけど…(大変そうですゾ)。

 上記の講習会にせよ講義にせよなんだろうと、今はパワーポイント(等のプレゼン・ツール)でコンテンツを作らないといけません。コンピュータの発展のお陰で作業自体は格段に楽になっていますが、そのコンテンツの細部やストーリーを考えるという知的作業は昔と変わりません(当たり前ですな)。この作業がだんだん億劫になって来たのは年齢のせいなのか、それとも仕事のマンネリズムなのか、どうなんでしょうか?


ハードな二月前半 (2016年2月16日)

 きのう、卒業論文の発表会が終わりました。我が社の三人は上手くこなしたひともいれば、壇上で立ち往生しちゃったひともいて、それぞれの喜怒哀楽を味わいましたが、とりあえず無事に(?)終わってよかったですね。梗概提出から発表までの約二週間でとりあえず研究が形になったようなものですが、総じて研究室の先輩がたのありがたさが身に沁みたのではないでしょうか。ただちょっとだけ苦言を呈すると、もう少し早くヤル気モードになったらよかったのになあとは思いますよ、ほんと。

 これで二月六日から始まった各種の学事発表会が全て終了しました。きのうの夕方に修士および学士ともに最終成績を申告して教室全体の了解を得たところです。途中で休日を挟んだとはいえ(毎度のことながら)ホント疲れますな〜。一月に引き続いて二月前半も予想以上にハードでした。でもこんなに疲弊していて四月からの新学期を乗り越えられるんでしょうか、かなり心配になってきました。

 ということで思いは来年度のことに移ります。我が社では研究室の中核となって活躍してきたM2の四人が抜けてしまいますので、来年度の研究室の戦力は相当に低下するだろうと見ています。具体的にいうと新M1はひとりだけで、新卒論生四人にどういった研究テーマを割り振るか、これから考えないといけません。

 少なくとも今年度みたいに卒論生のスーパーヴァイザーとして大学院生をひとりづつ付けるということはできなくなるでしょうから、研究体制を含めて思案する必要があります。まあ、ひと昔まえに戻ったと思って、再度わたくしが全てを統括すればよいのでしょうが、コース長をやりながらそこまで丁寧に面倒見ることができるかどうか。今でさえこんなにヒーヒー言っているのに、実現できるかどうか怪しいですな。

 でも、できることしかできないのですから(当たり前です)、守備範囲をいさぎよく縮小してチマチマと、かつ、ひっそりと研究を続けてゆくしかないんだと思います。予定では今年の九月末に宋性勳さんが学位を取得して博士課程を修了して旅立ちますから、そうなるとさらに戦力がダウンします。そこまで見越して今から対策を打っておくことが必要ですね(そのときになって愕然としないように、心の準備をしておけってこと)。ぼちぼち考えましょうか…、名案はないけどね。


ちょっと一服 (2016年2月15日)

 春のような暖かさの週末でしたね。我が家では家内とこどもとは出かけましたが、わたくしは疲れが蓄積して辛かったので家で留守番するお許しを得て、ダラダラと過ごしました。少しは英気を養うことができてよかったです。ただ台湾南部の地震があったので、学会から被害調査団を派遣するかどうか災害委員会内で議論していましたので、壁谷澤寿海委員長、楠浩一担当幹事とわたくしとの間でメールが飛び交ってそれに対応するのに時間はかかりましたけど…。

 先週末の晩には非常勤講師の先生方に感謝する会を本学内のレストラン「ルベ・ソン・ベール」で開きました。ちょうど卒業設計の講評会が終わった直後でしたが、金曜日の夜にわざわざ八王子くんだりまでおいで下さる非常勤講師の方は非常に少なくちょっと寂しかったですね。数年前までは新宿あたりでやっていましたが、このレストランができてからはここでやるようになったと記憶します。

 今年の三月末で退職される芳村学先生が挨拶のなかで、この会は利便性を考えて都心でやるべきとおおせになりました。まあ一般論で言えばその通りでしょうが、(来年度のコース長であるわたくしとしては)いろいろと考えることもありますので、そう簡単に変更するのもどうだろうかと思っています。

 さて、わたくしのCDコレクションの発掘(CD棚に死蔵されていたCDを取り出してきてパソコンのiTunesにぶち込む作業をこう呼んでいます)ですが、いまはペット・ショップ・ボーイズ(Pet Shop Boys)の『Behaviour./薔薇の旋律』というアルバムを聴いています。1990年のリリースです。全編に渡って気怠い感じのダルな雰囲気が漂う楽曲です。そのジャンルは”Alternative”となっていましたが、これって何なんでしょうかね? 聴いた感じではソフト・ロックかポップスみたいですけど…。

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 ペット・ショップ・ボーイズの曲ですぐ思い出すのは「West end girls」と「Go west」くらいですかね。それぞれが入ったアルバムは既にiTunesに格納しましたので、そのうち聴くことになるでしょう。

 こんな感じで少しずつ“発掘”していますが、今日までに格納したアルバムは計265枚でした。まだまだ眠っているCDが多数ありますので(そもそもいろんなところ[研究室の本棚にもある!]に仕舞われているので、それを探し出すのも結構な手間なもので…)いつになったら全曲制覇できるのか全くもって分かりません。大モノどころではBeatles、杏里、Bobby Caldwell、Swing Out Sister あたりが手つかずで残っています。


卒業設計をみる (2016年2月12日)

 きょうは卒業設計の発表会です。午前中は例によってポスター形式での発表および採点です。ことしは24名の学生諸君がエントリーしました。まあ図面の枚数が少ないのは毎度のことですが、今年度はわたくしがピンとくるような設計は少なかったというのが第一の感想です。

 卒業設計って、どこに何を建てるかというコンセプトだけで八割がた評価が決まってしまうようにわたくしは思います。最近の若いひとが考えることをよく把握しているわけではありませんので(ジジ臭くてイヤな物言いですけど…)、ファミリアでないことがらを滔々と語られてもなに言ってんだかなあ〜って感じるだけで共感を覚えることはなく、こちらの感性に訴えかけてくるものも何もありません。

 そうすると在りきたりのビルディング・タイプであっても、よく考えられていて図面表現もそれなりにできている作品が高評価を得ることになるんですね(もっともこれはわたくしの評価軸のことを言っているに過ぎません)。そんななかで、お魚を見ながらその魚をその場で食べられる水族館を設計したひとがいました。これなんか(実現可能性はどうか分かりませんけど)、わたくしはいいなと思いましたね。

 ところで2月早々に台湾南部で地震が発生しました。この地震で16階建ての鉄筋コンクリート集合住宅が転倒したことが大々的に報道されたこともあって、日本建築学会から被害調査団を派遣するかどうか今、検討しています。そのためのメール連絡が行き交っていて、それについてゆくのが大変な状況です。わたくし自身は学内業務があってなかなか身動きできないので、(虫のよい言いかたで恐縮ですが)若い方々に現地調査をお願いできたらと思っています。


ラジオを聞く (2016年2月11日)

 久しぶりにラジオを聞きました。TBSで毎週火曜日の夜9時から放送している「Motoharu Radio Show」(MRSと略します)です。佐野元春がDJをつとめていて、半年間の期間限定です。ず〜っと聞きたいと思っていたのですが、火曜日は朝から晩まで授業があって、帰宅して晩ご飯を食べる頃にはMRSのことなどすっかり忘れていて、聞くことができませんでした。

 二月になりやっと後期の授業が終わって、少し(こころに)余裕ができたせいか、今週やっと聞くことができました。まあ、よかったです。ただラジオといっても受信機は持っていませんので、例によってネットで聞きました(ラジコっていうらしいです)。しかし聞いてみると放送は残すところあと六回とのことで、ほとんど聞かないうちに終わっちまうのかとちょっとガッカリです。

 で、残り六回は1990年代に佐野くんが発表したアルバム六枚を順番に回想するということでした。もちろん彼のアルバムは全て持っていますが、1990年代に6枚もアルバムを出していたとは気がつきませんでした。というか、1990年代のアルバムは(申し訳ないですけど)わたくしにとっては影が薄くて、どんな曲があったかも思い出せません。

 1990年代はわたくしにとっては大学に職を得て、助手—講師—助教授とステップ・アップする時期に当たっていました。そのため佐野くんのアルバムも手元に置いていたとはいえ、あんまり聞かなかったのでしょうか。比較的よく憶えているのは『Sweet 16』と『Fruits』くらいです。下は『Sweet 16』のジャケット写真ですが、このなかの「ボヘミアン・グレイプヤード」という曲に“シナモン・チェリー・パイ”という歌詞がでてくるので、それを採用したのかな?

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 そこでそれら六枚のアルバム達をiPodに入れて聞き始めています。聞いてみてもやっぱり耳慣れない曲ばかりでした。ボブ・ディランじゃないですけど、メッセージ性の高い曲が多いようにも思います。初期の頃(1980年代です)のポップではち切れるような曲、あるいは甘く切ないメロディアスな曲が少なくて口ずさみにくい、というのが耳慣れない理由かも知れません。

 でもまあ、ということは二十年以上も前の曲達にもかかわらず、わたくしにとっては新曲も同然ですから(いつも書いているように)これってお得ですね〜。何度も聞くうちにそのよさも分かってくるでしょうから、しみじみ噛みしめたいと思います。


修士論文の発表会2016 (2016年2月10日)

 二日間にわたった修士論文の発表会が終わりました。昨日はプロジェクト研究コースの高柳くんの修士設計と本橋くんの修士論文の発表があり、今日は我が社の四名(新井、石塚、鈴木大貴、星野)の発表がありました。

 何度か書いたように我が社のことしのM2はいずれも優秀で、各自が精力的に取り組んだ課題について上手に発表できたと思います。質疑応答も的確でした。芳村学先生も発表を聞いたあとで皆さん立派だと褒めてましたよ。ただ四名ともまだやり残したことがありそうですから、大学院を修了する三月末までにやり遂げて欲しいと思います。

 ところでこの時期になるといつも思うのです(毎年おなじことを書いているような気がします)が、計画系のひとの発表ってなんであんなに字が小さいのでしょうか? 誰がどう見たって見えない表も頻繁に出てきます。研究室のなかで発表練習しないとも思えませんから、そうだとすると指導教員公認のスライドということなのかな。

 でも発表って、自分の主張や考えをあかの他人に分からせるものですから、計画系(一般的な言葉でいえば文系)とか構造系(おなじく理系)とかの学問分野(カテゴリー)とは関係ないと思うのですが…。それともわたくしがかつて小谷俊介先生から厳しく指導されたようなプレゼンテーションの訓練を受けていないのでしょうか。

 でも発表会の場で、指導教授が座っているまえで「あなたの発表方法は間違っています」とはさすがに言いにくいですねえ(以前にはそれに近いことをコメントしたこともありましたけど…)。来年度はわたくしが建築都市コースのコース長ですから、卒論の発表会の一ヶ月くらい前にプレゼンテーションの極意を卒論生全員に指導するっていうのもいいかな、なんて思ったりするのでした。


もと歌たち (2016年2月6日)

 立春を過ぎましたが寒い日が続いています。わたくしは調子が悪くて、あまり仕事ができないような具合です。先日、学部の期末テストが終わりました。わたくしの『鉄筋コンクリート構造』ですが七、八年前に芳村学先生から引き継いで以来、11名という最小の受験者数でした。RC構造に興味を持ってもらえなかったのはとても残念ですが、履修しないというものはどうしようもないですから…。まあ採点は楽でよかったですけど。

 さて、先日瑞穂町の大井さんから大滝詠一関連の貴重なパンフレットを送っていただきました。お忙しいなか、ナイアガラーのわたくしを思い出していただき、どうもありがとうございます。で、それを見ているうちに大滝詠一さんのお宅にあったというジューク・ボックスを思い出しました。

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 そのジューク・ボックスに大滝さんが入れていた曲のなかで、デイブ・クラーク・ファイブ(Dave Clark Five)の” Any Way You Want It”とか” Everybody Knows”とかを聴いてみようと思い立ちました。そこでネットで見ると、なんとデイブ・クラーク・ファイブのオフィシャル・サイトというのがあって(60年代のグループなのにすごいですね〜)、そこに彼らの曲を聴けるまさにジューク・ボックスがあったのですよ(こちらです)。

 聴いてみるとみんな、なかなかいい曲です。そのなかに“Whenever You’re Around”というちょっともの悲しい唄があったのですが、そのメロディのある部分が大滝詠一さんの曲のどれかによく似ているなあと気がつきました。でも、その曲名がどうしても思い出せません。もしかしたら大滝さんが他人に提供した曲かも知れませんが、確かに聞き覚えがあるんですね。

 でもよく考えればそれもさもありなん、です。だってお気に入りのグループとしていつも聴いていたのでしょうから、そこからヒントを得て曲を作るということはいかにもありそうなことです。

 いずれにせよ、“Whenever You’re Around”から生まれた曲が何だったか、もうちょっとで思い出せそうな感じもするのですが、頭のなかがモヤモヤっとしたままで宙ぶらりんな気分を味わっているところです(誰か教えてくれ〜)。


誰がするのか (2016年2月1日)

 大学入試センター試験の後継として記述式の問題を新たに取り入れる案が提示されています。その記述式問題の採点には約二ヶ月かかりそうなので、試験は11月以前に実施する可能性がある、という新聞報道がありました。それを見て、ギョギョッとして身構えました。

 この入試は日本全国の若者が受験するもので、2018年以降に18歳人口が減少しても四十万人から五十万人が受けると推測します。そんなに多くの答案をいったい何人で採点するつもりでしょうか。記述式問題と銘打つからには、書かせる字数が10字以内なんてことはさすがにないでしょうから、かなりの文字数になると想像します。

 今までの経験から分かるのですが、複数の採点者がいる場合には自由記述式の答案を“公平”に採点することはきわめて難しい作業になります。その難易度は文字数が増えるほど等比級数的に増大します。採点者のあいだでいくら事前の打ち合わせや意思の統一をはかったとしても、採点をしているうちに様々な答案に出くわして(なんせ答案は生モノですからね)、それらに対応するように採点基準は常に流動的に修正されるものです。そうすると一度採点した答案も新しい基準に照らして再度見直す、ということが必要になります。このようなフィードバックは必須の作業になります。これは考えるだけで大変ですよね。

 それをいったい何人の採点者で見ようとしているのか知りませんが、二ヶ月ものあいだそんな作業に集中できるのはどういうひとなんだろうか、というのが最大の疑問です。まさかそれを大学の教員にやらせるつもりじゃないでしょうね。でも冷静に考えればそれが一番ありそうですな。

 いつも書いていますが、大学教員ってそんなにヒマじゃありません。特に11月や12月には卒論・修論が佳境に入りますので、研究指導や実験実施など手取り足取りで面倒を見ないといけません。この時期にはわたくしの大学でいえば卒論の中間発表や最終発表も行われます。授業もたくさんありますゾ。そんな多忙な時期に記述式答案の採点に狩り出されたら教育も研究も完全に停滞を余儀なくされて大変なことになります。

 さらに、一般の皆さんはあまり気にしないかも知れませんが、採点者の読解能力とか基礎教養とかも実は重要です。試験で要求する文字数が増えるほど、その差は顕著になると想像します。なんせ世の中にはいろんな“先生”がいますからね。全国の大学から採点者を出すように言われることになると、それは(恐ろしいはなしですが)現実となるでしょう。他人が書いた文章(この場合は受験生の答案)をそのひとの意図を汲み取って理解し判定することは、結構大変な作業ですから。

 また入試問題の採点というのは、皆さんが想像する以上に神経を使います。極言すれば受験生の人生がかかっていますからね。ですから採点するときには、非常に集中して記述された解答を読むことになります。そんな緊張と集中とが要求される作業を何日も根を詰めてできるもんじゃありません。正直に書けば、いくら報酬を出すと言われてもわたくしはご免ですな。

 このような「重労働」をいったい誰がするのか。そういうことを考えて新しい入試制度を設計しているのでしょうか。どうにも疑問だらけの文科省ですが、このまま突っ走って大丈夫なんだろうかと非常に危惧します。


はじめの一ヶ月 (2016年1月29日)

 今年になってからのはじめの一ヶ月がそろそろ終わろうとしています。で、ウォーミング・アップとしては非常にハードだったというのが感想でして、もう相当に疲弊しています。

 正月明けから中旬までは学生諸君と一緒に査読論文の執筆に明け暮れました。これは自分のやりたい専門分野の研究ですから、大変だとはいっても知的欲求を満足させてくれます。心地好い汗をかいた、というところでしょうね。

 ところが後半の半月は、天から降ってきた(ここでは書けない)事柄に対して教室運営をどうするかという大問題に頭を悩ませてきました。正直なところ、その合間に授業をやったり、石塚くんの書いている論文を一緒に考えたりしてきた、という感じです。教室の先生たちと相談したり、作戦を練ったり、文書を考えたりと文字通り右往左往することになりました。

 いつも書いているようにわたくしはそういう仕事(寝技、根回し、根比べ、などです)は得意ではありません。しかし来年度の教室の責任者を引き受けた関係上、そういう管理のお仕事には北山も呼んでおこう、というふうに皆さんお考えになったようです。それは大学という自治組織においては大切なお役目ですから甘受しますが、それでもやっぱりやっていて楽しいという類いのお仕事ではないですよ、残念ながら。

 このような立場では、皆さんの主張を伺って最大公約数的な意見を抽出し、誰もがある程度納得できるような結論を引き出すことが求められます。これが日本社会の特徴と言ってもよいでしょう。しかしそのためにはものすごい時間とエネルギーとが必要でして、精神衛生上もよろしくないことは明らかです。

 そんな状態にいつまで耐えられるか、あんまり自信はありません、わたくしは…。ですからあるとき突然、あたかも独裁者のように自分の言いたいことを言って、自身の主張をごり押しする、というふうに豹変してみたいなあと夢想したりもするんですねえ(大丈夫でしょうか、あははっ)。もちろんこれは夢想です、最も民主的でフラットであるべき大学の教室ではそんなことは不可能ですから。でも……(夢想は続く)。


先端研究ゼミナールおわる 2016 (2016年1月27日)

 研究室配属された三年生を対象とした『先端研究ゼミナール』が今日で終わりました。我が社には四名の若者が来てくれたことは以前に書いた通りです。昨年末からの約一ヶ月半でミニ研究をやって、A4二枚の梗概を書くというものです。

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 でもいくらミニ研究でも、一ヶ月半じゃなにもできないですよね。いつものように我が社では建築構造に関係することならなんでもよいから調べて、考察して、自分の考えを少しでもよいから書きなさい、ということにしました。その結果テーマは免震、コンクリートの耐久性、木造の継ぎ手および混合構造になりました。各自それなりに調べて少しは勉強したでしょうから、それでよかったと思います。

 ただ、この時期はJCI年次論文の投稿があるほか、卒論や修論の梗概も提出する時期なので指導と原稿のチェックとがとても大変です。そこで今年も大学院生の助けを借りることにしました。幸い、ことしのM2は四人いていずれも優秀なので(前に書いたとおりです)、彼らに三年生のスーパーヴァイズをマン・ツー・マンで任せました。

 その結果、ある程度のレベルに達した梗概がわたくしのところにあがってきましたので、この目論みはうまくいったとほくそ笑んでいるところです。おかげでわたくしは大いに助かりました。もっとも自身の修論を抱えながら三年生の面倒も見なければならなかったM2諸君は大変だったと思います。でもいまの世の中、マルチ・タスクは当たり前ですから、社会に出る前にその訓練ができてよかったんじゃないでしょうか(と、自己正当化してみたりする、なんちゃって、あははっ)。

 なお、この『先端研究ゼミナール』は今年度で終わります。来年度からは新しい授業になりますから、その内容をどうするかは来年度のコース長であるわたくしを中心として考えないといけないんでしょうね、やっぱり。もっと楽に(でも、教育効果は高められるように)したいと思っています。もっとも、「楽に」とは言っても、教育は手間ひまを惜しんではダメですから、そのあたりの兼ね合いは難しいところです。


時間の尺度 400年後の福音 (2016年1月23日)

 今朝の新聞に高山右近がキリスト教の福者に認定されたという小さな記事が載っていました。それを見てキリスト教の時間の尺度があまりにも一般とは隔絶していることに、わたくしは驚きを禁じ得ませんでした。だって、戦国大名だったジュスト・高山右近が徳川幕府のキリシタン禁令によってフィリピンのマニラに追放されてそこで没してから、すでに400年が過ぎているのですからね。

 わたくし自身は無宗教でキリスト者でもありません。ただ母方の祖母がキリスト教に帰依していたため、ミサとか賛美歌とかを子どもの頃によく目にし、耳にもしました。“天にまします我らが父よ、願わくば…”のようなアーメンの前のお祈りの文言とか、“慈しみ深き、父なるイエスよ…”といった賛美歌の歌詞を今でも憶えています。

 そのせいかどうか分かりませんが、高校生くらいの頃から江戸期以前のきりしたんに興味を持ってきました。古くは遠藤周作の『沈黙』が日本のきりしたんの苦悩を描いた小説として有名で、わたくしも二、三回は読みました。新しくは飯嶋和一の『黄金旅風』や『出星前夜』で江戸初期の長崎や島原でのきりしたん達の信仰と苦闘とがテーマになっています。

 いまは、戦国末期から江戸初期にかけてヨーロッパに派遣された四人の少年(天正遣欧使節と呼ばれます/本能寺の変は天正10年です)にまつわる物語を綴った『みんな彗星を見ていた —私的キリシタン探訪記—』(星野博美著、文藝春秋、2015年10月)を読んでいます。それとあわせて同じ天正遣欧使節を題材とした、若桑みどり先生の『クアトロ・ラガッツィ —天正遣欧使節と世界帝国—』(集英社文庫、2008年3月)も二回目の通読に入っています(若桑先生は歴史の専門家でもなんでもありませんが、この本は名著だとわたくしは思っています)。

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 そのような本を読めば読むほど、フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えて以来、戦国期の日本で市井のひとびとはキリスト教をどのように理解し、そしてそれを受け入れるようになったのか、そのメカニズムの謎はどんどん深まります。それを知るためには当時のひとびとの生活がどのようなもので、なにを信じ、なにに畏れを抱いていたのか知らなければならないのだと思います。

 それらを知ることは専門の研究者ではないわたくしにはなかなかに難しそうです。しかし、いくら弾圧され迫害されようとも、自身の信仰を捨てなかったひとびとがわれわれの祖先にいて、そのひと達の生きざま自体が今もなお鮮烈なメッセージとなってわたくしの胸に迫ってくるんでしょうね、きっと…。

 キリスト教では殉教をもっとも名誉なこととして重んじるようです。徳川幕府の支配する日本に入国すれば、捕らえられて処刑されることが分かっていながらヨーロッパ人の宣教師たちは続々と日本にやって来ました。宣教師たちがそのように行動した理由は殉教を目指していたからではないか、と星野博美さんは前述の著作に書いています。そうして個々の殉教の事実がバチカンでの厳しい査定の果てに認められると、福者とか聖人とかに認定されるそうです。

 しかしそのためには非常に長い年月が必要で、場合によっては殉教後数百年経ってから、ということもザラみたいです。ジュスト・高山右近は幕吏によって殺害されたわけではありませんが、その揺らぐことのない信仰ゆえに故国を追われ異国の地で寂しく没しました。それから400年後の現代においてそのことが殉教に準ずるとして認定された、ということだろうと思います。

 確かに福者とか聖人とかに列せられることはキリスト者にとっては非常な名誉なのでしょうが、いかんせんそれは本人の死後のことですから、キリスト教徒ではない(わたくしのような)一般人には理解しがたく思います。こころのなかの信仰に対して福者などのグレードを設定しているようにも思えます。そうするとキリスト教って、結構権威主義じみたものなのかなとも考えます。

 ただ少なくとも江戸時代に殉教した日本人の大多数はそのような権威主義とは無縁だったはずです。だって彼らは、天正遣欧使節の少年たちや慶長遣欧使節の支倉常長らを除いて誰もローマの法王庁に行ったこともなければ、見たこともなかったのですから。純粋に信仰に殉じたと思うのですが、どうでしょうか。


満 員 学会の講習会 (2016年1月22日)

 日本建築学会から2016年4月に刊行予定の「鉄筋コンクリート構造保有水平耐力計算規準(案)・同解説」ですが、4月初旬に開催される東京会場での講習会が早々に満員札止めとなりました。多くの皆さまにお申し込みいただいたことに御礼申し上げます。保有水平耐力設計について構造設計者や研究者の諸氏が今なお大いに関心をもっておいでということが再確認できました。

 ということで、東京での追加講習会を(多分)5月23日に開催することになると思います。詳細は日本建築学会のウエッブ・サイトをご覧下さい。近日中に告知される予定です。

 なお東京会場の講師ですが予定されている全7名のうち、梅村・青山・小谷研究室のOBが5名いることに気がつきました。ときどき書いていますが、優秀な先輩・後輩がたの末端に加えていただけることを感謝したいと思います。


ロゴ・マーク (2016年1月21日)

 わが大学の話題です(カテゴリーでいうと自虐ネタかも知れません)。2005年に首都大学東京が設立されたときに大学のロゴ・マークも刷新されました。なんでもプロのデザイナーに数百万円出して作ってもらったという“作品”です。

 どんなマークかというと、横長の長方形を十字形に区切って黒と灰色(といってもビミョーな色なんですけど)とで千鳥状に塗り潰したものです。でもわたくしは正直言って好きではありません。色使いがとても暗いし、なによりも大学設立当初のゴタゴタが凝縮されてさまざまな怨念が閉じ込められているように感じるからなんですね〜。

 わたくしは以前の都立大学時代の都鳥のマークが好きです。そこで現在も対外的な発表等でスライドを投影するときには都鳥のマークを使っています。都鳥のマークは、伸びやかで若者が羽ばたいて行きそうな気概を感じさせます。

TMU Logo_Mark

 


 その黒灰のマークですが、新大学設立から十年が経ったせいか、それとも理事長が川淵チェアマンに替わったせいかわかりませんが、それをやめて、新しいロゴ・マークを作ることになって先日、大学のホームページに公募案内が載ったのです。採用作品には30万円!ということでした。

 ところがそれから数日と経ないうちに公募が延期になってそのページも削除されてしまいました。いったいどうしたんでしょうか。わたくしのような下々の教員にはことの真相は闇のなかですが、対外的に発表した直後のことなのであんまり格好よいことではありませんな。

 もれ聞くところによると川淵チェアマン、じゃなかった理事長は、本学が東京都立の大学であることが世間に認知されていない現状にご不満のようです。それはわたくしたち教員も全く同感です。とくに西日本の皆さんには「首都大学東京」といってもそれってどこの大学?みたいな反応が一般的みたいです。

 それならばいっそのこと大学名をもとの「東京都立大学」に戻せばいいんじゃないでしょうか。しかし、ことはそう簡単でもなさそうです。いま言ったように本学は東京都立の大学ですから、文科省の代わりに東京都の全面的な支配を受けています(まあ、ある意味当たり前です)。その支配者層の方々がなにを考えているかなんて、分かるはずがありませんからね。

 とにかく本学の“非常事態”が早いところ解除されて平穏なキャンパスに戻って欲しいと切に願います。嵐がこなけりゃいいんだけどね…。


久しぶりの雪 (2016年1月18日)

 東京で久しぶりの雪が積もりました。普段の京王線はこれくらいの雪ならちゃんと動いていたと思うのですが、今朝は調布と若葉台のあいだが不通になっていて大学に登校できません。どうやら若葉台駅の車庫から電車が出せないようで(本当かな?)、動いている区間の電車自体の本数が少ないみたいです。調布駅は大混雑というツイートもありましたし…。

 今は冷たい雨が降っています。道路はグチャグチャでしょうね。こんなときに無理して大学に向かっても時間ばかりが無駄に過ぎて、かつ疲弊することは今までの経験から分かっています。ということで京王線が動き出すまで自宅で仕事することにしました。

 追伸:結局、わが大学は終日休講になりました。午後に研究室会議を予定していましたが、上述のように無理したくないので延期しました。お陰というか、石塚裕彬くんが書いている論文の原稿をじっくり見ることができてよかったです。この論文ですが、う〜ん、まだ先は遠そうだなあ。


神戸の地震から21年 (2016年1月17日)

 兵庫県南部地震が1995年に発生してからこの日で21年になりました。この間に何が変わったのかということですが、鉄筋コンクリート建物の耐震性能向上に向けた研究に一貫して携わっているわたくしからすると、既存建物の耐震診断および耐震補強が国策として強力に推進されるようになったことと、建物の耐震性能をあるがままに評価して、それを一般の人々(建物のユーザー)にきっちりと伝えることの重要性が認識されるようになったこと、だと思います。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:兵庫県南部地震概要OHPより:兵庫県南部層崩壊01.JPG

 既存建物の耐震補強ですが、ひとびとの緊急避難場所となる学校施設や発災後のコマンド・ポストとなる役所などの公共建物については相当程度に進みました。実際、耐震診断等の妥当性を評価する判定委員会に申請される学校建物の棟数はここ二、三年は非常に少なくなったという印象があります。それだけ耐震補強が進んできたということの証しです。

 このこと自体は慶賀すべきことがらですし、市井の人びとの(地震発生後の)安全性の確保にも大いに貢献すると考えます。ただ生活の基盤である個々の住宅については耐震性能がなかなか向上しないというのが実情でしょう。東京23区の東部に集中する木造密集地域などもそれを解消することは並大抵のことではありません。

 また東京都では主要道路に面する建物の耐震診断と耐震補強とを推進していますが、それらの所有者は民間が主体ですからお上が思うようには進んでいません。耐震診断にはそれなりに費用がかかりますし、その結果耐震補強が必要になれば(1981年以前の建物の大多数は現行法規並みの耐震性能を備えていません)、さらに膨大な費用を要することになります。

 このように民間の建物では目の前に立ちはだかる費用の問題で、耐震性能の引き上げが進まないと思われます。しかしひとたび大地震が発生して建物や人的資源に大きな被害を受けることを想像し、そのときの損失を想定すれば、結局は耐震補強(あるいは新築)したほうが得になることは自ずから明らかではないでしょうか。

 そのためには地震災害による損失額と耐震補強等に要する費用とを精度よく明示して、耐震補強の費用対効果を建物の所有者に説明できることが重要になります。しかし現状はそこまで至っていないように思えます。

 既存建物の耐震補強の目標として現在は耐震性能指標Isを0.6以上に引き上がるというのが一般的です。しかしIs値が0.3しかない建物のそれを二倍の0.6に引き上げるのはハードルが高過ぎると感じます。そうであれば多少ハードルを下げてもよいのではないか。すなわちたとえば松竹梅の三種類くらいの耐震補強グレードを設定して、それぞれの補強に対して地震時にはどのくらいの効果を発揮できるかちゃんと説明できるようにすれば、耐震性能がプアな既存建物の性能の底上げにつながると思うのですがどうでしょうか。

 こうすればなにがしかの耐震補強によってその建物の耐震性能は確実に上昇しますから、防災には至らずとも減災には寄与することが可能になります。どの程度の地震被害まで受け入れるかは施主の判断に任せようということです。お上を頼っていても自分の身を守ることはできないことは2011年の大震災でも明らかでしょう。自助と公助、このふたつをうまく組み合わせて建物の耐震性能の向上を進めてゆくべきだと今は考えています。

 ただ、そのためのインセンティブ作りにはお上の制度設計が必要になります。また既存の建物や耐震補強した建物の耐震性能を精度よく評価する手法の開発とそれを一般の人々に分かり易く説明するツールの開発などがわたくしのような専門者には要請されるでしょう。建物の耐震性能の底上げに必要なこれらの研究にこれからも微力ながら取り組んでゆこうと思います。


ぜいたく (2016年1月15日)

 ことしは4日の月曜日から仕事が始まったこともあって、新年最初の二週間はとてもハードでした。日本建築学会論文および日本コンクリート工学会(JCIと略します)年次論文の投稿締め切りが10日および15日にあって、我が社のM2以上の大学院生は全てそのどちらかに間に合わせるべく頑張ってきました。トライしたひとは特任助教の晋沂雄さんを入れて全部で六名です。

 これだけの多人数が1月のこの時期に査読付き論文にトライしたのは、二十五年近い我が社の長い歴史のなかでも今までになかったことです。各自がそれだけの成果をあげてきた(あるいは、あげつつある)ということですから、近来稀に見る豊漁の学年ということができるでしょう。いやあ、嬉しい限りですな〜。

 でもそれぞれ異なる六編の先端研究論文を同時に見ることは、わたくしにものすごい知的労働と相当のストレスとを課したのです。お腹は痛くなるし、頭は朦朧とするし、目はクラクラするしで明らかに健康を害したとしか言いようがありません。もちろんそれにも勝る知的好奇心の充足が得られたからこそ、できたのだとは思いますが…。久しぶりに命を磨り減らすような仕事をした、というのが実感です(大袈裟に聞こえるでしょうが、ホントでっせ)。

 さてここまでの経緯ですが、初めにD3・宋性勳[ソン・スンフン]さんが建築学会の論文を仕上げて投稿しました。彼の場合にはこの論文が採択されることが博士の学位を取得するための必要条件ですから、指導教員たるわたくしも必死です。数ヶ月かけて議論を重ね、宋さんに大いに頑張ってもらってなんとか投稿できました。

 続いてM2・星野和也くんがJCI年次論文に投稿しました。彼の場合には一ヶ月前に草稿ができ上がっていましたので、安心して見ていられましたね。星野くんは昨年もJCI年次論文集に掲載されており(優秀論文賞も受賞しました)、二年続けて投稿したことはとても立派です。

 ちなみに我が社に在籍した修士課程の大学院生のなかで二年連続でJCI年次論文に投稿したひとは過去に5人しかおらず、直近では2012年・2013年の鈴木清久くん以来となります。そうかあ〜キヨヒサ以来なんだ、と思うと感慨もひとしおです(あのときは難産だったからなあ)。キヨヒサ、元気か〜?

 その次に特任助教の晋沂雄さんがJCI年次論文に投稿しました。晋さんには川嶋裕司くんが担当したPRC柱梁接合部実験の結果を世に出すことをお願いしたのですが、それを実現させてくれたのはありがたかったですね。さすがに博士の学位を持っているだけのことはあって、手堅く実験結果を料理して考察してササッとまとめてくれました。

 で、本日の午後4時がJCI年次論文の投稿締め切りだったのですが、その30分前にM2・新井昂くんが投稿し、続いてほぼギリギリにM2・鈴木大貴くんが滑り込みセーフで投稿したのでした。鈴木大貴くんのほうは晋沂雄さんに全面的にバックアップしていただいたので何とか投稿できたような感じです。

 そのお陰でわたくしは新井くんの論文のほうに注力できました。もう時間がなかったので、新井くんの論文のなかで最後まで残った懸案部はわたくしがワープロを打って作文しました。提出直前にこんなにドタバタと作業したのは久しぶりのような気がします。

 鈴木大貴くんはいろいろなことに精力的にチャレンジしていたのですが、どれも詰めが甘かったり、上手くまとまらなかったりで思いのほか時間がかかってしまいました。新井くんもそうですが、もう少ししっかりと時間の管理ができるとよかったですな。でも最後まで諦めずに仕上げたことは立派だったと思います。

 新井くんと鈴木大貴くんのふたりはやっている内容はとても面白いし意義もあると思うのですが、そのことが必ずしも開花したとは言い難いのが残念です。とくに新井くんは我が社では初めて取り組む研究内容に果敢にチャレンジしたので大変だとは思いますけどね。二人とも大学院修了までにまだ時間はありますので、それまでにモノにするように鍛錬してくれるといいのですが…。

 ということで結局この日までに五名の諸君が論文を投稿して(文字通り)スッキリしました。あれっ?、ということは、まだひとり残っているなあ。こうして大トリになったM2・石塚裕彬くんですが、彼の場合には昨年の片江拡くんに引き続いて大モノにアプライすべく、論文執筆作業が続いています。きょうはその草稿の一部をわたくしが作文して渡しました。来月には何とか投稿できるといいなあとか思いながら、とりあえず新年最初の二週間は過ぎていったのでした。

 でもよく考えてみると、こんなに大勢が湯気をたてながら論文を書いている研究室って、われながら活気があっていいなあと思います。多分、いまが我が社にとっては最高の時期なんじゃなかろうかと密かに思っているくらいです。ホントぜいたくな状況にどっぷりつかることができて、わたくしはつくづく果報者です。そういう立場に置いてくれた学生諸君と晋沂雄さんには大いに感謝しております、はい。


冷たい (2016年1月12日 その2)

 朝1限の教室ですが、早めに来た学生さんが暖房を入れてくれていたのは助かりました。でも連休明けでしばらく使っていなかったせいで、白板はすっかり冷えきっていました。

 そこに右手をあてて板書するのですが、上のほうに書くときには手のひらの左側がべったり白板にくっつきます。いやあ、冷たかったですね〜。スキー場みたいな冷え方だぞって言ったら、学生諸君はクスクス笑っていましたけど…。もっとも朝イチから坐っている(感心な)学生さんは6、7名ほどでした。


電気をつかう (2016年1月12日)

 やっと冬らしく寒い日が続くようになりました。この三連休はひときわ寒さ厳しく感じましたが、皆さまはいかがでしたでしょうか。我が家は寒いのが苦手ですので、電気をじゃんじゃん使って暖房をガンガン焚いて家中を暖めています。この点では東京電力に大いに貢献していますな。

 こんなことを言うと節電至上主義者の皆さまからは大いに非難されるでしょうが、日々の快適性は健康の観点からも非常に重要です。我が社の晋沂雄[じん・きうん]さんに聞いたところでは、日本より寒い韓国では室内をとても暖かくしてパンツ一丁で暮らしている、ということでした(我が家はさすがにそこまでではありませんけど)。

 そうでした、この四月から電力自由化によって好きなところから電気を購入できるようになります。東京電力には今までお世話になってきましたが、選択肢は無くて言われるままに代金を払ってきましたから、それほど義理立てする必要はありません。

 何もアクションを起こさなければ従来の料金体系のまま東電を使い続けることになるそうです。それではせっかくの権利がもったいないですので、これから各社の支払いプランを吟味して購入先を決めたいと思っています。

 その際、お世話になっているところから電気を買う、というのも当然ありますね。福島第一原発の事故以来、学会活動等で中部電力や関西電力の皆さんに特にお世話になっています。ですから東電以外の在来の電力会社から電気を買ってもいいかなと思っています(東京都内で中電や関電が売電するかどうかは知りませんけど)。もちろん電気は毎日使うものですから支払い金額の多寡は重要です。その点はきっちりリサーチした上で決めるのは当たり前ですけどね。

 電力の購入先の決定要因として、自然エネルギーで電気を作っているかどうかという視点もあるそうです。でもその事はわたくしにとってはどうでもいいことです。自然エネルギーと言ったって、それを産み出すために必要な諸々の機械はなにがしかのエネルギーを使って全て製造されているわけですからね。自然エネルギーを謳っていても、100%そうであることはないとでしょう。気休めとまでは言いませんが、多分に自己満足の世界だと思います。


大学の授業 (2016年1月7日)

 本学では1月5日から授業が始まりました。わたくしの講義は朝1限ですが、まじめな学生諸君はフツーに登校して来ました。えらいですね〜(学生もわたくしも)。でも松飾りが取れないうちから授業をするようになったのはいつからでしょうか。文科省から半期15回の講義回数を厳守するように言われるようになってからだと思いますが、とにかく通常の感覚とは隔絶しているようです。

 というのも、昨日BELCAで吉田倬郎先生(工学院大学名誉教授)の委員会があったのですが、その席でわたくしは5日から授業をやっていますよと言ったら皆さんから大いに驚かれたのです、ええっホントーかっ、て。やっぱりそうだようなあ、というふうに再認識いたしました。皆さんの学校ではいかがでしょうか。ちなみにうちの子供の小学校は明日が始業式だそうです。

 そんなわけで真面目に授業をやっている自分になんだか自信がなくなってきました。学生諸君のことを考えると5日は休講にしてあげたほうがよかったのかなあ、って。でもそうすると教える内容を減らさないといけないしなあ、それもやだなあ(そもそも教える内容は今に至るまで相当に減らしてきましたから…)。来年度の課題にしようと思います(って、論文調になりましたが、時節柄ご容赦ください)。


お正月おわる (2016年1月3日)

 ことしのお正月は暖かかったですね〜。春のような陽気でしのぎ易くて助かりましたが、フツーの冬らしい気温に戻ったときにつらさがいや増すでしょうな。

 ことしの三が日は金曜日から日曜日の並びですので、お正月もきょうでおしまいです。なんだかあっけないお正月ですが仕方ないですね。箱根駅伝は青山学院大学の完全優勝ということでご同慶の至りですが、見ている観客にとっては面白みに欠けたようです(わたくしは今年はほとんどテレビを見ませんでしたが…)。

 明日からは通常通りのお仕事に戻ります。でも1月10日とか15日とかに論文の締め切りが迫っていますので、年明け早々から(例年そうなのですが)論文作り全開になるんでしょうね、それを想像するとゾッとしますのでもうやめますけど、あははっ。


お正月です 2016 (2016年1月元旦)

 快晴でおだやかな、い〜いお正月を迎えました。あけましておめでとうございます。ことし一年がこんな素敵な日であったらいいなあと切に思います。元旦の朝はお雑煮で始まります。我が家のお雑煮は関東風で、昨年末に鶴岡から届いた丸餅を入れました。お餅はテフロン加工のフライパンにのせて、大さじ二杯程度の水を加えて蒸して柔らかくします。焦げ目はつきませんが、搗き立ての美味しさがよみがえりますよ。

 いいお天気なので今晩食べるお刺身を買いがてら、初詣にでも行くかということになって、調布にある布田天神社に出かけました。せっかくなのでゲゲゲの鬼太郎や猫娘の像が飾られている天神通りを通ってゆきました。むかし調布に住んでいる頃にはよく使った小道です。その当時住んでいたマンションには昨年末に亡くなった水木しげるさんがお住まいで、エレベータで片腕のないご老人と一緒になったことを思い出します。

 で、普段はひっそりとした布田天神社ですが、さすがに元日のお昼どきは混んでいて、甲州街道からちょっと入ったところから参拝客が並んでいました。でもわざわざ並んで詣でるほどもないなあと思って、回れ右して戻りました(あっさり)。女房は軟弱なひとたちねえ(わたくしと子どものことです)って言ってあきれてましたけど。

 その代わりといっちゃなんですが、天神通りの途中にあった名も無き小社にお参りして今年の無病息災をお祈りしました。そのあと調布パルコでお刺身とかお八つのプリンとかを買って(そうそうユニクロにも行きました、ものすごい人出でびっくり)、ことしのお買い初めも終わったのでした。お昼はスパゲッティ・ペペロンチーノをわたくしが作り、晩には女房のおせち料理を食して元旦の一日が暮れてゆきました。

 かくのごとく、なにごともなくフツーに暮らすことのできるありがたさをしみじみとかみしめております。でもこうやって過ごす日々はわたくしにとってはもはやルーチン・ワークに成り下がっています。またご老人にとっては今日できたことが明日はできなくなるという悲しさを含みます。さらには一日々々が子どもにとってはどんどん成長する“緑の時間”なんですね。時とはかくも残酷で不平等なものだということを強く感じます。でもこれこそが人生の本質なのだから言っても詮無いことではありますけど…。

 ちょっと哲学的になったお正月でした。こんな感じなんですけど、ことしもどうぞよろしくお願いします。


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