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レンヌ留学記2014年度(堀裕征

(1)語学と柔道を通じてフランスの中で生きること


(1)語学と柔道を通じてフランスの中で生きること


(2014/10/5) 文責=堀 裕征

レンヌに到着して一ヶ月と少しが経過し、寮と学校ともに生活にはだいぶ慣れてきた。人生で二度目の一人暮らし、前回と違うのはここが海外である事、そして全てが完全に独立してはいないことだ。

寮はtraditionnelとrénovéeの二種類がある。前者はキッチン・シャワー・トイレが共用で、後者はキッチンが共用である。またキャンパスまでの距離も異なっていて、前者は徒歩で10分ほどであるのに対して後者は徒歩3分ほどで到着する。自分は後者の寮に入っていてキッチンだけが共用であり、入寮前は不便さを予見していたが、実際に使ってみると留学生にとってこのキッチンはとても便利な空間である。たしかに多少の手間は掛かってしまうが、ここは色々な学生が集まる場所であるためにコミュニケーションの場所でもある。自分は入寮して1週間ほどでメキシコ・中国・スペイン・ギリシャ・フランス等といった色々な国の友達ができ、時おり飲み会を共にしたりもする。また、この寮はレンヌ経済学校といったレンヌ第二大学以外の学生も入寮していて、そこに留学している学生の多くの公用語は彼らの授業内でのそれと同じく英語である。ただ、その中にはフランス語を学ぶ学生もいるので、基本的には当然ではあるがやはりフランス語での会話ということになる。


(大学前の学生寮)

(語学学校CIREFEの新校舎)

そしてキャンパスであるが、やはり留学生が非常に多い。それ故にここは世界の交差点のひとつであると断言できる。それを実感するのは皮肉なことに自分の通う語学学校CIREFEにおいてだ。寮とは反対にフランス人学生がいないため、それぞれの母語グループで固まっているのは日常的な光景である。放課後の廊下を端から端まであるけば少なくとも3カ国語は耳にできる。NiveauB以上のクラスでは基本的に公用語がフランス語、NiveauAのクラスでは英語の割合が高くなると聞いていたが、この様子を見る限り事実なのかもしれない。


(レンヌ全体の留学生の懇親会)

しかし、それは一部であって全てではない。確かに留学は寂しいものであるかもしれない、そのために母語のグループで固まってしまうのも仕方がないことなのかもしれない。中にはいろんな国が交差しているのにも関わらず、英語しか話さない・話せないグループもある。このような光景はもはや見慣れた景色の一部に過ぎない。自分のフランス語能力を棚に上げて言わせてもらえれば、これがずっと続くのかと思うと見ていて勿体ないような気がする。値段の高低は各々の判断によるものかもしれないが、少なくとも安くはない授業料を支払って学校に通っているのだから、それを忘れてはいけないのだと彼らはいつも教えてくれている気さえする。
授業の内容や種類においてもniveauごとの差があるが、アトリエといういわゆる課外授業はそれらに関係なく色々なレベルの学生が参加する事ができる。自分も周りの色々な人から進められ、またオリエンテーションにも参加してみた。だが、結果的に自分はアトリエを取らない選択をした。それは自分にはもう一つ他の選択肢があったからだ。アトリエが文化的活動であるのに対し、SIUAPSという体育系の活動が用意されている。自分はそこに登録し、柔道をすることに決めていた。そして今まさにレンヌの学生と共に柔道をしている。





フランスでの柔道人気は熱く、競技人口も日本に勝るとも劣らない数をあらわしている。そして、ここレンヌでもその人気は高く、また日本からの柔道経験者の参加ということでコーチから日本での練習をやってみせるように言われることや、中には日本人=強いというステレオタイプなイメージから日本人と戦ってみたいと考える学生もいた。2年弱のブランクが不安の種であったが、なんとか善戦することができた。しかし、やはり武道をやっているからか参加している学生は皆礼儀正しく優しい人が多い。練習中に困っていれば助けてくれ、指示がうまく聞き取れない時にはフランス人の友人が分かりやすく説明してくれるなど。



ここで気付いたことがあった。自分はこれまであくまでイメージの中でのフランスを生きていたのだ、と。日本では当たり前の光景をフランスに持ち込めないと思い、少ないながらにある共通点を意外な面として捉えてしまっていた。それと同時に留学する事は単に語学を習得するだけに終わらない事にも気付かされた。たしかに、ここで学べる語学以外のことは多い。それは全ての点において言えることだ。ここフランスは今の自分の国であり、日本ではない。海外ではあるが、外ではない。むしろ自分はいまフランスの内にいるのだ。そうである以上、生まれたばかりの赤子の如く、全てを一度受ける必要がある。受け入れるかどうかは受けてみて決めれば良いのだ。そこが此処の赤子との差であり、それによって自分の取捨選択が見えてくる。そう思った途端に、これまで薄かったフランスに自分がいるという実感がもてたし、留学をしているという認識も改めて身に降りてきた。

「まだ1ヶ月」なのか「もう1ヶ月」なのか。それを決めるのは自分だ。確かに1年は何かをするには短く、何もしないにしては長い期間だ。だからこそ自らの捉え方ひとつで何かを為す事ができるのではないだろうか。何を為すのか、何を為せるのか。それは残った時間にただ身を委ねるのではなく、流されないように一歩一歩足元を確認して進むことから始まるのではないだろうか。この1ヶ月はまさにそのような気付きを与えてくれた1ヶ月であった。そして残りの時間は自分はどんな経験ができ、気付きがあるのか楽しみになった1ヶ月でもあった。

(2)夜の街での邂逅、森林地帯での単純な行歩


(2)夜の街での邂逅、森林地帯での単純な行歩


(2014/11/12) 文責=堀 裕征

1:夜の顔

 前回体験記を書いた時点からおおよそ1ヶ月が経過した。僕はこの短い期間に何を変えることができて、何を変えずにいられたのか。そのことを確かめることが出来るのは、結果が出てからだということは、この留学の初めから分かっていたことである。そんな中で、ここレンヌにいる「いま」は結果を待たずして確かめることのできる紛れもない事実である。
 こちらでの生活に慣れてくるにつれて、夜は街へ繰り出し、バーで飲む機会が多くなった。多い週は水曜日から土曜日までの毎晩、少ない週でも木曜日と土曜日の晩は必ず出かけている。日本では金曜日はいわゆる“華金”と呼ばれ、多くの学生や社会人が居酒屋に繰り出すが、フランスでは木曜の晩がそれに当たる。「Jeudi Soir」とは「木曜日の夜」というだけでなく、大勢で飲み明かす夜という意味で、ここレンヌでは使われている。確かに毎週木曜の夕方を過ぎると、街は賑やかな喧噪で包まれる。中心街の一つであるSainte-Anne駅付近の、「Rue de la Soif」と呼ばれるバーが多く立ち並ぶ路地は、人が通る隙間がなくなるほどの賑わいである。




 混雑してくるのは大抵9時頃からのため、僕は早めに行き場所を確保する。ここは大酒飲みでない僕をも受け容れてくれる。酒が飲めるかどうか、そんなことは誰も気にしないのだ。そして、僕はここが好きだ。ストレスや疲れを取り払ってくれる、さながら“魂の洗濯場”といったところであろう。
 そして、この場所が好きな理由はもうひとつあり、それは「出会い」である。文字通り、「Rue de la Soif」に足を運ぶたびに、多くの思いがけない出会いが待ち構えており、ここに行くたびにしばしば驚かされる。例えば、いきなり隣に座り肩を組んでくる女性や、集団的自衛権や日本のやくざに対して意見を求めてくる男性、また、3.11や福島について聞いてくる人もいた。
 とりわけその中でも衝撃的だったのは、一人の男性との出会いだった。それは友人とバーで飲んでいる晩だった。一人の男性が僕らの横にいたグループに絡みはじめた。この男が酔っていることはすぐに分かった。そして次の瞬間、彼はこちらに向き直り、挨拶をしたあとで、彼はいきなりアジアという地域について語り始めた。僕は「またか」と思い聞き流した(こちらに来てから、人と会うたびに国籍の話や地域の話題を振られてきたため、辟易していたところだったので、そういう場合は基本的に無視するようになっていた)。僕の無関心に気付いたのか彼は話をやめ、ひとつの提案をしてきた。
 「俺たちはお互いにもっと酒を飲む必要がある。でも、単に飲むのでは面白くないから、ここは勝負をしよう。勝った方が負けた方に奢る、単純だろう?」
 見知らぬ相手に奢りたくなどなかったが、それ以上にこの申し出を断る事それ自体が、僕自身の負けを認めているようで嫌だった。変なところで火がついてしまう性分のせいか、彼の口車にまんまと乗せられて、その勝負を受けることにした。勝負の方法はいたって単純で、日本でいう腕相撲だった。彼は学生時代にスポーツをやっていたようで、腕相撲に自信があったようだ。一方、こちらは自信がない上に、その場の友人には挑発に乗るなと忠告を受けたものの、既に腕を組み合っており、互いに引くに引けない状態にあった。そして、開始の合図と共にすぐさま決着が着いた。威勢の良さの割に結果はあっけなく、右腕でも左腕でも、僕の勝利に終わった。だが、彼は急に態度を変え、約束を反古にした。



 彼は「俺は既に酔っぱらっていたから負けた。そうでなければ勝っていた。」と言い、代わりにタバコをくれた。僕は奢ってもらうことはその時既にどうでもよくなっていた。得体の知れぬ達成感に身を包まれていたからだ(結果的に後からお酒を最初の約束以上に奢ってもらった)。
 そして酒を酌み交わし話しているうちに彼の口から驚くべき言葉が吐かれた。彼はなんとバンドや音楽グループのPVをはじめとした映像制作会社の社長だったのだ。そして、彼は名刺を渡してくれ、「もしも映像や映画に興味が湧いたりして現場を体験してみたかったら電話してくれ。バーで会ったと言えば分かるから」、と言い残しその場を去った。
 その後日、共にバーにいた友人(映像専攻)が実際に現場や制作会議を見に行った。友人によれば、その場でも色々な出会いがあり、とても面白かったという。結果的にあのとき自分が勝負をして仲良くなってくれたおかげだということを聞くにつれ、僕は次のことを確信した。「袖振り合うも多少の縁」というが、まさにここ「Rue de la Soif」はその言葉を体現しているのだ、と。そして、この飲み屋界隈で酒を酌み交わすという事は、僕や周りの友人の可能性を広げる一歩に繋がるのだ、とも。確かにすべての出会いが良い出会いではなく、時に悪い出会いもあるが、いずれにせよ場所を共有する人々との関わりが僕の抱えるストレスや悩みをひと時でも洗い流してくれると気付いたのだ。それが街に繰り出す理由の大部分である。

2:「ただの観光および散歩」

 だが、決して週末にただ酒を飲んで過ごすことだけが、週末の過ごし方のすべてではない。例えば、小旅行である。腕相撲から2日後、僕はチェコ人の友人に誘われるがままFougèresという町(レンヌからバスで1時間弱、往復7€)に行き、フージェール城を訪れ、近くの(といっても城から4キロ程のところにある)森に立ち寄り古来のストーンヘンジまでの道程を散策した。


(Saint-Sulpice de Fougères)

 森はさながら映画『スタンドバイミー』のようで、僕たち以外の人は殆どおらず、まさに道なき道を進んだ。往復約16キロの森の中、何度も帰りたいと思い、何度も汗を拭い、何度も靴擦れをさすった。それゆえ、数千年前からあるというストーンヘンジに出会った時の衝撃は筆舌に尽くしがたかった。遠足や修学旅行、個人旅行で色々なところへ行った経験はあるものの、自らの足でここまで歩き抜くという経験は初めてだったからだろう。
 見てくれはただの石や岩にすぎないが、ストーンヘンジと言われるだけのことはあり、不思議な魅力を醸していた。本当に自分がこれを見たかったのか、それとも長時間の行脚からの解放が感動を誘ったのか。それらの想いが長時間の行脚と共にひとつの結論じみた答えを僕に与えた。




(フジェール城砦からの街並)

 人は生きている間にぶれることもあるだろうし、歩いていれば道を逸れることもあるだろう。もしも道を踏み外したとしても、結果的に最初に見据えていた所へ到着する事ができれば、目的は達成したといえる。そして、目的とは異なる部分にも大事なことが隠れているのではないだろうか。
 これほどの長距離を休む間もなく歩いていれば、立ち止まっていたい願望や引き返したい願望などは、個人差はあれど、多分に湧いてくるだろう。ただひたすら歩く、止まるを繰り返しているうちに驚くほど進んでいることもあり、その逆もまたある。
 そうした経験は、すべての人に対して平等だと感じた。客観的に見ればただの散歩であり、ただの小旅行だろう。しかし、僕とってそれは「ただの散歩および観光」ではなく、さながら“冒険”のようであった。
 自らの足で合計およそ24キロほぼノンストップで歩いたという、自らの選択により引き起こした事態でありながら、引くに引き返せない、奇妙といえば奇妙なこの経験が、遅かれ早かれ自分に影響を与えることは間違いない。そう断言できるほど「ただの散歩および観光」は、僕に色々な教訓や啓示を与えてくれた。

そして、そこで得た多大な疲労を抱えたまま1週間を経て、やっと初めての休暇、トゥーサン休暇を迎えた。

3:骨休めとしての短期休暇

(※リヨンに関しては昨年度レンヌに留学した志村君が詳しく書いている(http://www.comp.tmu.ac.jp/fr/pg89.html 2件目の記事)ので説明は割愛させていただきます。よって、ここでは道路交通法および規則やレンタカー、運転に関して詳細に書きたいと思います。)

 国際免許は持っていても車は持っていないのでレンタカーで行く事になり、往復およそ1600キロを自分たちの力で進む事になった。国際免許保持者は自分を含めて二人いたので、交代で長距離を走破すると思えば大した距離ではないように感じた。
 また、レンヌ−リヨン間は東京−仙台間と同程度の距離である。自分は3.11以降、東京から宮城県石巻市へ車で訪れる事が多々あったため、大した距離ではないとたかをくくっていた。さらに付け加えれば、レンヌは宮城県仙台市の姉妹都市ということもあり、この距離感にどことなく共感を得ていたのも確かである。
 そしていざ出発の日になってみるとやはり左ハンドル・右側通行というのは難しいものである。しかし、以前にIKEAでバン(日本でいうハイエースの様な車種)を借りて運転(マニュアル)していたこともあり、少しの間辛抱して慣れてしまえばなんという事はなかった。
 しかし、山中を運転している際に日本の東北道以上に暗いことに気付き、また、霧が多く出現したため、道路交通規則とは別の点で困難を極めた。通常のライトでは暗く、ハイビームにすれば確かに見通しは良くなったが、光が霧に反射するせいで場所によっては全くと言っていいほど見えなくなることがある。
そして、それらは雪道、豪雨とはまた違った運転感覚を強いられ、とても目が重くなったのを覚えている。


(リヨン街中のライオンの騙し絵)

 結果的に事故もなく無事にリヨンへ到着、レンヌへ帰還することができた。
リヨンという都市それ自体がとても良い場所であり気分転換になったが、何よりも運転をしたことにより、向かう途中の街並みをつぶさに見られたことはそれら以上の経験であったように思う。
 電車での旅、飛行機での旅、形は様々だが僕はやはり車での旅というのがとても好きである。
 確かに電車及び飛行機は時間の節約にもなり、また車での運転は人によってはただの徒労でしかない。しかし、それらにもそれらの良さがあるように、車にも車の良さがある。マイペースに運転ができることはもちろん、例えばどこか雰囲気の良い街や場所を見つけた時、いとも簡単に訪れることができる。現に自分は夜に運転していて星が綺麗だからという理由で車をパーキングエリアに停め、しばらく眺めたりした。また、コーヒーやホットチョコレートが飲みたいと思えば、日本と同じようにフランスにも大抵のパーキングエリア・サービスエリアに自販機が設置されているので、こちらも気分に合わせて楽しむことができる。
 時間が掛かる上に体力が削られることは先刻承知であるが、しかし、一度海外に訪れたならばひとつの経験として車で旅行をするのも良いと思う。たとえそれが自分の運転する車ではなかったとしても、だ。理由は先に述べた通りである。基本的に高速道路の作りや車の構成それ自体は日本と同じであったが、色々と異なるシステムがあったため、以下それについて簡潔に述べたい。

①高速道路について。
 日本よりも制限速度が高く設定されており、時速90〜130キロとまちまちではあるが、基本的に110キロ前後で運転できる道が殆どである。課金方法は日本とほとんど同じで、距離に応じて料金所が設置されており、そこでチケットを受け取ったり支払いしたりする仕組みである。また、走行位置も最左車線は追い抜き車線であり、最も優先される。もしも、ずっと最左車線を走ろうものなら後ろから警察がやってきて罰金を払うはめになる。速度超過というよりも、それ以外の交通規則を遵守しているかどうかが重要であるように感じた。

②パーキングエリアおよびサービスエリア
 基本的に日本のそれと同様であるが、異なる点としてはどれもとても小さいことと食事の価格設定が日本以上に高いこと。また、日本のそれと異なり等距離に設立されてはいないことだ。異様に短い間隔で設けられている場合もあれば1時間弱程度運転してやっと次のパーキングに着く場合もある。あくまでもその高速道路次第であることは強調しておきたい。

③レンタカー
 レンタカーを借りるのは容易ではあるが、年齢制限なるものが敷かれており22歳の自分が運転するとなると通常以上に車両保険を払う必要があった。また、走行距離によって料金が設定されていて、例えば750キロまでは追加料金がないが、それ以上走行した場合一定区間ごとに追加料金が上乗せされていくシステムだ。これらは返却時にメーターとGPSを確認され、それにより最終的な料金が決定される。
 なんと欲張りなシステムかと思ったが、エンジンの状態や走行距離によるタイヤの摩耗およびエンジンオイルの減少、ブレーキパッドの減少など車を使う上で当然の消費を考慮すれば、とても賢いシステムであるように感じた。それはなぜなら、おそらく日本のレンタカーは損壊や損傷の場合に追加料金を課すのみで、保険料それ自体はとてつもなく安い。代わりにそれら追加料金がべらぼうに高い。それによる収益で車を維持しているといっても過言ではない。だが、彼らはブレーキの掛かりが弱い車や、超長距離を走破して、通常よりもアクセルおよびブレーキの緩い車を平気で貸し出す。
 しかし、どうやらここフランスは違うようで、長距離を運転したらそれだけメンテナンスに料金が掛かるから追加料金があるように感じた。これはレンタカー云々の問題ではなく車そのものの問題である。その分たしかに高く感じることはあるかもしれない。しかし、自分ら以前の人間が走行距離に見合った料金を払い、それによりメンテナンスをしてくれているおかげでより安全に走行できているという自覚も持てる。ただ、やはり高い事には変わりないためあくまでレンタカーを借りる際は基本システムと同様かそれ以上に追加システムやオプションに関して目を通すか調べておく事が肝要であると感じた。

4:休暇を終え、それから。

 旅を終えて帰ってきてから、どうも街の様子が不自然である。
人が作り、住んでいる以上、何の変化も無いほうがむしろ気持ち悪くはあるが、このとき感じたのはそうした類いの物とは別の何かであった。

 そしてその不自然さの正体は、現在フランス各地で行われているデモであった。このデモはリヨン・マルセイユ・レンヌで主に展開されており、商店街が軒並み戸を閉めるほど過激な闘争デモである。これらのデモはメトロの運行や大学の授業に影響を与えており、急な休講や、バスの路線変更などが慌ただしくアナウンスされるようになった。詳しいことは次の留学記で詳しく書きたいと思う。


(3)正義と暴力の閾の風景──レミ・フレース事件の抗議デモ


(3)正義と暴力の閾の風景──レミ・フレース事件の抗議デモ


2014/12/3 文責=堀裕征

 前回の留学記の終わりにフランス各地でデモ(manifestation)が起きていると書いた。今回はこのデモについて詳述していく。

・フランスにおけるデモ
 フランスではデモやストライキといった「他者に迷惑を掛ける行為」は日付・時間・場所などを「事前通知」することが、法律によって義務付けられている。デモ、ストライキの主催者からすれば、これらの行動は権利に基づき意思を表明する当然の行為である。また、警察が周囲を囲むことによって、参加者数の増加や混乱を避けさせようとする日本とは異なり、フランスでのデモ、ストライキは次から次へと人が増え、自然と巨大なデモに発展していくケースもある。
 こうした現象は、先に記した通り法律に基づいた意義のある抗議活動として認知されているのであって、デモ・ストライキの国フランスといえども、何かにつけてデモを繰り広げるということはない。また、デモ、ストライキのおかげで被る交通機関の麻痺などのへのいらだちから、これら抗議活動それ自体を嫌悪する住民も少なくはない



・レミ・フレースの死
 はじめに、フランス南西部で展開されていたデモについて述べよう。そこではSivensのタルン河におけるダム建設や土地開発に反対した人々によるデモが展開されていた。ダムに沈む予定地とされた森林地帯には約90種もの絶滅危惧種が生息しており、それらを巡っての対立である。
 2014年9月に大幅な森林伐採を強行したことで反対派によるデモが起きた。エコロジスト達だけでなく、農民同盟もこれに加わった10月25日のデモは過激を極めた。このデモのさなか、25日から26日未明にかけての間に、レミ・フレースという一人の若者が警察の投げた手榴弾により死亡したことが確認され、フランス中に波紋を呼ぶことになる。

・警察の暴力への抗議デモ
 レミ・フレースの死の報道はフランス全土で大きく取り上げられ、ほどなくしてフランス各地で、彼の死へ抗議の声を上げるデモが次々に起こった。新聞などから知り得る限りでは、マルセイユ、パリ、リヨン、ナント、そしてここレンヌでも起きている。
 多くの人々が「警察が一人の若者を殺した」、「人殺し=警察」、「(政府を)決して許さない」といったスローガンを掲げ、街を練り歩き、対警察デモを敢行しており、これらの様子はGoogle等で検索を掛ければ映像や画像が解説と共に張られている。なぜ一人の学生の死がここまでの過激で大規模なデモを展開させることになったのか。その理由にデモに対する警察の武力行使がある。反対派が火炎瓶や投擲をする以上、警察も当然それ相応の武力行使をするわけだが、その量や種類が問題とされた。また、デモ鎮圧の際に事故で死傷者が出るケースは多少なりともあるが、警察の明らかに殺意を持ったと思われる鎮圧行為はかなり稀である。
 通常の場合、ゴム弾や催涙弾、シールドによる囲いが当たり前だが、今回のデモには攻撃用手榴弾および閃光弾などを使用していた。また、その総量はなんと300発以上にも及んでいた。この行き過ぎた「国家の暴力」に対して、多くの人々が蜂起したのである。




・レンヌへの飛び火
 事件から遠く離れたレンヌであっても、このデモは非常に活発に行われていた。このデモの影響で、メトロの駅が閉鎖されていたことや、街路が警察によって封鎖されていたことも数度あった。さらに、デモが大学で行われるという理由で、大学が全面閉鎖になったこともある。僕はたびたび、これらのデモの爪痕に遭遇した。
 はじめてデモの爪痕に遭遇したのは、1ヶ月前に友人の家から帰っている途中のことだった。焦げたゴミ箱や粉々に砕け散ったガラス、裏返った車、散らばったゴミが目に入った。辺りに人はおらず、その時はイタズラか何かだと思い、そのまま通り過ぎた。しかし翌日、どうやらその場で「事前告知なし」でデモが行われていたらしいことを知った。デモを直接目にしなかったとはいえ、この荒々しい結果だけを見ればただの「憂さ晴らしの破壊活動」と変わらないように思えた。

・主張なき破壊行為
 一般に想像されるデモとはスローガンを掲げ街から街へと練り歩き、自分たちの意思を表明する。そこには彼らなりの正義がある。確かにデモが絶対的な正義であるとは言い難いが、その市民的抗議が理由をもって行われている以上、デモを悪と断じることは出来ない。デモの後にゴミが散乱したり、ビラが撒かれていたりという場面は見受けられるが、前述のような「憂さ晴らしの破壊活動」と思わせるほどの状況にはならないはずである。




 「現在各地で起きるデモはもはや暴動であり、manifestationとは性質が変わってしまっている。また、レンヌはとりわけ暴力的だ」と、今回のものとは別のデモへ過去に参加した人が教えてくれた。彼はさらに、「土地開発反対デモでの一件がここまで波及し、当初のスローガンとは中身が変わっていることは本当に奇妙だ。確かに以前は「土地開発」であったのに、現在は「対警察」に変わっている。だから、当然と言えば当然だけれど、どこか気持ち悪さを感じざるを得ない」と続けた。
 彼以外の様々な意見を聞いていくうちに、引っかかるフレーズを耳にするようになった。表現の仕方に個人差はあるが、多くの友人達が「レンヌはとりわけ暴力的」と口にするのである。
 ある友人によると、レンヌには、現在の政治ひいては国家そのものに不満を持つ団体が存在するらしい。レンヌで起きたデモの全てが彼らによるものかどうかは明らかではない。ただ、その団体の構成員は学生を中心とした若者が多い。そのため、ここまで過激さを増しているのではないか、という意見も耳にした。
 また、中には憂さ晴らしの面でデモに参加する若者も多くいるのだという。往々にして彼らに政治的信条はない。
 市民的な抗議という建前の元で、こうした若者達による気晴らし的な暴力が振るわれたことは間違いないだろう。レンヌで数度行われたデモのあとの被害の様子からも、それは明らかだ。いわゆる通常通りのデモの場合、物損の被害はそこまで大きくはない。交通機関や商店街への影響は大きいが、それでも警察の治安維持部隊に囲われているエリアでさえなければ、さしたる影響はない。

 デモの過激化、事前告知なしという運営上の不誠実さ、多額の賠償請求や、少なくない数の負傷者の報告などの理由から、現在レンヌではデモは厳しく取り締まられている。もしも再び「事前告知なし」でデモが起きたらば、間違いなくその場にいる全員は警察に確保されることになる。とはいえ、「事前告知をした」場合でも対応は強いことに変わりはない。

 最近では落ち着きを見せていたため、デモの有無を確認することを忘れていたのだが、先日たまたま再びフレース・デモに遭遇した。大型警察車両が既に10台以上駆け付けていて、デモを行う為に集まった人たちと警察とが睨み合っている緊張感は、僕が今までに味わったものとは全く異なるものだった。救急車も後から駆け付けていたが、幸い死者や重傷者は出なかったようだ。



・「暴力」と「暴力」の間に
 実際に目の当たりにするまでは、まさか自分の身近なところでデモが起きるとは思ってもみなかった。僕にとって、この暴力と暴力の衝突は恐ろしいものであると同時に興味深いものでもあった。なぜなら、「国家の暴力」に抗議するデモが暴力的なものになってしまったからだ。これはつまり「人を殴るのはいけないこと」だ、ということを「殴りながら教える」ようなものである。
 このデモには、たしかに憂さ晴らしの側面があったかもしれない。とはいえ、レンヌにおけるデモが、「警察の行き過ぎた暴力」への正当な抗議であったことは事実である。
 警察は治安維持、デモ隊は警察への抗議という大義名分があり、「正義」を持って行われている。お互いに自分たちに「正義」があると思い「暴力」を行使している。だから、これらの「正義」と「悪」の判断は第三者に委ねられている。僕はこれら「光」と「闇」を残りの滞在期間で見極めようと思う。

 最後に蛇足であるかもしれないが、これから留学を考えている人や、このデモに関する話や、それ以外の現在フランスで起こっている多くの事について質問等があれば、可能な限り力になりたいので、気兼ねなく連絡をしていただけたらと思う。yuseiroh[アットマーク]gmail.com

(4)語学学校CIREFEについて


(4)語学学校CIREFEについて

(2014/12/26 文責:堀裕征)

 先週で前期課程の全ての授業が終了し、束の間のバカンスが訪れた。ひとつの区切りであるので、今回はCIREFEという語学学校について知る範囲で書こうと思う。

 まず、クラス分けについてである。これは入学の申し込みの際に試験を受け、それにより振り分けられる。試験日程は複数あり、学校側からそのうちいずれかの日程を指定される。筆記だけの試験であり、会話能力については自己申告となっている。また、DELF・DALFやTCF等といったフランス語能力試験の成績証明書(diplôme)を既に持っている学生は、その水準(niveau)以上のクラスに基本的に振り分けられる。ただ、日本で行われているフランス語検定の成績証明書はdiplômeとして認められないので要注意だ。クラス分けテストの結果に不満を持ち、仏検の合格証明書を受付に持参し交渉している学生を何人か見かけた。クラス変更に関しては、開講後にクラスの担任と相談すれば可能な場合が多い。そのため、下手に認められていない書類を持っていくと余計に話がこじれる場合がある。ただしniveauによっては再度試験を受けないとクラス変更をさせてもらえない場合があるが、これはniveauと一緒に書こうと思う。


(最終授業後)

 niveauについて。これはフランスが定めるフランス語能力の基準であり、A1からC2までの6段階である。CIREFEのクラス分けもこれに習ったものであるが、他の語学学校ではA0というクラスがあるところもあるようだ。Aクラスは初級文法から、Bクラスは中級文法から、Cクラスは文法の復習を早々にやった後にはひたすら聴解やディスカッションといった、ひたすらフランス語を使いこなす授業が展開されている。先に述べたようにこれらのクラス分けは、あくまで筆記によるものである。そのため、スペイン語圏やイタリア語圏から来た学生の多くは会話のクラスと文法のクラスが異なるniveauであるケースが珍しくない。スペイン語とイタリア語はそれぞれフランス語と同じ語源を持っているためか、‘書く’より‘話す’ことを先に身につける学生が多いからだ。以前、メキシコ人の友人のノートを見せてもらったことがあるが、確かに似た言語だと思った。話が逸れたが、クラスによって必ずしも会話能力も正確に分類されているわけではないということである。
 次にCIREFEでの講義の種類及び内容についてである。授業は発音矯正を除き基本的に2時間である。例外的に3時間であったりする場合があるが、理由は不明だ。

<文法>……週あたり6時間組まれており、2時間のクラスを週3回もしくは3時間のクラスを週2回となっている。授業内はひたすら文法の講義であるが、一方的に教えを受けるというよりは、既習である前提で理由や使用条件について解説を受ける。
<聴解>……2時間もしくは3時間のクラスが週に1回ある。映像や音声を聴き、その内容理解が主である。また教材に沿って授業を進めていくものだが、これは文法の授業とリンクしている。文法の授業でやった内容に絡んだ映像や音声を用いるということである。
<発音矯正>……Aクラスは1時間のクラスが週2回あり、Bクラスは1時間を週1回である。これはCIREFEの建物とは別の建物で行われる。テキストが用意されており、発音解説を少し受けた後に自分の声を録音、再生し矯正するというものだ。まるでレコーディングした音源を聞くようで、最初はこそばゆい感じがした。
<Civilisation>……フランスの文化を学ぶ授業である。2時間のクラスが週1回である。クラスによってワインやチーズについて学ぶところや、社会制度について学ぶところもあり、先生の好みによるところが大きい。ちなみに僕のクラスは後者であった。
<会話>……2時間のクラスが週1回である。これもクラスにより内容はまちまちである。僕のクラスではテストは行われず、毎週異なるグループを作り、ディスカッションやプレゼンテーション、ディベートを行い評価の対象となっていた。ここまでが全てのniveauで共通の授業である。
 Bクラス以上は1つもしくは2つのオプションをこれら授業に加えて受講できる。文学、美術、映画や歴史といった授業を受ける事ができる。また、B2以上のクラスは大学の講義を選択する事も可能ある。

 各クラス内での評価については出欠や遅刻の数、テストの点数がベースとなっている。ちなみに自分は無遅刻・無欠席で前期を終えたため、出席点は満点であった。そして、それらに加えて各授業の内容に沿った加点対象がある。例えば、会話の授業では発言の多さだけでなく、発言内容の正確さや文法の正確さが重視されている。一方で聴解のクラスでは文法的正確さよりも、聴き取りの正確さ(内容の精度)が重視される。これらのおかげで得意不得意が如実に現れるので、苦手な分野に気付き補強することができる。そして、学生が希望すれば苦手な分野に関する別途課題を各教官から貰うこともできる。


(前期終了後の打ち上げ)

 次にCIREFEにおける前期時点での学生の母語別の大まかな内訳である。中国語30% 英語30% 日本語15% スペイン語10% モンゴル語10% 他5% といったところだろう。中国語圏の学生はあえて後期に入学し、半年から1年半在籍する学生が多い。英語圏の学生の大半はアメリカの大学から来ており、大学の短期留学プログラムを利用して来ている。日本からの学生も同様で大学を通じて留学に来ている学生が大半である。CIREFEだけに在籍するスペイン語圏の学生達の多くは母国で学士を修了している。1年間語学に専念し、その後にフランスで就職、もしくは大学に入学する流れだそうだ。このように各言語のバランスが偏っているため、少なくとも僕の会話のクラスでは、日本人もしくはスペイン語圏の生徒を軸としたグループ編成が多かった。同じ母語の学生がグループ内で固まってしまい、授業の趣旨にそぐわないからである。

 最後に、CIREFEの開催するイベントについて少し触れておこうと思う。このイベントはCIREFE職員とレンヌ第二大学の学生により企画される。これらは廊下での掲示だけではなく、各クラスに担当学生がつき、授業の前に軽い説明をしてくれる。また、最初に登録するメールアドレスにもメールが来る。Facebookをやっている学生はCIREFEのページもあるので、そちらで随時情報を確認する事もできる。僕は今までに幾つか参加したが、幸いにもそのどれもが当たりと言える内容だった。例えばVin et Fromageと題された行事では、ワインの飲み方や歴史、チーズに関する知識を教えてもらえる。当然その後は全員で実際に口にする。「絵に描いた様な フランス」を体験でき、自己満足に浸る事ができる。また学期末にはディスコ(日本におけるクラブ)で前期最後のパーティがある。自分はディスコが本当に嫌いなので、行くかどうか直前まで迷った。しかし、担任からCIREFEの最後のイベントだからと押され、渋々行くことにした。結果的にはディスコはやはり好きになれなかったが、この行事には行ってよかったと思えた。

 ここまで書いてきたようにCIREFEは授業体系やそれ以外の面でも学生の面倒を見てくれる。飽くまで提示してくれるだけである。それをどう利用するか、はたまた全く参加しないのかはすべて個人の自由である。ただ、参加すればクラス以外の友人ができ、学校が楽しくなると個人的には感じた。
 以上がCIREFEについての説明である。

 僕の前期の学内での活動はCIREFE以外にもあった。日本語の授業でのアシスタントである。これについても書こうと思う。まず、授業に参加するにあたり、レンヌ第二大学で日本語の授業をされている高橋先生に参加の許可をお願いした。そして結果的に参加させてもらう事ができた。これはとても良い経験になっており、非常に感謝していることをここで述べておきたい。参加している授業は2年生の文法と会話、1年生の会話クラス2つの計4つである。日本語のレベルには当然ばらつきがある。意欲的に取り組んでいる学生は、本当に日本のことをよく知っている。日本の有名芸能人の交際等のニュースはたいていこのクラスの学生から耳にする。奇妙な感覚ではあるが、いかに彼らが日本好きなのかが分かる。また、彼らの試験直前に日本語の添削をお願いされることがあった。その代わりにこちらのフランス語の添削を買って出てくれ、学ぶ事は非常に多い。




 2年生の文法のクラスでは何度かプレゼンテーションをした。着物や、現代ファッションについてであった。学生の関心を掴むのは当初苦戦したが、よく考えてみれば簡単なことなのである。彼らは日本が好きなのだから、その土俵で勝負すれば良いと思った。例えば、原宿系と呼ばれるファッションがある。それを説明するにあたり原宿のイメージを掴んでもらうために、きゃりーぱみゅぱみゅのPV(ファッションモンスター)を使った。また、ヴィジュアル系を説明する際には、由来である音楽のヴィジュアル系からゴールデンボンバーのPV(女々しくて)を用いた。XJAPANとゴールデンボンバーは別にヴィジュアル系に熱心な学生でなくても認知度が高く驚かされた。特にきゃりーの人気は高く、その見た目、PVの構成や彼女の声から人気を博しているようである。

 海外で母語に触れる機会というのは乏しい。それゆえ、日本語の授業に出る事は自分がいま海外で生活しているということを再認識させてくれる。単純な日本語とフランス語の交換に留まらないのである。また、長らく自分が使っていた言語を外国語として教えるという経験もそれを助長しているようである。この意味で外国語を学ぶ事の難しさ、それと同時に言語の持つ特有の面白さも知る事ができる。なかなか容易にできる体験ではないだけに、少なくとも僕にとっては、今後の糧になっていくことは間違いない。



 今回はCIREFEという語学学校のこと、僕の参加する日本語の授業のことについて書いた。まだ予定ではあるが、年明けにその授業内で日本の年末年始についてプレゼンテーションをすることになっている。そのため次回は年末年始のフランスについて触れながらCIREFEの後期開講に関して書ければ、と思う。

(5)目の前に刻まれた「表現の自由」の歴史──シャルリ・エブド襲撃事件以後


(5)目の前に刻まれた「表現の自由」の歴史──シャルリ・エブド襲撃事件以後


(2015/4/10 文責:堀裕征)

 前回の留学記の結びに年末年始のフランスについて書くと宣言してから2ヶ月経過してしまった。ただし、今回はフランスの年末年始についてではなく、世界各国で大々的に報道されたフランス新聞社襲撃事件についてである。「表現の自由」を軸として語られるこの一件、現在は沈静化しているが、1月の間中はどこに行っても「Charlie Hebdo(シャルリ・エブド)」の名前を聞かない日はなかった。

 事件の概要を説明したのち、フランスにおいてこのテロ事件はどう受け止められていたのか、また「表現の自由」について言及していきたい。

 まず2015年1月7日にパリ11区において、武装した3人組の男が新聞社「Charlie Hebdo」に突入し、銃を乱射した。福島原発と2020年の東京オリンピッックを掛け合わせた風刺画を描いた事でも知られるジャン・カビュをはじめとした10名が死亡した。その中には、現場に仕事で居合わせただけの被害者もいた。白昼堂々の犯行ということ、逃亡時に2名の警察官が射殺されたこと、また「表現の自由」を体現していたとされる「Charlie Hebdo」を襲撃したことなどの理由から、このニュースはすぐさまフランス全土に広がり、世界各国でも報道されることとなった。では、なぜ今回の事件に至ったのか。ただの殺人事件ではなく、2006年から続く因縁があったことを次に説明しようと思う。

 2006年、本紙の表紙にイスラム教預言者と思しき男性のイラストを描いたことでイスラム教徒から反発を買った。その翌年の2007年には同じく爆弾を抱えたムハンマドと思しき人物を描き、同様に反感を買うこととなった。そして4年後である。「ムハンマドを本紙の新たな編集長に任命した」と描かれた風刺画を掲載し、火炎瓶を投げ込まれている。これ以降、2014年まで風刺画を掲載し続け、年末には「フランスでは未だに襲撃がない。新年の挨拶なら間に合うぞ」と煽る内容を掲載。これは事件の1週間前の号でのことである。ちなみに、この間にフランス政府から警告を幾度か受けており、フランス政府が傍観・容認していたというわけではない。
 事件の内容はすぐに報道され、世界各国でも速報が流れたという。歴史的テロ事件として情報は広がっていき、それに呼応するようにしてフランス各地でデモが執り行われた。

 僕の住むここレンヌにおいても何度か追悼集会やデモが行われた。デモに集まった人数は推定13万人とされている。ちなみに、レンヌは人口約20万人の街であるから6割以上が参加していた事になる。当然、僕も今回1人での参加に臨んだのだが、現地でフランス人の友人を何度か見かけた。小さい子どもから老人まで、年齢層に関係なくデモを行っていた。前回の留学記に書いたものとは違い、今回は全ての人がひとつの目的の為に行っているという強い意志が感じられた。プラカードを持つ者、ペンを掲げるもの、「Je suis Charlie」と叫ぶ者、「Liberté」と連呼する者など、それぞれのデモへの表現は様々であった。この日は行きも帰りも常に人が飽和している状態で、駅の外にまで人がごった返していた。





 日本でもおそらく見かけた方はいるであろうが、「Je suis Charlie」「Nous sommes Charlie」というこの言葉。デモの収まった今でもフランスの至る所で目にすることができる。直訳すれば「私は(私たち)はシャルリだ」ということになる。意味が通じないこともないが、これだけ書いたのでは何となくおさまりが悪い気がしたので、シャルリデモの参加者に聞いてみた。CharlieはもちろんCharlie Hebdoのことである。また、同時にそれは「表現の自由」のことでもある。

 「表現の自由」といえばフランスに限ったことではなく、日本でも同様に保障されている権利である。しかし、当然ではあるがフランスと日本では考え方が違う。それは今回の事件で強く感じたことのひとつだ。自由といっても全く制限が無いのかといえば、日本においては、それは絶対に違う。行き過ぎた表現や他者を不快足らしめる表現は、往々にして敬遠されうる。教育上不適切、倫理的に不適切など色々と理由は掲げられる。つまりはある一定の枠の中に当て嵌まっているかどうかという尺度で計られていると感じた。そのため、今回の事件に関しても「いくら表現の自由と言っても、今回はやりすぎた。」という意見が多かったのではないだろうか。

 しかし、フランスにおいては「これは単なるテロ行為ではなく、表現の自由に対する直接攻撃である」「我々の権利を侵害した」という声が圧倒的に多い。
まさに、歴史的に自由を「自ら獲得した国」とそうでない国の差ではないだろうか。前者はもちろんフランスのことであり、後者は日本のことである。それ故に今回の事件がここまで拡散され、深刻視され、フランス国民の指示を集めるのではないだろうか。

 「デモ」、つまり「自由への団結」について語られた演説がある。簡潔に引用しよう。
 「我々はバラバラになってはいけない。警戒、一致団結すべき時である。たしかに、必要とあれば我々は武力による反撃をすることができる。しかし、同様に団結することでも対抗することができる。それが我々の持つ最高の武器である。我々は何も恐れず、何にも抑圧されることのない自由を持った民である。そして、それら団結は我々が脅威に立ち向かうことができる。民主主義、自由、多元主義を携えて、ともに立ち上がろう。我々はひとつに繋がれている。」
 これは現フランス大統領であるフランソワ・オランド氏の国民演説からの引用である。

 また、デモ参加者の1人のフランス人男性からの言葉も引用しよう。
「今回の件はすでに記録的で深刻なテロ事件だ。そして、我々の権利を侵害されたのだから許すことはできない。ジハーディストとの戦争はもはや止められない。それどころかすでに始まっている。フランス以外の国も、世界は必ずジハーディストとの戦いをおこなう。そして、当然フランス人である我々はフランスが行く方向に必ずついて行かなくてはならない。」
 別に怒った口調ではなく、落ち着き払った声でゆっくりと話してくれた。彼が特別熱心というわけではなく、多くのフランス人が同じように考えているそうだ。




 大統領もまたひとりのフランス人であり、ただの市民もまたフランス人なのである。頭の先から足の先まで、全てがフランス人である。これは日本人にはない連帯および団結であると感じた。まさに、これはフランス人の武器であろうと思う。「自由」と「団結」、この2つがフランスを形作っているような印象を受けた。

 そして、今回の事件に関して言えばもうひとつの要素が加わる。それは「宗教」である。フランスの主たる宗教という意味ではなく、多くの文化が内在するこの国における「宗教」のあり方である。日本は世界的に見ても信仰の薄い国であるとよく言われる。フランスはどうであろうか。点在する教会や聖堂、はたまた道行く人の服装からでも、その多さは見てとれる。それらが常に信仰の深さを示してはいない。しかし、「宗教」という言葉の広さは象徴しえているように思う。

 稀に見かける仏教徒のような人々、かいがいしく教会に通う人、はたまたヒジャブに身を包む人など、多様なスタイルがある。色々な起源を持つ人々がいて、それぞれの生活を持っている。それが宗教に根差したものかどうか、断定することは容易ではない。しかし、あくまで個人の中にひとつの色として「宗教」を強く出しているということから、教えの上に少なからず生きていることがわかる。そして、色の差は宗教の差に留まらず、文化や民族性の相違までも表していると言えるのではないだろうか。
 しかし、差というものは常に判別される手段とは限らない。差別を生む手段としても同時に存在している。宗教による差別、民族による差別、文化的違いによる差別。差別と名のつく物を思いつく限り挙げてみればキリがなさそうだ。だが、確実に分かることがある。差別は個人の起源から生まれている、ということだ。
 大統領が多元主義を口にするフランスにおいて、差別が全くないかと言えばそんなことはない。人種的、宗教的、文化的差別は存在する。それは小さなところから大きなところまで、至る所で目にすることができる。

 なぜここで差別の話をするのか。既に明らかなことではあるが、今回のCharlie Hebdo社襲撃テロに関わっていく事柄だからだ。Charlie Hebdo紙の表紙は風刺画で飾られることは有名だ。日本もかつて福島第一原発に関連して描かれたことがある。正直、描かれている側としては良い気はしない。しかし、面白半分で描いているわけではない上に、的を射ていることが多い。そのため国内での支持者が多いのだろう。話を戻すと、今回Charlie Hebdoが行ったことは差別を煽る、いわゆるヘイト表現ではないかという声が上がっていた。これはフランス国内外を問わず(フランスでは少ないが)言われていることである。ヘイト表現、ヘイトスピーチに関しては世界中で規制がある。フランスも例外ではない。

 とりわけイスラム教に対するヘイトスピーチはタブー視されている。イスラム教というひとつの宗教のあり方が他と比べて特殊だからだろう。しかし、皮肉なことに最も多く行われている表現でもある。ある特定の宗教に関して批判を行うことは難しいことではないが、しかし、それが理解を得ることは極めて難しい。宗教とは基本的に個人の自由意志によるものだと自分は考えている。したがって批判がそのまま差別に代わるケースも少なくない。「自由」を重んじるのであれば、他者の「自由」も同時に尊重されなければならない。

 ことイスラム教に関しては、「宗教」がひとつの文化を形成し、生活の軸となっている。故に、彼らにとってイスラム教とは単純に語られ得る「宗教」以上に崇高なものなのだ。当然、それらに軽々しく触れられれば怒りもするし、ましてやタブーに気安く何度も触れられてしまった場合、彼らの怒りは容易に想像できるものではない。ここで問題となるのは全てのイスラム教徒が一緒くたにされていることである。多様な宗派がある以上、単純に一括りにしてはいけないということだ。しかし、彼らは一括りに差別されうる存在である。

 例えば、カルト教団や悪魔崇拝のように得体の知れない物を象徴とした集団は確かに怖い。しかし、それは先の見えない恐怖だ。ではイスラム教はどうだろうか。知名度や歴史的起源などを鑑みても、同様の恐怖は存在しない。しかし、恐れてしまうのだ。

 イスラム教の中でも熱心な信者でありながら現代に適応して生きている者もいる。メディアにより描かれる過激なイスラム教徒とは一線を画した存在だ。現にイスラム教徒というだけで、世界中の多くの人は嫌悪感や不安、恐怖を覚えるのではないだろうか。かつては「コーランか死か」という教えを元に世界中を駆け巡ったイスラム教徒達の過去が今の彼らを形成している。積み重なった歴史が恐怖を生み、また一部の宗派にそれは受け継がれている。そして、イスラム教の特性から一纏めに考え、全てを嫌悪・恐怖の対象にしてしまう。

 先の日本の風刺画の話に戻ると、たとえ自分が賛成していなかったとしても日本が原発を完全に撤廃しない限り、あくまで原発推進もしくは賛成国の一員として見なされる。たとえ自分の意思に反するものだとしても、自分からそれを説明したとしても、世界はそれを完全には理解しないだろう。少数派の意見というのは、たいてい多数派の意見にかき消されがちだ。しかし、少数派の意見がスポットを浴びる時もある。それは奇異な目で見られる時、出る杭として打たれる時だ。とある範囲内の極めて主観的な基準により下される良し悪し。それが普遍的な基準でないこと、中立でないことは火を見るより明らかだ。

 テロ事件の後に日本でも話題になったもうひとつのイスラム教関連のニュースがある。ISIS(通称:イスラム国)だ。邦人の人質2名が殺害され波紋を呼んだ。今回のテロとISISによる誘拐および殺害の直接の関係はない。だが、やはりイスラム教というイメージ。それが先行してしまった。また、報道の際に使ったイスラム国という言葉。これらは何も知らない、調べようともしない人からすればイスラム教国家というイメージが容易に植え付けられてしまう。これによりイスラム教のイメージはさらに悪化するだけでなく、今まで差別の生まれなかった場所でも差別の生まれる可能性が出てきた。また同時に恐怖もより強いものとなって国民感情に植え込まれたのではないだろうか。

 先に述べた話は「大きなものに隠れた小さいものを見落とす話」であり、後に述べた話は「並んだ、もしくは近くにある二つの物に繋がりを持たせようとする話」である。何を意味しているのか。「シャルリ事件」および「表現の自由」に関する日本での反応である。

 「有名新聞社が掲載した風刺画に対して、イスラム過激派が襲撃を行った。表現の自由とはいえ、行き過ぎた表現だった。仕方ない。」というのが日本での目立った意見だろう。確かに言っている事に不自然な点はなさそうだ。しかし、間違っている。「シャルリ事件」を「イスラム教」が「行き過ぎた風刺画」に対して攻撃を行った事件と捉えているからである。そもそも国民が立ち上がったのは「有名新聞社がイスラム教に攻撃されたから」ではなく、「表現の自由に対する直接攻撃だから」である。ここにおいて「シャルリ」は新聞社としてではなく「表現の自由」として扱われている事に留意されるべきだった。風刺画を描いてテロを受けた話と、表現の自由が攻撃を受けた話はそもそも別にして話されるべきものなのだ。

 先にイスラム教や差別について話したが、今回の事件の二次的な要素である「イスラム風刺画」や「新聞社」に関しては、フランスの人々は他国と似た様な感情を持っている。フランスにおいてイスラム教は受け入れこそされ、拒絶はされていない。完全に平等な状況とは言い切れないのも確かだが、自由を与えられている事もまた事実ではないだろうか。

 今回の事件の鍵となる「表現の自由」は尊重されるべき、侵害されてはならない権利であったはずで、それが侵害されたから蜂起するのは当然の流れで、それを日本ではあたかも「表現の自由=“ヘイト”表現の自由」とも取れるような報道の仕方、および考え方をしてしまったのはなぜだろうか。文化の違い、文化を育んできた歴史の違い、様々な理由があるとは思う。それを報道レベルで汲み取れなかったのは仕方のないこととして受け止めるのか、それとも異なる思想や文化として自分に溶け込ませるのか。それは各々の熟慮に委ねたい。

 事件からだいぶ経ってしまった今、もはや「事件」のことを口にする人の数こそ減ったものの、彼らの掲げる「Je suis Charlie」は決して下げられることはないようだ。レンヌの大学では「表現の自由」に関する授業が行われている学部もある。これに関しては当ホームページにおける2015年3月フランス滞在記(http://www.comp.tmu.ac.jp/fr/pg114.html)を参照してもらえればと思う。




 ここまで、事件の概要や関わる事柄である「表現の自由」等について書いてきた。新聞やニュース、テレビやラジオなど様々な情報を元に、自分の考えを混ぜ、なるべく伝わるようにと書いた。そして、今となっては「過去の話であり、いまさらな話」と思われるかもしれない。たしかに、事件の話だけでいえば過去の話になりうる。だが、「表現の自由」を含めた「権利」に関して言えば、むしろ「今からの話」なのだ。
 今回の事件が後世に与える影響を考えた時、今回の事件以降「表現の自由」は再誕したと言ってもいい。目に見えないが故にこれまで意識してこなかった「権利や法」を意識する。法令を遵守するという言葉通りの意味ではなく、一人一人が「権利や法」という枠の中での自由を意識した結果、また権利への直接攻撃が過去に行われたという歴史はこれからのフランス、ひいては世界を変えていく可能性がある。ただの歴史的事件ではなく、まさに目の前に刻まれた歴史として。
 ただ流されるのではなく、足元の動きを見据えた上でこの波に乗っていると実感する。言う事は単純にできても、実践することは難しい。しかし、難しいからこそ行う価値があり、やらなくてはならないのではないだろうか。

 最後に、今回の一連の動きはフランス内での出来事に留まらず、これまでもこれからも「世界という一つの地域で起きた事件」である事を忘れてはならない。それはすなわち、権利を与えられ法に囲まれた「人」である以上、避けては通れない歴史ということなのだ。

(6)檻の隙間から生き方が変わる


(6)檻の隙間から生き方が変わる

(2015/8/3 文責:堀裕征)

 7月23日午後16時30分。成田空港にて感じた湿度の高さは、同時に懐かしさでもあった。ついに帰ってきてしまった。11ヶ月という期間が、留学が終わってしまった、そう感じた瞬間であった。




 5月末の時点でCIREFEの授業は終わり、そこから約2ヶ月間のバカンスを過ごした。とはいえ母と姉が来ることや、ヘルフェストに行くこと、モロッコに行く以外の予定はなかった(下写真)。そのため、必然的に考え込む時間ができた。ふとした瞬間に物思いに耽ることがなかったわけではない。しかし、この期間は自発的に思考、熟慮していたように思う。主にこれまでの生活を振り返ってのことや、これからの事だ。しかし、ただ感傷に浸ったわけでもなければ、将来の夢なんてことを考えていたのでもない。




 この1年間で色々な世界を見て、結果的にどう感じたか。果たして少なからず環境は自分に影響を与えたのか、などだ。簡単に答えの出せる問いではなかったし、また答えがあるのかも不明であった。それでもフランスという国で「光と闇」を見た以上、なにか一つの着地点があるはずだ。そう悩み続けたバカンスを終える頃にひとつの自分なりの結論が出た。(あくまでこれは全てに当て嵌まる事ではなく、自分の個人的な見解であるということを予め伝えておきたい。)

 世界中の全ての国や地域に身を置き生活をしたわけではないが、結局は同じことなのだ。つまり、自分はどこに居ても国という括りに身を置いている。それは法律や制度により整備された社会という名の檻の中で生きているということだ。
 超先進国と言われる国であろうと、発展途上国と称される国であろうと、それぞれ置かれた檻の中に生きているに過ぎない。その檻の隙間から景色が見えることを人は自由と呼ぶのだろう。実際には完全な自由なんてなくて、自由があるような気がしているだけだ。
 結局、「日本という国を離れる=他の檻に移る」ということだった。もちろん、その中で使われる言語という記号は違う様相を呈している。しかし、記号を用いて暮らしているということに変わりはない。そこに不自由の程度はあるが、自らが手にしようとすれば手に入るものだ、ということも気付かされた。



(出発の日、レンヌ駅にて)

 海外留学をする学生の多くに「留学は人生を変える」という理想がよく挙がるようだけれども、それは間違っている。「社会という柵の中に生きる=人生」である以上、人生は変わらないのではないだろうか。あくまで変えていくのは自分自身であり、変わるのは生き方である。
 勤勉に生きるのも、ほどほどに生きるのも、怠惰に暮らすのも、あくまで「檻の中での過ごし方=生き方」である。つまりは先に述べたように檻が変わっただけであり、檻からの脱却を意味しない。これらを踏まえた上で重要なのは気付くことであると思う。環境の変化にあってもそれに流されることなく生きるのは大変なことである。ただ、異なる環境に適応するということは、多少なりとも生き方を変えていることになるのではないだろうか。

 意固地になって視野を狭くするよりも、広い視野をもって適応していくこと。それは結果的に経験を蓄積させることに繋がり、後の自分を形成していく糧になる。挫折や失望、失敗により虚無感に陥るよりも、一度開き直ってみることも重要だ。確かに檻の中に生きてはいるが、決して身動きが取れないわけではないのだから。
 失敗や挫折という負の事柄を放置するということではない。見方を変えてみるということだ。物事は常に幾つかの面を持っている。それらを踏まえて他の面を見る事ができれば、必然的に感情の底から這い上がることはできるだろう。
 道具に正しい使い方と悪い使い方があるように、物事にも表と裏がある。「光と闇」の関係のように、片方がなければもう一方も存在できないように。惹き付けられる面だけに気を取られてはいけない。
 光を見たならば闇を覚悟して、闇を見たならば光を覚悟する。それでも、深い闇や濃い光はある。しかし、実際には対面しなくては知る事ができないのも事実である。つまり、心構えという装備を事前にしておけばいいのだ。

 フランスで見つけた、あくまで個人的な結論をまとめたつもりではあるが、長々と分かりづらい文章となってしまった。一生に何度もあるか分からない海外生活という経験。これから行く人たちは貴重な経験をしているということを、また、それは周囲の助力なしでは実現し得なかったであろうことを念頭に置いてほしい。またその上で胸を張ってフランスでの生活を最大限に吸収してくれれば、と思う。

 最後に、今回のレンヌへの留学を実現するにあたり協力してくださった仏文教室の教員の方々および職員の方々、またこの体験記を見てくれていた方々や応援してくれていた方々など、関わった全ての人に感謝の言葉をもって締めさせていただきたいと思う。およそ1年の間、誠にありがとうございました。