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レンヌ留学記2017年度(佐藤理紗、田中恭平

はじめの一歩(佐藤理紗)

はじめの一歩(佐藤理紗)


日本に帰国して、久しぶりの故郷の空気を思いっ切り吸った。すると、そのにおいが懐かしいと感じた。私は本当に、長い間ここを離れてフランスにいたのだと、そのとき改めて自覚した。

時々留学中のことを振り返ると、印象的な出来事がいくつも思い出され、懐かしさで心地の良い気分になる。しかし、それと同時に、日常的に聞こえていたなめらかなトーンの人々の会話や、語学学校での日々などから離れ、フランスの存在がものすごく遠くに感じることに、寂しさを覚える。留学中の生活も、日本では起こりえない様々な経験も、少し上達したフランス語も、すべて大切な宝物として忘れずにしまっておきたい。

そこで、今回は留学中に体験した、印象的な出来事について紹介しようと思う。ここで紹介することは日常の小さな出来事であるが、留学中にしか体験することができなかっただろう貴重なものであるため、この留学記を読んでくれた人に、少しでもフランスの雰囲気や留学についてのイメージを持ってもらえたらと思い、綴ることにする。 一人旅  留学中、何度か一人で旅行に行った。日本では、一人旅なんてしようとも思わなかったのだが、海外で一人暮らしをしているということを考えれば、大したことではないように思えた。そんな気持ちの変化からも自分の成長を感じた。

一人で街を歩いていると、時々他の旅行客や地元の人が声をかけてくれた。街を案内してもらったこともある。フランス人に限っては、私がフランス語を話せると知ると、嬉しそうに色々な話をしてくれた。ある人は、「これも何かの縁だから、いつかフランスでの生活を思い出した時、私のこともついでに思い出してね。」という言葉をかけてくれた。たった一度会って、数分話しただけなのに、こんな言葉をもらえて、それがきちんと理解できたことに喜びを感じた。  

一つ新しい言語を覚えていく度に、コミュニケーションの幅が広がっていく。旅を通して、そんな感覚を味わうことができた。


(ブルージュ:「ベルギーの水の都」と呼ばれ、街全体が世界遺産に登録されている)

レストラン  

ブルターニュ・ジャポンのメンバーと、レンヌにある中華料理屋さんに行った時の話だ。その日はお客さんが一度にたくさん来たため、料理が出てくるのにとても時間がかかった。なぜだかわからないが、私の頼んだものだけ先に来て、私がそれを食べ終えた一時間後くらいに、やっと他の人の分の料理が出てきた。フランスのレストランでは、食事中も皆で会話を楽しむため、席に着いてもわざと時間をおいてメニューを出したり、料理は全員分、できるだけ同じタイミングで出したりといった、ルールがあるらしい。しかし、いくら話し好きのフランス人にとっても、その日はあまりに料理が出てくるのが遅かったようだ。  

日本だったら、もうとっくにお客さんが怒って、店員さんに言いつけるのだろうなと思ったのだが、彼らはそうではなかった。常連らしき、他のテーブルにいた家族は、テーブルを立つ際、「今日もいつも通りおいしかったよ。でも、いつもと違ったのは料理が出てくるのが遅かったことだね。」と怒る風でもなく、諭すように言ったのだった。それは皆で食事を楽しむ時間を大切にするという考えで、雰囲気を台なしにしないためなのか、日本の「お客様は神様」というような概念がないからなのかはわからないが、日本もこんな風に人と人の関係が築けたら、細かいことに腹を立てずに済むのではないかと思った出来事であった。


(タボール公園:毎年違う色を基調に花が植え替えられる。天気のいい日にはベンチに腰掛け、日向ぼっこをする人々の姿が見られる。)

ブロッカージュ  



去年12月、大学の入試制度改革が発表され、その改革に対する抗議で、2月の中旬から、ブロッカージュ(学校封鎖)が行われた。始めは週に一回、教授会が開かれる木曜日を狙って行われていたが、徐々にエスカレートし、4月からは毎日封鎖されていた。CIREFEもレンヌ2の敷地内にあり、オプションで大学の授業を受けることができることもあってか封鎖されていた。その間、CIREFEの授業は公共施設や青少年の家などの会議室で行われた。授業毎に場所を移動しなければならず、時には迷子になって、授業に大幅に遅刻してくる人もいた。仕事をしながら通っている人にとっては、教室が毎回変わるのはかなり痛手のようで、私たちもマニフェスタシオンできないのかと本気で先生に聞いている人もいた。CIREFEの学生は授業料を払って授業を受けている。それなのに他の誰かのせいで授業に支障が出るのはいかがなものかという意見もあった。しかし、フランスにいる限り、色々なところでフランスの制度に恩恵を受けているのだから、従わなければならないのかもしれない。ただ、私たちはただフランス語を勉強したいだけの外国人なのだから、巻き込まないでほしい。そんな複雑な思いで残りの時間を過ごした。  

改革について少し詳しく話すと、知名度の高い大学へ入学希望者数が偏ってしまい、大学が受け入れきれないという状況を打破しようという試みらしい。従来はバカロレアの取得者であれば、国公立の大学には自由に応募することができた。しかし、それを日本のように各大学に試験を設け、選抜式にするという。私たちからしてみれば、大学に入るために入試を受けるのは当たり前なので、なぜそんなにも反対するのかとも思うし、現に入学できたところで、大学1年生から2年生に進級する割合が40%という状況を考えると、自分に合う大学を選べた方が良いのではないかという気もする。それに入学希望者が多かった場合は、くじ引きで決められることもあるという。それこそ不平等ではないかと思うのだが、昔の日本のように、フランスは就職する際に学歴が大きく影響する社会だ。それを考慮すると、名のある大学に生徒が集中するのもよくわかる。入口が広い分、出口は狭いが、挑戦する機会は奪わないでほしい。そんな彼らの主張もよくわかる。  



ただ、今回のマニフェスタシオンは異常だと感じた。始めは大学改革に対する抗議であったが、徐々に主張が変わっていき、最終的には自分たちが始めたマニフェスタシオンで授業が潰れた分、期末試験は中止し、すべての学生に単位を与えてくれということになったのだ。CIREFEの学生という立場からして、そんなことを言うのなら、今すぐ学校封鎖を解くべきだと思ったのだが、そうはならなかった。  

レンヌ2の学生にこのマニフェスタシオンについてどう思うかと聞いてみたが、私の友達は皆、「こんなことしても意味ないよ。」と言っていた。彼らも一被害者なのである。マニフェスタシオンに参加しているのは一部の学生であって、他の大多数は迷惑極まりないといった感じであった。あるブルトン語のクラスは会話の試験を屋外で行ったという。また、4月に学校教諭の試験を控えた学生たちは、試験のための補講授業を、図書館の中で細々と受けていた。  

「C’est la France.」という言葉で片づけてしまう人もいた。それを言われてしまうと、どうしようもないような気持ちになるが、これが本当に古き良きフランスの伝統なのだろうかと、体験して初めて疑問に思った。


(ブロッカージュ中のCIREFEの建物)

帰国直前  

帰国前の一週間は毎日のように友達に会い、別れを惜しんだ。よく聞かれたのは、日本とフランスの生活、どちらが好きかということだった。その度にレンヌでの日々を思い出し、こんなにも自由に過ごしたことは今までなかったかもしれないと思い、「フランス」と答えた。すると、ではなぜ帰るのかと聞かれた。9か月と決めて、残るという考えは全くなかったので、そう言われて驚いた。例年の先輩方の多くも、留学して、日本に帰ってきて、日本で就職していたので、帰国して日本で生活するのが当たり前だと思っていた。前に誰かがしてきたから、私もそうするのだと、何か新しいことに踏み出すことを自分で諦めてしまってはいないかと、はっと気づかされる一言だった。  

レンヌで暮らす日本人  

レンヌで暮らしている日本人に会った。学生として大学に通っている人もいれば、ブルターニュの踊りを極めるために来たという人も、フランス人と結婚して来たという人もいた。好きなことを好きな場所でしているその人達は、とても生き生きとしているように見えた。周りの人と同じことをするのが正解。留学前は、そんな風に感じることが多かった。他人と違うことをするのは、道標がない分、苦労するし、不安だろう。だから、自分は何がしたいか、きちんと考えてみることもせず、周りと同じように生きてきた。しかし、そればかりが正しいわけでもないと今なら思える。留学中に会った人達は皆、少し変わった人生を送っている分、しっかりと自分を持っているという印象だった。それは、フランスの文化の中で、一人一人が個々に存在することがよしとされているからかもしれない。私たちがフランスに魅了されるのはそういう環境があるからではないだろうか。 もしそんな環境が自分の周りになくても気にしなくていい。私は私の基準で選び、進んでいけばいい。フランスの文化に触れて、そんなことを考えるようになった。


(フランスの休日)    

レンヌでの多くの人との出会いが、もっと大きく構えていていいのだと、先は見えなくても今を楽しめればそれでいいのだと、思えるきっかけを与えてくれた。色んな人生があっていいのだと思う。もう少し、自分の方に意識を向けてみたらいいのだと思う。道はたくさんあっていい。歩いてみて、違うと感じたら立ち止まり、また違う道を探してみる。そうしていくうちに自分のゴールが見つかればいい。将来に漠然とした不安を抱いていた私だが、そんな不安も今では楽しみだと思えるほどになった。


(アゼ=ル=リドー城Azay-le-Rideau)  

おわりに  

始めは音にしか聞こえなかった周りの人々の会話が、少しずつ意味のある言葉となっていく感覚や、晴れている日には家にいるのがもったいないと思えるくらい素敵なレンヌの街並み。それらすべてが、かけがえのない宝物となった。留学して、どれくらいフランス語が上達したかとか、学問的に何を学べたかいうことも大切なことかもしれない。けれど、留学を通して自分と向き合うということが一番大切なのではないだろうか。限られた時間の中で、自分は何がしたくてここに来たのか、一生懸命考えてみるといい。自分ととことん向き合える、それが留学することの良さのひとつである。 いつもとは違う環境とゆったりとした時間の流れの中で、私は今後の人生を考える上で、大切なヒントを見つけることができた。


(土曜のマルシェ:歴史的な街並みに活気あふれるマルシェの風景がマッチしている)  

最後になりましたが、このような貴重な経験をさせて頂いたことに、心より感謝申し上げます。私を送り出してくださった、西山先生をはじめとする仏文の先生方、先輩方、同期の皆、そして、わがままを言って迷惑をかけたサークルの仲間、家族、レンヌで貴重な経験をさせてくださった高橋先生、本当にありがとうございました。

千思万考の果て(田中恭平)

千思万考の果て(仏文3年 田中恭平)




「誑かす」という字は言偏(ごんべん)に狂うと書く。2017年の3月、西山先生のプログラムでパリにいた私はまさしく「ことば」の氾濫の中でおぼれかけていた。パリの高等師範学校の中庭で西山先生にお灸を据えて頂いたことは、いまだ記憶に新しい。その頃の私は、論文ともエッセイともつかない本と「戯れ」ていたこともあって、口先だけはラディカルなくせに、実はアイロニカルに世の中(との交流)を否定していた。自分が何をしたいのかもよくわからず、まともに勉強するのも嫌で、「大人(になること・であること)」から逃げろや逃げろ、逃げながら読書をしていた。①何をやっても所詮うまくいかないという認識、②そしてそこにこそ実は依って(酔って)立っていることに無自覚であったことが私の逃走に拍車をかけた。こういう読書の仕方があるということを知ったからこそ、読書をしていれば勉強したことになるわけでは全然ないと今なら言うことができる。このころの逃走者としての私は、自分が世界に対して、価値的にかなり深く没入しているという現状分析からは目を背け、浮遊と自由とを取り違えていたのである。

大人になりきれない自分を肯定していた。甘えていたのである。むやみに感情的になることを感受性という極めて重要な資質と混同していた。そして、幼い自分の消息を、とことん追ってみたら、たどり着いたところには、実はなにもなかったのである(少なくともことばで語れるようなものは)。私は、まったく普通の普通人であった。これが私のパリにおける学びの、簡潔で、率直なまとめである。

私は、自分の中に確実に存在している、過去を不当に美化してしまう傾向が恐ろしい。尊敬していた先輩が、いまだに彼の高校・大学時代が人生の絶頂であったとぼやくとき、自分もいずれそんな風に思うのだろうかと不安になったものだが、その心配はもうない。なぜなら、私の大学時代は、世界の全体像がおぼろげにすら見えない苦しみに満ちていたからである。月のない海で嵐に耐えていた。ただ力任せにもがいていた。私の学業の成果と呼べるものがなにかあるとしたら、今のところ、最大のものはこの惨状を自覚したことだろう。

3月にパリから帰ってきてからの私は、とうとう文字が書けなくなってしまった。自分がどれほど無自覚に概念を使って来たかがわかり、恥じ入ったのである。いよいよ皮肉屋に徹しながら、自然の鏡となる明晰で透明な言語を求めて勉強を開始した。その結果ますます言葉が遣えなくなっていった。授業を受けてもレポートがぜんぜん提出できなくなってしまった。斜に構えること自体は勉強の基本姿勢として間違っていなかったのだろう。しかし、いつも私は度が過ぎる。曖昧さを過剰に嫌うことは、曖昧であることに開き直るかつての私と同程度に誑かされていたのである。饒舌の極端から沈黙の極端へと、私は言葉に遣われた。

そこで、留学準備という必要に迫られて、「問いの亢進」を中断することに初めて成功した留学前の私は、こんどはフランス語の勉強を開始した。しかしフランス語の勉強中も、えもいわれぬ不安は私の心から消えることがなく、フランス語はおろか日本語もナチュラルに話すことができなかった。というか、「なにがナチュラルなのか」、そこに拘り過ぎたのである。これが理由で、話せなかった。


(大学のすぐ近くにあるヌムールの作品 Alignement du 21e siècle)

94日にレンヌについてから、もう5か月になる。留学体験記は11月に出すようにと言われていたのに、もう2月である。どうしても書けなかった。何度も書いては、「こんなもの書き直さねば読むに堪えぬ」と思い、提出できなかった。高密度の体験が重なって、その都度自分のものの見方に変化があり、過去の体験の意味も編みなおされるから、前に書いたものを修正したくなってくるのだ。

学問のやり方を基礎から学ばせて頂いた先生が、ご自身のゼミで、「自分の修士論文は、できることなら燃やしたいと思っている」と漏らされたときは大変驚いた。それは、あまりにも自分の思うところと似ていたからである。私はいつも、自分が過去に書いたものを何かの機会に読んでしまうと、その無知さ、繊細なことがらについて平気で断言してはばからない無神経さに赤面してきた。ましてパソコンのメモリーに残っているかつてのレポートなど、「これをよくもまあ他人様に提出できたものだ」と、今となっては、もはや絶句する。ディスプレイの上で踊る難しい概念が、ちっとも自分の頭で吟味して、鍛えたものではないということを、自分が一番よく知っているものだから、読むだに悲しくなってきてしまう。先生方は私のような学生が力任せに書いたものを読んでくださり、評定をつけてくださった。ことほど左様に、私は何度も大学に、読むに堪えない文書を提出してきた。浅ましくも、即席のレポート群を提出することで単位が欲しかったのか、言葉が自らを紡いでいくのを制御できなかったのか。ますます「ことば」について突き詰めて考えるようになった。

いまや周囲を見渡せば、頼りにしてくれる仲間がいて、他人を信頼し、信頼されている。日本人学生と自主的にアランの読書会までやっている。尊敬できる人があふれている。物事の良い面に注目できるようになってきた。皮肉以外でも私は笑えることを知った。日本にいたときには考えられなかった奇妙な事態である。時間は矢のように過ぎていく。突如なにひとつものを書けなくなっていた私はいま、細細とこうして文字を書いている。留学生活をしていて、一番驚いたことは、だんだん物事の道理が分かってきたことだ。それは、私が、立ち止まってじっくり考えるこころの余裕を得たからに相違ない。

今にして思えば、立ち止まってよく考えるきっかけは、幸いなことに、日本にも山ほどあったのである。例えば、自分の友人が、「最近迷走していないか」と同窓会の席で優しく声をかけてきたことがある。「人こそ人の鏡」とはよくいったもので、今の私には、この警句の意味がよく分かる。友は文字通り鏡のようなものなのだ。瞳は目の童(わらわ)と書くが、これは他者の目を覗き込むと子供の自分が映るからだそうだ。そういえば英語でもpupilは学童と瞳孔である。私は、友人がせっかく投じてくれた鏡を直視するべきだった。つまりは、友の目を見て話すべきだったのだ。実際、こちらに来てから最も励みになるのは、現地で出来た良き友人の存在であることをここに書いておかなければならない。やっと私は足場を得て思考を始められる。反射が熟考と同居するréflexionという単語は鏡=他者と響き合って思考を促されるこの事態をうまく表現しているように思われる。

では、なぜ私は自分の頭で考えることができなくなっていたのか、と自分に問うてみる。よく内省してみると、その答えは今となっては明らかなのだが、私が主張するべきことを見つけるのに相当な無理をしていたからである。ひとつの確固たる価値のもとに集い、勢いよく主張する人たちこそが頭がいい人たちなのだという全くの勘違いをしていたせいで、私も何かしら主張をせねば、ひいては、そのための動機を捻出しようと躍起になっていた。それが過剰な偏愛と嫌悪を生んで、私の中で倦んでいった。卒論を練っているいまだから言えるが、正直なところ、世の中で自分がよく分かっていることなどほぼないばかりか、分かっているとかろうじて言えるようなことでさえ、実際やってみるとうまくいかないというのが実情ではないのか。空論で頭がいっぱいの私はそこが分かっていなかった。いや、コトはもっと深刻である。実は、よくわかっているひとなどそもそも余りおらず、みんなが手探りの撤退戦を続けているという私の洞察は言い過ぎだろうか。かつての自分は恥じ入り、いまや少なくとも、正気を保つことに専念している。強い人間でなくていいから、せめて正気と良識(ボンサンス)のある市民でありたいではないか。その良識の背後にどれほどの叡智が控えているかを知っている方がむしろずっと強いことを私はもう知っている。だから、あえて繰り返せば、私は確固たる主義主張のない凡庸な人間であることに、恥ずかしながら、耐えられなかったのである。いま、わたしはようやく、これまでとは違う仕方で、本を読むことができるようになってきたように思う。それは、自らの主張を絶えず断念しながら、中立的な立場で相異なる意見を調停し、合意へと注意深くにじりよっていくような読み方である。そしてその合意を仮固定してまた問いに付す。議論を調整していくこういう態度は、実際フランスに来て異なる意見の人と接する機会が増えたせいか、もっとも役に立つ。


(ユエルゴアの森)

モルレーの水道橋からの展望

ここからは、レンヌでの個人的な生活について書く。レンヌ第二大学の学部の授業は、前期は英語学部に入っていた。後期は、単位が取れるかは分からないが文学部に入る。英語学部は、総学習時間がずっと長い英語と、フランス語の文法を比較できる授業もあるのでとても便利である。また「翻訳の技術」という授業や「ヴェルシオン」や「テーム」という授業では英仏語間翻訳を体験することができる。こんな機会は日本にいたらありえなかった。また、月曜日はレンヌ第二大学の日本語授業の補助をさせていただいた。火曜日と木曜日は夜間に無料で大学が開校してくださっている語学学校がある(到着直後にクラス分けテストがあります)。自分のクラスはオーラルがC1で筆記がB2なのだが、どちらも手ごわいのでなんとか単位を取れていればよいと思う。金曜日は大学の水泳コースに出ていた。

旅行は今のところストラスブールやパリ、モルレーなどに行った。OUIGOというTGVのシステムはとても安くチケットをネット購入できるのでおすすめである。CAF(家賃補助)とOFII(移民局への書類)がこちらにきて用意する主要書類で、係の人に親切に教えてもらいながら提出できた。寮は広くはないが、机が十分大きいので、読書環境としては最高だと思っている。生活圏はケネディー、サンタンヌ、レピュブリックでほぼ完結してしまい、生活必需品もこの範囲で問題なく手に入れることができる。もしレンヌを南北に走るメトロ圏内ではなく、東西へも探索の手を伸ばしたいならば、路上自転車をコリゴ(日本のスイカやパスモが多目的化したようなもの)に登録して市内に散在するステーションのどこからででも自転車に乗ることができる。レンヌ内にあるカフェやビストロ、エピスリーやタヴェルヌをいくつも友人と開拓したが、どこも上品で落ち着きがあって、レンヌに流れる穏やかな空気が心地よく感じられる。街の人もみな親切で、自然とすれ違いざまに微笑みかける。クリスマスはレンヌ第二大学心理学部のMarine Verrolleさんの家族と過ごした。彼女の家族が近くに住むモルレーという街はもう何度か車で連れて行ってもらったのだが、海岸が深く切り込んで作った港があって、とても美しい。古い水道橋があって、土曜日朝には地元の高品質な食材を売るマルシェが立つ。


モルレーの水道橋


ストラスブール大聖堂とプティットフランス


最後に、私に上記のようなあらゆる気づきのきっかけを与えていただき、このプログラムで留学に送りだしていただいた西山先生をはじめとする仏文教室の先生方・学生の皆様に御礼を申し上げます。また現地で、首都大への留学経験もあるPaul Le Gal君に助けられました。そして、お世話になった木田直人先生、佐藤香織先生、高橋若木先生のお三方に、この場を借りて心から感謝します。木田先生が日本を出る直前に握手をしてくださり、三年間、日々の授業で私に考えるヒントを与え続けてくださったこと、佐藤先生の授業で初めて「他者」と出会ったこと、高橋先生の授業で言語と起源についての問いを考えたことを、私は本当に幸せだと思います。自分が今ここで考え続けることができるのは、それらの授業での経験あってのことです。ありがとうございました。そしてあと半分の留学生活を、頑張りたいと思います。


(クリスマス)

スタート地点(佐藤理紗)


スタート地点(仏文3年 佐藤理紗)


≪前期を振り返って≫  

レンヌに来てから5カ月が経った。去年の3月に一度レンヌを訪れたこともあり、ここでの生活に慣れるのはそんなに苦労しなかったように思う。また、CIREFEでの授業もグロワザール先生やソランジュ先生の授業を受けていたおかげで予想していたよりもすぐに慣れることができた。ただ、ならばもっと日本でやってこれたのではないかという思いはCIREFEの授業が始まって最初に感じたことだった。私はおそらく他人より何をするのにも時間がかかる。例えばテスト勉強を一夜漬けで済ましてテストに臨むということができない人間である。そのため言語の習得には特に他人の何倍も時間をかけなければいけない。そんな人間がたった9ヶ月しかない留学期間である程度のレベルに達するにはもっと準備が必要だった。そんな後悔から私の留学生活は始まった。しかし、過ぎてしまったことはもう取り返しができない。ならば今からその分取り戻すしかない。そんな風に自分の背中を叩きながら過ごした前期だった。


(レンヌの街並み:賑わう通りから少しに入るとまた違った雰囲気が窺える)

≪日常生活≫  

CIREFEの授業は1週間に合計16時間で、通学に往復で3時間かけて大学に通い、暇さえあればアルバイトをしていた日本での大学生活を考えるとだいぶ自由な時間が多い。普段授業がない時間にはCIREFEの課題をしたり、自分なりにフランス語の勉強をしたり、Rennes2の日本語クラスのアシスタントをしたりしている。また、レンヌにはブルターニュ・ジャポンという協会があり、日本の文化に興味のあるフランス人が集まっておしゃべりするという会を行っているため週に2回その会に参加している。  

・CIREFEの授業  

 前期のクラスはB1だった。B1では一般的な文法を習得するということが目標とされているようで、授業の内容自体は日本で習った文法を復習するような内容だったためそこまで難しいとは感じなかったが、始めは先生の言っている一言一言を聞き取るのに苦労した。      
 クラスメイトは14人で比較的年上が多く、当初は休み時間もだれもしゃべらず静かなクラスだったが、段々とクラスとしての雰囲気ができてきて、まるで小学校のころのような懐かしい感覚を味わうことができた。また、クラスメイト達がフランス語を勉強する目的は大学で勉強するためだとか、フランスで生活するためだとか、フランス語が好きだというだけで留学に来ている私よりよっぽど深刻な理由で、改めて自分の好きなことを勉強させてもらえていることにありがたみを感じた。


(最後の授業で撮った写真)

 1月の中旬にDELFのB2の試験を受験した。日本で文法や作文の授業を受講することができたおかげで、最初こそ先生の話すスピードに慣れるのが大変であったが、授業の後半は少し物足りなさを感じるくらいであったからだ。また、後期からは大学の授業を履修してみたいと思っており、そのためにはB2レベルが必要だと考えたこともある。10月の初めに試験に関する説明会があり、そこに参加してからすぐに勉強をはじめたが、一ヶ月前の段階では応募したことを後悔したほど、かなりむちゃな挑戦だった。しかし、CIREFEの先生は熱心な方で作文の添削を何度もお願いしたが、毎回快く受け入れてくれたので、これだけやってもらったのに受からないわけにはいかないと自分の尻を叩きながら勉強した。ついこの間試験を受けたばかりなので結果はまだ先だが、勉強のために使っていたテキストよりも簡単な内容だったと思えるくらいだったのでなんとかなったのではないかと期待している。たとえ受かっていなかったとしてもこの数カ月で少なからず成長したと感じる部分はあるので全く意味がなかったということにはならないだろう。

・日本語を勉強するフランス人との交流  

留学前のオリエンテーションで語学留学に行くなら母国語に触れる機会をできるだけ減らした方がいいと国際課の先生が言っていたが、私は無理にそうする必要もないのではないかと思っている。  先ほど述べたように私はブルターニュ・ジャポンの活動に参加したり、日本語クラスのアシスタントをしたりしているが、そこでフランス人が日本語からフランス語に訳すときどういう風に訳すのかということや、フランス人にとって単語の意味のニュアンスと日本人にとってのそれとの違いについて知ることができるので勉強になる。もちろん日本人同士で日本語で会話していたら絶対に伸びないと思うが、母国語を武器に交友関係を広め、母国語を通して別の言語を学ぶということも語学学習の一つの手段として有効であると思う。

 また、彼らと一緒に日本語を勉強していると苦労しているのは私だけじゃないのだという安心感のようなものも感じられる。フランス語だとものすごいスピードで話す彼らであるが、日本語になると語彙や助詞や語尾の変化に気を付けながらゆっくりと私がフランス語を話すときと同じようにしゃべるのである。以前CIREFE主催のブルターニュの小旅行に参加した際、他の学生たちが、母国語がフランス語ではないのにも関わらず思い思いに話していて、まだまだリスニング力もままならない頃の私にとっては、かなり苦痛な時間を過ごしたことがある。その時感じたのはなぜ年齢もそんなに変わらない人たちがこんなに流ちょうに外国語を話しているのだろうという劣等感だった。しかし、日本語を勉強している彼らの様子を見ていると、だれにとっても外国語を学ぶということは大変なことなのだと慰められたような気持になる。日本語を通してのフランス人との交流がフランス語を勉強するモチベーションにもつながり、私の心の支えにもなっている。


(日本語クラスの学生と)

(ブルターニュ・ジャポンのメンバーと参加した日本の文化に関するイベントにて)

・寮について  

 私の寮は今までに留学された先輩方が過ごした大学近くの寮とは違い、レンヌの西側にあるBeaulieuという寮である。大学へはBeaulieu RU というバス停からC4のバスに乗るかMirabeauというバス停からC1のバスで街の中心であるSaint-Anneまで行き、メトロに乗り換えて行くという行き方がある。C4のバスは乗り換えなしで大学まで行くことができるため楽ではあるが、大学まで遠回りしながら行くようなルートになっていて朝など利用者が多い時間帯は大学につくまでに45分近くかかることもあるため、C1のバスを主に使っている。そのルートだと20~30分くらいで大学に着く。

 部屋の種類は2種類あり、chambre standardとchambre confortである。私は安いからという理由で前者を選んだが、正直なところあまりお勧めはできない。部屋を申し込んだ際あまりよく調べずに決めてしまったのがいけなかったのだが、部屋に着いたときかなりショックだったのを今でも覚えている。スタンダードと書かれているが、実際にはそうと言えるのかどうか疑問に思うところがいくつかある。まず、chambre confortはキッチン以外は部屋の中にそろっているがこちらはトイレ、シャワー、冷蔵庫、キッチンがすべて共有である。トイレとシャワーに関してさらに言うと、男女共用であるということは日本人からしてみると驚くべきことであろう。しかしフランス人の友達に聞いたところ、男女共用のトイレやシャワーというのはフランスでは当たり前のことらしい。今でこそ慣れはしたが、最初はトイレに行くにもシャワーを浴びるのにもびくびくしていた。それから収納スペースがあまりなく、寝具は自分でそろえなければならなかった(大学近くの寮では毛布と枕が支給されるようである)。着いた当初、寝具は何も持っていなかったため、チューターの学生からいくつか寝具を貸してもらった。また窓が大きく外から部屋の中が丸見えである。その分日中は部屋の中に光がよく入ってくるため、机に向かって勉強するにはちょうどよい。ただ、壁が薄いせいか普通の話し声さえも聞こえてくるような状態なので完璧に勉強に向いている部屋かと言われるとそうとも言い難い部分もある。

 今まで悪い点ばかりを述べてしまったが、良い部分ももちろんある。まず家賃が月165ユーロで非常に安いということ(chambre confortの方は月244ユーロ )、寮の周りには高校やRennes1があるくらいで近くに住んでいるのは学生がほとんどなので治安が良いということ、また収納スペースが少ない分部屋が広いこと。そして一番近くのスーパーまでは歩いて20分ほどかかるがC1のバスの通り道にあるため、学校帰りなどに寄れば買い物もそれほど面倒ではないということが私の寮の良い面である。

 良い面と悪い面を考慮して言えることは、この寮で満足できるかどうかは人によるということだ。例えば潔癖症のひとはおそらくトイレが共同という面では耐え難いことだろうし、周りがうるさいと勉強できないという人にはあまり向かない部屋であると思う。フランス人の友達にBeaulieuのスタンダードの部屋に住んでいると言うと、あんな所に住んでいるのかと驚かれることもある。ある人にはせっかくフランスに来てあの部屋なんてかわいそうと言われたこともあるくらいだ。ただ、慣れてしまえば先ほど挙げたような気になる点も大したことではなくなる。寮の不快な部分よりも他の場面で起こることの方がよっぽど大変なこともあるからだ。最初は何も考えずにこの部屋を選んでしまったことに後悔したが、今では一番落ち着いて過ごせる場所となっている。


(寮の部屋。机もベットもかなり簡易的)

≪後期に向けて≫  

 5カ月間過ごしてみて私の留学に対するイメージが変わった。一般的に留学すると多様な価値観が身につくとか、コミュニケーション能力があがると言われることが多い。私が留学を選んだ理由もそんなことに期待した部分が少なからずあったからだ。ただ、実際に留学してみて思うことは、フランスという場所に来て、毎日なんとなく学校に通い、帰ってきてご飯を食べて寝る。というような日本と変わらない生活をしていても、何も変わらないということだ。確かに今までとは違う環境に身を置くことで、今までは起こりえなかった出来事に遭遇することもある。しかし、そういう出来事も日々過ごしていれば自然と慣れてしまうものだ。当たり前でなかったことが段々と当たり前になってくる。

 そうなったとき、私は思い描いていたもっと刺激的な生活とは違う生活を送っていることに気づいた。おかしいな、ここに来た目的は何だったっけと自分がどこに向かっているのか、出口が見えないままただ歩いているだけというような感覚に陥った。しかし、その原因は案外すぐにわかった。それは、自分で世界を狭めていたことだった。例えば、フランスに来たからといってニュースを見たり、新聞を読んだり、他の誰かと話したりしないことには何の情報を得ることもできず、フランスについて詳しくなれるわけではない。つまり、すべては自分次第ということだ。フランス人の友達がほしいなら自分からフランス人の学生が集まるパーティに参加したり、寮のキッチンで誰かと会うたびに話しかけたりして自分からコミュニケーションを取りにいかなければならない。待っていても何も始まらない。環境の変化というのはあくまで自分の行動を後押ししてくれるものであって、実際に行動して変えられるかは自分自身にかかっている。そんなことに気づくまでにだいぶ時間がかかってしまった。

 語学力に関してもここでの生活において自分がどうあるべきかということに関しても前期を通してやっとスタートラインに立つことができた、というのが現状である。今までの時間を後悔するのではなく、自分の足りない部分に少しでも気づくことができたということをできるだけポジティブに考えて残りの時間を過ごしていきたい。


(CIREFEが企画した小旅行にて:Château de Josselin)

(Pont-Avant: ポール・ゴーギャンを含む多くの画家が暮らした)

(無料のジャズコンサート:レンヌでは毎月のようにこのようなイベントが開催される)

(週末のパーティ:フランスの学生は週末は実家に帰ることが多いため、木曜の夜にパーティをする)