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レンヌ留学記2016年度(新井美里、大山紗苗、西あかね、中野慎太郎

留学した者は皆同じことを語るが、誰一人として同じ道を辿ってはいない(新井実里)

留学した者は皆同じことを語るが、誰一人として同じ道を辿ってはいない(新井実里)


10ヶ月間のレンヌでの留学生活を終え、この文章を書いている現在帰国して約2ヵ月が経過した。すっかり日本の生活、気候にも順応し、まるでレンヌ、フランス、そしてヨーロッパで過ごしていたことが嘘であるかのようにも感じられる。 海外に身を置くこと、一人の外国人として生活をすること、その意味を深く考えることが多い1年であった。


(4月のThabor公園。花々が美しく咲いていた)

一般論として、留学生活というのは多様な価値観に触れ、自らの見解も広め深めることができるだとか、視野が広がるだとかいうけれども、必ずしもそれが留学をしたからといって皆が皆、自動的に同じ体験をできるかというと、それは確かではないのである。 先に結論を述べると、もちろん私自身も物事を多くの側面から見ることができるようになったと思うし、多様な価値観を受け入れることもできるようになったとも思う。同様に留学を経験した人はきっと、皆同じ事を語るだろう。けれども、それぞれの成果は本当に多様で、誰一人同じ道を辿ってきた人はいない。

私たちは例年通り、大学に併設の語学学校へと通っていた。そこで各国の友人達と出会い、そして様々な時間を共有した。そこでまず初めに感銘を受けたことは、我々の共通言語がフランス語であるということである。フランス語を学びに来ている者同士であるし、そしてフランスにいるということでそれは至極当然のことなのであるが、それまで同じ母語を持たない人々の交流と言えば英語一択だった私にとって、すごく新鮮な世界だったのである。フランス語を使ってまるで違う世界を生きてきた人々と共に過ごすという経験は、私の狭い世界を大きく広げてくれた。言語の「ツール」という一面に大変感動したものである。しかしながらここで一つ述べておきたいことがある。以前の私は「言語はツールに過ぎない」というフレーズに少なからず嫌悪感を抱いていた。もちろん今でもその言葉は少し言い過ぎたものであると思うし、言語にはもっと他の側面もあると私は考えている。

ひとまずそのことは置いておいて、そのフレーズを見る度に思い出す出来事について書こうと思う。それは留学前、2016年3月に参加させていただいた国際交流セミナーで初めてフランスに来た時のことであった。そこで私たちは、幸運にも現地で学生として生活している方とお話しする機会を持った。当時の私には、フランスへ留学する大義名分が‘フランス語が好き’というだけではなぜいけないのだろうか、という大きな悩みがあり、それを現役の学生さんに尋ねることができたのである。彼女の返答はこうであった。’好き’ということはもちろん理由になり得る。けれども、あくまで言語はツールであるが故、その先に求めることが何であるのかを考えてみると、新たな発見があるかもしれない。

この言葉をいただいたその時の私には、正直に言うと完全に納得することは難しく、以降その意味を長い間考え続けることとなったわけだが、ここで先ほどの話につながる。なるほど確かに、フランス生活においてフランス語とは、私にとって第一にコミュニケーションのためのツールだったのである。生活の主軸がフランス語になって初めて、先の彼女の言葉の意味を身を以て理解できたのであろう。初めこそ受け入れ難かったその事実は、一度内部に入ってしまえば、想像するよりずっと容易く私の中に入ってきた。


(前期最後の授業後のfête)

(一足先に寮を後にした友人たち)

そしてその考えを私にさらに強く植え付ける出来事が旅行先でも起きた。イタリアに旅行に行った時のことである。その日泊まる宿が中々見つけられず、見つけた後も入口のロックが解除できないといった、ちょっとしたアクシデントがあった。4月のバカンスということもあり、大分旅先での問題には動じないようになっていて、英語が通じないという環境の中、私たちは町中の男性に助けを求めた。もちろんイタリア語を話せるはずもなく、フランス語をイタリア語風に発音するというかなりの荒業であったが、完璧とは程遠いものの、なんと我々は奇跡的に意思の疎通をすることができたのである。その後無事宿に入ることができ、その男性に拙いイタリア語で礼を言った。このことは、改めて言語は素晴らしいツールと考えさせられる出来事として私に強い印象を与えた。


(ヴェネチアのレストランからの風景)

一般論的に言われていることではあるが、留学中は自国の代表として扱われることが多々ある。 日本人であれば日本人代表という立場で意見を述べるということだ。具体的に言えば、政治についてであったり、歴史、文化、そして様々なものの考え方などについてである。CIREFEの中のCivilisationという授業ではそれが顕著であった。この授業は、大雑把に言えば‘フランスについて様々な側面から学ぶ’というものである。例えばフランスの政治制度を学ぶとき、ただ椅子に座り受身的に受講するだけではなく、それでは比較して自国の制度はどうであるのか、そして近隣諸国と似ているのか否か、案外しっかり調べなくてはならないのである。それもただ調べて終わりではなく、それをクラス内で発表する機会も多くあった。

今まで日本でただ新聞やテレビのニュースを流し読み・流し見していた私にとって、日本について根本的な国の制度、国旗や国歌の歴史などを調べて外国人に発表するというのは経験し得ないことであったし、何より母国語ではない言語で説明することは容易なことではなかった。クラス内にはもちろん同じ国出身の人々もいて、分担して発表したり、時には仲間内でそれは違う、それはこういう意味だ、という意見のぶつけ合いなど大変興味深い場面も多くあった。加えて面白かったのは、例えば南米の小さな国の出身だったりする人が自国の発表に熱心であったことだ。皆それぞれの愛国心の強さが感じられ、とてもいい経験であった。 他を見て己を知るとはよくいったものだが、このような体験を具体的にできることはやはり留学の醍醐味なのであろう。


(Rennes中心部から車で50分ほどのところにある植物園のカフェ)

(CIREFE企画のサッカー観戦)

日本語の家庭教師


後期から、高校生の女の子に家庭教師として日本語を教えていた。詳しくは西さんの報告文に書かれているが、それ以外にも私たちは前期から高橋博美先生の日本語の授業にアシスタントとして参加させていただいていた。物事を教えること自体ほぼ初めてのことで、それが外国語を使って母国語を教えるというものだから尚更難しいことではあったけれど、ある程度日本語の基礎ができている学生相手であったり、先生の補助ということでそこまで気を張ることはなかった。けれども、私が教えることになった女の子は日本語は全くの初心者であり、それこそひらがなの読み方から教えるというところからスタートしたのであった。加えて、初回の授業は彼女の誕生日プレゼントとして一時間ほど日本語についてプレゼンをし、彼女が気に入ればその後も継続して教えるというものであったのである。いかに日本や日本語について関心を持ってもらうか、とっつきやすい内容とは何であるのか、当日までドキドキしながら準備したことを今も覚えている。

結果、私が帰国するまで一緒に日本語を勉強したのだが、私自身日本語の難しさを回を重ねるごとに感じていた。文字が26文字に限らないこと、発音の難しさ、そしてなんといっても助詞の使い方というのは日本語ネイティブの私には教えることはかなりの難題であった。そんな中ひらがなを一緒に練習していたある時、彼女がひらがなの‘ゆ’は魚に似ている、と言ったことがあった。なるほど確かに彼女が書いた‘ゆ’は魚のようであった。それ以降彼女が絶対にこの文字を忘れることはなかったし、私もふとその時を思い出すことがある。一見無いように見えて日本語にも規則があること、ひらがな・カタカナは覚えるだけで一苦労であることなど、日本語に対して新鮮な目を向けることを多くしてくれた、大変貴重な体験であった。

最後の授業の時、日本語を学ぶ理由を聞いて大変驚いた。なぜなら私がフランス語が好きな理由と同じであったからだ。話している様子が歌を歌っているようで、聞いていて心地よいのだと二人して互いの母語について語ったのだった。あなたは本当にいい先生だったよ、という言葉をもらった時の喜びは計り知れない。


(生徒の女の子と)

最後に

これから留学をする人々に私が伝えたいことは、学生としての生活を存分に楽しんでほしいということだ。レンヌでの生活は、友達と一緒に授業を受け、放課後おしゃべりをしながらたまに勉強し、時には買い物をしたり、そして夜にはバーに行ったりととても‘学生らしい’ものであったと、振り返ってみて思う。日本にいた頃は、授業を受けその後すぐバイトに行き、夜遅く帰り次の日また学校に行き…と、ゆっくりとする時間というのはあまりなかった。けれども留学中は勉学だけに集中して取り組める環境に恵まれ、その分空いた時間は様々な人々と意見を交わしたり、時には自分の中でゆっくりと考えを煮詰めてみたり、とても有効な時間を過ごすことができたのである。

そしてまた、勉強を頑張り先生に褒めてもらう、という小学生以来の体験をすることもできるし、友人とテストの点数を発表して競い合ったりと、無邪気に学校生活を楽しむこともできる。どうしても留学に来たからには、絶対にフランス語を上達させて、友人もたくさん作って大学の授業も受けて…と肩に力を入れすぎてしまうが、まずは楽しんでみることが大事である。もちろん目標を高く持つことは大切であるし、だからといって勉強をしなくてもいいと言っているわけではもちろんない。何のためにフランスに来たのか、なぜフランス語を学んでいるのか、自分の中の理由をきちんと持っていれば、他人に何を言われようとしっかりあとは楽しめばいい。

そして初めこそフランスに少しでも馴染まなくてはと思ったり、外国人として扱われることに敏感であったりしたが、徐々にその扱いでいいのだと、やっと受け入れることができるようになっていった。どれだけフランス語ができたところで私はフランス人にとって紛れもない外国人であるわけだし、むしろ日本人としての自覚も強くなったものだ。そんな時ふと思い出すように読んだ八木さんの留学体験記の、「私はフランス人にはなれないし、ならなくて良いのである」という一文が強く心に響いた。まさにその通りで、私はフランスでフランス語を勉強する、れっきとした日本人留学生であったのである。

そして最後に、私自身留学に行く前と帰国した後とで、何か変わったことがあるだろうかと内省してみた。結果自分の中から出てきたことは、やはり私はフランス語が好きということである。好きなだけでは理由が弱すぎる、そんなことを散々言われた留学前であったが、1年経っても依然それは変わらないし、むしろ留学生活はその思いを強くしてくれた。


(コルシカ島の海。息をのむほど美しかった)

終わりに、この素晴らしい留学生活を送るにあたり一から準備してくださった西山先生はじめ仏文科の先生の皆様、国際センター並びに国際課の皆様、貴重な体験をする機会をくれた高橋先生に感謝申し上げます。そして留学中はもちろんその前後さまざまな場面で支えとなってくれた家族・友人に深く感謝します。

留学を終えて(西あかね)

留学を終えて(西あかね)


自分らしい留学のための挑戦 1月終わりから後期が始まって、多くのことにチャレンジし始めた。留学も半分を過ぎたところで、フランスの生活に慣れ始めていたからだ。自分にしかできない、自分らしい留学をしたいという目標があったので、留学といえば最も重要といえるフランス語の学習に加えて、他にも様々な活動に挑戦した。ここではCIREFEの授業以外に、留学中どんなことが出来たのか、どんなことをしてきたのかを述べていきたい。

・アトリエについて

語学学校CIREFEにはアトリエというクラブ活動がある。週に一回18時から20時までの2時間、顧問の先生のもとで活動し、学期末のコンサートで発表をする。授業と違って学生のフランス語レベルに関係なく活動するので、より多くの人と接することができる。

今年度アトリエは6つあって、それぞれ「ジャーナリスム」「劇」「映画」「写真」「合唱」「音楽」に別れている。このアトリエは義務ではなく、CIREFEの学生およそ3、4割程度が参加していたが、私は音楽アトリエと映画アトリエの2つ登録した。音楽アトリエは前期を通して参加し、クラシック、ロックにジャズ、はたまたコロンビアやインドネシアなど諸外国の伝統的な旋律が目立つ音楽を実際に演奏して、その時代や国の特徴的なリズムやメロディーにふれることができる。アトリエ内にコロンビア人が半数以上いたのが原因なのか、毎週南米系の陽気な音楽を耳にした。とにかくリズム感が日本人には到底理解出来ないほど優れており、実際に誘われてそのような曲の演奏に参加するとその独特なリズムに慣れることができず苦労した。しかしさすが南米系、私のゆるいギターに合わせてキレキレのサンバを披露してくれた。

学期末コンサートで3~4分程度の曲を7,8曲演奏する。ラストの曲では全員が壇上にあがるので観客は大いに盛り上がった。顧問の先生がYoutubeにこのコンサートのクリップを共有している。下にリンクを貼るので興味がある人は見てほしい。 https://youtu.be/XXPhnN6ZMoQ


(音楽アトリエのメンバー。コンサートは大成功であった。)


映画アトリエは音楽アトリエよりも人数が少なく、全体で10人に満たないくらいであったが、学期末のコンサートまでに4作品作り上げた。主な制作工程としては、まず個々人がシナリオを書いたり、部分的なシークエンスのアイデアをアトリエ内で提案し、全員でディスカッションをしつつ全体的な話を練る。その後監督、カメラマン、録音、配役、編集を決め(兼業している人もいる)、撮影に入る。映画の分析や批評は得意だが、制作はド素人の私にとっては、最初何をしたらいいか分からず撮影現場で右往左往していた。写真やビデオ撮影が日常的に趣味の人、小さい映画を何度か個人的に作ったことがある人、自国で映画会社に勤めていた人、何より映画の知識が深い人ばかりで、撮影も編集もお手の物である。自慢の愛機(canonやnicon)を自在に使う姿を憧れの眼差しで見つめる一方、何かやらねばとプロフェッショナルな友人に付いて回ったあげく、カメラアングルの意味、光や音の調節、編集方法を学ぶことができた。またシナリオを一つ書き上げ、コンサートでそれを上映した。今回、全体的なテーマとして「ホラー映画」を作ることが絶対であったため、ジャパニーズホラーを全面に押し出したシナリオを作った。映画アトリエに入ったからには自分の映画を作りたい!と意気込んでいたので、目標達成ができたことは非常に喜ばしい(しかしコンサートまで時間がなく思い通りの撮影ができたわけではなかったが)。

音楽と映画、どちらも自分の趣味を多くの友人らと共有できたよい場所であった。友達作りはもちろん、顧問の先生のもとそれらを技術的に学べることは日本でもあまり機会がないだろう。アトリエの活動は私にとって間違いなく貴重な体験であった。



(映画アトリエのメンバーと撮影風景)


・映画分析の授業とレンヌの学生

CIREFEでは、B2以上からオプションの授業の代わりに大学の学部の授業に参加できるシステムがある。Ecriture créative、La France dans le monde au 20éme siècleなどCIREFEで受けられる選択授業はとらず、学部の授業(経済、情報コミュニケーション、外国語、芸術、歴史、社会学、哲学など多様)から一つ授業を選んでCIREFEを通して登録する。後期からB2だった私は、どうせならとArts du spectacleの映画の授業に参加してみることにした。

それは映画分析における基礎教養の大講義授業である。初回の授業で、教授が何本か映画をスクリーンに流し、ていねいに説明してくれたので、「これはいける!」と思い上がっていたが、実際は自分のフランス語がまだまだ十分でないこと、そして教授の癖が強く、授業回数を経るごとに映画の上映は減少し、反比例して教授の語りが増えていったことで、すぐに苦労することになる。彼の口から発されるフランス語の波に頭をくらくらさせながら溺れないよう単語単語をノートに書き取っていたが、いっさい全体像を掴むことができない。毎回友人の映画学部の学生と共に授業を聞いていたが、「今先生は何の話をしているの?」と聞くと彼はいつも「さっぱり分からない」と小首をかしげている。


(映画学部の学生が、映画観賞後意見を交わす)

学期末にテストがあり、《Les yeux sans visage 顔のない眼》(1960、フランス)、《Au revoir l’été ほとりの朔子》(2013、日本)、《The Thing 遊星からの物体X》(1982、アメリカ)、《Gare centralカイロ駅》(1958、エジプト)の4作品を試験前に見ておくことが前提で各質問に答えていく。教授が試験中に上映したあるシークエンスをその場で分析し、小論文を作成するパートと、3つほどの質問に短い文で答えるパートがあり、2時間で終了させなければいけない。学生たちの試験対策として、まずfacebookに試験対策用のグループをつくり(60人程度が参加)、授業のレジュメをまとめ共有、ネット上で各映画の評論を探し、それについて意見を述べる、授業に関する質問をし合うなど試験前は毎日記事が更新されていった。

またそれ以外に毎週月曜日、B棟の大教室で有志の学生たちが気に入った映画を2本ほど上映し、その後ディスカッションするという会があり、試験前は課題映画のいくつかをそこで上映、生徒同士で議論を交わす。私が日本にいたとき、試験対策はほぼ全て机上ですませていた。というのも、試験のためのレジュメや論文はすべて授業中に配付されているし、課題の映画は授業中に上映されるので全員が探さずとも見ることができ、何より生徒同士で分析し議論するというよりも授業内で教授が言ったことをそのまま鵜呑み、暗記して試験にのぞむということが多かった。


(映画を見終えた後は、バーに行く)

私と彼ら映画学部の学生たちの大きな違いは、自力で分析し、考える力があるかないかである。授業内に教授は課題の映画についてほとんど何も触れない。レジュメも一切配らない。フランス人の生徒でさえ授業内容を見失う。彼らはその映画が制作されるまでの過程、時代背景、監督の思想や役者の表現の意図を、自分たちで探してきた論文をもとに熱く語る。一つの映像作品の中に、彼らは多様な見方を見いだすのである。それはときに歴史的、政治的意見を求めるときもあるし、高度な映像技術の知識がなければ分からないこともある。私がそこで感じたことは、とにかく彼らは知識の幅が広く、臆せず自分の意見を述べ(授業内で、教授の意見に面と向かって異議を申し立てる学生は珍しくない)、議論をどんどん展開していく能力に長けていることである。

フランス人は議論が大好き、とよく聞くが、よくもまあこれだけ話し続けられるよなと内心関心するほどだ。彼らに触発されて私も自分の意見を述べようと奮闘するが、一語一語自分のフランス語を確かめてゆっくり話す私なんかの意見はすぐに遮断され、ただちに相手のターンになってしまう。人の話を聞けよと彼らに言っても無駄なので、聞くに徹し、螺旋階段を全力で駆け上がるように自分の意見の核を突き詰めていく論の展開方法に惚れ惚れしながら、彼らの意見を吸収するよう努めた。2年半日本の大学で学んで来た映画の分析は、全く無駄ではなかった。しかし私が各授業において自分の中で掘り下げない限り、到底彼らには近づけないと痛感する毎日を過ごした。


・日本語授業

日本語授業の参加は留学生活において1、2を争うほど興味深い出来事だった。この授業のアシスタントをすることができて心底良かったと思う。10月から4月まで、1〜3年生の授業に毎週一度か二度参加し、そこで担当の高橋ひろみ先生のアシスタントとして日本語を学ぶ学生たちのサポートをさせていただいた。学ぶ内容は各学年全く異なり、1年生はひらがなとカタカナを用いて自分の家族を紹介する文章を作ったり、形容詞を覚える。2年生は「〜したいです」「〜して、〜します」「〜することができます」などの言い回しを覚え、それを軸に日本の街について発表する。3年生では日本の歴史や伝統を、漢字を多く含んだ長文をもとに理解し、その文章をフランス語に訳す。1年生はまだ日本語を習いたてということもあって、ひらがなやカタカナはうろ覚えという生徒が多く、アニメの変な台詞を唐突に口走ったりするものだが、3年生ともなると日本語における知識がだいぶついており、フランス語を日本語にスラスラと書き換える姿はさすがと言える。各学年通じて質問量が多く、日本語の複雑な文法を説明するのに終始苦労した。

またサポートだけではなく、首都大や東京について、日本の伝統文化について生徒の前でプレゼンテーションをする機会をいただいた。学年によって日本語だけで発表することもあり、なるべく分かりやすい表現方法を探し、パワーポイントを工夫したおかげで、生徒たちからのウケが良かった。この授業に参加していると、母語を外側から見ることになる。言い換えれば、日本語のことばの構造や発音の特徴、何が外国人にとって特異で、理解が難しいのか、改めて考え直すことができる。それはもちろん自分のルーツを見つめ直すことにもつながり、他のどの国にも存在しない日本語という独特な言語を難なく使いこなしている自分自身を不思議に思った。と同時にいかに日本語が複雑で、美しい言語なのか再確認し、日本語を母語とする自分を誇らしく感じたりもする。フランス語の上品な発音に惹かれてその言語の習得を目指し始めた私だが、日本語授業のあの学生たちも同じく日本語に魅了されて勉強を始めている人が多いことを知って、非常に嬉しくなった。彼らとの意見交換のなかで、考えたこともない日本語についての魅力(例えば日本語は母音が目立つ言語であるので、一語一語がハッキリと聞き取れリズムを生みやすく、日本語ラップがよく評価されているなど)を気づかせてくれる、まさに灯台もと暗しであった。この日本語授業なくして、もちろんフランス人の学生たちと知り合うこともなかった。何人かとは帰国直前まで何度も外出し、よく遊んでもらった。学ぶことが多く、何よりも純粋に楽しかった日本語授業のアシスタントという機会を与えてくださった高橋先生に本当に感謝しています。ありがとうございました。

・留学生活


(寮の窓から。春は天気が良い)

(若者が集うSaint-Anne。待ち合わせでよく使われる駅前の風景。目の前には木骨組みの家が並ぶ。)

(4月下旬、ブルターニュ南の小さな町、Sarzeauに旅行に行った。太陽の当たり方によって海の色が変わる。)

CIREFEの授業は毎日あり、それに加え放課後のアトリエ活動、週末のCIREFEの遠足に参加したりと、10ヶ月通してだいたい忙しかった印象がある。とくに2月以降、人脈はCIREFEの生徒に加えてレンヌ2の友人が増えていった。ブルターニュの県庁所在地であり、歴史的に非常に価値のあるレンヌという街に留学するということも重要であった。1532年までブルターニュ公国としてフランスから独立していただけあり、ブルターニュの人々は自分たちの歴史や土地を愛している。あの独特な伝統的建造物の美しさは忘れられない。穏やかでありながら学生の活気に溢れたレンヌでの生活は、間違いなく私の一部になっている。


(友人に誘われ、小さなライブによく足を運んだ。レンヌで活動するバンドの演奏はだいたいバーで行われ、入場無料である。)

(秘密基地のようなシアタールーム。みなビールやコーヒー片手に映画を楽しんでいる。)

毎週2,3回は友人らと映画を見に行き(行くのは映画館ではなく、友人の親戚が映画監督をやっていた頃に使っていた秘密基地のような小さな家で、薄暗い部屋を改造した自作の小さな映画館、オールナイトで自分たちの好きな映画を見続ける)、そこで意見を交わし合い(正確には私はほぼ聞き役に徹していたが)、学生主催の映画フェスティバルに参加したり、気づいたら全体を通して映画に関する思い出ばかり浮かんでくる。つまり10ヶ月間の留学を通して、私は語学の上達以上に、自分の興味分野=映画をとことん探求することができた、ということであろう。今振り返れば、9月から6月までの滞在は、ある意味90分くらいしかない映画を見ていたようにあっという間で、起承転結のストーリー区分がハッキリしていた。それでもその生活は二次元のものではなく、確かに自分の中に存在したフランスでの日々だった。そしてそれらは自分の探究心に沿って形作られた、自分らしい留学であった。その一日一日を記憶のかなたに追いやるのではなく、引き続き挑戦することを忘れずにこれからも過ごしていきたい。

貴重なこの留学は、首都大の国際課や国際センターの留学制度なくしては実現できなかった。また西山先生にこの留学制度を紹介していただき、その後語学含め様々な面で支えてくださった仏文科の先生方、レンヌでサポートしてくださった高橋先生、家族や友人に大変感謝しています。本当にありがとうございました。


(オルセー美術館で見つけたエミール・ベルナール『日傘をさすブルターニュの女たち』)

留学生活と旅行(大山紗苗)

留学生活と旅行(大山紗苗)


息つく暇もないほどあっという間に、語学学校CIREFEでの半期が終了した。それだけ毎日が新鮮で濃密な日々を過ごしてきたのだと回顧される。多くの人との新しい出会い、異国の地での新たな発見、多種多様な生き方や考え方。再認識される日本の文化や、家族や友人の尊さ。この半期はとにかく目の前の事にがむしゃらに挑み、言葉の壁とぶつかり、自分の中で葛藤や劣等感を抱きながらも、楽しみながら自分のペースでフランスでの生活に向き合ってきた。ここでは一部分ではあるが、レンヌでの生活を私の体験と共に紹介していきたい。

PATTON寮について


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(PATTON寮、到着した初日に撮影したもの)

まず、私にとってレンヌへ来てからの一番の難関は入寮手続きであった。他の3人とは別の寮ということもあり、不安な気持ちのままレンヌに到着したことをよく覚えている。Villejeanでの入寮手続きの後に、その場にいたスタッフのフランス人の学生が丁寧にPATTONまでの行き方を教えてくれたが、初めてのバス乗車に最初はかなり戸惑った。大学から私の寮までの行き方は、メトロを利用してSainte-Anneまで行き、そこからC5のPATTON行きのバスに乗ってHoux cité Uという名前のバス停で降りれば、すぐ目の前に寮を見つけることが出来る。(ただしここで面倒だったのが、入寮受付はSevignéという別の場所で済ませなければならず、そこの受付を見つけることが一番苦労した。)道行く人やお店の店員さんに聞きながらなんとかバス停や寮を見つけることが出来た。


(Rennesで年に一度に開催される大規模なフリーマーケット。道路は歩行者天国になり、道の両脇に多くの人が店を構えていた。この出店の列は何百メートルも続く。)

入寮手続きを無事に済ませ、不安な気持ちのまま一人で寮へ入ったが、リノベーションしたばかりということもあって外観や内装はとても綺麗で、とりあえずホッと一安心であった。寮の周りの治安も大変良く、近くには幼稚園や小学校、スーパーは3つもあり日曜日に開いているスーパーもあるので、特に問題はなく生活は快適である。ただ、バスを乗り継いでメトロに乗らなければレンヌ第二大学まで行くことが出来ず、約15分から20分程度かかるが、そのことを差し引けば、コインランドリーは室内にあるし、娯楽部屋や自習室が3つ、防音の音楽室まで備わっているので大変快適である。住人に日本人は私以外に一人しかおらず、南米系の出身者が多く、もちろんフランス人も住んでいる。この寮の友人繋がりで、その他の寮に行く機会もあったが、BeaulieuやSevigné寮はより新しく広くて驚いた。通学時間が億劫でなければ、他の寮に入寮してみるというのも面白い経験であると思う。


(CIREFEで仲良くなった友人の家に皆で集まってホームパーティーをした際の様子)

(PATTON寮の共同キッチンで行ったSoirée。日本、韓国、イタリア、ポーランド、イタリア、ドイツ、ブラジルなど様々な国の料理を持ち寄った。)

KorriGOについて

ここでバスやメトロを利用する際に、大変便利なカードを紹介しておきたい。いわゆる日本でいう定期券のようなもので、特典は様々であるが毎日の通学にバスやメトロを利用する私にとっては欠かせないものである。このカードがあれば、レンヌの中心地や郊外まで、自由にバスやメトロを利用して乗ることが出来るのである。1ヵ月あたり20~26歳であれば31.70€であり、7か月以上で購入すると割引される。せっかくKorriGOを持っているので、レンヌの外れにあるIKEAや隣の小さな町のショッピング街に行って買い物にをしたり、観光をしたり有効活用している。レンヌのバスやメトロではしばしば監査が入るので、必ず切符を買うかKorriGOを利用することをお勧めしたい。(違反が見つかると50€前後の罰金が課せられるので要注意)

バカンス中の旅行について


(ポルトガルの都市ポルトでの夜景。ドン・ルイス1世橋が架かる川にはネオンが光り輝き、その光景は幻想的であった。)

(ハリーポッターの図書館のモデルとなったとされる書店。外にある売店で入場券を購入してから入ることが出来る。ポルトにて。)

少しバカンス中の旅行についても触れておきたい。フランスのみならずヨーロッパの国々では、日本とは比べ物にならないほどクリスマスイベントへの熱意が凄まじい。日本とは違い、12月25日は専ら家族と家でクリスマスの夜を過ごし、正月は友人たちと朝までバーやコンサートなどの見世物を鑑賞しながら年越しをするのが一般的である。11月の後半から既にクリスマスマーケットが広場に立ち並び、街は赤と緑に染まり、電飾が夜の街を輝かせる。そんな雰囲気の中、寒いのも忘れてホットワイン(vin chaud)を片手に友人たちとマーケットを回りながらおしゃべりを楽しむことが出来るのである。一か月以上ずっとクリスマスムードが続き、私も何度クリスマスパーティーをやったかわからない程である。


(ドイツで一番古いとされるフランクフルトでのクリスマスマーケットの様子。その規模は非常に大きく、多くの人で賑わっていた。)

(ドイツのクリスマスマーケットで食べたもの。ジャガイモがたくさん使われていて、全部おいしかった。)

そのクリスマスマーケットで有名なドイツに12月のバカンス中に友人と一緒に旅行が出来たことは、本当に素敵な思い出である。特にドイツには様々な屋台料理があり、フランスとは違った食べ物にも挑戦することができた。また、同じ時期にドイツ留学をしている高校時代の友人とも再開することができ、とても楽しい旅行となった。


(Vin chaudや他の飲み物を頼む際にもらえるマグカップ。店によってカップの絵柄も違うので、集めて回るのも楽しい。)

(Rennesのオペラの前の広場で行われた年越しの様子。広場には人がぎゅうぎゅうに集まり、皆でカウントダウンをして新年を迎えた。)

フランスでの留学生活はこのバカンスが多いことが一つの肝になってくるように思う。一歩外に出れば別の言語を話す人々であふれかえっており、そのバカンス中は専ら英語でコミュニケーションを取るので、全くフランス語を使わないことも度々ある。だからこそ、自分から積極的にフランス語に触れる機会を持つことが重要であり、そのことを半期を終え痛感している。多くの人と接していく中で、まだまだ自分には足りないものが多いように感じる。もっとこうしていれば、ああしていれば、と後悔することのないように積極的に残りの留学生活に臨んでいきたい。多くの人と付き合い、見聞を広め、経験を積み、それを血肉化して胸を張って日本に帰国出来るように取り組みたいと改めて決意する。


(スペインのマドリードにて。大きなマルシェのような造りの建物の中で、タパスやお酒を楽しめる。そこでは多くの人と出会う機会があり、パナマ人とイギリス人の女性と仲良くなった。)

(CIREFEの同じクラスの友人たちと担当の先生。楽器終わりに花束と色紙をプレゼントした。)

レンヌ留学開始──「慣れない武器で闘う」必要がなくなる瞬間(中野慎太郎)

レンヌ留学開始──「慣れない武器で闘う」必要がなくなる瞬間(中野慎太郎)



二ヶ月を経て

2016年8月末にフランス・レンヌにやって来て留学を始め、約10カ月のうち、もう2カ月が過ぎた。終わりのある留学だからだろうか、日本にいた時よりも、噛みしめるように日々を過ごしている。このごろは、留学の5分の1終わった今、いったいどれほどのことが残りの5分の4の滞在で何ができるのだろうかと考える。そしてその一方で、日本では家に引きこもることが多かった自分が、最近は友人と出かけることが多くなるなど、フランスでの生活の中で自分自身の変化を感じ始めてもいる。そんなことを考えながら、ひとまずこの二ヶ月を振り返り、できるだけ今現在留学を考えている人のためになるような点を記していきたい。まずはフランスに到着するまでの期間のこと、ついて間もないころのことだ。


(フランスに着いたその日は、首都大助教のベルアド先生のパリのアパートに泊まらせていただいた。本当にありがたい限りであった。)

・到着後
着いたばかりの最初の数週間は、様々な手続きや身の回りの買い物などで少々あわただしくなる。寮の手続きに始まり、語学学校CIREFE(シレフ)での支払いや学生証発行、等々。また、これは個人によるが、銀行口座の開設やスマートフォンとSIMカードの購入なども少し面倒だ。他にも移民局(OFFI: Office Français de l'Immigration et de l'Intégration)での健康診断などやるべきことは少なくない。ただ、急いで一気にやる必要もないので、優先すべきものから少しずつやればそれほど苦ではなかったように思う。その際に周りの留学生から、やっておいた方がいいことについて情報を集めることが大切。ちなみに、各留学生には何か困ったときに助けてくれるチューターが割り振られており、渡航前に連絡を取り合うことができるので、その人に助けを求めるのも良いだろう。ただし、私の場合チューターから返信が来なかったりしたことも多く、レンヌに到着してから一度顔を合わせて以後ほとんど連絡は取らなかった。とても親切丁寧なチューターもいるし、それほどでもない場合もある。また私はそうではなかったが、他の人に話を聞く限り、日本人には日本に留学したことがあるチューターが割り当てられる傾向にあるようだ。

それらの手続き等の中で比較的厄介だったのは、語学学校CIREFEでの手続きであった。別にCIREFEに限ったことではないが、受付でたらいまわしにされることも少なくなく、最初は苦戦することも多い。そのうえ最初なので説明がうまく聞き取れず、どこで何をしたらいいか理解するのも一苦労であった。それだけに、一番初めにCIREFEに行った際、昨年首都大学東京に留学をしていたリザが案内してくれたのは本当に助かった。


(レンヌにあるタボール公園。とても広く穏やかで、手入れされた花木が並ぶ。)

(レンヌの中心地では、毎週土曜日の朝にマルシェが開かれる。写真のような果物や野菜だけでなく、お菓子や出来立てのパエリアなども手に入る。)

・日常
手続きが大体片付き、生活にも慣れてくると、寮での生活は案外快適だ。大学が目と鼻の先なので、通学における不便は皆無。自分はあまりやらないが、昼休みに家に戻ってご飯を食べてから再登校するのもぎりぎり可能だ。そしてメトロに数分乗ればすぐに中心街に行けて、しかも終電もそれなりに遅くまである。大学内の図書館は首都大のように遅くまではやっていないが、座席も多く静かで集中できる。食堂に関しては混んでいるものの安くておいしいと個人的には思う。

反対に不便なところを挙げるとすれば、店の閉まる時間が早い点や、日曜日は基本的にどこも閉まっているところだ。慣れないうちは、計画的に買い物と消費をしないせいで、日曜日に冷蔵庫が空っぽで空腹に苦しんだりしていた(しばらくして日曜でもやっているパン屋やファーストフード店が近くにあることに気が付く)。東京にいたころはありがたいことに、コンビニと自動販売機がいたるところにあるのが当たり前だっただけに、不便を感じることも多い。ただ慣れると、それほど不便だとは感じなくなる。むしろ計画的に買い物をして料理をするという、日本にいた時にはなかった習慣ができて、自分にとってはプラスになっている。それゆえか、東京の便利すぎる生活にも少し疑問を感じ始めているほどだ。

不便に感じるところは他にも随所にあるが、慣れてしまった後は安住できているので、心配していたほどではなかった。ただやはり、周りを見ていると個人差があって、友人の中には強くストレスを感じていたりする人もいる。私はそもそも東京でも一人暮らしだったが、一人暮らし自体が初めての人には初めての土地ということと相まって苦しいことも多いのかもしれない。


(狭い部屋。トイレとシャワー密接型バスルーム。慣れると問題はない。)



(近くのアジアンスーパー「ベラジー」にて。日本のカップ麺やビールなども並ぶ。納豆が高い。)

・語学学校CIREFE

次はCIREFEというレンヌ第二大学付属の語学学校のことについて話したい。他の先輩方が本HP上で詳しく記してくださっているので割愛するが、CIREFEでは、A1~C2までの6つのレベル(C2が一番上)に分かれており、授業が始まる前の試験によって、それぞれクラスが振り分けられる。以前までは通常の筆記試験だったようだが、2016年はオンラインテストが行われたため、少し戸惑った。来年以降も実施されるかはわからないが、そのおおまかな流れと注意点を記そうと思う。

・オンラインテスト
まず、留学三カ月ほど前の5月ごろにCIREFEへの登録を済ませた後にメールが届く。「もしDELFやDALF等のフランス語能力を示す証書を持っていなければオンラインテストを受けるように」との案内がテストのURLとともに送られて来るのだ。当然だがそのテストは複数回受けることはできない。締め切りは8月の末ごろだったので、私はそれまで待って8月中旬ごろに受けた。テストの形式は、聞き取り、文章読解、文法問題、ある写真についての描写、簡単な発話にそれぞれ分かれていて自分の好きな順番で受けることができる(来年以降も同じ形式になるかは断言できない)。ただし、それぞれには制限時間が設けられているため、制限時間が過ぎると強制終了となり、その時点で点数が確定してしまう。

またオンラインテストなので、当然パソコンかスマートフォンで受けることができるのだが、発話の試験の際はマイクが必要となる。他の人はアイフォン付属イヤホンのマイクなどで行ったそうだ。私は持っていなかったので、そのままスマートフォンに内蔵されているマイクで大丈夫だろうと試みたところ、うまくいかず見事0点になってしまった。しっかり準備をしてから臨むことを推奨する。他の留学生に話を聞くと、クリックをすると突然流れてきた音声に対応できず聞き取りが0点になってしまったなど、同じような失敗をした人もいたので、もしかすると来年から別の方法になるかもしれない。そもそも昨年の通りだとフランスに着いてからクラス分け試験があると聞いていたので、私はこのオンライン試験はただの目安に過ぎないと思っていた(今思えば愚かしかった)。だが実際にはオリエンテーション後にはすでにクラスが決まっており、その後取り立てて試験などなかったため、これをもとにクラスが決定した。

・クラスの変更
そういうわけで決まったクラスだったからなのかどうかわからないが、決定後のクラス変更はあっさりと受け入れてもらえた。私は当初A2のクラスだったのだが、授業を受けた最初の1週間で、「このままこのレベルにいるとまずい」と思えるようなクラスだったので、担当の教師にレベルを上げてもらうよう申請した。最初はDELF等の証明を求められたが、「持っていない」というと、「教師同士の会議で話し合うから待っていて」と言われ、翌週にはメールが届き、面倒な手続きもなくすぐにひとつ上のB1の授業に登録することができた。また私以外にもクラスの変更をする者は少なくなく、最初の2、3週間はクラスのメンバーの入れ替わりが激しかった。だがこれも、早めに申し出たから変更が可能だったのであり、しばらく授業が進んでからやっぱり変えたいと思っても手遅れになる可能性が高いので注意が必要だ。

変更後のクラスは、当然ながらA2に比べて難しく苦戦することも多いが、教師の進め方や説明もわかりやすく、クラスの雰囲気も良かったのでむしろ楽しいと感じることが多い。クラスのメンバーには特に中国人とコロンビア人が多く、他はイラクやアメリカ、インドネシアなど様々な国籍の人々がともに授業を受けている。授業開始当初は、正直何を考えているかわからないという人がいたり、互いの会話がうまくかみ合わないことがあったりと、溝を埋められずにいたが、互いの国のことや音楽について話したり、授業内で時間を共有するうちに少しずつ互いを理解しあえてきたように思う。言うまでもないかもしれないが、同じレベルのクラスの中にもいろんなレベルの人がいて、いろんなレベルの授業がある。それを踏まえたうえで言うと、A2とB1の間にはかなり差がある。

授業の内容についてもう少し詳しく話すと、時間割はクラスが決まった時点ですでに定められており、私の場合は週16時間程度のカリキュラムで、文法中心の授業、会話の授業、聞き取りや作文中心の授業、フランス文化の授業、といった具合に分かれている。またB1以上のクラスではオプションとして、映画や歴史などの選択肢から選んで授業を受けられる。私は途中からレベルを変えたので自動的に歴史の授業に決まっていた。各授業中心となる内容は違えども、どの授業も生徒の積極的な参加が前提となっていて、ディベートをしたりペアになって問題を出し合ったりすることもある。特に自分のクラスではペアで練習することが非常に多いので、互いに仲良くなりなりやすく、そのおかげかクラス全体の雰囲気も良い。CIREFEの授業を受けていると、単にわかりやすい授業というだけでなく、授業運営の工夫が随所に張り巡らされていることに気が付く。生徒が主体となって、多国籍の人々が1つの部屋で同じ言語を使って授業を成り立たせている。語学学習だけでなく、そうした得難い体験ができるという点でも、CIREFEの授業は本当に貴重で良い授業である。


(アトリエというCIREFEのクラブ活動の様子。私はミュージックの活動に登録した。)

・交友関係

次は私の友人の話をしたい。留学して3ヶ月が経ち、外に出かけることが多くなっている。休日や学校終りにバーに行ったり、スケートやサッカーをしたりする友人は、心の支えになっている。私は友達を作るのが下手なので、この二ヶ月という短い間に、友達と呼べるほど親しい人間が何人かできたことは自分自身驚くべきことだった。それはきっと、留学に来ている外国人という同じような境遇の者同士であること、見知らぬ地で互いに友人がまだいない心細さが引き寄せたことだと思う。単純な会話しかできないうえ、育ってきた環境も違う人間と少しずつながら仲良くなっていく感覚は、いい意味で自分が幼かった時のような感覚で、懐かしくも新鮮である。

最初はフランス語で友人と会話しているときは、大げさに言うとすれば、「慣れない武器をぶら下げて闘う」ようなイメージでいたが、今は少し違う。あまり気を張らなくても会話できてきたおかげで、「闘わ」なくてもよくなってきた。なによりも、フランス語が「ただの道具」になっている瞬間が一番うれしい。日本での会話練習やCIREFEでの授業内では、あくまでも「会話のための会話」という感じがしてしまう。そうではない時、例えば友人と出かけてレストランでご飯を食べながら、はたまたバーで飲みながら、互いの文化の話、音楽の話、政治の話、次の遊びの計画、そんなことを話すためにフランス語を使っているに過ぎないという状況が、自分にとっての快感でありモチベーションでもある。


(時々ライブを見に行く。こちらは最初に行った、フェスとは名ばかりの公民館のようなところでのライブ。)

・自分の国のことを考える

最近、クラスで知り合った中国人と、クラブ活動「アトリエ」で知り合った韓国人とよく話をする。同じアジア圏で互いの文化への認知度が高い分、仲良くなるのは早かった。ただ、日中韓の関係は近年微妙なので、当初は政治の話となるとちょっとためらいがあった。だが一度その話題になった時に、彼らがとても中立的に、互いの国を尊重して話しているのを見て以降、よく話すようになった。例えば、反日について彼らの意見を聞くと、ひどいのはやはりインターネット上で、彼らも反日ばかりを唱える人々には辟易しているようだということ。また日本の中でそれほどまでに反韓、反中ムードが高くないことも理解しているし、彼ら自身は個人的にもっと互いを尊重すべきだとも思っているらしい。それでもやはり尊重できる部分もあれば、譲れない部分もあるようだ。内容について詳しく記さないが、そういう部分ではそれぞれの国で恐ろしく報道が異なっているのが原因なのだろうと思う。いずれにせよ彼らは中立的で、フランスにいながらそれぞれ自分の国を見ることで、ある種客観的な話ができているので、こういう面でも一つ、留学の面白さを発見した。

その一方で自分自身の日本という国についての認識の甘さ、またその周辺国についての知識のなさを思い知っている。こうして直接話すことで、政治や他国の文化に興味も自然に沸いているが、日本にいたころは自分から積極的に情報を得ようと思うことは少なかった。月並みな表現だが、日本から出ることによって日本に対する関心が深まったと言える。「自分の国のことだから知らなくては」から「日本という国を知りたい」に変わった。

・おわりに

11月初旬の万聖節の休暇中に行った南仏旅行の話やクラブ活動の話など、まだ記していないことはたくさんあるがこの辺にしておく。ちなみに、本当はもっとネガティブなことも生活の中に溢れているが、留学を考えている人の気持ちを踏まえてあまり書かなかった。苦しいことは行ってからしか味わえないし、行く前から心配し過ぎてもしょうがないと自身の経験からも思っているのだ。もちろん、ポジティブな経験が多かったのは嘘ではない。留学のうちのたった二ヶ月でも感情が揺さぶられるような出来事がたくさんあった。これから何があるのか、今はそれが本当に楽しみだ。ただこの留学は短くて終わりがある。終わりがあると焦ってしまう。今は自分が焦っているのがわかるので、ついついストレスに感じてしまうこともある。しかしながらそうして焦っているうちに、この貴重な時間を楽しめずに終わってしまうのはもったいないと、最近になって思えるようになってきた。ひとまずは焦らずに一つ一つ見つけた発見や感動を大事にして、手のひらに収まる分量を日本に持って帰ろうと思う。

最後になりましたが、留学準備から今に至ってまで大変お世話になっている西山先生はじめフランス語圏文化論教室の方々、そしていつも支えてくれている両親や友人に感謝を申し上げます。本当にありがとうございます。今留学できていることが多くの方の支えによるものだということを、心に刻みながら残りの留学生活を噛みしめていきたいと思います。


(南仏旅行:高台から撮ったマルセイユの街並み。伝統のオレンジ屋根とその向こうにシャトー•ディフという島の上に作られたかつての牢獄が見える。)

(南仏旅行:アヴィニョンにある教皇庁で、巨大なスケールに圧倒される。周辺には土産屋なども多く人気観光地となっている。)

(南仏旅行:日本でも有名な曲「アヴィニョンの橋の上で」のアヴィニョン橋ことサン•ベネゼ橋。)

(パリ旅行時に食べた一風堂のラーメン。心に沁みる。)