HOME > RennesSejours > RennesSejours2015

レンヌ留学記2015年度(鈴木麻純、大泉佳菜、二宮麻衣、井堀花香

(4)軽やかな欠落感──留学生活を終えて(鈴木麻純)

(4)軽やかな欠落感──留学生活を終えて(鈴木麻純)


約10ヶ月間の留学生活が終わりを迎えた。様々な想いを抱えながらフランス行きの飛行機に乗ったあの日から、もうすぐ1年が経とうとしている。日本に帰国した後はいつものように、フランスでの日々はまるで夢だったように感じるのだろうと思っていたが、今回は不思議とそうは感じず、ちゃんとあの場所にいたのだと、帰ってきた今でもなぜだかそう思える。レンヌでの日々は私に数々の経験、知識、思い出を残してくれた。全てを書くことはできないが、そのほんの一部分を、この滞在記に綴る。


(毎週土曜の朝にひらかれるマルシェ。野菜や肉、魚だけでなく、チーズや花など何でもあり、いつも多くの人で賑わう。)

(サンタンヌの古本市場。絵本や文学作品など、様々なジャンルの本がかなり安く買える。)

8月の終わりにフランスのレンヌに到着し、留学生活が始まった。前期は語学学校、後期からは昼間は大学の授業を取り、週に二日だけ、夜のコースで語学学校に通っていた。大学では文学部に所属し、Linguistique 言語学、Littérature française du XIXe siècle 19世紀フランス文学、Méthodologie de l’analyse grammaticale 文法的分析の方法論、Méthodologie des exercices littéraires ( Méthodologie de la dissertation ) ディセルタシオンの方法論、そして履修登録はしていないが聴講したFLE(français langue étrangèreの略で、外国人のためのフランス語教授法を学ぶ)のコースの授業も合わせると、全部で5つの授業を受講した。

覚悟はしていたものの、どの授業も難しく、特に最初の頃は授業についていくだけでも大変だった。前期の語学学校の授業ももちろん簡単ではなかったが、授業が始まった瞬間に「レベルが違う」と感じたのを覚えている。語学学校の授業は、どれだけ内容が難しくても「フランス語学習者のための」授業だったのだということを、教授の話すスピードや、言葉の使い方から気付かされた。

また、語学学校や日本の大学と比較すると、フランスの大学の授業は、板書やスライドといった視覚的な補助が少なく、レジュメのプリントが配られることなどはまずない。教授がひたすら話していて、学生たちはそれを聞き、絶え間なくノートをとるが(ノートパソコンを使っている学生もかなり多かった)、私にとっては容易なことではない。聴き取り、内容理解、要約の三つを同時に要求されるこの形式の授業は特についていくのが大変だった。とは言え、理解できないままではいられないので、隣に座っている友達のノートを見せてもらったことがあったが、(失礼ながら)筆跡が個性的すぎて理解できず、思わず固まってしまったこともあった。

大学の授業には、Amphithéâtre という大教室で行われるCM ( Cours Magistral いわゆる「講義」) と、普通の教室で行われるTD ( Travaux Dirigés いわゆる「演習」) という2つのタイプがある。一般的に前者は講義形式であることがほとんどであるが、後者は、受講者の数も20〜30人である。そのため、より実践的に作業に取り組むことが多く、講義形式であっても学生たちは頻繁に質問をし、意見を述べる。


(TDの授業を受けていた教室。)

CM・TDのどちらにおいても、はじめの頃は教室に入るだけでも緊張したものだ。この場所で自分はしっかり「学ぶ」ことができるのだろうか、望んでいたような成果を得られるのだろうか、という不安が常につきまとっていた。フランス語の上達だけでなく、フランス文学の勉強というのは今回の留学の目的の一つであったので、簡単には諦めたくないし諦められない、とここから数日間の葛藤が始まった。大学の授業に怖気づいてしまったのももちろんあるが、もし語学学校に通えば、クラスは自動的に前期のレベルから一つ上がったクラスになることがわかっていた。この時期は以前にも増して、フランス語という言語に強い関心を抱き始めていた頃でもあった。もしかしたらきちんと「学ぶ」ことができないかもしれない大学の授業よりも、確実にフランス語の力をつけられる語学学校の授業の方が得られるものは多いのではないか。大学の授業を受けるという選択は正しかったのか、学期はじめは心が揺らぐ日が続いた。

そして散々悩んだ挙句、結局大学の授業を履修することにした。フランスでフランス文学の勉強をしたいという気持ちはやはり簡単に投げ出せるものではなかったこと、それはもしかしたら一生に一度の機会であるかもしれないこと、そして何より難しいからやめる、というのが性に合わなかったのだと思う。より不確実な方の道を選ぶというのは一つの挑戦であった。留学を終えたとき、この「挑戦」がきちんと実になっているのかはわからない、一種の賭けのようなものだった。しかし、決断したあともどこか不安の残る私に、友人がかけてくれた「成果なんてなくてもいいんだよ。」という言葉は、新鮮だった。やるからには必ず成果を得なければならないと思っていたからだ。先のことばかり心配していた私に、「まずはやってみよう」と思わせてくれたその友人には感謝している。

このような葛藤を経ながら本格的に始まった後期であったが、回を重ねるごとに授業にも慣れ、少しずつ面白さを感じるようになっていった。そうなると今度は、内容の全てを理解できないことにもどかしさを感じるようになったが(もちろん仮に日本語で受けていたとしても100%理解できるわけはないと思うが)、わからないところは授業後に先生に質問しに行くことで、少しでも疑問をなくすように心がけていた。

不思議だったのが、「なんだかわからないのに面白い」と感じた言語学の授業であった。内容もさることながら、先生の話す速度も圧倒的に速く(フランス人の学生からももう少しゆっくり話すよう頼まれるほどだった)、ほぼ理解できないこともあった。今思い返すと、後期が始まって一番最初に受けた授業は、言語学の、しかも大教室での講義だった。「大学の授業は難しすぎる」と衝撃を受けたのも無理はない、と今なら思える。教壇の上を左右に行ったり来たりしながら、まるで受講者がいないかのようにひたすら話し続ける教授は、天才肌、という雰囲気だった。それでも同じ教授による午後のTDの授業の後は、よく質問をしに行っていて、後期の半ば頃になると顔をのぞかせただけで « Allez-y, entrez ! どうぞ入りなさい » と快く迎えてくれたものだった。

このような難解さにもかかわらず、なぜか惹かれるものが言語学にはあった。新たな視点から言語を分析し、音や意味の関係について考えることで、自分の知らなかった、言語のもう一つの顔を知ることができたような気がする。︎そして、今まで自分が勉強してきたフランス語の、そのさらに奥にあるものに触れさせてくれた言語学との出会いは、レンヌで得た大事なもののうちの一つである。


(語学学校で所属していたアトリエ・ミュージックのコンサート当日。私はアメリカ人の友人2人と演奏をし、ピアノを弾いた。他にも合唱や劇などの発表があり、前期の最後を締めくくる華やかなステージだった。)

(クリスマスは、友人が実家に招待してくれ、ブルターニュの西端にあるブレストという街 で過ごした。クリスマスは家族で過ごし、お正月は友人同士で集まって楽しく過ごすという文化は日本とは逆。良いクリスマスの思い出を作ってくれた友人と彼の家族には、心から感謝している。)

履修していた授業のうちの一つの、ディセルタシオンの書き方を習得する授業について紹介しようと思う。ディセルタシオンとはフランス式の論文で、まずは与えられたテーマを分析し、それに対する問題提起を自分で見つけることから始まり、論理的に思考する力、考えを矛盾なく筋道立てて発展させる力、そしてその考えを根拠づける具体例の提示、文学の知識など様々な能力を要求される。具体的には、次のとおりである。

1. 序論 : テーマの紹介、問題提起、プランの提示
2. 本論(展開):三段落構成。基本的には一段落につき三つの論証+例。(強制ではないが、本論では弁証法を用いて論じることも多い)
3. 結論 :まとめ、展望 という形式に沿って書かなければならない。

例えば、この授業で扱ったテーマとしては以下のものがあった。

« L’art naît de contraintes, vit de luttes, meurt de liberté »
芸術は拘束の中で生まれ、闘争に生き、自由によって死ぬ。

« Le théâtre n’apporte pas au spectateur, comme le cinéma, une image toute construite 〔c’est le récepteur qui va la focaliser et la cadrer〕ni une image abstraite, mais un être à la fois présent et absent ; et de cette présence-absence, il va bien falloir qu’il s’arrange. A chaque instant la perception du spectateur oscille, et c’est ce va-et-vient du présent à l’absent, du maintenant au passé, du réel à la figure, du jeu à la fiction qui constitue à la fois le travail psychique et le plaisir du théâtre. »   
「演劇は、映画のように、完全に構築されたイメージを観客に与えることも(イメージのフォーカスとフレーミングを決めるのは受け手の方である)、抽象的なイメージを与えることもなく、そこに存在しながら不在であるものをもたらす。そして、こうした存在/不在から、このものは整序されていかなければならない。観客の知覚は絶えず揺れ動き、存在から不在へ、現在から過去へ、現実からイメージへ、演技から虚構へと行き来することが精神の働きと演劇の悦びをなすのである。」

これらは序論や展開の練習として用いられたものだが、どのテーマにしてもまずは与えられた文章を細かく分析することから始まり、そして的確な問題提起をする(例えば前者のテーマであれば、まずはartの語源を考えることから始まった)。

単位認定課題として、学期末に出されたのは以下のポール・ヴァレリーの引用だった。

« Les meilleures œuvres doivent, contrairement au préjugé, se faire à froid – Car la fureur en soi et l’emportement ne sont que des déperditions à côté – Elles ne figurent pas dans les résultats. »
最高傑作とは、先入見に反して、冷静に作らなければならない──なぜなら、ありのままの激情や激高は的外れの消耗にすぎないからである──激情や激高は成果物の中に現われはしない。

構成などは分かっていたものの、これがはじめてのディセルタシオンとなる私にとっては難しいことだらけだった。例えば、アイディアがあってもそれに伴う例を見つけるのに苦労したり、またはそのアイディアを論理立てて展開するのに頭を悩ませたりした。自分の考えを、本論において弁証法に即して明確に組み立てていくのは決して簡単ではない(当時アドバイスをくださった先生と先輩には本当に感謝しています。ありがとうございました)。そうして数日間、ディセルタシオンのことしか頭にないような日々を送ったが、それでも何とか仕上げた後の、達成感や充足感は今でもよく覚えている。そして、ただの小論文ではなく、これは一種の芸術だと、書き終わった後にふと思ったことも。

ディセルタシオンは論理的な思考力、そしてそれを表明する力を養うトレーニングとして非常に優れていると思う。フランスでは高校からディセルタシオンを始めるというのだから驚きだ。そうして養われてきた思考力や表明力が、この国を作ってきたのだろう。フランス人の議論の仕方や振る舞い、デモの多さなどにもそれは現れているように思う。むやみに人に同意するのではなく一人一人が主体的に思考すること、その意思を伝えることの大切さを彼らは知っている。そのためには、自ら声を上げなければならないのだということも。「国」を作っているのがそこに住む人々であり、彼らのものの考え方であり、表明の仕方なのだとしたら、その根底にあるものの一つである「教育」の担う役割は限りなく重要で、その影響力は大きい。逆に考えると教育とは、国の気質を変える力を持つ、一つの可能性であるとも言えるだろう。多くのフランス人と言葉を交わしてきたが、彼らの話し方や思考の仕方のルーツが、ディセルタシオンを通して少し見えた気がした。


(2月中旬のバカンスで、ノルマンディーにあるルーアンという街を訪れた。写真はフローベール博物館にて。)

(階段や壁など、至る所にこうした文章があるのが面白い。)

(ジャンヌ・ダルク教会。ジャンヌが火刑に処された旧市場広場に建てられている。近くには市場があり、今は穏やかな雰囲気が漂うが、壮絶な歴史があったことを実感せずにはいられなかった。)

留学中はテロやデモの激化など激動の1年間であった。2015年11月13日にパリで起こった同時多発テロは、死者130人、負傷者352人という悲劇をもたらした。自分がいるこの国で、350km先の土地で、信じられないようなことが起こっていた。ショックを受けると同時に、今ここで起こっていることを、そして国がこの未曾有の事態にどう立ち向かっていくのか、どう動いていくのかを、自分の目でしっかりと見ておきたいと強く思ったのを覚えている。渦中にいるからこそ、感じられるものがあるからだ。

レンヌでも市庁舎の前には献花や蝋燭が手向けられ、多くの人が犠牲者を悼んでいた。大学では黙祷があり、当時語学学校で受けていた Société française というフランスの時事問題を扱う授業では、2週連続でこのテロについての話が取り上げられた。自身がパリ生まれのその先生は、事件の少し後にパリを訪れたという。「今まで通りに、バーのテラスでコーヒーやビールを飲んでいる人がたくさんいたよ。怖がってないんだ、ということを示すためにね」という彼の言葉が今でも印象に残っている。いつも通りの生活を送り、「怖くなどない」という姿勢を見せることが、テロに屈さないという意思表明になるのだ。深い悲しみや怒りに包まれながらも、それに飲み込まれるのではなく、また「自粛」などと言って日常を変えてしまうこともせずに、彼らのやり方で立ち向かう。痛みを抱えながらも恐怖に屈せず、普段通りの生活を送ることが彼らの、このフランスという国の強さなのだと感じた。


(大学にて。マニフェスタシオンが激しくなってくると、授業が休講になることも度々あった。写真は大学が3日間閉鎖されたときのもの。)

(前期、後期と大学で日本語クラスのアシスタントをしていた。授業中、添削をしたり質問に答えながら学生と話すのは純粋に楽しかったし、日本語の教え方という面でも勉強になることがたくさんあり、とても充実した時間を過ごすことができた。高橋先生、本当にありがとうございました!)

(友人たちと。写真のように、バーなどに行くと外のテラス席で飲むことが多かった。)

(タボール公園。写真の道のすぐそばにある薔薇園では、すべての薔薇に有名な画家や詩人などの名前がそれぞれ付いていて、それを見ながら歩いているだけでも楽しい。)

(マルシェにて。)

いま日本で、ふとしたときに、レンヌでの日々を思い出すことが多い。ぽっかり穴が空いた、という感じではなく、ふわりと何かが欠けてしまったような、そんな感じだ。「日本に帰ってきたら変わってしまっているもの、なくなっているものがきっとあるよ」と以前留学していた先輩が言っていたが、帰国してからその言葉を実感することが時々あった。意外にも、悲しいというよりは、それが逆に10ヶ月間の不在を裏付けてくれているようで安心したりもする。

来2017年の3月に、首都大学東京の国際交流プログラムで、またフランスに行くことになった。その際に、パリでの大学や高校などの教育機関の見学に加え、レンヌ第二大学の訪問のために再びレンヌを訪れる。10ヶ月間暮らした街を再び訪れるという体験は、何を「確認」させ、そして「発見」させてくれるのだろう。レンヌの街の懐かしい空気に包まれる日を心待ちにしている。

最後になりましたが、まずはこの交換留学という機会をくださった西山先生をはじめとした仏文の先生方、レンヌで大変お世話になった高橋先生に、この場をお借りして感謝申し上げます。そして先輩方や友人、後輩、両親など、いつも遠くから私を見守り、支えてくれていた方々にも心から感謝しています。本当にありがとうございました。

(3)イタリアへの旅(井堀花香)

(3)イタリアへの旅(井堀花香)


語学学校で親しくなった友人と、一週間のバカンスを利用してイタリアを旅行した。レンヌ空港を出てローマへ、それからフィレンツェの8日間の旅だ。友人が前々から計画していたものに乗っかった形だったので旅程はほとんど決まっていたが、バカンスを目いっぱい使って満喫できた旅だった。

ローマ

バスでレンヌ中心部から30分ほど揺られレンヌ空港に向かった。早朝の出発にもかかわらず、バスには大きな荷物を抱えた人々でいっぱいだった。飛行機や列車で気軽に外国に行けるのだから、日本に比べて旅行に対する敷居が低いのだろう。羨ましい限りである。バカンスの間は多くの店が閉じられ、または営業時間を変更して街全体がお休みモードになる。皆が非日常への期待をめぐらせているような、生き生きとした雰囲気があった。2時間ほどの短いフライトは、スペイン語やイタリア語、フランス語、そして英語が飛び交っていた。ローマに着き、空港から市街地を結ぶバスを降りると途端に、とげとげしい冷気と共に異国の雰囲気に包まれた。ローマ最大のテルミニ(termini)駅の周辺は、私の想像とは少し違っていた。ヨーロッパの代表のようなクリーム色や橙が貴重の建造物とは対照的に、人々は実に国際色豊かであった。特に目についたのは、路上で物を売る人々。ホテルに向かう途中、浅黒い肌のアジア系の男性が、荒々しく中国語で私たちに話しかけてきた(私たちは共にアジア人だった)。ヨーロッパの観光地ならどこもそうであろう、決して治安が良いとは言えない。ただ、歌うようなイタリア語を話し昼間からバーでお酒を楽しむ人々を見ていると、こちらも楽しくなってきて、心が躍った。

ローマは東京都の約半分の面積で人口も多く大きな都市だが、市内の主要な交通手段である地下鉄は現在利用できる路線で3つしかない。というのも、建設に取り掛かる過程で必ず遺跡が発見されるため、いちいち工事を中断してかなり時間がかかってしまうらしい。東西と南北で交差する地下鉄だけでは細かな移動はできないので、ほとんど自分たちの足で周った。友人の万歩計によれば毎日10km以上歩いていたらしく、ローマでは常に足に疲労を感じていたが、好奇心に任せて、ひたすらに歩き続けた。それだけたくさん歩いていると、ローマという都市がだんだんと見えてくる。店やアパートなどの建物の間に、突然古代遺跡があったりする。街の色と実によく溶け込んでいるものだから、気付かないで通りすぎてしまうこともあったかもしれない。見渡せば、必ずどこかに教会がある。広場には決まって噴水があって、観光客と路上で商売をする者で賑わっている。バーやレストラン、大衆食堂(trattoria)が軒を連ねる路地からは、微かなコーヒーの匂いと、豪快な笑い声がする。同じヨーロッパでお隣の国だけれど、フランスとはまた違ったそこの空気は、雑多で温かくて、人間味に溢れていた。


写真1(ローマには至る所に噴水がある。紀元前1世紀に引かれた水路のなごりである)

ローマ最終日は、ヴァチカン市国を訪れた。世界最小の国で、日本の皇居の敷地よりも小さい。国民のほとんどが聖職者か衛兵だ。ローマの地下鉄を降りて少し進むと、建物の間から壮麗なサン・ピエトロ大聖堂が見えてきた。期待しつつ国境らしきものを探したが、頼りない柵があるだけだった。さすがキリスト教カトリックの総本山とだけあって、世界中からの参拝客や観光客で広場をぐるりと一周する長蛇の列ができていた。やっとのことで聖堂の中に足を踏み入れると、たくさんの人にも関わらず、身が引き締まるような重厚で厳かな雰囲気に包まれた。大聖堂の内壁は全て装飾が施されており、上を見上げると巨大な大円蓋がある。人の流れに身を任せて一通り周って地下に降りると、歴代の教皇の棺が静かに並んでいた。上のドームと展望台は有料だったが、最後に、せっかくなので登ってみた。永遠に続くかと思う狭い螺旋階段を必死に登り外に出ると、オレンジと白の美しいローマの街が眼下に広がっていた。真下にはサン・ピエトロ大聖堂の、相変わらず人々の長蛇の列が見え、その先には規則正しく区画されたローマの街が続く。展望台には小さな売店があり、ポケット聖書、教皇のポストカード、ロザリオやブレスレットなどキリスト教らしい品物が並んでいた。ポストがあり、その場で手紙を書いて投函できるようになっていた。


写真2(軍事力は一切持たない。スイス人衛兵が警備員をしている)

大聖堂やヴァチカンの周辺を歩いていると、至るところでシスターの集団をみかけた。アフリカ系やアジア系、日本人らしき集団もいた。彼女らの制服がそれぞれ水色や白、薄紫色など色や形も様々でとても興味かった。ヴァチカン市国はその小さな空間に、世界最大の宗教、キリスト教の古き歴史を感じさせる粛々とした空気が流れていた。


写真3(正面に佇むサン・ピエトロ大聖堂。周辺はヴァチカン市国にちなんだ品物やパフォーマンスが多く見られた)

写真4(カウンターでコーヒーを飲む。どこの店にも立派なコーヒーメーカーが置いてあった)


フィレンツェ(フロランス)

テルミニ駅から列車で一時間ほどかけ、フィレンツェへ向かった。ローマとフィレンツェを結ぶ高速列車では、テーブルを挟んで向かいにイタリア人の親子が乗っており、母親が子供に言葉を教えていた。テーブルに大きく紙を広げており、面白かったのでこっそり見ていたのだが、私でもわかる単語がいくつかあった。例えば水(acqua)など。イタリアに来て実感したことは、看板や店のメニューなど書かれている言葉はフランス語によく似ていてわかるものが多いが、耳で聞くイタリア語はとたんに未知の言語になるということ。元の単語や文の作りが似ているのに発音の違いからこんなにも変わるのか、と改めて感心していた。滞在中簡単な挨拶や単語を覚えて使ってみたり、ホテルの受付の男性から正しい発音をレッスンされたりしたが、やはり外国語に触れているのはとても楽しかった。その意味で、私が今生活しているフランスは、とても興味深い国である。

フィレンツェに対してまず思ったことは、迷路のような街だということだった。有名なフィレンツェ大聖堂がある広場を中心にそこからたくさんの小道が伸びていて、東西南北の感覚を失ってしまう。どの道を歩いていても知らない場所だと思うと同時に、既視感もある。今まで確かに地図の上を進んでいたのに、ふいにそれが白紙になってしまう。きつねにつままれたような不思議な感覚に何度か見舞われた。一度、友人と別れて一人で行動したときにお互いに迷子になり、なかなか会えなかったのは苦い思い出ではある。ただ、フィレンツェは個人的にとても楽しめた街だった。丘の上から街全体を見渡したときに、中世のどこかの街に来ているように思えた。街全体が土地の岩色である朱色で構成されており、その土地に流れる精神というか、古き良き伝統を垣間見たように感じた。イタリア中心部のトスカーナ地方に位置し、古くから毛織物業やメディチ家の金融業などで栄えていたフィレンツェは、現在は特に革製品が人気である。露店はほとんどが革の鞄や衣服を販売しており、革製品の専門店が至る所に見られる。フィレンツェが発祥の有名なブランドで、イルビゾンテ(il bisonte)がある。その本店に行ったのだが、店員が日本人の女性だった。フィレンツェは日本人の観光客が多いため日本語を話せる社員が必要なのだと言っていた。パリもそうだが、日本人はどこにでもいるのだなと改めて思う。


写真5(フィレンツェのシンボルである大聖堂。白と深緑のコントラストが美しく、独自の雰囲気を醸し出していた)

写真6(暖色の色合いが可愛らしい。橋の上の建物は全て宝石店)

写真7(丘の上からフィレンツェの街を一望できる。まさに絵になる景色)

一度もジェラートとコーヒーを口にしなかった日は無いかもしれない。少し歩けばすぐにカフェやジェラテリア(gelateria)が見つかるので、私としては立ち寄らない訳にはいかなかった。イタリアのカフェはフランスと違ってテラス席が無いことが多い。基本的に皆カウンターで注文し、飲み干したら帰るというスタイルだ。というのも、席料が高いのだ。友人と私はこのスタイルが気に行って、一日に何度もカフェをはしごしたりした。ちなみにエスプレッソが大体1~2€で飲める。ほとんどの食事はピザやサンドイッチなど軽く済ませることが多かったが、しっかりレストランで食べる日もあった。値段はフランスよりも少し高いがとにかく量が多いので、一人ずつ注文するというよりは皆で分ける方が良い。前菜、パスタ、ピザ、メインの肉料理を四人で分けて、一人当たり20~30€くらいだ。高いが量が多く満足できる上、とにかく美味しかった。


写真8(zazaという有名なトラットリアで夕食。これは前菜。イタリアはハムやベーコンなど加工肉がとびきり美味しい)

旅行中、ずっと不思議な状況だった。最終日のローマで、台湾から来た友人の同僚2人と合流し、その後は四人で行動を共にしていた。彼らは中国語を話すので、私はイタリアにいながら中国語に囲まれて生活した。初めは理解できない言語の中で、自分というものが失われていく感覚に陥ったりもした。しかし不思議なもので、だんだんとその状況を楽しむようになった。彼らの口調を真似したり、よく言っている言葉を覚えたり…やはり結局のところ、外国語は楽しい。これは私個人の捉え方だけれど、それぞれの言語には色や質感があって、それぞれが異なる音を奏でている。例えば彼らの中国語は(この場合台湾語だが)、船で流れの速い川を下っているような、流動的で躍動感があって、生命力に溢れている言語だと思う。大陸の中国語とはまた違って、流れは速いけれどおおらかさもあり、どこか開放的な響きがする。フィレンツェで宿泊したホテルの屋上が自由に使えたので、そこで毎晩彼らの会話を聞き、私もたくさん話をした。台湾と日本の食について、お互いのふるさとについて、台湾と中国についてなど、私が知らなかったことをたくさん聞かせてくれた。観光とは別に、彼らと共に数日を過ごした経験はとても貴重だった。


写真9(zazaでの昼食。夕食が美味しかったので翌日再び来店)

写真10(フィレンツェの道路標識はユーモアに溢れていた。面白おかしく、ときには皮肉を込めて)


(2)レンヌでの4ヶ月間(二宮麻衣)

(2)レンヌでの4ヶ月間(二宮麻衣)


12月で前期が終わった。まさに駆け抜けた、風のようにあっという間に過ぎ去った4か月だった。振り返ってみれば、踏んだり蹴ったりの前期でもあった。

9月の最終日の深夜に、けがをした。フランスだったので日本にいる時よりも不安になり、深夜にもかかわらず同じ寮に住むフランス人の友人の優しさに甘えて、夜間病院に連れて行ってもらった。病院はかなり時間がかかるという印象。長い間待ちやっと診てもらえたと思ったら、手当てを受けている最中に”Je reviens.”「すぐ戻るよ」と言われ、医者がどこかに行ってしまうということが何度かあった。全て終わり家に帰ってきたのが午前3時半頃。そして治療費が高くて驚いた。消毒して薬を塗ってガーゼを巻いただけで88ユーロ。、治療費はレンヌ第2大学で加入していた保険のおかげで、全額返金なのでありがたい。(9月の最終日にけがをして10月1日の深夜0時過ぎに病院に行ったので、10月から契約していた保険がぎりぎり適用されたのは本当にラッキーだった。)この保険は、securité sociale という種類のもので、学生は、LMDEかSMEBAのどちらかへの加入が必須。これで病院の治療費は全額返金されるはずなのだが、フランス国民がもつcarte vital(日本の保険証みたいなもの)を持っていないので、返金してもらうのがなかなか大変だ。私もcarte vitalをもらおうとしたが、どうやら1年間だけの滞在者にはくれないみたいだ。

返金してもらうために保険の加入証明書を持って保険会社へ行くと、戸籍のフランス語訳が必要だと言われた。日本でフランス語に翻訳していなかった私は、パリにある日本大使館に頼むことにした。申請は郵送でもできるが、受け取りは直接行かないとダメだったので、パリにいる知人に代理で受け取ってもらい、レンヌまで郵送で送ってもらうことにした。しかし、知人が投函してから約1か月たっても届かない。どうやら途中で紛失したらしい。そんなこんなで、10月初めに払った治療費はいまだに返金してもらえないままである。再び翻訳を日本大使館に頼もうと思うが、次は郵便局には頼らず全て自分でやろうと決めた。


〔城門(Les Portes Mordelaises)中世の時代、この門を通って人々はレンヌの中に入っていった。繋がれた鎖で城門を開閉することが可能。この門をすぐ抜けたところの左側に黄色いお店が見えるだろうか。これはレンヌで1番古いガレットのレストランだそう。〕


〔サン・ピエール大聖堂(la chatédrale Saint-Pierre) 城門をくぐり、1本道を進むとすぐに、サン・ピエール大聖堂が目の前に現れる。6世紀頃から、重要な教会として使われていた。少し見えづらいかもしれないが、左右の塔の5段階の柱は、1段目はドーリア式で、2段目はイオニア式、3段目はコリント式になっている。2つの塔の間の一番上には、太陽王ルイ14世の紋章が掲げられている。〕

日本にいる時では考えられないほど、短期間で様々なハプニングに見舞われたが、それが外国で暮らすということなのだろう。ほとんどのお店が日曜日に閉まっていたり、郵便局の回転が悪く長い間待たされたり、銀行にお金を振りこんでも、口座に反映されたのが土日を挟んで5日後だったり…(フランスではお金の振り込み方が少々異なる。)当初は困惑したフランスでの生活にも、気づいたら慣れていた。日本にいた時よりも早めに行動するようにはなった。こちらの生活に慣れてしまえば、日本はむしろ、他人の面倒をよく見すぎなのではないかとさえ思う時もある。年末年始、深夜に関わらず無休で開いているコンビニや、宅配サービスなど。あれば本当に便利だが、なくてもなんとかなる。日本ではこのようなサービスがあって当たり前だが、フランスではないのが当たり前だ。日本にいた時は、こんなこと絶対に思わなかった。

課題に追われつつ、友達と遊び、ハプニングに見舞われ、気づいたら前期末試験が間近に迫り、試験勉強をして、そしてあっという間に前期が全て終わってしまった。後から振り返ると、恐ろしいほどに速い4カ月だった。課題に追われ、毎日を過ごすことに精一杯という感じだったので、後期はもっと余裕を持ちたいと願うが、やはり追われている自分が容易に想像できる。また後期は、(たとえ下手でも)もう少し自信をもって授業にのぞみたい。前期を通してやっと分かったことは、自信ありげに見えるクラスメイトも、そう見えるだけだということだ。そう考えると、クラスで劣等感を感じ間違えることを恐れていた前期の自分はひどく損していたと思う。そして、前期が終わり自国に帰る人もいて、自分が帰る時のことを想像した。あっという間に来るのだろう。


〔現代の建物とこのような古い跡がレンヌでは至る所で混在している。〕

〔Anne de Bretagne(アンヌ・ド・ブルターニュ)ナントにて。今はブルターニュに属さないが、かつてはブルターニュの県庁所在地だった。〕

語学学校CIREFEの授業で、2回程レンヌ市内を散策する機会があった。それまでは、レンヌはこじんまりとして暮らしやすい街としか思っていなかったが、非常に歴史深い土地であることを知った。レンヌはブルターニュ地域圏の県庁所在地で、イル川とヴィレーヌ川の合流地点であることから、古くから中心都市として栄えてきた。その為、街のあちこちに古くから存在していた城壁や城門がある。(上記写真)ブルターニュはもともと、ブルターニュ公国という一つの国でありフランスではなかったので、ここの人たちはブルトン人であることに誇りを持っている。このことは、授業で先生が発する言葉の随所に感じられる。ブルターニュの公妃Anne de Bretagne(アンヌ・ド・ブルターニュ)は、シャルル8世、次いでルイ12世という2人のフランス王と結婚し、フランス王妃となった。そして1532年にブルターニュ公国はフランスに併合された。(上記写真)レンヌは生活しやすいので前から好きだったが、その歴史を知り、ここに住む多くの人たちがレンヌを愛していることを知り、より一層レンヌが素敵な街に思えた。大きくはないが活気で溢れているレンヌは本当にちょうどいい。学生街で留学生もたくさんいるので、海外で初めて生活する私でもすぐに馴染むことが出来たし、一歩外に出れば刺激に溢れている。(外食は高いが)物価もそこまで高くないし、CAFという住居保証が留学生にも適用されることはとてもありがたい。
環境的にも、経済的にも、レンヌは初めての留学にぴったりな街だと生活していて感じる。


CIREFEのクラスメイトとその知り合いの人たちと年越しのパーティーをした。年越しの瞬間、レンヌの中心地には子供からお年寄りまで多くの人でひしめき合っていた。


私の友達で、フランスの学費が自国よりはるかに安いため、あるいはフランス人の彼氏に合わせてフランスの大学院に入るため、CIREFEでフランス語を学び、その後大学に入ろうとする子がいる。大学で勉強するための勉強を1年かそれ以上かけて行い、そこでやっとスタートラインに立つという姿勢が私には新鮮に映った。日本の学費もフランスに比べればひどく高いが、だからといって時間をかけて一から新たな言語を学び、海外の大学に入ろうという発想は私たち日本人にはあまりない。日本では4年間もしくは6年間大学に通ったら働くという考え方が当然のごとく決まっているようで、ほとんどの学生がそのようにする。一方でこちらの学生は、大学在学中に様々な選択肢が与えられている。途中で休学して働いたり、学部卒業後に1度働いてから大学院に入学したり、それぞれの学生が持つバックグラウンドが多様だ。留学もこちらの人にとってはそこまで特別なことではない。(ヨーロッパ全体の留学協定エラスムスのおかげだろう。)中には留学が2回目の人もいるくらいだ。フランスに限らないと思うが、海外では学生が途中で寄り道することに寛容だと感じる。その証拠に、こちらの学割は大体25歳くらいまで効く。


(冬休みに訪れたオスロのノーベル平和賞センターにて。上から2行目に書かれている、”War is the chess game of the politicians and we are the figures.”という言葉が心に重く響いた。)

(ストックホルムのノーベル博物館にあるカフェにて。多くの椅子の裏には、ここを訪れた歴代受賞者のサインが書かれている。写真は去年にノーベル物理学賞を受賞したお二人のサインで、下は日本人の梶田隆章氏。他にも多くの日本人受賞者のサインがあった。)

今年はレンヌも暖冬だったのか、年末辺りからようやく厳しい寒さになった。留学生活も折り返し地点に立っている。もう半分しかないという気持ちが強いが、初心を忘れず1日1日をかみしめていきたい。



(1)レンヌでの新生活、ブルターニュ小旅行(大泉佳菜)

(1)レンヌでの新生活、ブルターニュ小旅行(大泉佳菜)


(2015/10/21)

 10月半ばとなり、こちらの生活にはだいぶ慣れてきた。自分にとっては一人暮らしも初めてで、最初はなかなかリズムがつかめず疲労感を感じていたが、早目に到着しておいたことで比較的ゆったりと時間を過ごすことができ、今となっては授業のペースもかなりつかめてきたように思う。
 買い物一つをとっても、到着したての頃はどこに何があるのかが分からないスーパーであれこれ揃えなければならず、ぐるぐるとしては寮から歩いて10分のスーパーで買い物をして帰ってくるまでに1時間以上かかっていた。それが今は40分ほどで往復できる。
 授業でも最初は指示の言葉すらよく理解できなかったのが、徐々に授業に“参加”できるようになっている気がする。
 街中を歩くフランス人同士の会話は速くてなかなか聞き取れないが、ちょっとした単語だけでも聞き取れることがある。
 少しずつでも、慣れて、ここに“住んで”いるのだと実感できる。授業が終わって寮に帰ってくると、「ただいま」と思える自分の家があるのだと思うと嬉しい気持ちになれる。



(寮の部屋 決して広くはないが1人で暮らす分には不自由さは感じない)

 日本と比べて驚かされたり、不便に思ったりすることももちろんある。スーパーで並んでいると、レジの人がお客が並んでいるにもかかわらず隣のレジの人と楽しそうに話しだしたり、郵便・宅配便がなかなか届かなかったりすることもある。
 一方で、近くのコピー屋さんに行ったとき、結構な枚数を印刷したのに半額にまけてサービスしてくれたり(ちょっとした場面でサービスしてくれることがフランスだと時々ある)、こちらのメトロでは一度乗っても1時間以内であれば何度でもメトロに乗れるという切符があるのだが、自分が使った切符の有効時間が切れてなければ切符売り場で切符を買おうとしている人にそれを譲ったり、全然知らない相手でもすれ違うと挨拶することがあったりなどのフランス人らしさが私は好きである。

++++++++

 留学の様々な手続きについては以前留学された方の滞在記(特に八木さんや土橋さん)に詳しく書かれているので大いに参考にさせていただいた。今回まずは、正規の交換留学生として新たに付け加えられることを述べていきたいと思う。
 これはフランスに留学を考えていらっしゃる方全体に向けたもの、というよりは首都大から交換留学を考えている方に向けたものというような偏ったものになってしまうがご容赦いただきたい。

●交換留学について
 まずは交換留学そのものについてである。首都大学からの交換留学には春募集と秋募集があり、これは受け入れ先の大学の学期開始月によって変わってくるものである。首都大からフランスへはリール第一大学とレンヌ第二大学の二校と交換留学が結ばれており、どちらも秋募集の流れとなる。

秋募集は
10月中旬 国際課による説明会(要項配布)/留学に関係する詳しい日程、応募条件についての説明や、前に留学をされた方からの体験談などを伺うことができる。
10月中旬~11月初旬 第一次エントリー受付期間/留学の志望理由書を必要とする。志望理由と留学計画を1200字程度でまとめたものである。これは留学の面接の際にその内容を問われることもあるものなので十分に考えた上で書かなければならない。
11月上旬 第一次エントリー状況発表/この状況を見て留学志望先を変更することが可能。フランスのように協定大学が少ない場合は変更することは難しいかもしれないが、英語圏の国へどうしても留学したいというのであれば応募倍率を考慮してもう一度考え直す期間がもらえる。
11月上旬~中旬 第二次エントリー受付期間/上記の第一次エントリー状況発表を受けて志望先を変更する場合はこの期間に変更することになる。ただし、変更の場合は改めて志望理由書を提出する必要がある。
11月中旬 第二次エントリー締切
12月上旬 選考試験/英語圏への留学を希望する場合はまず書類選考による結果が発表され、そこから約1週間後に面接試験が行われる。フランス語を含むその他の外国語圏への留学は午前中に筆記試験を、筆記試験に通れば同じ日の午後に面接試験を受けることになる。
12月下旬 結果発表
翌年8月上旬以降~ 各地派遣開始

という流れである。結果発表から派遣開始されるまでには国際課や派遣先の大学に従った様々な手続きを行う必要がある。交換留学での留学であれば、学費を留学先の大学ではなく、首都大に納めることになる。休学扱いにもならず、帰国後に留学先で取得した単位を認めてももらえるため、自身の単位取得状況次第では留学をしても4年で卒業することが可能である。しかし、その際には就活や卒論等の他の条件も考えなければならないこともあるため、留学をしたいが4年で卒業したい、という場合には帰国後のスケジュールを事前に考えた上で、国際化やキャリア支援課、担当教員や保護者と相談しておく必要があるだろう。また、留学にあたっては条件をクリアすれば多額の奨学金を支給していただける。しかし、奨学金を受け取るからには相応の義務や責任を伴うことを忘れてはいけない。これは交換留学生として留学する、という時点でその立場を自覚しなければならないことにもつながるだろう。

●教職と留学
 私は中学校・高等学校の英語とフランス語の教員免許を取得したいと思っている。それと同時に留学をしようとするといくつか問題となることがあった。今までにも教職と留学とを両立したいと考えた方がいただろうと思っていたのだが(英語科の教員免許を取得しようとした方など)、今までにそうした事例はなかったとのことで最初大いに苦労することになった。これから教員免許も取りたいが留学もしたい、という方がいる場合に私の経験が少しでも役に立てばと思う。

 壁となったのは主に三点あった。一点目は「継続履修」である。教職の科目の中には通年科目がある。私の場合はレンヌ第二大学が秋募集であるため、学期の途中で通年科目の履修をやめざるを得ない状況であった。しかし、それでは単位の取得が出来なくなってしまう。そんな時に活用できる制度が「継続履修」である。これは例えば留学等の理由で学期の途中で履修が不可能になってしまう状況の者が、とある年度の前期と翌年度の後期(私の場合は平成27年度の前期と平成28年度の後期)とに分けて履修をし、結果的に2年かけて単位を取得できるというものである。ただし、継続履修を認めてもらうには科目を担当する先生に許可をもらって所定の用紙に署名と印鑑をもらわなければならない。これまでこの継続履修はそれほど使われてないため、申請の時期が迫ってきてから突然「継続履修したいから署名と印鑑をお願いします。」と頼んでも認めてもらえない可能性もある。継続履修したい科目がある場合には教務課へ相談をしたり、早い段階で担当の先生へ話を伝えにいったりすることが必要である。教職の授業だけに限らず、通年科目であれば継続履修申請を行うことができる。特に、交換留学生は大学側が定める継続履修申請が可能な者として認められている。継続履修申請をする科目を担当する全ての先生から署名と印鑑をもらえたら、各学部・系の教務課にその用紙を提出する(人文・社会系は5月末日までに提出するように、とのことだった)。提出の際に教務課側が受理印を押してくれるのでその後それをコピーしてもらい、原本は提出、コピーは自身で管理(留学から帰ってきてから必要になるので絶対になくしてはならない)して手続きは完了である。当初はその制度に困惑したが、早い段階から教務課に相談していたことで、いざ各科目の担当の先生へ継続履修の申請用紙への記入を頼んだ時などは、教務課が概要を伝えて下さったおかげでは比較スムーズに手続きを進めることができた。

 二点目は「介護等体験」についてである。これは中学校の教員免許も取得したいと考えている場合に必要なものである。一般的には体験そのものを3年生の6月から9月頃にかけて、2日間は特別支援学校で、5日間は社会福祉施設で行う。体験までを留学前に合わらせていても、その後11月頃に事後指導を受けなければならないのが大きな問題となった。体験の前年度の11月に受ける事前指導、体験そのもの、そして事後指導を全て受けて初めて介護等体験の完了が認められるので、事後指導を受けられない場合はどうしたらいいのか、ということになったのである。結果としては、教務課の方との相談を経て帰国してからの年度の事後指導を受けて、継続履修のように2年かけて介護等体験の完了を認めてもらえることになった。また、この場合には必要な書類等はすべて提出を済ませた上で“事後指導だけを受ければいい状態”にしなくてはならない。私の場合は、特別支援学校での体験は6月末に行うことができたが、社会福祉施設での体験は留学に旅立つ前週(もっと詳細にいうと留学の4日前)に終え、そこから10日以内に教務課に提出しなければならない体験日誌(各系/コースの担当の先生の確認印をもらったもの)と体験証明という書類があったので、留学の準備等もある中少し大変だった。それでも、体験を受け入れてくれる施設が留学の出発前にあるとは限らないのも確かなので、出発前に体験を済ませることができたのは幸いだった。

 最後の三点目は「教育実習」である。私は自分の出身校である公立の高等学校で実習をしたいと考えているのだが、教育実習は実習の前年度に来年度の実習の依頼をするもので、首都大の場合は各自でその内諾を済ませた後、指定された6月中旬の1週間の間にそれに関する必要事項を記入した書類を提出しなければならない。そのため、内諾をとるのは年度当初のガイダンス後である4月上旬から6月上旬まで、できれば5月中には、ということになる。しかし、私の留学期間は6月下旬までであるため、実習の前年度に実習の依頼を行うことは難しい。そこで、実習の前々年度に再来年の実習を依頼できないかと考えた。留学への決意を固めた昨年度の9月の時点で高校に出向き、教育実習担当の先生に事情を説明して理解を得ることができた。教育十種担当の先生が変わった場合にも引き継ぎをしてくださるとのことであった。しかし、今年度の4月にいざ再来年度の教育実習の依頼をしたところ、結論から言ってしまうと無理であった。都道府県や学校にもよると思うが、公立の高等学校はその学校の一存だけで教育実習の受け入れを決められない場合もあり、一人だけ特例のように再来年の教育実習の受け入れてしまうのは他の生徒と比べて不平等になってしまうからという理由からであった。また、私は内諾をとる際にメールや電話だけでなく、直接面接をする必要もあったため(これは実習先が中学校か高等学校か、公立か私立かにもよる、学校によっても違う)、受け入れ不可の返答があった時には私のような特例の学生を受け入れてくれるところを探すしかないかと思った。しかし、そこから何度かやりとりをしていくうちに、来年度の4月上旬になったら改めて留学等の事情も記載したメールを実習希望先の学校に送り、教務課やその学校と相談しながら帰国してからなるべく早いうちに面接を行ったうえで手続きをする、という形になった。担当の先生が変わったらまた改めて引き継ぎもしてくださるという。従って、完全に教育実習の保証がされたわけではないが、かなり安心して留学に旅立つことができた。

 以上のように、教職と留学とを両立させることは困難もあるが決して不可能ではない。しかし、両方を希望する場合には四年で大学を卒業をすることが難しいのは了承していただきたい。そして、多くの方に相談したり、足を運んだりしなければならなかったり、日程の面でハードになることもある。強く意思と覚悟を持たなければならないだろう。また、上記は私の一例で、教務課に相談すればその都度個人の事情に合わせた対応を考えていくこともできるかもしれない。特に、教育実習については受け入れ先次第で制度が異なる。あくまでも参考として役立てていただけたら幸いである。

++++++++

 8月末に到着してから、事務的な手続きを行いながらも、授業が開始する9月中旬までは比較的時間があったので、レンヌを散策する時間や、少し遠くまで足を運ぶ機会もあった。これは私たちの住む寮からメトロで10分ほどのSaint-Anneという駅から歩いていけるParc du Thabor(タボール公園)である。



(公園横にある旧ノートルダム・アン・サン=メレーヌ教会)

全体で10ヘクタールの敷地面積があるとのことで非常に広い。広い芝生の場所もあれば、鳥たちが飼われている場所、子ども用の小さな公園、一つ一つに名前が付いた花が並ぶ花園、噴水が上がる広場…など時間を忘れて楽しめる。軽食をもってピクニックもでき、お昼やティータイムの時間にはあちこちで楽しそうな声が上がっている。3月にレンヌに来た際にもタボール公園には行ったが、そのときには花は咲いていなかったので、今回花が咲き誇っている景色を見たときは感激した。少し時間が経ってだけでまた違う景色をみているような感覚になれるのも面白い。時折足を運んでみたいスポットである。

 ある日には友人たちが寮から車で一時間ほどのSaint-Malo(サン・マロ)というところに連れて行ってくれた。イギリス海峡に面したフランス北西部ブルターニュ地方の城壁に囲まれた港町である。サン・マロは、6世紀初期に聖アーロンと聖ブレンダンによって設立された修道士の居住地にその起源を遡る。その名前は、ブレンダンの弟子だったと言われる聖マロに由来するものである。


(城壁にのぼって撮った写真 砂浜を歩いていく人が見受けられる)

 着いた瞬間から目の前に城壁が立ちはだかり、迫力があった。これは中世に要塞化された島だったためだという。港町だけあって港には多くの船舶が停泊しており、港町らしい音楽も耳に入ってきた。サン・マロの中で一番古いカフェで一息入れたが、人形がたくさん飾ってある個性的なカフェであった。サン・マロはブルターニュの中でもかなりの観光地らしく、多くの観光客で賑わっていた。

++++++++

 生活の中では日本食が恋しくなることもある。しかし、レストランでわざわざ日本食を食べようとすると高いので、(最近は日本食人気が結構高いらしく味に関しては美味しい店もあるそうだが値段は高い)まだ安く済むようにと近くのアジア食品の店で材料を仕入れている。これがその店BELASIEである。



 寮からは14番のバスに乗り、Donelièreという停留所で降りるのが一番行きやすい(もしくはこの停留所を通る線か、Trois Croixという停留所を通る線でも行ける)。日本のものだけでなく中華食品やアジア香辛料なども売られている。日本食としては、日本米はもちろん、しょうゆ、みりん、めんつゆ、ソース、納豆、カレールウ、お好み焼き粉、焼きそば麺、そば、そうめん、カップ麺、ワサビ、しょうが、ラムネ、日本酒……など品ぞろえ豊富である。ただし、レストランで食べるよりは安く済むと思われるが、それでも例えば納豆4パックで4.80€するなど日本で買う・食べるより高くなってしまうのは仕方がない。それでもこの店に来ればたいていの日本食を作れる材料が手に入れられるので、時々活用している。以前はこの店でクラスメイトの中国人の女の子に会ったので、アジア人には御用達のお店となっているようである。

++++++++

 また、10月中旬には西山先生がレンヌに来て下さり、ブルターニュ旅行に連れて行っていただいた。1泊2日と一見短いように思われる時間の中でたくさんの場所に連れて行って下さり、充実した濃い時間を過ごすことができた。中でも印象的だったのは教会囲い地(Enclos paroissiaux)とラ岬(Pointe du Raz)であった。

 教会囲い地はそのほとんどが16世紀から17世紀に建設されたブルターニュ地方の特徴的な宗教建築である。教会・納骨堂・遺物を納める礼拝堂・カルヴェール(石造彫刻、キリストの十字架及び受難に関わった諸人物の像を意味する)・周囲を覆う壁・凱旋門・プラシトル(囲い地内の草地)に囲まれた墓地・泉の8つの要素のうち5つを備えていなければならない。また、一般的に入口はかつて家畜が神聖な地に侵入しないようにとのことから踏み段で遮られている。16世紀から17世紀にかけて貿易によって経済的な繁栄を迎えていたことから建設がされていったが、1695年に王の勅令によってこれら教会囲い地を含む新たな宗教建築の建設が禁止された。
 教会はフランスにいればあちこちで見かけることができるし、中に入ることもできる。しかし、それはあくまでも教会のみで存在している。教会囲い地は教会だけでなく納骨堂などが敷地内にあるせいか、死が近くにあるような重さを感じる気持ちになった。カルヴェールも16世紀の時代にこんな手の込んだものをどうやって作ったのだろうと思うほどのもので、360°どこから見渡しても違う表情が見られて非常に興味深かった。


(教会囲い地 ギミリオーで)

 ラ岬は、フランスのブルターニュ西端から大西洋に突き出す岬。地元のブルトン語ではBeg ar Razと呼ばれる。岬の先にはラ・ヴィエイユ灯台がそびえる。フランスの最西端はこの真北にあるコルサン岬で、観光シーズンには多くの人が押し寄せる人気の観光地となっている。


(危ないながらにどんどん端の方へ行きたくなってしまった)

 位置する場所がFinistère(地の果てを意味するフランス語)県であり、絵に描いたような断崖絶壁に冷たい風が吹き荒れ、足元には大粒な石や岩がごろごろしているラ岬にのぼった時には、地の果て、がまさしくふさわしい場所であると思った(向かう車の中ではピアノの切ない音楽を聴いていたのでさらにその気持ちを助長した)。海の色が真っ青とも単純な濃い青とも違う青さであり、観光シーズンを外れていたので人影もまばらでといった要素、そこにある全ての要素に、全ての景色に圧倒されて言葉が出てこない感覚だった。この時期に行けて良かったと非常に思った。地の果てを感じられたことで、またここから始まっていくことを頑張ろうと思えた場所だった。自分ではなかなか行けなかった、多分今回の旅がなければ行かなかっただろう場所にも連れて行って下さった西山先生、本当にありがとうございました。貴重な経験をさせていただきました。

 フランスに到着してから最初の大変な時期には今現在は首都大に留学しているLisaと日本に留学しているChloéに本当に助けてもらった。二人がいてくれたおかげで様々な手続きを無事に済ませたり、必要なものの買い物ができたり、いろいろな場所に行くことができた。ありがとう!


(Lisaと首都大からレンヌに留学している5人で Saint-Anneのカフェで)

 フランスに到着して1ヶ月半、授業が始まって1ヶ月。おそらく留学をした、している人の多くが考えるだろう、“もう”1ヶ月半・1ヶ月なのか、“まだ”1ヶ月半・1ヶ月なのか。観光とは違う留学では、楽しいことももちろんある一方で、いろいろと思い悩むことも多い。それでも、留学に関して何から何までお世話になった仏文の先生方、教職関係で相談に乗っていただいた教務課や、交換留学の手続きや奨学金の手配をしてくださった国際課、応援してくれる親戚や、あたたかく優しく送り出してくれた先輩・後輩・友人、留学したいと言った時に快く賛成してくれ、いろいろと協力してくれた家族、非常に多くの人に支えられて、このようなまたとない機会を経験できているのだという感謝の気持ちを忘れずに過ごしていきたい。外国で過ごしているのだから、相応に問題が起こることもあるし、多少の困難はあってもすべてが自分の経験に生きると考えて前向きに積極的に日々を過ごしていこうと思う。