Limitrophe(リミトロフ)
東京都立大学・西山雄二研究室紀要
ISSN 2437-0088
(刊行元:東京都八王子市南大沢1-1 東京都立大学人文科学研究科 西山雄二研究室)
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No. 3、2023年、全188頁

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特集ミシェル・ウエルベック(八木悠允 責任編集)

西山雄二「巻頭言」
八木悠允「序文」
伊藤琢麻「詩と「苦痛」——ミシェル・ウエルベック『幸福の追求』を読む」
アガト・ノヴァク=ルシュヴァリエ(八木悠允訳)
関大聡「テーゼの快楽と危険――ミシェル・ウエルベックと「新しい反動」論争をめぐって」
安達孝信「ミシェル・ウエルベック『地図と領土』における郊外・機能主義建築批判再考」
長田千里「写真的記憶としての『セロトニン』」
熊谷謙介「ネオ・ヒューマンは人間の夢を見るか?——ウエルベックにおける安楽死の誘惑と鎮静の技法」
西村真悟「ミシェル・ウエルベックの小説における死を否定する試みとその失敗」
八木悠允「エッセイスト・ウエルベック? 『発言集』への注釈」
八木悠允 ミシェル・ウエルベック略年譜
八木悠允 ミシェル・ウエルベック文献一覧

巻頭言
西山雄二

 本誌Limitropheは、東京都立大学西山雄二研究室にて2022年度から発行している研究室紀要である。2022年春頃から次号の企画の準備が進められたが、企画が膨れ上がり、執筆者が増えてきたので、今年は二冊同時刊行となった。第二号は通常号で、この第三号は八木悠允氏の責任編集のもと、ミシェル・ウエルベック特集号となる。
 契機となったのは、『ウエルベック発言集』日本語訳の準備と刊行である。西山雄二、八木悠允、関大聡、安達孝信の共訳で、白水社より2022年11月に刊行された。これまでウエルベックの小説は多数翻訳されてきたが、この発言集には批評、社会時評、インタビューや対談、序文などが収録されている。批評文の主題は詩、映画、建築、現代芸術、パーティー、文芸創作、哲学、SF小説、ロック音楽など多岐にわたる。ウエルベックの創作活動を支える理論的省察が垣間見える論集である。翻訳作業は秀逸な若手研究者三名と進められたが、彼らとの共同作業は充実した経験となった。
 『発言集』の刊行と関連して、学術的催事が開かれたが、その成果が本号に盛り込まれている。2022年9月30日、ワークショップ「ミシェル・ウエルベック、小文字の文学」が、東京都立大学からの配信形式で開かれ、若手研究者三名が研究発表をおこなった。2023年2月7日、八木悠允氏による講演「峻厳たる窮地——ミシェル・ウエルベックの文学」が配信形式で開かれ、初期詩集から最新作『無に帰す』までの創作活動が『発言集』とともに解説された。
 本号は、本学の大学院修了生であり、長年ウエルベック研究に携わってきた八木悠允氏に責任編集を依頼した。八木さんは2014年からフランスで研究を進めているが、その現地での研究蓄積は豊かなものである。二つの催事と本特集号に尽力していただき、素晴らしい成果をもたらしてくれたことに深く感謝申し上げる。
 本号には、修士論文を執筆したばかりの大学院生から、フランスに留学中の若手研究者、博士号を取得したばかりの若手研究者、熟達した教員までに寄稿していただいた。いずれも大変高度な論考ばかりで、圧倒的な特集号に仕上がったことに感嘆している。ひとつひとつ、重厚な論考を受け取るたびに感動して身震いがした。寄稿者のみなさんには心より感謝申し上げる次第である。
ウエルベックはフランスではすでに学術研究が進んでいる(たとえば、サミュエル・エスティエ「ウエルベック批評の十年」八木悠允・西山雄二訳、『人文学報』、514-15号、2017年を参照)。日本では、これだけ訳書があるにもかかわらず、学術誌での特集は組まれておらず、本号が初となるようだ。八木さんには略年譜と文献一覧を作成していただいたが、現時点での貴重な研究資料となるだろう。
 
 編集責任の八木さんが本学修了生なので、私的な挿話で締め括ることをお許しいただきたい。
 私は2010年4月に首都大学東京(現在の東京都立大学)に着任したが、八木さんとはそのとき以来の交流である。新年度ガイダンスのあと、お手洗いで挨拶の言葉をはじめて交わしたのを覚えている。その後、彼は2013年度に修士論文「ミシェル・ウエルベックにおける動物の表象の問題」を提出した。ウエルベック作品における動物の表象を科学的記述と文学的描写に区別し、とりわけ『闘争領域の拡大』の動物小説、『素粒子』の楽園などに焦点を当てた論考で、ウエルベックの創作における動物の重要性と独創性が解明されていた。その一節は「伴侶としての犬」の分析に充てられており、その縁もあって私たちはマルク・アリザール『犬たち』を共訳することができた(法政大学出版局、2019年)。
 八木さんは日本の大学院博士課程には進学せず、2014年8月末、フランスに旅立った。それ以来、彼はパリで働きながら、地道に研究を積み重ねてきた。昨今はフランスに留学する学生自体減っているが、希有な事例かと思う。
 成田空港で搭乗する前、八木さんはノートの切れ端にメッセージを書いて、送ってくれた。日本を去って、長い旅に出る者が書き綴った言葉には深く胸を打たれたし、いまでもあの衝撃は心に残っている。私は研究教育上の私信は仕事机の近く、手の届く範囲に保管しているが、彼の手紙もずっとそこにある。本人の許可を得て、少し引用させていただく。

 こんな僕に、〔研究という〕夢を見続けることを許してくださった先生に出会えて、本当に幸福でした。先生の最初の御本のあとがきに書かれていた通り、僕は先生と出会ってからずっとカラフルな夢を見ることができました。
僕は夢という言葉が嫌いでしたし、今も好きではありませんが、この言葉を使うしか他に言いようもない気がします。ここでいう夢とは、将来の展望だとかそういうことではなく、再び言葉を拝借すれば、未来と言うべきものでしょう。
僕は五年間、わりと辛い時期もありましたが、つねに死ぬほど楽しかったです。今も楽しくて仕方がありません。まるで未来を生きているみたいにです。

 かつて若者が生きていた「カラフルな夢」は増幅し、確固たるものとなり、数多くの人々を包み込みながら、「未来」をも追い越し、遙か先へと旅立っていく。本特集号がその魅力的な道標となり、読者に送り届けられることを心より祝賀したい。

序文
八木悠允(ロレーヌ大学)

 2022年はミシェル・ウエルベックにとって久しぶりに賑やかな年だった。長編小説の刊行、名誉博士号の受賞、出演映画の上映に、再び裁判沙汰の様相を呈している『市民戦線』での対談など、この年の作家に関しての話題には事欠かない。また、前年2021年には研究者であるアガト・ノヴァク=ルシュヴァリエ主催のセミネールの一環として、作家との講演会がパリ第四大学で開かれた。2022年には同研究者編集のもと新たな論集が刊行され、秋からは再びセミネールが開講された。同じく秋に、リヨン大学では文体を主題とした学術会議が開かれ、そこではウエルベックとの質疑応答の時間も設けられた。十数年前には、ウエルベック研究はフランス国外が中心であった状況と比べると、文字通り隔世の感がある。
 もちろん現在でもフランス国外でのウエルベック研究は盛んであり、英語圏、ドイツ語圏では学術論集や数多くの論考、単著での批評書が出版されている。こうした活況のもと、日本でも2022年には雑誌特集として『Rebox:特集ウエルベック』第三号がメルキド出版から刊行され、また待望であったエッセイ集『発言集』も白水社から刊行された。このような時宜に、ウエルベック特集号を編集できたことは研究者として大変名誉であり、それ以上にとても嬉しい。この場を借りて、本誌出版を提案していただいた東京都立大学・西山雄二教授に心からお礼を申し上げたい。
 学術誌である以上、本誌内容は必然的に論文集ということになる。執筆を依頼した方々は、すでにウエルベック研究で優れた論文を発表していたか、個人的に知己のある優秀な研究者である。何人かには専門外にもかかわらず快諾していただいた。手元に届いた原稿はどれも素晴らしく、本当に感謝の念しかない。また、打ち合わせで自然と決まった各人の主題も、まさにウエルベック研究というべき多様なもので、この点でも今回の執筆者に依頼できて幸運だった。この多様な論集のなかに、現在ではウエルベック研究の第一人者であるノヴァク=ルシュヴァリエの論文を訳出できたことは、研究者として非常に喜ばしい。他にも訳すべき論文は多くあるが、彼女の魅力的な論考を通じて、ウエルベック研究、ひいては現代文学研究の豊かさを感じていただければ幸いである。
 また、かねてから必要を感じていた、作家の略年譜と著作および関連書籍一覧も、未熟ながら編者が担当させていただいた。慎重を期して起草したものの、いずれも完璧な代物とは程遠い。個人的にデータベースの必要性を強く感じていたので、今後の研究者のために、そしてさらに完成度の高い資料を協力して作成できるようにとの願いをこめて、厚顔無恥の謗りを覚悟で掲載した次第である。
 以下、掲載論文について概要を示す。まず述べておきたいのは、ウエルベックにとっての詩の重要性である。それは作家が詩人として文学活動に参入したという事実や、ジャン・コーエンの読解をはじめとした複数のエッセイで詩を論じてきたこと、さらに小説作品にも頻繁に自作の詩や他の詩人の詩を引用してきたことからも明らかである。加えてウエルベックを論じる数多くの論文が、その主題いかんにかかわらず、詩作品をほぼ必ずといってよいほど参照していることも、詩がいかにこの作家にとって中心的な存在であるかを傍証しているといえるだろう。
 これまで、日本では数本の論文や評論文が発表されてきたが、編者の知る限り、詩について真向から取り組んでいるものはなかった。どれも優れた内容ばかりの論稿掲載順序は、したがって詩を扱う伊藤の論文からはじめ、その内容の連関からごく自然に以下のように定まった。

伊藤琢麻「詩と「苦痛」──ミシェル・ウエルベック『幸福の追求』を読む」
伊藤はまず、方法論たる『生きてあり続けること』の読解から出発し、ウエルベックの詩における形式(構造)と主題(苦痛)の重要性を確認する。次に、韻律構造に注意を払いながら詩集『幸福の追求』所収の詩篇の分析を行うことによって、属する世界に馴染めないという苦痛と、読者が介在するがゆえに生じる構造の揺らぎが明らかにされる。ここで発見された苦痛に対する対処法という観点から、伊藤はさらに「酔い」に着目し、ボードレールとの差異が論じられる。その差異とは、酔いによってすら誤魔化されることのない苦痛の表象の上に開かれる。この逃れがたさはどう解消すれば良いのか。伊藤は、改めて苦痛と構造の問題が交錯する詩を読解することで、ウエルベックの詩に含まれる矛盾を見出し、「苦痛から逃れる場所」を求める詩人の運動を提示する。

アガト・ノヴァク=ルシュヴァリエ「行方不明者──ミシェル・ウエルベックと消失の芸術」
ノヴァク=ルシュヴァリエはウエルベックの作家の立場という問題を、テクストに遡ることによって現実の作者と虚構という枠組みから解き放ち、芸術的な技法の次元にまで還元している。彼女はメディア的作家像を検討したのち、『地図と領土』における作家の登場を慎重に分析する。そこで明らかにされるのは、消え去るために登場するという奇妙な傾向である。これを現実の作家だけでなく、『生きてあり続けること』、『服従』と再び『地図と領土』の末尾という、まさに登場人物の消え去る場の読解に結びつけることで、ウエルベックにおける不在と存在の両義性を見事に論じている。

関大聡「テーゼの快楽と危険──ミシェル・ウエルベックと「新しい反動」論争をめぐって」
関は、新反動主義をめぐる2000年代初頭以降の論争を中心に、しばしば批判の的になるウエルベックのパブリックな言動を分析し、それと初期小説における作者の声の関係を論じている。この点で、『地図と領土』を中心に小説作品における作家の表象を論じたノヴァク=ルシュヴァリエの論文と補完的な関係にありつつ、別の視座を提示していると言えるだろう。「反動とは何か」、「ウエルベックの作品内外の言動がどの点で反動的と呼ばれるようになったのか」を丹念に確認しながら、関の論点は、作家を反動的と呼ぶ限り、その主な仕事の場である小説空間に作家の思想や声を聴き取ることは可能なのか、可能ならばどのようなテクスト的/理論的な正当性に基づいてか、と問いを進める。進歩と反動をめぐるセンシティヴな対立に向き合い、一面的な結論や価値判断を慎重に回避しながら、関の論文はウエルベックという一人の作家を通して現代における文学と政治の錯綜した関係を解きほぐそうとしている。

安達考信「ミシェル・ウエルベック『地図と領土』における郊外・機能主義建築批判再考」
安達は『地図と領土』の重要なモチーフである写真と地図について掘り下げることから論を展開する。これら複製芸術が問題となる『地図と領土』において、安達はさらにウエルベックの初期からの関心事項である建築に着目し、郊外に林立する機能主義建築への批判や、田園に移住した主人公と植物の生命力との出会いの意味を掘り下げる。これらが作り出す構図は、表面的には地図(複製)に対する領土(本物)の勝利という幸福な結末にもみえる。だが、安達は『地図と領土』執筆前後の時期のウエルベックの観光地にまつわる思想の変化を確認することで、この小説の読解をさらに深化させてみせる。そこであらわとなるのは、外国人観光客向けに再現された紛い物である田園文化と、土地に固有の記憶をもたない非−場所であるがゆえに、孤独な主人公たちの避難所以外の役割を担えない機能主義建築という、ウエルベックの小説に連綿する場の形象である。

長田千里「写真的記憶としての『セロトニン』」
長田はウエルベックにおける時間に対する空間の優位性を確認することで、『セロトニン』について興味深い読解を試みている。彷徨と疲弊の果てにこの小説の語り手が辿り着く部屋は、安寧の地というよりは孤独な都会生活の牢獄というイメージを喚起する殺風景な部屋である。その一部の壁に数多くの写真を貼り付け、語り手はそれを「フェイスブックのウォールのようなもの」と名指す。長田はそこに収められた被写体や写真の意味を考察しながら、この一種のアイロニカルな名称の空間を単なる自嘲に終わらせることなく、丁寧に小説との連関を掬い出し、さらにそこから浮かび上がる女性像という形象を問うている。それは小説に引用されるラマルティーヌ詩における女性像であり、ここで長田は再度、作品全体を踏まえて俯瞰しながら、『セロトニン』における喪失と忘却の彼方にある理想を問うている。

熊谷謙介「ネオ・ヒューマンは人間の夢を見るか?──ウエルベックにおける安楽死の誘惑と鎮静の技法」
熊谷は、現代において喫緊のテーマである安楽死という観点から、非常に広い視野で初期エッセイから最新長編『無化Anéantir』までを過不足なく読解している。枚数の都合上、各作品への読解は最小にとどまってはいるものの、そこで抽出されていく生の平坦さ、相続、消尽、憧憬と超脱といったモチーフには説得力がある。さらに作品に繰り返し描かれる生の苦痛に注目することで、鎮静をもたらす観照という態度を読解する。これを踏まえての、作品全体で変容しているのは観照される側の世界の方であるという指摘は、現代の観察者的作家であるウエルベックを別角度から裏付けることにもなるだろう。だが、熊谷はそこで止まることなく、『無化』の発想源のひとつであるエッセイの記述に着目することで、安楽死とは一見関係のない夢の表象に言及し、論の射程そのものの広がりを予告している。ウエルベックにおいて、死にまつわる苦痛の問題はここで詩的問題に接近するのである。

西村真悟「ミシェル・ウエルベックの小説における死を否定する試みとその失敗」
西村は先行研究を下敷きに、主に『素粒子』から『地図と領土』までの長編小説における、唯物論と死の問題を綿密に検討している。ウエルベックにおいて、死とは臨終の恐怖として表象されることは少なく、登場人物たちが恐れるのはむしろ老化である。取り上げられた先行研究はその理由を唯物論と結び付け、「今まさにこの瞬間自分が死にかけている」という意識を問題にしている。しかし西村は各作品における個々の死の表象に立ち戻る。『素粒子』から『ある島の可能性』までの死の表象は愛の試練として捉え直され、ここから西村は作品ごとにその試練に立ち向かう姿勢を見出す。これは唯物論的世界観への抵抗とも重ね合わせて考察される。この読解によって、ウエルベック作品におけるある種の連続性が発見され、その抵抗の頂点としてネオ・ヒューマンという未来人の形象が再発見されるとともに、ウエルベックのある種の限界点が指摘される。

八木悠允「エッセイスト・ウエルベック? 『発言集』への注釈」
八木は『発言集』の収録テクストに関する疑問を出発点に論を進めている。まず収録テクストの整序を確認することで、作家の時間への関心の薄さを指摘する。次に、一部の収録テクストの執筆背景や掲載雑誌に言及することで、収録されたテクスト間の質的差異を問おうとする。結果として、この差異はテクストの実験性に帰されることになり、論点は『発言集』収録テクストの周縁性に向けられることになる。八木は周縁・余白を意味するフランス語margeに焦点を当てることで、小説の素材としてのテクストの意義を問いただすと同時に、『発言集』がエッセイというジャンルからいかに距離を取ろうとしているかを論ずることで、タイトルであるInterventionsの意味を、作家の創作態度の次元にまで拡張しようとしている。

 以上、詩論から実証的研究まで、本当に幅の広い切り口の論集となった。これはミシェル・ウエルベックという作家の豊かな複雑さを示唆すると同時に、危うさも示していると思われる。それは、しばしば言及されるように、ウエルベックという作家の文学における──とりわけアカデミックな意味での──位置決定の困難さである。その危険を承知しながらも、実り豊かな論文を執筆していただいた執筆陣、並びに論集出版を実現していただいた東京都立大学・西山雄二研究室にはあらためてお礼申し上げる。