Limitrophe(リミトロフ)
東京都立大学・西山雄二研究室紀要
ISSN 2437-0088
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No. 1、2022年、全220頁

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目次

創刊の辞 西山雄二

巻頭言 西山雄二

特集 カトリーヌ・マラブー『抹消された快楽』 
郷原佳以「非性器的なセンシュアリティのために」
中村彩「フェミニズムと精神分析、およびスピヴァクにおける女性器切除について」
カトリーヌ・マラブーの応答(西山雄二、渡名喜庸哲、馬場智一 訳)
古怒田望人「『抹消された快楽』において抹消されるトランスの快楽」
浜崎史菜「「哲学」を可能にする「外部」──クリトリスを父権的言説内に包摂し特権化するリスクの再考」
杉浦鈴「本質主義への危険な接近」
丸山美佳「抵抗と消費とアスタリスク」

特集 カトリーヌ・マラブーの可塑性の哲学
星野太「「生」の概念」
佐藤朋子「トラウマとは何の名か──『新たなる傷つきし者』」
宮﨑裕助「理性の後成説と統制的理念──『明日の前に』」
小川歩人「セクシュアリティの他者、アナーキズムの対抗概念」
藤本一勇「クリトリスのノミネート(命名・指名)──『抹消された快楽 クリトリスと思考』」
増田一夫「人新世における可塑性」
鵜飼哲「喪の可塑性と来たるべき世界史」
カトリーヌ・マラブーの応答(西山雄二、渡名喜庸哲、馬場智一 訳)
  
特集 フランスにおけるインターセクショナリティ批判
ファヨル入江容子「フランスにおけるインターセクショナリティ(交差性)の受容と新たな社会運動としての発展」
エリック・ファッサン「レイシズムとは何か──係争中の定義」(ファヨル入江容子 訳)
西山雄二「無条件の自由のために」

翻訳
カトリーヌ・パンゲ「束の間の時で死すこと、あるいは不滅のために唄うこと
(ジャン・ジュネとパレスチナの抵抗)」(西山雄二、佐藤勇輝 訳・解説)
デヴィッド・L・クラーク「翻訳における遺失物取扱所──ロマン主義とジャック・デリダの遺産」(森脇透青 訳・解説)
ブリジット・ウェルトマン=アーロン「政治的な裏切り──エレーヌ・シクスー『偽証の都市』」(北川光恵、西山雄二 訳・解説)

論考
八木悠允「ミシェル・ウエルベックの散文におけるポワン・ヴィルギュル」
志村響「「以外」のフランス語」
高波力生哉「署名の謎についての一考察──『シニェポンジュ』におけるépongeを手がかりに」


創刊の辞 西山雄二

 Limitrophe(リミトロフ)── フランス語の形容詞で「辺境の、国境の、隣接した」を意味する言葉。その由来はラテン語limes(境界、国境)とギリシア語trophos(養うもの)で、元々は「国境守備兵に割り当てられる土地」を指し示した。

 哲学者ジャック・デリダは1980年代に新たな研究教育制度・国際哲学コレージュを構想する際、この形容詞からlimitrophie(隣接性)という名詞を考案したことがある。すでに流通していた「学際性(interdisciplinarité)」が既存の学問領域間の横断的な共同であるとすれば、「隣接性(limitrophie)」の方は既定の境界線を問いに付しながら、それぞれの学問領域の固有の前提を問題視し、その困難や限界が示されるようにするという。ほかにもデリダは動物論のなかで、人間と動物の境界を指し示すためにこのlimitrophieという表現を用いている。人間と動物の階層秩序的な関係を問い直すべく、両者の相違を生み出す深淵状の閾をこの表現で指し示した。

 境界線は通常、内と外を寸断し、自分の領野を確固たるものとする。自と他、内と外、私と公など、境界線がつくり出す関係性はいたるところにある。境界線は明瞭な分断線として、自己を形成し、内部を構成し、私的空間を守るものだが、では、境界が養分を育み、成長を促すとはいかなる事態だろうか。それは内外を分ける鋭利な分断線ではなく、厚みのある可塑的な閾だろうか。limitrophe(リミトロフ)という言葉はそんな想像力を与えてくれる。本誌のタイトルとして、この魅力的な言葉を選んだ理由である。

 学部や学科の紀要ではなく、本誌はあくまでも大学院生との共同で刊行される個人研究室の紀要なので、さほど厳密に投稿の資格や条件を定めていない。私が専門とする現代フランスの思想や文学、フランス社会の今日的な問題、翻訳テクストの公刊などがゆるやかな指針となるだろう。国際標準逐次刊行物番号(ISSN)を取得し、東京都立大学の図書館リポジトリ「みやこ鳥」でも公開されるので、一定の学術的水準の紀要製作に真摯に取り組む。

 本誌では、東京都立大学の大学院生に限らず、私が研究交流する範囲で他大学の院生や若手研究者らとも共同していく。そもそも、都立大のフランス文学教室に大学院生が少ないという事情はある。ただそれだけでなく、志を共有する(と思われる)人々と雑多に共同作業をするスタイルがかねてから性に合っているからだ。見知らぬ他者との出会いの強度こそが、研究教育活動にとって重要な原動力をなす。若手研究者には成果公表の機会を提供するだけでなく、なるべく謝金を捻出するように努めてきた。大学院生の困難が語られて久しい。ささやかながら、若手が研究成果を公開することができ、報酬が得られる場を提供したい。

 遠い昔、父が二階の屋根の空いたスペースに仕事部屋を増築したのは、私が自分の部屋をもらったばかりの小学校高学年の頃だったように思う。完成した十畳ほどの部屋にはモダンな巨大テーブルが置かれ、ゆったりした椅子が六脚用意された。壁面は天井まで棚が設えられ、仕事の書類や本でびっしりと埋まっていた。子供ながらに驚いたのは、反対側の壁に大きな黒板が据え付けられたことだった。

 この仕事部屋は要するに会議室として、同僚たちと協同作業をするために新設されたのだった。実際、父は何人かの同僚と一緒に車で帰宅して、この部屋で議論を続けることがあった。遅くまで協同作業は続き、夜が更けると歓談が始まる。あらかじめ出前の寿司が人数分用意されており、お酒やつまみとともに振る舞われた。

 自分の家になぜ仕事場をあえてつくらなければならないのか──幼な心にそんな疑問を強く抱いたものだった。父はただでさえ仕事に没頭していて、帰宅はだいたい夜九時頃だった。夕食を一緒に食べた記憶がほとんどない。週末は同僚らと飲みに行き、深夜まで帰宅しなかった。会社でできる仕事を、居酒屋でできる歓談をなぜ会議室をつくって自宅でやらなければならないのか。せっかく自分の部屋が得られたのに、あいにくこの会議室が隣だったため、大人たちの声が騒がしくてひどく迷惑だった。

 ただ、すべてははるか遠くのぼんやりした思い出。
 会議室が使われたのはほんの数年だった。

 小学校六年生の卒業を間近にした三月のある早朝、父は激しい頭痛で叫び声を上げた。「救急車を呼んで! 今日の東京への出張はキャンセルに……」。父は救急車で運ばれて集中治療室に入った。病気とは無縁でずっと元気な彼だったから大丈夫だろうとみな考えていた。あとで知ったことだが、脳内溢血で頭中に血液が充満したらしい。数時間後に父の姿をみて私たちは驚愕した。言語障害となり、赤子のような喃語しか話せない。半身麻痺になり、ゆっくりとしか身体を動かせない。酒と煙草の不摂生な生活、過度の仕事などによる高血圧が原因の突発的な事故だった。父は仕事を辞めた。彼はちょうど仕事盛りの四十代後半で、熱心な仕事ぶりから出世も期待されていた。病気のあとも頭脳は問題なく働いて、新聞やテレビを理解することはできた。明晰な頭脳にもかかわらず、赤子ほどの言語能力と身体の不自由。そんな中途半端な状態で自宅で一日中過ごさなければならない生活は彼にとって屈辱的で、無念だったにちがいない。

 大人たちの姿が消えた会議室は母が内職をする作業場となった。ミシンが設置され、いくつもの布地の在庫置き場となった。父は身体が次第に衰えていき、知的な理解や判断が鈍くなっていったが、なんとか十年間生き延びた。私が大学生の頃、二度目の手術を受けたものの容態は悪化した。植物状態に陥り、物言わぬ者となった。皮肉な巡り合わせだが、この時期、病室で昼夜付き添うことで、沈黙したままの父ともっとも長い時間を一緒に過ごすことができた。それから数ヶ月が経ち、別離を告げるもっとも適切な時機を見計らっていたかのように、その意識のない生体はついに呼気を止めた、母の誕生日に。
 彼の死の瞬間、私は〈奇蹟〉を信じる者となった。

 「雑誌をつくりたいのですが……」。大学院生らから突然こうもちかけられたのは、2021年9月半ばだった。本学のフランス文学専攻には大学院生による紀要があるが、書き手不足のため、刊行は数年間途絶えていた。また、紙媒体での刊行には、参加する院生がある程度の資金負担をしなければならない。そこで、私の個人研究室紀要として、オンライン・ジャーナルの形式で刊行するのが中期的にみて無理のない方法であるという結論に至った。方向性が決まると、準備が次々に進み、書き手が累乗的に増えていき、企画が膨れ上がった。東京都立大学の西山研究室に限定せず、方針や企画に準じるかぎりにおいて、今後も広く執筆者・翻訳者と協同していきたいと考えている。

 そんな自分の仕事の仕方をふと振り返ってみると、父の振る舞いと似ているかもしれないと感じるときがある。学生とのフランス研修旅行を自主的に企画して、これまで計9回、のべ50⼈の学生とフランス各地で濃密な異文化体験をしてきた。ドキュメンタリー映画「哲学への権利」を製作して、世界 11 ヶ国でのべ 68 回上映をおこない、大学や人文学の今日的課題を問う討論会を併催した。本学だけでなく他大学の院生も含めて若手研究者らに翻訳の仕事を依頼し、その添削に携わってきたが、そうした共同作業はこれまで著作・論文で60本以上になる。新型コロナウイルス感染症が拡大してからはとくに動画製作に力を入れ、学術セミナーのアーカイブ公開のより良いスタイルを模索している。要するに、組織内での定型的な仕事に甘んじることなく、もっとも効果的で刺激的な形式での研究教育活動をその限界で探求する試みだ。既存の制度を活気づける余分な場を誰かとともに創り出すスタイルが気に入っている。

 ぼんやりした直感だが、あの会議室は父にとって、limitrophe(リミトロフ)のようなものだったのではないか。自宅でも会社でもない、私的でも公的でもないような場が設けられて、儕輩(せいはい)が集っていたのだろう。そうした境界的な活動こそが、会社と家庭、仕事と私生活を突き動かし、その両方に活力を与えていたのだろう。

 父の没年と同じ年齢が近づいてきた私はいま、あえて夢想する

 あの不自由で不明瞭な喃語にさまざまな声調の彩りを加えて、
 多種多様な言葉を通わせること
 あの麻痺した半身に躍動する生命力を与えて、
 見知らぬ光景を探すべく出立させること
 あの空っぽの仕事部屋に志を同じくする人々を歓待して、
 協同作業の活気を取り戻すこと
 Limitrophe(リミトロフ)──
 養分をみずから育むことで、限界を生成させ、
 成長させ、複雑にする深淵状の境界で


2022年3月20日 西山雄二

巻頭言 西山雄二


 雑誌の創刊号は往々にして力の入った内容になりがちだが、本号も当初の予想をはるかに上回った充実した仕上がりとなった。「雑誌をつくりたいのですが……」と大学院生らから言われたのが2021年9月半ばだったが、そこから破竹の勢いで準備が進み、企画が膨れ上がった。原稿や翻訳を引き受けて、短期間で完成させてくれたみなさんに心より感謝する次第である。

 二つの特集はフランスの哲学者カトリーヌ・マラブーに関するものである。2021年9月10日、「カトリーヌ・マラブーの哲学」がオンラインにて実施され、マラブー本人を交えて議論がおこなわれた(主催:脱構築研究会、共催:日仏哲学会、後援:東京大学「共生のための国際哲学研究センター」(UTCP)、助成:東京都立大学)。

 第一特集ではカトリーヌ・マラブー『抹消された快楽──クリトリスと思考』(西山雄二・横田祐美子訳、法政大学出版局、2021年)をめぐる郷原佳以氏、中村彩氏による合評会の記録が収められている。また、古怒田望人、浜崎史菜、杉浦鈴、丸山美佳の各氏には書評の形で文章を寄せていただいた。『抹消された快楽』に対する批判的な注釈も記されていて、訳者として多くのことを勉強させていただいた。クリトリスという身体器官を特権視することの危険性、トランス男性の実存が不可視化されている問題など、本書の限界が的確に示され、さらなる議論の広がりが明らかになった。

 第二特集の「共同討論 カトリーヌ・マラブーの可塑性の哲学」では、マラブー哲学全体について7名との討議が記録されている。哲学、精神分析、脳科学、ジェンダーなど議論は多岐にわたっており、マラブー思想の多面性を理解することができる。それぞれのコメントと質問に対して、マラブー氏は真摯に考え、ときに戸惑いつつも、丁寧に回答を寄せてくれた。

 第三特集「フランスにおけるインターセクショナリティ批判」では、現在のフランスにおける保守反動的な思潮に関する文章を収録している。脱構築、インターセクション研究、ポストコロニアル研究、ジェンダー研究などがひとまとめにされて、フランスの共和主義を揺るがす知的脅威とみなされる。イスラーム主義と粗雑に結びつけられ、フランスの普遍主義に対する深刻な危機として解釈される。嘆かわしい状況にも映るこうしたフランスの知的動向について、ボルドー在住のファヨル入江容子氏に適切な文章を書いていただき、歴史的・社会的文脈を十全に解き明かしてもらった。

 翻訳については、若き大学院生らに自分の研究テーマに応じて論文をいくつか選出してもらった。西山から著者に連絡をして、許可が得られた論考を翻訳し掲載している。カトリーヌ・パンゲ、デヴィッド・L・クラーク、ブリジット・ウェルトマン=アーロンの各氏には依頼メールに対して即答で翻訳の快諾をしていただいた。鵜飼哲氏にはパンゲ氏への連絡の労をとっていただいた。Johns Hopkins University Pressには迅速に翻訳を許可をしていただいた。翻訳テクストにとって解説は重要で、読者の理解の助けになるし、そもそも訳者自身の勉強になる。今回はいずれも力のこもった訳者解説を寄稿していただいた。関係者各位には心より感謝申し上げる。

 八木悠允氏には長大なウエルベック論を書いていただいた。長年ウエルベック研究を積み重ねてきた八木氏だが、数々の先行研究を参照し、フランス語におけるポワン・ヴィルギュルの歴史を踏まえた上で濃密な議論を展開している。
 志村響氏は大学在学中の2015年に東京都国分寺市で語学塾こもれびを開設し、英語とフランス語などの学びの場を提供してきた。こもれびは2021年末に閉塾したが、この機会に、5年以上にわたって彼がこの独特の場で教えてきた経験と学識が詰まった文章を書いていただいた。
 表紙と目次のデザインに関しては、北川光恵氏に協力していただき、納得のいくデザインに仕上げることができた。

 以上が創刊号の内容である。半年間での製作にもかかわらず、予想を超えて重厚な号に仕上がったことを本当に嬉しく思っている。関係者のみなさんにはあらためて心からお礼申し上げる次第である。