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西千葉時代

 JR総武線各駅停車の西千葉駅の目の前に、千葉大学西千葉キャンパスの正門がある。ここには工学部や文系学部が入っている。なお、医学部や有名な造園学部はそれぞれ別のキャンパスにある。宇都宮と較べると、距離的には東京都心にずっと近づいたのだが、時間で言うと例えば田町の建築会館までは1時間半近くかかり、新幹線利用の宇都宮とたいして変わらなかった、というのが正直な感想である。

 私が千葉大学工学部建築学科に在職したのは、わずか1年3ヶ月という短い期間ではあるが、野口博先生や多くの学生さん達と大変に有意義な研究生活を過ごすことができた。野口先生は梅村・青山研究室の先輩で、RC構造の有限要素解析では第一人者であったので、とても多くのことを教えていただいた。

 野口先生は大変な新しもの好きで、NECの最新のパソコン(98シリーズ)が発売されると真っ先に購入して、ご自分で触らないと気が済まない、という方であった。野口研究室の学生さん達も全員がRC構造を研究しており(当たり前ですが、宇大ではひとつの研究室で鋼構造、振動、RC構造と一切合切を研究していましたので)、皆と議論できることが嬉しかった。

 野口先生のオフィスは工学部棟にあったが、野口先生を始めとして野口研究室の学生や私は大型実験棟の2階に居を構えて常駐した。大型実験棟は西千葉キャンパスの正門からすぐのところにあり、隣は東大生研の西千葉実験場である。実験棟の1階にはオペレータ室があって、アクチュエータの操作はその部屋から行うようになっていた。現在の野口研では全ての研究をFEM解析によって行っているようだが、当時は実験もたくさん実施した。十字形の柱梁部分架構の実験や、鹿島建設技研との共同研究である高強度コンクリートを用いたRC柱の曲げせん断実験などである。

 十字形柱梁部分架構の実験は、大学院生の柏崎隆志くん(現千葉大学野口研助教)がチーフとなって行ったものだが、私は試験体の入れ替え作業や加力の際の立ち会いなどをした。真夜中に加力したりして、朝になって野口先生が登校されると既に試験体が破壊している、ということもしばしばであった。

 鹿島との共同研究では、技研の丸田誠さん(野口研OB)がカウンターパートとなり、丸田さんとの公私に渡るお付き合いがこのときから始まることになる(注1)。鹿島では角形と丸形のフープを組み合わせて高強度材料を用いるRC柱を開発していて、高軸力が作用するときのせん断強度を実験によって検討する、というのが課題であった。試験体の設計、加力装置の設計そして実験を野口研で担当した。ちなみに学生側の主担当者は、大学院生の二村有則くん(現鹿島建設技研)であった。

 載荷は大野式の逆対称曲げせん断加力とし、RC柱を水平にセットして圧縮軸力を導入することにした。ところが導入する軸力が200tonfほどと大きかったため、軸力用ジャッキの反力をとるためのフレームが大げさなものになってしまった。そのための鉄骨部材は全て鹿島技研にあるシステマティックなものをお借りして据え付けた。試験体は十体くらいだったと記憶するが、ひび割れ図や復元力特性のグラフを大型実験棟2階の輪講室で机いっぱいに広げて、二村君たちとあれこれ議論したものである。

(注1) この共同研究のあいだに、丸田さんからは高層RC建物の耐震設計について、いろいろとご教示いただいた。「なるほど、そういう風に考えるのか」と感心したことも一再ならずであった。また私が東京都立大学に移ってからは、技研と地理的に近くなったこともあり、鹿島のRCスーパーフレームの開発に関わる実験研究(H型断面耐震壁のせん断およびねじれ性状に関する実験)、およびプレストレスト・コンクリート建物の耐震性能を検討するための実験研究をご一緒することになった。特に後者の共同研究は、北山研究室でプレストレスト・コンクリート構造に本格的に取り組むようになる発端となった研究であり、契機を与えて下さった丸田誠さんには今も大いに感謝している。

 遊びでは、折に触れた飲み会はもとより、八方尾根にスキーに行ったり、合コンに呼んでもらったりした(独身時代の話しですが、えへへっ)。ご存知の方には周知の事実だが、丸田さんは大変にダンディな方で、また大いに女性にモテるという羨ましい方ではある。このようにかれこれ20年近い付き合いの丸田さんではあるが、最近はお互いに忙しいこともあって、なかなかお会いできないのは残念なことである。---(注1)おわり ---

 野口研では月に一回、実験棟でバーベキュー・パーティを開いて、そのあとは野口先生ご自慢のLD(レーザーディスク)カラオケを持ち出して実験棟で大騒ぎした。野口先生の凝り性はこんなときにも大いに発揮されて、焼き肉の買い出しに学生を引き連れて自ら出掛けたり(そんなとき私は「留守番してまーす」と言って実験棟でサボっていたものだ)、新しいLDをたくさん買い込んできて学生に自慢したり、と大忙しであった。

 私は建築学科の助手なので、学科の仕事も幾つか担当したが、そのなかで建築学科の1年生から4年生までが製図室に一堂に会して飲み喰らう、という年に一度の大懇親会があった。大いに盛り上がって楽しかったのであるが、調子に乗りすぎたせいか、ある1年生が急性アルコール中毒になってしまい、救急車を呼んで病院に搬送するという事態になった(ちなみに酔っぱらった状態で救急車に乗ったのは三度目であった)。野口先生と二人で救急車に便乗して稲毛の病院までついて行ったのである。幸い大事には至らなかったが、現在であれば相当なお目玉を大学当局から頂くところであろう。この頃はまだ飲酒に対しておおらかだったのか、何のお咎めもなかった。

 この頃、中国・青島の張連徳先生が半年間の短期留学で野口研に滞在されていた。張先生はアメリカ・テキサスのJ.O.Jirsa先生のところで柱梁接合部に関する論文を書いておられたので、RC柱梁接合部についていろいろと議論できて有益であった。張先生が中国に帰国されるとき、野口研究室の学生達と秋葉原で購入した電気製品(何だったか忘れた)を記念にお贈りしたときにはとても喜んでいただいた。また研究生として内田和弘さん(フジタ技研)が野口研に在籍していたが、彼は高校の先輩であることが後に判明した。

 この頃の千葉大学建築学科には都立大学と同じように夜学があって、夜の授業のためにおいでになる非常勤の先生のお手伝いをする、という仕事があった。また、3年生後期には構造実験があって、大型実験棟にテンタティブの載荷装置を組み立てて、S梁、RC梁およびSRC梁を学生さん達と一緒に破壊させた。建築学科には女子学生も多かったので、かなりの女性が構造実験を履修していて実験棟に足繁く通ってきたが、野口研の卒論生の村端豊蔵くんがその度に「○○さんって、かわいいなあ」と言っては目をハート形にさせていたことをよく憶えている。

 このように日々楽しく野口研究室で過ごしていたが、夏頃であったろうか、東京都立大学の西川孝夫先生からお電話をいただいて、全く思いもかけないことを聞かされた。それは都立大学建築学科に講師として来ないか、というものであった。私は千葉大学に転任したばかりであったし、これから野口先生とともにいろいろ研究しようと思っていた矢先であったので、正直言って面食らったのだ。野口先生ご自身も、はじめて自分で選んだ(しかもRCを専門とする)助手を持つことができ、これからいろいろやって行こうというビジョンを描かれていたことと思う。

 そんなこんなを慮るとき、はいそうですかと言って都立大学へ移ることには躊躇せざるを得なかった。しかしポジションが上がって自分の研究室を持てる、というのは魅力的であった。西川先生から、都立大学はキャンパスを移転したばかりでこれからガンガン実験できるぞ、と誘われたことにも大いに食指を動かされた。

 随分迷ったが村上雅也先生に相談して、都立大へ移ることを決心した。村上先生の研究室で一晩中お酒を飲みながら(注2)、村上先生はいろんなことをお話しされた。私は「いま移ることは、ひととしての仁義に反する」という旨のことを言ったと思う。そのとき結局、村上先生はこう仰ったのである、「あなたは都立大学へ移りなよ。ポジションが上がることを優先させた方がいいだろうね。ポジションがひとを作るって言うからな」と。ちなみに村上先生も梅村・青山研究室の先輩である。このとき村上先生からいただいたお言葉は、私の脳裏に焼き付けられた。そして私も将来、私のもとにひとを得たときに村上先生の仰るように行動できたら、と思うようになったのである。

 野口先生からは、その後、ありがたくもお許しをいただいた。こうして私は多くの先輩のご配慮とご好意のお陰で、今日あるを得た。いつも言っているが、研究室の先輩とは本当にありがたいものである。

(注2)村上先生の研究室には常に、一升瓶が半ダース入る木枠が置かれていた。村上先生は大学においでのときには毎晩、研究室でお酒を飲んではそのまま泊まり込む、という生活を送られていた。先生のお酒のお相手をするのは建築の先生方だけでなく、工学部や他学部の先生方も大勢いたようである。

 青山博之先生から、研究に関して厳しい叱責のお手紙をいただいたのも千葉大時代である。青山先生がRC柱梁接合部に関する三国セミナー顛末記を建築雑誌に寄稿されることになり、その原稿を野口先生と私にお見せになって、意見等があったら文書で渡すように、との依頼を受けた。私は柱梁接合部に関する研究で青山先生から工学博士の学位を頂いたばかりであったから、幾つか質問等をさせていただいた。そのなかにRC部材のせん断抵抗に関するものがあったが、私の浅学のためにそれは間違った指摘であったのだ。

 そのことに対して、青山先生からきついお叱りの手紙をいただいた。私は大変に恥じ入ったが、実は嬉しくもあったのだ。いただいたお手紙の内容は、私をRC柱梁接合部研究のトップランナーのひとりとして認めていただいた上で、RC構造の研究者として知っておかなければならない素養を厳しく問う、というものだったからだ。博士を取って慢心していた、という訳ではなかったが、どこかで油断があったのだろう。以来、ときどき自戒の念を込めて、青山先生からのお手紙を取り出しては眺めたりしている。

 こうして私は1992年3月31日付けをもって千葉大学を退職した。これは同時にジャスト4年間勤めた国家公務員からの離脱でもあった。翌日からは地方公務員として、東京都立大学に勤務することになる。



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