トップページ > 北山研ヒストリー> 北山研での研究:2000年

 この年、4人いた卒論生のうち小坂くん独りが大学院に進学した。卒論生として加藤弘行くんと中沢薫くんがやって来たが、このうち中沢君は残念ながら途中で卒論をリタイアしたので、結局卒論生は加藤君ひとりとなった。人数が減って、寂しくなった感じであった。

助手 岸田 慎司(きしだ しんじ)
D2 森田 真司(もりた しんじ)
M2 白山 貴志(しらやま たかし)
   細野 具貴(ほその ともたか)
M1 小坂 英生(こさか ひでお)
卒論 加藤 弘行(かとう ひろゆき)

1. 日米共同ワークショップ in 札幌

 東大地震研究所の壁谷澤寿海先生をヘッドとする、文部省科学研究費補助金特定領域研究(B)「日米共同研究による都市地震災害の軽減」の計画研究課題(2-1)「性能基盤型設計法の開発」(課題番号:11209203、代表者:壁谷澤 寿海)の一環として、日米ワークショップが1999年より実施されるようになった。ところが1999年のワークショップ(9月にハワイで開催された)は、トルコ・コジャエリ地震の被害調査の時期とちょうど重なって、壁谷澤先生や塩原等さん、田中仁史先生、私などは参加できなかった。

 第2回となる今年の日米ワークショップは北海道の札幌で開催されることになり、私は1999年度に田島君と実施したRC柱梁接合部実験の研究成果を以下のタイトルの論文(12ページ)にまとめて発表した。

Kazuhiro KITAYAMA, Yuji TAJIMA, Makoto OKUDA and Shinji KISHIDA
 “Influences of Beam and Column Bar Bond on Failure Mechanism in Reinforced Concrete Interior Beam-Column Joints”

 ワークショップなので2〜3日間、会議室に缶詰になって論文発表と討論が行われた。もちろん英語である。皆さんよくご存じのように私は英会話が苦手なので、これらの発表・討論には筆舌に尽くし難い苦労を伴った。ぶっつけ本番で発表する、などという小谷先生のような芸当はできるはずも無く、発表用の原稿を作って、ひとり壁に向かってブツブツと一所懸命に練習した。発表の際には勿論原稿など見ない。しかし、ときには次に言うべき英語が出て来なくて立ち往生、なんてこともあった。

 発表はそれでまあ、何とかなっても、質疑応答になるとこれはいかんとも為し難い。回りにいる先輩がたや参加者に助けていただいて、冷や汗をかきながら何とかこなした、といった感じである。私の発表のセッションでは、英語の堪能な河野進さん(京都大学)が司会をしていて、助けてもらったことをよく憶えている。

 札幌でのワークショップが終わって、やれやれこれで東京に帰れると思って千歳の空港に行ったのだが、九州での台風のせいで飛行機のやりくりができずに出発が遅れに遅れて、羽田到着は日付が変わって翌日の午前1時過ぎであった。天気晴朗の札幌で、九州の台風の直撃を受けるとは思わなかったが、よく考えれば飛行機は日本列島の北から南まで飛んでいるので、日常的に生じる出来事なのだろう。

 このときは小谷先生も同じ飛行機であった。終電を過ぎていて電車が無いので小谷先生が二人でタクシーで帰ろうか、と言って下さったが、日本航空が乗客全員のタクシー代を持つ、ということになったので、別々にタクシーで帰宅した。ただ、何せジャンボジェット機一機に何百人と乗っているので、羽田空港のタクシー乗り場は予想通りの長蛇の列で、タクシーにもなかなか乗れず、もう散々なワークショップであった。タクシーの運ちゃんが無線で「羽田にはまだまだお客が沢山いるよ」と仲間のタクシーに呼びかけていた。

 なお、この日米ワークショップはこの後、2001年にシアトル、2002年に鳥羽、2003年に箱根、と開催されることになる。この4年間はこのワークショップのために毎年英語の論文を書き、英語で質疑応答したことは非常によい経験となった。毎年英語で発表していると、それなりに上手くなったようにも思う(自分の思い過ごしかも知れません、あはは)。

 最後の箱根のセミナーで市之瀬敏勝先生(名古屋工業大学)から、「いやあ、北山さん上手くなったね」とお褒めの言葉をいただいたときには、正直嬉しかったなあ。アメリカ側の耐震設計法や耐震補強法についてもいろいろと知ることができて、大いにためになった。アメリカ側の代表者であったJ.Moehle(ジャック・メリー)先生(UCLA)は、いつもゆっくりとした丁寧な英語でお話しして下さり、とても感謝している。

2. 苦い教訓 〜RC立体骨組実験の顛末〜

 西川孝夫先生の科研費(基盤研究B)によって、RC立体骨組の柱梁接合部パネルあるいは柱部材がせん断破壊するときの、一方の挙動が他方のそれに与える影響を検討するために、立体の不静定骨組を用いて静的載荷する実験を計画した。いわばせん断破壊の部材間における相互作用、である。

      

   図 試験体のポンチ絵(森田くん作図)

 これは図のように、隅柱および中柱のあいだにFull-span beamが付き、さらに直交方向に半スパンの梁がそれぞれの柱に取り付く、という今までにない複雑な形状の試験体であった。二本のRC柱にはそれぞれ別個に軸力および二方向水平力を作用させる必要があるため、大型実験棟にあった三軸一点クレビス2基を用いることにした。ただし、この2基のクレビスは形状や寸法が異なるため、試験体の寸法等はさらに面倒になった。

 また加力用の100tonf串形ジャッキが不足したため、新たに2台を購入した。たいそうな金額であったが、これを可能としたのは西川科研費のお陰である。立体試験体は接合部パネル破壊型と柱せん断破壊型との2体であるが、比較用に平面の十字形およびト形柱梁接合部試験体、さらに単独のRC柱試験体が作製された。相当に大掛かりである。

 でも、これだけではない。この立体試験体は不静定骨組なので、二本の柱のあいだにあるFull-span beamに作用する軸力およびせん断力を測定することが不可欠である。そこで、勅使川原正臣さん(当時、建設省建築研究所)の工夫を参考に、Full-span beamの反曲点位置に鋼製の分力計(Force Transducer)を挿入して軸力およびせん断力を測定することにした。

 そのための分力計は白山貴志くんと一緒に設計して、本学の地下1階の工作施設に依頼して作って貰った。鋼の塊から削り出しで作った、下駄が向かい合ったような形である。下駄の歯部分にひずみゲージをたくさん貼って、その出力から軸力とせん断力とを計算によって求めようというものである。

 この分力計がちゃんと機能するかどうかを確認し、あわせてRC梁の中央部分に分力計を挿入したことの影響を確認するために、分力計を挿入するためのRC梁試験体と、それと同一諸元のmonolithicなRC梁試験体とを作製した。

 これだけ大規模な実験をひとりの大学院生に担当してもらうことは不可能なので、北山研M2の白山貴志くんのほかに西川研M2の石井健次くんにも参加してもらって、彼の修士論文にすることとした。

  

  写真 鋼製の分力計を試験体に組み込んだところ

 試験体の作製は入部工業に依頼したが、試験体が大規模なため本学の実験ヤードにおいて、組み立ておよびコンクリート打設を行った。しかし研究進行上の時間的余裕は全くなく、分力計の性能確認のためのキャリブレーションを建築実験棟のBRIフレームを使って実施し、その後、立体骨組試験体の載荷を始めたのは、年が明けた1月になってからであった。雪の降る寒い日に加力していた記憶がある(写真も残っている)。これでは修士論文を執筆するために実験結果をまともに検討する時間もなく、担当した白山・石井の両君には気の毒なことをしたと思っている。

  

  写真 雪の南大沢キャンパス

 付随した平面柱梁接合部試験体や単独RC柱試験体の載荷実験も間に合わなかった。この積み残しは翌2001年度に森田君をチーフとして実施することになる。ただ、主担当だった白山・石井の両君が修士課程を修了して出て行ってしまったので、この研究の成果を査読付き論文にまとめることは出来なかった。

  

  

   右側がチーフの白山貴志くん、左は岸田慎司助手

 この研究の特徴のひとつだった分力計についても、その出力から得られた物理量の検討が思うように進まず、かろうじて森田君にAIJ大会梗概1編(2002年)を書いてもらうにとどまったのは、非常に残念なことであった。これだけの実験研究の成果をたった2枚の梗概にまとめることにそもそも無理があり、建築学会大会で森田君が発表した際に、千葉大学の野口博先生から「たいそうな実験をやったことは分かるが、加力方法すら説明されておらず、これでは内容を全く理解できない」という至極当然のご指摘(苦言でしょうな)をいただいたのであった。

 研究を担当する学生さんが実験結果を検討するための必要十分な時間を取れるように実験・研究計画を立てること、これがこのような顛末の残した苦い教訓だと思っている。

3. 連層鉄骨ブレースで補強したRC立体骨組の非線形漸増載荷解析

 1999年度の卒論研究で福島君が残してくれた、鉄骨ブレースをRC骨組に組み込んだときのモデリングを用いて、いよいよ多層多スパン立体骨組の非線形漸増載荷解析に取り組むことになった。担当は卒論生の加藤弘行くんとした。

 この人選は結果的には大成功で、加藤君はこの後大学院に進み、連層鉄骨ブレースで補強したRC建物の地震応答解析、さらには連層鉄骨ブレースで補強した2層3スパンのRC平面骨組試験体に繰り返し交番載荷する実験を行って、北山研における「鉄骨ブレース」関連の第1期研究を大躍進させて、締めくくることになる。

 加藤君の卒論では3階建ての学校建物をモデルとして、連層鉄骨ブレースの浮き上がり回転を対象としたStaticな解析をプログラムCANNY-Eによって行った。浮き上がりを実現するために、基礎下部の地盤バネの設定をいろいろと検討した。この解析によって、連層鉄骨ブレースが浮き上がるときの直交梁の拘束効果やブレース脇のRC柱の軸力変動の程度、ブレース縦枠に生じる引張り軸力のレベルなどについて知ることができた。

4. ビニル短繊維を混入した鉄筋コンクリート柱の実験

 橘高義典先生を代表とする科研費・基盤研究B(展開研究)の分担研究として、長さ30mmのビニル短繊維(正式にはポリビニル・アルコール)を混入したコンクリートを用いたRC柱のせん断性能を、BRIフレームを用いた逆対称曲げせん断実験によって検討した。担当は大学院に進学した小坂英生くんとした。

 使用する繊維混入コンクリートは橘高研で検討して、その材料特性もあわせて橘高研で調べてもらえるので、相当に気楽である。試験体は6体あり、そのための繊維混入コンクリートをどこで練るか、ということになったが、結局、橘高義典先生と付き合いがある相武生コン(相模原)にお願いした。しかし、コンクリートにビニル短繊維を混入するためには業務用のコンクリート・プラントを一時止めなければならず、生コン工場にとっては迷惑な話しだっただろう。

 試験体の型枠作りやコンクリート打設は吉村工業に依頼し、出来上がった柱型を相武生コンのヤードに運んで、そこでコンクリートを打設した。短繊維は体積比で1%を混入したのだが、わずかこれだけの量でもコンクリートは繊維のイガイガのせいで非常に扱い難いものであり、ヘタをするとすぐにファイバー・ボールになりそうであった。この繊維混入コンクリートを一般の現場で使用することは、今のところ不可能ではなかろうか。

  
  繊維混入コンクリートを打設しているところ コンクリートがもったりしている/右側がチーフの小坂英生くん

  

  写真 打設後に全員集合(橘高研究室および北山研究室)

 実験は年度内に終わった(実験の写真はこちら)。このあと、実験結果を理解するために小坂君にFEM解析やMCFT解析をやって貰おうと思っていたのだが、例によって小坂君が大学にあまり出て来ないために結局できずじまいであった。

 小坂君は北山研の歴代の学生諸君の中でも優秀であると私は認めていたが、その能力を十分に発揮すること無く大学院を出て行ったのは、返すがえすも残念なことである。「鉄は熱いうちに打て」と言うが、大学院の2年間をいかに有効に使うか、ということをよく考えて欲しい。それでも、この実験の研究結果を論文としてまとめて発表したJCI年次大会で、優秀論文賞を受賞したことは小坂君の資質を世に示したものとして評価できる。

 小坂君は大成建設技研の河村壮一所長から一本釣りされてそこに就職したが、その後現場の楽しさに目覚めたらしく、技研から現場勤めに配置転換した。あと10年もしたら小坂君経由で大成建設から共同研究費でも出してもらおうと、捕らぬ狸の皮算用を目論んでいた私の身勝手な計画は、早々に潰え去ったのである。やっぱり、世の中そんなに甘くはないですな(ちゃんちゃんっ、と落ちがつきました)。多分今頃(2009年11月)はどこか(外国かな?)の現場で、彼の能力を遺憾なく発揮していることだろうな。小坂君の活躍を祈っているよ(その後、彼は台湾にいることが判明しました)。

5. RC立体柱梁接合部試験体の三方向加力実験

 1999年度に田島君が加力した平面十字形接合部試験体と同時に計画され、作製された立体の柱梁接合部試験体2体があった。梁主筋の危険断面位置に定着鋼板を設置して、梁主筋の定着力を直接に接合部パネル・コンクリートに伝達できるようにしたヤツである。しかし時間の関係でこの2体が残ったまま、田島君は大学院を修了して社会に巣立って行った。

 そこでM2になった細野具貴くんにその載荷実験をお願いして、彼の修士論文とした。立体柱梁接合部試験体に軸力と二方向水平力を載荷する実験は都立大学では初めてであったが、既に三軸一点クレビスを始めとして各種の治具は揃っていたので、上手く進めることができた。実験自体は2000年度の当初(4月くらい)に実施したので、こちらは実験結果の分析に十分な時間を取ることができ、翌年度のJCI年次論文としてまとめることができた。実験によって得られた成果はこちら(2000年度研究成果のページ)をご覧下さい。


6. 鹿島技研との共同研究ふたたび

 1999年6月に鹿島技研の丸田誠さんから、PC圧着型プレキャスト柱梁部分架構の耐震性能を検討するための共同研究のお話をいただいた。プレキャストのRC柱部材およびRC梁部材をPC鋼材に張力を導入することによって圧着接合する、という工法である。これは、鹿島建設が海老名に建設することになった免震タイプの高層集合住宅の耐震性能を確認するための研究の一環であった。

  

 写真 海老名のPCaPC高層集合住宅の建設現場/足下は免震構造です(鹿島建設)

 日本建築学会での活動を契機としてPC構造へも研究領域を広げようと思っていたので、このお話はちょうどよい機会となった(卑俗に言えば“渡りに舟”というヤツですな)。こうしてまた、丸田さんとの共同研究がスタートすることになった。このときの鹿島側のもうひとりの担当者が木村(現真田)暁子さんで、彼女は横浜国大・前田研究室の出身で、都立大学vs横浜国大の対抗野球をしたときには大学院生だった。

 試験体の変数についてであるが、鹿島側の実建物に基づく梁降伏先行型骨組の耐震性能を検討する試験体の他に、北山研サイドの興味から柱梁接合部パネルのせん断破壊が生じるような試験体も設計することになった。その設計過程において、梁付け根のコンクリート圧縮領域深さと接合部入力せん断力との関係に注目する必要性に気が付いたのである。また、PC鋼材の接合部パネル内における付着すべりについても興味があったので、これを直接測定する方法を考えた。PC鋼材にネジ棒を溶接する訳にはいかないので、PC鋼材の表面にナットをエポキシ樹脂接着剤で固定して、ここにネジ棒を立てるという方法を採用した。しかしこの方法は残念ながら上手くゆかなかった。

 試験体をいろいろと検討してゆく過程で、鹿島側からの要請によってPC鋼より線を使った試験体も追加することになった。梁内を通したPC鋼より線には当然ながらひずみゲージを貼付したのだが、結果的にはほとんどひずみを測定することはできなかった。グラウトを施したPC鋼より線のひずみを測定する、という課題はその後もなかなか達成できなかったので、2009年9月にM1の嶋田洋介くんによって「ひずみゲージ養生方法の検証プロジェクト」が実施されることになる。これによって生存率のよいひずみゲージ養生方法がある程度分かってきたが、手間が掛かることが難点である。

 試験体はPSコンクリート(現ピーエス三菱)で作製することになった。その石岡工場には、結局私は多忙で行くことができず、岸田さんに見に行ってもらった。加力自体は年度がかわってから実施することになる。

7. 学会での活動など

 1999年度から続いて、壁谷澤寿海先生が主査を務める性能評価小委員会の仕事があって、RC十字形部分架構の梁部材のエネルギー吸収性能を評価するために等価粘性減衰定数の定量化に取り組んだ。今までの研究成果に基づき、等価粘性減衰定数を梁主筋の付着指標と部分架構の塑性率とで表現しよう、というアイデアはあったのだが、それをどのような形で定式化するか、ということについて検討を重ねた。多くの機関の実験結果をまとめたデータベースを作り、Igor Pro.という統計分析ソフトを使って多変数解析を行ったりした。また接合部入力せん断力の大小によっても等価粘性減衰定数が影響を受ける可能性があると思っていた。

 これとは別に、梁部材のひび割れ幅、本数、間隔などと変形性能との関係を定量化することが求められており、これらに関する実験研究の文献調査を北山研の学生諸君に依頼したのは2000年5月であった。しかしこちらのほうは思ったように検討が進まず、これを見ていた壁谷澤先生がこちらのテーマについては主担当者を前田匡樹さん(東北大学)に変更してくれた。お陰で随分と助かりました。

 もうひとつ、中塚先生が主査を務めるPC部材力学挙動予測小委員会では、PC柱梁接合部パネルの性能評価設計法の策定を目指した試みを始めた。

 これらの研究の“種”はいずれも、現在(2010年2月)の北山研での主要な研究テーマとなり、大いなる財産として恩恵を与えてくれている。


8. JCI関東支部「若手会21」の発足と活動

 1999年度後半だったと思うが、JCI関東支部長の野村設郎先生(当時、東京理科大学教授)や野口博先生(千葉大学教授)、國府勝郎先生(当時、東京都立大学教授、土木)に呼ばれて、若手主体の“何でもやってやろう会”みたいなものを立ち上げて欲しい、という要請があった。このときに呼ばれたのは私のほかに、小山明男(明治大学)、中村成春(宇都宮大学)、久田真(当時新潟大学、現東北大学、土木)、上野敦(東京都立大学、土木)、衣笠秀行(東京理科大学)、舟川勲(当時青木建設、土木)などの各氏であった。

 このうち小山さんはかつて北山研の助手を務めていたし、中村成春くんは私が宇都宮大学助手のときに最初に教えた“第1期生”であったので、そのようなバリバリの若手とともに、まだ40歳にはなっていないものの彼らに較べればロートルの私が一緒に加わっている、というのも何だか妙な感じであった。

 こうして若手の会の幹事会が立ち上がって何度か相談した後、2000年4月に「若手会21」という名称で正式に発足した。メンバーの中では私が最年長だったせいもあって、いつのまにか私が「若手会21」の代表ということになってしまった。

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 当時、私が作った「若手会21」の紹介文を以下に示しておこう。

「若手会21とは…

日本コンクリート工学協会(JCI)の関東支部では、若手の技術者・研究者・設計者などがコンクリートに関わる諸問題について議論したり、独自の視点から積極的に情報を発信するための場として、若手会21を2000年4月に発足させました。土木・建築などの垣根や材料・構造といった分野を超えて若手同士が交流することも目的のひとつです。現在の委員はゼネコン、設計事務所、セメント会社、大学などから参加する23名であり、いちおう40才以下を若手と定義しています。今まで、若手のJCI会員を集って「日本の未来とコンクリートの未来」と題するパネル・ディスカッション形式の討論会を開いたのをはじめとして、セメント工場見学会、土木建築旧跡見学会を実施するなど、積極的な活動を展開しております。」
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 2000年11月に、紹介文にもある「日本の未来とコンクリートの未来」と銘打ったPDを弘済会館会議室で開いた。ここでは分かり易いようにPDと書いたが、我々企画者はこれを「本音トーク」と呼んでいた。若手が社会の建前に異議を唱えて本音で議論する、という熱くてちょっぴり照れくさい企画である。北山研の森田真司くん、加藤弘行くんにも参加してもらったが、参加者は四十数名で一般からの参加は正直少なかったな。

 ただ、各パネリストの発表には大いに涌いて、議論百出だったことをよく憶えている。日本の未来とかコンクリートの未来といった、日頃口にするのが恥ずかしいようなテーマについて真剣に考えている人たちが身の廻りにいる、ということを認識できて、大いに力づけられた討論会であった。このときの報告はこちらにあります(左にある「若手会21」のタグをクリックして、さらに「過去の活動」をクリックして下さい)。

 この本音トークの司会は私と新潟大学の久田真さんとで担当したが、久田さんはなかなかの切れ者で、言うことも面白いので、以降大いに活躍して貰うことになった。彼の企画力とか行動力には目を見張るものがあった。若手会21では、土木分野のこのような有能な人材と知り合うことができた点でも、私にとっては有益であった。もっとも本音を言えば、私が代表を務めた2年間ちょっとのあいだは、会の活動を軌道に乗せるための試みやいろいろな企画の立案に常に追いまくられていて、相当に大変だったというのが実情である。

 この年の成果をまとめた論文等はここをご覧下さい。




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