海外フィリピン人労働者(OFWs)の研究

(宮本 勝:研究班B「移動と適応」

1.この調査研究のねらい

 フィリピンの経済はOFWsOverseas Filipino Workers、海外フィリピン人労働者)によって支えられていると言えるほど、大量のOFWsが海外で働き、自国の家族に送金している。その数は870万人から1,100万人と推定され、大半が中東地域、欧米地域、近隣アジア地域で働いている。日本には約21万人のフィリピン人が住み(2010年末の外国人登録者数)、その数は不法就労者を含めればさらに大きくなる。

 この研究は、私の研究課題「海外在住フィリピン人の生活圏形成に関する調査研究」の一環として実施し、とりわけ日本社会の底辺で働くOFWsが受け入れ先で自らの生活圏をどのように形成してきたのかを彼ら・彼女らのライフヒストリーの聞き書きをつうじて明らかにすることを目的とする。ただし、日本社会の底辺で働くOFWsに接触することは非常にむずかしい。理由は、その多くが不法就労者で、日本の出入国管理局に知られることを恐れているに違いないからだ。そこで私はまず、これまでに別の研究課題で調査を実施してきたフィリピンとマレーシアで、かつて東京またはその周辺で暮らした経験のある元OFWsから日本での体験談を中心にしてライフヒストリーの詳細な聞き書きを試みることにした。

 

2.日本で暮らした元OFWs

 詳細な聞き書きを可能にさせてくれた主なインフォーマント(元OFWs)は、以下の4人である。(個人名には仮名を用いる。)

①アントニオ: 45歳の男性で、フィリピンのラグナ州に居住。1992年から7年間、不法就労者として神奈川県川崎市の土建会社で働いた。6人きょうだいのうち5人がOFWsとして日本に暮らした経験があり、他の1人は2006年からロンドンで働いている。アントニオは一生懸命働いた。仕事第一で、日本での付き合いはきょうだいと同じ勤め先のスタッフに限られていた。彼のすぐ上の姉のメリーサは1994年に来日し、川崎の弁当販売店に勤めたが、その後日本人と結婚して横浜に居住し、すでに永住ビザを獲得している。アントニオは、1998年になると不景気で土建会社の仕事が激減したため1999年に帰国を決心し、横浜の出入国管理局に自首した。帰国後はラグナ州の母親の大きな家に住み、大型のバンを購入した。現在アントニオは、観光客や一般客を乗せてバンを運転する仕事に励んでいる。

②ラファエル: 60歳の男性、メトロ・マニラに居住。1980年から2000年まで数回にわたって日本のカトリック教会でボランティア活動をするかたわら、ナイトクラブや工事現場、居酒屋で働いた。1970年代末に彼は、好景気の日本で働くにはどうしたらよいかを模索していた。日本人の神父に尋ねてみたところ、給料は出ないがカトリック教会のボランティアの資格で日本に長期滞在できることを知った。土・日曜日は教会で働くが、それ以外の日は自由で、航空券とビザの費用は教会もちだという。ラファエルは日本行きを決心した。彼は、岡山、名古屋、東京、群馬、千葉のカトリック教会で働いた。どのカトリック教会にも日曜日になると多くのフィリピン人が集まる。つまり、ラファエルはカトリック教会をベースとするフィリピン人ネットワークの中心部にいたことになる。彼は最近、足を痛めて働けなくなったが、日曜ミサのボランティア活動は今も続けている。

③エミリア: 56歳の女性、マレーシア・サバ州のコタキナバルに居住。1985年、夫の浮気が原因で悲嘆にくれたが、千葉県船橋市のナイトクラブでダンサーの仕事をしていた妹のマルガリータの薦めで船橋市を訪問した。就労ビザを取得し、ホテルのメイドとして、のちにカラオケ・スナックの「チーママ」(小さな=二番目のママさんで、客に出す軽食の料理人)として働いた。1991年、夫が強盗に刃物で刺されたという連絡を受け、急きょ帰国したが、夫はすでに息を引き取っていた。帰国後、日本で貯めた米ドルで母親のために家を一軒購入した。1995年に知人に誘われてパスポートを持たずに小さな船でマレーシアに入国し、不法滞在者となる。大工のフィリピン・ムスリムと再婚し、現在かなり貧しい生活を送っている。日本人と結婚して今も千葉県に住んでいる妹のマルガリータは姉に帰国を勧めているが、エミリアはフィリピンに持って帰るものは何もないため故郷に帰るわけにはいかない。

④ファティマー: 42歳の女性、現在マレーシア・ジョホール州のバトゥ・パハットに居住。1994年に来日し、東京下町のフィリピン・パブで働いたが1ヵ月後に茨城県の鹿島に逃げてカラオケ・バーと花火工場で働き、後に工事現場で長年働いていたマレーシア人のイスマイールと一緒に暮らして男の子を授かった。二人は息子の将来を考え、1998年、まずファティマーが茨城の出入国管理局に自首し、息子を連れて帰国の準備をした。久しぶりにフィリピンに戻ったファティマーはカトリックからイスラームに改宗するのが怖くなってきたが、両親ときょうだいたちは何の心配もないと慰めてくれた。1ヵ月後にマレーシア行きの準備が整い、ファティマーは息子と一緒にクアラルンプールに向かった。イスマイールはまだ日本にいたため、彼の両親がクアラルンプールの国際空港に出迎えてくれた。翌日、ファティマーはイスマイールの父親に連れられて、宗教省のオフィスでイスラームへの改宗手続きをする。今ファティマーはマレー語を自由に話すことができる。3人の子どもを持ち、夫とともにマレー服の商店と裁縫工場のマネジャーとして働き、張りのある生活を営んでいる。

 

3.今後の見通し

 以上が4人の元OFWsの概要だが、上記①のアントニオの姉は現在日本人の妻として横浜市に住み、③のエミリアの妹も千葉県に住んでいる。今後彼女たちにアプローチすることによって(とりわけ彼女たちが参加するカトリック教会でのフィリピン人の集まりで)、OFWsないしフィリピン人移民の生活圏に関する情報を得ることができるのではないかと期待できる。

 20115月に高知県の須崎市を訪れて、ハウス園芸農家のビニールハウスで研修を受けるフィリピン北部出身の若者2人に会って話を聞くことができた。実は、高知県とフィリピン北部のベンゲット州の間では姉妹協定が締結されており、それにもとづいて高知県は1997年にベンゲット州から農業研修生の受け入れを開始し、今日まで累計200人近く(うち女性は約60人)が主としてハウス園芸農家で研修を受けている。彼ら・彼女らもある意味で労働力の確保につながるため、OFWsの研究の範疇に入れることが望ましいだろう。

 上述した元OFWsの聞き書き調査のほかに、フィリピン人の「ドメスティック・ヘルパー」の数が14万人と推定される香港で数人のOFWsにインタビューを試みている。また、2011年9月25日に25周年を迎えたコタキナバルの「フィリピノ・コミュニティ」の集まりに時々参加し、数人のメンバーに簡単な聞き書きを行った。そこから得られたデータは、いずれ日本のOFWsの事例を相対化するのに役立つと思える。