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知覚・認知の視点から運動をひも解く 樋口貴広(知覚運動制御研究室)

セラピスト向け情報発信ページ

#782 サンプルエントロピーを用いた研究事例(Nakamura et al. 2023, Muroi et al. 2024)

サンプルエントロピーは,時系列の規則性・予測可能性を定量化する指標として,運動の研究でもよく用いられています。本学に赴任された児玉謙太郎先生が手法に詳しく,共同で研究する機会が増えたおかげで,私が関わるデータに対してサンプルエントロピーを用いる機会も出てきました。以下,そうした研究の概要を説明します。
教員紹介 :: 児玉 謙太郎 | 東京都立大学 (tmu.ac.jp)

サンプルエントロピーに関する解説については,児玉先生の解説論文をご参照ください

時系列の規則性が高く,未来に起こる次のシステムの状態が予測しやすいときは,エントロピーが低くなります。逆に,多様な状況変化に応じて適応的(すなわち複雑に)調整できた場合,エントロピーが高くなります。したがって,教科書的に言えば,サンプルエントロピーの値が高いほど,状況の変化に対応可能な理想的状態と解釈されるはずです。実際,加齢の問題をこうした複雑な調整ができない問題と捉える考え方もあります(複雑性喪失仮説)。

しかし実際に使ってみると,サンプルエントロピーの解釈はそんなに単純ではないことがわかります。サンプルエントロピーの値は,注意集中や認知的負荷が高まったときに低くなるという報告があります。こうなると,サンプルエントロピーが一過性に低くなることが,状況適応的にありうることになります。また,複雑性の状態は,常に高ければよいというのではなく,状況に応じて変えられることが重要という指摘もあります(適応性喪失仮説)。よってサンプルエントロピーを用いる研究では,誰を対象に,どのような状況でデータを取得したかによって,様々な解釈を充てることが求められます。

本研究室の中村高仁氏は,健常な高齢者を対象に,急な方向転換動作をする前の歩行データに対してサンプルエントロピーを計算しました。その結果,高齢者は若齢者に比べて常にエントロピーが高い状況を維持していました。この結果は,若齢者が急な方向転換が求められていない状況ではエントロピーが低いこととは対照的でした。この結果から中村氏は,状況に応じた変化がみられないことが問題と解釈しました。別の視点からの解説文はこちらをご覧ください

本研究室を修了した室井大祐氏は,脳卒中者が隙間を通過する前の歩行データに対してサンプルエントロピーを計算しました。その結果,衝突率を下げることができる麻痺側侵入時(体幹を回旋して隙間を通過する際,麻痺側から先に隙間に入る)には,サンプルエントロピーが低くなることがわかりました。室井氏らはこの結果を,注意集中の状況と解釈しており,それが衝突を回避する安全な衝突回避に寄与していると解釈しました。

データ解釈の難しさを体験しながら,これからも研究室としての知識を増やしていきたいと思います。

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