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知覚・認知の視点から運動をひも解く 樋口貴広(知覚運動制御研究室)

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#775 院生による論文紹介3 (D3佐藤和之君):道路横断時の状況判断に対するトレーニング(Dommes et al. 2012)

 大学院生による論文紹介コーナーです。博士後期3年の佐藤和之君の担当です。佐藤君は本年度博士学位論文を提出し,3月に終了予定です。このコーナーでは,前半に論文紹介をした後,後半部分では佐藤君自身の見解を述べてくれています。  

高齢者は危険なタイミングで道路を横断し、衝突事故のリスクが高いことが多くの先行研究で明らかにされています。危険なタイミングで横断してしまう理由には知覚機能が関係しています。特に、接近する自動車の速度を知覚する感度が低下していることが判断ミスに関係している可能性が示唆されています。自動車の速度を知覚できないことは、距離情報のみを利用して横断することになります。例えば、高速で接近する自動車であっても、遠く離れていた場合は横断してしまうこととなります。こうした背景から、安全な移動には歩行速度のような身体機能のみならず知覚機能も重要な側面であることがわかります。

今回紹介する論文は、道路横断シミュレーターを用いたトレーニングが、速度知覚能力を含む横断判断の正確性に効果的であるか検証した論文になります。

Dommes, A., Cavallo, V., Vienne, F., & Aillerie, I. (2012). Age-related differences in street-crossing safety before and after training of older pedestrians. Accid Anal Prev, 44(1), 42-47.

対象者は若齢者と高齢者となります。道路横断シミュレーターは3面のスクリーンで構成されています。スクリーンにヴァーチャルな道路が投影され、参加者は接近する2台の自動車の間を安全に横断できると判断した場合に横断を試みる練習課題を反復的に実施しました。つまり、車間距離が横断するために十分であるかどうかを見極め、正確に判断することが求められる練習課題です。

さらに、この研究では安全な道路横断にはどのような視覚情報を利用するべきかなどを学習する教育的なトレーニングを組み合わせたものでした。参加者が危険な判断をした場合に、なぜ危険だったのかについて実験者と一緒に話し合って学習する内容でした(例:接近してくる自動車の速度を考慮してなかった、動き出しが遅かったなど)。特に、自動車の速度に対する知覚を促すような学習が行われました。トレーニング前後、トレーニングの6か月後の3時点で参加者の道路横断行動が評価されました。

トレーニングの結果、横断中の参加者と自動車の距離(安全マージン)が広がり、安全な道路横断判断が多くなるという改善効果が認められました。また、トレーニング効果がトレーニングの6か月後まで継続していました。この結果から、道路横断シミュレーターを用いたトレーニングの有効性が示されました。しかし、道路横断時の安全性を向上させることができた一方で、高速で接近する自動車の速度を知覚する能力そのものは改善しませんでした。著者らは、道路横断の判断に関連する知覚能力(特に自動車の速度知覚)を考慮したトレーニング方法について、さらなる検証が必要であることを述べています。

なぜ高齢者の速度を知覚する能力が改善しなかったのでしょうか?一度加齢によって低下した知覚能力(例えば運動知覚や視覚識別性能)は、知覚トレーニングで改善することが多くの先行研究で示されているため、Dommesらの研究仮説が誤っていたわけではなく、速度を知覚する能力も同様に改善する可能性は十分にあったと考えられます。しかし私は、様々な視覚情報を混在する実環境に寄せた環境でトレーニングするのではなく、とてもシンプルな視覚刺激を用いた環境でのトレーニングがより有効的だったのではないかと考えます。というのも、知覚機能を改善させるためには、感度を高めたい視覚情報に集中的かつ反復的に暴露させることが重要となります。しかし、加齢によって分割的注意や選択的注意が困難となることから、実験に参加した高齢者にとっては、感度を高めたい視覚情報(車)に対して集中的な暴露になっていなかったかもしれません(車以外の視覚情報がディストラクターになり得る)。また、高齢者の衝突予測能力の低下は、特に物体の拡大情報に対する感度の低下に起因する可能性が示されています(Sato et al, 2023)。物体が単位時間あたりに網膜上でどれほど拡大しているかを知覚することで接近速度の判断が可能となります。そのため、加齢によって低下した拡大情報に対する感度を集中的に高めることが速度知覚の改善に貢献すると考えられます。Dommesらの実験では、自動車の拡大情報以外にも様々な視覚情報が判断に利用できるトレーニング環境だったため、自動車の拡大情報に対する集中的な暴露というわけではありませんでした。こうしたことから、トレーニング環境を実環境に類似させるのではなく、感度改善を狙う視覚情報に絞ったシンプルな視環境におけるトレーニングが速度知覚の改善に貢献できると考えました。例えば、周囲のオブジェクトを排除したり無背景にすることで、接近する自動車の拡大情報にのみ焦点を当てることができるため、速度知覚に対しては良い効果が期待できるかもしれません。

今回紹介した先行研究では、視覚フィードバックが学習効果をもたらすことを示しています。実環境で自動車の視覚的フィードバックを反復して得られるような練習は難しいと思われますが、VRシステムを利用することで達成することができます。私は理学療法士として高齢者の方々と接する機会が多くありますが、「人ごみが怖い」「道路を渡り切れるか心配」などといった屋外環境の移動に対する心配の声をよく耳にします。VRのような現代ならではの技術を退院前や訪問リハビリテーションに活かすことによって、患者さんのQOL向上につながるかもしれません。


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