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第2回脱構築研究会ワークショップ「ジャック・デリダ 『散種』」
(文責:吉松覚)



去る2013年12月21日、第2回脱構築研究会ワークショップ「ジャック・デリダ 『散種』」が早稲田大学にて開催された。登壇者は『散種』の邦訳者の郷原佳以氏(関東学院大学)、立花史氏(早稲田大学)、藤本一勇氏(早稲田大学)の3名。郷原氏がソレルス論「散種」、立花氏がマラルメ論「二重の会」、藤本氏がプラトン論「プラトンのパルマケイアー」と、それぞれ邦訳を担当した論文を起点にした発表をされた。

郷原佳以「「散種」と枠(cadre)の問題・序説」
 郷原氏からは表題論文「散種」における「枠」および四という数字の問題を、デリダとソレルスのテクストの内外から解明していく論考が提示された。枠、そして四という数字――そもそも「枠cadre」と「四quatre」とは語源を共有している――は1970年代以降のデリダにおいて絵画論や文学論を中心に論じられることになる。その端緒としての「散種」のテクスト/コンテクストの分析が行われた。
 「散種」のコンテクストとして、このテクストが「注釈」している小説『数たち』の著者、フィリップ・ソレルスが中心メンバーとなった『テル・ケル』誌とデリダの関係が通史的に整理された。
 次いで、『数たち』と「散種」の関係が分析される。100のシークエンスで構成される『数たち』では各シークエンスは1・1、2・2、3・3、4・4.1・5.2・6……3・99、4・100と、4節周期で1から4の数字が振られてセリー化しており、1から3のセリーと4のセリーには時制と人称において差異がある。郷原氏はデリダの分析に沿いつつ、デリダが引用しなかった節に至るまで細やかに読解し、1から3のセリーが舞台を構成し、閉じられない4のセリーによってその舞台がわれわれ読者に開かれる――しかし4のセリーで提示されるものも真理ではなくそのシミュラクルにすぎないのだが――というソレルス、そしてデリダの目論見を明快に解き明かした。その上で、このテクストが現前中心主義に回収されえないエクリチュールの性格、現前性のシミュラクルを提示しているとの指摘がなされた。



立花史「文芸共和国’72 ――「二重の会」におけるフーコーの影」
 立花氏の発表はマラルメを中心としたデリダ、フーコー、そして『マラルメの想像的宇宙』の著者ジャン=ピエール・リシャールの三者の関係を軸に行われた。
 最初に1940から1960年代のマラルメ研究、フーコーのリシャール論が上梓された前後のフーコーとデリダの著述状況、「力と意味作用」(『エクリチュールと差異』所収)におけるデリダによるリシャールへの言及のそれぞれが概観された。そして、『狂気の歴史』、『カントの人間学』のフーコーと、「コギトと『狂気の歴史』」のデリダとの対立にかんして「言説(ディスクール)とテクストの対立、不連続を、歴史的な言説形成の規則に求める立場と、「歴史の非歴史的な根底」に求める立場の対立  狂気=沈黙の所在の相違」(レジュメ2頁)という図式が提示された。
 次いで、フーコーのマラルメ論「J.-P. リシャールのマラルメ」の各論点に関してデリダだったらどのような反応が想定されるかの仮説を示した後に、「二重の会」から「モデル/方法としてのリシャール批判」、「歴史」、「テクスト」、「範例性」、「沈黙」、「テーマ批判①、②」という7つの観点から考察が行なわれた。これらによってデリダがマラルメに見出した、既存の文学の中から既存の文学におさまらないものについての契機が見いだされた。



藤本一勇「デリダにおける擬態の問題」
 藤本氏は「プラトンのパルマケイアー」に見出される「擬態」から出発し、後のデリダの思想の萌芽とも取れるモチーフについての発表を行った。氏がここで言う「擬態」とは、mimesisともreprésentationともsimulacreともつかない欧米語に翻訳しがたいものであるという。たとえば、太陽の比喩についてのデリダによる解説を読むと、哲学という計算するロゴスとは真理について語るふりをしているのではないか、とわれわれは思わされてしまう。むしろ、擬態を起点にした計算こそが代補であると氏は指摘する。他にもエクリチュールの宛先の不在性、「ならずもの」、民主主義、反復可能性、代補の危うさなど、『散種』に前後する――中には晩年の――著作のモチーフもが見いだされ、このプラトン論の持つ可能性の大きさが改めて指摘された。

質疑応答では、
・「散種」における「四」の問題にそくして三位一体の脱構築との関係
・立花氏のフーコー/デリダの読解は事実確認的な読みなのか、介入的読みなのか
・藤本氏のエクリチュール論のポジティブな見解以上にエクリチュールに潜む権力との癒合の傾向とはどう向かい合うのか
・「散種」の中のpuissance(潜勢力=冪乗)の問題
・「散種」に登場する「大現在plus-que-présent」と現前(=présent)中心主義とのかかわり
などが質問された。

各発表とも遠大な射程を持つもので、30~40分という時間で十分質疑しえたとは言いがたかったものの、重要な議論の端緒が見いだされた。邦訳の出版から1年が経とうとしている今、『散種』という怪物的な書物に対する大きな反響が俟たれる。