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デリダVSマリオン──贈与をめぐる論争
(文責:岩野卓司)

以下は、明治大学「野生の科学研究所」公開講義「贈与の哲学 ジャン=リュック・マリオンの思想」(全3回)「第2回講義 デリダVSマリオン:贈与をめぐる論争(9月17日)」のレポートである。



ユダヤ教とキリスト教の違いを背景にした、中沢新一所長によるデリダとマリオンについての感動的なほど見事な対比に導かれながら、岩野卓司が贈与に関する彼らの考えについて講義をした。このテーマに関する二人の対立や論争は、デリダ『時間を与える』(1991)、マリオン『与えられると(Étant donné)』(1997)、1997年9月27日に「贈与について」という主題でアメリカのヴィラノヴァ大学で行われたマリオンとデリダの討論、デリダの死後に発表されたマリオンの論文「不可能なものと贈与」(2008)で展開されている。講義では、デリダの贈与解釈、マリオンの問題提起、問題点の指摘、「コーラ(場)」と「啓示」の問題が扱われた。



1. デリダの贈与解釈:贈与の不可能性

エコノミーを支配する「円環」の形而上学を脱構築するために、贈与をどう考えたらいいのか。モースが『贈与論』で扱っている贈与のように、多くの贈与は実は交換―だから「円環」―である。受贈者が返さないことが贈与の条件である。ただ、デリダは「返すこと」を認知のレヴェルまで掘り下げる。受贈者が贈与を贈与として認めたならば、この認知は、物を返すかわりに象徴的等価物を返すことになる。贈与が贈与として現われる、つまり現前したら、この認知によって贈与は交換になってしまう。これはもう贈与とは呼べない。「現われること」、現前、現象、同定(同一性)は、贈与であることを不可能にしてしまう。(だから、現象学によっては探求できない。)贈与が成立するためには、受贈者は贈与を忘却していなければならない。しかもその忘却は、記憶として無意識に保持され想起可能で「返すこと」ができる忘却ではない。(フロイトやラカンの無意識。)ハイデッガーの「存在忘却」のように「絶対的な忘却」のうちに贈与は生起しているのだ。

2. マリオンの問題提起:「贈与(don)」から「与え(donation)」へ

こういったデリダの解釈とは違って、贈与は基本的に交換には帰着しないとマリオンは主張する。受贈者、贈与者、贈与物の各々を省略しても贈与は存在するからである。例えば、死が贈与の条件である遺産、左手が与えるものを知らない右手は「贈与者がいない贈与」であるし、NGOや団体を介する受贈者が特定できない贈与、何も私に返さないであろうと私が確信している敵への贈与は「受贈者がいない贈与」である。だから必要なのは、贈与を交換に帰着させる作業ではなく、受贈者、贈与者、贈与物を「還元」する現象学の作業である。この三つを還元することで、受贈者、贈与者、贈与物は外部に超越的に対象として存在するものではなく、内在するものとして現れる。そして、マリオンは「還元」を徹底して、フッサールが前提にしている「主体」、「客体」、「対象性」を還元、ハイデッガーが前提にしている「存在者」、「存在者性」までも還元。そうすると、「還元があればあるほど、与えがある」という「与え」の次元が見えてくる。これを考慮に入れることで、贈与の現象学は不可能ではなくなる。

3. 問題点

「贈与」に関しては、デリダとマリオンでは定義が違う。マリオンは、「エコノミー」や「交換」に収まらない「贈与」や「贈与の不可能性」の問題系を引き継ぎながら、デリダと異なる思想を展開しているのではないのか。

デリダが「贈与者」や「受贈者」に先立つものとして「贈与」を考えているのと同じように、マリオンも「贈与者」や「受贈者」を還元してそれらに先立つ「与え」を考えていく。ただ、デリダが認知可能なあらゆる贈与を「交換」と見なすのに対し、マリオンは受贈者が特定できない贈与や贈与者が特定できない贈与を例にとりながら、「受贈者」や「贈与者」を還元できるものと考える。マリオンはデリダが贈与を交換に還元していると批判するが、デリダが認知できる「贈与」をすべて「交換」と見なすのは、「純粋な贈与」を追及するためである。それは忘却のうちにしか生起しない「贈与」である。「受贈者」、「贈与者」、「贈与」が還元されたあとに見出される「与え」も、マリオンによれば、「与えられたもの」に襞として織り込まれているのだから、デリダの「贈与」とマリオンの「与え」にはある種の近さを認めるべきではないのだろうか。両方とも「現われないもの」の次元を問題にしている。(「現われないもの」については既に多くの人が言及している。)このように、現象学は「現れ」の学のはずが、「現われないもの」の学になっていることから分かるように、現象学は現象学の否定というアポリアにおいてのみ成立している。

とはいえ、こういったある種の近さがあるのにもかかわらず注意しなければならないのは、両者の探求方法の相違である。つまり、デリダが言語を問い、テクストの可能性の条件や「準-超越論的なもの」を追及するのに対し、マリオンは経験や出来事から出発して現象学の理想を「絶対的アポステリオリ」の探求と考えている点である。これについては講義では十分に解説がなされたとは言えない。中沢所長が鋭く指摘した「ユダヤ的なもの」と「キリスト教的なもの」との対比やデリダのテクスト『死を与える』の検討も含めて、今後の課題と言えるであろう。

4. アメリカでの論争で提出された問題の中から「贈与」に関する二つ

1)コーラ(場)と贈与
コーラは万物がそこから生成する「場」のことで、プラトンの『ティマイオス』に登場する。これはデリダにとって「痕跡」、「空間化」、「差延」と結びついた重要な言葉である。この「場」がなければいかなる贈与も所有も生じえないもの、と彼は解釈する。『コーラ』という著書で、デリダはコーラをハイデッガーのEs gibt(ある=それは与える)と結びつける存在論的解釈を危険だと述べている。マリオンは後にこの一節を取り上げ、ハイデッガーのEs gibtは、存在者や対象でもない贈りものを与えることができないから、「存在者や対象でもない贈りものを与える」「与え」をそこに読み取る可能性は否定できないのではないのかと考える。さらに、どういう権利があってこのコーラは脱構築の対象であることを免れているのか、とも問うている。

2)啓示(Offenbarung)と開示〔啓示性〕(Offenbarkeit):キリスト教とハイデッガー。
ハイデッガーは「開示〔啓示性〕」という哲学概念が「啓示」のような宗教の概念に先行すると考える。しかし、キリスト教徒は神の「啓示」がなければハイデッガーの「開示〔啓示性〕」すら成立しないと考える。これは、『精神について』の終わりでデリダが繰り広げたキリスト教徒とハイデッガーの架空の対話と同じ種類の話題である。マリオンの場合、一方で現象学的に根源的な「与え」を考えるものの、もう一方でも「啓示」というキリスト教概念を重視するから、この問題は一層切実な問題として浮き彫りにされる。さらに、デリダの「コーラ」もマリオンの「与え」も、どういう権利があって宗教概念に先行しているものと言えるのだろうか。これは哲学の先行性や普遍性にかかわる問題である。

 講義では取り扱わなかったが、デリダの『時間を与える』にはボードレールの「贋金」の読解が含まれている。中沢新一所長の著書『カイエ・ソバージュ』(講談社)には、デリダの贈与論を扱った部分もあり、またデリダの影響のもとでボードレールの「贋金」や志賀直哉の「小僧の神様」を論じた独創的な「贈与論」が展開されている。講義のあとのコメントや質疑応答でもこの「贈与論」が登場したが、講義を補う意味でもぜひ参照してもらいたい。